白馬の騎士

里蔵光

ガランガランと鐘が鳴らされた。皿の上には金色の球が転がっている。

「おめでとうございます! 一等、スキー旅行に一家でご招待ぃ!」

サンタクロースの帽子を被って法被(はっぴ)を着た小父(おじ)さんが、ニコニコしながら大きな祝儀袋を差し出す。

「えっ、なんで、うそでしょ……」

知佳は思わず蓮と顔を見合せた。

クリスマスと年末商戦真っ盛りの商店街、その福引コーナーで、二つの家族が立ち尽くしていた。

「ええと、これ……当てたのどっち?」

「知佳じゃない?」

「いや、蓮の分でしょ」

少女二人がお互いに功績を押し付け合っている。その背後では、三人の大人が微妙な表情で視線を交わし合っている。

「うちは二人ですし、これ四人分ですよね。三科(み しな)さん是非行って来てください」

気の弱そうな男性が、夫婦と思われる二人の男女に譲る仕草をする。

「いや、でも、これ恐らく蓮ちゃんの分を知佳が回しちゃったんですよ。柏崎さんに権利があると思いますよ」

如何(どう)やら大人も押し付け合っている。

「うちのじゃないの?」

女性と手を繋いでいる小さな男の子が、(じっ)と見上げながら()いて来るので、再び全員が固まって仕舞(しま)った。商店街のクジ引き担当の小父さんは、困った様に二つの家族を見渡して、

「申し訳ありませんが、後ろが(つか)えてますので……ええ、おそらく福引券はこちらの美しいお嬢さんの分だったかと……でもお話し合いは、どうぞあちらのベンチで」

彼は賞品を蓮に押し付けながら、穏やかな表情で家族等を追い()った。

当選者達は寛悠(ゆっくり)と移動しながらも、相変わらず押し付け合いを続けている。

「お父さんが云う通り、うち二人だからさ。知佳の家族で行って来なよ。あたしスキーとかしたことないし」

「あたしだってないよぉ。蓮の分なのにあたしがうっかり回しちゃっただけなんだから、貰っちゃったら申し訳なさ過ぎるよ」

「うちの娘もこう云ってますし、如何か三科さんのご家族で……」

「あの……提案なんですけどね」

三科と呼ばれていた男性――知佳の父がおずおずと手を挙げながら、「差額を一対二で出し合って、皆で行きませんか?」

「ええっ、ちょっとお父さん、幾ら掛かるのよ!」

知佳の母親が狼狽(うろた)えた様に声を上げる。

「今調べてたんだけどね、商店街の用意するペンションだし、そんなに高くないんだよね。でさ、この賞品は大人三人と子供一人分に使って、子供二人分を追加すれば全員行けるんじゃないかなって思って。小学生二人分の二泊三日だから、合わせても一万二千円ぐらいだよ。うちが八千出せば()いんじゃない? 八千円で二泊できると思えば安いもんだろ。なんなら、元々蓮ちゃんの分だし、うちが全額でも好いんだけど」

「まあその程度なら……柏崎さん、如何でしょう。イヤでなければ」

「あ、四千円てことですよね? うちは全然、その程度であれば。回したのは知佳ちゃんですし、うちも全然出しますよ。――ちなみにこの景品って、現地集合ですか?」

「そうですね……ペンションの宿泊券だけみたいです。スキーレンタルとかのオマケは付いてるけど、交通手段に就いては皆無なんで、自力で行けって感じですね」

知佳の父は蓮から受け取った封筒の内容を確認しながら、苦笑した。

「ここの商店街の用意するものだもの、そんなもんでしょ」

母親が詰まらなそうに云う。

「いや、僕はそっちの方が……遠距離バスとか苦手なんですよね」

蓮の父は頭を掻きながら笑った。

「知佳! 一緒に行ける! すごい!」

蓮が知佳の腕を掴んで、ピョンピョン飛び跳ねながら喜んでいる。知佳も弾けんばかりの笑顔で、「すごいすごい!」と云いながら、蓮と一緒に跳んだ。

「日程が、来年正月の最初の土日……月曜まで? ああ、成人の日ですね。二泊三日。大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ、仕事始め火曜日なんで」

「僕もですよ。じゃあうちの車で行きましょうか、無駄に八人乗りなので」

「お父さん、雪道だよ、大丈夫?」知佳の母親が心配そうに夫を見る。

「俺は雪国育ちだぞ、心配すんな!」

「お父さん、スキー教えてね」知佳が父親の腕に(すが)りながら、目をキラキラさせている。

「おじさん、あたしにも!」反対の腕には蓮がしがみ付いた。

「任せとけ!」知佳の父親はホクホクしながら、二人の頭を順に撫でた。

如何やら話は決着し、詳細は追々決めていきましょうと云うことで、二つの家族はそれぞれの家へと帰宅した。

蓮と知佳が当てたスキー旅行は、長野県の栂池(つがいけ)高原スキー場近くのペンションのものだった。朝八時に三科家に集合した二家族六人は、現在中央自動車道を鋭意北上中である。

「栂池って白馬(はくば )村じゃないのね」

カーナビの地図を見ながら、知佳の母親が云った。

「そうだね、一寸(ちょっと)北に外れてるね。それでも『白馬栂池』とか名乗ってたりするよね」

「好い加減ねぇ」

「まあ、地名の白馬じゃなくて、『白馬観光開発』が関わっているから、白馬って名前に付いてるんだと思うよ」

「そうなのねぇ」

親がそんな会話をしている後ろで、子供三人が並んで(はしゃ)いでいる。真ん中の知佳を挟んで、右に弟、左に蓮が座っている。蓮の父は一人、三列目のシートに行儀よく座っていた。

蓮の家族は父親と二人切りだ。母親は何年も前に他界した。三科家とは元々母親同士の仲が良かったのだが、蓮が母を失った時未だ小学二年生だったこともあり、三科家はずっと気に掛けていて、折々で声を掛けながら家族(ぐる)みでサポートして来た。今回もクリスマスを一緒に祝わないかと声掛けして、商店街のレストランで食事してその帰り道、それぞれに貯めていた福引券を消化する過程で、このスキー旅行を当てゝ仕舞ったのだ。

蓮の父親にとっては、三科一家と云うのは元々何の接点も()い赤の他人である。その赤の他人の車に、何故(なぜ)か今乗り込んで、一緒に二泊の旅行に出ている。縁とは不思議なものだと、(つくづく)思う。元々は妻同士が友達で、確か高校時代の同窓だと云っていたか、(たまたま)同じ歳の娘を持ち、住んで居る処も近かった為、旧交を温めたのだ。(しか)しその妻はもう居ない。居なくなって仕舞った。そのことを思うと(いま)だに胸が苦しくなる。忘れ形見の蓮は、年々妻の面影に近付いて行く。屹度(きっと)この娘は綺麗になる。妻は(とて)も綺麗な人だったから。最近は話し方迄妻が憑依した様に、そっくりになって来た。お蔭で娘相手に、毎日可成(かなり)ディープな仕事の愚痴をぶつけて仕舞う。蓮も生前の妻と同じ様に、上手く受け流し、()なしてくれる。そんな蓮についつい甘えて仕舞い、後で屹度自己嫌悪に陥る。だったら云わなければ好いのに、云って仕舞う。――この(まゝ)では自分は、娘の幸せを制限して仕舞いそうな気がする。今は未だ小学生だから好い様なものの、高校生、大学生になって、彼氏が出来て、(いず)れ婚約者を連れて来て……そこ迄想像して、蓮の父は身悶えした。

「おしっこ!」

脈絡など関係なく、突然大声の主張が発出された。知佳の右隣で弟が足をバタバタさせている。車内は一気に騒然となった。

「おおお、完太、ちょっと待て! 我慢!」

運転手たる知佳の父は、アクセルを一気に踏み込んだ。

「ちょっとお父さん! スピード!」

「お父さん早すぎ! 怖いよ!」

三科家の女達から一斉に批判の声が挙がる中、蓮は瞳をキラキラさせて、「すごーい! 速い! 楽しい!」と無邪気に燥ぎ出す。

「ぶううううーん!」知佳の右からも歓声のようなものが挙がる。

「いやいや、危ないから! きゃあ!」

横方向への慣性力を振り回しつゝ、車の間を縫う様にして一番左のレーンへと入ると、その儘車は八ヶ岳パーキングエリアへと吸い込まれて行った。

折良くトイレに比較的近い駐車スペースから車が出た所で、三科家のステーションワゴンはその空きスペースに滑り込んだ。停車するや否やドアが開き、子供達がわらわらと出て来る。

「かんた! ひとりで行ける?」

「行ける!」

そう云って完太はトイレへと、一目散に駆け込んだ。小学校に上がって八箇月、流石に一人で出来るだろうとは思えど、初めての場所だし如何なんだろうと、知佳がおろおろしていると、父が物凄い速度で完太を追い駆けて行った。

「あたしもトイレ行っとく」

蓮がそう云ってトイレに向かうので、知佳も何だか催して来て、後を追った。

パーキングエリアの女子トイレなんて、混んでいる印象しかないものだけれど、三が日も過ぎて平日を挟んでいる為、上り車線の方こそ多少交通量が多いようにも見えたが、下りの車線は比較的空いていたし、パーキングエリアのトイレも全く待たされずに使うことが出来た。

手を洗って出て来た所で、蓮が待っていた。そして一緒に車へ戻ろうとした時、急に世界が消えた。

「はっ?」

「何!?

地面に立っている感覚はあるのだけど、足元に何も見えない。前後左右、なんだか薄紫色をしていて、方向感覚も失くして仕舞った。

「なにこれ、クラウンさん?」

知佳は蓮の腕を握り締めながら、周囲をきょろきょろと見回す。クラウンというのは、数箇月前に或る案件で共に闘った異能者だ。彼には他人に幻覚を見せる能力がある。知佳も蓮も、異能者として共に闘ったのだ。――この状況は、また何らかの理由で招集が掛けられようとしているのだろうか。

「クラちゃんこんなこと出来るんだっけ?」

蓮も知佳の腕を掴み返して、二人でおろおろしていると、正面から中年の男が遣って来た。

「亜空間なんですけどね。クラウンさんではないんです。――あ、どうもお久しぶりです」

「ちょっと神田っち! 急に何!」

「私達、家族と一緒なんですけど……」

彼は神田。先の案件で、リーダーを務めていた異能者である。

「判ってます。手短に……何処(どこ)へ行かれますか?」

神田の質問が、非常に悠長に感じられる。早く車に戻らないと家族が心配する。

「スキーだよ!」

ってとこ!」

「判りました。いや、私の認識外へ移動していたので、把握しておきたかったもので……大変失礼しました」

神田には、他人の異能力を識別する能力がある。如何やら遠くからでも異能力とその持ち主の位置を知ることが出来るらしく、その能力で知佳も蓮も見付け出されて、先の案件に連れて行かれたのだ。その時から如何も神田には、相手の都合を斟酌(しんしゃく)せずに、強引な行動を取って仕舞う嫌いがある。

「早く帰してー!」

都子(みやこ )さん、好いですよ。ありがとうございます」

神田が中空に向けてそう云うと、一瞬にして世界が戻った。神田はいなくなっていた。――都子と云う名は、初めて聞いた。誰だろう。

「何もぉ! いつも突然なんだから!」

激昂する蓮を知佳が(なだ)めながら、「戻れたよ、大丈夫。車に戻ろ」と、背中を押した。

車に戻っても未だドキドキが止まらない。把握しておきたいって、なんで。知佳はそっと蓮に視線を送った。蓮も知佳を見ていた。

〈なんだと思う?〉

知佳が蓮にテレパシーで話し掛けると、蓮もテレパシーで返して来る。

〈みやこって、誰だろう〉

蓮は知佳とは別のところが気になっている様だった。

このテレパシーは知佳の異能力だ。蓮にテレパシーの力は無いが、知佳が近くにいればテレパシーの力をお裾分(すそわ )けすることが出来る。お裾分け出来るのはこの場では蓮だけである。蓮も異能者で、異能者同士でなければテレパシーのお裾分けは出来ない。――とまあ、そう云うことになっている様なのである。以前神田に教えて貰ったのだ。

〈今思ったんだけど、あんなことしなくたって、知佳がいるんだからテレパシーで聞いてくれればよかったのに〉

〈ホントだ。でも急にテレパシー来ても吃驚(びっくり)はするよね〉

テレパシーの会話をしていると、如何しても無口になる。(せん)迄燥いでいた子供達が、パーキングエリアに寄ってから急に静かになると云うのは、傍目(はため )には(やゝ)不自然な印象を与え兼ねない。そう考えて二人は、目を閉じて寝た振りをすることにした。二人の異能力のことは、家族にも秘密なのだ。

〈神田っちなんかに逢った所為(せい)で、気分()ち壊しだよ〉

〈なんだか嫌な予感しかしないよね〉

中々辛辣な意見が飛び交っているが、それも数分で静かになり、(やが)て軽い寝息が聞こえて来た。振りではなく本当に寝て仕舞った様だ。ずっと窓外を見ていた完太も、何時しか姉に(もた)れる形で寝ていた。次第に蓮も知佳に凭れて来て、両側から挟まれる様な状態になった知佳は、寝た儘苦悶の表情を浮かべた。

「栂池に入っちゃう前に何処かでお昼にしませんか?」

塩尻(しおじり)を過ぎた辺りで、三科家の母が後部座席に向かって声を掛けた。

「そうですね。ちょっと時間が早い気もしますが、山に入っちゃうと食べるところも少ないかもしれませんし。現地に着いてからだと相場も上がりそうですし……」

柏崎の父は、寝ている子供達越しに三科母に応える。

「お父さん、安曇野(あずみの)出口の直前にサービスエリアあるから、そこ入っちゃって」

「なんてとこ?」

「ええとね……梓川(あずさがわ)

「りょーかいっ」

車が梓川サービスエリアに着いた時、蓮と知佳はお互いに凭れ合いながら、完太はシートベルトを目一杯伸ばした状態で姉の太腿を枕にして、寝ていた。

「お父さん、お父さん、見てこれ、かわいい! 仲良し三人!」

三科母はスマホで何枚か写真を撮った。

「柏崎さん、ほら!」

スマホの画面を見せられた柏崎父は、思わず頬が(ほころ)んだ。蓮の寝顔が天使の様だ。(しか)し、子供達が下りてくれないと、三列目シートからは出ることが出来ない。()く寝ているところ悪いのだけど、起こさない訳にはいかない。

「起こしちゃいますね……おーい、蓮! 起きてくれないと、お父さん出られないよ」

父親の言葉に蓮はうっすらと目を開けて、少し(うめ)くと、寝返りを打とうとして知佳に頭突きをして仕舞った。

「いたっ!」

「いったーい、何!?

二人ともすっかり目を覚まして、お互いおでことこめかみを押さえながら、体を離した。

「お昼にするから。降りて降りて」

蓮の父が二人の降車を促すと、蓮がスライドドアを開けて外に出た。

「んーっ! 空気が冷たい!」

外に降り立って伸びをしている蓮に続いて、知佳も降りようとしたが、そこで初めて腿の上の弟に気付いた。

「えー、完太! 起きてぇ!」

知佳が脚を揺すると、完太は「わぁ」と云って落ちそうになったので、咄嗟(とっさ )に知佳が両手で抱える。

「もぉ、寝坊助完太! 起きなさぁい!」

「おきたよぉ、おはよぉ」

「おはよぉじゃない、お昼食べに行くから、降りて!」

完太はシートベルトを外すと、右側のスライドドアを開けて、ぴょんと車から降りた。知佳も後に続いて車を降りると、ようやく蓮の父が後部座席から降りてきた。

建物内に入るなり、完太が「ソフトクリーム!」と叫んだ。

「ちょっと、お昼食べに来たんだよ、いきなり何云ってんの」

知佳が(たしな)めるが、完太は構わずソフトクリームのショウケースに向かって真一文字に飛んでいった。

「こら完太! それはご飯の後で!」

「あっ、お父さん変な約束しないで」

三科の母は困った顔をした。

「あたしラーメン!」

フードコートのメニューを見ていた蓮が、マイペースに主張をする。

「フードコートで好い? あっちにレストランもあるけど……」

「そんなこと云ったって、完ちゃんそこから動かないし」

柏崎父娘の遣り取りを聞いていた三科父は、「レストラン高そうだし、その辺幾らでも席空いてるんで、好いんじゃないですか?」と云って、近くの席に荷物を置くと、給茶機の方へと向かって行った。柏崎父も慌てゝその後を追う。

「じゃあ知佳もメニュー選んで来て。蓮ちゃんはどのラーメン?」

「えーと……あづみ野ラーメンで」

知佳はメニューを眺めて、「とろろそばにしようかな」と云った。

「完太はうどんで好い?」

「ソフトクリーム!」

「きのこうどんね!」

三科母は稍イライラしながら一方的に決めると、食券機へと向かった。父親達はお茶を人数分持って戻って来ると、それをテーブルに置きながら、

「では我々も食券買いに行きますか」

「蓮はどのラーメン?」

「あづみ野ラーメン。小母(おば)さんが買いに行ったよ」

「えっ」

柏崎父が食券機の方に目を遣ると、三科母が食券を四枚持って戻って来るところだった。

「すみません、(いく)らでしたか?」

「あー……面倒なので後で良いですよ。取り敢えず自分の分買って来て」

「じゃあ後で。すみません」

柏崎父はペコペコしながら食券機へと向かった。

三科の父はソースかつ丼、母はわさびそば、柏崎父はハルピンラーメンをそれぞれ購入した。

「お父さんなにそれ、辛そう」

「ん? そんな辛くないぞ。蓮も食べてみるか?」

「じゃあちょっとだけ……辛!」

「うそぉ」

蓮がヒイヒイ云いながら水を飲んでいる間、完太と母が揉めていた。

「うどんいらない!」

「今更何云ってるの、食べなさい!」

「いや! キノコいや! ソフトクリーム!」

「完太! うどん食べない子はソフトクリームもありません!」

「いやだぁー!」

「そうかぁ、完太はソフトクリームなしかぁ。じゃあ父ちゃん一人で食べよっと」

三科父がそう追い打ちを掛けると、完太は父親を凝と睨んで、「父ちゃん買ってくれるって云った!」と不貞腐(ふ て くさ)れた。そんな様子を見ていた知佳が、何か思い付いた様に薄く笑った。

〈僕ソフトクリーム。早くうどん食べて、僕に逢いに来て!〉

知佳が弟にテレパシーを送ると、完太は一瞬きょとんとした顔になって、きょろきょろと辺りを見回した。知佳は吹き出しそうになるのを堪えながら、更にテレパシーを送る。

〈早く早くぅ、うどんときのこ食べちゃってさぁ、僕のところにおいでよー〉

完太はソフトクリームのショウケースに視線を定めると、(しばら)く凝と睨んでから、(おもむろ)にうどんを食べ始める。両親は若干呆気(あっけ )に取られた様子だったが、直ぐに気を取り直して、「そうそう、どんどん食べて」「ソフトクリームが待ってるぞー」と完太を励ます。

知佳がにやにやした表情でその様を見ているのに蓮が気付き、

「知佳、なんかしたでしょ」

と訊いて来たが、知佳は「んー? 何のことかなぁ」と(とぼ)けて、尚も微笑みながら弟を見守っていた。

そんな家族の団欒をしていると、予想外の方向からいきなり声を掛けられた。

「あれ、蓮と知佳? 奇遇!」

知佳と蓮が顔を上げると、テーブルの脇を通り過ぎて行く親子連れの中から、見覚えのある少女が手を振っていた。蓮が吃驚して声を挙げる。

「仁美!? えー、何で? どこ行くの? お兄さんは?」

「白馬に、スキー! 蓮たちは? あ、お兄ちゃんはね、一人で売店に行っちゃったみたい」仁美は伸び上がって売店の方に目を遣った。

「あたし達は栂池、商店街の(くじ)で一等だよ!」

「なにそれ、すごーい!」

子ども達の会話を聞いている大人達は、微妙な笑みを貼り付かせていた。籤の景品の栂池と、恐らく自費の白馬とでは、天地の開きがある。仁美の両親は幾分余裕の表情だが、それが(かえ)って三科家と柏崎家の大人達の笑顔を卑屈にさせる。

「蓮……籤の景品とか、云わなくて好いんだぞ」

蓮の父がそっと耳打ちするが、蓮は不思議そうに、

「えー、何で? 一等だよ、凄くない?」

と、普通のトーンで返すので、父の苦笑はますます微妙な感じになる。知佳は暫く大人達の顔を見比べていたが、すぐに後悔するような顔をして俯いて仕舞った。

知佳は他人の心を読むことが出来る。その異能力を使って大人達の心なんか読んで仕舞ったが為に、今激しい後悔をする羽目になっている。栂池の何が恥ずかしいのか。景品のスキーの何が悪いのか。白馬に気後れする意味も解らない。確かに仁美の家は、自家(うち)や蓮の家に較べれば金持ちの部類だと思う。でも、だから何なの。関係ないじゃない。

「一等凄いよねぇ、蓮ちゃん。おばちゃんは一等なんか当てたことないよ」

仁美の母は、比較的蓮や知佳と感覚が近いと思う。別に白馬を鼻に掛けている様なことも莫いし、本心から「一等凄い」と思っている。知佳の母だって仁美の母とは、知佳達が幼稚園の頃から仲の良い友達関係だった筈で、それが如何してこんなにも卑屈になっているのか、理解できないし、恥ずかしいし、情けない。

「知佳ちゃんも栂池?」

仁美の母が訊いて来たので知佳は説明する。

「本当は蓮の福引券で当てたんですけど、蓮のところ二人家族で、賞品四人分だからってんで、差額出して一緒に行かせて貰えることになったんです」

「なにそれ、仲良しエピソードじゃない! 素敵ね!」

「蓮と知佳大親友だもんね! 羨ましいなぁ」

仁美も本気で羨ましがっている。

「知佳、ちょっと違う。籤回したの知佳だから、権利半々だったんだよ。だから皆で行くことになったの」

蓮が横から補足すると、仁美の母親は目を細めて嬉しそうに笑った。

「そうなんだ、いずれにしても尊いわ! ねぇ麻由さん!」

麻由は、知佳の母の名だ。

「そうなの、お蔭でスキーに連れてって貰えるので、有り難いわ」

母よ、そう云うことではない。知佳は()()り恥ずかしかった。でもこの場合の母の言葉は、どうも謙遜と云うか、照れ隠しらしい。それにしたって云い方と云うものがあるだろうに。

「さあ、皆食べ終わったことだし、そろそろ出発しないと」

知佳の父が立ち上がりながらそんなことを云う。この場から早く逃げたいって思っている。何で。

知佳はもう、親達の心を読むのは止めにした。読めば読むほど情けなくなるばかりである。そんな娘の気も知らず、父はそゝくさと食器を返却して、荷物を担いだ。

「ソフトクリーム!」

車へと行き掛けた父の裾を掴んで、完太がそんなことを叫ぶものだから、知佳は思わず吹き出して仕舞った。完太、ナイスだ。

「ああー、もう、しょうがないなぁ。どれだ? 安曇野りんごソフト?」

「ミルク!」

「どこでも売ってるやつ! まじかお前」

「ミルクが好き!」

「知ってるさ!」

そんな遣り取りを聞いて、蓮も仁美もけらけら笑っている。母も恥ずかしそうにしながら笑っていた。

「ママ、あたしもソフトクリーム欲しい!」

完太に触発されたのか、仁美がお強請(ねだ)りを始めた。

「あー、じゃあママも。どれにするの? ミルク?」

「違うよ! りんご!」

ここでまた笑いが起きる。

「あたしも欲しいぃ」

蓮迄強請(ねだ)り始めた。ここは乗らない手はないだろう。

「じゃああたしも。安曇野りんごとミルクのミックス!」

結局大人も含めて、皆でソフトクリームを食べることになった。

知佳の父と母は、安曇野りんごとアップルマンゴーを買って、半分ずつ食べ合っている。蓮とその父親も、蓮のりんごと父親のアップルマンゴーを一口ずつ分け合っていた。知佳は母親からアップルマンゴーを一口貰った。普通にりんごが好きだなと、知佳は思った。仁美母娘も同様に分け合っていて、ここ迄存在感の薄かった仁美父は、ソフトクリームは食べずにホットコーヒーを買って飲んでいた。マイペースを崩さない辺り、完太と気が合うのではないだろうか。そんなことを思いながらソフトクリームを完食すると、体が芯から冷えて仕舞った様な気がした。

「寒ぅ、お茶飲も!」

蓮が自分の紙コップを持って給茶機に走るので、知佳も後を追った。

「あたしも! 体冷えちゃったよ」

「なんだよ、それなら最初から、ソフトクリームなんか食べなきゃよかったのに」

父が口を尖らせて抗議するのが面白くて、知佳はくふふと笑った。

「寒い! おしっこ!」

完太などは食べ掛けのソフトクリームを父に押し付けて、何か云う隙も与えず、トイレへと走り去って仕舞う。父はそのソフトクリームを母に渡すと、完太の後を追い駆ける。

「知佳の家って楽しいね」

仁美がそんなことを云うので、知佳は何だか恥ずかしくなって、赤面した。

「もぉ、完太ってば!」

トイレの方向に向かって、届く筈のない文句を投げ付ける。

「おおい、いつ出るの?」

遠くの方から水を差す様に、誰かが大声で問い掛けて来た。

「あ、お兄ちゃん」

如何やら仁美の兄らしい。知佳も蓮も、仁美に兄がいることは知っているが、余り逢ったことが無いので、興味津々で自然とそちらに目が行った。確か高校生だった筈だ。

「あ、ごめーん、もう行くよ」

仁美の母が同じ位の声量で応える。遠くで銀縁眼鏡をかけた冴えない青年が手を振っている。仁美はクラスで一番と云って好い程可愛いのに、兄はなんだかなぁ、と知佳は思った。蓮も微妙な顔をしている。

「じゃあ行こうか」

仁美の父が家族を促す。

「はぁい。じゃあね、蓮、知佳。スキー楽しんで!」

「うん、仁美もね!」

「また学校で! バイバイ!」

二人で仁美一家を見送ると、知佳の父が完太を連れて戻って来た。

「じゃあ、うちらも行きましょうか」

知佳の母の号令で、一行は動き出す。

「ソフトクリームどうするんだよ」

「もういいや、お父さんあげる」

「えー……いらねぇ……母さんどうぞ」

「はいはい。そう云うの全部あたし。そうやって太らせるんだから」

文句を云いながらも、三科の母はソフトクリームを(すべ)て完食し、紙塵(かみごみ)を捨てゝから車へと戻った。全員が乗り込むと、車は静かにサービスエリアを出て、安曇野の出口へ向けて走り出した。

