てんさい! 楠木美羽
里蔵光
中学編
一
小学校の頃は、私は極々普通の、真面目な女の子でした。まあ、友達と喧しく巫山戯合ったりすることもありましたが、其れでも、大人の云うことは素直に聞いたし、ワルサをするなどは途でもないことで、兎に角人の怒った顔が大嫌いで、いつも、いつも、素直な佳い子でさえ居れば、皆にこにこして居て呉れるので、私は其れだけで満足でした。だから、中学受験をしなさいと母に云われたときにも、たゞ微笑んで首肯くだけだったし、勉強も、すゝんで遣って、鳥渡頭が悪く、算数なんかは苦手でしたが、其れでもそこそこの成績でした。然し、母は中々好い顔をして呉れず、私も其れが精一杯だったので、人知れず悩み、けれど毎日の勉強だけは、欠かさず、ずっと遣って居た御蔭で、なんとか成績は維持して、上がる事も莫かった代わりに、落ちる事もありませんでした。
そして母の決めた中学を云われた通りに受け、自分では到底無理だろうと思って、遊び半分で受けた中学に、何の間違いか合格して仕舞い、母は確かに喜びましたが、私は其の時、厭な、暗い予感がして、素直に喜べなかったのです。母の笑顔も、なんだか、母じゃない様な感じでした。ずっと昔の母は、もっと綺麗だったと記憶してるのですが、何時からか其の美しさも影を潜め、私が小六になる頃には、全く別の、他所のおばさんの様になって仕舞っていて、夜中に一人で、お母さん、あたしのお母さん、帰ってきて、と、枕を抱えて、めそめそ泣いたこともあります。
そんな私も、此の中学に入って、可成変わりました。小学校の時には、クラス中でも受験するのは私を入れてニ、三人で、其れ迄一番仲の好かった子とも、全く遊ぶことも出来ず、悲しい疎外感ばかりが尾き纏って居たのですが、中学では、当然ですが、皆同じ受験期を過ごしてきた人達ばかりで、何と云うこと莫しに、お互い心から打ち解け合え、同じ傷を負った獣が群れる様に、些か屈折気味の者同志、忽ち仲良しになりました。――其の友達の中に、佐々木こずえと云う名の、1年生では最も先生達から目を着けられて居る、所謂問題児と呼ばれる子が居て、私は其の子と、一番の親友になりました。
「あんた、如何やって此処に入学したの?」
一学期の中間試験が返ってきたとき、私の真赤々な答案を覗き込みながら、突然そう、声を掛けて来たので、非道く驚き、振り向くと、長い髪を真紅に染めて、唇に薄桃色の紅を差した、大凡中学一年生とは思えないような風貌の子が、矢鱈ニコニコしながら私の顔を見て居たのです。其の時の点数は、良く覚えていないのですが、確か、三十点くらいだったかと思います。そして、屹度クラスで一番悪い成績なんだと思って、顔を真赤にしながら慌てゝ其の答案を揉みくちゃにして、隠袋に捩じ込んだのですが、すると其の子は、クスクス笑いながら、自分の答案を、何の躊躇いも莫く、私の目の前に突きつけ、そして其れは、僅差ではありましたが、確かに私よりも、悪い点でした。
「このくらいの点とらなきゃ、本物じゃないよね」
何を指して「本物」と云って居るのか、さっぱり解らなかったのですが、同類相哀れむとでも云うのでしょうか、何だか気持ちが、すっと楽になって、思わずにっこりと微笑み返すと、其の子はけらけら笑いながら、「あたし、佐々木こずえ。――こずえでいいよ。如何も、あんた、あたしとおんなじ臭いがするからさ、友達になってあげるよ」と云い、私の肩をぽんぽんぽんぽんと、何遍も、何遍も、叩いて居ました。此の時から、私とこずえは、大親友になったのです。
「授業なんか、出てられねぇよ!」
こずえはよく、そう云っては、授業をサボって、原宿や渋谷で遊んで居た様です。私も二、三度、こずえに尾いて学校を「フケた」りして居たのですが、私は気の小さい方で、いつもびくびくしながら、学校では皆、ちゃんと勉強してるんだとか、授業出ないで、試験は大丈夫だろうかとか、誰かにノート借りなくちゃとか、そんな無粋な心配ばかりして仕舞って、鬱々として愉しめず、如何も、性格的に不向きだった様です。其れに対して、こずえはいつでも、楽しそうにニコニコ笑いながら、軟派してくる莫迦そうな男達の相手をしたり、スカウトと称する怪しげな男を体よくあしらったりして居て、何だか、呆れたような、其れでいて少し羨ましいような、そんな複雑な気持ちでした。
然し期末も間近に近付いた頃、私は何となし、「フケる」のはもう厭だと云いました。――云って仕舞ってから、はっとして、或いはこずえを怒らせて仕舞うのではないかと、可成びくびくして居たのですが、こずえは少し寂しそうな顔をして、小さく一つ、首肯いただけでした。其の時私の中では、うそ、うそ、全部うそ、と云って、こずえにひしと抱き着いて仕舞いたい様な悲しい気持ちと、これで好いの、随分あっさり、云ってのけたじゃない、と云う、些か乾燥した、厭味な気持ちとが綯い交ぜになって居て、実のところ、身動き一つ、発声一つも出来ずに、其の場に立ち尽くして仕舞いました。――そうして其れからは、毎日ちゃんと授業に出て、受験前からずっと通っている塾にも真面目に通い、なんとかしようと焦ってはみたものの、中間試験の直後から其れ迄、こずえのペースにすっかり嵌まり込んで居たので、期末は云うまでもなく、ボロボロでした。例えば英語は、This is a pen. を「これは(一つの)ペンです」と訳すなんて云われても、此の括弧で括ってある「一つの」と云うのは、一体何の為にあるのかとか、日本語として極めておかしい文章のように感じて、何一つ勉強する気にもなれなかったし、数学など何一つ解らず、負の数とか、文字式とか、ちんぷんかんぷんで、英語なんかよりもっと訳の解らない言葉を並べられて、「
然し流石に、お母さんは、私の成績に眉を顰め、「あんまりじゃない、幾ら、実力より上の中学に行ったからって、こんな点数、如何遣ったら取れるのよ! あんた何の為に、塾に行ってるの?」と云って、其れから二、三時間ほど、正座させられた儘、懇々と説教されました。そして、夏休みは、お母さんが付きっ切りで、毎日毎日、英語と数学の勉強をさせられました。――だけど如何なに勉強しても、英語も数学も、無茶苦茶なくらいに量が多いし、抑々根本的になんにも解って居ない状態で 2(x + 3) - 7 = 5 を解けとか云われても、何を如何したものやらちんぷんかんぷんで、問題集の同じページを終日睨んだ切り結局はなんにも出来ないと云う様な毎日でした。特に数学は、お父さんが色々と煩く教えて呉れるのですが、学校より塾より、此のお父さんの授業の方が性が悪くて、解らなかったり間違えたりすると、直ぐに手を上げて、私は毎日ぼこぼこに殴られながら、益々勉強が嫌いになっていきました。
一九九七年(平成九年)、二月、二十三日、日曜日、仏滅。