十字架

里蔵光

真一郎

(ようや)く追い詰めた。後一息だ。

真一郎は一旦立ち止まり、深呼吸をした。ここ(まで)長かった。たった一人で漸く此処(こゝ)辿(たど)り着いたのだ。無線機のイヤホンがザザと音を立てる。くぐもった声が真一郎を呼んでいる。

(えり)元のマイクに心()し口を近づけて、「スナック『コスモス』です。坂上を追い詰めました」と答える。

「突入するなよ。応援の到着を待て」

「了解」

そう答えた次の瞬間、裏手で派手な物音がした。

「裏から逃げられたかも知れません! 追います!」

無線機が何か云ったが聞こえなかった。真一郎がスナックの裏手に回ると、Tシャツに短パンで見るからに粗野な男――坂上が、色々な物を蹴飛(けと)ばしながら走り去って行くところだった。

「待て坂上!」

真一郎が追う。スナックの勝手口から、ママが心配そうに顔を出していた。ちらりと中を覗いたところ、(あか)いものが見えた。

「スナックに怪我人がいます! 対応願います!」

マイクに怒鳴りながら、坂上を追う。

「シン! 追うな!」

無線機が叫んでいるが、真一郎には届かない。一心不乱に坂上を追っている。追い詰めたと思ったのに全然詰めが甘かった。裏手は押さえていた(はず)だった。ドアが開かない様にバリケードを作っていたのに、簡単に突破されていた。坂上を見(くび)っていたのだ。

「くそ!」

結局見失って仕舞(しま)った。仕方なくスナックへ戻ると、相棒の澤田が到着していた。

「シンさん、無茶はしないでくださいよ」

「怪我人は」

「かすり傷ですよ。心配ありません」

「そうか」

何本もの割れたボトルが転がっているカウンターの奥で、(うずくま)っているママに声を掛ける。

「坂上の行きそうな(ところ)、知りませんか」

「コウちゃんは悪くないよ」

「洋子さん、あなた怪我させられたんでしょう」

「これは自分でやったの。ドジなのよね」

洋子ママと坂上は古い付き合いだ。坂上康太が中学生の頃から、このスナックに出入りしていたと聞く。当初は洋子が母親かと思ったが、そう云う訳でもないらしい。

「自分で付ける傷ではない様ですがね。――坂上は可成(かなり)危険な状態です。この(まゝ)放っておいたら、命を落とすかも知れません」

洋子はみるみる蒼褪(あおざ )めて、「コウちゃんを助けて! お願い、助けてあげて! あの子は悪くないんだよ!」と、真一郎に(すが)り付いた。

何処(どこ)に行ったか(わか)りますか」

「……わからない」

「洋子さん!」

無線機が鳴った。別の班が坂上を発見したらしい。

「すぐ行きます!」

洋子を澤田に任せて、真一郎はスナックを飛び出した。

坂上の罪状は今の所、詐欺、傷害、器物損壊と云ったところだ。未だ一線は越えていない。然し久万(くま)組からヒットマンが放たれているとも聞く。ヤツが一線を越えなくても取り返しの付かないことになる可能性はあるし、ヤツがヒットマンを返り討ちにして仕舞うことだってない訳ではない。(むし)ろ今はそっちの危険性の方が高いのではないか。

そんな思いに()き立てられながら、真一郎は街外れの商業ビルの、解体現場へと駆け付けた。こんなところで一体何をする心算(つもり)だ。足許(あしもと)瓦礫(が れき)だらけだし、上からも横からも鉄骨やら何かの電線やらが無節操に飛び出していて、危ないことこの上ない。迂闊(うかつ)に動き回れば傷だらけになりそうだ。

「むしろ好都合なのか」

真一郎が手を(かざ)すと、障害物がざあっと退()いて道が出来た。これは真一郎の特殊能力、念動力の為せる業だ。当然のことながら真一郎のこの能力を当てにして、彼はこの事案に配置されている。何しろ相手も同様の能力者なのだ。

(ひら)いた(みち)を進んで行くと、その背後は再び瓦礫に埋め尽くされていく。坂上が此処に居るのであれば、必ず何かしらの痕跡を残している筈だ。どんな小さなものも見逃すまいと、目を皿の様にして辺りを観察しながら進む。真一郎の様な能力者が進んだ後は、瓦礫が不自然に溜まっていたり偏っていたりする。そうした痕跡は真一郎だからこそ見分けがつく。如何(どう)も坂上は、崩れ掛けた廃屋の上階へ上がって行った様だ。上を見上げて、自分の体を念動力で持ち上げると、真一郎の体は垂直にすっと上昇した。

三階部分の鉄骨の上に足を置いた時、何処かで銃声の様な音が鳴り響いた。真一郎が身構えると、()ぐ近くで物音がした。その方に気を(つか)いながら、そっと音を立てない様に移動していると、大きめのコンクリートの塊が突然真一郎に向かって飛んで来た。咄嗟(とっさ)(かわ)すと同時に、その塊を念動力で受け止める。塊は空中で停止し、寛悠(ゆっくり)と自転している。

「坂上!」

真一郎が叫ぶと、また銃声が聞こえた。ヒットマンが来ているのかも知れない。そう思った瞬間、隙が生じた。停止していたコンクリートの塊は、真一郎の制御下から抜け出して明後日の方向に飛んで行き、そちらから悲鳴が聞こえて来た。

「しまった!」

駆け付けると、ライフルを構えた男がコンクリート塊の下敷きになっていた。しゃがみ込んで息を確かめると、未だ微かに反応がある。下にパトカーが停まっているのを確かめると、瓦礫をどかし、その男とライフルをパトカーの(そば)迄念動力で運んでやった。

「シン! 居るのか!」

下から係長の声が聞こえた。

「坂上は任せてください!」

「無茶をするな! シン!」

制止を無視して真一郎は坂上を探しに廃屋の中へと戻って行く。坂上は瓦礫の山の上で、仁王立ちして周囲を見下ろしていた。

「殺して()った、殺して遣ったぜ!」

坂上は興奮している。手近な瓦礫を小さく砕いて、自分の周りに衛星の様に(まと)っている。

「死んでねぇよ、虫の息だったがな。俺が助けて確保して遣ったよ」

「はぁん?」

坂上は真一郎をジロリと睨んだ。

「今なら未だ、罪状は軽い。今すぐ投降しろ!」

「俺が? この世界の頂点に立てるのに? 投降するとか? 意味不明だわ!」

ざあっと音を立てゝ、無数の石(つぶて)が真一郎目掛けて降り注ぐ。

「止めろ!」

右手を払う様にして、石礫を跳ね除ける。(しか)し間髪入れずに次の一団が飛来する。

「坂上! 抵抗するな! これ以上罪を重ねるな! お前の能力(ちから)はそんな事の為にあるんじゃない!」

場所を変え、攻撃を防ぎながら、真一郎は説得を続ける。

「うるせえ黙れ! 俺の能力は俺が好きに使う!」

「洋子さんのことも考えろ!」

「黙れぇえっ!」

坂上に(わず)かに隙が生じた。然し真一郎はそれに十分対応出来なかった。跳ね返した石礫の幾つかが、坂上の防御の隙を突いて届いて仕舞った。どす、どす、と不愉快な音がして、坂上の体がぐらりと揺れる。舞っていた石礫が一斉に床に降り注いだ。

「坂上!」

石塊(いしくれ)の雨を()(くぐ)りながら、真一郎は坂上に駆け寄った。

「お……まえ……警察か……」

「公安の神田真一郎だ! 坂上! (しっか)りしろ!」

胸に、腹に、大きな穴が空いている。(とて)も助かるものではない。無線機に向かって救護の要請をするが、果たして此処迄登って来れるものだろうか。

「くそう、何か、担架になるもの!」

真一郎は辺りを見渡すが、ゴロゴロとした石塊ぐらいしか見当たらない。

「おまえ……」

坂上が真一郎の腕を掴んだ。

「なんだ! 云いたいことがあるのか!」

「健介を……たの……む……」

ぎょろぎょろした目で必死に真一郎を見詰めてくる。

「坂上! 確りしろ! けんすけって誰だ!」

「……た……の……」

眼の光がすうっと消えて、掴んでいた腕がだらりと下がる。

「坂上ぃ!」

達也

菊池健介とは幼稚園の時からの腐れ縁だ。今時珍しい長屋の様な建物に、母親と兄弟達と、五人で住んで居る。貧乏なのだろうがそれを苦にしている様子もなく、毎日の様に達也を家に誘って来る。(かえ)って申し訳ない様な気持になるのだけど、屹度(きっと)寂しいのだろうなと思うから、無碍(むげ)に断ることも出来ない。

