知佳と蓮
里蔵光
私と蓮とは、幼稚園からの付き合いなんです。
幼稚園の頃はそれ程仲良しと云う訳でもなかったと思うんですが、まあそれでも、共通の友達と一緒に遊んだりしていたので、何人か居る友達の一人、と云う感じでした。大抵四人位で固まって遊んでいて、何時も居たのが仁美と、弘子と、蓮と私です。
仁美はその頃から、兎に角可愛らしい感じで、大人達に何時もチヤホヤされていました。それに対して弘子は、鳥渡抜けている感じで、おバカなところが可愛い、なんて云われている様な子でした。蓮は昔から綺麗な感じの娘で、知恵が回るのと、目付きなんかが鳥渡キツく見える所もあったりした所為か、大人達にも余り可愛がられず、子供達も一線引いて居る様な子が多くて、何時も孤立し勝ちだったんですが、実は後年一番美人になったのが蓮だったりします。まあそれは未だ、ずっと先の話ですが。私はと云うと、口数も少なく余り活動的ではなかったので、控え目とか落ち着きがあるなんて云われ方をすることもありましたが、大抵は面白みの無い子、暗い子、と云う評価で、蓮とは別の理由で他人が寄り付かず、結局蓮と同様、孤立することが多かったと思います。そんな私と蓮でも、仁美と弘子だけは分け隔て無く遊んでくれたので、大抵この四人は一緒に居たと思います。多分親同士が仲が良いって云うのも、要因の一つだったのかなと思います。
私も蓮もそんな感じだったので、二人だけで居ても会話をすることも無く、一緒に遊ぶことなど出来なかったのですが、仁美か弘子の何方かが居るだけでそれが接着剤の様になり、四人が揃えばその効果も抜群なので、幼稚園時代はそこそこ楽しい思い出に溢れています。
仁美も弘子も、私達に較べれば社交的な方だったので、この二人を介して他の子達ともそこそこ交流はありました。但し二人が居なければ決して交流することはなく、私達も向こうもお互いに寄り付こうとしなかったので、結局のところ私も蓮も、幼稚園の友達と云えばこの四人だけ、と云う感じでした。
そんな四人の関係は、小学校に上がっても続きました。私達の幼稚園は、学区で云うと皆同じ小学校に上がることになっていたので、幼稚園の友達は皆その儘小学校の友達として続くのです。そこへ他の幼稚園やら保育園やらの子達が合流し、私たち四人の輪にも新顔が交じって来たりしたのですが、幼稚園からの四人の結び付きが強かった所為か、新しい子達は余り定着することはなく、数箇月毎に顔触れが替わる様な感じでした。
例えば入学して直ぐだったと思います。その子は「みおちゃん」と呼ばれていました。学校が終わり何時もの様に四人固まって、遊んだりお喋りしたりしながらのんびりと校門を出た所で、ランドセルを手に提げて下ばかり見ながらとぼとぼと歩いている小柄なみおちゃんに、空ばかり見ながら歩いていた蓮がぶつかって仕舞い、二人で尻餅を突いたのでした。
「あゝ……ごめんなさい……」
蓮が謝ってもみおちゃんは顔を挙げず、うゝと唸っていたかと思うと、涙がぼろぼろと流れ出しました。
「やだ如何したの、大丈夫? 何処か痛いの?」
仁美が傍に蹲んで、心配そうに訊きます。あんまりボロボロ泣いているので、私は仁美とは反対側の脇に蹲んで、手巾を手渡して背中を擦ってあげました。私が泣いた時にお母さんが何時もそうしているので、当たり前と思ってしていました。蓮は困った風に、その場にぺたんと座って仕舞っています。弘子は一寸離れて立った儘おろおろしています。
「おなまえは?」
仁美が訊くと、噦りあげながら「みお」と短く答えました。
「みおちゃん、何処か痛いの? 大丈夫?」
「ないの……」
「何が無いの?」
「くまちゃん……ランドセルに付いてたのに……」
「落としちゃったの?」
「わかんない……先刻見たら付いてなかったの」
「探そ! どんな熊ちゃん?」
