巴里の尼っ子
里蔵光
十六
電話を切ると、二段ベッドの下段に向かって身を投げた。涙なんかが出る訳ではない。悲しいと云う気持ちよりも、虚しいと云う想いの方が強い。なんだか時間を無駄にした。
スマホがピロンと音を立てる。暫く放って置いたら続け様にピロンピロンと音を立てた。一体なんだと云うのか。今決着付けたじゃないか。都子は大儀そうに体を起こすと、スマホの通知を確認した。
「なんや、そっちか」
通知の主は、思っていた相手ではなかった。ロックを外して、チャット画面を確認する。送信者は凡て同じだ。
――ついに別れたって? アホがあたしンとこまで来よったで
――さっそく他の女口説き始めるとか
――いっぺんシメタロカ
都子は思わず笑って仕舞った。佑香に行ったか。世間の狭い男なのだ。
――そっち行きよったか。なんかゴメンな
返事を返すと、即座に相手からも返って来る。
――そんなんえゝねん。ただむかつくから、のも
――のもか。今から?
――えゝよ、駅前のマクド来て
――らじゃ
飲もう飲もうと云い合っているが、都子は未だ高校生だ。そんな公明正大に酒など飲めるものではない。この場合、ファストフード店でシェイクか何かが精々だ。ちなみに同世代の娘達はもう少しオシャレなカフェだのに行って、映えるドリンクなどを飲んだりしている様だが、余りそう云うのは得意な方ではなかった。それは多分、佑香も同じなんだと思う。
洗面所に行って、鏡越しに身嗜みを確認する。ベットに転がったりしていたので、多少髪が乱れているが、癖の無いショートカットなので手櫛で直ぐに直って仕舞う。墨の様に真っ黒な前髪が伸びて来て、目に掛かりそうになっているのが気になる。風紀委員に目を付けられ兼ねないので、週末に切って来ようかと思う。服装は濃紺のTシャツにジーパン。夜に溶け込んで仕舞いそうなので、白っぽいパーカーを羽織る。そろそろ気候も秋めいて来ているが、まだそこまで寒くもない。パーカーの胸元には、控え目にHとTのロゴが入っている。
「ちょい駅前出て来るわ、佑香とお茶」
「はいよ、気ぃ付けてな」
母親に軽く断って、家を出る。尼崎駅前迄、自転車で五分程だ。マクドナルド店舗前にある駐輪スペースに自転車を止めて、店内を窺う。佑香は直ぐに見付かった。
「みやこー!」
都子が声を掛けるより先に、佑香が気付いて大きく手を振って来た。部活帰りか塾帰りか、佑香は学校の制服の儘で、長い栗毛をハイポイントのポニーテールにしている。アクセントになっている白猫の髪留めが愛らしい。
「おー、おまたせ!」
小さく手を振り返しながら、佑香の正面に座る。
「アホな、先刻まで居ってん」
「はぁ? マジか」
「ほんま、腹立つぅ! もぉ、思い出しただけで寒気するわ」
佑香は己の両肩を抱いて、ぶるぶると震える仕草をする。
「あぁ、ちょい、飲みもん買うて来るわ」
「行っといで」
レジに並んで、ポテトと、紅茶を買った。それらを持って席に戻ると、佑香が笑っていた。
「飲みもん?」
「ポテトは飲みもんやん?」
「いやいや」キャラキャラと笑って、「まって、あたしダイエット!」
「知らんしぃ」
「云うたやん」
「聞いたん昨日やし。今日もしとぅとか知らんし」
「まって、非道い!」
そして二人でけらけらと笑った。
「てか、あげるって云うた? これうちの分」
「それはそれで、ケチやん」
「ダイエットやん?」
「なんよ、ポテトぐらい!」
「ポテトはでかいやろ」
そんなことを云い合いながらも、結局は二人で摘んだ。
何時もこうしたものは、何方が買っても自然と分け合って仕舞う。何方かが一方的に買うと云うことも無く、大体均等に貸し借り無し状態なので、お互い気にしたことも無い。この時も別に、本気で分けるか如何か揉めていた訳ではない。日常の戯れ合いの様なものだ。
「何の話やっけ」
ポテトを食べながら佑香が惚けた調子で云う。
「龍」
「あゝ、そうそう、あいつそんな名前やったな。名前ばっかり偉そうねんけど、中身蛇か蚯蚓みたいな奴やで」
「きんもっ!」
「あっ、都子昨日迄付き合うとったんやっけ、ゴメンな」
「最前迄付き合うとったけどな、でも否定の余地ないから」
そう云って都子はゲラゲラ笑った。
「さいぜんって、都子ちょくちょく古い言葉使うやんな。お婆ちゃんみたいやん」
「失敬やな! 日本語大事にしとぉだけやで!」
「そやなぁ……都子はカシコやもんな」
「普通やって」
「普通の子、さいぜんとか云わんのよ」
「マジか」
「マジや」
都子と佑香の付き合いは古い。小学生の時に――
「そう云や都子、あれ、今でも出来るん?」
「あれ? なんよ?」
「いやほら――小学校ン時しとったやん、先生の声消したりさ、鴨田の屁の臭い消したりさ」
「吁、最近せぇへんなぁ――てか消してばっかりやな」
「他になんかあったっけ?」
「えゝよ別に。今してないし、出来るか判らんし――
「なんでって――」
「なんか消したいんか」
「いや――云わんとく」
「なんじゃそら!」
「云うたら都子、軽蔑しよるやん」
「いや、何かも判らんのに、その質問如何答えたらえゝのん」
「うんまぁ――えゝのえゝの! 忘れて!」
都子は佑香の目を凝と見詰めた。佑香は何を隠しているのか。知っておくべきの様な気がする。
それにしても小学校の時、何したっけか。――都子は過去に思いを馳せた。
十一
そう、確か小五位だった。小六かも。兎に角その位の齢の頃、都子は突然変な能力に目覚めた。如何も説明が難しいのだが、その場の空気を変えるとでも云うのか、空気どころか音や臭いを出したり消したり、明るさを変えたり、背景色を変えたり、温度を変えたり、霧を出したり、時間の流れ方を変えたり、離れた二地点を繋げたり……佑香は消す方ばかり覚えている様だが、兎に角そう云う、何だかスーパー舞台演出みたいなことが、考えただけで現実になる。そんな変な、超能力の様なモノに目覚めて仕舞ったのだ。
最初は何だったか。そう、佑香が絡んで来るのだ。家が近所で、物心付いた頃からずっと一緒に遊んで来た腐れ縁、それが佑香だ。人当たりが良くて、ノリが良くて、見た目も可愛らしいので、誰とでも直ぐ打ち解けて仕舞う。そんな佑香がその頃連るんでいた友人達と云うのが、クラスのいじめっ子グループで、勢い佑香も彼女等のいじめに加担することになっていた。その頃の都子は、否その頃既にと云う可きか、周りとは上手く打ち解けられず、孤立し勝ちだった。とは云え、いじめのターゲットになることもなかった。常に近寄り難い雰囲気を醸していて、いじめっ子達でさえ一歩退いて仕舞う様な、そんな子供だった。長めの真っ黒な前髪を下ろしていて、それが鬱陶しくて目付きが悪くなり勝ちなのも、他人を寄せ付けない原因になっていたかも知れない。
そんな状態だったからこそ、都子は佑香がそんなことに関わっているなんて知らなかった。都子の前での佑香は、いつもと全く変わりが無かったのだ。悪い友達と悪い遊びに興じているなんて思いも寄らなかった。
都子はそのことを、突然の匿名告発によって知ることとなる。
夏休み前の或る昼休み、自分の机に突っ伏してうつらうつらしていたら、顔の下に何かが差し込まれた。寝惚け眼で確認してみると、それは級友の国語の教科書だった。名前の所がマジックで塗り潰されて、「アホ子」と書かれている。表紙にも愚にもつかない落書きがぎっしりと描かれていて、元のデザインが全く分からない程である。
「なんじゃこりゃ!」
都子はそう吼えると、ガタンと音立てゝ立ち上がり、その教科書を持って教室から出て行った。どこかで小さく「あっ」と声を漏らす者がいたが、都子は気付かなかった。
図工室へ行き、準備室のドアを叩くと、図工の先生が出て来る。この先生はいつでもここにいる。
「お? 天現寺か、珍しいやん。どないした?」
「シンナー貸してください」
「なんやと? アンパンでもする気か」
アンパンと云えばシンナーを吸入する、八十年代位の不良達の遊びだが、都子は意味が解らず小首を傾げて、もう一度云った。
「シンナー貸してください」
先生は通じなかったセンスのない冗談は無かったことにして、「中で待っとき」と云うと、都子を招き入れてドアを閉めた。そして教卓の上に並んでいる瓶の中から一つを選んで持って来ると、「なんに使うか教えて」と訊いた。
都子は無言で、級友の教科書を差し出した。先生は眼を瞠り、
「お前のんか?」
「いや。多分小夜ちゃんのや」
名前の欄なんか殆ど塗り潰されていて、姓も名も判らなかったが、微かに鍋蓋と、その下に夕らしきものが見えたので、「夜」かなと思った。「夜」が名前にあると云えば、何時だか名簿かなんかを見た時に目に留まった「小夜子」と云う名前が、綺麗だなと思ったのでなんとなく覚えていたのを思い出した。どこかで「小夜ちゃん」と呼ばれているのを聞いた気もする。なので、そう答えた。
「小田か。そうかもな。――ちょい貸して」
先生は教科書を机に置くと、授業用のタブレットで写真を撮った。裏と表を撮影し、中をぱらぱらと捲る。
「ふん、中迄は遣っとらんか。――なあ天現寺、これ誰が遣ったか判るか?」
「知らんねん。寝とったら急に顔の下に入れられた」
「寝とったんか。まあ昼休みならえゝけど……」
そして先生は窓を全開にしてから、ティッシュにシンナーを染み込ませて、教科書の裏表を拭き始めた。
「いや、先生、うちが遣る。シンナー貸してって云うたやん」
「なんでや。お前犯人とちゃうやん。関係無いやろ」
「それ云うたら先生も関係あらへん」
「先生は常に関係あるねん」
「担任ちゃうやん」
「担任ちゃうくてもや」
結局二人で交互に拭いた。二人の頑張りで落書きは略落ちた。ビニールコーティングの御蔭で表紙のデザインやイラスト等はその儘残ったが、なんとなく全体に白く霞んで仕舞った。裏表紙の名前欄は真っ新になって仕舞ったので、先生が丁寧に名前を書き直した。
「これは先生から小田に返しとくわ。次の国語の授業は何時間目や?」
「もう終わっとぉ。四時間目やってん」
「そうか……」
都子が教室に戻ると、矢鱈と視線を感じた。ぐるりと見渡してみると、眼を伏せたり逸らせたりしている者達の中で、なんだか佑香だけが微妙な表情で都子を見ていた。
「なんや」
都子が問うが、佑香は結局眼を逸らせた。気にせず自席へ戻ったところで、数人の名前もうろ覚えな級友達に囲まれた。
「天現寺さん、あれ、どないしたん」
「あれ――とは?」
「小田の教科書やん」
「なんで?」
「どっか持ってったやろ」
囲んだ級友達が次々に問い掛けて来る。都子は何だか面倒臭くなって来た。
「あれ――君等が遣ったんか」
「えっ――な、んのこと」
「こっちこそ、何のこと、や。君ら何の為にうちを取り囲んどんねん」
「なんの――ためって――ねぇ」
「そんなん――知らんし」
級友達はお互いを見遣りながら、如何にも奇怪しな態度を取り続ける。
「関係ないなら――往ねや」
「い――いねってなに」
「どっか行けゆうとん!」
「ひぃ!」
取り囲んでいた者達は散り散りに逃げて行った。唯一人、佑香が残っていた。
「何やねんな、邪魔臭い」
「都子――」
「せやから何?」
「あ――あたし――」
都子の苛々が再度爆発しそうになった時、いじめっ子の主犯格の様な立ち位置の娘が都子の正面に立った。
「何余計なことしてくれとん」
「はぁ?」
都子が顔を下に向けた儘上目遣いでじろりと睨むと、相手は一歩後退った。天然なのか抜いているのか、非常に色素の薄い茶色い髪を長く伸ばし、頭頂部で器用に編み込んでその儘ツインテールへと流している。めんどくさい奴は大抵ツインテールだ、と根拠も何もなく、都子は勝手な感想を抱いた。
「あっ――あんたなんか、怖くないねんから」
震え声で猶も噛み付いて来る。兎に角苛々が止まらなかった。腹が立つとか、正義感と云う様なものでもなく、なんとなく唯々気に食わなかった。唯々面倒臭くて、鬱陶しかった。その時、周りの景色が霞んで来ていたのだが、誰一人そのことに気付いていなかった。
「都子、あたしが悪いねん。あたし、もう沙梨との友達やめる」
「はぁ
沙梨と呼ばれた娘は、今度は佑香に食って掛かった。都子は
先ず沙梨が気付いた。
「えっ――なにこれ」
佑香も周囲を見渡した。
「は? 何でこんな暗いの? 未だお昼休みだよね――え、皆は?」
そこは三人だけの世界になっていた。真ん中で座っている都子が顔を挙げる。都子の机と椅子だけ残して、他の机も椅子もロッカーも、壁も天井も、床さえも無くなっていた。
「み、みやこ、何これ、怖い!」
佑香は都子に縋りつく。沙梨は真っ蒼な顔で、その場に固まって細かく震えている。
「あぁ……なんやこれ……えゝと……」
都子の顔から苛々が少しだけ消えた。明るさが戻り、背景も稍明度を上げて灰色になる。
「はぁん?」
背景が薄黄色になり、水色になり、ピンクに変わる。
「はは、何やこれ、楽しい」
都子は笑顔になっていた。他の二人は相変わらず恐怖を貼り付かせた顔で、片や都子にしがみ付き、片やその場で立ち尽くしている。
「みっ、みやこ? 都子なん? これ、都子がしとんの?」
「うちが何するゆうねん」
「え……だって……」
「思った通りの色に変わりよるねん、楽しいわぁ」
「ほら矢っ張り! 都子やん!」
「えゝ?」
相変わらず都子はピンと来ていない様な顔をする。自分が作り出した空間だと云う自覚が無いのだ。
二人の遣り取りに刺激されたか、沙梨が我を取り戻した。
「こっ――これは何? 天現寺さん、何かの嫌がらせ?」
「なんでよ。うちがなんで君に嫌がらせすんねん」
また世界が少しだけ暗くなった。
「あたしが小田虐めたから、仕返しか何かン心算? てかこれ、何を如何遣って――」
「はぁ、君が虐めとったん」
「あっ――いやそんなこと、最初から判っとったんちゃうん!」
「知らんがな。興味も無いわ。唯、教科書勿体なって思っただけや」
沙梨はギリギリと歯軋りした。
佑香は都子にしがみ付いた儘、「都子ごめーん! あたしもう教科書虐めない! 物大事にするから!」と謝る。
「判ればえゝねん」
「はあ? 何それ!」
沙梨は完全に肩透かしを食らって、吼えるしか無かった。
「小田さん虐めんなとか、そう云うのんちゃうん
「別に。小夜ちゃんのこと略識らんし。てか気になっとんなら謝ってきぃや」
「きっ、気になんか! あほか!」
「アホは君やん」
「はぁあ
「君な、先刻から何やねん、うだうだぐだぐだうだうだぐだぐだ」
うだうだぐだぐだ、と都子は三十秒ばかりずっと繰り返して、
「――えゝ加減にさらせや邪魔臭い! 結局何が云いたいん? 何したいん? 判然モノ云えやこンの、愚図プリ!」
「ぐずぷり?」佑香が不思議そうに訊き返した。
「愚図のプリンセス、愚図プリ」
「なんそれ!」佑香がゲラゲラ笑うので、都子も一緒に笑った。沙梨だけ、顔を真っ赤にして震えていた。
「てっ……天現寺さん、あたしのこと莫迦にしとん?」
「はぁ、莫迦にする程の興味も無いわ」
「なっ……!」
「君大概にしんと、地獄ン落とすど」
「は?」
その瞬間、沙梨の足元に真っ黒な円が広がり、それがじわじわと広がりながら迫り上がって来ると共に、ドラム缶でも転がすかの様な低くて厚い轟音が地の底から湧き上がって来て、沙梨を包み込む。沙梨は殆ど発狂寸前の様な状態で、「厭! 嫌だ! 御免なさい! あたしが悪かったです! ごめんなさい! 済みません! やだやめてぇ! 厭あぁぁ!」と泣き叫んだ。
「うわあ、酷いなこれは」
都子がそう云うと、黒い穴も轟音もぴたりと止んだ。
「えっ、今のも都子?」佑香が表情を失くして都子に確認する。
「その様で。何でしょね、これ」
「あんた、なんか、悪魔と契約でもした?」
「いやぁ? してへんと思うけどなぁ……」
「何でそこあやふややねん」
二人の惚けた遣り取りを前にして、沙梨は顔を涙でぐちゃぐちゃにした状態でへたり込んで、肩を震わせながら洟を啜り上げている。
「ほんでこれ、如何遣ったら抜けられるんかな」
「えっ、都子マジで云うとる?」
「わりかし」
「厭やで、こんなところで人生終わりとぉない」
「んな大げさな……」
沙梨は二人を青い顔で見上げて、
「天現寺さん、平野さん……あたしもう、小田さん虐めないから。他の誰も、もう虐めないから。だ、だから許して。――小田さんにもちゃんと謝るから。ここから、出して……お願いぃぃ」
最後の方は泣き声に変わって仕舞った。都子と佑香は顔を見合わせて、都子は鳥渡困った表情をした。
「うーん……これほんま、うちか? うちがしたことなんか?」
そんな様な事をぶつぶつ云っていると、少しずつ教室の風景が戻って来て、昼休みの喧騒も徐々に聞こえる様になった。
「おお、帰れた」
「都子、良かったぁ」
佑香がぎゅうとハグして来るので、都子は困惑して、佑香の肩をポンポンと叩いた。教室の時計を見たら、三分位しか経っていなかった。
「ふうん? なんやこれ……」
体感では二、三十分ぐらいはあった様な気がする。流石に三分ってのは短すぎる。それでも昼休みや五時間目の授業を潰して仕舞わないで良かったと、その時はそう思っただけだった。
その日の放課後、沙梨が小田小夜子に謝っていた。小夜子は綺麗になった教科書を抱き締めて、なんだか困った顔をしていた。都子が自分の席で脱力しながら、何となく見ていたら、佑香がその場ヘ駆け寄って、沙梨と並んで頭を下げた。すると、昼に都子を囲んでいた生徒達も次々集まって来て、皆で頭を下げるものだから、小夜子は却って怯えて俯いて仕舞い、教科書をランドセルに仕舞うと涙を溜めて小走りに帰って行って仕舞った。
「何やねん、人が謝っとんのに、あの態度」
そんな不平を漏らす者も居たが、沙梨が一睨みすると直ぐに黙って仕舞った。そこ迄見て都子はランドセルを背負って席を立ち、沙梨の横を擦り抜け様、
「次はその子か?」
と呟いた。沙梨はビクリと戦慄いて、怯えた眼で都子の背中を追ったが、都子は興味無さ気に振り返りもせず、その儘帰って仕舞った。後から佑香が走って追い掛けて来た。
「沙梨もうしないってよ」
「さよか」
都子はそんなことより、自分の変な能力のことばかり考えていた。何を如何したのか余り思い出せない。気付いたらあの変な領域に入っていたし、気付いたら出ていた。背景の色を変えたのも、沙梨に怖い思いをさせたのも、一切自覚が無いので、真実自分がしたことなのかも自信がない。
「あれ何やったんやろなぁ」
「ホンマや。あれなんやったん」
独り言に返事が返って来たので、都子は吃驚して横を見た。左隣に佑香が居た。
「うわぁびっくりした。なんや、何時からおってん」
「なんそれ、ひっど!」
佑香がグーで都子の肩を押して来た。
「ゴメンゴメン、え、そんで何時からおってん?」
「沙梨もうしないってよって、云うたやん! ほんで、さよかって返事、したやん!」
「あぁん? ほんまに?」
「ちょお、都子非道すぎひん!」
今度はぽかぽかと叩いて来た。
「わあ、ごめん、ごめんて」
きゃあきゃあと巫山戯合いながら歩道を歩いていたら、前から結構なスピードで自転車が迫って来た。ちりんちりんとベルが鳴るが、二人が気付くのは大分遅かった。駄目だ、ぶつかる、と思った時、世界が止まった。
「はっ?」
都子は周りを確認する。何だか空気が薄い気がする。体が上手く動かせない。目だけ動かして横を見ると、佑香が止まっている。物凄い勢いで考えるが、如何も息が苦しい。吸っているのに吸えていない感じ。
――空気が固まっとぉ
そこに気付いた時、急に息が楽になった。顔も動かせる様になっている。然し相変わらず手足が動かない。何と云うか、金型にでも嵌められたかの様に、前後左右何方にも動かない。これも空気が固まっている所為か。そして気付くと同時に、手足が自由になった。
「なんやねんこれ……」
ぜえぜえと息をしながら、改めて周囲を確認する。自転車が中途半端な状態でぴたりと止まっている。乗っている人物は吃驚した様な怖がっている様な、もの凄い表情で固まっている。隣の佑香は両手を顔の前に翳して目を瞑っている。
「これは若しかして、時間が止まっているっちゅうことなんか……」
佑香の方へ近付こうとして、見えない壁にぶつかった。
「ここの空気は固まった儘……」
両手でぐぅと押しながら空気の壁を押し遣る。
「時間が止まるっちゅうことは、空気も止まるんか。止まっとぉから動けんし、息も出来ん……今動けて息出来とるっちゅうことは、その範囲だけは時間が動いとるっちゅうこと……」
再び物凄い勢いで考える。都子は元々考えることが好きだ。考え過ぎて周りを置き去りにして、結局孤立する。だから未だに友人と呼べるような者が佑香しか居ない。本人は全く気にしていないのだが。
「佑香」
その友人の名を呼びながら、肩に手を置いた。
「ひゃああ!」
佑香が手で顔を護る様にしながら蹲みこんだ。
「佑香。だいじょぶ」
「へっ?」
「時間止まった」
「は? なに?」
佑香がうっすら眼を開けて、都子を見上げる。そして周りをきょろきょろと見渡して、再び都子を見る。
「何この状況……え、これも都子?」
