百の参
からす座

里蔵 光

北半球から見た場合、コップ座のちょい左、矢張りうみへび座の尻尾の上に、カラスがいます。あなた方のギリシャ神話では、このカラスは元々銀の羽根を持って居て、人語を話し、然し嘘ばかり突くので、言葉を奪われ、銀の羽根も奪われ、見せしめとして天に張りつけられたとか云ってますが、此れは大間違いです。あれは唯の、真っ黒なカラスです。銀の羽根など、(とん)でもない! 元々も何も、カラスの羽根は、黒です。黒に極って居ます。

 

何故に、カラス如きが、星座になれたのか。……あなた方の神話では、褒美も星座、罰も星座、甚だ、好い加減に過ぎるようですが、本当のところ、星座になるのに、褒美も罰もありゃしません。星座になるのに、大した理由なんかないのです。

 

あのカラスは、野性の、冒険心の強いカラスでした。いつか屹度、此の世界の隅から隅まで、探検して遣ろうと、常々考えて、胸を膨らませて居ました。仲間達からは、変り種として、多少敬遠されて居た様ですが、彼にとって、そんなことは、微々たるものでした。――否寧ろ、彼としては、斯様な冒険心を持たぬ平々凡々なカラス達を、軽蔑さえして居た様です。

「なんて勿体ない。此の羽根を、此の、天から授かった羽根を、冒険に使おうとも思わず、唯(いたずら)に、無味乾燥な日常に埋もれさせ、腐らせて行くとは……罰当たりめが!」

真逆、其のカラスがそう、口を利いた訳ではないのですが、然し、カラス心に、恐らくそんなことを思い、自ら彼等との交わりを避けていたような節は、なきにしもあらずです。

 

或る日、突然、時は訪れました。何の脈絡もなく、彼は、旅に出ました。――元々旅とは、そうしたものの様です。脈絡のある旅は、旅ではありません。或る日突然、思い立ち、計画も何も莫く、鞄一つで、鉄道に乗り込む、其れこそが、本来の旅のあるべき形なのでしょう。

彼は、南へと向かいました。元々上野の山を出たので、陸地がなくなるまで、左程の時間は要しませんでした。

海の上をずっと飛んで行きながら、彼は、カラス心に、「詰まらん」とか、思っていました。何れ、彼の目は、頭上へと移っていました。折しも月夜。目映いばかりの月光と、許多の星達が、彼を手招きする様です。彼は、此処で、目標を変えました。真上へ上がって行くのは辛そうなので、取り敢えず、南方の、何やら小さな十字架の様な星の並びを、当面の目標に掲げました。

「あそこまで行こう」

そして、其れから何時間も、何日も、何ヶ月も、彼は其の方向を目指しました。星が移ろう度に、彼の行路は蛇行します。昼には、昨夜の記憶を頼りに、ずっと南西の方角へと飛んでいきますが、何れまた夜になると、その方に目標の星はなく、ほぼ真横ぐらいの、南東の方角に、十字は移って居ます。其の度に彼は、面食らって、大きく弧を描き、行路を修正するのですが、然しまた、明け方頃には、知らず知らず南西を向き、宵には再び、面食らいます。――そんなことを、一体、何年間続けていたのでしょう。何時しか彼には、昼夜の区別などなくなっていました。空気が薄い気もしましたが、どうでも好いことでした。何時しか、呼吸が出来なくなって居ましたが、別段苦しくもありませんでした。絶対3度(摂氏マイナス 270 度)の気温は、少々肌寒いくらいでしたが、然し、羽搏(はゞたき)き続けて、火照った体には、丁度好いくらいでした。

 

何れ、南の十字が、どんどん大きくなってきました。近づいている証です。彼は羽搏きを休めましたが、然し、慣性の法則によって、彼の体は、変わらぬスピードで、ずっと飛んで居ます。羽を休めたら、眠気が出てきて、何時しか彼は、等速直線運動をした儘、睡りに就いて居ました。

――どれほど飛んだのでしょう。突然、彼の体に衝撃が走りました。

「――!?

目を挙げると、其処には、真っ黒な壁がありました。其の壁に、蛍光塗料で、小さな点や大きな点が、無数に描いてありました。

「終点か――」

彼は疲労の為か、再び目を閉じると、最早二度と、目を開くことはありませんでした。

 

彼は知っていたでしょうか。僅かな行路の誤差から、南十字星の稍北側、うみへびの直ぐ上に、彼は着いて居たのです。

暫くして、彼の躯から、何か、キラキラする物が染み出てきて、真っ黒な壁と、彼の躯とを、そっと輝かせます。其れは、周りの星々の光に比べると、稍弱々しくもありましたが、然し、何よりも美しく、輝いています。

 

春の夜、北斗七星の柄杓の柄からずっと弧を描き、明るい星を二つ、アークトゥルス、スピカ、と経て、そのまま延長すると、ちょっと(いびつ)な、小さな四角形の星座に突き当たります。其れが、我らの、からす座です。永い旅を終え、静かに眠り続けているカラスが、あなたの目を釘付けにさせる事でしょう。

(つゞく)

96/11/02 (土) 01:48