てんさい! 楠木美羽

里蔵光

高校編

「じゃあ、こずえに宜しくね」

私が教室の扉を開けると、楠木と田中はすっかり打ち解けて、楽しそうに会話していた。いや、打ち解けるも何も、元々知った間柄であったわけだが。

「こずえって誰だ?」

私は二人に着席を促しながら、くだらない雑談を少し引っ張ってみた。

「いやー、話すと長いんですけどぉ」

其れはそうだろう。田中が話すと、どんな簡単な話でも、驚く程長い漫談に変容してしまう。一種の才能かも知れない。

田中に話してもらう心算(つもり)など全く莫かったので、私は楠木の方へと視線を移動した。

「あたしの友達がね、みっちゃんと同じ高校だったんだよ。だから、手紙渡したの」

「友達?」

「中学の時の同級生」

「あれ? おまえのところって、エスカレーターだろ?」

エスカレーターとは、何の苦もなく上の高校へ行けると云う意味である。実際、英才中学から英才高校への進学率は、殆ど百パーセントに近く、余所の高校など受けるケースなどは殆ど莫いと云っても過言ではない。

――あ、でも、田中の高校なら……

田中は、県内御三家でこそ莫いが、其れに追随する程のレベルの公立高校に通っている。英才高校よりは遥かに上である。其れなら、態々(わざわざ)内部進学を蹴ってまで外部受験をするのも首肯(うなず)ける。

「英才が嫌で外部受験でもしたのか? 其の友達って」

「うん、頭好いから」

「あはは、おまえと較べれば、誰だって頭好いんだろうけどさ」

「あ、そこまでゆぅー! 覚えてろよ、ちくしょー!」

まあ、此の辺も、お互い本気で罵り合っているわけではなく、他愛の莫い掛け合い漫才的会話である。

「でもさぁ、奇遇だよねー」

田中が些か興奮気味に、身を乗り出して会話に分け入ってきて、楠木に同意を求める。然し、楠木の返答も待たずに、私の方を向いて、

「こずえちゃんとは、あたし仲好いから。高校入ってから知り合ったんだけどね。ホントに、世の中って狭いよねー」

「まあ、狭いわな。似たような経験だったら俺だって幾らでもあるし」

「そうかー」

「其の子は、此の塾には通っていなかったのね?」

私の質問には楠木が答えた。

「住んでる所が全然違うもん」

「そかそか、其れじゃあしょうがないな――さってと、そろそろ授業始めますかぁ」

五分ぐらい、雑談に割いて仕舞ったが、まあこのくらいは必然である。試験前でなければ、もう少し長く時間を潰していたかも知れない。

楠木の三時間目は、化学を遣って欲しいと云う希望であった。田中に関しては、宿題で潰れて仕舞った最初の一時間分を遣るだけである。取り敢えずは、田中に宿題の続きをさせておいて、楠木の化学を遣れば好いだろう。十分か十五分ぐらい楠木に割いて、其れから田中の授業をする。宿題を遣らせておくのは、時間稼ぎでしかない。

「で、化学だよな? プリントでもあるのか? 其れとも教科書か?」

「あ、ゴメン先生、今日、化学持ってくるの忘れちゃった」

此れだ。此の期に及んで此れである。

「なんだよ、大丈夫なのか? プリント莫しでやるか? 教材ぐらいだったら在るからさ」

「好い、好い。また今度で好いって。数学やろう、数学」

好いと云うなら好いのだろう。まあ、どうせ授業は、試験の前日までびっしり入れてあるのだから、なんとかなると云えばなんとかなる。

「じゃぁ、I とA、どっちが好い? 三角比と数列」

「数列」

「おっけー、じゃあ、プリント進めようか。数列の和のね、最後まで取り敢えず解いちゃいましょう」

「はーい」

流石は試験前である。素直に解き始める。顔付きも普段とは全く違う。熟々(つくづく)即席勤勉少女である。

楠木の方の手が空いたので、私は田中に向き直って、取り敢えずこちらを進めておくことにする。田中の遣っている単元は、数Aの数列の最後の章、漸化式(ぜんかしき)だの帰納法だのの辺りである。証明能力がモロに問われる辺りであり、数学の好き嫌いが思いっ切り明確になる辺りでもある。数学を「言語」として捕らえていない限り、即ち数学の本質を理解していない限りは、思いっ切り手古摺(てこず)る単元である。詰まり、田中には(とて)も荷の重い単元だと云うことだ。

「どう? 解ける?」

「全然ダメっすー! 数学なんか全然わかんないって。説明してよ、先生」

「はいはい、どおれ、どのぐらい出来てるのかなぁ?」

先の時間に遣らせていた分をざっと見て、答えの出ているところをチェックする。簡単な計算問題程度は当然の様に出来ている。そして、軽めの一般項を求める基本問題も、意外としっかり記述出来ている。今まで口(うるさ)く指導してきたことが、ちゃんと生かされている。此の辺りは導出過程の記述が命であるから、其れさえ出来ているなら何も云うことは莫い。計算ミスなどが少しぐらいあっても――もちろん試験では減点なのだが――充分褒めるに値するのである。試験でも、結論が違うぐらいなら、八割ぐらいの部分点が貰える筈だ。

「ふーん、まあまあだね。良く出来てるじゃん」

「え? ほんとっ? やっりー!」

自分が出来るのが意外のようである。そうは云っても、出来ているのは飽く迄「簡単な基本問題」だけであり、其の先となると、問題の式を書き写しただけで全く手付かずになっているものも多い。此れは明白(あからさま)に「解き方の方針が立てられない」のである。基本が出来ているのだから、代表的な問題を一問解いてみせるだけで、程なく解けるようになるだろう。

「じゃあね、此の問題解いてみせるから、よく見とけよ」

「はいっ!」

白板に向かって身を乗り出す田中の表情は、真剣其のものである。集中力で今の楠木に敵う奴はいないが、真剣さと云う点で、此の田中に敵う奴もいないだろう。(なん)(かん)だ云っても、二流公立高校である。馬鹿には出来ない。偏差値にして六十六から六十八ぐらいはある筈である。

一問解き終えて、田中の顔を覗き込んでみると、なんだか情けない顔をしている。

「難しかったか? どこが解らなかった?」

「いや……解るんだけど……一人で出来る自信がないです……」

「そりゃあ」私は軽く笑って、「一回も解いたことが莫ければ出来るわけないだろう。だから、今の遣り方を参考にして、問題解くの。じゃあ……」

そして問題集から、似たような問題を一問択び、

「これやって。解んなくなったら直ぐ云えよ」

「はーい……」

そして不安そうな表情の(まゝ)、田中はペンを執った。私は横から、ノートを窺い、ちゃんと解き進められるかどうかを、凝然(じっ)と観察し始める。

一九九八年(平成十年)、七月、四日、日曜日、先勝。