燐 寸 箱

里蔵 光

恥を、()れ! 何だ、(その)顔は! 無様(ぶ ざま)な眉と眼を以て、他人(ひと)憐憫(れんびん)を乞う、醜い乞食(こつじき)め! 御前は、太宰の生まれ変わり所の者では()い、其已上(それいじょう)の、極悪人だ! 私の(この)狡猾(こうかつ)さを、見るが()い、此醜さを、見るが好い、太宰などは目じゃないさ。他に例莫き、此世の、始まって已來の、大罪人だ。自殺(ごと)きで、償われ()る物では莫い。生きて、苦しみ、罪を償っても、償い切れぬ程の罪を犯して來たのだ。笑わせるな、太宰に、申し訳莫い。

――大罪人も、燐寸(まっち)()る。落ち着いて、()づ、一本目に、火を(とも)して見よう。何か、物語が見えるかい。

渋谷の、駅の柱に(もた)れ掛って、(じっ)(うつ)ろな瞳で、(たゝず)む少女が居る。男を、待って居るのだ。男は、少女の金を使い込んで、(よそ)で遊び廻って居る。其男の爲に、少女は(からだ)を売って、稼いで居る。如何(どんな)に非道い待遇を受けても、唯一途(いちづ)に、愛して居る。そうして、一途に信じて居るのだ。

もう、三時間も、そうして竚んで居る。男は他で、遊んで居ると()うのに、此(あわ)れな少女は、唯、信じて、只管(ひたすら)に待ち続ける。

次第に陽が暮れ行き、街には、ネオンサインがぽつぽつ()き始める。少女は、毛糸の手袋をした両の手を、襟許(えりもと)で握り締めた(まゝ)、凝として居る。美しき其(ひとみ)は、(くう)を見るで莫し、改札を見るで莫し、人の流れを見るで莫し、何をも、見るでなし。そうして唯、何時(いつ)迄も、待って居る。男は、他の女と寝て居るとも、知らずに……

恥? 罪? 識らぬ、そんな物は。醜かろう、見苦しかろう、私を責めよ。私は、諸君()の云う所の、大罪人に相違莫いのだから。

死を思った。女に、電話した。

「もう、俺は、死ぬから」

駄目(だめ)! 何で、そんな事、考えるの? 駄目よ、死ぬなんて…」

生きようと、思った。

半月して、()た、生きるのが嫌になった。

「息切れがして、仕様が莫い。もう、疲れたよ」

如何(どう)したのよ、死んだって、仕方莫いじゃないの…私、嫌よ、死んじゃ嫌、生きて、……もう、そんな事は云わないって、約束して。生きてりゃ、屹度(きっと)、好い事が有るから」

泣いて仕舞(しま)った。生きようと、思った。

一週間して、(いよいよ)疲労と苦しみは、極点に達した。

「もう、止めるなよ、本統(ほんとう)に、死ぬからな!」

「如何して? 何でよ! 死んじゃ駄目、貴方(あなた)が死んだら、私も死ぬから!」

「君は、死なゝいさ」

電話を切って、首を輪に通した。紐が切れた。死ねぬ。莫迦(ばか)々々しくって、苦笑した。

私は何も、気取って居るのでは莫い。三本目の燐寸を、擦ってみるか。

六本木の街を、ぶらぶらと歩いて居る、男が居る。夜の闇に紛れて、(ひげ)を生やした男が、向かって來る。二人は、眼も合わせずに、小さな、粉の()った袋と、幾枚かの紙幣とを、交換した。何事も莫かった様にして、二人は、擦れ違った。

手が、震えて仕舞った。情莫くって、(たま)らない。何を書いて居るのか、自身、気が知れぬ。(あゝ)、死んで仕舞いたい!

