父から子へ
里蔵光
一
「加藤さん、診察室へどうぞ」
待合室に日奈さんの声が響く。日常の光景だ。診察室では母が、カルテを捲って次の患者の確認をしている。僕はと云うと、その奥のカーテンで仕切られたスペースで、看護師達の邪魔にならない様にこっそり隠れて、母の仕事振りを見ている。
「あれ、ヒロくん帰っとったの? ちょっと通るよ、ごめんね」
看護師の希理子さんが僕を避けながら、奥の戸棚に消毒薬を取りに行った。
「やあヒロくん、今日もお母の見学?」
ガーゼや包帯を抱えた多恵さんが、目の前を通り過ぎる。
希理子さんが消毒薬を持って戻って来ると、「オキシドールでーす」と云って多恵さんに手渡した。
診察室では母が、鳶か大工の様な恰好をした患者の腕に包帯を巻いていた。何をしたのか判らないけど結構な怪我をしている。包帯を巻き終わる位のタイミングで、鳥渡だけ治りが早くなるおまじないをしておいた。
「なんか良なった気がしゃあす、流石は由紀先生だがや!」
患者さんがそんなことを云っている。
「何云っとりゃあす、消毒して包帯巻いただけだで。暫くは大人しゅうしときゃあよ」
母にはおべんちゃらなど通じない。冷たくあしらうと、「はい次の方ー」と云って患者を追い出した。
僕は幼稚園から帰ると、いつもこうして母の仕事を見守り、時々鳥渡だけ手助けしている。母は僕がそんなことをしているなんて気付いていないし、僕の能力のことも知らない筈だ。これを知っているのは父だけ。
次の患者は食中りの様で、洗面器持って青い顔しながら入って来た。看板には「澤田小児科外科クリニック」なんて出しているけど、正直何でも来る。町医者だから外科も内科も無いのだ。ところでこれ、サルネ……サモルネ……なんだっけ、これヤバイ奴だ。これ以上悪化しない様に、あと他の人に伝染らない様に、おまじない。辛そうだと云うことで、別室で吐き気止めと下痢止めの点滴になったけど、まあ直良くなるよ。
こんな調子で次々来る患者の治療を鳥渡ずつ手助けしている所為か、母の治療は良く効くと評判になっちゃって、引っ切り無しに患者が来る。御蔭で近所の他の医者は暇になってる様で、鳥渡遣り過ぎたかも知れない。余り遣り過ぎたら、また父に怒られちゃうなぁ。今日はこの辺にしておこうかな。
この診療所は母を始めとして、女の人しかいない。受付の日奈さん、看護師の希理子さんと多恵さん。日奈さんが三十前半で、看護師二人は二十代らしい。皆僕を可愛がってくれるから、迚も居心地が好い。いつも入り浸って仕舞う。で、そのお返しに治療のお手伝いをしているんだけど、今日は鳥渡だけ遣り過ぎた気がする。
「はーい、今日の診察はおしまいでーす」
日奈さんが診察室に終業を知らせに来た。
「はい、お疲れさん。キリちゃんと多恵ちゃんもお疲れさん」
母が白衣を脱ぎながら、皆に労いの言葉を掛けている。
「それでは、失礼しまーす」「キリちゃん、お茶行かない?」「あー、今日用事あるもんで、ごめんねぇ」
そんなことを云いながら看護師達は捌けて行った。先日迄緊急事態宣言だか厳重警戒宣言だか云うものが出ていたけれども、それも取り敢えず解除になって、看護師さん達も今迄我慢していた分を取り返したいのかも知れない。今回は都合が合わなかった様だけど。
「弘和も、帰ろまい」
丸椅子からぴょんと飛び降りて、母の手を握る。
「今日も大人しゅうしとったね。退屈せなんだの?」
「うん、楽しかったわ」
「何がほんな楽しいかね。わからんねぇ」
外に出ると、冷たい風が首筋を掠めて行った。最近曇り勝ちな所為か、急に涼しくなってきた。十月だから当たり前なのかも知れないけれど、でもつい先週位迄は未だ未だ夏の様に暑かった気がする。若干体を縮こませながら、母と一緒に診療所を後にする。表玄関の鍵を掛けてシャッターを下ろしたら、稍急ぎ足で裏に回って住居の玄関から同じ建物に入る。診療所の二階が住居になっているのだ。
「ただいまぁ」
「おかえり!」
帰宅すると、父が出迎える。父は在宅で仕事をしている。何の仕事をしているのかはよく知らないけど、今はどの会社も、出社しないで在宅で働くのが普通なのだそうだ。一寸前迄は普通に出勤していたそうなのだけど、よく覚えていない。幼稚園に入るより前の話だと思う。初めて「緊急事態宣言」なんて聞いたのはいつのことだったかな。皆あの感染症が原因なんだ。
そういえばその感染症も見たことあるよ。家に受診しに来た人の中に居たんだ。凄いヤバそうだったから、検査とかで確定する前に僕が完治させちゃった。周りに伝染り掛けていたのも全部消しといた。発熱者用の隔離された待ち受けで辛そうにしていたのに、診察時には熱も下がってケロリとしていたから、大袈裟な人だなってことになって、薬も出さずに追い返されちゃったのは気の毒だったけど、そんなこと云ったって感染症で苦しむより何百万倍も好いよね。この事を知っているのは父だけなんだけど、父も流石にこの件に就いては僕を叱らなくて、ちょっと複雑な難しい顔してたっけ。――まあそんな訳で家の界隈では、否少なくとも家に来院する人達に限っては、感染者出てないし、これからも出さない。
