てんさい! 楠木美羽

里蔵光

試験日には雪が降って居たが、発表当日、空には雲一つ()かった。厚手のコートを羽織った美羽(みわ)の背中には、太陽光線が真面に照りつけ、足許には未だ融け残った雪が在ると云うのに、其の額には、汗がじっとりと沸き出して居る。

天空の上機嫌とは裏腹に、美羽の足取りは重かった。もしも落ちていたら……そんな、悪い想像ばかりが、彼女の意思を全く無視して、額の汗と、掌の異なった理由に()る汗と共に、じわじわと際限莫く(にじ)み出て来る。

「受かってると好いねぇ」

美羽の心情を、知ってか知らずか、彼女の先に立ってスタスタと(むご)たらしく歩を進める母親は、美羽を振り返りもせず、無造作にそんなことを云う。

――受かってるもんか!

最早彼女の胸には、僅かな希望すら、残っては居なかった。下唇をぎゅうと噛んで、母親を睨み付けてみても、何だか虚しいばかりである。冒険校でもあり、塾の先生にも絶対無理だと云われたにも(かゝ)わらず、殆ど強制的に受験させられたのである。試験後、自信がないと云う美羽に、まだ判らないと、やたら合格に(こだわ)って居た母親のことだ、ここで落ちて居たら、屹度(きっと)、非道く怒られるのだろう。然し、美羽には合格している自信が、全く莫い。きっと怒られるんだ。晩御飯抜きになったりするんだ。――お腹()くんだろうなぁ……そんな心配ばかりしながら道を往く。

「泣くんじゃありません!」

はっとして声の方に顔を挙げると、道の直中(ただなか)で立ち(すく)み、うっ、うっ、と、鳴咽を洩らしている子が居た。同じ塾に通って居る男の子だ。話したことはないが、美羽よりも上のクラスで、いつも一、ニを争うような、秀才だった。あの子でも落ちたのか……あの子の方が、あたしよりずっと頭良いのに……ああ、あたしはもう、絶対に駄目だ。――そんな絶望感を抱きながら、美羽は其の少年と母親の()り取りを、聴くとはなしに、聴いて居た。

「何で落ちちゃったか、判ってるの!? ちゃんと勉強しなかったからでしょ! だからお母さん、あれ程、勉強しろ、勉強しろって、云ったじゃないの!」

「勉強、……ちゃんと……したもん! ……毎日毎日……一杯……勉強してたもん……塾の先生だって、誉めてくれたのに……」

「其れでも受からなくちゃ仕様が莫いじゃない! あなたは、この、英才中学校に合格する為だけに、今迄勉強して来たんでしょ!」

美羽は無意識に耳を(ふさ)いだ。数分後には、自分があゝなるんだ。――如何(どう)にも(たま)らなく、其の場から走って逃げ出したかったが、不案内の土地ゆえ、其の踏ん切りもつかない(まゝ)、遂に、英才中学校の校門まで来て仕舞(しま)った。

美羽の受験番号は、六十五番である。然し美羽は、自分の番号を捜す気にはなれない。――あの子は、何番だったんだろう……ひょっとしたら、見落としてたんじゃないだろうか……もしもそうだとしたら、可哀想。受かってるのに怒られるなんて、損したみたいで、やだなぁ……。

其の時、母親が素っ頓狂な声を挙げた――「美羽っ! 受かってる!」

瞬間、美羽には母親の言葉が理解できなかった。

「受かってるのよ! 吉田君でさえ落ちた、英才に、あんたが受かっちゃったのよ!! 凄いじゃない、……すごいすごい!」

見ると、確かに、六十五の数字が、判然(はっきり)と書いてある。

「あ……ホントだ……」

後は、声が続かなかった。息が詰まる気がした。吉田君とは、先刻(さっき)道の直中で()いて居た少年である。合格したことへの喜びより、彼に対する申し訳なさの様なものが先に立った。合格したのは確かに嬉しい、然し、吉田君は、あたしでさえ受かった此の中学に落ちたのだ。屹度(きっと)そのことは、程無く皆に知られるだろう。吉田が楠木に負けた。そう云われるのだ。美羽自信、比較されることが嫌いなのだが、其れ以上に、吉田君のプライドは、ずたずたに引き裂かれるだろう。彼は何も悪くないのに、唯、運が悪く、此の中学の入試に落ちただけで、陰でせゝら笑われるのである。――屹度、体調が悪かったのだ。彼の実力が及ばないわけがない。或るいは、プレッシャーに負けたのか。――いずれにせよ、彼が落ちて、全く受かる気もなく殆ど記念受験に近い意識で受けた美羽が、合格して仕舞ったのだ。

「矢っ張り、やれば、出来るんだね」

母親はにこにこしながら、今はしっかり、美羽の目を見ていた。此処へ来る迄、六十五の数字を見る迄は、ずっと不機嫌そうに、美羽に視線を向けることさえしなかった母親が、合格、たった其の一事だけで、こうまで変わって仕舞うものなのか。――美羽は、母親の瞳を、凝然と見詰め返した。

一九九七年(平成九年)、二月、十三日、木曜日、赤口。