或る日、森の中

里蔵光

書簡

私のことを覚えておいででしょうか。ご子息がお亡くなりになってから、早くも一年が過ぎて仕舞いました。一周忌の法要にお伺いすることが出来ず、非常に申し訳なく、()つ残念に思っております。私は現在、訳あって日本国内には居ないのです。非常に切迫した事由の為、(くに)に帰ることも(まゝ)ならず、また最近迄はご連絡を差し上げる機会さえ得られず、その結果として大切な義理と礼儀を欠いて仕舞(しま)いましたこと、大変申し訳も無く、切に、切に、御海容(ご かいよう)頂きたく、平に、平に、お詫び申し上げます。

私は昨秋、大変な過ちを犯して仕舞ったので御座います。ご子息の為と、毛の先程も疑わず、躊躇(ためら)いもなく、迷いもなく、あと少しで大変取り返しの付かない、大醜聞を引き起こすところで御座いました。今にして思えば、なんと浅はかだったことか、何と思い上がっていたことかと、顔から火の出る思いで御座います。

私は何度も死を思いました。その時も自らの命を(なげう)つ覚悟で()ったものですが、その後は全く反対の理由から、何度も自死を念慮しました。(しか)し私は、死んではならないのだと思います。この儘死んでも、健介に合わせる顔が御座いません。何をしているのだと叱られるばかりかと思います。私は未だ未だ生きて、()らなければいけないことが山の様にあるのです。それこそ、健介の為に。ご子息の為に、私は、今度こそ命懸けで、失ってきた心と時間とを、取り戻してゆかなければならないのです。

私は、御子息を(あや)めた者を識っています。いいえ、今迄も知っている心算(つもり)ではあったのですが、それは間違いでした。私はずっと長い間、(だま)されていた様なのです。

ご子息の死は、全く私に原因があるようです。私が弱く、隙だらけであったが(ゆえ)に、あのような凶事が発生して仕舞ったのだということで御座います。その意味では健介を殺したのは私であるとも()えるのかも知れません。然し私は、実際に手を下した者を知っているのです。それを命じた者も知っているのですが、それは既にこの世の者ではなくなったと聞いています。然し手を下した者は確かに生きています。私はそれを。

その者を探しに、国に帰ります。

見付けて、どうするかは、未だ考えが(まと)まってはいないのですが、人倫に(もと)る行いだけは致しませんことを、あなたに誓います。

健介に恥じぬ様、健介に叱られぬ様、一所懸命に果たそうと思います。

ただ、未だ私はこの国から出ることを許されていません。然し(いず)れ遠くない未来に、その許しは得られる見込みです。その時には、必ず犯人の首級を、いえ、それは物の(たと)えです。誇張した表現です。決して、物騒なことは致しません。それでも健介の墓前に、必ず恥ずかしくない立派な成果を報告出来る様、一心不乱に努めていきたいと思います。

このような告白をあなたに差し上げるのは、(いさゝ)か筋違いかとも思わないでもないのですが、大切なご主人に続き、その人との間の大切なご子息迄亡くされたあなたが、(のこ)された健介の弟妹達と日々俯きながら暮らしているのではないかと思うと、いや、これは全くの当て外れで、心を強く持って(しっか)り上を向き、日々明るく過ごして行かれているのかも知れませんし、私としてもそうであったなら()れ程心が救われるかとも思うのですが、然し健介の葬儀の日、見る影も無い程に(やつ)れ、終始俯きっぱなしで啜り泣いておられたあなたが脳裏から離れず、何事かでも言葉をお掛けしなければ、語り掛けなければ、識っている限りのことをお話ししなければと、そればかりが私の心をキリキリと(さいな)むので御座います。

実に身勝手な思い込みとは自覚しているのですが、然しそれでも、幾許(いくばく)かでもあなたの心の曇りを払えればと、私はペンを()っている次第で御座います。

(そもそも)あなたのご亭主の死にも、私は無関係ではありませんでした。これに就いてはあなたも当局よりお話を伺っていることとは思いますが、あれは私の父によるものでした。公務の中での、不可抗力の事故であったとは()え、それでも唯一その事態を防ぐことが可能であった筈の父が、その手ずから彼の命を取り溢して仕舞ったことは、全く慙愧の念に絶えず。

いや、違うのです、あれは父の(わざ)です。父が殺したのです。確かに私はそう聞いています。父が自らの身を護る為に、彼の攻撃を跳ね返し、それが彼の致命傷となったと聞いています。然し公務という庇護の下、父はその罪を問われること無く、今なお平穏に暮らしています。そして私はその息子です。健介に対して申し訳なく、また、罪悪感さえ抱いておりました。

勘違い為されない様、お願いしたいのですが、私はこゝで父を糾弾しようとしているのではありません。健介は、私の父は悪くないと云ってくれました。自分の父親が悪者だったのだと、だからそれは当然の成り行きであったのだと、健介はそう私に云って聞かせました。その何処迄が本心からの言葉であったのか、私には計り兼ねるのですが、私が父を恨まぬ様必死に配慮してくれていたのであろうことは、痛いほど伝わって来ました。それにも(かゝわ)らず、当時稚拙にも反抗期を引き()っていた私は、その彼の言葉も素直に()れることが出来ず、唯々(たゞゝゞ)困惑していた記憶があります。然し今私は、父の為ではなく、私自身の為でもなく、唯健介の為に、その心(づか)いの為に、その言葉を信じ、受け容れたいと思っています。

正直云ってそれは、並大抵のことではありません。はいそうですかと受け容れられる程、私の人格は完成しておりませんし、素直でもありません。それでも健介の為に、仮令(たとえ)時間が掛かったとしても、いつかは必ずその思いを受け止め、受容したいものと思っていることは、本統(ほんとう)です。あなたにも必ず、約束いたします。私は健介の言葉を、気持ちを、想いを、決して無駄にしたくはありません。この世に健介が生きていた証として、私は必ず彼の言葉を受け止めて見せます。

その健介の最後の日。御存知の通り私は、あのコンビニで夜勤をしていました。其処(そこ)へ血相変えた健介が転がり込んで来たものです。それはもう、恐怖に引き()った顔で、唯只管(ひたすら)に助けを求めていました。外では物騒な連中が大声で何事か怒鳴りながら、彼方(あちら)此方(こちら)と駆け回っていました。私はその者達から健介を(かくま)()く、彼をバックヤードへと押し込みました。それが奴等の狙いとも気付かずに。

彼奴(あいつ)等は、表通りで大騒ぎしながら健介を探している振りをしつゝ、こっそり店の裏に回って通用口からバックヤードに忍び込み、健介を。

健介は声を立てる暇もなく。

手引をしたのは誠治と云う男です。軽薄な態度で私に近付いて来たのです。この男は、健介が刺された晩、間髪置かずコンビニに現れて、丸で偶然通り掛かったかの様に装いながら、私の下の名を呼んだのです。私はその時迄、誠治に名前を伝えていなかった筈と、最近になって気付きました。只「神田」としか名乗っていなかった筈です。最初から私のことを知っていて、利用する為に私に近付いたのだと云うことです。出遭ってから(ほゞ)一年程の間、それ程頻繁に逢っていた訳でもなく、会話する機会など(ほとん)どなかったのです。それでも、数箇月置きに遣って来ては一方的に話し続ける誠治に対して、少しずつ警戒感が薄れて行ったのは事実です。そして事件の日、決定的に彼を信頼することになって仕舞いました。

全く隙だらけの私の心に、そいつはするすると、いとも簡単に(すべ)り込んで来たものです。冷たくなっていく健介を前に、唯白痴の様に茫然と口を開けて、言葉にならない声を発し続けていることしか出来ない私に、それこそ親身に寄り添って、恐らく最初から識っていたであろうことを一つ一つ私に確認しながら、私の気持ちを落ち着かせ、同時にその制御を確実に奪って行ったのです。

その日以降私は誠治の傀儡(かいらい)でした。誰だかよく判らない暴力団の男を、健介を殺した犯人だと云って粛正する現場にも立ち会いました。その時使用された拳銃は、私が運んだのです。思い返すだにぞっとして、震えが止まりません。私はその日を境に犯罪者になりました。誠治の云いなりになって、幾つもの悪事を働きました。流石に人を殺めるは(おろ)か、傷付ける様なことさえしてはおらず、一つ一つはそれこそチンピラ仕事の様な、取るに足らない小さな罪だったのかも知れませんが、塵芥も集まれば山となる喩えの如く、私の罪悪感も途轍もなく大きく膨れ上がり、のっぴきならない所迄行って仕舞いました。

私はあの日、死ぬ為に沖縄へ行きました。罪悪感に後押しされて、然し念頭に在ったのは誠治の為に、誠治に命を捧げる為にと、X国大統領暗殺計画の片棒を担ぎ、大量の爆薬を体に巻き付けて、諸共吹っ飛ぶ覚悟で()の大統領に近付いて行ったのです。

そこで父とその部下達に掴まり、X国へ身柄を送られました。私の傀儡人生はこゝでピリオドが打たれました。

誠治は矢張(やは)り父達の手に落ち、そこで爆死したそうです。私には意外でした。誠治が自死するなんて思いも寄りませんでした。所がよくよく聞いてみるとそれは自殺ではなく、爆弾の計画的暴発だったそうです。予想外の動きがあった時に勝手に爆発する仕掛けだった様で、準備中に籠絡された誠治は、その危なっかしい玩具(おもちゃ)を持った儘、諸共吹っ飛んだと云うことです。誠治も所詮、誰かの駒だったと云うことでしょうか。私にはその上の方の仕組みはよく判りません。何しろ一番の重心が、あっけなく消失して仕舞った訳で、それを聞いた時私は、真っ裸で中空に放り出された様な心持でした。ふわふわと風に飛ばされる風船にでもなったかの様な。

私は自分の自由を奪い続ける重しと、ぐらぐらな主体性の無い体を支持する柱とを、同時に失いました。何処へも行きたくなどないのに、何処へでも飛んで行けるぞと云われ、そうしてと吹き飛ばされたのです。地上に下りて来る迄には大分掛かりました。やっと大地に降り立った時、(すべ)ての記憶が脳内で鮮やかに再生され、そうして私は泣きました。何日も何日も泣いて、やっと自分が何をして来たのか理解しました。

最早(もはや)誠治への忠誠心などありません。不思議と恨みもありません。一度心の中をざっぱりと洗い流され、其処に過去の出来事、記憶が再配置された様な感じです。それらに対して何の感慨もありません。

健介に対する気持ち以外は。

健介にだけは、本当に、謝っても謝り切れず。

私が誠治なんかに目を付けられなければ。

本当に。私は。

――達也はそこ迄書いて、便箋を束ねて縦横に引き裂いた。

名古屋

四月も半ばを過ぎた或る日、診察室の隅でカーテンに隠れるようにして、弘和(ひろかず)は母の労働を見守っている。今日も診療所は賑わっている。病院が賑わっていては不可(いけ)ないとは思うのだけれど、母はこの辺りで有名な名医なので、重傷軽症問わず、外科内科問わず、虫歯以外は殆ど来ると云っても過言ではない。何なら虫歯が来たって治して仕舞うかも知れない。

その場合、治すのは母ではないのだけど。

弘和はそのことに就いて、何時も父に釘を刺されている。弘和には異能があるのだ。怪我も病気も、見ただけで治すことが出来る。見れば患部が判るし、念じるだけで病原を滅し、治癒力を高め、代謝を促進して、あっと云う間に健康な状態にして仕舞う。幼稚園児だった頃にそれをし過ぎて、母は名医になり、父にこっ(ぴど)く叱られた。実際その結果として患者は殺到する様になり、母の負担は増大し、家計は潤ったが、母は疲弊していった。

「患者の自然治癒力を信じて、過度な治癒はするな。母さんが倒れたら如何(どう)するんだ」

そう父に、何度も何度も(さと)されて、今では殆ど患者の治療に手を貸してはいない。それでも相変わらず患者が母の(もと)に集まるのは、元々本当に母の腕が良かったからなのかも知れない。だとしたら弘和のしたことは、(いよいよ)大きなお世話だったことになる。

弘和の能力のことは、家の中では父だけが知っている。母には知らせていないし、父から口止めされているのでバレない様にしている。父が知っているのは、父も同じ異能者だからだ。詰まりこの能力は遺伝なのだろう。

父は(かつ)て、この能力を使った仕事をしていたらしい。「らしい」と云うのは、ちゃんと聞いていないからだ。如何も母ともその職場で知り合った様なのだが、病院ではない様なのである。弘和には母が病院以外の如何(どん)な職場にいたものか、想像もつかない。

その時の父の同僚に、神田と云う人がいて、その人は今でも時々家を訪ねて来る。実はその人も異能者で、念動力を扱うことが出来る。いよいよ如何な職場なのか想像も付かない。以前「こうあん」だったとは聞いたことがあるが、それが何なのか弘和はよく判っていない。今では神田さんは警備会社で働いていて、弘和はその仕事の手伝いをする為に、二泊三日の旅行にこっそりと出掛けたこともある。――母には内緒なのだ。

その秘密の旅行は半年程前のことだ。五人の異能者のチームで沖縄に行った。異能者ばかりよく五人も集められたものだと思う。普段生活していて、異能者なんか絶対に出会わない。相手が能力を隠していたら判らないのかも知れないが……それにしたってそうそう居る訳でもないだろうと思う。弘和は更にもう一人、異能者を知っている。沖縄には同行しなかったが、弘和の能力を訓練する際に一緒に指導してくれた、都子お姉さんだ。その人は多分大阪の人だと思う。それに滋賀の人と、残りは神田さんも含めて、東京だった。東京の二人の女の子――そう云えば東京ではないと云う様なことを云っていた気もするが、よく判らない地名を聞いただけなので、取り敢えず東京と思っている――は、弘和よりちょっと上の学年だった。弘和は名古屋の、当時は小学二年生、今は三年生である。本当に各地から、よくまあ集めたものだと感心する。

神田さんには、そうした異能者を察知する力があるのだと云う。結構な広範囲にアンテナを張れる様で、殆どのメンバーは神田さんが見付け出してスカウトして来たのだろう。

そんなことを思いながら患者をぼんやりと眺めていたら、鳥渡(ちょっと)不穏な発熱患者が来た。この感じは久しぶりである。まだ感染者が出ているのだなと思いながら、弘和はその患者をこっそりと治癒した。この新型コロナ感染症だけは、治癒しても良いと父から云われているのだ。弘和はこの地区一帯の新型コロナ患者ゼロに、ずっと貢献し続けている。今ではもう大分弱毒化していて、放って置いても大丈夫だとは思うのだけれど、今迄続けてきたことなので(ほゞ)惰性の様に続けている。発熱用の待合個室では、すっかり熱の下がった初老の患者がきょとんとした表情で座っていて、近くを通り掛かった看護師に「熱が下がった気がしゃあすで、もっかい測らしてちょぉせんか」等と云っている。

〈あー、あんた、それはしてもいいんだ?〉

突然、弘和の頭に響いた声があった。一瞬ビクッとして、大きく目を(みは)った後、鳥渡頬の辺りを(ほころ)ばせて、キョロキョロと周りを見回した。

〈蓮さん? それと、テレパシーしてるってことは、知佳さんも?〉

蓮と知佳は、東京の異能力者だ。テレパスは知佳の能力で、知佳の周りにいる能力者は、知佳の能力に当てられて皆テレパシーが使える様になって仕舞う。「テレパス場に乗る」と表現する様だ。テレパス場が何なのか、弘和には解らないのだが。原理や理屈は解らないのだけれど、(いず)れにしたって蓮がテレパシーで語り掛けて来たと云うことは、知佳も近くに居る筈なのである。

〈ばぁか、見えるとこなんかに居ないよ!〉

口が悪いのは蓮の常態だ。でもそれが好い。不思議な中毒性がある。

〈蓮いつも、ユウくんにキツイよ。もっと優しく〉

〈ええ? あいつこれで喜んでるんだよ〉

何で判るんだろう。そう、蓮は何故だか、察しが良い。他人の心を読むのは知佳の能力だけど、蓮は能力関係なく、相手の気持を察して仕舞う。人誑(ひとたら)しと呼ばれる所以(ゆえん)だ。知佳だって、テレパス場に乗っている能力者の心は読めないのだそうだ。人誑しと云うのも、如何して中々、大したものである。