診察は午後六時に終わっているから、そこから夕御飯の支度をして、遅くとも八時迄には食べ終わって、それから父とお風呂に入る。お風呂の中で、今日のことを話す。治療の手伝いをした件に就いては凡てここで報告する。隠しても何でかバレちゃう。能力を使った痕跡とかが残るみたいで。だから全部正直に話すんだけど、案の定鳥渡叱られた。
「そりゃあやり過ぎだよ。もう少し手を抜けよ。もっと人の自然治癒力を信頼しろな」
「別にそこは、信頼してないわけじゃないよ……」
「そうかな。だったら寧ろ何もしないでおいてくれよ」
父はこの辺の生まれじゃないから、ちっとも訛っていない。だから父と話す時は、僕も訛らない。なんと云うか、訛るかどうかって結構相手に引き摺られる。母と話すと訛るし、父と話すと訛らない。なんか不思議だけど、そうなんだからしょうがない。
「そうだヒロ、お前そろそろ他の能力も覚えてみないか」
「他って?」
「毒の中和とか」
「毒って……なんとなく判るよ」
「そうなのか?」
「ちゅうわってのは、したことないと思うけど……あれが毒だな、ってのは判る」
「流石だなぁ、父さんがそれ判る様になる迄には、結構時間掛けたんだけどな」
「えへへ」
多分褒められたんだと思う。なんだか嬉しかった。
「じゃあさ、このお風呂の水にどんな毒が入ってる?」
「どんなって……水道の水には全部この……臭い奴入ってるけど、毒なこともあるけど、でもこれが無いと水腐るよ」
「塩素な」
「えんそ?」
「そう。正確には次亜塩素酸イオン。大量にあったら矢っ張り毒なんだ。でもヒロが云う通り、消毒の効果があるし、少量なら無害なんだ。試しに――」父はそう云うと手桶で風呂の水を掬って、「この桶の中からその次亜塩素酸イオンを消してご覧」
「うーんと……こう……かな?」
じあえんなんとか云うモノを、鳥渡クルっとしてみたら、桶の中のソレが連鎖的にパタパタと消えた。何で消えたのかは好く判らないけど。
「上手いなぁ」
また褒められちゃった。でもその代わりに、なんか別の悪いものが増えて行く気がする。
「次亜塩素酸が消えたから、この水の中に別の毒が増えてきたの判るか? これは雑菌だな。風呂の水なんか雑菌だらけだ。カビとか、レジオネラとか、バクテリアとか、皮膚の常在菌とか」
どれが何かとか、名前は好く判らないけど、良くないモノ――毒が増えて行くのは判る。
「この毒も消せるかな?」
やってみた。クルリクルリと捻ると、次々と毒性のモノが消えて行く。形あるモノは破裂したり溶解したりして、分解、吸着、結合を繰り返し、あるモノは沈殿し、あるものは拡散し、毒素が次々と消滅してゆく。
「凄い凄い。父さんよりすごいぞ!」
また褒められたみたい。非常に嬉しい。
「どれが何て名前なのか、追々憶えて行くと好いよ。取り敢えず今遣っ付けたのはね――」
父が色々な名前を教えてくれたけど、ややこし過ぎて直ぐには覚えられそうにないから、後で図鑑とかネットとかで復習しようと思う。
「今日はこんな所だな。他にもいろんな毒があるから、今度教えてあげるよ」
なんだか不穏な会話だと思うけど、楽しみの方が勝って仕舞う。それにしても父は、なんでこんなに色々と教えてくれるのだろう。診療所で患者を直すのは良くないと云う癖に、なんだか迚も愉しそうに、僕に色々教えてくれるんだ。
そんな父が、僕は大好きだ。
二
一年生の間は本当に退屈だった。学校に行っても席は離されて隙間だらけで、給食も黙って食べなくちゃいけなくて、運動会も音楽会も有った様な無かった様なよく解らない状態で、遠足も参観も無く、非常に淡々と時が過ぎて行く感じ。折角小学校に入ったのに、余り楽しい思い出がない。
診療所も待合を半分位閉鎖してる感じで、患者さんは自宅から診察予約して、順番が近くなったらメールとか電話で呼び出して、待合には精々五人程度しか居ない様に調整されてて。それでも年寄りとか、呼んでも無いのに早く来ちゃったりして、そんな時には外にベンチ出してそこで待って貰ったり。なんかもう大変。予約は電話でも受け付けてたけど基本はネットで、呼び出しも基本はスマホの通知とかで。そしてそんなシステム作ったのは父だったりする。なんかそう云うの得意なんだって。そんな感じの仕事してるみたいだし。
本当にこの一年位は、兎に角感染者数が爆発的に増えちゃって、皆すごくバタバタして大変だった。この期間に潰れて仕舞ったお店とかもあるみたいだし、家の診療所で愚痴を云う人も後を絶たず、皆暗い、疲れた顔ばっかりで、見ていて本当に気持ちが沈んだ。それでも母の手伝いは、手を抜かず、遣り過ぎず、適度に熟して、例の感染症だけは徹底して駆逐する様にしていた。感染症の流行なんて僕一人で頑張ったところで、大勢は変わらないんだけどね。それでもしないよりはマシだし、これで身の周りの人達だけでも助けられるなら、無駄ではないかなって、父が云うので。そんなものかと思って、そこだけは頑張った。