「判らんねん。兎に角止まっとん。佑香も最前迄止まっとった」
「うそやん。じゃあなんで今動いとん」
「動いて欲しかったから、かなぁ」
「やっぱ、都子なん?」
「――かなぁ」
「何でそこの自覚無いんよ! てか、これ何時まで止まっとる? この儘あたしらお婆ちゃんなんの?」
「大袈裟やねん」
「いやいや、止まった儘ならそうなるやん」
「二人だけでそんな長生きでけるかなぁ」
「やだ、怖いこと云わんと」
そんなことを云い合いながらも、二人は自転車の正面から横へと移動した。
「自転車避けたから、もう動かしてえゝのんちゃう」
「どうやって」
「知らんわ」
都子は右手を腰に回し、左手を口元に宛がって、一所懸命に考えていた。
「てか都子、あたしのこと動かしてくれたやんな」
「そやなぁ。周りの空気とかも動かせたけど」
「空気?」
「時間止まったら空気も止まんねん。で、空気動かんと、体も動かせんし、息もでけへんねん」
「なんそれ。こっわ」
「空気もほんの周りしか動かしてないから、その内酸素無くなって死ぬか解らんなぁ」
「ちょ、やめてや、もっとたくさん空気頂戴!」
「そやねぇ……」
都子は腕組みした儘、空を見上げた。雀が空の一点にぴたりと貼り付いている。
「一個一個しとっても、地球全体とか、宇宙全体とか、無理やからなぁ」
「スケールでか!」
「いや、だってそうやん。うちらだけ動いても、地球動かんかったらずっと昼やし、ずっと夏や」
「夏好きやで」
「そう云うこととちゃうやん」
「まあな」
都子は「うーん」と暫く考えて、
「そうか……時間が止まっとる云うより、うちらがもんすご速ぅ動いとぉだけなんかな……」
「なに?」
「周りをどうこうでなくて、うちら自身をどうにかしなかんねん」
「何や解らんけど、じゃあ、それで」
「てけとーに同意しんとってよ」
「だって、わからんもん」
「使えん友やなぁ」
「うっさいわ。あたしは魔法使いの友達でけて、楽しいわ」
「魔法使いなんか」
「ちゃうのん?」
「んー、解らん」
そして再び考え込んで、何かぶつぶつと云っている内に、横にいた自転車が急に走り出して、数米先で停止した。
「あ、これでえゝんや」
「やった、動いた!」
自転車を漕いでた者は一瞬こちらを振り返り、不思議な顔をしてまた走り出して行って仕舞った。
「佑香ゴメン、ちょっと試さして」
そしてまた世界が止まった。
「いや、なにしとん!」
「はぁん……なるほどなぁ……」
そしてまた動き出す。
「ちょっと、遊ばんとってよ、つかあたしを巻き込まんとって!」
「あかん? 楽しいかなー思っとんけど」
「いや、楽しくはあるけど、鳥渡今やないかな」
「何やめんどいなぁ」
「めんどい云うなぁ! つか、他人見てないところでしてや」
「なんそれ。やらしい」
「やらしない!」
佑香は真っ赤になって、都子はけらけらと笑った。
「だって、なんか、他人に見つかったら厭やん」
「なんで?」
「なんでって……都子厭やないの?」
「解らん。何が嫌?」
「大騒ぎンなって、テレビとか来て、大学の博士とか来て、都子解剖されたりするやん」
「するかいや」
「するやろ!」
何だか莫迦々々しいと思ったが、佑香が存外に真剣な目で訴えて来るので、まあそんなこともあるのかなぁと云う気になって来る。
「ん、まあ、わかった。他人の居ないところでこっそり遊ぼ」
「なんか云い方やらしい」
「やっぱ、やらしいやん」
「ちがーう!」
結局都子は、佑香を揶揄って遊んでいるのだ。都子はにやにや笑いながら佑香の手を引き、自分の家迄連れて来た。
「ちょぉ待ってぇや、一回帰らな、お母んにシバかれる」
「そうなん? めんど」
「しゃあないやん。ランドセル持って遊び行くな云われとんねん」
「真面目子やな」
「そやで、知らん?」
「全然知らん」
「ひどっ!」
なんだかんだ、佑香は一度家に帰り、ランドセルを置いて走って戻って来た。走って数秒の近さなのだ。
「ほな、都子、やらしい遊びしよか!」
「そんなん嫌や。うち恥ずかしがりやん」
「はぁ
佑香を子供部屋に上げると、台所へ行って麦茶を入れて持って来た。客が来たら何時もそうしている。変なところで律儀なのだ。
「ああ、もぉ、そんなんよろしいのにぃ」
「いやいやお構いでけまへんでぇ」
大人達の真似ごとを一頻りした後、二人で麦茶を一気に飲み干した。
「ぶはぁ! 都子、もう一杯!」
「おー、えゝ飲みっぷりやなぁ」
「お前もな!」
「二杯目からは三千円になりますぅ」
「クソたっか!」
それでも都子は二杯目を入れて来た。勿論金なんか取らない。流石に二杯目は一気飲みなどせず、飲み掛けのコップを座卓の上に置いた。
「さて、覚悟はえゝか」
「えっ、何の?」
キョトンとした顔の佑香が、部屋から消えた。佑香の居た辺りにはぼんやりと人の気配が残っている。然しそれも、数秒で消えた。
「ほぉ」
都子が納得した様に頷くと、佑香が戻って来た。なんだか物凄く泣きそうな顔になっている。
「みっ……みやこ、いきなり何すん! 何なん今の! めっさ怖かったやん! 心細かったやん! 悲しかったやん!」
「あ、そんな感じか」
「都子!」
「いや、傍から如何な風に見えるんかなぁ思て。なるほどなぁ。ほならうちら、昼休みに机ごと消えとってんな」
「ええ?」
「見とき」
今度は都子が消えた。消えた辺りにぼんやり気配が漂っていたが、数秒で何もなくなって仕舞った。
「みっ……みやこ?」
次の瞬間、佑香は背中を押された様な気がして振り返ると、そこには都子が立っていた。
「えっ、今……え、何でこっち?」
「ほー。そうか。こうなるんや」
「なに?」
「ワープやん」
「へ」
都子は右手を胴に回し、左手を口元に持って行って、考え込んで仕舞った。
「解る様に云うてよぉ」
佑香が苦情を口にするが、都子には聞こえていない様だった。物凄い勢いで考えている。
「――てことは、やな」
何やら呟きながら、押し入れを開けると、潮の香りがプンとした。佑香が何事かと覗き込むと、海があった。
「えーっ! なっ、なんで
佑香が口をあんぐりと開けて固まっている。都子が振り返ってその様を見ると、にたりと笑って、
「直ぐそこの海や。落ちんように気を付けや」
尼崎の海は工場だらけだ。浜なんてものは殆ど無く、堤防だの突堤だのテトラポッドだの、コンクリートの岸壁の下は直ぐ海だったりする。この押入の中もそんな海だった。
「ワープでけるなら、こんなんもでけるかなーて、思って遣ってみとぉ」
「な、何云うとんか解らん」
「ワープてのはな、二つの離れた場所を、くっつけることやってのは、オーケー?」
「なに云うとんか、解らん」
「んー、どう云うたらえゝのか……せやからな、先刻うち独りで消えた時あるやろ、あん時な、その変な世界で、鳥渡思い付きで試してみとぉ」
「何を」
「そっちとこっち、重ねられそうやって」
「何云うとんか解らん」
「だぁもぉ、頭悪いな!」
「悪かったな!」
佑香は決して頭の悪い子ではない。この場合都子の説明が下手なのだ。ここから数十分掛けて、落書き帳等使いながら説明し、最終的には何とか佑香も理解することが出来た。
「つまり二つの地点の距離をゼロに出来るなら、押入れと海も繋げられるってこと?」
「それ!」
「都子の説明、疲れたわ」
「伝わった様で何よりや!」
その時、台所に居た母親が部屋に入って来た。
「都子、佑香ちゃん、お菓子あんで。食べ」
机に煎餅を盛ったボウルを置きながら、
「何やこの部屋、めっさ潮臭い」
と云って押入れの方を振り返った。
「あっ!」
佑香は慌てたが、都子は気にも留めず、煎餅を一枚取った。
「うわ、何やこれ」
母親は暫く固まっていたが、やおら都子に向き直り、
「都子か」
「ん? ああ、煎餅ありがと」
「そやなくて。この海!」
「ああ、なんかでけた」
母親は片手で顔を覆うと、「あちゃあ」と云った。
「都子に出たかぁ」
「何が」
佑香はこの母親の反応が不思議だった。丸で、想定していたかの様な。
「取り敢えず戻し」
「はい」
母親に云われた通り、都子は押入を元通りにした。潮の香りはしなくなった。
「そこ座り」
母親は床に腰を落としながら、机の向かい側に座るよう都子に求めた。都子と佑香が並んで座ると、母は話し始めた。
「あんたの婆ちゃんも、同じ様な能力持っとってん。その所為で色々苦労しとってんけどな……あんた、何がでける?」
「ええ、説明難しな。えゝと、変な世界に行ける。時間止めれる。ワープでける」
「すご」
「お母もでけるん?」
「お母はでけへん」
「そおなんや……」
「それな、学校で使いなよ」
使いな、は、使うな、の関西弁である。「な」で音が下がる。
「なんで?」
「なんでて、あんたにそんな能力あるて皆に知れたら、あんたアテにされ捲るで」
「何やそれは」
「遅刻気味な子は家と学校繋げてって云うやろし、忘れもんした子は今すぐ家の部屋にワープさしてって云うやろし、成績微妙な子はテストの時に時間止めてって云うやろし、先生は修学旅行のバス電車キャンセルして、移動よろしくって云うやろし……」
「そぉれは大袈裟すぎひん?」
「人の欲望舐めたらあかんよ」
「マジで」
「マジやで。せやから、誰にも知られたらあかん」
「けど佑香と……」
「佑香ちゃんはしゃあないわ。秘密にしたってな?」
「あ、はい、もちろん、です」
「て、ちょい待ち、あんた今、佑香『と』て云うた?」
「あ」佑香が両手を口元へ当てる。
「せやから、えゝと、あれ、名前忘れた」
「何やそれ」母は右肩をカクンと落としてずっこけた。
「沙梨や。小母ちゃん、クラスのいじめっ子やった沙梨が、都子の変な世界で酷い目遭うてます」
「なになに、あんた一体、何した?」
都子と佑香は、昼休みに起きたことを交互に説明した。都子の説明は解り難かったが、佑香の説明で略状況は伝えられた。
「あちゃあ、あんた何、正義の味方しとんねん」
「そんなんちゃうわ」
「わかっとう。わかっとうねんで。せやけど結果、正義の味方なってもうとるやん。――その、サリちゃんか? その子の口、止められへんかなあ。もう喋ってもうとるかなあ」
「あー、どうかな。大分怯えとったし、都子のこと怖がっとおなら、誰にも話してないかも」
「そうやとえゝな」そう云いながら母親は立ち上がり、「ちょっと色々手回してみるわ。さりちゃんの、苗字わかる?」
「知らん」
「都子に訊いてない!」
「えっと……薬師院かな」
「佑香ちゃん、ありがと!」
母親は部屋を出て行くと、スマホであちこちにメッセージを飛ばしたり、電話を掛けたりし始めた。
「なんや、大事になってもぉたなあ」
「あんたが呑気過ぎるからやん」
「云うて、そんな色々頼まれたって、一個もしてやる義理無いけどな」
「そうも云うてられんくなるやん?」
「なんで?」
「なんでて……ほら、人の欲望舐めんなて、小母ちゃん云うとったし」
「何やわからんなあ」
「一周回って凄い思うわ、あんたのその呑気」
「いざとなったら、時間止めてその隙に逃げるわ」
「あんた……」佑香はクククッと堪えた様な笑い方をしていたが、抑え切れなくなって結局ゲラゲラ笑いながら、「あんた、最高や! もお、あんたについてくよ!」
「来んなや鬱陶しい」
「もお、あんた最高!」
佑香は都子の背中をバシバシ叩きながら、猶も笑い転げていたら、ドアが開いて母親が戻って来た。
「そんな単純なもんとちゃうからな」
如何やら会話が聞こえていた様で、真面目な顔して凄んだ。
「あんたら、目の色変えた人間舐めたらあかんよ。そんな一回二回逃げ果せた所で、奴ら諦めると思いなや」
「ええ、めんど」
「そんなんで済むなら、婆ちゃんかて苦労しぃひんかったわ」
「うんまあ、わかったよ。ひた隠す」
「そうしとき――そんでな、その、薬師院さん」
「誰?」
都子の問いに母親と佑香は一回顔を見合わせてから、揃って都子に視線を向けた。
「何聞いとってん、沙梨の苗字や!」
「あんたはほんま、興味ないことはとことん覚えんなぁ。そんでもな、その薬師院さん、大体如何な子か掴んだし、自家に連れてきて欲しいねんやんか」
「はあ? 知らんよ」
「知らんよ、やなくて。連れて来なさい。お話するから」
「いらんて」
「あんたが要らんくても、母さんが用事あんねん」
「えぇ、もぉ、めんどい。そんな知らんし。話さんし」
「大層なことしといて何云うねん。罪滅ぼしや思ぅて連れてきぃや。佑香ちゃんも、もし出来れば、協力したって」
「します、協力。都子が解剖されたら厭やし」
「解剖?」
「うち解剖されるんやと、どこぞの大学教授かなんかに見付かったら」
「解剖なぁ……うんまあ何でもえゝから。よろしくな、佑香ちゃん」
「はい!」
都子は深い溜め息を吐いた。そんな友人の肩を、佑香はぽんぽんと叩く。
「まあしょうないやん。ここが踏ん張りどころや」
「だる」
「みんなにバレたらこんなもんでは済まんかもやで」
「そうか――まあ、そうかもなあ」
最終的には都子も納得し、佑香は自宅へ帰って行った。その後母は都子の能力の話をしなくなり、姉や父が帰って来てもその話題には一切触れなかった。都子はなんだか疲れて仕舞って、自らその話題に触れようとはしなかったが、母が黙っている理由迄は考えが及ばなかった。
次の日学校に行ったら、佑香が沙梨と話していた。都子が教室に入ると、沙梨が怯えた様に首を竦め、佑香がにっこり笑いながら駆け寄って来た。
「今沙梨に話すところやん。一緒に云うて」
「何を」
「何をってあんた、昨日話したやろ!」
「あぁもぉ、冗談やん。解っとぉ」
都子が視線を遣ると、沙梨はびくりと体を強張らせた。
「ちょお、何でそんなびくついとんねん。丸でうちが悪者みたいやん」
「今んところそうかも知らんな」
佑香の言葉は都子には心外だった様だ。
「なんでなん、こんな心優しい美少女やのに」
「誰が美少女か!」
「あは」
都子は少し笑って、ランドセルを自席に置くと、教科書ノート筆箱等を机に移し始めた。
「そんなん後にして、話しようや」
「もお、佑香してくれとったらえゝのに」
「自分のことやん、ちゃんとしよ」
「あ、あの……」
二人の掛け合いが止まらないので、沙梨が恐る恐る声を掛けて来た。
「せやから、かったいねん。何怖がっとん」
「そらな」
「いや訳解らん。ほんま人畜無害やのに」
「話進まんからそこは取り敢えず置いとこか」
「はぁ?」
「沙梨困ってるから」
「あゝもぉ、めんどいなぁ。君、今日自家来ぃや」
「えっ!」
突然都子が沙梨に向って想定外のことを云うので、沙梨は眼を見開いて一歩後退った。
「都子、唐突!」
「えゝやん。なんや知らんけど、今日自家おいでな。そんではそぉゆうことで」
「え、えっ……ひっ、平野さん?」
「その呼び方こそばいし、やめて! 今迄通り佑香でえゝやん。あたしのことまで怖がらんといてよ!」
「ごっ、ごめんなさい……佑香さん、あの……」
「もぉ勘弁してぇ! 都子の所為やで!」
「はぁ?」
「なんかもぉ、その辺も含めて、今日放課後都子ン家おいでや。あたしも行くし。怖いことなんか無いからな」
「あ……う……うん……はい」
「じゃあそう云うことで!」
結局佑香も、都子と同じ様な締め方をして、沙梨は中途半端に放逐された。
その日一日、沙梨はずっと様子が奇怪しかった。取り巻き達が話し掛けても上の空で、都子の席の方には頑なに視線を向けない。そんな沙梨を都子はずっと、興味深気に観察していた。こんな変な奴、自家に呼んで如何するのだろうと、母の思惑が不可解で仕方なかった。
「そう云えば、昨日うちの顔の下に教科書突っ込んだん、結局誰なん?」
昼休み、都子の席迄遊びに来た佑香に、特に脈絡なく訊いてみる。
「何や都子、そんなんも気付いとらんかったんか」
「何や、佑香知っとるんか」
「え、期待して訊いたんちゃうん」
「独り言やってんけど」
「けったいな独り言やな」
「で、誰なん」
「あたしや」
「はあ? 何で」
「何やろな。都子に止めて貰いたかったんちゃう」
「意味解らん。止めたきゃ勝手に止めや」
「それが、むつかしいねん」
「何がよ」
「まあなんちゅうか、上手く云われへんけど……何や色々辛なって来て、知らん内に都子の顔ン下に入れとったわ」
「めんどい子やの」
「云いなや」
何となく佑香のトーンが低いので、都子はこの話題を止めた。その時佑香の背後、都子の視線の先に、小夜子が立った。ストレートの黒髪を首の後ろで纏めた、眼がくりくりとして背の低い、どこか小動物を彷彿とさせる子である。
「あの……」
佑香がぎくりとして振り向き、瞬間躊躇した後、小夜子に抱き着いた。
「ごめん! ごめんね本統に!」
小夜子の表情が恐怖で引き攣っていた。都子は溜息を吐くと、
「佑香。放したり」
佑香はそっと小夜子から離れた。
「ごめんなさい、吃驚したね。でもあたし……」
「小夜ちゃんうちに用事やろ? どないしたん」
都子が何時になく優しい声音で問い掛ける。
「教科書……山田センセと一緒に綺麗にしてくれたって……ありがとう」
「何やそんなことか。それ別に小夜ちゃんの為やないよ」
「え」
「教科書可哀想やったからな」
「あ……そうなんや……」
なんとなく小夜子の目付きが落胆の色を帯びる。都子は凝然と小夜子を見詰めている。この子の見た目に騙されたら不可ない、何故かそんな風に感じた。
「小夜ちゃん」佑香が先程より稍落ち着いて、声を掛ける。
「都子はヘンコやから、こんなん云いよるけど、でもほんまは優しい子やから。あたしと違って……」
「佑香はいつまで引き摺んねん。そんなやから小夜ちゃんも接し方に困るやんか」
「あの……ありがと。平野さんが、天現寺さんに教科書渡してくれたおかげやから……」
佑香を見詰める小夜子の眼は、また最初の怯えた感じに戻っていた。
「聞いとったんけ。うんまあ、褒められたことはしとらんし、感謝されることも何もしとらんねんけど……」
都子は小夜子から目を離して、天井を見上げた。
「もぉえゝやん。めんどくさい」
「都子の基準はいつもそこやな。めんどくさいて」
「他に何があんねん」
「えゝよもぅ。それで救われとぉとこもあるし……」
小夜子は二人に対してぺこりと頭を下げると、去って行った。
「なんか胸がチクチク痛いわ」
「知らんわもぉ」
「都子の人でなし」
「なんでよ。まあえゝけど」
そうして都子は机に突っ伏して、寝息を立て始めた。佑香は複雑な表情で、都子の旋毛の辺りを凝と見詰めていた。
放課後、沙梨が教室の隅で所在無さげにしていた。都子を待っている様で、然し都子の方は見ない様にしているので、なんだか非常に不審である。
「沙梨。都子の家判らんやんな」
帰り支度の済んだ佑香が声を掛ける。沙梨はぎこちなく首肯いた。
「都子は何をもたついとんねん……みやこぉ!」
佑香は大声で都子の名を呼びながら、その方へと向かった。
「あぁ、今行く。何や気が重いなぁ」
「一番気が重いんは、あんたやないで」
「んー?」
都子をせっつき、ランドセルを背負わせると、手を引いて沙梨の元迄連れて来る。
「ほな行こか。寄り道平気?」
「はい……両親どうせ夕方まで帰らんので」
「その堅苦しい喋り方、やめて欲しいなぁ」
「ごめんなさい……」
「沙梨こんなキャラちゃうのに。もぉ、都子の所為や」
「はいはい、うちの所為や。えゝから帰ろ」
帰り道で都子が沙梨に話し掛ける。
「そう云や今日は、君のお仲間あんまり寄り付かんかったな。朝の内だけや」
「あゝ……詰まらんくなったんやと……」
「その様やな。君全然反応したらんから。皆愛想尽かしとぉ様やな」
沙梨はしょんぼりと項垂れた。
「ちょ、都子、沙梨のこと虐めんなや」
「ええ? これいじめか。それはゴメン」
「ううん。えゝの。あたしがしてきたことに較べたら……」
「うわぁ、なんや、皆卑屈ンなってく」
「都子の所為や」
「ええ。そんな訳あるかい」
「あるで」
「堪忍してやぁ」
都子の家迄着くと、佑香は一旦家にランドセル置いて来ると云って、走り去った。そして一分も経たず直ぐに戻って来ると、沙梨を間に挟む格好で三人一緒に玄関へ入った。
「おかーん! ただいま! 例の奴連れて来たで!」
「都子、言葉選びや!」佑香が思わず眉を顰める。
奥からバタバタと母が出て来て、
「あらあら、いらっしゃい! お部屋上がってて。――都子、云い方!」
二人に叱られて、都子はぺろりと舌を出した。
「てへぺろ」
「なんやそれ。使い方合うてるん?」
「知らん」
三人で子供部屋へ通った。適当に床に座ると、母がお茶と煎餅を持って来た。沙梨はここ迄ずっと、固く縮こまっている。
「何や想像しとったより大人しい子やね」
母は麦茶の入った四つのグラスを座卓に置くと、自分の分を一口飲んだ。都子と佑香も一口ずつ飲んだが、沙梨は手を付けなかった。
「小母ちゃん、沙梨が大人しいのは、都子の所為やねんで」
「うわあ、さよか」
母は顔を顰めた。
「沙梨ちゃんな、都子んこと許したってとはよう云わんけどもな……」
「いやっ! そんな、悪いのはあたしなので!」
沙梨が恐縮しまくって、都子を擁護する。母は佑香と顔を見合わせる。都子は詰まらなさそうに天井を見上げている。