栂池のペンションに着いた頃には、午後二時半を回っていた。チェックインは午後四時からだが、それ迄荷物を預かっておいて貰うことも出来ると云う。

「あと一時間半も無い位でしょ。滑って来る程の時間もないよね……」

知佳の母による悩まし気な呟きに、知佳が敏感に反応した。

「えー、滑りたい!」

「えっ、そうなの?」

「だって折角来たんだし」

「うーん、解った。お母さんここでチェックインしてから追い駆けるから。お父さんと先行っといで。蓮ちゃんは?」

「あたしも行って好いですか?」

「好いわよぉ、蓮ちゃんのお父さんも一緒にどうぞ。チェックインだけならあたし一人でもできるし」

「なんだか申し訳ないですね……」

「好いですよ、気にしないで。――完太はどうする?」

「寒いからお母ちゃんといる」

「えぇ……行かないんだ……」

三科母は、明らかに面倒臭そうな顔をするので、横から三科父が口を挟む。

「完太! 父ちゃんと(そり)しよう! 橇!」

「そりって何?」

「雪の上をバビューンって滑るんだ! 速くて楽しいぞ!」

「行く!」

母親はほっとした様に息を()くと、「じゃあ行ってらっしゃい。チェックイン済んだらメッセージ入れるね」

「はいよ」

そして一行は、三科母のみをペンションに残して出掛けることとした。

「父ちゃん着替えてくるからちょっと待ってな」

知佳の父は荷物の中からスキーウェアを取り出すと、ロビーの隅で着替えを始める。

「ちょっとお父さん、こんな(ところ)でやめてよ!」

知佳が抗議するも、柳に風で飄々(ひょうひょう)と答える。

「まあまあ、誰もいないんだし、直ぐだし」

すると会話を聞きつけたペンションのオーナーが、帳場の奥から顔を出して、

「すみません、あちらにロッカールームが御座いますので、お着換えでしたらそちらの方で……」

「あっ、はーい! ごめんなさい!」

父は着替えを抱えて、示された方へと飛んで行った。蓮の父親もその後を追い駆けて、「僕も着替えて来るんで、ちょっと待ってゝ」と云い残して行った。

「蓮のお父さんもスキーウェア持って来てたんだ」

知佳が問うと、蓮も意外そうに、「あたしも知らなかったよ。お父さんスキーするんだ」と云った。

軈て稍時代遅れなデザインのスキーウェアを着た父親達がロッカールームから出て来て、脱いだ服を預ける荷物の中に突っ込むと、知佳の父だけ自前のスキー板を担いで、「さあ行こうか、まずはお前達のウェアのレンタルだ」と云ってエントランスを出て行った。子供達も慌てゝその後を追う。

「気を付けてねー」

背後から母親の見送る声が聞こえた。

ペンションから数件隔てた所に、ウェアとスキー板のレンタル屋があった。そこで子供達のウェアとスキー板、それと蓮の父のスキー板を借りることになった。

「知佳のお父さんって凄いね。スキー板持ってるんだ」

「ね。あたしも初めて知った。自宅(うち)の何処にあんなもの仕舞ってあったんだろう」

「雪国育ちだから?」

「そんなのお父さんが子供の頃の話だよ」

「うそぉ、雪国育ちだから雪道運転任せろって」

「適当なことばっか云ってるんだ、いっつも」

「えぇ……」

それでも雪道の運転は確かに安定感があり、卒なく(こな)していた様なので、「運転任せろ」の部分はまあそれなりの裏打ちがあったのだろう。だからと云って雪国で育っている間に運転したことなんか無い筈なのだ。中学に上がるぐらいで家族ごと関東に越してきたのだから。だからそれは単にスキーが好きで、学生時代かなんかに運転し慣れていたってだけのことなのだろう。

「おーい、知佳も蓮ちゃんも、こっち来てサイズ合わせて」

部屋の隅のベンチに座って駄弁(だべ)っていた二人を、三科の父が呼んだ。その脇では既にスキーウェアに着替えを済ませた完太が、もそもそと動き難そうにしている。

「やだぁ、完ちゃんかわいい!」

蓮がそんなことを云いながら完太に駆け寄ろうとすると、完太は父親の背後に逃げて仕舞った。

「ちょっとぉ、うちの弟怖がらせちゃだめだよ」

「怖がらせてないし。失敬だなぁ」

蓮が膨れるのを見て知佳がくふふと笑っていると、父親が()かす様に、「ほら二人とも早く。知佳はこのサイズで行けるかな。――えーと蓮ちゃんは」

「この位ですかねぇ」と云って蓮の父親がウェアを一着持ってくる。

「やだその色」

「いや、色じゃなくて先ずサイズ」

そんな調子でサイズ合わせをし、それぞれ好きな色柄を選んで着替えると、次はスキー板である。三科父が子供達のスキーを選んでいる間、柏崎父はスノーボードを物色していた。

「柏崎さん、ボードですか?」三科父が目聡(め ざと)く見付けて声を掛ける。

「ええ、僕はスキーはからきしで」

「あー、そりゃあ駄目ですよ。まずはスキーの下地が無いと。ボードはその後です」

「そうなんですか? でもボードなら滑れるんですけど」

「ダメダメ、スキー教えますから、今日はスキー行きましょう!」

三科父は云い出すと退かないし、柏崎父は押しに弱いので、結局三科父のペースで全員スキーを借りることとなった。ボードの前にスキーを習得しなければならないなんて、屹度父の勝手な作り話か思い込みだ。知佳はそう思っているのだけど、蓮の父が納得しているならまあ好いかとも思っている。

そういえば父は完太に、橇をすると云っていた気がするが、なぜか完太の分のスキーもレンタルしていた。完太がスキーなんかするだろうか。そして橇を一つレンタルし、皆のスキー板をそこへ乗せると、(いよいよ)ゲレンデへと向かって歩き出す。

「このブーツ歩きにくい」

蓮が文句を云いながら、がっぽがっぽと歩く。

「足が痛くなりそう」

知佳も弱音を吐く。

「ゲレンデすぐそこだから。先ずは平地の、人が少ない辺りで少し練習しような」

程なくゲレンデに着くと、父は子供達のブーツを(しっか)りと締め上げた。

「痛くないか?」

「痛くはないけど、全然動けないよ」

「それで好いんだよ。動けたら脱げちゃうし、足痛めるから」

スキーの()き方を習い、立ち方、歩き方、転び方、方向転換など一通り教えて貰う。知佳がもたもたしている間に蓮は見る見る上達して行った。

「知佳どんくさーい」

「あっ、蓮たら非道い!」

「あは! 逃げろー!」

「待てこのー!」

そんな感じで蓮と(じゃ)れ合いながら、知佳も少しずつコツを身に着けて行く。

「あまり遠くに行くなよ! あと、他のスキーヤーに気を付けて!」

「はーい!」

蓮はそう云いながら、方向転換して戻って来る。追い駆けていた知佳の脇を擦り抜ける際に知佳が蓮を捕まえて、お互いバランスを崩して一緒に転んだ。

「いったーい!」

「おいおい、大丈夫か?」

知佳の父が駆け付けるのだが、二人ともけらけら笑っている。

「大丈夫だけど、スキー取れちゃった」

「先ず立って」

父に脇を抱えられながら、知佳が立ち上がると、蓮も自力で立ち上がった。

「三科さーん、こんな感じですかね」

遠くで蓮の父が呼んでいる。スキーは初めてと云っていたが、スノーボードで雪慣れしている所為か、こちらも呑み込みが早い。

問題があるとしたら完太ぐらいか。完太はスキー板も履かずに、ゲレンデの端の方で雪達磨を作っていた。

「ちょっと上まで行って来ますね!」

柏崎父はマイペースに、そう云い残すと手近なリフトに向かった。

「あっ、柏崎さん、それ!」

三科父が気付いた時には既に遅く、柏崎父は山頂行きのゴンドラに乗り込んで仕舞った。

「ああ……だ、大丈夫かな……知佳、悪いんだけどさ、完太のこと見てられるか?」

「どうしたの?」

「蓮ちゃんのお父さん、乗っちゃいけないゴンドラに乗っちゃったから追い駆けて、一緒に下りて来るから。スキー脱いどいて好いからさ、完太見てゝ欲しい」

諒解(わか)った! 大丈夫だから行って来て」

「悪い!」

そして父は大慌てでゴンドラへと向かって行った。

「もぉ、お父さんそゝっかしいんだから」

蓮が恥ずかしそうにしながら、文句を云っている。

「大丈夫かなぁ」

「大人だもん、大丈夫でしょ。ま、いざとなったらあたしが……」

「ええ……使っちゃダメだよぉ」

蓮はテレポーターなのだ。場所と形状さえ判っていれば、その物や人等を瞬間移動させることが出来る。然し彼女達のこれらの能力は秘密なのだ。そんなにホイホイ使って好い訳がない。

「こういう時は神田さんの方が有り難いよねぇ」

行きのパーキングエリアで突然接触して来た神田は、サイコキネシストだ。念動力で何でも思いの儘に操ることが出来る。

「あんまりそう云うこと云ってると、ホントに来ちゃうかもよ」

蓮が脅す様な口調でそんなことを云うものだから、知佳は厭そうに眉を(ひそ)めた。

その時、なんだか周囲の気温が急に下がった気がした。知佳と蓮は思わず身を寄せ合い、完太の方を見た。完太は何も気にせず、独りで雪遊びを続けている。知佳が普段余り構わないものだから、独り遊びが板に付いて仕舞っているのだ。

「完太ぁ、寒くなぁい?」

「平気!」

完太は振り向きもせず、ぞんざいに応える。

「ねぇ知佳……なんか変……」

蓮が周囲を見渡しながらそんなことを云う。なんだか周囲の景色が薄ぼんやりとしていて……などと思っている間に、見る見る景色が失われていく。

「これ、ホワイトアウトとか云うやつ?」

「な、なにそれ」

すっかり真っ白な世界に取り囲まれて仕舞った。この世界には、完太を含めた三人しかいない。

「真坂、これってまた……」

「えっ、あたしが要らないこと云ったから?」

間を置かずして、二人の元に神田が現れた。

「度々済みません、今度は依頼です」

「はぁ!?

知佳と蓮の声が揃った。完太は相変わらず雪遊びをしている……完太の周りにだけ雪があるようだ。

「弟君を残して行くのは危険なので、一緒に囲みましたけど、彼は何も異変を感じていないと思います。私達の会話も届かないです」

「クラちゃんの幻覚?」

「違うんです。すぐそこに見えてますけど、弟君は実はもの凄く遠くにいるんです。だからこちらの声は届かない。空間をうまい具合に歪めたり、引き延ばしたり縮めたりすると、こんな不思議なことが出来るんですね。私も細かいところ迄はよく解らないのですが」

「神田っちにも解らないの? そんなの誰にも解らないよ!」

クラちゃんだの神田っちだの、そう云う可愛らしい呼称はみんな蓮が付けた。そして使うのも蓮だけだ。

「初めましてやね。どうも、天現寺です」

いつの間にか神田の背後に女の人がいた。目に掛かる程の前髪を垂らした、青とシルバーのメッシュが入った短髪の、どこか格好良い感じの人だ。唯、服装はダサい。ピンクの龍とその周りに小さなハートが舞っている刺繍の入ったスカジャンの下に、ミッフィーのプリントされたトレーナーを着ている。色の抜け掛けた黒のジーパンに、ニューバランスのスニーカーからちらりと見える靴下は、真っ黄色だ。

「あ、知佳です」

「蓮です」

「聞いとるよ。大活躍やないの。憧れるわぁ」

「そっ、そんな……滅相もない」知佳は顔の前でぶんぶんと手を振る。

「天現寺都子さんです。ええと、フィールディングの都子、でしたっけ?」

神田が改めて、都子を紹介する。

「その変なアニメキャラみたいな呼び名、佐々本のおっちゃんが勝手に付けただけなんで。うちはそんなン認めとらんですから」

「都子さん、関西の方なんですね……クラウンさんと同じ」

「やめてや、あんなアゴと同じにせんとって! あのアゴ兄、滋賀やし!」

そこで都子はゲラゲラと笑った。

「今回、クラウンさんは不在なんですよ。だから若干勝手が悪くて」

神田がさも残念そうに云う。

「あ、あたしたちも不在で好いんですけどっ」

「神田っちあたしたちの都合とか、考えたことないよね!」

知佳と蓮に詰められて、神田はやゝ困った顔をした。

「都子さんどうしましょうか……」

「なっさけないリーダーやなぁ。そもそも案件内容も伝えとらんやないの。――あんな、知佳ちゃん、蓮ちゃん。今回のお仕事、君らと関係なくもないねやんか」

「ぇえ?」

「ほれ、ち、説明!」

明らかに都子は、蓮の呼び方を面白がって真似している。

「あゝ、はい」神田は凄く嫌そうな顔をした。「今回の依頼者はですね……」

そこで神田は、知佳と蓮が体を寄せ合って震えているのに気付いた。

「都子さん、()しかして彼女達、物凄く寒がってませんか?」

「あっ、申し訳ない、気温戻すの忘れとったわ。捕まえ易くすんのに寄り添って貰いとぉて、ちょい寒ぅしただけやん。堪忍な」

都子がそう云うと共に、気温が稍上がり、少し暑い位になったのでウェアの前のチャックを開く。

「気温自由自在なんですね……すごいな……」

知佳が静かに感心していると、蓮は目をキラキラさせて、

「都子お姉さん、他に何できるの!」

と食い付いた。

「あはゝ、まあそう云うのは追々な。今は神田っちの話聞こか」

「はいじゃあ、説明します。今回の依頼者は六郷(ろくごう)商事の専務さんで」

「ろくごう?」

聞いたことのある響きだ。

「仁美のおうち?」

蓮が指摘すると、神田は悠然(ゆっくり)首肯(うなず)いた。

「えっ、あ、六郷仁美!」

知佳と蓮は顔を見合わせた。

「今白馬にいるって」

「承知してます。社長は白馬八方尾根で家族とスキーをしていますね。依頼者は専務の高宮(たかみや)さんです」

「何、依頼って」

「簡単に云えば探し物なんですけど。ちょっとややこしい話で……」

「探し物? 警備会社が?」

「ええまぁ……広告の打ち方が(まず)かったのもあるんですけど……EX(エックス)部隊の話が結構口伝(くちづて)に広まっている様で、その伝わり方も……」

「えっくす部隊って何?」

「えっ、私達のことですよ」

都子が深い溜息を吐いた。

「神田っち流石に、説明してなさ過ぎやん……この子らが可哀想過ぎて見てられへんわ」

「いやその……えっ、名刺渡してませんでしたっけ?」

「名刺?」

「貰ってないし」

「あれぇ?」

「アレーやないわ。ほんましょうもない。――あんな嬢ちゃんたち、エックス云うのは、E、Xと書いて、エクストラセンサリー(Extrasensory)パーセプション(Perception)の、最初の二文字を取って来とん。超能力者のこと、エスパーって云うやろ? あれはこの、エクストラ、センサリー、パーセプションの頭文字イー()エス()ピー()に、それを実行する人って意味のアー(er)を付けて、エスパー(ESPer)やねん。本来(イー)(アール)は動詞に付けるものやから、イーエスピーが名詞である以上奇怪(おか)しな言葉やねんけど、まあ和製英語なんやろな。名詞に付けるなら(アイ)(エス)(ティー)で、エスピスト(ESPist)とでもすべきやと……いや、話跳んだな。せやからまあ、エックス(EX)部隊は、超能力者部隊って意味なんやけど、イーエスピーとかエスパーって名前にしたら余りにその儘過ぎて、()らんトラブル招きかねないってんで、(わざ)と判り難くイーエックスにして、更にエックスって読ませとるねん――って、佐々本のおっちゃんがゆうとったわ」

知佳も蓮も、余りに一息に説明されて半分も頭に入らなかったけど、それでも「超能力のことだ」 と云う点だけは理解した。

「都子さん流石ですね! 英文科!」

「ゆうとる場合か! 本来あんたが説明するもんやろがい、あと、英文科やなくて、仏文科! っちゅうか、英仏関係あらへんで。こんなん一般常識やんけ」

「はい、済みません」

素直に謝る神田を余所(よそ)に、蓮が都子に質問を投げる。

「佐々本のおっちゃんって誰ですか?」

「あれー、君ら()うとらんの? ほんま気の毒な子()やな。好い様に使い倒されただけかいな」

「都子さん、云い方……」

「云い方やないよ。なんも説明しとらん、部長にも会わせとらんて、どないなっとんねん」

「先日はぎりぎりの行程で、中々説明その他の時間が取れず……いや本統、申し訳ないです」

神田は二人の少女に深々と頭を下げた。

「よく判んないけど……そんなことより……」

「あー、お父さんたち!」蓮の言葉を遮って、知佳が手を口に当てゝ悲鳴を上げた。「私たちが居なくなって心配してるよ!」

「大丈夫やで」

都子は落ち着き払って、クスリと笑った。

「君等がここに来てから、そうやなぁ、せいぜい十秒程度ってところかな」

「いやいや、そんなことないです! もう十分位は経ってますよ!」

そう云って完太を振り向くが、完太は相変わらず雪で独り遊びしている。

「……あれ?」

なんとなく、完太の所作が緩慢過ぎる気がした。

「せやろ? 寛悠(ゆっくり)に見えるやろ」

都子はにやっと笑って、

「この空間、ちょっと時間の流れを遅くしとんねん。君らとじっくり話出来るようにな。まあその分、君ら余計に年取って仕舞うのが難点ではあンねんけど」

「なにそれもう解んないよぉ!」

知佳は半ベソを掻きながら(しゃが)みこんだ。

「ごめんて。うちも説明不足やったなぁ。まあ年齢の件はどっかで収支合わすわ。数分程度だとしても、友達より早く老けたら敵わんもんなぁ」

「数分ぐらい如何でも好いですよ」

知佳は蹲んだ儘下を向いて応える。

「ああ。そう云えば沖縄で時間止める人いたけど、あんな感じ?」

蓮は冷静に考察している。知佳は蓮を見上げて、「ピートさん?」と訊いた。

「あゝ、そうそう、ピート。あのスタミナゼロマン」

「止めることも出来るけどな、止めたら止めたで色々面倒やねん。やから鳥渡(ちょっと)だけ流しとん。ユウキおったら止めとったけどなぁ。あの子対処でけるから」

ユウキと云うのも、先の沖縄案件で一緒に活躍した少年である。知佳達より二つ三つ年下で、治癒だの状態異常の解除だのが得意な異能者だった。時間停止の無効化もしていた。

「そういえばユウ君は今回いないんですか?」

知佳が訊くと、都子は鳥渡意味有り気に笑って、「今頃は家族で海外。えゝとこのボンボンやからなぁ」と云った。

「なんだそうかぁ。残念」

「寂しいか?」

「いやぁ、別に……まあ、ざんねーんって感じですか」

「知佳ったらドライ。ユウかわいそ」蓮が茶化す様に云うと、知佳は不服そうに口を尖らせ、「えーっ、何でよ」と抗議する。

「さよかあ……ま、そんなもんやな」

都子は詰まらなさそうにそう云うと、大きな欠伸(あくび)を一つ。

「神田っち、説明の途中やったよね。はよ済ましたって」

「あっ、はい。何処迄説明しましたっけ?」

「佐々本って誰?」

「仁美のおうちが如何したの?」

蓮と知佳が(ほゞ)同時に質問したので、神田は返答に詰まって仕舞った。

「ええっと……先ず……佐々本ってのはうちの部長で、私の上司です。また(いず)れ、面会の機会を設けますね」

「いや別に。オジサンに興味ないし」

蓮が冷たく云い放つので、神田は苦笑した。

「で、依頼の件ですが、六郷商事の高宮専務から、探し物を頼まれました」

「何探すんですか?」

「時価数億円のイヤリングです」

「億!」蓮と知佳は息を呑む。

「いやいやいや、そんなもの!」

「警察に行きなさいよ! 何でこんな警備会社なんかに!」

「なぁ……こんな警備会社になぁ」都子はくすくす笑っている。

「『こんな』は余計ですが。まあ実際警察をお勧めしたんですけど、大事(おゝごと)にはしたくないとかで」

「おゝごとでしょ!」知佳は目一杯取り乱している。

「あと、警察は取り合ってくれないとか云ってましたねぇ……そんなことはないと思うんですが……」神田は口元に手を持って行って、思案深げに付け足した。

「なんでぇ? ええ、億でしょ、何で警察が取り合わないの?」

「それって……なんかヤバい品だったりする? 警察が取り合わないんじゃなくて、警察に行けない理由があるんじゃ……」蓮が眉を顰めながら問う。

「それも確認したんですが、それに就いては否定されてましたね」

「確認したんだ……って、そりゃ否定するでしょ」

「あたしがその、高宮さん? に会った方が好いのかな……」知佳が嫌そうに呟く。

「まあその辺りも改めて確認は進めますが、多分そう云うことではないんです」

「どういうこと?」

「神田っち回り(くど)いよ! 結論から云って!」蓮はイライラして来ている。

「まあ結論から云うと、社長一家が怪しいと」

「ええー!」

「特に娘さんが」

「えええー!!

知佳も蓮も、仰天し過ぎて目の玉が飛び出さんばかりに眼を見開き、口をだらしなく開けた儘、暫く身動(み じろ)ぎもせずに立ち尽くしていた。

「いや……待って、まさか……仁美が? いやいや、そんな莫迦(ばか)な……」

「あの子可愛いもん大好きだけど、でも誰よりも正義感強いし、そんなことする筈……」

知佳と蓮は思わず顔を見合わせる。

「まだそうと決まったわけではないんです。それに、間違えて持って行って仕舞ったのかも、とも云ってましたし。その辺りの真偽も含めて、我々で調査の上捜索出来ないかと、まあそう云う依頼ですね」

「仁美が持ってるってのは確実なんですか?」

「勿論そんなことはないですよ。若しかしたら全然無関係のこそ泥に盗られた可能性だってある訳で」

「そんな雲を掴む様な話……」

「とにかく先ず、知佳さんと蓮さんにお願いしたいのは、社長家族が持っているのか如何かの調査と、若し持っている様であれば取り返して頂きたい」

「えー……」

知佳は物凄く嫌そうな顔をした。

「で、その探す品物の写真か何かはあるの? どんな物か判らなきゃ探し様がないよ」

蓮の問いに神田は首肯きながら、「勿論、今お渡ししますね」と云って、知佳と蓮に写真を一枚ずつ渡した。

「ええ……これ?」

どう見ても数億円には見えなかった。

「物凄く玩具っぽい……」

「ね。如何見ても高そうには見えないよ」

「それでも依頼者は数億円と云っていたので。まあ、それが嘘でも誤りでも、我々のすることに変わりはないし、請求額が変わることも無いんです」

「ふうん……」蓮は納得いかないと云う表情で、写真を凝と見詰めている。

「矢っ張り女の子やなぁ。アクセサリーの高い安い位、判るわなぁ」

「玩具ですよねぇ?」知佳が都子に同意を求める。

「玩具か知らんけどな。まあ高価には見えんな。石もなんや煤けとるし。それに――」

「それに?」

「このデザイン、なんか見たことあるっちゅうか……あの、ほら……」

都子は突然、Vサインを横倒しにしてその隙間から右目を覗かせるポーズを取り、反対の手を腰に、右膝を少し曲げて立ち、

「月に代わって、逮捕しちゃうゾ!」

「あー! 月の紋章(エンブレム)!」

「ほんとだこれ、アルテミスの紋だ!」

知佳と蓮は顔を見合せた。

「えっ、高価ってそっち? プレミアとか? 否でも流石に、億って……」

「如何でも好いけど都子姉さん、すっごい可愛い声出るんですね!」

「蓮何云って……」

「せやろ? ミヤちゃん実は可愛いねん!」

知佳のツッコミに被せ気味にそう云うと、都子はけらけら笑った。

「月の紋章」とは、月や各惑星をモチーフとした紋章を背負った少女達が婦人警官の姿で悪者を遣っ付けると云う、昔からありがちな勧善懲悪物の魔法少女アニメ番組で、何年も前から知佳や蓮位の年齢の少女達の間で流行っているのだ。月や各惑星毎に紋章があり、アルテミスの紋と云うのは、月を背負った主人公「月読(つくよみ)かぐや」のライバルに当たる、月の裏側をモチーフとしたキャラクター「アルテミス銀子」の紋章である。脇役の割に人気があり、関連グッズ等は常に品薄だと云う。

「納得して頂けましたかね」

女子達の会話に付いて行けない神田は、僅かな会話の切れ目でおずおずと声を掛けてみた。若干の沈黙の後、知佳が複雑な表情で応える。

「納得なんか出来ないですけど、何しろ探すだけならしてみます……ただ、白馬ってここから遠いんですか?」

「近いと云えば近いし、遠いと云えば遠いですね。まあ、隣の山、と云う感覚ですか」

「うちが連れてったるやん。どんな遠かっても、たった一歩で辿り着かせたるわ」

「なにそれ、ミヤちゃんカッコ好いんですけど!」

蓮は遂に「ミヤちゃん」と呼んだ。

「まあ何しろ、行動するなら夜間、彼らが寝静まった頃が都合が好いと思うので、また夜にお迎えに上がりますね」

「まあそう云う訳やから。また今夜なぁ」

そう云うと、神田と都子は視界から一瞬にして消え、代わりに雪山の景色が戻って来た。完太は直ぐそこで雪達磨を作っている。父は何処だろうと知佳が山頂方向を見上げていると、木々の向こう側から飛び出して来て制御し切れずに派手に転ぶ、蓮の父の姿が目に入った。

「うわっ、お父さん、ダサ!」

略同時に父の姿を見つけた蓮が、眉間に皺を寄せて呟いた。

「このゴンドラ途中駅があってさ、そこで降りた様だったからまあ、助かったんだよね」

知佳の父は笑いながら説明する。

「上迄行ってたらこんな早く下りて来られなかったよ」

「このゴンドラは降りるタイミング間違えたら怖いので、次からはあっちのリフトにしますよ」

(まみ)れになった蓮の父は、苦笑しながらそう云ったが、知佳の父は隠袋(ポケット)から取り出したゲレンデマップを見ながら、

「ああ、柏崎さん、それは駄目だ。あのリフト、さっきの中間駅よりちょっと上に着きますよ」

「なんですと」

「それよりは、この中央トリプルリフトってヤツの方が好いかも知れないですね。滑走面も広いし、滑りやすそう」

「なるほど、ここからちょっと遠いですね。皆でこっちの方に移動しておきませんか」

「うん、それでもいいし、もう一つ可能性としては――」知佳の父は皆に地図を見せながら、「今いるのがこの、からまつゲレンデってところね。この隣の、鐘の鳴る丘ゲレンデに行けば、ビギナーエリアから出ずに滑っていられるよ」

「でも如何遣ってそこに行くんですか?」

「ゴンドラ中間駅で降りて、そこからこっち側に滑って行けば」

「いや無理でしょ!」知佳が声を挙げる。「最悪私たちは転びながらでも辿り着けたとしたってさ、完太如何するの?」

「ああ……どうしようかなぁ」

「お母さん来る迄待てば?」

「お母さん来るの、如何頑張っても四時半位だろ」知佳の父は鳥渡困惑した様に眉を顰め、「ゴンドラ動いてるの、三時半迄なんだよね。こっちのリフトにしたって四時ぐらいまでで。どうしたって間に合わない」

