金   沢

里蔵 光

平成七年の春、六歳年上の藤島と云う友人と連れ立って、石川県金沢市へ旅行した。何の特別な想いが其処にあった訳でも莫く、只旅行をしたいと思って居た矢先、藤島君が仕事の取材だかで金沢へ旅行に行くと云うので、便乘して尾いて行ったのだ。財布に五、六万円突っ込んで、荷物を鞄にぎゅうぎゅう詰め込み、其れ迄余り旅行などはした事が莫かった爲、多少わくわくと胸躍らせ、待ち合わせの松戸駅に着いたのだが、時間になっても彼は中々現れなかった。私は昔から、他人(ひと)に待たされるのには慣れており、一、二時間程ならば平気な顔をして居られるのであるが、此の日は隨分長いこと待たされ、流石の私も苛々(いらいら)して來て、藤島君に電話を掛けると、如何(どう)やら私が出発の日を一日間違えて居た様で、彼が笑うので、私もヘラヘラとだらし莫く笑った。内心、恥ずかしくて堪らなかった。私は何時でも、恥を(さら)して歩いて居るのだが、此の日ばかりは流石に、顔から火の出る思いであった。私の此の失敗を知るのは藤島君丈であるのだが、然し天下万民に間抜け面を晒して歩いて居た様で、堪らなかったのである。其の日は其の儘家へ引き返すのも莫迦々々しく、藤島君に無理を云って、彼の家へ這々(ほうほう)の体で逃げ込み、一晩世話になった。

翌日の夕刻、常磐線で上野へ出て、夜行に乘り、金沢駅へ向かった。私は居眠りが特技なのであるが、電車の倚子は窮屈で、流石に寝付けず、夜中に何度か目を覚ました。着く頃には体中がミシミシ云って居たのだが、金沢の町へ降り立つと同時に、そんな不快感は一遍に吹き飛び、初めて嗅ぐ金沢の匂いに、暫し立ち尽くした。――否、こんな莫迦々々しい、芝居掛かった事を書くのはよそう、白状するなら、実際私は、幻滅して居たのだ。私はもっと、田舎臭い所と断じて居た。然し如何だ、此の町は。立派な、ピカピカの駅舎に、立派な地下道、広い駅前ロータリー、田舎の匂いどころか、私の最も忌み嫌う、都会の匂いさえ漂って居る。駅前の交通量は甚だしく、隅々まで舗装道路が行き届いて居る様である。更にみっともない事には、観光客を意識した、変な化粧さえして居る気がする。もっと朴訥とした町が()い。もっと不便でも好いから、もっと田舎であって欲しいのだ。然し仕方あるまい。四十七都道府県、県庁所在地がそんなに田舎であるような所は、最早何処を捜しても莫いのであろう。寂しいが、仕方ないのである。此れが、私達の生活を豊かにして呉れた、日本の進化の結果なのだ。怨んでは、不可い。私とて、其の進化に隨分と恩恵を受けて暮らして居るのだから。

其の日はビジネスホテルに泊まる心算(つもり)で居たのだが、朝早く、未だ受付を開始して居ないので、私達は賑やかな街中を通って、野町駅迄歩いた。藤島君の取材とは、此の北陸鉄道の終点、加賀一宮迄行って、白山(しらやま)()め神社に在る古代日本の刀剣を見て來る事である。道中私は、(くしゃみ)が矢鱈に出た。花粉症の様なのであるが、如何も右の鼻ばかりがむず痒い。塵紙を鼻に詰め込んで、暫くは嚔も止まるのであるが、然し何時の間にか詰め込んだ塵紙が鼻水でずく濡れになり、次第に鼻の奧がむずむずして來て、嚔一発、丸めた塵紙が鼻からポンと飛び出して仕舞う。其れ迄花粉症等と云うものとは全く無縁であったのに、此の旅行ではずっと此れに悩まされ続け、殆ど愉しむ事も出來なかった。(いず)れ秋にでも、もう一遍行ってみようかとも考えてみたが、然し其れも、億劫である。其の内中免でも取ったら、一人でのんびり、オートバイに(また)がって旅してみようと思う。

北陸鉄道石川線の端から端迄、(およ)そ三十分、窓外の景色は見る見る田舎の色を濃くして行き、私は何だか、ほっとした。未だ大地が生きて居る。そんな、懐かしい様な感慨にさえ浸っても見たが、然し嚔は(はげ)しく、旅愁どころではない。つまらない事になったものである。加賀一宮へ着く迄に、ポケットティッシュ一つを使い切って仕舞った。駅を降りて、多少苛々して、煙草に火を灯す。或いは此の、煙草の煙も一因なのでは、等とも思うのだが、然しマイルドセブン・ライト等と云う軽すぎる程のものでは、大して関係莫いであろう。

そんな事を考えながら、神社へと続く長い石段を上がって行く。嚔は(いよいよ)辛く、胸の筋肉が痛くさえなって來る。不図(ふと)上を見挙げると、延々続く階段の両側に、不規則に密生する杉の木が目に入った。花粉症は、杉等の針葉樹の花粉が原因らしいのだが、こんなにうじゃうじゃ杉の木が在ったのでは、堪ったものではない。気の所爲か、目まで痒くなって來る。早々に千葉の自宅へ逃げ帰りたかったが、独り旅でも莫し、此処迄來てそんな訳にも行かない。兎に角頻繁に鼻をかんでは、塵紙を細かく千切って鼻孔深く押し込む。然し最早、何を遣っても駄目であった。嚔は止まらぬ。腹筋と胸筋が、好い加減疲れて來た。藤島君も心配して呉れるのだが、然し幾等同情の言葉を貰っても、嚔の治まるものでは莫い。