「うん、まあ、沙梨ちゃんがしたことも聞いとるけど、それはもう片の付いた話とも聞いとるし、
「……はい」
「まあ兎に角そんな訳で、都子があなたにしたことは、あなたが誰かにしてきたこととは、根本的に無関係やねん。な、そうやろ、都子?」
「あー? つうか、特になんかしたろう思ってした訳では……」
「ほら。な? せやから必要以上に怖がらんでえゝ」
「はぁ……え、でも、そしたら何で」
「都子、なんで?」
「なんでやろなあ。覚えてるんは、兎に角苛ついてたことや。無茶苦茶むしゃくしゃしてたな」
「そうか……沙梨ちゃんあなた、都子の前で何や判然せんことでも云うてたんか。この子な、結論の無い話とか、回り諄い話とか、オチの無い話とかされんの、極端に嫌うねん。他所でしてる分には全く構わんねんけど、自分に向けられるとな」
「はい……とても怒られました……」
「それやん。あんな、この子の能力、見たんやろ?」
沙梨は戸惑いながら顔を上げ、何か云おうとして口を開けた儘、逡巡していた。
「ここでは云うてえゝよ。ここではな」
母は稍凄味を利かせながら云った。
「あっ……あの……お母様はその……」
「知っとおよ。娘のことやもん」
「あたし……もの凄く……こ、怖くて!」
沙梨は涙をポロッと落とした。
「あー、そやろな。都子、あんた謝ったか?」
「え、どやっけ。うち謝った?」
都子は沙梨に訊いた。
「えっ……その……」
沙梨は涙を流した儘戸惑った。佑香が見兼ねて口を挟む。
「答え難い質問しなや。あんたはホンマにもぉ……小母ちゃん、あたしの知る限りでは、謝っとらんです」
「謝り」
母の威圧的な言葉に、都子は素直に従った。
「ゴメンな。怖かったやんな。うちもアレは如何か思たわ」
「他人事みたいに云いな!」
母が叱る。
「謝っとるん? それ」
佑香が突っ込む。
「いやあ、そんでもあれは、酷かったわ。うちもあんなことしたかった訳ではないねんで」
「ゆうて、ピタッと止めたんは都子やん」
「あ、ほんまやな」
「こらあ!」
「いやもお、すんまへん!」
都子は沙梨に、ペコリと頭を下げた。
「あたしは……大丈夫」
沙梨は強がってみせた。涙を拭いて、都子に向き合うと、
「無茶苦茶怖かってん。あの儘地獄に落ちて、二度と生きて帰れないか思た。でも、その原因作ったんはあたしや思う。せやから、あいこで」
「あいこ?」
「苛つかせて、ごめんなさい」
沙梨は頭を下げる。
「これで、貸し借り無し、恨みっこなしの、あいこで。えゝよね?」
「おー。元々恨みなんか無いで」
母と佑香は再び顔を見合わせて、今度は微笑み合った。
「沙梨、よかったな! もう都子、怖ないやろ?」
「え、うん……かな……」
「えー、未だあかん?」
「まあ、あの体験は、後々残りそうやもんなあ。夢とかに見そう」都子が他人事の様に云う。
「まぁたそうやって、あんたは!」
佑香が拳を振り上げて叱り付けるが、沙梨は笑っていた。
「あの世界は怖かったけど、天……都子さんは怖くないんやなって、思った」
「みやこさんって……」
「なー? 痒なるやろ? そんなん全部都子の所為やで」
「ミヤちゃんでえゝやん」
「なんそれ。誰もそんな呼び方しとらん」
「み……ミヤちゃん」
「沙梨も付き合いえゝな! 都子でえゝやん!」
三人でコロコロと笑った。若干沙梨の笑いが未だぎこちなかったが、母は取り敢えず安堵の息を吐いた。
「んでな、沙梨ちゃん。こっからお願いやねんけど」
「はい」
大分自然な返事が返せるようになっている。
「都子のこの変な能力に就いてはな、この四人だけの秘密にしといて。絶対、友達にも、親にも先生にも、誰にも云わんといて。お願い」
「はい、もちろん」
「云うたら、また……」
都子が含みを持たせて言葉を切ると、沙梨の顔が見る見る青ざめて、「云わない! 絶対に!」と殆ど絶叫気味に宣言した。
「こら都子。脅したらあかん」母がきつい表情で注意する。そしてその顔の儘沙梨に向かい、「何しろ約束してな。頼むで」
「はい! や、約束します! 必ず!」
母に対しても、沙梨は若干怯えていた。ヤクザの遣り口や、と、佑香は思ったが口にはしなかった。
約束が取れた所で、沙梨を家に帰した。都子が「ほなね」と送り出すと、沙梨も「ほな、また明日」と応えた。その後母は残った二人を着座させて、悠然見渡した後に、「ご苦労さん。まあ丸く収まったかな。あの子は誰にも喋らんと思うわ」と云った。そして佑香を見て、
「云わずもがなとは思うけど、佑香ちゃんも他言無用で、改めて宜しくな」
佑香に対しては大分柔らかい云い方だった。佑香は一言「勿論です」と応えた。
「で、都子、実はあんたが一番危ない気ぃするねんけど、お姉にもお父にも云うたらあかんよ」
「あ、そうなんや。わかった」
母は若干不安気な顔をしていた。
「家ン中でも使いなよ」
「あい」
「頼んない返事やな……」
それでもその日以降、都子は殆ど人前で能力を使うことはなかった。ほんの数回、学活の時間に担任の先生がいじめに就いて長々と説教をした時、それから級の男子が飛び切り臭い屁を扱いた時等に、都子と佑香と沙梨だけに効く様に、音を消したり臭いを消したりした。後年の佑香が覚えていたのはそちらの方だった。あれだけのことがあったのに忘れたのか、敢えて言及しなかったのかは、定かではないが。
十六
そう、確か、こうやって――都子は古い記憶を呼び覚ます様に、机と椅子と佑香を真っ白な世界へと誘った。佑香は直ぐに気付いて、都子を見た。
「え、ちょ、こんなところで、あかん!」
「なんで」
「こっち入ったら、元の世界から消えるやんか」
覚えていたのか思い出したのか。佑香は都子が音や臭いを消すだけではないと、ちゃんと諒解していた。
「そうとも限らんねん」
「え?」
「あっちに少しだけ残して来とんよ。凝と見られたら違和感持たれるかもやけど、気にしとらんかったら気付かん程度やねん。ほんでも声はこっちだけ」
「器用な技身に付けよったなぁ」
「それはえゝやん。聞かしてんか」
「えゝ……どうしよっかな……」
「聞く迄出さんど」
「脅迫か!」
「まあまあ、えゝやんけ、減るもんでなし」
「減りそうやわ」
「ダイエット中やし」
「体重は減らんな!」
佑香は両手で顔を覆った。
「ああもぉ……知らんで!」
「何がよ」
「あんな、あたし、一回だけ、ほんま一回だけな!」
「あ」
「龍と、してん――」
「あー、ゴメン、知っとった」
「知っとったんかい! あたしの覚悟返せ! ああもぉ、情けない、恥ずかしい!」
「あほぅが自ら自慢げに云いよったで」
「なんじゃそら!」
「なんかゴメン」
「都子が謝ることちゃうけどさぁ、もぉ……ゴメンはこっちや、ほんまゴメン!」
「いや、その儘持ってってくれてよかったのに」
「要らんやん!」
「やんなぁ……」
なんだか二人の少女は、お互いにやるせない気持ちで一杯になって仕舞った。それを打破す可く都子がボケる。
「あ、それで蚯蚓か」
「――待って、それ下ネタ?」
「あー、えゝと、ちゃうの?」
「それあたしが恥ずかしい奴! そんな心算で云うてないし! ああ、こっちの世界で良かったぁ。表の世界では絶対云われへんし突っ込まれへん、こんなこと!」
「あはは。ほんで何消す」
「ああ、この最低な記憶」
「ごめんやけど、それは無理。物理的な舞台装置だけや、うちが如何斯うでけるんは。筋と演技と演者の心はいじれん」
「やんなぁ……」
「あかんなぁ、女子高生が、不純な異性交遊」
「生々しい云い方やめてや。海より深く後悔しとんねん」
「それ反省の表現ちゃうか」
「細かいわ。都子と話してると凡てが如何でもよくなるわ」
「お褒めに与り――」「褒めとらん!」
結局佑香は、笑いが堪え切れなくて、ケタケタと笑った。
「もぉ、都子は反則の百貨店やな」
「反則の宝石箱やぁ」
「なんそれ」
「彦摩呂」
「知らんわ」
「若い子は知らんかぁ」
「同年齢やん! てか、あんたが古いこと知りすぎ!」
「二〇〇三年位やな」
「うちらが生まれた頃やん」
「はぁ、もう、そんなんなりますかぁ」
「その返しおかしい!」
佑香はヒイヒイ云いながら笑い転げて、
「あんた絶対悩みないやん! 龍と別れてもなんかスッキリしとるし」
「まあ悩んではないなぁ。悩むだけ無駄やからなぁ」
「ほんまえゝ根性しとるわ」
「まあ悔いてるとするなら、自分の見る目の無さやな」
「あ、それはあたしも」
「それも含めて、人生勉強や」
「達観しとるなあ」
「後ろ見たかてしょうないからな。時間止めれても、巻き戻しはでけへんねん。せやから過去悔やんでも時間の無駄。前だけ見といたらえゝねん」
「えゝこと云う。ほんまその通りや。やっぱあんたに付いてくわ」
「来んなや、鬱陶しい」
「その返しが、良い!」
「ちなみにうちは、プラトニックやで」
「あっ! 裏切りもん!」
「知るかいや」
「もぉ、自己嫌悪しかあらへんー」
「ご愁傷さま」
佑香は両手で顔を覆った儘、動かなくなって仕舞った。
「暫くこの儘にしとこか。今帰りとぉないやろ」
「頼んまーす」
顔を覆った儘応える。
「ちな、龍で何人目?」
「三人」
「はっちゃけた女子高生やな」
「全部後悔」
「流され易いんかな。佑香可愛いしな」
「このタイミングで云われても嬉しないな。都子も美人やのに、なんでこうも違うのか」
「さあ。美人ではあるけど、冷めとるからかな」
「認めよった……まあえゝか。都子クールビューティやんな」
「そないえゝもんちゃうで」
「そこは否定するんやな。謎基準。――都子は近寄り難いんかなぁ。あたしは軽薄やからなあ」
「せやな」
「フォローしてやぁ!」
都子は佑香の隣に座り直し、背中を擦って云った。
「全部聞いたるよ。ここの時間引き伸ばしとくしな。たっぷり使って全部吐きな。全部往なしたる」
「往なすんかい。――でも有難う」
佑香は都子の胸に顔を埋めて、泣いた。
十九
大学は東京の四谷だが、今日も都子は尼崎に居る。母は事情を了解しているが、父はなんだか不思議そうにしている。
「都子ぉ、あんた少し控えなあかんで。お父不審がっとるがな」
土曜の朝から父がどこぞへ出かけて、母と二人きりになった時、そう窘められた。
「ゆうて、楽やねんもん。土日位えゝやん。あー、こっから通いたいわ」
「折角家賃払っとんのに、勿体ないやん」
「そやなぁ」
居間の座卓に突っ伏して、都子はぼんやりと応える。
「兎に角あんたの能力は、自家の中ではあたししか知らんことや。婆ちゃんのことだってあたしとあんただけの秘密やからな」
「何でお姉とお父に云うたらあかんの」
「秘密ゆうのは最小限に絞らな、リスク増えるだけやからな。不必要に広めたらあかんの。秘密聞かされた方かてしんどなるしな。これも婆ちゃんからの教え」
「婆ちゃん苦労したんやな」
「そやで。娘のあたしもな」
「まあそこは、わりかし如何でも――」
「薄情者! せやからあんた友達でけへんねん」
「おるよ」
「佑香ちゃんだけやろ」
「そんなことも無い――と思うけどなぁ。知らんけど」
「まああんたの優しさは中々他人に伝わり難いからな」
「そやねん。うちほんま優しい子やのに」
「そう云うところ駄目なところやな。も少し謙遜せな」
「謙虚やで」
「意味知らんで云うとるやろ」
「いやいや。謙虚云うたら都子さん、都子云うたら謙虚の塊さんやん」
「矢っ張り意味判らんで云うとるわ」
「はぁ?」
都子はそこで漸く顔を挙げると、その儘後ろへと倒れ込んで、座布団を枕にして転がった。
「だぁれもうちのこと、解ってくれへん」
「何ガキみたいなこと云うとん」
「ははっ」
軽く笑って、眼を閉じた。その儘うとうとする。
「こらぁ、寝るなら布団行き」
「寝ぇえへぇん」
「数秒で寝る勢いやん」
「んー?」
「ところで、佑香ちゃん元気?」
「何や唐突に。元気ちゃうか?」
答えながら、むくりと起き上がった。
「ルームメイトやねんから、もうちょい興味持ち」
「生活時間ちゃうからなぁ。あいつ理系大学やん」
都子はフランス文学科一年生、佑香は別の大学の数学科二年生。浪人した所為で一年置いてかれているのも、生活リズムが合わない要因の一つとなっている。
「文学で一浪なんかするから」
「一年目は法学狙ったからしゃあない」
「身の程弁えへんから。お姉みたいにとっとと片付いて仕舞えばえゝのに」
「相手がおればなぁ」
都子は他人事の様に、ケラケラと笑った。
この二人は文学部が簡単かの様に云っているが、法学部程ではないものの、都子の入った大学の文学部はそれなりに高難易度だった筈である。
「ほんでフランス語はペラペラになったんか」
「話題ポンポン飛びよんなあ。あんな、外国語学部とちゃうねん。文学や。そらまあフランス語遣るけど、話すより読む為やん」
「そうかいな。で、読めるんか」
「入学して数ヶ月やん、未だ、フランス語めんどいって気付いたぐらいや」
「めんどいの」
「男と女で言葉変わるからな」
「あらやだわ、みたいなことか」
「ちゃうわ」都子はケラケラ笑って、「モノやら何やらに性別あんねん。男名詞と女名詞で、冠詞が変わんねん」
「何やそれ。意味解らん」
「un garçon、une fille」
「なんて?」
「男の子、女の子、や」
「何がちゃうん」
「un garçon、男の子。une fille、女の子。男は un で、女は une や。どっちも英語で云うところの、a や。a boy、a girl の、a」
「なんでちゃうの」
「そんなン知らんわ」
「けったいな道に進みよったなあ」
「ホンマになあ。こんなん未だえゝねん。例えばこのテーブル、これ女やねん。une table」
「なんやて?」
都子は机の上の本を手に取って、「これは男。un livre」
「はぁー」
本の間から栞を抜いて「さあ、これはどっちや」
「差すから男」
「品無いわあ。でも正解。un signet やからな」都子はスマホを見ながら答えた。
「まあ何にしろ、頑張りや」
「めんどなったな」
母はふふっと笑って、台所へ去った。都子は再び横になって目を瞑る。
「寝るなら布団行きやー」
台所から声が飛んで来るが、答えはなく、暫くすると寝息が聞こえて来た。
「もぉ、しょうない娘や」
母は薄いタオル地の毛布を持って来て、都子に掛けた。
都子が寝てから一時間程経った頃、昼を前にして父が帰って来た。
「坊主や、坊主」
「何やまた釣れんかったか」
「この辺魚おらんのやな」
「んなわけあるかい。腕の問題やろ」
親達がガチャガチャ煩いので、都子が目を覚ました。
「なんやぁ? お父また、釣り竿散歩行って来たんか」
「何や釣り竿散歩て」
父が振り返って訊く。
「釣り竿持って歩いて釣り竿持って帰るだけの散歩や」
「おま……次こそは大物釣ったるからな、見とれよ!」
「はは、まあ精々きばりや」
父は都子の正面の席に着くと、胸隠袋から煙草を取り出す。
「外で吸ってやぁ」
都子はそう云いながら、庭を指した。
「ほんま、肩身狭いのぉ」
父はぶつぶつ恨み言を云いながら、灰皿を持って庭へ行く。
「外で吸ってから帰って来ぃや。庭かて風向き次第では臭い来るからな」
都子が文句を云うと、母が台所から出て来て、庭へと続く掃き出し窓を閉めた。
「ほんまは止めて欲しいねんけどなぁ。ご近所迷惑やし、煙草代年々高ぅなるし」
「半分以上税金やろ。熱心な納税者や。優遇措置とかあっても良さ気やけどな」
「吸わさん為に高してるようなとこあるからな、優遇なんかする訳無いわ」
「厳しい世界や」
「吸わんかったらえゝねん」
煙草を吸い終わった父が部屋へ戻ろうとしたが、鍵が掛かっていて入れない。窓をどんどんと叩いて何事か喚いている。母が窓に近寄って、鍵を開けるかと思いきや、
「二十分は入ったらあかん! 臭い消える迄そこに居れ!」
と叫んで、台所へ消えた。
「厳しい世界や」
都子はそう呟くと、再び毛布を被って横になった。父は庭で蹲みこんで、しょぼくれている。隅に生えてるタンポポに向かって何事かぶつぶつ云っている。横になった儘そんな父を眺めている内に、再びうとうとしてきた。
次に目が覚めた時には、卓上に素麺が乗っていた。
「はい、起きて。お昼は素麺や」
「おー、涼しげ」
未だ夏前なのに、既に暑い日が続く。素麺も食いたくなると云うものだ。庭で蒸し焼きにされていた父も、何時の間にか部屋の中にいて、正面に座ってテレビを見ている。
「お父、タンポポと打ち解けたか」
「おぉ、あいつ中々えゝ奴やで」
「ほんまか。今度うちも話し掛けてみよ」
「はいはい、阿呆な会話しとらんと、とっとと食えや」
母が麺つゆを卓上にどんと置くと、都子と父の間に座った。
「然し都子は毎週帰って来とるなぁ」
麺つゆを椀に注ぎながら、父がぽつりと呟く。
「孝行娘やろ?」
「いや、えゝねんけどな、金持ちやな思て」
「バイト頑張っとんねん」
「それにしてもなぁ」
「お父往復どんだけ掛かる思とんのか知らんけどな、贅沢せなんだら結構安上がりやねんで」
「ほんまか。往復三万越えや思っとるが」
「こだまの安いヤツあんねん。往復で二万ちょいや」
「こだまかぁ」
「ちな在来線なら往復二万切るわ。片道九時間掛かるけどな」
「くじかん!」
「夜行バスって手も。巧くすれば往復で一万程や」
「はぁ、流石やなぁ」
偉そうに語っているが、当然都子は何れも使っていない。東京の部屋と尼崎の部屋を繋げて、一歩で来ているのだから。然しそんなことを知らない父は、
「苦労しとんねんなぁ」
と頻りに感心していた。母は笑いを堪えるのに必死である。
「そんなにしてまで帰って来んでもえゝで。感染症も怖いし。元気で遣っとんならそれで充分や。もっと自分のことにお金使い」
「せやな。ちょっと回数減らすわ」
自分から云っておきながら、父は少し寂しい顔をした。都子はふっと笑っただけで、素麺を食べることに集中した。
食後、父が居間で昼寝を始めたので、都子は嘗て子供部屋だった部屋へと引っ込んだ。二年前に姉が二十三で嫁に行ってからは、都子専用の勉強部屋となっていた。その押入を開けると、佑香が居る。
「おっ、行ける?」
押し入れの奥から佑香が声を掛ける。うっすら化粧をして、ガーリーなワンピースに身を包んでいる。
「おとん寝とるから、起こさん様にな」
都子は押し入れの奥へ入ると、その部屋の先にある玄関まで行って、スニーカーを手にする。そして戻る途中でデイパックを取ってその部屋のクローゼットへと入る。佑香も靴と鞄を持って都子に続いた。二人は靴を持った儘勉強部屋から出ると、静かに居間を横切って、玄関へと向かう。
「あ、佑香ちゃん」
母が気付いて声を掛けた。都子は人差し指を口に当てて、
「おとんそこで寝とるから。――ちょい、梅田行って来る」
「はいよ、気ぃ付けてな。行っといで」
「小母ちゃん、お久しぶりです。行って来ます」
三人は声を潜めて簡単に言葉を交わし、母に送り出された二人は、家を出た所でマスクを着ける。
駅へ向かって歩きながら都子は佑香に訊いてみた。
「電車乗る? 一歩でも行けるけど」
「乗るわー、阪神電車久しぶりやん!」
「そか。なら切符買お」
「えー、都子ピタパ無いの」
「無いわ、基本乗らんからなあ。てか佑香、スイカとかでなくてピタパ?」
「もちろん。帰省用やん。ピタパはチャージ要らんから楽やん? こっちのバス鉄道は、皆これや」
「あー、そうなんや」
「東京でも使えるけどな。そっちはチャージ必要やから、あたしはピタパ使わん。チャージ残した儘こっち帰って来たら、相当面倒なことになるらしいから」
「なんで?」
「JRの券売機しかチャージ使うとこ無いねん」
「なんそれ。めんど。カードの意味ない」
「せやろ、せやからピタパにチャージはせんの。死に金んなる。チャージはスイカ」
「結局スイカあるやん」
「都内はスイカや」
そんな会話を交わしながら、都子は切符を買い、二人で改札を潜った。
「便利やなぁそれ。うちも作ろうかな」
「今更? 都子には要らんやろ」
「いやぁ、人並みの行動せなかんわぁ」
電車に揺られて十分程で、阪神梅田駅に着く。
「再発見。電車えゝわぁ。お腹減らん」
「なんやそれ」
「ワープはお腹減るねん」
「はぁ。そしたら都子の部屋繋ぎっぱなしでお腹減り続けるやん」
「今は切っとるよ」
「あ、そか。繋ぎっぱにすることないんや」
「そらな」
梅田の地下街を歩きながら、JRの方へ向かう。
「佑香は大したもんやな。うち未だにこの地下迷うわ」
「いやあ、こんだけあちこち工事中やとあたしも自信なくなるわ」
梅田の地下街、通称「うめちか」は、数年前から段階的に改装工事が始まっている。始まって早々に例の感染症騒ぎがあった所為で、工事の進捗ははかばかしくない様だが、あちこち仮設壁が出来ていたり、幕が張られたりしていて、景観も大分変っているし、道順も変わっていたりするので、慣れた者でも戸惑って仕舞う。
「それにしても、大分人戻って来たな。一時期だぁれもおらんくなったもんなぁ」
感染症前に比べれば未だ疎らな方ではあるが、それでも一寸歩けばぶつかる程度には人出がある。道行く人は凡てマスクをしている。
