夢のまた夢
里蔵光
レジスタンス(売れないバンド)
ドラムがビートを刻み、切っ掛けでベースが入る。四小節遅れてギターがリフを飛ばすと、次第にハーモニーが沸き上がり、頂点からのボーカルシャウト。
「はにいぃぃぃぃぃぃいいい!」
クラッシュシンバルが激しく叩かれて……
「やめやめやめ! ストップ!」
全員演奏を止めて、声の主を見る。
「やっぱあかんわ、ハニーって、ダサ過ぎひん」
「せやな、わいも思ったわ」
「いやいや、なんやねんな今更。これで行こうって合わせたところやん」
「やってみたら、アカンてなったわ」
「なら、どないすんねん」
三人はお互いの楽器を抱えた儘、侃々諤々主張し合う。大阪市内の貸しスタジオである。ドラムの「サタン町上」は真っ白に塗られた顔で、目の周りを黒く縁取り、その儘鼻筋迄黒い線を伸ばしている。黒い線に沿わせて赤や橙の線がアクセントとして曳かれ、頬は灰色に塗られている。悪魔を表現したメイクらしい。その悪魔が、ドラムスティックをぷりぷり振りながらギターに噛み付く。
「大体やなぁ、お前の書いたリリックは基本的にくっさいねん!」
ボーカルギターの「赤鬼プランクトン」は、真っ青なチリチリパーマの鬘を被り、紅いTシャツに寅縞のハーフパンツ、赤いタイツにサンダル履き。鬼の角をあしらったカチューシャを付けている。その赤鬼が真っ赤に塗られた顔を殊更に歪めて、寅縞に塗られたギターピックをサタンに向けて突き出しながら云い返す。
「お前ずっとそんなこと思っとったんかい! ゆうてお前、一個も歌詞も曲も書かれへんやんけ。俺らの作った譜の通りに叩くだけの癖に、大きなこと吐かしなや!」
ベースの「クラウン吉川」は白い顔の左目の周りに黄色の星模様をあしらい、唇は真っ赤、黄緑の短髪を逆立てゝ、タンクトップにボンテージパンツ、腰回りには安物のチェーンを巻き付けて、鼻には真っ赤に塗ったピンポン玉を乗せている。矢鱈と顎が長い。そんな好い加減なピエロが若干おろおろしながら二人の間に割って入り、双方を宥めようとする。
「お前らお互い、落ち着けって。サタンのドラムが無けりゃわしらの楽曲成り立たへんやん。そんな作詞作曲で揉めんなや」
「揉めんなって、演奏止めたのお前やろがい! 俺の歌詞気に喰わんてか!」
「たな……やなくて、クラウンが止めんかってもわいが止めてたわ!」
「いやいや」赤鬼は怒りを含んだ笑いを漏らし「お前大分気持ち良さそーにクラッシュ叩いとったで、止める流れなんか無かったやん」
「アホ、クラッシュまではヤるねんて、あそこがキモチえゝねんから」
「やから揉めんなって!」
「それ以前に止めんなや!」
その後も三人は不毛な云い争いを続けるが、結局この日は最初のシャウト文句を変えると云うことで決着が付いた。冒頭以外の部分を適当に合わせた後、レンタルの時間一杯で三人はスタジオを出る。
「くそぅ、シャウトが決まらんと、どうも演った気にならんなぁ」
「まあ今日はしゃあない。代わりの文句、次までに考えとけよ。わしもいくつか考えとくわ」
「わいも候補出してえゝか」
サタンの言葉に二人が振り向く。
「えゝけど採用するとはゆうてへんで」
「何で端から不採用の前提やねん!」
「ま、万が一ってこともあるから、一応出してや」
途上にある公園のトイレで、三人はメイクを落とす。
「ちょぉ、一杯付き合えや」
最初に素顔に戻ったクラウンが、二人を誘う。
「えゝけど金無いで」
「いつもンとこや、足りるやろ。無いなら胡瓜齧っとけ」
「今日日胡瓜もバカにならんで」
三人がバンドを結成してから、そろそろ三年が経過しようとしている。その間デモテープを持って彼方此方の芸能事務所を訪問して回っているが、一向に良い反応が返って来ない。それでもめげずに明るく遣って来たものである。
バンド名は「大阪レジスタンス」と云う。何が如何反逆者なのか、三人のメイクやステージ名と共に丸でコンセプトがバラバラで、反りが合っていないのだが、ここ迄バラバラだと逆にそれが特徴の様になって仕舞って、妙な固定ファンが数人付いていたりする。只そのファン達にしても、この三人が大成するなどとは微塵も思っていない様なのである。
三人がいつもの安い居酒屋で飲んでいると、黄色い声が飛んで来た。
「赤鬼さん? 赤鬼さんですよね? キャーやっぱり、素顔素敵!」
「赤鬼さん、大ファンですー! きゃぁあ!」
なんとなく微妙なファッションセンスの若い娘が二人、赤鬼に纏わり付く。同じく微妙なファッションの、上下真っ赤な赤鬼プランクトンは、すっかり鼻の下を伸ばしている。
「おうおう、君ら、この後三人でどっか行こか?」
「いやぁ、この後は……ねぇ?」
「すんませーん、チョット野暮用がぁ」
余りにテンポ良く振られたので、サタンとクラウンは思わず吹き出した。
「えゝて、えゝて、他のバンドのライブかなんかやろ? 行ってきぃや!」
サタンが鷹揚にそう云うと、娘達は微妙な表情になって、
「なんかすんませーん」「また今度ー」
と云いながらそそくさと会計を済ませて、店を出て行った。
「なんやねん、もぉおおおお!」
プランクトンが荒れる。その様子を横目に、どて焼きを食みながらサタンが毒突く。
「あほ、お前みたいなんがファンの娘食える訳なかろぅが。自覚せいよ」
「つか、食おうとすんなや。デビューもしてへんのにスキャンダルばっかり一流とか、勘弁やで」
「こいつ中途半端に顔だけえゝからな。勘違いさせて仕舞った周りの女も悪いわ」
「ゆうて付き合ぅたら最速三日で別れるけどな」
「最速記録は半日じゃい!」
赤鬼の自虐暴露発言に、二人は大笑いした。赤鬼もぎこちなく笑う。
「別に食おうとかしとらんて。楽しくお酒飲めたらえゝやんけ」
「わしらのこと排除しようとしよった癖に、何ゆうてんねん、あほ」
「下心見え見えやから逃げられんねん。ま、その方が事故にならんくてえゝけどな」
「あのタイミングで『三人で』とか、よぉゆうたわ、なぁ?」
サタンの言葉にクラウンはゲラゲラ笑い過ぎて、出て来た涙を手の甲で拭っている。
「あ、あほすぎや、ひいぃ!」
「田中笑いすぎや!」
「田中ゆうな、クラウン吉川じゃ! こんの、鈴木二郎が!」
「その名前を云いなぁ! イチローになり損ねた男なんじゃあ!」
二人の不毛な云い争いが、サタンは自分に飛び火して来るのではないかとびくびくしながら、「お、お前ら、名前ネタはその辺に……」
「黙れ! 中一! 永遠の中学一年生が!」
「最小画数ノミネート男が!」
「サタン町上じゃあぁ!」
「話変わるけど、サタン町上が、ドラムの大御所『ポンタ村上』を捩ったものだってのは、まあ良しとしよう。プランクトンてなんやねん」
「きまっとろぉが! エリック・
「お前怒られるで。それを云うならエリック・
「あ? 俺今何つった?」
「酔っ払ってんのか? しっかりせぇや!」
「そぉゆぅお前の『吉川』はどっから来とんねん」
「ゆうてなかったか? ベーシスト吉田建じゃ」
「無理過ぎやろぉ、『吉』しかないやんけ! 吉川晃司か思ってたわ」
「『田』と来たら『川』やろが」
「ちょぉっと、何ゆうとんのか判らんわ」
「大体何で『きっかわ』やねん。『よしかわ』やっちゅうに。彼、ベーシストでもないし」
その後も話題は脈絡なく移ってゆき、三人とも最終的には好い気持になって店から出て来た。三人肩を組んで、自分達の楽曲を口遊んでいるが、何故か歌詞はバラバラである。然し誰もその事は気にしていない様で、てんでんばらばらの雑音を撒き散らしながら、ギターとベースを担いだ若者達は夜の繁華街をふらふらと彷徨っている。
「よっしゃあ、そんじゃあ二郎のとこで呑み直しじゃあ!」
「また家来んのかよ、いい加減大家さんに怒られるわ」
「静かーにするから、なぁ? えゝやんけ」
「おぉ、静かーにするならえゝぞ」
「静かーにベース弾いとくわ!」
「あかーん! 重低音は性悪い!」
「わはははは」
三人は途中コンビニに寄って酒とツマミを適当に買い込むと、襤褸文化住宅一階の角部屋へと吸い込まれて行った。
インシデント(危険な香り)
サマーライブの盛り上がりはいつも通りだった。いつも通り、微妙だった。客席に来ている大半の客は、前座の自分達ではなく、メインのアーティスト達のファンである。それでも十人程の客が、大阪レジスタンスの自作応援グッズを手に、前方迄進み出て来て一頻り盛り上げてはくれた。周りの客達は明白に嫌な顔こそしなかったものの、それでも若干迷惑そうにしつゝ、なんとなく調子を合わせてくれていた。
「オーケー! この盛り上がりを本番でも頼むぜー!」
赤鬼プランクトンのシャウトに、クラウン吉川が被せる様に叫ぶ。
「本番では今以上になぁ!」
最後にサタン町上がドラムロールしながら、
「身も蓋もないこと云いないな!」
と、ここ迄いつも通りの演出である。ファン達がぎゃははと盛り上がる一方で、他の客は一歩退き気味になっている。
大阪レジスタンスの退場と共に、前に集まっていたファン達も後ろへ下がる。これもいつも通りのお約束である。バンドの立場が弱ければ、勢いファンの立場も弱いのである。
前座が終われば自分達に出番はない。ライブが終わる迄居ても好いことにはなっているが、大抵邪魔にされるし、他のバンド達に対して余り興味が無いので残っていたところで暇でしかないし、
「今回もご苦労さん。お前らの曲も、少しずつ良くなってきてるで。最初の『マイハニー』のシャウトは、ちょっと如何かと思ったけどな」
そしてニコニコ笑いながら、「また次も頼むで」と云って楽屋を去った。
クラウンがポチ袋の中身を確認しながら、「ほらみぃ、『マイ』付けたぐらいじゃ変わらんし、むしろ悪化してるって」
「ゆうて全然えゝ案出て来んかったやんけ」赤鬼がむくれる。
「なんでもえゝ。わいこの後バイトやから、帰らしてもらうで」
サタンは自前のドラムセットの梱包を終えて、一番大きなバスドラを抱えると、楽屋から出て行った。残った二人もそれぞれ持てるだけのドラムを両手に抱えると、サタンの後を着いていく。駐車場にはサタンのマイカーである古びたライトバンが停まっていて、三人掛かりでドラムセットの積み込みをする。楽屋と駐車場を三往復程して全て積み終えると、「ほなまた」とサタンは独り帰って行った。
サタンを見送った赤鬼とクラウンが楽屋へ戻ると、見知らぬ女がぽつんと立っていた。
「誰?」赤鬼が怪訝そうに訊く。
「オープニングアクト拝見しました! 素晴らしいバンドですね! あ、私、こういうものです」
そうして差し出した名刺には、音楽プロデューサー、花井みずほ、とある。香水の匂いがツンと鼻を突いた。
「ぷっ……ぷろでゅーさー
「そんなごっつい方が、何用ですか?」クラウンは女から赤鬼を庇う様に立ち位置を移動すると、不信感を孕んだ瞳で女を見る。
「ごっつくないですよー、そんな大きな事務所ではないので」女はニコニコしながら二人に歩み寄る。クラウンは無意識に後退った。
「えっ、まままさか、俺ら、デビューすんの?」
「落ち着け赤鬼。いきなりそんな訳あるか」
「いきなりデビューでは無いんですが……とても興味があるんです。小さな事務所ですが、バックアップさせてもらえませんか?」
如何も変だ。この女からは、何か変な感じを受ける。それが何なのか判らない儘、クラウンは本能的に自己防衛の構えをする。女が近寄ると香水の匂いが増す。それに伴い、心做しか赤鬼の目がとろんとして来る。自分もなんだか意識に霧が掛かった様な気分になる。
「それでですね、何分事務所が小さいので資金力に乏しくて。ほんの少額で結構なので一旦預け金という形で――」
「赤鬼、ヤバイ、逃げるぞ」クラウンは女を見据えた儘、赤鬼だけに聞こえる声で囁いた。
「へっ?」
ぽかんとする赤鬼の首根っこをひっ掴み、もう一方の手でベースとギターのソフトケースを鷲掴みにすると、クラウンは一気に走って楽屋を出た。
二人で好いだけ走り、駅前のうどん屋に駆け込むと、食券も買わずに先ずテーブル席に着き、水を一杯飲んだ。
「食券をお買い求めくださーい」
カウンターの中から店員が声を掛けて来る。
「あ、はい……ちょっと待って……」
ぜえぜえと肩で息をしながら、ギターとベースを置くと、二人交代で食券を買いに席を立った。
「おいクラウン、これは何事や」
漸く息を整えて、赤鬼が低い声で問い質す。
「判らん、解らんけどな、ヤバかってん」
「何が。あれ、詐欺かなんかか?」
「判らんけどヤバい香水やった。意識持ってかれそうやった」
「ああ……」赤鬼は少し考えるようにしてから「云われてみればちょっと記憶が曖昧やねんけど、なんかえらい気持ちよぉなってな、俺、デビュー出来そうな気ンなってたわ。今思い返すと、なんでそんな気持ちになったんか訳解らん。前座やのにな」
「やっぱりか……」
「お前はならんかった?」
「気持ちよくはならんかった。意識が遠くなりそうではあったけど」
