てんさい! 楠木美羽
里蔵光
高校編
十一
私は今年度一杯で此の仕事を辞める心算でいた。別に、新室長との確執があったわけではないし、東海林室長とは何方かと云うと、上手く遣っていた心算である。私の辞意は、抑々一年ぐらい前から固まっていたのである。
塾講師という職業柄、数ヶ月前に辞めると云って辞める訳にもいかない。故に私は、辞める2年も前から、其の意志を当時の鈴木室長に伝えていた。其れは当然、新任の東海林室長にも伝わっていた筈だし、私も四月の時点に、判然と東海林室長に其の件に関しては確認をとってある。故に、去年、そして今年から新たに受け持った生徒は、受験の終了如何を問わず、今年度一杯までしか授業をすることが出来ないという前提付きで、引き受けているのである。
当然楠木も、今年度一杯という前提付きである。生徒に其れが伝わっているのか如何かは知らないが、室長は了解済みでのことである。ただ、楠木に関しては、恐らく私が辞めようが辞めまいが、本人には全く関係ないだろう。何故なら、彼女の高校では、三年次には数学の授業がなくなるからである。楠木本人は受験をしないと云っているし、何れにしても今年一杯で、楠木は数学の受講を止めるだろう。
まあ、私が辞めるのも、楠木が止めるのも、何れも今年度一杯である。今は未だ未だ六月である。来年のことを云うと鬼が笑うと云うが、今年度末のことを今から心配したってはじまらない。其れよりも大事なのは、今である。過去は単なる記憶、未来は単なる未知。大切なのは常に「今」である。
「止めたいんだけどなぁ……」
まだ六月なのに、三年次も必要となるであろう英語の授業に関して、楠木はそんなことを云った。
「なんだよ、止めて、成績大丈夫なのか?」
私は殆ど無感動に、そんな慰留文句を云ってみる。――尤も、親が首を縦に振らない限り、楠木が止めることは無いだろうとも思っている。
「大丈夫じゃないさ」
そう云って、楠木は笑った。
「だけど、嫌なんだもん、しょうじい。担当かわんないかなー」
切実な問題だろう。甘え、そうとる事も出来るかも知れないが、此処は個別教室である。講師と生徒の相性問題と云うのは、何よりも重要なファクターとなってくる。波長が合わなければ、どんなに好い授業をしても、其の効果は半減どころか、殆ど意味を為さなくなって仕舞うことだって、ありうる。
「担当変えてくれって云えば、たぶん、変えてもらえるよ。云ってみたら?」
「変えてくれるかなぁ?」
「変わる、変わる。大事なことだからな」
私が真面目な顔をしてそう云うと、楠木はちょっと意地の悪い笑みを浮かべて、
「じゃぁ、数学の担当変えろって云ってみようかな」
「ちょっと待て、なんでだあ!」
「うっそ、冗談だよ」
ケラケラ笑っている。冗談だってのは、肌で解る。解った上で、突っ込んでいるのだ。
「くっそう、覚えてろよ」
「ダメダメ、あたし、頭悪いから直ぐ忘れちゃうよ」
「あ、そっか」
「納得するなッ!」気難しそうな顔を作って、人指し指を私の胸元に突きつけながら、戯けたような口調で「失敬だな、君は!」
「わはははは。俺の勝ちだな」
「ちょーむかつくー」
試験前でなければ、始終こんな調子である。授業をしていることの方が少ない。と云うか、まずしていない。しても無駄だからである。
「マジで云ってみようかなぁ。でもなぁ、……うざい」
「何がだよ」
「そんなんで、塾に来づらくなっても嫌だしなぁ」
意外に神経が細かいところがある。いや、意外でもないか。楠木は、そうした奴である。
「じゃあ、我慢して続けるんだな」
「それもやだ」
我が儘でもある。其れが楠木である。
「じゃあしょうがない。英語で常に百点取れるようになって、親を納得させて止めるしかないな」
「無理だって、そんなの」
「そうか? 数学で七十四点取れてんだから、英語だって、遣りゃあなんとでも……」
「それを云うか! 其れは反則だよ、先生」
「なんだよそりゃ」
私は思わず、苦笑した。――まぁ、反則なのかも知れないが。
「それができりゃあ、苦労しないって。数学の七十四点は、だって、先生の御蔭だもん」
「実力だって」
「絶対違う」
そんなところばっかり、自信たっぷりに云う。もっと違った方向性の自信を付けて欲しいところなのだが。
「大体おまえ、英語は三年になってもあるんだろう? だったらまず止められないじゃん」
「やめる」
「止められるの?」
「絶対に止める」
思いっ切り腹に力を込めて、楠木は、そう、宣言した。
「まあ、受験しないんだったら……」
「てゆうか、あたし、留学するから」
「えっ?」
私は一瞬、我と我が耳を疑った。留学? 楠木が?
「おまえ……そんなに成績佳かったっけ?」
「悪いって」
「じゃあどうやって……」
「お金払えば出来る留学があるの」
「ああ……」
なるほど、金はあるのだろう。
「でもなあ……おまえの英語力じゃあ、行ってからかなり苦労するんじゃないのか?」
「そうかも」笑っていた。
「じゃあ尚更、英語の授業止められないじゃん」
「そうかも」此れは沈んだ声。
「うーん、まあ……がんばれ」
「それだけ?」
「何を期待してるんだよ」
「別に」
英語は好きなのだろう。成績が伴っていないだけで。――尤も、そうした状態を世間では「下手の横好き」とか云うのだが。
然しまあ、楠木としては、好い選択かも知れないと、私は思った。どう考えても数学向きではない。かと云って、文学とか心理と云ったタイプでもない。経済だの政治だのと云うのも似合わない。――ここまで考えて私は気づいた。
――顔で判断してるだけか。
楠木は、確かクオーターだったか、欧州(何処の国かは正確には聞いていない)の血が僅かに混じっていて、其れゆえに髪も僅かに赤いし、外人のような顔立ちをしている。
髪が赤いと云っても、純粋な日本人が脱色をした程度の赤さである。故に先の室長――鈴木室長は、「髪を染めている」と表現したのだ。実際に、中学生の頃から、よく髪を染めているだろうと云う嫌疑を掛けられては、悔しい思いをしてきたようである。
髪を染めても別に構わないと思うのだけど。
まあ、私の価値観は此の場合関係ないので、置いておくとして、私が楠木に、英語などの語学系が似合うと感じたのは、其の風貌故の事なのかも知れない。――とんだ短絡思考である。
私は自身の安っぽい思考に対して、思わず苦笑していた。
二〇〇〇年(平成十二年)、十月、十日、火曜日、先負。