「都子、梅田なんか来とったん?」
「たまに覗きにな。受験勉強の息抜きに」
「押し入れ繋いだんか」
「あはは、まあ押し入れとも限らんけど。ゆうてウイルス怖いし」
「じゃあ白い世界経由か」
「そんな感じ。眺めとっただけやし。バーチャル旅行や」
「呼んでくれたらよかったのに。もしかして海外旅行とか行った?」
「バーチャルでな」
「そう云うのバーチャルって云うんかなぁ……まあ、本当に行ってもたら、密入国とかンなりそうやけど」
「なるなぁ。リアルで行く気にならんかったけどな。奴ら感染症なめまくりやねん。日本のがよっぽど安全、安心」
「まぁ、そやろな」
何処を如何歩いたものか、長いエスカレータに乗って、如何やらJR大阪駅の上迄来た。
「今どこにいるか判らん」
「なんでや。大阪駅の上やん。ほれ、そこ改札」
「乗るんか?」
「乗らんわ」
改札を右に見て、その儘真っ直ぐ行って駅を越すと、くるっと振り返って長いエスカレータを上る。到着した階は反対側の端迄、飾り柱以外は略何もなく、だだっ広い空間の両脇には居並ぶ電灯、目の前ど真ん中には四方向に円い文字盤の付いた大きな時計塔と、通路中央に沿って申し訳程度のベンチが在り、眼下をJRの列車が行き来するのが覗える。手前左手には、小さなテラス席のカフェバーがある。
「はぁ、なんやここは」
「都子知らんかったんか」
「JRの方は基本来ぉへんからな。しかし巨大な時計やな」
「時空の広場、云うねんて。そこに書いてる」
「何やカフェあるな」
「ここ風通し良さげやし、一旦ここでお茶しよか思て」
「レモンスカッシュ」
「決めんの早!」
テーブル席はガラガラに空いていたので、二人で飲み物を買ってから、適当に席に着いた。
「ルクア適当に冷やかしてから、阪神戻ろか」
「ルクア何あんねん」
「まあいろいろ。フロアガイドでも見たらよろしいやん」
都子は眼の前のルクアを見上げて、「ロフトあんな。蔦屋も行ってみたい」
「建物別! めんどいやっちゃな、服とか見ぃや」
「あー、服なぁ」
「都子破壊的にセンス無いからな。選んだるわ。せっかくそんなお洒落な頭しとんねんから、それ生かさな罰当たんで」
都子は大学入学して間もない頃から、頭髪にメッシュを入れている。所々銀と青の筋が入って、なんだかロックバンドにでも居そうな感じなのだが、服装がキャラ物のTシャツに草臥れたジーパンで、アンバランスなこと甚だしい。
「頭は美容院のねぇちゃんに勝手にされたんや。これが似合うとかゆうけど、勝手にすんの犯罪ちゃう?」
「それは悪かったな。あたしが遣らせたんや。あんた寝とったから」
「ああ、犯罪者は佑香か」
「犯罪者云いな! あんた実は気に入っとるやろ、あれから数か月経つけどちゃんと根元まで色入っとるやん! そんなことより服買うたるってば」
「服なぁ。ゆうてルクアは冷やかしやろ?」
「そやで。阪神リニューアルやん、そっち本命やから」
「大分出遅れとるからな。お祭り感はもう無いやろ」
「えゝねんえゝねん、そんなお祭り大したもん出て来ぉへんから。ほら、うちらどこかしら工事中の阪神百貨店しか知らんやん。全面開業は通常モードで緩見さして」
「さよか。その前菜としてルクアか」
「オードブルやな」
「そう云う云い方すると、なんかオサレやな」
「フランス語でなんて云うん?」
「知らんわ」
「なんでやねん!」
「つか、オードブル、フランス語とちゃうか?」
「えっ、マジか。調べよ」
佑香がスマホでポツポツと調べている間、都子はレモンスカッシュをズーッと吸い上げて、ふうと息を継いだ。
「ほんまや! フランス語や! 都子すご!」
「何が?」
「よぉ判ったな!」
「そんなん
「ほ、ほーす、どえぅる
「なんや、どないしたん」
「読まれへん」
佑香が差し出したスマホの画面には、 Hors-d'œuvre とあった。
「いや、普通にオードブルでえゝやん」
「えゝんか」
「いやまあ、その儘カタカナ発音ではないけど……そやな、先ず、エイチは発音せえへん」
「あ、知っとお! ヒギンズ教授が云うてた!」
「マイ・フェア・レディか。それ英語の方言の話な。これはフランス語」
「違うんかぁ」
「違う云うか、いやまあ、違うか。そもそもエイチではなくてアッシュやし」
「ん?」
「この文字をエイチとは読まんの。フランスではアッシュ、で、まず発音せぇへん」
「さよか……おーすどぇうぶ」
都子はゲラゲラ笑って、「せやから、基本オードブルでえぇねんて! あえて云うなら、最後母音付けずに弱めで」
「おーど
「おゝ、大分よぉなった」
「やった!」
「って、うちら何しとん」
「都子のフランス語講座」
「いや、始めて未だ半年も経っとらんのに」
「あたしはゼロやから、えゝねん、気にしなや」
佑香はアイスの溶け切って真っ白になったコーヒーフロートをぐっと飲み干して、
「さて、ルクア行くか?」
「んー、どっちでもー」
「あれ、興味ないか? んでも、あんたに一着は買うで」
「はー、ルクアは冷やかしやろ?」
「それは流れ次第や。えゝもんあったら買ぅたる」
「よっしゃ、なら行こか」
「調子えゝな、おい!」
二人は席を立ち、エスカレータを下ると、ルクアへと向かった。
「なんや、オシャンティーなお店ばかりやなぁ」
下のフロアから順に、エスカレータを乗り継ぎつゝ店内を巡る。七階まで上がったところで、見覚えのあるロゴが目に付く。
「お、Leeやん。これでえゝやん」
「ジーンズかいや! 却下!」
「えー」
フロアを回って行くと奥の方にこれまた見覚えのあるブランド名が目に入る。
「チャンピオンや、これでえゝよ」
「ルクア迄来てなんでやねん! 却下や!」
「佑香厳しい」
「もう無いわ。阪神行こ」
「あ、せっかくここまで来たから、ロフト行こ」
「えー」
結局ロフトに行って、様々な雑貨に心奪われつゝ、それでも何も買わずに下りのエスカレータへと向かった。
「五階で出るよ」
「下まで行かんの」
「一階より駅越え易いから」
「さよか」
五階でルクアを出ると、先程の時空の広場に辿り着く。その儘向こう側迄ずっと進むと、緩いスロープを少し下り、大丸百貨店へと入る。
「大丸やん。寄ってくんか?」
「通り抜けるだけや」
エスカレータで地下に下り、店を出て南へと進む。暫く行くと阪神百貨店が見えて来るので地下から入店し、エスカレータで一階へ上がる。
「地下は総菜ばかりやったな。勝負はこっからや」
「何でもえゝわ。八階行きたい」
「なんで? まあ、一個ずつ行こ」
一階にはパン屋、珈琲ショップなどがある。どうも期待外れだった様で二階へ上がると、雑貨や、アクセサリー、更に奥へ進むと化粧品等の店が並ぶ。様々な化粧品や香水の混じり合った臭いが鼻を突く。
「うち、この臭い苦手や」
都子が顔を顰める。
「あんたはほんま、女子力ないよな。んまあ、ゆうてあたしも決して得意ではないけど……でも必要やん」
「要らんわ」
「化粧ぐらいせぇよ」
「年取ったらな。――んもぉ、耐えられへん、上行こ!」
都子はマスクの上から鼻の辺りを押さえて、エスカレータ迄小走りに行って、飛び乗った。上がると今度は皮の臭いが漂っていた。
「靴か。あ、鞄もあるな。あ、財布」
佑香が一々立ち止まりつつ、商品を物色しているが、都子は余り興味が無い様で、遠くに視線を飛ばして「お」と云った。
「うちスニーカー見て来る」
「待てや!」
アシックスの店へ向かって行こうとした都子の腕を、佑香がひっ掴んだ。
「何でここ迄来てアシックスや」
「阪神でアシックス、そんな変か?」
「いや……そやなくて。そう云う何時でも買えるもんに飛びつくなって」
「財布かて何時でも買えるやん」
「可愛いのんあるからぁ」
「アシックスも可愛いでぇ」
埒が明かないので佑香は手を離した。
「もぉ、好きにせぇよ。後でそっち行くから。スニーカー見とき」
「やったぁ!」
都子は嬉々としてアシックスへ向かって行った。佑香は軽く溜息を吐くと、別の店を冷かしに行く。一通り見物して都子を迎えに行った時、都子はレジで会計をしていた。
「うわ、なんか買ぅとる」
「今のスニーカー大分草臥れてたからな、新しいの買うたんや」
そう云って右足を上げてみせる。元は白だったのだろうがすっかり黄ばんで仕舞って、あちこちボロボロで今にも穴が空きそうなスニーカーを履いていた。
「幾らで」
「六千位や」
「高ぁ」
「普通や」
「さよかぁ」
「履き替えるから待っといて」
都子は買ったばかりの靴に履き替えると、今まで履いていた靴を店員に渡して、「これ、ほっといて」と云っていた。
「あんたいつも、そんな感じで履き替えるんか」
「まあそやな。佑香は靴持ちすぎやで。一つ二つでえゝねん。一つで三年は保つ。次は頑張って五年は保たしたい」
「合わんなぁ、そうゆうとこ」
四階に上がると婦人服売り場だった。ルクアよりは大分庶民的な店が多い。
「あは、ここにもLeeあるやん」
「もぉ勘弁してや。ここと、この上のフロアで何とかすんで」
婦人服は四階、五階にある。佑香は都子を連れ廻して、あちこちの店を物色し、結局無難なブラウスとパンツを一枚ずつ買った。
「Tシャツ、ジーパンとかでえゝのに」
「偶にはこんなん着とけよ。結構似合うで」
「何や気恥ずかしいわ」
「着替えといで」
「えー」
ぶつぶつ文句を云いながらも、都子は化粧室へ行って、それ迄着ていたTシャツとジーパンから、今買って貰ったばかりの上下に着替えた。上は真っ白で襟や胸元に刺繍など入っている。下は濃紺のスキニーパンツだ。なんだか体の線が強調されている様で気持ち悪い。出て来た都子を佑香は手を叩いて喜んで迎えた。
「ええやん! かわいい! スタイルも良い!」
「やめてや」
都子はやゝ赤面した。
六階はメンズとキッズと、スポーツ用品などが並んでいる。特に用はないと思って足早に通り過ぎ、上りのエスカレータに乗ろうとしたところで、なんだか見覚えのある顔と目が合った。
「あっ」
佑香が最初に声を出し、その声を聞いた相手が「えっ」と云った。最後に都子が思い出した様に、
「龍」
と云った。
「うわ、お前ら、なんで」
「それはこっちの科白や」
都子は何となく佑香に目を遣った。佑香は迚も辛そうな顔をしていた。
「てかお前、都子? なんか感じ変わったな」
「今日だけ、今だけの、サービスタイムや」
「なんやそれ」
佑香が都子の二の腕をぎゅうと掴むので、都子はその手をそっと撫でつゝ、
「ほな」
と云って踵を返して去ろうとした。
「ちょっ……待てや!」
「唐突なキムタク! 関西版!」
「ちゃうわ!」
よく見ると龍は、女を連れていた。小柄でなんとなく線の細い、後ろ髪を首元で纏め、くりくりした瞳に、眼鏡を掛けた、大人しそうな……
「んー?」
都子が眼を細めてその女性を凝視すると、「あっ」と云われた。
「あの、天現寺さん?」
「誰?」
「あたし……小田です……小田小夜子」そう云いながら、マスクを外して顔を見せる。
「誰?」
都子の後頭部を佑香が叩いた。
「小夜ちゃん! 小学校時の! ――えっ、ちょっと、いろいろ理解が追い付かない!」
小夜子はマスクを付け直して、「そちらは若しかして、平野さん?」
「そうやぁ。小夜ちゃん若しかして、龍と付き合うとんの?」
「あの……」「ちゃうねん!」
小夜子の言葉に被せる様にして、都子の方ばかり気にしていた龍が、強目に否定した。
「ちゃうの?」
小夜子はくりっとした目で龍を見上げて、そう訊いた。
「あっ! いや、ちゃうと云うか、ええと……」
「二人とも龍君と知り合いなん?」
「うー、これ如何答えるのが正解なんやろ……うんまあ、高校んときのな……」
「元カレや」
佑香の苦悩を余所に、都子がさらっと答えた。
「えっ、そうなんだ」
「キスもしてへんけどな」
そう云って都子はあははと笑った。
「純で美しい思い出なんやね」
「美しくなんかあるかいや! 別れとんねんから」
龍は稍蒼褪めて、オロオロと三人の顔を順に見ながら「ええと、その」などと云って狼狽えている。佑香は都子の背後に隠れるようにして、龍と目を合わせないようにしている。
「うーん、中々しんどい空気やな。――ほんで小夜ちゃんは、こいつと付き合うとるんか」
「ええと――あたしは、そう思っとってんけど――どうもちゃうかったみたい」
「そか。ならやめとき」
「えー」
龍が両手をバタつかせながら、「いや、正式に付き合うとか、ちゃんと云うとらんだけで、やな、その、気持ち的には」
「なんやこれ。佑香、なんか邪魔しとうみたいやし、往のか」
「うん」
都子は佑香の手を引いて、「ほなな!」と云うと二人に背を向けて、別のエスカレータへと向かった。背後で龍が何かガチャガチャ云っていたが、二人とも貸す耳は持ち合わせていなかった。
「うわー、しんど。なんやあれ」
七階に着くと、佑香がそれ迄息を止めていたかの様に大きく息を吐いて、都子に掴まった儘ぜえぜえと荒い呼吸をした。
「中々味な展開やな」
「こんな展開嫌や、人生で一番再会しとぉない奴に……」
「小夜ちゃんのこと、そんな風に云わんといてぇ」
「ちゃうわ! ――あああ、小夜ちゃん! あの男だけはアカーン
「改心しとるかもよ」
「都子本気で云うとる?」
「いやぁ?」
「せやんな……なあ、何とかならんか」
「何をやねん」
「小夜ちゃんの為にも、あの二人引き裂きたい」
「自分無茶苦茶云うとるで」
「そ、そうか? そうかな……」
「他人ン事、ほっといたりよ」
「ううう、でもなあ、小夜ちゃん」
「君等そんな関係でもないやろ」
「昔のことがまだ、閊えとるんやな……」
苦悩に歪む佑香の顔を都子は繁々と眺め、
「ほんま、手の掛かる子やなぁ」
と云うと、祐香の手を引いてトイレ迄行くと、二人の周囲から凡てが消えた。
「はい、作戦練ろか」
「あ、白い世界」
「白が嫌なら……」背景が薄い青に変わる。
「あ、いや別に、何色でもえゝけど」
緑、黄色と変わり、真っ赤になる。
「真っ赤は莫いかな! 落ち着かん!」
都子はケラケラ笑って、白に戻した。
「さて、奴等の観察から」
二人の前に龍と小夜子が現れる。何となく透き通っていて、ホログラムのようである。ぼんやりと、彼等の周りの商品棚や壁、柱なども見える。
「これは?」
「緩めに繋いでみとんけど。気付かれるかな……こちらの声やら姿やらは、届いとらん筈やけど」
龍は稍不機嫌そうに、小夜子の前をスタスタと歩いている。小夜子はそれに必死に付いて行っているが、二人の距離は大分空いていた。
「何を不機嫌になっとんねんこいつ」
佑香が吐き捨てる様に云う。
「これなら引き離すのは簡単やな」
龍が柱の陰に入り、小夜子の視界から消えたタイミングで、都子は空間を繋ぎ変えた。龍の周りの風景が一歩で一瞬にして変わり、小夜子が柱の陰まで来た時にそこに龍は居なくなっていた。
「都子何した」
佑香の問いに、都子は薄笑いを浮かべ、
「龍はお帰りの様やで」
龍の目の前に、阪神電車の改札があった。何が起きたのか全く理解できず、龍はその場に立ち尽くしている。
「ここの地下か。やるな、都子」
「惚れ直したか」
「そんなん小六の頃から、ずっと惚れっぱなしや」
「なるほど、龍とのことは浮気やっとんな……きーっ、くやしい!」
「思っとらん癖に」
「うん」
「つうか浮気は龍やろ。あたしはその浮気相手や。ほんま黒歴史」
「えゝよ、そこ深掘りせんでも。それより小夜ちゃん、誰と話しとるんかな」
小夜子が誰かと会話をしている。元々声が小さい性質なので聞き取りにくいのだが、如何やら龍のことを話している様である。然しその話し振りには、何か違和感を感じる。都子は小夜子の周りをもう少し広めに捉えてみた。
「おお、誰やこの女」
すらりと背の高い長髪の女が現れた。くるくるとパーマの当たった髪の色は飛び切り薄く、瞳の色素も薄い。マスクには刺繍が入っていてお洒落である。マスクから耳へと伸びるゴム紐にぶら下がっている小さな宝石が、チカチカと輝いている。佑香が目を細くして、その女を凝視している。彼女の声が聞こえて来た。
「どうしてこんな狭いところで見失うかなぁ」
「ごめんなさい……」
「小夜のこと責めとるわけやないよ。あたしももう少しちゃんと見張っとくべきやったわ……うーん、でもなぁ、気付かれたとも思われへんし」
「矢っ張りあたしなんかじゃ、役者不足で……」
「そんなこと無いって。こんな可愛い子やのに、何やねんあいつ」
佑香は都子を見た。都子は二人の会話に集中している。
「なぁ都子」
「んー」
「この女……」
「見たことある気がするねんけどなぁ」
「沙梨ちゃうか」
「誰やそれ」
佑香は稍大袈裟にずっこけた。
「あんたえゝ加減にせいよ! 小六ん時、小夜ちゃん虐めとった張本人じゃ! そんであんたの能力知っとる数少ない人物の一人やんけ!」
「やんけとか、怖いわぁ」
「思とらん癖に!」
「うん」
「ほんでこれ如何云う状況?」
「なぁ」
どうも二人の会話を聞いていると、何か欠落があるような気がする。
「そうか、もう一人おるのか」
都子が更に視野を広げると、何やら派手な身なりの男が現れた。ピンクの髪を逆立てて、左目に星のペイント、顎が異様に長く、マスクに納まり切っていない。
「ピンクのお月様や」
「誰やねんこれ!」
都子も佑香も唖然として、暫くは会話も耳に入って来なかった。
「ん?」
突然都子が自分の両肩を抱くようにして、鳥渡身震いした。
「どしたん」
「なんか嫌な気配がした」
その時顎の男がこちらを見た気がした。気付かれている筈はないのだが……然し都子は稍自信を失っていた。
「一旦オフ」
三人の姿が消えて、都子と佑香だけの世界になった。
「え、都子如何したん」
「なんか見られた気がした」
「うそ、気付かれたん?」
「真坂な……いやでも、ちょっと時間頂戴」
そう云って都子は、右腕を腰に回し、左手で口元を押さえて、何か考え始めた。
「ちょっ、都子、彼女ら見失う」
「時間止めとるから。ちょっと黙っといて」
「あ、はい――時間頂戴って、そう云うことかい」
暫くして、白かった世界に景色が戻った。二人はトイレの中に戻っていた。但し時間は止まった儘の様である。
「ちょっと、実物見に行こ」
そしてトイレを出ると、買い物客達の間を縫って、エスカレータを徒歩で下り、小夜子達が居る売り場まで戻って来た。
「沙梨に話聞こか」
「おお、成程な。都子頭えゝな」
「当たり前やん」
「謙遜せえへんなぁ」
二人は沙梨に近付くと、都子が沙梨の肩をポンと叩いた。
「えっ、誰? ――え、なんか変?」
沙梨はきょろきょろと辺りを見渡す。そして直ぐに都子と佑香に気付いた。
「あっ! もしかして、ミヤちゃん? と、ユウちゃん!」
「あゝ矢っ張り沙梨や。そんな呼び方すんの沙梨だけやもんな」
「なに、ミヤちゃんその服可愛い! 髪もカッコえゝ!」
「お、おう」
都子はやゝ赤面した。
「うわ、なんか都子の弱点見付けた気分」
佑香が小さく呟く。
「えっと、そんでこれ如何云う状況? これもミヤちゃん?」
「時間止めとるんで、鳥渡色々聞かして」
「時間止める迄出来るの! 凄いなぁ。あ、もしかして龍いなくなったん、ミヤちゃんか! あー、成程なぁ。納得。あの怖い世界に連れてったん?」
「いや、今地下二階。改札前で戸惑っとるよ」
「そかぁ。怖い世界行って欲しかったけどなぁ」
「何や凄い恨み様やな。何があった」
そこから沙梨は、もの凄い勢いで語り出した。自分が龍と付き合っていたこと、可成龍の為に金を使って仕舞ったこと、その間龍が複数の女と同時進行していたこと。小夜子とは今年に入ってからどこぞのイベント会場のバイトで再会したこと、その前に小学生の時点で既に許しを得ており、その優しさと可愛らしさに触れて大好きになって仕舞っていたこと、そして再会後に一気に気持ちが盛り上がって仕舞って、今付き合っていること。
「え、二人そう云う関係やってん?」佑香が目を剥く。
「ま、まあな。きついか?」
「否、そう云うのではないけど……ちょっと吃驚した。沙梨両方イケる感じか」
「解らんねん。こんな気持ち小夜ちゃんが初めてやし。かといって他の子とこんなんなれるとは今のところ思われへんし」
「そら、なったら浮気やもんな」
「ああ、まぁ……そうか」
「ちなみに龍とは寝たんか」
都子が唐突に訊く。
「ちょ、みやこぉ! あんたデリカシー無いんか!」
佑香が顔を真っ赤にして抗議した。
「あはは、そんな気にせんでえゝよ。うん、恋人やったからな。それは普通に」
「そうか。ちなみにうちは高校時代の元カノ、キスもしてない。佑香はその頃の浮気相手、一回ヤられた」
「都子、云い方!」佑香は猶も顔を赤くして都子を小突く。
沙梨は眼を真ん丸に見開いて、「あんたらも被害者か!」と叫んだ。
「や、うちは名目ばかりの彼女やったから。手位は繋いだかな、でもその程度や」
「ユウちゃんなんで……」
「流されやすいんですぅ」
佑香は両手で顔を覆って蹲みこんだ。
「ほんなら二人とも、あたしらの復讐計画に付き合うてくれへんやろか」
「小夜ちゃんもなんかされたん?」