こんな厄介な友を連れて、然し藤島君は、自分の仕事を果たす()く、彼方此方(あちこち)うろうろして居た。(いず)れ宝物殿の様な建物を発見し、近く迄行ってみると、其れは所謂、博物館の様に一般公開されて居る様である。然し何故か其の扉は固く閉ざゝれており、近くを通り掛かった神社の人に訊くと、未だ観光シーズンではないので、保管の環境を理想状態に保つ爲に、扉を閉ざして居るのであって、見たいのならば直ぐにでも開けると云う事だった。彼が其の巫女さんに開けて呉れる様に頼むと、彼女は鉄の扉を重たそうに開け、中の閂を外し、そうして自動ドアのスイッチを入れて、私達に這入(はい)るよう促す。私達が後に尾いて這入って行くと、彼女は受付の席に坐り、入場料をとった。

中にも自動ドアが有り、其れを潜ると、其処は思ったよりも狹く、私達は十分と掛からずに一周することが出來た。流石に室内では、鼻の具合も可成好くなって居て、些(いさゝ)かの余裕があり、私は一つ一つの品物を、如何にも興が有るかの様に、右手で左の肘を支え、其の手は顎をつまみ、丸で気取ったポーズを取って、訳知り顔で眺めて居たのだが、其の間に、藤島君は目当ての品物を捜し当てゝ居た。彼の説明に拠ると、其の刀は、彼の遠い祖先に縁の品なのだと云う。如何やら仕事の用事ではなく、彼の個人的な用事であった。其れは兎も角、実は彼の刀は其処には飾られて莫く、小さな写真が申し訳なさそうに置かれ、其の脇に、或る美術館に貸出中である旨の断り書きが在る(だけ)だったのである。其れでも彼は、暫く其の写真に見入って居た。私も付き合って、此れも興味のある様な振りをして、(じっ)と眺めて居ると、不思議なもので、如何しても其の実物が見たくなって來る。私ですらそうなのだから、藤島君に於いては、敢えて書く迄もあるまい。私達は巫女さんに礼を云って其処を出、神社の別の出口(如何やら此方が、正門であったらしい)から表へ出た。

私は嚔で苦しみながらも、只ならぬ空腹を感じて居た。何処かの店に入れば鼻の方も幾等か楽になるのでは、とも思い、藤島君に其の旨、訴えた。

鳥居を潜り出て、広い駐車場を横切ると、小さな茶屋が目に入る。

「其処に這入ろう。甘酒でも、あるんじゃないかな」

何でも好いから、落ち着きたかった。

「腹が減ってたんじゃないのか? こんな店じゃ、食事は出來ないよ」

藤島君は正論を吐いたのだが、食事なら別の所で摂れば好い、兎に角何処か、外界と隔離された、室内に這入りたい、と云う思いばかりが先立って、其の店の方へずんずん歩いて行った。何処へ這入ろうとも、どうせ(また)外へ出れば、同様の苦しみを負わねばならぬ等と云う考は、一切念頭には莫い。藤島君が躊躇して居るのも構わず、門前に立ち、中を覗き込んだ。暖簾は中に引っ込められた儘で、倚子は皆、机上に上げられて居る。

「シーズンオフだから、遣ってないんじゃないか」

諦めるよりなかった。真直帰るべく、私は駅へ向かって歩きだしたのだが、復も藤島君は、私を制して、

「電車が來る迄、可成時間があるんだ。折角だから、歩いて行こう」

彼は健脚である。私は最早、歩くのが億劫だった。然し凝と電車を待つのは、更に大儀であるので、渋々ながら彼の提案に賛成して、私達は線路に沿った道をのんびり北上し始める。道すがら、レストラン位在るだろうと、藤島君は云ったのだが、行けども行けどもそんなものは見付からない。この時ばかりは、田舎であることを怨んだ。勝手なものである。

二駅、鶴來の辺りまで歩いて來た。やっとの事で「喫茶、軽食」と書いた看板を、町役場の敷地内に見付け、其処へ行った。客が一人も莫く、私達は一瞬躊躇したのだが、もとよりハイカラな店など望むべくもなく、喫茶店でも、ちょっとした食べ物は有るらしいので、腹を決め、中へ這入った。

カウンターの向こうに、少しぼんやりした若い娘が居て、雑誌を読んで居る。私達が彼女の前の席に坐ると、彼女は懈そうに顔を挙げ、再び視線を雑誌に落とす。何となく人当たりが悪いが、別に気にもならなかった。私達は、食事と珈琲とを注文した。

「治まったみたいだね」

「うん、室内に這入ると、落ち着くんだ」

私にとっては、(まさ)に天国である。店の者が余りぱっとしない娘一人で、其の娘の愛想が悪くても、そんな事は如何でも好かった。嚔の出ない生活がこんなに楽なものだとは、此の日此の時迄、(ちっ)とも思いよらなかった。