一年生の終わりから二年生に上がる位にはそれも下火になって来て、もう大丈夫って国も云い始めた様で、規制なんかも次第に無くなって、少しずつ普通の生活が戻って来た。そんな最中に、その人は来たんだ。
二年生に上がって直ぐだったと思う。母が医師会の用事で家を空けていて、父と二人で留守番していた日に、家へ遣って来た。昔の父の仕事仲間だと云っていた。父の昔の仕事ってなんだろう。僕は今しか知らない。
その人は何だか奇怪しな人を連れて来ていた。髪が黄緑色で、左目の周りに黄色い星模様を描いて、顎が矢鱈尖っている。あ、顎は余計なお世話か。
「よう、澤田。久しぶり」
「シンさん! 元気にしてましたか? 警備会社の方の景気は如何です?」
「まあまあかな。お前の方がお稼ぎじゃないのか?」
「僕ではなくて、嫁さんがですね」
「ははは、由紀ちゃんに食わせてもらってるか」
父は極まり悪そうに頭を掻いて、「ところでそちらは?」
「僕は神田さんのビジネスパートナーです。クラウンと云います」
「クラウン?」
僕と父と、声が揃って仕舞った。
「あは、勿論本名ではないですよ。ハンドルネームみたいなもんです」
「はぁー……」
「今日はこのクラウンさんの紹介と、あと息子さんの様子を見に来たんだけど」
「弘和は未だ、七歳ですよ」
「来月八歳になります!」
「うん、まあ、兎に角未だ小学二年生です」
神田さんは僕のおでこの辺りを凝と見詰めて、「澤田、お前大したもんだな。よくここ迄仕上げたよ」
「未だ未だ……と云いたいところですけどね、まあ僕の能力は軽く超えていると思います」
「指導が好いんだな」
「まあそうでしょうね」
「謙遜しろよ」
父と神田さんは二人で笑い合っている。僕のことを話している様なのだけど、何のことやらさっぱりだ。
「然しあの澤田がなぁ。監察医の由紀ちゃんとあっという間にくっついたと思ったら、ユキちゃん監察医辞めて名古屋に帰っちゃうし、お前も一緒に辞職してくっついて行っちゃうし」
「いやまぁ、その節は……って、シンさんだって結局辞めてるじゃないですか。それも係長と一緒に。御蔭で零課も立ち消えでしょ」
「俺のことは好いんだよ。ところで弘和君の能力、治癒だけじゃないんだな」
「え?」
そう、父には話していない能力が、僕にはある。必要ないと思って云ってなかっただけで、別に隠していたわけじゃない。
「バリア張れます」
皆の周りにバリア張ってみた。父が兎に角驚いている。
「ええー! ヒロ、お前凄いじゃないか! 何で云ってくれなかったんだよ!」
「だって診療所に関係ないし」
「関係なくてもさー!」
神田さんは鳥渡苦笑気味に、「それだけじゃないよね。いわゆる状態異常と云う様な物にも対処できるみたいだ」
それは鳥渡、何云ってるのか判らなかった。
「今ここで状態異常を作り出せないから……否クラウンさんなら作れるけど、何と云うか……」
「そうですねぇ……幻惑させちゃったり、意識飛ばしちゃったり出来なくもないですが、誰に掛けるかって問題が」
「まあそれに就いては、いずれこちらの方で訓練の機会を作りますよ」
僕は訓練されるのか? なんだか何を話しているのか、さっぱり解らない。
「然し見事に、鳶が鷹を産んだ訳だ。――まあ多分、由紀ちゃんの素質が大いに影響しているんだろうけどね」
「えっ、妻にも何か能力ありました?」
「本人気付いていないけどね。まあ使う機会も無いのかも知れないけど。弘和君の防御能力は由紀さん譲りなんだと思うよ。お前達が電撃結婚したのだって、そうした根底の所で通じ合うものがあったからなんじゃないのかな。自覚は無いんだろうけど」
「ええ、そうなんだ……でも気付いてないなら一生気付かない儘で好いですよ」
「それは同意するよ」
「それと、いずれにしても、妻に弘和のことは……」
「云わないよ。秘密は厳守する。必要な時にはこのクラウンさんが、集団幻覚で秘匿してくれるから」
父は安心した様に僕を見た。
「ヒロ、お前何れ、この人達と一緒に悪者と戦うことになると思う」
「えっ、何それ? 仮面ライダーとかみたいな?」
「うーん、まあ……そう……かなぁ?」
「ヒロくん、で好いかな?」
神田が僕を覗き込む様にして訊いて来た。
「あっ、いや……僕もハンドルが好い」
「ハンドル?」
「ユーキとか……」
「お母さんの名前かな?」
「お母さんはユキ……僕は、ユウキが好い!」
「ええ、ヒロお前、自分の名前気に入ってなかった?」
父がちょっと悲しそうな声でそう云うので、僕は慌てゝ否定した。
「そうじゃないよ、自分の名前は大好きだよ! ただ、ハンドルにしてみたくて」
「ほら、クラウンさん、あなたがハンドルネームなんか使うから」
「えっ、わしの所為
わし……とクラウンさんは云った。西の人かな。名古屋ではなさそう。
「変なもんに憧れるんだなぁ、子供って」