「される前にあたしが気付いて、手ぇ回した」
「そうや、このピンク顎、誰?」
「警備会社の人。超能力者」
「はぁ
佑香と都子、二人揃って声を挙げた。
「詳しくは知らへんねんけど、忠国警備ってところのEX部隊が、なんかそう云うサービスしとるって口コミがあって。うちのお父さんが何処かから聞き齧って来たんやけど、いやまあ、あたしも最初は半信半疑やってんけどな、今回のことがあって、ちょっと試しにと思ってお父さんには内緒で、こっそり連絡してみたら、この人が来てん」
「こっそりなんや」
都子が合の手を入れる。
「云われへんて、こんなこと。特にお父さんには」
「噫、まあそうか――なるほどなぁ、超能力者か……」
「都子も超能力者なんかな? あたしは魔法使いや思っとってんけど」
佑香がぼんやりと呟いた。
「それなんかちゃうのか?」
「同じことか?」
「知らんけど――あ、そや、沙梨」
「なに?」
「うちはプラトニックやったからわからんねんけど、龍って蚯蚓やってん?」
「はあ?」
沙梨は再び眼を丸くして、佑香は都子を引っ叩いた。
「何訊いとん!」
「え、だって佑香が蚯蚓やった云うから」
「云うてない! そう云う意味で云うてない!」
二人の会話から沙梨も理解して、あははと笑い出した。
「何か思たわ! まあそうやな、龍は名前負けやな!」
そして腹を抱えてヒイヒイと笑い転げた。
「蚯蚓か! ユウちゃん云うなあ! 久々のヒットや!」
「ああもう、皆品がない」
佑香はがっくりと項垂れた。
「時間止めて、うち等だけやから。気にしなや」
「気にしとらん、がっかりしとるだけや」
「最初に云うたん佑香やで」
「やから、そう云う意味で云うてないと、ゆうとろうがあ!」
「おお、こわ。――ガリガリガリクソン」
「誰やねん!」
「彦摩呂よりは新しいねんけどなぁ」
「もお、二人喧嘩せんといてよ」
「喧嘩やない、悲しんどるの。都子はわけわからん芸人のネタしかせぇへんし……」
「佑香は気にしいやなあ」
「話進まん……ほんで、復讐て何しとん」
「いやぁ、小夜ちゃんに一役買うて貰うてやな、鳥渡嵌めたろうか思て」
「何するん」
「取り敢えず金出さそうと。あたしの三百万丸々返せとは云わんけどさ」
「さんびゃくまんん
「少しは痛い目見て貰わんと」
「出すか? あいつが金なんか」
「出したくなる様にしてくれると、このおっちゃんが云うとってん」
「この顎が? うーん……いっそこっちに巻き込むかぁ?」
都子が思案しながら云うと、佑香は不安気に都子を見た。
「え、でも、都子の能力バラすことにならん?」
「こいつも超能力者やろ? しかもそれ仕事にしとん……沙梨の云うことがほんまならな」
「うーん」沙梨は腕組みした。「あたしも話で聞いただけで、実際に何か見た訳では……」
「ほな、慎重に行こか」
「如何するん」佑香が訊く。
「取り敢えず、この顎の作戦に乗っかるわ。龍は誘導して戻すよ。うち等外側から見とくな」
「何やそれ、つまらん」
「チャンスあったら佑香に渡す」
「いや……渡されてもなあ」
「その際時間止めるから。如何したいか考えとき」そして沙梨の方を向き、「ほな、そっちはヨロシクな」
「あ、ミヤちゃん、待って」
「何や」
「なんかあった時の為に、合図決めとこ」
「なんかってなんや」
「判らんけど、なんかピンチとか、チャンスとか」
「よぉ判らんけど、ほしたら、顔の横でピース」
「不自然!」
「ええ、佑香厳しい」
「いやいや、も少し自然で無理のないのにしいや。首の後ろ掻くとか」
沙梨が首の後ろをポリポリ掻いた。
「あかん、意識すると痒なる」
「まじか、あかんやん!」
「なら、耳朶抓んどけ」
「ああ、それでえゝやん」
沙梨は耳朶を抓んだ。
「うん、これでえゝわ」
「決まりやな。ほな、きばりや」
「ミヤちゃん、ユウちゃん、ありがと! また後でな!」
都子と佑香がその場を去ると、時間が動き出した。
「んっ?」
顎男が沙梨を凝視し、目を擦った。
「気の所為か……」
都子と佑香は、白い世界から様子を窺っている。
「あー、止まる前と同じポーズさしとくの忘れたわ」
「しないと如何なるん?」
「下手くそな動画の編集みたいに、前後の動き繋がらんくて、パラパラってなる」
「あー、なんか、あかんヤツや」
顎男がまた、視線を不自然に飛ばしている。都子達が視えている訳ではなさそうだが、如何も危うい。
「もう少し緩めよか」
三人の姿が薄くなる。
「さて、龍は」
龍は未だ、地下二階でオロオロしていた。
「歩けぇ」
都子の想いが届いたか、ふらついて半歩出した足の先は、六階だった。
「えっ」
狼狽えて後退る足の置き場も、六階だ。こうして龍は、六階に戻って来た。
「一体如何なって……」
龍は顳顬の辺りを掌底でゴンゴン叩きながら、フラフラと歩いて行く。程無く沙梨達がその姿を認め、小夜子を残して他の二人は身を隠した。
「龍君」
小夜子が声を掛ける。
「もう、どこ行っとったん」
小夜子は龍の腕にしがみ付く様にして、エスカレータへと誘導する様に歩く。
「どーこへ行くのかなぁ」
都子は楽しそうに、二人の姿を追い掛ける。龍は誘導されている様でいて、同時に自らの意思で率先して歩いている様でもある。
一気に八階迄上ると、エスカレータを回り込んで奥へと向かう。
「都子の行きたがっとった八階や」
フロアの奥には、指輪やネックレス等の並んだ宝石店と、高級そうな時計店があった。龍と小夜子はその時計店の方に迷いなく入って行く。
「うわー、高そう」
「えー、都子こういうの見たかった?」
「いや? こんな店あるなんて知らん」
「そか」
可成遅れて、沙梨と顎男が上って来て、真っ直ぐ二人が入った店の前まで進む。予め行き先が判っていた様だ。顎男は自分の腕の辺りばかり見ている。監視の二人は向かいの宝石店へ行き、然し商品は見ずに、対象の二人の方ばかり気にしている。それにしても沙梨達はそこそこ怪しい感じであるのに、誰も気にしていない。店員も全く声を掛けない。
「なぁんか、怪しいなあ。これが顎男の能力か?」
「どんな力なん?」
「さあなあ……いずれ本人に聞くことになるやろな」
都子は二人の様子を見ながら、右腕を腰に回し、左手で口元を抑えた。
「まあた、長考モードや」
佑香が不服そうに呟く。
龍と小夜子は高そうな時計を物色していたが、一組のペアウォッチに目を留めると、店員に声を掛けた。二人でそれを腕に着けると、満面の笑みで見詰め合う。
「なんや、えゝ感じやなあ。小夜ちゃんこんな風に笑うんやな」
「騙されんなや、演技やど」
「あ、そうか……そう考えると凄いな。女優やん」
「器用な子やで。小学生の頃からな」
「え、それは如何云うこと?」
「さあ。うち、あんま知らん」
「こらこらこらぁ! 云うてることおかしい!」
「んー?」都子は素っ惚けた声を上げながら、「お、揉めとる」と二人を指差した。
「頼むわ。ほんま無いねん。財布入れとった筈やねんけど……」
「そんな。どこかで落としたんちゃう? 探さな」
「いや、多分家やねん。昨夜ネットで買いもんした時、ベッドで出して……」
「云うてあたしも、手持ちないし……」
都子と佑香は顔を見合わせる。
「沙梨の計画穴だらけやん。こいつ元から金使う気なんか無いねんて。小夜ちゃんかて嵌める心算やってんから金なんかないやろ」
沙梨に目を遣ると、どうも苦い表情で龍を睨み付けている。顎は無表情で、今一何を考えているのか判らない。
「龍君、ローン組めるよ」
「え、ああ……ローンなぁ……」
「二回とか三回とかにしておけば、そんな利息も掛からんし」
「まあそやな……でも俺、審査通るかな……」
「どうゆうこと?」
「ちょっと前、カードで滞納とかやらかしとって……恥ずかしくて今まで云われへんかってん」
「龍君お金持ちや云うとったやん」
「その頃色々カード多く持ち過ぎとってやね、銀行口座の残金足らんくなっとるん気付かんくて。気付いたら滞納して一か月くらい経っとって……督促電話来てやっと気付いて」
「うそやん、滞納して一箇月も電話来ぉへん?」
「それが、普段余り使わん電話番号で登録しとって」
都子がやゝ仰け反り気味に「何やこいつ!」と叫んだ。
「ちょお、なんか色々奇怪しいで。突っ込みどころとかゆうレベルちゃう!」
「都子……こいつ、詐欺師にでもなったんかな」
顎がやゝ前のめりになって様子を窺っていた。
「いやぁ、何で警備会社が私怨の復讐なんかに肩入れしとるんか思っとったけど、この顎、他の目的あるんちゃうか?」
「え、まさか都子、ほんまに?」
「訊こか」
その時、沙梨が耳朶を抓んだ。
「タイミングもばっちりや。顎も呼ぶで!」
都子は時間を止めてから、沙梨と顎男をこちらの世界へ呼び込んだ。
「沙梨お待たせ! 顎男さん初めまして!」
「は
「都子! バリ失礼!」
顎男は数歩後退り、佑香は都子の後頭部を叩いた。
「なっ……何やここは……亜空間?」
「どうも、沙梨の昔馴染みの、天現寺都子云います。鳥渡だけ話聞いてます。まあ――小夜ちゃんとも昔馴染みで、龍の高校時代の元カノです。――あ、そんでこっちは龍のもう一人の被害者、佑香」
「ちょ、都子、いきなりそんなベラベラと!」
「必要最小限やで。こっちは敵やないですよと示しておかな、無駄に構えさしてまうやん。それはお互いに時間の無駄や。相手の手の内も読まれへんしな、変な小細工するよりは、最初から正直に行った方がえゝ」
「そ、そうか……否でも、都子が元カノとか、そんな情報要るか? 却って龍側と思われへん?」
「何も云わんで、お前誰やってなるよりえゝやん。それに、普通に賢ければ行間読んでその辺は補完してくれるやろ。あとは、今佑香が突っ込んでくれたんが補足ンなる。ありがとな」
「えっ、ああ、うん――って、あたしがツッコまなんだら混乱しとったってことやん」
「せやから、ありがとう」
「あたしも都子の掌の上
「ありがとう」
それ迄唖然と眺めていた顎男が、漸う口を開いた。
「あ――えっと、つまりこれは――え、この世界はあなたが?」
「名前お聞かせ願えませんやろか」
「ああ、クラウンと云います、クラウン吉川」
「本名ちゃうな――まあえゝか」
「名刺あるよ」
クラウンは都子と佑香に名刺を渡した。忠国警備株式会社、特殊対策部、第一警備課、EX部隊、ドリーマー担当、クラウン吉川。
「名刺迄偽名かいや」
「あ、いや、偽名と云うか」
「源氏名?」
「お水とちゃうねん――いや、遣り難いな――なんちゅうか、元々バンド遣ってた頃のステージネームやってんけど、ここの仕事はこの名前でさせてもろてます。別にヤバくなったらトンズラするとかそう云うことではなくて、この名前で会社に問い合わせれば、わしが何処にいてもがっつり特定されて掴まるようにはなってるんで、その――」
「ああ、もうえゝよ、そこに時間使てもしょうがない。ゆうて時間は止めとるんやけどね」
「時間を――止めてる?」
「ほれ」
都子は龍と小夜子を指した。二人は口論の途中で停止している。
「君は――異能者なんやね」
「今日はいろんな云い方されるなぁ。超能力者、魔法使い、異能者か。他になんかあるかな?」
「エスパー」沙梨が云う。
「エスパー、ミヤ! うーん、今一」
「なにがぁ」佑香が突っ込む。
「君等……自由やなぁ」
クラウンが溜息交じりに呟く。
「楽し気やろ? 人生楽しんだもん勝ちやで」
「それは同意するわ」
「ほなら楽しくやりましょか。で、おっさんは何を仕掛けとってん」
「おっさんて、まだ二十七なんやけど……ええと、先ず取り敢えずは、わしの能力説明するわ。名刺にもドリーマーと書いてるけど、他人の認識状態を見たり、操作したりできんねん」
「なんそれ。こわ」
「君に云われたないわ。時間止める方が余程怖いわ――あとな、これ」
クラウンは両手の親指と人差し指で画角を作ると、その中に映像が浮かび上がった。そこには小夜子と龍がいる。
「世界中のどこでも、こうやって監視できる」
「うわ、覗きのプロやん。通報もんや」
「そっ、そんなことには使わん!」
「口では如何とでもなぁ。そんなこと云いつゝ夜中にこっそり」
「してへんよ!」
クラウンは真っ赤になって否定する。
「ムキんなるところが――」「都子、もうやめ」
佑香が被せ気味に都子を諫めた。都子は後頭部を掻きながら舌を出して、
「てへぺろ」
「古いねん。大体都子のこれかて、覗きに使えるやん」
「してへんよぉ!」
都子がクラウンの云い方を明白に真似するので、またしても佑香に頭を叩かれた。
「なんかもぉ、とことん失礼な子ですんません」
佑香は都子の頭をグイと押して無理矢理謝らせながら、自分も頭を下げた。
「いや――ご心配はご尤もで――でもほんま、そんなことには使てないので……」
「今後使わんよう、うちが監視しとくわ」
「する気ないこと云いなや」
「うん」
「すんません、顎の人、話進めて」
「クラウンです――ええと、この画面、今は時間止まってるんでここも止まってますけど」
そう云うと画面が逆再生の様に動き出し、二人が時計屋に入るところまで戻るとまた再生が始まる。
「こんな風に、一度見た物は記録されてて、いつでも確認可能です。ズームとかもできます」
「絶対やらしいことに使とるわ」
「使てへんて!」
「もぉ、都子好い加減にせぇ」
三人の掛け合いを、沙梨はずっとくすくす笑いながら見ている。
「ミヤちゃん楽しいわ。なんか、小学校ン時からほとんど変わらん」
「なんやて! うちかて大人になっとんで!」
「いや、そういう意味でなくてね」
「もぉ、沙梨まで絡んできたら話
「やだ、そうなん? クラウンさん、進めてください!」
クラウンは苦笑しながら、「あとは、この監視能力の副作用でと云うか、僕も簡単なワープ空間に入れるんですけど、ここ迄綺麗な亜空間は無理ですね……如何しても歪んだ空間になってまう」
「まあそれは精進せぇや」
「はい――やなくて。多分僕の能力の方向性的に、限界なんでしょうね」
「ああでも、それでか。兄さん、何度かうちらの気配感じてへんかった?」
「えゝ、正体不明の気配は感じてました。誰かに見られてる様な感じが。あなたやったんですね、都子さん」
「そやで。気付かれたか思てドキドキしたわ」
「あなた達に気付くとこ迄は、行きませんでした」
「精進足らんからな」
「そやなくて――ああもぉ、どっちゃでもえゝけど」
「ほんで単刀直入に訊くけど、龍は詐欺師か?」
クラウンは眼を瞠った。
「――何をどこまで知ってはります?」
「何処迄って云われてもなぁ……まあ、沙梨の話は一通り聞いたよ。佑香が昔被害に遭ったのも知っとぉし。でもその頃は未だ、唯のチャラ男やったと思う。うちと付き合う前は知らんわ。でもそんな昔はこの際関係ないな」
「なるほど、木崎龍のことは、ある程度ご存じなんですね」
「せやから元カノやて。手繋いだだけやけどな」
「今彼が何をしているかなどは……」
「今日久々の再会や。JKん頃に別れて以来やな」
「じぇいけい? ああ、女子高生か。では今の彼に就いては略知らないと」
「沙梨から聞いた範囲でのみや」
「うん――なるほど、そうですね、隠しても遣り難いし、云ってまいましょう。彼は詐欺師としてマークされてます。薬師院さんからの依頼はほんま偶然やったんですな。それ以前に警察筋からの依頼は来ていて、どのようにアプローチしようか思てたら、薬師院さんから依頼を受けたのです」
「渡りに船やと」
「まあ、云い方悪いですがそんなところです」
「やんなあ、幾らなんでも、私怨の復讐で、散財させてなんて依頼、請ける訳無いと思てたわ」
「ええ、そうなん?」沙梨が悲しそうに云う。
「考えや、そんなん犯罪行為にもなり兼ねんで。んなこと警備会社が請けるか? そんなん躊躇なくする会社なんか、そっちのがヤバいわ」
「えー……そ、そうかぁ……」
「がっかりすんなや。君の無念は別の方法で晴らしたるよ――その前に、顎兄の計画ちゃんと聞いとこか」
「クラウンな! 計画と云う程の事でもないけど、詐欺現場の証拠押さえて、後は司法に委ねる心算やってん」
「詐欺になるように誘導しとったんちゃうの」
「――なんの、ことや」
「だって兄さんの能力、そう云うことする為のもんやろ」
「そんな悲しいこと云わんといて」
「
「まいったな――都子さん中々、鋭いですね」
「この子カシコやねん」
何故か佑香が得意気にしている。都子はそれを聞き流す様にして、
「っちゅうか、何でそんな派手なん」
「いやまぁ、一応これ、わしのフォーマルなんで」
「頭おかしいんかな」
「都子!」佑香が都子の足を踏ん付けた。
「いった! うわ、何すんねん、下ろしたてのスニーカーやぞ!」
「折角カシコ云うたったのに! もぉ、台無し!」
「えー、その折角、おかしい」
「おかしないよ!」
「もぉ、二人喧嘩せんといてよぉ」
沙梨が悲しげに二人を止める。クラウンは怒る機会も突っ込む機会も失って仕舞って、なんだか困った顔で佇んでいた。都子は気を取り直して、質問を続ける。
「まあなんでもえゝけど、誘導はしてたやんな?」
「はい、仰る通りです。君には敵わんな。ただ、明白に操ってはないで。そんなんしたら唯の共犯やから。ほんのちょい、本人の箍外しただけや」
「いやあ、それでもなあ」
「立証は――」
「ほら。自覚はあるな」
クラウンは稍慌てた様子で、「いや、云うても。まだ彼、何もしてへんし」
それ迄ニヤついていた都子は、クラウンのその言葉で天を仰いだ。
「顎! それでえゝんか。何もしとらんかったら何にもならんやんけ! 云い訳に走って肝心な所忘れんなや」
クラウンはあんぐりと口を開け、何も言葉が出なくなって仕舞った。顎にマスクが引っ掛かって、上唇が出て仕舞っている。
「確りしいや! こいつ捕まえるんやろが!」
「で、でも、そしたらどないしたら……」
「どうせうちらの力は今の司法では裁けん――顎の云う通り立証でけへん、けどな、お天道様に顔向けでけんことだけはしなや。ま、龍には何もせんでえゝよ。心配せんでもこいつはもうアウトや。後は小夜ちゃん信じて、するなら小夜ちゃんに勇気あげたって……まあ、この子はそんなんせんくても、確り嵌める思うけどな」
「ミヤちゃん、見抜いとるんや」
「そんなん気付かんのは、佑香ぐらいや」
「えっ、なんなん?」佑香が不安気に、都子と沙梨を交互に見る。
「小夜ちゃん、強いで。うち等ン中で最強か判らん」
「どどど、どゆこと?」
「佑香、漫画みたいな狼狽え方すんなあ」
都子はケラケラと笑った。
「ほんなら先ずは、証拠固めからやな。顎兄、頼むで。一個も漏らさんと」
「お、おう」
クラウンは、もはや呼び方を気にする余裕もなくなっていた。
「ちなみに小夜ちゃんには、如何云う話をしてあるん?」
「え、高いもん買うて貰いやって」
「沙梨からはそれだけか?」
「うん……」
「では顎兄、小夜ちゃんに何頼んだ?」
「それもバレてるんか――そやな、金払わせようとしてくる思うから、若干抵抗する振りをしつゝ、最終的には金出す流れでって」
「あたし騙されとってんなぁ」
沙梨は相変わらず悲しそうに云う。
「騙した訳ではないんですが――すみません」
「小夜、お金取られてまうん?」
「あ、ある程度の資金は渡してありますが、最終的には取り返す心算です。詐欺師に好い思いはさせませんやん」
「そう……よかった」
「せやけど、手持ち無い、ローン組むか、の流れから、如何遣って小夜ちゃん出す心算なんやろ。小夜ちゃん名義でローンなんか組んでもうたら、後々やゝこしいしなあ」
都子が左手を口元に持って行きながら、寛悠と云う。
「何か手助け必要やろか」
そう云いながら右腕を胴に回した。
「あかん。都子考えたら長い。あたしらどんどん齢取る」
「ええ、厭や、クラウンさんもなんか考えて!」
「えっ、わし? うーん……」
クラウンは頭を使うのは稍苦手なので、戸惑いつつ二人の様子に目を遣った。時間が止まっているので、二人の認識の様子も上手く読み取れない。
「そうやなぁ……」考えている振りをして、大して考えていない。
「小夜、カードは持たせとるんやけどな」
沙梨がボソッと呟いた。
「カードて、沙梨の?」佑香が訊く。
「あたしのって云うか、家族カードって云うの?」
「小夜ちゃん家族なん? え、実は生き別れた姉妹とか」
「いやいや」沙梨は笑った「そんなんちゃうよ」
「だって家族カードって、友達とか恋人とかは……」
「アメックスはね、ちょっとその辺柔軟で」
「そうなん? いや、そうやとしてもそれは……」
「えゝの。あたし、小夜のことその位大切に思とうから」
「そやな!」突然都子が声を挙げた。
「動かそか」
「え、だいじょぶなん?」佑香が慌てゝ訊く。
「小夜ちゃんを信じなさーい。あ、君等戻っとく? ここ居とくか?」
都子は沙梨の方を向いて訊いた。
「あたしはこっちがえゝな」沙梨が云う。「クラウンさんは?」
「ほんならわしも居とくわ。独り戻っても不便やし」
「ほな顎兄、あっちからは君等消えとるんで、騒ぎにならんよう頼むよ」
「えゝけど、大分馴れ馴れしゅうなってきたな……」
「気にすんなや。仲良しさんの証拠や。ほな!」