仁美の号令で、私たちはクマちゃん探しを開始しました。朝は確かに付いていた。休み時間に毎回お話ししていたから学校にいる間も確かに有った。帰りの会でもクマちゃんに見て貰いながら連絡帳書いたからその時迄は有った。帰る途中お地蔵さんの辻でクマちゃんを見ようとしたら無かった。と云うことは、学校からお地蔵さん迄の何処かで落としたのでしょう。仁美と弘子はそれぞれお地蔵さんの方と教室の方へ探しに向かって、蓮は校門付近をきょろきょろと探し、私はみおちゃんに寄り添って、何処行ったんだろうね、見付かると好いね、等と役にも立たない様な声を掛けながら一所懸命慰めていました。私も背丈は平均より小さい方だったのですが、みおちゃんは私よりも小さくて非常にか弱く感じたので、守ってあげたいと強く思い、肩を抱いて確り支えながら、蓮と同じ辺りをじっくりと探していました。
暫くして校舎の方から弘子が、「これー?」と大声で叫びながら走って来ました。手には小さな掌サイズのクマの縫い包みを持っていました。頭の部分に付いている紐が、掠れて切れて仕舞っています。
「あー! くまちゃん!」
みおちゃんの顔がパッと明るく輝き、弘子に駆け寄ってクマちゃんを受け取りました。
「ありがとう! ありがとう! くまちゃんごめんね」
弘子にお礼を云いながら、クマちゃんをぎゅっと握り締めて、頬擦りしています。
「どこにあったの?」
私が訊くと、
「靴箱の所にいたよ! 簀子に挟まって、キューってなってた!」
それを聞いたみおちゃんは
「仁美呼んで来るね!」
みおちゃんの様子を見て安心したらしい弘子は、そう云ってお地蔵さんの方へと走って行きました。
「クマちゃん見付かったね。よかったね。クマちゃんも、みおちゃんに逢えて喜んでるよ」
私はみおちゃんの肩を叩いたり背中を擦ったりしながら、「もう落ちないように、取り敢えずランドセルの中に入れようか」と、クマちゃんをランドセルのチャックの付いた小さなポケットに仕舞ってあげました。
「ありがとう! ありがとう!」
みおちゃんは何度もお礼を繰り返すのですが、見付けたのは弘子なので、私に云うのは違うなぁと思っていました。蓮はその間、ずっと私の方を眩しそうに見ていたのですが、小さな声で「よかった」と云った後、「知佳ってお母さんみたい」と云いました。その時の私には意味が好く解らなかったのですが、蓮が直接私に話し掛けるのは珍しかったので、なんとなくニコリと蓮に笑い掛けてみました。すると蓮は稍頬を赤く染めて、プイと横を向いて仕舞ったので、一抹の寂しさを感じたことを覚えています。でも多分この日のことが、蓮と私の間の原体験になったのかなとは思います。
みおちゃんとはその日から時々遊ぶ様になったのですが、
そんな風に通り過ぎて行く子達の中に、しいちゃんと云う子が居ました。しいな、だったか、しいこ、だったか、ちゃんと覚えていないのですが、兎に角皆「しいちゃん」と呼んでいました。一年生の二学期中頃から、私達の輪の中に突然飛び込んで来た子です。
そもそもしいちゃんは初めの内、仁美に懐いていた様で、ずっとべたべたと仁美の後ろばかり追い掛けていたのですが、その内弘子のことを一寸馬鹿にした様な態度を取り始めて、弘子が転んだり、忘れ物したり、兎に角何か失敗ばかりしていると、一々側に寄って行って、「あんたみたいな鈍臭いのが如何して仁美ちゃんの友達やってられるのか判んない」と云う様な言葉を投げ付けては弘子を泣かせていたのだけど、そんな言動は直ぐ仁美に見付かって、仁美の大激怒を買い、かつ、なんだかんだ弘子は他の子達に可愛がられて居たので、学級中の大顰蹙を買うこととなって、あっと云う間に孤立して仕舞いました。その後しいちゃんは弘子に謝り、仁美に許しを請いて、結局この四人グループで面倒を見る、という形になったのですが、人の性格なんかそうそう変わる訳もなく、弘子に手出しは出来ないと悟ったしいちゃんは、次の標的を私に定めたのでした。