余り毎日家に行くので、達也の母親の方が気にして仕舞って、ある時達也にを持たせたことがある。洒落た洋菓子店の詰め合わせのカンカンだったのだけど、それを持参した時健介の母は鳥渡(ちょっと)嫌な顔をした。健介やその兄弟達はそんな母親の様子などお構いなしに、大喜びであっと云う間に空にして仕舞ったのだが、それでもそれ以来、おみやを持って行くことはしなくなった。子供心になんとなく(いや)な空気を感じたから。

健介の母親は夕方になると出掛けて、朝方帰って来ると云う。だから日中はずっと布団の中に居る。健介やその兄弟達と部屋の中でドタバタ遊んでいると怒鳴られるので、大抵は皆外に遊びに行く。親の監視が無い状態なので可成自由奔放に遊び回るのだけど、時々近所の恐ろしいオヤジに怒鳴り散らされる。でもそんな恐ろしいのはそのオヤジだけで、他の大人達は微妙な顔はするけど何も云わないので、(ほとん)どの場合は好き勝手に騒ぎまくっている。近所の鼻(つま)み者だったのだろうなと思うが、そんな事当時の当人達は知る(よし)もない。

時々チンピラ風の男が遣って来て、健介達に飴玉やらガムやらスナック菓子やらをくれた。達也も貰ったことがある。健介は「父ちゃん」と呼んでいたが、家には一切近寄らず、健介の母親に何の挨拶もしない儘帰って仕舞う。達也も(たま)に話し掛けられるが、迚も優しい口調で、いつもニコニコしている印象しかない。チンピラでも屹度下っ端の方なのだろうなと、子供心に感じていた。

「父ちゃんは世界を相手に戦ってるんだって」

健介はよくそんなことを云っていた。意味は解らなかった。

「世界だぜ、凄いだろ!」

自分の父親は犯罪者と戦っているらしい。警察官なのだ。しゅひぎむとか云って、余り話してくれないから、詳しくは知らないけど。そう云うと健介は眼をキラキラ輝かせた。「すげー、お前の父ちゃんも戦うんだ! 俺の父ちゃんとタッグ組んで悪人倒したりしないかな!」

しないと思う。なんとなく、どっちかと云うと敵対しそうな気がする。けどそれは云わないでおいた。

その日も健介と二人で遊んでいた。爆弾の玩具(おもちゃ)に火薬シートから一つ千切(ちぎ)って装填し、確り締めて放り投げると、地面に落ちて、パン! と鳴る。昭和の玩具らしいけど、一体何処から手に入れて来るのか判らない。こんな変な面白い我楽多を健介は沢山持っている。この爆弾の玩具は只々音が鳴るだけの単純なものなのだけど、サイズの割には結構(やかま)しい。喧しいのが愉しくて、何度も何度も放り投げては、鳴らして遊んでいたら、二人組の背広姿の男達が横を通り抜けて、健介の家に向かって行った。

「おい健介、お客さんみたいだぞ」

健介も振り返って、二人の客を背後から(じっ)と見詰めた。暫くすると健介の母親がだらしない格好で出て来て、二人組を家の中に入れた。

「なんだろうあいつら……敵かな、味方かな」

そう云いながら健介は、そっと家に近付いて行った。壁板が薄いので、中の話声は筒抜けだ。

「なんだい一体。あんたら警察だね。康太が何しようがウチとは関係ないよ」

母親の声が聞こえる。二人で壁にぴったり張り付いて、会話の続きを待つ。

「関係ないとは思いますが……然しこれはあいつの望みでもあるので」

聞き覚えのある声だった。

「父さん?」

先刻(さっき)は一緒に居た男の陰になって、よく見えなかったのだけど、確かに父親の声だった。

「え、達也の父ちゃんなのか? (いよいよ)タッグか!?

(いや)、そんな雰囲気ではなかった。

「なんだい勿体(もったい)ぶって。あたしは寝てたんだよ、夜の仕事なんだから勘弁してくれよ。警察に睨まれる様なことなんかしてないよ!」

「落ち着いて、確り聞いてください」

「なんだよおっかないね……あんた……え? まさか……」

そして父親は、最悪の事実を告げた。

健介が手に持っていた爆弾の玩具がするりと落ちて、足許で()ぜた。

「誰かいるのか!?

中から父親でない方の男が出てきた。

「子供です、二人!」

そいつはそう報告すると、健介と達也の様子を見比べた後、健介の前で屈んで顔を覗き込んだ。

「けんすけ、くんかな?」

健介は無言で、小さく(うなず)いた。

「健介君です!」

父親より先に、健介の母親が家から飛び出して来て、健介を乱暴に抱き締めた。そして声を立てゝ泣いた。健介も母親にしがみ付いて哭いた。

後から出て来た父親と目が合った。

「達也? ――おまえなんで」

「父さんこそ……」

「えっ、シンさんの息子さんですか?」

おろおろする若い男を挟んで、達也と父親は向かい合った儘、凍り付いていた。菊池母子の哭き声だけが、異様な迄に響き渡っていた。

公安第零課

坂上の死から(さかのぼ)ること三箇月程前、真一郎は赤城山を見上げる非公開の施設にいた。建物の殆どが山の中に埋まっており、露出している部分も鬱蒼(うっそう)と茂った木々に隠されて、其処(そこ)に在ると知らなければ決して辿り着ける様な場所ではない。そんな秘匿された施設の中で、真一郎は訓練を受けていた。

真一郎の所属している公安第零課は、公安関係者でも殆どの者が知らない、機密性の高い部署だ。課長は他の課との兼務で殆ど見掛けない。係長は部長クラスからの降格と噂されている佐々本、その下に真一郎と、その後輩の澤田。課内での能力者は真一郎と澤田だけだ。(しか)も澤田の能力は弱い治癒能力だけなので、実質この課の戦力は真一郎一人だけである。機密性以前に、弱小過ぎて誰も()らないのかも知れない。

その施設内の広い体育館の様な部屋で、真一郎は自動野球投球機(ピッチングマシーン)と向かい合っていた。ほんの五(メートル)程の距離に置かれた投球機からリズム良く放たれる硬球を、真一郎は念動力で弾き返している。弾かれた球は(すべ)て、投球機の脇に置かれたネットに当たって、その下に構えた(かご)の中へと納まって行く。

「こんな訓練続けていて、意味あるんですかね」

「さあな、何しろお前の様な能力者に()いての知見が、絶対的に足りていないんだ。思い付くことは何でもやるさ」

佐々本係長はそう云いながら、投球機に球を補充する。

機械にガタが来ている所為(せい)か、飛んで来る球の位置と速度は相当にばらつきがある。顔へ向かって飛んで来たかと思えば、手前でバウンドすることもある。回転の掛かり方にも(むら)があるので、バウンドした場合どちらへ跳ねるか予測は(ほぼ)不可能だ。然し今の所、全ての球を真一郎は正確に打ち返し、籠へと(ほう)り込んでいる。

「少しスピード上げるぞ」

投球機は普通、打者から十八米半程離して設置されるものだ。五米と云うのが(そもそも)異常なのだが、その上速度を上げるなど正気の沙汰ではない。然し真一郎は別に打撃をしている訳ではなく、飛来する障害物を念動力で弾いているだけだ。振り被った細い棒に当てるよりは遥かに楽な作業だと、本人は思っている。

スピードが上がることで、球筋に(やゝ)纏まりが出て来た。その(ため)こちらの方が対応し易い様だ。相変らず精確に球を籠へと送り続けていると、腹の辺りにずしんと衝撃を感じた。見ると、真っ赤に染まっている。

「いてっ! 何ですか!」

「隙あり、だな」

係長は投球機のスイッチを切った。真一郎は改めて己の腹部を確認する。

「うわぁ、真っ赤じゃないですか。これ私服ですよ。ペイント弾の塗料って、洗っても落ちないんですから……」

「銃弾は流石に対応出来ないか。するとこれがお前の弱点だな」

「冗談じゃないですよ!」

真一郎はシャツを脱ぎ捨てた。

「何で防弾ベストなんか着せたのかと思いましたよ。ずっと隙を狙ってましたね?」

「はは、まあな」

「知ってたら防げましたよ」

「それじゃあ意味ないな」

真一郎は悔しそうに、真っ赤に染まったシャツを見下ろした。

「係長、もう一度お願いします」

「もう撃たねぇぞ。不意打ちにならないからな」

「寧ろ乱射してくださいよ。二度とやられませんよ」

「んな危ねぇことが出来るか。お前になんかあったら俺の首が飛ぶわ」

「ペイント弾なんか当たったってちょっと痛いだけでしょ、実弾じゃあるまいし。それに、ちょっとした怪我ぐらいなら澤田に治して貰いますよ」

「ペイント弾だって安かねぇんだ、無駄打ち出来るかよ」

そう云うと佐々本は、鉄扉を重たそうに押し開けて立ち去った。真一郎は不服そうに染料塗れのシャツを拾うと、ひょいと肩に掛けて、そして投球機に視線を遣った時、背後に気配を感じて振り返るより(さき)に能力を使った。