それ以前に、赤鬼が敵の術に堕ちて行く様が判然と視えた。「視えた」という表現が妥当か如何か判らないのだが、他に云い様がない。そしてその原因が香水だと、なぜ自分は確信したのか、それもよく判らない。
「そうや、なんか金出せゆうてたな、あの女」
「そやった?」
「そやで。何で事務所入るのにこっちから金出すねん。奇怪しないか?」
「そうやなぁ……やっぱ詐欺なん?」
「判らんけどな、可成怪しいんちゃう?」
「他のバンド大丈夫かな……」
赤鬼の言葉に、クラウンが顔を上げた。同時にうどんが来た。
「そうや、夢中で楽器だけは持って出たけど、着替えとか他の荷物、楽屋に置いた儘や」
「戻るか?」
「まあ、もうあの女もおらんかも知れんけどな」
「取り敢えず食ったら俺は戻るよ。鬼の鬘とカチューシャ無くしたら困る、アレ手作りやから」
「わしも戻るわ。メイク道具リュックの中やもん」
戻ってみると、荷物は楽屋を飛び出した時の状態の儘だった。他にも楽屋の中が荒らされたような形跡は一切なかった。自分達の荷物を纏め、忘れ物の無いことを確認して楽屋から出た所で、ブルーエンペラーズのメンバーとばったり出喰わした。
「なんやお前ら未だおったんか」
「忘れ物しまして、取りに戻ってたんです」
「ほぅか」
クラウンは当り障りのない受け答えをしたが、赤鬼は鳥渡グズグズして何か云いたそうにした。
「何や赤っち、なんかあるん?」
「あの、リーさん……なんか変な女見ませんでした?」
「変な女ぁ? そんなん客席にようさんおるわい」
「いやっ、そういうファンとかやなしに」
「わしらのファンの他に変な女がおるんかい」
そう云ってリーはケタケタ笑った。そう云うこと云って好いのだろうか。そのファンに支えて貰っているのではないのか。このキーボードのリーと云うのは、ポーズなのか地なのか判らないが如何もこうしたシニカルなことを云っては、ファンの心を掴んで行くスタイルなので、どこ迄本心で云っているのかは知れたものではない。でも此処は楽屋で、ファンの耳に入る訳でもないのだから、矢張り素で云っているのか。それともスイッチの切り替えが出来ていないだけなのか。
「なんか音楽プロデューサーとか云う怪しい女が、先刻俺らの楽屋に居ってんですわ」
「なんや?」
そこで赤鬼は、先程貰った名刺をポケットから出して見せた。それをよく見ようと鼻先を近づけたリーの顔色が、サッと変わった。
「お前らコイツに遭うたんか」
「はい。名刺貰いました」
「何の話した」
「あなた達のバンドに興味あるんですー、バックアップするから事務所にお金入れてくださいー、的な」
「で!」
「逃げました。否正確には、クラウンに首根っこ掴まれて無理矢理逃げさせられました」
リーがクラウンを見る。
「冷静やってんな」
「あ、えゝ、まぁ」
クラウンはしどろもどろに答える。
その時ブルーエンペラーズの他のメンバー達がぞろぞろと遣って来た。
「おおい、リー、そろそろ出るぞ」
「おう、すぐ行く!」リーは即座にそう応えると、赤鬼とクラウンを交互に見てから、「すまんな、これから出番や。その話、またどっかで聞かせてもらえるやろか」
「今夜でもよいです、連絡ください!」
「そうか、すまんな。番号くれや」
赤鬼がリーに携帯電話の番号をメモして渡した。
「ステージ頑張ってください!」
リーは振り向きもせず、片手だけ挙げてそれに応えながら、ステージへと向かって行った。
「じゃ、この後お前んちやな」
「また家来るんかよ」
「リーさんの連絡一緒に待つわ」
そして二人は赤鬼の文化住宅へと向かった。
ディスカッション(何が起きているのか)
二人は赤鬼の部屋で、座卓の上に置かれた赤鬼のスマートフォンに向かって正座をした儘、凝と無言で固まっていた。つい今しがたリーから電話があり、此処へ向かって来ると云われたのだ。而もブルーエンペラーズのリーダーも連れて来ると云う。直ぐに部屋の片づけでもす可きなのであるが、緊張の方が勝って仕舞って二人共身動き出来ずに固まって仕舞っているのだ。
「……な、なぁ?」
固まった儘クラウンが声を絞り出す。
「ナンやねん……イッ、今……考えとルねん」
赤鬼が裏返った声で答える。
「部屋……きたない……」
赤鬼がカッと目を見開く。
「おっ、おまおままえ、なんでハヨ云わんねん! こんなとこ呼べるかっ
云い終わらぬ内に赤鬼はぴょんと立ち上がり、勢い余って足を滑らせて、壁にしこたま後頭部を打ち付けた。
「いっ!」
「おいおいおい、
「滋賀弁判らんー」
「せやから、大事無いかと」
「イッタいわい……」
そんな最悪のタイミングで、呼び鈴が鳴った。部屋の片付けは諦めて、二人でドタバタと玄関迄迎えに出る。
「はいっ! ハイハイはいー!」
「リーや」
「今、イマ開けます!」
玄関を開けると、リーと、リーダーのジンが立っていた。リーは咥えていた煙草を携帯灰皿で揉み消すと、ズボンのポケットへ仕舞った。
「汚い所ですが!」
リーはひょいと部屋の中を窺い、「なんや、うちより綺麗や」と云って靴を脱いだ。
「俺らリーとタローの部屋見てるからな、大体どんな部屋も綺麗や」
タローは、ブルーエンペラーズのベースだ。
「いやいや、わしとタロー一緒にせんといてぇな」
「どっこいどっこいや」
リーとジンが気さくに話しながら上がって来るので、二人の緊張も若干解れた。
「てっ、適当に座ってください、お、おちゃ、お茶出しますので」
「あー、お構いなく。つか酒持って来たわ」
リーがコンビニ袋を高々と掲げた。
「好きなもん取り。余りは冷蔵庫入れさして」
「いただきます!」
赤鬼が発泡酒、クラウンが酎ハイの缶を取り、リーはワンカップを手にした。ジンは自分の荷物からジョニーウォーカー黒ラベルの二百竓ボトルを取り出して、「コップと氷ある?」と赤鬼に訊いた。
「なんやジン、またそれか。名前スコッチに改名せいよ」
リーがジンを揶揄うように云う。赤鬼達にとっては畏れ多いことである。
赤鬼が余った酒を冷蔵庫に仕舞いがてら、コップに氷を入れてジンに手渡した。
「サンキュー! 俺はこれやないとアカンねん」
「気取り屋さんやねん」
「まあえゝやん」
二人には口など差し挟めないので、酒の栓も開けずに卓の上に乗せた儘、気を付けの姿勢で凝と待っている。
「二人困ってるやん。取り敢えず座ろか」
ジンの言葉でリーとジンが着座し、漸く赤鬼達も座ることが出来た。
「なあ、もっ回あの名刺見せてや」
リーが赤鬼に云うと、赤鬼は即座に尻のポケットから名刺を取り出した。心做し汗で湿気ってしんなりしている。その湿気た名刺をリーは鼻先迄持って行って、クンクンと嗅いだ。
「うゝん、やっぱりそうやな。なんやら赤鬼のケツの匂いも付いてるような気ぃするが、例の匂いも確り染み付いた儘や」
リーが名刺をジンに渡すと、ジンも臭いを確認し、「間違いない。アイツや」と首肯いた。
「まずはお前ら、よぉやった」
「あっ、有難うございます!」
「この――なんや、花井? とかゆう女な、毎度名前も会社名も変えてあちこちのライブハウス荒らしてんねん。――そやなぁ、最初に見たんは、三年ばかり前ンなるか?」
「俺らが卒業した年やから、そうやな」
「そうそう、最初はタローが引っ掛かりよってん」
「えゝっ、金取られたんですか
「取られる金が無ぉて、道踏み外す前にうちらが気付いて何とかなったわ」
リーがわははと笑った。笑い事ではない気がするが、彼らにとっては既に過去の笑い話なのだろう。
「タローは頭弱いからな、金無かったらどうすれば好いか全く思いつかず、ジンに泣き付いたんや。アホを嵌めたのがあの女の敗因やな。後から聞いたら、女に街金やら闇金やら連れて行かれ掛けてたみたいやねんけど、あいつアホやからなんか勘違いして、無理矢理ホテル連れ込もうとして女にボコられよって逃げられて、そんで有耶無耶ンなってたらしいねん」
「はぁ……え、ええー……」
「引くやろ?」
そしてリーは、またケタケタと笑った。
「この匂いな」ジンが名刺をひらひらさせながら話を継ぐ。「あいつの常套手段やねん。何の匂いか判るか?」
赤鬼が首を横に振る。クラウンは、「それ……なんかヤバい奴です」と云う。
「クラっちお前、勘がえゝな。これな、麻薬の一種やねんて。匂いで幻惑させる奴らしいわ」
「マジすか」
「なんや、気違いカボチャだか」
「なすびな」
「そや、リーありがと、気違いなすびとかゆうヤツを、如何斯うして、香水仕立てにしたもんなんやて。この匂いで譫妄状態にすると、暗示に掛け易ぅなるらしいねん」
「せんもう……?」
「あー……どう云うたらえゝのかな」
「なんかぽわーんと、せんかったか?」リーが説明を引き継ぐ。
「なりました、なりました。気持ちよぉなりました」
「そんで、考える力とか意欲とかなくならへんかったか?」
「うーん、そう云われゝばそうかも知れんです」
「わしは唯々不快やったんと、鳥渡意識が飛び掛けてました。とにかく『ヤバイ』と感じました」
「ほうか、クラっちはなんか耐性でもあんのかな。大抵あの匂いで遣られて云い成りになるねんけどな。とにかく赤っちがなったんが、譫妄状態や、恐らくな」
「恐らくっすか」
「そらそや、わしはその場に居らんかったし、居ったところでワシは赤っちではないねんから、恐らく、でしかないわ」
「でも屹度、そうや思います」クラウンはその時のことを思い出しながら云い添えた。
「クラっちが云うなら、そうなんかな」
リーは信用してくれている様だが、クラウンは稍戸惑っていた。何を根拠に今自分は断言したのか、己の判断がよく理解出来ない。然しその結論自体に疑問はない。何しろ「視た」のだから。――未だにこの「視た」と云う感覚が、自分の中で決着していない。
「ほんでこっから本題やねん。お前らは逃げて助かった訳やけどな、調べたところ助からんかったヤツが何人かおるねん」
「えっ、あの女、他の楽屋にも行ったですか?」
「そら行くやろな。お前ら嵌めそこなっただけで大人しく帰るかいや」
「そんで、そいつらは」
「既に手持ちからなんぼか出してもうた奴もおるねんけどな、まあ殆どは今のところ被害なしや。出した奴も数千とか、精々諭吉さん一人程度や」
諭吉さん一人、即ち一万円か。
「んで今、テツんところで足止めしてんねん」
「タローの所は無理やもんな」そう云ってジンとリーは笑った。
「足止めって、ほっといたら金策に走ってまうんですか?」クラウンが心配そうに尋ねると、リーは大きく頷いた。
「なんやもぉ、目の色が違うっちゅうの? 自分はデビューすんねん、金渡さなかんねんって、そればっかりゆうてゝな。ほっとかれへんやん」
「非道い……」
「お前ら同じ体験者としてな、何とか説得でけへんかな思て」
「いやぁ、それは如何なんでしょ……俺ら結局術に堕ちんかった訳ですし、話通じるかな……」
赤鬼がグズグズ云っている途中で、クラウンは立ち上がった。
「行きましょ。話してみます」
相変らずクラウンは自分の自信の出所が判らない。判らないが、放っても置けず、また何とか出来そうな気もしている。考えても詮方ないので、兎に角行動しようと思っていた。
「来てくれるか。ありがとうな。ほな」
リーとジンも立ち上がった。赤鬼も成り行き上、立ち上がるしかなかった。
「あ、酒」
「飲んでまえ!」
クラウンと赤鬼は、缶に残った酒を一気に呷った。
アウェイクニング(自覚のない救済)
鉄道を乗り継いでテツの自宅へと向かう。大阪市内から出て東大阪市へ入ると、近畿大学の近くで電車を降りた。テツはブルーエンペラーズのドラムを担当しているメンバーで、親の稼ぎが良いのかそこそこの住居に一人で住んで居た。
「ボンボンやろ? 普通こんな家独りで住まんわい」
リーが評する通り、其処は一家族が不自由なく住めそうな普通の一戸建てで、築年数こそ経っているものの手入れは確り行き届いていて、迚もインディーズのバンドマンが独りで住んで居るとは思えない。
「まあ、厳密には独りではない様やけどな」
ジンが軽く訂正すると、リーが物凄い勢いで振り向いた。
「あれ、リー知らんかった? アイツ内縁おるやんか」
「はぁ? マジか、聞いてへん!」
「そうか、ゆうてへんかったかなぁ……」
如何やら女と二人住まいの様だ。内縁と云われる位なのだから、それなりに長いのだろう。
「ま、外からテツの家眺めてたってしゃあないから、取り敢えず上がらせてもらおか」
ジンが呼び鈴を押すと、中から「はーい」と女性の声がした。
「うわうわ、ほんまに居った。怖い怖い」
リーがお道化た口調で、怯えた振りをしている。
玄関のドアが開くと、スッピンだが身綺麗にした大人しそうな女性が顔を出した。
「ジンさんと、リーさんどすな。ええと、そちらはんは……」
「赤鬼です!」
「クラウンです!」
「あら、ハイカラなお名前。どうぞ、お入りやす」
彼女は上品にそう云うと、四人を家に上げた。
ハイカラな名前だなんて、クラウンは初めて云われた。ハイカラなんやろか。ハイカラってなんやっけ。赤鬼もハイカラやろか。自分だけが云われた?