「あんたみたいな暗い奴が如何して仁美ちゃんの友達なんかやってるの?」
毎日の様にそんなことを云われるのですが、前回の失敗で学習していたしいちゃんは、決して仁美の前ではそんな態度を取らず、寧ろ友好的に接して来るのです。そして仁美も弘子も居ない処で、私を攻撃しては留飲を下げている様なのでした。私としては、そりゃあそんなこと云われて愉快な気持ちになれる訳はないのですが、元々他人との関わり方を好く知らないですし、しいちゃん程直接的ではないものの大体何時も云われ慣れている様な内容だったので、余り気にせず、黙ってニコニコしていると、何ニヤ付いてんの、気色悪い、と却ってしいちゃんの機嫌を損ねて仕舞ったりしました。
ちなみに蓮は、そんな時決まって近くに居た様です。その頃でも余り直接の交流を持っていなかったので、近くに居てもお互い気にしていなかったと思うのですが、しいちゃんのこの言動だけは蓮も少し気にしていた様で、何時も凝と私たち二人を見詰めると云うか、睨み付けると云うか、そんな感じでした。しいちゃんは何故だか蓮には余り攻撃をせず、
そんな蓮が、或る日突然行動を起こしました。何時もの様に私がしいちゃんにねちねちと責められていると、それ迄凝と黙って睨んで居た蓮がすっくと立ちあがり、つかつかと私達の許へ寄って来たかと思うと、何の挨拶も無い儘にいきなりしいちゃんを引っ叩いたのです。私は蓮がそんなことする子だとは思っていなかったので、兎に角吃驚して尻餅を突いていました。しいちゃんは打たれた頬に掌を当てゝ、怯えた表情で蓮を見上げていました。
「あんた好い加減にしなさいよ!」
そんな蓮の怒った声を、私はその時初めて聞きました。
「知佳はあんたが思ってる様な子じゃないの! あたしの大事な大事な友達に、毎日毎日何してくれてんの! 好い加減頭来るんだけど!」
蓮が自分のことを大事な友達と思ってくれているんだと、恥ずかしながらその時初めて知った次第です。
「な、なによあんた……何時も黙って睨んでるだけの……癖に……」
しいちゃんは何故か蓮に気後れしている様で、物凄く弱く震えた声で、やっとのことで云い返している様な有様でした。
「あんまり舐めた真似してるとタダじゃ置かないよ」
蓮のこの鬼気迫る様な恫喝には、横で聞いていた私も思わずぞくっと身震いする程で、その矛先であるしいちゃんに至っては完全に蛇に睨まれた蛙状態となり、真っ青になって震えていました。
「判ったらどっか行きな」
しいちゃんはそれはもう、滑稽な程にあたふたしながら走って逃げて行き、次の瞬間私は蓮にギュッとハグされていました。
「知佳ご免なさい、あたしもっと早く助けたかったのに……こわくって……」
「うそぉ」
もう何が何だか。怖かったのは蓮だよと、喉の先迄出掛かっていましたが、蓮が小刻みに震えているのに気が付くと、私は「ありがとう」と云って蓮の背中を抱き返したのでした。同時に、蓮は怒らせちゃダメ、と学習しました。
どの時点から見ていたのか、そんな私達に仁美が駆け寄って来て、「アイツまたやらかしてたの? 知佳ご免ね、あたし気付かなかった」と謝られたのですが、仁美が謝るのは筋が違うと思いました。
「ううん、あたし気にしてないし、そもそもしいちゃん、仁美の居ない処でだけ云って来てたから、仁美知らなくてもしょうがないよ」
「知佳あんた、お人好し過ぎ」
そこで漸く、蓮は私を解放してくれました。
「あたしずっと見てたし知ってたけど、ずっと何も出来なかった。本当にご免なさい」
「好いんだって。今日の蓮カッコ良かったよ。ちょっと怖かったけど」
そう云うと蓮は恥ずかしそうに俯いて、「やだ。お母さんの真似しただけ」と小さな声で云いました。丸で先刻とは別人です。
「あたし蓮の声で、何事かと思って来たんだけど」と、仁美も笑って云います。
「え……どこまで聞こえてたんだろ……」
「廊下迄は聞こえてたよ。教室の中だったらみんな聞いてたんじゃない?」