時間が進み始める。
「そんな訳やから、小夜子の名義で――」
「あたし、一応カードあるけど……でもこれ家族カードで……親とかに使たことバレちゃうかな……」
「大丈夫やで!」
「何がや!」都子がツッコむ。もちろん龍達には聞こえない。「家族カードでも親のではないからな。小夜ちゃんも微妙な嘘吐くなあ」
「大丈夫なん?」小夜子はクリクリとした目で龍を見上げる。
「大丈夫や! 直ぐ入金したら記録残らんから、親にもバレることないよ」
「んなわけあるかい!」都子はツッコミを楽しんでいる。
「そうなんだあ……」小夜子は素直に信じているかの様に振る舞っている。
「後で俺ン家に、キャッシュカード取り行こ。ほんで直ぐ、金引き出して払うから」
「家連れ込む気やん」都子のツッコミに、佑香が反応する。
「家行ったらアカン!」
「小夜ちゃんは行かんよ」
「アカンで、ほんまアカンからなぁ……」
「トラウマやな」
都子は佑香の肩を抱いた。
「うちが忘れさせたるわ」
「都子、男前か!」
そう突っ込みながらも、佑香はスッと落ち着いた。
小夜子は時計を持ってレジへ向かうと、カードを出した。背後で龍がニタついている。支払いが終わるのを待って、龍は自然な流れで商品を店員から受け取った。
「ほなこの時計は、一旦俺が持っとくし。後で開けような」
「うん」
龍は時計を無造作にリュックに放り込んだ。
「ちょっとトイレ」
「はい、行ってらっしゃい」
龍が小夜子から離れたところで、都子は空間を繋ぎ変え、時間の流れを緩やかにした。
「はい、顎兄、証拠取れたか?」
「会話の録音と、支払い記録な。後は、時計が何処へ行くか追い掛けな」
「鳥渡、一旦うちに渡して」
「へ?」
「佑香と沙梨のメンタルケアや」
龍が立ち止まっている。彼の眼の前には――
「Bonjour Paris!」
都子が両手を広げて龍の周りをぐるりと回る。彼の眼の前には凱旋門があった。佑香が目を剥く。
「えっ、都子あんた何しとん!」
「さあ、佑香、沙梨、如何する?」
「ミヤちゃん、これ一体……」
「龍は絶賛、フランス密入国中です!」
「はああ
クラウンが狼狽えている。
「あの儘放っといたら、買取りまっくす行くやん」
「なんで買取りまっくす決め打ち?」
買取りまっくすは、関西圏ではそこそこ有名な、古物商である。
「まあ心配めさるな。微妙に入国しとらん。あいつはフランスに薄皮一枚かぶせた世界に居てるから、云うたらこの地球上の何処にもいてない。今のうち等と同じや」
クラウンはぽかんと口を開けて、「何云うてるかさっぱりや」と零した。
「佑香、沙梨、特に何も思い付かんなら、うちの思い付きに乗るか?」
「何?」
「ミヤちゃんの思い付きって?」
「沙梨そこ立って」
「はい」
「龍とは何年前?」
「始まったんは二年前かな。別れたのンは去年」
「受験生やん……当時の写真なんか持ってる?」
「龍の写真は全部捨てた」
「龍居なくてえゝよ、沙梨が見たい。出来たら制服」
「そんなら……これとか」
沙梨はスマホに写真を表示させた。
「おー、えゝがな、かわえゝ」
「都子おっさん化しとる」
都子は佑香の独り言は無視して、写真を幾つか見た上で、
「ほな、こんなもんか?」
と云うと、沙梨の服が制服に変わった。顔も心做し幼気に見える。
「何やこれ!」沙梨は驚いて、自分の体をあちこち触りながら確認している。
「上からテクスチャ貼り付けた様なもんや。そう云う着包み一枚着たと云うた方が解りやすいか?」
「えー、鏡見たい」
「どうぞ」
沙梨の前に姿見が出現した。
「どっかで見た鏡……」佑香が不思議そうに確認する。
「佑香のやからな」
「あ、ほんまや! 東京の部屋の奴やん!」
「ユウちゃん今、東京なんやあ」
姿見前で色々ポーズを取りながら、ウキウキ声で沙梨が云う。
「どや?」
「完璧や、ミヤちゃん!」
「ほな、その姿龍の前に出すんで、云いたいこと全部云い」
「えっ」
「その当時の気持で、全部ぶつけとき。ああ、うち等に聞かれたくないならミュートにもでけるし。あと、龍には沙梨の姿と声は届くけど、触ったりでけへんのでそこは安心し」
「すごい能力やなあ」クラウンが感心した様に呟く。
「うちは舞台演出みたいなもんや」
「ミュートの必要は無いわ。全部聞いといて!」沙梨は一歩前に出る。
「諒解った」
それを合図に、沙梨の姿が龍の前に現れ、龍の時間が通常速度で流れ始める。
「沙梨
「あたしは怨念や!」
「へっ?」
「あんたに散々搾り取られて、遊ばれて、ポイ捨てされた、無惨な女の怨念じゃ!」
「えええ! 沙梨、お前死んだんか
龍の顔が真っ青になって、脚がガクガク震えている。
「うわああ、なんまんだぶ、なんまんだぶ! 成仏してくれえ!」
必死に両手を擦り合わせている。
「でけるか!」
「ひえええ」
沙梨が一歩出ると、龍が一歩下がる。
「おっ、おおおおお俺が悪かった、悪かったああ!」
「何がじゃ!」
「ななななな何しか俺が悪かったああああ
「そんなんで反省したことになるか! どあほうが! あんた覚えとるか? あたしがあんたに初めてあげた、プラチナリング!」
「プラチナリング!」都子と佑香が思わず叫んだ。
「ひええ、JKがプラチナリングやと?」
「沙梨、昔から金銭感覚ちょいおかしいとこあったけど……」
沙梨は構わず続ける。
「あんたそれ、三日で売りよったやろ! あたしが気付かんとでも思ったかぁ!」
「うわあ、ごめんなさい! めさ高く売れました!」
「当たり前じゃ! 原価が高いんじゃああ!」
沙梨が口から火を吹いた。吹いた本人が驚いて、都子を見た。
「あはは、なんか火を吹く勢いやったから……特殊効果や」
龍はひっくり返ってガタガタ震えている。沙梨は追撃の手を緩めない。散々金銭絡みの恨み言を吐き散らかして、
「あんたいつも偉そうになあ、あたしのこと抱きよったけどなあ!」
「えっ、沙梨、それは……」
佑香がオロオロしているが、沙梨は構わず続ける。
「満足したことなんか一遍もないわ! 蚯蚓みたいなもんぶら下げて! いつも自分だけ満足しよって! この、ド下手糞が!」
「うわあ、云う云う」都子も稍引き気味である。「凱旋門の前でこれ程そぐわない話題があろうか」
龍は自尊心も何も無いくらいズタズタにされて、阿呆の様な面相で脱力し切っている。
「えげつな」クラウンが聞こえない様に、小さく呟いた。
その後十分程掛けて、たっぷり罵詈雑言を浴びせまくって、やっと紗梨は息を吐いた。
「出し切ったか」
「うん、ミヤちゃんありがとう」
「こっちサイド大分引いてたけどな」
「えー」ここで紗梨は初めて赤面し、「何かゴメン、云い始めたら止まらんくなったわ」
「いやまあ、別にえゝで。沙梨がそれで楽になったなら」
「うん、スッキリしたわ!」
「そか」
沙梨は満面の笑みを見せていた。
「次佑香行こか」
「今のン後かぁ」
佑香の姿が、都子をマクドに呼び出した十六の夜に戻る。
「行っといで」
「頑張る……」
佑香が龍の前に立ち、第二ラウンドが始まる。
「あれ……沙梨? ……消えたか……成仏しくさったか?」
「なんも堪えてないのな」
「え? だ、誰?」
「一晩寝た女のことなんか、覚えてさえおらんか」
「いきなりコア入ったな。凱旋門ごめんやで」都子が呟く。
「ええ? ちょ、ちょと待っ……あ、都子の友達の……え、死んだん? でもさっき阪神で……」
「死んでたまるか! 思い上がりも甚だしいわ! 名前も覚えとらんとか、ほんま許せん!」
「ひええ、ごめ……あ、死んでないの? 生霊? いやあの、待って、名前……」
「いらんわ! むしろ思い出すな! 穢らわしい!」
「ゴメン! すまん! なんか思い出してきた! あの頃は俺、都子にマジで……でも都子が固くて、そんで……」
「み、み、み、」佑香は下を向いて、肩をフルフルと震えさせてから、一気に爆発した。「都子の代用品かぁ! ふざけんな、あたしは一人の歴とした人間なんじゃあ!」
佑香も火を吹いた。
「うわ、なんか気拙」
都子は首を竦めた。
「蚯蚓の分際でえええ!」
「み、蚯蚓は云い過ぎやないですか」
龍は涙を溜めて必死の抗議をするが、
「じゃかぁしわ、こン、だぼがぁ
敢え無く粉砕されて仕舞った。
「こわ。ダボなんて言葉よぉ使わんわ」
都子は両肩を抱いて
「さて、最後都子や」
舞台から下りながら佑香が云う。
「へ? うち別に、なんも云うことないし」
「あかん。如何やら今の龍作ったんは、都子らしいからな」
「はあ? 知らんし」
「ミヤちゃん、龍のオリジナル女なんやな。一言挨拶して来いや」
「沙梨まで何云うねん。龍があんなやから別れとんど? 何でそれうちの所為やねん」
「所為と迄は云わんわ。でも無関係でもないよ。龍、都子に本気やったみたいやな」
「そんな今更云われても。他に行ったんはあいつやし。うちもう、何の感情も無いし」
「なんも? 恨みも?」
「無いわ。興味無い」
「ふうん」佑香は暫く考えて「そんでも一遍行って来て。あたし等のケア、それで仕上がるから」
「あたしからもお願い。ミヤちゃんの一言で締めさせて」
「なんや一言て……」
渋々龍の前へと進む都子に、佑香が要求する。
「高校の制服で!」
高校生になった都子が、龍の前に立った。
「フランスはどや」
「都子! 何で! お前まで死んだんか!」
「はあ?」
「あ、そか、生霊か、生霊やな! 死ぬなや、頼むから、お前だけは!」
「何云うとん」
「腹立つわあ。明白に都子だけ特別扱いやな」
佑香がぷりぷりと毒突く。
「都子、ちゃうねん、俺……ずっとお前のことだけは」
「きしょ。やめたり」
「都子ぉ!」
「呼び捨てすな、気い悪いわ」
「そないン事云うたんなやあ」
龍はボロボロに泣いている。その様を都子は盛大に顰蹙しながら眺めて、
「龍、蚯蚓なんやて?」
それだけ云って都子は龍の前から消えた。後にはなんだか壊れた様になった龍だけが残された。
「うっわ、破壊力抜群!」沙梨が両手で口許を覆いながら云うと、佑香が続けて「流石は我らのリーサルウェポン」と絶賛した。
稍離れた所でクラウンが、「えげつな」と誰にも聞こえない様に繰り返した。
凱旋門の前で何もかも駄目になって、ペタンと座り込んで仕舞った龍を指して、「ほんでこれ、どないしょ」と都子が二人に問い掛ける。
「別の場所に移せる?」
沙梨の問いに、「別世界やからな、幾らでも」と、応える。都子は沙梨の指定通りに龍を移動させ、ロダン博物館の「地獄の門」の前に座らせた。門の上からは、「考える人」が龍を見下ろしている。
「これ写真撮ってもえゝんかな」
「さあ。まあ被写体に影響与えんし、個人で持っとく分には……」
沙梨はスマホで何枚も写真を撮った。
「えゝ構図や。中々芸術性高いわ」
「沙梨、大学は何やっとんやっけ?」
「美術や。大芸」
「はあー、なるほどなあ」
「次はな、ベルサイユの薔薇」
「あん? 宮殿か?」
「あっ、そう、それ!」沙梨は稍赤面し、「美術館ある筈!」
ヴェルサイユ宮殿まで移動し、中に入る。
「おお、不法侵入!」
クラウンが叫ぶが、
「せやから地球上の何処でもないって」
と、都子は受け流す。
「顎兄さんの覗きと同じや」
「しとらんって!」
順路に沿って進み、有名なナポレオンの肖像画「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」の前迄来ると、
「これこれ! 馬の前脚の下に置いて」
丸でこれから馬に踏み付けられようとでもするかの様な構図で、沙梨は写真を何枚も撮った。
「こんな変な写真何に使うん」
「なんかインスピレーション湧くねん! あたしン中の古傷も埋まる!」
「さよか」
「沙梨、後で写真頂戴」佑香が撮影の様子を見ながら云う。
「えゝよ、但し門外不出な! うちらだけの秘密やで!」
「こんなん見せる相手なんかおらんよ」
「そらそや!」
沙梨は大笑いした。
「そしたら都子、龍はもうえゝから、パリの観光案内でもしてや」
「既にパリから出てもうとんねんけど……」
「そうなん? あれ行ってや、ルーブル!」
「あの」
クラウンが割って入る。
「どした顎兄。行きたいとこでもあるか」
「いや、そやなくて。こいつ、木崎貰ってってもえゝか?」
「なんや、そんなん欲しいんか。やるわ。何処置く?」
「取り敢えず八階の男子トイレでえゝよ。わしと一緒に宜しく」
「はいよ」
龍の姿が消え、次いでクラウンが消えた。
「そうや、あいつそんな苗字やったわ」
「佑香も名前忘れとるやんけ」
「覚えたくも無いわ。忘れさせてー」
「ほな、パリ観光するか?」
「いえーい!」
「わーい!」
佑香と沙梨は大喜びで、思い付く限りのパリの観光地を挙げて行った。
「ルーブルやろ、凱旋門もっかいちゃんと見たいのと、シャンゼリゼ通り歩きたい! エッフェル塔も見上げたいし上りたい!」
「ノートルダム大聖堂と、オルセー美術館も! あと、モン・サン=ミシェル!」
「好みが出るなぁ。ほんで最後の奴、パリちゃうしな」
「もぉ、固いこと云わんと!」
「はいはい……然しあれやな、巴里に尼っ子は似合わん」
「なんでやぁ!」
「なんでよぉ!」
「わあ、猛烈な抗議。シャンゼリゼ歩くんえゝけど、買い食いでけんからな」
「金ないし、見るだけで満足しとくわ」
「臭いぐらいなら届けられるで」
「ほんま? 都子大好き!」
「ちょーしえゝなぁ」
都子達三人が観光を楽しんでいる間、クラウンは小夜子と合流し、証拠を揃えて予め連携していた刑事に引き渡していた。
「いつも助かりますわ。こいつは被害者多い割に規模しょぼくて、中々尻尾捕まえられんかったんですわ。――そんでも今回中々の大きな仕事してますなぁ」
「彼女の魅力の御蔭ですわ」
クラウンに紹介された小夜子は、刑事達にぺこりと頭を下げた。
「ご協力感謝します。後は我々にお任せを」
「ありがとうございました。――あの、カードの請求の方は」
「ああ、先ほど商品の返品して貰たんで、請求はキャンセルされる筈ですわ。そんでもしキャンセルが間に合ってなかった場合は……ちょっと待ってな」
刑事は手に持っていたファイルからビラの様な物を一枚取り出して、
「これに、対応の手順とか書いてますので、一回読んどいて下さい。先ずカード会社に確認して、もし揉めるようなら弁護士に……」
「はい」
「まあ、大丈夫や思うで。如何しても困ったら手近の警察署にご相談ください」
「ご丁寧に、ありがとう御座います」
「それにしても」刑事はクラウンの方を見て、「こいつなんでこんなにズタボロなん? 涙と鼻水で顔中ぐちゃぐちゃやん。なんか暴行とかされてます?」
「真坂! 滅相も無いことで御座います! いや、何人かの被害女性に掴まって、ちょいと酷い目遭ったのは確かですけど……そんな、暴行とかは……」
「殴る蹴るばかりが暴行でもないですが……まあ、今回は聞かないことにしときますわ」
「お手数お掛けします」
刑事達が龍を連行して去った後、小夜子はクラウンを見上げて、
「沙梨ちゃん何処? 後、他の被害女性って誰ですの?」
「ああ……それは……」
クラウンが云い淀んでいたら、売り場の陰から沙梨が現れた。
「小夜! ゴメンな、大丈夫やった?」
「沙梨ちゃん、何処いっとったん。あたしは平気。あいつ逮捕されたみたいやで」
「そうか。小夜が無事なら良かった!」
そう云って沙梨は、小夜子をぎゅっと抱き締めた。
「あたしは何もないよ。沙梨ちゃんの役に立てたなら良かった」
遅れて、都子と佑香も遣って来た。
「めちゃめちゃ腹減った。なんか食いに行こ。あ、でもその前に、タイガースグッズ」
「八階で行きたかったん、それかい!」
「あ、天現寺さんと、平野さん」
小夜子は沙梨から離れた。
「ああ、小夜ちゃん、沙梨から聞いとるから。気にしんくてえゝよ」
「そう」
会話の隙を突いて、クラウンが沙梨に話し掛けた。
「そしたら、僕はこの辺で。料金に就いては後程請求書が行きますんで」
沙梨がそれに答える。
「はい。ご苦労様です。ただ今回、こちらの依頼は添え物だったようなので、その辺りも代金に反映して頂けますやんね?」
「あ……はい、そ、そうですね。上と相談します。はい」
「あと」ここで沙梨は声を落として「ミヤちゃんも活躍したので、何か報酬の様な物出してあげて頂けると、うれしいな」
「そやねぇ……それも上と相談やけど、何かしら出せる様には計らいます」
「よろしく」沙梨はにこりと微笑み掛けた。
「そしたらこれで。失礼します」
「はい、ご苦労様でした」
そしてクラウンは去って行った。その後ろ姿に都子が気付いて、「おお、顎兄はお帰りか」と云った。
「それにしても小夜ちゃん、大活躍やったな。流石やな」
「あたしは何も……」
「もぉ、やめいや! そんな弱い振りせんでも、佑香以外はちゃんと解っとおから!」
「ええ?」
小夜子は小首を傾げる。佑香も一緒に首を傾げる。
「平野さん解ってないなら、この儘で」
「えー、小夜ちゃんそれ、如何云う意味!」
小夜子はフフッと笑って、戸惑っている佑香を見た。その瞳は、佑香が知っている気の弱い小夜子のものではなかった。強い意志を宿した、鋭い目つきをしていた。
「え、全部演技?」
「失敬やなぁ。演出やん。生きて行く為の知恵やん」
口調もがらりと変わっている。
「小学校ン時から?」
小夜子は沙梨を見上げた。
「どうかな」
沙梨は小夜子を見詰めて、
「うち等の秘密、あんま明かさんといて」
「そやね」
そして小夜子は、何時もの弱々しい目つきに戻った。
「ご想像にお任せします……」
「いや、怖いな!」
佑香はぶるっと身震いした。都子がゲラゲラ笑っていた。
十六
マクドに体半分残した儘、佑香は白い世界で都子の胸を借りて、好いだけ泣いた。龍とのことは特に抵抗をした訳ではなく、流されたとは謂え合意の下の行為なので、誰を責めることも出来ない。然し気持ちは合意とは懸け離れたものだった。その時はそれで好いと思った。でもずっと後悔がついて回る。何より都子に対して申し訳ない。友への裏切りでしかない。その罪悪感が非道かった。自分が蹂躙されたことより、自分が犯した罪の重さに耐え兼ねていた。
「都子、みやこぉ……ごめんね、都子ぉ」
云いたいことを凡て云い切った後は、ずっとその繰り返しである。都子は好い加減飽きているのだが、流石にこの状態の佑香を突き放す訳にもいかず、唯優しく背中を撫でている。佑香が泣き出してから、そろそろ三十分が経とうとしていた。噦り上げだけに変わって来た頃合いを見計らって、都子は佑香の体を起こして、
「うちは何も傷付いとらんし、怒ってもおらんよ。怒るとしたら龍に対してだけや。佑香は大事な友やん。その友に何してくれとんって話やん」
「都子……」
「ほんでな、今時間止めとってんやんか。三十分ばかり止めとぉから、うちら三十分ばかり余計に齢取っとるからな」
「えっ! あかん!」
都子は笑った。
「ほんで? 先迄龍がおったって? ここに?」
「うん。塾帰りで一人で居ったら、行き成り現れてん。ほんでなんか、うだうだ云うとった。愚痴なんか口説いとんか、よぉ判らんかったわ。無視しとったら消えよったけど」
「そか。纏わり付くようなら云いや。蹴散らしてくれよう」
「都子、男前やなぁ」
「知らんかったんか」
「知っとったわ!」
そこで漸く、佑香は笑った。
「都子、ありがとうな」
都子は照れ隠しに鼻を擦った。佑香が涙を拭いて、鼻をかんで、多少見られる姿に戻るのを待ってから、都子達はマクドに帰って来た。
「トイレ行ってくるわ」
佑香は仕上げをしに、俯き勝ちでトイレへ向かった。
戻って来た時には、確り顔を上げて歩いていた。都子はほっと息を吐いて、微笑み掛けた。
二十
二〇二三年の正月九日、月曜日は成人の日である。都子はその前日、ギリギリ滑り込みで二十歳になった。法律上の成人は前年の春に十八歳に引き下げられて、それに伴って都子も既にその時成人扱いとなったのだが、それ以来初めて迎える成人式であるし、
然しそれ以前に、都子は成人式になど行く心算はなかった。そんな益体も無い式典に、わざわざ苦労して振袖等着て、履き慣れない下駄で肉刺を拵えながら、顔も名前も知らないオヤジの高々三十分程度の説教を聞く為に人混みに出掛ける……考えただけで気が遠くなる。友人に逢いたいなら勝手に逢えば好いのであって、成人式でもなければ逢えない友達等、元々逢う心算の無い相手なのだから、そんな無理して逢いに行くことは無いのだ。
その為当日は、相変わらず実家の炬燵に潜り込んで、蜜柑など食っていた。佑香なんかは何やらウキウキしながら成人式に出かけて行った様だが、その佑香と夕方にお茶をする約束になっている。それ迄は炬燵で転がりながら、正月に録り溜めしたビデオの消化なんてことをしている。
ぼんやりビデオを見ていると、昼過ぎ辺りからスマホがひっきりなしに鳴る。感染症対策で居住地区毎に午前と午後に分けて開催しているのだが、都子の住んで居る辺りは午後に振り分けられているのだ。大抵は佑香からのメッセージなので、適当に放置して、ビデオがCMに突入する度に纏めて確認する。
――今から行って来まーす!