娘は注文を受けると、奧の厨房へ引っ込んで、ぶっきらぼうな言葉で其れを伝え、暫くして戻って來て、先刻の雑誌を取ると、元の所に腰を下ろして、復読み始める。彼女が私達に対してあんまり無関心なので、私達も自然と、目の前の彼女を気にする事も莫く、のんびりと(くつろ)ぐ事が出來た。

「つるきってのは、隨分田舎なんだな」

冷水を飲みながら、私は何と莫し、そんな事を云った。

「つるき? あゝ、違うよ、つるぎって読むんだ」

藤島君は、事前調査でもして居たのだろうか、彼は時々、おや、と思うくらい、色々な事を知って居る。六歳の年齢差だけでもあるまい、彼は可成の勉強家であり、私は可成の不勉強なのである。

「鶴が來るで、つるぎか、……元々、刀剣の方のつるぎだったんじゃないか? 鶴が來るなら、つるきだろう」

「さあね、ひょっとしたら、当て字なのかもしれない。其方(そっち)の意味の方が、正しいのかもね」

他愛のない雑談である。何の根拠がある訳でも莫し、実際に鶴が來て居たので、鶴來となったのかも知れない。然し如何も、此の町は古い町の様だし、そうだとすると、正しい漢字より万葉仮名の様な当て字が使われて居る事の方が多いのではないだろうか。身近な例として、「由美」という人名は、あれは万葉仮名の一つである。「由」も「美」も、何れも平仮名の「ゆ」と「み」との元となった字である。古い物には得てして、此の様な当て字が多いと云うのは、正しい見解であると思われる。只、「ゆみ」が一体何を指して居るのか、武器の弓か、或いは夢が訛ったものなのか、私には如何しても、知り様がない。別に知らなくとも、如何でも好い。

そんな取り留めの莫いことを、彼是(あれこれ)と論じて居る内に、料理と珈琲が出來上がって、運ばれて來た。料理を持って來たのは、人の良さそうな四十がらみの男で、如何も目の前で雑誌に読み耽って居る娘の、父親であるらしい。此の店は家族で経営して居る様だ。

料理は、別に美味くも不味くも莫い、平々凡々な物だった。珈琲も在り來りで、特別な物では莫さそうである。然し其れは、当然である。こんな処で、本物の料理や珈琲を欲する程、私も野暮ではない心算だ。第一当時の私には、そんな贅沢な事を考える余裕は全く莫かった。花粉が飛んで來ない丈で、充分であり、其の事さえ保証されるのなら、料理も飲み物も要らなかった程なのである。

隨分長い事、其の店に居た様な気がして居たのだが、外に出て見ると、未だ三十分程しか経っては居ない。其処でまた、私が我儘を云った爲、鶴來から電車に乘って帰る事になった。御蔭で二時頃には、野町へ帰り着く事が出來た。駅舎の電話で宿の予約を取り、其処から今度は、兼六園を目指して歩き出す。歩くと結構あるのだが、然し徒歩已外の交通手段も莫く、仕方莫しに歩いて行く事にした。此の道程が又、私にしてみれば千里の思いであった。むず痒いのは、右の鼻だけである。如何やら右の鼻孔の奧に、小さな傷でも在るらしく、其の辺りばかりが変に刺激されて、嚔が止まない。見るに見兼ねた藤島君は、途中でドーナツ屋へ寄って呉れた。関東圏内でも有名な、Mと云う店である。

「Mが在るなんて、金沢の町も都会だな」

こんな台詞は、御当地の方達には、(とて)もじゃないが聞かせられない。

「東京ストアなんてものが在って、変に東京を意識して居るかと思えば、こんな本物の店も在るんだね」

「いや、中々、金沢も捨てたもんじゃないな」

二人して、失礼な発言ばかりして居る。東京ストアと云うのは、電車の中からちらと見かけた店で、中で一体何を売って居るのかは、全くの不明である。名前だけで、此の二人は其の店の事を襤褸糞(ぼろくそ)云って居た。東京関連の御土産でも売って居るのかしら、なんて云って、けたけた笑って居たのである。

私達は、ドーナツを夫々四個程と珈琲を買い、小さな倚子に落ち着いた。

「ミルクは、使わないのか?」ミルクも砂糖も入れずに珈琲を啜って居る私に向かって、ミルクを差し出しながら、藤島君が云う。

「珈琲は、ブラックで飲むものだよ」

「こんな安物の珈琲に、そんなに(こだわ)る事も莫いだろう」

藤島君は、何気莫く云ったのだろうが、私ははっとなった。此れも、ポーズなのだ。味音痴で、珈琲の美味い不味いも好く解らない癖に、珈琲はブラックに限る、でもないもんだ。仕方莫しに私はへらへら笑いながら、「其れもそうか」等とあっさり自説を覆し、「僕は胃が悪いから、ミルクを入れた方が好いね」なんて云訳まで弄して、ミルクを入れた。然し砂糖は、入れたくなかった。ポーズで莫しに、私は甘い物を余り好まないのである。

「或いは、花粉症に好いかも知れない」

莫迦々々しい仮説まで立て始めた。こうなって仕舞うと、もうボロボロである。ミルクをどばどば入れて、カフェオレの様な色になった珈琲を、ずゞっと啜って、顔色一つ変えない。甘いのが嫌いと云うのも、何だか怪しくなって來た。味音痴は、味の事をとやかく云うものではない。味に煩い味音痴は、失敗しか招かぬものである。