そう云われて教室内をぐるりと見回してみると、皆不自然な迄にこちらを見ていませんでした。何人かは、眼を逸らす様が目に入りました。嗚呼、皆注目していたんだなと、それで判りました。しいちゃんの嫌がらせから見ていたのか、蓮が怒りだしてから注目されていたのかは判らないですが、級友達が見て見ぬ振りをしていると云うことだけは判りました。矢っ張り私は独りなんだなと、改めて思ったものです。――違いますね。この二人と、弘子も入れて四人。それが私の世界の凡てでした。
その日の放課後、仁美から話を聞いた弘子は「先生に云いに行こう!」と主張していたのですが、私がそんな面倒臭いの嫌だと云い、それに先生に云うなら必然的に蓮のしたことも云わなくちゃならないので、蓮の為にも何とか内々で済ませられないかと、仁美に懇願しました。蓮はその間もずっと黙って俯いた儘で、一所懸命堪えている様でした。そんな私達を見ていた仁美は、取り敢えず本人に謝らせると云って何処からかしいちゃんを連れて来て、丸で糾弾するかの様に四人の中心に座らせました。しいちゃんは小さく震えていて、なんだか気の毒に感じて、厭だなぁと思ったことを覚えています。
「取り敢えずあんた、未だ謝ってないんじゃないの」
仁美がしいちゃんを背後から責めると、しいちゃんはビクリとなって、おずおずと私を見上げる様に顔を挙げました。
「ご……めんな……さい……」
凄く小さい声で、やっとそれだけ云いました。私はもう見ているのも辛くって、
「好いよ。気にしてないよ」
と云うと、それが却って堪えたものか、いきなりわっと泣き出して仕舞いました。私と蓮は困った様に顔を見合わせていました。仁美と弘子はしいちゃんをずっと睨んだ儘です。
「仁美、本当に私、気にしてないの。これじゃ丸で反対に虐めてるみたいだよ。私こんなの厭だよ」
私が仁美を一所懸命説得すると、仁美はふっと軽く息を吐いて、
「知佳ってば優し過ぎ」
と云い、優しく笑いました。それでも弘子はずっとしいちゃんを睨み付けていて、
「あたしは絶対許してないから」
と云うので、仁美と蓮と三人で顔を見合わせて仕舞いました。
「弘子、あんたの件はもう終わったの。今は知佳の話でしょ?」
「でもあたし赦さない」
「弘子!」
「弘子ぉ」
蓮も私も、何とかしなければと弘子に声を掛けました。流石に同意者が居ないと思ったのか、弘子は睨むのを止めて私達の顔を順に見て、「だって」と云いました。
「判った。弘子は後で家おいで。アイス食べよ」
「わぁい!」
流石は仁美、弘子の御し方を心得ています。
何時の間にか泣き止んでいたしいちゃんは、もう一度私の方を見て、「ありがとう」と、これも小さい声で云いました。
「いや、アイスくれるの私じゃないよ?」
「知佳、その件じゃないと思うよ」
蓮に指摘されてハッとして、私は赤面しました。仁美が笑うと弘子も笑い、蓮も、しいちゃん迄笑っていました。なんだ、これで良かったんだと、ほっとしました。
「私、仁美ちゃん可愛いから、仲良くなりたくて……でも、なんとなく蓮ちゃん怖くて……それで、怖いの紛らわせたくて、知佳ちゃんに意地悪しちゃってた……」
一呼吸置いたところで、しいちゃんが急にそんなことを云うので、皆驚きました。
「え、あたし、怖くないし」
蓮は少し、むくれました。
「しいちゃん、云ってること全然理解出来ない。意地悪する理由になってないよ。まあ蓮は、何時も喋らないで、凝と見てるだけだから、怖いって解らないでもないけどさ――喋ると楽しい子なのにね」
仁美が云う通り、蓮は鳥渡人見知りなのか、余り人と会話をしません。四人だけであれば多少は喋るのですがそれでも口数は少ない方で、この日は何時もより好く喋っていた様ですが、本当に珍しいことだったのです。
「でもね、仁美は可愛いけど、蓮ちゃんは綺麗なんだよ」
