曇 天
里蔵 光
曇天とは、斯くも眩しきものであったか。
徹夜明けなのだ。徹夜で何をしていたというわけでもない。仕事が溜まっていたわけでもないし、読書などと云う殊勝なことをしていたのでもない。ただ、睡れなかった。
嗤い声が未だに耳に残っている。
全天を覆い尽くした雲の発する鈍い光に、なんだか気怠さを感じて、佳奈子は視線を下ろした。やゝ冷気を孕んだ風を遮るべく、窓を閉め、厚手のカーテンを閉じて、室内灯を点ける。人工的な灯火の方が余程安心する。――特にこんな日は。
耳の奥で、夕べの笑い声がわんわんと鳴り響いている。
疲れているのだ。非道く眠い。ベッドに身を横たえ、目蓋を閉じる。然し、睡れない。
視界を遮った途端、耳の奥の笑い声が溢れ出し、ゴウゴウとなり響く。嘲笑。苦笑。哄笑。失笑。あゝ、もう、好い加減にしてよ! ――目を開けて猶、其れは耳朶の辺りに取りつき、鼓膜を刺戟し、聴覚野でブンブン暴れ回っている。身を起こして、テレビをつけた。少し落ち着いた。
――やっぱり、最初から間違っていたんだろうな。
恋なんかじゃなかったんだろう。――冷静に振り返ってみると、何とも云えぬ違和感がある。友情以上のものではあった。其れは確かだ。然し、恋愛かと自問してみれば、其れも違う。友情でも、恋情でもないもの。なんだか判らない。
昨日は終日、祐二と共にいた。古い付き合いである。然し、恋人などではない。友情以上の感情があることは昔から気付いていたが、其れは「親友の情」であると判じていた。恋愛などとは一切考えなかった――少なくとも一个月前までは。
祐二も、同様に感じていた筈である。彼の口から直接に聞いたことがある。只の友達以上だが、恋愛ではない。「友愛」なのだと。佳奈子も其れに異論はなかった。――然し、一ト月前、ふっと心を何かがよぎったのだ。何がきっかけだったか、判然としないが。兎に角一ト月前、佳奈子は「友情」でも「友愛」でも説明のつかない何かを、心に宿した。いや、宿っていることに其の時気付いたのか。そして其の時、佳奈子は、此れは恋愛なのではないかと、そう思ったのだ。
恋は思い込みである。恋愛だと思えば、其れは恋愛になる。――其れはそうなのだろう。だから、其れを友愛ではなく恋愛なのだと信じていた一个月間、佳奈子は確かに、祐二に恋をしていたと云うことになる。
――其れなら、この違和感は何?
違和感には夕べ気付いた。無謀にも、祐二に恋心を告白し、散々笑われて、初めて気付いた。――なにか違う。恋ならば今まで幾度も経験してきた。だから、恋を知らぬと云うわけではない。恋を知っているのだから、此の違和感は正当なものだろう。
――だから、恋なんかじゃないんだよ。
違和感を抱きながらも、夕べはずっと、恋だと信じきっていた。
「好きなの」
「そっか」
あっけない返事。良く云えばクールなのかもしれないけど、どこかズレてる。単に無関心なだけなのかも知れない……非道い……
「あのね……友達とか、そう云うのじゃないんだ……多分……」
そこで言葉を切り、瞳を逸らす。
「恋だとでも?」
祐二の目は笑っている。小さく頷く。顔の温度が上がるのが判る。
「ははは」
いよいよ笑い出した。
思いっ切り不本意な表情をして、彼を見挙げた。
「ばぁか、気の迷いだよ」
斬って捨てられた。なんだか悲しい。悲しすぎる。
「違うよ!」潤んだ瞳で祐二を急度見据える。祐二は笑っている。目を逸らし、俯いて、か細い声で、「……マジだもん」
「じゃあマジなんだろう」そして笑う。
好い加減にして欲しい。男ってのは本当に、どうしてこうも好い加減なんだろう。どうして解らないんだろう。どいつもこいつも……祐二も所詮、バカな男の一人なのか。――やゝ幻滅して、少し冷めた視線を送る。意外にも、彼の目は笑っていなかった。――あゝやっぱり、この人は違うんだ。
「どうかしてるぜ」
やっぱり否定してくる。何で? どうして? あたしの気持ちは本統なのに。
それ以上、何も云えなかった。目に涙を溜めて抗議の意思表示をするのが、精一杯だった。雫がぽたと落ちる。祐二の部屋の絨毯に、まあるい小さなシミが一つ、二つ……
くたびれた絨毯は、直ぐに水分を吸収してしまう。じわりと滲む。人指し指で押してみる。指先に水滴が微かに戻る。絨毯の他の部分で拭う。別のシミを押してみる。別の所で拭う。些っとも楽しくないのに、ずっとそんなことを繰り返している。
「おまえのことは誰よりも大事に思ってるよ……だけど、其れは恋愛じゃない。
だからどうした。関係ないじゃない。あたしの気持ちに、祐二の彼女は関係ないじゃない! ――自己中だ――構うもんか、恋は自己中だ。
あゝ、また笑ってる。厭な笑い方。
「忘れたいだけだろ?」
「え?」
なに? 何それ。どう云うこと? 忘れたい……違う、そうじゃない。――あ――なに? 変。なんか変だ。変な感じ……違うよ、純粋に好きなんだよ……変なもんか! 恋なの。これは、確かに恋なんだから!
