百の拾参
酔版モンキーズ列伝 頑張れ1号!(2)
里蔵 光
「ダンスの二次審査は、如何だった?」
「行きませんでした」
おや? と、思った。あれほど熱望して居た癖に、随分あっさりと、云いのけやがる。
「何で?」
「橋本先生(個別教室の室長)に、此処でオーディションに行ったら、其処から御前の人生が狂っちゃうんだぞって云われたし、親にも、絶対行くなって云われたし……」
私は胸の内で、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑った。室長は1号を過大評価して居る様である。審査に通る訳が莫い。其れは恐らく、私が一番好く判って居たのであろう。前にも述べたが、1号が二次で落ちる確率は、きっかり「
其れから1号は、愚痴ばかり云って居た。其の殆どが親に対するものであり、典型的な反抗期の症状であった。
「反抗期だな……」
と、私が云うと、違うと云う。
「ホントに、家の親は、非道いんです! ダンサーになりたいって云っても、殆ど聞く耳もたないで、何云ってんの、の、一言で終わっちゃうんですよ。――それから、長電話すると凄く怒って、電話線引っこ抜いちゃうんだから」
そんな様な事を、拳を強く握って、懸命に愚痴る。未だ未だ子供である。所詮、高校1年生、高校受験でむちゃくちゃ頑張って――つまり無理して――実力より高めの高校に入って、そして忽ち尾いて行けなくなり、猛勉強に対する反動で勉強嫌いになって、親を呪い、学問を呪い、此処まで堕ちて仕舞ったのだ。高校受験は私が世話した訳ではないし、親の過度の期待と云うものも、確かに或る意味「毒」であるが、然し、私も一人の塾講師として、責任を感じないではない。そして何より、私の長い講師としての血が、此の生徒を放って置けなくして居る。
私は白板に、徐ろに三つの言葉を書いた。1号は私の書くのに合わせて、一つ一つ声に出して読んでいった。
「努力――誠意――忍耐」
私はペンを置き、こう云った。
「好いか、此の三つは、仮令如何な途を進むにしても、必ず重要になってくる事だ。――そして、御前は此の内の一つとして、真面に身につけてはいない」
半分は、自分に対する言葉である。私は此の三つを、常に目標にして生きて行こうと考えて居るのだが、然し、此れが中々、難しい。
1号は間髪入れずに、「莫いですね」と、苦笑しながら云った。然し、少し間を置いて、「誠意は、……少しはある」等とのたまう。
「あるか? 親に対して、此れがあるか?」
「――莫いです」
親は大事にしろ。此れは、私が高校生の時分から、自分に云い聞かせ、好き勝手遣ってる脛齧りに説教してきた言葉である。然し其の割りに、私が一番、親不孝の途を突き進んでいるのは、何とも皮肉であり、また、申しわけなく、何としてでも私は、大成しなくてはならない。其れが、今の私に出来る、唯一の親孝行であろう。
其れは兎も角、私は1号に、手の内を明かすことにした。
「大体、先生が二次審査に行くのを止めなかったのはな、絶対に落ちると思って居たからなんだ」
彼女がはっと顔を挙げ、そして、私の目を見た。
「御前が受かる程、甘い世界じゃないよ。如何な世界でも、努力と、誠意と、忍耐が莫ければ、決して大成はしないし、遣って行けやしない。――今回落ちて、其れが御前にとって、良い勉強になって呉れゝば、と思ってたんだけど、行かなかったんじゃ、仕方莫いな……」
「……うん……あたしも、自分が本当にダンスを遣りたいのか、最近怪しくなってきたんです」
ほう、其れに気付くとは、中々大したものじゃないか。
「でも、遣りたいこと、判らないんです」
「だったら、今は、兎に角勉強して、学校に行け」
「でも、勉強は――特に数学は、もう遣りたくない。英語の勉強なら、昨日もしました」