弘子が好く判らないフォローを入れます。でも蓮が綺麗だってのには、私も同意でした。
「綺麗だから、きつく見えちゃうんだろうけど、でもそれ綺麗なだけだから。きつく見えるのは見る目が無いだけだから」
弘子の説明は如何も伝わり難いのですが、私はこの時に限っては非常に我が意を得た思いで、ずっと首肯いていました。然しあんまり弘子が綺麗々々云うものだから、蓮本人はすっかり赤面して、「やだ、止めてよ、そんなこと無いし」と云って俯いて仕舞っています。
「弘子も間抜けで可愛いし、知佳も優しくって素敵だよ」
仁美が私たち二人もフォローしてくれましたけど、私だけは容姿を褒めないんだなと、鳥渡複雑な気持ちでした。然し蓮が急に俯いた儘、
「知佳だって可愛いし」
なんてことを云うので私も赤面して、
「ちょっと、何これ。仲良く褒め合う会? 止めてよ、恥ずかし過ぎるよ!」
と云って顔を背けて仕舞いました。
「しいちゃんもね、その僻みっぽい性格直したら、屹度可愛くなるから!」
私の抗議なんか気にも留めてくれず、仁美がそんな無責任なことを云うのですが、
「ヒガミって何?」
と云う弘子の問いで、打ち壊しになって仕舞いました。後は皆、唯笑っていました。
流石にその日以来、しいちゃんも大人しくなって、この調子なら仲良く付き合っていけるかなと思っていたら、二学期一杯で転校して行って仕舞いました。親が転勤族で、幼稚園時代も他の土地だった様だし、固定の長い友達が中々作れない境遇の様で、それであんな捻くれ方しちゃったのかなと今にして思うのですが、まあ当時はそんな事情も知らないし、普通に「転校しても元気でね」位の挨拶でお別れしたと思います。「年賀状出すよ」なんてことも云い合ってましたが、一往復だけで途絶えたと思います。
そんな中、蓮のお母さんが亡くなったと聞かされました。
なんでも病院で看護の業務中に感染し、その儘帰らぬ人となったそうで、
感染症の緊急事態宣言発令中と云うこともあり、お通夜もお葬式も無く、後で聞いたところでは御家族でさえ御遺体に近寄れず、県外の火葬場で勝手に荼毘に付されて、骨壺に入れられた状態でやっと帰って来たとか。お墓の手配さえ出来ず、仏壇も無いので、暫くはずっと居間の隅に、昔蓮が使っていた幼児用の小さな机を祭壇代わりにして、遺影と一緒に置かれていたとのことです。
六月位から少しずつ学校も始まって来て、蓮とも顔を合わせる機会が出来たのですが、お互いマスクしていて表情は判らないし、相変らずお互い無口なところへ会話禁止なんて云われたりして、確りと話す機会も中々作れませんでした。唯目線だけで、お互いの安否を確認し合っている様な感じで、そんな状況が長いこと続きました。仁美も弘子も、蓮のお母さんのことは聞いているらしく、迚も気にしている様ではあるのですが、矢張り「密を避ける」と云うことも云われていたし、マスクしてゝ話し辛いし、何よりなんて声を掛けたら好いか見当も付かず、頼りない視線を投げ合っては、三人で溜息を吐き合う様な状態が続きました。
そんな中でも日常と云うものは容赦が無く、段々状況にも麻痺して来ると共に、蓮の様子も次第に平常に戻って行く様で、安心する気持ちと、自分に何も出来ない歯痒さとの間で、何とも云われぬ落とし処の莫い想いで一杯でした。それでも何時の間にかまた四人で寄り合う様になり、会話数も増えて行き、結局蓮のお母さんの話には全く触れない儘、ゆるりゆるりと過ごしながら、着実に歳を重ねて行きました。
