三日間の秘密の旅
里蔵光 cooperated by ChatGPT-3.5 of OpenAi
一
空は晴れていた。それが知佳には気に喰わなかった。何故なら今日は運動会だからだ。
運動会なら晴れて喜ぶ可きだろう。確かに級友達は皆喜んでいる様だ。然し知佳は気に喰わないのだ。運動が苦手だから? 何なら嫌いだから? 否、それも無いことも莫いが、そう云うことではないのだ。知佳を憂鬱にさせている要因はもっと別の処にある。
運動会自体が嫌いな訳ではない。標準的な体躯に標準的な肉付きで、運動をするに当たって特に不利な要素は見当たらない、迚も普通の小学生である。只若干運動神経が鈍い所があって、足は速くないし、よく転ぶ。その意味でも迚もありふれた小五女子だと、自分では思っている。卑下する余地なんか無いし、その心算も莫い。下手糞なりにも、競技に参加するのはそれなりに楽しいし、去年迄は普通に愉しく遣ってきた。然し今年は違った。
知佳には一年程前から抱えている秘密がある。何の前触れもなく、或る日突然に奇怪しな能力に目覚めて仕舞った。そのことが皆にバレて仕舞うのではないか、そればかりが心配で仕方がないのだ。知佳には他人の心の声が、望むか否かに関わらず否応なしに聞こえてくる。読心術と云うのだろうか。術と云う程には制御出来ていないのだが。――こんな変な能力があるなんて、友達にも親兄弟にも誰にも云っていない。云える訳がない。
初めて心の声を聞いた日から今日迄の約一年間、彼女はこの能力をずっと心に秘めて、その横暴過ぎる効果に振り回されつゝも、一応は活用してきた。他人の思いや気持ちを理解し、周りの人々との関係を築く一助としてきた。然しそんな裏技の様なズルをしていることが知られて仕舞えば、友達は彼女を軽蔑し、或いは畏れ、離れて行って仕舞うに違いない。それを考えると只々恐ろしく、心細かった。だからと云って心の声に耳を塞ぐことも出来ない。それは知佳の意思などお構いなしに、有無を云わさず頭の中に流れ込んで来るのである。実際の音であれば耳を塞げば聞こえなくもなるが、心の声を遮る手立てを知佳は知らなかった。
開会式が終わり、最初の競技は小学五年生のリレーだ。知佳は足が遅いのに、この競技にエントリーされている。誰でも何かしらの競技に出なければならないのだが、その殆どは籤引きで決められていた。学校側としては勝ち負けなんか元々考えていない様なので、気楽な感じではあるが、それでも矢張り負ければ後味が悪いし、学級の皆にも申し訳ないと思う。詰まり最初からこの競技は乗り気がしない。それでもエントリーされているからには出なければならない。
第二走者の位置に付いて、第一走者からバトンを受け取り、そこからは全力で走った。然しドテドテと走っている彼女の頭には、他の走者達や応援している生徒達、及び保護者達の心の声がひっきりなしに雪崩れ込んで来る。競技の最中にそれは
恥ずかしいと云う思いより先に、大きく後れを取った、皆に申し訳ない、と思った。必死に起き上がり、何とか次の走者にバトンを渡すことは出来たが、その後は頭痛と吐き気と気不味さとで蹲って仕舞い、中々立ち上がることが出来なかった。級友達が心の声を張り上げながら心配そうに周りを取り囲むので、
知佳の懊悩は
体を動かしていると、思考の方が疎かになる。どうも知佳は、運動中に物を考えることが苦手なのだ。基、苦手になって仕舞った様なのである。
元来考えることは得意だった。学校の成績だってそう悪くはない。試験だって楽しんで受けてきた。然しこの能力を授かった時より、丸でその代償かの様に考えることが不得手になって仕舞った。体を動かすとそれはより顕著になり、特に体育の授業中等には殆ど頭が空っぽになって仕舞う。そこへ他人の思考が否応なく流れ込んで来るので、吐きそうな程気持ちが悪くなる。
運動して思考が鈍ると、その隙を突く様に能力が活性化してくる。普段の体育の授業だってそこそこヤバかった。でも周りには級友ぐらいしか居ない為、未だ耐えられていたのだ。でも今日は、今日この日に限っては、全校生徒、全教師、保護者、賓客ども……ダメだ、考えただけで失神して仕舞いそうになる。
それでも何とか気を張って、頑張って、運動会を乗り切ってやろうとも思ってみた。然し現実は酷だ。現に今、知佳は保健室のベッドの上だ。あの後大縄跳びで派手に縄を引っ掛けて、心配して駆け寄って来た学級の生徒全員に囲まれながら、遂に気を失って仕舞ったのだ。
今、周りには誰も居ない。養護の先生も運動場に出て行って仕舞った。運動会の日に、知佳の為だけに保健室に残ってなどくれはしない。でもそれで好いのだ。人が居ない方が絶対的に楽なのだ。
「今日はもう、ずっとここにいようかな」
すっかり弱気になって仕舞った知佳は、静かに目を瞑り、その儘軽い寝息を立て始める。
知佳が寝入って暫く経った頃、保健室のドアが静かに開いた。
寝ていたのは数分間程度だったかも知れない。静かに目覚めた知佳が緩と目を開けると、其処には見知らぬ男が立っていた。温和な笑顔を浮かべて、知佳を優しく見詰めているが、それが却って不気味な気もする。
「あなたが知佳さんですね。――気分は如何ですか?」
彼の声は穏やかで、安心感を与える。同時に知佳は、そこはかとなく不安を感じていた。その理由はよく解らなかった。目を細めることで警戒心を表現しつゝ、知佳はくぐもった声で訊いてみた。
「誰?」
男は軽く微笑みながら、「私は神田と云います。あなたの特殊な能力に就いて承知している者です。あなたにとってその能力は、大きな負担になっているのではないでしょうか」
知佳は驚きの余り瞬きを忘れて、大きく目を見開いた。初対面の見ず知らずの人間が自分の能力を知っているなんて、凡そあり得ないことだった。
「どうして、そのことを」
知佳の問いに、神田は少し間を置いて、「色々説明したいところですが、余り時間が無いんですよ。この後も遣らなければならないことが沢山あるので。――一つだけアドバイスしておくとするなら、あなたが持つ能力は或る状況下では非常に役に立つものです。その為にも、それをコントロールし、且つ有効に活用出来る様に導いてあげる責任が、私にはあるのです」
半分位何を云っているのか理解出来なかったが、コントロール出来る様になる、と云うことだけは解った。
「どうすれば……どうすればこの能力を抑えることが出来るんですか?」
「そうですね。いきなりこんなことを云っても奇怪しな奴と思われるかも知れませんが……私と一緒に来て、お手伝いをして戴きたいのです。少しばかり長い旅になるかも知れませんが、その過程で、あなたは自分の能力を理解し、コントロールする方法を見つけることが出来ると思います」
知佳は不安に満ちた顔で神田を見上げた。旅に出ると云われても、何のことだか全く理解出来なかった。この男と一緒に何処かへ行く気なんて、当然毛程も無かった。一体この人は何を考えているのだろうと思い、そうして知佳は、先程から抱いていた違和感の正体に漸く気付いた。この男の心が聞こえない。
「あの……」
然し知佳には、それをどう説明すればよいのか判らなかった。あなたの心が聞こえない、と云ったところで、そんなことは普通で当たり前のことだと思う。上手く説明する自信がない。否、この人はそれを理解していると云っているんだ。だったら通じるのか。
知佳が云い淀みながらも、何とか説明しようと再度口を開き掛けた時、先に神田が言葉を発した。
「不審に思われるのは尤もです。その事に就いても、いずれ説明させて戴きます」
この男も心が読めるのだろうか。
二
知佳は結局、運動会が終わる迄保健室に居た。神田はあの後直ぐに部屋を出て行った。保健室を出る際に少し振り向いて、「今夜迎えに行きますよ」と云い残して行った。その後間を置かずに心配した両親が訪ねて来たが、一年生の弟の綱引きが始まる時間になると運動場へ戻って行き、その儘二度と訪ねては来なかった。
お昼の時間だけは両親の許へ行き、一緒に弁当を食べた。ほつれて垂れた鬢の毛もその儘に、努めて具合の悪い風を装い、食欲の無い振りをしつつも、空腹感を満たす程度には食べておいた。その後再び保健室へ戻り、後は寝て過ごした。
全ての競技が終わり、閉会式も終わって、家族と共に帰宅した。帰宅後は夕飯迄布団に潜り込んでいた。保健室で寝過ぎた所為で全く眠くはなかったが、取り敢えず具合の悪い振りは続けておいた。
「夕飯食べられそう?」
母が心配そうに寝室を覗き込んで来たので、「うん、だいぶマシになったよ。おなかすいた」と応えて、起き上がる。
自分が小さな嘘を吐いている負い目もあり、知佳は余り両親と会話をしたい気持ではなかった。話し掛けてくる母親には不自然でない程度の曖昧な返事を返しながら、殆ど押し黙った儘食べ続けた。そして食事が終わり掛けた頃、インタホンのベルが鳴った。知佳はぎくりとしてインタホンの画面に目を向ける。いきなり神田が来たのだろうか。親に如何説明しようか。一瞬の内にそうした心配が頭を過ったが、画面に映し出されたのは七三の中年男性ではなく、前髪を眉毛の高さで切り揃えた黒髪の少女だった。母親がインタホン越しに応対する。
「あら蓮ちゃん。どうしたのこんな時間に?」
「お見舞いに来ましたー。知佳さん元気になりましたか?」
級友の声は、場違いな位明るかった。知佳は彼女の訪問に驚きはしたが、同時に救われた様な気がした。食卓の気拙い空気から逃れる様に椅子から飛び上がって、後ろ髪を結い直しながら玄関迄トテトテと走って行き、ドアを開ける。
「やほ、大丈夫?」
「うん、大丈夫。今ご飯食べてたの。――そうだ、一緒に食べない?」
後ろで母も微笑みながら、「よかったらどうぞ」と云った。
「家で食べて来たんだけど」などと云いつつも、蓮は招待に応じ、知佳の家族と一緒に軽い食事をした。蓮の気さくな話術によって、知佳と家族との間に漂っていたなんとなくギクシャクした空気も、稍薄らいだ様な気がした。
蓮は付き合い程度に軽く食べただけなので、知佳と略同時に食べ終わった。
「ごちそうさま。なんだか夕飯食べに来たみたいになっちゃって、ごめんなさい。知佳が元気になったことも確認出来たし、そろそろ帰ります」と知佳の家族に礼儀正しい挨拶をして席を立つと、「知佳、鳥渡一緒に来て」と知佳の左手を引き、玄関先迄連れ出した。
「今日はありがとう。心配かけてごめんね」
「いいの。そんなことより知佳、話しておかなきゃならないことがあるの」
その言葉と同時に知佳の頭の中に、蓮の思考が滑り込んで来た。
〈知佳、あたしの心が聞こえるでしょ〉
知佳は驚きの余り目を見張った。一歩後退り、手を振り解こうとしたが、蓮はそれをさせなかった。
〈やっぱり神田っちの云った通りみたいね……怖がらないで。あたしも同じなの〉
「えっ」
〈心が読めるわけじゃないよ。あたしのは別の能力〉
蓮の茶色い瞳が、僅かに赤みを帯びた。
「隠袋の中のビー玉、いつから入ってるの?」
蓮は悪戯っぽく微笑んだ。知佳は何事かと訝りながら、蓮に掴まっていない方の手で隠袋を確認すると、果たして其処には、蓮の云った通り小さなビー玉が入っていた。
「あれ、なにこれ……いつの間に?」
「私にも特殊な能力があるってこと。私達、仲間なんだよ」
知佳はビー玉を手に握り締め、当惑しながら蓮の目を見詰めた。一日に余りにも重なり過ぎている気がする。能力の所為で倒れ、能力を知る男が現れ、そして能力を持つ友人の告白。「――なんで今日なの」
蓮はそれ迄握っていた知佳の手を放し、少しバツが悪そうに笑った。「最近迄自分の能力に気付いていなかったの。でも神田っち――神田さんが教えてくれたんだ。あの人も特別な能力を持っているんだよ」
知佳は依然として困惑してはいたが、それでも少し、嬉しかった。自分だけが孤独な存在ではなかった。同じ様な境遇の仲間が居たのだ。そして、神田もその一人なのだと云う。
「説明は済みましたか」
突然の声に驚いて振り返ると、其処には神田が立っていた。
「知佳さん、あなたの能力は我々のチームを繋ぎ止める為に不可欠なんです。あなたは他人の思考を読むことが出来ます。然しそれが全てではない。或る特性を持った者同士の中にあなたが居た場合、そのグループのメンバ同士が相互にテレパスで会話出来る様になるんです。――あなたは気付いていましたよね? 私や蓮さんの思考が、無制限にあなたに流れ込んでは行かないことに」
そこで神田は言葉を切ると、知佳の目を凝と見つめた。
〈我々同士の場合、誰に何の様な思考を送るかを選択することが出来ます。仕組みは私もよく判らないんですが、恐らくあなたが或る種の場――テレパス場とでも呼びましょうか、そうしたものを形成して、その場の中でのみ我々は心での会話、即ちテレパスを自在に操ることが出来る様になるのだと思います〉
〈どういうこと……〉
知佳の思考が二人に向かって流れ込んだ。
〈やり方、解ったみたいね〉
蓮が知佳に向かって、優しく微笑んだ。神田も笑みを浮かべて知佳に応える。
「理解して戴けたでしょうか。あなたのこの能力を使えば、私達チームは言葉に依らずに互いの意思を伝え合うことが出来る。これは時に、迚も有用なんです。またその副作用として、我々仲間の思考はあなたに無節操に流れ込んだりしない。これは、テレパス場に参加している身内の心は、あなたには読めないと云うことでもあります」
知佳は何故神田に、警戒心と同じぐらいの安心感を覚えたのか、漸く理解した。何のことはない、神田の心の声が聞こえなかったからだ。それは取りも直さず、「神田は知佳に負荷を掛けていない」と云う事実の表明なのである。
「それで私の能力はね、先刻鳥渡見せたけど、テレポーテーションなの。とは云っても、自分をテレポートさせたことは未だないんだけどね」
蓮はそう云うと、少し含羞んだ。
「所で先刻のビー玉、未だある?」
そう云われて知佳は握っていた手を開いてみたが、其処にビー玉は無かった。隠袋の中も確認してみたが、中には何も無い。
「あれ?」
蓮がくすくす笑いながら握っていた右手を開くと、其処には先刻のビー玉があった。
「なにそれ、手品」思わずそう云って仕舞ってから、知佳はハッと口を噤んだ。そう云う言葉を蓮が喜ぶとは思えなかった。
然し蓮は気にした様子もなく、「そうだよね。あたしも思ったよ。手品師としてやっていけるんじゃないかって」コロコロと笑いながら、「でもこれは手品では説明出来ない」
右手の上のビー玉が微かに震えると、少しずつ薄らいでいき、それと同時に知佳の鼻先に同じビー玉がぼうっと浮き上がって来た。軈てビー玉は蓮の掌から完全に消え去り、同時に知佳の鼻先で完全に実体化して、ぽとりと足元に落ちた。
「特別にゆっくりやってみましたー! どう、驚いた? これが私の能力」蓮が自慢げに胸を反らせた。
知佳は目を丸くして、「ええっ、すごい!」と感嘆した。
三
「では時間も押していますし、そろそろ行きましょうか」
二人の会話が一段落したと見て、神田が声を掛けた。それと共に、三人の体がすうっと宙に浮く。
「えっ、ちょっ!」
知佳は慌てて蓮に縋り付くが、蓮は慣れている様で、くすくす笑うばかりである。
「これが神田っちの念動力ね」
「いや、出発って、今? お母さんに何も云ってないのに。準備だって……」
「その点は心配いりません」
初めて聞く声に、ぎくりとしてその方を見ると、三人の上方に誰かがぷかりと浮いていた。
「初めまして。ドリーマーのクラウンです。ずっと待ってましたよ」
クラウンと同じ高さで、三人の上昇は停止した。その男はパンクロッカーの様な出で立ちで、ピンクに染めた髪に、矢鱈と顎の尖った細長い顔、細い眉毛に、左目の周りには星模様迄描いてある。然し如何も、如何見ても、中身は日本人である。
「クラウンさん、お待たせして済みません」クラウンに向かって軽く詫びた後、神田は二人に向き直ってクラウンを紹介する。「彼の能力は幻覚です。可成の長期間、大勢を相手に実体感のある共通の幻覚を見せることが出来ます。一般人には現実との見分けなどつきません」
「えっ、それって麻薬みたいな……」
知佳は心配そうに顔を歪めた。クラウンの外見からの連想か、家族が麻薬漬けになる様な、恐ろしい連想をして仕舞った。
その様子を見てクラウンは苦笑し、「健康の心配は全くありませんよ。
「へえ、すごい……」説明してはくれたが、知佳には余りよく理解出来なかった。凄そうだ、と云うことだけは解った。クラウンは知佳の反応が思ったより薄かったので、稍不満そうである。
そんな遣り取りを気にも留めず、神田は四人を念動力で移動させ続けていた。
「もう一人合流します。それで全員です」
眼下には雲が見える。若干肌寒いが、我慢出来ない程ではない。それも神田の能力の効果なのだろうか。
「ドリーマーさん、遠く離れても幻覚を続けられるんですか?」蓮が誕生日でも聞くぐらいの軽い調子で、質問を発した。
「ドリーマーは名前じゃなくて特性なんで。クラウンって呼んでもらえないかな。なんならピエロでも好いよ、同じ意味なんで」
何処から如何見ても純血日本人にしか見えないクラウンは、稍口を尖らせ気味に抗議してから、「そうだな、僕は初期値やストーリー設定を与えて、スタートボタンを押すだけなんだ。後は相手の方で勝手に幻覚を見続けてくれるのさ」
「便利なんですね、クラちゃんの力って!」
「ク……なんだって
蓮は楽しそうにケタケタ笑っている。こう云うところは、知佳は蓮に全く敵わない。
〈蓮の人たらし〉
すっかり気が緩んで居た所為か、知佳はうっかり心の声を、皆に送って仕舞った。
「んん? 知佳? 何か聞こえた様な気がするけど?」蓮が惚けた調子で絡んで来る。
知佳は稍赤面しながら、「ごめんなさい、つい、心の声が漏れちゃった……」
「もう、人たらしとか。知佳ったらひっどい」蓮は軽く頬を膨らまし、「ぷぅ」と云った。
「ごめん。なんか、うらやましくて……」
普通「ぷぅ」なんて口に出して云わない。そう云うところなのだ。「クラちゃん」なんて可愛らしい呼称を付けられて仕舞ったクラウンのプライドも、蓮の前では脆いもので、なんだか複雑な表情ながらも、口の端に微笑みが浮かんでいたりする。本当に羨ましい。本当に狡い。伸ばしっぱなしの髪を束ねることもしていないのに、あちこち跳ねたりせず素直に真っ直ぐ纏まっていることさえ、妬ましい。そんな事この際全く関係ないのに。
そんな知佳の鬱屈した想いを他所に、蓮は「ふうん、ま、いいけど。知佳だから」と云って、知佳の体をぎゅうと抱き締めた。「親友だもんねっ!」
靄々した思いなんか、一気に吹き飛んで仕舞った。結局知佳も、この蓮の魅力の虜なのだ。
「そっ、そんなことより、神田さんっ!」
耳迄真っ赤になった知佳は、蓮の腕の中で身を捩らせながら、神田の方に顔を向けた。
「もう一人、来るんですよね? ――きゃあっ! ちょっと、蓮!」擽られて知佳は、バタバタ暴れた。
神田は返答のタイミングを逃し、困った顔をした。
「蓮さん、あの……やめてあげて、戴けますか」神田に窘められて、蓮は笑いながら知佳を放した。それを見届けて
雲の下から、誰かが昇って来るのが見えた。これも神田が引き上げているのだろう。声が届く距離迄来た時、その少年は丁寧に挨拶した。
「こんにちは、ユウキと云います。よろしくお願いします」
ユウキは見るからに幼かった。小学一年生か、下手したら幼稚園児かとも思える程小さい。知佳の弟よりも幼い様だ。
「ええー、かわいい!」真っ先に反応したのは、矢っ張り蓮だ。
「やめろ。体の発育が一寸遅れてるだけだ。見た目程幼くないんだぞ!」
「へえ、何歳なの?」
「他人に訊くならまず自分から……」
「女の子に年齢訊くとか、あり得ないよー」
ユウキは唇をぎゅっと噛んで、何かを堪える様にした。そんなユウキを蓮は妖しく見つめ、「八歳。そっか、確かに見た目よりはオトナだね」と、したり顔で頷いた。八歳なら知佳の弟より上である。
「えっ、なんで?」ユウキは狼狽えた。
「蓮、ズルしたでしょ」知佳が軽く睨み付けると、蓮はぺろりと舌を出した。
「戦略勝ちね。知佳の能力を借りて、ユウ君の心に鳥渡質問してみたの。――ホントに鳥渡だよ――ちょーっとだけ、挑発したら、あっさり正解を送り返してくれたんだよね」
蓮はユウキに向かって、パチリとウインクして見せた。ユウキは何故か赤面した。
「まあなんにしても、私達のチームへようこそ。これからもよろしくね」
知佳が優しく微笑みながら手を差し出すと、ユウキは
「未だ目的地迄は距離がありますが、そろそろ説明をしておこうと思います」
わちゃわちゃとした掛け合いなど全く眼中に無いかの様に、神田が改まった調子で皆を見渡しながら云った。
「私達は今、沖縄へ向かっています」
「えー! 沖縄! スゴイ! 楽しみ!」蓮が燥いだ。
神田は一寸間を置いてから、「残念ながら、遊んでいる暇はないと思いますが」
「ちぇ」蓮は明白にがっかりした。
「目的は何でしょうか? 沖縄と云えば、X国の大統領が訪問している筈ですね」
「鋭いですね、クラウンさん。将にそれが、我々のミッションに大きく関わっているのです」
「なんか難しそうな話ですか。ついていけないかも……」知佳が申し訳なさそうに呟くと、ユウキが横目で見ながら鼻をふんと鳴らした。
「ユウ君? あなた今、知佳のことバカにした?」蓮がユウキを睨み付けると、「な、何も云ってないぞ!」と、ユウキは必要以上に怯えた。
「いいよ蓮、仕方ないよ。あたし考えるの苦手だから」
「知佳さん、気に病まないでくださいね。解り悪ければ丁寧に説明しますから」と神田が穏やかに声を掛ける。
「お気遣い、ありがとうございます」
神田は一瞬だけ微笑んだ後、淡々と続ける。「私達の任務は、X国大統領を警護することです。沖縄に到着したら、大統領とその周囲を注意深く観察しましょう。それから、必要ならば行動を起こす判断を下します。そして知佳さん、或いは薄々感づいているかも知れませんが……」神田は云い難そうに言葉を切って、知佳を見た。
「えっ……なんでしょう」知佳は稍緊張して、居住まいを正し、神田に向き直る。
「到着後直ぐに、あなたの能力が必要となると思います。情報収集には、あなた無しでは相当に難儀することになります。と云うか、あなたは半分、その為に選ばれたのですよ」
知佳は息を呑んだ。ずっと自分を悩ませてきたこの能力が、今こそ役に立とうとしている。――同時に云い知れぬ不安感に包まれた。正気を保っていられるだろうか。
「ご心配はお察します。然し私は結構楽観視しています。あなたには屹度出来ますよ」
「神田っち、無根拠なこと云っちゃだめヨ」蓮が知佳を心配そうに見やりながら、口を挟んだ。
「いや、然程無根拠でもないのですが……説明は難しいですね。時が来れば自ずと答えは出るでしょう」
一同の視線が知佳に注がれた。
「うう、が、がんばります……」知佳は皆の視線から身を護る様にしながら、やっとのことでそれだけ云った。
蓮はそんな知佳の肩に手を置き、「知佳、私達はいつでもあなたの味方だから!」と、稍芝居掛かったことを云う。
「神田さんの見立てが正しいなら、心配ないでしょう。余り気負わず気楽にいきましょう」クラウンも気軽な調子で同調する。
稍タイミングを外して、ユウキが「知佳姉さん、僕が癒してあげるから、がんばって」と囁く様に云った。
知佳は彼らの言葉に少し安心感を得て、「ありがとう、皆。足引っ張らない様に頑張ってみます」と応えた。
然し蓮がユウキの言葉を聞き咎め、彼を横目で見ながら、「知佳……ねえさん?」と、必死に口元の薄笑いを隠しながら囁いた。
「な、なんだよ、なんかおかしいかよ!」ユウキは精一杯の虚勢で返す。
「いやぁ、べつにぃ? ふぅーんって、思っただけ」
「なあに蓮、どうしたの?」知佳が不思議そうに、蓮とユウキを交互に見やった。何故かユウキの顔が、再び朱に染まる。
「ハハーン、そうか」何かに気付いたクラウンが、意地悪な笑みを浮かべながらユウキを見遣る。
