百の拾四
みなみのうお座

里蔵 光

やぎ座の南東、うお座の南西、みずがめ座の足許に、そいつは住み着いている。こいつは大変なウワバミである。――魚の癖にウワバミなのである。変な話だけど、事実みなみのうおは、みずがめ座の持っている甕からこぼれ出しているものが水ではなくて濁酒だと知ってからは、其の足許に住みつき、尽きることなく溢れ続けるどぶろくを、そっくり口に導いて、止むことなく飲み続けているのである。

みなみのうおが酒を飲み始める前は、つまりみずがめ座からどぶろくが湧出しているということを知る以前は、こいつは天球上を自由に泳ぎ廻っていた。とかげの尻尾に噛み付いたり、オリオンの棍棒に吸い付いたり、おとめの持つ稲穂に潜んだり、とびうおと泳ぎを競ったり、エリダヌスに遊んだり、いるかの腹に貼り付いたり、いろいろ好き勝手ないたずらをした。――どうやら、八十八星座の中で一番の腕白者で、皆には寧ろ、煙たがられていた。

そんな彼が、酒の味を知ったのは、コップ座に出逢ってからである。コップ座は、彼のベッドであった。いざなぎの使っている猪口であるなどということは、彼は知らない。ある日、何時ものようにコップの中で体を休めていたとき、いざなみが洗い物を怠っていたのであろう、いざなぎが呑み残したどぶろくがコップの底に微かに残っていて、彼は其の仄かな香に気付くと、コップの底を何となく舐めてみた。其れ迄酒など飲んだことのなかった彼は、忽ち酔っ払い、上機嫌で外に飛び出した。黄道に沿うようにして泳ぎ、おとめのスカートの中で暴れ、彼女を辱めたのを手始めに、天秤の針をおり、さそりの尻尾を食いちぎり、いての弓をくすね、やぎの毛を毟り、みずがめの足の裏を(くすぐ)り、うおの紐を絡ませ、おひつじの金の毛を剥ぎ、おうしの目玉を抉り、ふたごの鼻先を鰭でひっぱたき、かにのミソを食い散らかし、ししの尻尾をちょうちょに結び、そして彼は、裁判にかけられた。裁判長は、黄道沿いに住みながら唯一此の魚の悪戯を免れた、へびつかいである。彼は善悪を測る天秤に魚を乗せたのだが、此の魚の悪戯によって針をおられた天秤は、最早何の役にも立たず、善悪を確定することができなかった。しかし、此の魚によって辱めを受けたおとめが泣いている。尻尾を食われたサソリが泣いている。弓を盗られたいてが泣いている。毛を毟られたやぎが泣いている。足を擽られて甕をひっくり返したみずがめが泣いている。紐が絡まって身動きのとれなくなったうおの親子が泣いている。皮を剥がれた赤むけのおひつじが泣いている。目を抉られて隻眼となったおうしが泣いている。鼻を叩かれ、鼻血が止まらないふたごが泣いている。内臓を食われ、虫の息のかにが泣いている。尻尾を結ばれ滑稽な姿になったししが泣いている。裁判長は、これらの涙を見て、判決を下した。曰く、磔獄門。

空席のあったみずがめの足許に、彼は釘で打ちつけられた。魚ははじめ、大人しくしていたのだが、打ちつけられている最中に突然目を見開くと、ばたばたと暴れ出した。酒の香りがしたのだ。辺り一面には、みずがめのひっくり返した甕の中身が撒き散らされてある。つんと鼻を突く其の香は、紛れもなく酒の其れである。彼は気の狂ったように暴れ出し、遂には釘を自力で引っこ抜いて、下方の酒の池が出来ているところまで泳ぎ、飛び込んだ。磔師があっけに取られて見ていると、瞬く間に酒が干上がり、後には泥酔した魚が正体なくつぶれている。磔師は其れを拾い上げる気にもなれず、その場で打ち付けを再開した。全部で百八本、釘を打ち終わると、磔師は引き上げていった。

翌日、みなみのうおは怠そうに目を開けた。そして暫くはうつらうつらしていたのだが、稍もすると、酒が切れてきたのか、身をよじらせて、酒、酒、と唸り声を上げ始める。三日三晩唸り声は続き、付近の住民――やぎ、くじら、みずがめ、つる、ほうおうなどが、苦情を漏らし始めた。大方の意見としては、取り敢えず酒を呑ませておけば静かにしているのではないかということだった。そこで皆は、みずがめに話を持っていった。甕の中の酒を呑ませてやれということである。然しみずがめは渋った。此れは神々の宴の為の大切な酒なのだ、何人たりと、此れを与えるわけにはゆかぬという。そこで今度は、ゼウスに話が廻ってきた。ゼウスは云った。

「みずがめの甕に酒を無尽蔵に与えてやるから、其処からみなみのうおに与えるがよい」

大方零して仕舞って半分ぐらいまで減っていた甕の酒が、みるみる内に増えてきて、遂に溢れ出した。みずがめの美少年が慌てて甕を傾けると、其処から落ちたどぶろくは、蛇行しつゝみなみのうおの口元まで流れ着いた。みなみのうおは狂喜し、深く息を吸って其の流れを己の口の中へと導くと、酒は一滴も余さず彼の口中へ注ぎ込まれていった。甕からは休むことなく太い酒の流れが湧き出し、其れをみなみのうおが休むことなく呑み続ける。呑むことに精一杯で、唸り声もやんだし、釘で固定されているので暴れたり悪戯したりすることも無く、其れ已来この辺りの秋の星座達は、安眠を確保することが出来た。

秋の星座に明るい星が少ないのは、皆が平和で安らかな睡りを得ていることの、何よりの証なのである。

(つゞく)

97/07/25 (金) 00:28