クラウンは愚にも付かないことをぐるぐる考えながら、案内される儘リビングへと通った。其処には五人のバンドマンが、ステージ衣装を解きもせず床に乱雑に座っていた。一見して目付きが奇怪しかった。
「やっと来たか。遅いわ」
振り返ると、五人と対峙するようにしてテツがソファに構えていた。
「テツさんや」
「おう――え、何が?」
赤鬼が見たまんま言葉にするので、テツは少し戸惑いを見せた。
「あ、いや、すんません。ちょっと感動して……」
赤鬼の気持ちも判らないでもない。ブルーエンペラーズの中でも、テツは最もメジャーデビューに近いと噂されている。謂わば下っ端バンドマンから見れば神様の様な存在なのだ。ライブ会場で何度も見掛けているのに今更感動もないもんだとも思うが、素のテツを彼自身の自宅で見ると云うのは矢張り、多少の特別感がある気もする。
「まあなんか解らんけど、取り敢えず座りや」
テツに促されて、銘々に空いている所へ座った。被害に遭った五人を取り囲むように、ジン、赤鬼、クラウンが適当な間隔を空けてソファに座り、リーは独り、何故か食卓の椅子に座って、二本目のワンカップを飲み始めた。
「さて、二人は此奴等知ってるか?」
赤鬼とクラウンは、改めて床の五人を見る。
「ジャンピングフォックスの二人と、なにわ死泥戻ろの三人ですやろか」
赤鬼はそう云うが、クラウンには誰が誰やらさっぱり判らない。基本的に他のバンドに興味が無いのだ。
「赤っち正解」食卓からリーの声が飛んで来た。「云い分聞いてみて」
云い分と云う程の理性が彼らにある様には見えなかったが、リーの一言で五人は一斉に話し出した。
「プロデビューするんです! 邪魔しんといて!」
「金が、金が要るんやて!」
「俺らにもようやく陽の目が!」
「解ってくれる人はちゃんといてたんや!」
「みずほさん好き!」
なんか一人変なこと云ってるが、状態的には皆同様に、催眠状態と云うか、洗脳状態と云うか。
「事務所に金入れなアカンので、解放してください!」
「もうすぐ俺らもプロやねん! あんたらより先行くから!」
「いい曲書くってゆうてくれてんて!」
「はよ、はよ行かな! 金借りに行かな!」
「みずほさん愛してる!」
クラウンは五人を凝と見た。視える。此奴等に纏わり付く不穏なモノが見える。白い霧の様な物が五人それぞれの頭の周りをモヤモヤと覆っており、彼らの知覚を混乱させているのが判る。目から入った映像、耳から入った音声、肌の感覚等、五感が脳へと到達する前にそのモヤモヤに捕まり、歪められたり掏り替えられたりしているのが判る。更にはモヤモヤから偽の情報が脳へと伝わり、記憶や感情が意図的に操作されているのも判る。――判る判るって、一体全体如何云うことや。クラウンは自分が何を視ているのか理解出来ない。いや、視ている物自体理解は出来ているのだ。理解出来ているこの状況が理解出来ない。
暫く凝とそのモヤモヤを見ていると、如何やらそれが自分の意思を反映するかの様な動きをすることに気付いた。クラウンがそのモヤモヤとした何かを、彼らから引き剥がす様にイメージすると、その通りにそれらは剥がれて行き、そして消えて行った。後にはぽかんとした表情の五人が残った。
「あ……あれ?」
「テツさんや……」
「ここどこですか?」
「えっ、今何時です?」
「み……ずほさん? て、誰やっけ?」
テツもジンも唖然としている。赤鬼は何が起きたのか判らずおろおろしている。そしてリーは、凝とクラウンを見詰めていた。
何が起こったのか理解出来ていないのは、クラウンも同じだった。
「クラっち、お前大したもんやわ」
リーが感心した様に云う。
「心理学かなんか専攻してたん?」
「いや、わし……工業高校からの専門学校なんで……旋盤とか使うのがちょっと人より上手いだけですわ」
「ほぅか? でもお前、此奴等の洗脳解いたやん」
「いや、でも……特に何も……」
「見てたで、お前一人一人と眼を合わせてから、すっと視線逸らせて。そしたらそいつらの憑き物落ちたみたいなって」
「えゝ……やっぱりそうなんスかね」
「なんや、催眠療法とか、そんな奴なんちゃうん?」
「いや好く判らんのですわ」
「そんなん天然で出来る奴おるか?」
「ゆわれても……」
他の者達は二人の遣り取りを唯ぽかんと見ているよりなかった。口を差し挟む隙が判らないのだ。
「まあえゝわ」
リーはそう云って椅子から立ち上がった。
「なんしかこれで取り敢えずは解決や。お前ら、二度とあの女に近付きなや」
一気に五人が色めき立つ。
「いやちょっと待ってくださいよ、なんなんすか?」
「説明してください、説明!」
「そもそもこのアゴ介、誰なん
「わしら何で此処に集められてるんですか!」
「みずほって誰! あの女って何! この胸の虚しさは恋
「なぁー、もぉ、めんどくさい! ジン! 説明したって! リーダーやから!」
ジンは凄く嫌な顔をした。
「ええー、そんな時ばかりリーダーって……」
ジンが狼狽えていたら、テツの女房が紅茶のセットを持って台所から出て来た。
「あらあら、皆さんどないされはったん? お紅茶でも飲んで落ち着きよし」
この人が出て来ると如何も調子が狂う。熱り立っていた五人も自然と正座などして、恭しくお紅茶のカップを押し頂いている。
「ハーブティーどすけどなぁ、お口に合いますやろか」
「おっ、美味しいです!」
「自分は大好きな味です!」
「気持ちがすっとなります!」
「口の中、さわやかの塊です!」
「奥さん! 毎日飲みたいです!」
「あら」彼女は鳥渡驚いて眼を瞠ると、幽かにテツへ視線を飛ばした後、おほほと上品に笑いながら台所へと消えて行った。
テツが最後のアホを睨んでいた。
「お前調子乗んなや。余計なこと云いなボケ」
稍凄みを利かせた云い方だったので、その場に居た全員が凍り付いた。
「スッ……すびばしぇん……」
手にしたカップをカタカタと震わせながら、叱られたアホは体ごとテツから視線を逸らせた。
紅茶を飲み終えると、クラウンは立ち上がった。
「ごちそうさまでした。もうわしら、居てゝも余り意味ないんで、帰ります」
赤鬼も慌てゝ紅茶を飲み干して、立ち上がった。
「役に立ったんか何なんか解らんですけど、取り敢えず解決してよかったです!」
「おおそうか。気ぃ付けてな」
テツがそう云うと、リーも紅茶カップを食卓に置いて、「わしがこいつら送ってくわ。ジンは説明よろしゅうに、な」
ジンは再び渋い顔をした。
三人でテツ宅を出ると、リーは大きく伸びをした。
「いやぁ、大儀やったな」
「俺なんもしてへん」
赤鬼が不満そうに呟く。
「えゝねん、来ただけでも。賑やかしや」
リーは煙草に火を点けて、深く吸った。
「せやろか」
「ほんでもあの奥さん、ちょっと怖かったな」
「綺麗な方でしたやん、京ことばで」
「京都の女は怖いで。そんなんと上手く遣れてるテツは大したもんや」
「リーさん京女と何か、過去にありましたん?」
「まあな、今度聞かしたるわ」
赤鬼とリーが雑談に興じている間、クラウンは自分のしたことを反芻していた。然し何度思い返しても、よく判らなかった。
「わし、どないかなってもぅたんやろか」
「何ゆうてんねん! 呑み直すど!」
「ええ、これから?」
「赤っちの冷蔵庫に未だ酒あるやろ」
「うちですかい!」
結局三人で赤鬼の家に戻って、朝迄呑む羽目になった。
アクシデント(想定外の悪夢)
カウントダウンライブの盛り上がりはいつも通りだった。いつも通り、微妙だった。今日の前説も、最前列で希少なファン達が、大阪レジスタンスの自作団扇などをひらひらさせている。他の客は相変わらず微妙なノリだ。
クラウンはあれから、如何も他人の頭部が透けて見える様で気持ちが悪い。考えていることとか思っていることが判る訳ではない。なんと云うか、認識の様子が見て取れる。――自分でも何を云っているのか判らない。でもこの最前列のファン達にしたって、脳内麻薬で自己発電的にラリっているだけで、決して自分達の楽曲には酔っていない。
なんだか厭になって来る。
冷めた思いでベースを弾きながら、客席を何となし見渡していると、見たことのある顔があった。奥の方の柱の陰に半身を隠すようにして立っている女。あれは確か、花井みずほ、だったか。それも偽名らしいけど。なんだか怪しげな気配を纏って立っている。屹度またあの香水を付けているのだろう。そんな怪しげなモノを付けていて、自分は奇怪しくなったりしないのだろうか。慣れているのか耐性があるのか、あるいは最初からずっと譫妄状態なのか。如何でも好いか。――いやいや、如何でも好くないだろう。リーさん達に報告しなければ。
そんなことを考えている所為か、何となく心此処に在らずでいつもよりも貧相な演奏をしていたのだが、ファンは余り気にしていない様だ。唯、メンバーには顰蹙を買っていた。
「おゝいクラウン、お前今日変やぞ」
ステージから捌けて楽屋への道すがら、サタンに指摘された。
「お前がヨタるから、凄い演りにくかったやんけ」
「そうそう、俺もその所為で何度か噛んだわ」
赤鬼迄が責めて来る。
「あぁー、ご免、鳥渡集中切れてもて」
「どないしたん。あ、ちなみに赤鬼が噛むのはいつものことやからな。クラウンの所為にすなよ」
「なんでや、いつもより噛んだわ」
「いつも噛んでること認めよったな」
サタンが意地悪く笑った。何か矛先が変わった様なので、クラウンはほっとした。
「わし鳥渡、ブルーエンペラーズの人達に云わなあかんことが……」
「なんや、深刻な話か?」
「いや、深刻……ではないか……いや深刻なのか?」
「なんじゃそら。判然せい」
「この前サタンにも話したろ、あの、香水女」
「えっ!」赤鬼が過度に反応する。「お前あの女となんかあったん
「ちゃうわボケ!」クラウンが赤鬼のおでこを叩く。「客席に居ったんじゃ」
「はあ? アイツまた来たん?」
「せやから、リーさん達に報告せんな思って」
「そら報告せなかんわ、行こ」
「よぉ解らんけど、ついてこ」
サタンは後から話を聞いただけなので、今一実感が伴っていないようだ。
三人は楽屋に楽器を置くと、メイクも落とさず取り敢えずブルーエンペラーズの楽屋へと向かった。ブルーエンペラーズはメインのバンドなので、順番的には最後のトリを務める。その為未だ着替えも済んでおらず、メイクも半端な状態だった。
「すんませーん、大阪レジスタンスですが」
「おうクラっち、どないした」
楽屋のドアを開けてくれたのはリーだった。この前の一件以来、リーとは何となく気心が知れている気がする。何しろ朝迄飲み明かした仲だ。奥にはジン、テツ、タローがメイクの最中である。
「いきなり本題ですが、客席にあの女が来てます」
「あの女?」
「あの、詐欺師の香水女です」
「なんやて!」
奥に居るジンとテツも振り返る。タローだけは鼻歌交じりにメイクを続けている。
「まだ居るかな?」
「わしらが捌けるときには居てましたね」
「新たな被害出る前に何とかしたいな……以前相談した刑事がおるんで、鳥渡連絡してみるわ。お前ら交代で好いから、どっか行かんよう見張っといてくれへん」
「了解りました。――じゃあ取り敢えずわしが見とくから、お前ら着替えとかしとけや」
三人が楽屋を退出しようとしたら、「おー、ちょい待ち」とジンが引き留めた。
「お前らもカウントダウン出てくれるやろ?」
「え、好いんすか?」赤鬼の顔がパッと華やぐ。
「ったり前や。いつもオープニング頑張ってくれてるしな、感謝してんで」
「ほなうちらの楽曲終わる頃に、袖にスタンバっといてくれや。大体十一時半位と思っといて」リーが補足する。
「あざす!」
三人で声を揃えて礼をすると、ウキウキしながら楽屋を出た。そしてクラウンは二人を楽屋へ帰し、独りステージの袖へと向かった。
袖から客席を覗いてみると、先刻と同じ位置にその女はまだ立っていた。一寸距離がある為か、頭の中は良く見えない。クラウンはスタッフ用の通路を通って客席の後方へと近付き、照明や音響の為のブースへ忍び込むと、スタッフ達の邪魔をしない様に忍び足で、女を見易い位置迄移動した。
都合良く暗幕のカーテンが垂れており、その陰に隠れて可成女に近付くことが出来た。ツンと鼻を突く匂い。香水の様だが、この前の匂いとは違うし、不穏な感じもない。まだ例の奴は付けていないのか。いざ詐欺に及ぼうと云う時迄付けないのかも知れない。矢張り自分にも影響があるのか、余計な所で影響が出ない様にしているのか。あるいは高価なので使い惜しみをしているのかも知れない。先刻ステージから見た時に感じた不穏な雰囲気は、彼女自身から染み出て来る性質の様なモノなのだろうか。
頭の中を視てみた。認識の経路に異常や興奮などは見られない。五感から入力される情報は正しく脳に渡り、其処で正しく処理されている様に見える。ステージで演奏されている楽曲も、普通に音楽として認識されている。余り楽しんではいない様だが。時々腕時計を見たり、髪の毛を弄ったりしている所を見ると、若干退屈しているのかも知れない。客としては最悪の部類だ。少しは楽しめば好いのに……と思っていたら、脳の反応が若干変わった。稍興奮度が上がった様に視える。
「なんや?」
クラウンは小さく呟き、思わず自分の口を押えるが、女の耳には入っていない様だ。先刻よりも楽曲に集中している様である。好いぞ、もっと聴き込め、もっと乗れ、もっとのめり込め。そう思う程に女の興奮度は高まって行き、足がリズムを刻み、肩が揺れて、眼が輝いてくる。クラウンはなんだか面白くなって来た。いっそジャンプしたら好いのに。そう思ったら飛び跳ね始めた。
流石に吃驚した。
いや、ちょっと、跳ねるなよ。そんな好い曲でもないやろ。そう思ったら急に女は興醒めした様になって、腕を組んで柱に凭れて仕舞った。
「ええ、……なにこれ……どゆこと」
口の中だけでクラウンは驚嘆の声を挙げた。若しかして自分の思い通りに感じているのだろうか。そんな馬鹿な。自分は神か? クラウンは混乱してその場から離れた。
「若しそれが本統なら……」
若しそれが本統なら、自分は大スターになれる。咄嗟にそう考え、直ぐに頭を振って否定した。それではあの女と同じだ。そんなことをしては不可ない。
その時ステージの袖に、メイクを落として素顔になった赤鬼の姿が見えた。目立たないように気遣いながら、客席の方をきょろきょろと窺っている。クラウンを探しているのだろうか。女を探しているのだろうか。わしは此処やぞ、と思ったらこっちを見た。目が合ったので、手振りで合図をすると赤鬼は引っ込み、暫くして照明ブースへと遣って来た。
「此処に居ったんか」
クラウンは人差し指を口に当て、静かにとサインを送る。照明と音響のスタッフがこちらを見ている。二人はスタッフ達に対してぺこりと頭を下げると、暗幕の陰迄静かに移動した。
「よう見付けたな」
赤鬼だけに聞こえる小さな声で、クラウンは云った。
「
赤鬼も負けじと小さな声で答える。
「直ぐ其処や」
クラウンはそちらを見ずに手だけで女を示した。赤鬼は首を動かさず眼だけで確認する。
「取り敢えずわしは楽屋へ戻る。見張り宜しくな」
「おう」
立ち去る間際、クラウンは鳥渡した仕掛けを女にした。それが如何効いて来るかの確信は無かったが。
楽屋に戻ると素顔のサタンが中途半端に衣装を脱いで、もこもこのダウンジャケットを羽織っていた。なんだか非常にアンバランスな格好である。未だカウントダウン迄は相当間があるので、肌が疲弊しないようにメイクは落とすのが当然だろう。どの途今からキメたところで本番時には崩れて仕舞う。衣装にしてもごてごてした装飾の類は肩が凝るので、外しておく方が楽だ。かと云ってインナー迄替えることは無いので、その上から私服を羽織ると、当然このようなみっともない姿になる。まあ楽屋から出なければ問題ないだろう。みっともないサタン町上は、背中を丸めて缶コーヒーを飲んでいる。
「よぉう、どんな感じ?」
「特に動きはないな。凝とステージ見てるよ。品定めしてるんかな。今は赤鬼が見張ってるわ」
「そか。――ちなみにそいつが行動起こしたらどないすんの?」
「何とか足止めしたいところやけど、うちら面が割れてるしなぁ。面倒なことになりそうやから動かんで欲しいわ」
「わいは割れてへんぞ」
「ちゃんとリサーチしてるなら、お前がうちらの身内だってことぐらい知れてるやろ。なら当然話も通ってると思うやろな」
「そうかぁ、わいなんも関わらんうちからマークされてるんか。心外やなぁ」
「気に入られるよりえゝやんけ」
「お前らは色々ごちゃごちゃと体験したから面白かったやろ。わいなんも経験してへんのや。詰まらんやんけ」
「おまえなぁ……」
