てんさい! 楠木美羽

里蔵光

高校編

鈴木室長に、異動の辞令が下りた。三月いっぱいで此の教室の個別教室室長と云う職を終え、四月からは別の教室の室長となる。一教室の個別部門の長から、一教室の長となるのだから、此れは栄転だろう。実際、栄転の辞令が下りるだけの営業実績を、残しているのだ。

異動の話自体は、二月頃から聞かされていた。そして其の話を聞いて、辞意を表明した講師が何人かいる。――鈴木室長は、営業バカとでも云おうか、営業の腕に関してはずば抜けたものを持っていて、実際にゼロから始めて、わずか三年ほどで生徒数を百の大台に乗せるまでに成長させている。最初の数ヶ月は十人前後だったのだから、此れは物凄いことである。ただ、教育者としての手腕は、せいぜい「並」程度である。決して佳い教育者ではないし、カリスマ性もあまり無い。にも拘わらず、鈴木室長の異動と共に教室を去る講師がいると云うのは、彼が其れだけ「上質な上司」であったからに他ならない。

生徒にこそ嫌われているが、講師にとっては、生徒一人々々のデータなどはしっかり把握していていつでも取り出せるようにしていたし、常に講師に仕事があるように生徒数を確保し、いざと云う時には全責任をひっかぶる覚悟が出来ていて、父兄とのトラブルも全て受けて決して逃げることをせず、時には講師の愚痴を聞くことさえあった鈴木室長は、昨今では珍しいほどの「上質な上司」だったのである。いつかも書いたが、彼は本当に「中間管理職」としては理想的な人間だったのだ。

鈴木室長と喧嘩をして辞めた講師もいるが、喧嘩が成立するだけのビジョンと云うものを室長は持っていたわけだし、私としても、個人的には彼をあまり好いてはいなかったのだが、上司としてはかなり信頼していたのも事実である。異動の話を聞いたとき、私は少なからず動揺した。正直云って、後任に彼以上の人物が来るとは思えなかったのである。

室長は、異動が出たと云う話を講師会議でしたときに、「生徒が動揺するといけないから、暫く此の事は黙っておいてくれ」と云った。

同僚の講師と云うのは、殆どが口の悪い連中ばかりで、室長抜きの酒の席で、誰からともなく「喋っちゃった方が生徒は喜びそうなんだけどなぁ」なんて云っていたものであるが、実際に生徒に漏らして仕舞う者はいなかった。正確には、話す必要性すら感じていなかったと云う方が正しいのかも知れないが、室長本人が話して欲しくないと云うなら、黙っておこうと云う気持ちが有ったのも、確かである。

此の様に、鈴木室長は微妙な評価を受けつつ、教室を後にして行ったわけであるが、四月になって後任の室長が来てみると、数ヶ月と待つまでもなく、鈴木室長の評価は急激に上昇して仕舞った。

「鈴木くんの方が、ずっとよかったよなぁ」

講師同志の呑み会では、そんな台詞をぽつりと呟いて、過去を懐かしむことが多くなっていた。

新しく就任した東海林室長は、ぺーぺーの新入社員で、取り敢えず人は好い。いわゆる「好い人」なのだが、そこまでなのである。営業手腕はないし、簡単なデスクワークも満足に(こな)さない。生徒に関するデータもしっちゃかめっちゃかで、何を何処に仕舞ったのかさえ把握していない。スケジュール表ばかり綿密に作って、一度も完遂できたことはないし、寧ろスケジュール作って安心して仕舞うタイプである。其の上生徒のウケも悪いので、本当に褒めるところが無い。敢えて褒めるなら、常に「一所懸命」な所であろうか。然し其れさえ、空回りし放題なのでどうしようも無い。

楠木は英語の授業も受けていたのだが、其の担当講師は三月いっぱいで辞めて仕舞っていたので、東海林室長が後を継いでいた。楠木は結構人を見る目がある奴なのだが、東海林室長を一目見たときから、底を見透かして仕舞ったらしい。

「なに? あの変な奴。なんか気持ち悪い」

フォローをする気にもなれないから、取り敢えず質問に答えるだけにしておく。

「四月から個別の室長になった、東海林先生だよ」

「うっそ! 鈴木先生は辞めちゃったの?」

「異動で、他の教室に行ったみたいよ」

楠木はなんだか複雑な表情をしていた。元々彼女は、鈴木室長を嫌っていたのである。ゆえに一瞬、悦びにも似た表情を垣間見せたのだが、しかし、其の鈴木室長の代わりに来たのが極めて変てこな奴なので、リアクションに困って仕舞ったのだろう。