父は呆れた様に、それでも納得してはくれた。僕の能力の半分は母のモノだと云っていたし、母がそのことを自覚していないと云うのも寂しいから、ハンドルネームで母の要素を少しだけ……なんて考えていたのだけど、でも純粋に、ハンドルネームってなんかわくわくする。違う自分に変身するみたい。
「じゃあユウキ君、近い内にまた。ヒーリングの練習を一緒にしましょう」
そう云って、神田さんとクラウンさんは帰って行った。なんだか浮世離れした様な一日だった。
三
夏休み、僕は神田さんの指導の許、富士山の麓で合宿訓練を受けていた。父は知っているけど母は僕が合宿していることを知らない。ずっと家に居て、いつもの様に診察の見学をしていると思っているらしい。それと云うのも、クラウンさんが母に、僕が家に居続けているという幻覚を見せていると云うことなのだ。なんだかそんなに長いこと幻覚なんか見ていたら、頭がおかしくなっちゃうんじゃないかと心配なんだけど、クラウンさんが云うには現実も幻覚も見る仕組みは同じだから気にすることはないって。色々詳しく説明してくれたけど余りよく理解できなかったな。感覚が如何とか、脳が如何とか。印象的だったのは、現実も幻覚の一種だから、余り現実を信じ過ぎるなって云われたこと。ちゃんと理解出来ているかは判らないけど、なんとなく、そんなもんなのかなと納得した。
この合宿では、専ら治癒ではない方の訓練をしている。バリアを張って飛んで来るボールから身を護ったり、クラウンさんの幻覚や催眠の攻撃を無効化したり。それと、催眠術掛けられた人の催眠を解いたり。なんだか思い付きで次々と色々なことをさせられている様な感じだ。
「よう、今日は面白いヤツ連れて来たぞ」
そう云って訓練所にやって来たのは、佐々本部長さん。合宿中に何度か顔を合わせている。神田さんの上司で、昔は父の上司でもあったと云う。相変らず父の昔の仕事に就いては、何も知らないのだけど。
佐々本さんの背後には、なんだか不思議な感じの短髪のお姉さんが居て、目に掛かるほど長い前髪の隙間からじっとりとこちらを見詰めている。訳もなく不安な気持ちが湧いて来る。この尻の座りの悪い感覚が、お姉さんの能力に因るものだと気付く迄には暫く掛かった。
「あぁー、そういうことかぁ!」
そうしてこの不愉快な空気を跳ね返すと、お姉さんはにっこりと微笑んでくれた。
「坊主、遣るやないの。うちのイヤイヤパワー跳ね返したのん、君が初めてやで」
これまたコテコテの、大阪弁? 河内弁? なんかそんな感じ。
「ほな、これはどないや!」
そう云うと、周りの空気が急に変わった。何事かと思ってキョロキョロしていると、お姉さんの驚いた声が聞こえる。
「なんや、君、普通に動けるんかい!」
「え?」
「うち時間止めてんで」
「はっ?」
云われて改めて周りを見ると、佐々本さんも神田さんも、なんだか中途半端な姿勢の儘固まっている。体を動かすと、なんだか空気が纏わり付いて来る感覚があり、動き辛い。気の所為か呼吸もし辛い。
「時間止めてるからな、周りの空気も止まってんで。まあ停まってるゆうのんは云い過ぎで、実は物凄ぉ緩動いとるんやけど」
そう云うことか。原理が判ると対応も出来る。周りの空気を自分と同じ様に動ける様にするのは、大して難しくなかった。
「いやいや、君凄いな! ねぇちゃん感動やわ!」
なんか褒められた。嬉しい。
「でも、お姉さんの効果を完全に消すのは難しそう」
「そらそや。舐めたらあかん」
「自分と、その周りを効果の外にすることぐらいしか……」
「それだけでも大したもんやねんで」
佐々本さんも動ける様にしてみた。
「おっ? 時間停まってる?」
「あーあ、おっちゃん迄動ける様にせんでも……もう少し君と二人で話したかったわぁ」
「えっ、それは御免なさい……」
「おいおい都子君、そんな連れないことは云わないでくれよ」
佐々本さんはがははと笑った。
「それにしてもどうだね、このユウキ君は。大したもんだろう?」
まるで我が事の様に誇らしげに云う。
「何で佐々本さんが得意気なんか知らんけど、こン子は将来有望ですわ。――将来と云わず、即戦力やな」
「そやろ?」
佐々本さんに大阪弁が伝染っている。
「ほな、うちの出番はここ迄で」
そう云うと都子さんは、時間停止を解除した。
「でさ、X国案件本当に来られないの?」
「月曜だか火曜だか迄ですやんね? その月曜日に絶対外されへん試験がありよるんですわぁ。必修科目なんで。ほんまかんにん!」
そうして手を合わせると、都子さんはそそくさと退場して仕舞った。
「佐々本さん、今のは?」
神田さんが不審げに都子さんの後姿を目で追っている。そう云えば神田さんはずっと停まった儘だったので、停まっていた間の遣り取りを一切聞いていないのだ。佐々本さんがお姉さんを連れて来て、僕と佐々本さんと二、三会話したと思ったら、その儘くるりと踵を返して帰って仕舞った、としか認識していないのだろう。神田さんも動ける様にしてあげれば良かったな。――あ、若しかしてこれ、クラウンさんの云っていた「現実を信用するな」って話に関係ある?