知佳が呼んだ「ユウくん」と云うのは、弘和のこの仕事をする際のハンドルネーム「ユウキ」から来ている。彼女達は弘和の本名を知らない。

〈そんなことより、二人共、今日はどうしたの? 沖縄以来だから、半年以上振りだよね?〉

〈診察終わったら呼ぶよー、じゃあねー〉

それきり蓮の声は聞こえなくなった。なんだろう。別に待たなくても好いのに。そこから診察の終了迄、弘和はずっと上の空だった。

「おお? ヒロくん今日はボーッとしとるがなも」

横を過ぎる看護師達が、そんな声を掛けて行く。

「眠たいならお家帰っときゃあせ」

「いや、そう云うんではにゃあで」

「宿題もせなかんのと(ちゃ)うんきゃ」

「ああ……うん……」

三年生ともなると宿題もそれなりに増えて来る。弘和には未だ、将来の夢等は特に無いのだが、周りは医者になるものと思い込んでいる節がある。本人は全く何も考えていないのだが。然し宿題は確り済ませておかないと、実は母が恐ろしかったりする。普段は迚も優しい母なのだが、叱る時は厳格に叱って来るので、余り半端なことは出来ない。毎日学校から帰ると診察を見学する程度には母が好きなのだが、それと同じ位母が怖いので、宿題はちゃんと遣る様にしている。

然し今日は出来るだろうか。あの二人が近くに来たと云うことは、何処かへ仕事で連れて行かれるのではないだろうか。二人を連れて来たのは、神田さんか、いや、()しかしたら都子さんかも? プレイボーイだったと云う父の血ではないと信じたいのだが、何となく心が(うわ)ついて来る。蓮の人誑しとは違って、父の女誑しは頂けない。自分にその素質があるなんて思いたくもない。それでも、知佳も蓮も都子も、明らかに弘和は大好きなのだ。子供だから許されている様なところはあるか。然し何時迄もそんな甘ったれたことは云っていられないだろう。何れは一人に絞って――

「だで、そう云うんではにゃあて!」

思わず自分に対して突っ込んで仕舞い、顔を真っ赤に染めた。看護師達が吃驚して振り返る。

「なんぞしたん? 独り言きゃあも」

「なっ、何もないが!」

診察を終えた母が悠然(ゆっくり)と振り返り、

「ヒロ。静かにしとらんかったらかんがね」

と、低いトーンで叱責した。看護師達は身を(すく)め、弘和は恥ずかしさの余り俯いて、

「ごめんなさい」

と謝った。

後片付け等一通り済ませた後、看護師達を帰し、診療所を閉めて、弘和は母と二人で、診療所の二階にある自宅へと帰った。帰るなり自分の部屋へ行くと、真っ直ぐベッドに突っ伏した。

「おーい、如何した、何があったの」

声に驚いて身を起こすと、部屋には蓮と知佳がいた。

「わっ! な、何で! 勝手に部屋!」

「勝手じゃないし。小父さんニコニコしながら上げてくれたし。此処(こゝ)で待ってなって云われたから、ずっと此処で待ってたんだけど?」

「はああ!? 父さんの奴!」

取り乱す弘和に構わず、蓮は一頻り部屋を見渡し、

「ふうん? 聞いてた話と違うなぁ。ユウ、一人で寝てるじゃん?」

弘和はぽかんと口を開けた。

「あんた琵琶湖の夜、何て云った? 一人で寝られないから? 知佳さん一緒に寝て?」

「あ」

「いつもお父さんとお母さんと? 一緒に寝てるから? とかなんとか?」

「あっ、あの頃は未だ……ホントだって! あの後なんでか、一人で寝られる様になったから、部屋にベッド入れて貰って」

「へぇえ?」

相変わらず蓮は疑わしそうな眼で弘和を見て来るのだが、知佳はにっこりと微笑み、

「ユウくん成長したんだね。えらいぞ!」

と、弘和の頭をくしゃくしゃ撫でた。それで弘和は真っ赤になって、またベッドに突っ伏すことになって仕舞った。

「何しに来たんだよぉ」

枕に顔を押し付けた儘、やっとそれだけ云った。

「その前にあんた、『ヒロ』なんだね? ユウキは偽名?」

「ハンドル!」

「何それ」

「お母さんが由紀で、僕の能力お母さんからの遺伝要素もあるって聞いてたから……お母さんは僕の能力も自分の能力にも気付いていないんだけど、せめて名前だけでも一緒に活躍したくって……」

「なんだそりゃあ。なんか好い話っぽいし、気に食わない!」

「蓮、それは非道いよ」

知佳が蓮を(たしな)める。

「それで何しに来たんだよぉ」

「あたし達には名古屋弁話してくれないの?」

「なんでだよ、そんなん如何でも好いだろぉ!」

「なにもぉ、出し惜しみ!」

全く進展のない会話を続けていると、もう一人の客が忽然と部屋に出現した。擦り切れたジーパンに、真っ黄いろな靴下、水色のTシャツにはスヌーピーのプリント、その上からペラペラの、胸元にTHのマークが入ったスタジャンを羽織っている。

「君等、全然話進まへんのな。何時迄うちら待たしとんねん」

「あっ、ミヤちゃん。ごめんなさぁい!」

蓮がぺろりと舌を出した。

「都子さん迄……何か案件ですか?」

弘和は(ようや)くベッドから起き上がると、ベッドの縁に腰掛けて、都子を見上げた。

「そやで、そうでもなきゃこんな処迄来るかいや」

「ミヤちゃんも非道い」

「ほうか? えゝねん、そんなことより、お仕事や。――と、その前にや。時間遣るから宿題済ましとき」

「あっ、はい……」

この都子と云う女性は、空間を自由自在に操る能力を持っている。所謂(いわゆる)ワープや、亜空間への移動等、その全容は弘和にも未だ掴み切れてはいない。(たゞ)、蓮と知佳を連れて来たのは明らかに都子だ。神田であれば空を飛んで移動して来るのだろうし、蓮なんかはテレポートが出来るのだが、都子の場合、離れた地点からたった一歩で目的地に辿り着くことも出来るし、一旦亜空間へ退避した上で、そこから此方の世界を監視しながらタイミングを見て姿を現す、なんてことも出来るらしい。理屈はよく判らない。神田さんが何か説明していた様な気もするけれど、よく理解出来なかったし、その為内容も略覚えていない。

神田の移動は時間が掛かるし、蓮のテレポートは移動先の状態が判らないと出来ない上、大人数の移動にも向いていなさそうである。その点都子の移動は、先に空間を繋げて仕舞うので目的地を視認しながら移動出来るし、大人数の移動にも適している。都子がチームにいるだけで、移動と云う点では可成(かなり)有利になる。沖縄の時には都合が付かなかった様で、その為主に神田の念動力で空を飛んで移動したものだが、そこに都子がいたら如何だっただろう。亜空間の利用も含めて、色々と行動し易かったかも知れない。

更に都子は、恐らく戦闘力も高い。空間を操れると云うことは、環境を何時でも自分達に都合の好い様に作り変えられると云うことだ。明るさや気温を変えたり、音や臭いを出したり消したり。時間の流れさえ変えられる。時間を止めて相手が固まっている間に幾らでも攻撃出来るのだから、こんな凶悪な能力も()いと思う。都子が善人で良かったと、弘和は(つくづく)思い、胸を撫で下ろした。

「はよしぃや」

余計なことを考えながらもたもたしていたら、都子に()っ突かれて仕舞った。

「時間止めとるからな。齢ばっか食うで」

「えっ」

そんなお手軽に時間を止めなくても好いのに。そう思いながら弘和は慌てゝ机に向かい、ノートを広げ、宿題に着手した。

「解らないところあったら知佳が教えるよ」

蓮がそんなことを云う。蓮は教えないのだろうか。

「あたし莫迦(ばか)だからなぁ。あゝでも、流石に三年生の内容なら解るかな?」

「知佳は自分で思ってるほど馬鹿じゃないから。あたしの方が授業余り聞いてないし、成績悪い位だよ」

「何云ってんの、何時もテストで良い点取ってるじゃん」

「八十点とかが良い点?」

「うん」

「ほれ、二人とも、ユウキの邪魔んなるから黙っとき。何ならあっちに帰っとくか?」

弘和は二人のお喋りも心地よく聞いていたのだが、帰られては寂しいと思い、慌てゝ振り返った。

「こら、気ぃ散らさんと」

「あ。はい。――えゝと、帰らないで好いです。待ってゝ」

「なんや、寂しがりか」

蓮はニヤニヤしながら此方を見ている。弘和が知佳のことを好きだと、蓮は決めて掛かっているのだ。そう云うのではないんだけど、と思いながら、弘和は宿題に集中した。

川崎

その一週間程前。下校中の知佳と蓮の頭に、突然神田の声が響いた。

〈ご無沙汰しております、神田です。今お時間よろしいですか?〉

知佳と蓮は顔を見合わせて、やれやれと云う表情をした。

〈今下校中ですから。(うち)帰って(また)出て来るんで、それ迄待ってゝ貰えます?〉

知佳がそう返すと、〈諒解(わか)りました〉との返事があり、テレパスの気配は消えた。

地蔵の立っている辻で、二人は立ち止まる。こゝから二人の帰路は分かれることになるのだが、その前に予定を合わせておこうと思ったのだ。

「全く、神田っちは何時でも突然なんだから。ほんとやんなっちゃう」

蓮が毒突くと、知佳はふふっと笑って、

「それでも今回は、いきなり(さら)われなかっただけマシかもね。出直して来るの待ってゝくれるって」

屹度(きっと)ミヤちゃんに怒られたんだ」

「ふふ。そうかも」

最初の沖縄の時にしても、その次の正月の白馬の時にしても、何時も突然念動力で空に打ち上げられたり、若しくは都子の異空間に連れ込まれたりして、準備も心構えも何も出来ない儘に案件とやらに巻き込まれて来た。今回は鳥渡だけ余裕があるのか、準備をする機会を与えてくれているのは、神田自身の進歩なのかも知れないし、蓮の云う通り、不誠実な遣り方を嫌う都子に叱られた結果なのかも知れない。

「単に、時間に余裕があるだけなのかも知れないけどね」

知佳がそう云うと、蓮は少し残念そうに、

「そうか、今迄二回とも、ギリギリのスケジュールだったもんね。心入れ替えた訳じゃないのか」

と云って溜息を()いた。

「で、如何する? 神田っちだけなのか、ミヤちゃんも居るのかにもよるけど、余り賑やかな処だと他人目(ひとめ)に付くから」

「そうだね。神社の裏とかなら、神田さんの念動力でも、都子さんのワープでも、目立たないかも」

「じゃあそこで。知佳、また後でね!」

「うん、あ、宿題遣ってから出るから、三十分後ぐらいに」

「早! あたしそんな早く片付かないかも」

「えー? じゃあ一回蓮のおうち行こうか?」

それを聞いた蓮は嬉しそうに飛び跳ねながら、「ほんと? じゃあうち来て! それから神社行こ!」と云った。

そうして二人は手を振り合って別れ、それぞれの家路へと就いた。

帰宅すると知佳は直ぐに机に向かい、宿題の漢字ドリルと計算ドリルを並べる。半年前にはこれが、本当に苦痛だった。知佳の異能力はテレパスなのだが、当時は未だ未だ未熟で、能力の制御が出来ず、脳のエネルギーを(すべ)て持って行かれている様な状態だった。意思に関係なく他人の思考が流れ込んで来て、知的活動を阻害していた為、学校の授業も何も記憶に残らず、宿題を遣ろうにもチンプンカンプンで、親に教えて貰いながら四苦八苦していたものだ。それが、沖縄案件から帰ってからは能力の制御が出来るようになり、頭もスッキリして、授業にも付いて行けるし、宿題も遥かに楽に片付けられる様になった。あの三日間で知佳の能力はぐんと発達し、もう振り回されることもなくなったのだ。行って良かった、見つけ出して貰って良かったと、その点に就いては本統にそう思う。

能力に目覚める前の様に、色々考えたり勉強したりと云うことが当たり前の様に出来るのが嬉しくて、知佳はそれ迄以上に勉強を頑張り、成績も以前より上がっていた。然し知佳は、蓮には敵わないと何時も思っている。蓮は何時でもマイペースで、授業も聞いているのかいないのか判らない様な態度を取っている癖に、テストで悪い点を取ったところを見たことがない。今日だって宿題に時間掛かる様なことを云っていたが、果たしてそうだろうか。蓮のことだから、着手する迄に時間を掛けているだけで、始めて仕舞えば早いのではないかと、知佳は疑っている。だから早く宿題を済ませて、蓮の家に行きたい。どうせ知佳が行く迄手を付けていないのだろうとも思っている。それを確かめたい。

そんな思いで何時もより早めに宿題を片付けると、階段を駆け下りて台所を覗き込み、「宿題終わったから、蓮と遊んでくるね!」と母に声を掛け、返事も待たずにドタドタと家を飛び出し、自転車に(またが)った。

蓮の家は、今では珍しい団地の二階にある。昭和の後半、未だ「戦後」なんて言葉が通用していた頃に建てられたものらしく、令和の今では老朽化も可成進んでいる。空き室も多く、残っているのも高齢者ばかりで、そんな中に父親と二人で暮らしている。母親は蓮が二年生の年に、その頃流行り始めた世界的な感染症で落命した。看護師だったのだ。

蓮の父は何の仕事をしているのか知らないが、こんな御時世でも在宅勤務などは出来ない様で、毎日出社してると云う。詰まり学校から帰ってから夜父親が帰って来る迄、蓮は毎日一人で過ごしていることになる。地蔵の辻で蓮の家に行く約束をした時、嬉しそうにしていたのも頷けると云うものだ。毎日寂しい思いをしているのだろう。もっと毎日、蓮を遊びに誘ってあげる()きなんだなと、知佳は反省の籠った思いを(いだ)きながら、ドア脇の呼び鈴を押した。

「はいはーい! 上がって!」

直ぐに玄関扉が開いて、蓮が顔を出した。

「お邪魔しまぁす」

「手洗い(うがい)してね!」

古い造りなので、上がり(かまち)なんてものがある。そこに腰掛けて脱いだ靴を揃えると、知佳は洗面所へと案内された。洗面所には学校や病院でよく見掛ける、手洗いの手順を書いたポスターが貼ってある。母を新型コロナで亡くしているので、この辺りの感覚は余人よりも厳格なのだろう。知佳はそのポスターに従って、丁寧に手を洗い、嗽した。

蓮の部屋に行くと、計算ドリルを広げて宿題をしている最中だった。後ろから覗き込んでみると、殆ど進んでいない。

「あ、知佳! こゝ教えて!」

知佳に気付いた蓮が振り返って、一問目の問題を指差す。

「そこから!?