そんなことを話しながら、クラウンはすっかりメイクを洗い落としていた。衣装も元々軽装だったし、チェーンやら何やらは最初に楽屋にベースを置いた際に一緒に外していたので、着替えると云う程のこともなく、上から薄手のダウンジャケットを羽織り、更に革ジャンを重ね着した。
「そんな着込んで暑ないの?」
「ダウンも革ジャンもピンでは寒いねん。重ねて丁度ぐらいやわ」
「さよか」
クラウンは一旦楽屋を出て、廊下にある自販機で温かいミルクティーを買うと、楽屋へ戻った。
「ほなそろそろ交代に行って来るわ」
「赤鬼、照明ブースの奥でカーテンに包まってるわ」
「なんそれ。まあえゝわ、了解った」
クラウンと入れ替わりにサタンがみっともない恰好の儘出て行って、暫くして赤鬼が戻って来た。
「変な女、変な女!」
開口一番赤鬼がそう喚いた。
「なんやなんや、何があった」
「なんもないわ。ないけどあいつ、頭がアレなんちゃう?」
「なにやねん」
クラウンは鳥渡だけ心当たりが無いことも莫かったが、素っ惚けておいた。
「いやあ、変な奴やでぇ。何か壊れた人形みたいでな。最初興味無さそうに見えてゝんけど、なんや少しずつ曲に乗って来て、そんな大層な曲かいや思って見てると、どんどんノリノリで肩なんか揺らしたりして、急にジャンプしたかと思ったら、その後いきなりスンってしちゃって。柱に寄り掛かって退屈そうにすんの。でまた暫くしたらノリノリになって来て――って繰り返し。奇怪しいのは、曲に合ってないっちゅうか、曲が終わってもお構いなしにノリノリやし。イヤホンでもして違う曲聴いてんのかとも思ったけどそうでもない様やし、なんなんあれ。お前見てた時からそんなんやった?」
クラウンは可笑しくってついつい顔が緩んで仕舞った。全く想定していた通りのことになっている。クラウンは彼女の知覚パターンをループさせて、エンドレスに同じ感情が巡る様にしてみたのだ。ほんの遊び心で、そんなんなったら面白いのになと思ってしただけで、そこ迄意図通りに効いてくれるなんて思っていなかった。自分のこの能力が何なのかさっぱり理解は出来ていないが、少しずつ使い熟せる様になって来ている。余り判然とした自覚はないが、クラウンは着実にその能力の方向性を見極めつゝあるのだ。
「あぁ、まあなぁ、そんなやったわ、確かに」
懸命に笑いを堪えながら、やっとそれだけ答えた。
このループが効いている限り、あの女は恐らくあの場所から動かないだろうし、悪さも出来ないだろう。これがいつ迄効いてくれるものかは判らないが、取り敢えず懸念の一つは回避、或いは時間稼ぎ出来たことになる。
その後は赤鬼と下らない雑談などしながら、只管に時間を潰した。好いだけ楽屋で過ごして、扠そろそろ交代の時間かなと思い、腰を浮かし掛けたところへ、リーが入って来た。
「刑事来たで。お前らも来いや」
二人は取る物も取り敢えず、リーに続いて客席へと向かった。刑事はエントランスを入って来たところだった。女はエントランスからは死角になっている辺りで、相変らずルーチンを繰り返している。この儘だと色々面倒臭そうなので、クラウンは知覚のループを解除して遣った。女は急に感情を閉ざして、静かになる。
刑事とリーが何やらコソコソと話してから、二人でクラウンを見た。
「どこに居る?」
リーが訊くので、クラウンは顎で示した。
「おゝ、お前のアゴ判り易いわ」
そんな悪態を突きながら、リーは刑事に女を指し示し、それに従って刑事は女に近付いて行った。
「すみません、私のこと覚えてますか? 朝顔姫」
刑事が手帳を示しながら女に声を掛けた途端、女は発条仕掛けの様に勢いよく跳ね上がり、刑事を押し退けて逃げようとした。
「そうはイカの……」
刑事の癖に何か下品なことを云い掛けて、然し最後迄云う前に女を組み伏せた。
「えゝと、被害届け出てますね。任意同行願えますか」
組み伏せておいて任意同行も無いもんだと思う。
「ふっざけんな! 未だなんもしてへんわ!」
「『未だ』とは聞き捨てならへんなぁ。何かする心算やったん?」
「『する心算』では立件でけへんやろ!」
「被害届が出ている以上、何かされたんか思いますけどなぁ」
「あたしやない!」
「その辺りは署で確認を」
手錠を掛けないのは任意同行しか出来ないからなのか。その割には相変わらず組み伏せた儘なのだが、こう云うのは問題になったりしないのだろうか。他人事ながら気になって仕舞う。それにしても一番気になったのは――
「朝顔姫?」
クラウンが問うと、リーの隣に控えていたもう一人の若い刑事が説明してくれた。
「朝顔姫、またはプリンセス・トランペット。朝鮮朝顔を精製した毒で香水作って、それを武器に洗脳する質の悪い詐欺師です。逮捕歴、服役歴もようさんあります。朝鮮朝顔、英語ではダチュラ、別名エンジェルストランペットとか、気違いなすびとも云いますな。結構ありふれた植物で、野生のものも在ったりする位なんで、比較的簡単に入手出来ますね。栽培しても違法性はないです。唯そこから狙った成分を精製するのには、知識や技術が居ると思いますが」
「ひえぇ、そんな怖い女やったんか」
赤鬼が己の両肩を抱き締めて、ぶるっと震えた。
「過去の被害者の中には、精神に変調来してその儘帰って来なくなっちゃった人もいます。最近はそこ迄非道い被害者は出ていないですが。分量とか少しずつ調整してるんでしょうね」
「こえぇ」
照明ブースのカーテンの陰から、サタンがこちら側へ出て来た。刑事に組み伏せられた女を気にしながら、少し距離を取りつゝ大きく回り込んで、こちらへ向かってくる。
「おゝ、サタン、こっちやこっち!」
「なんや変な女やったわぁ」
「それはもうえゝねん。捕まえてもうて、終いや」
いつの間にか一部の客達も、捕り物騒動に気付いて周りをパラパラと取り囲んでいる。
刑事に組み伏せられた女は相変わらずじたばたと暴れている。好い加減何とか大人しく出来ないかなとクラウンが目を遣った時、女が手近にあったケーブルにしがみ付いて、ぐっと引いた。
「あぶっ!」
ケーブルの先には人の背丈程のスタンドスピーカーがあり、それがぐらりと揺れた。重さにすれば数十キロはあるだろう。
「おわっ!」
丁度その脇を、こちらへ向かっていたサタンが通り掛かったところだった。サタンはピンと張ったケーブルに脚を取られて体勢を崩しながら、倒れ掛けて来る重量物から自身を庇う様に腕を出す。スピーカーは其処へ真っ直ぐに倒れ込んで来た。
「サタン!」
皆一斉に駆け寄ろうとするが、倒れる方が早く、サタンはスピーカーに薙ぎ倒される様にして、床に沈んだ。
「んがぁああ!」
サタンの絶叫が響く。
舞台上のバンドも流石に気付いて演奏を止めた。
観客達も一斉に振り向く。
「過失傷害、現行犯」
遂に刑事が女に手錠を掛けた。
女は自分のしたことの想定外の結果に、呆然としている。
「サタン! 無事か!」
クラウンとリーが二人掛かりでスピーカーを持ち上げ、赤鬼がサタンを引きずり出す。
「腕やられた! チクショウ!」
サタンが絶叫する。右腕が真っ赤に腫れ上がり、奇怪しな方向に曲がっている。
「うぉお、マジか! どないしょ!」
赤鬼が狼狽えている。如何したら好い。救急車か。
「救急車!」
クラウンが云うより先に、若い方の刑事が既に掛けていた。
「お願いします! 場所は……」
クラウンは悔しさを滲ませながら、「リーさん、すんません。俺らカウントダウン辞退します……」と云うと、サタンの側に屈みこんだ。
「あほか、辞退すんな、折角のチャンスが」
苦痛に顔を歪めながらもサタンは気丈に振る舞おうとする。
「無茶云いな。お前のそんな腕でどうせいちゅうねん!」
「お前ら二人で出とけ! どうせバンド入り乱れてのお祭りや、俺おらんでも成り立つやろ」
「そんなん心情的に無理じゃ!」赤鬼が吼える。
「病院付き添うし」クラウンも抑えたトーンで云い添える。
「付き添いなんかいらん! っつつ……」無理に立ち上がろうとして、サタンは苦痛に顔を歪めた。腕以外にもどこか痛めているのかも知れない。
クラウンは迷っていた。自分なら、痛覚を誤魔化してやることが出来るかも知れない。多分確実に出来るだろう。然しそれをしたら、サタンは病院に行かずにカウントダウンに参加すると云い出し兼ねない。クラウンは知覚を誤魔化すだけであって骨折を治せる訳ではない。そんな誤魔化しが原因で治療が遅れて、より非道い結果になって仕舞っては本末転倒である。痛みは必要な知覚なのだ。
「えゝから。わしら一蓮托生じゃ。お前が欠けた状態でステージなんか立てるか」
救急車が着くとサタンがストレッチャーで運ばれ、クラウンが付き添いで同乗した。付き添いは一人しか認められない為、赤鬼は取り残されて仕舞った。リーが赤鬼の肩をポンと叩く。
「赤っち、タクシー呼んだるから乗ってけ。クラっち、どこの病院行くか後でメールして」
「はい」
クラウンが答えると同時に救急車のドアが閉まり、サイレンと共に出発した。
「クラウン……俺の腕治るかな」
救急車に乗った途端、サタンが弱気なことを云う。
「あほか、治せ、意地でも治せ。休み長引くと腕鈍るぞ」
「そやな……」
サタンはそれだけ云うと眼を閉じて、苦痛に顔を歪めた。
プラクティス(警備会社の人と)
結局サタンは、腕の他に脚と肋の骨を折っていた。当分ドラムが叩ける様な状態ではない上に、如何やら膝に違和感が残って仕舞い、バスドラが踏めなくなるかも知れないと、相当に落ち込んでいた。
「わいバンド辞めるわ。田舎で畑耕す。晴耕雨読で悠々自適に暮らす」
「なんじゃそれ。セイコウ毒ってナニやねん。大体お前の実家ってめっちゃ梅田のど真ん中のタワマン低層階やん。どこに耕す畑があんねん」
「ほっといてんか。低層階だけ余計や」
見舞いに来る度に、サタンはそんなことばかり云って拗ねている。構って欲しいのが丸判りなので無視して遣りたくもなるが、基本的に人が好いクラウンは付き合って仕舞う。
「お前がそんなんじゃ、大阪レジスタンスも終わりやな。町上の名前も泣くど。神様ポンタ村上に申し訳ないと思え」
「ポンタさんが見舞いに来たら、考えないでもない」
「来る訳なかろうが。お前の存在さえ知らんわ」
「じゃあ……解散しよ」
テレビのお悩み解決番組にでも葉書を出そうか、と迄思ったが、まあこんな依頼は採用されないだろう。どれだけテレビ局に力があるか知らんが、流石にバラエティ番組でポンタ村上は動かせまい。未だ安倍総理大臣の方が動かし易そうだ。否、それも無茶だろうけど。
「もぉえゝわい、こんなアホほっといて帰ろうや」
横で遣り取りを聞いていた赤鬼が、見切りを付けて立ち上がる。これが毎回のパターンだ。サタンの見舞いではいつもクラウン、赤鬼の力は及ばず、しょんぼりしながら病室を出る羽目になる。もう少し如何にか出来ないモノだろうかと、病院近くの喫茶店で作戦を練るが、特に大した案も出ず、コーヒーを数杯お替りするだけで解散になる。ここ迄が定型の流れになって仕舞っている。
駅のホームで赤鬼と別れて、電車を乗り継ぎ高槻迄帰って来ると、改札を出た所で見知らぬ男に声を掛けられた。
「田中昌夫さんですか」
不意を突かれて思わず飛び退き、声を掛けた男を見る。スーツ姿で髪を七三に分けた、如何にもサラリーマン然とした男だが、如何も異様な雰囲気を醸している。
「ええと、クラウン吉川さん、とお呼びした方が良かったでしょうか」
「誰ですか」
やっとそれだけ返した。
「失礼。私、神田と云うものです」
そうして恭しく名刺を差し出す。警戒しながら受け取ったが、特に変な匂いはしなかった。忠国警備、と書いてある。警備会社が何の用か。
神田はクラウンの額の辺りを凝と見詰めて、「なかなか面白い能力をお持ちですよね」と云った。
「は? 能力? ベースはそんなに珍しくないですが」
「否、楽器の話ではなく……幻覚能力とでも云いましょうか、それとも認識制御と云った方が当たってますかね」
「え、何ですかあんた……」
一歩、二歩と、クラウンは後退った。なんだか物凄く怪しい。怖い。何かの催眠や洗脳を仕掛けて来ている気配は無いが、それにしても何故クラウンの変な能力のことを知っているのか。
「不審ですよね、すみません。私、他人の能力を分析出来る能力があるんです。――なんて云っても解り難いですかね。そうですね――超能力のサーチ能力、なんて表現の方が伝わるでしょうか」
「ち、超能力? あんた何云って……」
「あれ、自覚してますよね? 使ったこともあるはずなんですが……聞いた話だと……」
「だ、誰に何聞いたんか知らんですけど、わし関係ないんで! 失礼します!」
「あ、鳥渡!」
立ち去ろうとしたが足が動かない。なんだこれは。
「ごめんなさい、私、念動力も使えるんです」
「はぁあ
「申し訳ないとは思うのですが、ほんの数分で好いので、お時間ください。詐欺とかそういうものではないです。あなたに危害も加えません」
「信用でけるかぁ!」
「そ……そうですか、失礼しました」
急に動けるようになった。
「本日の所は失礼します。またいずれ……」
そう云って立ち去ろうとする神田を、今度はクラウンが押し止めた。
「ちょいまちぃ! このまま去られたんじゃ気になり過ぎて夜も熟睡しかでけん、説明だけはしてもらおか!」
「あ、有難うございます!」
神田はにっこり笑い「ではこちらへ」と云うと、駅前の軽食レストランへと導いた。
そこで漸くクラウンは、自分の能力のことを客観的かつ正確に知ることとなった。
「あなたの能力では、人の認識を狂わせたり正常化させたりすることが出来ます。これは攻撃にも治癒にもなります。使い方次第で善にも悪にもなるものです。まあ大抵の能力はそうなんですが。例えば聞いた話では、あなたはダチュラによる譫妄状態から催眠を掛けられた人達を、正気に立ち返らせたと聞きます。それもこの能力に因るもので、彼らの混乱した認識経路を正常化させたのでしょう。あなたがどの程度自覚的にそれをされたのかは判らないですが、少なくとも一定の意思を持ってされたのではないかと思っています」
「待ってください、そんな話、一体誰から」
「ブルー何とかって云うバンドの方から聞きましたよ。元々は被害に遭われた方々の体験談なんかが噂話のように広がっていたのを聞きつけたので、その出元を手繰って辿り着いた感じです。ジンと云う名前を名乗られている方から聞きました」
「ジンさんか……いや、ジンさんがわしの能力を?」
「能力と迄は云っていませんでしたが。なんだか催眠療法の様な、と云ってましたかね」
それはリーが云った言葉だ。リーとの会話を聞いて鵜呑みにしていただけか。
「何れにしても状況的には田中さんの能力だろうなとは思いました。それ以前の段階で、あなたの能力は私のアンテナに引っかかっていましたから」
「はぁ……ええと、神田、さんは、そういう能力を持った人達が何処に居るかとか、判るんですか」
「えゝ。まあ、せいぜい二、三百粁圏内程度ですが。今回は
「参ったな……」
クラウンは頭を掻いた。
「この能力、正しく開発してみませんか?」
「はぁ?」
「私達と特殊なチームを組んでみる気は無いですか?」
「特殊なチームってなんですか。それ警備会社の仕事なんですか。――てか私達って、他にも超能力者が?」
「えゝまぁ……私昔、公安に居たんですよ、警察庁の」
「はぁあ
神田が口に人差し指を当てたので、前のめりになって声を潜めた。
「刑事やったんですか。辞めたゆうことは、なんか問題でも」
「いやまぁ……問題と云えばそうなんですが……まあ鳥渡、警察の中だと限界があるなと思って」
「否逆でしょう、民間の方が限界あるでしょ」
「時と場合に依りますかね」
神田は少し表情を緩めた。
「で、何人ぐらいおるんです」
「まだ私とあなただけです。まあ上司はいますが、これは能力無いので」
「云いますね」
「あ、無能な上司と云っているのではなく。超能力が無い、と云うことです」
「あゝ」
「もう一人心当たりが無いではないんですが、家庭持っちゃって今それどころではなさそうなんで……」
「ふうん、で、野良の能力者を狩ってて、わしがその第一号ですか」
「云い方がアレですが、まあそんな感じです。未だ未だ在野の能力者はいると思うんですが、大抵未開発で、中々即戦力と云うのは難しいですね。まあ育成から手掛けても好いんですが」
「わしは即戦力ですか」
「トントンですね。もう少し伸ばしませんかと、ご提案に来ました」
「
「可能性は無限ですよ」
怪しい妖しいと思いつゝ、どんどん話に釣り込まれて行く自分がいる。決して催眠やなんかが使われている訳ではない。その点は全く心配ない。純粋に自分の興味が尽きないのだ。
「一つの可能性として、我々の活動を一般の目に晒させない、詰まりこの能力の活動を秘密裏で行うためにあなたの力が役に立ちます」
「秘密なんですか」
