てんさい! 楠木美羽
里蔵光
高校編
四
年が明けて最初の授業、楠木は休んだ。学校の行事が何う斯う云って居たと思う。委員会だったやも知れぬ。連絡を貰ったのは前日なので、当日無駄に待ち惚けをすることは莫かった。
翌週の授業も、楠木は休んだ。風邪とか云って居た。此の時には当日に連絡が来たが、楠木は三時間目なので、矢張り待ち惚けをすることは莫かった。
連絡さえあれば、後日振替え授業をして遣らねばならない。其の翌週、年が明けて漸く初登塾して来た楠木に、早速日程の交渉を持ち掛ける。
「試験前が好いです」
「試験いつだ?」
「まだわかんない……また今度で好いよ、先生」
振替二つ、私はそうメモすると、授業に入った。
「じゃあ、宿題見せて」
「えっ
まゝよくあることだ。冬休みの宿題など、真面目に遣って来る生徒の方が少ない。だから期待などして居なかったのだが、一応私は叱っておくことにする。
「たわけ者!」
なんだか叱り方も間が抜けている。
「まあねぇ、どうせ宿題やる以前に、すっかり二学期の内容忘れてるんだろう」
是は皮肉。
「わかってるじゃん」
真面に返されても困る。
「じゃあ、二学期の復習でも……」
「そんな事より先生、わかんないところが、あるんですけどっ」
復習が「そんな事」にされて仕舞った。そうは云っても復習は大事である。楠木の様に全く復習しない生徒には、寧ろ予習や学校準拠などよりも、復習をさせておきたい。然し結局、此の押しの強い生徒に、私の方が折れて仕舞うのだ。尤も客の要望を容れるのは客商売の原則である。講師の場合、其の辺のバランス、匙加減が、なかなか微妙で難しい。
「じゃぁ、好いよ、なにが解らんのだ?」
楠木は、山の様なプリントを、ばさりと音を立てゝ机上に置いた。殆ど丸々一単元分ぐらい有りそうである。
「ぜんぶ」
こんなもんか――軽く溜め息を突いて、プリントに視線を這わせた。いずれ、一から説明し直さねばならぬだろうとは思っていた。此の生徒は一斉授業には向かないのだ。決して頭が悪いわけではないのだが、どうも「理解」と云う過程を怠っている様で、なんでも丸暗記しようとしている。そんな事では高校の教科は立ち行かなくなる。本人も其の辺り、漠然と認識している様なのだが、同時に諦観に至ってさえいる様なのである。どうせ理解できないと。こんな輩には「身体で覚えてもらう」より他ない。繰り返し学習によって、自然と身につけさせて仕舞うのだ。
理解が必要かと云われれば、まあ、学問である以上必要だろうと、思いはするが、然し楠木の場合、数学は「学問」としてではなく、あくまで「単位取得」または「受験の道具」でしかない(尤も本人は、受験をしないと云っているのだが)。要するに「使えれば好い」のであって、「真に理解する必要は莫い」のである。もちろん、そうした態度が理系離れという現象を引き起こし、社会問題に迄なっているかも知れないことは先刻承知である。然しだからと云って、誰でも彼でも数学の世界に引き摺り込んで仕舞えば好いと云う訳でもない。そんな事をしては、今度は「文系離れ」が問題となって仕舞う。勿論そんな事は杞憂に過ぎないのであるが。――何れにしても人には「守備範囲」と云うモノが存在する。数学に向くも向かぬも人次第、数学向きでありながら文系に惚れ込んでしまう例もあるが……殊楠木に限って云えば、彼女は歴とした文系人間である。数学は荷が重い。理解させようと、或いは只管公式を丸暗記させようとする過去現在の教師たちの努力が、楠木を此処まで数学から遠退けて仕舞ったのだろう。
楠木には公式丸暗記もダメなのだ。公式を覚えて使うと云うことは、「公式の意味」を知っていなければならない。理解していなければならない。公式をその儘書いて終わりではないのである。代入もするし、時には変形もする。計算して、値を出す。其の導出された値がなんなのかさえ、楠木は知らぬ場合が殆どだし、抑々代入の時点で、何の文字に何の数値を当てるのかが解らなかったりする。公式が使えない。使えないから覚えても徒労に終わる。だから覚えない。結局何も出来ない。何も出来ないから進まない。進まないから苛つく。厭になる。勉強しなくなる。復習など途でもない。そしてより一層解らなくなって、嫌いになってゆく。
だから、あとは身体で覚えてもらうよりないのだ。
理解なんかしなくても身体に染みついていれば使える。文法を知らなければ母国語が使えぬなんてことは莫いだろう。寧ろ文法を知ってしまったが故に、自由に言葉を使えなくなって仕舞うこともある。此れは本末転倒であるが、事実でもある。
理論と実践とは、主従の関係にあるものではないし、包含関係にあるわけでもない。かと云って無関係でもないのだが、それは「何等かの関連性がある」という程度の関係で、明確に何方が何方の何々であるとか、そうした関係にはないのだ。だから、明白に何方かを欠いても、もう片方が成り立ってしまったりする。ただ、文法を知らぬ者の発話と、文法を熟知した者の発話とには、明確と差が出るが、何れにしても「通じる」のは確かである。
数学は、私に云わせれば、一種の言語である。だから「此処ではこう書かなくちゃ不可いのですか」とか「此処はなんて書けば好いのですか」などと訊いてくる生徒もいるが、そんなとき私は必ず「意味が通じればなんて書いても好い。ただ、書き落としや書き過ぎは良くない」とだけ云う。証明の結論に「よって」と前置きしようが、「ゆえに」と書こうが、「従って」であろうが、「つまり」だろうが「以上より」だろうが「だから」だろうが「結局」だろうが「結論は」だろうが「∴」だろうが、意味さえ通じれば好いのである。そうしたところで定性的な書き方を教えてくれと云う生徒がいるのだが、其れは抑々数学を誤解しているのだ。計算の途中式も同様で、明白な飛躍が莫ければ、其れ程綿密に書く必要もない。悲しい哉殆どの生徒は、其の辺りを誤解した儘で居るのだ。言語センスの問題なのかも知れないが。
私は山のようなプリントにざっと目を通した。三角比の単元である。sin だの cos だの云う、あれである。プリントにはびっしりと答えが書き込んである。
「写しただけか」
「そう」
なんにも理解しないまま、学校の先生の板書をそのまま書き写したものであることは、火を見るより明らかである。つまりはなんにも解っちゃいないのだろう。sinθ とは何か、それさえ解っていないかも知れない。いや、間違いなく解っちゃいないのだ。私は一旦プリントを脇に除けて、まず三角比の定義の説明から始めた。
一九九九年(平成十一年)、一月、二十一日、木曜日、先負。