蓮は頭が良いと思っていたが、そんなところから解らないとは。じゃあなんでテストで良い点取れるんだろう。

「いつもはお父さんに訊くんだけどさ。それだと夜になっちゃうから」

「あゝ……そうなんだ」

「先生の説明よく解んないんだよね。お父さんに訊くと直ぐ解るんだけど」

「へえ。お父さん教えるの上手なのかな?」

「先生よりはねぇ」

「まあ確かに、先生判り難いけど……でも今年は去年よりマシだよ」

「そうなんだ? もう諦めちゃって最初から聞いてなかった」

そう云って蓮は笑った。

知佳の手助けにより宿題を片付けると、蓮はノートをランドセルに放り込み、「よし、神社行くべ!」と云った。

「出た、川崎弁」

「好いじゃん! 行くよ!」

語尾の「べ」は、川崎弁なのか神奈川弁なのか知らないけれど、知佳達は世代なのか女子だからなのか、余り使わない。然し改めて思えば、男子は結構使っているかも知れない。女子でも使っている子はいる気がする。日常の事なので余り意識していなかったけど、蓮が使うのは珍しいなと感じた。そう云えば親達もあまり使っていないかも知れない。生粋の神奈川県民じゃないからか。

二人で団地を出て、自転車で目的の神社へと向かう。神社は街中(まちなか)にあるけれど、裏手の方は植樹されていて鳥渡した林の様になっている。その辺りに自転車を止めると、知佳は周囲を伺った。

「神田っちいる?」

「神田さんがあたしたちを見失う訳無いと思うんだけど……何処だろう」

その時二人の頭に声が響いた。

〈準備よろしいですか?〉

〈来たな神田っち! 何時でも好いよ〉

蓮が返すと、二人の体がふわりと浮き上がり、次の瞬間物凄い勢いで雲の上迄達していた。

「どうも、御無沙汰しています」

神田が目の前で、軽く頭を下げた。

「今日はミヤちゃんは?」

「ああ、今日は説明だけですし。取り敢えず私だけです」

「あ、そうなんだ。この儘連れてかれるかと思った」

知佳はほっと胸を撫で下ろした。

「今回は然程緊急性は無いのですが、まあ、これから起きるだろうことが事前に判っているので、十分時間を掛けて準備している所です」

「ふうん、毎回そうなら好いのにね。大統領の時だって大分前から判ってたんじゃないの?」

蓮の突っ込みに、神田は気拙(き まず)そうに眼を泳がす。大統領と云うのは、沖縄に行った時の話で、X国大統領の警護を秘密裏に行ったのだ。大統領の来日予定なんか、突然決まるものでもないだろうと、そう云う指摘だ。

「あの時は、あなた達とのコンタクトに手間取って仕舞いまして……蓮さんとは出発する何日か前にお会いしましたよね」

「えっ、そうなんだ」知佳は蓮を見る。

「あれは怖かったよ。あたしが能力自覚したその日に、現れるんだもん」

「あなたが使うのを待っていたんです。大分能力が発達していたので、数日の内に発現すると思って暫く観察していたんですが、それでも結構ギリギリでした」

「監視されてたんだって。知佳、あんたも結構前から目を付けられていたと思うよ」

「ええ……そうなんだ」

知佳が少し厭そうに眉を(ひそ)めると、神田は慌てた様に、

「知佳さん判り難かったんですよ。自分から能動的に能力使っていなかったじゃないですか。ずっと受け身で、人々の心の声を受け容れていただけだったので、特定が難しかったんですよ」

「そうなんですか? でも見付かっちゃったな」

「運動会で倒れられたので、若しかしてと思って近くに行って、漸く確信出来たんです。――私は能力者のサーチをする能力がありますが、これも万能じゃないんですよ。例えば都子さんは、もう二年ばかり都内に住んで居るのですが、私には見付けられませんでした」

「そうなんだ。じゃあミヤちゃん、如何して仲間になったの?」

「偶然大阪で、クラウンさんが遭遇しましてね。それを切っ掛けとして、御自分から登録に来られたんです」

「へえ、意外。何で神田っち判らなかったんだろ」

神田は少し頬を綻ばせて、姿勢を崩した。

「それは都子さんの能力特性の所為ですね。使っていない時には殆ど感知出来ない種類の能力みたいですし、あの人が能力を使った次の瞬間、もうそこにはいないですから。云われてみれば神楽坂の辺りで、なんかの能力が一瞬だけ閃くことが何度かあったなとは思ったんですが、一瞬なので、追い掛けられないんですよね。その時都子さんは、亜空間にいたり、あるいは兵庫のご実家に帰られていたりしていたと云う訳で、私には見付けられなかったんですよ」

「あ、ミヤちゃん大阪じゃなくて兵庫なんだ」

「尼崎ですね」

「ふうん――あのさ神田っち、そういうこと本人居ないところでベラベラ喋っちゃって好いの?」

「あ――(まず)かったですかね。聞かなかったことにしてください」

「そう云うことしてるからミヤちゃんに叱られるんだよ」

神田はバツが悪そうに頭を掻いた。知佳は何だか呆けた様な顔をしている。

「あたしそんな地名聞いても何処だか全然判んないし、大丈夫だよ」

「あのね知佳、それはあんたが地図の読めない女だからであって」

「もぉ、解ってるよ。方向音痴って云いたいんでしょ?」

知佳は頬を膨らませた。

「でも学校と、蓮のおうちと、この下の神社は判るもん」

「知佳、それは凄いことなんだよ」

「もぉ、莫迦にして!」

知佳は蓮をポカポカ叩き、蓮は叩かれながらもけらけらと笑っていた。

「さて、そろそろ本題に入っても宜しいでしょうか?」

神田は二人を微笑ましく眺めながら、割って入った。

「あたしは最初からずっと、その本題待ってるんだけど?」

「あたしも! 神田さんが中々話してくれないから、蓮のこと叩いちゃったじゃん!」

「そうか、あたしが叩かれたのは神田っちの所為だったか!」

「これは失礼しました。実はですね――」

大月

神田がその一報を耳にしたのは、それから更に一箇月ばかり前の事だった。

山梨県にある、忠国警備の大月支部へと呼び出された神田は、指定された会議室へと向かう。室内には上司である佐々本部長の他に、見知らぬ西洋人がいた。神田が入室すると佐々本が直ぐに気付き、立ち上がって神田を手招きした。

「おう、来たな。こゝ座れ」

「此方は?」

「This is Shinichiro. He's Tatsuya's father.(此方が真一郎。達也の父です)」

「え」

佐々本は神田に答える前に、神田をその西洋人に紹介した。西洋人は立ち上がると、右手を差し出した。

「Shinichiro, I'm so glad to finally meet you in person.(真一郎、漸くお逢いすることが出来て迚も嬉しいです)」

「えっ、あ、はい!」

「此方、X国のサミュエル氏だ。せっかく英語で話してくれてるんだから、もう少しまともな会話せんか」

佐々本はアメリカに数年赴任していたこともあるぐらいで、英語も達者である。対して神田は機械の設計技師から脱サラして警官になり、それも退職して警備会社に来たという経歴なので、英語はからきしである。

「は、はい、はーわーゆぅ」

そう云って神田は、差し出されている手を握った。

「おいおい」

佐々本は豪快にがははと笑うと、「お前の為に遥々(はるばる)来てくれたんだ、愛想良くせいよ」と云ってから、サミュエルに対して何やら話し掛けた。そして神田に向き直ると、

「俺自ら通訳を務めて遣るのだ、感謝せいよ!」

そして二人に会議机を挟んだ向かい合わせで着座を促すと、自身は二人に対して直角の向きにパイプ椅子を移動して、腰を下ろした。

こゝからは、神田としては佐々本との会話になる。その先にサミュエルがいることは判っているのだが、如何しても時々意識から外れて仕舞う。それだけ佐々本の存在感が強いのだ。元より通訳に向く人柄ではないのだろう。

「私に態々(わざわざ)逢いに来たと云うことは、その……」

「そうだ。私は達也のことを話しに来た」

「矢張りそうですか……彼はその……元気にしていますか」

サミュエルは人の良さそうな笑みを浮かべた。

「とても元気だ。洗脳が解け掛けていた正月頃には落ち込んでいる様なことも多かったが、今ではそれも乗り越えて、我々と談笑することさえある」

「あいつ……言葉は?」

「もちろん話す」

「いや、そうでなくて。X国語とか話せるんですか?」

サミュエルはハハハと笑った。佐々本もガハハと笑った。若しやこれも通訳している心算(つもり)なのか。だとしたら可成ニュアンスが変わっていそうだな、などと思って仕舞った。

「簡単な会話なら、通訳なしでも話す様だ。然し(もっぱ)ら、通訳を通しての会話だな」

「そうですか」

(さて)この上何を聞こうか。達也は神田の一人息子だ。半年前の沖縄案件で、Y国のテロの片棒を担いでいた所為で、X国に身柄を拘束された。()の国で裁判に掛けられて、恐らく有罪になった筈だ。――しかし、訊きたいことは山程あるのに、何も出て来ない。神田は(やゝ)情けない表情で佐々本を見た。佐々本はその視線を受け止めると、勝手にサミュエルと何やら話し始めた。

「かかりちょお」

「部長だよ。如何やらもう直ぐ帰って来るみたいだな」

「誰が?」

「達也だよ、他に誰がおるか」

「あ、そりゃそうですね――えっ、帰って来るって、日本に?」

「そうだよ。お前如何した、今日はやけに飲み込みが悪いな」

「あゝ……いや、はい……」

神田は悩まし気に目を閉じた。サミュエルが心配そうに見詰め、佐々本と何事か会話を交わす。

「帰国に際しては、達也には監視が付けられる。保護観察、みたいな扱いだな。名目上は自立支援だが」

「ああ……はい。どこかの施設で預かる感じですかね」

「いや――そうだな、普通のアパートを用意するそうだが、手配が進んでいない様で、それ迄の間当社(うち)で預かれないかと云って来ている」

「はい? 忠国警備でですか?」

「不可能ではないが――前例が無いので、勝手が判らんな。上の方で協議してからでないと決められん」

神田はサミュエルを見た。なんだか困った様に微笑んでいる。

「具体的には、いつ」

「未定なんだが、黄金(ゴールデン)週間(ウィーク)よりは後になるだろう。連休前後は、日本の側が色々対応し切れないのでな」

「成程――そうですね。それなら準備期間はたっぷりありますね」

「そうかな。まあ、当社が駄目だった場合、国のどっかの施設と云うことになるんだが――正当な扱いを受けられるかは微妙だな。適した施設が思い付かんもんな」

「下手したら監獄か、そうでないにしたって隔離病棟辺りに押し込まれ兼ねませんね」

「うん――いや、そこ迄酷くはないと思いたいが」

「何とか当社で引き取れるよう、お願いします」

「もちろん、全力を尽くすよ。然し部長程度に出来ることなんか知れてるからな」

「係長ならそんなの無視して横車押せるでしょう」

佐々本はがははと笑って、「係長でなくて部長だと云うに! てかお前、俺の事なんだと思ってるんだ!」

「頼り甲斐のある上司です」

「ならいつ迄も係長と呼んでるなよ、係長じゃ部長より何も出来ないぞ!」

「大丈夫ですよ、本当の係長の時だって、係長の枠になんか収まっていなかったじゃないですか。所轄の署長が最敬礼するくらいには、威圧感も影響力も桁違いでしたよ」

「厭なことを思い出させるなよ。あの頃は非常に遣り難かったんだ」

「今なら自由自在ですよね」

「馬鹿野郎、調子に乗んなよ。俺はこの会社では未だ未だ余所者(よ そ もの)だ。アテにされ過ぎても困るぞ」

「十三年も居るのに? まあ、駄目なら駄目で――でも期待はしてます」

「この野郎……」

その時サミュエルが何か云ったので、佐々本は慌てゝ通訳に戻った。

「達也が帰って来るのは、単なる里帰り以上の目的がある。坂上の息子を殺した犯人を見付けると云っているそうだ」

「えっ。――なんでしたっけ、けんすけ、でしたか。何でそんなことを」

「これもセージが絡んでいるそうだ。セージ絡みなのであればX国としても興味があると云うことだな」

「いやまぁ……でもなんで達也がそんなこと?」

「それは本人に訊けよ」

健介。菊池健介、だったか。坂上の息子だが、内縁の妻の姓を名乗っていた。

坂上――公安にいた頃に、追い詰めて、死に追い遣って仕舞った、ケチな容疑者だ。精々詐欺と暴行傷害程度だったのに、死ぬことなんか無かったのに。息を引き取る間際、神田に向かって「健介を頼む」と云い遺した。未だに耳の奥にその声音がこびり付いている。これは屹度(きっと)死ぬ迄取れないだろう。神田の背負った大きな(カルマ)の一つだ。

その健介も、結局守り切れず、何者かの手で惨殺された。坂上とは無関係に、何かに巻き込まれて命を落とした。全くのとばっちりで。そんなことがあって良いものか。坂上との約束さえ守れず……神田は知らず識らず、握り拳をぎゅうと固めていた。

健介の殺害時、近くに居たのが神田の息子である達也だ。通報者は誠治と云う男だった。これは後に、沖縄の案件で神田達と対峙し、自らが持っていた爆弾の暴発に依って吹き飛んで仕舞った、セージと云う男と同一人物なのだろう。何故そこが繋がっているのか、何が如何絡まり合っているのか、神田にはその全体像が未だに掴み切れない。達也は何を知っているのだろう。

その達也自身、誠治に心酔する余り、X国大統領の暗殺計画に加担し、爆弾ジャケットを身に纏って玉砕する覚悟で現場に来ていた。神田達のチームの御蔭でそれは未然に防がれ、命も救われた。然し未遂でも犯罪には違いなく、また、誠治による洗脳度合いも深かった為、X国に身柄を拘束され、今日(こんにち)迄ずっと、取り調べと洗脳解除の為の療養の毎日を送って来たと、サミュエルは云う。幸いにも裁判では情状酌量により、大した罪には問われなかったそうだ。洗脳さえ完全に解ければ社会復帰も可能であると云う判断が下され、積極的に情報提供を行った点も評価されて、今では罪人としてではなく洗脳被害者として、温かく歓待されていると云うことである。

「達也は日本人なのに、大統領の訪日の御蔭でX国とY国の問題に巻き込んで仕舞った。本当に申し訳なく思っている。一度は裁判に迄掛けて、相当に辛い思いをさせて仕舞った」

「いやいや。当然のことですよ。普通の人は余所(よそ)の国の大統領を暗殺するなんて話に、ホイホイ乗ったりしません」

「それは達也が洗脳されていたから――誠治は今回の事が起こるよりずっと以前から、X国でもマークをしていた人物なのだ。監視も付けていたのだが、それにも拘らずこの度の様なことが起きて仕舞い、深く責任を感じている」

「洗脳は、健介の事件かそれより前からの事なのでしょう? だとしたらX国がマークするより前なのでは」

「健介の事件はいつだったかな」

「あれは……一年ぐらい前ですかね。去年の正月明けぐらいだった気がします」

「それなら十分、マークしている時期だ。全く申し訳ない」

「あ、そうなんですね……まあしょうがないですよ、日本国内での活動迄は、中々追い切れないでしょう。日本の警察組織に協力を仰いでいたとかでもなければ」

「仰いでいたのだ」

「え、そうなんですか」

「X国の手落ちなのだ」

「かかりちょう、でもそれは気の毒ですよ」

佐々本は鳥渡咳払いをして、「シン、これは俺の言葉ではない、サミュエル氏の言葉だ。俺は通訳しているだけだ。間違えるな」と諫めた。

「あ、はい。そうでした」

神田は少し目を伏せて、気拙さを振り払った。

「当時の警察も、誠治には辿り着いていなかった筈です。私もこの佐々本も、警察のOBなのである程度は捜査情報等を入手するチャンネルは持っているのですが、その何処からも、誠治らしき人物の情報は流れて来ませんでした。緘口令が敷かれていたとかであれば別ですが、そこ迄して秘匿する様な情報でもないと思いますし、秘匿する意味も理由も無い筈です」

「国際スパイと云うものは、非常に扱いがデリケートなものだ。一つでも打つ手を間違えれば、二度と補足出来なくなるだろう」

「国際スパイ? 誠治が?」

「おまえの報告書にも有ったと思うが、あいつは世界各国で様々な名前を名乗っていた。主にアジア圏だが、欧米でも何かしらの活動をしていた痕跡はある」

「へぇ――え、じゃあ、日本の警察も何か掴んでいたかも知れない?」

「その可能性は否定出来ないな」

「そうなんですね。いやあ、あっさり掴まるし、あっと云う間に消された様な感じだったので、雑魚だと思ってました」

「それはお前らが有能過ぎるんだ」

「よして下さいよ。半分以上小学生の、素人チームですよ」

「能力があるだろう。それは訓練を受けた大人が束になって掛かっても敵わない様な物なのではないのか」

「そんなに戦闘向きな能力でもないんですけどね……まあ、使い様ですが」

「では知恵があったのだろう」

「褒め過ぎですって」

余りに神田が謙遜するので、サミュエルは怪訝な顔をした。

「お前はチームのメンバを評価していないのか」

「そんなことはないです、皆有能な隊員たちばかりです」

「ではなぜ、そこ迄頑なに能力を否定するのだ」

「あゝ――いや別に否定はしてません。然しですね、実際我々は軍隊ではないので。戦闘する為の部隊ではないんですよ。先の案件では、対応出来たと云うだけで。本当ならあんな危険な任務は、二度としたくないですね」

「そうなのか」

サミュエルは残念そうに顔を歪めて、言葉を継いだ。

「それでも我々は、お前達のチームに期待しているのだ」

「えっ? 何を?」

「達也の指し示す人物は、相当な危険人物だ。達也が打つ手を間違えれば、彼の命が危険だ。是非達也と共に、達也を護衛しながら、犯人の特定と確保に協力して頂きたい」

「ええっ! それこそ警察の仕事でしょう!」

「達也がそれを聞き入れてくれないのだ」

「はぁあ!?

