燐 寸 箱
里蔵 光
恥を、識れ! 何だ、其顔は! 無様な眉と眼を以て、他人に憐憫を乞う、醜い乞食め! 御前は、太宰の生まれ変わり所の者では莫い、其已上の、極悪人だ! 私の此、狡猾さを、見るが好い、此醜さを、見るが好い、太宰などは目じゃないさ。他に例莫き、此世の、始まって已來の、大罪人だ。自殺如きで、償われ得る物では莫い。生きて、苦しみ、罪を償っても、償い切れぬ程の罪を犯して來たのだ。笑わせるな、太宰に、申し訳莫い。
――大罪人も、燐寸を擦る。落ち着いて、先づ、一本目に、火を燈して見よう。何か、物語が見えるかい。
渋谷の、駅の柱に凭れ掛って、凝と虚ろな瞳で、竚む少女が居る。男を、待って居るのだ。男は、少女の金を使い込んで、他で遊び廻って居る。其男の爲に、少女は軀を売って、稼いで居る。如何に非道い待遇を受けても、唯一途に、愛して居る。そうして、一途に信じて居るのだ。
もう、三時間も、そうして竚んで居る。男は他で、遊んで居ると云うのに、此哀れな少女は、唯、信じて、只管に待ち続ける。
次第に陽が暮れ行き、街には、ネオンサインがぽつ
恥? 罪? 識らぬ、そんな物は。醜かろう、見苦しかろう、私を責めよ。私は、諸君等の云う所の、大罪人に相違莫いのだから。
死を思った。女に、電話した。
「もう、俺は、死ぬから」
「駄目! 何で、そんな事、考えるの? 駄目よ、死ぬなんて…」
生きようと、思った。
半月して、復た、生きるのが嫌になった。
「息切れがして、仕様が莫い。もう、疲れたよ」
「如何したのよ、死んだって、仕方莫いじゃないの…私、嫌よ、死んじゃ嫌、生きて、……もう、そんな事は云わないって、約束して。生きてりゃ、屹度、好い事が有るから」
泣いて仕舞った。生きようと、思った。
一週間して、
「もう、止めるなよ、本統に、死ぬからな!」
「如何して? 何でよ! 死んじゃ駄目、貴方が死んだら、私も死ぬから!」
「君は、死なゝいさ」
電話を切って、首を輪に通した。紐が切れた。死ねぬ。莫迦々々しくって、苦笑した。
私は何も、気取って居るのでは莫い。三本目の燐寸を、擦ってみるか。
六本木の街を、ぶら
手が、震えて仕舞った。情莫くって、堪らない。何を書いて居るのか、自身、気が知れぬ。欸、死んで仕舞いたい!
青木は、必死に働いた。他の者も、青木の熱意を、認めて居た。上司は度々、彼の愛社精神を、褒めた。
給料は、他の同僚達よりも、多目だった。青木は、給料袋を携えて、女の所へ行く。女は、「愛してる」と云う、安っぽい文句で以て迎え、青木の首に両手を廻して、キスした。
翌朝青木は、五万丈持たされて、「復た、來月ね」と云う女に、精一盃の笑顔を返して、マンションを去る。そうして、四疊半一間の自室へ帰ると、翌日から復た、仕事に励んだ。
軈て青木は、栄養不良と疲労とで、入院した。
退院後、金が尽きたので、女のマンションへ行ってみると、ドアの向こうで、男の、声がする。笑い声がする。
青木は、マンションの五階の廊下より、空に身を躍らせた。ドアの向こうでは、何も知らぬ二人の男女が、ベッドの中で、笑いながら踊って居る。
欸、天は我を、見放したか! 行くな! 行かないで呉れ! 何も、信じられぬのだ。判らぬ、私は、一体如何すれば好いのか。愛? 信頼? 何、そんな物は皆、まやかしに過ぎぬのだ。誠実? 笑わせるで莫い。そんな言葉を口にして、恥ずかしくは、莫いのか? 真心? 何だ、其は。見た事も、莫い。
田中は默って、弘子の瞳を凝と、覗き込んだ。弘子はそっと、目を逸らす。
「本統に、俺が好きなのか?」
「うん…」
弘子は口籠った。田中は恐ろしくなった。不安で、堪らなくなり、「嘘なんだろ! 他に、男が居るんだな? そうなんだろ!」と、殊更に声を荒らげて、弘子を糾弾した。
そうして、弘子の口が、ゆっくりと開き、
「御免なさい…」
田中は、取り乱した。視界から、凡ての物が消え失せ、其場から、気違いの如く、走り去った。
信頼なぞ、糞喰えだ! 然し、咨、何たる事か! 他人の嘘など、決して見破れる物では、莫いのだ!