「あの子は、天現寺都子君。時間停止したり、場の空気や雰囲気なんかを操作したり……名付けて、フィールディングの都子君だ。ユウキ君の訓練相手として連れて来たんだけど、如何だったかな?」
そう云って佐々本さんは僕を見た。
「時間停止って面白いですね。僕には掛からなかったみたいですけど。部分的に解除する方法も理解しました」
「大したもんだよ、君は」
佐々本さんは僕の頭をポンポンと叩いた。
「時間を止めて遣り合っていたのか……御蔭で何があったのか全く認識できてませんよ」
「ごめんなさい、神田さんも解除してあげれば良かったんですけど、そこ迄思いつかなくて」
「いやいや、ユウキ君を責めてるわけじゃないですよ。どっちかと云うと佐々本さんを責めているのです」
「おいおい。俺だって止められていたのだ。如何やら会話の途中から参加させて貰えた様だけど、それ迄にどの程度、どの様な遣り取りがあったのか、俺も全く知らねぇのだよ」
「ご、ごめんなさい」
「いや、だから」
「気にするなって」
二人交互に云って、笑った。僕も一緒に笑っておいた。
四
合宿で佐々本さんと都子さんが話していた「X国案件」と云う奴には、僕も呼ばれた。指定された時間に部屋の窓を開けて、空を見上げながら待っていたら、クラウンさんの合図があって、その後直ぐに神田さんに上空迄引き上げられた。
雲の上では、知らない女の子が二人いた。黒髪を眉に掛かる位の所で切り揃えて、後ろ髪を肩の下迄垂らしている、鳥渡目付きのきつめな子と、少し赤味掛かった栗色の髪を首の後ろで束ねた、優しそうな顔をした子だった。黒髪の方にいきなり歳を訊かれて、なんとなく云い渋っていたら、心の中にその子の声が響いて来た。
〈さあ、あなたは何歳なのかな? おねぇさんに教えてごらん〉
テレパスで仲間内が繋がれると云うのは、事前に神田さんから説明されていて知っていたんだけど、多分夜晩くて眠かったのと、黒髪の子のペースに気圧されていたのとで、うっかり要らないこと迄、無意識の内にその子に送り返して仕舞った。
〈八歳だよ、君よりもう一人の娘の方が、僕は好きだ!〉
黒髪の――蓮と云う名のその子は、瞬間驚いた様な表情を見せたけど、直ぐニヤリと口許だけで笑って、「八歳。そっか、確かに見た目よりはオトナだね」と云うので、自分がテレパスしたことにその瞬間気付いていなかった僕は、「えっ、なんで?」と、みっともなく狼狽して仕舞った。次に自分がテレパスで要らぬことを告白したと気付いた時には、顔から火が出る思いだった。
栗毛の娘は知佳さんと云う。鳥渡「お母さん」ぽい所があるんだけど、別に僕の母に似ている訳ではない。「よろしく」と云って手を差し出すので、確り握り返して仕舞った。暫くドキドキが止まらなかった。なんだか変な感じだ。
その後も蓮さんは、何かと僕を揶揄って、なんだか僕と知佳さんをくっつけようとでもしているかの様に振る舞うんだけど、別に僕は、知佳さんと如何にかなりたいとか思っている訳ではなく。素敵な人ではあるのだけど。だって未だ子供だし。ねぇ。
夏休みの合宿で訓練したことは、この案件の中でもそれなりに役に立った。バリアは元より、時間停止をする敵も出て来たし、なんだか盛沢山だった。その敵の人はピートと云う名前だったんだけど、何れまた何処かで逢える様な気がする。逢えると好いな、その時は敵ではなく、友達として。
勿論治癒の力も大いに使ったし、毒消しもした。毒消しの仕方を訊かれたから普通に答えたんだけど、判らないと云われたのは鳥渡ショックだった。でもこの感覚、能力持っていないと中々解らないのかも知れない。説明するのは難しい。
あとは、洗脳解いたりとかもした。解けない人、解き切れなかった人もいたけど、最終的には何とかなった。解けない人に就いては如何仕様もなかったけれど、その人が神田さんの息子さんだったりするので、少し心は痛んだ。
心が痛んだと云えば、敵が一人、目の前で爆死して仕舞ったのには堪えた。思わずお漏らししちゃって、その場の後始末もしない儘慌たゞしく撤退したので、あの後どうなったのか判らない。掃除した人ご免なさい。ズボンとパンツは、泊まっている部屋に戻った時に自分で水洗いしたけど、実はあの時の衣服も借り物だったりするので、それに就いても本当にご免なさい。このチームで、この仕事続けて行くのであれば、こう云うのにも慣れて行かないとならないんだろうな。未だに思い出したり、夢に見たりするので、一所懸命自分に対して心の治癒をしているんだけど、中々巧く消えてくれない。クラウンさんは日にち薬って云っていたけど、後は自然治癒力に期待するしかないのかも知れない。地味に辛い。
蓮さんや知佳さんも大分堪えていたけど、大丈夫だろうか。あの後蓮さん、なんとなく僕に対しての当たりが柔らかくなった様な気もする。否元々、そこ迄意地悪だった訳でもきつかった訳でもないんだけど。優しさは少し増した気がするんだ。気の所為かな。でも知佳さんが絶対的に優しいので、どうしても蔭に埋もれて仕舞う印象が……なんだか申し訳ないな。