こゝで佐々本は、体を神田の方に向けると、佐々本自身の言葉として話し出した。

「シン、今回は都子君も参加出来ると聞いている。彼女の亜空間と時間操作能力があれば、大分安全に進行出来るのではないか。それに、ヒーラーのユウキもいるだろう。不測の事態への備えは万全の筈だ」

「いや、係長、僕が云いたいのはそう云うことじゃなくてですね」

「監督する自信がないか?」

「そうじゃないですよ。だって三人は小学生ですよ? 捜査と云うならテレパスもテレポートも必須なんでしょう? そのヒーラーだって小学生です。危険と判っていて連れて行くのは、矢っ張り気が進まないですよ。沖縄案件だって本当は――」

「今更何を云うか。スカウトした時点で我々は十字架を背負ったのだ。それにな、安全面に就いては先刻云った通り、問題は無い筈だ。お前の腰が引けていて如何するか」

「いや然し……」

「それとも何か? 息子が死んでも仕方がないか?」

「そんなこと云ってないですよ!」

「それならお前に悩む余地など無い」

「かかりちょおぉ」

「責任は俺の方がより多く負っているのだ。それも、お前を信じているからこそ負えるのだ。そこのところは忘れないでくれよ」

「はい……わ……諒解りましたよ。()けます」

「それでこそだ。恩に着るぜ!」

そして佐々本はサミュエルに体を向けると、何やら話し込んで仕舞った。神田は放置された格好だが、退室を命じられた訳でもないので、二人の英会話を(じっ)と眺めている。

「達也め、たいした土産を持って帰って来やがって……」

一人、口の中だけで小さく呟いた。

下呂温泉の辺りから、北東の山へ分け入って道莫き道を進んで行くと、暫くして小さな木造の小屋に辿り着く。そこで二人の男が床に座って向かい合った儘、凝と黙ってお互いを探るような眼で睨み付けている。片や薄汚れたジャケットに、開襟シャツ、髪をオールバックにして、ポマードでテカテカにしている。眉毛を細く短く刈り込み、吊り気味の目尻と併せて相当に人相を悪くしている。もう一人は顔の造作こそ穏やかなのだが、眼光だけは異様にギラギラとしており、傷み気味の蓬髪(ほうはつ)を首の後ろで纏め、前髪はバサバサと顔の前に垂らしっ放しで、然し服装だけは小ざっぱりとしていて、シャツも糊が効いてパリッとしている。二人とも体格が良く、背格好も同等ぐらいなので、組み合った場合に何方(どちら)が勝つかは想像が付かない。お互い視線で牽制し合って、お互いに身動きを封じられている様な状態である。

一体何時(いつ)から二人でこうしているのか。木々が(ざわ)めき、山鳥が高い声で()く。近くに川が流れている様で、サラサラと水の音がする。然し小屋の中は物音一つしない。唯二人の息遣いだけが、その空間を満たしている。

陽が傾き掛け、夜の(とばり)が下りて来ようとしている頃、小屋の外で小枝を踏む音がポキリと鳴った。それでも二人は動かない。誰かが来たのか、狸でも通ったか。然し次の瞬間、小屋のドアが微かに(きし)み、真っ赤な西陽がスッと室内へ差し込んで来た。

オールバックが目だけで其方(そちら)を確認する。蓬髪の方が半歩にじって、ドアからの来訪者を迎えるような格好になった。

「どうだ。少しは打ち解けでもしたか――」

声と共に、禿頭の老人が入って来た。真っ白な頬髯を生やしており、スーツに縞のネクタイを付けて、杖を突いている。斜め後ろに、若者が二人程控えている。

「会長、こんな処迄態々ご苦労様です」

蓬髪の男は座った儘、床に手を突いて(こうべ)を垂れた。

「おう、水木(みずき )。お客さんは機嫌良くしておられるか」

老人の視線がオールバックへと移ると、オールバックは無言で頭を下げた。

「こんな処に押し込めちまって、済まないな。だが此処なら、見付かる心配もあるまい」

「会長さんがこうして来られる様では、その内官憲の目にも付きましょうな」

オールバックが慎重に応える。

「おお、それは気が利かんで済まないな。然し此方にも都合があってなぁ」

会長と呼ばれた老人は小屋の中迄進むと、若者の一人を外に置いた儘、もう一人が共に入室して、ドアを閉めた。

「見張りも結構ですがね、此処に居るという宣伝にもなり兼ねないですぜ」

「幾ら若くてもそんな迂闊なことはせんわい。心得とるからわしの傍に居るのだ」

「なるほど。こいつぁ失礼しました」

オールバックが頭を下げる。

「客人よ。お前さんはうちと宇佐との間のキーマンだ。お前さんに何かがあれば全面戦争よ。そんなことはわしだって望んではいない。お前さんを宇佐から預かった以上は、久万(くま)組は全力でお前さんを護るさ。この久万吾郎が、約束する」

「お世話掛けます」

オールバックの客人は、これ迄で一番深く頭を下げた。

(さて)、本題に入る前にだ」そう云って久万老人は後ろに控えていた若者を手招きした。若者は抱えていた手荷物の中から一升瓶を取り出すと、老人に手渡す。

「これは好いものだぞ。この辺りは本当に好い酒蔵が多い。主に飛騨、高山の方に固まってはいるがな、下呂の方にも善い酒はあるんだ」

天領とラベル打ちされた瓶を、久万は部屋の真ん中にある木製の座卓にどんと置いた。透かさず若者が、徳利と猪口三つを並べ、瓶を開栓して徳利へと()ぐ。辺りには芳醇な香りが充満した。久万は机の奥へ回って腰を下ろすと、徳利を手に取った。

「固い、硬い。お前さんも、水木も、盃を取れ」

二人は云われる儘、机へとにじり寄ると、空の猪口を手に取った。そこへ久万が徳利を傾ける。先ず客人に、それから水木に注ぐと、水木が徳利を受け取り、久万の猪口へと注いだ。

「別に兄弟盃とかではないからな。遠慮せず遣れ」

「では遠慮なく。いただきます」

客は一息に酒を飲み込み、水木も寛悠(ゆっくり)と口を付けたが、結局一口で干した。二人の飲み干す様を見届けると、久万は満足げに盃を空けた。

「どんどん遣ってくれ。水木、お前注いでやれ」

「はい」

水木は一度久万に向かって礼をすると、客の盃に酒を注ぎ、その儘自分の猪口にも酒を満たした。久万の脇には何時の間にか若者が控え、もう一つの徳利から久万の猪口に酒を注いでいる。

「それでお前さん、何をして来たって?」

客は眼光鋭く久万を見据えた。

「まあまあ、云わんでも或る程度は解っとる。お前誠治の駒だったんだろう?」

「は!」客は嘲るような発声と共に、短く息を()いた。「久万さんよ、俺を侮ってくれちゃ困りますよ。誠治は唯の遊び相手だ。俺の手に掛からなかった程度には運を持っていたと云うだけだ」

「死んだぞ」

「知ってますよ。でも俺じゃねぇ」

「知っているとも。あれは不思議な(えにし)でな。昔坂上とか云うチンピラがいたのを覚えているか」

「はぁ? 誰です」

「知らんか。あれは何年前になるかなぁ?」

久万は水木に視線を向けた。

「は。ロッテが日本一になった年なんで、二〇一〇年かと」

「十四年前か。お前そんなことよく覚えてるな」

「ペナント三位だったのに、奇跡の日本一でした」

「ははは、そうか。そんなこともあったかな――お前はロッテのファンなのか」

「川崎の頃から」

「ほぉ? お前幾つだ? ――まあ好い。野球の話をしに来たのではないのだ」

久万は客の方に向き直って、話を続ける。

「十四年前だとよ。お前さんは何をしていたかな。兎に角その頃、よくうちのシマを彷徨(うろつ)いているチンピラがいたのさ。坂上と云ってな、まあケチな詐欺師だ。一応筋は通してくれていたのでな、まあ見逃してやってはいたのだ」

「見逃していた――とは」

「言葉通りだよ。特に咎め立てしないと云うことだ。本当ならシマ荒らすんじゃねぇって、締め上げて絞るだけ絞るところだがな。――最初にうちの組に挨拶に来てよ、手土産かなんか持って、その辺りで詐欺の渡世をしても好いかなんて聞いて来やがる。そんな奴は初めてなんで、まあ面食らったわな。正面から云われて禁止する理由も特に思いつかんから、好きにしろっつって追い出したんだ」

「免許皆伝と云う訳ですな」

「そうじゃないよ。字義通り、好きにしろってだけだ。何も保証しねぇし、援護もしねぇよ。本当に只、だ」

「冷てぇな」

「客人よ、お前そりゃ本心から云っているのか? うちに何の義理があるよ。詰まらねぇ手土産貰っただけだ。胡麻煎餅か何かだったな。そんなんで味方に付く阿呆(あほう)がおるかね」

客は低い声で笑った。

「まあそんな感じでな、暫く放って置いたんだが、あるときパクられやがってな。まあそれも関係ないからほっといたんだが、なんか知らんが示談が成立したとかで不起訴になって帰って来やがって、その辺りからなんか妙な感じになって来てな」

「如何したんです」

「いや、云っても信じて貰えんだろうけどな。坂上がユリ・ゲラーになりやがったのよ」

「なんですかその、ゆり、なんちゃら?」

「ユリ・ゲラー知らんか。昔スプーン曲げて有名になった、胡散臭い超能力者だ」

「手品師ですか」

「まあそんなところだろうな。ミスターマリックみたいなもんだ」

「詰まりその、坂上ってのも手品師になったんですか」

「それがなあ……どうも本物っぽいんだ」

「何を云ってるんです?」

「そうなるわな」

久万はそこで酒を(あお)ると、姿勢を崩した。

「見たんだよ。見たどころじゃねえ、ヤられたんだ」

()られた?」

「殺されたわけじゃねえ。わしは幽霊ではねえぞ。そうではねえがな、部屋中のもんブンブンすっ飛ばされてな、木彫りの熊がわしのデコにぶつかったんだ」

ですかい」

客がニヤけながら云うと、水木が気色ばむ。

「てめえ、会長を馬鹿にするか!」

腰を浮かしかけた水木を、久万が手を(かざ)して止める。

「好いんだ。笑いを取りに行ったんだよ。堅苦しく構えんな」

「はぁ……然し此奴(こいつ)は!」

「黙れ! 客だぞ! お前一人で宇佐と戦争する心算か!」

水木は渋々腰を落とした。客はそんな遣り取りをニヤニヤと笑いながら眺めている。

「失礼したな」

久万が詫びると、客はニヤついた儘視線を久万に送り、「いやいや、楽しい御仁ですな」と応えた。

「大体だな、わしと宇佐は幼稚園の頃から、くまちゃん、うさちゃんの仲なんだ。今更そんな程度で動じるかよ」

これには水木も、客さえも、眼を丸くして言葉を失った。流石に客も、これ以上茶化すことはしなかった。久万は猪口の酒をくっと呑み、透かさず若者が酒を注ぐ。

「さて、どこ迄話したっけな」

「木彫りの熊が額に当たったとか」

客が答えながら手酌で酒を注ぎ、ぐいと呑む。

「そうそう、それでな、まあ今の水木みたいに、組中のもんが取り乱しやがってよ、坂上を捕まえようとするんだが、これが不思議と捕まらねぇ。ひらりひらりと避けたかと思うと、組員達がホイホイ弾き飛ばされたりして、危ないったらなかったな。止せ止せと云うんだが皆頭に血が上ってゝ聞きゃしねぇ」

「まぁ、そんなもんでしょうな。うちで同じことが起きても、屹度同じ様な反応だったでしょうよ」

「そうかも知れん。然しそんなに暴れまわられたんじゃあ、組事務所が滅茶苦茶(め ちゃく ちゃ)だ。他所(よそ)で遣れっつって何とか(かん)とか追い出して――」

何でそんなことになったんです?」

(あゝ)。それがな、その時はあいつも何だか気が大きくなっていた様で、――酔っていたのかも知れんな、兎に角そんな感じで、自分を組員にしろ、幹部待遇でないと駄目だとか何とか、そんなことを云っていたかな。勿論そんななあ聞けねぇわな。此方にしてみれば唯見逃して遣ったチンピラってだけで、身元も知れねぇし、幹部どころか組員にだってしたかねぇや。そんで適当に(あしら)っていたら、痺れ切らしちまいやがってよ」

「ははぁ、勘違いしちまったんですなぁ」

「そうだな、それで、急に立ち上がったかと思ったら、机の上のもんが一斉にぶわっと宙に浮いてな。――そう、今思えばあれは、本人も驚いていた様だぞ」

「なんだか好く判らねぇ話ですね。手品が思いの外上手く出来て吃驚したんですかね」

「手品なら良かったんだがなぁ……」

「違うんですかい?」

「あれが手品だったら大したもんだ、セロも吃驚だよ」

「セロ?」

「お前さんは俗世のエンタメはからっきしだな」

「あゝ、塀の中に長く居た所為ですかね」

「そうか。それじゃあ仕方ねぇな。兎に角あれは、本物だったんだと思う。いや、本物だったんだよ」

「断言しましたな」

「警察が断定したんだよ、――いやな、それどころじゃない、警察にも同じ様なのがいてな、あいつは、警察の超能力者と戦って、遂に殺されたんだ」

「はぁ?」

「いやいや、待ってくれよ、待って下さいよ、そりゃあ漫画か映画の話じゃないんですかい。アベンジャーズとか、そう云う奴の話でしょうが?」

「そうなるよな。でも事実だ」

暫くは沈黙が座を支配した。然し直ぐに客が我慢出来なくなって、やゝ大振りの手振りを交えて、「いやいやいや、担ごうったってそうは行かねぇですよ! 矢っ張りそんななぁ、出鱈目の作り話だ」

「まあなぁ、わしもそう簡単に信じて貰えるとは思っていないんだが――春樹」

後ろに控えていた若者がスッと立ち上がり、久万の横で膝を突いた。

「燗が欲しいな」

春樹が徳利に手を差し伸べ、暫くすると徳利の口から湯気が立ち上った。

「おう、客人よ、こんな季節に何だが、この酒は燗にしても旨いんだ」

春樹が無言の儘徳利を突き出すので、客は稍戸惑いながらも猪口を空け、そっと差し出した。春樹がそこへ徳利の中身を注ぐ。

「あっち! えっ、いつの間に燗に?」

「今見ていただろう」

「ああ、手品ですよね?」

「春樹、あんなこと云わせておいて好いのか。あの客に燗は勿体無いな」

春樹は矢張り無言で、客の猪口に手を翳すと、酒は一瞬にして冷えて、シャーベット状になった。

「冷たっ!」思わず手が引っ込む。猪口は持った儘なので、引っ込めた所で冷たさからは逃れられないのだが。

「日本酒を凍らせたことがあるかい? それは(みぞれ)酒って状態だ。良く冷えてゝ旨いぞ」

客は呆然として、猪口の中を凝視している。

「もう一回熱燗にも出来るがな。まああんまり繰り返すと風味が飛ぶわ。呑んで仕舞えよ」

云われる儘、氷交じりの酒を喉に流し込む。冷たさに思わず身が縮む。一度燗にしている所為か、味も香りも僅かにしか感じなかった。

「改めて紹介するよ。超能力者の春樹だ。そして――」

春樹の姿が一瞬滲んだ気がした。なんだか先刻よりも稍華奢で、丸みを帯びた様に見える。

「これが秋菜だ。春樹の双子の姉だ」

「――え――は?」

「判らなかったかな? じゃあもう一回春樹」

また若者の姿が滲んだかと思うと、前の様ながっしりした体格に戻った。

「そして秋菜」

また華奢になった。

「待って待って、待って下さい、何やってんですか、何ですかそれは」

思わず若者の腕を掴む。柔らかい感触が返って来る。

「きゃあ!」

女の様な声を挙げると、また姿が滲んで、掴んだ腕が堅く、太くなった。

「失礼します」

今度は男の声でそう云うと、客の手は振り払われて仕舞った。

「判らないか? 先刻から何度も此奴(こいつ)は入れ替わっているのだよ。外に居るもう一人とな」

「はぁ?」

「双子同士の入れ替わりも、彼等の超能力だ」

「これは、これは――」

客は発すべき言葉が判らなくなったかの様に、その後は唯口をパクパクさせるばかりだ。

「燗やら霙酒をすぐ作れるのなんかは、わしの愉しみの役にしか立たんがな。この入れ替わりの技だって何に役立つのかよく判らん。然しなんだか面白くてな、若しかしたら他にも出来ることがあるかも知れんし、取り敢えず傍に置いておるのだ」

「ははぁ……」

「秋菜に誘惑させておいて、いざって時に春樹と入れ替わって恐喝――なんてのも考えなくも無かったがな、まあ吝嗇(けち)臭いわ。わしの趣味ではない」

「私等としましても、そう云うのは勘弁して頂きたいです」

春樹が珍しく自己主張をした。

「ええと……つまり?」

「だから坂上も本物だったと云うことだよ。信じる気になれたか?」

「いやもぅ、何が何だか……」

「まあ取り敢えずそう云うものと思え。この話は未だ続きがあるんだ」

「はぁ」

「兎に角坂上はそこで死んだんだが、此奴には子供が三人か四人かいてな。内縁と一緒に汚い長屋に住まわせていた様なんだが」

「長屋って、いつの時代ですか」

「時代錯誤だとはわしも思うよ。よくまああんな建物が残っていたものだ。今にも潰れんばかりのボロ屋だったがな。兎に角其処に家族囲ってゝ、長男の健介ってのは特に可愛がっていた様でな」