「ええ、ダメじゃん、てゆうか仮令(たとえ)今から行ったとしたって、帰り如何するのよ。下手したら帰って来れなくなるんじゃない?」

「そうだよなぁ……リフト三つ位乗り継いで上の方迄行かないと、こっちに戻れないみたいなんだよな」

「なにそれ、絶対嫌なんだけど」

三科親子の口論に柏崎父がおずおずと「好いですよ、ここで」と口を挟んだ。

「一回この、トリプルってリフト行って来ますよ。多分大丈夫ですよ」

そしてさっさと移動を始める。蓮がそれに続くので、三科父娘も仕方なく移動をすることにした。

「完太ー! あっちで橇しよ!」父が完太に声を掛ける。

「えー、雪達磨作ったのに」

完太の前には、大小三体の雪達磨が完成していた。何時の間にそんなに作ったのか。小さい物で完太の掌程度、大きい物でも精々頭部が十(センチ)程度だが。

「んもう、一緒に持って行けば好いでしょ。ほら、橇に載せて!」知佳が急かす。

「父ちゃんと母ちゃんと、姉ちゃん!」完太は雪達磨を橇に移しながら、そんなことを云う。

「は?」

なるほど、大小あるのは、そう云うことなのか。

「完太はいないの?」

「これから作ろうとしてたのにぃ」

「じゃああっちに行ってから、作って」

「うん」

完太が橇を引っ張って移動するのだが、余りに雑な引っ張り方をした為に、目的の場所に辿り着いた頃には雪達磨達は跡形も無く崩れ去って仕舞っていた。

「あーん、父ちゃんと母ちゃんと姉ちゃんが皆殺しだぁ」

「ちょっと、恐ろしい表現しないでよ! 作り直してあげるから、もぉ」

知佳が完太と一緒に雪達磨の再構築をしていると、大分スキー慣れしてきた蓮が近く迄滑って来て、二人の作業を覗き込んだ。

「なんだ、雪達磨作ってるんだ」

「父ちゃんと母ちゃんと姉ちゃんと、完太!」

先刻(さっき)作ってたの、持って来る迄に崩れちゃったから、作り直してるんだよ」

「ふうん、家族なんだ。ねえねえ、蓮姉ちゃんは?」

完太は作業の手を鳥渡止めて、まじまじと蓮の顔を見上げると、

「じゃあこれ、蓮ちゃん」

と云って、手の中で固めていた雪玉を見せた。

「それ完ちゃんじゃないの?」

「蓮ちゃん。だからもっと大きくする」

雪玉に雪をくっ付けて、大きくしていく。

「やだ、一番大きくなっちゃうじゃん。知佳姉ちゃんと同じぐらいにしてよ!」

「むううぅぅ!」

ダメ出しをされた完太は、やゝ不機嫌になりつつも、知佳雪達磨と同じ位の大きさを目指して作り直す。

三人でそんなことをしている間、蓮の父は着実にスキーを上達させていった。三科父と一緒にリフトで上がって、子供達の処迄滑り下りて来ると云うことを数回繰り返したところで、母からの連絡が来た。父がその応対をしている間、柏崎父が蓮の様子を見に来た。

「あーあ、お前たち結局、雪達磨作ってるだけか」

「あたし少し滑ったよ」

蓮が若干胸を張って云う。

「知佳ちゃんは滑った?」

「あ、あたしは完太見てたんで……ずっと雪達磨作ってましたよ」

「そうかぁ……なんか悪いことしちゃったな」

「好いですよ、小父さんが気にすることないです。うちのお父さんはもう少し気にして欲しいけど……」

そう云って知佳は自分の父親を睨み付けてみるが、本人は何も気付かず、母とのメッセージの遣り取りに忙しそうにしている。

「お父さーん! お母さんなんだって?」

知佳が声を掛けると、三科の父は詰まらなさそうに知佳を見遣って、

「来ても(ほとん)ど滑る時間無いから、宿で待ってるってさ。お母さんは明日からのスキー参加だな」

「まあしょうがないよ。――雪達磨も作ったし、あたし鳥渡滑る練習する」

立ち上がりながら、知佳は満足そうに自分達の作品群を見下ろした。

「父ちゃん写真撮って! 母ちゃんに送って!」

完太が雪達磨一家の前でVサインのポーズを取る。

「そんな真正面にいたら、雪達磨写らないよ。横にどけっ」

「はーい」

「ハイ、チーズ!」

「つぎ、姉ちゃんたちも入って!」

「えー……」

「あたしも好いの? やったあ!」

知佳は渋々ながら、蓮はノリノリで、雪達磨の背後に(しゃが)むと、完太と一緒に写真に収まった。

その後知佳は、父に教えて貰いながら鳥渡だけ滑った。完太から遠く離れる訳には行かないので、リフトには乗らず、近辺で行ったり来たりしただけだったが、それでも多少は様になって来たような気がした。

帰り道、知佳と蓮は翌日の計画に思いを馳せていた。

「明日はリフトに乗りたいな」

「山頂行きたいよね!」

「えー、それはやだよ、怖いよ」

「行こうよ、知佳ぁ」

「蓮一人で行って来て」

「もぉ。付き合い悪いなぁ」

神田達に逢ったことなど、微塵も感じさせない。

「山頂迄行っちゃうと、中級コースしかないぞ。蓮ちゃん大丈夫か?」

「なんとかなるっしょ!」

三科父の心配も撥ね退()けて、蓮は遣る気満々である。どうせいざとなったらテレポートする気なのではないかと、知佳は(いぶか)っている。

〈人前でテレポートとかしないでよね〉

知佳は蓮にテレパスで確認してみた。

〈あ、知佳ったらそんなこと疑ってるんだ! ひどいなぁ。ちゃんとスキーで下りて来るよ!〉

〈無茶はしないでね。ユウ君いないんだから、怪我したら大変なんだよ〉

〈大丈夫、大丈夫。まあいざとなったら……〉

〈ほら矢っ張り! 駄目だよ!〉

〈冗談だって。心配性だなぁ〉

蓮は知佳の方を向いて、ニッと笑って見せた。そして「あー、おなかすいたなぁ」と(わざ)とらしく声に出して云う。

「宿着いて暫くしたらご飯だよ。それ迄温泉でも入ってたら好い」

蓮の父が振り返って云った。

「やったあ! 温泉入る! 知佳も一緒に入ろ!」

「あ、うん」

蓮は大のお風呂好きだ。知佳は時々付いて行けないのだけど、温泉なら話は別である。とは云え蓮は放っておいたら、日に五度でも六度でも温泉に入りそうだけど、流石に知佳もそこ迄は付き合えない。然し食事前に一風呂位なら(むし)ろ大歓迎である。

「早く早くぅ! 温泉が待ってるよ!」

スキーブーツで歩きにくい筈の蓮は、なんだかスキップでも始めそうな位の勢いで、ペースを上げて親たちを追い抜いて、先を急がせた。

「温泉は別に蓮のことなんか待ってないよぉ。そんな早く行かないでぇ」

知佳が悲鳴を上げる。いい加減足が痛い。

「あたしは温泉を愛し、温泉に愛された女の子! 待っていない訳が無い!」

「蓮何云ってんの」

「好いから早くぅ!」

「足痛いんだよぉ」

「尚更早く温泉に入らなくちゃ!」

もう滅茶苦茶である。ヒイコラ云いながらやっとのことでペンションに辿り着き、ブーツとウェアを脱いで部屋で座布団に座り、母が淹れてくれたお茶を一口飲んで、知佳はやっと人心地着いた気がした。そこへ蓮が乱暴に引き戸を開けて乱入してくる。

「知佳! 温泉!」

単語だけ(まく)し立てゝ、知佳を催促する。

「もぉ、諒解(わか)ったよぉ。……お母さん、お風呂入ってくる」

「知佳浴衣着れたっけ?」

母の質問に知佳は小首を傾げた。

「帯の結び方とか、わかんない」

「まあちょうちょ結びで好いんだけどね。後でお母さん行くから、先に蓮ちゃんと入っといて。そこに浴衣とタオルとセットになって置いてあるから、持ってきなさい」

「はあい」

知佳はタオルと浴衣を持つと、蓮と一緒に大浴場へと向かった。

大浴場と云う名の割にそれ程広くはなかったが、それで却って温泉の匂いが濃く立ち込めていた。壁面には「温泉の正しい入り方」と云うプレートが打ち付けられている。

「最初に掛け湯して、汗と埃流してから、入れってさ。体洗うのは入った後だって」

「そんなの云われなくても知ってるよ! 温泉少女には常識よ!」湯船のお湯を体に浴びながら、蓮は得意気に云う。

「何よ、温泉少女って」

「先に洗うとね、体に見えない程小さな傷が沢山付くから、その状態で温泉入ると成分が必要以上に体に入って来ちゃって、湯当たりし易くなるの。だからって掛け湯しないで入ったらお湯汚れるからね。掛け流しとは()え、マナーだから。掛け湯はちゃんとしなよ」

「なるほど、温泉少女だわ……」

知佳は蓮の指導の元、掛け湯をして湯に浸かった。

「あぁー、極楽ー」

「やめてよ蓮、どこのおっさんよ」

「おっさんじゃないよー、おんせんしょーじょだよー」

蓮は(とろ)け顔に蕩けた声で、ニンマリ笑いながら応える。

「もぉ、ダメな子になってるぅ」

そう云う知佳も、スキーの疲れが出たのか蕩け掛けていた。

浴場の扉が開き、人が入って来る。ひたひたと云う音を立てゝ湯船迄来て、掛け湯をする音が聞こえる。知佳はうっすらと目を開けてその人物を見定める。

「あ、なんだ、おかぁさん……」

知佳の母はそっと湯船に入ると、二人の方へと近付いて来た。

「こらぁ、二人とも寝ちゃダメよ」

「起きてるよぉ。ねぇ、蓮?」

知佳が蓮の方を振り向くと、蓮は若気(にやけ)顔の儘目を閉じて凝としていた。

「蓮? 寝ちゃだめだよ」

「ふぁあ? おきてるよぉおお」

「露天もあるみたいだから、二人で行って来たら?」

母の提案に蓮はぱちりと目を開けた。

「露天! 行きまふ!」

そしてザバリと湯飛沫(しぶき)を立てゝ立ち上がると、少し蹌踉(よろけ)けて知佳に掴まった。知佳は不意を突かれて湯船の中へと引き()り込まれる。二人でバシャバシャと暴れていると、母が一人ずつ脇を抱えて立ち上がらせた。

「危ないじゃないの、もっと落ち着きなさい」

蓮も知佳もゲホゲホと(むせ)せながら、「はぁい」「ごめんなさぁい」と(しお)らしくなり、そろりそろりと忍び足で露天へと向かって行った。

「もぉ。蓮の所為で怒られたぁ」

「ごめんごめん。露天て云われて舞い上がっちゃった」

「つうかあたし今、殺されかけたよね?」

「そんな莫迦な! 大好きな知佳殺す訳ないし!」

「一々大好きとか、付けなくて好いよぉ」

知佳は上せ気味の頬を更に赤く染める。蓮はそんな知佳を眺めながら、悦に入る様に笑っている。

露天へ続くドアを開けたら、冷たい風がさっと吹き、火照(ほて)った体に心地好く感じた。

「ひんやりぃ!」

「目、覚めた?」

「もぉ、ぱっちりよ!」

露天風呂は大きな岩場の中にあった。蓮は足を滑らせないよう、そっと気を付けながら入ると、肩迄浸かって(うめ)いた。

「うぁあー、いいねぇ」

知佳も続いて入りながら、「開放感、きもち好い!」と嘆息する。

そこへ母も遣って来て、苦笑しながら知佳の横に入って来る。

「蓮ちゃんはホント、温泉入るとすっかりオッサンねぇ。(りん)そっくり」

「お母さんに?」

凛と云うのは、蓮の死んだ母の名らしい。知佳の母は蓮の母と、子供の頃からの友達だったと聞いている。

「そうよ。懐かしいわ。蓮ちゃんはどんどん凛にそっくりになっていく。凛も天国から見て、やぁねぇとか云ってそう」

「厭ですか……」

「そうね。娘が自分にそっくりになって来るのって、なんか(くすぐ)ったいって云うか。照れ臭いと云うか……」

知佳の母は、鳥渡気(まず)さを感じたのか、稍トーンダウンしながら言葉を継いでいった。

「そうかぁ。でもそうかも。お母さんなら、同じなんて詰まらないって云いそう」

「そうそう、凛なら云いそう」

蓮の言葉に勇気を貰って、知佳の母は少しトーンアップした。

「でもあたしはお母さんしか知らないから。真似しているつもりは無いんですけど、知らない内にお手本にしているかも」

「そうなんだ。あ、でもね、温泉入ってオッサン化するところは真似しなくていいのよ」

そして蓮と知佳の母は、コロコロと笑い合った。母の心の葛藤を覗いていた知佳は、ハラハラしながら二人の会話を見守っていたが、最終的に丸く収まった様でほっと胸を撫で下ろした。

「でも蓮ちゃんのお風呂好きは、赤ちゃんの頃からだからね。そこは真似じゃなくて、本当に遺伝なのかも」

「やだ。小母さんあたしが赤ちゃんだった時から知ってるんですか?」

「そりゃ知ってるわよ。蓮ちゃんと知佳は二箇月程度しか違わないし、凛とはよくお互いに相談し合いながら、時には愚痴も云い合いながら、二人で一緒に、蓮ちゃんと知佳の二人を育てゝ行った様なものよ。だから二人とも、あたしと凛との共同の娘みたいなものなの」

「そうなん……だ……」

「覚えてないかも知れないけど、二人とも赤ちゃんの頃から一緒に遊んでたのよ。幼稚園も一緒だったし」

「え」

「あらやだ、蓮ちゃん、幼稚園のことも忘れちゃった?」

「うーん……余り覚えてない」

「写真も動画も一杯残ってるから。後で見せてあげるよ」

蓮は複雑な顔をしている。知佳はその理由を()っている。蓮が未だ能力に目覚める前、知佳には蓮の心の中が見えていたので、蓮に幼稚園の時の記憶が無いことを知っているのだ。正確には、幼稚園の頃の知佳との記憶だけが欠落している。知佳は蓮と幼稚園で、よく一緒に遊んでいた記憶があるのだけど、蓮は知佳とは小学校で出逢ったと思っているのだ。何故記憶していないのかは判らない。蓮の幼稚園時代の記憶の中に知佳は確実に登場しているのに、蓮はそれを知佳だと認めていない。知佳はそのことを知った時、非常に悲しい思いをしたが、蓮にそのことを追及することはしなかった。記憶を訂正しようともしなかった。その頃は未だ心が読めることは誰にも云っていなかったし、記憶の食い違いに自ら触れる勇気もなかった。――勇気は今もない。だからこの件はずっと未解決の儘、知佳の中で(くすぶ)っている。

今、蓮は異能力に目覚め、それと引き換えに知佳には蓮の心が読めなくなった。だから今でも忘れた儘であるか如何かは確認出来ない。出来ないが、蓮の困惑した表情を見れば大体察しは付く。

「あの頃の蓮ちゃんは人見知りも激しかったしなぁ。友達と遊んだ記憶自体が薄いのかもねぇ」

蓮が黙って仕舞った為、この話題はこゝ迄となった。その後三人は屋内へ戻り、体を洗って軽く湯に浸かり直し、上がり湯をして出て来た。二人の浴衣の帯は母が結んでくれた。

「小母さん」蓮が帯を結んで貰いながら、知佳の母を見上げた。

「なあに?」母は忙しく手を動かしながら応える。

「あたしたちが小母さんとお母さんの共同の娘なんだったら、小母さんはあたしと知佳の共同のお母さんってことですか?」

母は帯をキュッと結ぶと、「うん、そうね。そう思って」と云って微笑んで見せた。

蓮はいきなり知佳の母に抱き付くと、「お母さんの昔の話、一杯教えて」と云った。

「そうね。いつでもしてあげる」

母は指先で目頭の涙を払った。知佳も何だか涙が出て来て、それを隠す様に、蓮と並んで母に抱き付いた。

「あたしも聞く。蓮のお母さんだって、あたしたちの共同のお母さんでしょ」

声が震えているのを隠す様に、母の背中に顔を埋めた儘云う。蓮が知佳の方を見て、ニコリと笑い掛けたが、蓮が顔を押し付けていた辺り、母の浴衣が二か所だけ、少し濡れていた。

その日の晩、知佳と蓮はそれぞれの布団の中から、テレパシーで話し合っていた。

〈蓮、一年生の頃一緒だったのは覚えてる?〉

〈知佳、ごめん……あたし……〉

〈いいの。あたし、一年位前は蓮の心も見えてたの。聞きたくなくても聞こえてきた。あたしも未だ、未熟だったから〉

〈うん〉

〈だから、蓮が幼稚園の頃をちゃんと覚えてないって知ってた〉

〈覚えてないわけじゃないんだ。だって……〉

〈それも知ってる。仁美と弘子と、誰か、でしょ〉

〈うん……〉

〈その誰かが、あたし〉

〈そう……なんだね……でも……〉

〈なんか、理由か原因があるんだと思うの。蓮の記憶に、ちゃんとあたし居たよ。でも蓮は、あたしが居なかったって思ってた。多分今でも〉

〈うん……〉

〈あたしには理由が判らなかった。判らない儘、蓮の心は聞こえなくなったの。だから、今でも判らない〉

〈あのさ〉

〈なに?〉

〈今あたしの心が読めたら、それ、判るかな……〉

〈如何だろう。確かに、心の奥へ下りて行く遣り方は沖縄のときに覚えたよ。でもそれだって絶対じゃないし……(そもそも)蓮の心は読めないから……〉

〈心開けないかな。ピートの心は読めたじゃん?〉

〈あの時は、なんか隙間あったからね〉

〈その隙間って、意図して作れないかな……〉

〈うーん、如何だろ〉

暫くお互いに、沈黙が続いた。

〈うん、でも……ごめん、今は未だ……怖いかも……〉

〈そうだよね。急がなくて好いと思うよ〉

〈そう?〉

〈無理したら傷が付くから。出来る時が来たら、出来る範囲でやろ〉

〈うん……なんか、ごめんね〉

〈なんでよぉ〉

知佳は優しく笑った。その微笑みも、蓮に届いた。

〈あたし知佳が大好きなのに、なんでこんな……忘れちゃってるんだろう……〉

〈だからこそ、かもね。判らないけど〉

〈どういうこと?〉

〈嫌だから忘れるとは限らないから。でも何云っても今は想像でしかない。だから本統のところは判らない。判らないなら、気にしない方が好いよ〉

〈そうは云っても〉

〈あたしは好いと思う。大事なのは今だよ。いま、あたし達、大親友なんだから〉

〈うん……そだね……〉

その時、二人以外の世界が忽然と消えて、数米先に横たわるお互いの姿が見えた。

「オムカエデゴンス!」

二人の間には都子が立っていた。

「あ、都子さん。こんばんは」

知佳は(ゆっくり)と起き上がった。

「時間かぁ」

蓮も(まぶ)しそうな顔で立ち上がる。蓮の顔は少し辛そうに見えた。

「今何時ですか?」

知佳が聞くと、都子は「ちょっと待ったり」と云って手を(かざ)し、何かを数える仕草をした。

「おーけい、今、真夜中の一時や」

「えっ、もうそんな時間?」

「一時にしたんやん」

「如何云うことですか?」

「ミヤちゃん、なんかした?」

蓮が目をキラキラさせながら、都子に擦り寄る。そんな軽薄な蓮の姿を見て、知佳は稍複雑な溜息を吐いた。無理をしているんだろうな、と思ったからだ。

「おお、うちのファンやな。君にだけ教えたるわ!」

都子はそう云うが、声が大きいので知佳にも十分聞こえる。

「昼間は時間を遅らせたけどな、今は時間を進めてん。夜中まで起きとんのん辛いやろ? それにこれで、君等の年齢も辻褄()うたからな。てか、寧ろ若なってるから」

「ミヤちゃん、時の旅人? もしかして未来から来た?」

「んなわけあるかーい! あんな、時間の進み方はコントロールでけるけど、過去には戻せないねん。止めるところ迄や。若なってる云うのは、通常に比べてって意味やで。一寸だけ未来に来たと思って」

「そうかぁ、残念……」

「なんや、その(とし)で、過去に戻って遣り直したいことでもあるんか? やめとけやめとけ、そんなん仮令(たとえ)出来たとしても、(ろく)なことにならんで」

「如何して?」

「過去は過去。過ぎたことに思い悩んでも、前には進まれへん。過去に囚われると、大事な眼の前のモン見落とすで。せやから、先だけ見とけ。な」

「――はい」

「昔アレした、ナニしなかった、云うてな、みんな後ろばっかり向きよるねん。アホかーってな。ほんで眼の前の大事(だいじ)見逃して、また後悔するやろ。ほんまアホばっか」

「都子先生!」

「お? 何や立派な敬称ついたな。でも先生はやめて」

「なんでぇ?」

「先生と、云われる程の、莫迦は無し、云うてな。教師でも何でもないのに、理由(わけ)もなく先生云われるのは、なあ。底が知れるっちゅうかな」

「そんな」

「今迄通り、ミヤちゃんでエエやん。そうしといて」

「じゃあ、最大の敬意を込めて、ミーヤちゃーん! て呼びます!」

「まあそれは、好きにし」

そして都子はケラケラと笑った。

「まあツカミ(しっか)りしたところで、次行こか、本編」

「どうするんです?」知佳は都子に歩み寄りながら、訊いた。

「今繋ぐからちょい待ち」

都子がそう云うと、目の前に寝姿の仁美が現れた。仁美の姿は何だか透き通っていて、いわゆる立体映像の様な感じがした。

「別々の時空を緩く繋いだから、触ったりはでけへんけど、心は読める筈や。知佳ちゃん、遣ったって」

「え、遣ったってって……」

「取り敢えず、この子が持ってるか如何かが判ればえゝよ」

「あゝ……はい」

知佳はそうっと、仁美の中へと下りて行った。起こさない様に、夢を見ているならそれを邪魔しない様に。

仁美の中は、キラキラしたもので溢れている。ヘアゴム、カチューシャ、シュシュ、ヘアピンに髪留め、(くし)(かんざし)迄ある。更には指輪にネックレスにイヤリング。玩具の様な物から、本物の宝石をあしらった物迄。これ全部が仁美の所有物ではないのだろうが、それにしてもこの子の興味は際限がない。この中から目的物の有無を判断するのは、ちょっと大変そうだなと思ったので、知佳は二人に仁美の中をテレパスで中継した。

「結構大変そうなので、手伝ってください」

都子と蓮の目の前に、知佳が伝えた光景が展開される。

「おお、これはなかなか壮観やな」

「仁美やっぱり凄いな。キラキラばっかり!」

「ここにあるのは、仁美が好きなものとか、興味のあるものです。持っているとは限らないけど、例えばこのヘアゴム」知佳は手近な一品を指し示した。「これは如何云うものなのかなーって深掘りしていくと……」そのヘアゴムに(まつ)わる仁美の想いが展開されていく。クリスマスの日に大型のショッピングモールにて、母親と入ったアクセサリー屋で買って貰った物の様だ。「と、こんな風に、仁美の持ち物だって判ります。それで……えーとそうだな、例えばこれとかは……」そして一寸遠くにある大粒のダイヤが付いた指輪を示すと、その指輪に対する想いが展開される。半年ほど前に母親と入った宝石店で、目を奪われていた仁美の姿が見える。退店時もずっと後ろ髪を引かれていた想いが伝わる。「こんな感じで、単に憧れているだけで持ってはいないんだって判るんです」

「流石やな。解りやすい」

知佳は都子に褒められて、鳥渡照れ臭そうに含羞(はにか)んだ。

「まあそんな感じで、先ずは目的のイヤリングがあるかどうかです。ここになければ仁美は知らない可能性が高いです。ここにあったとしても、今みたいに知ってるだけなのか持っているのかは、調べることが出来ます」

「無ければ仁美は完全無罪ね?」

「まあ殆どそうだと思うけど……ただ、()しかしたら別のところに、深い記憶として存在している可能性もあるの。でもそれを調べるのは相当大変だと思う」

所謂(いわいる)『悪魔の証明』云う奴やな」

「悪魔?」蓮がちょっと(おび)えた目付きで都子を見遣る。

「ある、っちゅうことを示すのは簡単やねん。現物持って来て、ほれって見せるだけやから。せやけど、無いって証明は物凄(もっすご)ぉ難しいか、もしくは滅茶糞(め ちゃくそ)大変やねん。宝箱が百個あって、そん何処にも聖剣(エクスカリバー)入ってないですよって証明するためには、全部開けなならん。宝箱が千個、一万個ってなってったらどんどん大変なる。(しま)いには、この国の何処にも埋まってまへんとか云い出したら、国中の地面ぜんぶ掘っくり返さんならん。そんなんは事実上不可能やん。それが悪魔の証明」

「ああ……」蓮の表情は物凄く嫌そうな感じに変わった。

「せやからな、まあこの中に見付けられんかったら、一旦この子は推定無罪ってことにしよ。可能性はゼロではないとは謂え、そんな専務が近々(きんきん)に失くしたようなもん、深層心理に眠ってるってのも中々考え難い気がするからな。で、その場合は他当たろ。他から見付かったら、自動的にこの子は無罪確定なるしな」

「はい。じゃあ取り敢えず、この中の捜索はお願いします」

「よっしゃ任しとき!」

三人はイヤリングの捜索を開始した。種々雑多なアクセサリーを、一つずつ選り分けていくと、イヤリングの数はそう多くはなかった。そしてその中に、目的のアルテミスの紋は見当たらなかった。

「よかったあ、無かったよ!」

蓮は嬉しそうに飛び跳ねている。

「無かったね……」

知佳は如何も納得行っていないかの様に、口許に手を遣った儘(たゝず)んでいる。

「なんか引っ掛かっとるようやね」

「いやぁ……別に……」

「なんかあるなら云うといてや」

「うん……」

知佳の様子を見て蓮は不満気に、「何よ、仁美が無実じゃ気に入らないの?」

「やだ、そんな訳ないし!」

知佳は真っ赤になった顔を挙げて、慌てて否定した。

「あたし別に、仁美が盗ったなんて思ってないよ。でも、知らないとは思わなかったんだ」

「何で?」

「だって仁美、月ブレ大好きじゃん。専務さんが持ってて、仁美がそれ知らないとか、なんか不自然と云うか……」

「見せる前に盗られたんじゃない? それか、仁美宛のプレゼントのつもりだったとか」

「あー、うーん、そうかなあ……」

「ま、最初に云うたとおり、見付からんかったので、他当たるで」

「はい」

都子は仁美を退場させ、次に仁美の母を連れて来た。仁美にしろその母にしろ、非常によく寝ている。スキー疲れの所為だろうか。蓮も知佳も、ブーツで歩くのがしんどかったぐらいで、雪山では殆ど雪達磨作りに没頭していたので、余り疲れていない。

「流石はあの子の母親、これまた半端な量ではないわなあ」

都子の云う通り、仁美の数倍の物量のアクセサリーが、三人の前に広がっている。イヤリングも相当沢山ありそうだ。

「よーし、気合い入れっぞー!」

蓮は男の子の様に腕(まく)くりし、舌舐めずりをした。

そこから何十分経ったか。総ての確認が終わった頃には三人共地べたに腰を落としていた。

「無いなあ」

都子は疲れ切った声で、天を見上げた。

「後はあんま期待でけへんけど、まあ一応見とくか」

「ミヤちゃん、今何時?」蓮は目を閉じて仰向けに体を倒しながら、質問する。

「一時、十分位かなあ?」

「げ、また寛悠にしてる!」

「どんだけ掛かるか判らんかったからな。まあ、一時迄進めたときの貯金、未だあるから」

「少し休憩したい……」知佳が両手で顔を覆いながら訴えた。

「あたしも。トイレ行きたい」

「ほな休憩な。トイレはそこ」

都子が指差した先に、赤い扉があった。

「山科の三階のトイレ、確保してきとん。自由に使(つこ)て」

「何かミヤちゃんて、自由自在だね」

「空間繋いでるだけやて。そない大したことはしとらん」

「してるよ」

そう云い残して、蓮は赤い扉を押し開けた。

「個室三つあるから。知佳ちゃんも今のうち行っとき。うちも行くしな」

そう云うと都子も赤い扉に入って行った。知佳もそれに続く。

「そう云や君らって、報酬どないなっとんの?」

どこかから失敬してきた給茶機を使って出した玄米茶を飲みながら、都子が何気なく問う。

「ほうしゅう?」

「何も貰ってないよ?」

知佳と蓮は顔を見合わせた(のち)、揃って都子の方を向いた。

「はぁ? まさか無報酬でこんなことしとんの? ――うわ、まじかあのオッサン」

「えっ、なんか貰えるはずなんですか?」知佳は両手で持った紙コップの煎茶を啜りながら、都子を見上げる。

「おう! 後で神田っちシメとくわ。安心し。X国案件の分と併せて、ちゃんと貰わなあかんやんな」

「はぁ……いや、なんかこう云う正義の味方っぽいことって、ボランティアなのかなって……」

「ボランティアなんちゅうもんは、無理矢理連れてかれてするもんとちゃうし。子供(さら)って只働きさせるって、唯の人攫いやんけ。あかんわ、確り締め上げとくわ――第一うちら、別に正義の味方とちゃうで。ビジネスやん。お、し、ご、と!」

「そうなんだ……」

「えーでも、お金とか貰っても、お父さんになんて云えば好いのか」蓮も困惑気味に、ほうじ茶の紙コップに視線を落とす。

「ほんまや。結構な所得になるやん。申告せな税務署来るわな。――あー、そう云うことかぁ。でも本人がなんも聞かされとらんのは、やっぱ奇怪しい。神田っちにちゃんと説明させよ。どないなっとんのか」

「よろしくおねがいしまーす」「しまーす」

「ほな、次行こか!」

都子は空になった紙コップを握りつぶしてから、給茶機脇の(ごみ)箱へ捨てた。知佳と蓮も慌てゝ飲み干して、同様に塵箱に捨てると、給茶機と塵箱は一瞬にして掻き消えた。

「では次は社長本人な」

仁美の父親が目の前に現れる。知佳はその中へと下りて行ったが、直ぐに戻って来て、

「無いです」

と報告した。

「早。ほな次はな、スペシャルゲスト!」

次に現れたのは見知らぬ小父さんだった。

「じゃーん、高宮専務ぅ!」

高宮専務は、どうやら机に向かっている姿勢で、書類か何かを読んでいる様だった。ただ、椅子も机も、その読んでいるだろうものも、この場には出現していないので、なんだか迚も奇妙な感じだった。

「起きてるんですね……」

「そうや。ただ、彼にうちらは見えとらんからな。夜中に読みものしている最中やから、多少の誤魔化し利いとるけど、よくよく気を付けて周り見たりすれば違和感感じるはずや。せやから手早く済まそ」

「でもこの人だったら、イヤリング知ってて当たり前じゃないですか」

「そうや。確実に心の中にそれはある。詰まりそのイヤリングにまつわる情報が得られる」

「ああ、なるほどぉ」そう云って知佳は、高宮専務の心の中に下りると、直ぐにそれを見付けて、二人に共有した。

「おお、これかぁ。写真で見るより大分高級感あるな」

「高宮さんの思い込みが加算されているかも知れないですけどね」

「そうか、なるほどなぁ」

知佳はイヤリングに纏わる高宮の記憶を展開した。元々これは高宮の娘にと思ってオーダーメイドしたもので、その費用は数百万だった。

「なにそれ、億じゃないじゃん。てか娘に数百万って時点でもう、どうかしてる」蓮が文句を付けるが、記憶はそれに構わず展開を続ける。

娘の五歳の誕生日に渡してみたのだが、娘の反応は想定外の物だった。

――えーやだぁ、これ、かぐやに意地悪する人、あたし嫌い!