田中は、見破ったじゃないか、だって? 否、見破りなど、しては居ない。見破った、振りをしたのだ。其が
気の小さな、人の好い良人は、其切なさから、苦しさから、不安から、好く、放蕩をした。矢張り気の弱い妻は、其を識りつゝ、良人に毎日、多くの小遣い錢を与えた。見た事が、有るのだ、良人がプロステチウトの店へと入って行くのを。識ってゝ、默って居る。何時も悲しき眼で良人を見詰めながら、其を云えずに居る。云って仕舞えば、何も彼もを失くして仕舞いそうで、云えぬのだ。そうして何時かは、良人の放蕩の止む物と信じて、毎朝金を、手渡して居るのだ。
此所良人は、仕事に手を着けずに居る。彼の書斎には、山と積まれし、真白な原稿用紙が、唯凝と默って、ペンの乘るのを、待って居る。
妻は好く、良人の放蕩を、己れの所爲にした。自分が、至らぬ爲だと考えた。そうして好く、良人を抱いて遣ったが、良人は何時でも、虚ろな眼を、して居た。
或晩、良人が妻を抱きて、曰く、「俺は、近頃、放蕩ばかりして居る。御前は、知らぬだろうが…」
妻は默って、凝と、抱かれて居た。涙が、滲んで來た。
「でも、そろ
良人は飽く迄、淡々とした調子で、語る。驚いて見上げし妻の眼から、溜って居た涙が、一筋、つと流れた。良人は微笑して、妻の頭を、己れの胸へと押し付けると、「心配、するな、何も、心配するな」と、譫言の如く、呟いた。
「あたしに、飽きたんですか」涙声で、途切れ
「否、そうじゃないさ…唯、疲れたんだよ」
「あたしとの生活に、疲れたのね…」と、矢張り暗く、呟く。妻は多少、卑屈になって居る様だ。
「御前に、疲れた訳では、莫い」
「其なら、生きて下さい!」妻は、良人の痩せた軀に、腕を回し、ぎゅっと、しがみついて、「あたし、子供が、出來たの……」
良人は、はっとして、妻の顔を見た。
「いつ」其丈、云った。
「今日、病院に、行って來たの…其で……」
良人は、最愛の妻を、ひしとばかりに、強く抱き締める。生きねば、ならぬ、と思った。
妻は、より強く、良人を抱き締めながら、囁く様に、然し強い、意気を込めて、「愛してるから……」
「愛してる」! なんと、いじらしい言葉か! 愛などまやかしと、私は先に書いた。否! 己れを、僞るでない! 愛こそ、何より、自分には必要な物なのでは、莫いか。強がりを、云うでない! 何時も愛を求めて、おろ
止せよ、みっとも莫い真似は。誰も、御前の支持など、しては呉れぬ。
好い加減、死んだら、如何だい?
――此は些か、買い被り過ぎた。此小説には、未だ一度も、「怒り」の感情が、表現されて居ない。片手落ちだ。些と調子に乘り過ぎたか……
別に、其を恐れて居る訳では、莫い。唯、単に書き落した丈の、事なのだ。于如何か、信じて欲しい。――信頼を否定した男が、今は他に、信頼を乞うて居る。此や、傑作だ!