青木は、必死に働いた。他の者も、青木の熱意を、認めて居た。上司は度々(たびたび)、彼の愛社精神を、褒めた。

給料は、他の同僚達よりも、多目だった。青木は、給料袋を(たずさ)えて、女の所へ行く。女は、「愛してる」と云う、安っぽい文句で以て迎え、青木の首に両手を廻して、キスした。

翌朝青木は、五万(だけ)持たされて、「復た、來月ね」と云う女に、精一盃の笑顔を返して、マンションを去る。そうして、四疊半一間の自室へ帰ると、翌日から復た、仕事に励んだ。

(やが)て青木は、栄養不良と疲労とで、入院した。

退院後、金が尽きたので、女のマンションへ行ってみると、ドアの向こうで、男の、声がする。笑い声がする。

青木は、マンションの五階の廊下より、空に身を躍らせた。ドアの向こうでは、何も知らぬ二人の男女が、ベッドの中で、笑いながら踊って居る。

(あゝ)、天は我を、見放したか! 行くな! 行かないで()れ! 何も、信じられぬのだ。判らぬ、私は、一体如何すれば()いのか。愛? 信頼? 何、そんな物は皆、まやかしに過ぎぬのだ。誠実? 笑わせるで莫い。そんな言葉を口にして、恥ずかしくは、莫いのか? 真心? 何だ、其は。見た事も、莫い。

田中は(だま)って、弘子の瞳を凝と、覗き込んだ。弘子はそっと、目を()らす。

「本統に、俺が好きなのか?」

「うん…」

弘子は口籠(くちごも)った。田中は恐ろしくなった。不安で、堪らなくなり、「嘘なんだろ! 他に、男が居るんだな? そうなんだろ!」と、殊更(ことさら)に声を荒らげて、弘子を糾弾した。

そうして、弘子の口が、ゆっくりと開き、

「御免なさい…」

田中は、取り乱した。視界から、(すべ)ての物が消え失せ、其場から、気違いの如く、走り去った。

信頼なぞ、糞喰(くそくら)えだ! 然し、(あゝ)、何たる事か! 他人の嘘など、決して見破れる物では、莫いのだ!

田中は、見破ったじゃないか、だって? (いや)、見破りなど、しては居ない。見破った、振りをしたのだ。其が(たまたま)、当った丈の事だ。世の、嘘を()いて居る諸君! 良く、聴き(たま)え、嘘を看破(かんぱ)されたと思っても、決して、慌てゝは不可(いけな)い。相手は実際、相変わらずに、信頼して居るのだから。信頼して居るからこそ、「嘘だ」などと、口走るのだ。全くの弱さから、「嘘じゃない」と云う、言葉を期待して、云うのだ。早まるな、安心させて()れば良い。そうすれば、相手は、案外にも容易(たやす)く、手に落ちるのだから……

気の小さな、人の好い良人(おっと)は、其切なさから、苦しさから、不安から、好く、放蕩(ほうとう)をした。矢張り気の弱い妻は、其を()りつゝ、良人に毎日、多くの小遣(こ づか)い錢を与えた。見た事が、有るのだ、良人がプロステチウトの店へと入って行くのを。識ってゝ、默って居る。何時も悲しき眼で良人を見詰めながら、其を云えずに居る。云って仕舞えば、何も()もを失くして仕舞いそうで、云えぬのだ。そうして何時かは、良人の放蕩の()む物と信じて、毎朝金を、手渡して居るのだ。

此所(このところ)良人は、仕事に手を着けずに居る。彼の書斎には、山と積まれし、真白な原稿用紙が、(たゞ)凝と默って、ペンの乘るのを、待って居る。

妻は好く、良人の放蕩を、(おの)れの所爲(せい)にした。自分が、至らぬ爲だと考えた。そうして好く、良人を抱いて遣ったが、良人は何時でも、虚ろな眼を、して居た。

或晩、良人が妻を(いだ)きて、曰く、「俺は、近頃、放蕩ばかりして居る。御前は、知らぬだろうが…」

妻は默って、凝と、抱かれて居た。涙が、(にじ)んで來た。

「でも、そろそろ其にも、飽きた。其でね、死のうと、思うんだ」

良人は飽く迄、淡々とした調子で、語る。驚いて見上げし妻の眼から、溜って居た涙が、一筋、つと流れた。良人は微笑して、妻の頭を、己れの胸へと押し付けると、「心配、するな、何も、心配するな」と、譫言(うわごと)の如く、呟いた。

