百の貳
特殊相対論

里蔵 光

今日は何か変だ。何から何まで、変てこだ。何だか知らぬが、日常の世界ではない。此処は、別宇宙なのだろうか……

私の歩いて行く前方には、何だか大きな光の塊が有る。其の塊は、常に私の前方にある。ぴたと足を止めると、其れは忽ち掻き消える。向きを変え、別の方向へ歩き出せば、また現れる。――然し、決して追いつけない。

走る。すると、其の光の塊は、どんどんと小さくなって行く。其の周囲、少し間を置いた所に、円形のぼけた虹がある。歩速を早めれば、其れは真ん中の光球と共に、次第に直径を縮めていく。歩きながら後ろを振り返れば、其処には巨大な円形の闇が、ぽっかりと口を開けている。走れば走るほど、其れはどんどんと肥大し、私を飲み込もうとする。其処でまた、足を止めると、瞬く間に其の闇は消える。そっと歩くと、背後の景色は明るさを失いながら、四方八方にぐんと拡がり、前方の景色は、青く、明るくなりながら、ぐんと縮小し、側面の景色は其れにつれて、赤方偏位しつゝ前方へと移動する。――全く、おかしな事になったものである。

嘗て、特殊相対性理論と云うのを、かじったことがある。スターボウと云う物も、聞いたことがある。……其の現象に酷似している。光速が、驚くほどに小さくなって居る様だ……

スターボウとは、近光速で運動したときに見ることが出来る、幻想的な虹である。

近光速で運動すると、周囲の景色は、光路差のために、前方へと移動する。また、同時に、ドップラー効果により、青方偏位する。ドップラー効果とは、救急車とすれ違う瞬間、サイレンの音が低く変わる、あの現象のことだ。波の発信元に対して、向かっていくと、其の波長は、本来のものよりも短くなり、音なら高く、光なら青くなる。また、発信元に対して、遠ざかるように進むと、波長は長くなり、音なら低く、光なら赤くなる。歩いて行く前方は、波長が短くなり、青くなるのだが、青方偏位が進むと、其の波長は可視光の領域から外れ、紫外線になり、見えなくなる。但し、そのかわり、今まで長すぎて可視光の領域に入っていなかった、赤外線、熱線、マイクロ波、ミリ波、電波と云ったものさえ、青方偏位で可視光になり、更に其のエネルギーが増幅しているので明るくなって、前方には丸い大きな光の塊が出来る。逆に後方から来る光は、赤方偏位で波長が長く延び、遂には赤外線になり、熱線になり、見えなくなってしまう。其の代わりに、元々紫外線やガンマ線だったものは、逆に可視光の領域に入り、今まで見えなかったものが突然見え出す。――だが、波長の引き伸ばされた光は、其の分エネルギーも減少して居て、暗くなっているので、結果的に後方からは何も見えず、暗黒の穴になる。

前方で青方偏位、後方で赤方偏位ということは、側面から来る光は、其の方角によって少しずつ違った波長変化をする。つまり、波長の移動によって、赤くなるものから青くなるものまでが、連続的な色彩の帯を作り、進行方向を中心として、紫、藍、青、緑、黄、橙、赤、と云った、同心円状の虹を作るのだが、綺麗な境目のある虹は、周囲から来る光が単色光の時にしか見えず、現状の様な連続光の場合、其の境目はぼやけ、何だか遣る気の莫い様な虹しか見えない。

光速が小さくなった事のもう一つの証明は、歩く早さをあげると、矢鱈と体が重く、中々スピードを上げるのが大仕事であるということ。更に、私の時計が、有楽町マリオンの時計よりも、遙かに遅れているということ。元々、今日の 2時に時計を合わせたのだが、私の時計では1時間しか経って居ない筈なのに、マリオンの絡繰時計は、既に3時を廻っている。足を止めて時計を見比べている分には、誤差は全くと云って好いほど莫い。10分程凝然としてカウントしてみたが、1秒の誤差も莫いように思われる。然し、ちょっと歩き回って、戻ってくると、既に大きな狂いを生じている。

β=v/c, γ=1/SQR(1-β^2)

の時、

M=γm, T=γ^(-1) t

と云う関係がある。つまり速度(v)が増すにつれて、質量(M)は大きく、時間(T)は遅くなるのだ。本来なら、c = 3.0x10^8 [m/s] なので、其の効果は日常生活からは知覚できない程小さいものであるのに、現に私の周りでは、其れ等「特殊相対論」の効果が、知覚できる。

 

不意に私は、走ってみたくなった。重い体を賢明に加速し、兎に角走り回った。唯々闇雲に、走り続けた。こうすることで、私は、遙かな未来へと行けることに気付いたのだ。

ずっと、ずっと、走っていた。足が棒の様になろうが、腹が減ろうが、ずっとずっと走り続けた。周りの景色は殆どが前方へと吹き飛び、何処を如何走っているのか、見当もつかないが、兎に角私は、まっすぐに走り続けた。

前方の光球が、不意に明るさを増し、元々眩しくて直視できないでいたのが、更に其の輝きを強め、私は目をつぶった。――異様に暑い。走り続けているからではない。そんな火照りとは比較にならないほど、熱い。苦しい。体が焼けるようだ。――私は足を止めた。目の前は火の海だった。

 

私は走りすぎた。光速の何パーセントで走ったのか、見当もつかないが、兎に角、未来へ来すぎたようだ。火の海は、太陽である。其の寿命を間近に控え、ほぼ地球の軌道にまで膨張した、我々の母なる太陽の、成れの果てである。私は、其の、赤色巨星と化した太陽に、一瞬にして焼き尽くされた……

(つゞく)

96/11/01 (金) 04:23