光の百物語
予告編
里蔵 光
新月の闇夜に、高尾の山道を、一人の罪人が、蹌々踉々と歩いていた。ボロボロの外套を羽織り、右手には焼酎の瓶持ちて、時々、ばかやろう、なんて、喚きながら、ただ、的も莫く。
彼――功多には、夢があった。然し今、夢は潰えた。夢の莫き今、最早功多に、生く可術は莫いのである。彼は此処へ、死ぬ為に来たのだ。
天頂に、一際明るい星がある。功多は其れを見付け、不図、歩みを止めた。
「あれは……」
彼は星座には詳しかったのだが、其の星がなんであるのか、特定する事が出来なかった。未だ嘗て見た事も莫い星であった。明るさは、こと座のベガ程もあろうか、然し、ベガが天頂付近に来るのは、夏である。今は冬である。ぎょしゃ座が、近くにある。あんな所に、あんな星が、在ろう筈もなかった。
功多があっけに取られて、其の星に見入って居ると、気の所為か、其が少しずつ、大きく、明るくなってくる気がした。
「――停止流星!」
功多は走り出した。自分に向かって落ちてくる火球から、少しでも離れようと、遠くへ逃げようと、唯闇雲に走った。自分が此処へ、自殺しに来た事などすっかり忘れて、唯々、只管に走り続けた。
頭上で、大きな爆音が轟いた。木々のざわめきが聞こえた。目の前が、ぱあっと明るくなり、功多は、自分の躯が宙に浮いた様な気がした。――其の刹那。
どおん!
火球の落ちた筈の場所には、人一人分程の真っ黒な穴が、ぽっかりと開いて居た。功多の姿も、火球も欠片も、何も莫く、森はひっそりと、静まり返った。
功多は眼を開けるのが怖かった。自分は、火球に当ったのだ、其れ故、屹度、死んだのだ。そんな気がして、死ぬのは一向に構わないのだが、然し、自分の周囲に展開しているであろう黄泉の世界を、其の眼で確と見、肯定する勇気が、中々でない。
「――た――こう――た」
はっとした。誰かが、自分の名を呼ぶ。其の声は、初めて聞く声であるのに、何故だか懐かしい。
「こうた――滝口、功多。――なん――お――いを――」
「誰だ!」
堪らず、応える。
「汝の、――こない――に――せよ」
誰か知らぬ何者かが、自分に何かを命令する。命令されるのは、嫌いである。
「――じの、行いを、――」
「誰だ、誰だ、誰だ! 俺に何の用だ!」
思わず、かっと眼を見開くと、其処には、真っ白な衣をまとった、美しい女人が居た。
「……天衣……無縫……」
正に天衣を纏って居る。何だか不思議な心持ちで、辺りを見渡すと、其処は上も下もない、光の海だった。可成面食らって、思わず正面の女性を、凝然と見詰める。――矢張り、初めて見る顔である。
「汝の行いを、此処に、告白せよ」
其の声は、矢張り何処か、懐かしい響きを持って居る。
「誰だ、あんたは」
「私は、琴弾きオルフェウスの妻、エウリディケ」
「なんだって?」
エウリディケとは、ギリシャ神話に出て来る、蛇に噛まれて他界した女性である。確か、悲しみにくれたオルフェウスが、冥界へ行って、彼女を連れ帰ろうと計画したが、あと少しの所で、叶わず、結局彼女は、冥界へと連れ戻された筈である。
「そうか、……此処は、冥界なんだった……」
「汝の行いを、此処に、告白せよ」
「やだなあ、あんた、高々琴弾きの妻だろう? なんだって、地獄の一丁目で、門番なんかしてるんだよ……ケルベロスは、どうした? ――食っちまったのか?」
「此処は、地獄ではありません。あなたは、未だ、死んでいないのです。――汝の……」
功多はエウリディケの言葉を遮り、「あんたは死んだんだ。――忘れたのかい? 地上迄あと一歩の所で、オルフェウスがあんたの方を振り向いたろう。其れで、あんたは、生き返るたった一度のチャンスをなくしてしまったんだ。あんたは、死人なんだよ!」
「汝の――」
エウリディケは、功多に構わず、繰り返す。
――死んでないってのか? 如何云う事だ……じゃあ此処は、一体何処なんだ……だいたい、俺の行いを告白しろって……
功多が中々答えないと見て取ると、エウリディケは、質問を変えた。
「何か、物語をしなさい。あなたは罪人です。此処で、百の物語をしなさい。百話目が終わったとき、あなたは許され、元の世界に還る事が出来ます」
――よせよ、アラビアンナイトじゃねぇんだ、だいたい俺に、百もの物語が出来るものか……
「百の物語を……」
エウリディケは、決して退かなかった。功多は、創作の自信はなかったが、創作が好きではある。其れで、観念して始めることにした。
「分かった。やるよ。唯、時間はたっぷりくれ。……なにしろ、百ともなると、尋常じゃないんでね……」
「此の国の存続する限り、時間を与えます。此の国の存続する内に、百物語をしなさい」
「此の国? ……此処は、何時まで存続するんだ?」
エウリディケは、幽かに微笑み、唯一言、「さあ」とだけ云った。
(つゞく)
96/10/31 02:09