「あたしに、飽きたんですか」涙声で、途切れ途切れに、妻が云う。

「否、そうじゃないさ…唯、疲れたんだよ」

「あたしとの生活に、疲れたのね…」と、矢張り暗く、呟く。妻は多少、卑屈になって居る様だ。

「御前に、疲れた訳では、莫い」

「其なら、生きて下さい!」妻は、良人の()せた軀に、腕を回し、ぎゅっと、しがみついて、「あたし、子供が、出來たの……」

良人は、はっとして、妻の顔を見た。

「いつ」其丈、云った。

「今日、病院に、行って來たの…其で……」

良人は、最愛の妻を、ひしとばかりに、強く抱き締める。生きねば、ならぬ、と思った。

妻は、より強く、良人を抱き締めながら、(さゝや)く様に、然し強い、意気を込めて、「愛してるから……」

「愛してる」! なんと、いじらしい言葉か! 愛などまやかしと、私は先に書いた。否! 己れを、僞るでない! 愛こそ、何より、自分には必要な物なのでは、莫いか。強がりを、云うでない! 何時も愛を求めて、おろおろして居るのは、誰でも莫い、御前自身では莫いか!

()せよ、みっとも莫い真似は。誰も、御前の支持など、しては呉れぬ。

好い加減、死んだら、如何だい?

――(これ)(いさゝ)か、買い(かぶ)り過ぎた。此小説には、()だ一度も、「怒り」の感情が、表現されて居ない。片手落ちだ。()と調子に乘り過ぎたか……

別に、其を恐れて居る訳では、莫い。唯、単に書き落した丈の、事なのだ。(あゝ)如何か、信じて欲しい。――信頼を否定した男が、今は(ひと)に、信頼を乞うて居る。此や、傑作だ!

山城は、或る同人雑誌に、毎回作品を載せて居た。何時も、自信を持って、書いて居るのだが、同じ同人仲間である金田は、山城の作品を、一々莫迦にした。

「駄目だ、こんな物は!」

其が、金田の口癖だったが、山城は、金田の作品こそ、一度も、上手いと思った事が莫かった。

或る時、山城の家で、出來上がった雑誌を読んで居た金田が、急に大笑いを始めて、其雑誌を、ぽんと、放り投げた。何かと思って山城が振り向くと、金田は山城へ、侮蔑の眼を向け、ニヤニヤして居る。

「おい、山ちゃん。こんな物、好く書くよな。大笑いだ」

山城は可成(か なり)、むっとしたが、何も云わずに置いた。そうして、眉を(ひそ)めた儘、窓の外へと、眼を向ける。然し金田は、そんな山城の態度は、気にも留める気配も莫く、口角を嫌らしく歪めて、(さげす)む様な口調で以て、

「第一、題名からして、気取ってるな。『星の(うた)』とは、(おそ)れ入ったよ」と云って、腹を抱えて、笑い転げる。

山城は堪り兼ねて、外の景色を眺めた儘、「君の、『宝物』程じゃ、莫いさ」と云う。すると金田は、顔色を変えて、怒鳴り出した。

「何だと、此奴(こいつ)! 好い気になるなよな。御前みたいな三流作家に、俺の作品の良さが判る物か!」

其言葉を、其儘、返して遣りたかったが、口を(つぐ)んで、默って仕舞った。金田は、尚語気(はげ)しく、(たけ)り狂う。

「貴様! 俺の眼を、見ろ! 何だ、其気取った態度は。口惜(くや)しかったら、一度位好い作品を、書いて見ろってんだ。え? 如何なんだよ、書いてみろよ! 書けねえのか! 書ける訳、ねえよな、手前(て めえ)みたいな、三流作家に!」