私達は此処でも、他愛のない御喋りばかりして居た。鼻の具合は、上々である。そんなに腹が減って居た訳でもないのに、ドーナツを四つも食べて、珈琲を二度替えた。然し結局、此処に居たのも二、三十分程である。程なく店を出て、再度兼六園目指して歩き始める。

「車が有ればなあ……」

数年前の私なら、こんな泣言は決して口にしなかったであろう。然し普段の運動不足が祟り、既に足が棒の様になって居る。傍らの友人は、私より六つも年上であるのに、ぴんぴんして居る。御恥かしい限りである。

「車なんか、乘っちゃ不可(いけな)い」

彼は私の方も見ずに、ぶっきらぼうに云い放った。彼は電車と徒歩の旅を好む。車を使うのは邪道であると云う考を持って居るようだ。然し私は、大の運転好きであるので、如何やら此の二人は、旅を共にするには向かなかった様である。

兼六園内では、私も進んで歩き廻った。こんな自然の中では私も歩き廻る方を好むのである。アスファルトやコンクリートの上をてくてく歩き廻るより、ずっと楽だし、脚にも良い。私達は池の傍で長閑(のどか)な景観を愉しみ、梅林で香りを愉しみ、何故だか此処では嚔も余り多くは出ず、隨分ゆったりと時間を過ごした。

其処を出た頃は既に夕刻であった。そろそろビジネスホテルのチェックインも始まって居たので、私達は真直宿を目指す事にしたのだが、其の道すがら、石川県立美術館を発見した。其れは藤島君の刀が貸し出されて居る美術館である。何方(どちら)からとも莫く、其処に這入ると云う事になり、少し高めの入場料を払って、中へ通った。展示品は主に地元の芸術家による作品で、余りパッとしなかったが、私は丁寧に、一つ一つの画や彫刻を見て回って居た。大抵()の美術館にも、一つや二つは私の心を()()が在るもので、古代の剣よりも其の方を賢明に求めて歩いて居たのだが、藤島君にしてみれば、例の刀已外に興味は莫く、絵画の部屋は一瞥した丈で中にも這入らず、美術館中を大変なスピードでクルクルと捜し回って、其れでも見付からぬらしく、受付の女性に訊きに行った。其の間に私は、如何やらやっとの事でそこそこの作品を見付け、其れを二、三分間眺めた揚げ句、然し急に其れもつまらなくなって、結局何の収穫も莫い儘ロビーに戻って來た。

「如何? 何か佳い作品は在ったか?」

先に切り上げて居た藤島君が寄って來て、そんな事を訊ねた。

「別に……何れも此れも大した事莫かったよ。で、其方は如何なの、刀は、在ったの?」

「在るには在るらしいんだけど、……一般公開はして居ないみたいなんだ。全く、徒足(むだあし)だったな」

「そうだね」

私達は虚しい結論を出し合って、其の儘帰途に就いた。

最初の予定では、三千九百円のシングルルームを二つ取る筈だったのだが、予約が一杯で取れず、代わりに八千円のツインを一つ取ってあった。其処に私達は荷物を置くと、私は水で鼻の中を洗い、直ぐにベッドに躯を横たえる。藤島君も暫く休息を取って居たが、軈て起き上がると、「もう少し、市内見物をして見ないか」と私に勧めた。

「いや、……いゝよ、僕は疲れたから、一人で行って來て好いよ」

疲れも去る事ながら、花粉の飛び交う外界には最早出て行く気になれず、私は頭から蒲団を(かぶ)って仕舞った。藤島君は一向構わず、再び外へ出て行き、(いず)れ、烈しい疲労感から、私は深い睡りに就く。

うとうとと目が覚めたのは夜中であった。藤島君は既にぐっすり寝入って居る。此処二日程風呂に這入って居なかった爲か、何だか体中がむず痒く、慌てて内風呂に這入った。寝た時刻が早過ぎたと云うのもあったが、普段から私は、夜型の生活をして居るので、風呂から上がった時にはすっかり目が覚めて仕舞い、藤島君の迷惑にならぬように部屋の隅の電灯を点けて、其の下でこっそり太宰治を読んで居ると、次第に眠気が恢復して來て、蒲団に潜り込み、暫く輾転した後に、何時か再び、淺い睡りへと落ちて行った。

夢を見た様である。夢の中には、私の好きな女性が出て來た。私は常に彼女を意識して生きて居るのだ。彼女は私の気持ちなど思いも寄らぬであろうが、私の頭の中はいつも、半分已上、(もと)い八割か九割がた、彼女で占められて仕舞って居る。從ってそんな夢を見るのは、私にとっては日常茶飯事である。夢は常に幸せなものとは限らなかったが、其の晩のものは隨分と暖かゝった。彼女の笑みは、常に私だけに与えられるものであり、其の瞳は常に私を見詰めて居る。私の人生で最も幸せな瞬間は、如何やら彼女の夢を見て居る時なのかも知れない。いっその事、永遠に睡って居たいとさえ思うのである。目が覚めれば味気莫い現実生活が、否応莫しに私を退屈へと突き落として仕舞う。其処に彼女の姿は見えず、私の恋心は空転し、図らずも溜息が漏れ出る。彼女には恋人があり、幾年経とうとも私に其れと同等の資格は与えられそうも莫い。私を友達と思って呉れて居るようであるのだが、其れが私には、却って辛いのである。此の夢が莫ければ、私は()うに力尽きて、死んで居る筈である。此の夢だけが、私の命を支えて呉れて居るのだ。有難い事である。