「けん……すけ……」

今際(いまわ )(きわ)に刑事に向かって、健介を頼むぅ、とか何とか云ったらしいな。それで刑事も(ほだ)されて、様子見に行ったりしていたよ」

「さかがみけんすけ、ですよね」

「菊池健介だな。内縁の女房の姓だった」

客は顔を上げた。

「刑事の名前も云っておこうか。神田真一郎ってんだ」

「かんだ……」

「健介と同じ年頃の息子がいてな、それが達也だ」

客はガタンと音を立てゝ後ろに仰け反った。

「な、何の話をしているんだ? いけねぇな、いけねぇですよ、そこは――」

「ある程度は解っていると、最初に云った筈だがな」

「あゝ……いや、みっともない所をお見せしました。ちょっと意外なところから、識った名前が出て来たので」

客は咳払いを一つ二つしながら、体勢を立て直した。

「お前が手に掛けたんだろう、その件に就いては未だ捜査が続いているんだよな?」

「そうだ、その、――二〇一〇年ですよ、公訴時効が廃止されたのは」

「それは気が休まらねぇなぁ」

「あんな遊びで掴まって堪るかよ」

「次は確実に死刑だもんな」

「止して下さい」

「でもな、誠治が死んだろ、あれ、神田真一郎に捕まった際に事故死したそうだ」

客は無言で久万を睨み付けた。盃を持つ手が震えている。

「坂上の時も、死因は事故死だったな。それも神田真一郎だ。何処迄本当なのかな」

「けっ――消されたと?」

「さあ、わしは何も知らねぇ。ただ、なぁんか、変な(えにし)だなあと、な」

「そんな、他人事(ひ と ごと)みてえに」

「他人事だもんよ。客人よ、勘違いしてくれるなよ、わし等は約束通りお前さんを守るけどな、根本的には他人事なんだよ。命や組が危険に晒される様なら、戦争覚悟で見捨てるぞ」

「そんな――」

「当たり前だろ。お前らだって逆の立場ならそうするさ」

客は無言で酒を注いで、一息に呷った。

「ま、今夜のところは酒を楽しんでくれや。わしは帰るが、春樹を置いとくぞ。お前ら二人、仲良くしとけよ」

「会長、もうすっかり陽も落ちて、辺りは真っ暗です。くれぐれもお気を付けて」

「心配すんな。一人じゃない」

「出過ぎたことを云いました。ご勘弁を」

「いいよ、ありがとうな」

ドアに向かいながら、久万は肩越しに客に向かって、「この辺りの地名を知っているか? 森と云うんだそうだ。差し詰めわしなんかは、森のくまさんだな」と云って、わははと笑った。

「そんじゃ、仲良く遣れよ」

最後にそう云い残して、久万は小屋を出て行った。客はだらしなく口を開けた儘呆然と久万の出て行ったドアを眺めていたが、不可解そうな表情に少しずつ不安と恐怖が混じり合って、遂に訊かずにはいられなくなった。

「おい、水木さんよ。この春樹くん、先刻見たものの他にも何か出来るのかい」

水木は何も答えず、じっとりと客を()め付けた。春樹も無言で、久万会長の居た場所に行儀よく座っている。

客は不安な思いを抱えた儘、その場で横になった。

何処でもない場所

全員が揃うのは初めてだった。名古屋で拾われたユウキが知佳と蓮と一緒に、都子が作り出した真っ白な亜空間に連れて来られてみると、そこには神田ともう一人顎の尖った男が待ち構えていた。これが忠国警備特殊対策部第一警備課EX(エックス)部隊の、全メンバーである。

真っ白な空間にはやゝ立派そうなソファがコの字型に置かれており、真ん中の最奥に神田が、その向かって左側の辺の神田寄りに顎の男が座っている。都子は神田の向かって右の辺、顎男の正面向かい側に着座すると、子供達にも座るよう促し、蓮、知佳の順で都子の並びに腰を下ろした。

「あ、クラウンさん。お久しぶりです」

ユウキは顎の男――クラウンに挨拶しながら、その隣に腰掛けた。

「おお、ユウキか。正月はハワイで過ごしたんやってな?」

クラウンは橙色の頭髪を逆立てゝ、左目の周りには黄色い星のペインティングをしている。そのクラウンの言葉に、蓮が反応した。

「ハワイ! 海外とは聞いてたけど、ハワイなんだ! 芸能人かよ!」

「好いじゃないか……僕は連れてかれただけだし」

「お金持ちぃ、流石は名古屋!」

「名古屋関係ないだろぉ……クラウンさん今回はオレンジですね」

ユウキが必死になって話題を転じようと、クラウンに振る。

「ん? (あゝ)、髪な」

「クラちゃん前は、ピンクだったよね」

蓮が訊くと、「僕、黄緑の時も知ってる!」と、ユウキが得意気に、胸を張った。

「それ別に、何の自慢にもなってないし」

蓮が冷たく受け流すと、ユウキは少ししょんぼりした。

「うちが最初見た時もピンクやったなあ。ピンクのお月様やぁ、って思ったのん覚えとるわ。その後もちょいちょい色変えとるけど、髪傷まんか?」

都子の突っ込みをクラウンは稍鬱陶しそうに、「ほっといたりや、関係ないやん」と流そうとするが、都子は容赦しない。

「いやいや、顎兄(あごにい)、禿げるど。禿げたらそんなお楽しみもでけんくなるやん。それこそほんまモンのお月さんなるわ。顔真っ黄っ黄ぃに塗らんな」

都子の言葉に蓮がゲラゲラと大笑いする。知佳も堪える様にしてくふくふ笑っている。クラウンはムキになって、

「そんな心配いらん! ちゃんとキューティクル護るコンディショナー使(つこ)とる!」

「ほうかぁ? いやぁでも、だいぶ……」

「わしの髪はえゝねん! 本題! 神田さん!」

助けて、と、声に出さず口の動きだけで神田に伝える。

「なんか、このチームってこんな楽しいんだ」

知佳がぼそりと呟くと、蓮も同意する様に首を縦に振る。

「ミヤちゃん最高!」

「大阪の漫才コンビみたいだよね」とユウキも賛同すると、それを聞き咎めた都子が、

「やめてや! こんなんとコンビ組んだら、顎が刺さって危なすぎやわ!」

等と云うものだから、(また)子供達がと笑う。

「神田さん」クラウンが情けない声で再度神田に助けを乞うと、それ迄心此処に在らずの様子だった神田は顔を上げ、「欸、すみません、鳥渡考え事してました」と云った。

「ユウキ以外は事前説明受けとるけどな、ユウキは何がなんやら解らん状態で此処におんねん。説明したってや」

都子が促すと、神田は居住まいを正してから少し前のめりになり、話し始めた。

「ユウキ君は、達也を覚えてますか?」

「神田さんの息子さん?」

「そうです。覚えていてくれて、ありがとうございます。その達也が、もう直ぐ戻って来ます」

「そうなんですか! おめでとうございます!」

神田は微妙な笑みを浮かべた。

「まあその、余計な手土産と共にね」

「手土産?」

神田は訥々と語り出した。公安に居た頃に死なせて仕舞った容疑者坂上、その息子の健介と達也が同級生だったこと、その健介が昨年何者かに殺されたこと、そこから達也が転落して行き、沖縄での一件に繋がること。そして()の国で裁判に掛けられ、洗脳から脱却し切る迄療養していたこと。

「神田っち、こゝ迄辛かったね。やっとお迎え出来るんだね」

蓮がしんみりと合いの手を入れる。知佳は目頭を押さえている。沖縄では都子を除く全員で、達也と対峙した。達也はずっと父親である神田に反発していたが、結局拘束されてX国に引き渡されて仕舞ったのだ。その際の神田の辛そうな様子を全員が見ている。その時のことを思えばこそ、今こうして達也を迎えられると聞くと、子供心にだって感極まるものがある。

然し神田はそんな感傷を一切表に出すことなく、飽く迄淡々と話し続ける。

「先ず、達也は今回の帰国に当たり、X国の保護観察官が同行します。そして通常の住居に住むのですが、その手配が中々進まない為、一時的にうちの会社で預かります。大月に余り使われていない宿舎があるので、其処を整備して開放する予定です」

「神田さんは如何するんですか?」

ユウキの質問は、神田には意味が好く解らなかった様で、「私が何ですか?」と訊き返した。

「いや、達也さんと一緒に住むのかな、と」

「吁、否」神田は寂しそうに微笑んだ。「そう云うことはありません。達也は保護観察官と住みますしね。私は今迄通り、妻と二人暮らしです」

「そうなんだ。淋しいね……」

「気にしないで下さい。私は大丈夫です。それよりも、達也の手土産の対応で手一杯です」

「そうだ、手土産ってなんですか?」

神田は一同を見渡しながら、「他の皆さんには既に説明済みなんですが、達也は如何やら、親友の健介君を殺害した犯人に、心当たりがある様なんです」

「えっ」

彼奴(あいつ)が如何云う心算なのか、正確なところは判りません。捕まえようとしているのか、報復しようとしているのか……」

「危なくないですか?」

「非常に危ないです。それで、X国の担当者から、直々に依頼を受けました」

「え」

「達也を護れと」

一同に緊張が走る。危険なら帰国許可を出さなければ好いのではないだろうか。如何でも帰るというのであれば、いっそ拘束でも監禁でもして、自由行動を取れなくすることだって出来そうである。それでもX国は達也を帰国させ、(あまつさ)え独自の捜査、探索を許容している様である。一体()の様な思惑が働いているものか。

「タッちゃん、いつ帰って来るの?」

蓮は既に達也に砕けた呼び名を付けている。何時でもこうやって好き勝手な呼び名を付けては、自分の懐に取り込んで仕舞う。蓮の好い所でもあり、軽薄な所でもある。

「五月の中頃です。連休中は日本側の対応も鈍るので、避けて貰いました。皆さんも連休は色々ご都合があることでしょう」

「ユウ、連休は何処に行くの? またハワイ?」

蓮が話を逸らせたのは、話題の重さに堪え切れなくなったからだろうか。

「五月にハワイなんか行かないよ。未だちゃんと聞いてないけど、欧州(ヨーロッパ)辺りに行くんじゃないかな。去年はドイツでソーセージ食べたよ」

「くそう、金持ちめ!」

知佳がくふふと笑っている。ユウキは如何な顔をしたら好いか判らず、オロオロしている。

「あーあ、温泉旅行行きたいなぁ」

「蓮、もう少し小学生らしい希望云いなよ」

蓮のボヤキに知佳が突っ込んだ。

「小学生らしいって何?」

「そうだなぁ、ディズニーとか、USJとか?」

「えー、温泉が好いよ」

「駄目だこりゃ」

知佳が笑っているのでユウキも一緒に笑った。

「あー、ユウ、莫迦にしたな?」

「えっ、何で? そんなことないし!」

「蓮、ユウくんに絡まない」

「ちぇーっ」

蓮は口を尖らせ、ユウキは少し怯えた様子であったが、大人たちは皆ほっこりした笑顔で成り行きを見守っていた。ユウキで遊ぶのを知佳に禁じられた蓮は、詰まらなさそうに神田を見上げる。

「神田っち、結局のところ、今日は何の集まり? タッちゃん帰って来るの未だ先じゃん」

「今日は今話した説明の為と、後は準備を少しお手伝い頂こうかと」

「準備?」

「大月の宿舎、コロナ禍もあって暫く使っていなかったので、内装変えたり掃除したりと、色々手入れが必要なんですよ。私達が準備すると云うことで、利用許可が下りているので」

「えー。マジか。地味」

「まあそう云わず。内装なんかは私と蓮さんとである程度出来そうですし。掃除も皆で遣れば直ぐ終わりますよ」

「アテにされちゃったぁ」

蓮は嬉しそうに含羞(はにか)んだ。知佳が「よかったね」と云って微笑んでいる。この二人は同学年なんだけど、如何しても知佳の方がお姉さんに見えて仕舞う。(いや)、お姉さんと云うより、お母さんの様なのだ。

「そう云えば都子さん」ユウキが都子を見上げながら、「前に、春か夏か位に一緒にお仕事することになるって云ってたけど、何で知ってたの?」

これには都子が返すより先に蓮が食い付いた。

「なにそれ! 若しやミヤちゃん、予知能力!?

「いやいや」都子はにこりともせず「んなもんあらへん。唯の推測やん」

「推測ったって、何を根拠に?」

ユウキの質問だったのにすっかり蓮が横取りして仕舞った。

「あぁ、ゆうて、X国やん。ほんで洗脳被害者やろ? 更には何やら色々聞いとると、どうもキナ臭さがプンプンしとる訳やん。ほんなもん何か起こるやろ」

「いや――ミヤちゃん、全然わかんない」

「あー。邪魔臭いのぉ。――あんな、X国ゆうたらまあ、人権めっちゃ大事にしとる国やん。犯罪者ったって実害なかったし、なおかつ洗脳されとんなら、(むし)ろ被害者扱いで、何ならも少し(はよ)う帰って来るか思っとったわ。洗脳解いて療養迄してくれとるって、至れり尽くせりやん。まあX国やなぁってそこは納得したけどな」

「そうなんだ。世界情勢にも詳しいんだミヤちゃん」

「普通や。ほんで、テロは未遂で終わっとる訳やけど、まあY国はこの際如何でもえゝねん。続き遣るにしたってもう日本は関係あらへん。んでも中途半端に放り出された(もん)がまあ、国内にはおるんやろなぁって気はするやん。セージなんて国際スパイが動いとるぐらいや、他にもなんかおるやろ、一人見かけたら三十匹やん」

「都子さん、それはゴ」神田の突っ込みの途中で都子が、「あー! その名は口にしたらあかん! 『例のあのお方』とでもゆうとけ!」と大声を出した。

「ほんで!」大声の儘話を継ぐと、一呼吸置いて声のトーンを戻す。

「兎に角そんな奴らが何かしでかすとしたら、まあ半年ぐらいがえゝとこかなぁと、これはまあ当てずっぽう」

「なんだそうか、タッちゃんのお友達殺した犯人とか、そう云うの予想してた訳じゃないんだ」

「そんなん知らんわい。達也とかゆう奴帰って来たら、まあヒーラーのユウキは要るやろなってのと、移動手段でうちが駆り出されるんは避けられへんやろ。ほんで残党共が達也でも狙って来るなら、まあこんくらいかと、それだけや」

「残党――来ますかねぇ」

神田は何だか不安そうに呟く。

「知らんわ。うちの妄想や。気にしなや」

「ミヤちゃん無責任」

蓮はけらけらと笑った。神田は不吉な予感を振り払うかの様に頭を左右に振ると、「扠」と云って立ち上がる。

「では、取り敢えず移動しましょうか。都子さん、このソファ返しがてら、大月宿舎のロビー迄お願いします」

「了解」

周囲に突然景色が現れたかと思ったら、皆はソファに座った儘、埃っぽい薄暗がりのロビーにいた。

大月 二

「鍵を貰ってたんですが、使わなかったですね」

そう云いながら神田は正面玄関の方へと進むと、アルミサッシの入り口引き戸を内側から開錠し、空け放した。心地()い春の風がさっと流れ込んで来て、埃を舞い上がらせた。

「わぁ、こりゃ堪らん」

クラウンが思わず立ち上がるが、直ぐに埃は外側へと流れて行き、皆の周囲を取り囲む様に舞う。

「バリアか?」

クラウンがユウキに向かって訪ねるが、ユウキは首を横に振る。

「僕のバリアだと風も感じなくなるよ。都子さんじゃない?」

風は部屋の中央から壁側へ向かって、放射状に流れている様だ。ユウキが都子に視線を投げると、都子は詰まらなさそうに、「埃っぽいの厭やねん。鳥渡どかしただけや」とぼやく様に云う。