思わず、金田の頬を、殴り飛ばした。金田は蹌踉(よろ)めいて、(ふすま)(もた)れ掛かると、「おのれ!」と叫ぶなり、山城に組み付いて來る。

どたん、ばたんと、二人で乱闘を始める。何、二人共、下手糞な作家に、相違は莫いのだ。同人雑誌だから、許されて居る丈の事、其証しに、二人の作品は、何時も並べて、終いの方に載せられて居る。其でも御互い、自分こそ天才作家と信じ切って、(いづ)れは、プロになる積りでさえ、居る。

醜い其格闘は、暫く続いた。

、焼きが回って來たか。如何も、燃す燐寸、燃す燐寸湿気(しけ)て居て不可い。僕も所詮は、山城や金田と、同類なのだ。

気を取り直して、復た一本、火を点じてみよう。何、未だ未だ沢山、燐寸は殘って居るのだ。(ふる)える手で以て、燐寸を擦って、其(かす)かな炎を、凝と奥迄、見詰める。(あゝ)、物語が、見えて來た。今度こそ、元気に燃え上がって呉れよ! 南無三!

右手に包丁持ちて、闇夜の(みち)を、(あて)莫くうろつく男が居る。一人子供を()くし、借錢に追われて、妻には逃げられ、自棄(やけ)を起こして、人の一人も殺して遣れ、とばかりに、荒い呼吸をしいしい、歩いて居る。

恰好(かっこう)の、獲物を見付けた。両手を隠袋(かくし)に突っ込み、下ばかり向いて、(だる)そうに歩く男が彼の方へと向って來たのだ。彼は街燈の当らぬ(ところ)に潜んで、今か今かと、ぶるぶる顫えながら、眼を輝かせて、待って居る。

男が目前に至った時、「今だ」と、心に叫んで、右手を突っ張った儘、体当りした。うっ、と低い声がした。彼は、狂喜した。「勝った!」と、思った。何に勝ったか知れぬが、()(かく)、そう思った。右手に、不思議な重みを感じて居る。もう少しで、喜悦の叫び声を、挙げる所であったが、然し、其企みは、意外な物に依って、阻止せられた。男が、腹を(おさ)えながら、(しゃが)れ声で低く、呟いたのだ。彼には、其一言で、充分だった。――「ありがとう」

彼は戦慄して、手を退()いた。男は前へつんのめると、どっと、(たお)れ伏した。若い男である。「ありがとう」、確かに、そう云ったのだ。(おそ)ろしくなって、脱兎の如く、()け出した。一遍に、酔いの醒めた心地だ。唯々、只管(ひたすら)に走った。走っても、走っても、何かゞ追って來る気がした。其を振り払う(べく)、唯闇雲に、走った。

「ありがとう」、そう云ったのだ、(あの)男は。何故(なぜ)? ――何故だろう。腹を突かれて、礼を云う法が、有るものか。然し、現に彼男は、云ったのだ、礼を、殺人者たる、此俺に!

生活苦? 失恋? 革命? 芸術? 社会への批判? 病? 思想の往き詰り? 解らぬ。何故、死をそんなにも、有難がるのか――宗教? 否。

何時か、八幡様に來て居た。小さな(ほこら)が、林に取り囲まれて、一つ、寂しそうに、ぽつんと建って居る。何だか、泣き出したくなって、非道(ひど)く狼狽した。そして、不図(ふと)考える――神への畏敬からか? ――否、其も、違うだろう。彼は、祠の前に(うずくま)りて、暫し物思いに、沈んだ。