先端に吸盤の付いた矢が、空中で停止していた。

「かかりちょぉ!」

「吸盤の風切りを察したかな。本当の矢なら行けたかもな」

立ち去った筈の佐々本が、通用口の陰からボウガンを提げて出て来た。

「本物でも止めましたよ!」

「どうだかなぁ……矢っ張り効果的な訓練は難しいな。どうすれば()いかまた考えとくわ」

今度こそ佐々本は、管理棟へと立ち去って仕舞った。

真一郎は納得がいかず、自分で投球機のスイッチを入れ直すと、自主練習を開始した。跳ね返す球を籠ではなく、直接投球機に返して、その日は終日延々と同じ訓練を続けていた。

これでも半年ほど前にこの訓練を開始した時と較べれば、可成上達はしているのだ。最初は一番遅い球速設定でも、十回に一回ぐらいの頻度で体に球を受けていた。自分に向かって飛んで来る物体に照準を合わせて、力を乗せて運動方向を変えさせると云うのは、当初それなりに難しい仕事だったのだ。それが今では、背後から飛んで来る矢だって停止させられる。方向を変えるだけではなく、速さ迄変えられるのだ。

飛んでいる物を横から叩いて落とすのは、物理的にも大したエネルギーは必要ない。格闘技でも相手の攻撃を正面から受けずに横へ流すのが基本だろう。方向を変えるだけなら少ないエネルギーで可能なのだ。然し加速や減速をさせるとなると、大いにエネルギーを消費する。()してや高速飛行物体を停止させるなんてのは、相当にエネルギーを要することなのだ。然し今の真一郎には、それが難なく(こな)せる。エネルギーの収支が如何(どう)なっているのかは()く解らない。感覚的には自分がエネルギーを与えてどうこうしている訳ではないと思うが、確信は無い。物理的にこの力が解明されている訳ではないし、公安で研究している様なこともないだろう。唯々(ただただ)戦力として使い物になる様に訓練しているだけだ。

翌日も同様の訓練を独りでしていると、佐々本が大きな袋を担いで遣って来た。

「おう、新しい玩具(おもちゃ)だぞ」

そう云って持って来た袋から軟球の様な物を取り出すと、投球機に放り込んだ。その「玩具」は、投球機から放たれると共に被膜が破れ、中から無数のゴム球が飛び出した。真一郎は完全に不意を突かれて、対応出来ずに殆どのゴム球を体で受け止めて仕舞った。

「なっ、何ですかこれ!」

「散弾のシミュレータだ、我ながら(うま)いこと行ったな。ほれ、未だ未だ有るぞ」

そう云うと佐々本は玩具の散弾を次々投球機に突っ込む。真一郎は初めの内こそ戸惑っていたものの、次第に要領を掴んだ様で、数分後には全弾弾き返せる様になっていた。

流石(さすが)だなぁ、直ぐに適応しやがる。欲を云うなら、余り方々に跳ね返さず、一定方向に弾いて貰えると有り難いな」

「無茶ですよ、弾くだけで精一杯です」

「でもなシン、考えてみろ。猟銃構えて立て()もられた時なんかにお前さんが対応したとして、相手がぶっ放した散弾を四方八方に弾かれなんかしたら、身内も犯人もハチの巣だ。そんなんは御免だぞ」

「そんなの僕だって御免ですよ!」

それからはコントロールに主眼を置いた訓練となった。一つ一つ飛んで来た時には幾らでも自由に制御出来ていたが、こうも一時(いっとき)に大量の球が飛来してくると、中々制御が追い付かなくなる。

この訓練は暫く続いた。一週間もすると或る程度制御が出来る様になって来て、七、八割方の球を回収袋に放り込める様になった。更に一週間経つと、九割九分は回収出来る様になっていた。然しそこからの精度は中々上がらなかった。何十何百と相手にしていると、如何(どう)しても一つ二つ取り溢しが出て仕舞う。

「シンよ、判ってるとは思うが、こいつは百パーセント出来る様にならないと駄目だ。たった一つの(こぼ)(だま)で、人命が失われるなんてことはあってはならない。絶対確実に、全数制御出来る様になれよ」

「判ってますよ……でもちょっと、休憩させてください」

真一郎は焦っていた。この儘ではこの能力を現場で使えない。求められている働きが出来ない。何とかしたいと思えば思う程、焦りがミスに繋がって仕舞う。落ち着かなければならないと判っているのだけど、如何しても気が()いて仕舞う。

「そうだな……鳥渡(ちょっと)別の訓練でも遣って、クールダウンするか」

佐々本はそう云うと、投球機のスイッチを切って散らばった球を回収し始めた。

上司がゴム球を纏めて布で包み、散弾を作り直している間、真一郎は自分を持ち上げる練習を始めた。靴紐を引っ張って空を飛ぶ、ではないけれど、自分を念動力で持ち上げるのは中々厄介な仕事だ。基準となる自分の視点が変わって仕舞うので、持ち上げると云う感覚に狂いが出て仕舞う。足を持ち上げようとすると足だけ上がって引っ繰り返って仕舞うし、胴を持ち上げようとすると脚がぶらぶらしてこれも姿勢が不安定になって仕舞う。体全体を持ち上げて重力を感じなくなると、上下の感覚も失われて、空中でくるくる回転して仕舞う。如何すれば安定して上手く空を飛べるのか、中々難しい課題である。

「右足が落ちる前に左足を出して、その左足が落ちる前に右足を出すんだよ」

佐々本がニヤニヤ笑いながらそんな冗談を云う。なんとなく悔しいので、その冗談を実現して遣ろうと思った。

「右足が落ちる前に――」と云いながら、自分の右足を空中に固定してみる。何か見えない階段のステップを踏んでいる様に、足を空中で固定することが出来た。

「左足を出して――」固定した右足に体重を掛けて、左足を更に上へと送り出す。

「その左足が落ちる前に――」出した左足を固定して、

「右足を出す」右足の固定を解除し、左足に体重を掛けて、右足を更に上へと送り出す。

「出来てんじゃねぇか」

云われて驚いた。こんな冗談みたいな手順で、空中の見えない階段を上ることが出来ていた。

「なんか判り掛けてきました」

そこから真一郎が空を飛べるようになる迄、そう時間は掛からなかった。

「見えない床を想定すると、中々巧いこと行けるようですね。コツ掴みました」

「そんな説明されたって俺にゃあ解らねぇがな。それって何か役に立つのかい」

「現場へ急行出来ますね」

「空なんか飛んで急行されたら、街中(まちじゅう)大騒ぎだな」

そう云って佐々本は、がははと笑った。

街中(まちなか)では()めておきます」真一郎も笑った。

「他にはそうですね、飛び降り自殺の救助とか、山岳遭難者の救助とか、高層ビル火災時の救助とか……」

「救助、救助って、段々警察の業務から離れて来てるぞ。レスキューにでも転職するか?」

「嫌ですよ、僕は警察官でいたいです」

「じゃあ警察業務内で活用出来る場面を考えとけ。他には何が出来る?」

「うーん、そうですね、川の水を持ち上げて火災のビルに掛けるとか」

「矢っ張り消防士だな、うん」

否々(いやいや)、違う、違う」

こんな調子で半分(じゃ)れ合いながらも、散弾以外の訓練は非常に順調に進んで行ったが、散弾訓練は結局、九割九分九厘と云ったところ留まりで、「完璧」のレベルには最後迄到達出来なかった。

喪失

健介の父親の凶報が(もたら)された日以来、達也は健介と連絡を絶っている。健介は忌引きで学校に来ていなかったし、通夜、葬式で家にも近寄り(がた)かった。本来なら弔意を表明しに行く()きなのだろうが、小学生の達也には何を如何すれば好いのか全く判らなかったし、会ったところで健介に何を云えば好いのかも判らなかった。謝る可きの様にも思うが、達也が謝ることなんか何もないとも思う。だから何を如何謝れば好いのかも判らない。だけど謝らないのも違う様な気がしてならない。健介には達也を責める権利がある様に思う。何を如何責められるのか、責められる可きなのか、何一つ想像出来ないのだけど。

まごまごしていたら、健介は本当に居なくなって仕舞った。学校に一度も来ない儘、菊池君は引っ越しましたと、担任が告げた。お金も無いのに、何処に引っ越すと云うのだろう。如何やって引っ越したと云うのだろう。実際には母親の実家に戻っただけなのだろうが、そんな単純な可能性にすら達也は思い至らなかった。唯なんだか、置いて行かれて仕舞った様な、裏切られた様な、見捨てられた様な、そんな気持ちばかり募って行った。

