てんさい! 楠木美羽
里蔵光
高校編
八
案の定、田中のペンは途中で止まったきり、動かなくなった。私が横から覗き込んで居るのが判るので、明白に気を抜いたような様は見せず、必死になんとかしようと苦心しているのだが、然し恐らく、思考は停止して仕舞って居るだろう。
こんなことは珍しいことではない。また、田中に限ったことでもない。大抵の生徒は、此の様な状態に頻繁に陥る。そんな時私は、まず、ぼそりと呟く。
「差をとるんだべ」
此れで天啓を得られるなら苦労はしない。普段から出来の好い生徒なら、此の程度の進言で道を見付ける。然し、田中はそうではない。そんなことは百も承知なのだが、出来る限り少ないヒントで気付いて欲しいから、私はアドバイスを小出しにする。
「先刻のちゃんと聞いてた?」
皮肉ではない。先刻と同じだと、教えているのだ。
「聞いてたけど、わかんないよ」
田中の場合、直ぐに音を上げてくれるから、やり易い。此の時点で下手に解った振りをされて仕舞うと、遠回りをしなければならなくなる。――尤も、そうして自ら苦しんでくれた方が身に付きやすいのだから、此れは一長一短ではある。
「仕方がないな、もう一度先刻の説明するぞ。解んないところはちゃんと訊けよ」
そして、先程の例題をもう一度白板上で解いてみせる。
「え? なんで、なんで?」
説明の途中で田中が横槍を入れる。一度目の時はただ凝然と聞いていただけであったのに、二度目の今は、いちいち「なんで?」と訊いてくる。別に、一度目の時に上の空で聞いていた訳ではない。追い付いていなかっただけである。一度説明を聞き、其れを自分でなぞってみて、そして初めて「解らないところ」が発生する。
例題と同じだと説明された問題が、解けなかった。何処で行き詰まったかは、自分が一番よく判って居るだろう。だから、其処で躓くことの無いように、より注意して二度目の説明を聞く。すると、聞いてても解らないことに気付く。其れが「なんで?」と云う質問として、表出するのだ。つまり、其処が「解らないところ」なのである。
二度目の説明には、一度目の倍ぐらいの時間が掛かった。
「じゃあ、今度こそ、此の問題解いて」
白板に書いた解法は、一文字も消さずに残してある。消さないで好いように、最初から全部入り切るように考えながら書いてある。そして、ペンが止まる度に、私は白板の該当箇所を無言で指し示す。
「あ、そうか」
田中の飲み込みは、好い方だと思う。此れでも解らずに、三度、四度と説明を繰り返すことは、稀ではない。
「おお、解けたじゃん」
なんとか解答に辿り着いた。私は、田中と同時に解き始めて作っておいた自分の解答と見比べる。念の為、此れは問題集の解答と照らし合わせてある。私も頻繁に計算ミスをするからだ。
田中の解は、正解であった。私は赤ペンを取り出して、大きな丸を付けてやる。
「やったー!」
「おっけー、じゃあ、此れと此れと――此処まで遣って」
私は問題集から数問選んで、印を付けた。何れも類似の問題である。
「はーい」
田中が取りかかったのを見届けてから、私は楠木の方を向いた。
楠木が解き終えたプリントを、ざっと見ると、一つの空欄もなくみっしりと解答が書き込まれていた。それらを目で追いながら、暗算で確認すると、たまに計算ミスがある程度で、殆ど合っている。――なにより、どの問題も、正しい経過を辿って解答を導けている。
「すげー、ちゃんと出来てるじゃん」
「まっね」
楠木はプリントを解きながら、こちらを振り向きもせずに、そっけなく答える。彼女の手許を見る。すらすらと解き進めている。其処までの解答も、略合っているようだ。
「すげー」
私は思わず、本心から、嘆息の声を漏らした。
「うるさい! 黙ってて……」
叱られて仕舞った。それだけ真剣なのだろう。私はなんだか、無性に嬉しかった。