「なっ、なんだよお前ら! 嫌いだ!」
「まあまあ、あたしたちは皆君のこと、大好きだよぉ」蓮がねちっこい口調で、ユウキに詰め寄る。「知佳だってきっと」
知佳は不思議そうにその遣り取りを眺めていたが、軈てフフッと笑いながら、
「ああ、皆の考えてることが判らない! こんなに素敵なことってない!」
久しく味わっていなかった当たり前の感覚に、知佳は打ち震えた。ユウキの赤面の理由なんかは別に如何でも好かった。
四
移動は深夜になっても行われていた。この移動は凡て神田の能力に拠るものだが、五人を雲より高い位置で高速移動させると云うのは、控えめに見ても可成凄いことの様に思われた。
「一通り話す可きことは話しましたし、夜も遅いので、この辺りで一旦下りて休みましょうか」
「あっ、休むんですね」知佳が意外そうに云うと、神田は苦笑しながら「私を何だと思っているのですか。体力的には普通の人間なのですから、夜は普通に寝ますよ」
「そう……ですよね。すみません」
雲の切れ間から眼下の景色が見えて来た。直ぐ下は水面の様だった。
「今どこなんですか? 海?」
「いや、これは湖だな」クラウンが下を覗き込んで云った。
「こんな大きい湖ないでしょ」と蓮が云うと、クラウンはカカッと笑って「日本一の広さだからな」
「知ってるよ、琵琶湖だ!」ユウキが得意げに云ってから、「あれ、沖縄に向かっているのに、何で?」と首を傾げた。
「ちょっと寄る可き所がありまして。それに就いてはまた後程説明します」と神田が云った。「では、湖上で休憩しましょうか」
一行は湖へ向かって降下して行った。美しい夜景が広がり、水面に映る星々が幻想的な光を放っている。
「ねえ知佳、この景色、素敵じゃない?」蓮が興奮気味に声を上げた。
「本当、こんな場所で休憩出来るなんて最高!」知佳も感嘆しながら応える。
一早く湖上に到達した神田が湖面を軽く突くと、其処から湖水がみるみる固まっていき、鳥渡した広間程度の床が出現した。一同はその上に降り立った。
「えー、これも神田さんの能力?」知佳は驚いて神田を見た。
「念動力の応用で、液体分子の運動を制御することで固体の様に変化させたのです。但し氷とは違うので、冷たくはなりません。熱運動はさせた儘、その可動範囲を限定することで……」知佳が目を回しそうになっているのに気付いて、神田は言葉を止めた。「難しい話は置いておいて、兎に角この状態なら私は寝ていても維持可能なので、此処で休むことにします。蓮さん」
「はいはーい」蓮が神田の呼び掛けに軽く応えると、瞬く間に人数分の布団が目の前に出現した。
「えー、用意が好いのね」知佳は感心した。
「こう云うのは神田さんが用意しておいてくれてて。あたしは倉庫から取り出して来ただけだよ」
「湖上は冷えますから。確り温かくしてくださいね」
布団は温かかった。神田はほっと息を吐きながら、布団に横たわった。知佳と蓮も早速布団に入り、目を閉じる。
「ちょっと待って!」ユウキが小さな声で叫んだ。皆が振り返ると、ユウキが一人だけ布団に入れずに立ち尽くしていた。
「ユウキ、どうした?」クラウンが声を掛けると、ユウキは顔を赤らめながら「僕、一人で寝られない……」
知佳は弟を思い出していた。弟と同じだと思うと、少し親近感が湧く。「ユウくん寂しいんだ。可愛いのね。お姉ちゃんと一緒に寝ようか」
ユウキは嬉しそうに顔を輝かせた。「ありがとう、知佳さん」
問題は片付いたとばかり、皆はそれぞれの布団に入り、夜の湖上で眠りに就いた。
〈あんたそれ、計算でしょ〉
皆が寝静まった頃、蓮の声がユウキの脳内に響いた。ユウキは興奮して中々寝付けないでいた為、その言葉に鋭敏に反応して仕舞った。
〈ち、違うよ、ホントに一人で寝られないんだ。家ではいつも、父さんと母さんと一緒に寝てるから〉
〈マジで?〉
眉間に視線を感じ、そっと薄目を開けてみると、驚く程間近に迫った蓮の瞳が、瞬きもせずに凝と自分に注がれているのを見た。
「ひえっ」思わず小さい悲鳴を上げて、ユウキは寝返りを打ち、寝ている知佳の腕に縋る。
〈あー、それ以上するとセクハラだからね〉
〈そそそ、そんなんじゃないし!〉
〈あんたが知佳に邪な感情抱いてることは、先刻お見通しなのよ〉
それは蓮がテレパスで年齢を問い質した際、テレパスに慣れていないユウキが心の声を全開にして仕舞った結果である。
〈ヨコシマなもんか、純真無垢だもん!〉
蓮が背後で「プっ」と吹き出した。
「うーん? 何か云ったか?」蓮の吹き出し笑いにクラウンが敏感に反応し、寝惚け声で尋ねた。ユウキが恥ずかしさと焦りで顔を赤くしながら、何とか弁解しようとした矢先、「なぁに……どうしたの?」と、知佳迄もが眠そうに眼を擦りながら起き上がり、辺りを見回した。
ユウキは進退窮まって、恨む様な救いを求める様な複雑な表情で蓮を横目で睨むと、意地悪な微笑みを湛えた蓮がユウキの頭を撫でながら静かな調子で、「ユウくん、安心して。みーんなで一緒に寝よう。そしたら安心出来るでしょ?」
ユウキは不信の目を蓮に向けつゝも、知佳と蓮に挟まれた状態で渋々布団に入った。それでも心地よい温かさと安心感に包まれながら、何れユウキは穏やかな寝息を立て始めた。
五
翌日も良い天気だった。蓮が布団を片付け、神田が再び一同を空中へと放り上げると、湖上の床は一瞬にして掻き消えた。雲の高さで、朝礼が始まる。
「皆さん、おはようございます。昨夜はよく休めましたか?」
神田の問いに、ユウキは赤面して俯き、蓮は楽しそうにニヤニヤしている。神田はそうした些事には目もくれず、
「湖を抜けた先、京都の山科に、我々の支部が在ります。朝食がてら、一寸其方へ寄り道します。皆さんも洗顔や歯磨き、したいでしょう?」
皆は銘々に頷き、賛意を示した。「お風呂は無いの?」とは、蓮の意見。
「お風呂は今回、一寸難しいですが、シャワーなら有りますよ」
「やったぁ! なんか体が汗臭くて、気になってたんだ」
「略野宿みたいなものでしたしね。着替えなども此方で用意した衣装がありますし、皆さんもどうぞご遠慮なく」
そんなことを云っている間に、どうやら支部の上空へ辿り着いた。一行は神田の案内に従って、玄関口へと降り立つ。其処は立派な建物で、周囲には美しい庭園が広がっていた。一同は歓迎の声と共に支部の職員達に迎えられた。
神田は皆を集めて、「此処では朝食やシャワー、及び必要な物資の補給などが出来ます。暫く休憩して、準備が整ったら次の行程に移りましょう」と云い残すと、何処かへと去って行った。残された四人は職員に依って建物の内部へと案内され、朝食やシャワーを済ませた。
用意された着替えと云うものは、揃いのコスチュームだった。男女とも同じデザインで、白いTシャツと、ジッパーによる前開きの襟付きシャツに、足首迄ある長ズボン。伸縮性のある真っ白な素材で、肩口から手首迄と、腰から足首迄、左右両側面に水色の二本線。胸元には「忠国警備」と刺繍がある。
「ジャージだ」知佳が云うと、「ジャージだね」と蓮が同意し、「ジャージかよ」とユウキが毒突くと、「ジャージやなぁ」とクラウンが嘆息する。
「ジャージ戦隊、チカレンジャー!」と蓮がお道化ると、「あたしの名前入れないで!」と知佳が抗議し、「地下アイドルみたいな名前、やめい」とクラウンがツッコむ。ユウキはケラケラ笑っているばかり。
「つか、
そんな感じで四人わいわいと盛り上がっている所へ、神田が戻って来た。いつの間にか、神田も揃いのジャージ姿である。
「皆さんがシャワーや朝食を取られている間に、ちょっと上と会話して来たのですが、そこで重要な情報を得ることが出来ました」
「神田さん姿が見えないと思ったら、会議してたのか。勤め人は大変やね」クラウンが茶化す様に云う。
「会議と云うか、立ち話に近いものですが……それは扨措き、沖縄へ行く前にもう一か所寄り道をする必要が生じました」
「この旅も一筋縄ではいかんかー」
どうも先刻からクラウンの言葉のイントネーションが変だなと、知佳は思っていた。蓮も同様に感じたらしく、クラウンに直接質問を投げ掛けた。
「クラちゃん、もしや関西人?」
「えっ、喋り方変やった? ――あー、どうも地元付近に来た所為か、気が緩んでたなぁ。彦根がワシの地元や」
「いがーい! でもそうか、だから一目で琵琶湖って判ったのね」
「まあ、見慣れた景色やからねぇ」
神田は軽く咳払いをして私語を制すると、「次の目的地は、琵琶湖の近くにある彦根城です」
一同は驚きの表情を浮かべた。彦根城は歴史的な価値が高く、観光名所としても知られている。
「彦根城ねぇ。歴史的な場所に隠された秘密……面白そうやな」とクラウンは興味津々の様子だ。
五人は支部を後にして再び空中へと舞い上がった。神田の先導で琵琶湖の畔に位置する彦根城へと向かって行く。
「然し、昨日通り過ぎた辺りにまた戻されることになるとはなぁ」クラウンが稍不満げに呟いた。
「戻ってるんですか?」知佳の質問に全員が振り返る。
「知佳ぁ、あんた……地図の読めない女だったかぁ!」蓮が大袈裟に溜息を吐いて、知佳の肩に手を置いた。
「えー、ダメ?」
「いや、好いよ、知佳はそれで。そう云うところも、ポイントなのかもね」と云ってユウキを振り返る。ユウキは咄嗟に顔を背けた。知佳はきょとんとして、「ポイントって何?」と云った。
「ち、ちなみに僕は、名古屋で拾われたからな。お前らは東京から来たんだろ」ユウキは必死に話題を変えようと試みた。
「ぶー、川崎でーす!」蓮はいつでも楽しそうだ。
「川崎ってのは東京じゃないのか? そっちの地名はよく判んないよ。いずれにしても、僕ら最初から全然南下していないよね。沖縄にちゃんと間に合うのかな……」
「いざとなったら、あたしが!」蓮が自棄に自信たっぷりに云うので、神田は稍驚いた様子で「人を、と云うか、生き物を転送したことあるのですか?」
「てへへ、無いです」蓮が頭を掻きながら照れ臭そうに云うので、一同は不安な顔をした。
「でも……難しいことは判んないけどさ、今は彦根城だよ!」と知佳が能天気な調子で云う。
クラウンは思わず笑みを零し、神田は大きく頷いた。「そうですね、まずは彦根城の任務を滞りなく遂行しましょう」
一行は彦根城の天守の上に、雲を纏いながら天から降り立った。
「雲、外して好いですよ」クラウンが告げると、神田は左腕をさっと払った。彼らの周りを包んでいた雲が晴れ、敷地内を一望出来る様になった。
「こんな晴れた日に屋根の上にジャージ戦隊がうじゃうじゃ居たら、騒ぎにならない?」蓮が不安そうに云うと、クラウンがカカッと笑う。
「観光客も城の職員達も、皆幻覚を見ているのさ。屋根の上には誰もいない、と云う幻覚をね」
「あー、そういう使い方も出来るのね」蓮が感心した様に云う。
「で、これからどうするんです?」知佳が神田に問う。
「何か聞こえませんか?」神田から逆に問われて、知佳は目をぱちくりさせた。
「えっ……あ……」急に眩暈を覚え、その場に蹲る。「この……下に……」知佳は眼下に突き出した、三角屋根を指した。
「破風か? 彼処には鉄砲狭間があるが」クラウンが云う。
「では、其処に行ってみますか」
その時、何か微かな音が、破風の内から聞こえて来た。
「あの音は何だろう?」ユウキが不安そうに云うので、皆で耳を澄ませてみる。
クラウンが暫く聞き込んでから、口を開いた。
「お祭りの音みたいやけどな……笙の音の様な」
「城の中でお祭りが開かれている筈はないですね。何か異変が起きているのかも知れない」と神田が嫌そうな表情を浮かべた。
神田が破風の中への入り口を探していると、「違う! 待って!」知佳が叫んだ為、皆は動きを止めた。「行っちゃだめ」
「知佳、何を聞いたの?」蓮が不安そうに訊いた。蓮を見た知佳の顔は、すっかり怯え切った様子だった。
「生贄……殺せ……祟り……」蒼褪めた顔で呟く。
「何? どうしたの知佳!」
その様子を見ていた神田が怖い顔をして、「ユウキ君、知佳さんを頼みます。君の力で落ち着かせてください。クラウンさん、僕と同行してください」そして一瞬だけ何かを躊躇う様に黙った後、「蓮さん、お願い出来ますか?」
「えっ」蓮はたじろいだ。
「沖縄よりは大分近いですよ」
「ウソ、あれは冗談……未だ人を転送したことないのに」
「信じてますから」神田はクラウンを振り返った。クラウンも蓮を信頼した目で見ていた。
「神田さんはな、うちらの能力を正確に分析出来る能力もある。せやからリーダーでけるんや。信じていいで」
「どうなっても……知らないから……」
蓮の目が赤く光り、二人の体は一瞬にして掻き消える。次の瞬間笙の音が止み、ドタンバタンと云う音に代わって、軈てその音も止んだ。
「何が起こったの?」と蓮が困惑しながら独り言を云うと、ユウキがそれを引き継ぐ様に、「破風の中で何が……知佳さんが聞いたものはなんだったんだろう」と続ける。
知佳はユウキの治癒能力に依って少しずつ落ち着きを取り戻していた。すっかり顔色も良くなり、体を起こして破風の方に目を遣った儘暫く凝としていた。音が止んでから数秒しか経っていないが、非道く長く感じられる。知佳は微かな不安を感じながら、テレパスを飛ばした。
〈神田さん、クラウンさん、大丈夫ですか? 聞こえますか?〉
然し返答は無い。破風の中で何が起きているのか。知佳は蓮とユウキに向き直り、「此処に残っていても不安だよ。私達も破風の中に行こう」
蓮は一寸嫌そうに顔を歪めたが、知佳とユウキが信頼の籠った澄んだ眼を蓮に向けると、蓮も
「いくよ!」彼らの体は蓮の能力に拠って包まれ、次の瞬間、破風の中に姿を現した。
「待て待て待て! 狭い狭い!」三人が転移した瞬間、クラウンの叫び声が上がった。先ずクラウンが、続いて神田が這う這うの体で破風の間から這い出すと、小部屋の中は子供三人となった為、幾分余裕が生まれた。
「アホたれ、上で待ってろや。危ないやろが!」クラウンが方言丸出しで叱り付け、神田が「まあまあ」と宥める。
「大方片付いた後ですから、まあ結果的に危険は無かったんですが。出来れば勝手な行動は慎んで戴けると有り難いですね」神田の云い方の方が、単調な分だけ余計に怖い。
「ごめんなさい……テレパスの応答がないし、二人の状況が読めなかったものですから……」知佳は悄らしく謝罪しながら俯いた途端、「きゃあ!」と叫び声を挙げた。足元に誰かが横たわっている。
「笙の音を出していたのはその男でした。今はちょっとお休みいただいています。――テレパスしてくれていたのですか、それは失礼。鳥渡気付きませんでした。何か妨害されていたのかな」
神田は倒れた男の傍らに転がっている通信機を取り上げ、スイッチを切った。それと同時に何か頭の中がすっきりした感じになった。
「テレパスの妨害目的ではなかったのでしょうが、どうも我々とは相性の悪い周波数帯を使っていたのかも知れませんね」
「此処での用事は終わりや」とクラウンが云うと、「道々説明させて頂きます」と神田が次いだ。
六
一行は城を出ると、再び雲の上へと移動した。其処で停止していると、周りの景色がぐるぐると回り始め、軈て雲も天地も見えなくなった。静かな広がりの中で立ち尽くしていると、神田が皆に向き直り、「この空間は、私達の次の目的地である沖縄への、パスウェイの入り口です。これはクラウンさんの能力で出現させた異空間です。然しこのパスウェイは時空の狭間の様な所を経由するので、色々雑多な邪念が渦巻いています。私達の力を試すための障害、試練と云ったところでしょうか」
蓮と知佳の顔に緊張が浮かぶ一方、クラウンは済ました顔で聞いている。
「道は一直線で、迷うことはありません。然しその道中には幻影の様なモノが現れます。クラウンさんの力を借りて、出来る限りその幻影を払い除けていくことになります」
前置きが終わると、一行は移動を開始した。移動と云っても、神田が念動力で全員を一塊に飛ばして行くだけなので、飛ばされるだけの四人は唯、為されるが儘である。
移動をしながら、神田は再び話し始めた。
「さて、彦根城の一件ですが、平たく云えばあの男はY国のスパイだったんですよ。X国とY国が長いこと険悪な関係であることは、皆さんご承知のことと思いますが、彼は今回のX国大統領訪日に合わせて、テロを画策していたようです」
「それを俺達が事前に防いだってわけ」クラウンが得意気に胸を張る。
「テロって、たった一人で?」蓮が不審気に問う。
「勿論背後関係がある訳ですが、その連絡ルートの要を、我々が封じたと云うことです。Y国は身動きが取れず、テロの計画も頓挫した筈です」
「でもそれって、知佳が聞いた声の説明にはなっていませんよね」
「ああそれは……Y国人である彼の、文化的背景に起因するものですね。可成歪んだ殺意を、X国大統領に向けていた様です。植民地時代の中世欧州の拷問文化が一部に強く残っている様なお国柄ですし、独自の土着信仰等とも融合して、相当に禍々しい風習が残っている地方もあると聞きます」
「なんか……余りそれ以上は聞きたくないかも」蓮は嫌な顔をした。
「ちなみに笙の音の様なものは、通信機から聞こえてくる暗号化された音声でした。古の文化と最新科学の融合した、いかにもY国らしいガジェットですね」
「ええと、つまり、私達がテロを阻止したんですね?」と知佳が確認する。
神田は頷き、「そうです。連絡ルートを断ち切ったことでY国は足止めを食らいました」
その時。
突然空気が変わった気がした。すっと耳元を、小さな風が吹き抜けて行った様な気がする。
「来るで!」クラウンが突然叫んだ。次の瞬間、知佳は頭を締め付けられる様な感覚を覚え、目を閉じ掛けると、体が吹き飛ばされそうになった。クラウンが知佳の腕を確りと握り、「目ぇ開けとけ!」と叫ぶ。
蓮も、ユウキも、苦しそうにしている。神田に視線を移そうとした時、胸の奥の方から何かが迫り上がって来る様な気がして、思わず口を押えた。
「幻覚や、惑わされるな!」相変らずクラウンが叫んでいる。
知佳は目に涙を一杯溜めた儘、前方を見据えた。――母が居た。
「知佳、いつ帰ってくるの?」
「え、あっ……えっと」
「幻覚に反応すな!」
知佳はハッと我に返る。母は居なかった。
「知佳ったら。何泣いてんの?」蓮が目の前でケラケラ笑う。然し背後でも、蓮の声がする「厭だあぁぁ! 知佳あぁぁ
目の前の蓮は煙が崩れる様にして消えた。
「なにこれ……やめて……」知佳が頭を抱えて倒れ込みそうになった時、唐突にすっと楽になった。
「試練、終わったで」
知佳は息を吐きながら周囲を見回す。クラウンや蓮、ユウキも同じ様に疲れ切った様子で立ち尽くしていた。
「これが……幻覚の試練か」神田がふらつきながら云う。
「大抵のもんは、ワシの力で無効に出来るけど、今のは鳥渡手に余ったわ」クラウンは笑ったが、いつもより力弱い笑い方だった。肩で息をしているし、相当に疲弊している様だ。「ま、あんなのがまた何回か来ると思うけど、よろしく……」
「よろしくって……」ユウキが息も絶え絶えに呟くと、蓮が後を受け継いで「シャレにならないよ……」と云った。神田も稍ぐったりしている様だ。
「この道通らないとダメ?」知佳は弱気に発言する。
「こうしないと間に合わないんですよ……X国大統領の命に関わるので……」神田が肩で息をしながら答えた。「ホスト国として、大統領を護り切れなければ、我が国とX国の友好関係も危うくなります」
「でも阻止したんじゃ……」
「選択肢の一つを消しただけです。Y国は次の手を用意してますよ」
その後も幾度か幻影の試練を経験し、一行の疲労が頂点に達した頃、再び景色がぐるぐると回り始めて、通常の景色が戻って来た。それと同時に、眼下に島影が現れた。
「皆さん、あれが沖縄です」
七
島へ近付くに連れて、知佳達は興奮を抑え切れなくなって来た。
「遂に沖縄に着いたな。此処からが本番や」とクラウンが意気込む。
「がんばろ」知佳が小さく囁く。
そして到頭、島の上空へ到達した。其処には美しい自然景観と、悠久の歴史が広がっていた。然し彼らの目的は、沖縄の美しさを楽しむことではない。
雲の上で一旦停留し、作戦会議が開かれる。
「X国大統領は、美ら海水族館に居るそうです」神田が眼下に小さく見える建物を指さした。
「あー、いいなぁ、私も行きたい」蓮が子供っぽく拗ねた声を出した。
そんな蓮の姿を優しく眺めながら、知佳は唐突に神田に向かって、「あの、あたし若しかしたら、大丈夫になったかも知れないです」
一行はきょとんとして知佳を見た。「何が?」蓮が聞く。
「あ、あたしね、聞きたくもないのに他人の声が聞こえてくるのが、すごく辛かったの。一年ぐらい前に急にこの能力に目覚めて、それからはずっと、辛い毎日だった」
蓮は崩していた姿勢を正し、温かい瞳で知佳を見た。
「でも彦根で、あたし、自分から聞こうって思う迄、あのスパイの人の声聞こえてなかったって、さっき気付いたんです。あたし、能力をコントロール出来る様になったのかも!」
「ホント?」蓮は嬉しそうに微笑んだ。丸で我が事の様に喜んでいる。
「うん、だから、あたし屹度皆の役に立てます!」
「知佳さん、云った通り、何とかなりましたね」
神田に云われて、知佳は大きく頷いた。
「こうなるって、判ってたのね」蓮が感心すると、神田は軽く笑った。
「ではここからの段取りですが、先ずは可能な限り大統領の近く迄進みます。その際にはクラウンさん、周囲の人々に気取られない様、幻覚の煙幕を張っておいてください」
「了解です」
「近付くとは云っても、我々の任務は飽く迄極秘任務です。大統領やその周囲のSP達に見られる様なことがあっては不可ません。常に死角に控えておき、有事の際には即対応出来る様に構えておくことになります」
「死角にいて、如何やって対象の動向を探るの?」蓮の質問にはクラウンが答える。「わしに任せんしゃい。ちゃんと監視出来る様にしたるから」
「そこはお任せしますね」神田は続ける「配置に就いてから後は、会話は声に出さず、テレパスで遣り取りしましょう。では皆さん、取り敢えず正面から入場します。煙幕張りながら入るのでチケットは不要です」
「それって不可ないことなんじゃ……」ユウキが心配そうに云う。
「国家レベルの任務なので、その点は気にしないでください。それだけの責任を負っていると云う訳ですが」
ユウキはぶるっと武者震いした。
「では行きますよ」神田の合図を契機に一行は地上へ降り立ち、美ら海水族館のエントランスへと向かった。
クラウンは幻覚場を生成し、周囲の観光客や大統領の警備関係者から、自分達の姿が認識されない様にする。知佳は周囲の人々の心の声を探り、不穏な動静が無いか確認しながら進む。
一行はエントランスをパスし、順路に従ってどんどん進んで行く。この水族館は入場したフロアが最上階の様で、進むに従ってどんどん下層のフロアへと移ってゆく。大水槽を回り込む通路へと向かっている時、クラウンが片腕を張って進行を止めた。〈ストップ!〉皆の頭の中に、クラウンの声が響く。〈この角を曲がった処に、大統領がいる〉
クラウンが僅かに目を細めると、周囲に一段と念入りな幻覚フィールドが張り巡らされ、一行は完全に周囲から見えない存在となる。クラウンが両手の親指と人差し指で長方形を作ると、其処は幻影スクリーンとなり、角の先に居る筈の大統領とSP達の姿が映し出された。
〈も少し見易くしよか〉
両手の間隔を広げるとスクリーンもそれに合わせて拡大し、その儘クラウンの手を離れて彼らの脇の壁に貼り付いた。そんな怪しいことが起こっているのに、一般の客や警備員達は全く無関心に通り過ぎていく。彼らには見えていないのだ。
〈此処に写ってるのは、幻覚やなくて現実やで〉
画面中央には大統領。周りをSPが取り囲んでいる。
〈SP達の護衛に抜かりはなさそうですね〉と神田が全員にテレパスを送ると、〈でも、何かが起きそうな気がします。心が乱れ掛けているSPがいるので〉と知佳が報告する。