或る放課後、健介が住んで居た長屋に行ってみた。当然のことながら誰も住んでなんかおらず、開け放たれたドアからは何も無い室内が一目で見渡せた。こうして見ると実に狭いと思った。よくこんな所に、五人も住んで居たものだと思う。健介が一番上で、下に弟妹が居た。達也は余りちゃんと知らないのだが、多分男女二人ずつで、一番下の男の子は一歳にも満たない赤ん坊だったと思う。夜母親が出勤した後は、健介が赤ん坊の世話をしていたと聞いた記憶がある。

そんな生活感も、すっかり消え失せていた。壁板からは所々、外の光が漏れ差している。床にも天井にも、腐って空いた穴が散見している。雨の日には雨漏りもしていたのではないだろうか。本当に此処に住んで居たのだろうか。なんだか(すべ)てが、長い夢だった様な気がしてくる。

押入れの襖は継ぎ当てだらけで、その中に健介のテスト答案が混ざっていた。何でこんなものを補修に使うのかと思ったが、適当な紙さえ無いほど困窮していたのだろうか。それとも単に、手に取った紙を使ったと云うだけなのだろうか。(いず)れにしてもそれは、健介が此処に居た証に他ならなかった。夢ではなく現実だと、その答案が達也に訴え掛けて来る。

(そもそも)今時長屋なんて物が残って居るのが如何かしている。長屋なんて昭和の遺産だ。実際、菊池母子以外の入居者なんか居なかったのだ。他の部屋はずっと空き家だったし、端の部屋などは半分崩れ落ちている。健介達が居なくなって、完全に此処は廃墟になった。土地を遊ばせておくとも思えないので、直ぐに取り壊されるのではないかと思う。何ならその辺の柱をちょっと押せば、あっという間に崩壊して仕舞うのではないだろうか。

達也は手を伸ばし掛けて、()めた。そんなことない、と思うと同時に、自分の手で此処を壊したくない、とも思った。

靴の儘部屋に入る。畳の床は砂埃だらけで、迚もじゃないけど靴を脱ぐ気にはならない。(せん)迄人が住んで居た部屋だと云うのに、腰を下ろす気にもならない。部屋の中央迄進んで上を見上げる。照明がぶら下がっていた筈の電気コードが、だらりと垂れ下がっている。此処には何が付いていたか。蛍光灯なんて洒落たものが付いていただろうか。雨漏りする家の中でそんなもの付けられるだろうか。もしや裸電球ではなかったか。そもそもこの部屋はいつも薄暗くて、照明があるなんて思ったことも無かった。最初から何も付いていなかったかも知れない。

視線を落とすと、卓袱台(ちゃぶ だい)の跡らしい四つの小さな正方形が見つかった。それを取り囲む様に、大きなへこみと小さなへこみが、都合三つある。大きいのは母親の席、小さいのは健介と、すぐ下の妹のものだろう。次女はまだ小さく、跡が残るほどの重さも無かったのだ。母親も健介も妹も、いつも同じ場所に行儀よく座っていたのだな、と思った。家族で卓袱台を囲む光景が脳裏に浮かび、(はか)らずも涙が零れ落ちた。

「健介……ご免……」

小さく、誰にでもなく、呟いた。涙がぼろぼろと出た。何に就いて謝ったのかは好く判らないが、謝らなければ心が潰れそうだった。然し謝ってみてもその苦しさは消えなかった。

暫くそうして動けずに、静かに泣いていたが、(やが)て涙を拭うと、そっと部屋を出た。既に陽は傾き、空が紫と橙にグラデーションしていた。なんだか落ち着かない気持ちがして走って家に帰った。

「ただいま」

いつもより元気少な目で帰宅を告げると、いつもと違う声が応えた。

「おかえり」

父が居た。非番だろうか。非番の日は大抵寝ているので、こんな風に達也の帰宅を出迎えるのは珍しい。

達也は子供部屋でランドセルを下ろすと、机に向かった。勉強ではなく、漫画を読む為に。出来るだけ軽妙で中身の無い漫画を読みたかった。何も考えずに笑いたかった。抽斗(ひきだし)の中から何冊か取り出すと、机の上に積み上げて最初の一冊を開いた。そうしてその最初のページを、夕飯だよと呼ばれる迄ずっと眺めていた。

抜擢

真一郎が交番勤務をしていた頃、詐欺事件を扱ったことがあった。ケチな詐欺事件だった。知人経由で株式の取得を勧められて、お金を払ったら持ち逃げされたと云う様なもので、犯人は直ぐに逮捕された。真一郎は大した活躍はしていなかったが、逮捕された犯人を見た時に何か不思議な感覚を覚えた。理由も根拠も判らないのだが、その犯人が「念動力」を持っていると、漠然と感じたのだ。これはこの時初めて気付いた、真一郎のもう一つの能力だった。

その犯人――坂上康太は、念動力を持ってはいるが、未だ使ったことは無い様で、その為当然のことながら本人に自覚も無かった。そこ迄真一郎には判った。更に云うと、その潜在能力の程度迄把握出来た。何故判るのかは全く解らなかったが。

此奴(こいつ)にこの能力を気付かせてはならない、使わせてはならないと思ったが、如何すれば防げるのか迄は考えが及ばない。何も策が無い状態で、然し真一郎は唯(じっ)としていることが出来なかった。

坂上は逮捕が迅速だったこともあって、詐取した金銭に全く手を付けない状態で所持していた為、被害者に全額返還することが出来、それ(ゆえ)示談が成立して、起訴されることなく釈放された。その坂上の後を真一郎は尾けた。数ヶ月掛けて、住居や、出入りしている暴力団の事務所、内縁の妻の所在、その妻が勤めているスナック、そしてそのスナックのママに可愛がられているところ迄突き止めた。然しそれでも、如何アプローチす可きか、自分は何を為せば好いのかに就いては、全く無策の儘であった。唯、日増しに坂上の潜在能力が強まっていることだけは感じていて、その為焦りばかりが日々募って行った。この尾行は正規の業務の合間に個人的にしていると云う事情もあり、積極的な行動を取る理由付けも出来ずにいた。当然同僚や上官にも、一切の報告や相談が出来ない。先ず能力の説明からしなければならないのが億劫だった。

そうしてもたもたしている間に、事件は起きた。坂上が出入りしている久万組事務所内で何か問題を起こしたらしく、怒号が響き渡る中、けたたましい物音と共に坂上が正面のドアから転げ出して来た。続いて組員達が坂上を追い掛ける様に現れた。坂上と組員達は何処(どこ)かへと走り去って行ったが、最後にのそりと出て来た初老の男は、額から軽く出血していた。何かで擦った様な怪我の仕方だった。向かいのビルの非常階段からその様子を眺めていた真一郎は、坂上が遂に能力を使って仕舞ったのだと感じた。

その日はそれ以上深追いをせず、翌日スナックに様子を見に行った。坂上は大抵の場合そのスナックに入り浸っているので、今回も其処へ転がり込んでいるだろうと思ったのだが、その当ては外れた。代わりに組の構成員達と思われる者が何人か見受けられた。成程これでは、坂上も寄り付けないだろう。

女の所にも行ってみたが、其処も組員達が張っており、坂上の姿は無かった。勿論居宅にも帰っていない。そして何ヶ月もの間、坂上の行方は知れなかった。組員達が余りに彷徨(うろつ)いている為、県警の暴対もピリ付き出して、界隈の緊張感が高まって行く。その所為もあって事態は膠着した。

坂上が騒ぎを起こしてから八箇月、真一郎が坂上に目を付けてからであればそろそろ一年が経とうとしていた。そんな時、甲府の方でまたケチな詐欺を働いて、坂上が逮捕された。それを聞いた時、真一郎は先ず安堵した。詐欺で良かった、能力を使って暴力沙汰を起こしていなくて良かったと。然しそんな真一郎の想いを余所に、如何やら坂上は能力を使って留置所から脱走した。放っておけばまた示談で不起訴になったかも知れないのに、坂上はその機会を永久に失ったのだ。丁度その頃、坂上を探していた久万組の組員達が逮捕の報を聞き付けて、甲府署の周りを彷徨いていたらしい。坂上は脱走の際に、署員数名と組員数名を()ぎ倒している。如何やら暴行傷害と公務執行妨害のおまけが付いて仕舞った様だ。