「田中さんも、ご自身の能力を他人に悟られるのは嫌ではないですか?」
「あゝ、まあ……」
「大抵の能力者はそう考えます。なので、我々の活動は秘密裏に行われる必要があるのです」
「色々訊きたいことだらけやな……」
「訊いてください」
「民間の警備活動ですよね」
「まあそうです」
「依頼者、出資者が居てるんですよね。そうした人達は能力のことは」
「知っていたり、知らなかったりですが、基本的には説明を試みます」
「では秘密というのは」
「公にしないということです。例えばこの砂糖壺」
そう云って神田は、卓上の角砂糖が入った壺を指した。壺がふわりと浮いた。クラウンは内心可成驚いていたが、余り表には出さない様にした。なんだか先刻から超能力が当たり前のものかの様に話しているので。
「これは一例ですが、このように任務遂行にあたって能力を使ったとします。でもこれが人目につくと、まあ一騒ぎ起きますよね」
「でしょうね」
「然しそうした騒ぎは警備活動の妨げになりますし、能力者の望みにも反しますので、可能な限り避けたい」
「はい」
「そこであなたに活躍して頂きたい」
「はあ」
今一ピンと来ていない。結局何を求められているのか。
「この砂糖壺が浮いていると、誰にも悟られないようにお願いします」
「はっ?」
云われて周囲を気にしてみたが、今の所誰もこの砂糖壺を見ている者は居ない。認識以前に知覚していない。
「大丈夫です、誰も――」
「この先も決して、誰にも感づかれない様に」
そう云うことか。でもどうすれば。他人がこれを見たら視覚情報として脳に伝わる。脳はその視覚情報を処理して、砂糖壺を認識し、次にそれが机から浮いていることを認識するだろう。神田を見た。将に神田はそうして認識をしている。ではこの認識の流れのどこをどうすればよいのか。視覚情報を改竄するのは厄介そうだった。出来なくもないけど難しい。では伝達経路か、脳の認識か。経路を閉ざせば真っ暗闇になるだけだし、流れている情報を弄るのはもっと難しい。脳の方で認識している箇所……壺の形、その状態、それらは別々の所で認識している。偽の情報を紛れ込ませるか。ツボを持つ手があることにする。誰かが手で持っているなら問題は無かろう。
「なるほど、手で持っていますね。私は持っていないが。――クラウンさんの手でもないですね。でも手が持っているようですね」
「不自然でしょうかね」
「このケースでは十分でしょう。誰が持っているか迄気にする人はいないでしょうから。ただ、不十分な場合もあるでしょうね。同席している友人が居て、その人に気付かれたくない場合などは」
「そうですねぇ、では……」
浮いている、と思わせなければ好い。壺は机の上にある。
「机の上にあるようですね。凝と見ているとなんだか違和感を感じますが、違和感の正体は判らない様です」
ゴトンと壺が机に落ちた。
「あゝ、認識が歪んだ所為で、私の念動力の制御が狂いましたね。何しろ浮かしている心算なのに、認識では浮いていないので……」
「あ、ご免なさい」
クラウンは零れた砂糖をお手拭きで拭った。幸い零れたのは少量で、壺も無事だった。
「好いんですよ。この方向性でよいと思います。ただ、私ではなく、私以外の全員にこれをして欲しいのですが、可能ですか?」
「遣ってみましょう。もう一回浮かせて下さい」
壺が浮く。クラウンは神田を除く周りの客凡てと、店員達に対して、今と同じような仕掛けをしてみた。客と云っても疎らで、せいぜい五、六人、店員もフロアを回っているのは二人位だ。
「掛けてみましたけど――」
「あーっ!」
突然神田が叫んで、周りの客や店員達が一斉に振り返った。
「否、鳥渡、神田さん?」
神田は水のコップを倒していた。
「お客様どうされましたか?」
店員が席迄来る。壺は浮いた儘だ。
「すみません、水を零して仕舞いました」
「布巾お持ちしますね」
そう云って店員は急ぎ足で厨房へと下がった。周りの客は何事かと凝と見ている者や、大したことではないと思って直ぐに興味を失った者など様々だが、誰一人として、クラウンの目の前迄浮かび上がってくるくる舞っている砂糖壺に気付いている者は居なかった。
「流石ですね」
「いや、こんなんしたの初めてですが、上手く行って良かったです――ってか、上手く行ってなかったら如何してたんですか」
「その時は手品と云うことにします」
程なく店員が遣って来て、神田にタオルを渡すと共に、机上に零れた水を台布巾で拭き始めた。水は机の上に零れただけで、下迄滴ってはいなかったので、神田もクラウンも濡れてはいなかったのだが、神田は申し訳程度にズボンを拭う振りをして、序でに机をさっと拭くと、「有難う御座いました」と云ってタオルを店員に返した。
店員がタオルと台布巾を持って下がると、クラウンは神田に訊いた。
「水、下迄垂れてませんでしたやんね?」
「ああ、垂れないように押さえていたんですが、量的にそれは不自然な気がしたので、拭く振りしてみました」
そう云いながら、神田は静かに砂糖壺を元の位置へと戻した。
「今のは『在る筈の事物を認識させない』と云う使い方ですね」
神田が説明の続きを始める。
「逆に『無い筈の事物を認識させる』と云うことも出来ると思うのですが。――そうですね、例えば先程の壺を持つ手、あれなんかは無い物を見せた訳です。場合に依ってはそうした方法が有用な場合もあるでしょうね」
「無い物を見せる……か……」
突然机の上が水浸しになり、下迄滴って神田のズボンをしとどに濡らす。
「ああ、そうそう、そう云うことです。今更ですが」
そう云って神田は微笑んだ。
「驚かんのですね」
「あなたの能力を知ってますからね、この程度に驚きはしませんよ。まあ水に濡れた様な不快感はありますが」
「あっ、すんません」
一瞬で水が消える。
「視覚だけでなく、ちゃんと濡れた感触迄再現している辺りに、センスを感じますね。流石です。――まあ兎に角、こんな様なことをして頂きたいのです。若し我々への協力が乗り気でないのだとしても、能力の開発だけでもお手伝いすることは可能です」
「何故です?」
「何故とは?」
「いや……協力しないかも知れんのに、訓練だけはしてくれるって。誰得ですの?」
「正しく能力開発することは、正しい能力者を育てることと同義です。あなたが能力の使い方を誤って、何かしらの事故や、例えが悪いかも知れませんが犯罪などに繋がったとしたら、結局私達の仕事も増えますのでね。――まあ仕事がとかは本当は構わないのです、収入源ですから。だけど要らぬ事故の可能性をむざむざ見過ごしたくはないです」
「あーなるほど、わしは犯罪者予備軍ですか」
「悪く取らないでください。ただ、実際悪の道に堕ちて仕舞った人もいるのです」
「まあ解らんでもないですけどね。ただ、わしはこの能力を悪用したくはないですね」
「そうだろうと思ってましたよ。あの様な経験をされたのではね」
「その気になればあの女より上手く遣れると思うのです。だけど遣りたかないのです。それで苦しんだ奴らが居ると知っているから……」
「そう、あなたは決して自ら悪の道には堕ちないでしょうね。然し正しく制御出来ないと、望まぬ事故を起こして仕舞う危険性はあります。能力を封じた心算でも不図した弾みに、無意識に使って仕舞うことだってあります」
何かあったな、と思った。クラウンは神田の中に、幽かな動揺を感じていた。然しその正体迄は掴めない。クラウンに判るのは飽く迄生体の反応のみである。
「また、逆に、良かれと思って使った結果が好ましくない場合もあります。例えばあなたが新興宗教の教祖になったとして、衆生を救いたいという崇高な志から道行く人々を強制的に改宗させたとしたら如何です。それは正しい行いでしょうか。――あなたは十分に客観的な目を持っているから、それが行き過ぎた行為であることはお解り頂けるかと思います。然しそこ迄極端でなかったとしても、善意の行為が悪しき結果を招く、所謂『大きなお世話』な場合も多々あります。そう云った様な、悪意善意を問わず好ましくない能力の濫用を防ぐお手伝いが出来るなら、我々としても願ったりなんです」
「色々、難しいのですね」
「制御が出来るようになればなる程、使い時と云うのも肌感覚で段々判って来ると思いますよ。道を究めるとは、単に技術力を上げるだけではないのです。その道の達人となって頂けることを願います」
達人と云われて、鳥渡むず痒かった。そんな大層な望みは持っていない。唯安穏に生活出来れば好い。
「まあ……はい、判りました。それでは宜しくお願いします」
「では」
「協力とかは正直判らないです。未だ未だ判断付かないです。そこは保留とさせて下さい。能力の訓練については、承諾します。よろしくお願いします」
「そうですか。そうですね。判りました。こちらこそ、よろしくお願いします」
神田が右手を差し出すので、これは握れば好いのかと思い、ぎこちなく握り返した。握手なんて習慣はクラウンにはない。神田と云うのは随分とバタ臭い奴なんだな、と思った。
「今日の所は一旦失礼します。準備などもありますので、また後日連絡させて頂きたいのですが、連絡先など頂けますでしょうか」
「もちろん。携帯の番号、若しくはメアドか、チャットのアカウントでも好いですけど」
「番号とメールアドレスをお聞きしておきますね」
神田がメモ帳のページを一枚千切って渡して来たので、クラウンは其処に、電話番号とメールアドレスと、序でに名前を記入した。クラウン吉川、と書いた。
「あ、やはり、田中さんより、クラウンさんと呼んだ方が宜しいですか?」
「えゝまあ……まあどっちゃでも好いんですが、クラウンの方が最近は呼ばれ慣れてるんで」
「諒解です、クラウンさん。ではまた連絡差し上げますので」
「はい、お待ちしてます」
神田はさっさと裏路地の方へと去って行った。電車に乗ると思っていたので面食らったが、まあ他に何か用事でもあるのかも知れない。そう思って帰ろうと思った時、視界の隅に変なモノが映った。ハッと振り返ったが余りに速すぎて確認し切れなかった。それでも自分の見た通り信じるなら、神田は空を飛んで雲の上へと消えて行った。――あゝそうか、念動力。
クラウンは納得して帰途に就いた。
ドリーム(友の願望)
ずっと悩んでいた。これは正しいのか、それとも大きなお世話になるのか。独りでベースを弾いている時も、サタンの見舞いに行くときも、赤鬼と遊んだり呑んだりしている時も、リーさんに連れられて彼方此方連れ回された挙句朝迄呑まされる時も。ずっとその命題はクラウンの頭から離れない。
「ポンタ様が来てくれるなら、ワイは復帰を考える。そうでないなら農民になる」
相変らずサタンはそんなことばかり云っている。若しかしたら単に農業に興味があるだけなのかも知れないが……いや、矢張り拗ねているのだろう。「農民」なんて云い方からして、そうとしか思えない。
ポンタを見せてやる可きなのか、本物のポンタを来る気にさせて仕舞う手もあるか。否
ずっと悩んでいた或る日、一人でサタンの見舞いに来ている最中、来客が現れた。
「よぉ、お前か、俺を呼んだのは」
クラウンは自分の目が信じられずに、固まって仕舞った。これは自分の仕掛けた幻覚ではない。――
彼はポンタ村上こと、村上秀一その人だ。本物だ。モノホンだ。
サタンも同様、暫く固まっていたが、何れ大口を開けて「う、わぁあああ!」と絶叫した。
「ポッポポポポッポ、ポ!」
「鼠先輩か!」
えっ、ポンタ村上がそんなツッコミするの?
「おいおい、大丈夫か。頭までヤっちまったか?」
「ポンタさん! ポンタさんなんですね!」
「おう」
ポンタ村上ってこんな喋り方やっけ。いや、あんまり知らないのだ。兵庫県の西宮出身だと思うのだけど。喋っている所は余り見たことが無い。
「まぁ、あれだ。早く治せよ。ドラム好きなんだろ。いつまでも寝てんじゃねぇよ」
「はいっ!」
「じゃあな、俺は待ってるぜ」
そう云うとポンタは帰って行った。後には震えるサタンと、呆然と立ち尽くすクラウンが残された。
「ポンタ様やぁ……ポンタ様が来てくれた!」
サタンは眼をキラキラさせてクラウンを見上げる。
「お、おう……」
クラウンは言葉が出なかった。如何云うことなんだ。
「わい頑張って治して復帰するわ!」
「お、おう……がんばれ」
クラウンは茫然とした儘病室を出た。そして手洗いへ行くと、其処に先程のポンタが居て、鬘を取るところだった。鬘の下は禿げ頭だった。
「あっ!」
二人同時に叫ぶと、ポンタ――だった人物――は照れ笑いをした。
「見付かってもうたか、あいつには黙っといてや」
「あ、あなたは?」
「オジン・ハゲトーンってバンドでギターやってる、川島云います。よう普段からポンタさんに似とる云われてゝ……ライブでもネタにしたりしとったんですが……せやけどこんなことの役に立つとは思わへんかったですわ」
鬘を取って老けメイクを落としても、素顔は五十絡みのおっさんだった。オジン・ハゲトーンと云うバンド名は、ブルーエンペラーズ主催のライブで見たことがある気がする。こんな年でインディーズ続けているのはある意味凄いことだと思う。もうデビューは見据えていないのだろうな。――そんな余計なことばかり頭に浮かぶ。
「サタンくんな、息子と同じぐらいですねん。可哀想でなぁ。思ってたらよ、ジンさんから声掛けられて」
そこは「さん」なんや。
「最初は断ってんけどなぁ。でもまあ、物真似ネタにしてた訳やし、ドラムは叩かれへんけど、会話程度ならな、思いまして」
そうか。そうだ。クラウンはいきなりすとんと肚に落ちた気がした。
彼は結局贋物だった。然しクラウンが仕掛けるかどうか迷っていたような「幻覚」ではない。そこは「実在」なのだ。実在だけど贋物なのだ。
「すんません、有難う御座いました」
「おう、可愛い後輩の為ですわ。後は確り面倒見たってや」
素に戻った川島は、ゆったりとした足取りで病院を後にした。そういう物腰も本物らしさを演出していたのだろうか。
クラウンが病室に戻ると、サタンはまだ興奮が収まらない様で、ポンタ村上に対する想いを滔々と聞かせられる羽目になった。然しその間もクラウンは全く別のことを考えていた。
自分の能力は、認識を操作するものだ。幻覚を見せることも出来るし、感覚を操ることで間接的に感情をコントロールすることさえ出来る。然しそんな能力なんか無くったって、川島は同等のことを遣ってのけた。あれは幻覚ではなく紛れもない現実だった。人は誰しも、現実を操作することが出来るのだ。だったら現実なんてものは本来的に信用出来ないのではないか。そう云う意味では幻覚と何が違うのか。仮装した贋物を見て本物と思うのと、操作された知覚による幻覚を見て本物と認識するのとで、脳の遣っていることは同じなのではないか。自分はこの能力を過信することも恐れることもないのだ。
自分のしていることは、脳の可能性をちょっと手助けしているに過ぎない。麻薬でも洗脳でもなくても脳が日常的に行っている機序を、少し選択的に行わせているだけに過ぎないのだ。そう考えることでクラウンは一気に肩の荷が下りた気がした。ここ何ヶ月もずっと心の片隅に蟠っていた閊えが、すっと消えて行く気分だった。そう、これなら出来る、クラウンは自信と確信を得たのだ。
その日以来、サタンの調子はみるみる佳くなっていった。それ迄中々回復が進まなかった骨折箇所も、ぐんぐん回復して行き、一週間後には杖を突いてリハビリを開始出来る迄になった。病は気からと云うのは本当なのか。表情も明るくなったし、畑のはの字も云わなくなった。
懸念していた膝も、如何やら何とかなりそうだった。骨さえ確りくっ付けば、後は筋力の問題だと云う。
こんなに劇的に変わってくれるのなら、迷うことなく幻覚でも何でも見せて遣れば好かったのだ。唯、川島の物真似以上のクオリティが保証出来るかどうかは、未だに鳥渡自信が無い。川島様々なのである。
インフレーション(再び警備会社の人と)
サタンが順調にリハビリを熟している間に、神田からの連絡があった。準備が出来たので何時でも迎えに行けると云う。迎えが来たら何処かへ連れてかれて、一週間程の合宿になるとか云うので、今鳥渡友人の正念場なので留守に出来ないと答えたら、それに就いては提案があると云う。提案とは何かと訊くと、会って話すと云うので、取り敢えず高槻駅前で会う約束をした。
当日、神田は改札とは反対の方角からやって来た。矢張り今回も空を飛んで来たのだろうか。スーパーマンの様だと思った。
「この前空飛んではりましたよね」
「あ、見付かってましたか。ええ、交通費の節約です」
「予算付かないんですか」
「実績らしい実績が未だ無いですからね」
そうなのか。この前の話しぶりだと、既に何件か依頼を熟してそうな口振りだったが。あれはハッタリか?