娘は主人公である月読かぐやのファンであり、それに敵対するアルテミス銀子は余り好きじゃなかった様で、殆ど全くと云って好い程興味を示してくれず、一度も手にして貰えない儘暫く持て余していたのだが、と或るSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)で極めて内輪の友人たちに晒して見せたところ、数億出してでも譲り受けたいと云い出した者がいた様だ。

「億になっちゃったよ……」知佳は思わず呆れた声を出す。

そんな事態に流石の高宮も冷静さを失い、そこから記憶があやふやになって来るのだが、その友人に先ず実物を見せる必要があると思い、或る日――クリスマスの十日程前のことだが――イヤリングを懐に忍ばせて出勤した。その日の業務後にその友人と逢う心算(つもり)だったのだ。然しその日は殆ど隙間なく詰め込まれた定常業務の他に、(たまたま)細かいトラブルが幾つか重なって、なんだかんだと矢鱈(やたら)忙しく過ごした結果、退勤時にはイヤリングの所在が判らなくなっていた。加えてその日は社長が終業後に家族サービスをする予定があった為、夕方位には社長夫人と娘が応接室に居たらしい。

「えっ、それだけで仁美疑われてたの? なんか非道(ひど)い。専務の管理が悪いだけじゃん。そもそも娘の推し位把握しとけっての」蓮は口を尖らせた。「――自分で何処かに置き忘れたんじゃないのぉ?」

「詳しく記憶探ることも出来るんだけど……ちょっと時間掛かっちゃうし、下手したら本人に気付かれる危険もあるの……って、いきなり心読まれたって思われることも無いだろうけど、違和感持たれて周りとか気にし出されたら、ちょっと(まず)いかもって」

「ほな一旦出直そか」都子は高宮を帰した。「奴が寝た頃に、もっかい召喚するわ」

そして次に、都子は仁美の兄を連れて来た。

「こんな奴もおったわ。すっかり忘れるところやった」

「あら。寝顔は一寸美形かも」

蓮が覗き込み、うっすらと笑いながら、唇を舐めた。

「おいおい、蓮ちゃん、襲ったらあかんで。ゆうて触られへんけどな」

「襲わないよぉ、なにそれ! あたし別にこの人好きじゃないし」

そんな会話を気にもせず心の中へ下りていた知佳が、吃驚したように目を見開いて、「ちょっと、これ!」と云って見て来たものを二人に共有した。二人の目の前に「月の紋章(エンブレム)」の様々なイメージが溢れ返る。

「うわなにこれ!」蓮が悲鳴の様な声を挙げた。

「こいつオタ君やったんかい。鳥渡状況怪しなって来たな」

殆どがアニメの一シーンの、動画や静止画ばかりだが、フィギュアの様な物や、アクリルスタンド、ストラップやキーホルダー、Tシャツやポスター、怪しげな同人誌など、様々な関連グッズも所狭しと並んでいる。

「ひい、抱き枕。キモ」蓮が身を(よじ)ってそれを避けている。

「これ全部持ってる訳やないやろ?」

「いやぁ……」知佳はいくつかの物を無作為に調べながら、「今のところ持っていないものはなさそうですけど……」と、顔を歪めながら云う。

「マジか」

「キモイキモイキモイ、無理無理無理無理ムリムリ!」蓮は己の両二の腕をぎゅうと掴んで、肩を(すく)めながら知佳の隣へ逃げて来た。

「でも見た限り……例のイヤリングは無さそうですね……」

「そうやなぁ……」都子は腕を組んだ儘、或る一点を凝と見詰めていた。

「ああ、そこ」知佳は都子の視線に気付いて、数歩そちらへ歩み寄った。二人で薄い(もや)の掛かった様な一画を見つめる。「なんかよく見えないんですよね。余りこう云うことないんですけど、偶にガードの堅い領域を持っている人がいて。頑張ってこじ開けられないことも無いんですけど、隠すには隠すだけの理由があると云うか……見たいような見たくないようなと云うか……」

「そうなんや。まあ確かに、このラインナップからの隠しエリアって、なんとなく子供が見たらあかんモンが詰まってそうな気もするわなぁ。レンタルビデオ屋の暖簾(の れん)の奥、みたいな」

知佳は最後の(たと)えの意味が好く理解出来ず、目を(しばたゝ)いた。

「ああ、ええねんええねん、こっちの話。ま、時と場合によってはこじ開けることになるかも知らんけど、今は置いとこか」

「はい」

知佳は共有を切り、都子は六郷家の長男を解放した。これで関係者は全て確認したことになる。知佳はうんと伸びをしてから、大きな欠伸をした。目もとろんとして来ている。蓮も連られて大欠伸をした。

「そろそろ君等も限界かな。今日はこの位にしといたるか。高宮の続きは明晩やな。神田っちには報告がてらよぉく叱っとくから、今日はもうお休み」

「はぁい」「おやすみなさい」

「ほな、知佳ちゃんはここ、蓮ちゃんはここに横んなって。布団の中へ直送したるから」

二人は云われた通りに横になると、一瞬にして世界が戻り、布団の温もりが帰って来た。そしてその儘目を閉じると、直ぐに寝息を立て始める。

翌日は朝から雪がちらついていた。窓外を粉の様な雪が音もなく舞っている。知佳がその光景にすっかり目を奪われて、窓辺に座って凝と眺めている所へ、蓮が遣って来た。

「知佳! 温泉!」

「ええ、朝から?」

「朝からやってるって!」

蓮の勢いに押される儘に、知佳は朝風呂を浴びることとなった。

「昨日は愉しかったねぇ」

温泉に浸かりながら、蓮はそんなことを云う。

「どっちが? スキー? それともお仕事?」

「おしごと? ――あはは、そう、お仕事!」

「でも最後、蓮厭がってたじゃん」

「あー、あいつなー」

蓮は眉を顰めた。

「あいつのさ」少しの間を置いてから、蓮は仕切り直す様に言葉を継いだ。

「あいつの靄々(もやもや)したところ」

「ああ」

「あれって本人には中見えてるんだよね?」

「それがそうとも限らないんだ。彼のが如何かはちゃんと調べてないから判らないけど、ガードが堅い程、本人にさえ見えていないことが多いの。なんかの理由で、自分に対しても隠しちゃってるんだね。無意識って云うの? なんかそんな感じ」

「ふうん……じゃそれって、あたしにもあるのかな……」

「へっ?」

知佳は思わず蓮を見詰めた。ああそうか、知佳との思い出のことを云っているのだ。

「それは判らないけど……思い出せない記憶が、如何(どん)な風にその人の中にあるのかは、それこそ人それぞれで、色々だから、同じ様にあるかは判らないよ」

「そうなんだあ。なんか面白いよねぇ」

蓮は他人事(ひ と ごと)の様に云ってるけど、その本心は知れない。

「よぉし!」蓮はざばりと立ち上がり、「今日は山頂行くぞ!」

「あたしは行かないよぉ」

「何云ってんの、知佳も一緒に行くんだよ」

「蓮こそ何云ってんの、無理だから」

「遣りもしないで諦めるなー!」

「良い様に云ってるけど、危ないだけだからね」

「もー、絶対連れてくから」

「行かないって」

そんなことを云い合いながら、二人は温泉から上がった。着て来た浴衣は回収籠に入れて、スキーウェアのインナーとして用意して来た温かいシャツを着る。

部屋に戻ると、朝ご飯が用意されていることを母から告げられた。

「あなた達待ってたのよ。すぐ行ける?」

「行けるよ、お腹すいた」

「はいはい、蓮ちゃんにも声掛けてね」

「うん」

行き掛けに柏崎親子の部屋に声を掛けると、直ぐに父娘で出て来た。食堂に入ると、既に知佳の父と完太が着座して、皆が揃うのを待っていた。

「お待たせ」と母が云うと、「おっせぇ!」と完太が毒突いた。

「ごめんね完太。姉ちゃん風呂入ってた」

「何で朝なのにお風呂?」

「気持ちいいよ!」横から蓮が口を挟む。

「えー。完太も入りたい」

「今更おせぇわ。食ったら出るぞ」

三科父は一蹴した。

朝食は焼き鮭に溶き卵に納豆に海苔、副菜が幾つかと云う、極めて在り来たりなものだった。特に可もなく不可もなく、ケチを付けることも殊更称賛することもなしに、黙々と食べて、終わった者から順次部屋へ引き上げて行く。

「完太残さず食えよお」

父の言葉に完太は首をふるふると振った。

「多い」

「まじかよ」

結局父の助けを借りて、漸く完太も食べ終わった。

知佳も蓮も、蓮の父も、既にスキーウェアを着込んでロビーで(くつろ)いでいる。娘と同時に部屋へ戻っていた筈の三科母の姿が見えないが、三科父と完太が急いで着替えを済ませてロビーに出て来ると、その後ろからスキーウェアに着替えた三科母も尾いて来た。

「全くあなた達は。雪道用のブーツ持って来たの忘れてたの?」

母が父親達を叱っている。両手には人数分のスノーブーツを抱えていた。子供サイズのそれは、未だタグが付いている状態だ。子供の分をロビーにドサドサと落とすと、大人の使い古したブーツは玄関へ置きに行った。

「なにこれ、可愛い!」

知佳と蓮の分と思われるブーツには、花柄の刺繍が(あしら)われている。

「小母さんありがとう!」

蓮は大喜びで、スノーブーツを履いた。

「ぴったりだよ!」

「うん、まあ、買ったのはあなたのお父さんよ」

「そうなの? お父さんありがとう」

「ああ、うん」

「今朝まで買ったこと忘れてたみたいだけどね! うちのお父さんもね!」

「すみません……」

「ごめんなさい」

父親たちは小さくなって、素直に謝った。

「まあ好いわ、これ履いて、早く行きましょう」

そんな訳で今朝は全員スノーブーツを履いて、スキーブーツはスキー共々担いで歩いている。荷物は増えるが、スキー靴で歩くより何十倍も楽だ。朝の雪は今は止んで、(にび)色の曇り空が広がっている。

「お父さんてばホント、いい加減なんだから」

知佳は歩きながら、父に文句を付けた。三科父はすっかり悄気(しょげ )て仕舞って、下を向いてトボトボと歩いている。柏崎父も稍反省気味に、俯き勝ちである。

「こんな可愛いブーツあるんだったら、昨日から履いてたかったな」

蓮のボヤキに、二人の父は縮こまる。

「まあまあ、そのくらいにしといてあげて。でないとスキー教えて貰えなくなっちゃうよ」

「ヤダ、それは困る」

「大丈夫。失敗はしてもスキーはちゃんと教える」

三科父は若干元気を取り戻すが、

「失敗しないのが一番なんだけどな」と知佳に云われてまたしょんぼりして仕舞った。

「知佳」

「はぁい……」

母に(たしな)められて、流石に知佳も口を(つぐ)んだ。

途中のレンタル店で、母の分のスキーとブーツを借りて行く。

「そう云えばお母さんも、自分のウェア持って来てたんだね」

「今頃何云ってるの。あなた荷造り全然手伝わないから知らなかったんでしょ」

「あっ」

「知佳、藪蛇」蓮が意地悪そうに笑いながら、知佳を(つゝ)いた。

スキー場(ふもと)の更衣室で、スノーブーツからスキーブーツに履き替えて、脱いだスノーブーツはロッカーに預ける。昨日はここに家から履いて来た運動靴を預けており、雪の中運動靴では危ないからとスキーブーツで帰ったのだった。今日はスノーブーツなので帰りも楽である。

「よおし、山頂!」

「蓮未だ云ってるの? 危ないだけなんだけど」

二人の遣り取りに、三科父が口を挟む。

「山頂行きたいか! でもまずは、中腹ぐらいからにしような。先ず初心者コース何回か滑って、それで小父さんがオッケーって思ったら、連れてってやるぞ」

「やった! よおし、がんばるぞ、知佳!」

「だから、あたしを巻き込まないでぇ」

その遣り取りを微笑みながら見ていた三科母は、完太に向って、「完太如何する? 昨日は橇したでしょ?」

「そりって何?」

「あれ?」

三科父は頭を掻いている。

「橇してないの? 何してたの?」

「雪達磨! あのね、初代は皆全滅しちゃったから、母ちゃんに送ったのは二代目なの」

「ああ、そういえば昨日、なんか写真送って来てたけど……そうか、あれは雪達磨なのね」

「なんだと思ってたの?」

知佳が訊くと、母は()まり悪そうに、

「なんか雪のお城でも作って失敗したのかと思った」

「どこがお城よぉ、あれ、雪達磨の家族なんだからね。あたしも手伝ったんだから」

「父ちゃんと母ちゃんと、姉ちゃんと蓮ちゃんと、完太!」

「うそ、そんなにあった?」

母は昨日の写真を見返している。

「ええ? うーん……ああ……ええ?」

「完太、判んないってよ、教えてあげて」

「なんでだよぉ。これが父ちゃんで――」

完太は母のスマホを覗き込みながら、一つ一つ解説してゆく。

「まあそれは判ったけど、なぁに知佳、あなたもずっと雪達磨作ってて、スキーしてないの?」

「したよ、最後にちょっとだけ」

「そう……完太如何する? 今日こそ橇する?」

「そりって何?」

「あなたが引き摺ってるその赤いヤツよ。それに乗って滑るの」

「へえぇ……する!」

「じゃあ、あたしと完太は隅っこの方で橇しとくから、あなたたち好きに滑ってらっしゃい」

「お母さんはスキーしないの?」

「お父さんの気が利けば、途中で交代してくれるんじゃない?」

母の皮肉交じりの言葉に、父はまた頭を掻いて、

諒解(わか)ってるって。適当にキリの良いところで連絡入れるよ」

「それじゃよろしくね。行っといで」

完太と母を残し、残りの四人は昨日父親たちが乗っていたリフトに乗って、ビギナーエリアの上迄行く。

「よおし、じゃあ、ちょっとずつ下りて行こうか。先ず、あっちの端っこまで滑ろう」

父の指導の元、知佳と蓮はボーゲンの基本に忠実な姿勢で、斜面に対して殆ど横向きの方向に、悠然(ゆっくり)と進んだ。三科父が手本として先導し、柏崎父は二人を見守る様に、最後尾から()いて来る。

「ようし好いぞ、じゃあ方向転換して、次はあっちの端まで」

そんな感じでジグザグに何往復もしながら、三分の一程下りた所で、次のステップに進む。

「次は向こうの端に着く直前に、左足にぐーっと体重掛けて、右ターンしよう」

三科父は動きを交えながらターンの遣り方を教える。蓮は直ぐにコツを飲み込んで、知佳も二三回目で出来る様になった。

「これ楽しい!」

知佳は自分の上達が嬉しくて、満面の笑顔になっている。

「じゃあここから下迄、一気に下りようか。怖くなったら途中で止まっても好いけど、下りれるなら下迄行っちゃって。余り下向いたらスピード出ちゃうから、飽く迄横方向に滑る点だけは気を付けて」

三科父の合図で、二人の娘は一斉に滑走を始めた。二人の父はそれを追いながら、

「三科さん、教えるの上手ですね」

「いやあ、蓮ちゃん中々筋が良いですよ、知佳より大分センスありますね」

等と褒め合っている。そんな暢気(のんき)な遣り取りが終わらぬ内に、蓮の悲鳴が聞こえて来た。

「きゃあああ!」

蓮は殆ど一直線に近い角度で斜面を勢いよく滑って行く。三科父は即座に直滑降で追い掛け蓮の横に付けると、蓮を抱える様にして無理矢理方向を変えさせた。(ほゞ)山を登る方向迄向きを変えられた蓮は見る見る減速し、停止する直前に結局転んだ。

「大丈夫か?」

三科父の真剣な問い掛けに、蓮は照れ笑いで応える。直ぐに柏崎父も追い付き、

「大丈夫か、どっか痛めてないか」

と心配そうに訊くが、

「平気、鳥渡失敗しちゃったね」

と笑っている。

大分遅れて、知佳も追い付いた。心配そうな顔で、然しテレパスを使って、

(わざ)とスピード出したでしょ〉

蓮はそれに対しては、ぺろりと舌を出した。

蓮は父の手を借りて立ち上がると、

「下まで一気に行きまーす」

と云って真っ先に滑り下りて行った。既に大分下りて来ていたので、真っ直ぐ下りても大してスピードは出ず、四人はリフト乗り場の辺りで合流した。

「山頂行きたい!」

相変わらず蓮は、怖い物知らずなことを云うが、流石に二人の父は揃って首を横に振り、

「もう何回かこのコース滑ってからだな」

と三科父に云い渡されて仕舞った。

「ちぇー」

「仕方無いよ、先刻の危なかったよ」

当然ながら知佳も蓮の味方にはなってくれない。

それから数本、同じコースを滑ったが、流石に蓮も先程の様な無茶はせず、二人共綺麗なボーゲンで卒なく滑れる様になって行った。

「さあ、山頂に!」

「まあ待て、大分滑ったからな、休憩がてら鳥渡母さん達の様子見に行こ」

四人は完太と母がひっそりと橇遊びをしているゲレンデの隅の方迄滑り下りて行った。母が作ったのだろうか、母の膝の高さ程度の、雪を寄せ集めた鳥渡した滑り台状の小山が出来ており、完太は自分で橇を引き摺ってその小山に登っては、ほんの短い距離を滑り下りて、キャッキャと燥いでいる。

「この雪山母さんが?」

三科父が感心した様に訊くと、母は疲れ切った顔で頷いた。

「力作でしょう?」

蓮が瞳を輝かせて雪山を見ていた。

「すごーい! あたしも滑ってみたい」

「ええ、これ完太用だよ、蓮」

知佳は呆れた様に窘めるが、蓮はお構い無しに、

「完ちゃん、蓮姉ちゃんにも貸して!」

と交渉を始めた。

「えぇー、うんまあ、好いよ。蓮ちゃんだけ」

「なにそれ。完太、どういう意味?」

「姉ちゃんには貸さない」

「はあ? いや別に、要らないし」

「もう、姉弟(きょうだい)喧嘩しないの!」

蓮はそう云いながら、完太から橇を受け取ると小山の上から滑り下りて、「ひゃー」などと歓声を上げた。

「知佳もやりなー。ねぇ完ちゃん、知佳姉ちゃんにも貸してあげて」

「やだあ」

「あ、じゃあさ、知佳姉ちゃんと一緒に滑りな」

「えー」

完太は渋っていたが、蓮の強引さに押されて結局姉弟で前後に橇に乗り、小山から滑り下りた。重量がある為スピードも思ったより出て仕舞い、制御し切れずひっくり返って止まった。完太はさぞお冠かと顔色を窺うと、満面の笑みに瞳をキラキラ輝かせて、

「姉ちゃん、もっかい!」

等と雪塗れの顔で云って来るので、可笑しくなって知佳も笑って仕舞った。

暫く子供達が橇に夢中になっている間に、大人たちは休憩の相談をしていた。

「まだお昼には早いんだけど、鳥渡お茶でもしたいなって」

「そうね、あたしもずっと中腰で疲れたわ」

「カフェみたいなものなら、その建物の中に在りましたよね」

「行ってみようか」

話は直ぐに纏まって、子供達に声を掛ける。

「おーい、直ぐそこで鳥渡お茶飲まないか?」

「はーい」

元気よく返事をしたのは蓮で、三科の姉弟は丁度滑り下りた橇がひっくり返ったところだった。

「知佳、お茶するってさ」

「はぁい」

知佳は弟の手を引っ張り上げながら、蓮に応える。

「えー、どこ行くの」

完太は未だ滑り足らない様で、若干不服そうな顔をしながらも、橇を引き摺りながら姉達に続いた。

十一

大人達は珈琲や紅茶等思い思いの物を飲んでいるが、子供達は皆ココアを選択した。子供向けの温かい飲み物がそれ位しかなかったのだ。知佳がマグカップを両手で抱えて、ズーッと音立てゝ啜っていると、唐突に頭に声が響いた。

〈報酬の件ではご心配お掛けしました。今から少しご説明させて頂きます〉

知佳は蓮を見た。蓮も知佳を見ている。心底うんざりした表情になっているので、あゝ、蓮にも聞こえているなと諒解した。

〈結論から云うと、お二人の前回及び今回の報酬は、預かり金と云う形でプールされています。成人され、ご両親の扶養から外れるなど、然るべき時が訪れれば確実に、利息を付けて支払われますので、ご安心ください〉

〈ちょっと難しくて判らないところあるけど、只働きじゃないってことだよね?〉

ココアを飲みながら、蓮が質問を返している。

〈もちろん、そんなことはありません。うちはブラックではないので。――EX部隊は可成(かなり)特殊な業態ですし、政府、行政とも結構密接に関わり合っている部門なのですが、実は特例的な扱いも多々認められていまして……なので決して違法な状態にはなっていませんのでご安心ください。先程都子さんにも確認して頂いたところなのですが、厚生労働省による特例認定書類など、ご希望とあれば一度目を通して頂くことも可能です〉

〈そんなの見たって解んないよ〉

〈うちが見た限りでは問題無さそうやったわ〉

都子の声も聞こえて来た。蓮は鳥渡嬉しそうな顔になる。

〈ミヤちゃんが大丈夫って云うなら、きっと大丈夫〉

神田の苦笑する様子が伝わって来た。

〈本来未成年やから、保護者の許可だのなんだの要るところやけど、特例の中で保護者の代理人を立てられるみたいな条項あって、それが神田っちと、何故かうちの名前も入れられとんねん。なんや、能力指導責任者とかなんとか。今日初めて聞いたわ。()うてうちみたいな二十歳(はたち)の乙女に、そんな重責肩書背負(しょ)わせてえゝんかい思うわ。ほんまそう云うところ、好い(えゝ)加減やねん。会社はホワイトやとしても、神田っちがブラックやわ〉

