てんさい! 楠木美羽
里蔵光
高校編
二
初めての授業では、楠木は、殆ど心を開かなかった。当然と云えば当然である。
二学期の中間テストの結果を見て、学力レベルを測り、学校で現在やっている単元を訊き、何が解らないのか問題を解かせながら調査し、其れに対する対策をとる……と、ガチガチの形式ばった授業である。下手をすれば、此れ程つまらない授業も莫い――のであるが、意外にも彼女は集中して授業を受けていた。
いろいろ遣らせてみた結果、高校数学の最も根本的なところから、全く何も解っていないのだと云うことが判明した。四月から真面に授業に参加したことが莫いようである。尤も其れは、彼女一人の責任ではなく、担当教師の接し方や授業の進め具合にも、大いに問題があるのだろう。
先ず二次関数である。y=ax2+bx+c と云う式を、y=a(x-p)2+q と云う形に変形するところからである。此れは高校数学の最初の段階である。こいつが全く出来ない。――基、出来ないと思い込んでいる。まあ、詳細は省くが、先ず y=x2+2x+1 と云う簡単な形から始め、少しずつゴテゴテと装飾を付けていき、最終的には、授業の始めに「絶対に解けない」と云い張っていた式の変形に成功させることができた。私自身、こうまでスムーズにできるとは思ってもいなかったので、なかなか楽しかったが、彼女にしてみれば大事件であったらしく、元々大きめの目を更にまん丸にひんむいて、
「先生っ! 教えるの上手いよっ!」
「なぁに生意気云ってやがる。――教えるのが上手いんじゃないよ、元々素質が備わってたってことさ。やりゃ出来るんだから」
確かな手応えを感じた。此の生徒とはうまくやっていけるだろう。そして、成績を伸ばすことができるだろう。――成績など、私にとっては、飽く迄副次的なものに過ぎないのであるが。
残りの時間は、中間テストの問題を自力で解かせることに使った。所々考え込む場面もあったが、其の度に、ぽつり、ぽつり、とヒントを呟き、最終的には全ての問題を、略自力で解くことが出来たようである。
終業の鐘は、疾うの昔に鳴っていた。
楠木の後には、授業は莫い。早い話が、此の授業で塾はお終いである。にも拘わらず、私は楠木ととことんまで付き合った。補講料が出るわけでもなし。完全に此れはボランティアである。其れでも構わない。ノっているのに、わざわざ水を差すことも莫い。周りの講師たちが次々と「お先に」と云って引き揚げて行く中、私は最後まで授業をしていた。――室長が顰蹙していたが、そんなことはどうでも好い。晩いと云っても、十時である。電話すれば親が迎えに来ると云う。晩くなる旨、既に電話を入れてある。何等気に病むことは莫いのだ。とことんまでやらせてくれ!
全ての問題が終わったところで、楠木の授業延長は幕にした。初回と云う程よい緊張の御蔭か、実に充実した授業であったようだ。間に壁を作ることも莫く、好い距離感を作り出せたと思う。落ちこぼれなんかじゃないじゃないか。私は心底、そう感じていた。いや、落ちこぼれと云う言葉は、飽く迄其の時点での「外見的な状態」を指す言葉なのかも知れない。其れならば、楠木は「落ちこぼれから簡単に脱出することが出来る」生徒である。基礎が出来ていないだけであり、其れは単に、今迄何もしていなかったと云うだけのことなのだ。やってもやっても追いつけないと云う類いのものではない。必ず追いつき、追い越すことが出来る。此の日の彼女の見せた集中力は、私をして、そう信じさせていた。
次の週も、楠木は遅刻もせずにしっかり来ていた。遅刻して当たり前のような顔をしている生徒が大半の此の個別教室に於て、彼女の時間に対する潔癖さは際だっていた。「落ちこぼれ」などと云う烙印を押されているような生徒だけに、此の点は褒めるに充分であろう。
先週の問題をもう一度解かせてみた。――解けなかった。何、驚くようなことではない。復習をしなければこうなる。然しここで再度繰り返すことにより、確実に其れは楠木の身についてゆくのだ。実際、僅かに記憶を掘り起こしてやっただけで、其れ等の問題は直ぐに解けるようになった。
然し、今回の楠木は、先週ほどの集中力が莫かった。眼はぼんやりと空を彷徨い、私の言葉も殆ど右から左状態で、融けた蝋人形のようにドロッとしていて、ペンを動かすのも大儀そうである。――其れでも、殊勝な振りして授業を聞こうとしている。
――猫かぶりか。
なんとなく、察してしまった。未だ二回目だから、猫を被るのも仕方ないだろう。そして私は、其れと気付かぬ振りをしておく。猫かぶりだろうがなんだろうが、授業を聞こうとしているのだから、非難することはないだろう。内心、塾になんか来たくなかったのだろう。勉強が本当に嫌いなのだろう。其れでも、定刻にしっかり来て、そうして懸命に集中している振りをしている。健気なものじゃないか。
集中力は稍落ちているようだが、なに、懸念の(誰が最も懸念しているかというと、其れは室長なのだが)期末テストまでは、未だ間がある。ゆっくりやって行けばよいのだ。
一九九八年(平成十年)、八月、十日、月曜日、赤口。