「貧乏序でに、今日はお金の掛からない場所でお話ししましょうか」
「どこです?」
神田は上を指さした。
「空?」
「此処は目立つので、鳥渡移動してから」
そう云うと神田は人通りの少ない裏路地へと入って行った。クラウンはこれからカツアゲでもされるのではないかと云う気分になった。ビルとビルの谷間を奥へ奥へと進み、突き当たった所で「ではこの辺で」と云うなり、クラウンは突然体の均衡を失った気がした。
気付いたら地上が遥か遠くに去っていた。
「おゝ、人がまるで……」
昔見たアニメの台詞を云い掛けたら、神田の言葉に遮られた。
「此処なら誰にも聞かれることも見られることも無いので、思う存分話し合えます」
「如何も足元が不安で……」
そう云うと何か見えない床が発生した気がした。急に足元が安定する。
「自分を持ち上げるのと、他人を持ち上げるのは、若干勝手が違うんですよね。不快感を感じたらご免なさい。こんな感じで如何でしょうか」
「あゝ、なんや安心感が生まれました」
「それは良かったです」
神田はほっとしたように笑った。
「さて本題ですが――」
クラウンはすっかり、本日の会合の目的を忘れていた。
「あなたは留守中も、各関係者達に留守でないと認識させることが出来るのではないでしょうか」
「なんですか?」
「存在しないあなたを彼らの認識の中に滑り込ませて、恰も存在し続けている様に思わせられるのではないかと云うことですよ」
「そんな大層なこと……」
「そうなんでしょうか? あなたの認識操作では、相手の記憶や知識を利用して、相手が望む通りの認識を励起させることが出来ると思うのですが」
なんだか大分言葉が難解になって来た。記憶や知識を利用? 望む通りの認識を励起? そんなこと考えたことも無かった。一から十迄お膳立てした上で認識の隙間に差し挟むことしか考えていなかった。若し神田の云う様なことが出来るのだとしたら、ポンタも実は上手く作れていたかも? サタンの知っているポンタを出すだけなのであれば……
否然し、
「
「無理ですか?」
「判らんですが……」
「それでは少しずつ行きましょうか。先ずは一日――二十四時間から。明日のこの時間迄のあなたが出会うはずの人達に、仕掛けをしてみてください」
「サタンの見舞い以外特には……あゝ、明日は赤鬼と一緒に行く心算でしたが」
「ではサタンさんと赤鬼さんですよね。二人に術を掛けて、明日一日は家に居てください」
「いや、でも……」
「不安なら様子を見に行っても好いんですが、呉々も二人に見つからない様に。クラウンさんが二人居るってことになり兼ねないので。――ではお二人の所へ案内してください」
「はぁ……」
クラウンは渋々、サタンの入院している病院の位置を教えると、神田は其処へ向けて雲上を移動した。
「この高さからも可能ですか?」
「まあ一応、見えるので……あれ、そう云えば前はこんな遠くからは見えんかったんですが」
「私の所為かも知れませんね」神田はそう云って何故か含羞んだ。
あのライブハウスでの朝顔姫……ステージからは良く見えなかった記憶がある。あんなもの精々数米、あっても十米凸凹と云うところではないだろうか。それでもよく見えなかったのに。この上空からの距離は如何程か。数十数百では済まないのではないだろうか。何しろ雲の上に居るのだ。それなのにサタンの認識状況が嫌に判然と手に取る様に視える。丸で目の前に居るかの様だ。
「私は、自覚は略無いんですが、如何も近くに居る能力者の能力を強化して仕舞う様なんです。こればかりは私自身にも制御出来なくて……」
「なんてこった」
神田と行動していたら勝手に強くなると云うのか。なんだそのご都合主義的な展開は。然し現にクラウンの力は強化されている様だ。クラウンは不図、赤鬼の文化住宅の方向へ目を向けてみた。
「うそやん」
赤鬼が視える。正確には赤鬼の認識が視える。その途中に居る全ての人の認識が見えるし手が届く。その中から赤鬼を識別することも出来る。なんだこの感覚。クラウンは人酔いの様な気分になって眩暈を覚えた。
「大丈夫ですか。酔われているようですが。矢張り上空は気持ち悪いでしょうか」
「いや――上空と云うより、人に酔いました……地上の人が皆視えるんです。その気になればみんなの認識を操作出来そうです……でもその前に……」
うっぷ、と云ってクラウンは口に手を当てた。
「アカン……汚い雨……降らせて仕舞いそう……」
神田は急に場所を移動し、如何やら大阪湾の上空に来た。航路からも外れているようで眼下には船一つ見えない。そして潮の香りを感じる位には海面に近い。嘔吐を警戒して高度を落としているのだろう。
「一旦落ち着きましょうか。急に力が強くなっているようですね。私の波長と共鳴し過ぎたようです。今日は一旦休憩にして、また改めてこのテストをしに来た方が良さそうですね」
「そうしてもらえると助かります……鳥渡今、余裕無いです……明日普通に、見舞いキャンセルして家で休みたい位です」
クラウンが落ち着くのを待ってから、神田は高槻上空へと戻り、人気のない所でクラウンを下ろした。
「私が離れゝれば一旦能力も低下する筈です。全く元通りにはならないと思いますが。取り敢えず私は退散しますね。また連絡します」
そう云って神田は空へ飛んで行った。
「うう、酷い目に遭うた……」
クラウンは蹌踉々々しながら自宅であるワンルームマンションへと帰って行った。
デベロッピング(不可解な視点)
その日クラウンは、本当に寝込んで仕舞った。熱が出て、一晩中厭な夢に魘され続けていた。近在の者達の認識の様が漏れて来て、クラウンの周りを取り巻くので、気が休まらない。神田が去って多少軽くなったとは謂え、それでも以前より過敏になって仕舞っている様なのだ。翌日の約束をキャンセルし、一日引き籠ることにした。
翌朝になって多少は楽になった。熱も下がった様で、取り敢えず起き出して来ると、前日程周囲の雑音が気にならなくなっていた。相変わらず近所の人達の認識は見えているのだが、壁の染みか何かと同じ程度に無視出来る様になっている。何気なくサタンの病院の方を向いた。流石にそこ迄は見えないか。取り敢えず目を閉じる。何だか朝から、酷く疲れているのだ。
すとんと落ちる様に眠りに就き、数分寝たと思ったら、インタホンの音で目が覚めた。大分疲れも取れてスッキリしている。時計を見たら、昼を回っていた。如何やら数時間寝ていた様だ。ドアの外に気を遣ると、赤鬼が居ることが判った。赤鬼が視えたのだ。赤鬼が見ているドアも視える。これは赤鬼の視覚か。他人の感覚を覗き見出来る様だ。然しそれにしても、赤鬼を見ているこの視覚は誰のものだ?
クラウンは布団から起き出して、ドアを開けた。其処には赤鬼一人しかいなかった。
「なんや、一人かいや」
「他に誰がおんねん」
それもそうなのだが。サタンはまだリハビリ中だし。それなら先刻の視覚は、本当に何だったのか。
「もう具合はえゝのんか」
「おう、たっぷり寝たわい」
「えゝ御身分やのう」
「なんか済まんかったな」
「えゝわい」
赤鬼は勝手に部屋に上がって来て、炬燵の上にコンビニの袋を置いた。
「差し入れや」
クラウンが中を改めると、カップ麺と発泡酒が入っていた。
「お前……見舞いに何持って来てんねん」
「いらんか?」
「寧ろこれしか要らんわ」
「せやろ」赤鬼は笑った。「大体見舞いやのぉて、差し入れやっちゅうに」
「なんのこっちゃい」
「
「まあそうなんやけど……昨夜は熱も出てたしな」
「なんそれ、聞いてへん」
「云うてへんかったぁ」
「おまえな」赤鬼はまた笑った。「サタンが宜しくってよ」
「吁、ありがとう」
「えゝて」
「そう云やサタンって、未だ本物のポンタが来たと思ってるの?」
「思っとるで。夢壊さんたってや」
「はぁー、純真なんやなぁ」
その後暫く世間話をして、赤鬼は帰って行った。如何も差し入れを持って来る為だけに来たらしい。サタンが入院している所へクラウン迄倒れたので、心細かったのかも知れない。元気なクラウンを見て一先ず安堵した様な感じだった。
赤鬼が帰った後、クラウンは気になっていたことを試してみた。
赤鬼の視覚を覗く。駅へ向かっている所だ。これは確かに赤鬼の視覚だ。其処から視点をずらしてみる。赤鬼の後頭部が視える。――これだ。これが何なのか理解出来ない。一回熱が出て引いた後からだと思う、こんなものが視える様になったのは。何か動物や昆虫の視点か? それにしては自由自在に操作が出来る。俯角も取れるし、仰角も取れる。右に左に移動出来るし、正面にも回れる。ずっと赤鬼を監視し続けられる。そんな都合の良い生物が赤鬼の周りに居るか?
クラウンは視るのを辞めた。考えたって判りゃしない。次に神田に逢った時にでも聞いてみようと思う。何となく神田なら、答えを識っていそうな気がした。
それにしてもあの神田と云う男、結局何者なのだろう。クラウンはハンガーに掛けたジャケットのポケットを弄り、神田の名刺を取り出した。忠国警備株式会社。特殊対策部、第一警備課、EX部隊長。神田真一郎。そうか、隊長なのか。でもクラウンが第一号の様なことを云っていなかったか。隊員の居ない隊長か。発足したばかりなのかな。EXって何の略なんだろう。
何気なくひっくり返してみたが、裏面には何も印字されていなかった。特に意味も無く眺めていたら、真っ白な紙面にぼんやりと何かが浮かび上がる。目を凝らすとそれは
何を如何解釈したものか。切り離された二つの紙片を布団の上に並べて、クラウンは腕を組んだ。映像は赤鬼を正面から捉えた構図の儘、静止していた。クラウンが視るのを辞めたのがこの辺りだった気がする。詰まり続きはないのか。――え、それは詰まり、これが自分の見た映像の録画再生だと? でも他に解釈の仕様は無いか。――逆再生とか出来たり? 意識してみたら逆再生を始めた。その後も、再生、逆再生、一時停止、巻き戻し、早送りなど、ビデオ操作で出来そうなことは全て試して、全て出来た。親指と人差し指を紙面に当てて、その儘開いてみると、拡大も出来た。なんて便利なのだ。
それから暫くは、赤鬼訪問時の映像と帰宅中の映像を交互に再生して、色々と遊んでいた。遊ぶ程に能力が定着するのか、段々映像も判然して来る。他の映像は無い様だ。今日この能力に目覚めたので、今日からの分しか無いのか。クラウンは二つに千切れた紙片を元通りに並べてみる。紙片は最早くっ付かないが、映像は吸い寄せられる様にくっ付いた。そっと紙片をずらすと、映像が取り残される。矢張り紙片に何かの仕掛けがある訳ではないのだろう、映像は紙片から自由になり、中空に不自然に浮いている。最近流行のVRかARか、何かそんな様な感じで、何も莫い空間に四角い映像がぷかりと浮かんでいるのだ。これは自分の視覚認識に割り込まれた何かなのだろう。恐らく自分だけに視えているのだと思う。
猶暫く映像の繰り返し再生に熱中していた所へ、携帯電話が鳴った。神田からであった。
「お加減は如何ですか」
電話を取ると、開口一番そう訊かれた。
「すっかり良くなりました」
「それは良かった。如何やら面白い能力に発展している様ですね」
思わず上体を起こして、部屋の中をきょろきょろと見回した。
「今から出て来られたりしますか?」
「今からですか?」
起きてから着替えてもいなければ、食事もしていなかった。
「軽く食べてからでも好いですかね。昼過ぎに起きてから何も食べてないので」
「あゝ、それは不可ませんね。ではこの前の店で如何でしょうか」
「いやあの」
「お待ちしてますね」
外食する気など無かったのだが。なんだか神田に押し切られて仕舞った。仕方なく着替えを済ませ、部屋を出る。外に出たら急に空腹感に襲われた。矢張り少しでも肚に入れてから出れば良かったと思ったものの、取って返すのも大儀だし、神田を待たせても悪いと思ったので、稍早足で駅前へと向かった。
前回二人で行った店の前で、神田は待っていた。
「此処はよく見たら軽食ですね。クラウンさんの腹具合にもよるのですが、向こうのうどん屋さんの方が良かったりしますか?」
「えゝもう、何でもよろしいので」
「では向こうに行きましょうか」
そう云ってスタスタと歩いて行くので、クラウンは必死に付いて行った。
食券を買って二人掛けのテーブル席に着き、二人でうどんを食べた。クラウンが物凄い勢いでうどんをがっついている間、神田は不思議そうな表情でクラウンを観察していた。最後の汁迄飲み干して丼を置いた時、神田と目が合った。
「なんですの」
「いや、それ、如何云う能力なのかなと思いまして」
「そういや電話でも云うてましたね。何か見えました?」
「そうなんですよね。クラウンさんの認識制御能力が大分安定して来たことは判るんですが、それと同時に何か新しい能力芽生えてますよね。これがちょっと理解に苦しむので……」
「たとえばこんなんとか」
クラウンは両手の親指と人差し指で画角を作ると、その中に赤鬼の帰宅時の録画を投影し、更にそれを神田の視覚に滑り込ませた。
「ほぉ、何ですかこれは」
「今日うちに来た赤鬼が、帰宅する際の様子です。僕が能力を使って視たものが、こうしていつでも録画の様に再生出来るんです」
「なるほど、なかなか面白いですね」
「後一言添えておくと、此奴は一人で歩いていて、周囲に誰も居ません」
クラウンの説明に続いて、画面が赤鬼の視覚を外れ、後頭部を映し、上へ下へ、右へ左へと揺れ動いた。
「そうするとこの視覚情報は、一体誰のものなんですか? 物凄くダイナミックに動いてますね。――正面に来てもこの友人の方は視られていることに気付いていない様ですし」
「そうなんですよ。将にそこのところを、あなたに訊いてみたくて」
「私に?」
「自分でもこの視覚の正体が解らんのです。神田さんなら何か答えを持っていそうな気がしたので……」
「そうですねぇ」
神田は腕組みをして黙って仕舞った。
「この映像、本当に視覚なんでしょうか」
「どういうことです?」
「いや、こんな視点で見ている観察者なんか、鳥や虫を含めても、迚もありそうにないなと思いまして。であればこれは、視覚ではない何かの情報を元に、クラウンさんが
「ええと――如何云うことですか?」
「卑近な例で云うと、サーモグラフなんかがありますね。テレビなんかでも見かけるでしょう、温度の高い所が赤くなって、低い所が青く映るような映像です。あれは赤外線の強度を測定して、その情報を元に画像を作り出してモニタに投影している訳です。赤外線も光の一種ではありますが、視覚かと云われると違うものですよね。つまり人間には見えないものを映像として再現することで見える様にした訳です。クラウンさんが人の認識を視るのだって、結局はそう云うことですよね。本来見えないものを可視化している。これも同様なのではないかと」
「あゝ……でもこれ、ちゃんとカラーですよね。温度の高い低いとかやなく、木は茶色やし、草は緑やし、赤鬼の服は赤です」
「そうですねぇ……何か色を判断出来るような理由があるのか、若しくはクラウンさんが記憶や知識で勝手に彩色したのかも知れませんね」
「そんな器用なこと」
「出来ると思いますよ」
「そうなんかなぁ……」
クラウンは映像を繰り返し再生してみたが、如何も本物の色にしか見えない。
「あるいは、本当に可視光の情報を何かしらの方法で拾っているのかも知れませんね。遠隔地の特定のアイポイントに於ける、視覚的な映像の情報を……」
「ちなみにこれ解り難いですけど、ちゃんと音も付いてます」
「えっ」
「此奴無言やし、周り何も無いから気付きにくいかも知れませんが、ほら、脇通る車の音とかするでしょう」
「なるほど……丸で見えないテレビカメラをあちこちに飛ばせるみたいな能力ですね。おもしろいなぁ……如何遣ってるんだろう」
クラウンは不図思いついて、赤鬼の録画から別の映像に切り替えた。テーブルに向かい合って座る二人の人物を上から映している。一人は髪が黄緑だ。もう一人が上を見上げた。
「なるほど……特に何もないですね」
クラウンも上を見上げてみた。唯天井があるだけだ。視線を画面に戻し、視点を変えてみる。テーブルの高さから丼のアップ、その儘視点を下げて行ってテーブルの裏面、其処から周囲をぐるぐると回りながら再び視線を上へ。
「凄いですね、自由自在だ。然しこの映像を撮っていなければならないカメラの様なモノは見当たらないですね」
「神田さんにも解りませんか」