〈いや……それは、大変失礼しました〉

〈そう云うのは二人で勝手にやってゝよ。あたしは問題ないならそれで好いから〉

良くも悪くも蓮はドライなんだなと、知佳は改めて思った。

〈都子さん二十歳なんだ。もっと上かと思ってた〉

知佳はなんとなく思ったことをその儘送った。

〈大人っぽいゆうことか、将又(はたまた)おばはん臭いゆうことか、その辺りが問題やな〉

都子のケラケラ笑いが響いてくる。

〈まあそんな訳で、深夜のお仕事も時間操作して成長に必要な睡眠時間確保できる前提でオッケーなんで、その辺りも心配しやんと、今夜もよろしゅうにな〉

〈そんな心配思い付きもしなかったよ〉

〈あたしも蓮と同じ。仁美の為でもあるし、よろしくお願いします〉

〈ではそう云うことで〉

神田の言葉を最後にテレパスの会議は終わった。蓮は知佳に視線を送り、やれやれと云う様な顔をした。

〈あ、てことは夕べ、寝ている時間も引き延ばされてたのかな〉

知佳は昨夜(ゆうべ)寝た時間が遅かった割に、今朝の目覚めが迚も爽やかだったことを思い出していた。

〈そうかもね。なんか結局、時間伸びたり縮んだりしてゝ、あたし達余計に生きてるのか短くなってるのか判んなくなっちゃってるな〉

〈元々そんな気にしてなかったけど、都子さんのことだから最終的には上手いこと辻褄合わせてくれるんじゃない?〉

〈あたしは怪しいと思うなぁ。ミヤちゃん神田っちに対しては細かいところ厳しいけど、多分自分に対してはルーズだよ〉

〈あゝそうかも〉

なんとなく知佳は、くふふと笑って仕舞った。

「なあに知佳、思い出し笑い?」

母が不思議そうに訊いて来るので、赤面しながら「うん、まあ、鳥渡ね……」と適当に誤魔化して、ココアを飲み切った。蓮がニヤニヤしながら知佳を見ていた。

「そろそろ行こうかな。母さん交代で好いよ。完太、父ちゃんがスキー教えて遣るぞ」

三科父が立ち上がりながら云う。

「待ってよぉ、まだココア飲んでるのに」

蓮がすっかり冷めているであろうココアを喉に流し込んで、手袋を填め直している。

「いいよ、俺は完太連れてそこに行くだけだし。皆は皆のタイミングで。――完太ぁ」

「スキーってどうするの」

「それを教えて遣るって云ってんの」

そんな会話をしながら父は完太を連れて、店を出て行った。

「でもうちらも、そろそろ行こうよ」

知佳は持っていた空のカップを卓に置くと、母の方を見た。

「そうね。じゃあ、山頂行こうか?」

「えっ、何で」

「やった! 行く!」

知佳と蓮は正反対の反応をした。

「あら、知佳そんな感じなんだ? 柏崎さん、この二人、山頂から下りられると思います?」

「そうですねえ……ボーゲンなんで、上級コースはちょっと辛いと思いますが。中級は……如何なんでしょうねえ。僕も未だ上迄行ってないので」

「あ、そう。じゃあ先に、パラレル練習しようか」

「なにそれ?」

知佳と蓮は、立ち上がり掛けた母を見上げた。

「曲がり方よ。ハの字卒業しよ」

「ええ、出来るかなあ」

不安気な知佳とは対象的に、蓮は瞳をキラキラさせて立ち上がり、

「出来るよ! 教えて!」

と、知佳の母に(すが)り付いた。

店を出ると、母は知佳達に振り返って訊いて来た。

「あなた達、リフトは乗れるのよね?」

「乗れるよ! お父さんと一緒にだけど」

「好いのよそれで。そこのペアリフト乗りましょう。蓮ちゃんはお父さんとね」

「それってちょっと高いところ行くんじゃないの?」

「え? たいしたこと無いわよ。ゴンドラだと乗り降りめんどくさいじゃない」

四人は母の先導でペアリフトに乗り、ゴンドラ中間駅の少し上迄登る。リフトを降りてコースを見下ろすと、知佳は若干脚の(すく)む思いがした。

「ちょっと急じゃない?」

「そんなこと無いと思うけど。若干コース狭いかもだけど。ターンからターン迄が短いから却って好いんじゃない?」

「あたし行けます!」

「蓮ちゃん待ってね」

母は娘達を集めると、新しいターンの仕方を教えた。

「滑るのはボーゲンで好いんだけど、曲がるとき、外側の足に体重掛けて、内側は少し浮かせ気味にして……」

「ええっ、片足だけで曲がるの? 無理だよぉ……」

「できるよ!」

蓮はいの一番に滑り出して、殆ど真横の方向に悠然進んで、向こう側迄行ったところでターンしようとして転んだ。三人が真っ直ぐ滑って来て父親が蓮を助け起こすと、蓮はてへへと云いながら舌を出した。

「ちゃんと聞いてね。お母さんがするように……見てゝ、こうやって……」

母はほんの短い距離滑って直ぐにターンをして見せた。

「ちゃんと体重載せられてたら、内側の足浮くから。そしたらその儘、もう一方の足に引き寄せて……」

またその場でターンして、背中を向けた。

「わかる?」

一寸(ちょっと)距離が開いたので、母は声を張る。

「向こうの端で待ってるから、一人ずつ来て! 端に着いたらターンしてね!」

母は少しだけ下りながら端迄滑ると、ターンしてこちらを向き、両手を振った。

「あたしがお手本だから知佳よく見といてね!」

「転ぶお手本は要らないよ」

「云ったな! 見てろ!」

蓮は綺麗なボーゲンで真っ直ぐ進むと、母の手前でターンを開始し、両足を揃えた状態でターンを終えた。そして知佳の方に顔を挙げると、得意満面の笑顔を見せた。

「何よもぉ、上手く出来ちゃってこの……」

知佳も対抗心をメラメラ燃やして、後に続く。そして母の手前でターンをしたが、足を揃えることは出来ず唯のボーゲンになって仕舞った。

「きれいなボーゲンだね!」

「もぉ、蓮うるさい!」

そこへ蓮の父も追い付き、雪煙を立てながら停止した。

「お父さん昨日初めてスキーしたのに、なんでそんなに滑れるのさ」

「えっ、そんなに滑れてないぞ」

「うちらより全然上手いじゃん」

「まあ……ボードはしてたから。スキーも色々見てはいるし、何となくさ」

「なんとなくで滑るとか、むかつく!」

蓮は父の背中をポカポカ叩いた。

「はいはい、今蓮ちゃんがしたのが、シュテムターンね。ボーゲンとパラレルの間のターン。――じゃあ続けて、あの木の辺り迄一気に行きましょう。お母さんの後付いて来てね」

母は何度かのターンを繰り返しながら、指し示した木立の角迄滑り下りた。蓮がその後に続き、更に知佳が続く。最後から蓮の父が、子供達を見守りながら、滑る。蓮は何度かバランスを崩し掛けながらも、シュテムターンを確実に物にしていった。知佳は中々上手く出来なかったが、最後のターンで(ようや)くそれっぽくなった様である。

「てゆうかお母さんもスキー上手いの、何で?」

「ええ? 若い頃お父さんとよく一緒に行ったものよ」

「小母さん、デートですか?」

蓮が目をキラキラさせながら訊く。蓮は自分の恋バナとかは全くしないし、学友達の話も面倒臭そうに聞く癖に、何故かこんな時ばっかり興味津々に訊いて来る。知佳は自分のことでもないのに何だか照れ臭い様な恥ずかしい様な気になって、蓮の袖をツンツンと引いた。

「好いよもう、蓮。滑ろ」

「何で知佳が照れるのさ」

蓮は読心なんか出来ない癖に、何で知佳の気持ちを見抜くのか。

「あはは、二人きりでなんか来ないわよ、共通の友達と大勢でね。凛もいたなぁ」

「お母さんも? え、お母さんもスキー上手いの?」

「そうねぇ――」

暫く蓮の母親の話に花が咲いた。何故か蓮の父も興味深そうに聞いている。そうか、その頃未だ出逢っていなかったんだ、自分の知らない妻の若い頃の話だから、興味あるんだなと、知佳は心を読んで仕舞ってから、申し訳ないことをした気持ちになった。他人の美しい思い出とか、覗き見するものではない。ちゃんと質問して聞き出す蓮の方が正しい。

「凛も私も、そりゃあナンパされまくったものよ。まあ、ゲレンデは一割増だからね」

いつの間にかスキーの話ではなくなっている。

「一割増って?」

「男も女も、雪の上でスキーウェア着てると、普段より一割良く見えるものなのよ。だからゲレンデで知り合った男女は、山下りたら別れるの」

そしてケラケラと笑う。

「でもお母さんとお父さん結婚したじゃん」

「別に雪山で知り合った訳じゃないもん」

「ああ、そっか」

「凛は美人だったからねぇ。それはもぅ、男共の猛攻が凄かったわ。その頃フリーだったしね」

フリーとは、恋人がいない、と云う意味だろうか。知佳はこっそりと蓮の父を盗み見てみた。なんだか唇を噛んで居た(たま)れない顔をしている。心を読むのは遠慮しておいた。

「蓮ちゃんも美人になるから、気を付けなさいね」

蓮はきょとんとした顔をしているが、その父は苦み走った顔をした。知佳はなんだか、この話題は早々に切り上げたいと思った。

「お母さん、いつ迄ここでお喋りしてるのよ。下まで降りようよ」

「ああ、そうね。知佳出来るようになった? 先に行ってみる?」

「えっ、無理」

「怖がってちゃだめだよ!」蓮が知佳を肩で押す。

「ちょっ、危ない、やめて!」

「大丈夫だよぉ、何ならあたしが先行くからついてくる?」

「ええ……ついて行けるかなぁ」

「大丈夫、為せば成る! おいで!」

そして蓮は斜めに広いゲレンデへと滑り出して行った。ここから先は、今朝父と何往復もしていたゲレンデと同じ場所になる。知佳も蓮に続いて滑り出すと、ボーゲンとシュテムの合の子位のターンをしつゝ、それでも少しずつ上達しながら滑り下りて行った。

十二

昼は中腹のレストランで取ることになった。それ迄に知佳達は、ペアリフトのコースを五回は滑り下りていて、二人とも大分シュテムターンが様になっており、蓮に至ってはパラレルの成功さえ体験していた。

「お昼食べたら山頂行こう!」

もう知佳には、蓮に反対する口実が思い付かない。知佳だってそこそこターンが上手くなっているので、何なら山頂に行っても大丈夫なんじゃないかと云う気にさえなって来ている。

知佳達四人がゴンドラ中間駅の辺りで待っていると、知佳の父と完太が上がって来て合流した。

「ラーメン食べたい!」

皆が揃うと蓮が真っ先に希望を唱えた。それを知佳が聞き(とが)める。

「昨日のサービスエリアでもラーメン食べてなかった?」

「だから何? 寒い日はラーメンでしょ!」

「いやまぁ、好いんだけど。寒い日って毎日じゃん」

「毎日ラーメンでも好い!」

知佳は思わず笑って仕舞った。蓮がラーメン好きだと云うことはよく解った。

「あはは、じゃあラーメンで好いよ」

「じゃあって何よぉ、ラーメンの神様に謝れ!」

「か、神様? 誰」

「知らない!」

今度は蓮がケタケタと笑った。

「じゃあ、そこのラーメン屋で」

娘達の莫迦話に微笑みつゝも、知佳の父が行き先を確定させ、全員で店に入る。一寸早目の時間だった為、苦も無く席を確保出来た。

「そういや完太、こんな所迄来ちゃって、ちゃんと下りられるの?」

「うん!」

「完太もう二回はここから滑ってるぞ」

父の言葉に知佳は目を丸くする。

「うそでしょ!」

「知佳の弟とは思えないねぇ」

蓮が麺を啜りながら、さらっと悪態を吐く。

「ちょっと蓮? それはどういう意味?」

「ん? 何が?」

悪意が無いのか、唯(とぼ)けているだけなのか。知佳は蓮の心だけは読めないのだ。

「もぉ好いよ。どうせ私は運動音痴だよ」

「えー、でも知佳も滑れるようになって来たじゃん。大丈夫、もう直ぐ完ちゃんに追いつくから!」

「いや、待って、あたし完太に抜かれてないよね?」

「あれ?」

「れん?」

知佳が睨み付けると、蓮はあははと笑った。

「もぉ、あんた達まるで漫才ね」

母はそう云ってけらけら笑った。

「俺昔似た様なの見たことあるぞ」

知佳の父が母に向って云うと、母は鳥渡赤面して、

「やだなぁ、凛とのこと? 全然違うわよ」

「いや、二世だろ」

「やめてよね」

父母の遣り取りを、知佳と蓮は興味深く聞いていた。

「はいはい、莫迦な話は終わり! 伸びない内にとっとと食べて!」

「ちぇーっ」

「はあい、食べたら山頂!」

「うん」

知佳が云い返さないので、蓮は嬉しそうにニッと笑って、ウインクした。

「完太はどうする?」

母が訊くと、

「父ちゃんとスキーする」

と云うので、父は一回天を仰いで、

「わかった! 姉ちゃんより上手くなるぞ!」

「うん!」

「いやいや、負けないし」

「知佳油断すんなよー」蓮が面白がって煽る。

「しないから! 山頂行くよ、蓮!」

「そうこなくっちゃ!」

なんだか巧いこと乗せられた気もするが、云った以上は後には退けない。知佳は肚を括った。ラーメンの残りを啜り上げ、スープを飲み干して、すっくと立ちあがり、ゲップをした。

「知佳きたなーい」

「うぅ……ほっといてよ」

知佳は真っ赤になって、笑う蓮から目を逸らし、自分の食器を返却口迄持って行った。食器を返して戻って来ると、完太以外は皆食べ終わった様で、銘々食器を返却しに立ち上がったりしていた。

「完太は任せとけ。皆山頂行って好いぞ」

三科父がそう云うので、それに甘えて出発することにした。

店を出て、渡り廊下を通ってゴンドラ中間駅へ行く。ドアの外側にあるポケットに各自のスキー板を入れ、四人はゴンドラに乗り込んだ。

「栂の森駅って、山頂じゃないのよね」

ゴンドラの中で、母がボソッと呟いた。

「えっ? どういうこと?」知佳が聞き咎める。

「え? ああ、ゴンドラの終点駅って別に山頂って訳じゃなくて、山頂に行く為のリフトが別にあって、そこからは上級コースか中級コースしか無いの。だから、気にしなくて好いのよ。あなた達はこのゴンドラの駅からね」

「えー、なんだあ」

「林間コースあるから。景色が変化に富んでゝ愉しいわよ。林の間をくねくね行くから、傾斜も緩やかだし。コースとしては初心者コースなの」

「ふーん……わかった。行く」

知佳は蓮を振り返ってみた。なんとなく不満そうにしてはいるが、特に異議は唱えていない。蓮は知佳の視線に気付くと、ニコッと笑った。

「林間コースもちろん行くよ! 全コース制覇するんだから!」

「あ、蓮ちゃん、全コースは無理だわ。なんか講習みたいの登録しなくちゃいけないところもあるし、フリースタイルするためのコースなんかも無理だし、ツリーランも厳しいかなぁ」

「フリースタイルって? ツリーランて?」

「フリースタイルは、小さいジャンプ台とかパイプとかあったりして、空中で体ひねったり宙返りしたり……スキーヤーもいるだろうけどボーダーが多いかもね。ツリーランはホントの林の中、生えてる木を避けながら滑るところ。『キッズツリーラン』なんて書いてるけど、どの程度の所かは行ってみないと判らないわね。でも取り敢えず普通に滑れるようになってから挑戦する感じかな」

「うん、そう云うのは好いや。普通に滑るだけのタダのコース制覇したい!」

「そうね。じゃあまず林間ね」

ゴンドラを降りると、暫くは緩やかな斜面が続く。母に従って覚えたてのシュテムターンをしながら尾いていくと、「林間コース入口」と書かれた立て看板があった。

「こっちね」

母が矢印に沿って進む。外側へ大きく振った後、中級コースの上部を横切って林の中の道へと突入する。左に山、右に谷を見ながら、林道を道なりに進んで行くと、軈て開けた場所に出る。コースの外側がいきなり急になっているので近付かないと判らないが、コースを外れた先は如何やら上級コースの終盤の様である。上を見上げても何処から始まっているのか判らない程、真っ白けである。その中腹辺りで、蹲った儘もじもじしている人がいる。

「あの人」

知佳は隣にいた蓮に話し掛けた。

「脚痛めて動けないみたい。困ってるよ」

「どこ」

蓮も一緒に上を見上げて、直ぐに了解すると、瞳が少し赤みを帯びた。

「あ、こら」

知佳が止める間もなく、蹲っていた人が忽然と姿を消した。知佳が下方に目を遣ると、遙か遠くゴンドラ中間駅と思われる辺りで、人(だか)りが出来つゝあった。如何した、如何遣って下りてきた、何処が痛むんだ、などの想いが聞こえてくる。

「蓮……やったな」

「まあまあ、人助け。誰も見てなかったし」

「危ないなぁ」

背後で母が呼ぶ声が聞こえた。

「こらぁ、そこ上級コースだから、危ないぞ! 林間コースこっちだよぉ」

「はぁい」

知佳と蓮は少し後ろに下がってから、方向を変えて母の後を追った。母と一緒にいた蓮の父は、子供達が行ってから最後尾を護る様に滑り出す。林間コースは略一本道で、これ迄に滑った人達のスキーの跡がくっきり付いているので、それに沿って滑るだけである。カーブなどはあるが、今迄ゲレンデでしていた様なターンの要素は殆ど無く、唯々道をなぞって行くだけなので、成程(なるほど)初心者向けのコースではある。コースを外れゝば崖下なのだが、コースの縁は雪が盛られていて、そう簡単にコースを外れることはない。外れようと余程頑張らない限りはコースアウトなど出来ない様になっているのだ。それでも林立する木々の中を滑って行くのには、一種独特な感覚がある。自然との一体感と云うのか、山林に対する征服欲の充足と云うのか、逆様(はんたい)に叢林に呑み込まれて逝く儚げな恍惚感とでも云うものか。そんな取り留めの莫い想念を噛み締めながら、道に沿って右へ左へと大きくジグザグに滑って行くと、程なくゴンドラ中間駅の辺りへと出た。

「楽しかったぁ、もっかい行きたいな」蓮は晴れ晴れとした顔をしていた。

「蓮ちゃん制覇するんでしょ? 先に下の方済ませておかないと、制覇出来なくなっちゃうよ」

「えー、それは嫌だ。次何処行くの?」

「そうねぇ……一回鐘の鳴る丘ゲレンデ迄下りないとね。そこのゲレンデ何往復かしたら大体この辺りは滑り尽くせるから、それからまたここ迄戻って来て、それから林間行くか、ここの中級に挑戦するか……」

「中級行く!」

蓮の勢いに母は鳥渡微笑んで、

「そうね。先ずは初心者コース滑り尽くしましょう。初心者コース制覇する頃には大分上手くなってるわよ」

「やったあ!」

母に付いていくと、可成(かなり)広いゲレンデに出た。最初に居たゲレンデも大分広く感じていたのだが、こっちはその二倍も三倍もある様に思える。

「ひろーい。端から端まで行くのも大変そう」

「あまり大きく横切ってると他のスキーヤーやボーダーとぶつかる危険も大きいから、適当にターンしながら下りてね」

「はぁい。蓮、これは何回か(のぼ)らないと、このゲレンデ制覇は出来ないよ」

「うーん、あんまりここで時間使いたくないな」

「えっらそうに」

「だってもう、こんなレベルじゃないからあたし」

「へぇ? まあそれならそれで……」

そんなことを云っていたら、目の前を見覚えのある小さなスキーウェアが(よぎ)って行った。

「完太?」

知佳は呆然と、完太の後姿を見送る。その後から父が滑って来て、擦れ違い様知佳に「よぅ、完太に抜かれてないか?」と声を掛けて、その儘行って仕舞った。

「なにそれ! 蓮、あたしもこんなところで時間使ってる場合じゃないわ」

蓮はにやにや笑って、「姉ちゃん油断してちゃダメだぞー」と揶揄(からか)った。

母もくすくす笑いながら、

「さあ、一旦あのリフト乗り場迄行きましょう。完太達に追い付けるかな?」

「別に競争してないし!」

そう云いながら知佳は、リフト乗り場へ向けて滑り出した。母と蓮は瞬間視線を交じわせ、くすりと笑い合った後に知佳を追う様に滑り下りて行った。最後に蓮の父が、自身のポジションをキープする様に続く。

四人はこの広いゲレンデを、三度ほど滑り下りて来た所で、蓮の「飽きた」と云う声を契機(きっかけ)に上のコースへと向かった。

「お母さん鳥渡勘違いしてたわ」

「なにが?」

「ずっと登りだと思ってたけど、ここ一寸谷間になってるのね」

リフトを降りて反対側に行くと、成程下り坂になっている。リフトの降り場が丘の天辺(てっぺん)に在り、戻る方向も進む方向も下りになっているのだ。その短い斜面を下って行くと、次のリフト乗り場へと辿り着くので、四人はそれに乗り込む。その丸山第一クワッドリフトと云うのを降りたところで、母は二人を見た。

「ここ下りたら中級」

リフト降り口の直ぐ脇から始まるコースを指して、母が云う。

「あっちとそっちは、初級ね」

左右真反対の二方向をそれぞれ指す。

「まずあっち行って、またこれ乗って、次こっち行って、また乗って……」

二つの初級コースを順に指す。

「で、その後中級行こう」

そこで母は不敵に微笑んだ。

「何か云い遺すことは?」

「何それ! 死ぬみたいじゃん!」

「あたしが死んだら、喪主は知佳で」

「いや、お父さんだから! てか死ぬなよ!」

唐突な蓮の父の叫びに、三人は大笑いした。

「じゃあ、先頭行きまーす! 骨は知佳が拾ってね!」

「死なせてなるかー!」

二人の娘の後を、知佳の母と蓮の父が笑いながら追う。

巫山戯(ふざけ)てっとほんとに怪我するからね!」

「はーい!」

「大丈夫ー!」

滑りながら大声で会話をしている。初心者コースで大してスピードが出ていないから出来ることなのだろう。また、会話をしているからこそ、スピードを抑えて滑ることが出来ているのかも知れない。三人のお喋りが、安全な滑走に一役買っているのなら、それはそれでアリなのだろうなと、蓮の父は独り納得していた。

十三

中級コースのスタート地点に立っている蓮は、悠然と構えている様に見えるが、既に五分はその儘微動だにしていない。知佳は蓮の心は読めないが、然し流石に見れば判る。蓮は竦んでいるのだ。そう云う知佳だって、一回コースを覗いて見ただけで後退(あとじさ)り、覚悟を決め兼ねている。

「やめる?」

母が心配そうに訊くが、蓮は若干震えた声で、

「そんなまさか。行くって」

と云ったきり、また固まって仕舞う。

「知佳は? やめとく?」

「やめない。それじゃ完太と同レベル」

知佳だって怖いのに、何故か強がって仕舞う。

「うーん、好いんだけどさ。余り怖がってる状態で滑ったらほんとに事故るよ」

「こっ、怖がってるなんて、そんな訳ないし! あたしだってもう直ぐ十一歳なんだから!」

「蓮何云ってるの……齢を云うならあたし、もう十一になってるけど」

蓮は知佳を急度(きっと)睨んで、

「なめんなよぉ!」

と云って滑り始めた。慌てゝ母が後を追う。知佳は蓮の父と取り残される形になって仕舞ったが、この儘残されるのは敵わないと思い、死に物狂いで付いていく。心の何処かで、いざとなったら蓮が……なんて思わなかったと云えば嘘になるかも知れないが、寧ろそんな当てがあったからこそ、思い切れたのかも知れない。

滑り始めて直ぐ、想定していたよりスピードが出ていることに戸惑ったが、コース端でのシュテムターンは思いの外巧くいった。そしてその儘ボーゲンにする間もなく次のターンを迎え、必死に外側の足を踏み締める。

「知佳上手い! 今のパラレル!」

「えっ!?

反応する余裕もない儘次々ターンを繰り返していく。あっという間にコースも終わり、リフト乗り場の所で無事止まることが出来た。そこには蓮が得意げな顔で待っており、先に出た筈の母が何故か後から遣って来た。

「あれ、お母さんなんで後ろにいるの」

「途中であなたが追い抜いて行ったのよ」

母はニコニコしながら応えた。

「あたし滑れたぁ」

「知佳上手くなったね!」蓮が得意げな顔を貼り付かせた儘、知佳を褒める。

「何で上から! むかつく!」

「蓮ちゃんも上手だった。二人とももう、十分中級者ね!」

「やったあ!」

「うそぉ、あたし昨日初めてスキーしたのに」

素直に喜ぶ蓮と、自分の上達に動揺を隠せない知佳。

「今のスキーって曲がりやすく出来てるし、スキーなんて、いきなり山頂行ったら(ふもと)に下りて来る頃には滑れるようになってる、なんて云う人もいるぐらいで」

「そんな無茶な」

母の説明に呆れる知佳を余所に、

「今のコースもう一回!」

と、矢張り蓮は表情を貼り付かせた儘云う。

「蓮あんた、先刻から顔固まってるよ」

「やだ、知佳ったら、何云ってんの」

蓮は両手で頬をぱんぱんと叩くと、口を開けたり閉じたり、瞬きしたりしながら顔を(ほぐ)している。

「空気冷たくて、顔固まってた」

「なにそれ」

二人でけらけら笑った後、蓮は「もっかい行こ!」と云って乗り場へと進んで行った。

二回目はずっと上手に滑ることが出来た。こうしてコースを覚えていくと、もっと上のコースも滑れそうな気がしてくるから不思議だ。

「小母さん、別の中級行こう!」

蓮も調子付いている様だ。

「じゃあ、白樺クワッドリフト乗りましょう」

「どこそれ」

「こっち!」

母に付いて行くと、ゴンドラ中間駅の少し手前にそのリフトの乗り場はあった。

「これ乗ったら、もう中級以外の選択肢ないからね!」

「望むところよ!」

蓮が威勢よく応える。

リフトで上がってみると、先ほどのコースよりも幅が広い気がする。

「こっちの方が滑り易そう」

知佳の正直な所感だ。

「そう? まあ、同じ様に気を付けて滑ってね」

「はーい」

ここでも蓮が一番に滑り出した。知佳はそれに続く。大人達は二人を見守る様に、後から滑って来る。知佳は自分がここ迄スキーを堪能出来るなんて、昨日迄全く思いも寄らなかった。運動は昔から苦手だったのだ。嫌いな訳ではないけど如何しても同年代の子たちより能力が劣っている、そう常々思い知らされて来た。それが如何だ。今、蓮と並んで中級コースを滑っている。蓮は昔から人並みに運動の出来る子だった。知佳なんかと較べれば全くセンスの塊でしかない。その蓮と今、共に上達し合っているのだ。確かに常に蓮の方が先を行っている様ではあるが、だからと云って大きく後れを取っている訳でもない。知佳はこの状況が楽しくて仕方なかった。いつの間にか身に付けたパラレルで、中級コースを蓮と一緒に滑り下りていく。もう二人ともボーゲンは、たった一日で卒業したのだ。

コース終盤で母が知佳の横に並び、

「ゴンドラ乗るよ!」

と云ってから、蓮を追い駆けて行った。自分は十分速く滑っている心算だったが、母はそれより早く滑ることが出来る様だ。と云うか、知佳達よりも急角度で、殆ど真っ逆様に滑り下りて行く様に見える。右へ左へと腰を振りながら、雪煙を左右に撒きつゝ真っ直ぐ滑って行く様は、格好良過ぎて、眩しかった。

蓮に指示をした後、母はコースの端に寄って知佳を待った。そして知佳が通り過ぎてから、再び後ろに付いて滑り出す。そんな母を視界の隅で捉えて、あんな風に自由自在に滑れる様になるのは、もっと先なのかなと思ったりしていた。

ゴンドラの駅で四人揃い、スキーを外してゴンドラに乗り込む。母と並んで座った時に、知佳は訊いてみた。

「お母さん先刻の滑り方、すごかったね。真っ直ぐ下りてった」

「ああ、追い付かなくちゃって思って」

「ウェールデンですよね。巧いですよ」

蓮の父が向かいから口を挟む。

「ウェールデンて何?」

蓮が興味深そうに聞く。

「お前たちはコース幅目一杯使って、端から端迄行ってターンしてるけど、もっと短いスパンでターンを繰り返して、殆ど真っ直ぐ下りて行くような滑り方がウェールデンだ。スキーの動画とかでカッコいいのは大体それだよな」

「なにそれ、教えて!」

「お父さんには無理だな」

「えーっ、使えねぇ……」

「口悪っ!」

知佳と母が笑っている。

「蓮ちゃん、お父さんには容赦ないのね」

「えっ、そんなこと無いよ、お父さん大事にしてるよ!」

「はい……大事にされてるそうです」

「なによそれ、逆じゃないの」

そしてまた母は、ケラケラと笑う。

「小母さん、ウェールデン教えて」

「えー、あたしも教えるほど上手くないと云うか、何をどう教えりゃ好いか判らないわ。ちょっちょっちょって、小刻みに腰振ってりゃ好いのよ」

「えー、なにそれ、好く解んない」

「そうねぇ……見て覚えなさい」

「そんなぁ」

そう云いながらも蓮の瞳はギラギラしていた。屹度蓮のことだから、あっという間にマスターして仕舞うのだろう。知佳には流石にそこ迄付いて行ける気はしなかったので、黙って微笑んでおいた。

ゴンドラを降りた所で、母がマップを見せながら山頂を提案した。

「もうあんまり時間無いから、何往復も出来ないのよね。山頂から殆どずっと中級だけど、一気にこの、ハンの木第三リフトの乗り場まで滑り下りちゃわない? このリフト使えば中級ばかり繰り返せるよ」

「もちろん行く! 山頂行きたい!」

「知佳は?」

「いいよ、中級ならいけると思う」

母は目を細めて、「成長したわね」等と云う。

「何よぉ、子供扱いして」

「十一歳は子供です」

母はぴしゃりと云い切ると、山頂へ行く為のリフト乗り場へ向かって移動を始めた。

山頂のリフトを降り立つと、周囲ぐるりと遠く迄見渡せた。これ以上高い処は無く、遠くの峰迄良く見える。

「仁美どっちの山にいるんだろう」

知佳は四方を見渡しながら、溜息を吐きつゝそんなことを呟いた。

「お母さんも方向感覚無いから、好く判んないわ。南の方の筈だけど、どっちが南か知ら?」

蓮の父がスマホを取り出して、何やらポチポチといじっていたが、やおら顔を挙げると、

「南と云うか、八方尾根はあっちの方角ですね。ただ流石に遠くて見えないですが……」

知佳と蓮も一緒に伸び上がってそっちの方を見ていたら、一瞬で世界が白くなって、目の前に都子の顔がぬっと出て来た。

十四

「わあっ!」

「みっ、都子さん!?