生活。恋。革命。芸術。社会。病。思想。宗教。神。――其、()れも、当て(はま)らなく思った。然し、何れもが自然な、気もした。

一体、彼男は、何者だったのか。――はっとして、天を仰ぐ。

「神?」

身顫いが、した。俺は、神を手に、掛けたのか? そうして、仰向(あおむ )けに転がると、今度は、大笑いを始める。

「恋だ! 失恋だ! そうに、決ってる。失恋が原因なのだ。そうに違いない!」

其、俗な理屈をこじ付ける事に依って、少しく気が、楽になった。

「は! 下らぬ。種を明かせば、何と、詰らぬ物か! 奴は、失恋に依って、死を思った。()(みち)、自殺をしたに違い莫いのだ、偶然にも、俺と出()った御蔭で、其手間が省けたと云うものだ。ありがとうた、畏れ入ったぜ。気障(きざ)な男だ。下らない。其一言に、怯え切った俺も、下らない。愚の、骨頂だ!」

八幡大明神の面前で、彼はだらし莫く、笑い転げた。

「罪には、ならんさ、奴の、望みを叶えて遣った迄だ。親切だ。礼は云われても、罰の下る、道理が莫い! ――そうだろう?」そう云って、祠を(かえりみ)る。祠は、唯しんとして、何も応じない。彼は笑いから冷め、少しく寂しい笑を浮かべた。右手に、包丁が有る。首筋を血潮が、怯えつゝ、上へ上へと、進行して行くのを、感じる――

彼は、祠に向かいて、正坐をし、其哀れな首筋に、刃をそっと宛行(あてが)いて、勢い好く、前方へと()いた。

三本も、一時(いちどき)に、(まと)めて燃して仕舞った。全部に火が移らなくて、良かった。知らぬ間に、炎が移って居たのだ。然し、其御蔭で少しは、好い燃え方をして呉れた様な、気もする。――否、矢張り、失敗か。

人は何故、死を畏れるのか。苦しいからか? 何を、莫迦な、生き続ける方が、余程苦しかろうに……。何か、不安な事でも、有るのか。然し、そんな事を云って居ては、何時迄経っても、死ねぬではないか。(すべ)てを遣り尽して、往生する人が、在ろうか? 満足をして逝く事など、出來得るのか? 何も彼もに、満足をして。

恐ろしい程仲の好い夫婦が、或る晩、大喧嘩(おゝげんか )をした。翌朝夫が目覚めると、妻の姿は何処(どこ)にも莫く、何も知らぬ赤ん坊と、一枚の書き置き丈が、在った。夫は、哭き崩れた。

彼は、悲しみを(こら)えつゝ、今夜にも、笑いながら、帰って來るさ、と己れに云い聞かせて、涙を(ぬぐ)いて、会社へ向う。

其後、子供が死んだ。

彼が会社へ行って居る間に、一人息子が、過ってヴェランダから、落ちた。夜(おそ)く彼が帰宅すると、アパアトの住人達が、慌てゝ驅けて來る。話を聴き、驚きと、悲しみと、恐怖の余り、其場で失神した。

赤ん坊の葬儀にも、妻は現れなかった。其居処すら、(よう)として、判らぬ。

彼は葬儀の途中、そっと逃げた。電車に乘って、青森へ……

妻は、(はげ)しい後悔と、何か判らぬ、堪らない胸苦しさの爲、アパアトへ帰って來た。途中、葬儀を見た。吾子(あこ)である。真青になって、驅け込んだ。夫は既に、居なかった。烈しく、哭いた。哭くしか、莫かった。

或る日、不図(ふと)思い立ち、青森へ、行ってみる事にした。夫の、生家が、在るのだ。途々(みちみち)、不安の爲、(すゝ)り泣いたりした。

青森の駅を下りると、突然、何か、ぷつん、と云う、非常に(かす)かな音がして、立ち止まった。そうして、一気に不安が、襲って來た。堪らず、闇雲に驅け出す。

車に跳ねられた。頭を、強く打って、ぐったりした。

其時、夫は龍飛(たっぴ )岬に居た。(くつ)も脱がず、やっ、と云って、地を蹴り、空に身を躍らせる。(たちま)ち浪に呑まれて、見えなくなった。妻が、音を聞いたのと、同時である。