一同は幻影スクリーンに映る大統領とSP達の表情や動きを注視し、異変を逸早く察知しようと身構える。その時、神田が何かに気付いた。
〈知佳さん! この男の心が読めますか?〉神田はスクリーン上の、右手をズボンの隠袋に突っ込んでいる一人のSPを指した。
〈隠袋に手を入れるなんて怪しすぎやな。何を持っている……〉クラウンも彼に注目した。
知佳はその男の心の中へと侵入すると同時に、その様子をストリーム配信の様にリアルタイムで全員に伝える。暗い空間が見える。――何かが光っている? 知佳は更に意識を集中して、その正体を見極めようとした。
「やばっ!」蓮がいきなり叫び、目が赤く光ったかと思うと、遠くで花火の様な音がした。知佳は急に目の前が白くなった気がして、男の心から抜け出した。
〈えっ、どうしたの蓮。会話はこっちで……〉
〈ごめん、思わず叫んじゃった。でも、なんとかしたわ〉
スクリーン上で、男が奇怪しな動きをしていた。どうも慌てゝいる様だ。
〈知佳、あいつの心の中身を配信してくれてたでしょ。御蔭で気付いたの。爆発直前に排除出来たわ〉
蓮はウインクした。神田もクラウンも、唖然としていた。蓮が自己判断で危機回避してくれたこともそうだが、自分がそのことに気付けていなかったこと、一歩間違えば取り返しのつかない失態に繋がっていたであろうことを思うと、卒倒しそうな程のショックを受けていた。そして同時に、知佳も蓮もこのチームに必要不可欠な存在であると云うことを、強く再認識させていた。
〈蓮さん、よく気付いてくれました。御蔭で助かりました〉神田は素直に謝意を表した。
〈知佳の御蔭ですよ。この子の能力が無かったら、気付けなかったんですから〉蓮は照れ臭そうに含羞んだ。
男は相変わらず、隠袋の中や手元を何度も確認したり、キョロキョロと辺りを見回したりして居る。
〈蓮、爆弾は何処にほったんや?〉クラウンが不安げに確認を求めた。
〈海の上かな。破片が散ったとしても海に落ちてる筈よ〉
クラウンは幻影スクリーンをもう一枚開いて、海上を丹念に確認し始めた。
〈漁船とか、海水浴客とか、色々あるからな。その辺り配慮してくれてるなら好いけど……〉
〈あ〉蓮の顔付きが曇る。
〈いやまあ、大丈夫そうやな。でも次からは鳥渡考えとかなあかんな。ほぉる場所もある程度決めとこうか〉
〈うん……わかった〉
蓮の同意を確認して、神田が仕切り直す。
〈その件に就いては早急に認識を合わせておきましょう。でも今は取り敢えず、安全の確認をお願いします。知佳さん、他のSP達に不穏な心の動きがないか、確認出来ますか?〉
〈わかりました。確認します〉
知佳がSP達の心を走査している間、他の四人は幻影スクリーンで視覚的に異常の有無を確認してゆく。
〈今の所、不穏な動きはなさそうです〉
たっぷり時間をかけて、知佳はSP達の確認を遣り切った。大統領一行はその間に、大水槽の正面のスロープを下り切っている。
企てに失敗したSPは、気付かれないよう巧みに大統領の側を離脱し、建物の外へ出ていた。SPに化けたY国の工作員だったのだろうか、然し逃亡したところでY国ではもう生きられまい。彼の逃亡の様子は、クラウンにより確りと捕捉されていた。SPが水族館から出たところでクラウンの幻覚トラップに嵌り、そこを神田に念動力で捕縛された。SPは捕縛された状態の儘、海へ向かってすっ飛ばされた。
〈えっ、海に捨てちゃうんですか?〉幻影スクリーンに映し出された一部始終を見届けてから、知佳が訊いた。
〈いやいや〉神田は笑いながら、〈あの先、水平線の彼方に回収部隊がいるんです。後はX国の特殊チャンネルを通じて、その儘身柄を引き渡すことになります。Y国に帰して粛清されるよりは、希望が持てるかも知れませんね〉
知佳は思わず、自分の肩を抱いた。いずれにしてもあの男に未来は無さそうな気がした。
〈さて、監視の続きをしましょう。これで終わりってこともなさそうですからね〉
画面は再び、大統領を捉える。SP達は同僚が一人減った事に、気付いていないようだ。
八
大統領が大水槽の下迄進み、頭上の水槽を見上げている時、クラウンの表情に緊張が走った。同時にスクリーンの画像に乱れが生じる。
〈クラウンさん、如何しましたか?〉神田が訊くと、クラウンは張り詰めた調子で〈大統領の周りに、幻覚エネルギーの様なものが集まっている様です〉と答えた。
一同にも緊張が走った。知佳が改めて周囲の心をスキャンするが、異変は見つからない。クラウンが続ける。
〈未だ判然とは判らないですが、幻覚能力を持つ敵が攻撃を仕掛けているのかも知れない〉
クラウンの言葉が終わる前に、強大な幻覚場が大統領の周囲に迫って来た。
〈来たか!〉クラウンが構える。
〈私が大統領を!〉蓮が能力を使おうとしたが、即座にクラウンが制止した。〈アカン、今テレポートは!〉
不服そうにクラウンを見上げた蓮を、クラウンは振り向きもせずに、〈この幻覚場ん中で下手にテレポートしたら、バラッバラにちぎれ飛ぶで!〉
蓮はその言葉に一歩後退り、みるみる蒼褪めていった。〈じゃあ、どうすれば〉
クラウンは苛立たし気に〈ちょっと黙っててくれへん、何とか〉と云った瞬間、ぐらりとバランスを崩して片膝を付いた。神田がユウキに目配せをする。ユウキは直ぐにクラウンの腰に手を当て、気を流し込んだ。
〈おお、ユウキか。すまんな〉再び立ち上がると、むん、と気合を入れた。
世界が反転した。
白は黒になり、陰は陽になり、天は地になり、内は外になり、己の内側へどんどん落ちて行く感覚と、宇宙空間へ放り出される感覚が同時に襲来し、知佳が気を失いそうになった刹那、世界が正常に戻る。
〈これがドリーマーの戦い……大迷惑ね〉蓮は片手で額を抑えた儘、ふらふらと蹌踉けた。
世界が再び安定した後、一同は周囲を確認した。何事も無かったかの様に、大統領はその場に居た。
〈無事で何よりです〉神田がほっとした様に呟く。〈然しこれで、我々の存在は確実に、相手にも認識されたでしょうね〉
〈今後は直接此方に攻撃を仕掛けて来る可能性も、視野に入れておく必要がありますね〉クラウンも応じる。
一同は周囲に注意を向けつゝ、大統領の監視を続ける。
〈この行程自体、何か黒い意図がある様な気がしませんか?〉神田が誰にともなく云った。
クラウンがそれを受けて、〈そうですね。館内が入り組んでいて、襲撃にはもってこいだと思いますよ。早く此処から出てくれないかな〉
そもそも大統領は、水族館なんかに長居する気はないようである。案内係の女性の話をにこやかに聞いて、水槽の方に視線を向けてはいるが、焦点は魚になど合っていないようだし、胸の前で腕を組んで、左の人差し指が肘の辺りをトントンと苛立たし気に叩いている。
大水槽を通り過ぎて深海魚の展示室へと進むと、一気に照明が暗くなる。大統領達に遅れて薄暗い展示室に入ると、足元から怪しい音が響いて来た。大統領が行く先の小さな水槽の中で、黒い触手の様な物がうねり、魚達が騒然としている。
〈なんやあれは……〉クラウンが絶句している。
大統領は展示室を抜け、美ら海水族館の出口へと近づいてゆく。余程水族館が気に入らないのか、歩みを早め、出口へと急いでいる様子だった。水槽の中の異物になど気付く気配もない。
一行は距離を取りながら後を追いつゝ、水槽の異変に注意を向けていた。中のモノが出て来ようとしているが、水族館の水槽はそれ程柔ではない。神田達がその水槽前に至った所で、知佳が歩みを止めた。
〈ダメだよ……無理だから、諦めて〉そのモノに向けた知佳の言葉がテレパス場に響き渡ると同時に、何者かの思念が一斉に流れ込んできた。
〈ダレダ、オマエタチハ……ワレワレノジャマヲスルナ〉
水槽の中のモノが水槽の内側表面に張り付いた。
〈来る!〉クラウンが警告を発すると同時に、その得体の知れないモノはアクリルガラスにじわじわと浸透してゆき、その一片が此方側に出て来た。ガラスには罅一つ入っていない。
〈分子間の隙間を擦り抜けて来たのか!〉
〈神田っちの説明はいつも訳解んない!〉蓮がそう云いながら、水槽の中の本体を何処かへテレポートさせた。此方側に出掛けていた部分だけが取り残され、床にポトリと落ちる。それは液体のようにジワリと広がって行き、次第に床に浸み込む様にして、消えた。その様を見届けてから、一行は展示室を後にした。
クラウンも知佳も、神経を張り巡らせながら慎重に監視を続けているが、大統領が出口へ向かう間、特に目立った異変は起きなかった。外に出ると、大統領専用車が正面に停まって、主の来るのを待機していた。そして大統領が公用車に乗り込もうとした刹那、時が止まった。
静止した世界で、神田達五人だけが普通に行動出来ていた。
「なにこれ、どう云うこと?」出口を出た処で、状況を認識した蓮が思わず声を挙げる。
「誰かが時間停止したみたい。でも僕等には効かないよ」ユウキが得意気に云った時、
〈ミツケタ〉
遥か上空で不穏な気配がした。同時に世界が闇に染まる。一同が見上げると、其処には蓮がテレポートで排除した筈の、例のモノが浮かんでいた。いつの間にか大きな一ツ目が出現して、一行を見下ろしている。
「やだ、なにあれ、巨大化してない?」時間が止まっているので、遠慮なく声を出している。
「蓮、遠くに飛ばしたんじゃなかったの?」
「もちろん、ハワイぐらい迄吹き飛ばした心算だったけど……」
「意味なかったってか!」クラウンが身構える。
〈オマエラハ、ヤハリ、トメラレナイカ〉
「ユウキっちゅう優秀な能力者がおんねん、小細工は通用せぇへんで!」
ユウキは照れ臭そうに含羞んだ。「いや……余裕やな!」クラウンは思わずツッコむ。
そんな惚けた遣り取り等は全く意に介さぬ様子で、一ツ目が瞬きをしたその刹那、激しい雷撃が一同を襲う。
「うわぁ!」「きゃあ!」思わず叫び声が上がるが、攻撃を受けた割にはどこも痛くも痒くもない。
「あれ?」振り返るとユウキが踏ん張っていた。
「ユウ、あんたバリアも張れるんだ?」蓮が感心した様に云う。
「物理攻撃も、時間停止みたいな状態異常も、防御出来るよ、ヒーラーだからね」
「ヒーラーの範疇越えてない?」蓮のツッコミはいつにも増して嬉しそうである。
一ツ目の視線が大統領に向く。
「まずい!」ユウキが大統領にバリアを張るのが一瞬早かった。雷撃は今回も空振りとなった。
「然し弱ったな。防御は出来ても事態の打開には繋がらない……」
神田が真剣に困っているのを見て、クラウンは助言めいた事を云ってみた。
「神田さん、考えてみぃ。こんな強力なもん持ってるのに何で最初から使わんかったのか。なんで最終手段迄温存しとったんか」
「そうか……そうですね。それが答えか」神田は部下のアドバイスを素直に聞き入れると、静かに顔を上げた。「恐らくこの敵には、致命的で決定的な欠陥があるのでしょう。万策尽きて仕方なく投入してきたような気がします」
「どういうこと?」知佳の疑問に神田が答える。「たとえば、この敵は敵自身にも何かしらのダメージを与えるとか。若しくは見掛け倒しで実はもの凄く弱い――決定的で不可避な弱点があるとか」
然しユウキは不安そうに、「でも、その弱点なり欠陥なりを、僕らが見付けることが出来なければ意味ないですよね……」
「その通りです。なので我々はよく観察し、考えなければならない。取り敢えずユウキ君は、バリアに集中して時間を稼いでください」
それから暫くは、雷撃をユウキのバリアで防ぐだけの攻防が続いた。
「何とか打開策を見付けないと」
神田は焦っている。そんな中、知佳が自信無さげに云った。
「なんとなく……攻撃弱まってるかも?」
皆は天を振り仰いだ。心做しか一ツ目の怪物が、小さくなっている気がした。
「驚きのスタミナ不足ね」蓮が呟く。
「これは、防御だけで乗り切れるやつか?」クラウンも呆れた様な声で云う。
神田が右手を翳すと、一ツ目が蹌踉けた。その儘掌を捻ると、相手も空中でくるりと回転する。
「なんだこれは。ものすごい勢いで弱体化しているぞ」
目玉の怪物がみるみる萎んでゆく。軈てテニスボール程の大きさ迄縮むと、突然パンと炸けた。
「自爆した……」神田は天を見上げた儘、あんぐりと口を開けた。
ユウキが小さな声で「でも未だ、時間は止まった儘だね。敵の術は解けていないよ」
その時、植え込みの向こうで人影が動いた。皆が其方を注視していると、其処から黒ずくめの一団が姿を現した。
「白兵戦、キター!」蓮が叫ぶと同時に、一団は彼らに向かって襲い掛かって来た。
神田が念動力で敵を蹴散らし、蓮がテレポートで敵を海に落とし、クラウンが幻覚で敵を翻弄する。後から後から敵が湧いて出て来るが、五人には指一本触れられない。それは彼等が強いからなのか、将又敵がポンコツの寄せ集めだからなのか……
敵が最後の一人になった時、皆の頭に声が響いた。
〈我々の邪魔をするな!〉
最後の敵が此方を睨み付けている。彼の思念が流れ込んで来たらしい。神田が一歩進み出て子供達を庇う様にしてその男に対峙し、思念波を返す。
〈お前ら、Y国の者だろう。企ては最早失敗だ。大人しく撤退しろ!〉
〈ふ、君達に勝ち目は無い。如何やら五人でやっと一人前の様だな。私の能力は君達五人分をも凌駕する!〉
強い幻覚場が迫り上がって来た。
〈ハッタリも甚だしいわ!〉クラウンが前に出て、あっと云う間に場を敵方に押し戻す。その反動に煽られて敵は尻餅を突いた。
〈お前能力は多いらしいがな、その分スタミナが無いねん。あのクリーチャーもお前やろ? 萎んで炸けたやないかい!〉
神田が小さく手を振ると、男は地べたに倒れ伏した。
〈ボスは何処や〉クラウンが詰め寄ると、男は手に握っていた何かのスイッチを押した。然し何も起きず、敵は間抜けな顔をした。
〈あ、ごめんね。抜いちゃった〉ぺろりと舌を出した蓮の手には、爆弾の信管が握られている。
男が歯軋りして抵抗を試みている間も、知佳はその心の中を読み取ろうと頑張っていた。敵も能力者である所為か、中々読み取るのに苦労していたが、スタミナ不足が幸いしてか少しずつ核心に迫りつゝあった。知佳と並行して、クラウンによる尋問も苛烈を極める。
〈お前に命令しているのは誰だ!〉
男は抑え付けられながらも、不敵に笑い、〈誰がお前達などに教えてやるものか。さあとっとと俺を放せ! こんなことして只で済むと思うなよ!〉
〈只で済まな、どないするっちゅうねん。絵に書いた様な負け犬の遠吠え、止してくれや。興醒めするわ〉
〈後悔させてやる……〉
〈それもお定まりの台詞やな。他に云うこと無いんかい〉
男はぎりぎりと歯軋りした。
その時、知佳が短く云った。「読んだから、もう好いです」
それを聞くと神田は男を縛り上げ、自爆テロ犯と同様、海に向かって抛った。すると止まっていた時間が急に流れ始めた。
周囲の異様な光景に、大統領は一瞬体を強張らせたが、SP達に促されて車に乗り込むと、車は大慌てでこの場を離れて行った。
「未だ敵の気配らしきものを感じますね。一旦奴らを引き付けておきましょう。大統領は、私が遠隔で監視しておきます」クラウンは神田に対しては標準語になる。器用なものだと知佳は思う。
然しいつ迄経っても敵が襲い掛かって来る様子はなかった。何やら不穏な気配だけが継続しているので、一行は身動きが取れずにいたが、軈てその気配も徐々に消えていった。
「どういうこと?」蓮は気抜けした様な顔で辺りを見渡す。気が付いたら、あれだけ倒した筈の工作員達は一人残らず姿を消していた。
「嵌められたかな」神田は悔しそうに云うと、「一旦上空に戻って、体勢を立て直しましょう」と云い、全員を引き連れて上昇した。
九
雲の上で反省会が開かれる。
「どうやら気配はフェイクだった様ですね。我々の意識を逸らしている間に、敵は撤退して仕舞った様です」
「でもまあ、取り敢えず大統領が無事で良かったです。私達の役割は、大統領の護衛であって、敵を捕まえたりヤっつけたりすることじゃないですよね。だから逃げられても好いんだと思います」知佳の言葉に数秒間の沈黙が生じた。
「えゝまあ、それは理屈ですが、然し敵を逃がせば大統領の危機は継続して仕舞います。どこ迄が責務かと云うのは微妙な判断になりますね」神田がやんわりと反論する。
「まあえゝよ。過ぎたことは仕方がないです。とにかくわしらの任務は継続しているのだから、引き続き監視を続けるしかないでしょうね」
クラウンが関西弁と標準語の入り混じった可笑しな話し方で場を纏めようとした。視線はずっと幻影スクリーンに注がれた儘、大統領を監視し続けている。
そんな空気を打ち破る様に、蓮が暢気な声を出した。「思ったんだけど、アイツら日本語上手よね」
「蓮たらこんな時に、何感心してるの」知佳が呆れた顔で蓮を見る。
神田が簡単に説明する。
「テレパスに言語なんか関係ないですよ。耳から入った言葉は言語野で理解されますが、然しテレパスは先ず理解して、それから言語化されるんです。だから、常に聞く者の母国語で聞こえるんですね」
「神田っち相変わらず難しい」蓮は文句を云ったが、知佳は妙に感心して、「そうか。だからお花や草木も日本語なんだ」と独り納得した。
蓮が驚いた様な顔で知佳を見る。
「ええっ? 知佳あんた、草花の声まで聞こえるの?」
「うん、普通に聞こえるけど……あれ、云ってなかったっけ?」知佳はしれっと云う。
「初耳よ! 何そのファンタジー!」蓮は興奮してぴょんぴょん跳ねた。
「植物もコミュニケーションしていると云うのは、最近の研究でも明らかになりつゝある科学的事実ですね」神田が微笑みながら補足する。
「神田っち、相変わらずマジメ!」
「まさか、植物とも意思疎通が出来るなんてなぁ。信じられへんわ」クラウンが感じ入った様に云うと、「正に驚きだよね。私も聞いてみたいなぁ」と蓮が目をキラキラ輝かせた。
「でも、神田さん、私達の言葉を理解してくれるのは人間だけなんでしょうか」知佳が疑問を投げ掛ける。
神田は考え込んだ後、緩と答えた。「此方の想いや考えが伝わらない理由は特に思い付きませんが、然しそれは相手が理解するか如何かとはまた別の問題でしょうね。例えば草木に対して、空の色を説明したところで、草木には視力が莫いですし、当然色と云う概念も持たないでしょうから、此方の云っていることを理解出来るとは思えません。そう云う意味では限定的なコミュニケーションに留まるのではないでしょうか」
その時一羽の鳶が、彼らの近くを過った。知佳がそれを目で追いながら、「あ、そうだよね。当然だわ」と呟く。
「なあに? 今の鳥がなんか云ったの?」蓮が相変わらずキラキラした瞳で知佳に問う。
「云ったというか……あたしが勝手に読んだんだけど。なんか、お前らジャマだーって云いながら通り過ぎてったよ」
「なにそれー。愛想無いの」蓮はむくれた。「まあ確かに、邪魔なのかもしれないけど……」
知佳がウフフと笑う。
「まあ仕方ないですね。そうそう都合よく、動物達が此方の求めている情報をくれたりはしませんね。彼らには無関係ですから」
「なぁに神田っち、そんなこと期待してたの? 身勝手さんですか」蓮の指摘に神田は苦笑した。
「そう云えば知佳さん、読んだんですよね?」神田が改まって知佳に訊いた。
「えっ? 何ですか?」知佳はきょとんとした。
「いや、ほら、最後の敵。読んだって云ったじゃないですか」
「ああ……ボスの名前ですか」知佳は頷いた。「確かに読みました」
知佳が告げたボスの名前は、Y国政務大臣のそれだった。或る程度想定はしていたものゝ、改めて確定されると誰もが緊張感で体が震えた。
「この件は上にも通報しておきます。然し、暫くは敵も具体的な行動は取って来ないのではないでしょうか」神田が慎重に発言する。
「その心は?」クラウンが先を促す。
「目玉の怪物を倒した後の形振り構わない一斉攻撃や、最後の能力者の呆気莫さを見ても、敵は万策尽きている可能性が高いです。今回の為に準備したものは、全て我々が潰して仕舞ったと考えても、そう間違ってはいないのではないかと」
「そうやなぁ。……そうやと、いいけどな」虚空を見つめながら、クラウンは呟いた。
「時間停止したのだって、短時間で片づける自信がなかったからだよね」ユウキが一寸得意気に、私見を差し挟んできた。
「ユウ君、賢いねぇ」蓮がユウキの頭をくしゃくしゃっと撫でると、「や、やめろよ、ガキ扱いすんな!」と、真っ赤になってその手を振り払った。
「取り敢えず大統領は、後二日この沖縄に、ひいては日本に滞在します。兎に角その間は、絶対に大統領の安全を確保すること。それこそが我々に課せられた責務です」神田は一同を見渡し、改めて自分達の役割を認識させた。
「特にクラウンさん、蓮さん、敵のボスを叩きに行こう等と考えないでくださいね。非常に危険ですし、且つ、日本とY国との間の国際問題にさえ発展し兼ねませんから。飽く迄我々は、X国大統領を護るのみです。但しその職務に就いては、常に最大限のパフォーマンスでお願いします」
「わぁーってるって。わしより蓮やな、血の気が多そうなンは」
「まあ、何を仰っているの? こんなにもか弱く可憐で思慮深く、おしとやかで可愛いらしい乙女を捕まえて」
「はぁあ? お前なんやその、唐突なキャラ変は!」
そうして蓮もクラウンも、ケタケタ笑い合った。
「まあ、大丈夫そうですかね」二人の様子を見て、神田は安堵の溜息を吐いた。
その時、幻影スクリーンを見ていたクラウンの顔が、俄かに強張った。
「大統領は、名護のパイナップルパークにおる様やけど……どうも怪しい気配が漂ってきたでぇ」
神田も引き締まった顔で「直ぐにも駆け付ける可きですね」と云って、一行を連れて上空を移動し始めた。
「パイナップル食べてるのかな」移動中、蓮が呟く。「おなかすいた」
十
パイナップルパーク上空に着いた時、下界には何やら不穏な気配が充満していた。
「大統領はどうやら昼食を取っている様ですね」神田が云う通り、対象は「休業中」の札が掛かったレストランで食事をしている姿が窓越しに見えた。この日の為に特別に用意されたメニューを楽しんでいる様だ。
「あの人!」知佳が指差した先に、ドリンクを盆に載せて運ぶウエイトレスがいた。「あの飲み物はだめ!」
それを受けて蓮の目が赤く光り、次の瞬間にはそのドリンクが彼女の手に握られていた。
「テトロドトキシンだ!」ユウキが即座に指摘する。
「テトロドトキシンは、強力な神経毒ですね。一般にはフグ毒として知られています」神田が補足説明してくれた。
「彼女が大統領を狙ったの? どうして……」知佳は両手で口元を抑えて、幻影スクリーンに映る、線の細い悲しげな顔をしたウエイトレスを凝視している。
クラウンも凝と画面を見据えて、「あのウエイトレスに、敵意や邪念のようなものは無さそうに見えるけどな。依頼主が誰か知らんが、彼女が自分の意志で毒を盛ったなんて、余り考えたくないわな」
「あの人、脅されているみたい」知佳が眉を顰めながら云う。「小さな弟さんが、人質に……」
「マジか!」ウエイトレスにドリンクの幻覚を与えながら、クラウンが吼える。
「やり方が汚いよ!」ユウキが怒りに震えながら、「弟って何歳ぐらい?」
「ユウ君と同じくらいか、もっと小さいかも」知佳がユウキに気を遣いながら答えた。
ウエイトレスは空の盆を持って、大統領の横に立った。大統領は怪訝そうに彼女を見て、通訳に向かって何事か云っている。
「あ、ミスった」クラウンが舌を出した。ウエイトレスは彼女自身にしか見えていない幻のドリンクを、テーブルに置こうとしているところだった。クラウンが幻覚を掛け増しすると、大統領や周囲の護衛達にもドリンクが見える様になる。大統領が「ワォ」とか云っている。手品とでも思ったか。
「凡ミスですね。気を付けてください」神田がニコリともせずに注意すると、「すみません……」とクラウンが悄らしくなった。
