てんさい! 楠木美羽
里蔵光
高校編
三
「あいつ大っ嫌い」
「は?」
何度目の授業だっただろうか、楠木が、塾に来て席に着くなり、心から不愉快そうな表情をして、開口一番、そう云った。「あいつ」とは、鈴木室長のことである。ついさっきまで、教室の入り口で室長と楠木が会話をしていたのだが、それに関する感想なのだろう。
「ちょー、やな奴じゃない?」
同意を求められても、私の立場では困惑するのみなのであるが、「そうか」と、取り敢えず賛成も反対もしないでおく。私の持っている室長への印象など、生徒に語ったところで仕方がない。それは恐らく愚痴になるであろうし、そんな話題で生徒と盛り上がるというのも、考えものである。私は、陰口は好かないのだ。――かと云って、とりわけ彼の擁護をする気にもならず、結果的に出てくる言葉は、酷く曖昧模糊としたものになる。然し、其の心の内は隠し通せないのであろう。
「やっぱ、先生も、あいつ嫌いなんだ」
意見の一致を見たと思ってか、楠木は幾分嬉しそうにそう云って、穏やかな目で私を見た。
「さて……」
やはり判然たる返答が出来ずに、私は口籠る。分が悪い。別に室長が嫌いなわけではない。ただ単に「好きでない」だけなのだ。否、寧ろ、彼のように自ら進んで憎まれ役を買って出るようなタイプは、中間管理職に迚も向いていると思うし、今にして思えば、彼はやはり上等の上司であったのだが、其れが計算の上のものではなく、単なる「性格的なもの」であったと云う点で、肩書きを外した際の彼の人としての価値を低めているのも、また事実である。
然し、斯様の説明を生徒に――高校生にすると云うのも、此の状況下では意味がなく、寧ろ卑怯な云い逃れであるようにも思えたので、私は腹を決めて、「まあね」と、ぽつりと云った。
室長を捨て石として、私は楠木との距離を縮めた。
この瞬間、私達の間に有った僅かな壁が撤去された様にも思う。「他人は利用するものである」と云うのが、私の、自分を偽りながらの座右の銘である。生きて行くための武装である。然し此の武装は、いつでも甚だ心苦しい。
「先生、話わかるじゃん!」
此の日の楠木は、被っていた猫をすっかり脱ぎ捨てて、仮面の下のそれこそ猫そっくりな自我を出し、猫の様に大きな瞳をクリクリと、よく回していた。何かと猫尽くしな奴ではある。ゆえに、どんなに憎まれ口を叩いても、決して憎むことが出来ない。――年齢の差もあるのだろうが。
期末試験が終わっていたので、楠木の集中力は完全に消え去っていた。解説をしている時も、問題を解かせている時も、心此処に在らずと云った様子で、呆っとしており、なんだか不思議な落書きばかりしている。
「なにそれ?」
ノートに描かれた不思議な幾何学模様を指して、そう訊いてみる。
「わかんなぁい」
「シュールだな」
私は笑ってみたが、楠木は笑わなかった。「シュール」と云う言葉が伝わらなかったのかも知れない。なんだか魂が抜けたようになっている。いずれ、マーカーを手にとって、落書きのカンバスを目の前の白板に変えた。輪郭。顔か。鼻。横顔らしい。口。目。髪。髭。
「……なんだいそりゃ」
マーカーの蓋を閉めて、えらくもったいぶった態度で、「な、ん、で、しょう!」
「判らんよ。誰だよそれ」
「……ボブ」
「は?」
どうやら意味など莫いようだった。どうリアクションしたものかと躊躇している隙に、楠木は再びマーカーを手にとり、もう一人の横顔を書き始めた。
「それは誰?」
「……マイケル」
如何にも、思いつきで付けたような名前である。
白板では、ボブとマイケルが睨めっこしている。だが、どうも、お互いの視線はあさっての方を向いている。滑稽と云えば滑稽だし、シュールと云えばシュールだし、要するに荒唐無稽な落書きに過ぎない。
「まあ、好いや、それは判ったよ……で? 問題解けたのか?」
「へへへぇー……まぁだ」
異様にクニャクニャとしていて、丸で融けているかのように、机に突っ伏したかと思えば、ぬぅと顔を挙げ、私の眼をまじまじと見詰めて、顔を背け、背凭れに寄り、両手をだらりと下げて、あくび一つ、
「つまんなぁい」
――面白すぎる。
こんな反応を示す生徒は、全く初めてであった。大抵は、きまじめにずっと勉強だけに集中しているか、或いは最初から最後まで只はしゃぎ回っているか、どっちかである。楠木の、試験前に見せたあの集中力。試験が終わって取り敢えずの目的が失せた今、現在こうして見せている此の怠惰。対称的である。面白いほどのコントラストである。
「へんなやつ」
私は笑った。楠木は頬をぷうと膨らませた。
こんな状態で、勉強を無理強いさせたところで、なんの糧にもならない。講義は右の耳から左の耳へとするりと抜けて仕舞うし、問題を解こうとしても問題文を目で追うことさえ儘ならないし、私が解説しながら解かせてみたところで、板書を丁寧に書き写すだけで、其の内容なんか何一つ聴きやしないだろう。私は観念した。そして、ペースを楠木に合わせた。
「このボブとマイケルさ、顔ばっかりで身体が莫いじゃないか」
「……わかったよ」
楠木は三度マーカーを手にして、首から下を描き足した。なんだかヒョロヒョロとした肢体になった。ゴム人形のようにグニャグニャしていて、服も着ていない。
「裸か?」
そう云うと、楠木は服を描いた。そして、そのまま勢いに乗って、二人の間にチューリップを咲かせた。葉っぱがタンポポだった。
「そりゃ違うよ。チューリップの葉っぱは、もっとシンプルなんだ。ギザギザなんか莫い」
私はそう云いながら、二本目のチューリップを描いてみせた。
「うまいじゃん」
「だべ?」
思わず、千葉の言葉が出る。
結局此の日は、二人で落書きばかりして終わった。端から見れば、これほど無駄なことは莫いのかもしれない。時間当たり何千という授業料を払って通塾させている以上、親がこんな光景を見れば、怒髪天を突くだろう。然し、私は飽く迄「必然」と思ってしている。個別学習教室と云うのは、通塾させる家庭教師の様なもので、生徒と講師との信頼関係が確立されていなければ成り立たないものである。室長だとか、親だとか、そう云った存在は「副次的なモノ」にすぎない。親の希望がどうあれ、室長の命令がどうあれ、現場の講師は、只、生徒のためだけに存在しなくてはならない。
私は室長のモノでも父兄のモノでもないつもりである。これが、個別講師のプライドという奴なのかもしれない。
一九九八年(平成十年)、十月、二十二日、木曜日、大安。