翌日は十時に起こされた。朝が苦手な私は睡い眼を(こす)りつゝ、其れでも渋々起き上がって、出発の仕度を始めた。最初から計画的な旅では莫かったので、其の日の行先も明確(はっきり)とは決まって居なかったが、能登半島へ北上するより莫く、(いず)れ目的地も、和倉温泉と決した。

此処で復私は、我儘を云い出した。電車でなく、レンタカーを借りて行きたいと主張したのだ。余りしつこく云うので藤島君も呆れ、渋々ながらも承諾して呉れた。駅前を見渡す限り、三、四軒の店が目に入り、其の内の一軒へ這入ってみる。

「車を借りたいんですが」

()の車種になさいますか?」

店の人が応対する。余り高い車は無駄であるし、(そもそも)たった二人しか居ない上に、荷物も少量なので、安くて小さい車で充分であったが、其れを所望した時、店員は誠に無感動に、こう云い放ったのだ。

「すみません、其方の車種は、只今出払って居ります」

心底済まないと云う感じでは莫く、なんだか機械的な謝罪文句である。私は非常に不愉快になり、憮然として其の店を出た。

「予約を取って居ないから、何処でも同じなんじゃないのかなぁ」

藤島君がボソッと呟くのだが、私は諦めきれず、嚔を頻発しながらも、別の店へと向かう。然し其処でも、目的の車は借りる事が出來なかった。

「大丈夫。まだ、店は外にも在る!」

其の情熱を、もっと別の、有意義な事に向けられないものなのだろうか。私は自分が花粉症である事も忘れ、躍起になって彼方此方を尋ね歩き、そうして最後の店で、漸く其の車を借りられるかの様に見えたのだが、

「乗り捨てには、別途、八千円かゝりますが……」

私は車で和倉温泉迄行って、其処の営業所で返せば好いと考えて居たのだが、其の爲には別に金が掛かると云うのだ。此れは私には、意外であったが、考えるに、至極当然である。我々はそんなに金持ちではなく、從って、此の企みは断念せざるを得なかった。

「仕方が莫い、電車で行こう」

藤島君はさっさと歩きだし、私もなんだか、釈然とせぬ思いで、渋々其の後に続く。時計の針は疾うに、一時を回って居る。こんな事なら、(はな)から電車で行って置けば好かったのだ。私の淺慮な我儘故、無駄に彼方此方歩き回り、可成の時間を浪費して仕舞った。其れに無理矢理付き合わせた藤島君には、隨分迷惑を掛けて仕舞った様である。

金沢駅から特急に乘った。七尾線を北上し、和倉温泉駅迄往く。一時間程で着いたのだが、見渡した所何も莫く、名所の様な所も莫いらしい。私はこんな町が好きだった筈なのだが、流石に此処まで何も莫いと、観光目当で來て居るだけに、勝手な話ではあるが、なんだか遣り切れなくなってくる。私達は暫くの相談の後、能登島の臨海公園なる所迄行ってみようと云う事になった。其処には水族館等も在る様で、此の近辺では恐らく、唯一の娯楽施設なのだろう。駅前から本数の少ないバスに乘って、更に三十分、長い橋を渡り、能登島を縦断して、北の海沿いに在る能登島臨海公園へ行く。其処へ着いた頃には隨分と陽が傾いて居て、島から帰る最後のバス迄、後三十分しかない。私の我儘が祟って仕舞ったのだ。仕方が莫いので水族館などを見て回るのは諦め、其処いらをぶらついて居たが、目ぼしい物は何も莫く、只(ひな)びた茶屋などがぽつぽつと点在する丈であった。私達は其の内の一軒の茶屋で、食事などして暇を潰し、時間が來たらバスに乘って、其の儘和倉温泉駅へと帰って來た。本統に、つまらなかった。私の我儘さえ莫ければ、もっと有意義に時間を過ごせたのであろう。余り、無駄な我儘などを云うものではないのだ。私は未だ未だ、子供なのかも知れない。

駅に帰ったら、今度は宿を探さねばならなかった。駅員に訊くと宿屋の案内所を紹介され、其処まで歩いて、今夜一宿の宿を紹介して貰い、更に其の旅籠迄歩き、着いた頃には、私の脚は最早がくがくになって居た。(つくづく)歩くのが苦手なのだと、思い知らされた。然し歩く事を拒むより、此れからは出來るだけ頻繁に歩くようにして、十代の頃の脚力を取り戻すようにした方が、好さそうである。此の儘では、私の健康な脚に対して、申し訳が莫い。

宿へ向かい始めた頃から、ぱらぱらと小雨が降り出して居た。部屋に落ち着いて、夕食を摂って居る間も、春の雨は止むでも莫く、強まるでも莫く、相変わらずしとしとと、鬱陶しく降り続いて居る。