坂上の能力がまた増大しているのだろうかと、真一郎は気が気ではなかった。何とかして坂上の行方を掴んで、現状を正確に把握しておきたい。そう思い続けている内に、なんとなく坂上の居る方向が判る様な気がしてきた。非番の日に真一郎は、勘を頼りに中央線に乗って、立川へ行った。駅を降りると真っ直ぐ一軒の民家へと向かった。表札には「菊池」とあった。坂上の内縁の妻の姓だ。要するに此処は、その女の実家なのだろう。明らかに、坂上の能力がその家屋の中に在るのを感じる。然しここで真一郎は首を傾げた。最後に坂上を見た時、詰まりあの組事務所から逃げて行った時から、坂上の能力は大して強くなっていない。何なら(やゝ)、弱くなっている気さえする。近くのバス停のベンチに腰を掛けた儘、真一郎は暫く坂上の様子を窺っていた。すると、坂上の能力が少し強くなった様に感じた。(なお)暫くその場で考えを巡らせながら観察をしていたが、そうしている間にも少しずつ少しずつ、坂上の能力が増大していくのを感じる。

真一郎はここで、一つの可能性に思い至った。自分の所為で坂上の能力が発達しているのではないだろうか。相性が好いのか悪いのか、真一郎の波長が坂上の波長を増幅する様に働いているらしく、全く自分の所為で坂上を怪物に仕立て上げて仕舞っているのではないかと。

そう思ったらもう、一時(いっとき)たりとこの場には居られないと思った。

仮説ではあるが、その可能性が少しでもある内は、自分は坂上に近付く可きではない。組事務所での一件も、自分に原因の半分位はあるのではないか。そうして真一郎は慌てゝ駅へ取って返すと、その儘帰宅した。遠くから感じる坂上の能力は、また少しずつ弱まって行く様な気がした。

この時以来真一郎は、ずっと坂上の能力を遥か遠方に認識し続けていた。他人の能力を分析する能力が発展し、能力者が何処に居るのかを可成遠くから感じ取れる様になったらしい。全く喧しい能力に目覚めて仕舞ったものである。その能力に依ると、能力者はこの関東圏内にも何人かいる様だった。中でも坂上の能力は、矢張(やは)り一番強い様だ。他の能力者達は皆極めて弱く、自分の能力に気付いてさえいない様である。

真一郎はこの察知能力を、自分に特有のものとは思っていなかった。何故だか能力者に標準のものと考え、坂上の方でも自分を認識しているのだろうと思っていたのだが、然し一度も坂上が自分を気にする素振りを見せないのは解せなかった。()しかしたら感度が弱くて、自分の位置迄は判らないのかも知れないとは思った。自分も最初はそうだったから。――だが、真一郎の分析能力には、坂上の分析能力が引っ掛からない。それが如何云うことなのかちゃんと理解していなかった。坂上は自分と同じ念動力を持っているのだから、当然自分と同じ分析能力もある筈で、然しそれが分析に掛からないのは、それが能力者に標準のもので、分析の対象となる様なものではないからなのだと、勝手に思い込んでいたのだ。

そんな都合の良い思い違いをしていたので、当然坂上は自分を認識しているのだろうと思っていた。そしてその思い込みは、時に真一郎に大胆な行動を取らせた。坂上に対して如何に身を隠そうとも無駄だと思ったのだ。そしてそれが係長の目に付いて仕舞うのも、当然の成り行きだった。

「シン、お前、坂上に何か思い入れでもあるのか?」

ある時鈴木係長にそう()かれた。軽い世間話の延長の様な訊き方だったが、真一郎は稍身構えて仕舞った。

「思い入れと云うか、あいつは俺と同類なので」

「なんだ? お前、詐欺の素質でもあるのか?」

「止してくださいよ、そう云うことじゃないです」

「じゃあ如何云うことだ」

面倒臭いなと、真一郎は思った。そこで、手っ取り早く係長の胸ポケットから、念動力でボールペンを抜いて見せた。係長は相当に驚いた顔をした。然しそれも一瞬で、次の瞬間には物凄い目付きで真一郎を睨んできた。

「坂上にもあるのか」

「ありますね」

「見たのか」

「と云うか、あいつにどんな能力がどの程度あるか、判るんです」

「ほう?」

係長は好いだけ真一郎を睨み付けた後、「このことは署員の誰にも云うな。その代わり、その能力を最大限生かせるようにしてやる」と云って、何処かへ出かけて仕舞った。

その時の真一郎には係長の言葉の意味が解らなかったが、それから僅か三日程で、直ぐに諒解することになった。

県警に呼び出され、署長室へ通されると、鈴木係長と署長の他に、見知らぬ男が待っていた。真一郎が部屋に入ると、係長がその男を紹介した。

「こちらは公安第零課の、佐々本係長だ」

「こ、公安?」真一郎は慌てて敬礼した。「第零課って、何ですか?」

「作ったんだ」

佐々本は人懐っこく笑いながら、そう云った。

「まあ作ったのは課長と、その上の連中だけどな。俺はほら、係長だから」

「は……はぁ」

今一事態が呑み込めない。

「来月からうちに来い。追って正式な辞令が出るが、まあそう云うことだ」

「えっ、おれ……自分が、公安ですか……でありますか」

「そう判り易く動揺するなよ。言葉遣いなんか適当で好いよ。どうせ日陰部署だ」

「え……ええ?」

「がっかりしたか? まあ仕方ないんだ、お前、能力者だろう? 鈴木係長からそう聞いてるぞ」

「はっ!」

「まあ、そういう部署だ」

超能力者部隊、と云うことだろうか。それならこの佐々本係長も。

「俺は無能力だけどな」佐々本はがははと笑った。「鳥渡(ちょっと)見せてくれないか」

「は?」

「お前さんの能力をさ」

「ええと……では……」

デモンストレーションなら、何か大きくて重そうな物を持ち上げるのが佳いかと思い、真一郎は部屋の隅にあるキャビネットを一つ浮かせて見せた。署長と鈴木係長が目を剥いて、うおお、と唸った。

「おお、好いじゃないか」佐々本は満面の笑みを浮かべていた。「元々、別の所で一人、能力者が見付かってゝな、そいつを有効に使える部署が欲しいなと思って、作って貰ったんだ。そしたら作った途端にお前が見付かったんだよ。だから今の所、兵隊は二人な」

なんだか非常に好い加減な話に聞こえた。「作った」とは。公安の課なんか、そんな気軽に新設出来たりするものなのだろうか。如何も話が胡散臭い。

「その顔は疑ってやがるな? まあ辞令が出たら、識れることだ」

「佐々本警視正はな、元々警察庁警備局の……」

「余計なことは云わんで良いですよ、署長さん。平たく云えば降格ですわ」

佐々本は再び、がははと笑った。成程、元々は課を作れる様な立場に居たのだろう。

「こんな益体(やくたい)も無い課を作った責任取って、係長にさせられたのさ。まあ自分のケツは自分で拭くしかないわな。――(あゝ)、そんな不景気な顔をせんでもよい、そんなに悪い所でもないぞ、ま、出来たばかりだがな」

「はぁ……いや、自分は、辞令には従うのみですが……」

「悪く思うなよ。お前さんの能力を当てにしているんだ。役に立ってくれ」

「は!」真一郎は再び敬礼した。

「まあそんなわけだ。こいつは貰っていくぜ」

佐々本は鈴木係長に向けて、そう云うと、部屋を出て行った。鈴木係長が佐々本に向かって最敬礼していた。役職は同じでも、階級が恐らく段違いなのだろう。真一郎は、自分が思い切り礼を欠いていた様な気がした。

不信

達也が空き家となった長屋に寄り道して帰ってきた日、父親は警察を辞めていた。辞めて如何するのかと思ったら、その儘直ぐにナントカ云う警備会社へ移籍(うつ)った。丸で辞める前から話が付いていたかの様だった。そして直ぐに単身赴任となり、家から父親の姿がなくなった。何処へ赴任したかは興味が無いので聞かなかった。云っていた気もするが忘れた。覚えたくもなかった。

健介の父親を殺したのは、自分の父だと思っている。誰から聞いた訳でもないし、何か証拠がある訳でもない、どの様な状況だったのかも知らないが、あの日健介達に知らせを届けに来た父親の態度は、それを物語っている気がした。確証が無いので明確に父を責めることは出来なかったが、それでも心は壁を作り、徐々に距離を置く様になった。

だから、単身赴任となって少しほっとした。

父はそれきり帰って来なくなった。単身赴任なんて大抵は数年で帰って来るもの、帰って来る当てがあるからこそ単身赴任なのだと思うけど、父親の場合五年経っても十年経っても一向に帰ることなく、盆暮れ正月にも家に寄り付かなかった。便りも無い。母とは連絡を取っていたのかも知れないが、達也には一切梨の礫で、自然と日常の意識から父親の存在は消失して行った。