山城は、或る同人雑誌に、毎回作品を載せて居た。何時も、自信を持って、書いて居るのだが、同じ同人仲間である金田は、山城の作品を、一々莫迦にした。
「駄目だ、こんな物は!」
其が、金田の口癖だったが、山城は、金田の作品こそ、一度も、上手いと思った事が莫かった。
或る時、山城の家で、出來上がった雑誌を読んで居た金田が、急に大笑いを始めて、其雑誌を、ぽんと、放り投げた。何かと思って山城が振り向くと、金田は山城へ、侮蔑の眼を向け、ニヤ
「おい、山ちゃん。こんな物、好く書くよな。大笑いだ」
山城は可成、むっとしたが、何も云わずに置いた。そうして、眉を顰めた儘、窓の外へと、眼を向ける。然し金田は、そんな山城の態度は、気にも留める気配も莫く、口角を嫌らしく歪めて、
「第一、題名からして、気取ってるな。『星の詩』とは、畏れ入ったよ」と云って、腹を抱えて、笑い転げる。
山城は堪り兼ねて、外の景色を眺めた儘、「君の、『宝物』程じゃ、莫いさ」と云う。すると金田は、顔色を変えて、怒鳴り出した。
「何だと、此奴! 好い気になるなよな。御前みたいな三流作家に、俺の作品の良さが判る物か!」
其言葉を、其儘、返して遣りたかったが、口を噤んで、默って仕舞った。金田は、尚語気烈しく、哮り狂う。
「貴様! 俺の眼を、見ろ! 何だ、其気取った態度は。口惜しかったら、一度位好い作品を、書いて見ろってんだ。え? 如何なんだよ、書いてみろよ! 書けねえのか! 書ける訳、ねえよな、手前みたいな、三流作家に!」
思わず、金田の頬を、殴り飛ばした。金田は蹌踉めいて、襖に凭れ掛かると、「おのれ!」と叫ぶなり、山城に組み付いて來る。
どたん、ばたんと、二人で乱闘を始める。何、二人共、下手糞な作家に、相違は莫いのだ。同人雑誌だから、許されて居る丈の事、其証しに、二人の作品は、何時も並べて、終いの方に載せられて居る。其でも御互い、自分こそ天才作家と信じ切って、何れは、プロになる積りでさえ、居る。
醜い其格闘は、暫く続いた。
気を取り直して、復た一本、火を点じてみよう。何、未だ
右手に包丁持ちて、闇夜の径を、的莫くうろつく男が居る。一人子供を亡くし、借錢に追われて、妻には逃げられ、自棄を起こして、人の一人も殺して遣れ、とばかりに、荒い呼吸をしい
恰好の、獲物を見付けた。両手を隠袋に突っ込み、下ばかり向いて、懈そうに歩く男が彼の方へと向って來たのだ。彼は街燈の当らぬ処に潜んで、今か
男が目前に至った時、「今だ」と、心に叫んで、右手を突っ張った儘、体当りした。うっ、と低い声がした。彼は、狂喜した。「勝った!」と、思った。何に勝ったか知れぬが、兎に角、そう思った。右手に、不思議な重みを感じて居る。もう少しで、喜悦の叫び声を、挙げる所であったが、然し、其企みは、意外な物に依って、阻止せられた。男が、腹を抑えながら、嗄れ声で低く、呟いたのだ。彼には、其一言で、充分だった。――「ありがとう」
彼は戦慄して、手を退いた。男は前へつんのめると、どっと、仆れ伏した。若い男である。「ありがとう」、確かに、そう云ったのだ。畏ろしくなって、脱兎の如く、驅け出した。一遍に、酔いの醒めた心地だ。唯々、只管に走った。走っても、
「ありがとう」、そう云ったのだ、彼男は。何故? ――何故だろう。腹を突かれて、礼を云う法が、有るものか。然し、現に彼男は、云ったのだ、礼を、殺人者たる、此俺に!
生活苦? 失恋? 革命? 芸術? 社会への批判? 病? 思想の往き詰り? 解らぬ。何故、死をそんなにも、有難がるのか――宗教? 否。
何時か、八幡様に來て居た。小さな祠が、林に取り囲まれて、一つ、寂しそうに、ぽつんと建って居る。何だか、泣き出したくなって、非道く狼狽した。そして、不図考える――神への畏敬からか? ――否、其も、違うだろう。彼は、祠の前に蹲りて、暫し物思いに、沈んだ。
生活。恋。革命。芸術。社会。病。思想。宗教。神。――其、何れも、当て嵌らなく思った。然し、何れもが自然な、気もした。
一体、彼男は、何者だったのか。――はっとして、天を仰ぐ。
「神?」
身顫いが、した。俺は、神を手に、掛けたのか? そうして、仰向けに転がると、今度は、大笑いを始める。