知佳は脅迫者が近くに居ないか、手当たり次第に周囲の人々の心を探索していった。知佳の頭の中には、人々の心の声が次々と響いてくる。それを一つ一つ丁寧に選別してゆく。昨日迄は出来なかった芸当だ。今迄は一斉に聞こえ過ぎて、只の雑音でしかなかったのに、今はオンオフが出来る。聞きたい声だけに集中出来る。大統領の声、護衛のSPの声、その隣のSPの声、その向こうのSPの声、厨房の料理人達の声、レストランの責任者の声、近くにいる施設スタッフ達の声、その奥の……
「見付けた!」知佳が喜びの声を上げると、他の者も一斉に彼女に注目した。
「人質になっている人を見付けました。それと……」知佳は一瞬の間を置いて、「脅迫している人も見付けた!」
ウエイトレスは厨房の隅、料理人達の死角となっている物陰で、打ちひしがれていた。自分の肩を抱き、小さく震えている。その脇には、若い男が眉一つ動かさず、無表情に腕組みして立っている。二人の姿は上空から直接確認することは出来ないが、知佳は確実に彼らの心を読み取っていた。
「弟さんは、フルーツコーナーの奥に閉じ込められてます」
「フルーツコーナーやな」クラウンが幻影スクリーンを出し、建物内部を探し始める。
「先ずは人質の解放が先、その後で脅迫者を確保する」神田が指示を出す。
幻影スクリーンの片隅に、手錠を掛けられて柱に繋がれている少年の姿が映った。
「見付けたで。この子や」クラウンはその一角をズームし、皆に見えるよう画面サイズを拡大した。
神田が念動力で手錠を外すと、知佳が少年に念を送る。〈今よ、逃げて!〉
少年は一瞬吃驚して辺りを見渡したが、両手が自由になっていることに気付くと、一目散に出口へ向かって駆け出した。クラウンが幻覚に依って道順を示すことで少年の逃亡を助け、それと同時に蓮が脅迫者を此方へ転送した。
少年は無事、姉と合流した様だ。ウエイトレスは嬉し涙を流しながら、弟の体を抱き締めていた。
「扠、この脅迫者の意図や背景を探る必要があるな」転送されて来た脅迫者を拘束した後に、神田がその男を睨み付けながら云った。
「只の金の為だけでは、ないんやろね」
「この人の心の中を探ってみます」知佳は早速男の心の中へと下りて行った。
クラウンはにやりと笑いながら、「楽しみやな。結果次第ではタダじゃあおかんでな」
クラウン達の遣り取りを聞いていた脅迫者は、真っ青な顔をして「すっ、すっ、すみませんでしたあぁっ!」と叫びながら土下座した。――捕縛されている上に空中に浮かんだ状態なので、上手く出来ずにくるりと宙返りして仕舞ったが。
「なんや、おまえ」クラウンが呆気に取られて、ひっくり返った頭の弱そうな男を見た。
「わわわたわたしは、たたたのまれて」
「はぁ? お前Y国の工作員と違うんか?」
「めめめ滅相もござんせん、純粋な純血日本人で!」
神田は知佳を見た。知佳はそれに応える様に「バイト……だったようですよ。少なくともこの人自身に、積極的な悪意や害意は無かったみたいです」
「如何なってんねん最近の日本は……」クラウンが額をペチと叩きながら嘆いた。
「それでも、X国には引き渡さざるを得ませんね。少なくとも監禁や脅迫をした時点で、あなたは立派な犯罪者です」神田は冷酷に云い放ち、血の気の失せた哀れな男を海の彼方へと抛った。
「あんな程度の低い者迄動員しているところを見ると、
神田は吐き捨てる様に、そう云った。先刻からずっと神田は怒っている様だ。今迄の敵に対してここ迄の怒りを見せたことはなかった。知佳は気になったが、この仲間の心は此方から覗くことは出来ない。飽く迄送って貰った念しか認識出来ないのだ。知佳が神田の目を凝と見詰めていると、神田はハッっと気が付いて、
「ああ、ごめんなさい。取り乱して仕舞いましたね」と云って、またいつもの冷静な神田に戻って仕舞った。
結局、何に対してそこ迄怒っていたのか、知佳には解らなかったが、クラウンは何か判った様な顔をして、「あいつはほんま、今迄の中で一番虫が好かんですわ。神田はんの云いたいこと、判る気がしまっせ」と、珍しく関西弁で神田に云う。神田は鳥渡困った様に、苦笑した。
「よく判んないな」知佳は呟いた。
神田は気拙そうにしながら、「少し感情的になって仕舞いました。ただ、この任務には特別な思い入れがあるんです。それだけに、敵の行為が許せないんですよ」
彼の言葉が、嘘と迄は謂わないものゝ、今回の怒りの説明にはなっていない様な気がした。美ら海で遭った敵に対しては誰一人、ここ迄の怒りを見せてはいなかったのだから。怒りの対象は、彼の脅迫者だろうか。それともそれを背後で操っていた誰かだろうか。バイト感覚で簡単に犯罪に巻き込んで仕舞うシステムそのものだろうか。いずれにしても、なぜそうしたものに対して殊更に怒りを表明するのだろう。知佳はうーんと腕を組んで考えた。
「珍しいこともあるもんね。知佳が何か必死に考えてる」
「ほえ?」蓮の言葉に知佳は虚を突かれて、間抜けな応答をして仕舞った。
「考えるの苦手って云ってたじゃない?」
「あれ、ホントだ……あーそうかぁ。能力をコントロール出来る様になってきてから、頭も空っぽにならなくなってきたかも」
「成長ってこと?」
「能力覚醒前の状態に戻っただけかな」
神田はその遣り取りを、微笑ましく眺めながら云った。「能力の制御が出来る様になったと云うことは、能力と普段の思考へ割くエネルギーのバランスが取れる様になったと云うことですからね。本来の思考活動を妨げる様な、過度の能力の発露を抑制出来ていると云うことでしょう」
知佳は嬉しそうにして、控えめにうふふと笑った。
十一
この日の午前中は、色々奇怪しなことが起こり過ぎて、大統領の一行は如何やら午後の行程をキャンセルし、大使館に戻ることにした様だ。
神田達は大統領が無事に大使館に戻るのを見届けてから、「扠、取り敢えず今日のところは此処迄です。大使館の門の向こうは、日本の責任範囲ではないですからね」
「じゃあ、午後は自由時間?」蓮が期待に溢れた眼差しで訊いてきた。
神田は首を横に振りながら「残念ながら『待機』の扱いです。流石に今日はもう無いと信じたいところですが、夕方等にまた大統領が外出する可能性もあるので。監視しながらいつでも出動出来る様にしておく必要があります」
「えー、そうなのか。つまんない」蓮はふくれた。
「まあまあ、旅館で卓球ぐらいなら、問題ないんじゃない?」知佳が慰めると、蓮は少し表情を緩めて、「そんなことより、おなか空いたな」
一行は沖縄支部へ立ち寄って、昼食を取ることにした。
支部の社員食堂で、子供達はワクワクしながらメニューを見ていた。
「何にしようかな?」知佳が楽しそうに蓮に話し掛ける。
「やっぱり沖縄らしいものが食べたいなぁ。ソーキそばや海ぶどう、ちんすこうとか!」
「ちんすこうはおやつ!」知佳の指摘に蓮はぺろりと舌を出す。
クラウンは面白そうなメニューを見つけて、ニヤリと笑いながら云った。「ほな、これや! 激辛バリカタゴーヤチャンプルー。めちゃくちゃ辛そうやで」
「ゴーヤチャンプルーって、ゴーヤと豚肉と豆腐の炒め物ですよね。何がバリカタ?」神田が不思議そうに問う。
「そやな。なんやろ……ゴーヤとか豚肉がバリカタじゃあ、食えたもんや無いで」
そう云いつゝも、クラウンはその品目を注文した。
「クラちゃん、ゲテモノ食い?」蓮のいじりに、クラウンは心外だと云う様な調子で、「それは食堂の方に失礼や。屹度何か素晴らしい料理に違いあるまいよ」と反論した。
ユウキはそんな遣り取りを尻目に、「カレーライスが好いな」とマイペースに注文する。
一行は楽しいランチタイムを過ごした。バリカタゴーヤチャンプルーは何故かラーメンとして出て来た。博多ラーメンの様な堅麺の上にゴーヤチャンプルーが乗せられていて、その上から赤い香辛料が嫌と云う程掛かっている。味は担々麺の様だと、クラウンは云っていた。ゴーヤの意味はあるのだろうか。クラウンはひいひい云っていたが、それでも皆それぞれに、昼食を心行く迄堪能することが出来た。
当に束の間の休息だった。クラウンが幻影スクリーンで常時大統領の外出をチェックし続けていることを除けば、皆は任務のことなどすっかり忘れて、銘々に余暇を堪能していた。
沖縄支部は宿泊施設を備えている為、浴場も完備されており、知佳は蓮と共に二日振りの入浴を満喫していた。ユウキとクラウンはロビーに設えてあるテレビゲームで、色々なソフトを楽しんでいる。神田は一人、報告やなんかの事務作業を熟した後、マッサージチェアに身を横たえて、じっくりたっぷりの全身コースを味わい尽くしていた。
「あー、生き返る。やっぱりお風呂がいちばんよねー」湯船に浸かった蓮が、おっさんの様に呻く。
「蓮、いろいろありがとうね」隣で浸かっている知佳が云う。
「えー? 何が?」蕩けた目で蓮が反応する。
「蓮がいてくれてよかったよ」
「なぁに、可愛いこと云ってくれちゃってー!」蓮が抱き付いて来るので、知佳は慌てゝ身を躱した。湯飛沫が上がり、蓮は頭から湯船に沈んで行く。
「ああっ、蓮、大丈夫
その頃ユウキとクラウンは、ロビーでテレビゲームを楽しんでいた。クラウンは興奮した様子でコントローラーを振り回し、ゲームのキャラクターを巧みに操っている。
「おいユウキ、このボス強いで! よっしゃ、攻撃しまくってやる!」
ユウキは小さな手でコントローラーを確り握り、真剣な表情で画面を見詰めていた。「くそう、負けない!」といつになく強い口調で対抗している。二人はゲームに没頭し、時折歓声を上げながら連携プレイを楽しんでいた。
ユウキとクラウンがゲームソフトを格闘系の対戦ゲームに変えて、クラウンが三連勝程した頃、風呂上がりの蓮が燥ぎながらロビーに入って来た。
「知佳! 卓球やろ!」
ロビーの隅に、畳まれた卓球台が置いてある。
「うわー、本当にあるんだ、卓球」
知佳は元々運動がそれ程好きではないので、余り乗り気ではない様だ。
二人の会話を聞いていたクラウンが、ゲームコントローラーを握った儘「おっ、卓球えゝやん、このゲーム終わったら合流するで!」と声を掛けた。
「僕苦手だな……背が届かないし」ユウキは詰まらなさそうな顔をした。
「お手伝いしましょうか」何時の間にか、マッサージを終えた神田がユウキの背後に遣って来た。「念動力で、丁度好い高さでキープしますよ」
グッパーの結果、蓮とユウキ、クラウンと知佳でそれぞれペアを組んで、ダブルスで戦うことになった。
「クラちゃーん、幻覚禁止だからね!」「そっちこそ、テレポート禁止やぞ!」牽制し合う蓮とクラウン。
神田が審判を引き受けて、蓮のサーブから試合が始まった。蓮が力強いサーブを放つと、知佳は必死にボールに喰らい付く。
「知佳、がんばってよー!」蓮が敵陣から応援して来る。その横でユウキも一生懸命にレシーブする。試合は熱戦となり、笑い声や歓声がロビーに響き渡っていた。
セットの取り合いが続き、最終的にクラウンと知佳のペアが勝利を収めた。
「おお、なかなかの試合やったな!」クラウンが息を切らしながら云った。
蓮が大きく息を吐きながら、「もう一回やるよ! 次は勝つからな!」と元気に宣言する。然し知佳は、ひいはあ云いながら「あたしはもう、パスパス、抜けさせてー」と云って戦線離脱した。
結局蓮がクラウンにリベンジマッチを申し込み、今度はシングルスで一対一の戦いが始まった。知佳とユウキはロビーのソファに身を沈めてその対戦を観覧する。
クラウンがスマッシュを決めて勝敗が決すると、ふくれっ面の蓮が知佳の隣に身を投げ出した。
「あーんもう、くやしいーっ!」
「クラウンさん、大人げないぞー」知佳がヤジを飛ばす。
「すまんなぁ。手加減なんかしたらかえって失礼かな思ってな」クラウンはカカカっと笑った。
その時、幻影スクリーンに大統領の専用車が映った。
「おっ?」クラウンが画面に見入る。車内の様子が映る様に調整して確認したところ、大統領本人は乗車していないようだった。
「なんや。秘書官のお遣いかいな。ヒヤッとしたやんけ」
「大統領は外出してませんね」横から覗き込んでいた神田が、クラウンに確認をとる。
「ああ、大丈夫や」
「じゃああたし、汗掻いたからお風呂行って来る」蓮は一人、浴場へ行った。
ソファに沈み込んだ儘の知佳が、気の抜けた声音で以てユウキに話し掛ける。「ユウくん、卓球楽しかった?」
ユウキは幾分嬉しそうに、「楽しかったです。皆と一緒に遊べて、嬉しいです」と応える。
知佳も嬉しそうに笑顔を返して、「私も。皆と友達になれて、よかった」と云った。
結局この日は大統領側にも目立った動きはなく、午後は皆だらだらと過ごしながら日が暮れていった。
卓球も好いだけ遣り、その後もテレビゲームや、トランプ等で時間を潰した。途中神田が何度か席を外して、何か事務作業等している様だったが、特に通達事項等も無く平和に時が過ぎて行く。
夕飯は支部の食堂で取り、その後会議室でミーティングが行われた。
「本日はお疲れさまでした。午前中に激しい戦闘が続きましたが、皆さん調子を崩されたりしていませんか」神田が在り来りな挨拶で始めた。
「若し調子の悪い人があったら、ユウキ君に云ってください。ユウキ君、その際にはお願いしますね」
「はい。でも皆さん、元気な様ですよ」ユウキの報告に神田は笑顔を返した。
「さて、午後の寛いでいる間に、X国側から明日以降の行程の連絡がありました」神田は一拍置いて、「差し当たって明朝は、ひめゆり平和祈念資料館に行きます」
「ひめゆり平和祈念資料館ってどんなところなの?」知佳の疑問に神田が答える。
「沖縄戦の犠牲となった、ひめゆり学徒隊を追悼する場所です。迚も悲しい歴史の記録が収蔵、展示されていますが、我々日本人、取り分け沖縄県民にとっては、非常に重要な施設です」
「ひめゆり学徒隊って、中学生の女の子達やんね。戦争の犠牲になったんや」クラウンが静かに横槍を入れる。
「そう、ひめゆり学徒隊は学徒動員で集められた女子中学生達で、戦地で看護活動を行っていました。年端も行かない子供達が、非常に過酷な状況に置かれながらも、使命感を持って懸命な思いで、職務に従事していたのです」
心做しか神田の声は辛そうであった。そんな神田の様子を気に留めることもなく、クラウンはぶっきらぼうに云った。
「然しX国だって、戦時は敵方だった訳で。よくそんな所に行く気になるわな」
「反省しに行くのかな?」知佳の予想を、蓮は冷やゝかに否定する「沖縄戦に直接関わった訳でもないだろうし、そこ迄殊勝でもないんじゃない?」
「滅多なことは云うものではないですが、まああの大統領も、流石に大戦を経験している年齢ではないですからね。どこか第三者的な感覚があるのかも知れませんね」
神田の分析に対して、クラウンは不満げに「他人事っちゅう訳やな」とぼやく。神田は口元で笑いつゝも、全く笑っていない目でクラウンを見据えた。
「あ、なんかすんません」流石に神田の不愉快そうな様子に気付いて、クラウンが小さくなって謝る。
「ま、政治的な意見交換はこの辺にして、それ以降の行程も一応お伝えしておきます」
会議はその後十数分程度で終了し、解散後は各自風呂に入って(蓮はこれで今日、五度目の風呂だ!)、男女別々の相部屋に分かれて就寝した。
十二
翌朝も早くから一行は活動を開始する。ある程度の大統領のスケジュールは把握しているが、どんなイレギュラーがあるか判らないので、早朝からクラウンの幻影スクリーンは開きっぱなしであった。誰でも見られる様に壁に貼り付けた状態で大使館のゲートを投影し、五人の誰かしらが常に画面を見ている状態を保ちながら、朝の支度をしたり、朝食を取ったりした。
「今の所動き無しですね」すっかり準備を済ませた神田が、画面を見ながらクラウンに確認する。
「そうですね。大人しいもんです。予定通りに出発するのだと思います」
他の面子も準備が完了した様子で、画面の前に集まって来ていた。
「大使館上空で待機しましょうか」
神田の指示により、一同は薄水色のコンテナの様な物に乗せられた。畳二畳分程の大きさで、四方の縁から稍内側あたりに簡易な手摺が付いている。
「一人一人を飛ばすより、この方が楽なので。ご協力ください」
コンテナ内には簡単な、それでも背凭れと肘掛の付いた椅子が、人数分用意されていた。気休め程度のベルトも付いている。そうした椅子が全て内側を向いて、向かい合った二辺にそれぞれ二脚ずつ、もう一つの辺の中央に一脚設えてある。その孤立した一脚に神田が座り、他の全員がそれぞれ着座してシートベルトを締めたのを確認すると、コンテナは上空へと舞い上がる。
「素敵な色ね、あたしこの色好きだな」コンテナを見渡しながら蓮が嬉しそうに云った。
「保護色なんですよ。地上から見上げても、空に溶け込んで見つかりにくくなってます」
「曇りの日でも?」クラウンが疑問を発した。
「実は色を蒼から黒っぽい灰色迄、略無段階に変更出来る様になってまして。センサーで自動的に、空の色に近い色に調整してるんですよ」
「はぁー、ハイテクやな」クラウンは感心して、溜息交じりに云った。
「一応保護はしている心算ですが、くれぐれも落ちないようにしてくださいね」神田が悪戯っぽく笑いながら云うので、ユウキは身を固くした。
「大丈夫でしょ、神田っちを信じなさい。落ちても屹度拾ってくれるよ」蓮が笑いながらユウキの背を叩いた。
そうこうしている間に一行は大使館上空に到達し、間も無く大統領の車が出て来るのを確認した。コンテナは空に溶け込んだ儘その車を追い掛け、いずれひめゆり平和祈念資料館に辿り着いた。
大統領の車列が緩と資料館の前に到着する。彼らは雲の上から、大統領が車を下り、資料館へと入って行く様子を見守った。入館後、大統領が館の職員から説明を受けながら展示室を一つずつ回って行く間、一行は上空から幻影スクリーンでその様子を見守っていた。この資料館は構造が単純なので、一々下に降りる必要は無かろうと云う判断である。大統領は終始、厳粛な表情で説明を聞いており、時折展示パネルを指差してはそれに就いての説明を求めている。
「結構真剣に見てはるのね」クラウンが感心した様に呟いたその時、スクリーンの片隅に不穏な影が過った。
「この人、殺意を持ってます!」知佳が指摘すると、クラウンはその者を画面中央に据えた。
「ナイフか。原始的やな」
「矢張りもう、大した攻撃手段は残していないようですね」神田はそう云うと、蓮に向かって「まずナイフ。それから本人を」
次の瞬間、神田の手にはナイフが、そして彼らの輪の中心には襲撃犯が現れた。
「えっ? へっ
襲撃犯は判り易く狼狽し、近くにいた蓮にしがみ付こうとした。
「きゃあ!」蓮が身を躱すと、神田が彼を組み伏せた。その儘捕縛するとコンテナの柵に固定し、手に持っていたナイフを細かく調べ始めた。
「このナイフ、どうも臭いんですよね。判然とは判らないんですが……」
「私達の手元に置いて調査を続けても構わないでしょうか」知佳がナイフを凝視した儘訊ねた。
「何か感じますか? 契約上は容疑者の引き渡しに就いて規定されているだけで、凶器や証拠物件等に就いては特に定めが無いので、持っていても構わないと思いますが、常識的に余りべたべた触る訳にはいかないですね。後から提出を求められる可能性も高いですし」
結局ナイフに就いては、手元に残して引き続き調査を続けることとなった。襲撃者はいつも通り、海の彼方の回収部隊へ向けて抛られた。
凝とナイフを見詰めていた知佳が、徐に顔を上げると、「残留思念って云うのかな。なんか……あ、そうだこれ、昨日の能力者の念が籠ってる!」
「なんやて? あのへなちょこ能力者か」
「而もなんか、新しいんだけど……あの人捕まえたのって、昨日の朝だよね? でもこれ、どう長めに見積もったとしても、今日、日が変わってからの念だよ!」
神田とクラウンが目を合わせた。一同に緊迫した空気が走る。
「あいつ、脱走したってことか?」
「回収部隊やX国の受け入れ側に就いては、能力者への対策が十分でない、と云うことはあり得ますね」神田が唸る。
「わしらの様な能力者が関わっていると、想定出来なかったんか」
「いや、程度の問題とは思います。彼は――多才な能力者でしたから」
その時、ナイフの表面が俄かに曇り、幽かに震えると、神田の手からすうっと抜け出した。神田は慌てゝ取り縋ろうとするが、ナイフは素早く移動し、神田の右肩に突き立った。
「つぅっ!」神田が苦痛に顔を歪める。ナイフが勝手に神田から抜け去ると、傷口から血が迸った。
「かっ、神田さん!」ユウキが慌てゝ傷口を塞ぐ。瞬く間に傷は薄くなり、痕も残らない程綺麗に消えた。
「油断しました。ユウキ君ありがとう」もう痛くない筈だが、余韻の所為か神田は顔を顰めた儘、然し視線はナイフから外さない。神田は左手を翳すと、念動力でナイフの動きを抑え込んだ。
〈チクショウ、この馬鹿力め!〉ナイフの、基昨日の能力者の思念が、全員の頭に谺する。
「てめぇ、やってくれたな!」クラウンが凶悪な表情になって、ナイフの束に手を掛けると、刃の部分に金髪碧眼の白人の顔が浮かび上がった。
〈どこから操作してけつかる!〉
〈云うわけねぇだろー、ヒヒヒ〉
〈ねぇ、ピートさん〉知佳がさらりと名を呼んだ。
〈あ? な、なんで俺の名前を!〉
神田は恐ろしい形相になってナイフに映る男の顔を睨み付けながら、〈ピート、お前の魂胆はお見通しだ。我々が居る限り、好き勝手な真似はさせないぞ!〉
ナイフの中のピートは、傲慢な笑みを浮かべた。
〈ふん、大した自信だな。だがな、お前達に俺を止めることなど出来ないさ〉
〈覚悟しておけ! 其処から逃げるなよ!〉
神田は激高している様に見えて、昨日の恐喝者に対して見せた程の怒りではないことを、知佳は感じ取っていた。いつもの冷静な怒りでしかない。矢張り知佳にはその辺りの機微がよく解らない。判らないけど取り敢えず今は、ピートだ。知佳はピートの念の軌跡を辿ってみた。念波の強さからして、そう遠くはない筈。緑が見える。木だ。森、否、これは公園か。何か特徴的な物が近くに無いか……海が近い様だ。そして……
「展望台かな」
「何か見えましたか?」知佳の独り言に神田が反応する。
「この近くの公園で……海が近くて……展望台……噴水もあります……」
「公園はいくつかあると思いますが……その条件だと、一番近いのは平和創造の森公園かな」
クラウンが幻影スクリーンの視点を飛ばす。
「展望台の近くでええか?」
「うん」
早速展望台の麓辺りに、不自然な人影を見付けた。金髪天然パーマの白人が、神田を刺したのと同じ形のナイフに向かって、何事かぶつぶつ呟いている。
「ピートを展望台の麓に発見しました」クラウンが神田に報告した。
「我々はこの持ち場を離れる訳にはいかないんですよね。ピートを如何にかして、此方へ誘導出来ないですかね?」神田が首を捻って悩んでいると、クラウンが「それなら、私が幻覚でピートの注意を引くことが出来るかも知れません」と提案した。
「ではそれで、やってみましょうか」神田は提案に乗り、クラウンは早速、ピートの方角へ向けて幻覚を飛ばした。
十三
展望台の麓、ピートの目の前に、突如として神田以下五人の姿が立ち現れた。
「見付けたで、覚悟せぇや!」五人の中のクラウンが叫ぶと、大量の蛾の幻覚がピートに襲い掛かる。ピートは微動だにせず、片手でそれらを払い除けた。次いで神田がピートの手にあるナイフを取り上げようとするが、神田の念力はピートの結界に弾かれた。蓮の力も及ばない。
〈おいおいおい、お前ら本気で来てるのか? 余りにお粗末だな〉ピートは不敵に笑いながら、目の前の五人に襲い掛かる。五人は防戦一方となり、堪らず北へと逃走した。ピートがそれを追い掛ける。
「やっぱりアイツ、単純馬鹿やで」一部始終を幻影スクリーンで確認していたクラウンが、楽しそうに云った。五人とも資料館上空から動いてはいなかった。
程なくして、五人の姿を模した幻影が南の方から飛んできた。その後ろをピートが追い掛けて来る。
「あの人――ピートさんは幻じゃない。本物だよ」知佳が太鼓判を押す。
「よし、行くぞ!」神田が檄を飛ばした。
五人は一斉に身構えた。クラウンは贋物の五人を自分達に十分引き付けてから消すと、ピートの前に仁王立ちする。ピートは一瞬不意打ちを食らった様な顔をしたが、直ぐに気を取り直して、〈さて、楽しませてもらおうか〉と不敵に笑った。