何年かは何事もなく、普通の母子家庭の様にして過ごした。生活費は可成潤沢に送られてくるらしく、その為母親は専業主婦でいることが出来た点が普通の母子家庭とは異なったが、普通の母子家庭を知らないので、それが恵まれているのだと云う認識は無かった。

並の高校を出て並の大学へ進んだ。大学に入ると近所のコンビニでバイトを始めた。到って普通の大学生活だった。可もなく不可もなく、起伏も何もない日常を過ごしていた。そんな時、健介と再会した。

健介はコンビニの客として現れた。それを健介だと認識した時、心の古傷がずきんと傷んだ。

「おお? 達也か? こんなところでバイトしてたかぁ」

深夜のシフトで商品の陳列を直している時、唐突に背後から声を掛けられたのだ。振り向くと、何処かで見た顔があった。

「覚えてないか? 健介だよ!」

「おお! ええ? うわあ」

感嘆詞しか出なかった。下から上迄()め回し、そしてもう一度「おおお」と云った。

「人の言葉を発しろよ」健介は笑いながら、達也を小突いた。

「急に引っ越しちまったからな。ご免な」

何故か謝られた。ずっと謝りたかったのは達也の方なのに。

「お、おう、いや……俺こそご免」

「何がだよ」健介は笑う。

何がご免なのかは、矢張り上手く云えなかった。自分でも何を如何して謝っているのか理解出来ていないのだ。でも謝らずにはいられなかった。そんな漠然とした重圧から、この時やっと解放された気がした。

「今仕事中だからさ、そうだな、次の土曜は空いてるからさ――」

そして後日会う約束をして、その日は別れた。

土曜日、近所のファミリーレストランで、健介と落ち合った。健介は先に来ていて、窓際の席に陣取っていた。

「よう、来たな」

「おう」

注文を取りに来た店員にドリンクバーだけ頼んで、飲み物を取りに行った。席に戻ると、健介は窓の外を見詰めていた。

「なあ、覚えてるか?」

座り掛けた達也の方も見ずに、健介は切り出す。

「あの辺りだったんだよな」

「あゝ……」

健介が見ていたのは、昔彼の長屋が在った辺りだ。今では車の修理工場になっている。この席からはその辺りがよく見えた。

「襤褸っちい家だったなぁ――俺あの後さ、お袋の実家に引っ越したんだよね。立川の」

健介は勝手に語り始めた。母親の両親が立川に住んで居て、其処へ転がり込む様な形で同居を始めたのだそうだ。母親の実家はそこ迄貧乏ではなかったが、特別裕福と云う訳でもなく。結局母親は働きに出なければならなかったのだそうだ。

成程これが普通の母子家庭だ、と達也は気付いた。達也の父親はちゃんと生きていて、家に稼ぎを入れてくれるから、自分の母親は専業主婦でいられるのだ。そんなことに今迄気付かなかった。気付きたくなかった。父親の御蔭で生きていられるなんて、そんなこと知りたくなかった。

「俺の父ちゃんさ、結構な犯罪者だったんだなって、最近やっと識ったんだ」

そして話題は健介の父へと及んでいった。如何(どう)にも居心地が悪かった。自分の父親が殺したのだ。健介はそれを知っているのだろうか。識っていて話しているのだろうか。健介は殆ど達也に視線を向けず、外ばかり見ながら話している。

「なんて云うの? サイコキネシス?」

何の話だ。

「父ちゃんさ、思っただけで物動かせる力、ええと、そう、超能力、それがあったんだって」

「はあ?」

唐突に話が見えなくなった。漫画かアニメの話でもしているのか。SF小説か。

「達也聞いてないか? お前の父ちゃんもだろ?」

「はぁあ? お前何云って……」

「え、マジで知らない?」

健介は恐らく初めて、達也の目を凝と見詰めた。そこからの話は(およ)そ現実味が無かった。超能力だとか、サイコキネシスだとか、全く如何かしている。

「云われてみると、前に一度だけ見たことあったなぁって、思い出したんだ。父ちゃんが長屋の家にフラって来た時にさ、酔っ払ってたんだと思うけど、すげえもん見せてやるとか云って、その辺の石ころふわふわ浮かせてた」

「マジで何云って……」

「あんとき達也居なかったかなぁ? 俺それ見て、すげーって思って。これで世界と戦うんだーって」

「世界と――」

手品だ。達也は思い出した。健介の父親が来て、なんか陳腐な手品をして帰って行ったことがあった。その辺の石ころをぷかぷか浮かせていた。タネとか判らないけど、糸かなんかで釣っていたのではないのか。

「あれは手品だろ」

「ちげーし!」

健介はムキになって否定した。

「お前マジか! お前の父ちゃんもだろ! (そもそも)その力があったから、俺等の父ちゃんは戦って――」

健介は、父親の死んだ理由を知っていた。達也が知らない様な詳細迄識っていた。

「ちゃんと警察から説明があったんだよ。なんかお偉いさんからさ。父ちゃんが石ころ沢山集めて、お前の親父に浴びせ掛けたんだと。で、お前の父ちゃんはそれを弾き返して、それが父ちゃんに当たってさ」

「嘘だろ!」

思わず大声を上げて席を立った。

「お前父ちゃんから何も聞いてないのかよ……」

健介は憐れむ様な眼で達也を見上げていた。理解が全く追い付いていない。なんだ超能力って。何の話だ。

「あのさ、誤解して欲しくないんだけど、俺別に、お前やお前の父ちゃん恨んでないからな」

「え」

「悪いのは俺の父ちゃんなんだ。お前の父ちゃんは警察なんだし、職務の中でのことなんだろうし、何なら正当防衛だろ。事故だよ、事故」

「そうじゃないだろ……」

「そうなんだよ」

「何云ってんだよ、なんでそんなに聞き分け好いんだよ! 俺の親父がお前の父ちゃん殺したのは事実だろ、それ赦してどうすんだよ!」

「達也何云ってんだ。赦すとか赦さないとかじゃないだろ。てゆうか恨んでどうすんだよ、恨んだって何もならねぇよ」

「お前の親父だろぉ?」

「そうだよ、悪人のな」

二人とも沈黙した。周りの客がこちらを見ている様だった。

「あのさ、それ以前に……超能力ってお前……」

「あー、その話は好いや、忘れて。お前の父ちゃんが話してないなら、俺も云うべきじゃなかったわ。ご免な」

次に何を云えば好いのか判らなくなって黙っていると、健介は立ち上がって伝票に手を伸ばした。

「なんかご免な。此処俺が払っとくわ」

「いや、いいよ。一緒に出よ」

「そうか」

二人はレジで別々に会計をすると、ファミレスを出た。

「悪かったな、混乱させちまって。俺さ、工場で働きながらこの辺のワンルームに住んでるから。またいつでも飯食おうぜ」

「ああ……俺も大声出して悪かった。なんか、色々聞いて訳解んないから、次迄に頭冷やしとくわ」

そう云って二人は別れた。然し達也はそれ以降、健介と連絡を取ろうとはしなかった。健介も二度とコンビニに来店しなかった。

帰宅後、母親になんとなく話題を振ってみたが、如何やら母親も、超能力だなんだと云う話は知らない様だった。何かのアニメの話と思われた様なので、適当にお茶を濁しておいた。

父親に会いたかった。恋しい寂しいと云う親族の情ではなく、ちゃんと話を聞きたかった。何をしてきたのか、何を隠しているのか。超能力とは何なのか。今どこで何をしているのか。ちゃんと聞いてちゃんと糾弾したかった。本当のことを洗い浚い話して欲しかった。

然しもう十年近くも父親と連絡を取っていない。今更母親に訊くのも気が引ける。と云うか訊きたくない。父親のことを気に掛けているなどと思われたくない。

そんな感じで悶々としていた或る日、学食で独りぽつんと若布(わかめ)蕎麦(そば)を啜っていたら、声を掛けられた。

「ワカメ好きなの?」

そう云ってその男は、月見蕎麦を達也の正面席に置いて、其処へ座った。

「いつも独りで食べてるよね。何年生?」

見たことのない男だった。軽薄な笑みを浮かべて、自棄(やけ)に馴れ馴れしい。

「僕は此処のOBでね、山田って云います。山田誠治。せいじって呼んで」

そしてより一層軽薄に笑った。如何も胡散臭い笑顔なので、徹底して無視することにした。

誠治は構わず話し掛けて来る。

「友達――と云うか後輩とね、此処で待ち合わせしてたんだけど、如何もすっぽかされたみたいでさ。参っちゃうよね。約束守れっつうの。――そうだ、知ってる? 此処の蕎麦って、長野から態々(わざわざ)取り寄せてる、本場物の信州蕎麦なんだって。(しか)も十割! 美味しい訳だよね。そのワカメもさ、あれだよ、三陸、岩手の三陸若布使ってんの。で、この月見は烏骨鶏(う こっけい)の卵!」