「此の近くに、ストリップが在るのですが、お客さんたち、行かれますか?」

食事を下げに來た年とった仲居が、そんな事を訊くので、私は更に憂鬱になった。朝から殆ど、何の愉しい事も莫く、此の上ストリップなどを見ては、(いよいよ)惨めになる丈の様な気がするのだ。藤島君は多少乘り気だったらしく、私の返事を待って居る。然し私は、正直な所、全く興味が沸かなかった。此の世で唯一人、千葉で大学生をして居る黒崎好恵、彼女丈が私の心を独占して仕舞い、其の外の女性には一向に関心が莫い。故に、雨がだらだら降る中を態々(わざわざ)出掛けて、何だか得体の知れぬ女が、白痴の様に踊って居るような舞台を見たところで、私には只、つまらぬだけなのである。從って私は、判然(はっきり)と拒否したのだが、藤島君は幾分心殘りの様で、仲居が部屋から出て行くと、「なあんだ、行ってみたかったなあ。こんな田舎のストリップ小屋は、屹度(きっと)面白いよ」と私に云う。

「そうかなあ、……でも、もう、断っちゃったし、……今更遅いや」

「そんなもの」藤島君は笑いながら、「もう一度あのおばちゃんを呼んで、頼めば好いんだよ。如何する。行くか?」

「僕は、いゝよ。一人で行って來たら?」

「一人で行くのも、なんだかなぁ……雨も降ってるし……」

結局彼も、春雨の中を出掛けて行く事は莫かった。私は煙草を一服した後、風呂に這入る可く部屋を出る。

海が近い爲、此処の風呂は塩泉であった。自分の外には、誰一人這入っては居ない。藤島君も食事前に、疾うに済ませて居た。久しぶりの広い風呂なので、指先がふやける迄、長いこと這入って居たのだが、浸かる内に、何と莫く浴槽の湯を鼻に入れ、口から吐き出すと云う、所謂「鼻(うがい)」をしてみたら、幾等か消毒作用が有るのだろう、心()し、すっきりとした。上機嫌で、体をざっと洗い、其の儘上がって來たのだが、部屋に着いた途端、大きな嚔一つ、何だか両の鼻が、堪らなくむずむずする。温泉なんかで洗い流した爲、塩や色々な成分が鼻孔内に殘って、粘膜を刺激するのだろう。私は慌てゝ、水道の真水でもう一度鼻の中を洗い流し、如何やら其の日は、其れで落ち着いた。不純な水などを鼻に入れゝば、痒くなるのは当り前である。鳥渡(ちょっと)考えれば分かりそうなものだ。私は己れの軽薄さに、思わず苦笑を禁じ得なかった。

此の儘寝て仕舞うのは些か口惜しいので、私達は酒を頼み、そうして夜更かしをした。

「テレビの普及も原因して居るのかも知れないけど……此の辺りの人達って云うのは、隨分標準語に近いものを喋って居るんだね」

私の何気莫い、感想である。

「丁度、関東と関西の境目辺りに在るしね、……でも、関東と云うよりは、寧ろ東海地方に近いんじゃないかな……」

藤島君はN大学の国文科を出て居る。從ってこんな問題は、彼の最も得意とする分野であった。彼は幾分楽しげに、解説を始める。

「昔は富山の薬売りなんかが、行商でいろんな地方に行って居たから、彼方此方の方言を持ち込んだりして、段々平均的な言葉になって行ったのかも知れない。特に東海地方は一番近いし、歩いて往くにしても、他の地方に較べりゃ楽なんだ。だから、名古屋辺りの言葉が、一番近いんじゃないのかな」

「成程ね」

話題は発展して行き、日本の方言に就いて色々と話し合う――と云うか、何だか藤島君の独壇場の様になって行き、私は其の生徒になりすまして、感心しながら聞いて居た。然し聞いて居る内に、不図或る一時に思い当たり、彼の隙を(うかゞ)って、口を挾んだ。

「よく、関西の芸人なんかが東京弁を真似る時、『――じゃん』って言葉を使うけど、あれって元々、静岡の方言なんだよね。僕は昔、小学一年生から三年生の夏迄の間だけど、静岡に住んで居たんだ。お袋は東京の下町育ちなんだけど、静岡では男も女も、じゃん、じゃん、云って居るもんだから、引っ越したばかりの頃は、随分驚いてたよ。男が使う分には、抵抗莫かったみたいだけど、女の子まで、常に語尾に『じゃん』って付けるのには、何だか少し、抵抗があったみたい」

昨今では、横浜は元より、東京及び其の周辺でも、若者は男女を問わずに皆、じゃん、を付けるので、他郷の者から見たら、其れが東京弁の、延いては標準語の特徴の様に思われるのだろう。藤島君は、東京近郊で其の言葉が使われて居る事に対して、適切な説明をして呉れた。

「昔、家康が江戸に幕府を開いた時、静岡や伊豆地方の人達を大量に城下に連れて來たんだ。其れで関東の言葉は、可成影響を受けちゃったんだね。だから今の標準語と云うものは、元々の東京弁――詰まり江戸詞とは違うんだよ」

静岡市には駿府城が在り、其れは家康の城である。今では駿府公園と云う形で、城も殘って居る筈である。

私達は長いこと、方言の話題で盛り上がって居たのだが、昼の疲れと酒の作用で、次第に藤島君は、眠気を感じ始めて居た。私は夜行性故、寧ろ次第次第に目が覚めて行くのであるが、藤島君が好い加減で寝たいと云うし、明日も早いらしいので、諦めて蒲団に這入り、目を閉じて、一時間位頑張った末に、やっとの事で睡りに這入った。此の日は、別段特別な夢は、見なかった様である。