私が最初に違和感を持ったのは、四年生の夏の終り頃です。二学期が始まって間もない頃だったでしょうか。感染症も大分弱体化していて、感染者は相変わらず多かったのですが、仮令罹っても「あゝ罹っちゃったね」程度で、二週間もすれば復帰する様な感じになっていたので、危機感も大分薄らいで居ました。体育の授業なんかも確り遣る様になっていたし、運動会も限定的にだけど開催されるようになっていました。元々運動は得意でもないけど嫌いではなかったし、学校の体育が再開されてからはそれ迄の鬱屈した気持ちを発散する様に炸け気味で体を動かして来たのですが、その日は運動会の練習で何時も以上にくたくたになって帰宅したのだと思います。私にはその頃、幼稚園に通う弟がいたのですが、その日に限って弟の声が矢鱈煩いなと思いました。それも唯々煩いだけで、何を云っているのかは好く判らず、凝と聞き耳を立てゝいても何だか色々な言葉が同時に重なって聞こえて来るようで、何なんだろうと振り向いて弟を見るのですが、絵本だか図鑑だかを眺めている弟の口は閉じた儘で何も喋っておらず、それでも弟の声が間断無く響いて来るので、混乱して別の部屋へと逃げました。それ切り弟の声は聞こえなくなって、ほっとしたのですが、結局何だったのかはよく判らない儘です。そう云えばその日は、私が初潮を迎えた日だったと思います。
その日はそれ以降変な声は聞こえなくなり、お母さんと二人で汚れた下着を洗ったり、今後どうすれば好いのか等を教わったりで、そんな声どころではなく、すっかり忘れた儘一ト月程が経ちました。
運動会も終わって、一段落着いていた頃だったかと思います。普通の体育の授業でバレーボールのレシーブの練習をしている最中に、何だか頭が呆っとして来て、何も考えられなくなったところに、また意味不明な声が聞こえて来たのです。色々と雑多な声がガヤガヤとしている感じで、空っぽな頭の中に響き渡って眩々していたら、直ぐ近くで「痛ーい!」と云う声が聞こえました。何事かと思って振り向くと、弘子が鼻血を出してへたり込んでいました。
「ごめーん! ご免ねホントに! 大丈夫?」
弘子とペアでレシーブし合っていた千尋が、心底申し訳無さそうに弘子の背中を撫でています。弘子は鼻血を垂らしながら、「痛いよ、大丈夫じゃないよぉ」と情けない声を出しています。
私の頭の中にも弘子の声が何重にも重なって響きます。痛い、痛いよ、痛い痛い、痛ーい! ――他に無いの
その時に何となく判って来ました。私、他人の心の声が聞こえているんだと。判然意味が取れたのは弘子が初めてでしたが、この日以来、結構頻繁に聞こえる様になって行って……そう云えばこの日も、月経が来ていたんだと思います。何故だか判らないですが、体の成長とこの変な能力の発達が、同期している様な感じでした。
最初の内は体育等の様に、体を激しく動かす様なことをした時に、一旦頭が空っぽになって、その隙へ滑り込む様にして聞こえて来ることが多かったと思います。次第に運動をしていなくても聞こえる様になって来て、年末頃には何もしていなくても、常にさやさやと囁きの様に皆の心の声が聞こえている様な状態になっていました。
何時もの四人で居る時も同様で、仁美や弘子や蓮の心の声が聞こえて来るので、余り聞かない様にしようと一生懸命気を逸らせたりしていた所為か、なんだか常に上の空で、話し掛けられても気付かない、なんてことも増えて仕舞っていました。
そう云えばこの頃から前後して、蓮の社交性がどんどん上がって行っていた様です。夏休み明け位からそれ迄よりも口数が増えた様な気がしていたのですが、会話のキャッチボールも以前に比べて大分上手にする様になっていて、私は何となし、置いて行かれて仕舞ったような気がしていたものでした。然しこの変な能力の御蔭で、その理由も判って仕舞いました。友達の中を覗き見するみたいで余り好い気分ではなかったのですが、蓮の場合はお母さんのこともあって、ちょっと心配で耳――正確には耳ではないと思いますが――を傾けて仕舞うこともありました。
「最近蓮って、よく話す様になったよね」
何となくそんなことを云ってみたこともあります。すると仁美が意外そうに、
「なぁに知佳、今頃云ってるの? もう大分前から蓮、明るく変わったのよ」
「へぇ?」