「さすがはフィールデングの都子」

クラウンが茶化す様に云うと、都子は厭な顔をした。

「それ佐々本のおっちゃんが勝手にゆうとんねんけど、何や解らんわ」

「ミヤちゃんこんなのも出来るんだね」

蓮が眩しそうに云う。

「ワープとか白い世界なんかよりよっぽど楽やねん。舞台演出は任しといて」

「取り敢えず風を通しましょう」

神田がそう云いながらカーテンと窓を開けているので、他の窓をクラウンと都子が手分けして開けて行った。子供達は窓に背が届かないので、その様子を只眺めている。

都子が風の流れを操作した様で、玄関や窓から流れ込んだ風は部屋の中を渦巻きながら、他の窓から流れ出して行く。その流れに乗って部屋の中の埃が外へと排出されて行く。

「すごーい、はたきとか要らないね」

知佳が感心した様に云う。

「風当てとるだけやから、気休めやで。掃除はちゃんとせな、な」

「はぁい」

窓が全開になると、部屋の中は可成明るくなる。

「カーテンや敷物等は、一度全部外して、洗濯なり交換なりします。運搬は私がするので、取り外しは蓮さん手伝って貰えますか?」

「はいはーい」

蓮がぴょんと跳ねながら、神田の指示を受けに行く。外には運搬用のパレットが並べられている様で、蓮はカーテンやカーペット等をパレットの上に転送し、神田がそれらを運び易い様に念動力で並べ替えて行く。

「ほんならうちらは拭き掃除やな」

都子が何処からか雑巾を四つ持って来た。それを知佳達に手渡すと、目の前に照明器具等が並ぶ。天井近くにある照明や装飾物を、空間の繋ぎ変えで目の前に持って来ているのだろう。知佳がその照明の一つにそっと手を出すと、天井の隅から照明に向かって知佳の手が伸びて来るのが見えた。

「うわ、なにこれ、面白ぉい!」

「遊んどらんと、お仕事!」

「はぁい」

四人掛かりで雑巾掛けを始める。都子が吹き飛ばしたとは謂え、数年間放置されていた埃の層は厚く、雑巾が直ぐ黒くなる。これまた都子が何処からか調達して来たバケツで(すゝ)ぐのだが、その水も直ぐ黒くなる。――と思ったら、汚水があっと云う間に綺麗な水に入れ替わった。よく見ていると如何もバケツの中に水流がある。これも都子の空間術だろうか。汚水は何処(いずこ)かへと流れ去り、代わりに清水が何処かより流れ来る。それも人肌に温かな水なので、ずっと濯いでいても手が辛くならない。うっかり雑巾を流しそうになっても、水の出口に格子でも嵌っているかの様に、そこで雑巾は留められる。

「やっぱ都子さん、半端なく凄いわ」

知佳は感動の余り嘆息すると、直ぐ拭き掃除へと戻った。

カーテンとカーペットの搬出が終わると、今度は居室のベッドマットや布団、シーツ等が、ベッドフレームだけ残して次々と運び出されていく。宿舎と云うだけあって、部屋数も多い。今回使用するのは二部屋だけの筈だが、二十二も在る総ての部屋の内装が取り外されていく。殆ど空になった総ての部屋を神田が一つ一つ回りながら、調度やベッドフレーム等の位置を微妙に調整している。拭き掃除を続けながら、知佳はその様子を興味深げに眺めている。

「神田っち何遣ってるんだろうね」

何時の間にか知佳の背後に蓮が来て、そんなことを呟いた。

「なんか、全部の部屋を同じ様にしているみたい。几帳面だよね。――あ、蓮、そっち終わったんならこっち手伝って」

「ちょっと休憩してからぁ」

そう云うと蓮は知佳の傍を離れ、ソファに体を投げ出した。流石に沢山転送して疲れているのかも知れない。知佳は優しく溜息を吐くと、自分の作業を続行する。

「みやこさぁん、総て同じ様にしましたよ!」

二階の廊下から神田が身を乗り出して、大きな声でそう告げると、屈み込んで階段の手摺を拭き掃除していた都子は大儀そうに腰を上げた。

「了解、ほいではその儘部屋から出といてんか」

神田が部屋のドアを閉めると、都子は悠然(ゆっくり)と建物の中を見渡し、「十九、二十、二十一……二十二、かな。おっけい、何処でも好いから入って」

一階に下りて来た神田が近くの部屋のドアを開けると、なんだか空気が重く()し掛かって来る気配がした。暫くドアを開け放してその気配を逃がすと、中へ入り、彼方此方(あちこち)確認する。色々な物の輪郭が迚も曖昧に見えている。

「綺麗に揃えるのは難しいですねぇ……」

「そない几帳面にせんくても、てけとーでえゝねんで。作業上の支障は無いから」

「そうですか……では皆さん!」

神田がロビーにいる全員に向けて声を掛ける。

「都子さんが二十二個の部屋を並べて掃除し易くしてくれました! 一部屋掃除する要領で皆さんで掃除しちゃいましょう!」

ロビーに居た四人は顔を見合わせた。

「神田っち何云ってる?」蓮が知佳に訊く。

「解んない」知佳は眼をパチクリさせている。

「何か解んないけど、掃除すれば好いんじゃない?」ユウキは深く考えることを諦めた様な顔をして云う。

「解らんけど――兎に角行こか」

クラウンが立ち上がると、子供達もそれに続いた。

部屋に入ると、全員ぴたりと足を止め、暫くは呆然としていた。世界が非常に曖昧に見える。壁や床、天井等はそれ程でもないのだが、ベッドフレームや脇机、窓のクレセント錠等が何だか判然せず、非常にぼんやりとしていて何だか不安になる。

「ええと……これは如何云う……」

やっとのことで知佳が言葉を発する。

「都子さんの空間術ですよ。二十二の部屋は全く同じ造りで、調度も同じなので、一つに重ねて貰ったのです。――そうですね、トランプを重ねる様に、四次元目の軸へ向かって総ての部屋を綺麗に揃えた感じです。なので、揃えたトランプの(へり)を拭けば総てのトランプが綺麗になる様に、この部屋を掃除すれば二十二の部屋総てを掃除したことになるのです」

蓮が口を大きく開けて、何か云おうと物凄く考えを巡らせている。知佳はそっとベッドフレームに手を掛けてみた。なんだか触れている様な、いない様な、妙な感覚である。その儘ぐっと力を込めると感覚は判然して来るのだが、自分の手が(ぼや)けて仕舞う。

「なにこれ……」

そこで蓮が大きく息継ぎをして、「あの、質問!」と云った。

「何でしょう」

「トランプの縁がそうやって綺麗になるのは判ったけど、でも表面は? 裏面は? 重なっている所は綺麗にならないよ」

「それは、ベッドのフレームの内側とか、戸棚の扉の板の中とかに該当する部分です。そんな所迄綺麗にする必要は無いし、出来ません」

「ええ? なんでそうなるの?」

「トランプの喩えは、二次元の物を三次元的に重ねると云う喩えです。二次元の住人には、トランプの縁が表面であって、絵柄なんかは決して見ることは出来ません。それはトランプの内臓に当たります」

「はぁ?」

「だめ、神田さん、頭痛い……」知佳が(うずくま)る。

「うーん、困りましたねぇ」

「専門家呼んだろか」

都子はそう云うと、誰の返答も待たずに廊下に出て、壁の一角を押し開けた。その向こうは稍散らかった部屋で、机に向かって誰かが座っている。

「佑香ぁ、ちょい聞きたいねんけど!」

都子が靴を脱いで部屋の中へと進みながら声を掛けると、机に向かっていた女性が大儀そうに振り返る。

「あぁ? 何や、もう帰って来たん。明日代数の試験やねん、後にしてんか」

「そない云わんと。小学生に解るように教えたって」

「はぁ?」

そう云われて、佑香と呼ばれた女性は都子の肩越しに扉の向こうを見た。

「何やそれ! 仕事終わったんちゃうん?」

「まだ最中やん」

「しっかり働きやぁ」と云って佑香は机に向き直ろうとするのだが、都子がその肩をぐっと掴んで、「後で時間遣るから、ちょい付き()うてや」

「はぁ!? また齢取らす気ぃかいや! 勘弁したってぇ!」

「直ぐ直ぐ! 直ぐやから! 多分!」

「多分ゆうた!」

「佑香次第!」

「意味判らん!」

二人の掛け合いに、子供達はおろおろしだした。

「あ、あの……忙しいなら無理は云わないので……」知佳が申し訳なさそうに云う。

「誰!」

「あの……えっと……三科知佳です」

「知らんし!」

「佑香、邪険にしなや、あの子心の奥迄見透かすで」

「やから何!」

「あっちがテレポータの蓮ちゃんで、あれがヒーラーのユウキで、顎は知っとるな、あのオッサンがサイコキネシスの神田」

「あーあーあーあー! 知らん識らんしらん! 巻き込みな!」

「うちの能力の説明してや」

「でけるかぁ!」

知佳が心配そうに神田を振り返る。

「あの人本気で迷惑がってるよ」

クラウンは「あちゃあ」という感じで、右手で顔を覆っている。神田は暫く黙考した後に、「其処の方、時給三千五百円で如何(いかゞ)!」と声を張った。途端に佑香は椅子から立ち上がり、一旦玄関へ寄って靴を取ってからすたすたと近付いて来て、「何が訊きたいん?」と、靴を履きながら云った。

「うわ、ちょーしえゝなぁ」都子が呆れた様な声を挙げる。

「あほか。こない幼気(いたいけ)な少年少女、無碍(むげ)にでけるかいや。何時間でも付き合うで。――都子、後で時間補填せいよ。明日の試験はガチやからな」

都子は一回天を仰いでから、気を取り直して、友人を皆に紹介した。

「ルームメイトの佑香や。東京だか物理だか理科だかゆう大層な大学で数学専攻しとる。今年四年やからゼミとか入って忙しそうやねん」

「解ってゝ巻き込んだんかい!」

「大丈夫、賢い子やから、何とかなる」

「あんたなぁ」

そう云いながら佑香は、皆の居る室内へと入って来て、矢張り立ち(すく)んだ。

「うわ、何やこの部屋、なんか気持ち悪」

「都子さんの能力で、二十二個の部屋を重ね合わせてるんです」神田が軽く説明すると、佑香は一瞬眉を顰めて、改めて室内を見渡した。

「え。w軸方向に積み上げたってこと? 都子そんなことするん?」

「何や解らんけど、うん」

「解らんで同意すな――へええ、こんな感じんなるんや」

佑香はすっかり興味津々で、あちこち眺めたり触ってみたりしている。

「え、待って。――えゝ、そうなんや、うわぁ」

「一人で感心しとらんと、説明してや」

「待って待って。うん、そうやな。――トランプあるやろ?」

「トランプの説明は聞いたよ。でもさっぱり解んない」

蓮が水を差す。

「さよか。如何聞いた」

蓮が神田から聞いた通りの説明を繰り返した。解らないと云っていた割には、自分の口で説明してみると何となく肚に落ちて行く様な気がする。それでも、トランプの表面が内蔵と云う段になると矢っ張り理解が追い付かない。

「あー。『二次元の世界』やな。フラットランド。あれは誰やっけかな」

「アボットですね。エドウィン・アボット・アボット」

「そうそう。そんな変な名前やったわ。アボアボ。本苦手なあたしでもあれは読んだわ」

佑香と神田が二人にしか解らない話を展開している。

「解る様にゆうてやぁ」

都子が堪らず野次った。

「あゝゴメン。――あのな、あたしら三次元の人やんか。で、そんなあたしらが見ているこの世界、何次元やろ」

「三次元でしょ?」蓮が透かさず答える。

「そやな。でもそうではないねん。両眼で見るからそんな気んなるけど、片眼で見たらどないや?」

「えゝ……でも三次元は三次元でしょ?」

「そうか?」佑香は右手でパーを出し、それに隠す様に左手を出して、「今あたしの左手、指何本立ってるか見えるか?」

「えー……三本?」

「当てゝってゆうてない。見えるか? と訊いとる。――あなた、えゝと名前」

「蓮です」

「蓮ちゃんな、透視とかはでけるん?」

蓮は首を横にブンブンと振った。

「ほしたら、あたしの左手は見えんやんな? 三次元が見えるなら左手見えてもえゝ筈やん。でも見えへんのんは、写真とかと同じで、あたしら三次元の人間には景色を二次元でしか見ることがでけへんからやねん」

「えー」

「写真も絵も、二次元やな?」

「うん……多分」

「映画もアニメも二次元や」

「うん」

「つまりあたしらは二次元でしか認識でけんねん。――さて、()し二次元人がいたとして、彼らは世界を何次元で捉えるか」

「い……ち次元?」

「そう! 賢いな」

「えへへ……」照れ笑いしながらも、蓮は余り納得いっていない。

「二次元人は平面の中、例えば紙の表面みたいな、そんな厚みの無い世界に住んどる。そんな彼らには、お互いが如何見えるか、二次元人になった心算で想像してみてや」

蓮は悩まし気に目を瞑った。眉間に皺が寄っている。

「紙の上に描かれたマル君にとっては、紙の表面に沿った方向だけが世界の凡てや。縦と横しかあらへん。プレパラートの上のアメーバみたいに、紙の表面を滑る様にして動くばかりや。その視界も当然、紙に沿った方向しかあれへん。マル君がシカク君に会うても、紙面に沿ってしか見えへんのんで、唯の線にしか見えん。若しも遠近を理解出来たとしても、角があって直線で、と云うことは解るけど、ぐるりと回って角を数えんかったら、それが三角なのか四角なのか五角なのかさえ、判断でけへん」

「うん――そう、かな」

「そやねん。せやから若し、その四角ン中にクマちゃんの(がら)が描いてあったとしても、マル君にそれは判らんねん。四角の辺のどこかを破って、中の形をぐるぐる周りながら調査して、初めて『なんか耳の付いた動物かも』って知れる程度や。あたしら三次元人が絵を見てクマちゃんやぁって判る様には、二次元人には理解することがでけへんねん」

「うん。そうかも」

「そやねん。このおっさんがゆうとった、トランプの柄も同じ。二次元人にとってはそれは内臓やから、トランプの縁をブチブチちぎって行って絵柄に辿り着いて初めて、あゝ何か描いとる、と知れるんやけど、どんな絵か理解するんはなかなか難しいやろな。いや、正確なこと云うと、トランプの絵柄はマル君と同じ次元には無いから、実はマル君は認識でけんのやけどな。絵柄はトランプの上のインクやから、実は三次元方向やねん。それは二次元人には見えん世界や。それこそマル君にとっての『亜空間』に存在するものやからね。表面に描かずに、切り絵の様に切り抜いたなら、二次元人にも辿り着けるけどな。――でや、話戻すけど、二次元人がトランプを掃除する場合、目の前に見えてゝ()れることの出来るトランプの縁が、二次元人から見たトランプの凡てやから、そこさえ拭いてピカピカにでけたら、トランプのお掃除完了やねん」

「う……ん」

「さて、三次元人の話に戻ろか。あたしらも一つ低い次元でしか認識でけへんので、例えば後ろ姿の人がいたとして、正面にぐるっと回らんかったらどんな顔してるか判らんやろ。マル君がシカク君を三角か四角か五角か判らんかったのと同じで」

「うんうん」

「同じ様に、その人の肝臓に癌があったとして、あたしら見ただけでそれは判らんねん。マル君にトランプの絵が判らんのと同じで。表面切り裂いて中を探って行かな判らん。――レントゲンやらエコーやらは、話やゝこしなるんで云いっこなしやで」

「怖……でも云ってることは解る」

「そんなあたしらがサイコロ磨く時、六面磨けば済むやん? 中の裏表迄磨こうとは思わんな?」

「中の裏表とか、意味わかんない」

「そやろ。二次元人にとっても、トランプの裏表とか、意味解らんねん」

「うーん。そうか。裏表って時点で三次元か」

「そうそう。サイコロの裏表は四次元。そのサイコロをな、四次元方向に並べるねん、二次元のトランプを三次元方向に重ねる様に」

「あー、うん……え、でも」

「でも?」

「トランプ重ねたら三次元……」

「君は賢い!」

佑香は蓮の頭をわしわし撫でた。

「そやねん。重ねたトランプの縁を、二次元人は纏めて拭けるか問題。(そもそも)トランプに厚みが無いなら、重ねても厚みはゼロ。ゼロ足すゼロはゼロ、ゼロに何掛けてもゼロやから、特に問題はない。なので二次元人に重ねたトランプは纏めて拭けんねん」

「んん? うん……なんか騙されている感じ……」

「厚みがあったら? もし二次元のトランプに厚みがあるなら、二次元人にも厚みがある? これは根本の定義を揺るがす大問題やねん。――(しこう)してあたしら三次元人に、四次元方向の厚みがあるか? と云う問題でもある」

「ええー……」

「この部屋の二十二個重なった内装品、先刻触ってみた感じ、全部同時に触れてるみたいやねん。これは如何云うことなんやろなぁ、と。厚みがあるのか、ゼロやからなのか。――都子、何方(どっち)やろ」