帰りの別れ際、蓮さん少しだけ寂しそうだったけど。僕は知佳さんにハグされて、もうそれだけで幸福の絶頂だったから、気を回せなかった。後で家の布団に入ってから、妙に気になっちゃったんだ。また逢えるかな。逢いたいな、二人共。
兎に角この三日間は、本当に怒涛の様に過ぎて仕舞って、余り親交を深める様なことは出来なかった。卓球したり、ゲームしたりはしたけど、悠然話す様な時間は殆ど無かったな。あの二人とはもっと色々話し合いたい。歳もまあまあ近いし、普通では出来ない様な体験を共有したんだし。母や看護師さん達や学校の友達なんかにこの旅のことを話す訳にもいかないから、それで
勿論知佳さんと一番話したいけど、蓮さんとも話したい。案件の間はずっと、何かといじったりツッコんだりして来たけど、たった三日間だけなのに無くなると変に寂しい。あの小気味よいリズミカルな蓮節が、矢鱈と恋しい、懐かしい。逢ったらまた喧嘩っぽくなるのかも知れないけど、それでももう一度逢いたい。なんだか常習性のある麻薬みたい。
そんなことを毎日の様に思っていたら、また母が居ない時を見計らって神田さんが来た。父が呼んでるのかも知れない。
「ユウキ君、その後の調子は如何ですか?」
開口一番神田さんは、僕を気遣う様にそう云った。
「なんだか寂しいです」
僕は正直に云ったのだけど、神田さんは鳥渡驚いた様だった。
「また皆に逢いたいな……」
「そうですか。またいずれ、機会があれば」
そう云うと神田さんは、父と話を始めた。報酬が如何とか云っていたけど、余り興味が無かったので僕はその場を離れて、三階の自分の部屋に行った。
あの三日間は写真も残っていない。極秘だったと云うのもあるけれど、スマホを持って行っちゃ駄目だったので、
ベットでゴロゴロしていたら、部屋のドアをノックする音がした。この叩き方は父だろう。
「なーに?」
「入るぞ」
「いいよ」
小二の息子の部屋なんか、勝手に入れば好いのに、そう云うところ律儀なんだよね。
「お前大活躍だったそうじゃないか。父さん鼻が高いや」
そう云う割に父の声質は、稍低めだった。セージのことも聞いたのだろうな。
「まあ色々あったみたいだけど、良い思い出も辛い思い出も、必ずお前の血肉となるから、気に病むな。それでも辛い時は、父さんに云えよ」
「うん」
「一緒に行った人達とは、仲良くやれたか?」
「まあまあ」
「なんだそりゃ。先刻は寂しがっていたじゃないか。仲良くなれたんじゃないのか?」
「うんまあ、仲良くはなれたと思うよ」
父はそこで、顔を近づけて声のボリュームを落とし、囁く様に訊いて来た。
「女の子が二人いたってな、どっちが好みだった?」
「はぁ
顔がカーッと熱くなった。
「ははは、なんだよ初心だな。まあ八歳なら初心か。でもその様子じゃあ、憎からず想える子が居たな?」
「知らんがぁ!」
堪らず顔を枕に埋めた。耳迄熱い。何でこんなに熱くなるのか判らない。
「お前が女の子好きなの知ってるぞ。毎日診療所で、キリちゃんと多恵ちゃんにちやほやされて、デレデレしてるそうじゃないか」
なにそれ、そんなことあるか、恥ずかし過ぎる。
「まあ、お前位の年頃の男子が年上の女性に好意持つのは、普通のことだから、気にすんな。お前の好きな二人の女の子に就いても、また聞かせてくれよな」
そう云って父は部屋から出て行った。何だかいつの間にか、僕が二人とも好きになったと云うことにされている。いやいやいや、そんなそんな、馬鹿な阿呆な。節操のない。あり得ない。父よあなたは、一体全体。何をか云わんや。
顔がポッポポッポして、独りになっても全然枕から離れられなかった。どっちが好きとか、そう云うのじゃないのに。知佳さんの顔と蓮さんの顔が交互に思い出されて、もう駄目だ、僕はこの儘死んで仕舞うに違いない。――空想の知佳さんが僕の右腕に絡み付いて来る――左腕には蓮さんが――二人で僕を見詰めて優しく微笑む。何この天国――二人の顔が近付いて来て、――僕の両頬に同時に軽く口付けた。
「うひゃあああああ!」
ガバと跳ね起きた。何だ何だ。夢? 今寝てた? ななななんちゅう夢を
どたどたどたと階段を下りて、居間のドアを勢いよく開けた。父と神田さんが驚いてこちらを見る。
「と、父さんの、たぁけ!」
「えっ、如何した?」
「全然そんなんじゃなかったに! もう二人の顔、真面に見られにゃぁでねえか!」
「あぁ……ははははは」
父の奴笑いやがった。
「あはあは、いやまぁ、気にすんな」
「気にするがな!」
「ユウキ君感情的になると、方言丸出しになるんだな」
神田さんが感心した様に云うので、一気に恥ずかしくなって何も云えなくなって仕舞った。
「あのなユウキ君、君の父さんは元々そう云う思考パターンしか無いんだよ」
「鳥渡、シンさん!」
「でなきゃ由紀さんと電撃結婚なんかしないって」
「僕は何時でも妻一筋ですよ!」
知ってるよ! 父は母にベタ惚れだよ! そんなん気付かないとでも思ったか!