「ゴメンやで。一寸、時間止めとぉから、付き()うてや」

「えっ? えっ?」

「山頂がぁー」

「また後で滑らしたるやん。なんなら、止まった時間ン中でようさん滑って貰っといてもええで」

「ええーっ!?

「はい、一歩前へ」

蓮と知佳は云われる儘に一歩進んだ。足にはスキーもスキーブーツも履いていない。靴下一枚の状態だが、寒さや違和感は特に感じない。

「八方尾根へようこそ!」

「は、はっぽうおねって」

「仁美の?」

「そやで。他に何の用でうちが来る思っとんねん」

「いや――ええっ」

「展開に付いて行けません!」

堪らず蓮が叫んだ。

「今から説明すんねん。ちょっと急を要してな。取り敢えずこれ見て」

白い世界に人が出現した。そしてその周りの景色も再現される。

「あ、仁美のお兄ちゃん」

仁美の兄は、頭から雪に突っ込む瞬間で止まっていた。足にはスノーボードを付けている。

「ちょっと小マシに見えるのは……一割増だからか」

知佳の呟きに都子は怪訝な顔をする。蓮は仁美兄を凝視している。

「なんやそれ。ゲレンデ一割増説か。――そんなんもワヤにする程の大失態や。下手糞が、超上級コースなんかで(いき)るからやで。こいつこの儘では相当酷いことんなるから。――今調査対象でもあることやし、面倒なんは厭やねん。何とかしたって」

「なんとかって」

「蓮ちゃんならでけるやろ」

「神田っちは?」

「神田っちあかん。こんな肝心な時に、何や別件調査とかでどっか行ってもた」

「えーっ……」

それ迄仁美兄を凝視した儘だった蓮が、戸惑った表情で都子を見上げて、「でもこれ、如何すれば」と訊く。

「上でも下でも、連れてったってや。家族と別行動しとるから、余り他人(ひと)目は気にしんくてえゝよ。――ああ、もう少し地形とか要るやんな。待っとき」

仁美の兄がグーッと小さくなって行き、周囲の景色が次々と飛び込んで来た。ミニチュアの人を配したジオラマか何かでも見ている様な感じである。

「こっちか、こっちやな」

都子は、コースの開始地点で人気(ひとけ )の無い処と、コースの終了地点で人気の無い処を指した。

「うーん……じゃあ……」

蓮の目が赤く光り、仁美の兄のミニチュアが消え――そして次の瞬間、目の前に出現した。頭を上にして中空に現れた彼は、落下して思い切り尻餅を突く。

「いてえっ!」

都子も知佳も、大きく目を見開いて息を呑んだ。

蓮は真っ蒼になって固まっている。

「いや……連れてきたらあかん……」

「そんなつもりじゃ……どうしよう……ごめんなさい」

仁美の兄はきょろきょろと辺りを見渡して、「なっ、なに? え、俺死んだ?」等と云っている。(いず)れ三人の存在に気付き、蓮と目が合った瞬間、

「火星の騎士!」

と叫んだ。それを聞いた蓮の瞳孔が開く。

「や……違う……違うよ、いやだ!!

仁美の兄は消え、ジオラマのコース終了地点に現れて、雪の中に頭から埋まった。蓮は蹲った儘、青い顔でガタガタ震えている。

「都子さん……これ……」

「うーん、なんか地雷踏んだっぽいわ。何の地雷か解らんけど」

都子は雪に埋まった仁美の兄を改めて原寸大で捉え直し、

「時間止まっとっても見えるかな。こいつン中、何あるか判らんか。今回の件とは関係ないかもやけど、蓮ちゃんに関した何かが」

「……はい」

知佳は余り気乗りしなかったが、蓮の為と思い、彼の中へと下りて行った。

火星の騎士と云えば、「月の紋章」に出てくるヒロインの一人、阿連須(あれす)紅子だ。長いサーベルを持っていて、短髪赤毛でくるくる癖っ毛の……

「全然蓮と似てないのに」

「何が?」

「あっ、いや、蓮と火星の騎士」

「そうやなぁ、まったく共通点無いわ」

心の中へと下りてゆくと、程なく蓮のイメージに行き当たった。先刻見たからだろうか、非常に鮮明な現在の蓮だ。そしてその隣に、明らかに幼い蓮がいる。これは幼稚園の頃か……その蓮が何か持っていて、背後が白い靄に包まれている。

「都子さん、これ!」

知佳は都子に見たものを共有した。

昨夜(ゆうべ)の不可視領域か。蓮ちゃん関係やったか……厭やなぁ、けど見なしゃあないか……」

都子はそっと、蹲った儘の蓮の方を気遣った。

「その、蓮ちゃんが持っとるもん、なんやろ」

「なんでしょうね……」

知佳は意識を集中させて、解像度を上げていく。

「フィギュアかな……これは、火星の騎士か……あの一瞬で何を思い出したんや、こいつは」

「開けてみますね」

「頼むわ」

更に知佳が意識を集中すると、白い靄が少しずつ薄くなっていく。

「さぁて、鬼が出るか、(じゃ)が出るか……」

靄の中から微かな光が漏れて来て、旧い記憶が展開されていく。

――返せよ! お前だろ! 見てたんだぞ!

――知らない! あたし知らない!

知佳と都子は顔を見合せた。ランドセルを足元に転がした仁美の兄と、幼稚園鞄を袈裟に掛けた儘の蓮だ。仁美の兄は蓮の腕を捕まえた格好で、何か物凄く云い争っている。仁美の兄は悪鬼の如き憤怒の形相で、対して蓮は顔中ぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっている。

――ふざけんなよ、この、泥棒!

仁美の兄は蓮の腕を捩じ上げて、床に組み伏せた。どこかの部屋の様だ。二人の他には誰も居ない様である。

――痛い! やだ! あたし知らない!

蓮はびいびい泣き叫んでいる。見ていて辛い。

部屋の外でどたどたと音がして、突然ドアがバンと勢い良く開いた。

――拓巳(たくみ )! お前何遣ってんだ!

入って来たのは父親で、六郷商事の社長だ。

――幼い子相手に、恥を知れ!

父の鉄拳が炸裂し、兄は吹っ飛んだ。

――なんでだよ、俺悪くないよ! こいつが、こいつが!

兄はぎゃんぎゃん泣きながら抗議している。

――黙れ、一家の面汚しめ! 如何な理由があろうと、非力なる相手を力で捻じ伏せる等、人の所業ではない!

そして蓮の方を向き、

――申し訳なかったね。下に仁美と、おばちゃん居るから、とにかく降りなさい。

蓮は云われる儘、部屋から走って出て行った。

――ちくしょおぉ、俺の騎士があぁぁぁ!

――訳解らないこと云ってるんじゃない! 好い加減その気色の悪いアニメ趣味、なんとかせんか!

「ええと……つまり?」

一通り見終わって都子が呟いた。

「真偽の程は判らへんけど、こいつは蓮ちゃんが、火星の騎士のフィギュアを盗んだぁと思っとって、蓮ちゃんがそれを否定しよるもんやから盛大に(こじ)れていたと」

「そんな。何で蓮が」

「蓮ちゃんの中身と答え合わせせんと、何が如何なっとんのかさっぱりやなぁ……」

二人は蹲って震えた儘の蓮に視線を遣った。

「あ、隙間」

知佳は蓮に近付いて、脇に(しゃが)みこむと背中に手を置いた。

「蓮、大丈夫?」

蓮はちらりと知佳を見て、相変わらず震えた儘、ぎこちなく首を縦に振った。

「全然大丈夫じゃないね。――あのね、仁美のお兄ちゃんの心読んだの。蓮が小さい頃、暴力振るわれていたんだね」

蓮はまた、目だけ動かして知佳を見たが、今度は何も応えなかった。

「もし蓮の心もちゃんと調べることが出来たら、何があったか精確に判るし、如何すれば好いかの方針も立てられると思うの……」

知佳は蓮の背中を寛悠と撫でながら、優しい口調で続ける。

「今ね、蓮の心、隙間が出来てる。あたし入れそうなんだけど……入っても好いかな」

蓮は知佳を見た後、一旦眼を(つむ)り、その儘暫く凝としていたが、軈て眼を開けると、知佳の手を弱く握り、小さく首肯いた。

「じゃあ、入るね」

そして知佳は、一瞬ぐっと顎を引いて何かを決意すると、蓮の心の隙間からそうっと中へと下りて行った。

十五

蓮の心を見るのは初めてではない。知佳がこの能力に目覚めてから、蓮が能力に目覚める前迄の間、小学四年生の初冬頃から五年生の初秋頃迄の一年弱の間、知佳は幾度となく蓮の心を覗き見ている。然しここ迄本格的に心の奥まで下りて行くのは、流石に初めてのことだった。

蓮の心には三つの柱がある。亡くなった母親と、遺された家族である父親と、そして知佳だ。そのこと自体は知佳も随分前から認識していた。然しずっと記憶を遡って行くと、知佳が柱として確立される前に、知佳とは別の何か弱い、柱になりかけた筋の様な物がちらちらと見えて来る。その正体は今迄もずっと判らなかったし、今回もよく見えない。ただ、それを追及することは今回の目的ではない。今見付けなければならないのは、仁美との関係性と、仁美の兄である拓巳との関係性。拓巳の部屋に二人きりで居た経緯。フィギュアを巡る一件の、蓮から見た真実、認識。

知佳にとっての蓮は、幼稚園時代、仁美を介した友人の一人でしかなかった。母に依れば仁美を交えるもっと昔から、二人は家族の様にして育って来たらしいのだが、流石にそこまで古い記憶は知佳にもない。幼稚園より昔のこと等、殆ど何も覚えていない。でも幼稚園では確かに、蓮とは友達だった。そんなことを思いながら辿って行くと、小学一年生の頃から育ってきた知佳の柱が、幼稚園の卒園より前にも、か細くも判然とした筋として存在している。詰まり知佳は、蓮の中で卒園辺りを境に一旦途切れ、小学校に上がって数か月ぐらいで急激に復活、増大していることになる。この途切れた部分が、蓮の失われた記憶なんだろうと思う。――然しそれも、今回の目的ではない。非常に気になるところではあるのだが。

さて、先ずは仁美から辿ってみる。これに就いては知佳の認識と、そう大きな違いはない。幼稚園のPTAで母親同士が仲良くなり、その為子供同士も一緒に過ごす時間が多くなり、自然と親交を深めていったのだ。元々知佳の母と蓮の母は友人同士だった訳で、PTAでも大抵二人は一緒に行動していた為、友人を作る際にも二人同時に仲良くなっていったと云うだけのことである。特に仲良くなったのが、仁美の母と、弘子の母で、その為子供達もいつも四人で遊んでいた。仁美と弘子は余り人見知りをせず、社交的だった為、蓮や知佳とも直ぐに仲良くなったのだが、蓮と知佳はそれぞれに人見知り気味の性格だった所為で、お互いの交流は殆ど生まれなかった。その為幼稚園時代には微かにしかお互いを意識していなかった、と云うのが知佳の認識である。蓮の方は如何なのかと掘り返してみると、これが意外にも、幼稚園時代から可成強く知佳のことを意識している。――また脱線した。今はそこではなく、仁美のルートを探るのだ。

どうしても蓮の記憶の欠落が気になってしまう。然し今はそれどころではない。蓮にも、仁美の兄との確執を探るとしか伝えていない。記憶の欠落を解き明かす等とは云っていないのだから、それを勝手に調べるのは信頼を裏切る行為だ。知佳は臍の辺りにぐっと力を込めて、余計な考えを振り払った。

仁美と蓮。二人には二人なりの親交があった。蓮は偶に、仁美の家に呼ばれて遊んでいた。知佳も呼ばれたことがある気がするが、あまり良く覚えていない。回数が少なかったのか、楽しくなかったのか。何れにしても蓮は、知佳と一緒に呼ばれたこともあるが、一人で呼ばれる方が遥かに多かったようだ。その理由はなんとなく解る。呼ばれた蓮は仁美と一緒に、丸で着せ替え人形の様に色々な服を着せられて、その内の何着かを毎回持ち帰らされていた。主に仁美の母が、そして仁美自身も一緒になって、綺麗な顔立ちの蓮を好き勝手に着飾って楽しんでいたのだ。蓮は何をされているのか余り理解していなかった様だが、仁美と一緒にお着替えしたり、毎回お土産を貰えたりするのが何となく楽しかったので、厭な顔もせずに付き合っていた様である。

その記憶の道筋に、稍黒ずんだスポットがある。これは恐らく本人が封印した記憶の一つだろう。それほど強い封印ではなく、知佳が近付くとあっさり開封された。蓮が仁美の部屋へ行こうとして、何故か兄の部屋へ入って行くところだった。

仁美の部屋は何度も行っているのに何故間違えたのかはわからない。その時何かの都合で、仁美もその母も家に居らず、蓮は一人ぼっちで留守番していた。他人の家で独り留守番しているのも、その他人の家で勝手に彷徨(うろつ)いているのも、(いず)れも変な状況ではあるのだが、当人は余り気にしている様子もなく、躊躇(ためら)いなく二階へ上がり、真っ直ぐに拓巳の部屋へ入って行った。入って暫く、呆然と立ち尽くしていたが、軈てキョロキョロと室内を見渡し始め、本棚の一角に飾られたフィギュア群に目を留めると、その方へと近付いて行った。

――わあ、かぐや、みずき、こがね、べにこ……

そこには月の紋章に出てくるヒロイン達が全て揃っている。月の使者、水星の伝令、金星の王女、火星の騎士、木星の判官、土星の覇王、天王星の……

――あれえ、みどりが居ない

地球の聖母、鎧亜(がいあ )みどり。確かにそこだけ欠けている。そのキャラクター自体、登場して間もない為に、コレクションが追い付いていないのだろう。最初は月の使者、月読かぐやだけで始まったのだが、半年位で水星、金星、火星が加わり、二年目に木星、土星、その半年後に天王星、海王星が登場して、三年目に当たるこの年の秋に、地球が初登場した。この記憶はそれから数箇月後、春休み直前のものである。蓮はどこかにみどりがいるのではと思って、あちこち覗いたり、移動させたりしていると、部屋のドアが開いて、悲鳴のような叫びが聞こえた。

――わあっ! 何してんだ! 触るな!

蓮はビクリと振り向くと、拓巳の顔を穴の開く程見詰めて、次の瞬間火薬が()ぜる様にパッと走り出すと、拓巳の脇を器用に擦り抜けて、ドタドタと一階へ駆け下りていった。

一階には仁美とその母が居た。

――蓮どうしたの? 間違えてお兄ちゃんのお部屋に入っちゃったの?

――独りにしちゃってゴメンね。お兄ちゃん大袈裟なんだから。

会話を要約すると、拓巳は学校の体育で足を捻ったとかで、迎えに来て欲しいと学校から連絡があり、母が迎えに行っていたのだという。仁美は別に家を空けていた訳ではなくて、自分の部屋に衣装を取りに行っていただけだった様だ。その仁美を追い駆けて、蓮は間違えて拓巳の部屋に入って仕舞ったのだろう。

然し知佳は微妙な違和感を感じていた。蓮は拓巳に、何か変な反応を示している。知佳にはそこが好く判らない。ここ迄の顛末を都子に報告して、解釈を仰ぐべきなのかも知れないが、なんとなくそれは蓮の為に、憚られることの様な気がする。若しかしたら蓮は気にしないかも知れないが、この先にも何が待っているか判らないし……知佳は熟考の末、一旦蓮の心から抜け出し、都子を振り向いた。

「都子さん、あの……」

「長かったな。何か判ったんか」

「それが、ちょっと解らなくて……あ、あの、蓮の心共有して良いものか如何か」

「それはしんくてえゝよ。いや、この兄貴の心明け透けに(さら)けさせといて今更なんやけど、蓮ちゃんは身内やし、今後も長い付き合いになるやろうし、そもそも君の大事な親友やろ。口で要点だけ説明してくれたらえゝで。(さら)すことは無いやろ」

「はい。ありがとうございます」

知佳は少し、心が軽くなった。

「あの、それで……」

知佳はざっくりと、今見たものを説明した。母親が出掛けて、仁美が自室にいる時に、蓮が仁美の部屋へ行こうとして兄の部屋に入り、フィギュアのコレクションに目を奪われた。地球の聖母のフィギュアが無かったので探している所へ、兄が帰ってきて咎められたので、慌てゝ出て行った。

「それで、――なんか上手く云えないんですけど、なんか変なんです」

「変て? 誰が? どこが?」

「うーん……」知佳は(しば)し黙考して、「仁美の部屋初めて行くわけでもないのに、なんだか真っ直ぐお兄さんの部屋に行ってるし、それに、蓮のこの人を見る目が……なんだろう……」

それ迄ずっと知佳の手を握っていた蓮が、すっと手を離した。蓮を見ると目を逸らす。

「蓮? 何か思い当たることが――」

「知佳ちゃん」

「はい?」

「そやな……今は鳥渡、それは置いとこか。(さき)進も」

「えっ、でも」

「ええねん。若しかしたら(いず)れは明かされなかんことなんかも知らんけど、今慌てて引ん()くことないて」

「ひんむくって……」

「蓮ちゃん、一旦そこは触らんとくけど、この先避けられないかも判らん。覚悟しときってのも変な云い方やけど、出来れば自分で説明出来る様に、整理しておいて貰えるとありがたいねんけど」

蓮は暫く固まっていたが、軈て(ゆっくり)と首肯いた。

「ほんま、ごめんやで……ほなら知佳ちゃん、先行こか」

「……はい」

知佳は好く判らない儘、再度蓮の中へと下りて行った。

先程の黒ずみに続く様にして、小さな黒ずみが在ったので、それを覗こうとしたが、小さい割にこの黒ずみは固く封印されている。色々試してみたが時間が掛かりそうなので、一旦保留として先へ進む。

先程とは別の日、矢張り仁美の家で、仁美と母親と蓮とがきゃいきゃい燥ぎながらファッションショーを繰り広げている。

――仁美の服可愛い!

――蓮のそれ、カッコよすぎ!

――蓮ちゃん幼稚園児の着こなしじゃないわ。うちの娘が滅茶苦茶幼く見えちゃう!

――お母さん! 仁美、幼稚園だよ! 幼いの当たり前じゃん!

――口答えも可愛い!

仁美の母が一番燥いでいる様だ。確かに、仁美はキラキラする程可愛いし、蓮は映画スターの様に矢鱈大人びて見えて格好良い。なんだか見ていて知佳も楽しい気分になって来る。同時に、自分はこの場にはそぐわないなと、卑屈ではなく素直に諦めの気持ちになって仕舞う。それは自分の領分ではない、と云う気持ちだけであって、特に羨ましいとも(ねた)ましいとも思わない。逆に、可愛いものや美しいものが見られて幸せ、と云う気持ちになっている。これは仁美の母の気持ちに近いのではないかなと思う。

そしてこの直後から、黒ずみだ。知佳はそっと封印を解き、中へと踏み込む。この封印も軽いものだった。

ガラス張りの居間のドア越しに、拓巳がいた。凝と三人の方を見ているのに気付いた蓮は、急に動きが奇怪しくなる。口数が減り、稍俯きがちになるのだが、仁美母娘はその変化に気付いていない。蓮に気付かれたと悟ったのか如何か判らないが、その後直ぐに拓巳は立ち去り、蓮はほっと小さな溜息を吐いた。

また黒ずみ。今度は鳥渡手(ごわ)い。意識を集中して開封すると、蓮はまた仁美の家で独りになっていた。直ぐに立ち上がって、二階に上がり、真っ直ぐ拓巳の部屋へ行く。部屋には拓巳がいて、蓮が部屋に入ると立ち上がって迎える様にした。

――何で呼ばれたか判ってるよな。

蓮はふるふると首を横に振る。

――お前この前この部屋にいただろ。その時に盗ったんだろ?

蓮はきょとんとした顔をしている。

――しらばっくれるなよ、火星の騎士! 阿連須紅子だよ! 盗ったんだろ!? 返せ!

最初ぽかんと無表情だった蓮だが、少しずつ目が大きく見開かれていき、半歩後退って、

――知らない! あたしじゃない!

と叫んだ。

――お前しかいないんだよ! ふっざけんな! 返せよ! お前だろ! 見てたんだぞ!

――ほんとに知らない! あたしじゃない! 知らないよ!

蓮はぐしゃぐしゃに泣いていた。あの日本棚で見た紅子のフィギュアを思い起こし、そして何故か、知佳を思い浮かべていた。

「えっ?」

知佳は思わず小さく叫んだ。どう云うことだ。私が犯人? いやまさか。心当たりなんかないし、そもそも仁美の兄の部屋なんか行ったことも無いし、そんなフィギュアなんか……

「あっ……あれっ?」

「どないしたん」

「いや……ちょっと……ええっ? ……ああっ、誰かあたしの心を読んで!」

「いやいや、落ち着きなはれや。なにやねん。どないしたん」

蓮が心配そうに知佳を見上げていた。

「知佳……あたしなんとなく……思い出し掛けてるかも……」

「そうね、あたしが結構蓮の心引っ掻き回したからね! でも……ええっ、どう云うことだろう……」

「あのフィギュア……」

「そう、あのフィギュア!」

「あたし、知佳に謝らなくちゃ……」

「なにそれどういうこと? あのフィギュア、何であたし、知ってるの? 同じものだよ、まさにそのフィギュア、見たことある。手に取ったことある。……え、待って、もしかして……」

知佳は目を瞑って頭を抱えた。

「あたしが知佳の幼稚園鞄に入れたんだ」

「ああっ! そう! そうだよ! ――蓮、あたしの部屋の机の引き出し判る? 三段になってる一番上、多分奥の方」

蓮が目を閉じて数秒、再び開けた時には瞳が真っ赤に染まり、手には、火星の騎士のフィギュアが握られていた。

「おっけー、君たち、説明よろしく」

都子が仁王立ちして、二人を見据えていた。

「あぁ、都子さん、これは……」

「あたしが説明するよ。このフィギュア、仁美の家の居間で拾ったんです。あたし――これがタッくんのものだって知ってて……」

「たっくん?」

蓮は稍自嘲気味に笑った。

「そう、勝手に呼んでた。あたし多分あの頃、仁美のお兄ちゃんが一寸だけ好きだったんだと思う。今迄すっかり忘れてたけど」

「ええっ、嘘でしょ!?