「三年生ぐらいからかなぁ? 段々お喋りしてくれる様になってさ。それも結構ツボ押さえた感じで話聞いたり合いの手入れたりしてくれるから、話し易いし楽しくって。あたし
「なにそれ。あたし別に、普通にしてるだけだよ」蓮が頬を染めながら反論するのですが、その言い方一つとっても、昔とは全然違う感じでした。でも蓮、こんなこと云いながら心の中では結構毒吐いてるんですよね。でもそれだって全然嫌味な毒じゃないから、私は蓮の中も外も好きになっちゃったんです。
ちなみに蓮が聞き上手の相槌上手になったのは、毎日お父さんの愚痴を聞いているからみたいです。愚痴るお父さんを気分良くさせてあげる為に、出来る限り相手を否定しないで、かと云って持ち上げ過ぎず、適度に同意して適度に指摘して、そんなことをしている内に話術が磨かれて行った様なのです。話術が上がれば自然と他人を恐れなくなって、会話の頻度も上がるし対象も拡大して、四年生が終わる頃迄には、蓮は学級の人気者になっていたのでした。それを令て「人誑し」なんて云う人も居ますが、蓮は余りそう云われるのは好きじゃないみたいです。人誑しなんかじゃないって、思っていましたね。「人誑し」って如何云うものなのか、実は私好く解っていないんですが、他人が好きってことなんだとしたら、蓮は違うのかも知れません。他人に好かれるって意味なのであれば、合っているんですけど。若しくは他人に好かれるのが好き、でも合っていたかも知れません。でもそれは余り蓮が意識していない部分ではありました。
然し蓮に限らず、皆多かれ少なかれ、本音と建て前って奴は使い分けている様で。仁美も普段おくびにも出さないけど、学級で一番可愛いのは自分だと信じて疑っていない様ですし、人に褒められて謙遜するのも、その方がより可愛さが際立つからなんだって。結構強かに小聡明い性格でした。弘子にしたって、「痛い痛い」しか考えないのかと思ったら、意外に腹黒くって、そこそこ周りを見下しているし、莫迦な振りをしようとしている節がある様なんです。唯弘子の場合、何と云いますか、「振り」をしていると思っているのは本人だけの様で……中々残念な子です。
私はそんな友達の裏表を見て仕舞って、然しだからと云って相手を嫌いになる訳にもいかず――と云うより嫌いになんかなれないので、出来るだけ相手の地雷を踏まない様に、絶妙の応対をする癖が付いて仕舞いました。そう云う意味では私が一番腹黒いのかも知れません。
仁美も弘子も、普段私のことを地味な子と思っていて、稍下に見ている節があるのですが、蓮だけはその点全然違っていて、蓮が私を大事な友達って云ってくれていたのは本心なんだなと、この能力によって改めて確信することが出来ました。それ迄私は蓮のことをそこ迄大事だと思っていなかったので、鳥渡恥ずかしかったです。私はお母さんみたいなんだそうです。全然蓮のお母さんとは似てないし、性格も全く違うので、今一好く解らないのですが、お母さんみたいにほっとする、安心する、と云う様なことは常々思ってくれている様で、私もそれが嬉しくって、蓮のことを好きになって行ったのだと思います。
唯ちょっと腑に落ちないのは、蓮が私のことを「小学生になってからの友達」と思っている所です。幼稚園の時は交渉が無かったから「友達」とは云えなかった、とか云う話ではないんです。小学校で初めて出逢ったと思っているんです。私、幼稚園の頃から蓮のこと知ってます。会話は確かに無かったんですけど、でも何時も四人一緒でした。そう、仁美と弘子のことは幼稚園からの付き合い、ってちゃんと思っているんです。何で私だけ……蓮も「四人」だったとは記憶しています。でも四人目が思い出せない様で、それが私だと思っていないんです。蓮の持っている幼稚園の思い出の中に、何度か私が登場するのも確認しています。でも記憶の中のそれを私だと認識していない様なんです。何でしょう。こんな変なことってありますか? 腑に落ちないし、寂しいし悲しいんです。蓮を好きになればなる程、そこの記憶の欠落が、どうにも私を苦しめるんです。何時か思い出して貰えるんでしょうか……
