てんさい! 楠木美羽
里蔵光
高校編
十二
一学期の期末試験が終わって、最初の授業。今までだったらこんなときの授業は休むのが常なのだが、振替えが十回分ぐらい貯まっていて、これ以上増やしても消化できるかどうか判らないという状態だったので、今回に限っては、楠木は休まずに登塾してきた。
「試験前じゃないのに塾に来るって、珍しいよなぁ」
例によって弛緩しまくった授業中に、なんとなくそんなことを呟いた。
「いつも、試験前に振替え入れるために、休んでるのにな」
「あ、バレバレ?」
「何いってんだよ、今更。気付かないわけないだろう」
楠木はちろっと舌を出して、軽く苦笑し、
「そりゃそうだよね。普通気付くよ……じゃあ、これからは、いろいろ云い訳考えて休まなくても好いや。どうせバレてるんだし」
私は呆れた顔を向けて、「神経の図太いヤツだなぁ。ま、好いんだけどね」
「別に悪いことないでしょ?」
「まあ……確かに、おまえの場合は試験前以外の授業って、無駄なだけだからな」
「そうそう、わかってるじゃん」
実際此の日も、授業らしいことは何もせず、世間話に毛が生えたような進路指導らしきことをしていた。然し進路指導と云うのは、飽く迄云い訳に過ぎず、やはり唯の雑談だったかも知れない。
「そうだ、あたしね、英会話教室通うことにしたから」
弛緩しながら、楠木がそんなことを云った。
「だから、英語の授業はもう受けなくても好いんだ」
「ははあ」私は妙に感心して、「その手があったか。考えたもんだなぁ。尤も、留学が目的なんだったら、塾なんかより英会話教室の方が役に立つだろうな」
「そうそう、だから、ママも了解済みなの」
「そうか。じゃあ、英語は今学期いっぱいか?」
「そう。――やっと解放されるよー!」
心底から安堵したように、楠木は背もたれに寄って、大きく伸びをした。
遠くの机で東海林室長が苦笑していた。彼も莫迦ではない。自分が生徒に嫌われていることぐらいは疾うの昔に察している。楠木の露骨さを差し引いても、そのぐらいのことが感じられないようでは、迚もではないが講師とは云えない。――と云うか、毎週隣同士に座って八十分間顔を突き合わせているような状態だったら、判らない方がおかしいだろう。恐らく、楠木の英語の授業は、楠木当人よりも寧ろ東海林室長にとって、可成の苦痛だったに違いないのだ。
受講を止められると云うのは、室長としても講師としても、明らかに好ましくない事態であるにも拘わらず、東海林室長兼英語担当講師は、なんだか心の底から安堵したような顔をしていた。傍目にも、其れが本当に苦笑なのか、或いは微笑していたものか、甚だ心許無い。
「楠木は山崎先生に懐いてますから。……僕のこと、『しょうじい』って云ってるでしょう? 知ってるんですよ。……まあ好いんです。云わせておいてください。山崎先生の授業で、ストレス発散出来るんだったら、その方が好いんですから」――と云うような、人が好いのか莫迦なのかよく判らなくなってくるようなことを、以前室長に云われた。楠木のメンタルケアは自分には出来ないから、私に一任する、と云うことである。元より私は其の覚悟をしていたし、云われるまでもなく、其れを実践してきたつもりである。
室長は、もしかしたら、何等かのフォローなり慰めの言葉なりが欲しかったのかも知れない。つくづく、可哀想な人なのだ。室長などになるべき人ではないのだ。――いや、抑々其れ以前の問題として、講師と云うものが性格的に向いていなかったのかも知れない。
講師などと云うのは、絶対的善人には決して出来ない仕事なのである。佳い講師と持て囃される人々は、必ずと云って好いほど、悪ガキである。――悪人ではない。悪ガキなのだ。悪人も居るかも知れないが、其れ以前に悪ガキなのだ。塾講師なんてものは、真面なオトナには決して勤まらない職業なのである。
勿論私も、悪ガキであった心算だし、また、悪ガキたらんと、常に意識し続けていた。意識している時点でニセモノなのかも知れないが。
「おまえ、将来何になりたいとかって、あるの?」
「通訳かな」
「ウソだろ?」思わず笑って仕舞った。それほどあっさりと、楠木はその大それた志望を云ってのけたのである。
「やっぱ無理?」楠木も笑いながら。私は内心、笑ったことを後悔していた。
「うーん、無理かどうか、俺自身英語力無いからなんとも云えないけどさぁ……でも、いまの状態だと難しいんじゃないのかなぁ。……あ、だから英会話なのか」
「そうそう」なんだか楽しそうに首肯く。
「ま、頑張ってくれよ」
「めんどくせー」
「ダメやん!」
私はまた笑った。今度は後悔するような笑いではなかった。
「まあなんとかなるでしょ。ダメならとっとと永久就職するし」
「……相手いるのか?」
「いないよ、うるさいな」
「いなけりゃだめじゃん。取らぬタヌキのなんとやらだな」
「うるさい、うるさい、うるさい! 見付けるからいいの! あたしのこの美貌さえあれば、男の一人や二人……」
「まあ頑張れ」
どこまで本気で云っているものか。下手をしたら「通訳になりたい」と云うところから全てが冗談だったのかもしれない。しかし、全てが本気であった可能性も、また否定できず、私に出来ることはただ、微笑みながら、おざなりな励ましの言葉を掛けてやるのみであった。
二〇〇一年(平成十三年)、十一月、十二日、水曜日、仏滅。