「嘘ではないやろ。知佳ちゃんが感じとった違和感や」

「……えぇ? いやでも……蓮昨日、物凄く気持ち悪がってたじゃん」

「そうだね……不思議なことに、今はそれほど厭じゃない。思い出したからかな」

「フロイトやな。抑圧からの反転。好きや好きやって気持ち抑え込んで、抑え込み過ぎてそれを否定する為に真反対の感情を作り出して仕舞う。嫌いって思い込むことで好きを忘れようとする心の動きや。――ゆうて心理学は一般教養(ぱんきょう)で、適当に聞き流していたから多少間違いがあるかも判らんけど」

「ミヤちゃんて、女神田っち」

「やめてや!」

蓮は少し笑った。知佳はそれを見て、少しだけ安堵した。知佳の前に蓮の心の柱になりかけていた筋の正体も分かった。それが「タッくん」だ。

「知佳勘違いしないでね。昨日程厭ではないってだけで、今は別に好きでも何でもないから。――そう、思い出したよ。あの日、タッくんに捻じ伏せられて、それで一回、あたしの世界全滅したんだ。タッくんも、知佳も、あの時あたしの中から消えた」

「何であたし迄」

「申し訳なくて」

「どういうこと?」

「あのフィギュア、拾って、後で仁美かタッくんに渡そうと思っていたんだけど、その儘忘れて、幼稚園鞄に入れた儘帰っちゃって……で、次の日幼稚園でそれに気付いて、急に怖くなって、何でか知佳の鞄に……」

「何よそれぇ。あたし吃驚したんだよ、或る日急に、鞄の中に火星の騎士がいるんだもん。火星からあたしを護りに来てくれたのかと思って」

「なにそれ」蓮は可愛く笑った後、「ごめんなさい」と謝った。

「いや、今更好いんだけど。それでなんであたしごと忘れちゃうかなぁ」

「罪悪感の塊やったんやろな。自分の心護る為に、知佳ちゃんの存在ごと心の中から消してもうたんかな。知らんけど」

「なんか悲しい」

「ほんとにゴメン」

蓮はそうして殊勝気に何度も謝るのだけど、その表情(かお)も、声音(こえ)も、迚も晴れ晴れとしていて、それが知佳は唯々嬉しかった。

「蓮、あたしとの幼稚園時代、思い出せたんだね」

蓮はこくりと首肯く。そして知佳にしがみ付いた。

「ありがとう。ごめんね」

知佳もそっと抱き締め返した。

「尊いやんけ」

横で都子が小さく呟いた。

十六

蓮の様子も落ち着き、普通に会話出来る様になったところで、都子は蓮が握り締めているフィギュアを指差して、二人に確認をする。

「ほんでこのフィギュア、どないしょっか」

多少の汚れや(いた)みはあるが、破損などは無く略あの時の儘の状態である。

「正直に謝って返したい」

「いやっ、それは如何やろなぁ」

蓮の素直な申し出に、都子は待ったを掛けた。

「新たな火種にならんとも限らんし、ここは如何やろ、棚の裏とかに落ちていたってことにして、本人が自発的に発見するよう仕向けるとか」

「えー、なんか(ずる)い」知佳は不満を訴える。

「大人やから狡いねん」

「なにそれぇ」

都子は鳥渡沈黙し、二人を見渡した後、(おもむろ)に口を開く。

「後先考えて行動せなな。自分の欲望や満足だけでなく、相手の気持ち迄考えてや。そら全部ぶちまけて謝ったら、自分はスッキリするやろし、肩の荷下りて満足やろうけど、五年越しでそんなん打ち明けられて返される方はどないや。相手謝っとったら責めにくいやろし、遣り場のない思い、確執はずっと残るで。五年の間に若しかしたら、買い直してるかも知らんしな。そんなところに殊勝な顔して返してくるヤツとか、如何なん? て思わん?」

蓮も知佳も、何も云い返せず黙って仕舞った。

「悪意無いのは判ってるし、不可抗力な部分も大きいし、何ならコイツ自身が招いた事態でもあるから。なんも君等を責めとる訳やないけど、でもな、八方丸ぅ収めることって大事やんか。それは何も相手の為ばかりやない。良くも悪くも、結局自分に返ってくることでもあるからな」

「……はい」

知佳は不承不承ながらも納得しかけたが、蓮は黙った儘俯いている。

「蓮……未だこの人のこと」

「まさか!」

大声で否定するが、どこか白々しさを感じて仕舞う。

「あのさ、最初上級コースで助けた時、なんでここに連れて来ちゃった?」

「それは……」

「サービスエリアで仁美に逢った時、真っ先にお兄さんのこと訊いたの、その時は何とも思わなかったけど……今にして思えばあれも」

「知佳……あたし……」

二人の遣り取りに都子が割って入って来た。

「あんな、蓮ちゃん。そこんとこは割りかしどーでもええねやんか」

「え?」

「今最大の関心事は、誰も傷付かずにこのフィギュアを持ち主に返すには、どないするかっちゅうことや」

「そ、そうだけど……」

「君の恋だか憧れだかは、まあ大事にしといたらえゝわ。でもそれは後でゆっくり悩み。今は先ず、あるべきものをあるべきとこへ、やで」

蓮はぎゅっと目を瞑り、数秒、かっと見開いて、「はい」と力を込めて発声した。眼に力が籠もっていた。

「まあ、返し方に就いては、鳥渡思い付きがあんねんけど、一旦預けて貰えへんやろか」

「どうするんです?」

「蓮ちゃんには火星やって貰うとして、――知佳ちゃんは水星かな」

「え?」

「は?」

「ちょっと練習しよか」

都子の思い付きの練習は、三十分程続いた。丸で学芸会か何かの練習をしている様で、知佳は鳥渡楽しかった。蓮も段々楽しくなって来ている様に見えた。

「よっしゃこんなもんやろ。ほんでは本番、行くで」

都子がパンと手を叩くと、三人の真ん中に再び拓巳が現れた。今回はテレポートではなく、都子の空間術である。拓巳の頭は逆様に雪に突っ込まれた儘、雪ごとこの場に出現している。

「今は未だ時間も止めた儘にしとるけど、それは合図と共に動かすわ。動き始めてもうち等の姿は見えん様にしとるし、声も選択的にしか聞かさん。君等には出番に合わせて、それぞれ相応しい姿でこいつの前に現れて貰う。――ほなら、練習通りにな」

都子が手をパンと叩く。拓巳は雪から顔を抜いて体勢を立て直すと、上を見上げた。

「生きてる……あれは幻だったのか?」

斜面の上方を見上げている様だ。

「よし、蓮ちゃん行け」

都子の合図と共に蓮が拓巳の前に立つ。都子が空間を繋ぐ際、フィルタを咬ませることに依って蓮の姿と声は火星の騎士として上書きされる。

「かっ、火星の!? いやまさか、そんな……」

「お主、何か勘違いをしているのではないか」

「ええっ? 紅子様の声……いやあの、勘違いとは」

「お主、我の人形(ひとがた)を紛失したな」

「ひとがた……あ、フィギュアのこと? いや、アレは紛失ではなくて……」

「笑止! それがお主の勘違いだ!」

「え……え? 何が」

ここで知佳が登場する。

「紅子さん、余り追い詰めてはいけません」

「水星の伝令! エルメス水希(みずき )!」

「拓巳さん、あなたは紅子の人形を如何したのですか」

「いや、だから……って、水希が俺の名前を呼んでる!?

「答えろ! 我の分身を如何したのか!」

「だから、盗まれたんですよ!」

「違う!」

「違うって……なにが……ええっ?」

「拓巳さん、あなたは紅子の人形を、別室へ持ち出しませんでしたか」

「えっ? ……いや」

知佳はこの瞬間、拓巳の心へ下りて、彼が火星のフィギュアを持って居間へ行っていたことを確認していた。

「あなたはそれを持って居間へ下りました。何の為にでしょうか」

「居間へ? ――あ、そうか、なんかガキに触られたと思って、幾つかのフィギュアを水拭きしに台所へ……」

蓮の口元がピクリと痙攣した。

「それはつまり、その子が部屋に入ったより後のことですね」

「そりゃそうです」

「では、その子はそれを盗んでいないですね」

「あ――いや、でもそれなら、如何して」

「ちゃんと部屋へ持ち帰りましたか?」

「ちゃんと……」

知佳は拓巳の心の記憶を読みながら、その特定箇所を刺激する。拓巳は少しずつ当時のことを思い出してゆく。

「水拭きして、濡れたから乾かそうと思って、居間の机に……でもその後、乾いてからちゃんと部屋に……えっ、ちょっと待ってよ……」

「紅子はありましたか?」

「紅子……火星の騎士は……」

「無かったな! おのれ!」

紅子――蓮が、辛抱堪らず口を挟んだ。

「えっ! いや、その――ごめんなさいっ!」

拓巳は紅子に向って土下座した。

「それで、何処へやった」

「えーっ……ちょっと、わからない……です……」

「判らないでは済まぬ!」

「わわわわわ、ええと、ごめんなさい、探す、探します! 屹度家の中の何処かに」

「それには及びませんよ」

知佳――水星の伝令は、火星の騎士のフィギュアを両手で掬う様に掲げて、拓巳の目の前へ差し出した。

「あっ、俺の紅子!」

そう叫びながら、拓巳はフィギュアを受け取る。

「俺のとは何事か! 我はおのれの所有物ではない!」

「あああ、いや、そういう意味ではなくてですね、その、フィ――いや、ヒトガタが、僕の持ち物と云う意味でして」

「確かにあなたのものですね」

「ハイ! はい、そうです! 僕の――」

「あなたが(かつ)て糾弾した少女に、罪はないですね?」

「はい! 無いです! 僕の勘違いでした! 申し訳ありません!」

「謝る相手が違います」

「ああっ、はい、ええと、今度会ったら謝っておきます!」

都子はエルメス水希と阿連須紅子をフェードアウトするように拓巳の視界から消し、入れ替えるようにして蓮の姿を出現させた。

「この少女ですね」

水希の声だけが響き渡る。

「あゝ、そうです、そうなんです! ごめんなさい、僕の勘違いだった、君は悪くなかった! 本当にごめんなさい!!

蓮は鳥渡困ったような、後ろめたい様な顔をして、都子を見た。都子はウインクで返した。

「いいよ。大丈夫」

蓮はそれだけ云うと、拓巳の視界から消え、都子は拓巳を完全に元の世界へ返した。

「ま、これで一件落着やな。君ら迫真の演技やったよ、滅茶苦茶良かったで。楽しかったわ! 練習なんか遙かに超えとったやん!」

「ミヤちゃん……矢っ張りちょっと罪悪感が……」

「ゆうてノリノリやったやん!」

「いやまぁ、楽しかったのは……確かなんだけど……」

「まあ、本来の依頼は全然片付いて無いねんけどな、ほんでも一旦ここはこれで。今回時間止めて大分拘束してもうたな。小一時間ほど君ら、他の子等より年取ってもうてるから、(いず)れ辻褄合わすわ」

「好いですよ。私と蓮だって二箇月は生きてる時間違うし。そんな数時間とか一日程度……」

「いや、可能な限り合わさせて貰います。一個一個は小さくても、それなあなあにしとったらいつか数年単位でずれてもうたりし兼ねんからな」

「ミヤちゃん意外と生真面目」

「ったり前やん。君うちのこと、どんな風に認識しとってん」

「いやぁ」蓮は後頭部をポリポリ掻いた。

「まあええけどな。()(かく)、可能な範囲でにはなってまうけど、ちゃんと収支合わしとくから、心配しんといて。――ほな、また晩にな」

そう云うと、都子と世界は消失し、栂池の山頂に戻っていた。

十七

「ま、山が見えた所で、そこで滑ってる六郷さん達は見えないんだけどね」

知佳の背後で母が云うので、知佳はそれ迄の会話の流れを思い出すことが出来た。もうずっと前のことの様だが、つい今し方のことなのだ。

〈やばい、蓮、あたし滑り方忘れてるかも〉

〈大丈夫、あたしが先導してあげる〉

知佳と蓮はテレパシーで会話を交わすと、見詰め合って、微笑み合った。

「見えないんじゃしょうがないね。――それでお母さん、どっちに行けば好いの?」

「ああ、中級はこっちよ。間違えて上級行かないようにね!」

知佳は拓巳を思い出して仕舞った。超上級コースで事故を起こしかけていた。あんな風には絶対になりたくない。

「気を付けよーっと」

そんな呟きを洩らす知佳の横から、蓮がスッと抜けていった。

「先行きまーす!」

「あ、待ってよ!」

知佳が間を空けずに後に続く。

「何か二人共、随分逞しくなったわね……」

知佳の母が感慨深げに呟きながら、二人の後から行く。そして蓮の父が最後尾を護る。

ハンの木第三リフトの乗り場まで順調に滑り下り、二度三度リフトに乗って中級コースを堪能した。

「あなた達、なんと云うか、山頂行ってから一寸貫禄ついたわね」

「なにそれ?」

知佳はドキリとしたが、顔には出さない様気を付けた。

「貫禄ってよく解んないけど……鳥渡疲れたかも」

「そっか。じゃあ時間的にもそろそろ好い感じだし、なんか雪がちらついて来てるし、この一本滑ったら、最初のゲレンデに戻ろうか」

「うん」

「蓮ちゃんそれで好い?」

「好いよ、あたしも疲れた。結構滑ったよね」

「そうね、あなた達スキー初心者とは思えないわ。若いって良いわねぇ」

母はそんなことを云いながら、リフトに乗り込む。中級コースばかりを通ってゴンドラ中間駅の辺り迄進んだ処で、母が四人を集めた。

「ここでお父さんたちと待ち合わせ。カフェでも入っとこっか」

昼に入ったラーメン屋と同じ施設内に、カフェが入っている。そこのメニューを見て、蓮と知佳はきゃいきゃい燥いでいる。

「お母さん見て見て! ドリンクにドーナツ乗ってる!」

「えっ、何よそれ……うわ、胸焼けしそう」

「えー、美味しそうじゃん!」

「それが好いの?」

「ううん、ココアだけで好い」

「なにそれっ」

母はずっこける仕草をした。

「あたしチャイが好い」

蓮がメニューを見ながら云う。

「蓮ちゃんもドーナツは付けない?」

「要らない」

「あ、そう」

四人席を見付けて、大人二人で買いに行った。蓮と知佳は並んで座って、飲み物を買ってくるのを待っている。

「なんか一日が長いね」

「そりゃあ、ミヤちゃんに延ばされちゃったからねぇ」

「そっか。――なんかすごく疲れた」

知佳はテーブルに突っ伏した。

「あたしの所為だよね。ゴメン」

「何云ってんの、あたしと蓮の仲じゃない」

突っ伏した儘蓮の方に顔を向け、優しく笑い掛ける。

「あたし知佳が親友で良かった」

「あたしも蓮と親友で良かったよ」

「本統?」

「もちろん」

そこへ親たちが飲み物を持って帰って来た。

「知佳如何したの。疲れた?」

「うん、何か、心地よい疲れ」

「そう。ココア飲んだら疲れ、多少取れるかもよ、砂糖入ってるから」

「ほんと?」

「多分ね」

母はにこりと笑って、知佳にココアを渡した。

「はい、蓮のチャイ。これも甘いぞ」

蓮の父が娘にチャイを渡す。

熱いのでふうふうと冷ましながら、知佳はココアを啜った。甘さが体に染み渡って行く感覚が心地よい。

「嗚呼、極楽」

チャイを一口飲んで、蓮が嘆息する。

「蓮ちゃんホント、爺臭いんだから」

知佳の母が可笑しそうに笑うと、蓮の父は恥ずかしそうに苦笑した。

「楽しそうだなー、お疲れ!」

知佳の父が完太を連れて到着した。

「座るとこ無いんだけど」

「あっちのテーブル空いてるよ」

母は鳥渡遠くのテーブルを指した。

「えー、遠いな」

そんな事を云っていたら、隣のテーブルが空いた。

「お父ちゃん、空いたよ!」

「おお、ラッキー!」

空いた途端に素早く座る。

「お父さん、あんまり恥ずかしいことしないでね」

「お? おう……」

三科の父は少し肩を窄めて、完太に向かってぺろりと舌を出した。

「完太何か飲むか?」

「りんごジュース!」

「寒くないか?」

「あつーい!」

「そ、そうか?」

三科父は微妙な表情で注文カウンターへ向かった。一人でテーブルに残された完太に、蓮が声を掛ける。

「完ちゃん今日、楽しかった?」

「楽しかったよ! いっぱい滑った!」

「そうかぁ、よかったね!」

「うん!」

「知佳姉ちゃんより上手くなった?」

「うん!」

「ちょっと待って! 何を根拠に!」

知佳が物凄い勢いで異議を唱えるので、蓮は大笑いした。

「完太はボーゲン上手くなったぞぉ」

飲み物を手に戻って来た三科父が云う。

「ボーゲンが何よ、あたしはパラレルだから!」

「おお、やるじゃないか、知佳!」

知佳は得意気にしていたが、蓮も、知佳の母も、そんな遣り取りにけらけら笑っている。

「ええ、鳥渡、何で笑ってるの」

「必死過ぎて可笑しいよ!」

蓮は笑いながら、知佳の背中をポンポンと叩いた。

「そんなぁ」

知佳は不満そうにしていたが、次の瞬間には連られて笑って仕舞っていた。

「ジュースもういらない。冷たい」

そんな遣り取りには興味も示さず、完太は半分も飲まない内に、りんごジュースをあっさり放棄して仕舞った。三科父が渋面を作って、「ほらぁ」と云う。

「母さん飲むか?」

「やあよ、寒いじゃない」

「知佳――」

「いらない!」

父が何かを云う前に、知佳は言下に拒否した。

「蓮ちゃん……」

「要りませーん」

「お父さん責任取って飲んでね」

母に云われて、父は渋々ジュースを飲んだ。

「ひえぇ、芯から冷える。完太このやろぉ」

完太はきょとんとしている。そして父に向かって、更にこんなことを云う。

「父ちゃん、ココア飲む」

「はああ!?

一同は大笑いした。

十八

カフェでのんびり過ごしている間に、ゴンドラの運転終了時間が近づいていた。それに伴ってこのカフェも閉店するという。雪も結構降って来ている様だ。

「もう四時かぁ。ナイター無いのが寂しいよなぁ」

「仕方ないんじゃない? 雪が少ないのよ。――六郷さんが行ってる八方尾根だって、雪少なくってコース半分ぐらい閉鎖してるみたいよ」

「白馬でこれかよ、悲しい時代だなぁ」

「今日の雪で積雪量増えたらまた状況も変わるかも知れないけど、でも自家(うち)は明日で帰りますからね」

「東北か北海道行きたいなぁ」

「お金無いの」

「世知辛いなぁ――って、俺の稼ぎの問題か」

「そうねっ」

「母さん働かない?」

「家事分担できるなら」

「うーん」

三科父は腕組みして仕舞った。知佳は大人の話に首を突っ込みたくないので、黙ってココアの入っていた空のカップを握りしめていたが、なんだか情けない気分になって仕舞った。自分のこのお仕事の報酬って、幾らなんだろう、これあったら自家の家計は助かるのだろうか、なんて思ったりするものの、どう云うお金なのか説明出来ないので如何仕様もない。結局知佳には黙っているより外無いのだった。

「まあ取り敢えず、ここ閉まるから出るしかないね」

三科の父はそう云って立ち上がり、自分と完太の飲み終わったカップを塵箱へ捨てに行った。

「じゃあもう、リフトも終わるし、ペンション帰りましょうか。朝来たところまで、あんた達道判る?」

母は知佳と蓮に視線を投げた。

「判るよ! 朝練習してたところだもん」

蓮が元気に応える。知佳もそれに合わせて、

「蓮に尾いて行くから大丈夫!」

「なんだそりゃあ、あ、知佳方向音痴だっけ?」

「さあ、何のことだか」

母は不安そうな顔をして、「お母さん後からついて行くから。ゆっくり行きなさいね」

「はぁい」

そして全員店を出た。然し蓮は三科母の云い付けにも拘らず、いきなり全速力で滑り出す。

「あっ、蓮待て! 置いてくなぁ!」

「ちょっとあんたたち! 道間違ったら大変なんだから、(ゆっくり)行って!」

然し蓮はスピードを緩めず、知佳も必死に追従する。尤も、蓮の全速力は所詮母の速度には敵わない。母は絶妙な距離をキープし、道を間違えそうになったら直ぐに前に出る心算でいたが、幸い蓮は道を間違えることなく、正しく今朝到着した辺り迄滑り切った。知佳、母、そして蓮の父がそれに続いて到着する。

「お父さんと完太は?」

知佳が斜面を見上げると、ゲレンデ中間辺りに綺麗なボーゲンで滑り下りて来る完太と、それを監督しながら付き従う父を見付けた。

「おお、ほんとだ、完太上手だ」

「知佳負けてない?」

「負けてはいないさ!」

蓮はにやにやしている。

「もぉ、そうやって姉弟(きょうだい)喧嘩を(けしか)けるの、良くないんだぞ!」

「まさかそんな。あたしは何も」

依然として蓮はにやにやしている。

「蓮、このぉ!」

知佳は拳を振り上げて、蓮に迫った。

「きゃあー、知佳が暴れるぅ」

蓮はけらけら笑いながら、スーッと滑って逃げた。

「こらぁ、この辺にいなさいよぉ」

知佳の母が二人に向かって声を掛けるが、二人はきゃいきゃい云いながら追い掛けっこをしている。

「散々滑って疲れているだろうに、こんな平地でスキーで追い掛けっこ出来るなんて、子供のパワーは凄いですねぇ」

蓮の父は溜息交じりに呟く。

「ほんとにねぇ。あたしはもう、へとへとですよ」

「僕もです。帰ったら温泉浸かりたいですね」

「同感です。どうせ蓮ちゃんが温泉行くって云うだろうから、知佳連れて三人で入りますよ」

「蓮をお願いします」

「はいはい」

その内に完太と父が到着する。

「あっ、完太来た。おつかれー」

知佳と蓮も戻って来て、皆はスキーを外すと、ロッカーに預けてあったスノーブーツに履き替える。

「うわー、なんか足変な感じ。凄いふわふわってして、何も履いてない感じがする」

蓮はスキップをするが、疲れの所為か、感覚が狂っているのか、何処か下手糞なスキップになっている。

「スキーブーツは締め付けるからな。開放感が心地よいだろう」

「楽ぅ」

知佳はその場で足踏みをした。

「さて、明日どうするかで、このスキーと靴をどうするか決めるんだけど」

三科父が母にお伺いを立てゝいる。

「どういうこと? レンタルは最終日までパックになってるんじゃなかった?」

「そうだけど、明日滑らないならもう帰り掛けに返しても良いかなって」

「お天気次第かなぁ。どうなるか判らないし、もう一旦宿に持ち帰ったら好いんじゃない?」

「そうか? じゃあそうしようか」

結局一行はスキーセットをペンションに持ち帰り、乾燥室に置いた。そしてそれぞれ自室へと引き上げ、スキーウェアから部屋着へと着替える。

「さあ知佳、お楽しみの時間ですよ!」

着替えを済ませた蓮が、知佳を迎えに来た。

「あゝはい、温泉ね。行くよ」

「お母さんも後から行くから。浴衣持って先行ってて」

「はぁい」

知佳と蓮は浴衣とタオルを抱えて、仲良く大浴場へと向かった。

着衣を脱いで籠に入れ、浴場に入ると掛け湯をし、湯船にそっと入る。体が冷えている所為か迚も熱く感じる。

「うわー、指先がジーンってする」

「脚の感覚やばーい」

二人で肩まで浸かって、ほうっと溜息を吐く。

「矢っ張り温泉だよね、もう、魂が洗われるよ」

「蓮の表現はいつも年寄り染みてるんだよね」

「何云ってんの、知佳より若いのに」

「二箇月じゃん!」

「二箇月でも若いんだぁ、あたしは未だ十歳なんだぁ」

「ちっ、むかつくっ」

蓮は蕩けた目付きで知佳を見て、

「舌打ちなんか、下品だぞぉ」

と云った。

知佳は十二月の後半、蓮は二月の頭の生まれなので、正確には一箇月半も離れていない。それでもそんな細かいことは、二人共余り気にしていなかった。何箇月若いだの、何分余計に生きただの、そんなことを一々気にする様な齢でもなければ、性格でもない。二人共単なる話のネタとして云っているだけで、どっちが先に生まれたかさえ全く如何でも好いことだった。

暫くして知佳の母が入って来た。暫く三人で呆けた後、連れ立って露天へ移動した。

「雪降ってるわねぇ。(ひさし)があるから直接は降って来ないけど」

「でも風に乗って舞い込んで来るよ」

「なんか風流」

母は笑いながら、「小学生が『風流』なんて感想口にするんだ。さすが蓮ちゃん」と云う。

「えー、変ですかぁ?」

「変っちゃ変だけど、まあ好いんじゃない、蓮ちゃんらしいわ」

「変なのがあたしらしいのかぁ」

「それはそうでしょ」

知佳が駄目を押すと、「何をうっ」と云って蓮が知佳に組み付いた。暫くばちゃばちゃと(じゃ)れ合っていたが、軈て二人ともくったりとして、岩に体を(もた)せ掛ける。

「あー、なんか凄い疲れた」

「脚がやばい。筋肉痛かも」

二人の様子に母は苦笑する。

「明日滑れない?」

「えっ、滑るよ、滑りますとも!」

「蓮は元気だなー」

知佳は相変わらずくたっとして、眩しそうに蓮を見ている。

「なんだ知佳、若いのにだらしないぞ!」

「蓮より二箇月お婆ちゃんなのぉ」

「なんだ、じゃあしょうがないか」

今度は知佳が「何をうっ」と云って蓮に組み付き、第二ラウンドが始まるが、矢張り長くは()たずに再び二人で岩に俯せに貼り付く。

「静かに入ってなさい」

「はぁい」

「もうしませぇん」

露天は若干湯温が低いのと、外気の冷たさとのコントラストの御蔭(お かげ)で、長く浸かっていられる気になるのだが、流石にそろそろ(のぼ)せそうになって三人は屋内に戻り、洗い場で髪と体を洗った。

「蓮の髪は素直で好いなぁ」

髪を洗いながら知佳がぽつりと云う。

「えーっ? 全然。直ぐクタってなっちゃって、貧相に見えて困るよ」

「そうなの? 何時も艶々サラサラしてゝ綺麗じゃん」

「知佳の確りした髪質の方が憧れるけどなぁ」

「こんなの云うこと聞かなくって面倒臭いだけだよ」

「云うことはあたしの髪も聞かないな」

二人の遣り取りに、知佳の母はくすくす笑い出す。

「何、お母さん」

「いやぁ、あたしと凛の会話そのまんまだなって思って。髪質も遺伝するのねぇ」

「そりゃあそうでしょ。御蔭であたしは毎朝寝癖との戦いだよ」

「あたしは毎朝ボリューム出すのに精一杯」

「まあ、それぞれ一長一短てことよ。みんな自分に無いもの欲しがってるだけ」

「それはそうかも知れないけれど……」

「足して二で割れたら好いのにね」

「割り方間違えたら悪いとこ取りになっちゃうけどね」

「やだそんなの!」

この話題も結局三人、笑って終わるのだった。

十九

この日は中々都子が現れなかった。二人共布団に入り、テレパシーで雑談などしながら待っていたのだが、いつのまにか寝て仕舞っていた。

急に激しい閃光を感じて、知佳は目が覚めた。起き上がると布団は無く、また例の真っ白な世界に蓮と二人で居た。

「何時?」

「判んない……」

目を擦りながら二人で会話していると、都子が現れた。

「ごめんやっしゃ、遅れやっしゃ」

登場時に何かネタを挟まないと気が済まないようだ。

「今日はちょい、深い時間にさしてもうたで」

「えー、何時?」

「三時位かな。いやあ、昨日夜更かしするおっさんおったからな、念の為や」

「なんか結構しっかり寝た気がするけど……」

「うん、朝かと思った。なんか眩しくて目が覚めたし」

「おお、それはうちや。目覚まし代わりに、びかーって光らさしてもらいました」

「なんかよく解んないけど、はい」

「あと、君ら一応、八時間ほど寝た筈や」

「あー、ミヤちゃんまた緩にした」

「まあそやな。この先も緩やって貰うけど、終わったら一気に朝にすんで」

「好い様にしてください。都子さんといると時間の経過とか全く如何でもよくなってくる。取り敢えず始めましょう」

「やる気があるのはえゝことや。ほなら昨日棚上げしとった高宮のおっさんからな」

今夜の高宮は就寝していた。都子が繋いで、知佳が下りる。夢も見ないで熟睡している様で、知佳は可成自由に探索することが出来た。

「紛失したと思われる日の、一日の記憶です」

そう云って知佳は、高宮の記憶を二人に共有した。

出勤する際、彼はイヤリングの入った箱を開き、中身を確認した上で、箱を閉じてコートの内隠袋(ポケット)に入れた。中にはイヤリングが確実に入っている。この時点で、イヤリングはコートの隠袋の中だ。

「高価な物にしては、扱いがぞんざいやねんなぁ」

車の運転席に乗り込むと、コートを脱いで助手席に置く。通勤途中では全く寄り道せず、従って乗り降りもせずに、そのまま無事会社へと辿り着く。車を降りる際にコートを羽織り、その際内隠袋に手を差し込んでイヤリングの箱の存在を確認している。

「まあここまではヨシ、やな。然し専務になっても自分で運転して出勤するんやな。小さい会社やからかな。車も大衆車やし」

「仁美のお父さんも自分で運転してるよ」蓮が補足する。

「そうなんや。役員が偉ぶってないところが好感持てる会社やね。ま、小さいだけかも知らんが――然しそうすると、原価の数百万でも相当頑張ったんやな、このおっさん。金の使い所、大いに間違(ま ちご)うとる気はするけどな」

オフィスビルの三階に、六郷商事は入っている。都子は小さい会社と評するが、一応ワンフロア借り切っているのだから、それなりに頑張ってはいるのだろう。高宮は専務室と書かれたドアから室内に入り、コートを脱いでハンガーに掛けた。その時イヤリングの箱をコートから取り出し、自分の机の抽斗(ひきだし)(うつ)している。抽斗には鍵が掛けられるようになっていて、高宮は当然の如く施錠すると、その鍵を別の抽斗に入れた。

「あれは鍵の意味あるのかなぁ」

蓮が素朴で当然の疑問を呈する。

「まあうちの知る限り、オフィス内では大抵あんなもんや。鍵掛けるだけましやで。うちの見て来た会社に限るのかも知らんけど、あんまり社内での盗難とかは警戒しとらん気がすんな」