翌朝早く宿を出ると、駅前のレンタカー店へ向かった。此処へ來て未だ、私は車に拘って居たのである。然し此処では、金沢に於ける様な失敗はなく、直ぐに小さな車を借りる事が出來た。六時間の約束で其の車を借りると、私達は一路、輪島へと向かう。目的は輪島の、朝市である。

真面(まとも)な地図が莫かった爲、幾度となく途に迷ったが、其れでも何とか朝の内には辿り着き、朝市を見る事が出來た。海岸沿いに駐車場を発見して、其処に車を停めると、朝市の端から端まで見て歩いて品定めをし、そうして私は、其処で可成の散財をした。藤島君は好い加減呆れ果てゝ居たが、私の買い物の殆どは、黒崎好恵の爲の物である。私には外に、土産物を買い与える相手など居ないのだ。五つ組になって居る九谷焼の猪口や、蟹味のパイなど、五、六品買い漁り、食べ物に関しては、自分の味見用の物と併せて二つずつ購入した爲、可成の量になった。自分が食べてもみないで好恵にあげる等と云う事は、恐ろしくて、迚も出來ない性なのである。若し万が一不味い物を与えて仕舞っては、取り返しのつかない事の様な気がするのだ。臆病なのかも知れない。

朝市を見た後、今度は車を、海岸沿いに東へと飛ばした。私は旅先に、何時もスケッチブックを持ち歩いて、気に入った景色を記録して置く様にして居るので、此の旅でも、何か一つ位描いて置きたいと思い、内心其れに見合う景色を探して居たのだが、行けども行けどものたっとした単調な処ばかりなので、厭になって、(いず)れ路肩に車を停めて仕舞った。

「余り、面白い景色が莫いなぁ」

私が溜息交じりに云うと、藤島君が地図を見ながら、「此の先を往っても、同じ様なつまらない処ばかりみたいだね。……反対に往ってみないか? 西側の海岸の方が、面白そうだ」と、アドバイスして呉れた。

取り敢えず私達は新鮮な空気が吸いたかったので、一旦車を離れ、石ころだらけの海岸まで下りてみた。日本海である。私は関東の生まれ故、日本海と云うものを、数える程しか見て居ないのだが、然し私は、日本海が迚も好きである。太平洋の様に、疲れ果てゝ申し訳程度の波をのたりのたりと打ち寄せて居るのでは莫く、何と云うか、波に力が籠って居て、非常に荒っぽく、堂々として居るので、何だか此方まで、人知れず力瘤を作って仕舞う。水の色も目に見えて違う。太平洋の軽薄さは莫い。深いオリエンタルブルーで、凝と見て居ると、吸い込まれそうになって仕舞う。死ぬ時は矢張り、日本海で死にたいものである。――然し其れでも、此処でスケッチをする気にはなれなかった。此処には方に、海しか莫い。此れでは画にならぬのだ。海を引き立てゝ呉れる適当な脇役達が居なくては、迚もじゃ莫いが、日本海に対して失礼である。……詰まり、余り長々と、画面の端から端まで水平線ばかりを描くのは、私は嫌いなのである。

暫くの間、海岸から海に向かって、小石の投擲などして過ごした後、私達は再び車に戻り、Uターンをして西走した。輪島の市街地を通り抜けた頃から、次第に海岸が入り組んで來て、何だか嬉しくなって來る。こうでなくっちゃ、不可い。途中のドライブインで昼食を摂った後、運転を藤島君に代わって貰い、更に先へ先へと進む。門前町に至る手前辺りで、一旦途は内陸へと這入って南下し始めるが、其の内国道に合流し、再び西へと向かうと、何れ海岸が見えて來る。其の辺りは復、単調な海岸線が続くのだが、日本海を右手に南下する内、何時か国道を外れ、再度海岸線が複雑に入り組んで來る。目的地は関野鼻(せきの はな)であった。途中何度も運転を交代しながら、そして幾等か途に迷いつゝも、なんとか関野鼻の駐車場に着くと、土産物屋や食堂等の在る建物を横切り、岩場の海岸まで出て見る。日本海の、不思議な、好い香りが鼻を突いた。此の日は何故か、嚔も余り出ては居ない。完治したと云う訳では莫いのだが、其れでも殆ど気にならないのは、車の中に居る事が多かった所爲と、周りに針葉樹よりも広葉樹の方が多く植えられて居る所爲であろうか、否其れよりも、日本海の神憑りの力強さが、私に其の事を忘れさせて居たのかも知れない。

何れ私は、佳い景色を発見した。周りにはあんまり人が居らず、落ち着いて描けそうでもある。藤島君は其の時、何処か遠くをぶらついて居た様である。私は慌てゝ(きびす)を反し、車のトランクに在るスケッチブックと鉛筆の爲に、全力で駆け出した。途中長い階段が在って、其の中段程で息が上がり、其れでも大股で歩いて上って、其の二品を取って來た。再び元の位置迄戻った時には、流石にぜえぜえ云って息苦しく、暫く(うずくま)って呼吸を整えた後に、急度(きっと)顔挙げ、狹い入江を、大海を右に、対岸を正面にして、極めて乱雑に描きなぐる。途中で藤島君が傍らに來たのだが、脊後から私の画と実際の景色とを、ひょいひょいと見比べ、そうして何も云わず、階段を上って、建物の中へと去って行って仕舞った。彼がそろそろ退屈して居るのでは、と、びくびくしながら、私は殆ど落ち着けず、其れでも何とか描き上げて、慌てゝ車へと戻ると、藤島君の姿は未だ莫く、其れも其の筈、車のキーは私が持って居たのである。私は取り敢えず今描いた線描画を片付け、そして途中の建物まで取って返すと、其処の土産屋で、彼は暇を潰して居た。