〈ピートさん、念の為確認しておきますが、我々に降伏する心算はありませんか?〉神田がテレパス場を用いてピートに語り掛けると、ピートはワハハと大笑いしながら、〈何を寝ぼけたことを云っているんだ。本よりお前らだって、そんな気は無いだろうに!〉と云って、衝撃波を繰り出した。ユウキがバリアを張ってそれを防ぐと、今度はクラウンが挑発をする。
〈二言は無いな? ようしその覚悟があるなら、掛かって来るが好い!〉
「なんか悪役みたいなセリフだね」蓮が知佳だけに聞こえる位の声で、そう小さく囁くので、知佳はくすっと笑って仕舞った。
そんな二人の様子などお構いなしに、戦闘は開始された。神田が念動力による衝撃波で遣り返せば、ピートは矢張り念動力でその攻撃を跳ね除け、透かさず神田の手元のナイフを操って攻撃をして来る。神田も二度同じ手には掛からぬとばかりに体を躱し、ナイフの制御を奪って床上に叩き付ける。その間にもクラウンが幻覚の洪水を起こし、然しピートに無効化される。ピートも同様に幻覚の大火で遣り返すが、クラウンの一喝で全て押し返し、ピートは自分の起こした炎の幻覚に巻かれて仕舞う。
そんな攻防の中、蓮が知佳に質問をしてきた。
「あのさ、あたしたちの心の中って、知佳、読めないんだよね?」
なんでこんな時に、と思いながらも、人の好い知佳は答えて仕舞う。
「そうだね……テレパス場に乗ってると、相手が送ろうって思った思念しか聞こえて来ないし、こっちから覗こうとしても覗けないよ」
蓮は鳥渡考えるようにして、「あいつ、ピートもさ、知佳のテレパス場に乗って来てるよね」
「あー、うん、そうだね。能力者なら誰でも乗れるのかな」
「昨日もそうだったけど……何で知佳、あいつの場所とか名前とか、ボスの名前とか判ったの?」
思わず知佳は蓮を見詰めた。本当だ。何でだろう。「――そうか。隙間があるんだ」
知佳は蓮のヒントに活路を見出した。テレパス場に乗っているにも拘らず、ピートの心には覗き穴が開いているかの様に、幾つもの隙間がある。先刻迄は特にそうしたものを意識せずに、漫然とピートの中を読んでいたのだが、他の人より若干読み難い気がした理由も判った。本来読めない筈なのに読めていたのだと云うことにも気付くことで、どうすれば読めるかも漸く認識出来た。此処からは知佳が明確に主導権を持って臨むことが出来る。
知佳はピートの心の隙間から、慎重にその中へと下りて行った。
ピートとの戦いは相変わらず続いていた。これだけ激しくぶつかり合っていれば、地上から直ぐに気付かれそうな気もするが、ピートの能力かクラウンの配慮か、将又何か別の要因の為なのか、地上の観光客やSP達、施設職員含め誰一人、頭上での激しい戦闘に気付く者は無かった。
戦況はどうも五分の様である。一つ一つの攻防ではピートを押している様でもあるのだが、何しろピートの手数が多く、それを捌くのに手一杯で今一歩踏み込んだ攻撃に移れていない。
「そろそろあいつのスタミナが切れそうなものですが」ピートのスタミナ不足を思い出して、神田がポロリと零した。
「そうですねぇ。栄養剤でも飲んだか、ヒロポンでも打ったか……思っていたより長続きしてますね」クラウンも同意しながら、ピートの攻撃を撃ち返す。
そんな中、知佳がテレパス場でピートに語り掛けた。
〈ピートさん、ピートさん! シルヴィアさんのことはどうするの?〉
ピートの動きがぴたりと止まった。
〈なっ、お、お前……〉ピートは真っ赤になってプルプルと震えている。
「知佳、また読めたんだ?」蓮が耳元でひそひそと訊くので、知佳もひそひそと返す。「うん、断片的にだけど。でも彼の大事な人の名前」
その隙に神田の念動力がピートを組み伏せた。ピートは束縛から逃れようと足掻くものゝ、一度萎えた勢いは最早戻っては来ない様だ。
〈きっさまああああ
知佳は目を閉じた儘凝としていたが、軈て緩目を開けると、〈ピートさん、婚約者を国に置いて来ているのね。この任務のことは何も云わずに〉
〈黙れ黙れ黙れー!〉
〈あなたも判っているでしょう。お胎の子が、もう直ぐ〉
ピートは無言で、項垂れた。
〈ピートさん、シルヴィアさんは本当に心配していると思う。ずっとあなたの帰りを待っている筈です〉
〈……シルヴィア……くそっ、お前らなんかに何が判るんだ……〉
知佳は優しく語り掛け続ける。
〈ピートさん、もうこんな無益な戦いは止めて、シルヴィアさんの許へ帰ってあげてください。一人で産むのは心細いと思います〉
ピートの視線が揺れる。知佳の言葉は確実に彼の心に響いていた。
〈……そう……だな……俺は、シルヴィアの許へ行かなければ〉
神田が隙を突いてピートを捕縛した。そしていつもの様に海へ抛ろうとするのを、「待って!」と必死の様相で知佳が止めた。
「神田さん、何とか出来ないの?」泣き出しそうな顔で知佳が懇願する。神田は困った様に「いや、でも、X国との契約ですし」
「だって結局、この人何もしてないよ?」
「何もしてなくは無いねん、神田さんを刺したから。でもまあユウキが治してもうたし、結果的に何も出来てないことには変わらんか。――ま、無能やもんな」クラウンが茶化すと、言葉が判ったのか雰囲気を察したのか、〈なんだと!〉とピートが反応する。
「まあ、引き渡したところでまた逃げるんやろうけど」クラウンがにやりと笑う。それを受けた神田は暫く考え込む様にしてから、「少々考えます」と云ってどこかへ電話を掛け始めた。幾つかの遣り取りの後、蓮を招いて何事か云うと、蓮の手に小さな部品が現れた。神田はそれを受け取り、ピートへ向き直ると、〈このトレーサーをあなたに埋め込むことで、力を封じると共に、X国の監視下に置きます〉
蓮の目が赤く光り、小さな機械は消えた。ピートの体内へと転送された様だ。
〈日本なら、安全かも知れませんね〉神田は意味有り気に付け加えた。
ピートがY国の任務に失敗したことは誰の目にも明らかで、その為Y国に帰ることは何よりも危険であると云うことも皆は承知していた。帰国などしたらその場で拘束され、粛清されて仕舞うだろう。然し日本に残るなら。この儘亡命して仕舞うのなら。神田の言葉はピートにそうした連想をさせるには十分だった。
然しピートは苦悶の表情になる。
〈でも、シルヴィアが……〉
シルヴィアはY国で彼の帰りを待っているのだ。家になんか帰れる訳もないのに。
〈彼女のことは後から考えるとして、とにかく今はあなたが生きなければ〉知佳の言葉は正論ではある。然しピートには決められない。
その間ずっと、クラウンと蓮がヒソヒソと遣っているのに、知佳は気付いていた。何やら企み事をしている様である。然し仲間の心は読めないし、声も小さいので何をしようとしているのか迄は判らない。
神田はピートに向かい、〈立場上我々があなたに何かの便宜を図る訳にはいかないですが、我々としても犯人を捕り逃すと云う失策はあり得る訳で……〉
なんとなく歯切れの悪い説明をしていると、〈ねえねえ〉と蓮が声を掛ける。〈この人で合ってる?〉
蓮の傍らには、色の白い金髪女性が立っていた。神田は度肝を抜かれ、何か云おうとしたが、それより早くピートが反応した。
「シルヴィア!」そしてY国語で何事か叫び続ける。
「よかった、合ってたみたい」蓮がクラウンと北叟笑み合う。
「どうやって……否、どうやっては判ります。クラウンさんが見付け出し、蓮さんがテレポートで……然しY国って凄く遠いんですよ。あなた達の能力は、そこ迄発達していたのですか!」神田の狼狽っぷりは滑稽な程だった。
「出来そうや思てやってみたら」「出来ちゃったね」二人はケタケタ笑っている。
十四
ピートは興奮した体で、ずっとシルヴィアに何事か語っていた。合間合間にシルヴィアが首肯いたり、何か短い言葉を返したりしているが、略ピートが一方的に捲し立てゝいる様だ。神田達はその様子を凝と見守っていたが、軈てピートが皆の方に振り向き、何処かバツの悪い表情で、緩と頭を下げた。
「何を話していたの?」知佳にはY国語など丸っきり解らない。それは蓮もユウキも、そしてクラウンも同様だった。
「私も然程Y国語が判る訳ではないのですが……」神田はそう云い訳をした上で、「シルヴィアさんはいきなりテレポートされて戸惑っていた様でしたが……」と説明を始めると、蓮がぺろりと舌を出した。
「ピートが状況説明し、稍不安ながらも一応納得された様ですよ」
「ピートが何をしたか、しようとしてたか、シルヴィアさんは知ってはるんですか」クラウンが訊く。
「詳しくは知らない様ですが、なんとなく察してはいる様ですね」
〈どうぞご無事で。お幸せに〉知佳がテレパシーを使って二人にメッセージを送ると、シルヴィアは鳥渡意外そうな顔をしたが、直ぐににっこりと微笑みを返してくれた。
〈すまない。恩に着る。いずれ何処かでまた逢うこともあろうが、一旦はお別れだ〉ピートが全員に告げる。
能力を封じられたピートは、神田に地上迄降ろして貰うと、二人寄り添いながら何処かへと立ち去った。
「ピートとシルヴィアには、無事でいて欲しいものだ」神田が小さく呟く。
蓮と知佳、ユウキが、ピートとシルヴィアの姿をいつ迄も見送っている横で、神田とクラウンは再び警戒の目をひめゆり資料館に向けていた。知佳達もピートの姿が見えなくなると、それに合流する。その途端知佳が、「何か変」と戸惑いながら云った。
「どうしましたか?」神田が尋ねる。
「何か変な気配があります。誰がとか云う訳じゃないんだけど……なんだか人々の心がざわついていると云うか」
大統領は、丁度ひめゆり平和祈念資料館から出て来たところだった。不穏な気配は、資料館の横に立っているひめゆりの塔から漂っている様である。
「これは……ガスか!」
神田が気付いた通り、無色透明の毒ガスがひめゆりの塔方向から流されて来て、無差別に一般人が巻き込まれようとしていた。既に何人かは不調を来し始めている。
神田が意識を集中し、ガスを選択的に拡散させ、無害な濃度に迄薄めようとしている。然し後から後からガスが流れて来る為、迚も追い付けるものではない。神田が苦悩していると、背後からユウキが手を添えた。
「僕にやらせてください」ユウキは神田のスタミナを回復させながら、毒ガスに捉えられた人々に対して気を放つ。一帯が少しだけ明るくなり、倒れていた人々が回復して行くと共に、ガスの毒性が消えてゆく。その効果は連鎖的にひめゆりの塔迄遡って行き、最終的には無毒な大気が流れるのみの状況となった。
「ユウキ君ありがとうございます。大変助かりました」神田が感謝の言葉を掛けると、ユウキは照れ臭そうに頭を掻いた。
「大統領が移動します。次は確か、首里城へ行く筈ですね。ガスの出所が気になるので、クラウンさん、移動しながら調べておいてくれますか」
一行は大統領の車を上空から追い掛けながら、クラウンの幻影スクリーンに群がっていた。
「うーん、ガスを発生させていたらしい装置は判るけど、その周りに人の気配は無いねんなぁ」クラウンは首を傾げている。
「無人の全自動ってこと?」蓮の質問に、「うーん、そうかも知れへんなぁ」と、自信なさげにクラウンが答える。
蓮は、知佳が稍困った様な顔をしているのに気付いて、「どうしたの?」と声を掛けた。
「うーん。なんでだろう。この装置、ピートさんの気配が……でもすごい微かだし、本人もうどこか遠くに行っちゃったし……」
「仕掛けた儘忘れて行ったのかも知れませんね」神田の指摘に、クラウンが呆れ顔で「やったら、迷惑な話や――ったく、あの無能め!」
知佳は思わず、笑って仕舞った。発生した現象自体は、笑い事では済まされないものなのに。
「真実彼が仕掛けた儘忘れていた物なのだとしたら、これ以上何かが起きる気遣いもないでしょうね。只確証がある訳ではないので、引き続き装置に近付く者などがいないか、監視を続けてください」
大統領の車が首里城に到着すると、SP達に護られながら大統領が車から降りて来た。クラウンはもう一枚の幻影スクリーンを出して、大統領の行路の前後や、周辺施設などを目視確認してゆく。知佳もそれに併せて、周辺の人々に悪心や邪心が無いかを確認する。
首里城は大規模な改修、もとい復興工事中であった。大統領の興味も、首里城そのものやその歴史と云った文化的なものより、復興の状況や、其処で使われている技術的な方に向いている様だった。
「首里城って、火事で焼けちゃったんだよね?」蓮が訊く。
「そうですね。令和元年の秋だったと記憶してます。全ての復興が終わるのは、令和八年か九年ぐらいと聞いてます」神田が詳しく教えてくれた。
「なぁんか、おっきいプレハブ倉庫みたいな感じになっちゃって、全然お城じゃないのね」
「あの中で懸命な復興作業が行われているのですよ。大統領も今、其処でいろいろ説明を受けていますね」
「あ、撤去された」クラウンが会話に割り込んできた「毒ガス装置、業者っぽいのが来て持ってったで。Y国の工作員かな」
「撤退したなら、其方はもう良いですよ」神田の指示で、クラウンは幻影スクリーンを閉じた。
「大統領の監視に集中しましょう」
神田の言葉を機に知佳が大統領周囲の者達の心を走査していると、何か違和感のようなものを感じた。再度同じように走査して、それが危険な想念であること迄は判ったが、如何にも実態が掴めなかった。
「大統領の周りにいるあのSPの人達、誰もが危険な気持ちを抱いているんだけど……なんだかボウっとしていて、よく解らないな」
知佳の言葉に、一同は周囲の状況を注視してみたが、危険想念の正体は杳として知れなかった。最大の能力者とみられるピートは既に去った。Y国に彼を上回る能力者の備えがあるとも思えなかった。あったとしてもこんな短期間に投入は出来ないだろう。自爆テロ未遂で幕を開けたところから見ても、Y国は最初から全力で大統領の暗殺に臨んでいる。より強力な隠し玉を持っているとは、到底考えにくい。
「然しそうすると、この危険想念の正体は一体何なのだ」神田は独り言ちた。
ずっとSP達を注視していたクラウンが、つと顔を上げた。
「これは知佳ちゃんには荷が重いわ」そして神田を振り返ると「彼らは緩い催眠状態ですね。然程強力な力ではないので中々判らなかったのですが、如何やら誰かに、催眠暗示を掛けられている様です。今迄気付かない程微かなものだったのが、時間と共に少しずつ染み出して来ている感じですね。今や知佳ちゃんが気付くぐらいに迄漏出してはいますが、それでも具体的な攻撃意思迄は芽生えていない様です。然しそれも、時間の問題かと」
「解けますか?」神田が問う。
「やってみましょう」
クラウンは幻覚能力を反転させて、SP達の催眠暗示を一人ずつ中和させていった。人数が多いのでそこそこ手間が掛かったが、それでも数分程度で作業を終えた様で、「――解けた様です。彼らの意識が正常化しました」と報告する。
知佳は再度SP達の心を走査し、先程の違和感が消えていることを確認した。
「私も確認しました。もう大丈夫だと思います」
「二人とも、ご苦労様でした。ありがとうございます」
知佳はSP達に掛けられていた暗示の痕跡を辿ってみる。必ず誰かが掛けたのだから、遡れば必然的に辿り着く筈だった。然し或る時点で、痕跡はふっつりと途絶えて仕舞う。
「だめ。どうしても辿れない……」
知佳の無念にクラウンが答える。
「ああ、それは多分、無理やろうな。あの暗示は能力者に由るものではないよ。恐らく薬物と、音波や何かを利用した、至って科学的な手段で掛けられたものやろな。問題は、いつ誰がそれをしたかやけど……」
「そうなんだ……じゃあ」
知佳はアプローチを変えてみた。暗示の痕跡ではなく、彼らの記憶、体験を探る。今朝の記憶。昨日の体験。そのずっと前の……
「うそ、そんな前から」知佳は辿り着いた。「来日の一週間ぐらい前に、研修の様な形で奇怪しな体験してます。アロマの様な香りが漂う部屋に集められて、何か変な音を延々と……」
一同は顔を見合せた。神田が軽く呻く。
「そうか、最初の自爆テロもそれで」
神田は考えを巡らせながら、緩と続ける。「詰まり敵は、来日するずっと前から行動を開始していたと云うことで、その手口も予想以上に巧妙だったんですね……もう少し情報が欲しい所ですが、その研修の名を借りた洗脳が誰の指示で、何の様に行われたのかなどが判れば」
「解りました、もう少し探ってみます」
「大変な作業かとは思いますが、無理のない範囲で、お願いしますね、知佳さん」
「はい」
然し彼らの心を如何に深く読んでみても、新たな事実は見付からなかった。知佳は焦りを感じ、いつになく必死になっていた。
「知佳さん、無理しないで」ユウキが傍らに来て、そっと気を送る。
「うん、ありがとう、でも……」知佳には如何すれば好いのか判らなかった。
難しい顔をしながら考え込んでいた神田が、助け舟を出すように、「SPの研修に暗示のプログラムが仕込まれていたと云うことは、X国の警備組織内にスパイがいると云うことですね。そこで思い出したんですが、昨日の午後、X国大使館から公用車が出かけて行きました。あれは誰が何処へ行ったんだったか……」
クラウンも考えながら「監視映像残ってるんで、再生しましょう」と云いながら幻影スクリーンを出して、昨日の監視映像を映した。
大使館から車が出る。車内の映像に切り替わる。二人の人間が乗っている。運転しているのは秘書官の様だ。助手席には国防大臣か。車は郊外へ向かって走り去った。
クラウンは映像を停止させ、神田に向き直った。「秘書官と国防大臣やと思うけど、二人で郊外に走り去るのは、云われてみれば如何にも怪しい気がしてきますわ。目的地は不明やけど、映像は此処迄なんで、これ以上のことは判らんです」
そしてスクリーンの映像を現在の様子に切り替えた。秘書官は大統領の斜め後方に控え、国防大臣は大統領の隣に立っている。クラウンはその二人の様子を観察しながら、「なんや奇怪しい」と首を傾げる。新たな幻影スクリーンを二つ出し、二人をそれぞれアップにして映し出す。そして再び「なんや奇怪しいわ」と呟いた。
「この人達、心が空っぽ……」知佳も不思議そうに云い添える。それを聞いたクラウンが、緩慢に顔を上げた。「あー、そう云うこと」
神田が説明を求めるので、「彼らは廃人一歩手前ですわ」とクラウンが答える。「麻薬が使われている様で……非道い話やなぁ」
「麻薬の常習者と云うことですか」神田が確認すると、クラウンは首を横に振って、「一度に大量の麻薬が使われたんやと思います。傀儡ですわ。誰かの云い成りになっている様です」
「僕この距離では、ちょっと……」ユウキが申し訳なさそうに囁く。
「うん、今ではない。機会を待ちましょう」神田に従い、一同は監視を続ける。
十五
大統領が首里城の復興現場から出て来た。何やら周りの者と談笑しながら、車に乗り込む。
「次は何処だろう」と云う蓮の問いに、神田が「そろそろ昼食だと思いますが。首里城公園内のレストランで用意がされているのだと思います」と答える。
車は公園の外周に沿って移動して、大きな建物の裏手から再び公園内へと入って行った。
「大統領ってどんなもの食べるんだろうね」蓮が暢気に云うと、「そりゃあ、見たこともない様なチョー高級なご馳走やろうなぁ」とクラウンも暢気に返す。然し、軈て幻影スクリーンに映し出された大統領の食事は、至って在り来たりな洋食だった。
「なんやぁ。沖縄料理ぐらい食えや。豆腐餻食え、豆腐餻」
「クラちゃん、云ってること無茶苦茶」蓮がコロコロと笑った。
クラウンがSP達の洗脳を解いた所為か、いつになく悠然と平穏な空気が流れている様である。
「この儘何事もなく、過ぎてくれれば」神田が祈る様に云った。
幾分退屈気味なユウキが知佳の傍らに寄ってきて、「知佳さん、こんな話知ってますか?」と云うと、勝手に語り始めた。
「昔々、遠い国に住む少女がいました。彼女は魔法の力を持っていて、森の中に住む妖精達と友達になりました。彼らと一緒に、彼女は冒険に出かけ、数々の困難を乗り越えて成長していきました」
知佳は不意を突かれて目をぱちくりさせていたが、文句も云わずに静かに聞いていた。ユウキの語り口は次第に熱を帯びてきて、クライマックスを過ぎた辺りで、大統領が昼食を終えて席を立つ。料理人達に謝辞を伝えてから、車に乗り込み、その車列が滑るように首里城公園から出て行く辺りで、ユウキの物語も終わりを迎えた。
「あんたら何やってんの?」蓮が呆れた顔で知佳とユウキを見た。
「あはは、なんかユウ君が、変な話してくれた」知佳は楽しそうに笑っている。ユウキは「変な話」と云われて鳥渡複雑な顔をした。
大統領の車は程なくして近くのホテルへと入って行った。「午後から、沖縄県知事との会談がありますね」神田が説明する。
「会談迄は未だ時間があるので、一旦スイートで休息と云ったところでしょうか。我々も中に入りましょう」
「へえっ! ヒルトンやん。此処に泊まれんの
「いやいや、会議室を借りているだけです。ずっと雲の上ってのも疲れますからね」
一行は人目に付かない所で地上に降りた後、正面玄関からホテルへ入った。「ダブルツリー by ヒルトン那覇首里城」と云う名のこのホテルは坂の途中に建てられていて、山側にあるエントランスは建物の四階に位置している。神田が受付を済ませると、エレベータで二階に降ろされ、其処から別のエレベータに乗り継いで、一階にある会議室へと案内された。
「高砂の間、だって。なんだかお目出度い名前だね。五人には一寸広いかなぁ」初めての高級ホテルに、知佳は浮かれていた。
会議室に入ると、皆銘々に休憩を取り始めたが、知佳は興奮冷めやらぬ様子で、突っ立った儘部屋をキョロキョロと見回している。
「知佳、気持ちは解らんでもないけどな、今ぐらいしか休めないと思うから、確り休んどけよ」
クラウンはそんなことを云いながらも、幾つもの幻影スクリーンを開いて、あちこち監視している様である。
「うん、わかってるけど。でも、此処ってなんか特別な感じがするよね」
知佳はクラウンに云われて、ふかふかの椅子に体を沈めはしたが、それでも落ち着かない様子で目を爛々と輝かせている。然しその興奮も次第に収まってくると、今度は猛烈に眠気が襲って来た。
「ちょっと眠くなってきちゃったな……」
「好いから寝とき。なんかあったら起こしたるから」クラウンが優しく云うので、知佳は眼を閉じた。
クラウンが蓮とユウキを手招きした。幻影スクリーンを見ながら何やら話している。知佳は椅子に座った儘、軽い寝息を立てゝいた。
「朝から大活躍でしたからね。疲れたんでしょうか」神田が知佳を見遣りながら、クラウンの方へと歩み寄った。
「やれそうですか?」
「今なら、二人もそれぞれの部屋に引っ込んでますわ。ユウキの能力は接近しないと使えないですから、そこは蓮と協力してもらおうかと」
「気を付けてくださいね」
「まあ一応、軽く煙幕張っときます」
クラウンの目配せで、蓮はユウキと共に会議室から消えた。
小さな客室に現れた二人は、無表情で椅子に固まっている秘書官の背後に忍び寄る。背後に接近したユウキが麻薬の毒素を抜いてゆくと、秘書官の目に徐々に生気が戻り始めた。
正気に戻った秘書官が立ち上がり、不思議そうな面持ちで周囲を見回したが、既に部屋には誰もいなかった。
二人は同じ様に大臣も治癒して、会議室へと帰って来た。
「おかえりなさい。どうでしたか」二人に神田が声を掛ける。
「秘書官も大臣も、無事に回復しました」ユウキが報告する。
クラウンが幻影スクリーンで二人の様子を観察しながら、「特に問題は無さそうやね。二人ともグッジョブや」と云った。
会談迄の間、大統領は勿論のこと、秘書官と大臣に就いても、それぞれ個別に幻影スクリーンで監視を続けていた。
「三つも画面あると、どれ見たら好いかわかんないよ」蓮が愚痴を云うが、クラウンはカカッと笑って、「三つぐらいで音ぇ上げたらあかん。デイトレーダーにはなれんで」