「身内を信頼してるんだね」

「いやあ、信頼っちゅうか、正常性バイアスかな。盗難事件なんか起きるもんかってどっかで思い込んどんねん」

「ふうん?」

「麻痺とか、平和ボケとかの方が解るか?」

「あゝ、うん、多分……」

「ま、そんな訳やから、この点に就いては高宮が特別迂闊やとか云うことも無いとは思うよ。専務室なんか出入りするだけで目立つしなぁ」

「そうか」

高宮は机上の「未確認」と云うタグの振られた箱の書類を一枚取って、内容のチェックを始めた。一通り隅々まで確認し、判子を押すと、今度は「確認済」と書かれた箱へ入れた。

「普通にお仕事始まったな。ここからは暫く退屈なんちゃうか? 早送りとか頭出しとかでけへん?」

「えーっと、ちょっと待ってくださいね」

今まで動画の様に再生されていた映像が長い帯になり、三人の前にうねうねと蛇行しながら横たわった。よく見ると太くて明るい部分と、細くて暗い部分とがある。

「これが一応、一日分の記憶です。記憶に強く残っている部分は太くて明るい(ふし)に見えてます。記憶に残る部分って大抵何かが起きたり、それ迄と違うことをしたりとか、兎に角変化があった部分で、弱い部分は単調な作業が続くとか、何も起きないとかって感じだったりするので、基本的に太いところを見て行けば好い筈です。――えゝと、今この辺りまで見たので、次の節はこゝですね」

そう云って知佳は、太くて明るくなっている部分を(つま)んで広げた。丸で映画のフィルムの様に、高宮の数分間の様子が動画ではなく、幾枚もの静止画像として一目で見渡せる。

「知佳ちゃんは有能やなぁ。中々能力を上手に使いよんねんな」

「えぇっ、そ、そうですか?」

「誇ってえゝで」

「あっ、ありがとうございます……えへっ」

「あたしの親友、知佳です!」

「知っとるがな。蓮ちゃんも誇っとけ」

「わぁい!」

何故か蓮の方が喜んでいる。然し都子は殆ど無視して、高宮の記憶を細かくチェックしていく。

「ここには変化ないな。次広げて」

「はい」

そんな調子で幾つかの節を調べて行くと、遂に高宮が席を立つ場面が見付かった。

「ここは動画で見たいな。専務が席立つ前の、内線で誰かと話している所から」

「はい」

知佳はその部分を動画として再生させる。

――北山君か。一寸確認があるんで、何処か会議室セッティングして。――そうだね、担当者と、リーダーと。――今直ぐ行けます? 了解りました。――はい。会議室Aね。ではよろしく。

内線の受話器を置くと、机の上に広げていた書類を束ねてクリップで留め、席を立った。

「普通にお仕事や。会議の様子はえゝよ。次帰って来んの、どの辺かな」

「えゝっと……」

知佳は記憶の帯を指でなぞりながら、節を一つ一つ確認して行き、その個所を見つけ出した。

「ここですね」

広げてみると、卓上の時計は既に昼を指していた。

「午前中いっぱい部屋に戻らなかったんや……その間に誰か出入りしとらんやろな……ああでも、このおっちゃんの記憶からはそれは判らんか」

「そうですね……」

「まあええわ。取り敢えず続けよか」

知佳が記憶を再生すると、高宮は抽斗からイヤリングの箱を取り出してコートの隠袋に入れ、そのコートを羽織って外出した。

「昼食いに行ったかな? (なん)にしろこの時点で未だ紛失しとらんのは確認でけたな。外出中は詳しく見とこか」

会社近くの定食屋に入り、日替わり定食を食べて帰って来る迄、特に余計なこともせず、誰とも会わず、再びコートから取り出した箱を抽斗に仕舞って施錠する所迄確認し、都子は溜息を吐いた。

「失くさんなぁ」

「そうですね。逆から見た方が好いかも知れないですね」

「せやな。それで行こか」

知佳は全体の三分の二ぐらいの所にある、大きな瘤の様になっている節を抓んで、

「多分これが、失くしたことに気付いた所だと思います」

と云うと、その部分を展開した。高宮が真っ青な顔で、フロア中を行ったり来たりしている様が見て取れた。

「なるほど、ここで確実に紛失しとる訳や。一応その、紛失に気付く瞬間を見ておこうか」

知佳は少しずつ記憶を遡り、そのポイントを探した。

「ここですね」

再生を始める。高宮が仕事を片付けて机の上を綺麗にしてから、鍵の掛かった抽斗を解錠し、開ける。そこに箱は無かった。

――えっ!

高宮は声を上げて、数秒動きを止めていたが、直ぐに行動を開始する。総ての抽斗を奥まで、底まで徹底的に(さら)い、机の下に潜り、周囲をぐるりと見て回り、机の上の書類箱まで(あらた)めた。部屋中のキャビネット、ゼロックスの裏表、ハンガーに掛けたコートの隠袋迄引っくり返したが、何処にも無い。高宮は顔を真っ青に染めて、部屋を飛び出した。

「わかった。ほんならこの時点から、最期に抽斗が開けられた場面を探して」

「はい」

知佳は記憶の帯を逆になぞり、辿って行くが、()の抽斗もたったの一度も開けられない儘、昼食から帰って箱を抽斗に入れる所まで来て仕舞った。

「高宮さんはお昼から帰ってから、一回も抽斗を開けてないです」

「おっさんに落度は無かった、ちゅうこったな――せやけど、そうすると、誰かおっさんの知らん間に忍び込んで抽斗開けたか。ホンマもんの泥棒か?」

「高宮さんの記憶だけでは、そこまでは判らないでしょうね……」

「そやねぇ……」

都子は名残惜しそうに、展開された高宮の記憶を眺めていたが、或る一点に不図目を留める。

「知佳ちゃん、ここ詳しく」

「え? ――はい」

都子が指した点を引き伸ばし、再生を始める。

「停めっ、ちょい戻して――そこ!」

通路で立ち話している高宮の視界の隅で、専務室のドアが開いた。

「誰や」

然し、視点が移動して仕舞い、誰が入ったのか、それとも出てきたところなのか、それさえ判別できなかった。

「あ、タッくん」

「はあ!?

蓮の呟きに知佳が振り返り、同じ部分を繰り返し再生させた。

「ほんとに?」

「いや、改めて問われると……でも一瞬、そう感じたんだ」

「ふんむ……ここは一旦、女の勘を信じよか」

戸惑う二人に、都子はにかっと笑って見せた。

二十

都子が拓巳を引っ張って来た。相変わらず寝顔は端正だ。

「知佳ちゃん、今日は日時限定で。今のと同じ日、同じ時間にこいつが何しとったか、見たって」

「はい」

知佳は高宮の記憶の前後から、時計を探して時間を確認し、それから拓巳の中へ下りた。そうして、専務室に一人で立つ拓巳を見付けた。

「共有します」

拓巳の記憶が二人に送られる。

「居たかあ。ここからは慎重に見ていこか。知佳ちゃん、入室前から行けるか?」

「はい」

拓巳は母と妹と、父親である社長と一緒に、応接室に居た。スマホで何かを見ている。チャットか、SNSか。知佳にはその違いはよく解らないが、兎に角誰かと連絡を取っていて、その遣り取りの履歴を見ている様だ。

「考えていることは読めます。アルテミスの紋、楽しみだって……えっ?」

「んん? どう云うことや」

都子はスマホの画面を凝視する。

「こいつのハンドルネームは、『うちの紅子知りませんか』だと」

蓮が下唇を噛む。

「ええと、若しかしなくても、高宮の取引相手はこいつや」

「まさか。いくら社長の息子ったって、億なんてお金――あ、待ってください」

知佳はそれだけ云うと、拓巳の心に集中した。

「矢っ張り。冷やかしですね。金額は書き込んだけど、買う気なんかないです。ただ、物自体には興味があるみたい。如何遣って見てやろうか、そして如何遣って断ろうかって悩んでますね」

「糞野郎やんけ――あっ、蓮ちゃんゴメンな」

「好いんです。その通りだし。あたし今では別に――うん、多分もう――わかんないけど」

「悩むのは後で。今はこいつの記憶を追い掛けよ。知佳ちゃん、進めて」

「はい」

拓巳は急に立ち上がり、トイレ、と云って応接室を出た。応接室のドアを後ろ手で閉めると、左右を見渡した後、トイレではなく専務室の方向へ向かった。専務室から少し離れた処で、高宮が誰かと立ち話をしていたが、視線がこちらを向いていないことを確認し、そっと専務室のドアを開けて、中へ入る。音を立てない様にそっとドアを閉めると、真っ直ぐ執務机へと向かった。抽斗から鍵を取り出すと、鍵の付いた抽斗を開錠して、開く。

――相変わらず、セキュリティ意識は低いんだなぁ。

そんなことを呟きながら、奥からイヤリングの箱を取り出し、箱を開けて中身を眺めた。暫く堪能した後に箱を閉じ、それを戻すことなく再び元通り抽斗に施錠してから部屋を出ると、今度は社長室へ入った。

「持ち出したのはこいつで確定やな。然しそうすると、何でこいつの記憶にイヤリング無かったのかな」

「見落としましたかね……」

「まあ、君らあの時大分眠たそうにしてたしなぁ。せやけどうちも見覚えないねん」

社長室も留守だった。社長は応接室で家族の相手をしているので当然である。秘書の様な者も居ない。都子云うところの小さな会社だからか。拓巳は社長の机に近付くと、専務の時と同じ様に鍵の掛かった引き出しを開け、その中へ箱を入れると、施錠して鍵を戻し、部屋を出た。

社員も役員も、皆忙しくしていて、誰も拓巳の動きに等気を留める者は無かった。社長の息子だと皆知っている様で、堂々と社長室や専務室に出入りしても、誰も咎めたりしないし、気にしてもいない。拓巳は悠然とトイレへ行き、トイレの為に立ったと云う口実に裏付けを与えてから、応接間へと戻った。

「さあて、問題は今でもそこに在るんかっちゅうことと、どないして収拾付けようかってところなんやけど……んー……蓮ちゃん、在るなら持って来れるんかな」

「これ?」

蓮の手に乳白色の小さな箱が握られていた。

「それそれ。中確認してや」

蓮が開けると、一対のアルテミスの紋が輝いていた。

「おお、実物はやっぱ、迫力あるなぁ。これが数百万かぁ」

「無事に取り戻せましたね」

「そやな、これで依頼の八割方は完了や。二人ともようやってくれた。グッジョブや」

「でもどうしてタッくん……」

蓮がイヤリングを見ながら、寂しそうに呟く。

「彼の心を読む限りでは、何とか取引を中断に持ち込みたくて、紛失したことにして仕舞えば好いかって思ったみたい。でも自分が持ち去る訳には行かないし、本当に無くなっちゃったらそれはそれで問題だから、取り敢えずお父さんの抽斗に入れておけば時間が稼げるかなって。それで紛々(ごたごた)している間に取引キャンセルすれば好いって思ったみたい」

「なんじゃそらぁ。浅知恵もえゝとこやな。御蔭でとんだ大迷惑や!」

都子が()け反った。蓮は何だか可笑しくなって、くすくす笑っている。

「それでどうやって返します?」

知佳が訊くと、都子はずいっと身を乗り出して、「そこやねん」と云う。

「このまんま返すんは(しゃく)やんか。でな、もう一回火星の騎士様にご登場願おうかなと」

「え?」蓮がきょとんとして都子を見詰めた。

「まあまあ」そして知佳の方を向き、「ちゃんと知佳ちゃんにも科白(せりふ)あげるから」

「いやっ、あたしは別に……」

「そう云わんと付き()うて。あんな……」

再び都子の思い付きに、二人は巻き込まれることとなった。そこから暫し、科白の練習が続き、目途の付いたところで、都子が手をパンと打つ。

「ほな、開演!」

拓巳の周りに火星の大地の光景が広がり、激しい閃光が走って拓巳を無理矢理起こす。

「ん……なんだ? 何時だ今……」

拓巳が寝惚けながら、枕元の眼鏡を掛けて、鳥渡動きを止める。目を大きく見開き、ごくりと唾を飲み込む。

「なん……何処だここは……えっ、白馬に居る筈……」

頬を抓ったりしている。

「痛い……」

「目覚めたか、愚か者」

蓮が火星の騎士の姿となって、拓巳の眼前に顕現する。

「うわあぁ、紅子様! えっ、これは夢では」

「夢ではないぞ! お主、我の人形(ひとがた)は無事であろうな」

「ひぃ、昼間の続きか……無事無事無事、タオルで(くる)んで、鞄に大事に入れてあります!」

「よろしい。そんなお前に、この者から話があるぞ」

知佳の出番になり、都子のフィルターでアルテミス銀子の姿となって現れる。

「あっ……アルテミス!」

「貴様、私の紋章を如何した!」

「はぁあっ!!

拓巳は大きく息を吸い込み、白目を剥いて失神し掛けるが、()かさず都子が蹴りを入れる。拓巳に都子の姿は見えていない。

「いてぇっ! なっ、何だ、背中が……」

「紋章を如何したかと聞いているのじゃ! 返答次第ではただじゃ置かんぞ!」

「ひいぃ! あの、ええと、ブローチのこと?」

「ブローチ?」思わず都子が繰り返すが、都子の声は拓巳に届いていない。

拓巳の知らない空間で、都子と知佳と蓮は、お互いに目を見合せた。

「ブローチではない、あれはイヤリングじゃ」

銀子の声に呆れた気持ちが乗って仕舞う。

「ええっ、イヤリング……道理でちょっと小さいと思った。二個あったし」

「そうかぁ、ブローチなぁ。そんな変な認識されとるから、うちら見逃したんか」

「――莫迦なのか」

思わず蓮が呟き、紅子の声で拓巳に届いた。

「えええ、ごめんなさい紅子様。僕ほら、あの、アクセサリーとか、よく判らないから……写真見た時勝手にブローチだと思ってました!」

「貴様、写真で見ただけでは無い筈じゃ!」

「ひええ、銀子様はお見通しで? あの、あの、確かに、実物見ましたけど……あの……」

「それを如何した?」

銀子の知佳は一歩拓巳に近付き、顔を寄せてじろりと睨み付ける。

「ちっ、ちっ、ちちのっ、父の机の抽斗に!」

「ほぉう? 何故(なにゆえ)そのような真似を」

「わわわごめんなさい、あの、あの、億とか冗談で云ったら、高宮のアホが本気で売りに来やがって、だから、その」

「冗談じゃとぉ? 私の紋章は冗談か?」

「めぇっそうも、ござんせん!」拓巳は土下座する。「然し僕、――私には過ぎた物です(ゆえ)に! あの、売買契約が不成立になる様に隠したので!」

「紅子が回収したぞ」

紅子の手に、イヤリングの箱が握られており、紅子の蓮はそれを開いて中身を突き付ける。

「なんでぇぇえ!?

「今の話、正直に高宮に告げ、謝罪して返すがよい」

「はぁあっ……はっ、はいぃ!」

拓巳は平伏す。

「高価な物(ゆえ)、これは一旦お主の部屋に置いておくぞ」

紅子の言葉に拓巳は顔を挙げて、困惑の表情を浮かべる。

「えっ、それは鳥渡都合が……」

「何故か」

「それじゃあ僕が盗んだことになって……しま……いませんでしょうか……」

「盗んだようなものだろう」

「えーっ、そ、それは……そうかも……いやでも……」

「煮え切らぬ男よの!」

「紅子、今は手を組み、この男に罰を与えようぞ。火星の炎で焼き尽くし、月の裏側の孤独を!」

「いやっ、やめてぇ! ごめんなさいぃ! 判りました、解りましたから! 仰せの儘に! 僕の部屋で良いですぅ!」

「そうか。では机の上に……」

「抽斗の中では駄目ですかぁあ?」

「そこまでして己の物としたいか」

「はぁう! 違います! 机の上で好いです! ででーんと、どどーんと置いておいてください!」

「ではそうしよう」

紅子は箱を持った儘退場し、完全に拓巳のステージより消えてから、蓮はイヤリングの箱を拓巳の部屋の机の上に転送した。

「必ず高宮に返せ、約束を破ればただじゃ置かぬぞ!」

銀子もその科白を最後に退場した。火星のステージも掻き消え、拓巳は自分の布団の上に正座して震えていた。

二十一

三人で一頻(ひとしき)り笑った後、都子は蓮の肩を抱いた。

「蓮ちゃん、あれが君の憧れた男や。これから君がその気持ちを如何するのか、それは君が自分で決めていくことではあるけれど、ええか、憧れているうちは目が曇る、相手の真実は一歩引いて見極めることや」

「うん……よく解らないけど……でもあたしはもう」

「うちにはそう見えないねん。君は今でもあいつに心奪われとるで」

「そう……かな……でもあたし、もう好いって思ってるよ」

「頭と心は時々折り合わんねん。折り合わんことに目を瞑れば、色々弊害が出よる。君が知佳ちゃんのことやら色々忘れとったんも、その弊害の一つや」

蓮は知佳を見た。知佳は優しい目で蓮を見ていた。

「先ずは心と頭は別やっちゅうことを認め。そんでもって何方(どちら)に沿わせて行くかをじっくり悩みながら決め」

「うん……どっちにした方が……好いのかな」

「うちや知佳ちゃんや、周りのもんは何とでもアドバイスでけるけどな、決めるんは自分やで。うちも、多分知佳ちゃんも、あの男は()めとけ思っとるわ。せやけど他人には如何にもならんことでもある。結局決めるのんは自分やから」

「あたしも止めておきたい」

「ほなら先ずは、自分の心と確り会話して、折り合い付けることやな。その上で自分の希望を()れて貰える様、お願いするこっちゃ」

「如何すれば好いのか全然わかんないけど」

「自分で見付けなあかん」

「……はい」

「まっ、若い内は悩んで苦しむこっちゃ。それが成長やん」

「矢っ張り都子さん、二十歳に見えないんだよな」知佳が感心しながら云う。

「まぁ二十歳にしては、(ばゞ)臭いか知らんけどな」

そしてゲラゲラ笑った。

「ちなみに今日、一月八日で二十一んなったわ」

「えーっ、おめでとうございます!」

「ミヤちゃんおめでとう!」

「おお、君たちありがとう! 誕生日の朝を、依頼解決で迎えたわ!」

その後都子は二人をそれぞれの布団の位置に寝かせ、半分帰した状態で時間を進めた。都合何時間進めたのかはよく解らないが、都子の気配が消えて時計を確認したときには、朝の八時になっていた。

部屋の外でどたどたと走る音が聞こえ、ドアがガラッと開けられた。鍵が開いている所を見ると、既に誰か起きて部屋から出ているのだろう。

「知佳! 温泉!」

「あー……うん!」

布団から起き出して辺りを確認すると、父の姿が無い。母と完太は未だ寝ている様だ。然し蓮の声で母が目を覚ました様で、「朝御飯迄には上がりなさいよぉ」と云われた。

「はぁい、行って来まーす」

部屋を出る際、戻って来る父と擦れ違った。

「おお、風呂か?」

「うん。お父さん何処行ってたの?」

「トイレ。あーでも、父ちゃんも風呂行くかな……完太ぁ?」

父は完太の名を呼びながら、部屋に入って行った。知佳は蓮と二人で大浴場へ向かう。廊下の窓から外を見る限り、雪は止んでいる様だった。

昨夜(ゆうべ)いっぱい降ったのかな、雪」

「積もってるかな? 新しい雪、滑りたいね!」

「今日何時までいられるのかなぁ」

そんな会話をしながら浴場へ行き、温泉に浸かる。

「あー、()ト仕事片付けた後の風呂は沁みるぜぇ」

「蓮、ほんとにおっさん」

「んぁあ? 何だってぇ?」

「なんでもなーい」

蓮は拓巳からちゃんと卒業できるのかな、もうあんな苦しんでる蓮を見るのは厭だなと、知佳は思った。そっと蓮の様子を窺ってみたが、既に蓮の隙間は塞がっている。今朝の仕事の時には未だ僅かな隙間があったのだけど、それも今はすっかり塞がり、いつもの調子に戻っている様である。少し寂しい様な、ほっとしたような、然し結局は温かい気持ちになって、知佳は眼を閉じた。

「寝るなよー」

蓮の声がする。

「寝ないって。蓮じゃないんだから」

「いやいや、あたしだって寝ないって」

知佳は、くふふと笑った。

風呂から上がると、何やら大人たちが盛り上がっている。何事かと知佳と蓮が近づいていくと、母が気付いて二人を手招きした。

「知佳、蓮ちゃん、これ見て!」

母が見せてきたスマホの画面には、「白馬の騎士? ボーダーとスキーヤーを救った奇跡」と云うタイトルが躍っていた。

「うわ、何これ!」

思わず知佳が叫ぶ。蓮は興味深そうにスマホの記事を読み上げた。

「白馬に騎士がやって来た? 今SNSでは、白馬地方のスキー場において、上級コースで失敗(しくじ)ったボーダーやスキーヤーが謎の力で救助された、という話題が飛び交っている。兎平の超上級コースで転落し、大怪我は必至と思われたボーダーが、コースの序盤から終端迄一気に転落したにも拘らず怪我一つなく、しかも本人の証言によれば彼を助けたのは火星の騎士だと云う」

ここで蓮は、顔を挙げて知佳を見た。知佳は如何返して好いか判らず、唯瞬きをした。蓮は続きを読む。

「ほぼ同じ頃栂池の上級コースでも、コース中盤で転倒して足を(くじ)いたスキーヤーが、いつの間にかゴンドラ駅の近くまで下りていたと云う現象を体験しており、これも火星の騎士による奇跡なのではないかと話題になっている」

知佳は思わず「蓮!」と云った。蓮はペロッと舌を出す。

「なんだか変な話でしょ? 火星の騎士って、ほらあの、何だっけ、知佳がテレビで見ているアニメの、何かでしょ? それが助けてくれたとか、全然意味わかんないわよねぇ」

母は大層面白がっている様である。

「火星の騎士が白馬に来たから、白馬の騎士だって。なんだか笑っちゃうわ」

だとしたら、白馬の騎士は蓮だ。どっちの場合も、蓮の仕業である。

「白馬の騎士って、女の子の夢じゃないのか。あ、それは白馬の王子様か」

三科の父も面白がっている。

「まあ似たようなもんじゃない? でもいずれにしても、助けて貰ったのは男の人みたいよ。それに火星の騎士って女の子でしょ」

「あっ、そうなのか。なるほど、男女逆転版だな!」

蓮がケタケタと笑い出した。何だか知佳も可笑しくなって一緒に笑う。完太だけが話題に入れず、親や姉たちの笑う様を不思議そうに見ていた。

同じ頃、遠くハワイのホテルの一室で、矢張り同じネットニュースを見て盛り上がっている父子がいた。

「ほらほら、見ろよヒロ、これ、お前の好きな女の子たちのことらしいぞ」

「そんなんじゃにゃあて! 何度云ったらわかりゃあすの!」

澤田弘和、未だ八歳。それでも類稀なる治癒の力を以って、「ユウキ」と云うハンドルネームを使って、以前知佳や蓮たちと一緒に問題解決に当たった所謂チームメイトだ。父親に食って掛かる時だけ、何故だか名古屋弁が出る。

「まあそう云うなよ、ほら、何だっけ、知佳ちゃんと、蓮ちゃんか。それに都子さんだっけ? あの三人でやったらしいぞ。シンさんが云ってたんだ」

父親も異能者であり、嘗ての神田の後輩でもあった関係で、息子の異能や活動のことは好く理解している。「シンさん」と云うのが、神田のことだ。神田の下の名が真一郎なのである。

「なんだかよく解んないけど、何でそれが、白馬の王子様みたいになるのさ」

「いや、詳しいことは解んない。直接本人たちに聞きな」

「聞きたくったって、連絡手段無いもの」

「えーっ、詰めが甘いなぁ。そんなもの最初に確認しておくだろ」

「父さんと一緒にしないで」

「またまたぁ」

父親はにやにや笑っているが、息子の方はむっつりと不機嫌な表情である。EX部隊の仕事なら、自分も参加したかったと思っている。

「都子さん、次の案件は一緒になるって云ってた癖に……」

「そうなのか?」

「春だか夏だかって云ってたけど」

「それなら、緊急案件が割り込みで入ったってことじゃないのか? 依頼で成り立ってる仕事なんだし、春だか夏だか迄お仕事無しってのも、それはそれで拙いんじゃない?」

「そんなことは知らないよ」

八歳には難しい理屈かも知れない。彼は唯、仲間外れにされたような気がして寂しがっているだけなのだ。

また同じ頃、都内のアパートの一室で神田真一郎と田中昌夫が炬燵を挟んで向かい合っていた。こちらも如何やら、細かな案件を一つ片付けて、締めの会議をしているところの様である。

「と云う訳で、その記事の正体は蓮さんです」

「そうですか。――って、だからなんやねんて話ですが」

田中昌夫は、EX部隊では「クラウン」と名乗っている。元々バンドを遣っていた頃のステージネームがクラウン吉川で、その儘クラウンの名を使っているだけなのであるが、活動時にはロックミュージシャンの様なメイクをしたりするので、未だ未だ未練があるのかも知れない。滋賀出身の関西弁で、顎が異様に長い。

「しかし都子も無茶しよりましたな。あいつのそう云うところ、昔から治らんですなぁ」

「いや、僕は彼女の昔を知らないんですよ。クラウンさんの方が付き合い長いようですし」

「ゆうて数箇月の違いですわ。大阪でひらって、佐々本さんに引き渡したから、神田さんとは鳥渡対面が遅れてもうたんですわ」

「そうそう、係長――じゃなくて部長が突然連れて来て、いきなり時間止められたりとかしたんで、なんだかよく解らなかったんですよ、初対面。まあその後、ちゃんと紹介されましたけどね」

「聞いてまっせ。可成遣り込められてる云う話ですやん」

「いや、そんなことは――ない様な――ある様な――」

「どないやねん。まあ、くだくだしい所なんかはよう似てる思いますけどな」

「くだくだしい?」

「説明、解説、大好きですやん、二人とも。神田さんは理系で、都子は文系、ってだけで、遣ってる事同レベルでっせ」

「そ、そうなんですか……いやぁ自覚無いですが」

「でしょうな」

クラウンはカカっと笑った。

この日は雪も上がり、昼からは陽も出て来たので、知佳達は当初午前中で切り上げる心算だった予定を延長し、結局リフトが止まるまで目一杯スキーを堪能した。

「明日はリモートにするよ」

知佳の父はそんなことを云っていた。蓮の父はリモート勤務は出来ない様だが、車の中で寝ておくと云っていたので、まあ大丈夫なのだろう。

帰りにサービスエリアで夕食を取り、その後は三科の父が運転を頑張って無事帰宅した。先に柏崎父娘を送り届けてから、三科家へと帰って来る。子供達は車の中でたっぷり寝たので、少し元気だ。それでも風呂に入って歯を磨いて、布団に入ったら直ぐに意識が遠くなる。

「二人とも明日から学校だからね。ちゃんと起きてよ」

母の言葉も届いたのか如何か。二人ともあっと云う間に入眠して仕舞った。

この晩の知佳は夢の中でも、スキーの続きをしていた。白馬の斜面を先頭切って滑り下りる蓮は、何故か火星の騎士の衣装を着ていた。

(終わり)

二〇二四年(令和六年)、一月、八日、月曜日、先勝。