「よう、もう画は、描いたのか」

「描いた、描いた。やっと、描けたよ。待たせて御免」

私達は其処には其れ已上長居せず、車へ戻って、帰途に就く。駅前のレンタカー店に車を返した頃は、約束の六時間より未だ十分程早かった。返却の手続きを済ませると駅へ向かい、次の電車まで未だ可成の猶予があった爲、駅舎内の輪島塗りを売って居る店で、暇を潰す事にする。此処でも復、私は散財をした。云うまでも莫く、好恵の爲である。彼女への土産は可成の量になって居たが、滅多に逢う機会の莫い彼女に何時渡すのか、等と云う懸念は、当時の私には全く莫かった。実際に此の土産を渡す事が出來たのは、其れから二个月も経った後の事である。

帰りは特急を使いたかったので、私達は特急の停まらぬ金沢の先の、福井迄往った。既に陽は落ちて居る。其処でも尚時間があったので、駅を出て、夜の福井を散策した。金沢や和倉温泉では、関西と東海と関東のチャンポンの様な言葉であったのだが、此の辺り迄來ると可成関西弁に近くなって居る。藤島君は路面電車の写真を撮るのだと、使い捨てカメラを片手に、大名町交差点迄走って行き、其処で駅の方向へと左折して來る電車の写真を何枚か撮った。私は用も莫いのに、一々彼に尾いて廻って居た。一人で居てもする事が莫いと云う理由の外に、私は此処の言葉が怖かったのだ。関西弁は、私は迚も好きなのであるが、然し静岡より西には住んだ事が莫く、其れ故標準語の様なものしか喋れず、うっかり口を開いたら、何だか周りの人々総てに白い目で見られて仕舞うような気がして、何時もに似ず、めっきり無口になって居た。其の上独りでこんな処に放り出されるなんて事は、非常に心許莫く、其れで阿呆みたいに、彼の後にひょこひょこと、くっついて居たのである。同じ言葉を話す仲間が居て呉れないと、途轍(とてつ)も莫く心細かったのだ。然し其の事を打ち明けた時、彼は幾分変な顔をした。

「おかしな事を気にする奴だな、別に好いじゃないか、如何(どん)な言葉でも」

大通りに面した喫茶店で、私達は珈琲を啜って居た。

「否々、関西をナメちゃ不可(いけな)いよ。大阪の人間なんか、標準語を非道く嫌って居るんだから」

此処は、福井県であって、大阪ではない。

「御前、関西弁得意じゃないか」

「駄目だよ。僕の様な、関東訛りの関西弁は、もっと不可いんだ。『おまえ、ナメとんのんか!』って、怒られちゃう」

(とん)でも莫い小心者である。私が関西弁を真似るのは、関西地方、特に大阪に対する愛着からなのであるが、同時に大阪に対して、変な偏見を持って居る。從って私が屈託莫く関西弁を真似る事の出來るのは、今の所、東海地方已東に於いて丈なのである。大阪弁、特に、河内弁を教えて呉れる様な機関が莫いものかと、冗談でなく、本気で思った事すらある程なのだ。

此の地でも復、私は土産を買う。誰の爲に買うのか、最早云うまでもあるまい。(つくづく)莫迦な奴だと我ながら思いつゝ、其れでもつい、財布の紐が緩んで仕舞う。如何仕様も莫いのだ。然し殘りの金が少なかった爲、彼是と迷った揚げ句、名物である羽二重を二箱買い、其れで最後にした。二箱買う理由も、既に述べたので、此処では繰り返すまい。莫迦々々しい理由である。

何れ電車の時刻になり、私達は乘り込んだ。疲れの爲か、藤島君は早々に鼾を立て始めるのだが、私は中々寝付けず、今し方買って來たばかりの羽二重を一箱開け、食べてみた。美味かった。此れなら、好恵も喜んで呉れるだろうと思った時、何故だか目頭が、無性に熱くなってくるのを感じた。私はコートを頭から被って、寝た振りをしながら、静かに、泣いた。好恵は私のものではないのだ。他の男のものなのだ。こんなに土産物に心を砕いたところで、一体何になると云うのか。人が好いにも、程がある。(あゝ)せめて、其の美しい瞳を、僕に向けて呉れ! 其の暖かい微笑みを、僕に向けて呉れ! 僕は御前を、死ぬほど愛して居るのだ! そんな声にならない叫びを胸の内で繰り返しながら、うっすらと自殺を思い、小さく肩を顫わせて暫く泣いて居たのだが、何時か静かに、睡りの中へと身を沈ませて行き、そうして其の晩も、好恵の、夢を見た。

(おわり)

平成八(一九九六)年、二月、二十二日、木曜日、仏滅。