てんさい! 楠木美羽
里蔵光
中学編
五
カンニングをしました。――いえ、正確には「した」と云うのは誤りなのですが――英単語の小テストで、カンニングペーパーを作って筆箱に入れて置いたのです。私には、全く「悪いことだ」と云う感覚はありませんでした。正不正なんか気にしてる余裕は、私にはありませんでした。兎に角何が何でも佳い点を取らないと、親にしばかれるのです。其れを回避すべく、私は昨晩の内にカンニングペーパーを作っておいて、そうして筆箱に忍ばせていたのです。
問題が配られ、私は思わず北叟笑みました。全部、カンニングペーパーに書いてあるのです。――と、其の時、突然前の席に座って居た川本君が振り返り、「シャーペン借りるよ」と云って、私が返答するより早く、筆箱を開けて仕舞いました。
「あっ!」
「なんだこれ?」
彼が取り出したのは、シャープペンシルではなくて、小さな紙切れでした。
「ダメ! ……ちょっとぉ
私の制止も聞かず、彼は其れを開くと、突然目をカッと見開いて私の顔を見、其れから教壇の上の栗田先生に向き直って、「先生!」
私はもう、全てがどうでもよくなりました。
「楠木がカンニングしようとしてました!」
此の時、全てが音を立てゝ、崩れ去りました。屹度親にも此の事は伝わるのでしょう。私は何の様な仕打ちを受けるのでしょうか。――如何でも良い事です。私は悪くないのです。私の様な出来の悪い子供に、佳い点を要求し続ける親が不可いのです。涙が出掛かり、然し、自尊心が其れを怺えさせました。引き攣った笑を口許に浮かべ、髪を掻き上げながら顔を挙げ、そうして川本を、急度睨み付けました。
「なんだよ」
川本はたじろぎながらも、虚勢を張ります。
「なんだよ!」
私も負けじと、返します。見兼ねた先生が、「楠木、後で職員室に来い」と呆れた口調で云い、川本が勝ち誇ったように、鼻で軽く「ふふん」と笑って前に向き直ると、其の儘何事も莫かったかの様に、試験は始められました。私は何だか無性に不愉快で、答案には巫山戯た落書きばかりして、解るところでさえ何も書かずに、其の儘提出しました。
試験後、級は自習となり、私は職員室へと連れて行かれました。栗田先生は職員室に入ると、自分の席に着き、そうして、私の解答用紙を机上に置いた儘数秒間、黙って私の落書きを凝然と見詰めていましたが、突然、
「say の 活用は?」
私は完全に不意を突かれ、咄嗟に「say - said - said」と答えていました。栗田先生は幽かに微笑み、しかし強い語調で、
「判ってるのに書かないってのは、罪だな――かつは、判ってるのにカンニングか?」
「……それしか知らないもん」
私は極まり悪くて、ぷうっと膨れて他所を向きました。
「eat の活用は?」――「知らない」
「じゃあ、know の活用は?」――「知らない」
「cut」――「知らない」
「read は」――「知らない」
嘘です。全部知っています。然し私は、意地でも正解を云うまいとしていました。次々と否定されていく私のカンニングの必要性を、何としても守り通していきたかったのかも知れません。――実際、カンニングをしなくても、そこそこの点が取れていた様です。なぜ私は、カンニングペーパーなど作ったのでしょう。いえ、昨晩は確かに、何も覚えていませんでした。なのになぜ、今こうして栗田先生に聞かれるものの殆どが、私に解るのでしょう。涙が出そうになって俯き、そうしてもう、何も云えなくなって仕舞いました。その時脳裡に、唐突にこずえの顔が浮かんできて、そうして消えました。
不図眼を挙げると、こずえがドアの隙間から覗き込んでいます。目が合い、彼女は人指し指を口の前に立てたのですが、私は構わず、
「こずえ!」
と、大声を出しました。私が席を立とうとすると、こずえは逃げました。職員室中の視線を集め、栗田先生の制止も聞こえず、私はこずえを追いかけて、学校を飛び出しました。
