狐と菫
里蔵 光
下総の平野に、痩せた狐が一疋、ふらふらしながら、歩いて居ました。別に、不自由な訳でも莫いのに、後脚をずるずる曳き擦って、偶に仲間の狐などが気にして、近寄って來ると、ふん、と鼻を鳴らし、驅け出して行って仕舞うので、今や何者も、彼の傍へ寄って、相手を仕様とはしません。眉間に態とらしい皺を刻んで、此の孤独の狐は、平然と生きて居ます。
誰も來ない様な荒地で、不味い雑草や、臭い野鼠などをぼそぼそ喰っては、何か、苦痛の顔を作り、ひょいと首を擡げて、辺り見渡し、誰も居ないと識ると、ふうと長い溜息を突いて、もそもそと真っ暗の塒へと帰って行きます。随分、汚らしい性の狐の様です。同情を得ようと様々の工夫を凝らしては居るのですが、如何せん、彼に構う程気の良い者は既に在りません。又、偶に気に掛けて呉れる者が在っても、同情など要らぬ、なんて、孤高の志士を気取って、邪険にし、段々と友を失くし、敵ばかり作って居る様子です。今や彼は、独りです。厳冬も、暑夏も、春も秋も、唯、独りぼっちです。
淋しいらしいのです、時々、大きな溜息を吐き、はっとして、誰も見てなど居ないのに独り赤面して、顔を伏せたりして居ます。此ればかりは、嫌らしい気取りでも莫さそうです。此の頃は、自ら仲間を避け、此の暗く寒い穴の中で、がたがた顫えてばかり居ます。已前にも増して肉が落ち、あばらの骨が、気味悪く突き出て居ます。未だ若い筈で、人間の齢にすれば、二十過ぎ程であるのですが、其の様は最早、老いぼれとでも云う様な、云わば死に損ないの観が在ります。
そろそろと春が近付き、此の貧相の狐でさえも、何だか心が、浮き浮きして來ました。何故だか温かい予感がし、或る日彼は自分の塒を遠く離れ、人里近く迄下りて來ました。其の方に何かの用があった訳ではなく、唯何と莫し、そわそわして、足の向く儘、ずるずると歩いて來た丈なのですが、動物の勘は健在の様で、其処に彼は、此の上莫く美しい発見をする事が出來ました。綺麗に均された道の端に、小さな、一輪の菫を見付けたのです。彼は一瞬にして其の菫に魅せられ、周囲をぐるぐると何遍も廻り、時々立ち止まっては、鼻を擦り寄せ、ふんふん匂ってみたりして居ます。菫はそんな狐には全く無頓着に、唯黙って、唯美しく、見事に、精一杯咲いて居ます。狐は菫の中に、懸命の魂を感じ取り、此れ迄とは違った性の溜息を、深く深く吐きました。己れの能わん限り、精一杯生きると云う事を、此の小さな花から教えられた様で、此の日已來彼は、明らかに変わりました。食糧を獲る労力を惜しまなくなり、遠く迄佳い物を捜しに行く様になりました。蝶に戯れ野に遊ぶ事を覚えました。次第に血色も良くなり、体も幾分、大きくなりました。最早彼は、健康的な、若い狐です。
毎日菫を観に行く事も忘れません。美しさを愛で、鳥獣や人間達の手から身を呈して護り、其の爲生傷が絶えませんでしたが、辛い素振りは微塵も見せず、寧ろ、活々と明るい表情を何時でも絶やしません。其れも其の筈、彼にしてみれば、辛い事など何も莫いのです。純粋かつ素朴な美を護り抜く事が、彼の唯一の生き甲斐であり、生活なのです。彼は何時でも、菫さえ其処に在れば只其れ丈で、幸せでした。菫も斯く迄深く愛されて、何だか日毎、美しさが増してゆく様です。
或る時彼は、少し遠い所迄食糧を獲りに行き、其の際他の狐達と派手な立ち回りをさえ演じて、そうして結局は敗退し、彼等の僅かな食べ殘し丈を手に入れて、流石に疲れ切ってげっそりし、とぼとぼ塒へ帰り、ゆっくりと軀を横たえて睡りに就きました。其の晩のこと。遠く人里では、一組の男女が寄り添いつゝ、月明かりの農道を歩いて居ました。何か会話を交わし、時々、微笑を漏らしながら、ゆっくりと散歩して居る様です。二人は始終、互いを見詰めた儘歩いて居たのですが、何かの拍子に女の視線が低く落ち、あら、と小さな声を上げて其の場に立ち尽くすと、連れの男も同じ方を見、にこりと笑って、彼女の髪を優しく撫で付け、耳許に何事か囁くと、つとしゃがみ込み、月光に照らされてはっとする程美しく輝やく其の菫の花を、茎の途中でぷちんと手折って、彼女の髪にそっと挿して遣りました。彼女は嬉しくて堪らぬらしく、きゃいきゃい云いながら其処いらぴょんぴょん跳ね廻り、くるくる舞ってみせたりしながら、男の手を曳きます。男は微笑を湛え、彼女に曳かれる儘、其の場を去って行きました。
翌日は小雨が降りました。こんな天気でも、狐は毎日の日課を欠かせた事がありません。殊に此の日は、朝から妙に胸が騷ぐので、殆ど全力で疾驅し、菫に逢いに來たのですが、行けども行けども、菫の姿が在りません。不審に思い、もう胸はきりきり云って潰れそうな程なのですが、其れでも己れを励まし、気を付けてゆっくりと歩きながら、其処いらを捜すと、茎の途中で無殘にも引き千切られた、花の莫い菫が見付かりました。愕然として暫し立ち尽くし、而る後に花を、匂い丈を頼りに捜し始めました。菫の生えて居る場所からぐるぐる円を描く様にして歩き続け、半日も経った頃、民家の近くで、漸く発見しました。昨日迄の姿は見る影も莫く、人に幾度か踏付けられた上、雨の爲にすっかり泥だらけになって、花片も幾枚か失くして居ます。狐は、くう、と悲しく鳴き、どろどろになった菫を口に咥えると、のそのそと歩き出しました。ずぶ濡れになりながらも、野原をずうっと歩き続け、何れ利根川へと辿り着き、其の儘じゃぶじゃぶ入って行きます。此処へ來る迄に、花片はたった一枚きりになって居ました。雨の音と、川の音と、狐の川へと分け入って行く音の他は、何も聴こえません。軈て狐の軀は完全に水の中へと消え、暫くして、花片のすっかり失くなった丸裸の菫だけが、ぷかりと浮かんで、茎をくねらせつゝ、川に沿ってずうっと流れて行きます。其の様は悲しく、慟哭する様であり、また淋しげに、踊る様でもありました。
(終わり)
一九九六(平成八)年、一月、十一日、木曜日、先勝。