今日の二人は、非常に調子が好い。試験前だからというのもあるが、他に授業をしている者がなく、教室の中に私と彼女たちの三人切りであるから、余計な雑音も少なく、自然と目の前の仕事に集中できる所為であろう。普通、二コマ連続や、まして三コマ連続なんかで授業をすれば、講師も生徒も集中力や能率が下がり、迚もダラダラとした時間になって仕舞うものであるが、なぜだろう、此の二人は、今日の此の二人に限っては、決してそんなこともなく、程よい緊張で幾分張り詰めた空気を生成してさえいる。
田中に関しては、これは授業中に休憩の時間を、自発的に、それも頻繁に導入しているからなのだろう。既にノートにはいろいろと意味の解らない落書きが散在している。
然し楠木は、普段ならいざ知らず、今日に限って其の様な「自主休憩」を導入した形跡はない。ずっと只管、集中し続けている。
人間の集中力は三十分が限界である。十五または三十分を区切りに、休憩を挟んだり、または別の作業に切り替えたりしない限り、どんなに頑張っても能率は低下してゆく。――楠木がプリントを解き始めて、そろそろ三十分が経過する。私は、幾分気になって、彼女の解き終えたプリントの答えを確認しながら、楠木の手許をそっと覗き込むようにしてみた。
顔は真剣そのものである。ものすごい勢いで集中しているのが、端に居てよく判る。彼女の緊張が空気中を伝播してくる程である。――然し、矢張りと云うか、手の動きは幾分鈍くなっていた。
「どれ、何処まで行った?」
私は無理にでも休憩を挟む可くして、声を掛ける。解き終えたプリントを机の上でトントンと揃えてから、
「此のプリントに、丸とか付けちゃって好いのかな?」
「好いよ」
私は楠木の目の前で、プリントの採点を始めた。先程目を通しておいたので、何れが合っていて何れが間違っているか、すぐに判る。
丸、丸、丸。正解が続く。
「すげー!」
楠木が思わず歓声を上げた。
「ちょっと、すごくない? あたし、天才?」
「調子に乗るなよ」
そう云いながら私は、恐らく初めての「バツ」を付けた。
「あ、ちょーむかつく」
「むかつかれても困るんだけどさ、まあ、計算ミスだな、此れは」
「まじでぇ? ちょーむかつく! 何やってんだ、あたし! って感じ! ちょーバカくない?」
「てゆうかおまえ、無理して『コギャル言葉』使うなっての。おばさんなんだからさぁ」
「うっわ、ちょむかー! どうせあたしゃ、おばさんですよっ」
突然、背後から背広の裾を引っ張られた。犯人は判りきっている。緩慢な所作で振り向くと、愉快な生き物がクスクス笑いながら、
「せんせ、せんせ、そりゃあんまりだって」
「なんだ、サル。問題解き終わったのか?」
「おわったよー! うひょー!」
最後の「うひょー」に意味はない。
「あぁ、ちょっとだけ待ってて。ちょっとだけ。見直しでもしてて」
そして私は、ちゃっちゃとプリントの採点を済ませた。問題が比較的簡単だったか、或いは楠木が本当に天才になってしまったのか、バツは殆ど無く、あっても計算ミス程度の間違いであった。
そんな中にも、数問だが、殆ど手付かずで空欄の儘になっている問題が在った。調べてみると、全て類似の問題である。
――一回で済むな。
一問説明すれば、残りも解けるだろう。
「此処んとこ、全然出来てないから、説明するね」
そして私は、マーカーを手にとって、白板に向かった。解説は直ぐに済み、試しに次の問題を解かせて見ると、楠木は見事にスラスラと解いてみせた。
「おっけい、じゃあ、残りも片付けちゃって」
そして私は、田中に向き直る。
此の日は斯様な調子で、スムーズに授業を進めることが出来た。
学年末試験まで、残り一週間を切っていた。
二〇〇〇年(平成十二年)、四月、二十三日、日曜日、先負。