「今はそうでも昔はなぁ」
「シンさん、昔のことはこの際……」
何があったんだ。僕は軽蔑の眼差しで父を見た。
「いやいや、ヒロ、違うんだって。父さんは何時でも誠実で純真で一途なんだ」
なんか似た様なセリフを吐いたことがある気がする。一気に自己嫌悪が襲って来る。
「と、父さんの話はこの際どーでもええが!」
収まらない。納まらない。心が如何にも治まらない。
「父さん、なんかしたな」
「ヒーリング、ヒーリング。唯のヒーリング」
「便利な親子ですね」
なんだか場が白けて仕舞った。
「好いよもう。父さんが昔プレイボーイだったってのはよく解ったよ。僕にもその血が流れているかと思うと、うんざりするよ」
「語弊があるぞ。父さんは博愛主義者だったんだ。ヒロも皆を等しく愛すれば好いんだ」
「もう好いって」
神田さんがはらはらしながら見ているので、なんだかちょっと罪悪感を感じて、罪滅ぼしに薄く微笑んで見せた。
「神田さん、大丈夫、僕は父さん大好きだから。仮令女たらしだったとしても」
「おーい!」
父が慌ててツッコむので、それが却って可笑しくて、神田さんと二人で笑った。父も遅れて、照れ臭そうにしながらも笑っていた。
五
冬休み、クリスマスの後から大晦日の手前迄、ほんの三日間程僕は再び富士の麓で訓練を受けていた。今回は都子姉さんが付きっ切りだった。
「さぁ少年、次の攻撃は果たして解けるかな?」
そう云った次の瞬間、視界が真っ白になった。実際に霧の様な物に包まれたのか、視覚を乗っ取られたのか、それともどこかの異空間にでも閉じ込められたのか。先ずは状況の分析から……周囲の白さには特に斑などなく、流動感なども感じないため、恐らく物理的に白い霧や煙等で包まれた訳ではなさそう。瞬きしてみたり、目だけをキョロキョロと動かしたりしてみるも、何も変化を感じられない。少し足踏みしてみたけど、床の感覚は変わらずある。じゃあ視覚か。自分の視覚野に侵入しているモノを探ってみたけど、特に何も見つからない。クラウンさんじゃないのだから幻覚の類ではないと云うことか。じゃあこれは……感覚を外側へと開いて、周りに充満したモノを見極める。霧や煙の様な
「つまらんなぁ」
術を解きながら都子さんが面白くなさそうに呟く。
「え?」
「詰まらん詰まらん! あっちゅう間に解いてもぉて。もぉちょい忖度でけんか?」
「そんな」
「もっと楽しくやろうや、うちの攻撃内容楽しむぐらいがえゝねん」
「無茶な」
横で監督している神田さんが苦笑しているが、特に何も云ってくれない。これ、僕が悪いの?