妻は、一命を取り()めた。何処か知らぬ、病院のベッドで、目覚めた。ぼんやりと、天井を見詰めて居る内、次第に意識が判然(はっきり)して來て、突然、跳ね起きた。軀中が、ずきん、と痛んで、どっと、(たお)れる。静かに閉じた眼から、(しづく)が、ぽつんと落ちた。痛みの爲では莫い。

()月後に退院すると、()ぐに、夫を捜しに出掛ける。(ほとん)ど青森中を驅け(めぐ)り、実家にも問い合わせて見たが、杳として、手掛が(つか)めない。

龍飛岬にも、行った。何故だか、懐しい気がする。涙の落ちる前に、くるりと脊を向けて、立ち去った。

東京へ帰っても、夫捜しは、終わらない。彼女は、何時果てるとも知れぬ、夫捜しの旅へと、旅立って行く。気掛りは、青森駅で聴いた、ぷつん、と云う、幽かな音――

此が、悲劇、絵に()いた様な。

(すべ)ては悲劇、ハッピイ、エンドは、まやかしに過ぎぬ。莫迦共は、悲劇を知らず、ハッピイ、エンドばかりを、心に(えが)きて、そうして何時でも、失望する。其でも、何度悲劇を見ても、悲劇を忘れ、ハッピイ、エンドを、心に描く。(かな)う訳が、莫い。笑わせるな。

今時、悲劇なんて、時代遅れか。そう、思っても良かろう。私は、そうは考えない。もう、裏切られるのは、沢山だ。君は、信じれば良い、ハッピイ、エンドを。飽きる迄、裏切られ続ければ良い。安易な期待を叶える程、運命の神も暇じゃないさ。ハッピイ、エンドには、現実には、厳しい条件が有る。

努力。誠意。忍耐。

云う程、易しい物では莫い。

書生が、自宅にて、首を吊って居るのが発見せられた。幸いにも、発見が早かった御蔭で、一命を取り留めた。彼は、病院のベッドの上で、静かに眼を開く。

「何処だ、此処(こゝ)は――地獄か? 天国か?」

そう呟く彼の顔を、一人の少女が覗き込む様にして、ほっと、安堵の溜息(ためいき)()いた。

「良かった、気が付いたのね」

(あゝ)、地獄よりも、尚悪い――」

そう、低く(うめ)く様に云うと、もそもそと軀を捻転(ねんてん)して、壁の方を向く。「生きてるとは…」

少女は、不図寂しい顔をして、ベッドから離れると、窓の方へと、静かに歩みながら、「如何して、こんな事するの」と、書生の顔も見ずに、()いた。書生は、其には(こた)えず、全く抑揚の莫い調子で、「君は、旦那が居るんだろう? 如何して、こんな処に、來て居るんだ」と、矢張り壁の方を向いた儘で、問い返す。少女は、少し驚いた様子で、彼の方に向き直って、

「旦那なんて、――居ません。如何して――」

(あゝ)そうか、此から、結婚するんだ。――聞いて、知ってるよ。見合いしたって。――好い調子なんだってな。――何にしろ、こんな処に居る(べき)人じゃ、莫いだろう。帰りなさい」凝と、壁を見据(みす)えた儘、淡々と云う。「何故、助けた」

「別に――あたしは、話を聞いて、飛んで來た丈で、あなたを助けたのは、別の人――」

「そうか――君の責任じゃ、莫いな」

少女は、窓を脊にして、もじもじして居る。書生は其()り、何も云わない。少女は暫時、みっとも莫くうろうろとして居たが、軈て、ベッドの脇の椅子に腰掛けると、「結婚式には――來て下さる?」と、(やゝ)怯えながら、細く尋ねる。書生は凝として、暫くは何も、応えなかったが、急にと跳ね起きると、少女を(にら)む様にして、