「恋だ! 失恋だ! そうに、決ってる。失恋が原因なのだ。そうに違いない!」
其、俗な理屈をこじ付ける事に依って、少しく気が、楽になった。
「は! 下らぬ。種を明かせば、何と、詰らぬ物か! 奴は、失恋に依って、死を思った。何の途、自殺をしたに違い莫いのだ、偶然にも、俺と出遇った御蔭で、其手間が省けたと云うものだ。ありがとうた、畏れ入ったぜ。気障な男だ。下らない。其一言に、怯え切った俺も、下らない。愚の、骨頂だ!」
八幡大明神の面前で、彼はだらし莫く、笑い転げた。
「罪には、ならんさ、奴の、望みを叶えて遣った迄だ。親切だ。礼は云われても、罰の下る、道理が莫い! ――そうだろう?」そう云って、祠を顧る。祠は、唯しんとして、何も応じない。彼は笑いから冷め、少しく寂しい笑を浮かべた。右手に、包丁が有る。首筋を血潮が、怯えつゝ、上へ
彼は、祠に向かいて、正坐をし、其哀れな首筋に、刃をそっと宛行いて、勢い好く、前方へと曳いた。
三本も、一時に、纏めて燃して仕舞った。全部に火が移らなくて、良かった。知らぬ間に、炎が移って居たのだ。然し、其御蔭で少しは、好い燃え方をして呉れた様な、気もする。――否、矢張り、失敗か。
人は何故、死を畏れるのか。苦しいからか? 何を、莫迦な、生き続ける方が、余程苦しかろうに……。何か、不安な事でも、有るのか。然し、そんな事を云って居ては、何時迄経っても、死ねぬではないか。凡てを遣り尽して、往生する人が、在ろうか? 満足をして逝く事など、出來得るのか? 何も彼もに、満足をして。
恐ろしい程仲の好い夫婦が、或る晩、大喧嘩をした。翌朝夫が目覚めると、妻の姿は何処にも莫く、何も知らぬ赤ん坊と、一枚の書き置き丈が、在った。夫は、哭き崩れた。
彼は、悲しみを堪えつゝ、今夜にも、笑いながら、帰って來るさ、と己れに云い聞かせて、涙を拭いて、会社へ向う。
其後、子供が死んだ。
彼が会社へ行って居る間に、一人息子が、過ってヴェランダから、落ちた。夜晩く彼が帰宅すると、アパアトの住人達が、慌てゝ驅けて來る。話を聴き、驚きと、悲しみと、恐怖の余り、其場で失神した。
赤ん坊の葬儀にも、妻は現れなかった。其居処すら、杳として、判らぬ。
彼は葬儀の途中、そっと逃げた。電車に乘って、青森へ……
妻は、烈しい後悔と、何か判らぬ、堪らない胸苦しさの爲、アパアトへ帰って來た。途中、葬儀を見た。吾子である。真青になって、驅け込んだ。夫は既に、居なかった。烈しく、哭いた。哭くしか、莫かった。
或る日、不図思い立ち、青森へ、行ってみる事にした。夫の、生家が、在るのだ。途々、不安の爲、啜り泣いたりした。
青森の駅を下りると、突然、何か、ぷつん、と云う、非常に幽かな音がして、立ち止まった。そうして、一気に不安が、襲って來た。堪らず、闇雲に驅け出す。
車に跳ねられた。頭を、強く打って、ぐったりした。
其時、夫は龍飛岬に居た。靴も脱がず、やっ、と云って、地を蹴り、空に身を躍らせる。忽ち浪に呑まれて、見えなくなった。妻が、音を聞いたのと、同時である。
妻は、一命を取り留めた。何処か知らぬ、病院のベッドで、目覚めた。ぼんやりと、天井を見詰めて居る内、次第に意識が判然して來て、突然、跳ね起きた。軀中が、ずきん、と痛んで、どっと、仆れる。静かに閉じた眼から、雫が、ぽつんと落ちた。痛みの爲では莫い。
数个月後に退院すると、直ぐに、夫を捜しに出掛ける。殆ど青森中を驅け巡り、実家にも問い合わせて見たが、杳として、手掛が掴めない。
龍飛岬にも、行った。何故だか、懐しい気がする。涙の落ちる前に、くるりと脊を向けて、立ち去った。
東京へ帰っても、夫捜しは、終わらない。彼女は、何時果てるとも知れぬ、夫捜しの旅へと、旅立って行く。気掛りは、青森駅で聴いた、ぷつん、と云う、幽かな音――
此が、悲劇、絵に描いた様な。
凡ては悲劇、ハッピイ、エンドは、まやかしに過ぎぬ。莫迦共は、悲劇を知らず、ハッピイ、エンドばかりを、心に描きて、そうして何時でも、失望する。其でも、何度悲劇を見ても、悲劇を忘れ、ハッピイ、エンドを、心に描く。叶う訳が、莫い。笑わせるな。