「いや流石に……」

つい口を挟んで仕舞った。ここ迄明白(あからさま)な出鱈目を並べられては、流石に黙って聞いていられない。

「あれ、バレた?」

誠治はぺろりと舌を出した。

「君は何かサークルとか入ってるの?」

「いえ……何も」

「そうかぁ、じゃあさあ、バイトしてみない? あのね、あんまり時給は高くないんだけど、凄い簡単な日雇いバイトでさ。実は人手が足りなくて、今日はその、後輩が遣ってくれるってんで説明しに来たんだけど、何か逃げられちゃったみたいで。君、好い人そうだし、暇そうだし、どうかなーって」

先刻からペラペラ喋ってばかりいて、些っとも蕎麦を食べていない。信州十割の烏骨鶏月見蕎麦は、すっかり伸びて玉子は固まり掛けて、そして恐らく冷めて仕舞っている。達也は蕎麦(つゆ)を飲み干して鉢を机に置くと、改めて誠治を見た。相変らずニコニコしている。

「食べないんですか?」

「食べるよ! でもさ、バイトの方が気になっちゃって……わあ、すっかり伸びちゃったな」

そう云いながら誠治は漸く蕎麦に箸を付けた。

「名前訊いても好いかな?」

蕎麦を啜りながらもお喋りは止まらない。

「神田です」

無視しようと思っていたのに、答えて仕舞った。

「じゃあ神田君、バイトの説明するね」

未だ遣るとも云っていないのに、一方的に説明を始めた。然し健介と父親のことでぐちゃぐちゃしていた達也の心に、何故か誠治の声は良く馴染み、スルスルと入り込んで来る。なんとなくそれが心地良く、いつしか誠治の話に耳を傾けていた。バイトをする心算は全くなかったが。

バイトとは、車の運転手だった。何処其処(どこそこ)迄運転して、其処で暫く待機して、また帰って来ると云うだけのもので、時給千円と云われた。

「しませんよ」

「やっぱ安いよね。時給はもう少し上げられる様に、頼んでみるよ」

「そうじゃなくて、僕免許持ってないので」

「あ、そうかぁ……じゃあ、如何しようかな」

その日、コンビニの夜勤入ってるので。夜勤迄は寝てたいし。済みません」

「そうかそうか、ま、しょうがないか。他当たるわ」

そう云うと誠治は、空になった鉢を持って席を立った。

「またなんかあったら声掛けさせてもらうね。以後よろしく」

手を差し出すので、握り返した。何の握手だろうと思ったけど、して仕舞ってから鳥渡後悔した。握手をする習慣なんか無い癖に、勢いに流されて仕舞ったのだ。これで何かを約束したことになって仕舞うのだろうかと、稍心配になった。

誰だったんだ」

誠治が去ってから、達也は独り呟いた。

端緒

真一郎が初めて能力を使ったのは、高校生の頃だった。

下校中だったか、余り詳しいシチュエーションは覚えていないが、自動販売機でジュースを買おうとした時に、五百円玉を落とした。大きく幅の厚い硬貨は、非常に安定した姿勢でコロコロと転がり続け、側溝の僅かに空いた隙間へと向かって行った。ダメだ! 落ちるな! と思ったら、た。

丸で穴がガラス板で塞がれてでもいるかの様に、その上に停まっていた。否、正確には、其処にぷかりと浮かんだ状態で、最前迄の回転運動を続けていた。

拾いに行ったら硬貨の方から掌へ吸い付いて来た。その時は何が起きているのか全く呑み込めなかった。能力を使ったのはそれが初めてだった。

それを自分の能力だと自覚したのは、それから何年も後のことである。折り畳みのキックスケーターが流行り出し、街中での無謀な乗り方が問題となり始めていた頃だったと思う。当時は大学を出て、地元の小さな金属加工の工場に設計師として就職していた。結婚もしたばかりで、妻は子供を身籠っていた。この時も帰宅途中だったと思うのだが、真一郎は非常に不安定にふらつきながらも相当のスピードで疾駆するそれを目撃した。歩道と車道の区別の曖昧な生活道路で、真一郎の直ぐ脇を追い越して行ったのだ。余りに間際を擦り抜けられた為、吃驚(びっくり)してスケーターを睨み付けたら、ぴたっと停まって、乗っていた男がつんのめって派手に転んだ。そのことに更に驚いて、無意識に手を差し出したら、その男は地面に顔を打ち付ける直前で停止した。

唖然としていると、男は地面に手を突いて体勢を立て直す。その横でスケーターは、何故だか倒れることなく、綺麗に立った儘であった。キックスケーターと云うのは普通自立するものではない。自転車と違ってスタンドの様な物も無いと思う。然し男はそこ迄考えが及んでいないのか、その不思議なキックスケーターに乗って改めて漕ぎ出そうとするのだが、如何も様子が奇怪(おか)しい。スケーターがピクリとも動かなくなっているのだ。その時真一郎は、差し出していない方の手を固く握り締めていたことを自覚し、力を抜くと、スケーターが急に動いて男は再び転び、今度はスケーターも音を立てゝ倒れた。

一つの可能性が頭に(ひらめ)いたが、迚も真面(まとも)な考えとは思えなかった。そんなことがあるだろうか。信じられない。それでも真坂(ま さか)と思いつつ、倒れたスケーター起きろと思ったら、勝手に起き上がった。もうこの時点で男は腰が抜けている。お構いなしに、スケーターが一人で走る光景をイメージしたら、真一郎の考えた通りに走り回った。右折も左折も、後退さえ思いの儘だった。そして真一郎は確信するよりなかった。自分に変な能力が芽生えたのだと云うことを。

キックスケーターの持ち主は、何か訳の解らないことを叫びながら、走り去って仕舞った。置き去りにされたスケーターを如何したものかと思ったが、後で持ち主が取りに来るかも知れないと思い、道の端に寄せて塀に立て掛けておいた。余り悪いことをしたと云う自覚は無かったが、なんとなく後味が悪かった。

キックスケーターはそれから一ヶ月程其処に置かれた儘だったが、いつの間にか無くなっていた。本人が取りに来たのか、それとも処分されたのかは、定かではない。

この出来事があってから、真一郎は能力を磨く為、こっそりと練習をする様になった。使っている内に力加減や微妙な制御が出来る様になって行くので、楽しくて仕方なかった。大きな物、小さな物、固体、液体、気体に至る迄、様々な物で試し、練習を重ねた。但し友人はおろか、親兄弟にも、妻にさえ、この能力のことは徹底的に秘密にした。変に頼られたり当てにされたりしたら面倒臭い、と思ったからだ。変な目で見られるとか、怖がられるとか、そういう心配は何故だかしなかった。

同時に、この能力を他人の為に役立てたいとも思った。頼られるのは面倒だが、自分から(たす)けるのならば抵抗がない。要は相手都合で依存されるのではなく、飽く迄自分が主導権を持って、能力、体力の及ぶ範囲内で行動したいのだ。それを実現する為には今の職を辞して、警察官を目指そうと思った。警察官になって具体的にどう役立てるのか迄は、考えていなかったが。

後先考えず妻に転職したいと打ち明けた時、妻は不安そうな顔をしたけれど、反対はされなかった。したい様に、遣りたい様にと云われた。唯、子供が産まれて、せめてお襁褓(むつ)が取れる位迄は待って貰えないかと懇願された。妻の不安も理解出来たので、暫くは今の仕事を継続することにした。但し能力の自主訓練だけは、欠かさなかった。

子供が幼稚園に上がる直前位に、お襁褓が取れたので、警察官採用試験を受けた。思い立ってからその日迄、十分過ぎる程に準備をして来た御蔭で、難なく合格することが出来た。合格通知を貰って、工場を辞めた。

崩壊

その日達也は、久しぶりの夜勤シフトでコンビニに居た。其処へ健介が駆け込んできた。

「たっ、たつや! 助けて!」

物凄い勢いで入店すると、真っ直ぐレジの達也の(もと)迄駆け寄り、真っ青な顔で諤々(がくがく)震えながら(すが)って来た。達也は只々吃驚(びっくり)して、何事かと問い(たゞ)してみたが、一向に要領を得ない。

「あいつらが来る、匿って! 俺を! 達也!」

仕方なく健介をバックヤードに押し込んだ。(じき)に表がガヤガヤと騒がしくなった。チンピラ風の連中が複数人、何か怒鳴りながら行ったり来たりしている。達也は何時でも通報出来る様、非常ボタンに手を掛けた儘身構えていたが、チンピラ達は入店して来る様なことはなく、次第に声が遠ざかって行った。