佑香が都子を顧みる。

「何が」

「聞いとったか?」

「なんとなく」

佑香は厭そうな顔をした。都子が云い訳のように云い添える。

「いや、うち知らんねん。並べとぉだけやから。厚み? 判らんなぁ」

「そこ判ればなぁ。あたしが研究したんねんけど」

「解剖するか?」

「せぇへん!」

都子はけらけらと笑った。

「まあえゝわ。この子等が理解したなら」

都子はそう云って、蓮と知佳を見た。蓮は難しい顔をして考え込みながら、ブツブツと呟いている。

「うーん、なんとなく……厚みゼロだとすると、ずれて重なってた場合、如何なるんだろ。厚みあるなら凸凹になりそうだけど、ゼロだと……」

「手ぇ届かなさそうやなあ」佑香も一緒に考え込む。

「都子さん、あたし全然ついていけてない」

不安そうな知佳に、都子は微笑んだ。

「安心し、うちもさっぱりや」

都子は知佳に雑巾を渡した。

「ま、取り敢えず拭こか」

二人は(おもむ)ろに部屋の中の拭き掃除を始めた。ずっと黙って聞いていたユウキとクラウンも、それに続く。

「佑香さんって、何かの能力ある人?」

掃除をしながらユウキが訊く。

「何も無いで。敢えて云うなら、荒い口調で喋れる」

「こら都子、何ゆうとんねん。あほか」

都子の返答に佑香が抗議する。

「ほらな? 怖いやろ」

「待って待って、ちゃうで、可愛い普通の女の子やで」

「自分で云いなや」

都子がけらけら笑うと、佑香は赤面した。

「とっ、取り敢えずあたしの役目終わったやんな? 時間返して、ほんで時給頂戴」

(せわ)しないなぁ。も少しゆっくりして行きや」

「何ゆうとんねん。明日試験やってゆうとろぉが」

「今時間止めとぉからなぁ。給料もゼロ掛けでゼロ円ちゃうか?」

「何やと!」

佑香の口調が荒れ掛けた所で、神田が口を挟んだ。

「ちゃんと出します。ご安心ください。私の時計では、佑香さんがこの部屋に入ってから、ちょうど三十分ですね」

「あ、未だそんなもん? 蓮ちゃん、も少しお話でけるよ」

「がめついど」

「だぁ! 都子うっさい!」

然し蓮は眼をキラキラさせながら、「もっとお話聞きたい!」と云った。

「ねぇ神田っち、好いでしょ? 駄目?」

神田はふっと微笑んで、「知的好奇心を止めることなど、私には出来ませんよ。納得の行く迄お話聞いてください」と云った。蓮は嬉々として佑香の手を引いて、ロビーのソファーへ連れて行って腰を下ろした。

「明日試験やろぉ?」

都子が部屋から顔を出して、佑香に向かって叫ぶが、佑香は振り向きもせずに、「子供の向学心を無視でけるかいや! 時間止めといてや!」と叫び返した。

「ほんま身勝手な女や」

都子はそう毒突くと、部屋に引っ込んだ。身勝手はお互い様だよなぁと、知佳は思ったが、口にはしなかった。

部屋の掃除は蓮抜きの五人で行ったが、そんなに広い部屋でもなく、調度も大して多くは無かったので、然程時間は掛からなかった。五人でも大袈裟な程だ。掃除が完了して部屋を見渡すと、相変わらず彼方此方暈けて見えてはいるのだけど、明らかに綺麗になって、ピカピカ輝いて見える。拭き残し等は特に見当たらないので、二十二部屋総て綺麗になったのだろう。

「ほんでは皆、部屋から出てんか」

都子に全員追い出されると、部屋の様子がスッと変わった。最早暈けた所は無く、唯の何の変哲もない部屋に戻っている。但し、至る所ピカピカである。知佳が隣の部屋を開けると、そこも同様にピカピカになっている。その隣、更に隣と確認する。

「ほえぇ、ほんとだ、凄い!」

「そない確認せんでも。遣り残しは無いと思うで。二階も同様や」

「じゃあ、これでお掃除終わり?」

「後は管理室と、給湯室、トイレ、それと浴場が残ってますね」

神田の言葉に知佳はがっかりした様な顔になった。

「うわ、結構あった……」

「まあ、皆で遣れば直ぐですよ。二十二部屋が一遍に片付いたのは大きいです」

「そうだよね……うん、がんばろ!」

「前向きなんは、えゝこっちゃ」

都子が褒めると、知佳は少し嬉しそうな表情になる。そんな都子の言葉に活力を貰って、知佳は人一倍頑張って掃除した。浴場は正月に行ったスキー場のペンションのそれよりは大分小さかったが、それでも家の風呂よりは大きく、洗い場には三人分の水栓が並んでいた。腕(まく)り、裾捲りをし、浴槽の中をデッキブラシで磨いた。今日はスカートでなくズボンを穿いて来て良かったと、心底思った。ユウキは洗い場の床を、矢張りデッキブラシで磨いている。

知佳とユウキが都子の監視の下で浴場を掃除している間に、神田とクラウンは管理室と給湯室とトイレの掃除を済ませていた。凡ての掃除が終わり、知佳達が浴場から出て来て神田達と合流した時、都子の腹の虫がそこそこ大きな音で鳴った。

「うぉお、バリクソ腹減った!」

「都子さん今日は大活躍ですからね」神田が苦笑交じりに、宥める様に云う。

「それ以前に、五時頃に時間止めてから三時間は経っとぉからな。夜八時頃の勘定やど」

知佳が小さな悲鳴を上げた。

「わぁ! 帰ってご飯食べなきゃ!」

一同はロビーに集合し、取り敢えずは銘々ソファに体を沈めた。

「あかんわ、オラ、腹減ってリキが入らねぇ」

力なく呟く都子に佑香が視線を落とし、「何かの漫画のキャラみたいやな。んでも、あたしも流石に話し疲れたわ。なんか食べ行こか、都子のおごりで」と云う。

「なんでうちのおごりやねん」

神田が笑いながら、「食事は此方で用意しますよ。皆さん本当にご苦労様でした。――知佳さん、蓮さん、ユウキ君は、おうちでの夕飯があるでしょうから、少しだけにした方がよいですよね」

「この儘帰っても好いんだけどな」と知佳が云う。

「えー、あたしお腹空いちゃって、この儘帰っても味噌汁作れない」蓮はソファに倒れ込みながら異を唱えた。

「ああ、蓮はお味噌汁担当なんだ。じゃああたしも付き合うよ。ユウ君は?」

「僕も少し食べてく」

「ではご用意いたしますので、此処でお待ちください。――都子さん、時間動かしてください」

「りょおかぁい」消え入りそうな声で都子が応えると、色々な音が聞こえだした。風の音、木々のさやめき、鳥の声、自動車の走行音等。神田は一人、玄関から出て行った。

「そう云えば此処って、どう云う場所にあるの?」

知佳が聞き耳を立てながら、不思議そうに問う。これにはクラウンが答えた。

「大月支部の直ぐ横やねん。大月支部自体、殆ど山ン中に在って、周りは林っちゅうか、森っちゅうか。せやけど直ぐ其処をまあまあ太い道路が走ってるから、まあアクセスはえゝ方やね」

「ミヤちゃん居たらアクセスとか関係ないよね」

蓮がソファにくったりと沈み込んだ状態で云うと、クラウンはカカッと笑った。

「都子がおるんはわし等のチームだけやん。他の連中は普通に道路から来んねんで」

「そういやワープはおなか減るんやったっけ」佑香が口を挟む。

「もぉ、へとへとやぁ」

「あかんわ。液化しとる」

ぐったりとソファに沈む都子を見て、佑香はけらけらと笑う。

「都子、後でえゝんで、も少し時間止めといて。仮眠取りたいし」

「あぁん? 何分」

「二時間くらい寝さして」

「はあ。二時間でも八時間でも」

「八時間は寝過ぎやて! それ完全にリズムおかしなる。明日の試験に差し支えるわ」

「ははははぁ、さよかぁ」

「笑い声も消え入りそうやん。あんたほんま大丈夫か?」

そんなことを云っている内に、ワゴンを従えた神田が戻って来た。

「簡単なお食事ですが。皆さんどうぞお召し上がりください」

見知らぬ大月の職員に依って、ソファに囲まれた低いテーブルに料理が並べられる。円いプレートにはハンバーグと千切りキャベツ、一口サイズのナポリタンと櫛切りトマト。それにご飯と味噌汁が付いている。子供達にはミニサイズのハンバーグとミニサラダ、小さな握り飯大に盛られたライスが配膳された。

「おお、はんばあぐ!」

都子が飛び起きて、プレートに飛び付こうとするのを、佑香が制した。

「みっともないことしなや、大人やねんから」

「泣く子と空腹にゃあ勝てんのじゃ!」

「あんた泣く子には勝つやん」

「他人聞き悪いな!」

そう云っている間に、都子は箸を右手に、御飯茶碗を左手にして、「いただきます!」と元気に挨拶した。他の者も順次都子に続き、食べ始める。配膳係は最後に湯呑を配り、冷たい麦茶を()いで残りのポットをテーブル中央に置くと、空のワゴンを部屋の隅に引いて行った。

「空になったお皿等はワゴンへお願いします」

職員はそう声を掛けると、一同の「はぁい」と云う返事を背にして去って行った。

「蓮てば、三時間ずっと、四次元とかのお話してたの?」

食事をしながら知佳が何気なく訊く。

「そればっかりじゃないけどね。数学、あたし好きかも」

「この前計算ドリルの一問目から解らなかったのに?」

「算数と数学は違うんだってさ! 小学校で遣る様な計算なんて、数学ではあんまりしなくなるって云ってた」

「そうなの?」

「それより文字が出て来るって!」

「文字って?」

「小学校でもするじゃん、四角に入る数字は何でしょう、みたいの。その四角が、エックスとかになるんだって。で、そのエックスとかに入る数字は判らなくても好いんだって!」

「え、なんで?」

「文字のまゝ計算するから、数字の計算より楽だって!」

「へぇ……蓮てば、もう中学の数学先取りしちゃったんだ」

「へへぇん! お話聞いただけだけどね! でもなんか楽しかったぁ、あたし中学行ったら数学頑張る!」

「その前に六年生ね」

「ちぇっ、判ってるよ、もぉ」

そんなお喋りをしながらのんびり食べていたら、都子が空の茶碗を神田に向かって突き出して、「お替り!」と要求した。神田は鳥渡困った顔をした。

「すみません、そこ迄用意しきれなかったですね……」

「子供等から間引いた分あるやん!」

佑香が眉を顰める。神田はスマホで何処かに電話を掛け始めた。

「あんた好感度だゞ下がりやで」

「なんでや、えゝやん、食べ(もん)無駄にしたらあかん! 今日はワープしまくって滅茶糞(め ちゃくそ)腹減っとるねん!」

「いや……うんまあ、わかるけど……でもほら、大人として」

「佑香は気にしぃやな!」

「あんたが気ぃ遣わな過ぎやねん」

二人の遣り取りを子供達はけらけら笑いながら見ている。

「都子さんの本当の相方は、佑香さんだったんだね」

「息ぴったりだよね、何年位組んでるのかな?」

知佳と蓮の勝手な会話に、佑香が反応する。

「組んでるとか、あんたら何ゆうとんねん。唯の幼馴染や。コンビ芸人とちゃう!」

「ゆうてますけどね」

「何やそれ!」

「ガリガリガリクソン」

「またそれか! 誰やねんて!」

「おお、怖」

都子が誰かの物真似をしている様なのだけど、その誰かが判らない。なんだか判らないながらも、然し子供達はキャラキャラと笑っている。佑香は軽く溜息を()いて、少し表情が(ほころ)んだ。

「笑い取るって気持ちえゝやろ」

「いや、あたし(なん)()うてへん」

「まぁまぁ」

「やから……もぉ、何でもえゝわい」

その時玄関から、先程の職員がトレイを手に入って来た。(ほゞ)一食分のおかずと御飯、それに味噌汁が乗っている。

「此方で最後になります。これ以上は、別途調達して頂くより他……」

「ほら、あるやん! 神田っちありがとう! えゝで、えゝで、こんだけありゃ十分や」

都子はトレイを直接受け取ると、席に持ち帰って食べ始めた。佑香が呆気(あっけ)に取られながら、溜息交じりに呟く。

「そんだけ食べてそん体形やもんな。羨ましいわ」

「エネルギー使いまくんねん。食わな死んでまう」

「はぁ。さいでっか」

結局都子は二人前を、綺麗にぺろりと平らげた。他の者も食事を終え、食器をワゴンに下げると、神田が皆をソファに集める。

「では、今日のところはお開きとしましょうか。――都子さん」

「はいよ」

周りの景色が一瞬にして吹き飛び、ソファだけの白い世界へ戻る。

「では皆さん、一人ずつお送りしますね。また次回、連休明けぐらいにお集まり頂きますので、その際には宜しくお願いします」

神田の短い挨拶を最後に、皆は都子に依って、それぞれの自宅へと送られていった。

立川

菊池文恵は、卓上の葉書を穴の開く程凝と見詰めていた。差出人には神田達也とある。X国から届いた物の様で、見たこともない様な珍しい異国の切手が貼られている。卓上には通信面を表にして置かれているのだが、大したことは書かれていない。ご無沙汰しております、五月に帰国の際に、健介の墓に参らせてください、と書かれている。この差出人は恐らく、健介の親友だった子だ。もう、子、と云う程の齢ではないか。然し文恵にとっては、未だ未だ健介は「子」だ。死んで仕舞ったので「子だった」と云う()きか。いや、死んだからこそ、何時迄経っても「子」の儘なのだ。その友達――同級生だった筈だ、ならば矢張り、「子」で好いのではないか。

この子は健介の死に際にも傍にいてくれた。健介を護れなかったと云って号泣していたのだ。健介は何故死んだのか。警察は何も説明してくれない。如何やら未だに捜査中の様なのである。この子は葬式に出た後、何処かへと行って仕舞った。別に消息を尋ねる義理も無ければ、知らせて貰う義理も無い。然し風の噂に、何か悪事に手を染めてX国の警察だかに捕まったと云う様なことを聞いた。誰から聞いたのだったか。テレビで見たのか、母が云っていたか、否、娘から聞いたのかも知れない。娘は何処から聞いて来たのだろう。

葉書がX国から来ていると云うことは、噂は正しかったのだろうか。それにしては帰国が早過ぎる気もする。犯罪を犯して外国に捕えられたのだとしたら、何年も帰って来れないのではないだろうか。文恵はその辺りのことは全く分からない。恩赦、みたいなことなのかも知れない。――噂が間違っていたのかも知れないではないか。全く別の用事でX国に行ったのが、X国に捕まったと、間違って広まったのかも知れない。

広まった、と云う程皆知っている訳ではない。神田達也なんて、誰も知らない。文恵だってこの葉書が来る迄すっかり忘れていた。この葉書は(あや)が――長女の彩が持って来たのだ。なんだか迚も愉しそうにしていた。そう云えば子供の頃、何度か兄の健介と一緒になって遊んで貰っていたかも知れない。たっちゃん、たっちゃんと、慕っていたか。大昔の話だ。未だ長屋に住んで居た頃――

酷い時代だった。雨は漏るし、隙間風も通る。野宿しているより少しマシ、と云う程度の、家とも呼べない、小屋の様な物だ。あんな処に三年は住んで居たか。五年は居たかも知れない。坂上が探して来て、住まわせてくれていた家だ。大した稼ぎも莫い癖に、女子供囲って。こんな襤褸屋(ぼろや)ですまねぇ、何時か立派な屋敷に住まわせて遣ると、常々云っていたが、死んで仕舞った。薄々感付いてはいたが、真面(まとも)な仕事なんかしていなかった。死んだ後に聞いて知ったことだが、詐欺だったのだ。ケチな仕事ばかりしていたが、ある時大金を騙し取って、気が大きくなって、恐らくそれで隙が出来て、直ぐ捕まったのだそうだ。金には手を付けていなかったので示談になった。その時何故か、変な能力に目覚めたのだと云う。

文恵も直接見せられたことがある。茶碗や湯飲みがぷかぷか浮いていた。最初は詰まらない手品かと思ったが、如何やら本物の様だった。文恵は腰の抜ける程驚いたが、坂上はその力で、天下を取ると息巻いていた。その時は、見世物でも遣るのか、程度にしか考えていなかった。――真坂、暴力団の事務所に殴り込むなんて思ってもみなかった。