「こずえ!」
校門を出て直ぐ、私はこずえに追いつきました。こずえは振り向きもせず、「来ないで」と小さく云い、然し直ぐに振返って、私の襟首をむずと掴まえました。
「如何云う心算だよ」
そうして、あっけに取られている私の顔をまじまじと見詰め、ふん、と云って、手を放し、駅の方向へすたすたと歩き始めました。
「あたし……別にカンニングしたくてしたわけじゃ……」
私は変な弁解を始めましたが、こずえは急にケラケラ笑って、
「ばか。カンニングなんか、別に如何でも好いよ。あたしだってしてるもん――たゞ、美羽みたいなへまはしないだけ」
そう云って笑うこずえは、最早昔のこずえに戻っていました。
「あんたの所為で、職員室中の注目集めちゃったじゃない」
「ごめんね――でも、栗田から逃げ出すいい口実だったんだよ」
「栗田ってあいつ、最低だよね」
「だよねぇ」
私達は、そんなことを云い合いながら、駅前まで出てきました。
「あ」
改札を潜りながら、私は鞄を学校に置いた儘であることに気付きました。でも、大したことではないような気もしました。
「如何したの?」
「うゝん、何でも莫いや」
そう云いながら、私は両の手をブラブラと振ってみせました。こずえは微笑んで、「鞄なんか、学校に呉れて遣るよ」なんて云い、そうして笑いました。
私達は電車の中で馬鹿話をしながら、池袋まで出て来たのですが、改札を出て、的もなくブラブラ歩いている間ずっと、こずえは異様なまで言葉少なく、何か云いたげで、然しきっかけが掴めないような、そんな感じでした。私は変に心配になって、こずえの顔をそっと覗き込みながら、恐る恐る尋ねてみました。
「如何したの?」
「うん……別に……」
こずえは天を見上げ、暫く間を置き、そうして、呟く様に、「あいつと、別れた」
私達もいつか、中学三年生になっていました。こずえが初めて私に声をかけた日から、もうすぐ二年が経とうとしています。――此の二年間、私はこずえの涙と云うものを、一度たりとも見たことは莫かったのですが、然し此の日、此の瞬間、確かにこずえの目に、光るものが浮いたのを見ました。
「あ……そうなんだ……」
「ん」
「ごめんね」
こずえは吃驚して私の目を見詰め、「何云ってんの。別に、美羽の所為じゃないよ……ただ、なんて云うかな……飽きたんだ。其れだけ」
私の方が泣きたい気分でした。そうして二人、殆ど言葉も交わさず、景気の悪い顔で、何処へ行くともなく、たゞゝゞ繁華街を彷徨い歩きました。
既に陽も傾ぎ、径往く人の長い影が、すばしこく彼方此方と跳び回り、其の中を私とこずえは、怯える様にして肩を竦めながら、非常にゆっくりしたペースでトボトボと歩いていました。幾らも経たずに陽は沈み、ピンクやブルーや色取り取りの照明が、目障りなほどチカチカ自己主張しているような路地裏まで来たとき、こずえは唐突に云いました。
「あいつ、公立中学なんだ。頭悪いんだよね」
「え?」
私は反論しようとして、やめました。公立の方が頭が悪い、と思い込むことで、こずえのプライドは紙一重で保たれているのです。――私だってそうです。散々苦しい思いをして私立に入って、にも拘わらず受験をしていない公立の中学生にも劣るなどと云うことが、もしも完璧に立証されたとしたなら、私は首を括るかも知れません。――其れは、私の小四からの五年間を完全に否定されることに外ならないのですから。
「そうか……公立じゃ、ダメだね」
然し、そうは云ってみたものの、私はどんな表情をしたら好いのか判りませんでした。只凝然と俯いた儘、こずえと目を合わせないようにしていました。横から、こずえの乾燥した笑いが聞こえてきました。仕方なし、私も笑いました。お互い、何だか、遣りきれない気持ちで一杯でした。
一九九七年(平成九年)、六月、十六日、月曜日、仏滅。