五年生になってから、なんとなく蓮の声が聴こえ辛いことがある気がしていました。若しかして私のこの厄介な能力が治ってくれるのかとも思ったのですが、聴こえ難いのは蓮だけで、他の人の声は
そして到頭、二学期の運動会の一週間程前に、全く聞こえなくなって仕舞いました。一番大好きな蓮の声だけ聞こえなくなるって、なんとなく寂しかったんですけど、大好きだからこそ聴こえないのが正解なのかも知れないとも思い、余り気にしない様にしていました。
また丁度その頃、運動会の練習で体を動かす頻度や程度が格段に増えた所為だとは思うのですが、私の能力も稍暴走気味な程に強くなって来ていて、体育の後にぐったりしている日も増えました。五時間目の体育で精魂使い果たして、帰りの会迄もずっと憔悴し切っていたあの日、蓮が心配してくれたんです。放課後弘子が何か話したそうにして蓮を探していた様ですが、蓮はそれを無視して、何と云うか寧ろ逃げる様にして、私を連れて一緒に帰ってくれました。――そうそう、その頃女子の半分位はなんだか色気づいてゝ、しょっちゅう「恋バナ」と称して恋愛の様な話をしていたものでした。私はそれどころじゃなかったし、蓮も興味無い様だったんですが、仁美はこゝぞとばかり自分をアピールする為に寧ろ積極的に、弘子も流行に乗り遅れまいと必死に話題に食い付いて、そして何故か皆蓮を中心にしてそんな話を展開するので、蓮は大層迷惑がっていました。それでも「人誑しの蓮」なのでそうした相手も邪険にすることなく、大して内容聴いてもいない癖に的確な相槌やツッコミを返していて、なんだか
実はこの日はもう完全に、蓮の心の声が聴こえなくなっていたのです。だから物凄く久しぶりに、蓮と対等な人間として接することが出来た気がします。私は寧ろそれが嬉しくて、蓮と戯れ合いながらご機嫌で帰った記憶があります。
その週末の土曜日が、運動会だったのですが、私は学校中の生徒、教師、保護者、来賓たちの心の声にすっかり当てられて仕舞って、競技中に気を失って仕舞いました。そして保健室へ運ばれて、閉会迄ずっとそこで過ごす羽目になったのです。本統は戻っても好かったんですが、また倒れるようなことになっても厭でしたので、保健室で大人しくしておくことにしたのです。その保健室で、神田という人に出会いました。
その神田さんの導きで、私はこの能力を活用し、発展させ、制御出来るようになる為の、秘密の旅へと発つことになった訳なのですが、その旅には蓮も同行していたんです。それは詰まり、蓮にも奇怪しな能力があったと云うことなんですが、それは蓮の心が聞こえなくなった理由でもありました。能力のある人の心は、読めないんだそうです。神田さんが教えてくれました。蓮の心が読めないことも、蓮の能力も、何方も私は嬉しかったんです。何れも私と蓮の結び付きを強める大切な要因なのです。心が読めないことで人として、そして能力があることで能力者として、私達二人を対等にしてくれたんです。
最早仁美も弘子も、私達には必要ありませんでした。二人は相変わらず友達ですが、蓮との結び付きには到底敵いません。旅を通して、最高に愉しいことも、死ぬ程辛いことも共有して来ました。もう掛け替えなんか利きません。私と蓮はこうして、本統の無二の大親友になったのです。
私の能力はテレパシーで、蓮の能力はテレポートです。全く違う能力ですが、二人が合わされば最強です。如何な困難も乗り越えて行けると思います。
私は絶対に、この大切な親友を、生涯大切にしていくでしょう。
矢っ張り私は、何時も、何時迄も、蓮が大好きなんです。
(終わり)
二〇二三年(令和五年)、十一月、十二日、日曜日、先勝。
改稿、二〇二四年(令和六年)、五月、六日、月曜日、赤口。