百の壱
コップ座のいわれ

里蔵 光

あなたは、コップ座と云うのを、ご存じですか? まあ、あなたも、在る意味八十八星座の関係者だ、知らぬ事はないのでしょうが、一応云っておきますと、コップ座は、からす座と並んで、うみへび座の胴の上にちょこんと乗っかって居る、小さな目立たない星座です。此の星座、あなた方のギリシャ神話では、何だかの祝杯だかなんだか……兎に角、矢鱈豪勢で、贅沢な盃らしいが、其れはとんだ大間違い。僕は知っているのです。あれは、日本の、猪口なのです。

星の並びを、よく御覧なさい。半球型の盃のしたに、円筒形の「脚」が付いて居るでしょう? あれはまさしく、猪口に外なりません。――では何故、そんな「猪口」如きが、星座になどなれたのか……其れを此れから、お話してあげようと云うのです。

 

昔――大昔です。日本に未だ、天皇さえ存在しなかった程の大昔。然し、耕作は既に始まって居たくらい昔。耕作が始まっていたのだから、当然お酒も有りました。唯、清酒ではなくて、濁り酒でした。毎日野良仕事に精を出す男達は、夜になるときまって、其の濁り酒で晩酌をしていました。但し、コップも猪口もない当時、瓢箪の中を()()いた容器に、直接口を付けて、ラッパ飲みをして居たそうです。

其の晩も、彼は一人で、瓢箪の酒を、がぶがぶと呑んでいました。30と云えば、今も昔も、「いい年」です。そんな「いい年」をして、彼には、妻がありませんでした。半分、其の為の自棄酒です。浴びるように呑んで、死んだように眠る。其れが彼の、日常でした。

彼にも、意中の人は居ます。其の相手は、15も年の離れた、若い娘です。何時も遠くから、彼女を見詰めて居るばかりで、会話を交わしたことすらありません。自分には不釣合いだ、と云う退け目をすら、持って居た様です。其れでも、恋しいのです。彼女には、もっと若く、逞しい男が似合っているとは思えど、恋心と云う奴は、そんな建前とは無関係に、日々どんどんと、肥大していくのみです。然し、彼にも理性はあります。己のそんな、もやもやした想いを押さえ込む()く、毎晩毎晩、酒を浴びる程呑んで、死んだ様に眠るのです。

然し、其の日に限って彼は、何だか云い様のない胸騒ぎがして、酒を飲んでも一向に鎮まる気配も莫く、寧ろどんどん非道くなってきて、胸がどきんどきんと烈しく鳴り、遂に堪えきれず、がばと跳ね上がり、(ねぐら)を飛び出して、新月の闇の中を、一目散に駆け出しました。――何処へ向かったのかって? 極って居るじゃないですか!

途々、彼の心の中に、微かな理性が顔を出したりしていましたが、彼は其れを、完全に無視し続けました。今宵を逃せば、チャンスは莫い。今宵を逃せば、二度と彼女に、逢えなくなる。そんな、脅迫観念みたようなものが、彼の脚をフル回転させて居ました。彼女を、此の手に、彼女を、此の手に……

(いず)れ、彼女の寝床の前まで辿り着いたとき、既に彼の理性は、跡形も莫く亡び去っていました。今彼の頭にあることは、如何(いか)にして、家人に気付かれずに、彼女を(さら)うことが出来るか、と云う、唯其の一事だけです。彼は抜き足差し足、彼女の足元まで進むと、其処で大きく、息を突きました。(さて)(いよいよ)だ。今宵此の娘は、自分のモノとなる。夢に迄見た瞬間が、今、手中にあるのだ。そうして彼は、そっと腕を延べ、彼女の躯を、優しく抱き上げました。彼女は少し呻いたきりで、目を覚まさないのを見て取ると、再び抜き足差し足、遠く山の中迄彼女を運び、そして、ふかふかの落ち葉の上に、そっと横たえました。

「あゝ、夢にまで見た、此の刹那よ……」

そう、低く呟くと、丸で獣の様に、彼女の躯に抱きつきました。

 

翌日、彼女の家族は、大騒ぎでした。当日に結婚を控えた娘が、突然、居なくなったのです。家人達は、方々探し回りました。然し時、既に遅く、娘と其れを掠った男とは、遠い遠い安房の地へと、落ち延びていたのです。

彼女も既に観念し、此の男と、行く所まで行って仕舞おうと、腹を括っていました。そんな彼女の唯一の懸念は、良人の酒呑みです。(かつ)ての習慣から、彼は、毎晩途でもない量の酒を呑みました。然し、駆落ち同然の二人が、そんなに裕福である筈もなく、直ぐに家計は火を噴きだし、遣り繰りする妻は、苦労が絶えませんでした。

そんなある日、彼女は、館山の海岸に、小さな猪口の落ちているのを、発見しました。直ぐに彼女は、閃いて、其の猪口を拾うと、蛤や海藻を採るのを止め、今夜の食料よりも其の猪口を大事に握りしめて、一目散に家路を駆けて行きました。

其の晩も、狩から帰った良人は、早速酒をせびり出しました。然し、今宵の彼女は、何だか妙に嬉しそうに、瓢箪の徳利を持ってきます。

「何だい、何か好いことでも、あったのか?」

「いいえ」

そんな返事をしながらも、美しい微笑みを絶やしません。良人は不思議そうに其れを見詰めながら、「まあいい、其の、酒をよこせ」と、催促します。

「えゝ、差し上げますとも、でも、其の前に、私の頼み事を、たった一つで好いですから、叶えてくれると仰有ってください」

「何だ?」訝しげに、妻の顔を見上げます。

「仰有って下さらないと、お酒は、差し上げられません」

妻が徳利を下げようとするので、良人は慌てゝ、

「わかった、わかった、何でも、云いなさい、何でも、叶えてあげる。但し、一つだけだぞ」

妻は嬉しそうに、後手にかくして居た猪口を、良人の目の前に突き出すと、「今日から此れで、お酒を呑んでくださいな」

良人は稍躊躇して居ましたが、其れを叶えぬと酒を呑ませて貰えそうになく、また、面倒臭くはあるが、何で呑もうと酒が呑めることに変わりは莫いので、渋々ながらも、承知しました。

扨、今宵もこうして、晩酌が始まったのですが、何だかいつもほど呑んでいないのに、今夜に限って、妙に酒の回りが早い様な気がします。おかしい、おかしい、と、何度も首を傾げながら、小さな猪口でちびちびと呑んでいたのですが、普段の半分も呑まぬ内に、すっかり酔いが回って、いつのまにやら、良人は大鼾をかきながら、眠りこけていました。――此の日から、良人の酒の量は激減し、家計も何とか、持ち直したそうです。

 

此の経緯(いきさつ)を、天上のイザナミは、興味を持って眺めていました。と、云うのも、彼女の良人のイザナギも、相当の酒呑みで、ほとほと困り果てゝ居た矢先だったからです。彼女も猪口を使って、良人の酒の量を減らしたいと思い、猪口を探しましたが、中々見つかりません。其処でイザナミは、天の星々を掻き集めて、猪口を作りました。我々人間の目からすれば、其れは大層大きな猪口でしたが、然し天上の住人である彼等にとっては、其れが丁度好い大きさでした。――此の時已来、イザナギの酒の量も、激減したと云います……

 

 

――こんなので、良かったんだろうか。我ながら、嘘八百の物語だな……然し、エウリディケには、此れくらいで丁度好い様だ……意外と、喜んでいるようだし……

(つゞく)

96/10/31 (木) 02:08