今時、悲劇なんて、時代遅れか。そう、思っても良かろう。私は、そうは考えない。もう、裏切られるのは、沢山だ。君は、信じれば良い、ハッピイ、エンドを。飽きる迄、裏切られ続ければ良い。安易な期待を叶える程、運命の神も暇じゃないさ。ハッピイ、エンドには、現実には、厳しい条件が有る。
努力。誠意。忍耐。
云う程、易しい物では莫い。
書生が、自宅にて、首を吊って居るのが発見せられた。幸いにも、発見が早かった御蔭で、一命を取り留めた。彼は、病院のベッドの上で、静かに眼を開く。
「何処だ、此処は――地獄か? 天国か?」
そう呟く彼の顔を、一人の少女が覗き込む様にして、ほっと、安堵の溜息を吐いた。
「良かった、気が付いたのね」
「咨、地獄よりも、尚悪い――」
そう、低く呻く様に云うと、もそ
少女は、不図寂しい顔をして、ベッドから離れると、窓の方へと、静かに歩みながら、「如何して、こんな事するの」と、書生の顔も見ずに、訊いた。書生は、其には応えず、全く抑揚の莫い調子で、「君は、旦那が居るんだろう? 如何して、こんな処に、來て居るんだ」と、矢張り壁の方を向いた儘で、問い返す。少女は、少し驚いた様子で、彼の方に向き直って、
「旦那なんて、――居ません。如何して――」
「于そうか、此から、結婚するんだ。――聞いて、知ってるよ。見合いしたって。――好い調子なんだってな。――何にしろ、こんな処に居る可人じゃ、莫いだろう。帰りなさい」凝と、壁を見据えた儘、淡々と云う。「何故、助けた」
「別に――あたしは、話を聞いて、飛んで來た丈で、あなたを助けたのは、別の人――」
「そうか――君の責任じゃ、莫いな」
少女は、窓を脊にして、もじ
「來いと? 本気か、御前。此俺に、地獄已上の苦しみを、味わえと云うのか! おい! 帰れ、御前の顔など、見たくもない、帰れ! 消え失せろ!」と、喚き散らし、再び、ばたん、と仆れ伏すと、頭から蒲團を被って仕舞った。少女が、涙を溜めながら、小走りに病室を去ると、彼は、低い咽び哭きを始めた。
此処迄で、何本、燃したか知ら。もう、好いだろう。疲れた。此已上、書く事は、莫い。未だ何本か、殘って居るけど、凡て火中へ、投じて仕舞おう。箱、諸共に――。
少しづゝ、火が拡がって行く。燐寸の頭に火が移ると、ぽん、と、小気味好い音がする。燐の燃えて居る今が、炎の盛りだ。其が少しづゝ、勢いを失い、軈ては、燃え尽きる――
おや、何か見える。もう直ぐ、火も尽きんとして居るのに……
私は独り、部屋の真中に、ひっそりと、寝て居る。一人の知り合いも莫く、妻子は元より莫く、親兄弟など、疾うの昔に亡び果て、其他の親族達とは、幾十年も已前に、連絡を絶った切り。唯一人で、こうして、寝て居る。実は、数日已前から、風邪を曳いたらしいのだ。咳が、矢鱈と出る。否、咳は、もっと已前から有ったかも知れぬ。数个月、もとい、数年、否真逆、そんなに古くも、莫いか……
如何も、年を取ると、体が弱って不可い。此処数日、寝た切りで、足腰も、心做し細くなった様だ。掃除も、して居ない。此部屋は、大分黴臭い。雨戸でも、開けるか、然し、立てるか知ら。何れ、よっこらしょ。于、立てた、
そう云えば、此所、真面に飯も喰って居ない。高が風邪、何の此しき、私は其程、弱くない。
――ごほん。
おや、痰が出た。はゝ、此や傑作だ、血痰が、出やがった。如何も、風邪では莫いらしい。先刻から、咳の出方が尋常じゃ莫いと、思ったんだ。愈、終りか。飯は、止そう。勿体莫い。蒲團に、戻るか、後は、待つ丈だ。
こうして居ると、昔の、若い頃の事が、色々と思い出される。昔は私も、其は人並みに、恋もした、悩みもした。そう云えば、自殺を計った事も有ったっけ。ふゝ、彼頃は、真逆こんな年迄生き延び様とは、努だに、思わなんだ。
私は此七十年、遂に、妻と云う者を、持たなかった。然し、此で良いんだ。彼娘は、彼時の娘さんは、今、如何して居るだろう。生きてりゃ、六十九、未だ健在か知ら。何でも、立派な人の処へ、嫁いで行ったと云う。昔、私が愛した女だ。私が、最後に愛した女、――否、最初に愛した、女だったかな? 心底から、愛したのは、彼人、唯一人だった。然し、私は不幸にも、貧しき画描き。彼人は、高貴な血筋の人だったから、向うの両親が、赦す筈も莫く、私は結局、冷たく突き放され、そうして私は、生涯彼人を、忘れる事が出來ず――今だって!