そしてバックヤードで何か大きな物音がした。何事かと見に行くと、健介が床に突っ伏していた。

「えっ、おい! 健介!」

慌てて駆け寄って抱き起すと、ぬるりとした。健介の体は達也の手から滑り落ち、床に当たってゴトンと音を立てた。達也の手はべったりと真っ赤に染まっていた。

「えっ……ええええ! えええええええ!」

達也は腰を抜かして、その場にへたり込んだ。その時、誰かが店内からバックヤードの中へ向かって声を掛けた。

「どうしましたか!」

その人物はその場の様子を見ると、電話を掛け始めた。

「もしもし! 人が倒れて、出血が(ひど)いので、救急車を!」

そしてコンビニの場所と店名を正確に伝えた。

! だよね!」

入り口から足を一歩踏み込んだ状態で、その男は達也の名を呼んだ。半ば放心した状態で見上げると、それは誠治だった。

「大丈夫? 立てる? その人、生きてるの?」

「あぁああ、ああああ! せいじさ……あああああ!」

誠治は見兼ねて、遂にバックヤードへと入って来ると、達也の横に付いた。

「大丈夫、救急車呼んだから。何があったの? この人知り合い? コンビニの人?」

達也は頭を縦や横に振って、辛うじて誠治の問いに答えていた。

「健介が……なんで……ええええ、あああああ!」

程なく救急車が到着し、救急隊員がバタバタと入室して来た。そして健介を一目見て、何やら仲間内で言葉を交わし、何処かへ電話を掛けた。直ぐにサイレンの音と共にパトカーが来て、現場検証が始まった。

全く悪夢でしかなかった。裏口にピッキングされた形跡があり、賊は其処から侵入して、ナイフで健介を殺害したのだそうだ。何故健介が。何故居所が。真っ直ぐ迷わず此処へ来て、手際よく始末して、殆ど部屋も荒らさずに。――誰が。如何して。

ずっと側には誠治が付いていてくれた。達也の譫言(うわごと)の様な訳の解らない言葉を、一つ一つ丁寧に聞いてくれた。泣きじゃくる達也の肩を抱いて、震える手を(しっか)りと握ってくれた。警察の事情聴取の間も、ずっと其処に居てくれた。

「辛いよね、悲しいよね、大切な人奪われて。僕が付いてるよ。犯人早く捕まると好いね。僕に出来ることなら何でもするよ」

達也は誠治の胸で泣いていた。

「僕らは弱くない。屹度やれるよ。後悔させてやろうぜ。僕らは強いんだ」

何を云われているのかは好く判らなかったが、誠治の声はスルスルと心に入って来る。

「犯人に復讐する方法がある。そう云うのが得意な知り合いがいるんだ」

囁く様な声で、誠治は達也の心の隙間を埋めて来る。

「出来るよね」

達也は頷いていた。

久しぶりに父親を見た。もう警察なんかじゃない癖に、健介の告別式に来ていた。

「坂上……済まなかった。約束守れなかった……」

父は祭壇の健介を見ながら、如何やらその父親に向かって語りかけていた。

「シン、お前の所為じゃねぇよ。お前はちゃんと責任果たしたよ」

「係長、俺何もしてないんですよ」

「係長じゃねぇ。部長だよ」

父は隣の人物と、そんな会話を交わしている。如何も上司か何かの様だ。その後二人は健介の母親に頭を下げ、去って行った。健介の母はすっかり憔悴し切っていて、傍目(はため)にも気の毒な程(やつ)れて、生気を失っていた。

達也は父親と言葉を交わす気にもならなかったから、出食わさない様にコソコソと逃げ回っていた。物陰から見張っていたら、誠治に声を掛けられた。

「達也君、如何したの? 誰か尾けてるの? なんと云うか、凄い不審人物だよ、君」

「あ、いや――親父なんですけど、会いたくなくて……」

「何かあった?」

誠治は声のトーンを落とした。達也はちょっと躊躇したが、結局話した。健介とのこと。父親のしたこと。父親に対する感情。

「超能力?」

誠治は疑わしそうに達也を見た。

「あ、それは俺も、よく解らないんですけど――健介が云うには――」

達也も半信半疑なので、説明は胡散臭くなる。誠治は興味なさげに、ふうん、と云っただけだった。

「中々大変な半生だね。身の回りでそんなに人が死ぬなんて……あ、気に障ったらゴメン」

「いえ」

「健介君は、宇佐組の人間に殺られたんだって聞いたよ。健介君のお父さんが関わっていたのは、久万組でしょう。何か対立とか関係あるのかな」

「はぁ……」

「お父さんもその辺りちゃんと解決しておいてくれゝば……あ、ごめん、僕が云える様なことじゃないよね」

「好いんです。その通りだと思います」

「でも……」

「親父が発端なんです。みんな親父の所為なんです」

達也の目に涙が滲んだ。誠治はそれを無表情に見詰めていた。そして不思議なトーンで、達也の心に染み入る様に囁いた。

「あのさ……鳥渡手伝って欲しいことがあるんだけど」

この時誠治は、バイトとは云わなかった。それは、健介を殺した犯人に対する報復の、片棒担ぎの様な仕事だった。達也が直接手を下す訳ではなかったが、多分拳銃を、右から左へ運ばされた。それで十万円貰った。そして犯人と云われる男は、達也の目の前で始末された。

それが真実、犯人だったのかどうか、達也は知らない。然しその男は顔の真ん中を撃ち抜かれて、海へと沈められた。その一部始終を、車の中から見せられた。もう達也は、後戻り出来なかった。

然し達也には、後戻りをしたいなんて気持ちは無かった。達也は信じていたのだ。健介を殺した犯人が、誠治の仲間に依って捕らえられ、そして処刑されたのだと。自分や誠治が何かしら犯罪を犯している、と云う認識は無かった。健介を殺した奴が死ぬのは当然だと思った。

「シン、落ち着けよ」

「解ってますよ」

真一郎は、忠国警備横浜支部の会議室で、佐々本と膝を突き合わせていた。

「今焦っても何もならねぇ。達也君が一体如何(どう)云う経路で関わっていたのかは判らねぇけどな。まあ大して違法なことをしたわけでもないし、暫くは様子を見るしかねぇ訳だ」

「解ってますよ」

「健介君も、今回のチンピラも、如何も宇佐組の手に掛かったみたいなんだよな。その二つが関係あるのか、無関係なのか……なんか間で暗躍しているヤツが居るような感じなんだが、未だに尻尾が掴めねぇ」

「解ってますよ」

佐々本は真一郎を見た。

「お前聞いてないだろ」

「解ってますよ」

「だめだこりゃ」

佐々本は天井を仰いで、背(もた)れに身を沈めた。暫くの沈黙の後、佐々本はのそりと起き上がって別の話題を振った。

「ところでシンよ、例の件だけどな。澤田と連絡が付いたから一遍行って来てくれや」

真一郎は伏せがちだった顔を上げ、佐々本を見た。

「えっ……あいつの(せがれ)は確か、未だ七歳ですよ。大丈夫なんですか?」

「澤田は大丈夫そうなこと云ってたがなぁ……まあその確認も含めて、行ってくれ」

「ドリーマーは田中君で好いですよね」

「あのパンクロッカーな。良い人材だよな、あのメイクさえなければ尚良し、なんだがな」

「透視か転送か読心辺りが居れば、もう少し遣り易くなるんですけどね」

「その辺は任せるよ。まあ本番迄は未だ半年ぐらいある。じっくり探してくれ」

「読心は面白そうな属性の子が居るみたいなんですけどね。未だ未発達で、鳥渡探し(にく)いんですが。あと、転送かも知れないのが……これはもっと未熟なんで、もう少し待ってから判断します」

「お前が近くに居れば、能力も発達するんだろ? 頑張って導いてやれよ」

「そんな無責任な。能力に目覚めたら目覚めたで、その子の人生狂わしちゃうかも知れないのに」

「だからお前が居て、俺が居るんだろ。責任は(しっか)り取らないとな。その辺も含めて、頼んだぞ」

「かかりちょぉ……」

「部長だよ」

そして佐々本は、がははと笑った。

裏面

「健介君? だっけか? 彼には可哀想なことしたな」

「殺っといてよく云うぜ。あそこ迄するこたぁなかったんだ」

「でも御蔭で、コロッと落ちたぜ」

「あんな子供何に使うつもりだよ」

「あんな子供の方が使い道豊富だろ。親に反感持ってる奴は扱いやすいよ」

「まあうちの組は、金輪際あんたとは遊ばねぇからな」

「いいよ、いいよ、もう十分、楽しませてもらったから」

誠治はニタリと冷徹な笑みを浮かべた。

(終わり)

二〇二三年(令和五年)、十月、一日、日曜日、赤口。

改稿、二〇二四年(令和六年)、五月、六日、月曜日、赤口。