――振袖見てや!
佑香の自撮り写真が付いているが、顔とVサインばかり目立っていて肝心の着物が好く判らない。
――沙梨と小夜ちゃんいた!
――後で二人も合流するって!
一々ビックリマークが付いていて、甚だテンションが高い。読んでいるだけで疲れて仕舞う。一旦スマホを伏せて、トイレに立った。
トイレから戻ると、スマホがブンブン震えている。凡てメッセージの通知だ。
――小学校ときの連中と!
写真が付いているがごちゃごちゃしていて誰が誰やら。
――中学の数学の吉田先生や! 覚えてるか? 今教頭やて!
数学は苦手だった、と思い出しただけだった。苦手と云いつゝそこそこの成績は収めていたのだが。
――すごい人! 成人こんなにおるんや!
写真には人混みが写っている。感染症対策とは何ぞや。有って無いような対策である。本気で対策するなら完全リモートにすれば好いのに。いっそ動画配信サイトで垂れ流すだけに――それこそ誰も見ないか。
――なんか始まるっぽい! また後で!
暫く静かになるかなと、都子はビデオの続きを再生した。
四十分後、再びスマホがブンブン鳴る。丁度ビデオも区切りの良いところだったので、テレビを切ってスマホを確認した。
――今終わった! お酒飲み行こ! 沙梨と小夜ちゃんもおるで!
――阪神尼の駅前な!
お茶の筈が、如何やら酒を呑むことになったようだ。都子はうーんと伸びをして、暫く放心した。ずっと縮こまっていたので、今の伸びで眩々っと来たのだ。座り眩みとでも云うのか。
「はぁ、しんど」
そう呟きながら、炬燵から出ると、スカジャンを羽織ってマスクをして、草臥れたリュックを肩に引っ掛ける。
「佑香と酒飲んで来る!」
「何やて! あ、そうか、二十歳か」
「ほなっ!」
「調子乗って呑み過ぎんなや!」
母の忠告を背に、都子は家を出た。何時もなら自転車で出掛けるところだが、今回は飲むと云っているので徒歩で向かう。そう云えば佑香達は如何遣って来るのだろう。成人式会場は確か、JRに近い体育館だった筈だ。メッセージを送って訊いてみると、どうもタクシーを拾っている様だ。
――JR駅前からタクっとる
――沙梨のおごり!
「マジか」
下手したら向こうが先に着くかも知れない。都子は稍早足になりかけたが、直ぐ足を止めて、
「待たせたらえゝやん」
そして再び最初のペースに戻した。
駅前に着いたが、未だ三人の姿はない。タクシーで来るなら南口だろうか。北だと駅迄一寸歩くことになるので、着物の佑香としては南に着けたがるのではないだろうか。――そもそも着物の儘で来るのかな? 他の二人は如何だろう。呑みに行くと云っている訳だが、駅前の呑み屋って何処なんだろう。北口と南口、どっちが呑み屋が多いのか、呑んだことが無いので判らない。券売機の辺りまで来て、銀行のキャッシュコーナーが目に入ったので、手持ちが少ないことを思い出し、出金する為にそこへ向かった。
「都子見っけ!」
キャッシュコーナーから出て来たら、和装の佑香が出迎えた。
「うわぁ、またそんなカッコで。だっさいなぁ」
「どこがや」
トレーナー、ジーパン、スカジャンに草臥れたデイパック。確かに新成人らしくは無いが、これが普段の出で立ちである。
「ミヤちゃん、久しぶり! すごい服装やね」
沙梨にも笑われた。沙梨も和装で、佑香の水色系統に対してピンク系統の柄なので、好対照を為している。沙梨の背後には小夜子も居た。
「あれ、小夜ちゃんは着物やないんや」
小夜子は洋装で、それでもそこそこ華やかな装いではある。
「うん……着物レンタルでも高いし……」
都子だけが明白に浮いている。だが都子は全く気にしていない。
「何や小夜ちゃん、猫被りモードかいや。うち等の間では素でえゝのに」
「えー? 素やけどなぁ」
「そういや小夜ちゃん、コンタクト?」
「え? してないよ、裸眼」
「あれ?」
「ん?」
「阪神で眼鏡……」
「あ、伊達……えと……」
「それも演出か!」
「え……えへへ」
「やから、バレとるからそう云うのんえゝて!」
小夜子はぺろりと舌を出した。
「テヘペロなんかで騙されんど」
「せやから都子古いねんて」
佑香が突っ込むと、都子は「テヘペロ」と云って舌を出す。
「自分で云うとりゃ世話ないわ」
「ほんで今日は誰の奢りなん?」
「いやいや、なんでやねん! てか今、都子お金下ろしとったやんね? てことは都子の奢りちゃうか?」
「預けとったんや」
「このタイミングでか!」
沙梨がけらけら笑いながら、「奢ったろか? 高付くで」
「いや、沙梨だけはえゝわ。後が怖い」
「どぉゆう意味やねん!」
「じゃあ、あたし?」
小夜子が云うと、都子は鳥渡仰け反った。
「うわ、小夜ちゃんは沙梨より怖いか判らん」
「どうゆう意味や!」
沙梨と小夜子の二人に同時に突っ込まれた。如何やら小夜子は地が出た様で、
「もぉ、天現寺さんにだけは敵わん」
と云って笑っていた。
「苗字とか他人行儀やから、ミヤちゃんでえゝよ」
「ほな、ミヤちゃん。平野さんも、ユウちゃんでええ?」
「えっ? あ、うん」
佑香は未だに、素の小夜子に慣れない様で、しどろもどろに返答している。
新成人ばかりの四人組だが、沙梨は夏生まれなので四人の中では一番に二十歳を迎えており、この日迄にも既に何度か呑み屋を経験していた。二番目が秋生まれの佑香で、年末生まれの小夜子が続き、最後が昨日二十歳になったばかりの都子である。
「みんな呑み屋とか行ったことあるんか?」
都子が皆を見回しながら問う。
「あたしは無いわ」佑香が応える。
「友達おらんから?」
「都子やないねんから! 友達だらけじゃ!」
「だらけもどうか思うわぁ」
「やかまし! 年内忙しゅうて、それどころではなかったんや!」
「さよか。――小夜ちゃんは沙梨と呑んでそうやな」
「呑んどるけど、家呑みばかりやな。店では未だ無いんよ」
「ほう、さよか。意外」
「まだな、外呑みは警戒しとんねん。素が出たらあかんから」
「はぁ、難儀やなぁ。今日はえゝんか」
「この四人やし、個室やゆうとるから」
「個室なん?」沙梨に訊く。
「そやで。しっぽり飲める」
喋りながら歩いている内に、如何やらその店に着いた。駅前雑居ビルのエレベータに乗り込み、上へ向かう。
「呑み屋ってこんな感じなんやぁ。なんか怪し気」
「ビルの中ばかりではないよ。もっとオープンな酒場なんかもあるけど、今回は個室が好かったからな」
沙梨はいろいろ飲み歩いてそうなことを云う。
「店の奥に捕らわれて逃げ出せんくなる感じ」
「如何なネガティブ印象やねん!」
受付で沙梨が名前を告げると、四名様ですね、こちらへどうぞと、用意された席へ通された。
「いつの間に予約?」都子が不思議そうに沙梨に訊く。
「元々二人捕まえて呑む心算やったから。準備えゝやろ?」
「っつうか、勝手やな」
「そっちに別の予定あったらキャンセルしとったやん」
「当日キャンセルはあかん」
「そう云うと思って」沙梨は邪悪に笑う。
「やっぱ勝手やった。ま、沙梨らしいわ」
「どう云う意味やろ?」
そんなことを云っている間に、部屋に着いた。座卓かと思われたが、テーブルの下が掘ってあるので足が下せる。部屋が狭い為和装の二人はやゝ苦労していたが、座って仕舞えば楽な様だった。
「これはでも、トイレ行き難いかも知らんな」
「和服の二人、出入り口近い方に座りや」
都子の提案で席替えをする。和装の二人は再び苦労して立ち上がり、席を移ってほっと息を吐く。出入り口に近い席に佑香と沙梨が並んで座り、その対面に都子と小夜子が座った。四人が落ち着いたところで、見計らっていたかの様に店員がお絞りを持って現れた。
「先にお飲み物お願いしまーす」
「ミヤちゃん、呑みたいもんとかあるか? 最初ソフトにしとくか?」
「ソフト? ああ、よぉ判らんから君等と同じので」
「ユウちゃんは? 酒の経験は?」
「親となら年末から呑みまくりやん。ビールでえゝよ」
「小夜もそれでえゝな? じゃ、中生三本、グラス四つで」
「かしこまりました。こちらお通しになります」
店員は小鉢を四つ置くと、戸を閉めて去って行った。そのタイミングで全員マスクを外した。
「うぁー、お絞りあったかぁ」
都子がお絞りで顔を拭いているのを、他の三人が凝視していた。
「うわぁ、ミヤちゃんオヤジやなぁ」
「あんた今日もすっぴんか」
「ん? うちは化粧せえへん。仕方もよぉ判らん」
「女子力がぁ……」
「んなもん要らん」
「ミヤちゃんらしい」
沙梨はコロコロと笑った。
「ほんでこれは何や」
「お通し。席料みたいなもんや。テーブルチャージ」
沙梨が説明する。
「席料だけ取ったら申し訳無いから、一品付けますよって、日本人の心意気やん」
「申し訳無いなら取らんかったらえゝねん」
「それはちゃうよ。ゆうたら、机、椅子、何なら建屋の減価償却分を、お客さんから均等に頂いてますって話や。大体三百円前後が相場かな。厳密に合計金額が、とか云う訳ではないけれど、まあ元々計画できない料金やからな。料理に上乗せしたら客の食欲なんかで差が出てまうやろ、均等に取るための席料や」
「はー、成程なぁ――って、それ一品出してもうたら、意味ないのんちゃう?」
「そこはそれ、原価殆ど掛かっとらんのやろ、お通しは」
「む。そうなんか。てかこれなんや」
「タコの酢味噌和えやな」
「旨いど」
「それは良かった」
沙梨は笑った。そこで戸がノックされ、店員が顔を出した。
「中生になります」
「はーい、貰います」
店員から沙梨が受け取り、瓶とコップをテーブルへと置いていく。置かれたコップへ佑香と小夜子がビールを注ぎ、各人の前へと配置する。
「おお、見事な連携」
「都子だけが何もしとらんな」
佑香の指摘に都子は口を尖らせて、
「遠いねんもん」
続けてコースの料理と取り皿が配られる。一通り行き渡ったところで、店員が退室し、沙梨がビールグラスを高々と掲げる。
「はい、皆グラスを持って! 成人おめでとー! カンパーイ!」
沙梨の音頭で乾杯し、ぐっと飲む。
「ぷはーっ!」
「好い飲みっぷり!」
都子は一気にコップの半分程飲んでいた。胃と喉が熱くなった気がする。
「はー、こんな感じかぁ」
「うふふふ、美味しいぃ」
右隣で小夜子が怪しく笑っている。都子は稍身を引いた。
「なあなあ、沙梨」
「ん? どしたん?」
「小夜ちゃん豹変したりせえへん?」
「そんな漫画やあるまいし、普通やで。普通に地ぃが出る」
「ちょい大人しくしとこ」
都子が小さくなっていると、小夜子が凝と見詰めて来て、
「こらぁ、ミヤちゃんお酒デビューなんやから、もっとパーッと行き!」
「これは豹変ではないの?」
「地ぃや」
沙梨は構わずマイペースである。横で佑香が目を丸くしている。
「そうやぁ、あんたらに訊きたかってん!」
小夜子が佑香と都子に絡む。
「なっ、何や?」
「あんたらあの日、一体何した? 沙梨連れ去って何悪巧みしよった」
「そ、そんなん沙梨に訊きや」
「ゆうてえゝのん?」
沙梨が気拙そうに云う。
「あー……うーん……そやなぁ、小夜ちゃん口固い?」
「ダイヤモンド級や!」
「今一信用ならん返事やな」
「固いのは固いよ。演じきれる位やから」
沙梨が太鼓判を押す。
「あゝ、そうやね。うん。解った。――沙梨、ちょいと小夜ちゃん借りるで」
「なにするん」
都子はそれに答えず、コップを持った小夜子を連れてスッと消えた。そして数秒後に帰って来た時、小夜子はゲラゲラ笑っていて、都子は疲れた顔をしていた。
「おお、遂に小夜ちゃんもあたしらの秘密共有か!」
佑香が手を叩いて喜んでいる。
「何分ほど出掛けてたん?」
「小一時間……疲れたわ、ビール一杯で大分陽気になんねんな」
「あははは、楽しかったわ! ミヤちゃんのパリ案内素晴らしい! 酔い覚めた! 腹減った!」
「あー、またパリ行ったんか」
「ミヤちゃんこれでまた一時間余計に年取ったな。実はずっと前に二十歳になっとったんちゃうか?」
「あー……辻褄合わせしとらんからなぁ。生きてる時間で云うなら去年の内には二十歳になっとるわ。但し行政的、法的には飽く迄昨日で二十歳」
「なんやそれぇ、どうゆうこと? 説明せんかーい」
唐揚げを齧りながら、小夜子が都子をぺしぺし叩いている。佑香が代わりに説明する。
「今な、小夜ちゃん達消えてから数秒で戻って来たやんか。でも旅行は一時間ほどして来たんやろ? つまり小夜ちゃん達が過ごした一時間は、あたしら含めこの世界の人達にとっての数秒やねん。それはつまり、小夜ちゃんと都子が皆より一時間程長く生きたってこと」
「一時間老けたってこと
「うわ、堪忍してや、一時間やん」
「そか、一時間か」
そして小夜子はあははははと笑った。
「え、これが小夜ちゃんの地ぃ?」
佑香が沙梨にこっそり訊く。
「まあ、鳥渡陽気ではあるけど。まあまあこんなもんやで。あの頃このキャラでやり返されなくて良かったと、心底思う。あたしなんてことしてたんやろな、ほんまに」
「ほんでも今、もっと危ない関係やんか」
「まあ、日々ヤられてますわ」
沙梨はけらけら笑った。それはそれで楽しそうな笑顔である。
「んー、沙梨? 何のお話?」
「小夜の魅力について」
「ほか、ならよい」
佑香はぶるっと震えた。
「やぁ、然しそうかぁ、そんなことしとったんやなぁ、あの日」
「ゴメンな。基本この件は誰にもゆわんって、都子のお母さんとも約束したことやから。このこと知っとうの、この四人と、都子のお母さんと、後は警備会社の顎の人だけやから」
佑香が稍身を引き気味にしながら、説明する。
「あ、あのアゴさんは知っとるんや」
「まあ同類やったし。あの場合それ隠してたら何も話進まんかったしな」
都子は殆ど身構えずに小夜子と会話出来ている。
「ふーん、知らぬはあたしばかりなり」
「やからごめんてぇ。今日で共有したゆうことで、今後よろしゅうにな。絶対誰にも云わんといてよ」
「云わんわ――あ、そんで、沙梨が怖かったってやつ、あたしも遣ってみたい」
「は?」
「あたしにもしてやぁ。沙梨とは体験共有したい!」
「いや、そう云うもん?」
都子は沙梨を見た。沙梨は複雑な顔をしている。
「あんときは小学生やったからなぁ。今はまた感じ方違ってそうやけど。――てか何でそれ小夜が知っとるん」
「ミヤちゃんがゆうとった」
「あんた何をどこまで話しとん」
「え、洗い浚い」
「まじかぁ……あんな、小夜? あれはあたしが受けた罰やから」
「罰ちょうだい、おねがいぃ」
「マゾか」
「沙梨と同じがえゝねんてぇ」
「ああもぉ、知らんど!」
そう云って都子と小夜子は再び姿を消した。
「ええっ、ちょっと!」
慌てる沙梨の前に再び現れた小夜子は、ゲラゲラ大笑いしていた。
「楽しかった! 何か、あんなん大好き!」
「ええ……」
沙梨は眉を寄せて困惑している。
「せやけど、見掛けと音だけやんなぁ。も少し体感でけるようなんがえゝわ。押し潰される感じとか、落下感とかあってもえゝかな」
「ええ……駄目出しされとぉ」
都子も困惑している。
「都子、何時だか小夜ちゃん最強説唱えとったな。あたし今、すごい納得したわ」
佑香がビールを飲み干しながら、真剣な顔で云う。
「こんな意味でゆうてないけどな!」
「何であたしが……最強なん? あたし……そんなんちゃうし……」
「今更それえゝよ! つか、いつでも普通に被れるんやな、猫!」
「怖いわぁ」
都子と佑香が順繰りに突っ込むと、座が爆笑に包まれる。
「ビールお替り――あ、待って、違うの呑む」
佑香がメニューを確認している横で、小夜子が話題を変える。
「そういやミヤちゃん、フランス文学って、なんで?」
「へ、何でってなぁ……一年目法学あかんかったから、文学にしたんや」
「諦め早いよな。いや、そや無くて。何でフランス?」
「ルブラン原文で読みたかってん」
「ルブラン?」
「モーリス=ルブラン?」
沙梨の質問に都子は首肯いた。
「そっちかぁ!」
「そっちってどっち。あ、あんず酒サワーにしよ!」
佑香は店員の呼び出しボタンを押してから、再度訊き直す。
「そっちってどっち」
「いや、フランス文学って、カミュの異邦人とかかと思ってたら、真坂のルパン!」
「ふーじこちゃん?」
「ちゃうわ! オリジナルのアルセーヌ・ルパンの方や! まあ確かに、あれもフランス文学やな、娯楽物やけど」
「沙梨詳しいねぇ」
「普通や」
「えー、あたし文学とか略判らん」
「理系やから?」
「ユウちゃんは理系なん?」
小夜子が今度は佑香に興味を示す。
「佑香は数学科や。男の園」
「なんそれ! 好い男おる?」
「小夜ぉ!」
「あっ、ごめーん。てへぺろっ」
小夜子は自分の頭に拳骨を置いて、舌を出した。
「小夜ちゃんもてへぺろゆうた。そんな死語使うの都子だけや思ってた」
「いや、ミヤちゃんリスペクトやん」
「何やそれ!」
都子が仰け反ると、笑いが起きる。
「そう云う小夜ちゃんは何しとん?」
佑香が質問で返す。
「あたしは演劇の学校」
「ほんまもんの女優やった!」
「えー、あたしなんか未だ未だよぉ」
「『よぉ』って、きしょいわ!」
「ミヤちゃんひっど!」
「都子が非道いのん昔からや」
「佑香ひっど!」
都子がやり返す。
「知っとぉで、ミヤちゃんが非道いのん、小学校の時からや」
「何を知っとるんよ」
「あたしが、教科書の件ありがとうって云いに行ったら、『小夜ちゃんの為やない、教科書可哀想やったからや』って」
「よぉ覚えとんな! 怖いわ」
「あれであたしは、いたく傷ついたものよ」
「そんな痛かったんか」
「ちゃうわ!」
「いやいや、絶対傷付いとらんやん、なんか残念そうな顔しとったけども、そう云う感情ではなかったやろ!」
「如何云う感情?」
小夜子は猫被りで聞き返す。
「ああ、こいつには通じへんかぁ、的なガッカリ顔やったで!」
「何ゆうとんか解らんわぁ」
「あー、それで都子、そん時に見抜いとってんなぁ」
佑香は寂しそうに云った。
「あたしは全然気付かんかった」
「ユウちゃん、それが普通。ミヤちゃんは鋭すぎ。ほんで小夜は狡い」
「そうや、狡い」
都子は沙梨に同意した。
「何が狡いねん」
「あの教科書。綺麗にしたんは図工の先生とうちや」
「それがどないしたん」
「あれは不思議やったなあ。大抵の線は直ぐ消えるんやけど、所々やたらひつこい線が有ってなあ」
小夜子は不自然に黙って、都子の言葉を聞いている。
「消え易いのんは、花とか、犬猫、虫とか、人とか、何かしら意味のある絵柄やのに、そのひつこい線は、何のデザイン性も無い、出鱈目な線やねん。名前んとこなんか、これでもかって。でも不思議なんはな」
小夜子は何杯目かのコップの酒をぐっと飲み干した。お代わりを注ごうとしたが、最早瓶の中は空であった。
「グリングリンに塗り潰しとるはずやのに、夜の字だけ判るようになっとってん。あれは作為的やったなあ」
