百の拾貳
酔版モンキーズ列伝 頑張れ1号!
里蔵 光
先週の土曜日、例によってモンキーズ1号の振替授業があった。そして例によって、1号は定刻を過ぎても現れなかった。家に電話すると、もう出ました、と云う。ならば、と思い、待っていたのだが、幾ら待っても、彼女は現れない。
其の後も授業はある。私は何となく腹立たしい様な、そして同時に、何か判らぬ不安感を抱きながら、其の後の授業をこなした。
九時。全ての授業が終り、私は受話器を取った。
「……今日の授業に来られなかったのですが……」
母親が、ええ? と云った。そんな気は、して居た。1号が呼び出され、電話口に出た。
「どうした」
「すみません……」
どうも、様子がおかしいのである。元々、故意に無断欠席をしたことは、一度も莫かった、其の1号が、此の日に限って、親を欺いて迄、サボりを敢行したのだ。私は、怒るどころではなく、能わん限りの静かな口調で、問いただしてみた。すると、
「もう、数学遣りたくない」
そんなことを云う。然し、高校には通いたい。無茶な注文である。
「あのな、高校辞めたくないなら、数学は遣らなきゃならないんだよ。数学やらないで、単位貰えるわけないんだから」
「でも……」
どうも煮えきらぬ。何があったのかは知らぬが、然し、何も期末直前にこんなことを云い出さなくてもよかろうに。
私は、電話では埒があかないなと思った。
「取り敢えず、次の月曜は、ちゃんと来いよ」
「行きたくない……」
「ちょっと待て――塾の月謝って、誰が払ってんだ? 自分で払ってんじゃないんだぞ、親に払って貰ってんだぞ――其れを御前は、勝手にサボったんだ。好いか――御前は、塾に『通わせてもらってる』んだ」
「……はい」
「ちゃんと来いよ!」
渋々ながらも、必ず来るという約束をさせて、其の日は電話を切った。
私は、其れ迄の授業を顧みて、反省せざるを得なかった。世に云うところの、詰め込み授業になっていたのだ。此れは到底私のスタイルではない。1号が数学に対して嫌悪に近いものを抱いて居た事は、以前から解って居た。其の為に、中間試験の直後の授業では、教科書を使わず、数学の神秘性に触れ、興味を喚起しようと試みたのだが、然し翌週の授業では、既に「期末対策」になって居た。――定期試験の成績が中々上がってこないので、焦って居たのだ。此れが「詰まらない」と云う印象を与えた直接の因であろう。未だ未だ1年生である。受験まで後2年も残って居る。試験も大切だが、もっと大切なもの――数学に対する誤解を解くと云う事。文系に進んで、数学を使わない大学受験をするのは勝手だが、此の儘数学に嫌悪感を抱いて居ては、彼女の世間を狭くするだけである。私は、次からの授業で何を遣って行くか、月曜迄の2日間は、仮令呑み会の最中であっても、莫迦騒ぎをして事務の女の娘の顰蹙を買って居ても、酔い潰れてのびていても、麻雀の場が立たず、友人と愚痴を零しながら、彼の家への道をフラフラと歩いて居る時でも、其の事ばかり、考えて居た。
月曜、私は待って居た。定刻になっても、1号は現れなかった。
「1号は、中学生の時も、無断欠席とかしてましたか?」
「してないよ。あの頃は、目標があったからね。――そういえばあいつ、スクールメイツはどうなったの?」
私は、はっとした。此の瞬間まで、其れを忘れて居た。
「さあ……もう、2次審査は終わってると思いますが……どうせ無理でしょう。1次は、誰でも受かると思いますけどね」
「そうかぁ?」
と云って、彼は笑った。そして、「来させたいんだったら、小言は云わないことだね」と、ぽつりと云った。私は無言で、苦笑した。
抑1号は、此処の所「ダンサー」になりたいと云って居た。其れ自体は、私は反対しない。然し、親をはじめ、彼女の周囲の大人たちは、悉く其れに反対して居る様であり、其れも解らないではない。彼女の母親の推察通り、只単に勉強から逃れる為の口実なのであろう。然し、私は敢えて、反対していなかった。其れは別に、理解ある大人になろうと云う吝嗇臭い考えからではない。
彼女は、スクールメイツではないが、或るオーディションに応募していて、1次審査を通過して居た。其れは別に、凄いことでも何でもない。元々一般受けしそうなルックスの上に、応募する写真を見せて貰ったところ、中々写真写りが好いので、1次くらいは通るだろうと思って居た。そして、予想通りに通った。然し私は、2次に通るとまでは思っていなかったので、1次通過の通知を手に喜ぶ彼女に、励ましの言葉さえ掛けて居た。――私の思惑はこうだったのである。彼女が突発的にダンサーになりたいと云ったのは、気分屋の1号のことだから、屹度本意ではなく、矢張り学業からの逃避であろう。然し、頭ごなしに否定したところで、此の位の年齢の子と云うのは、却って反発するばかりで、逆効果であろう。事実、周りの反対が強まるに連れて、愈自分には此の途しか莫いのだと云う考えが、彼女の行動を盲目的にして居た。だから私は、2次で撥ねられて貰うことにしたのだ。応募には恐らく、真剣に自分の人生として其の途を選び、ほぼ命懸けでオーディションに臨む者が、全国から集まって来るであろう。元々心から其の途を熱望して居た訳ではなく、唯の反抗心からの応募と云う、甚だ好い加減な気持ちの1号が勝ち残れる程、甘い世界ではない筈である。更に、彼女は非常に気が弱く、オーディション会場の様な場で、真面に応対できる筈もない。だから、
私は、最後まで待ち続けるつもりで、凝然と待って居た。そして、始業から
「おう! 来たか!」
普段なら、遅い、と云って、叱り飛ばすところである。
「待ってたよ」
「ごめんなさい」
あと
(つゞく)
96/12/12 (木) 03:23