てんさい! 楠木美羽

里蔵光

中学編

「こんな時間にこんなところで、どうしたの?」

振り返ると、二十歳前後くらいの、所謂ストリートダンサーとかの様な風貌の男が、ヘラヘラと笑いながら背後に立っていました。

「――べつにぃ」

こずえが視線も向けずに不機嫌に応対し、其の儘立ち去ろうとすると、別の同じような感じの男が正面に立って、

「女の子が二人っきりでこんなところにいたら、あぶないよ。駅まで送ってくよ」

其の男の優しげな表情が、私の目には非道く不気味に映りました。何だか心臓がどきどき云い出し、思わずこずえの二の腕をぎゅうと握り締めました。

「駅ぐらいちゃんと行けます。大丈夫です」

こずえは正面の男の横を擦り抜けて行こうとしましたが、横に並んだところで肩をぐいと掴まれ、

「美羽逃げて!」

私は殆ど反射的に駆け出しました。大声で喚きちらしながら、大通りまで走りました。怖くて、怖くて、堪りませんでした。こずえはどうなって仕舞うのだろう。そんなことを思いながら、然し振り返るのも恐ろしく、殆ど目を瞑った儘で、訳の解らない叫び声を上げながら、丸で出鱈目に走り回り、何とか大通り迄辿り着くと、そこで一気に力が抜けて、へたへたと腰が砕けて仕舞いました。

暫く其の場に(うずくま)って、ひくひく云いながら泣いていました。頭の中は真っ白で、こずえの名ばかり力弱く呟きながらも、だんだん自分が何故哭いているのかさえ分からなくなっていき、悲しい気持ちばかりが正体なくどんどん大きくなって行って、涙が後から後から溢れ出て、こずえ、こずえと、殆ど無意識的に細く呼び続けていますと、突然正面に誰か人が来て、ポンと肩を優しく叩かれたので、恐る恐る目を挙げると、其れはこずえでした。笑っていました。

「美羽すごいや」

私は真っ赤っ赤に腫らした目で、きょとんとこずえの顔を見挙げました。

「美羽の御蔭で助かったんだよ」

そう云ってこずえは、ケラケラ笑っています。

「なんで? ……あいつら、どうしたの?」

「美羽があんまり大声出して走り回るもんだから、慌てゝ逃げてった。――あたし美羽に、借り作っちゃったね」そう云って猶も笑いながら、「いつまでしゃがみ込んでんだよ! みんな見てるよ。かっこ悪ぅ」

こずえに腕を掴まれて、私は立ち上がりました。道往く人が一々振り返っていきます。私は急に恥ずかしくなって、俯きながら、こずえの背中を押して、早いペースで歩き始めました。不思議なことに、今まで溜まっていたもやもやがなくなり、気持ちが軽くなっていました。大声で叫び、走って、泣いて、厭なもの全部流しきったような、そんな清々しい気分です。

「こずえ……」

何か云おうとして、こずえを見ました。彼女は、なんだか迚も気持ちの好い表情で振り向き、「何?」と云った其の瞳に、最早不吉な陰はありませんでした。何時にも益して、気持ちよく笑っていて、御蔭で私は、何を云おうとしていたか忘れて仕舞うほど、ほっとしました。

「帰ろ」

「うん」

そんな会話を交わすまでもなく、私達は駅へと向かっていました。

駅の雑踏に揉まれながら、私達はずっと笑って居ました。駆け足で通り過ぎる中年の男性、道に迷ってキョロキョロして居るお婆さん、売店でお釣りを渡す若い女の人、五六人でかたまって何やら騒いで居る二十歳前後の若者達、みんななんだか滑稽で、理由もなく可笑しくて、二人でクスクスけたけた笑って居ました。太い柱にされた落書きや、通路の壁に貼られた宣伝ポスター、使用中止になった券売機、羽根を閉じ不正乗車客を閉じ込めた心算でピーピー鳴り響いて居る自動改札機、階段の手摺に貼り付けられて更に上から圧し固められた形でペチャンコに扁平している色褪せたガム、()れも此れも、私達を笑わせてばかり居て、おなかの辺りが痛くさえなって来ました。でも、笑いは止まりません。目にする物、耳にする物、みんな、みんな、可笑しい物ばかりなのです。

「美羽ってば、何がそんなに可笑しいの?」

「こずえこそ、ずーっと笑ってばっかりじゃん!」

そしてお互い、ばんばん叩き合いなどしながら、矢っ張り笑って居ました。

電車の発射ベルと同時に駆け込んで来たサラリーマンが、閉まるドアに鞄を挟まれてつんのめりました。私達は本意でなく大笑いして仕舞い、其の男性にぎろりと睨まれて、

「すみません」

「ごめんなさい……」

と、深々と頭を下げて神妙に謝りました。そしてこずえは私に振り向き、胸元に人指し指を突き立てゝ、眉根に滑稽な皺を寄せて、

「失敬だな、君は」

変に高い声で、そう云いました。私も真似して、こずえの胸元に人指し指を突き、

「失敬だな、君も」

そして二人で、大笑いしました。今日カンニングで捕まったことも、こずえが恋人と別れたことも、池袋で危ない目に遭ったことも、全て遠い過去の事柄のように思われます。其れ等は可笑しいほどにちっぽけな事件であり、今の私達には何等の感慨をも与えません。丸で何かのドラマの中のことのように、其れ等に拘泥することが殊の外莫迦々々しく感ぜられました。そんな幸福感に支配されて、うきうきしている時、

「美羽、高校其の儘上に行く?」

突然こずえがまじめな顔をして、低いか細い声で訊いてきたので、私は気を削がれた形になり、幾分戸惑い気味に「うん……なんで?」と、恐る恐る彼女の瞳を覗き込みました。

「あたしね、外部受験するんだ――公立行くの」

刹那、呼吸が止まりました。(つばき)をごくんと飲み込み、そうして殆ど混乱状態の頭で、「なんで? なんで公立なんか……何もしなくても、上の高校行けるんだよ。行けない奴なんて居ないんだよ。――大体こずえだって、内申の三年間の平均とっちゃえば、そんなに悪くないのに! なんで上に行かないの!?

なんだか私は怒って居るみたいでした。こずえは寂しげにふっと息をつくと、

「内申がどうとかじゃないよ。だって、うちの学校ってさ、殆ど文系の為の学校じゃん。あたし、理系に進みたいんだ」

「だったら私立の方がよっぽどよくない? 理系の私立なんていっぱい在るじゃん。なんで公立なんだよお!」

「そんなお金莫いし」

こずえは薄く微笑み、なんとも形容のし難い複雑な瞳で、私の顔を凝然と見挙げました。何だか、今までの楽しい気分がどこかに吹っ飛んでいました。今日の出来事が一つ一つ判然と心に甦り、そうして私は、云っては不可(いけな)いことを口にしました。

「あの男と同じ高校に行くの?」

こずえが凄まじい形相で私を睨みました。私はその眼に、確かに涙を見て取りました。然し私の理性は既に吹き飛び、口を噤むことが出来ません。

「矢っ張りそうなんだ! やめなよこずえ、あいつ、ろくな奴じゃないよ! 体が目当てなんだよ! 屹度他にも女が……」

ぱちんと云う高い音がして、私の左の頬が真っ赤に染まりました。流石にそこで私は默りましたが、眼は凝然とこずえを睨み付けていました。

「あたしの人生に口出ししないで!」

こずえが云ったのは、唯其の一言だけでした。

一九九七年(平成九年)、十月、六日、月曜日、先勝。