その時、なんだか、「恋」と云う単語が、随分軽く響いていた。今でもそうだ。月並みな言葉のような気がしてくる。別に冷めているわけではない。つい半年前まで、佳奈子は立派に「恋」をしてきたのだから。
半年前の恋は、自ら幕を引いた。飽きたから、冷めたから、如何でも好くなったから、友人達にはそんな風に云ってきたが、本当は、相手が離れて行くのを敏感に感じとったからに他ならない。――今でも其の時の恋人を好いている。但し、其のことは誰にも打ち明けていない。一人胸の奥に仕舞っている。――なのに――
――祐二は……
知っていたかのような、
「加藤への想いは、もう吹っ切れたのか?」
笑いながら。
――なんで?
云われたくなかった。知っている筈がなかった。祐二にさえ云っていないこと。己の胸の内にずっと秘めていたこと。其れをさりげなく指摘され、佳奈子はうろたえた。
「おまえが好きなのは加藤康司なんだろ?」
「違う……」
強い否定が出来ない。――うそだ。違うよ。あんな奴……もう忘れたんだから。だって、半年も前なんだよ。そりゃ、さよならした直後は引きずってた。だけどさ、今はもう……だって、顔さえ、思い出せない。
康司。
懐かしい響きだ……あゝ! ダメだ! 違うよ! そうじゃない、康司は関係ない。あたしが好きなのは……
逃げた。
祐二の部屋から逃げ出した。祐二が背後でなんか云ってた。笑い声にしか聞こえなかった。
走った。走った。走った。月が追っ掛けてくる。祐二の顔に見えた。康司の顔にも見えた。それから逃げた。必死で逃げた。
康司。祐二。もう――どうでも好い。どっちも好きじゃない。いや、どっちも好きなの! だめ、云わないで欲しかった。あなたの口から、彼の名前なんか……聞きたくなかったよ。非道いよ!
あゝもう、なんだか、頭の中がくしゃくしゃする。何がなんだかわかんないよ。なんであたし走ってるの? どこに行くの? もう、どうにも気持ちがまとまらないよ! 叫びたいよ! 大声で叫びたいよ!
叫ぼう――
「なんで判るのよ!」
判るんだよね。いつもいつも、不思議なぐらいに。あの人は、友達以上の人なんだ。そして、ここまで自分にシンクロできる人は……
――やはり恋人にはなり得ないんだ。
佳奈子はベッドに突っ伏していた顔を、ゆっくりと擡げた。なんだか、見えた気がした。同調しすぎなのだ。丸で自分自身の様に。佳奈子だって時々、祐二のことがよく見える。丸で自分自身の様に。自分自身と恋愛関係を結ぶことは出来ない。――否。
――お兄ちゃん。
佳奈子には兄がいた。其の兄は、佳奈子が十六の時に、肺病で他界した。お兄ちゃん子として育った佳奈子には、迚も辛い出来事だった。誰よりも、親族の誰よりも、兄を愛していた。常に兄を見挙げて、そうして安堵していた。兄とは誰よりも心が通じ合っていた。其の、兄を失い――
――ずっと、求めていたんだ。
兄に代わる人を。其れが、
――それが、祐二だったんだ!
一个月前は、兄の何度目かの命日だったのだ。命日には、昔は、家族とともに墓参りをした。いつからか、命日には康司と一緒に過ごすようになった。然し今年に限っては、祐二と過ごした。祐二の部屋で、なんとなく、涙が出た。涙の向こうの祐二の顔は、遠い記憶の中の兄に、酷似していたような……それがきっかけだったのか。
祐二に錯覚の恋心を抱き、告白し、笑われ、失望し、違和感、後悔、そうして、今、やっと辿り着いた。
「お兄ちゃん!」
――こじつけかしら? ――ううん、きっと、真理。
空はどんよりと曇っている。其の際限なく続く雲の下、佳奈子は駆けてゆく。秋の風には、心なしか、冬の香が混じっている。冷たい吸気に、気管が、肺臓が、委縮している。呼吸が辛い。辛いけれども、駆けていなければ気が済まぬ。
「お兄ちゃん!」
声が掠れている。掠れながらも、叫び続ける。呼び続ける。祐二を。兄を。
「おにいちゃん!」
曇天とは、斯様に眩しいものであったろうか……
(おわり)
一九九八年(平成十年)、十月、十九日、月曜日。