「なにそれ」
軽口を叩く間も、クラウンの視線は三つの画面を満遍なく監視し続けている。
「見てみい、秘書官は既に状況把握して、順応し始めてるわ。会談の段取り確認してるで。それに比べて大臣は哀れやな」
大臣は相変わらず、おろおろ、きょろきょろしており、デスクの引き出しを開けてみたり、ホテルの案内をぱらぱらと捲ってみたりして、落ち着きがない。何れ受話器を取って、一言二言話して受話器を置くと、暫くしてワゴンを押しながらボーイが部屋に入って来た。
「狼狽えてても、ルームサービスは頼むんや。ある意味大物なんかもな」クラウンが妙に感心した口調で云う。
そのとき、スマホで何かを確認していた神田が静かに立ち上がり、神妙な表情で部屋を出て行こうとした。
クラウンが不思議そうに、「どこへ行くんですか、神田さん?」と訊くと、「ちょっと野暮用で……すぐに戻りますから、気を抜かずに監視を続けておいてください」と応え、その儘部屋から出て行った。
「神田さん、何の用事なのかな?」蓮が不安げに云う。
「さあなぁ、あまり自分のことを語らない人やから。必要な指示はくれるけど、それ以上のことは何も知らんもんな」クラウンも首を傾げる。
十六
突然神田が慌てた様子で戻って来て、「異変が起きた。急いで行こう!」と声を荒らげた。
いつもと違う神田の態度に、一同は一瞬言葉を失った。
「行くってどこへ? 遠隔では対処出来ない事態なんですか? 一体何が!」クラウンが神田に食って掛かる。
「駄目だ、ダメなんだ。とにかく行かなくちゃ!」神田の説明は要領を得ない。ユウキが神田の腕にそっと触れた。
「神田さん、落ち着いて」
神田は空気の抜けた風船の様に急激に大人しくなり、その場にへたり込んだ。
「すまない……皆。これは……個人的なことなんだ」そう云うと、壁に手を突きながら立ち上がり、蹌々踉々としながら再び会議室を出て行った。取り残された四人はポカンと口を開けた儘、暫くは身動きさえ取れなかった。
「いやいやいや、待てよ、何やねんて!」クラウンが激しく憤りながら、幻影スクリーンを開く。画面は神田を捉えている。
「身内の心は読めないの……」いつの間にか起きていた知佳が、申し訳なさそうに呟く。
「取り乱した中年程みっともないモンは無いで」言葉は刺々しいが、クラウンは落ち着きを取り戻しつつあった。
暫くは皆押し黙って神田の様子を観察していた。神田はホテル内を闇雲に駆け回っている様で、エレベータに乗って上がったり下がったり、階段でフロア移動したり、何処へ向かおうとしているのか全く予測がつかない。
幻影スクリーンではずっと神田を後方から追っていたが、突然踵を返した神田が急激に迫って来て、どアップに映ったかと思うと、画面から見えなくなった。
「おっと、視点を乗り越えやがった。うろうろしてゝ動きが読みにくいわ」
クラウンが視点を修正し、神田を俯瞰で捉える。神田は壁際に身を潜め、誰かを見張っている様だった。その視線の先を辿ると、開襟シャツに紺のスラックスと云う目立たない格好をした若い男がいた。その若者も物陰に潜む様にしており、その視線の先は……
「この人は読めるよ。――って、うそでしょ!」知佳が驚愕の声を上げる。
「なんやねん、どした」
「この人が狙ってるの、会談会場じゃない?」蓮が指摘する。画面にはホテル二十階の、「スカイビュープラザ」と云う大宴会場の入り口が映っていた。
「お、おう? そうか……いや、どう云うこっちゃねん、なあ、知佳……」
「神田さんの息子さん」知佳が凍り付いた表情で報告する。
「はぁあ
「まてまて。――え? 神田の息子が、敵方にいるんか
「闇バイトなんて……そんな、神田さんの息子さんが、そんなことします?」ユウキは信じられないと云った口調で反論する。
「神田さんね、パイナップルパークで捕まえた脅迫犯に対して、ものすごく怒ってた。なんであんなに怒ってるのかずっと判らなかったんだけど……」知佳が訥々と語り出す。「息子さんと重ね合わせていたのかも知れない……神田さん、自分のこと全然話してくれないから……あたしには読めないし……ずっと、一人で抱え込んで……」うっと嗚咽が漏れる。
「軽率やったな。気持ちなんか解る訳なかったんや。わし如きに……」クラウンも沈んだ声で引き継ぐ。「どう考えても闇バイトやな、あれは。一体どう云う経緯でそんなことになったのか解らんけど……」
「絶対、させない」蓮が険しい顔で、押し殺した様な声を発する。「させないし、死なせない」余人を寄せ付けない迫力があった。
知佳は、皆の気持ちを纏め上げて、画面越しの神田に向かって送り込んだ。神田の肩の辺りがピクリと反応する。
〈お願い、応えて〉一心に送り続けた。
神田は知佳からのテレパシーに対して、感謝の念を送り返して来た。
〈とにかく落ち着け、神田さん。接触しても好いことなんかない。距離を保って、機会を見極めろ〉クラウンが差し出がましい助言を神田に送ると、神田は鷹揚に〈解っていますよ。おかげでだいぶ落ち着いて来ました。皆さんの助力を願います〉
〈当たり前や! それがわしらの任務や!〉
暫く双方共に動きは無かったが、軈て会場のドアが開錠され、スタッフの出入りが激しくなっていった。神田の息子は未だ凝と様子を窺っている。
「息子さんは能力無いのかな」知佳の素朴な疑問に、「能力あればテレパス場に乗るやろ」とクラウンが答える。
「そうだね、じゃあ、何か武器とか持ってるかも」
「調べる」クラウンは画面を操作する。そしてジャケットの内側を見た時、血の気が引いた。「アカン!」
横からスクリーンを覗き込んでいて、事情を察した蓮は、然し直ぐには動かなかった。目を閉じて、意識を集中している。次に真っ赤に染まった眼を見開いた瞬間、息子は蹌踉け、遠くの空で何かが爆ぜた。
「爆弾ジャケットね。鳥渡、遠く迄飛ばす余裕無かったわ。彼の体から離した所為で起爆しちゃったし。被害出ないと好いけど……」
爆発はホテル上空で起きていた。ホテル内には大した被害は無かったが、大きな音と微かな振動により、二十階で会談準備をしていたスタッフ達は神経過敏になっていたこともあってか、誰しも不安な表情を浮かべて騒めいている。
クラウンは幻影スクリーンでフロアの隅々迄確認した上で、「クソっ、息子の姿がない!」と吼えた。
神田も息子が居なくなったことに気付き、〈息子が逃げた! あいつは能力者ではないから、すぐ見付けられると思いますが。クラウンさん、知佳さん、お願い出来ますか〉と云って来た。
知佳はテレパスで、クラウンは幻影スクリーンで、それぞれに神田の息子を探していた。神田は息子が居た辺りに、一枚の紙切れを見付け、内容を確認すると隠袋に入れた。
〈息子さん、下へ降りてくる様です。スピードからして、エレベーターだと思います〉
「素人が。すぐ確保したる」クラウンが全てのエレベーターを同時に映し出す。その中の一つに、神田の息子が居た。
〈神田はん、見付けたで〉クラウンがテレパスで語り掛けながら神田の画面へ目を移すと、其処に彼はいなかった。
〈神田?〉クラウンは慌てゝ、画面を切り替えた。そのフロアには既に神田の姿は莫い。
「おいおい、待てよ、今度は親父の方が行方不明や!」クラウンが叫ぶと、皆が一斉に振り返った。
「ちょっと、どうなっちゃってるの!」蓮が取り乱す。
「とにかく! 息子の方を確保する!」その息子は二階でエレベーターを降り、地上へ続く外階段を駆け下りていた。其処へクラウンの幻覚場が下りて来て息子を包む。息子は必死に抵抗するが、クラウンの能力には敵わない。幻覚は彼を階段近辺の狭い空間に閉じ込め、其処から逃亡することを妨害し続けている。しつこく抗うも次第に疲労が蓄積し、動きも鈍くなってゆく。
弱いながらも抵抗を続けていた息子の動作が、突然固まった。何かに自由を奪われている様で、身動き一つ出来なくなっている。
「これは」クラウンが画面の視点を移動させる。上空から、鬼の形相の神田が舞い降りて来た。
「達也! お前どうしてこんな……」
「と……父さん……」神田の息子が声を振り絞る。
神田は悠然と息子の前に降り立つと、思い切り左頬を殴った。
〈わぁ、動き封じてそれは、フェアやないで!〉思わずクラウンが指摘すると、神田の力が僅かに抜けた。
〈そう……私はどこかで間違えて仕舞ったんです。こんな……殴る心算で此処へ来た訳では……〉
〈まあ落ち着け。落ち着いてください。一旦、会議室へ〉
神田は頷くと、息子の達也を拘束した上で、彼を抱えて高砂の間へ戻って来た。
「お帰り、神田っち」蓮がニコリともせずに、神田を迎え入れた。
達也が椅子に縛られて、尋問が始まる。
「達也。私はお前を、X国へ引き渡さなければならない」
息子――達也は目を潤ませた。神田の言葉に動揺を隠せない。
「大丈夫ですよ、達也さん。私達はあなたを傷付ける心算なんかないから」蓮が優しく語り掛けると、知佳もそれに続けて、「神田さん――あなたのお父さんは、大統領を護衛する為に最善を尽くしているの。あなたのしようとしていた事の為に、私達はあなたをX国に引き渡さなければならないけど、神田さんは何時でもあなたのことを思っている筈。屹度X国にも、上手く説明してくれると思います」
達也は蓮と知佳を一瞥し、「なんだよお前ら。小学生? 小学生なんかに何がわかるんだ……」と云って顔を伏せた。蓮はカチンと来て、「ガキ扱いしないでちょうだい、あたしレディなんだから」
「蓮、何云ってるの?」知佳がそっと蓮をいなす。
「達也。この子達は私のチームメンバだ。お前にとやかく云われる筋合いのものではない」神田は冷徹に云う。
「ああそうかい。こいつらも能力者か、それは結構なこったなぁ!」語気は荒いが、表情はどこか寂しげだ。知佳はそっと、達也の心の中に降りて行った。
「お前、死ぬところだったんだぞ」神田は稍語調を和らげて云った。「この子達がいなかったら、お前今頃……」
「勝手なことすんなよ!」達也の目から涙が落ちる。「納得済みだったんだよ!」
「達也……」
知佳が寛悠と顔を上げ、神田と達也を見比べてから、「ものすごく、グルんグルんに捻じれてるのね……でもあなた、悪い人じゃない」と囁いた。「あなたには何か、能力者に対する黒い感情があるのね」
達也はそれには答えず、小さく呻きながら頭を垂れた。知佳は緩と達也の心を辿ってゆく。
「そう、きっかけは、十三年前」知佳の言葉に、達也がピクンと反応する。「あなたは私と同じ、小学生だった。お父さんはあなたの親友の父親を――」神田が唇を噛む。知佳は続きの言葉を飲み込み、眼を細めて凝と達也を見据えた儘、優しい声音で「――そうなんだ。それは辛かったね」と呟いた。
「私は未熟だったんだ」神田が弁明する。「私は公安の捜査官だった。彼もまた能力者で、然し悪事に手を染めていた。私は只、逮捕したかっただけなんだ……わたしは」
「父さん。好いんだ。もう過ぎたことだ」達也は苦しそうに声を絞り出す。
「事故だったんですよね」知佳が続ける。「相手が放った石礫を、神田さんは避けようとしただけ。能力を使って防いだだけ。でも能力の制御を誤って、その石礫は相手に跳ね返って……」
「もう好いって云ってるだろう!」達也が激高する。知佳は調子を変えずに、「好いと思ってないから、此処迄来たんです。父親に反発したくて、そんな父を持った自分を呪って、あなたは志願して仕舞った」
知佳は達也の心との対話を続けていく。
「その人にあなたが遭ったのは、大学の食堂でしたね」達也は目を剥いた。「OBと名乗るその人は、あなたにある考えを吹き込んだ。ずっと心の片隅に燻っていたあなたの不安や不満は、その人によって剥き出しにされ、そして増幅されていった」
「誠治さんは、僕を理解してくれたんだ」「違うよ。あなたを利用したの」知佳は畳みかける。
「あなたの恐怖と怒りを巧みに操って、自分の思い通りに行動させるよう仕向けた」そこで神田に顔を向けて、「達也さんはね、バイトで此処に来たんじゃないの。無報酬で、只々心酔する人物に、この命を捧げるために」
「まさか……」神田はすっかり蒼褪めて、膝を突く。
「洗脳が解けるには、未だ時間が掛かりそう。X国には、その点を確り云い含めておかないと」
神田は首肯くと、「達也。必ず迎えに行く」と云い、達也を水平線の彼方へと抛り、回収部隊に引き渡した。いつもより優しい抛り方だと、知佳は感じた。
そうして息子を片付けた後、クラウンに向かって次の指示を出す。「さてクラウンさん、大統領の様子を確認して戴けますか」
クラウンは神妙な表情の儘幻影スクリーンに視線を落とすと、会見会場と大統領のスイートルームを覗いた。
「会談は爆発の影響で延期になっている様で、周囲には混乱が広がっています。大統領は一旦自室に戻っていますね。取り敢えず会場の収拾付けますわ」クラウンはそう云うと、会談会場のフロア全体に幻覚場を展開し、人々の混乱を鎮め、爆発の記憶を薄めてゆく。「何人か他のフロアに避難したな……めんどくさぁ、全体遣っとくか」そして幻覚場を、ホテル全体へと広げる。
クラウンが作業している間、手持ち無沙汰な蓮が知佳に話し掛けた。「あんた凄かったよ、迫力! なんかカウンセラーか何かみたいで、カッコよかったし!」
知佳は薄い笑みを返すと、深く溜息を突いて、「はあぁぁ、つかれたぁ」と云って椅子に深く身を沈めた。
「ところでユウ、あの人の洗脳あんたなら解けたんじゃないの?」蓮が文句を付けると、ユウキは口を尖らせて「あんな何年も掛けて定着させられた洗脳、幾ら僕が超人でも簡単には解けないよ」
「誰が超人よぉ、調子乗んな無能!」
「あっ、ひどい!」
蓮とユウキの喧嘩を遠い意識で聞きながら、知佳は再び微睡んだ。
十七
いずれ混乱も収まり、会談は一時間遅れで何とか開催の運びとなった。
会談中も気は抜けず、クラウンは幻影スクリーンから目を離さず、会談開始前に起きて来た知佳も周囲の人間の心理の動きに気を配っている中、他の三人は何となく時間を持て余していた。神田が隠袋から紙切れを取り出して、繁々と眺めているのに、蓮が気付いて声を掛ける。
「神田っち何見てるの?」
「ああ……達也が居た辺りに落ちていたんです。達也が落としたモノか如何かは判らないけど、なんとなく気になって……」
ユウキも寄って来て、三人で紙切れを覗き込む。
「豆腐三丁、パイナップル3ダース?」
「お買い物メモ?」
ユウキと蓮が拍子抜けした様な声を出す中、神田は苦虫を噛み潰した様な顔をして、「プラスチック爆弾が三百グラムに、手榴弾が3ダース、と云ったところでしょうかね」
「なんやそれ。物騒やな」クラウンが聞き咎める。
「探してください。既に設置済なのか、これからなのか」
クラウンは会談会場とその周辺を探索し始めた。画面に目を凝らすクラウンを、神田達は息を殺して見守っている。軈てクラウンが声を上げた。「見付けた! 爆弾は会議室の下の階に設置されています。蓮、此処判るか?」
クラウンは精確な位置情報を蓮に伝えた。蓮は素早く反応し、クラウンの指し示す爆弾を瞬時に遠くの海上へと飛ばした。爆弾はその儘、海中深く沈んで行った。
「クラウンさん、蓮さん、ありがとうございます」神田が二人に礼を云う。「ところで蓮さん、爆弾はどのぐらいありましたか?」
蓮は自信たっぷりに「起爆装置が百十五グラム、爆弾本体が凡そ二百五十グラムあったよ」と云う。
「そんなに正確にわかるもんなの?」知佳が訊くと、蓮は得意気に「転送する物質の詳細情報は結構わかるね。特性とかも、なんかこう、頭にスーって入ってくる感じ」
「やだぁ、あたしの体重とかもバレちゃってる?」
「ふふ」蓮は妖しく笑う。
「五十グラムか」二人の掛け合いにはクスリとも笑わず、クラウンが忌々しげに云う。
「未だ何か起きますね」神田もクラウンの言葉に首肯する。「手榴弾も未だ何処かにある筈です。ゲリラ的な攻撃が行われる想定をしておく可きでしょう」
「その手榴弾も見付けたで」クラウンが声を上げた。十階にある客室のクロゼット内に、丁度三ダースあった。「――蓮」
クラウンに云われる迄もなく、蓮はそれを会議室へ転送して来た。
「わぁおい、此処に持ってくんなや」クラウンは慌てたが、神田は冷静に「これはX国に提出しましょう。蓮さん、ご苦労様です」と、蓮の仕事を労った。
大方の爆弾と手榴弾が処理出来たことで、一区切り付いたような感があったが、神田は相変わらず硬い表情の儘、「然し未だ、爆弾五十グラムが行方不明なんですよね」と残念そうに云った。
「五十グラムでも、人を殺傷するには十分過ぎる程です。例えば大統領の椅子やテーブルに仕掛けたり、誰かが懐中に忍ばせた儘大統領の背後に立って自爆する等、幾らでも手段は想定出来ます。引き続き探索をお願いします」
「あいさー!」クラウンが下手糞な英語で返事をすると、改めて大統領の周辺から探索を始めた。
「手榴弾があった部屋の持ち主は、セージ・スミスと云う人物だ。偽名だな」どこから入手したものか、神田が宿泊者名簿の写しを確認しながら云う。
「えっ、せいじ?」蓮が反応した。
「誠治!」ユウキも気付く。
「いやまさか、そんな安直な」神田は却下してみたものゝ、一同顔を見合わせて、暫く固まっていた。
「確認だけしよか」クラウンはセージを探し始めた。「知佳ちゃん、一寸手伝ってな」
知佳はホテル内の人物の心を一人一人確認しながら、セージと名乗る人物を探してゆく。クラウンも幻影スクリーンでホテル中の人々を次々と捕らえながら、それらしき人物に当りを付けて行った。暫くそうした作業が続いていたが、軈て知佳が割と強めな声で、「見付けた! セージ・スミスって名乗った人です、場所は……」
クラウンが知佳の指した人物を特定し、スクリーンに大きく映し、「蓮、頼むで!」と云うと、蓮はセージを会議室へとテレポートさせた。
セージは驚いた表情を浮かべ、何か云おうとしたが、その前に神田が念動力で抑え込み、その儘捕縛された。「これは一体……お前達は誰だ?」捕縄の中から、セージは声を絞り出すように呻いた。
知佳はセージの心へと下りてゆく。「あなたは比較的素直な心をしてるんだね……」冷たい視線でセージを見据えて「素直に悪人だね」
蓮の顔が強張った。「マジで……そんな奴いるんだ」
「世の中にはいろいろな人間がいますからね」神田は冷徹にセージを見下ろしながら、「知佳さん、この男が息子を?」と聞いた。
知佳が答える前にセージが反応した。「息子? あんた一体、誰だ」
神田はそれには答えず、背中を向けてセージから離れる。知佳は「そうだね……セージ・スミス、山田誠治、李成仁……色々な名前を持っているけど、本当の名前は」
セージは眼だけを動かして、知佳を見上げると、「そうか、お前ら、能力者ってヤツだな……聞いたことがあるぞ」と納得した顔をした。
「金成智……かな?」
「それを知ってどうする」セージは挑み掛かる様に睨み付けている。
「残りの爆弾はどこ」知佳は質問と共に再びセージの内部へと潜る。次の瞬間、セージの胸元で鋭い光が閃いた。
「あっ!」
一瞬早く、ユウキのバリアがセージを包んでいた。
衝撃的な光景に、一同は凍り付いた儘の状態だった。知佳も蓮もユウキも、目の前で誰かが死ぬのは初めてだった。而もそれは相当に凄惨な最期だった。
最初に冷静さを取り戻した神田は、場慣れした様な感じで「この男は、Y国のテロリストだった様ですね」と云った。
次にクラウンが、稍動揺を隠しきれない様子ながらも、「可愛そうに、Y国に命を捧げて、一人で散って仕舞いよった」と気丈に云い添える。
然し知佳はへたり込んだ儘ガタガタ震えているし、蓮は放心状態で、ユウキはお漏らしをしていた。
「ユウ、あんた……」蓮がいつもの様に弄ろうとするが、言葉が続かない。ユウキも蓮の言葉は耳に届いていない様だった。
「仕方がないですよね。こんな凄惨な現場は初めて見るでしょうから……さっさと回収して仕舞いましょうか」
神田がバリア内に飛び散った血や肉片を一塊に固めていると、知佳が震える声で何か云った。「え?」神田が訊き返すと、椅子に掴まりながら立ち上がった知佳が、先刻よりは稍落ち着いた声で「未だ追えますから……もう少し待って……」
神田はぎょっとして「知佳さん、無理はしないでください。後は我々が」
「ううん。やらせて……あたし……あたしがやり方、間違えたんだと思う。せめて、最後迄……」
知佳が最後の読心を試みているのを横目に、蓮は自分を責めた「もっと早く気付けた筈……あたし何やってんだ」
「爆弾を見付ける可きやったんは俺や。蓮、自分を責めなや。お前は十分やっていたよ」クラウンが静かに蓮を慰める。
知佳が涙をぼろぼろと流しながら「生きたい……死にたくないって……この人、自爆なんかじゃない!」そしてうわぁんと泣いた。
「そんなところだろうとは思っていましたが……」神田は囁く様に応じる。
「命令を出していたヤツが、別にいます。Y国の工作員で、誠治さんを此処に送り込んだ……あの、彦根城にいた……」
「此処で繋がるんや」
「それなら確保済みですね。思いの外、我々が一網打尽にしているのではないかと」
「爆発は最初からプログラムされていました。位置情報が計画から大きく外れたから、証拠隠滅の為に爆発したみたい……もうこんなこと、繰り返して欲しくない」知佳は相変わらず泣きじゃくっている。
「もう……読めません」知佳のか細い宣告により、神田が最終処理を施して遺体袋の様な物に詰めると、セージだったモノを回収部隊へと送った。
神田は知佳に向かって、優しい口調で語り掛ける。「知佳さん、あなたは最善を尽くしたと思います。決して落ち度は無かった。爆発は避けられませんでしたよ」
次いで蓮に向き直り、同じ様に優しく声を掛けた。「蓮さんも責任を感じる必要はありません。あなたの能力では、隠し持った爆弾に気付くことは出来ないでしょう。不幸な結末でしたが、あなた達が責任を感じる問題ではありません」
そしてユウキの方を向いて、「ユウキ君、君の行動もこの状況下では最善でした。バリアが一寸でも遅れていれば、爆発の被害は会議室中に及び、我々は元より周囲の一般人迄巻き込んでいたかも知れません。バリアの中で爆発した為に、セージはその威力を全て受け止める羽目になって仕舞いましたが、それは止むを得ないことです」
そしてクラウンと目を合わせると「我々は誰一人、自責をする必要などありません。この事態を引き起こしたのは、彼に爆弾を持たせた工作員であり、指令を出した誰かであり、そもそもの黒幕であるY国政務大臣です。我々の手こそ、其処迄届くことは無いですが、後はX国の問題でもあります。我々は決して、この件で自分達を責めてはいけません」
そうして一同を緩と見渡した。
「悲しむのは好いんです。悔しいのも判ります。でもお願いですから、自分を責めないでくださいね」
知佳はいつしか泣き止んでいた。蓮もユウキも、神田を見据えた儘、小さく頷いた。
「では、引き続き大統領の監視をしていきましょう」
神田が手をパンと打ち鳴らして、この場を締めた。クラウンはスクリーンに視線を戻し、他の者達も銘々に体勢を立て直していった。
こうした神田達の陰ながらの活躍のお蔭で、会談は無事に終了した。大統領と県知事が握手を交わし、プレス達のフラッシュが焚かれて、円満な雰囲気の中大統領はホテルを後にする。
「この騒動が最後であることを願いますよ」
一行は後片付けもそこそこに会議室から撤収し、再び雲の上から大統領の車を追い掛けた。
「支部より連絡がありまして、今夜は会食の予定を大幅に変更し、Y国大使館の中に知事等を招き入れて行うとのことです。如何やら今日の任務は此処迄の様ですね」
色々なことがありすぎて、皆かなり疲弊していたので、この連絡は誰にとっても心から有り難かった。車が大使館へと吸い込まれて行くのを見届けた後、一同は支部へと戻って行く。
帰着すると直ぐ、知佳と蓮は押し黙った儘風呂に行き、クラウンはロビーのソファに沈み込んで幻影スクリーンを広げ、ユウキは部屋に引き籠った。
