てんさい! 楠木美羽
里蔵光
高校編
五
楠木が休む理由がなんとなく解ってきた。口の上では、体調が悪いとか、学校の行事だとか、そうした云い訳をしているのだが、其の振替えは全て「試験前」を希望しているところを見ると――既に今年に入って五回分の授業が溜っているのだが――如何も、全ての授業を試験前に集中させたくて休んでいるとしか思えない。尤も、其れは楠木にとっては有効な塾の活用法である。彼女は試験直前でなくては集中力を持続できないのだ。
楠木は元々一対二の契約で受講している生徒で、私の持っている生徒の殆どは一対二である。然し、生徒たちの都合が折り合わず、実質的には一対一で授業をしている生徒が多い。其の様なコマに楠木の振替えを入れ、正規の一対二として授業をすることが出来るから、振替えの入れ方で困ることは殆どない。いざとなったら「零時間目」と云う手もある。つまり、本来の一時間目の前に無理矢理一コマ分の時間を取って、授業をして仕舞うのだ。
そして、試験前一週間は、完全に「楠木週間」と化した。殆ど毎日の様に楠木の授業が入っている。内容も、数学に留まらず、化学などが入ったりしている。元々私は、物理と化学ならいつでも面倒見てやると云っていたので、其の点は全く問題ない。書類上は「数学」の授業だが、実際には物理や化学の授業をするなどと云うのは、楠木に限らず、試験前になれば日常茶飯事のことなのだ。
今日は本来なら塾は休みである。原則として日曜日は個別教室は休みなのだ。然し、室長に前以て云っておけば、授業を組み込むことは出来る。こうしたことも、今回に始まったことではない。多くの学生講師たちは、振替えの日程で詰まると、よく日曜を利用したりしているのだ。日曜出勤している社員講師も、例外なく、誰かしら居るものである。尤も、本当に誰も居なければ、許可は下りようもないのだが。
此の日曜に、楠木の授業は三時間組み込んである。昼から始まって三時間、実際には、一コマ八十分なので、合間の休み時間を入れて、合計で四時間を超過する。講師も大変だが、生徒も大変だろう。そうした点では、複数の教科をやると云うのは、授業に変化を生じさせることが出来るので、有効なのかも知れない。
私がいつものように、授業の十分前に教室に入ると、既に楠木は来ていた。
「随分早いな」
私が目を丸くして云うと、楠木は得意気に笑った。試験前の此の懸命さが、普段からあれば……と云うのは、贅沢な希望だろうか。
「何時から来てたんだ?」
「三十分ぐらい前」
愈々吃驚した。
「おまえ、それは早すぎだろう。そんなに早くには、俺だって来ないよ」
「家にいても暇だからね。ずっと英語やってたよ」
確かに、机上には英語の教科書とプリント、そして受付で借りてきたらしい英和辞典とが載っている。
「偉いじゃん」
「まあね」
「まあ、授業までまだ時間あるから、少し休んでな。あと五分ぐらいね」
「はーい」
取り敢えず私は、喫煙室へ行き、一服した。授業前の一服は、日課である。なにしろ八十分間煙草を吸えずに、時には大声で怒鳴り散らしたりしながら授業をするので、授業前と休み時間の一服は、私にとって、束の間の平和なのである。授業は、戦のようなものなのだ。体力も精神力も、極端に消耗する。
チャイムと同時に、私は教室に入った。
「よっし、始めるか。じゃあ先ず……プリントか?」
「はい」
楠木が出したプリントは、年明けの頃の二倍ぐらいの量がある。年明けの授業から今日まで、ほんの一、二回ぐらいしか授業をしていないので、殆ど何も進んでいないのと同じである。なにしろ、楠木は復習をしないから、教えても直ぐに忘れる。
「どこまで覚えてるんだ?」
「あ、先生、褒めて褒めて! あたしちゃんと復習して、一枚目のプリントは完璧!」
「へえ!」
今日驚くのは何回目だろうか。真逆復習してくるとは、思ってもみなかった。
「じゃあ、ちょっと基本的な問題やってみようか。問題集の……」
適当に簡単なものをピックアップして、やらせてみると、スラスラと解いてみせる。
「すげー」
「まっね。これがあたしの実力って感じ?」
「あ、コギャル言葉使ってやがる。無理すんなって」
「うるさい、そこ! ほっとけ!」
まあ実際、此れが楠木の実力なのだろう。私の突っ込みへの返しにさえ、余裕が感じられる。私は嬉しくなって、気持ち好く次のプリントへと進めた。
学校で何も身につけていないから、何れも殆ど全く一からの説明なのだが、楠木の集中力は抜群で、復習をしっかりやっていた御蔭もあり、実にスムーズに授業を進めることが出来た。そして此の八十分で、実にプリントの半分までも消化することが出来た。普段の楠木の成績や授業態度からは、迚もじゃないが想像出来ないような、驚愕の事態である。
「やるなぁ、今日の楠木は、別人だな、まるで」
「試験前は特別なの! ほら、とっとと次に進む!」
面白いぐらいに、ノリノリである。
「まあ、今チャイムが鳴ったから、ちょっと休憩な。――そうそう、次の授業は一対二だから、そのつもりで」
「え? 日曜に塾に来る物好きが、あたしの他にもいるの?」
「いるんだな此れが。おまえとおんなじ高一だよ。まあ、おまえより少しは真面目な生徒だけどな」
「一言多いぞ、おまえ!」
「わはは、だって事実なんだから、しょうがない。――じゃ、次の授業は五分後ね。俺はニコチン補給してくるから」
「はいはい」
そして私は、喫煙室で束の間の安息を取り、きっかり五分後に教室に戻った。次の生徒は未だ来ていない。
「せんせー、次のお相手、まだ来てないよ」
「あぁ、遅刻魔だから。サルだし」
「さる?」
「遅刻しないって点では、おまえの方が真面目だねぇ」
「悪いけど、時間には厳しいから。あたし」
確かにそうなのだ。理由なき遅刻を、楠木は一回もしたことがない。次の生徒などは、遅刻しない日の方が希少で、少なくとも私の記憶の限りでは、時間通りに来たことは一度もない。
「まあ好いや、其のうち来るべ。んじゃ、始めようか」
「なんだか、慣れきっちゃってるねぇ……あ、次は数Aね」
「はいはい」
現在のカリキュラムだと、数学は数Iと数Aの二つある。先程までやっていた「三角比」は数Iの範囲だ。数Aは今、「数列」をやっている。此れもさっぱり出来ていないと云うのが現状である。年明けから今日までずっと三角比ばかりやって来たので、こっちは正真正銘、一から始めなくてはならないだろう。そして私は、数列の定義の説明から始めた。
一九九九年(平成十一年)、五月、二十六日、水曜日、先負。