彼人は、悪くない。勿論、御両親とて、――私は、誰をも、怨んじゃ居ない。貧乏だった方が、悪いのだ。実際、若し彼人と一緒になって居たとして、彼人を、倖せに出來得たか如何か、――甚だ、心許莫い。此で良かったんだ。
如何も、痰が好く出る。煩くて、睡れやしない。睡れぬと、如何でも好い様な事ばかり、心の中に浮かんで來て、如何も、遣り切れなくなる。弱ったな。七十の今になって、色々思ったっても、仕方の莫い事だ。下らぬ。私は最後迄、彼娘には好かれなかったのだ。互いに想って居たのなら、未練も殘ろうが、そうでは、莫いのだ。思い上がりも、甚だしい。恥を識れ!
欸、然し、最後に一目、逢いたかった。他にも、逢いたい人は、幾人か居るが、矢張り、彼人に一番、逢いたい。昔から、上品な娘さんだった。屹度、素敵な御婆さんに、なって居るに相違莫い。
何だって、涙が出るのかな、如何も、遣り切れない。早い所逝っちまいたいな。第一、気怠いや。如何も、閉口だ。
突然、訪ねて來ないか知ら。――おや、私は一体、何を考えて居るのか。莫迦々々しい。彼娘は、私の住居など知らぬ。生死すら、知る術は莫いのだ。屹度、私と云う、存在其物、忘れて居るに相違莫い。こんな汚い部屋で、一人の
詰まらない。こうして、莫迦みたいに死を待つのも、疲れる。早々に方を付けよう。自殺、と云う奴だ。昔好く、試みた奴だ。久し振りだな、懐しい。然し今度は、失敗せぬようにしなければ。そう云えば、彼娘は、私の自殺には矢鱈と反対したっけ。今でも、反対するかな? 如何でも、好いか。早く逝こう。
首を括るのが、一番確実だし、手っ取り早い。縊死、と云う。――まあ、何でも好い。何れ、最後の力を振り搾って、準備をするか――
血痰は、そう云えば、数个月已前から出て居た。咳はもう、何年も続いて居る。昨日、喀血をしたっけ。忘れて居た。彼雨戸は、此処数个月、一度も開けては居ないのだ。こうして輪に首を通すと、今迄朦朧として居た事が、急に、判然として來るから、不思議だ。――何だ、結核か、莫迦らしい。
何れは死ぬ身だ。今、逝った所で、何も変わりやしない。親戚も莫い。知人も莫い。独りなのだ。
真逆、今更彼娘も、止めはしまいて。
後は足許の踏み台を、力一盃に、蹴飛ばす丈。此、此通り。
火が、尽きる。火の向うで、渋谷の少女が、未だ立って居る。自殺に取り憑かれた男は、女に電話をして居る。六本木で、無言の取り引きをする男が居る。青木の死体は、マンションの麓に転がった儘だ。田中は何処へ、走って行くのか。不幸な夫婦は、無言で、強く抱き締め合った儘、凝として居る。山城と金田は、今は既に疲れ果て、肩で息をしながら、其でも御互い、睨み合いを続けて居る。通り魔に刺された男の亡骸が、暗い夜道に横たわり、其通り魔も、八幡様の正面で冷たくなって居る。夫を亡くした妻は、其夫の死すら知らず、未だに方々、捜し廻って居る。若い書生は、ベッドの上で、依然、哭き続けて居る。幸莫き老爺は、紐の先で、ゆらり
皆、善い人達ばかりだ。悪人なんて、居なかった。そう信じたい。私は、愛も、信頼も、誠実も、真心も、皆々信じて居る。ハッピイ、エンドだって、心の何処かで、矢張り信じて居る。今も、昔も、変わらず、信じて居る。信じて居ないと、辛いのだ。
必ず――
(終)
一九九三年(平成五年)、二月、二十二日、月曜日、先負。