「鈴木先生、飛ばされたの?」

「栄転だろ。個別の室長から、教室全体の室長になったんだから」

「そうかー……」

後の台詞が続かない。気持ちは解らないでもない。多くの講師たちが、今の楠木と殆ど同じ複雑な心境を、既に経験済みなのである。講師たちと楠木の決定的に違う所は、楠木には鈴木室長を評価する基準が無いと云うところであろうか。「上質の上司」は決して「上質の講師」ではなかったのだから。

地震の後に火災が起こったとでも云うか……いや、それほどエネルギッシュなものでもないだろう。ゴキブリを退治したと思ったらナメクジが出た、と云うような感じかも知れない。なんだか遣り切れなくなってくる。こんな塾はとっとと止めた方が好いぞと、思わず云いたくなってしまうが、まさか本当に其れを云うわけにも行くまい。自分の首を締めるだけである。

東海林室長は、変なところばかり鈴木室長を引き継いでしまっているようで、楠木に対する評価も、鈴木室長と同等か、或いは其れ以上に、蔑視的なものであった。鈴木室長から何を聞かされていたのだろうか。私に云わせれば、楠木の方がよっぽど人間的にもしっかりしている。其の楠木を鼻で(せせら)笑う東海林室長は、いったい如何ほどの者だと云うのか。

「山崎先生、楠木ってのはとんでもない生徒ですね」

なぜか此の室長、時間講師(アルバイト)である講師たちに対して常に敬語を使う。此の塾の社員は大抵の者が、学生時代から時間講師として関わってきた者ばかりなのだが、彼にとって個別教室は初めてであったらしく、何かと云うと我々古参の時間講師たちにお伺いを立てたりする。其れは其れで非情に鬱陶しいので、もう少しプライドと云うものを持って欲しいのであるが、どうやら性格的に無理そうなのである。――などと思っていたら、

「楠木に関して、何か問題が起こったら、僕の方に回してくださいね」

余計なプライドばかり有って、非常に困る。私が持て余し、尚且つ東海林室長に解決出来るような問題など、取り敢えず思い付かない。授業風景を(はた)で見ていても、英語の授業で楠木が笑っている場面と云うのを、まず見ない。大抵むすっとして、投げ遣りな態度で授業を受けている。東海林室長がにこやかな顔で時々放つ、くだらない駄洒落などに対しても、冷たく一瞥するだけで、笑いもしなければツッコミもしない。試験前には脅威の集中力で授業を受けているようだが、そんな時でさえ、まるでメンチを切っているレディースが如く、そのうち木刀を持ち出して脳天割りでもして仕舞いそうな迫力さえ漂わせている。

東海林室長が気の毒のような気にさえなって仕舞うのだけど、然しやっぱり、フォローのネタはそこら辺には見付からない。遅かれ早かれ担当を変えるか、そうでなければ英語の受講をやめられて仕舞うだろう。

「なんなわけ? あのイキモノ」

数学の授業中、心底不愉快そうな顔で、楠木に愚痴られて仕舞った。

なんなわけ? と、こっちが訊きたい。どうにも、評価の仕様が無いと云うか、フォローも出来ないし、褒めることも出来ない。一所懸命で、好い人、そんなものは、全然褒め言葉にもなんにもなっていない。

「死んで好いよ、しょうじい」

「しょうじい?」

楠木はマーカーを手にとって、白板にこう書いた。

しょう爺。

私は思いっ切り笑って仕舞った。

「わはははは! ナイスだ!」

もはや室長は、完全に道化役に成り下がっていた。

「やった、うけた!」

楠木は調子に乗って、其の隣にこう書いた。

やま爺。

「あ、てめえ! 並べて書くな!」

「やっぱ、だめ?」

「だめすぎ! 同列で括ってくれるな!」

「あははははは」

異様な光景である。室長の悪口で盛り上がる講師と生徒など、尋常ではない。私は笑いながら、この職場と争わずに縁を切る方法を考えていた。

二〇〇〇年(平成十二年)、六月、二十一日、水曜日、赤口。