神田は報告の為、役員フロアへと上がって行った。
ピートの件に始まって、SP達および秘書官と国防大臣の洗脳、そして息子との最悪の邂逅と、その指導者だったと思しきセージの死。今日あったことを改めて振り返り、扠、何をどこ迄報告したものかと、今回の作戦上長である特殊対策部長が在室している役員室への道すがら、神田は報告内容の構成をずっと考えていた。
「ピートには力及ばず、逃亡された……と。それとセージの件が、今日の失態かな」
口中で小さく呟きながら、神田は役員室のドアをノックした。
十八
蓮は知佳と、相変らず一言も交わさない儘、並んで湯船に浸かっていた。セージの最期の姿がフラッシュバックする。蓮は眼をぎゅっと瞑り、鼻の頭迄湯船に沈めて、ブクブクと少しずつ息を吐く。大小様々の泡が浮かんでは消え、浮かんでは消えてゆく。儚い命の様に。
神田の云うことは判るし、尤もだと蓮も思う。然し理屈では片付けられないモノが、心の中に大きく場を占めている。蓮はそれを如何すれば好いか判らない。そんなモノと今迄付き合ったことはないし、対峙したこともない。
〈――知佳〉
テレパスで知佳を呼ぶ。然し知佳は反応を示さない。そっと目を開け、盗み見る様に視線を送る。知佳は水面の一点を見詰めた儘、微動だにしない。暫くその儘固まっていたが、やおら蓮は立ち上がる。水飛沫が派手に上がり、水面がうねうねと波打つ。波に煽られて知佳が揺れる。
「知佳!」今度は大きな声を出した。知佳が吃驚して振り返る。
「な……なに? 蓮?」
「あたしを殴れ!」
「はあ
知佳は唯茫然と蓮を見上げた。蓮は再びざぶんと湯に浸かると、今度は知佳に組み付いてくる。
「ちょっ……何すんの
蓮は知佳に抱き付いた儘、号泣した。
「ええ……蓮……」
知佳は困惑した。自分もそこそこ悩んでいたし、どうにも整理の付かない気持ちを持て余していたのだが、蓮の勢いに気圧されて仕舞い、そんなものは何処かに吹っ飛んで仕舞った気がした。
「ちょっとぉ、あなたらしくないよ。どうしたの。そんなに泣かないでよ」
蓮は
「そんなに泣かれたらあたしだって……」
知佳の目からも涙がぽろぽろと溢れ出した。すると蓮はドンと知佳を突き放して、「知佳っ! 泣くなぁ! あんたは何にも悪くない!」と大声で叫んだ。
「なにそれ。それ云ったら蓮だって悪くない!」知佳も負けじと叫び返す。
二人しか居ない大浴場では、二人の声は少しだけ反響した後、すうっと消えて仕舞う。
「解ってるよ! 判ってるんだけど! だけど矢っ張り、あたし駄目なんだよぉ!」
「一人で背負うなぁ! 蓮の馬鹿あっ!」
知佳も蓮も、涙をぼろぼろ流しながら好いだけ叫び合い、お互いの気持ちをぶつけ合った。どんどん気持ちが軽くなって行くのを、二人共心の片隅で感じながら。
同じ頃クラウンはロビーのソファにだらしなく体を横たえて、幻影スクリーンに映る大使館のゲートを監視していた。
「来た来た。これから会食やなぁ……何食べるんやろ」
大使館へと入場していく県知事を追い掛けて、スクリーンの視点は大使館内部へと侵入して行く。中は豪奢な作りで、応接間に通された県知事が大統領の歓待を受けている。
直ぐにボーイが現れて県知事達を別の部屋へと案内すると、其処はさらに華やかに飾り立てられた、将にパーティ会場とも云う可き広大な大広間だった。
用意されている料理にクラウンが目を奪われていると、「クラウンさん、それは感心しませんね」いつの間にか背後に神田が立っていた。「国際問題ですよ」
「やっば! あ、いや、すみません!」クラウンは慌てて、視点を大使館ゲート前に切り替えた。
その時、背後の廊下を通り過ぎてゆく職員達が話している声が聞こえて来た。
「誰か失禁したって……子供が多いからねぇ」
「後片付けする身にもなれってのよ」
「そう云えば男の子、ズボンビショビショで帰って来たわね」
「やだわぁ、その儘ベッドに入ったりしてなければ好いけど」
神田とクラウンはお互いを見た後、ユウキが籠っている部屋の方向を見上げた。
「ちょっと、様子見て来ますわ」クラウンは幻影スクリーンを腕に貼り付けた儘、部屋へと向かった。
ユウキはすっかり寝間着に着替えており、洗面所には手洗いしたジャージのズボンとパンツが干してあった。ベッドに横になってはいるが、目は閉じていない。
クラウンは静かにユウキの傍ら迄進むと、「ユウキ、どうした? しんどいんか?」と声を掛けた。
ユウキはクラウンの声に驚いて飛び起き、「鳥渡、考え事をしていたんだ」と小さな声で答える。
クラウンは無言で、向かいのベッドに腰を下ろした。クラウンの柔らかい視線に後押しされる様にして、ユウキはぽつぽつと語り出す。
「セージが……僕のバリアの中で死んじゃった……それがショックで……何かもっと好い方法が無かったのかとか、
クラウンはユウキの隣に座り直すと、頭をくしゃっと撫でながら、「そんなこと、今更悩んだってしゃあない。バリアはあれで良かったんやで。神田もゆうとったやろ。おまえの御蔭で被害は最小限に抑えられたんや」
ユウキはクラウンに小さく微笑んで見せると、「ありがとう、クラウンさん。でも、それでもセージのことが頭から離れないんだ」
「まあ慌てんなや。少年は悩むもんや。後は日にち薬や。時間かけて少しずつ、解決して行けばええて。そもそも、お前ヒーラーやろ」
クラウンの言葉に、ユウキは少しだけ救われた。この気持ちを抱えていても好いんだと、同時に、自分にはこれを癒す能力があるんじゃないかと、その二つの考えで、気持ちも少しだけ軽くなっていた。
十九
やや遅めの夕食は、大広間を使って大皿の宴会料理が饗された。皆の着席を確認してから、神田が立ち上がって挨拶を始める。
「皆さん本日は、大変お疲れさまでした。大統領の警護は残すところあと一日となりました。未だ未だ気は抜けませんが、取り敢えず今夜のところは、確り食べて、確り休んで、英気を養っておく様にしてください。いろいろ思うところもあるでしょう。悩ましい思いもあるでしょう。そんな思いも、この席で少しずつでも言葉に出して貰えると、毒出しにもなりますし、相互理解の促進にも繋がるかと思います――」
「話、長いねん! はよ食お!」クラウンの野次に、一同から微かな笑いが漏れる。
「大変失礼しました。それでは皆さん、楽しみましょう! いただきます!」
「いただきます!」皆が声を揃えて、晩餐が開始された。
食事が進むと共に少しずつ心も解れ、知佳にも蓮にもユウキにも、笑顔が戻り始めていた。
ゴーヤチャンプルーにアグー豚、パイナップルステーキにソーキそば。いずれも本土ではなかなか食べる機会のない物ばかりで、物珍しさも手伝って皆もりもりと食べていた。
神田とクラウンには泡盛も出ていたが、緊急出動もあり得るので神田は殆ど手を付けていない。クラウンは少しだけ飲んでいたが、その所為か普段より幾分陽気になっている様である。
「質問があります!」クラウンが学生の様に挙手して、知佳の方を見た。知佳はどぎまぎしながら、「えっ、はい?」と応える。
「達也君にしたあのカウンセリングの技、どこで覚えたんですか!」相変らず学生の様な口調で質問する。知佳は困った顔をして、助けを求める様に蓮を見た。
「あたしもそれ思った。知佳って学校ではどっちかと云うと没交渉だったし。どこで覚えたの?」どうやら蓮は助けにはならなかった。
知佳は仕方なく口を開く。「いやあのー、別にカウンセリングとか、技とか判らないんですけど……あたしは唯、彼の心を読み進めていっただけなんで……ええと、音読?」
「えー」クラウンと蓮が、同時に納得いかない様な声を上げる。
「その割には貫禄が、なぁ」クラウンが蓮に同意を求めると、「そうだよねぇ、小学生の迫力ではなかったよ」と蓮もダメを押す。
「イヤイヤほんとに。あたしは普通に語り掛けただけで」
「またまたぁ」
「あれが天然なのだとしたら、大した才能だと思いますよ」神田迄が調子を合わせてくる。
知佳はむず痒そうに体を捩りながら、「そんなに褒めたって何も出ませんよぉ。ホントに、普通に、話していただけなんですから。もぉ」そう云って蓮を肘で小突いた。
「好いの好いの、せっかく褒められてるんだから、素直に喜んどきなさい」蓮は知佳の頭をイイコイイコした。
「質問があります!」再びクラウンが学生の様に挙手して、今度はユウキの方を見た。ユウキは完全に虚を突かれて、危うく箸を取り落としそうになった。
「えっ、なっ、なにっ?」狼狽えるユウキに、クラウンが質問を浴びせる「ヒーラーと名乗りながら、バリア張ったり、毒物の検出したり、なんか色々出来るようですけど、他に何が出来るんですか?」
「えー……なんだろう」ユウキは腕組みして考え込んで仕舞った。
「毒ガス無効化したでしょ。あれどう云う能力?」蓮が具体的な質問をすると、ユウキは得意気に「ああ、あれは、僕毒素が判るんで、それ捕まえてくるって捻ると、パタパタってオセロみたいに、いや、ドミノみたいにかな、連鎖していくから」
「観念的過ぎてわからんちゅうの!」クラウンのツッコミで笑いが起きると、ユウキは真っ赤になって口を噤んで仕舞った。
「ちょっと其処の道化師! ユウ君いじめちゃ、メ! でしょ!」
蓮に叱られて、クラウンは舌を出した。ユウキは蓮の援護が意外だった様で、不思議な顔で蓮を見上げた。
「それもだけど……ユウ君が毒を消す前に神田さんがしていたことも、なんかよく解らなかったけど、あれは?」知佳が神田に矛先を向ける。
「ああ」神田は鳥渡バツが悪そうに頭を掻くと、「毒素の分子を選択的に弾いて、拡散させようとしていたんですけどね。如何せん量が多過ぎて、上手くいきませんでした。あれは失敗でしたね」
「まぁた難しいこと云う」蓮が酔っ払いの様に絡む。
「ほら、物理の小話なんかであるじゃないですか、密閉された箱の真ん中を壁で仕切って、其処に穴を空けて十分な時間が経過すると、分子の熱運動の御蔭で、仕切りを挟んで右側の気体と左側の気体が全く均等に混ざり合う訳ですが、穴の所に小人がいて、右から来る気体分子は素通しするけど左から来る気体分子は穴を通らない様に打ち返していると、十分な時間が経った後左の空間は気圧が倍になって、右の空間は真空になるとか云う――」
「あたしたち小学生なんだけど……」
「わしオトナやけど、何ゆうてんのかぜぇんぜん解りまへん」クラウンは本当に酔っている。
「いや、ですからね、出入り口が一つしかないレストランで、門番が出て行く客はその儘見送るけど、入ろうとする客は凡て追い返していたら、レストランは最終的に開店休業状態になるじゃないですか」
「そらそうや」
「そうした小人やレストランの門番の様に、毒の分子だけをパチーンパチーンって外側に向けて弾いてったら、毒無くなると思ったんですけど、中々思うようにいかなくてですね。結局他の気体分子にぶつかってどんどん戻って来るし、新たな毒ガスは流れて来るしで……エントロピーはそう簡単に減らないですね」
「そんな気の長い話、聞いてるだけで寝てまうわ。とろん、とろん、すぴーや」
クラウンは大きな欠伸をした。
「そのダジャレは下らな過ぎ」蓮が呆れた様子でツッコむ。
「おお、こんな駄洒落にツッコんでくれてありがとう!」
「ええ……なんか負けた気分」
その後も下らない馬鹿話ばかりが展開していき、それぞれの傷心も大分癒された辺りで食事が終わると、皆は解散し、それぞれ部屋へと引き上げて行った。
「ユウキ、悪かったな」男子部屋に帰って来た時、クラウンがユウキに謝った。「でもお前のお蔭で、あの二人にも笑顔が戻った気がするわ。ありがとうな」
ユウキは一瞬唖然とした表情をしたが、直ぐに澄まし顔を繕って、「気にしてませんよ、みんなの笑顔が大事ですからね」と理解を示した。
神田はその遣り取りを聞きながら、「クラウンさんの方が余程カウンセラーですね。皆あなたの掌の上の様だ」とおだてたが、クラウンは唯、カカッと笑うばかりであった。
二十
翌朝の朝食前に、神田が短いミーティングを行った。
「皆さんよく眠れましたかね。大分明るい顔になられている様で安心しました。さて、本日の予定ですが――」
神田は一同を見渡して、「米軍の基地を見て回るそうです」
「はぁ、なんやそれ?」クラウンが驚嘆の声を上げる。「態々日本に来て、なんで?」
「米軍自体と云うよりは、それに纏わる問題に興味がある様ですね」
「沖縄の基地問題ですか? X国の大統領なんかが、なんで?」知佳が首を傾げる。
「正確なところは私も判らないですが、何れにしても私達は、如何な状況下に於いても大統領を護衛するのみです」
そうしてミーティングは終わった。
朝食を取りながら、知佳は改めて神田に訊いてみた「X国の大統領が如何して、沖縄基地問題なんかに関心あるんですかね?」
神田は味噌汁を啜ってから、それに答える。「米軍基地って結構世界中にあるんですよね」沢庵をポリポリと食べ、「X国に於いても多少なりと、基地問題の様なものはあるようです」
「なるほど、沖縄の現状とか、日本がどう対応しているかとか、そう云うのを視察したがっているんですかね。そう云うの、日本としては見せちゃっても大丈夫なんですか?」クラウンが卵を溶きながら口を挟む。
「来日しているのに隠すのも難しいでしょう。活動している人達にしてみれば、絶好のPRチャンスだったりするのでは」
「X国にPRしても、意味ないのんちゃうかなぁ」
いろいろ好き勝手な意見が飛び交っているが、結局彼らの遣ることは一つである。
「今日に限っては、過激な活動家達からも、大統領を護ることになるかも知れませんね」
朝食が終わると、それぞれ準備を整えて移動用のコンテナに乗り込み、大統領の警護へと向かった。
大使館から出て来る大統領の車を雲の上から確認し、一行はその後を尾けて移動して行く。大統領を乗せた車は、大使館から近く、且つ抗議活動の比較的活発な基地の方へと向かっていた。
「いきなり其処に行くんや、大丈夫かいなぁ」クラウンが心配そうに呟く。
大統領は大小様々な抗議看板が打ち立てられている辺り迄来ると、車を降りて近寄って行った。そして其処で、看板の前に座り込んでプラカードを抱えている一人の活動家に目を止めて、立ち止まった。横に控えている秘書官と何事か会話を交わし、通訳らしき者を連れて来て、座り込んでいる男に声を掛ける。
「大統領がするこっちゃないわなぁ。この大統領、基本的に危機感薄いやんな」クラウンが呆れて声を上げる。
「今の所あの人に、敵対感情は無いですけどね」知佳が云い添える。
それでも一同は眼下での遣り取りを注視し、何事か起きた時には直ぐ行動出来る様、身構えていた。
大統領と活動家が二言三言と言葉を交わす内に、次第に活動家が興奮してきて、「我々沖縄人は、基地の騒音や環境破壊に苦しんでいます。何とかしてください!」と声を荒らげ始めた。然し大統領は顔色一つ変えず、只静かに激化してゆく活動家を見詰めているばかりである。
「なんだか不穏な雲行きになってきましたねぇ……この儘平和に収まると好いんですけど」神田は独り言の様に呟いた。
活動家と大統領は、終始噛み合っていない様に見える。活動家が一頻り喚き、それを通訳が伝えると、大統領は軽く、ハハッと笑った。その時、活動家の表情が一変した。
「おい貴様! 何様なんだか知らねぇが御大層な身なりしやがって! 俺の話を聞いていたのか! この、アメ公が! 恥を知れ!」
激昂する活動家を大統領は冷やゝかに見詰め、通訳が代わりに反論する「私達はアメリカ人ではありません。X国人です。私達に抗議をされても、米軍に対して何の力もありませんので、無駄なことですよ」
活動家は一瞬きょとんとして、次の瞬間には
「お、お、おまえら! おちょくっとんのか! 関係ない国の奴等がこんな所で何してやがる!」
そしてプラカードを木刀の様に構えたところで、神田がその動きを封じた。その為彼は、簡単にSP達に取り押さえられることゝなった。
「後は彼らに任せましょうか」神田は短く嘆息した。
SPが活動家を連行した後、大統領はその辺りに打ち立てられている様々の抗議看板を繁々と眺め、通訳に説明を乞いながら、パシャパシャと写真を撮り始める。
「大統領何云ってるんだろうね」蓮が退屈そうに云うと、知佳は凝と覗き込んで、「云ってることは判んないけど、心を見る限りでは、なんだかすごく面白がっているみたい。X国では見られない反応だって」
「X国でも軍用地に関しては地元住民と多少の衝突はあるようですが、日本程米軍を毛嫌いしていませんね」神田が補足する。
軈て大統領は活動家を押し込んである車に乗り込み、SPを間に挟んだ状態で話し掛けた。活動家は先程とは打って変わって悄らしくなっており、矢鱈ぺこぺこと頭を下げている。
「彼、相手がX国大統領だって先刻知ったみたい。すごい恐縮してる」
終いには引き攣った笑顔で大統領と握手し、放り出される様にして車から出て来た。如何やら、解放された様である。
「よかった、許してもらえたんだ」蓮が愉しそうに手を叩いた。
活動家は何度も何度も車に向かってお辞儀を繰り返しながら、殆ど横走りの様な状態で、もの凄い勢いで去って行った。
「余計な逮捕者が出なくてよかったです。X国側も、Y国に関係ないと見て釈放したのでしょう。単なる日本人を拘束したら、それはそれで後々面倒なことになりますからね」
大統領が車から降りて来て、大きく伸びをした。それから暫くは基地とその周辺をぼんやりと眺めていたが、軈て緩慢に自分の車へと戻っていった。
「あらあら」知佳が大統領を見ながら思わず呟いた。
「何よぉ、おばちゃんみたい」蓮が突っ込むと、知佳は蓮を見て微妙な顔をした。
「大統領さん、飽きた、って思ってるよ」
「なにそれ」
後部座席に乗っている大統領が、助手席の秘書官に対して投げ遣りな調子で何か云うと、車は静かに滑り出してその場を後にした。
「次はどこの基地や」クラウンは近くの米軍基地を想起していたが、何故か車は来た道を戻り、大使館へと入って仕舞った。
「どう云うこっちゃねん」クラウンの戸惑いに、知佳が答えた。「帰るってさ」
「いや、帰って来たのは判っとる」
然し知佳は首を横に振り、「ううん、国に帰るって意味」
「へぇ?」クラウンは目が点になっていた。然し直ぐに察したらしく、「ほぉら云わんこっちゃない。基地問題なんか見ても、X国の参考になんかならんて。ただ観光しただけやん」
「まあ、それに気付けただけでも、ある意味収穫ではあったのではないでしょうか」神田は苦笑した。
二十一
大統領は直ぐにも帰国したがっていたが、X国としては外交儀礼として、当初の予定通り本日夕方頃迄は滞在させることにした様だ。神田達は一旦支部へと引き上げて、幻影スクリーンで大使館ゲート前を監視する体制へと移った。
帰り際に神田が云った。
「後少しで、我々の任務も終わります。色々あった三日間でしたが、最後の最後迄気を抜かず、確り大統領を保護し切って見せましょう。皆さん、此処が正念場ですからね」
支部に着くと会議室へ集合し、今後の予定を確認することゝなった。
「未だ朝早い時間ではありますが、取り敢えず一旦は、お疲れさまでした」神田の挨拶でミーティングが始まった。
「元々大統領は、本日十七時頃迄滞在し、その後専用機で那覇空港から帰国する予定でした。専用機なので何とでもなりそうですが、滑走路も限られているので、当日にほいほいと離陸の予定を変更することは出来ないのですね。X国側としても大統領の都合をごり押しして混乱させるのは本意でないと云うことで、予定通り大統領は十七時頃迄滞在を続けます」
ここで神田は一旦言葉を区切り、一同を見渡す。
「もちろん、再度大統領の気が変わって外出する可能性もあります。然し我々は、唯待機することしか出来ません。監視は続けますが、一旦は自由に過ごして頂いて構いません」
軽く歓声が上がった。
「ただ、先程も云った通り、最後迄気を抜かず、自由と云っても待機であることはちゃんと意識しておいてくださいね」
神田は最後に釘を刺す様に、一同を見渡しながら言葉を添えた。
会議が解散になると、皆それぞれに思い思いの時間を過ごし始めた。蓮は相変わらず風呂に行き、知佳もそれに付き合う。ユウキはロビーでアニメのビデオを見始めた。
ロビーのソファで監視をしながらも寛いでいるクラウンの横に、神田が腰を下ろした。
「大統領出て来ぉへんなぁ。寝てるんちゃうか」クラウンが誰に云うともなしに呟くと、それに神田が応答した。
「結局のところ、アテが外れたんでしょうね。X国での米軍との関係性は、日本のそれよりもずっと対等なものですから。用地問題や騒音問題などがあったとしても、自国軍の場合と同じか、下手したらそれ以上に有利に交渉を進められる筈です。やはり日本は敗戦国であると云うことを、未だに引きずっているのでしょう。参考になる訳がないですね」
「何を見たかったんやろうなぁ。X国では何を困ってるんや」
「まあ、我々には与り知らぬことです」神田が冷たく切り捨てゝ、この話題は終わった。
蓮と知佳が風呂から上がり、濡れた髪をタオルで拭きながらロビーに顔を出した時、クラウンの幻影スクリーンでは大使館から慌てた様子でわらわらと人が出て来るのが見えた。同時に職員の一人が遣って来て、知佳達を追い抜くと神田の正面に回って声を掛けた。
「大統領が行方不明です、直ちに対応を!」
一報を受けて、神田は全員をロビーに招集した。
「大統領が行方不明になりました。急いで大使館へ向かいます!」神田の号令で、全員即座にコンテナに乗り込み、大慌てで出動した。
雲の上を通って大使館上空へと到着すると、クラウンと知佳は状況の調査を始めた。国際法の制限で中を直接確認することは出来ないため、クラウンは大使館全周の様子をスクリーンで確認する。知佳は大使館前で右往左往している者達の心を一つ一つ探り、有益な情報を集めてみた。
「最後に目撃されたのはトイレに立ったところで、でも本当にトイレに行ったか如何か迄は確認出来ないですね……あれ、それにしても……」
「どうしたの、知佳」蓮が不安げに訊く。
「いや、あの例の、秘書官の人が居ない。国防大臣も」
「それって、洗脳されてた二人じゃ」
「そうだよユウ君。二人とも見当たらないの。大統領が居なくなった後、誰もその二人を見てない」
「まさか、洗脳は解いたのに……」ユウキが不安気な顔をする。
クラウンが腕組みをして「後催眠の掛け方次第では、ユウキでは見抜けない所に残っていた可能性があるな。俺もフォローしておけばよかった」
「悔やんでいる暇はありません。何とか三人の足取りを探りましょう」
知佳はより広い範囲に能力を展開して、三人の意識を探し始めた。そして直ぐに目を見開く。
「地下です、この地面の下にいます!」如何やら知佳が捕捉した様だ。
クラウンはスクリーンの視点を地下へと移し、その様子を探ってみた。
「何や広い空間があるな。大使館の下にこんな地下トンネルがあるとは。――それにしても、何処から入ったんや?」
地下空間で視点を前後左右に動かして探ったところ、大使館の中庭に通じている様だった。
神田は腕を組んで悩まし気に、「流石に大使館の中に踏み込む訳にはいかないですね……一寸無謀かも知れませんが、蓮さん」と云って蓮に視線を投げた。
「そう来ると思ってました! このスーパーレディ蓮さんにお任せあれ!」蓮が明るく応じると、クラウンが眉を歪めて、「そんな云い方されると、なんか信用でけんくなるわぁ」と情けない顔をした。
それでも他に手段は無いので、一行は近くの林の中にコンテナを下ろすと、テレポート先の地点を改めて確認した。
「カフカみたいに蟲と混ざりたくないし、そや、ユウキ、こっちとあっちにバリア作られへん?」
ユウキは上手く理解出来ない様で、首を傾げながらクラウンを見た。神田が補足説明をする。
「クラウンさんが云いたいのは恐らく、テレポート先に我々五人が入れる位のバリアを予め張っておいて、中に虫や水滴などが侵入するのを防いだ上で、此方でも同じ大きさのバリアに入っておいて、バリアの中身を丸きり入れ替えるようにテレポートしたいと、そう云うことだと思います」