「まあなぁ、うちの攻撃も色気なかったかもな。もーちょい楽し気なヤツ掛けたるわ」
そして今度は、空気が震え出した。軈てラッパの音が空間に響き渡る。この楽曲は……
「さあご一緒に!」
そして都子さんは、大声で六甲颪を歌い始めるのだけど、これが驚く程の、ええと、なんと云うのか。
「うわぁああ、やめ止めヤメー!」
神田さんが両手を大きく振って止めに掛かるけど、都子さんは歯牙にも掛けず、調子っ外れに歌い続ける。
「これは……愉しくない!」
僕も鳥渡、耐え切れなくなったので、都子さんの歌声ごと遠くに跳ね飛ばして仕舞った。
「げぇほげほげほ!」
声を飛ばされた都子さんが、激しく咳き込んでいるので、治癒してあげた。
「ううう、少年よ、ちと今のは乱暴過ぎたんやないの。乙女に対してもぉちょい気ぃ遣いや」
「ごめんなさい……」
「都子さん! 歌! 酷過ぎますね!」
神田さんはもう少し歯に衣着せた方が……と思ったけど、都子さん余り気にしてない様で、ケラケラ笑っている。
「それも含めての攻撃やないの、敢えて、や、敢えて!」
「絶対違いますよね!」
「五十男が細かいこと気にしたらあかん」
「未だ四十七ですが」
「せやから、細かいちゅうねん!」
もうなんだか、上方漫才みたいで、見ているだけで面白い。話してる内容大して面白くないんだけど、雰囲気かな。あ、若しかしてこれも都子さんのフィールド? ――と思ったけど違った。単なる天然の雰囲気だ。
「ほな次はぁ……」
こんな調子で三日間、みっちり都子さんの色々なフィールド攻撃を受け続けた。基本的に都子さんの攻撃は得体が知れない。知れないのだけれど、知れないなりに跳ね返したり無効化したりと云うことが出来るので、余り気にはしていない。たぶん根本的なところでは二、三のパターンがあるだけで、後はその表現の仕方と云うか、表出の仕方と云うか、兎に角上辺の見え方だけを鳥渡ずつ変えているだけなんだろうなと思う。ある攻撃に対して有効だった手段が、その儘他の攻撃に対しても応用出来たりするので。
最終日、都子さんとそのことに就いて鳥渡だけ話し合ってみた。
「やはり君は、賢いなあ。そんなん本人かて余り認識しとらんかったンに。せやけど云われてみれば確かにその通りや。姉ちゃん薄っぺらやったわ」
「いや、そう云う心算で云った訳じゃないんですけど……」
「『つもり』とか如何でもえゝねん、事実が全てや」
そして都子さんは鳥渡考え込んで仕舞った。この時は神田さんが座を外していたので、都子さんに黙られて仕舞うと僕は所在無くなり、突っ立った儘ぼんやりと都子さんの様子を眺めているしかなかった。都子さんの髪は、青と灰色のメッシュの入った短髪で、その癖前髪が長く、目が隠れがちなので表情が判り難い。スカジャンにジーパンと云う凡そ女の子らしくない出で立ちで、その癖中に着ているTシャツにはでかでかとキティちゃんのプリントがしてある。ガーリーなのかボーイッシュなのか、判断に困る。体型はどちらかと云うと官能的なのだが、服装がそれを中和している感じがする。口元に手を添えて、腰に回したもう一方の手にその肘を宛がう様にして、凝と何かを考えている。僕の軽い言葉が、意図せず深く響いて仕舞ったらしい。
あんまりじろじろ見過ぎた所為か、都子さんがこちらに視線を向けて、鳥渡眉を顰めた。
「ああ、ごめんな、放置してもうた」
そして一つ大き目な息を吐いてから、「多分やけどな、次の案件では君と組まされることになると思うねやんか」
「そうなんですか? 次っていつ」
「まあ、もうちょい先やろな」
そう云いながら、都子さんは僕の横に来て、床に座り込んだ。それでなんとなく目線の高さは合ったんだけど、僕も横に並んで座ってみた。
「年明けてぇ、春が来てぇ、そのちょい先ぐらいかなぁ。いや知らんけどな」
「他にも誰か……」
「だから知らんて」
都子さんは眼だけ動かして僕を見た。
「なんや気になることでもあるんか」
「いやっ、べ、別に」
「聞いとるでぇ」
にやっと笑ってこちらを振り向いた。一気に顔が熱くなる。
「なんや、好きな子おるねんな?」
「いやっ、そう云うのでは」
「えゝねんでぇ、若い内は素直であらな、なぁ」
「だってほんとに……」
耳朶迄ポカポカしている。都子さんもこう云うこと弄って来るんだ。まあ、そんな気はしていたけれど。
「そやなぁ、テレパスだのテレポートだの、使い勝手良過ぎるからな。大抵呼ばれるんやろなぁ。うちなんかは使い辛いから余り呼ばれんけどな」
「そんなことない、都子さんだって素敵です!」
「ぁあん?」
「いやその……鳥渡間違えました……」
声が小さくなって仕舞う。
「君プレイボーイの息子やてな。血は争えんなぁ。姉ちゃんコロッとイってまうか思たわ」
そしてケラケラ笑った。絶対本心じゃないし。
「まああれや、無節操にあちこち手ぇ出さんとけよ。女はそんなん一番嫌うからな」
「はい……って、だから、そう云うのじゃないので!」
「はいはい、そう云うことにしといたるわ」そして都子さんは、お尻をパンパン叩きながら立ち上がると、「取り敢えず今回の訓練はこんなもんやろ。また来年、案件でな」
そして颯爽と立ち去って行った。去り際の後姿が、ちょっと恰好良いなと思って仕舞う。
暫くして神田さんが来たので、都子さんが帰ったことを告げた。
「そうですか。では今回はこれで。帰り支度が済んだら声掛けてくださいね」
支度と云っても大したことはない。着替えなんかはみんなここで用意されていた衣装だし、来た時に着ていた服は洗濯されて更衣室に置いてある。殆ど着の身着の儘、手ぶらで来たので、着替えるだけで直ぐに帰れる。
更衣室で着替えを済ませて戻って来ると、神田さんは同じ場所に立った儘待っていた。
「では行きますか」
そして空を経由して、名古屋の自宅への帰路に就いた。
それにしても、僕の周りを年代問わず様々な女性が取り巻いているのは、因果なのか、業なのか。父の呪いか己の定めか。こんなこと迄受け継がなくても好いのに。自宅迄の道すがら、僕は己の血を唯々呪い続けていた。
(終わり)
二〇二三年(令和五年)、十月、十三日、金曜日、赤口。
改稿、二〇二四年(令和六年)、五月、六日、月曜日、赤口。