「來いと? 本気か、御前。此俺に、地獄已上の苦しみを、味わえと云うのか! おい! 帰れ、御前の顔など、見たくもない、帰れ! 消え失せろ!」と、(わめ)き散らし、再び、ばたん、と仆れ伏すと、頭から蒲團(ふとん)(かぶ)って仕舞った。少女が、涙を()めながら、小走りに病室を去ると、彼は、低い(むせ)び哭きを始めた。

此処迄で、何本、燃したか知ら。もう、好いだろう。疲れた。此已上、書く事は、莫い。未だ何本か、殘って居るけど、凡て火中へ、投じて仕舞おう。箱、諸共(もろとも)に――。

少しづゝ、火が拡がって行く。燐寸の頭に火が移ると、ぽん、と、小気味好い音がする。(りん)の燃えて居る今が、炎の盛りだ。其が少しづゝ、勢いを失い、軈ては、燃え尽きる――

おや、何か見える。もう直ぐ、火も尽きんとして居るのに……

私は独り、部屋の真中に、ひっそりと、寝て居る。一人の知り合いも莫く、妻子は元より莫く、親兄弟など、()うの昔に(ほろ)び果て、其他の親族達とは、幾十年も已前に、連絡を絶った切り。唯一人で、こうして、寝て居る。実は、数日已前から、風邪(かぜ)()いたらしいのだ。(せき)が、矢鱈と出る。否、咳は、もっと已前から有ったかも知れぬ。数个月、もとい、数年、否真逆(まさか)、そんなに古くも、莫いか……

如何(どう)も、年を取ると、体が弱って不可(いけな)い。此処数日、寝た切りで、足腰も、心()し細くなった様だ。掃除も、して居ない。此部屋は、大分(かび)臭い。雨戸でも、開けるか、然し、立てるか知ら。()れ、よっこらしょ。于、立てた、立てた。然し如何も、足(もと)が頼り莫い。せめて、雨戸丈でも、うん、駄目だ、異様に重たい。何時からこんなに、重たくなったのか知らん。

そう云えば、此所(このところ)真面(まとも)に飯も喰って居ない。高が風邪、何の此しき、私は其程、弱くない。

――ごほん。

おや、(たん)が出た。はゝ、此や傑作だ、血痰(けったん)が、出やがった。如何も、風邪では莫いらしい。先刻(さっき)から、咳の出方が尋常じゃ莫いと、思ったんだ。愈、終りか。飯は、()そう。勿体(もったい)莫い。蒲團に、戻るか、後は、待つ丈だ。

こうして居ると、昔の、若い頃の事が、色々と思い出される。昔は私も、其は人並みに、恋もした、悩みもした。そう云えば、自殺を計った事も有ったっけ。ふゝ、(あの)頃は、真逆こんな年迄生き延び様とは、(ゆめ)だに、思わなんだ。

私は此七十(しちじゅう)年、遂に、妻と云う者を、持たなかった。然し、此で良いんだ。彼娘(あのこ )は、彼時の娘さんは、今、如何して居るだろう。生きてりゃ、六十九、未だ健在か知ら。何でも、立派な人の処へ、嫁いで行ったと云う。昔、私が愛した(ひと)だ。私が、最後に愛した女、――否、最初に愛した、女だったかな? 心底から、愛したのは、彼人、唯一人だった。然し、私は不幸にも、貧しき画描き。彼人は、高貴な血筋の人だったから、向うの両親が、(ゆる)す筈も莫く、私は結局、冷たく突き放され、そうして私は、生涯彼人を、忘れる事が出來ず――今だって!

