てんさい! 楠木美羽
里蔵光
高校編
六
教室のドアがそっと開いた。
「おーいっ」
ドアの隙間から顔を除かせた生徒は、恐る恐る此方を伺い、そして小さく、右手を挙げる。
「やっ、すまんすまんっ」
「やっ、じゃないだろう、こら!」
「違うの! せいせー、きいてー! おっかあさんがさぁー……」
「あぁ、云い訳はよい。とっとと席に着く!」
二十分遅れで、漸く次の生徒が来たのだ。いつもの事とは云え、私は不機嫌な表情を作って、小言の一つも垂れて遣ろうかと思った時、
「あっ! みっちゃん! みっちゃんでしょ! うっわー、久し振りー!」
声は意外な所から挙がった。
「なんだお前ら、知り合いか?」
「えへへー、ちょっとねー」
みっちゃん――田中美智子は、鳥渡はにかんで、意味も莫く訳有りげに云う。代わって楠木が説明してくれた。
「中学の時、理社クラスで一緒だったんだよ」
「え? だっておまえ、私国立クラスだろ?」
「理社は一緒なんだよ、せんせー知らないの?」
「知らんよ、集団クラスのシステムなんか。毎年変わってるしな」
「そうなんだぁ」
田中がヒョコヒョコと独特の――丸で猿か何かの様な――歩き方で席まで来ると、小学生の子供の様に私の袖を引っ張って、「只ならぬ仲……なんちゃってー」と云って、意味も莫く燥いだ。
「アホか」極めて短く、簡潔に、突っ込みを入れる。
「うっ……」田中の、突っ込みに対する返しの能力は、まだまだ未熟なのだ。
「好いから席に着いて、ほらほら。二十分も遅刻しくさってからに」
「だからー、それはお母さんが……」
なんだか回り諄い話し方でうだうだ云っていたが、要は母親に買い物を押し付けられて、間に合わなかったのだそうだ。私は呆れ顔で田中を凝然と睨むと、
「塾があるって云って断れば好いじゃないか、意志の弱い奴だ」
「うー……ごめんなさーい」
素直に、ごめんなさい、と云える奴ではある。云うだけなのだが。
此の田中という生徒は、完全にボケキャラクターである。取り敢えず此方は、突っ込みに回っておけば好い。丸で虐めている様だが、田中はじゃれ合っている心算なのだ。根っからのボケなのだから仕様がない。
田中を楠木の隣の席に落ち着かせ、準備をさせている間に、私は楠木に向き直って、授業の続きを始めた。
「じゃあ、取り敢えず説明はこんなところで……プリントのね……此の問題遣ってみそ」
「はぁーい」
隣で田中がクスクス笑い出した。
「『ミソ』って、せんせー。どこの方言じゃー!」
「やっかましい。好いから宿題出せ……忘れたんなら今、此の場で遣る!」
「じゃあ、今からやりまっす」
「偶には遣って来いよ……時間が勿体ないから」
「やろうとしたんですよー、昨日やろうとしたんだけど、でも妹が……」
そして延々云い訳。全て聞き終えてから、
「てゆうかお前、四日間もあったんだから、なにも昨日でなくったって、遣る時間はいくらでも有っただろうが」
「仰有る通りですっ……そうだねっ、もっと早くやればよかった……」
返事は好いのだ、此の生徒は。然し、云われたことを覚えていないのか、実行に移せないのか、今まで何遍も同じことを云っているのに、宿題をなかなか遣って来ない。遣り始めれば一生懸命やるのだが、遣り始めるまでが大変なのだ。他の教科は結構進んで遣っているようなのだが、殊数学に関しては、どうも逃げて回っている様なのである。
一対二とは云っても、同時に二人とも問題を解き始めれば、私は手持ち無沙汰になる。そんな時には徐に立ち上がって、二人のノートを覗き込みながら、途でもない勘違いやミスをしていないか、詰まっているとしたら何処で何の様に詰まっているのか、と云ったことを調べるのだが、二人とも順調に解き進めていると、本当に遣ることがない。個別教室の机ごとに設置されている低い衝立に肘を突き、呆っとしているより他ない。こんな瞬間だけは、とっても楽な仕事ではあるかも知れない。
「せんせー、終わった」
先に終わったのは楠木の方であった。量的に可成違うのだから、当然である。私は宿題は「毎日一時間ずつ遣る」と云う前提で出しているのだから、田中が真面に解けば四時間掛かることになる――尤も、大抵解らない所は飛ばし飛ばしやるから、実際には直ぐに終わって仕舞うことの方が多いが。
「どれ、見してみそ」
「ミソ……」
田中が横で笑っているが、取り敢えず無視して、楠木のノートをチェックする。
「おお、出来てるじゃん。すごい、すごい」
「実力ってやつ?」
楠木は椅子の背凭れに踏ん反り返って、得意満面で小鼻を膨らませている。取り敢えず威張れる所は威張らせておいて遣ろう、滅多に莫いことなのだから。
「よしよし、じゃあ次の所ね……」
そして私は、「数列の和」の説明を始めた。
文部省の教科書の作りでは、等差数列、等差数列の和、等比数列、等比数列の和と進むのだが、予習目的などで全く一から説明をする時には、私は必ず、等差・等比数列、等差・等比数列の和、と順番を入れ換えて進める。御蔭でテキストを前後して仕舞うことになるのだが、此の方が説明し易いし、自然な流れの様な気がするのだ。纏め等も遣り易い。
此の辺り迄は、何の生徒も結構簡単に進められるのだ。問題は其の後である。Σが出て来ると、何の生徒も、大抵は進みが遅くなる。理由は明白で、殆ど全く「公式」のみで構成されていて、其の公式の導出、証明が、現時点の数学知識では不可能だからである。然し、此れは仕方のないことではある。此の件に限っては、導出・証明の為の知識を学んでから始めるよりも、其れに先だって遣って仕舞った方が佳いのだ。抑々一部の公式に関しては、導出は高校数学では出来ない。証明なら出来るのだが。
此の時間は、楠木の授業は、数列の和の演習を半分程遣ったところで終わった。どうせなら全部遣っておきたかったのだが、あんまり急いで進めても身に付かないから、仕方ないだろう。楠木にしては、此処迄出来ただけでも上等である。
問題は、田中である。真面目に一生懸命遣っているのだが、六十分ではどうやら宿題は終わらなかった様である。楠木に問題を解かせている間、ちらりとノートを見てみたら、既に落書きの様なものが其処彼処に書き込まれている。其れでも、一生懸命問題を解こうとしているので、其の程度の「息抜き」には目を瞑ることにした。人の集中力というのは、十五分が限界だと云う。六十分間其れこそずっと生真面目に遣り続けていたら、どんどん集中力と能率は落ちて行って、進むものも進まなくなって仕舞う。
そして、終業のチャイムが鳴った。
「おっし、そこまで。田中まだ終わってないのか?」
「むずかしー!」
大きく伸びをしながら、寝ぼけたような声で云ったかと思ったら、其の儘背もたれに崩れて、大欠伸をした。
「難しくなんかないだろ、簡単、簡単。俺だったら二十分で解ける」
「先生と一緒にすんなー! ばきっ!」
効果音を口で云いながら、寸止めのパンチを繰り出してくる。
「そっか、さるだしな」
「うっきー!」
「みっちゃん猿なの? なんか、はまりすぎ、それ!」
横で楠木がゲラゲラと笑う。
「ま、取り敢えず休憩な。次は五分後」
そして私は、束の間の安息を求めて、喫煙室に向かった。
一九九九年(平成十一年)、六月、一日、火曜日、先負。