「そうそう、神田さんありがとうございます。ユウキ解ったか?」
「ちなみに、クラウンさんが引用したかったのは『ハエ男の恐怖』と云う映画で、カフカとは無関係ですね。映画の方は転送装置に蠅が入り込んでいた為に転送後に蠅と合体して仕舞う話ですが、カフカと云う作家の書いた『変身』はある朝起きたら虫になっていた、と云う話です。全然別物ですよ。それに蓮さんの能力では、転送物体同士が混ざり合うなんて現象、起こり得ないと思います」
「え、えゝねん、神田さん、そんな指摘は!」クラウンは真っ赤になって顔を背けた。
「まあ、物質の合成こそ起きないものゝ、水族館でのクリーチャーの様に、境界に居るモノが寸断されたりとかはあるかも知れないので、提案自体は素晴らしいことだと思います」
ユウキは一寸笑いながらも、クラウンと神田が説明した通りに二つのバリアを張り、そして蓮がその中身を綺麗にテレポートさせた。
無事に地下の暗闇の中に降り立つと、神田が懐中電灯を点けて頭上に掲げた。
「さあ進みましょう。足元と頭上に注意してくださいね。ユウキ君、出来ればバリアは張った儘で。知佳さん、どの道を辿ったか判りますか?」
「はい、追い掛けられます」
知佳は対象の記憶を辿りながら、先頭に立って道案内をする。進むに連れて段々周りの様子が変わって来た。最初はある程度人の手が入っていて、舗装こそされていなかったがそれでも、壁も床もそこそこ平らで綺麗だった。然し今は壁はごつごつした岩肌のようだし、足元も凸凹で、天然の洞穴の様である。
そうして其処を過ぎるとまた少し様相が変わり、床面は多少ましになって、壁面には所々穴が穿たれており、古びた薬瓶や空き缶、襤褸切れや紙片の様なモノ迄がちらほらと目に付き始める。嘗て人手で整備されていた様でいて、然し随分と荒れ果てゝいる。
「まさか。此処は、防空壕の跡?」神田が戸惑いながら呟く。「どこから迷い込んだんだ……大統領達は?」
「この角を曲がった、直ぐ先に居てます」クラウンが幻影スクリーンを見ながら囁く。「催眠状態の二人も一緒です」
「二人とも、心の矛盾が増大していて、葛藤で千切れそう」知佳が口元を手で押さえながら、悲壮感たっぷりに報告する。
「最早一刻の猶予もなりませんね。なんとかなりませんか」神田がクラウンを見る。クラウンは強張った表情で「遣って、みましょうか!」と云うなり、強めの幻覚場を展開した。秘書官と大臣は幻覚に翻弄されて、少しずつ毒気が抜かれて行く。クラウンの指示の下でユウキもその作業に参加する。ユウキがクラウンの幻覚に浄化の力を添えると、秘書官と大臣は脱力し、その場にへたり込んだ。顔付きがみるみる穏やかに変わっていき、拡散していた瞳孔が収縮し、虹彩に活力が漲ってくる。
「クラウンさん、僕はまた見落とすかも知れない。ちゃんと残らず除去出来る様にサポートして」ユウキはいつになく真剣な声でクラウンに助力を乞う。
「云われなくとも、判っとるわい」クラウンは一瞬微笑み、また直ぐに真剣な表情に戻って解除を進める。
知佳は二人の心を深く走査しながら、洗脳の残滓を見逃すまいと集中する。
皆が洗脳解除の作業に専念している間、蓮は出しっ放しになっている幻影スクリーンの隅に、拘束されてぐったりしている大統領の姿を見付けていた。彼女もまた負けずに集中力を高め、瞳を深紅に燃やすと、大統領の姿が消えた。
「大統領を大使館に戻しました」蓮が告げる。
それと前後して洗脳の浄化も如何やら片が付いた。クラウンは大使館のゲート前に倒れ込んだ大統領と、それを取り囲むSP達の姿を確認し、「おっけい、蓮、ありがとな」と労った。
ユウキは
「お疲れ」とクラウン。「ありがとう」とユウキ。
大統領がSP達に担がれる様にして立ち上がり、大使館へと入って行く様を確認しながら、一同は今助けたばかりの二人に視線を戻した。秘書官と国防大臣は、洗脳から解放された余韻の所為か、その場にへたった儘ぼーっとしている。その様を見て神田が知佳に指示を出す。
「あの二人の記憶を辿って、誰がいつ、どの様にこの強固な洗脳を仕込んだのか、探してみてもらえますか?」
知佳はこくんと頷くと、改めて二人の心に静かに下りて行った。大統領を誘拐する指示は、如何やら初日に車で外出した際に誰かから受けたものだ。更に過去へと遡り、洗脳に心が支配された記憶迄遡ると、そこからは注意深く、術が掛けられた瞬間をビデオを逆再生する様に辿って行く。二人は別々に洗脳を受けた様だが、その記憶の様子は殆ど同じだった。矢張りアロマだ。この香りは何なのだろう。誰かが語り掛けている。顔が判らない。云う通りにしろ。云う通りにする。解ったな。わかった。この光が合図だ。光。この光を見たら自由意志は消し飛ぶ――
「知佳!」蓮が知佳を揺さぶり、ハッと我に返る。
「え、あたし……」
知佳は二人の記憶の中の洗脳者の術に落ち掛けていた。二人の意識にシンクロした為か、それとも術者の掛ける暗示が強力過ぎて巻き込まれ掛けたのか。
「アロマの様な香りの中で、誰かが不思議な声で語り掛けて来るんです……云うことを聞け、光が合図だ、って」
ユウキとクラウンが難しい顔で知佳を見詰めていたが、殆ど同時にほっと溜息を吐いて顔を見合せた。
「大丈夫や、知佳ちゃんはやられてない」
クラウンの言葉に、神田もほっと息を吐いた。
「香りと云うのは恐らく、何か向精神薬の成分が混ぜ込まれていたのでしょう。そうして意識を混濁させておいて、ある特定の周波数の音声で暗示を掛けた、と云ったところでしょうかね。然し肝心なのは、それが誰に依るものかです。そこ迄は追い切れませんでしたか?」
「すみません……」知佳は小さく項垂れて、「もう一度、チャンスをください」と云った。然し神田は難しい顔をして腕組みして仕舞った。
「危険ではないですかね、クラウンさんはどう考えますか」
「ワシも同じです。追求したい気持ちはあるけれど、今の知佳ちゃんの状態ではリスクの方が高いかと」
知佳は急度顔を上げて、「でも、読むなら今なんです! この機を逃したらもうチャンスは巡って来ないかも……」
「でももう一度記憶を見たら、また洗脳シーンで同じことになるんじゃない?」蓮が心配そうに云う。
皆ぐうと押し黙った儘、時だけが過ぎてゆく。そうしている間に秘書官と大臣は次第に人心地を取り戻して来た様で、目を瞬いたり、周囲をきょろきょろと見渡したり、何事かぶつぶつ呟いたりし始めた。
「もう時間がないな。これ以上は引っ張られへんで」幻影スクリーンを見ていたクラウンは、稍焦った調子で告げる。
「今回は諦めましょう。またいずれ、機会が訪れるかも知れません。それ迄にどう進めればよいか、確り計画を立てゝおくことにしましょう」
神田の決断により、二人をテレポートで大使館前へと転送することになった。
「殆ど正気に戻ってる様なんで、一旦幻覚で誤魔化すから、その隙に」クラウンの指示により、蓮はタイミングを合わせて二人を転送した。
「残念……」知佳は唇を噛んだ。
「ボクだって悔しいけど、今は諦めるしかないよね。それに多分、この洗脳者を突き止めることは、僕らの責務の範囲内ではない。神田さん、そうでしょう?」ユウキはそう云って神田を振り仰いだ。
「はい。それは全くその通りです。我々の使命は大統領を護ること。背後の指示者や黒幕を暴き立てることは、期待されていません」
「それでも、それが警護に直結することだってあるじゃない?」
蓮が自信無さ気に反論するが、「そうだとしても、それは飽く迄付随的なものであって、危険を冒して迄積極的に取り組むような事案ではないんです。これ迄に判明した事実は全て上に報告していますが、本来そうしたことは我々の任務ではないんですよ」と神田に一蹴されて仕舞った。
「もう好いよ。皆有難う」知佳は寂しそうな顔をして、蓮に微笑み掛けた。「あたしが鳥渡ワガママ云ってみただけ。別になんてことないから」
蓮は口を開いたが、結局何も云わずに口を閉じた。皆も微妙な表情の儘何も云わず、再度テレポートで、地上に停めておいたコンテナへと戻った。
二十二
大統領達を大使館へ無事帰したことで、警護の使命は果たせたので、一行は支部へと引き上げた。昼抜きだった為、皆おなかがペコペコだった。
支部の食堂で思い思いの昼食を取りながら、ここ迄起きたことのお浚いをすることとした。
「課題としては、秘書官と大臣の洗脳あるいは後催眠に就いての、情報が不足していると云う点です。一応判っていることを纏めると、先ず今回の訪日より大分前から彼らの傀儡化計画は始まっており、それぞれ別々の時期に、何者かに由って催眠が掛けられていたと云うことです」
神田の考えに依れば、この時掛けられていたのは単に『命令に従え』と云うだけの内容で、具体的な命令は後々状況に応じて下されていた様だ。例えばSPを集めて集団催眠を掛けたり、或いは二人だけで指定した場所へ来させたり、今回の様に大統領を拐かしたりと云った指令が、その都度与えられていた筈である。
「術者は近くにいますね」心做しか、神田の目は輝いていた。
任務外だとは云いながら、矢張り神田もこの件を追求する気持ちは捨てゝいない様である。勿論それは、敵の先手を読んで警護をし易くする為の手段の一つではあるのだろう。だが神田の目の輝きは、それ以上のものを物語っていた。
「二人の後催眠は解いたので、今後新たな命令が為されたとしても、彼らがそれに従うことはないでしょう」神田はここで一旦言葉を区切り、一同を見渡してから、「ただ、そのことは術者も直ぐに気付く筈です。その時術者が手を引いて仕舞えばこの話はここ迄です。然し結構な高確率で、奴は何か新たな動きを見せるのではないかと思っています。それは奴にとってのリスクであり、我々にとってのチャンスです。いつ何が起きるか、クラウンさんには確り監視を続けて戴きます」
「合点承知の助!」クラウンは蕎麦を啜りながら、稍お道化気味に答える。
昼食を取り終わった頃には、午後の三時を回っていた。
「滞在もあと一時間一寸か。この僅かな時間に仕掛けて来るなら、余り緻密なことは出来なかろう。襤褸も出易い。大チャンスやな」クラウンはにやりと笑った。
「相手も承知の上でしょう。決して油断しない様に」神田が釘を刺す。
その時俄かに、大使館から慌たゞしい様子が伝わって来た。ドタバタと音を立てゝ、ゲート内外でも何人かの職員達が右往左往している様子が見える。
「何が起きてるんだ?」クラウンが不安気に呟く。
然し数分もすると騒ぎは収まり、大使館には再び静寂が戻った。
「一体何だったんだろう?」ユウキが首を傾げる。
暫く見ていると、大使館の中からSP達が慌てゝ出て来た。スクリーンを覗き込んでいた知佳が、「判りました」と云った。
「やっぱり中では、術者が二人に接触を試みた様ですね。只、光の合図を幾ら送っても二人が反応しないので、焦ってチカチカ遣り過ぎた様です。大使館員やSP達がその光に気付いて、曲者じゃあ、出合えー、って感じで、ちょっとした騒ぎになった様です」
「なんとも間抜けな話やな」クラウンが嘆息する。
「それで、発光源を探し当てたら其処には誰もいなくて、代わりに志向性スピーカーと小型のカメラが付いていたので、なんだコレはってんで発信源を辿って、SPの人達がわらわらと出てきた感じです」
知佳の説明を聞いて、暫くは誰も言葉を発しなかった。想定していたよりも大分お粗末な展開だった為に、反応の仕方に困っていたのだ。
「じゃあ、彼らを尾けて行けば発信源に辿り着きますね」
神田の一言で一行は出発し、SP達を追い掛ける可く雲の上を飛んで行く。目標は直ぐに見付かった。
「いたいた。如何やら追い詰めた様やな」クラウンがSP達を上空から視認し、スクリーンで詳細状況を確認する。
容疑者と思しき男が、狭い路地の只中でSP達に挟み撃ちされていた。これではもう逃げ切れまい。男は頻りに腰の辺りをまさぐっているが、目的のモノが見当たらないらしく、戸惑い勝ちに己の腰元を見た。その隙を突いてSP達は男を取り押さえた。
「あーあ、もぅ。安直なんだから」
そう云いながら蓮は、何時の間にか手にしていたオートマチックの短銃をくるくると回して見せた。
「あっぶな! 暴発したら如何すんねん。こっちに渡しなさい」
「はぁい」
素直にクラウンに短銃を手渡すと、クラウンはその儘神田へと渡した。
「ではこれも、X国に提出しておきますね」
神田は短銃から弾丸を全て抜き取り、装弾された弾も無いことを確認すると、別々のビニール袋に入れた。
容疑者の男は、SP達に拘束されて大使館へと連行された。
「今回は出番少なかったね」蓮が不満そうに云うと、知佳がクスッと笑いながら「何で不服そうなの? 解決したんだから喜ばなくちゃ」
「そうなんだけど……」矢張り蓮は不満気だ。
先程からクラウンは、幻影スクリーンに凝と見入っていた。その様子に神田が気付き、「何か気になりますか?」と声を掛けた。
「んー、あの犯人がいた場所に、何か落ちてる……」
「どれどれ?」蓮が興味津々に画面を覗き込み、「これ持って来れば良い?」と聞いた。
神田が思案深げに頷くと、次の瞬間には蓮の手に帳面の様な冊子が握られていた。
「やだな、Y国語とか判らないよ」蓮はぺらぺら捲っただけで直ぐに興味を失い、神田に手渡した。
神田は表紙を見て「日誌と書いてますね」と云った。「最強の手掛かりですが、私にも流石に全ては読めないです。この儘X国に提出しましょう」
先程の拳銃と弾丸と併せて、三点の証拠品として神田は回収部隊の居る水平線の彼方へと送った。
「日誌の内容、気になるなぁ」蓮は水平線の彼方を見遣って惜しそうに呟いた。
「そうですね、でも我々には翻訳出来ませんし、如何しようもないですよ。それにあれは重要な証拠物件として、X国で厳重に取り扱われることになるでしょう。いずれにしても我々の出る幕ではないですよ」神田はきっぱりと云い切った。
「解ってるんですけどね。でもやっぱり気になるなあ」
「ま、過ぎたことに執着してもしゃあないて。大統領の帰国迄あと僅かや、確り遣り切ろ」
クラウンが蓮の頭をポンと叩いて、この話題は終結した。
二十三
その後は特に問題も無く、大統領はSP達に手厚く警護されながら、無事に那覇空港で大統領専用機へと乗り込んだ。
離陸してゆく専用機を空港屋上のデッキで見送りながら、一同はほっと深い息を吐いた。
「やっと終わったぁ」知佳がヘタヘタと蹲み込むと、ユウキがテテっと近付いて来て、「ち、知佳さん、あの、LINEとか交換しませんか」と顔を真っ赤にしながら云うので、隣でその様子を眺めていた蓮がにんまりと笑った。
「えー、ごめん、あたしスマホさえ持ってないよ、未だ小学生だし」
同じく小学生の筈のユウキは、明らかにショックを受けた顔をした。
「おうちの電話なら教えられるけど」
「い、いや、それは……でも聞いとこうかな……いや、でもなぁ……」ユウキがもじもじと葛藤しているのを、蓮が嬉しそうに小突いて「テ・レ・パ・ス」と云ってウインクした。ユウキの顔がぱあっと明るくなって、知佳を見上げたが、知佳は無情にも「えーっ、ユウ君って名古屋でしょ? そんな遠くと繋がるかなぁ」と、無邪気に突き放して仕舞った。
ユウキは泣き笑いの様な顔をした。
支部へ引き上げると、神田は皆を会議室に集めた。
「お疲れさまでした。皆さんの御蔭で、大統領は無事に本国へとお帰り頂けました。途中幾度か危うい場面もありましたが、大事に至ることなく、何より無傷でお帰り頂けたことは我々の最大の功績と思います」
「秘書官と大臣さんは、帰国したら何かお咎めあるんですかね……」知佳が心配そうに訊くと、神田も残念そうに「そうですね、敵の術に堕ちて仕舞ったこと自体が、失態と云えなくもないですし。不問と云う訳にはいかないかも知れないですが……」そこで少し明るい顔を作ると、「でも今回、催眠を掛けた側の関係者が一人拘束出来ていますので、若しかしたら重要な証人、及び被害者として、丁寧な扱いをして貰える可能性は、無くも莫いと思います」
「歯切れ悪いな」クラウンのツッコミに、神田も苦笑する。
「X国が如何判断するかは、私にだって判らないですよ。まあ一人は大臣な訳ですし、そうそう雑には扱わないと思いますけどね」
そして神田は一呼吸置いて、一同を見渡した。
「今回本当に、皆さん一人一人が大活躍でした。クラウンさんの幻影スクリーンにはずっと頼り切りでしたし、幻覚やその解除能力にも大いに助けられました」
クラウンは後頭部をポリポリと掻いて、照れ臭そうに笑った。
「知佳さんのテレパス場には全員がお世話になりましたし、その読心能力は様々な場面で実に多くの成果を齎してくれました」
知佳は頬を赤く染めて、稍俯きがちに含羞んだ。
「蓮さんの転送能力は、何度も大統領の命を救ってくれました。また、容疑者の確保に際しても、実に迅速かつ的確に活躍して戴きました。本当によく遣って戴きました」
蓮は得意気に胸を張ると、ふんと鼻息を吹き出した。
「そしてユウキ君、毎回我々や大統領達の体や心の傷を癒して戴いただけでなく、解毒や洗脳からの脱却、果ては物理バリア迄、実に多彩な能力でサポートして戴きました。ピカ一の後方支援でした」
ユウキは小さく縮こまりながらも、満更ではない様子でうっすらと笑いながら、神田を見上げた。
そして神田は居住まいを正してから深々と頭を下げて、「皆さん今回は、本当に有難うございました」と云った。
「一部の方に就いては突然の誘拐の様に連れて来て仕舞ったこと、本当に申し訳なく思っています。任務中の家族や友人などに対する手当は勿論完璧にさせて戴きました。また、帰宅の際にも不在時とシームレスに繋げられる様、誠心誠意手配させて戴きます」
「えー、神田っち固いなぁ。好いよそんなこと」蓮はそう云ったが、知佳には何も応えられなかった。不在時の家族や、学校の授業のことなど、不安なことが山程あった。
「わしも微力ながらお手伝いさせて戴いております。不備など無い様に、帰宅の際にも一人一人丁寧に対応させて戴きます」
クラウンに似合わず矢鱈とマジメな顔をして云うので、知佳は少し可笑しくてフフッと笑った。横から蓮が「やだピエロの癖に。似合わねぇし」と悪態を吐いている。
少し空気が緩んだところで、会議室の扉がノックされ、一人の職員が紙の束を持って入室して来た。彼女は神田に紙束を渡すと、一礼して部屋を出て行った。
「なになに?」蓮が体を乗り出してその内容を見ようとするのを、神田は軽く制して、無言で内容に目を通し始めた。皆興味深そうな瞳でその様を見守っている。
一通り目を通し終わった神田は、紙束を机に置くと、暫く目を閉じて凝としていた。皆は何も云わず、根気強く待っていた。
「X国から報告が来ました」神田は眼を閉じた儘、緩と告げた。
「まず洗脳者、これはY国の工作員であることが容易に確認取れました。催眠技術に長けており、大分前からX国に潜入して秘書官や大臣を罠に嵌めたと見られています。彼が置いていった日誌ですが、襲撃の計画や失敗の様子が具に記録されていたとのことです」
「わしらのことも?」クラウンが不安げに問う。神田は静かに頷き、「有名になっちゃいますかね」と悪戯っぽく笑った。
「それと、達也に就いてですが、彼は無事、と云いますか、恙無くX国に身柄を引き渡されました。洗脳に就いては彼方でも認識していて、専門の機関で慎重に対処するとのことです。ただ、責任能力が無い訳ではなさそうとのことで、罪は免れないと思います。後はもう、向こうの専門機関と司法に委ねるよりありません」神田は達也の件に関しては、迚も辛そうに報告した。
「X国はこれらの事実を踏まえた上で、Y国とは表立って対立することなく、和解の方向へ舵を切る心算の様です。が、Y国の内政状態は不安定で、中々交渉を上手く進められそうにはないですね」
「まあ僕らとしては、大統領を無事に帰国させることが出来たことで、責任は確り果たせた訳で。後はX国とY国の間で如何様にでもしてくれってなもんやね」クラウンが軽薄に私感を述べると、「でもその情勢次第で、達也さんの運命も……」と知佳が言葉を濁した。
誰も次の発言が出来ず、黙りこくって仕舞うと、神田がパンと手を叩いた。
「ここで思い悩んでいたって始まりません。クラウンさんの云う通り、我々はその責務を完遂しました。先のことは神のみぞ知る、です」
そして会議はお開きとなった。
二十四
会議の後直ぐ皆で夕食をとり、そして風呂に入ったりロビーで寛いだりして時を過ごして、
「今夜は無休で運びますので、皆さん寝ていて良いですよ」神田はそう云うと、コンテナは使わずに皆を雲の上迄持ち上げ、本州に向けて移動を始めた。
行きとは違い、帰りは普通に上空を飛んだ為、たっぷり時間が掛かった。初めの内は興奮冷めやらぬ様子で騒いでいた面々も、次第に静かになり、軈て寝息が聞こえ始める。気が付くと神田とクラウン以外は、皆すっかり寝入って仕舞っていた。
何時間か経ち、すっかり真夜中になった頃、神田はユウキを起こした。「ユウキ君。今回は本当に有難う。そして、お疲れ様でした」
ユウキは寝ぼけ眼を擦りながら、こくりと頷いた。すると何か柔らかくて暖かいものが、ユウキをそうっと包み込んだ。暫く状況が理解出来ていなかったが、耳元で「ユウ君お疲れさま。元気でね」と云う声を聞くと、一気に顔が深紅に染まった。
「ちちち知佳さんもねっ!」それだけ云うと、ユウキは寝ぼけ顔の知佳から離れて、地上に降ろされた。
「寂しくなったら遊びにおいでよ」そう云う蓮の方が、寂しそうに微笑んでいた。
クラウンの計らいでユウキは誰に見咎められることもなく自宅へと帰り、パジャマに着替えると両親の寝ているベッドの真ん中へと潜り込んだ。その様子を見届けて、クラウンは家族達に掛けていた集団幻覚を静かに解除した。
そして再び移動を開始し、遂に知佳の家の上空に到着した。
「知佳さん、今回本当に助かりました。有難うございます。お疲れさまでした」
「知佳、あたしも直ぐに帰るから。ちゃんと歯磨いて寝るんだよ」蓮にそう云われて知佳は、「歯は夕食後にすぐ磨いたから。後は寝るだけだよ。また明日、学校でね」と返す。
「うん、学校でね。じゃ」
二人、小さく手を振り合うと、知佳は地上へと降ろされた。そしてユウキの時と同様、静かに家に入ると、着替えてベッドに入った。
残りの三人は知佳と別れて直ぐに蓮の家迄移動し、神田が別れを告げる。
「蓮さん、あなたの活躍は本当に得難い物でした。有難う。そして、お疲れさまでした」
「神田っちも元気出して、息子さんの帰りを待ってあげてね」
「はい」神田は笑ったが、どこか寂しそうだった。
蓮も地上へ降り、自宅へと帰った。
「とうとう子供達がみんな帰って仕舞いましたね」
「何寂しそうにしてるんですか。子供らは自宅に帰るのが一番。親元が一番ですやろ」
クラウンは余り意識していなかったが、この言葉は神田には深く刺さった。達也の一番になれなかった自分が、不甲斐なかった。
二人はいつか、クラウンの自宅アパート前迄来ていた。
「さて、僕もこの辺りで、お暇します。また何かあったら声掛けてくださいね」
「もちろんです」
「あの子達にもまた、逢えるやろか」
「さて……子供の能力は不安定ですから。いきなり強力になっているかと思えば、いつの間にか無くなったりもして仕舞うので、次の機会があるかどうかは……」
「神のみぞ知る、やな」そしてクラウンは、カカッと笑った。
二人は一緒に地上へ降り、クラウンはアパートの階段を上って行く。
「ではまた」
そう云うと、クラウンは「田中」と表札の掲げられた部屋のドアを開け、中へと消えた。
「ま、こんな仕事は、何度も繰り返すものではないですけどね」
神田は独り言ちながら、寂しく肩を窄めて寛悠と歩き、夜の闇へと消えて行った。
(終わり)
二〇二三年(令和五年)、九月、五日、火曜日、先負。
改稿、二〇二四年(令和六年)、五月、四日、土曜日、仏滅。