彼人は、悪くない。勿論(もちろん)、御両親とて、――私は、誰をも、(うら)んじゃ居ない。貧乏だった方が、悪いのだ。実際、()し彼人と一緒になって居たとして、彼人を、倖せに出來得たか如何(どう)か、――(はなは)だ、心(もと)莫い。此で良かったんだ。

如何も、痰が好く出る。(うるさ)くて、(ねむ)れやしない。睡れぬと、如何でも好い様な事ばかり、心の(うち)に浮かんで來て、如何も、遣り切れなくなる。弱ったな。七十の今になって、色々思ったっても、仕方の莫い事だ。下らぬ。私は最後迄、彼娘には好かれなかったのだ。互いに想って居たのなら、未練も殘ろうが、そうでは、莫いのだ。思い上がりも、甚だしい。恥を識れ!

(あゝ)、然し、最後に一目、逢いたかった。他にも、逢いたい人は、幾人か居るが、矢張り、彼人に一番、逢いたい。昔から、上品な娘さんだった。屹度(きっと)、素敵な御婆(お ばあ)さんに、なって居るに相違莫い。

何だって、涙が出るのかな、如何も、遣り切れない。早い所逝っちまいたいな。第一、気怠(けだる)いや。如何も、閉口だ。

突然、訪ねて來ないか知ら。――おや、私は一体、何を考えて居るのか。莫迦々々しい。彼娘は、私の住居(すまい)など知らぬ。生死すら、知る術は莫いのだ。屹度、私と云う、存在其物、忘れて居るに相違莫い。こんな汚い部屋で、一人の(じゞい)が想いを寄せて居るなど、努だに、思うまいて。

詰まらない。こうして、莫迦みたいに死を待つのも、疲れる。早々に方を付けよう。自殺、と云う奴だ。昔好く、試みた奴だ。久し振りだな、懐しい。然し今度は、失敗せぬようにしなければ。そう云えば、彼娘は、私の自殺には矢鱈と反対したっけ。今でも、反対するかな? 如何でも、好いか。早く逝こう。

首を(くゝ)るのが、一番確実だし、手っ取り早い。縊死(いし)、と云う。――まあ、何でも好い。()れ、最後の力を振り(しぼ)って、準備をするか――

血痰は、そう云えば、数个月已前から出て居た。咳はもう、何年も続いて居る。昨日、喀血をしたっけ。忘れて居た。彼雨戸は、此処数个月、一度も開けては居ないのだ。こうして輪に首を通すと、今迄朦朧(もうろう)として居た事が、急に、判然として來るから、不思議だ。――何だ、結核(テエベ)か、莫迦らしい。

(いづ)れは死ぬ身だ。今、逝った所で、何も変わりやしない。親戚(しんせき)も莫い。知人も莫い。独りなのだ。

真逆、今更彼娘も、止めはしまいて。

後は足許の踏み台を、力一盃に、蹴飛ばす丈。(これ)(この)通り。

火が、尽きる。火の向うで、渋谷の少女が、未だ立って居る。自殺に取り()かれた男は、女に電話をして居る。六本木で、無言の取り引きをする男が居る。青木の死体は、マンションの(ふもと)に転がった儘だ。田中は何処へ、走って行くのか。不幸な夫婦は、無言で、強く抱き締め合った儘、凝として居る。山城と金田は、今は既に疲れ果て、肩で息をしながら、其でも御互い、睨み合いを続けて居る。通り魔に刺された男の亡骸(なきがら)が、暗い夜道に横たわり、其通り魔も、八幡様の正面で冷たくなって居る。夫を亡くした妻は、其夫の死すら知らず、(いま)だに方々、捜し廻って居る。若い書生は、ベッドの上で、依然、哭き続けて居る。幸莫き老爺(ろうや)は、紐の先で、ゆらりゆらり()れて居る――

皆、()い人達ばかりだ。悪人なんて、居なかった。そう信じたい。私は、愛も、信頼も、誠実も、真心も、皆々信じて居る。ハッピイ、エンドだって、心の何処かで、矢張り信じて居る。今も、昔も、変わらず、信じて居る。信じて居ないと、辛いのだ。

必ず――

(終)

一九九三年(平成五年)、二月、二十二日、月曜日、先負。