「ミヤちゃん、それって真逆」
沙梨が不安な顔をする。
「沙梨やその他大勢がした落書きなんか、可愛いもんやったんちゃうんかなぁ。あのひつこいのん、自分でしとったんちゃうか?」
「ミヤちゃんには誤魔化し効かんなあ」
小夜子は妖しく笑って白状した。
「うそやん……小夜?」
「自衛の為やで。黙っていじめ受けてなんか居れるかいや。罪状重くしたった上に、自分でしたことやからヤラレた感も薄まる。相手貶して自分は救われる、一石二鳥やん?」
沙梨も負い目があるので、それ以上何も云えなかった。
「もしかして、あたしが都子に教科書渡すまで、計算しとった?」
佑香が不安気に訊くと、小夜子はニヤリとした。
「さあ、そこまではな。でもユウちゃんはし易い子ではあったな」
「あたしこん中で最弱やあ!」
佑香は机に突っ伏した。
「佑香気にすんなや。そんなん先から皆知っとぅことやん」
「都子それ、フォローになっとらぁん!」
佑香は突っ伏した儘叫ぶ。
沙梨は稍戸惑った目で小夜子を見詰めている。小夜子がそれに気付くと、悲しそうな顔をして沙梨を見詰め返し、「沙梨ちゃん、あたしんこと嫌いなった?」と、稍科を作って訊いて来た。
「大好きやし! そんなキャラも素のキャラもどっちも!」
沙梨が余りに力説するので、流石に小夜子も赤面した。
「沙梨、解ったから、落ち着きよし」
沙梨はふうふう云いながら、コップに残ったビールを飲み干すと、
「店員遅い!」
と叫んだ。沙梨が再度呼び出しボタンを押そうとした時、ドアがノックされ、店員が入って来た。
「ご注文どうぞ」
沙梨の声が聞こえたのか、
「あんず酒サワー!」
「生ジョッキ!」
「山田錦! 猪口二つで!」
「都子は?」
「うん、わからん」
都子は空になったコップを弄びながら、
「佑香と同じのんで」
「じゃああんず酒サワー二つね!」
「猪口四つにして!」
「えっ」三人で小夜子を見た。
「ご注文繰り返しますね――」
注文を復唱し終わって店員が去ると、三人一斉に小夜子を責める。
「小夜ぉ、この二人初心者やど」
「あたし日本酒なんか飲んだことないよ、てか、あんず酒頼んだのに!」
「うちも呑める自信ないよ」
小夜子は一同を見渡して、ふんと鼻を鳴らした。
「無理なら呑まんかったらえゝねん。一応一口ぐらい舐めるかな思て、用意するだけやん。そんな騒ぎなや」
「まあ……道理やけども!」
沙梨は溜息を吐く。
「小夜の云う通り、無理なら呑まんくてえゝよ。あたしと小夜で呑むから」
「うーん、一口くらいなら」
「えー、都子やめときぃ」
「一口だけ飲んでみてから、決めるわ」
「あんず酒もあるのに」
「どっちも呑んどくし。何事も経験や」
「そうかぁ? 程々になあ」
山田錦が来ると、小夜子は二つの猪口に普通に注いだ後、残り二つの猪口に数滴程度入れて、都子と佑香の前に置いた。
「香りだけでもえゝし。行けそうなら鳥渡舐めてみ」
そして自分の猪口の酒をくっと飲み干すと、再び注いだ。
「小夜、あんたも少しセーブせいよ」
沙梨が心配そうに声を掛ける。
「だいじょぶ、沙梨が送ってくれる」
「もぉ……酒デビューして半月とは思えんわ」
「えっ、半月なん! マジで?」
佑香が猪口をそっと手に取りながら、小夜子を見詰める。
「人間為せば成る」
「聞こえはえゝけど、それこの場合あまり褒められたことではないよ」
そして日本酒の香りを嗅いで、少し舐めた。
「ひー、なにこれぇ! むりぃ!」
正面で都子が、きゅっと流し込んでいる。
「んー、もう少し頂戴」
「おっ、ミヤちゃんイケる口か?」
小夜子が嬉しそうに都子の猪口に酒を注ぐ間、佑香は胸元を着崩して、「うー、熱い、口ん中ひーってなっとぉ」と掌で顔を仰いでいる。
「うわぁユウちゃん、色っぽいなぁ、眼の毒や!」
小夜子が佑香を凝視すると、沙梨が取り乱して、
「ちょっと! ユウちゃん端たない! こら! 小夜を誘惑すな!」
「誘惑ってあんた……なにゆうとん」
「小夜も物欲しそうに見ない! こらぁ! 駄目やぁ!」
「何やこのカオス」
都子は少し冷めた目で、三人の有様を眺めている。きゃあきゃあと姦しく騒いでいる友人達を余所に、都子は手酌で日本酒を進めていく。なんだか自分は酒に強いのではないだろうかと思っている。偶に口直しであんず酒サワーを飲むが、こっちは兎に角甘い。
「佑香学校いつから?」
相変わらずきゃあきゃあ遣っているのも構わず、都子が突然問う。
「へっ? いつやっけぇ……来週やったかなぁ」
「暢気やな。うち明日行き成りあるわ」
「マジか、帰んの?」
「佑香に合わせるよ」
小夜子が不思議そうに、「えー、それって大学さぼるってこと?」と訊く。
「いや、行くで」
「だって東京やろ?」
「場所はうちには関係ないねん」
「なんやそれ」
「自家の押入れ、東京のアパートの部屋と繋がるから」
「あっ、それずっこいな! あたしもその機能欲しい!」
「機能って」
「あー、そっかぁ、あんたら移動費とか掛からん子達か!」
「まあ基本、一歩で着くからなぁ」
「ええなぁ……あ、沙梨! 大丈夫や! 酔い潰れてもミヤちゃんが送ってくれる!」
「はぁ?」
「小夜、それは図々しい」
「いや、えゝけどな。――そうか、これがお母がゆうてたことか」
「なんやそれ」
小夜子が絡む。
「いや、この能力他人にばれたら、アテにされ倒すから、絶対云うたらあかんよって云われとってん」
「あー……」小夜子はぺたんと座り直し「うん、まあ、潰れへんから送らんでもえゝけど」
「いやいや、小夜ちゃんはえゝねん。友やから」
小夜子が突然都子に抱き着いて「えゝ子や」と呟いた。
「うわ、ちょ、なにすん!」
「小夜ぉぉ! あかーん! こんなに誘惑だらけとは思わんかったわ! ミヤちゃんあたしの小夜奪わんとってぇ!」
「いらんわ! 持ってって!」
そんな騒ぎを今度は佑香が冷め気味に見詰めながら、
「あー、今週末バイトあったわ」
と呟いた。
「あー、そんじゃそれ迄に帰ろか」抱き付く小夜子を押し遣りながら、佑香に応える。
「よろしく」
「ユウちゃんも都子ルートで帰るんやな?」
「うんまぁ、一緒に住んでるからな」
「同棲か!」小夜子が色めき立つ。
「いや、あんたらとは異質やから。唯の友達とのルームシェアやから」
「何やまるで、他人をイロモノみたいに」
「えーと、うん、まあ、そういう心算ではなかったけど、イロモノはイロモノやな」
「あーん、沙梨ぃ、ユウたんが虐めるぅ」
「ユウたんて!」
沙梨はふっと微笑んで、「小夜。あんたを受け止められるんはあたしだけや。帰っておいで」
「さりぃぃぃ!」
「サリーちゃん!」
「都子! ――あ、沙梨ゴメンね」
佑香は都子の非礼を謝ったが、沙梨はゲラゲラ笑いだした。
「サリーちゃんなんか、今どきの若いもんが識るかいや!」
「ここには今どきの若いもんしかおらんど」都子が突っ込む。
「ほんまや! なら知らんわ!」
そして猶もゲラゲラ笑う。
「思ったんやけど、沙梨と小夜って、何かみたいやな」
「なんか? なんよ?」
「僕らがこの世で好きなのは、お酒呑むこと騒ぐこと、さり、さよ、さり、さよ」
「あかん、パクリやん!」
「絵本出せるわ」
「その絵本、発売前に発禁やわ」そう云って小夜子もゲラゲラ嗤う。
「それ、フランスの絵本やろ?」
佑香がよく判ってなさそうに云うので、透かさず都子が「ちゃうわ!」と突っ込む。
「佑香が云うとんのは、サリとサヨパール」
「小夜パールとは何事!」
沙梨と小夜子の笑いが止まらない。
「内容的にはそっちのが近い!」と沙梨が云うと、「あ、沙梨ひどーい! あたしあんな卑怯か?」と小夜子が異議を唱える。
「あの子達は卑怯なんではない、悪戯もんで無責任なだけ」
「なら、あたしらや!」
「あたしあんな非道ない!」
沙梨と小夜子の二人で盛り上がっている。佑香は自分で振った癖にその絵本のことは余り識らなかった。最初に話題にしていた方も、思い出しはしたけどなんとなくしか知らない。何れも読んだことはある筈なのに、よく思い出せない。その為会話について行けず、諦めて別の話題を都子に振る。
「ところで都子は、バイトしないん?」
「あー、バイトなぁ……」
「クラウンさん探しとったで!」
沙梨がヒイヒイと笑いを引き摺りながら、話題に噛んで来る。
「くらうん?」
「ほら、あの警備会社の、顎!」
「ああ、そんな名前やっけ。え、探しとるって何を?」
「能力者! あの後、都子が来てくれへんかなーみたいなことゆうとった!」
「それ就職話やん?」
「バイトってゆうとった!」
「ほー。考えとくわ。そういや名刺貰ったな」
都子はポケットから財布を出して、中身をごそごそ探して、「あれぇ?」と云った。
「ここに入れたと思っとったけどなぁ」
「何や失くしたんかい。あたしの見るか」
佑香がスッと差し出すので、都子は思わず佑香を見詰めて、「なんや、佑香あいつのファンか?」と訊く。
「なんでそうなんねん! 物持ちと整理整頓の賜物や!」
「はー、流石流石」ぱちぱちと拍手をしながら、名刺を受け取る。
「写真でえゝわ」
スマホで撮ると、裏面に何も無いのを確認して、佑香に返す。
「バイト代次第やなぁ」
「都子なら高給取りなれるよ、何しろ時間たっぷり使えるからな!」
「それこそ婆さんなるわ! 能率も最悪! 一生かけて人並みの給料じゃ、世界一の低給取りじゃ!」
「低給取りってなんやねん!」
今度は佑香がゲラゲラ笑う。段々笑いの閾値が下がって来ている様である。
たっぷり二時間呑んで、騒いで、場はお開きとなった。結局沙梨と小夜子は、タクシーを呼んで帰って行った。
「いやぁ、心地好」
着崩れた振袖を心持ち直しながら、佑香がうんと伸びをした。
「佑香、その恰好は流石にあかんな。ちと、ワープすんで」
都子は佑香をトイレへ連れ込むと、個室のドアを開けて自宅の玄関へと帰って来た。
「ただいまぁ! おかーん!」
奥からバタバタと母が出て来て、「あらあらあら、佑香ちゃん、何やその恰好は! 野盗にでも襲われたか?」
「野盗て!」都子はけらけらと笑って、「呑み過ぎて着崩れただけやん、この儘帰すん気の毒やから、お母直したって」
「おうち直ぐそこやん」
「これで帰ったら佑香の両親ぎょっとするわ」
「あたしもぎょっとしたわ。――でもそうか。ここ迄直で来たんやな。まあ一旦上がり」
母は佑香を居間へ通すと、そこで引っ掛けてあるだけの帯の結び目を外した。
「そういやお父は?」
「風呂やで。入ったばかりやから暫く出て来ぉへん」
「よっしゃ佑香、邪魔者はおらん、じっくり直し」
「ありがとう」
母は手際よく着付けを直し、髪のほつれも直して、佑香は見違える程綺麗になった。
「えー、小母ちゃん凄い。あたし出掛ける前より綺麗んなった気がする」
「そりゃ酔いの所為や」
「佑香、写真撮ってえゝか。意外に綺麗やったわ」
「意外とかゆうなぁ。でも写真は撮ったって!」
都子は佑香の写真を何枚か撮った後、母にスマホを渡して、ツーショットでも何枚か撮ってもらった。
「釣り合わんなぁ、都子がダサすぎやわ」
撮りながら、母にも笑われた。
二十の春
パイプ椅子に折り畳みの会議テーブル。隅には内線電話らしきものがあり、プロジェクターやらスクリーンやらが雑に追い遣られている。実に殺風景な部屋である。
都子は会社の会議室と云うものは初めてだった。良く云えば無駄が無い、洗練された部屋である。悪く云えば詰まらない。なんだか自分が好く作る亜空間と、たいして違わない印象である。成程あの空間も、無駄が無くて洗練されてゝ、詰まらないと云うことだ。
ドアがノックされて、なんだか貫禄のある男が入って来た。
「お待たせして済みません、ここの部長させて頂いてます、佐々本と云います」
男は立った儘そう云うと、名刺を差し出した。都子は何となく座っていてはいけない気がして、立ち上がって名刺を押し頂いた。
「どうも。天現寺都子です」
「ああ、どうぞお掛けください」
そう云いながら佐々本は、都子の正面に着座した。都子もそれに続いて腰を下ろす。
「うちのクラウンから大体聞いていますが、改めて、どの様な能力かお教え頂けますか」
「えゝと……端的に云えば舞台演出です」
「実演できます?」
「はい」
都子は取り敢えず、亜空間に連れ込んだ。なんだか佐々本が軽く身構えている。
「ここは――何か幻覚に襲われたりとかはしないのかな?」
「はあ? 何ですかそれは」
「おお、大丈夫なのか。成程、クラウンより上等な訳だ」
「あゝ、あの顎の人ですか。あれは精進足りひん様で、なんか歪な空間しか作れない云うとったですね」
「うははは、そうか、精進が足りないか」
佐々本は大笑いした。
「まあ、うちは例えば、背景変えたり――」
背景が青、赤、緑、黄色、黒などへ変わり、次いで海辺、密林、砂漠などの風景へと次々切り替わる。
「音出したり――」
風の音、雷の音、爆発音、雑踏、電車の発車ベル、ドラムロールなどが次々多重に鳴り響く。
「匂いさしたり――」
花の匂い、蜜の香り、珈琲、ケチャップ、屁の臭いなどが次々襲い掛かる。
「くさっ!」
佐々本が顔を歪めたので、匂いを消した。
「気温を変えたり――」
常温から徐々に温度を下げる。
「うおぉ、寒い!」
続いて温度を上げる。
「暑い! 暑くて敵わん!」
「えゝリアクションですねぇ」
都子は常温に戻した。
「なかなか好い根性しとるな、君は」
「よぉ云われます」
「嫌いじゃないぞ!」
「それはどうも。ほんでこれらの組み合わせ、調合で、いろんな雰囲気作れます」
「雰囲気?」
なんだか判らないが、佐々本は厭な気分になって来る。不安な様な、苛つく様な、胸を掻き毟りたくなる様な……
「微妙な低音、微かな匂い、半端な気温、薄めの気圧、足元も若干振るわせたりして、総合的にもっ凄い嫌な感じになってると思います」
「なっとる。何とかしてくれんか」
佐々本は怒りを押し殺した様な感じで、静かに要求する。都子は凡ての属性を一気に反転して、一転楽しい空気を作り出す。
「おお、なんだか物凄くすっきりして、好い気分だ! 即採用だ!」
「気ぃ早いな。次は、バーチャル旅行です」
二人は机と椅子ごと、パリのシャンゼリゼ通りにいた。
「おいおい、こんなところに机置いたら迷惑だろう」
「向こうからは見えないし触れないし。微妙にずれた空間にいるので。こっちから向こうが見えとるだけです」
「器用だなぁ」
「やから、バーチャル旅行」
「ふん、成程な」
「で、時間を緩にして――」
道行く人々の動きが少しずつ緩慢になってゆく。
「止めるとこんな感じ」
完全に人々の動きが止まった。
「時間停止か。過去へは?」
「戻すんは無理です。前向いて生きて貰わんと」
「はは、説教臭いな」
「早くも出来ますよ」
人々が再び動き出し、段々せかせかとしてくる。
「余り遣り過ぎると時間経ち過ぎてまうんで、程々に」
時間の流れを元に戻すと、シャンゼリゼ通りから元の会議室へと戻って来た。
「ちなみに国内で、今行きたい処あります?」
「なんだ? そうだな、桜の季節だし、吉野山とか」
「では、ドアを開けてください」
都子は会議室入り口のドアを指した。佐々本がドアを開けると、満開の桜の絶景が目の前に広がった。
「うおお! こりゃ凄い!」
「凄いのは桜ですけどね。あ、そのドアの下何も無いんで、出んとってください。死にますよ」
「いやいや、都子さん、君は素晴らしいな! 交通費ゼロに出来るわ!」
「はぁ……これ遣るとめちゃくちゃお腹空くんですが」
「一食分で何処でも行けるなら、幾らでも食わせてやるさ!」
そして佐々本は、がははと笑った。
「ちなみに、国内限定なのか?」
「いやあ、ほら、海外やと、出国や入国やって、ちゃんと手続きが必要でしょうし、それせんかったら密入国ですやろ」
「そうだな。ちゃんと配慮してくれていたのだな、素晴らしい!」
「では、危ないんで戻します」
一瞬にして桜の絶景は、詰まらない廊下の風景に変わった。
「バイトで好いのか? 非常勤職員としても登録可能だが」
「何がちゃいますの?」
「責任と給料だな」
「責任は要らんけど給料は欲しいです」
「そうは行くか。二つは抱き合わせだ」
「うーん。詳細聞いてからにしますわ」
「是非そうしてくれ。いずれにしても君は採用だ。うちに嘗て居なかった類の能力だし、何より完成していると云うのが素晴らしい! では、事務方に話は通しておくので、条件面の説明はそっちで受けてくれ。バイトでも、非常勤でも、俺は構わんし、暫く続けてから切り替えてくれても構わん」
「それはありがたい」都子は喜色満面で「ほな、どうぞよろしく」と云った。
「こちらこそ、今後ともよろしくな! ではここで、事務方が来るのを待ってゝくれ」
佐々本は会議室を出て行き、数分後に事務職らしき女性が入って来た。その人から条件面などの説明をじっくり受けた上で、都子は非常勤としての登録を選択した。
登録後、帰ろうと部屋を出ようとしたら、佐々本が息を切らせながら戻って来て、
「沖縄行かないか? 秋にな、鳥渡大口の話が来てるんだ。君の能力があるといろいろ助かると思うんだが、どうだろう」
「秋? そんな先の予定ちょっと判らんですが……まあ、行けそうなら行きますわ」
「まだ確定ではないが、おそらく二、三泊ぐらいの行程になると思う。沖縄にも支部があるので、そこを拠点としてもらう心算だ」
「はぁ。まあ、日取り決まったら教えてください」
「そうだな、また連絡する!」
そう云って佐々本は去って行った。なんだか慌ただしいおっさんである。都子はそんな感想を抱きつゝ、会議室のドアを開けて東京のアパートへと帰った。佑香が「お帰り、如何やった?」と都子を迎えた。
然し結局都子は日程が合わず、その沖縄案件には参加が出来なかった。都子の案件デビューは次の正月まで待つこととなる。それでも龍の件と云って今更の様に貰った報酬は、予想を上回る可成の額であった。
「うわぁ、しくじったなあ」
「都子どうした」
「いやあ、龍の件で報酬入ったんやけどな」
「へえ? あんたあの頃未だ部外者やん?」
「何か貰うてん。で、その額がエライコッチャ」
金額を聞いて佑香は仰け反った。
「まじか。寿司奢れ!」
「ん、まあ、それはえゝねんけど……ガッツリ噛んでの二、三泊案件なんか、それ一本でお父の扶養外れる勢いちゃうか?」
「そやな。何で断った」
「断ったちゅうか、フラ語の試験やん。何でこんな時期に、あのジジイは……」
「逃した魚は大きいな」
「あーあ、うちほんま、ついてない」
「贅沢な悩みや。取り敢えず寿司奢れ」
「もぉ、しょうないなあ。カッパ寿司でえゝか」
「どケチやん!」
都子はケラケラと笑った。
(終わり)
二〇二四年(令和六年)、二月、二十日、火曜日、大安。