「英語は得意なのか?」
1号は気まずく笑いながら、「昔は得意だったけど……今じゃ全然です」と云う。
「高校入る前は、あたし、外交官になりたいって夢があったけど、今じゃもう無理だし……何にも、遣りたい事なくなっちゃったんです……」
高校入って1年もしないで、何を云うか。此れからじゃないか。
「親は大学に行って欲しいんだろうけど……あたし、あんまり行きたくないし……」
「莫迦野郎」
講師の研修時に、莫迦、等の、人格を傷付けるような言葉を使っては不可いと、教育される。然し私は、此の言葉を好く使う。――決して人格を傷付けるつもりではないし、そう云う言葉に敏感そうな、つまり傷付き易く内向的な生徒には絶対に使わない。――少なくとも此の言葉で問題を起こした事は莫いし、寧ろ使い様によっては、生徒の目の高さに立ち、極めて近い立場で接する事さえ出来る。抑「サル」とさえ云って、此れっぽっちも生徒を不快にさせて居ない事は断言できる。今回の件に就いても、此の事は一切関係はなく、此の言葉を使って居ようと居まいと、何れはこうなって居たであろう。
「莫迦野郎、親は、大切にしろ! 親ってのはな、自分より先に死んじゃうんだぞ!」
「そうなんだよね……」
1号の此の、素直に納得した様な台詞は、要注意である。極めて感情のみの生き方をして居る為に、一晩経ったら、綺麗さっぱり忘れて居る、等と云う様な事は、日常茶飯事である。私は念を押すように、
「親の期待ってのは、或る意味重たいよ。――凄く理不尽な事だって、幾らでもあるよ。でも、其れは当然なんだよ。親ほど、御前の事を、命懸けで心配してくれる人は居ないんだぜ」
「そうかなあ」
「そうだよ! ――だから、少しぐらい、親の夢、叶えて遣れよ。自分のしたいことが見付からないのなら、親がお金出してくれる内に、大学に行っとけよ。其れで親が満足するのなら、ちゃんと大学行けよ。――此れはね、今の世の中では、一番堅実な人生なんだ。我が子には、堅実な人生で、安全に生きて、平凡に幸せになって欲しい、何処の親も、そう思う筈だよ。――第一御前に、博打の様な人生は出来ない。根性莫いもの。直ぐに逃げ出すに決ってる。御前は、堅実な人生を歩め」
そして私は、彼女の中学時代の担当講師が云った言葉を思い出した。
「御前には今、目標が莫いんだよな……何か目標を持て。……余り直ぐには達成できない、其れでいて、不可能ではない目標……」
私は暫し黙考した。そして、「そうだ、親と仲直りしろ」
「えー!」
「仲直りしろ! 其れが御前の、当面の目標だ」
「絶対に無理です」
「無理じゃない! 忍耐。此れを以てすれば、出来るはずだ。――其れと、誠意。御前は、自分の立場でしか考えてないから、親の厭な所ばかり目について、喧嘩になったり、親を憎んだりするんだ。好いか、如何な場合でも、自分にも非がある、と云う事を忘れるな。常に自分にも非があると考えてれば、如何な無茶な事を云われても、非道い事を云われても、其れ程頭に来る事は莫い。――あとは努力だ。頑張れ!」
「……はあい……」
1号は稍戸惑い気味ではあったが、然し、何とか約束させる事が出来た。此の授業が彼女の人生に如何響いてくるか、其れは数年後になってみなければ判らないし、或いは私には、永久に其れを知る事が出来ないかも知れない。然し、彼女に何等かの影響を与えた事は確かである。
此の次の月曜日、1号は又しても無断欠席をしたが、今度は登塾拒否などではなく、何と、期末が終わったからと云って、塾も終わったと勝手に思い込んで居たのであった。矢張り「1号」である。――兎に角今回の分は、他日に振替えた。電話口での1号の声が「おや」と思う程晴々として居たのが、印象的である。
(おわり)
96/12/19 (木) 02:40