「想像による仮説なら幾らでも立てられますけどね。何れにしてもあなたは空間を制した訳だ」
「空間を、ですか」
実感が湧かない。
「場合に依っては、我々の空間とは別の空間迄手を伸ばしているのかも知れませんね」
「何ですかそれは」
また訳の解らないことを云いだした――クラウンにはそんな感想しかなかった。
「最新の物理学、超弦理論では、この世界は十次元だと云うことになってます。但し我々物質には、一次元の時間と三次元の空間を合わせた四次元の時空しか認識出来ない」
「はあ」
「然しこの十次元を自由に動き回れるものが一つだけあるんです。それが重力です」
「重力って、物と物が引っ張り合う力ですよね? その引っ張り合う力が動き回るって、如何云うことです?」
「ああ、ええと、量子力学では力も凡て粒子で表現される、と云うのは」
「何ですかそれは」
「うーんそうですね。光子、って聞いたことありません?」
「四十にして惑わず、とか云う奴ですか」
「それは孔子ですね。孔丘先生です。そうではなくて、光の子と書いて光子、若しくは光の量子と書いて光量子とも云います。要は光の粒々のことです」
「光は粒々ですか」
「量子力学では粒々です。で、この光と云うのは先刻迄話題に上がっていた可視光もそうなんですが、実は電磁気力を伝える粒子でもあるんですよ」
「もうついて行けません」
「電波は判りますよね? あれも光だし、光子なんです」
「電波は波じゃないんですか」
「そんな、ニュートンとかヤングとかの論争を今此処で繰り返すつもりはないですが、結論から云うと波です。そして粒です。それを量子と呼ぶんです」
「はぁ……」
「話を戻しますが、電波、赤外線、可視光、紫外線、X線などを全て含めて電磁波と云うんですが、電磁波イコール光です。で、この電磁波は、電気力と磁気力の掛け合わせなんです。だから、光と電磁気力は同じものなんです」
「はぁ……」
「静電気で下敷きに髪の毛がくっつくのが電気力、磁石に釘がくっつくのが磁気力です。二つを垂直に合わせると直進する波になります。これが電磁波です。電磁波は電磁気の力が具象化した存在なんです」
「はぁ……」
「まあ兎に角――」神田は鳥渡姿勢を直した。「物理の或る分野では、力は粒子が伝えると云うことになっています。で、重力もその一つなんですが、超弦理論と云う分野では、この力だけが十次元の空間を伝播することが出来る、かも知れない、と云われているんです」
「かも知れない、なんですか」
「まだ判らないことも多いですし、実験で検証することも出来ないですしね」
「出来ないんですか」
「でも若しかしたら、クラウンさんはこの重力子を介して、別の次元にアクセスしたり、我々の次元を別の角度から観察したりすることが出来るのかも知れません――妄想の域を出ないべたべたの仮説ですが」
「えゝと、まあ、よく判らないですが――うん、矢っ張り解らないです」
神田は困った様に苦笑した。別の空間とか、別の次元とか、神田の話を聞いている間は何となく解った気になるのだが、改めて反芻してみると何一つ解らない。それでも、なんだか神田が形を与えてくれた様な安心感はあった。説明出来るかも知れないんだと云う、それだけでも、得体の知れない不安は軽減するものなのだ。
「ちなみに何処迄視えますか?」
「どこまで?」
「距離です。どの位遠く迄、その様に映像化出来ますかね」
「気にしたこともなかったです。何しろ今日初めて出来るようになったので」
「ですよね。ではちょっと試してみましょうか。――大阪駅の様子などは視えますか?」
「ええと大阪は……あっちかな」
画角の中に大阪駅の外観が映し出されたが、一ト昔前のビデオテープの様に画像が不鮮明で、色合いも薄い。
「此処から大阪駅は……大体二十粁ですね」スマホの地図アプリで距離を確認した様だ。「それでは少しずつ遠離ってみましょうか。環状線沿いに反時計回りに、先ず西の方へ移動してみてください」
「福島の方ですね」
福島、野田と進むに連れて、段々画質が怪しくなって行き、西九条辺りで最早なんだか判らない程に画面が荒れて仕舞った。
「矢っ張り距離の限界があるんですねぇ。今の所、二十三粁前後に限界がありそうです。唯この限界は、恐らく直ぐに突破されるんでしょうけど」
「神田さんの強化力で、ですか」
「まあそれもありますし、今日目覚めた力なのだとしたら、これからどんどん強くなる可能性は高いでしょうね」
「マジですか、無敵ですやん」
「無敵かどうかは判らないですけどね」
神田は愉快そうに笑った。
エクステンディング(拡張してゆく能力)
ドラムがビートを刻み、切っ掛けから四小節遅れてギターがリフを飛ばすと、次第にハーモニーが沸き上がり、頂点からのボーカルシャウト。
「だぁぁぁぁぁぁああああい!」
クラッシュシンバルが激しく叩かれて……
「もぉお、クラウン! 止めんなや!」
赤鬼は演奏を止めて抗議する。
「それにしたって何やねんそれは。わいらいつからデスメタルになった?」
サタンがバスドラをどかどか鳴らしながら文句を付ける。
「えゝやん、一遍やってみたかってん」
「そんな真っ赤っ赤な派手な成りして何ゆうてんねん。似合わんわ。なぁクラウン?」
スタジオにはサタンと赤鬼の二人だけである。クラウンの姿は無いのだが、二人共丸でクラウンが居るかの様に振る舞っている。ベースの音さえ聞こえて来る様だ。
その頃クラウンは富士の麓にある忠国警備の施設で、神田の指導を受けていた。
「もう少し増やしてみましょうか」
「いくらでも!」
二人の足元には白雪姫にでも出て来そうな小人がわらわらと湧いていた。床から、壁から、中空から、次々と湧いては足許に溜まって行く。特に何かをする訳でもないが、唯々足許をウロチョロと駆け回り、お互いにぶつかり合ったり、転んだり、踏み付けられたり蹴飛ばされたりしながら、ワイワイガヤガヤと騒いでいる。
「これで今何体位ですか?」
「丁度千体ですね」
「中々圧巻ですねぇ。みんなそれぞれにユニークな動きをしているところが凄いです。パターンが見えない」
「千体一つ一つに別々の性格付けしてますから」
「性格付けしたら後は勝手に動きますか」
「動かしているのは見ている人なんですけどね」
「然し千の性格付けなんて、尋常じゃないですよ」
「そんなこと無いんですよ。一寸ずつ変えてるだけですから。僅かな違いでも動かしていると、どんどん行動の差が開いて行くんです」
「なるほど、まるでカオス理論ですね」
「なんですかそれ?」
また神田が訳解らないことを云っている。クラウンはもうすっかり、そんな状況にも慣れていた。
「中国の蝶の羽搏きが、アメリカにハリケーンを起こすと云う様な、バタフライ効果を識りませんか。僅かな初期パラメータの違いが、結果に大きな差異を齎すと云う様な話です」
「なんか聞いたことある気がしますね。理解しているかと云われると怪しいですが」
「まあ今云った通りなんですが……小人の性格をちょっと変えただけでも行動が大きく異なるというのが、将にそれなんです」
「へぇ」
その時、それ迄足許を駆け回るだけだった小人の一人が、神田の足をよじ登り始めた。
「おっ、干渉して来ましたよ」
「進化しましたね」
「想定外でしたか?」
「想定内です。育ってくれるの待ってたんですよね。多分そいつは、冒険心と向上心が高くて、協調性と危機意識が低い奴と思います」
そう云っている間に、二人目、三人目が神田やクラウンの足をよじ登り始めた。最初に上り始めた小人は、神田の膝頭の辺り迄到達している。
「擽ったいですね」そう云って神田は、膝の小人を抓み上げた。「抓めるんですねぇ……」
「まあその辺は、触覚なくすことも抓めなくすることも出来ますが」
そう云ったかと思うと、小人は神田の手から落ちた。脚を上って来る小人達も、急に実感が無くなる。投影された映像の様だ。
「自由自在ですね。この上何を訓練しましょうか」
「指導者がそんなんやと困りますよ」
合宿二日目にしてカリキュラムの行き詰まりを感じている二人は、床を埋め尽くす小人の幻影を前に、すっかり立ち竦んで仕舞っていた。
其処へ恰幅の良い、ニコニコ顔の白髪混じりの大男が入って来た。
「よぉう、遣っとるか!」
「かかりちょお!」
「部長だっつーのに!」
その部長だか係長だかは、クラウンの前に立つと、「君が噂のパンクロッカーか?」と訊いた。
「いや……パンクではなくて、一応メタルなんですが」
「おお、そうか! それは済まない!」
そして小人達を蹴散らしながら、神田へと寄って行く。尤も、蹴散らすも何も彼に小人は見えていないのだ。クラウンが幻覚を見せる対象としない限り、小人達が見えることはない。
だからクラウンは、彼にも小人を見せて遣った。
「おおっ! なんだこりゃあ!」
突然出現した小人達に驚愕し、ナントカ長は歩みを止めた。
「係長も見せて貰えたんですね。これが彼――クラウンさんの能力ですよ」
「幻覚師ってやつか! こりゃ圧巻だなあ! わはは、俺に登るかお前!」
すっかり楽しんでいるようであるが、クラウンは彼の名前さえ知らない。
「あの……こちらの方は」
「あゝ、すみません!」神田がハッとした様に顔を挙げた。
「私の上司の、佐々本かか――いや、部長です」
「部長さんなんですね?」
「そうです、部長なんです。前は係長だったんですが」
「何年前の話をしとるか! 二〇一一年の正月にこの会社の部長に収まって以来、もう八年間も部長なんだぞ! 係長だった期間の、四倍近いのだ! 四倍! 否、正味三倍ちょっとだが!」
語気は激しいが顔は笑っているので、怒っている訳ではないようである。
「あゝ、もうそんなになりますかねぇ」
神田は遠い目をした。その視線の先に何があるのか。
「ほんで。どないしましょ」
空気が停滞し掛かったので、少し押してみた。
「唉、そうですねぇ……」
「なんだお前ら、困りごとか?」
佐々本部長が二人を交互に見る。
「えゝまぁ。クラウンさんが優秀過ぎて。次に何の訓練をしようかと思案していたところなんです」
「俺に任せろ! で、何が出来る?」
神田はクラウンの能力に就いて事細かに説明した。認識制御に、空間を越えた遠隔監視能力。監視情報の記録と再生。
「なんだそりゃあ、丸っきりスパイの為の能力だな――ご先祖にMI6かKGBでもいなかったか?」
「かかりちょぉ」
「なんだよ、ジョークだジョーク。それにしてもなぁ……」
佐々本はクラウンを繁々と眺めた。
「後は亜空間ワープでも出来れば完璧だな」
「なんの完璧ですか、そりゃ?」
二人の会話を聞きながら、クラウンは己の掌を凝と見詰めていた。亜空間と云うのが如何なものか判らないが、ワープと云うからには、二点間の直線距離より短い経路を見付けなければいけなくて、それは一枚の紙を折り曲げてスタートとゴールをくっ付けるようなものだと、以前何かの漫画で読んだ気がする。
「二点間を……」両手を合わせて「くっ付ける?」
クラウンの呟きと同時に、周囲の景色が急変した。
「うおっ、なんだこれは!」
佐々本が明白に狼狽える。
「これが亜空間ですよ、係長……」
神田はクラウンを凝と見詰めている。
何より驚いていたのはクラウン本人である。この妙な空間は、確かに自分が生み出したものだと思う。然しそれが如何云う意味を持つのかが、好く解らない。
「かっ、神田さん? これは一体……」
「何か来ますね」
「え?」
遠くから誰かが遣って来る。凝と目を凝らして待っていると、少しずつ判然と視えて来る。
「サタン? 赤鬼も……いや違う、これは……」
如何見てもそれは幻覚だった。自分の視覚に迷い込んで来たノイズだ。クラウンはそれを消し去ると、神田を振り返った。神田は何かに驚いた様に目を大きく見開いていた。何かの幻覚を見ている。
「あゝ、不可ない……」
クラウンはそれも消した。神田が安堵の溜息を吐く。
佐々本を見ると、これも何かを凝と睨み付けた儘固まっている。これも幻覚を見ていたので消した。
「どういうことかな」
佐々本が二人に向けて疑問を発する。
「幻覚に襲われていますね……非常に緩慢にですが」
「やはりそうなんですね。これは、この空間の特性なのでしょうか」
クラウンの説明に、神田は納得した様に頷いた。
「で、この空間はなんなんだ?」
佐々本は四方に睨みを利かせながら尚も問う。
「ですから亜空間ですよ。恐らく、地上の何処よりも目的地へ早く辿り着ける空間、係長の求めていたワープ空間でしょうね」
「本当かよ」
「僕にはそう見えます」
空間の生みの親のクラウンは、その説明を聞いても全くピンと来ていない。
「論より証拠。一寸移動してみましょうか。そうですね――大月支社へ向かって」
そう云って神田が歩き出すので、後の二人も仕方なく付き従った。十歩程進んだ処で神田は立ち止った。
「恐らくこの辺りなのではないかと。クラウンさん、空間を片付けられますか?」
クラウンは手を合わせてから、それを緩と開いた。先刻の逆手順の心算で。
周りの景色が回転しながら消えて行き、何処かの会議室へと出た。
「おお、大月だ! このぼろぼろのテーブルは、確かに大月のものだ!」
佐々本が驚いている。如何やら神田の云う通りだったらしい。
「はゝ、富士からほんの数歩で、大月か」
「大月って遠いんですか? 何県です?」
クラウンの疑問には神田が答えた。
「大して遠くはないですよ、山梨県ですので。ただ、普通数歩では着かないでしょうね」
「神田さん……これ、何なんですか……」
「
クラウンは神田の顔をまじまじと見詰めた。如何にも頼りなさが滲んでいる。
「亜空間だろう! ワープ空間だよ、SFでよくあるヤツ!」
佐々本は能天気なことを云っているが、クラウンには如何も信じられないし、神田も解釈に困っている様である。
「それにしても神田さん、よく目的の位置が判りましたね」
「私はね、兎に角能力者の能力が判るんですよ。その特性も手に取る様に理解出来る。時々理解を超えることもありますが、一度見聞きし、体験して納得さえすれば、後は細部迄我が事の様に解ります。だからあなたの作り出した空間の特性も解って仕舞う。――あなたにも解っていた筈ですよ」
「えっ、いや……」
「よし分かった!」佐々本が、獄門島なんかの映画に出て来る等々力警部の様な感じで、ポンと手を打った。「もう一回遣ってくれ、それで富士に帰ろう。その時にもう一度よく検証してみればいい」
「そうですね。クラウンさんお願いします」
クラウンは云われる儘、先程と同じことをもう一度遣ってみた。掌を凝と見詰めて、くっ付ける。周囲の景色がぐるぐると回転して、怪しげな空間へ入る。
「よし、富士はどっちだ?」
「クラウンさん、土地勘が無いとしても、元居た場所が何処か位なら判りませんか?」
「そうですねぇ……」クラウンは周囲を見回した。先程と同じ様に怪しげな幻覚が襲来して来たので、それをいなしつゝ、「こっちの方ですかねぇ」と指さしてみる。
「正解だと思います。では、此処だと思う所迄進んでみてください」
クラウンは自分の感覚に従い、十歩程進んで止まった。
「此処だと思うんですが……」
「では通常空間に戻りましょう」
掌を合わせてからそっと開くと、再び元の空間へと戻る。其処は正に、大月へ向かって出発した時と全く同じ場所だった。
「ビンゴォ! それにしても今回は、変な幻覚に襲われなかったな」
「あゝ、消しておきましたので」
佐々本の独り言にクラウンは何気なく答える。
「襲われる前に対処したのか、大した適応力だな」
佐々本は目を丸くしていた。
「そうなんですよね。センスあるんです、彼」
思いの外褒められたので、クラウンは鳥渡むず痒そうに体を捩った。
その頃サタンと赤鬼は、スタジオを引き上げて公園のトイレで化粧を落としていた。
「この後一杯どや?」
サタンがタオルで顔を拭きながら、赤鬼に声を掛ける。
「えゝで。――え、クラウン行かんの?」
「なんや、付き合い悪いの」
「まあ、本調子でないなら無理強いはせんよ。帰って寝とき」
「まあ、演奏の方も今日はなんだか、存在感が薄いと云うか、いつものノリが無かったみたいやしなぁ。――ほな二人で、いつものとこ行こか」
サタンと赤鬼は、二人で呑み屋へ向かった。二人の中では、クラウンは体調が優れないと云って一人で帰ったことになった様だ。
二人が好い感じに酔っている頃、高槻の空には神田とクラウンが帰って来ていた。
「結局二日間で、可成の収穫がありましたね」
