てんさい! 楠木美羽

里蔵光

高校編

学年末試験が終わってから、楠木は連続して塾を休んだ。元々春季講習をとっていなかったし、こりゃ次に逢うのは4月の初日かな、と思っていたら、授業のない日にひょっこりと、彼女はやって来た。

一時間目の授業を終えて、生徒を帰し、不図(ふと)教室の入り口を見ると、扉の陰から楠木の顔がぬっと突き出て、

「せんせー!」

私は咄嗟に、自分の手帳を調べて仕舞った。こんな時期に振替が入っている筈も無いのに。

「なんだ、なんだ? 今日は振替えないだろう。どうした」

「テスト返ってきたから、持ってきたの」

楠木は不気味なぐらいにニコニコしながら、答えた。

過去にこんなことは一度も無かった。

「なんだ? 結果が良かったのか?」

「へへへー、まあ、見てみなよ」

そう云って楠木は、如何にも得意気に、数学の答案を取り出して私の目の前に突きつけた。

七十八点だった。

「えっ!」

甚だ失礼なことに、私は心の底から仰天した。今まで、三十点だの、二十点だの、非道いときには十点なんて点数さえ取っていた楠木が……

「なんかの間違いなんじゃないのか?」

思わずそんなことを口走っていた。そうして少しだけ、後悔した。いくらなんでも其れは云い過ぎである。然し楠木は、ケラケラ笑いながら、

「でしょ? そう思うでしょ? あたしも思わず、数学の先生に確認しちゃったもん」

当の本人でさえ信じられない点数であったらしい。

「ちょ、ちょい……よく見せて…………うわ、すげえなホントに」

「先生のおかげだよ」

違う。私の力だけで、こんな奇跡は起こらない。――矢張り、楠木は只者ではなかったと云うことだ。

「……実力だろ、やれば出来るんだよ…………其れにしても凄いな」

一番興奮しているのは、私だったかも知れない。

「此れ、ちと、コピーさせて!」

「好いよ」

私は答案を持って、コピー機まで意味もなく全力で走った。コピーを取っている間も、興奮はなかなか収まらなかった。

――コピーなんか取っても意味ないし。

複写物の使い道なんか全く無い。なんのためにコピーを取っているのか。

――まあ、そのぐらい嬉しかったってことだ。

楠木がそう受け取ってくれれば、其れで好いのだろう。実際私は嬉しかったのだし。

――もう少し大袈裟に喜んでみるかな。

打算が働き出す。

コピーはすぐに終わる。私は原本と複写物を持って、楠木の元まで戻ると、

「此のコピー、永久保存しとくから。記念だからな」

「うん、大事にしてね」

楠木は無邪気に喜んでいる。ちょっとだけ、背徳(うしろめた)いような気分になる。

「じゃあ、あたし帰るね。もうすぐ二時間目でしょ?」

そうだった。今は授業の合間の休み時間なのだ。たった五分だけしかないのだった。

「おう……あ、ちょい待ち、一学期、いつから塾始まるか、判ってる?」

「しらなーい」

私は手帳を取り出して、日付の確認をし、其れを楠木に伝えた。楠木は「またねー」と云って帰り、間もなく始業のベルが教室に響き渡った。

次の生徒は既に来ている筈である。遅刻する生徒が多いとは云っても、ちゃんと時間を守って来る生徒だって、其れなりに居るのだ。私は教室をぐるりと見渡した。担当の生徒は直ぐに見付かった。律義なことに、私が教材を起き放してある机にしっかり座っている。

「おお、いつのまに来てたんだ、気付かなかったぞ」

そんなことを云いながら、私は楠木の答案のコピーをファイルに挟んだ。

「せんせー、おそい」

「わりぃ、わりぃ。じゃあ先ず……」

「宿題でしょ? はい」

小学六年生の小倉佑子が、済まし顔でノートを広げて、宿題の箇所を示した。

「どれ」

私は自分のテキストを開いて、ノートと見比べながら、採点の体制に入る。

「……あれ?」

「なに?」

「此れ違うよ。宿題は、このページだろ? 此れって先週の分じゃないか?」

「うそお! あ、ホントだー。おかしいなぁ」

ノートの先をペラペラと(めく)ってみたが、後は全部白紙である。

「マジで、やってきたの?」

「違うノートにやっちゃったのかも」

此の生徒はなかなか侮れない。以前叱ったときに、俯いて口許を手で押さえながらこっそり欠伸をし、目に涙をたっぷりと溜めてから顔を挙げ、凝然とこちらを見詰めてきたことがある。もう少し巧くやられていたら、と云うか、欠伸無しで涙を流されていたなら、騙されていたかも知れない。小学生と思って軽く見ると、簡単に足下を掬われる。顔色一つ変えずに嘘を突くので、女優に向いているのではないかと、心からそう思う。

私相手では単に「サル扱い」されて仕舞う小倉であるが、他の講師に対しては依然として被り物の猫が有効であるようで、結構可愛がられたりしている。相手が相手なら、充分「優等生」として扱われてもおかしくない程の、演技力なのである。

「ホンマに、やったんか?」

私は間合いを詰めて、小倉の瞳を凝然と覗き込んで、低いトーンで更に追及する。小倉は本気なのか演技なのか、真っ直ぐに私の目を睨み返して、

「ホンマにやってきたってばー!」

此れ以上は水掛け論になって仕舞うだろう。こいつは多分に間抜けなところもあるから、実際に違うノートに解いて置き忘れて来た可能性とて否定は出来ない。一年ほど前、宿題の範囲を小さなメモ帳に記して、其れを机上に置いた(まゝ)帰って仕舞い、閉塾後に其のメモを発見した私が慌てゝ家に電話を入れたなんてこともあるのだ。「サル」の呼称は其れ以来なのである。

「まあいいや、じゃあ、来週持って来いよ。忘れんなや、サル」

「うきー!」

「うきーじゃなくてさ、絶対に忘れずに持ってこいよ!」

「うきうきうききっ!」

女優ではなくて、ワハハ本舗あたりで芸人として売り出した方が好いかも知れない。

来週持って来なかったら、遣らなかったと見做すと云うことで、取り敢えず此の件に関してはお(しま)いにした。そして今日の単元の説明をし、問題を解かせている間、私は暫時席を外して、楠木の答案のコピーを眺めながら、僅かに余韻に浸った。問題用紙が無いから見たところで何も判りゃしないのだけど、眺めているだけでも充分だったし、元より問題が有ったところで、其れを解いてみる気になんかならなかっただろう。

答案に記された赤丸を数えながら、私は思わず、微笑を漏らしていた。

二〇〇〇年(平成十二年)、五月、二十日、土曜日、友引。