「こんなに能力を連続して使いまくったの初めてなんで、流石に疲れましたわ」
「未だ未だ発展の余地はありますよ。先程も説明した通り、今回急激な能力の開発が見られた為、早めに切り上げて一旦はお帰り頂く訳ですが、暫く間を置いてからまたお迎えに来るので、楽しみにしておいてくださいね」
「はい、首を長くして待っておきますよ」
「それはそうと、皆さんに掛けた集団幻覚、解き忘れない様にお気を付けください」
「おゝ、そうやった。うっかりドッペルゲンガー発生させるところでしたわ」
神田は薄く笑うと、「ではお気を付けて」と云って、クラウンを静かに地上へと降ろした。
クラウンは建物の陰に隠れた状態で一旦立ち止まり、広範囲に掛けておいた集団幻覚を緩やかに解除すると、自宅への道を歩き始めた。
ドリーム・ウィズイン・ア・ドリーム(夢のまた夢)
サマーライブの盛り上がりはいつも通りだった。いつも通り、微妙だった。最前列の希少なファン達も相変わらずだし、他の客も相変わらずだった。
「オーケー! この盛り上がりを本番でも頼むぜ!」
赤鬼プランクトンのシャウトも相変わらずだ。
「本番では今以上になぁ!」
クラウン吉川のボケも相変わらずだ。
「身も蓋もないこと云いないな!」
サタン町上のドラムロールツッコミも相変わらずだ。
ステージから捌けて、楽屋へ行き、帰り支度をする。これも毎度のことだ。今度は変な女もいない。何事もない平凡な前座だった。
「なぁ」
平坦なトーンでサタンが発声する。
「あぁ」
赤鬼が更に無感動にそれに応じる。
「なに」
クラウンが申し訳程度に先を促す。
ここ数ヶ月、三人の間には如何も気怠い空気が流れている。盛り上がりも低迷もない。日々淡々と過ぎて行く気がする。成長も発展も、全く手応えを感じないので、この儘では禿げ上がる迄朽ちて行くしか無い様な気がする。
「オジン・ハゲトーンって、実は物凄いバンドなんかも知れんな」
楽屋の椅子にだらしなく沈み込みながら、サタンが虚ろな目で云う。赤鬼が視線を挙げてサタンを見たが、何も云わなかった。
「知ってんか? あのバンド、十代ン時に結成してから今年で四十周年やと。よぉそんなに続くわな」
「一回メジャーになり掛けたらしいで」
クラウンが話しを継ぐ。
「そうなんや。何でダメんなったんやろ」
「メンバが一人抜け駆けしたんやと。そいつは一人で、事務所の作った別のバンドでデビューしたけど、直ぐに他のメンバと入れ替えんなって、結局何処かへ逃げてそれっ切りや。せやからあのバンド、結成時から一人減ってんねん」
「そうなんや……」
「その抜けたんがボーカルで、暫くボーカル抜きのバンドでやってゝんけど、結局はギターの川島さんが歌う様になった聞いたで」
赤鬼がまた視線で反応したが、矢張り何も云わない。
「へえ。クラウンお前、ハゲトーンのファンか?」
「何でやねん。一曲も知らんわ」
「にしては、やけに歴史に詳しいやん」
「本人に聞いてん」
話題が途切れて暫く沈黙があり、またしてもサタンが話題を振る。
「川島さんて、ポンタに似てはるやんな」
赤鬼が明白にサタンを凝視した。反対にクラウンは視線を逸らせた。
「禿げてんのにな。何か物真似用のヅラ迄持ってるらしいけど」
クラウンは視界の隅で、サタンの認識の様子を見る。特に目立った感情の動きなどは無く、焦点の定まらない目で卓上の灰皿の辺りを見詰めている。大阪レジスタンスのメンバーは誰も煙草を吸わないので、灰皿は綺麗なものである。
また暫く沈黙が続いた。今度はサタンも黙って仕舞って、誰も沈黙を破ろうとしない。
赤鬼はサタンを凝と見詰めた儘、何も云わずに固まっている。赤鬼のことだから、何か声を掛けたいけど何を云えば好いのか思い付かないのだろう。
沈黙に耐えられなくなったクラウンは、一度仕舞ったベースを出して来て、ボン、ボンと弦を弾いた。何か音があれば紛れると思ったのだ。それを見た赤鬼もギターを出して来て、出鱈目なメロディーを弾き始める。ベースとギターがセッションを始めると、なんとなくそれらしい感じになって来て、即興の新曲が生まれる。赤鬼がハミングを始めて、曲らしくなってくる。ずっと黙って聞いていたサタンが、スティックを手に取って、灰皿をハイハット代わりに、机をスネア代わりにして、床をバスドラに見立てゝリズムを刻む。
なんだか切なく、悲しい曲が編まれて行くが、今一つ盛り上がらないし、かといって収束もしない。淡々と単調に、少しずつ心を抉って行く。なんだか堪らなくなるのだけど、誰一人、演奏の手を止めることが出来ない。
「そうやん、こうやって俺ら、伝え合って来たんやん」
クラウンが歌うように云うと、赤鬼がそれに応える様に、
「怖いねん、今、伝えることが、別れへのステップになる気がして」
サタンが床をどたどたと踏み散らかして、
「おまえら! ええ加減にせぇよ
赤鬼とクラウンは、吃驚して演奏の手を止めた。サタンは立ち上がっていた。
「あんな、ポンタさんがな……鼠先輩なんか知ってるか
「おま……」クラウンは口元に手を当てた。
「それでもわいは騙されたんや、騙された振りやないで! 正真正銘騙されたわ! せやけどそれはえゝねん! えゝのよそれは! 幸せやったもん!」
クラウンも赤鬼も、口を差し挟めなかった。
「そんなことまでしてバンド続けたやん! レジスタンスの解散の危機乗り越えたやんけ! それがなんやこの、為体は! どうしてしもたんやお前ら!」
クラウンは胸が痛かった。多分ここ迄バンドの空気がトーンダウンして仕舞ったのは、自分の所為なのだ。集団幻覚なんてものに頼り過ぎて、この半年間は殆ど富士に居たし、なんなら軽微な案件の手伝い迄した。その間ずっと、この二人は幻覚のクラウンとセッションしてきたのだ。そんなもん、真面なバンド活動になる訳がない。然しそれを正直に云う訳にもいかないし、かと云って他のメンバーの所為にすることも出来ない。
「なんかすまん。わしのベースが最近ノれてないから……」
そんな云い訳位しか出て来ない。
「クラウン、そやない。俺のギターも歌詞もアカンねん」
赤鬼が責任を被ろうとしていることさえ、心苦しい。
「誰が悪いとかやないよ。そんなこと責めたい訳やないねん」
サタンがトーンを落として、椅子に座り直した。
「わいら、終わるんか?」
再び沈黙。誰一人、応とも否とも答える者はない。
すうっと、風が吹き込んだ気がした。
手にはスティック、右足にはバスドラのペダル、左足にはハイハットのペダル。そうだ、これは長年使い込んで来た愛用のドラムセット。二十万位したんだ。バイト代をコツコツ貯めて、やっと買ったんだ。バスドラには「大阪レジスタンス」のロゴがプリントされている。ハイハットでエイトビートを刻みながら、二拍置きにバスドラ、四拍置きにスネア。これが基本のエイトビート。サビに入るところでクラッシュ、タムタム、フロア、ライドで締めて、再び基本形。バスとスネアに変化を付けて……不図客席に目が行く。ポンタだ。川島ではない、本物のポンタだ。わいが見間違えるものか。病院では態と引っ掛かって遣ったのだ。ポンタの隣には、RCサクセションの新井田耕造。我ながら嗜好が古い。でも堪らない。ポンタがドラムを叩く。新井田もドラムで応える。サタンが続けて叩く。三つのドラムセットが三角形に向かい合って、ドラムだけのセッションが始まる。重鎮二人を目の前にして、サタンも引けを取っていない。最高にハッピーなセッションだ。
伝説のギタリストなんか枚挙に暇がない。その中でも特に、エリック・クラプトンに心酔している。勿論日本人の、小川銀次だって凄い。押尾コータローだって神だ。人間椅子の和嶋慎治にだって到底敵わない。いやいや、赤鬼如きがプロのギタリストに並ぼうと思うこと自体が冒涜だ。そんな四人が何故今、目の前でセッションしているのか。コンセプトもスタイルもバラバラの四人が、信じられない程美しいハーモニーを生み出している。赤鬼自身もギターで参加している。敵わない筈なのに、並んで演奏している。決して引けを取っていない。物凄く気持ちが良い。こんな夢のようなセッション、一生続けていたい。この儘死んでも構わない。夢なら醒めるな――
サタンは机に突っ伏して、赤鬼はソファに沈み込んで、涙を流しながら寝ている。クラウンはそんな二人を置いて、そっと楽屋を後にした。
「わしにはもう無理や。すまんな……」
誰にも聞こえない様に呟いて去った心算だったが、楽屋ドアの横でリーは聞いていた。然しクラウンはリーには気付かず、その儘立ち去った。リーも引き留めはしなかった。
その日の夜、クラウンは高槻の家を引き払って、単身東京へ出て来た。
何も当てはなかった。誰も頼る者も居なかった。東京なら何とかなるか、位の気持ちで出て来たが、家賃の高さに当てられて、殆ど挫け掛けていた。
その晩はスーパー銭湯に泊まった。翌朝牛丼屋で腹を満たすと、東へと歩き出した。途中、長い橋を渡った。渡り切った処は最早東京ではなかったが、クラウンに土地勘など無い。道々不動産屋や、空き室有りの看板などを見かけては立ち止まる。橋を渡ってから少し安くなった気がする。もう一声、もう一声と思いながら、歩みを進める。然し駅の近くになると再び家賃は高騰して来る。好い加減疲れて、駅前のファストフード店へ入った。
ハンバーガーにかぶり付きながら、道々収集した住宅情報のフリーペーパーを確認する。結局のところ、駅に近ければ高くなるのは仕方が無いのだろう。深く溜息を吐いた時、目の前に誰かが座った。
「クラウンさん、こんなところで何してるんですか」
神田だった。
「あっ、え、どうして」クラウンは滑稽な程狼狽えた。
「都内の支部に居たら、クラウンさんの気配を感じたので、来てみました」
「あゝ……そうか、そうですよね、神田さんには判って仕舞うんでした」
なんとなく、不自然な標準イントネーションで喋っている。大阪弁なり近江弁なりが出て来るのが、なんとなく怖いのだ。彦根生まれなので元々近江弁だが、大阪育ちなので大阪弁で上書きされた状態である。関東人から見たら「関西弁」で一緒くたなのだろうが、何れにしても関東で関西人と思われるのが怖い。友人などと一緒であればまだマシなのだが、独りの場合如何すれば好いか解らない。だからぎこちない標準語になって仕舞う。
「若しかして移住して来るのですか? 物件をお探しの様ですが」
広げられたフリーペーパーを見ながら、神田は訊いて来た。
「えゝ、まぁ……然し思ったより高くて。襤褸アパートで好いと思ってたんですが、そもそも襤褸が余りないんですよね。綺麗で高い所ばかりで」
「千葉県がお好みで?」
「いや、別にどこでも……」
「そうですか。弊社でも宿舎はいくつかあるんですが……別に社員でなくとも、協力者として登録頂けるのであれば、そうした枠での賃貸も可能ですが、如何しましょうか」
「滅茶苦茶営業モードですね」
「お安く出来るんですよ。此処に並んでいる物件の、半額か三分の一か、場合に依ってはそれ以下です。バイトや副業して頂いても全く構いません。クラウンさんの場合既に何度かお手伝い頂いている関係なので、登録も形式ばかりのもので、直ぐにでもご案内出来ますよ」
クラウンは腕組みをして鳥渡考える振りをしたが、考える迄もなかった。
「場所は何処になるんでしょうか」
「都内でも千葉でも、埼玉でも神奈川でも。結構各地に在りますね」
「――お願いしちゃって良いでしょうか」
「もちろん!」神田は満面の笑みで応えた。「そう云えば、バンドの方は解散されたんですか?」
「いや――如何でしょう。僕が捨てゝ仕舞った形になってると思いますが……」
「確認されてないんですか?」
神田は人差し指と親指で画角を作って見せた。
「いや……見るのが怖いと云うか……」
「確認しないのも怖いのではないでしょうか」
「はぁ……そうなんですけど……」
クラウンは画角を作ってみた。サタンと赤鬼が映る。リーとジンも一緒に居る様だ。いつもの飲み屋で、四人で何事か相談している。四人の間には、クラウンが書いたメモが置かれている。
「世話になった人達に相談してますね。未だどうするか決めてない様です……」
「このメモみたいなのにはなんて書かれているんですか?」
「あ――これは、その――東京に行く、バンドはやめる、申し訳ない、と云う様なことを――」
「なるほど。捨てて来たんですねぇ」
神田がしみじみ云うので、クラウンは罪悪感に圧し潰されそうになる。
「それにしても、四百二十粁ですか……大したもんです」
「はぁ」
「大阪なんですよね? その四人。四百二十粁位あるんですよ、此処から。いずれ日本全土をカバーするのも時間の問題なのではないかと」
確かに、こんな長距離の監視は初めてだった。クラウンは画面を凝と見詰める。リーの声が聞こえて来る。
「まあ、しゃあないわ。もう行ってしもたんやろ」
「結局俺ら、あいつの気持ち何にも汲んで遣れんで……」
「それはちゃうで、赤っち。アイツは意図的に、気持ちをひた隠して来たんやろ。気付かないのんが正解や。そのメモ見たら判るわ」
「解りまっか」
「解るよサタやん。アイツはお前等のこと大事やったからこそ、こんなことしてん」
「そんなん云われても……」
「まあそやろな。――ほんでお前等、お前等としては如何したいねん」
「わいは赤鬼の気持ち考えたらもぅ……」
「俺は二人でも続けたいで!」
サタンは顔を挙げて、赤鬼を見た。
「なんやねん、俺の気持ちて。お前今リーさんに何訊かれた? お前の気持ちやろ? 何でそこで俺が出てくんねん! お前自身、如何したいねん!」
「俺は……」
サタンは暫く、己が右手を凝と見詰めながら、握って開いてを繰り返していたが、軈て一言、「叩きたい」と、ぼそりと呟いた。
「極まりやな」
リーが立ち上がる。ジンも立ち上がりながら、二人を見て声を掛ける。
「暫くしんどいかも知らんが、全然うち頼ってくれてえゝからな。何ならゲストメンバでちょっと間入ってくれてもえゝで」
「えゝ、ジン、マジか」
リーが不安そうに云うが、ジンは笑いながら、「此奴等なら問題ないわ」と云った。
クラウンはそこで画面を消した。と同時に、落涙した。袖口で眼を擦り、急度顔を挙げて、「神田さん。もう大丈夫です」と云った。
「良かったんですか。別に私としては、バンド活動を続けて戴いても……」
「駄目なんですよ、もう、自分自身が。両立は出来ないです。――なので、まあ正社員は無理でも、お仕事の方は宜しくお願いします」
クラウンはぺこりと頭を下げた。
「えゝまあ、それは、有り難いですが。――いや、そうですか、では先ず、住居ですね!」
「ハイ! お願いします!」
クラウンはもう一度、頭を下げた。
道頓堀に沿って、赤鬼がとぼとぼと歩いている。リーやサタンにはああ云ったものの、この儘音楽を続けて行けるのか如何か、非常に心許無い。赤鬼とサタンはバンドの中では結構両極端で、おっさんで頑固なサタンと、ガキで移り気な赤鬼の、丁度中間地点でバランスを取っていたのがクラウンなのだ。一旦ブルーエンペラーズが面倒を見てくれることになったとは謂え、今の赤鬼には不安しか無い。何故クラウンは去って仕舞ったのだろう。
戎橋に差し掛かった辺りで階段に腰を下ろし、赤鬼はポケットから小さく折り畳んだメモを取り出すと、丁寧に広げて繁々と眺めた。リーはこれを見て、クラウンが赤鬼達のことを大事にしていたことが判ると云っていた。そんなこと判っている。だけど赤鬼は解りたくなんかない。
――サタン、赤鬼。身勝手ですまん。わしは東京に行く。ベースはもうこれ以上、どうもならん。続けていても足引っ張ってお前らに迷惑かけてしまうだけや。ベースのいないバンドかてあるし、お前らならうまくやれるやろ。サタンのドラムは天下一や。少なくともわしはそう思ってる。偽ポンタの件はすまんかった。でもお前なら乗り越えていける。赤鬼の詞は粗削りやけど、そんでも誰にも書けんようなハートがこもってる。ギターかて捨てたもんやない。少なくともわしはそう思ってる。お前ら二人ならメジャー行ける。東京からチェックしとくからな。ガンバレ。
「クッソ!」
赤鬼はメモをくしゃっと丸めて、堀に向かって投げようとしたが、結局投げ切れず、また丁寧に畳み直してポケットへ戻した。
「見とれよ、後悔させたる」
口の中でそう呟くと、赤鬼は戎橋の階段を登って行った。
(終わり)
二〇二三年(令和五年)、十一月、六日、月曜日、先勝。
改稿、二〇二四年(令和六年)、五月、六日、月曜日、赤口。