結局その襲撃だかは上手く行かず、その後暫く姿を見せなくなった。心配でならなかったが、家の周りを物騒な連中が彷徨(うろつ)いていたし、余り目立ったことは出来なかった。そんな中、甲府の方で何か遣らかして、復逮捕されていたと云う。その上今度は示談になる前に、如何やら留置場から逃げ出した様で、その際警察や、坂上を付け狙っていたヤクザ達に怪我を負わせている。文恵はそんなことなど知る由も莫く、数年振りで突然匿ってくれと泣き付いて来た坂上を、何も訊かず、実家に頼み込んで暫く預かって貰った。流石に今度は坂上も、大人しく身を潜めていた様で、その後二、三年位は、何事も無く平穏に過ぎて行った。文恵も偶に実家へ様子を見に行ったりなどしていたが、人が変わったみたいに大人しくなっていて、変な能力の話も全くせず、この儘落ち着いて定職にでも就いてくれゝば、等と願っていた。

また可怪(おか)しくなり出したのは、息子の健介が四年生に上がった年、末っ子の奏介(そうすけ)が生まれた年だから二〇一〇年の、春先位だった。突然長屋に現れて、赤ん坊をぞんざいにあやした後、外で達也と遊んでいる健介に絡んだりして、上機嫌の儘去って行った。酔っていた様だった。その時本人から聞いたのだ、警官とヤクザを殴って逃亡の身だから、堅気の職に等就けないと。目の前が真っ暗になる思いだった。然し此方の気も知らず、何故か坂上は機嫌が良かった。機嫌が好いと云うよりは、興奮していたのかも知れない。(いず)れにしても此方から何の声を掛けることも出来ない内に、坂上は行って仕舞った。そしてその儘、二度と逢うことはなかった。

坂上はその後スナックに寄ったらしい。其処はその当時の文恵が働いていた店であり、坂上が中学生の頃から身を寄せている家でもあった。其処のママの遠縁なのだと聞いている。何故其処で育ったのか、親は如何したのか、文恵は何も知らない。訊いてみたこともあったが何だ(かん)だとはぐらかされて仕舞った。何れにしろ文恵は坂上と、その店で出逢ったのだ。客でも従業員でもない坂上は、文恵に対しては迚も優しかった。直ぐに恋仲となり、健介を授かった。生後暫くはママが健介を預かってくれた。坂上も健介を迚も可愛がり、献身的に世話をしてくれた。その頃は未だ文恵はスナックに通っていたのだが、健介が生まれたことで何かと物入りになり、家賃も滞り勝ちになって、結局はアパートを引き払い、ママの処に転がり込んだ。所謂(いわゆる)住み込みとなり、所謂同棲状態となった。二年後長女が生まれ、更に三年後に次女が生まれて、流石に手狭となった。すると坂上が何処からか長屋を探し出して来て、其処に移り住むこととなったのだ。坂上自身も前後してママの店から出て、別の処に居を構えた。それも狭くて汚いアパートだった。広さだけなら未だ長屋の方が広い位だった。兎に角其処に移って、坂上は何やら金策を始めた様だった。長屋の家賃は要らぬと云われた。坂上もアパートの家賃を払っていた様には見えなかった。如何云う仕組みになっていたのかは解らないが、若しかしたら何れもママの所有物件だったのかも知れない。

そんな恩のあるスナックだが、坂上が死んで以来一度も顔を出していない。最後に坂上と別れた日、坂上はスナックで安いウイスキーを一杯だけ引っ掛けると、落ち着く間も莫く直ぐに何処かへ行って仕舞ったのだそうだ。店に居る間もずっとそわそわしていた。入り口や窓等を(せわ)しなく、幾分びくついた感じで何度も何度もチラチラ見ていたらしい。そうしてグラスを干すと、直ぐに店を出て仕舞った。その後何があったのか、ママもよく判らないと云っていた。兎に角その後、坂上は暴力団を完全に怒らせて仕舞ったらしく、スナックにも文恵の長屋にも、暴力団らしい見張りがずっと張り付いていた。文恵やママに対して直接何かをして来る様なことはなかったが、それでも非常に落ち着かない思いだった。その数日後――坂上が死んだ日だ――坂上は再びスナックに現れると、殆ど間を空けずに四、五人の暴力団もわっと雪崩れ込んで来て、大騒ぎとなった。幾つかのグラスや酒瓶が割られ、ママもとばっちりで顳顬(こめかみ)の辺りに軽い怪我をした。坂上はなんだか不思議な力でヤクザ達を薙ぎ倒し、空中に浮かんだ状態の其奴(そいつ)等を引き連れた儘正面のドアから出て行った。然し数分とせずに復慌てゝ戻って来ると、匿ってくれ、刑事が、と云ってカウンターの奥の部屋に籠って仕舞った。間も無く勝手口の外で、ドカンガタンと何かを積み上げる様な音が聞こえたかと思うと、坂上が慌てゝ部屋から出て来た。今の音は何だと、裏手の窓から外を伺ったり、勝手口を薄く開けようとしたりしていたが、如何やら勝手口はびくともしない様で、ドアノブを握った儘俯いて仕舞った。すると復外で、ガラガラと何かが崩れる様な音がしたかと思うと、坂上は開かなかった筈の勝手口を難無く開けて外へと飛び出して行った。

ママはもうずっと展開に付いて行けず、唯オロオロとして、勝手口からそっと外を伺ってみると、刑事らしき男が「待て!」と叫びながら坂上を追い駆けて行くところだった。一瞬目が合ったので反射的に目を逸らし、ドアを閉めた。

カウンターに手を突いて、散らかった室内を見渡し、ほうと溜息を吐いた所へ別の若い刑事が正面入り口から入って来た。怪我をされていますね、大丈夫ですよと声を掛けられている間に、なんだか傷みがすうっと引いて行った。顳顬に手を当てゝみたが、傷は見当たらない。唯血の跡だけが残っている様で、手に赤いものが付いた。そして今度は先刻の刑事が勝手口から入って来た。

刑事は坂上の身が危険だと云い、行き先を聞き出そうとするのだが、ママはそんなことは知らないので答えようが無かった。然し警察は独自に坂上を見付けた様で、何れ刑事達にも連絡が来て、勝手口から来た刑事は勝手口から出て行った。正面から来た刑事は出て行かなかった。その刑事の傍に居ると、段々興奮が収まって落ち着いて行く様だったと云う。()い男だった、なんて云ってママは笑っていた。

そしてその後、先刻の熱血刑事との遣り取りの挙句、坂上は命を落とした。

この二人の刑事は、文恵の長屋にも来た。坂上の死を知らせに遣って来たのだ。籍も入れておらず、何の関係も意味もないのに、何故刑事がそんなことをするのかと思ったが、坂上が死ぬ間際に、健介の名を呼んだのだと云う。健介を、頼む、と云ったのだそうだ。刑事に何を頼んでいるのか。そしてその訃報は、薄い板切れの壁一枚挟んだ向こうで聞き耳を立てゝいた健介も、一緒に聞く羽目になって仕舞った。

そこには達也も一緒に居た。そして刑事達が部屋から出た時、その内の一人が達也に「父さん」と呼ばれていた。文恵はその横で、健介を抱き締めた儘、二人でおいおい泣いていた。泣きながら、因果を呪った。坂上は息子の親友の父親に殺されたのだ。坂上が大好きだった息子の、その息子が大好きだった親友の、その父親に。恨む気持なんかは無かった。唯辛かった。

スナックを辞めて、長屋も引き払い、実家に戻った。

実家の近所のスーパーに、パートに出た。唯毎日を忙しくして、余計なことを考えない様にした。息子はそんな辛い経験をしたにも拘らず、驚く程真っ直ぐに育った。勉強は出来なかったが、高専を出た後も真面目に働いた。そんな息子も――死んで仕舞った。

「――お母さんってば!」

鈴を転がす様な元気な声に依って、過去の思い出から急に現実に引き戻された。

「もぉ、何度も呼んでんのに! 何ぼおっとしてるの!」

「うん――別に」

何時の間にか横に娘の彩が座っている。この娘も捻くれもせず、随分素直に育ったものだ。健介にしろ彩にしろ、下の二人の子供達にしても、自分と坂上の血を引いているとは思えない。詐欺師の子供だなんて迚も伝えられない。次女の香などは、今年から四年制の大学に通っている。この彩だって短大を出た。下に行く程優秀になる。末の奏介は未だ中学生だが、なんだか芸術方面に目覚めている。未だ中学二年生なのに、高校は美術科に行きたいなんて云っている。余りにも将来設計が具体的過ぎて、心配する隙も与えてくれない。――皆母親に負担を掛けまいとしているかの様である。学費の負担は掛かるが、それだって実家がある程度援助してくれているし、長屋住まいだった頃に家賃免除だった御蔭で溜め込んだ貯蓄もある。スナックのママも節目節目で気に掛けては援助してくれる。美術科が()の程度掛かるものなのか判らないが、末の子には学資保険も掛けているし、何とかなるのではと思っている。

「ほらまた。今日はなんか変だよ。疲れてるの?」

「うん? ――吁、ごめんなさい。なんだか昔のこと色々思い出しちゃって」

彩は卓上の葉書に目を落とした。

「たっちゃん、懐かしいよね」

彩も文恵の様に遠い目になった。この子はこの子で、大切な思い出があるのかも知れない。

「お兄ちゃんのお墓の場所、知ってるのかな。警察とかに聞いてるのかな」

「さぁ」

彩はパッと顔を輝かせて文恵に振り向き、「自家(うち)に来たりするかな?」と云った。

「自家の場所だって知らないんじゃないの?」

「だって葉書来てる」

「これ転送されて来てるじゃない」

「えっ……あ、本当だ。忠国警備? なにそれ」

「神田さんのいる会社らしいのよね」

「たっちゃんのパパ? そうなんだ……あ、でもそうしたら、パパに聞いて自家に来るかもよ!」

「彩は如何しても自家に来て欲しいのねぇ」

彩は耳迄一気に赤くなって、「そっ、そんな訳ないし! 何云ってんの!」

文恵の肩をぱしんと叩いて、居間を出て行こうとした。

「なんか用事あったんじゃないの?」

文恵が後ろ姿に向かって声を掛けると、彩はくるりと振り向いて、「明日何の日?」と逆に質問で返して来た。

「こどもの日」文恵は(わざ)とはぐらかす。

「――てことは?」

「判ってるわよ、もう。あんたの誕生日!」

彩はニカっと笑って、部屋を出て行った。二十二になっても誕生日が嬉しいのかしら、そんなことを思う文恵の頬に(えくぼ)が現れた。

彩は短大を出て直ぐ、新宿の小さな事務所で事務員として働きだした。今年で二年目になる。真面目によく働くので、そこそこ重宝されているらしい。何の事務所だったか、何度か聞いているのだが今一よく解っていない。何とか云う横文字の会社だった。デスクだかテーブルだか、そんな単語が入っていた様な気もする。家具の関係だろうか。また今度ちゃんと聞いてみようと思う。

卓上の葉書を見た。再び想いは達也の方へと流れてゆく。達也の父、神田、何と云ったか。相棒の刑事は「シンさん」と呼んでいた。名刺だかを貰った気もするが引っ越しのドタバタの中で何処かへ行って仕舞った。その神田何某(なにがし)は、健介の葬式にも顔を出した。その時にはもう刑事ではなくなっていた。その時も名刺を貰ったのだが、矢張り何処かへ行って仕舞った。

「この人、彩ちゃんの好きな人?」

今度は何時の間にか、次女の香が正面に座って、葉書を凝と見詰めている。起き抜けの様で、未だパジャマだ。

「あら、おはよう。良く寝てたのね。――好きな人か如何かは判らないけど……お兄ちゃんの親友だった人よ」

「知ってるよ。いつも彩ちゃん、たっちゃーん、たっちゃーんって、後ろ付いて回ってたじゃない」

「あんたよくそんなこと覚えてるわね。あの頃あんた幾つよ」

「さあ? 幼稚園かなぁ。なんかそこんところだけ、すっごい印象深くってさ」

「そうなの? 不思議なもんね」

「あたし多分、あの頃お兄ちゃんが二人いるんだと思っていたかも。たっちゃんって人もお兄ちゃんだと思ってた。てゆうか、区別付いてなかったかも」

そう云ってキャラキャラと笑う。その位彩は、達也に引っ付いて回っていたと云うことなんだろう。

「その人外国から帰って来るんでしょ。いつ帰って来るの?」

「さぁ。五月、としか書いてないのよね」

「なんだよぉ、ちゃんと書いてくれれば好いのに」

「そう云われてもねぇ」

「明日帰って来たら、彩ちゃんへの最高のプレゼントになるのにね!」

それはそうなのかも知れない。先刻の彩の態度を見ても、如何(いか)にも達也に逢いたがっている様な感じだった。然し明日帰って来た所で――

「達也君、自家の場所知らないし。帰国したところで立川になんか来ないでしょ」

「そうかぁ、残念」

「そんなことより、大学如何?」

「如何って? 楽しいよ!」

「そう。よかった」

文恵は優しく微笑んだ。

「奏介は部屋にいるの?」

「いるよ。まだ寝てるのかなぁ? それか、何か描いてるかも。――お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは?」

「とっくに起きて、寄り合いに出掛けてるわよ。何時だと思ってるの。――うん、まあ好いわ。お昼何食べたい?」

「何でも好いよー」

「何でも好い、が一番困るの!」

「ありもんで好いって。饂飩でも蕎麦でもラーメンでも」

「麺限定? 有ったか知ら……」

「それか、あたしが何か作ろうか!」

「あら優しい。じゃあ手伝って」

二人は立ち上がると、一緒に台所へと向かった。

川口

スナック「コスモス」のカウンターに肘を突いて、磯貝洋子は寛悠(ゆっくり)と紫煙を吐き出した。カウンター越しに座る若い娘を、眼を細めて優しく見詰めている。昼と夕方の間の気怠い時間、開店迄未だ未だ間がある憂鬱な時間に、そんな澱んだ空気を切り裂く様に飛び込んで来た元気な闖入者だ。

「そうか。洋子さんも知らないんだね」

娘は残念そうに息を()くと、自分に向かって来る煙を片手で払い除ける。

「あら、煙たかった? ごめんねぇ。古い人間だから、そう云うところ気が回らないのよねぇ」

「あっ、なんかゴメンなさい。別に好いんです。此処は洋子さんのお店だし、勝手に押しかけて来たのあたしの方だし」

「立派になったもんねぇ……あ、あ、」

「彩です」

「そうそう。彩ちゃんねぇ。最後に逢ったの、引っ越しの時でしょぉ。幾つだったかなぁ」

「引っ越しだったら、小二ですよ。だから、八歳かな」

「今幾つよ」

「明日で二十二になります!」

「あら、誕生日じゃないの。お祝いしなくちゃ」

「えへへ、じゃあ誕生日プレゼントとして、もう少しお話聞かせてください」

「食い下がるねぇ。その辺の刑事なんかよりよっぽどしつこいよ」

「うふふ、探偵見習なので!」

「大したもんねぇ」

そう云って洋子は、細いメンソールの煙草を深く吸うと、口を丸くして輪っかの煙をぷかぁと吐いた。上を向いた時に胸元の紅玉(ルビー)がきらりと光る。

「すごぉい!」

「ふふ、こんなので感心されるなんて、鳥渡新鮮だね――でもね、幾ら(おだ)てられても、知らないものは知らないのよ」

「うーん。そおかぁ……」

「あの神田って刑事に聞いてみたら? あいつの息子なんでしょ」

「刑事じゃなくって、今は警備会社の人です」

「あらそう。辞めたんだ。意外に根性無しだね」

「そうじゃないんだよ。責任取らされたとかもあるのかも知れないけど、上司の佐々本って人と一緒に、なんか引っこ抜かれるみたいにして天下ったんです」

「詳しいじゃない」

「探偵見習なので!」彩は胸を張る。

「それにしてもさ、その達也っての、あんたの兄貴の仇なんじゃないの?」

「えっ! 真坂! 違う違う!」

「違うんだ」

「お兄ちゃんの親友だよ! 鳥渡訳あってX国行ってるけど、どっちかと云うとお兄ちゃんを護ろうとしてくれたんだよ――駄目だったけど」

彩は少し声のトーンを落とした。

「そうなの。それはごめんなさい。でも、その親父はお父ちゃんの仇だよ」

「それも違うよ。お兄ちゃんが云ってた。あれは事故だって」

「警察はそんなこと云うけどさ」

「ううん、そうじゃないの。だってお父さん、悪人だったんでしょ」

洋子は少し目を見開いたが、直ぐにまた目を細めて、「あの子がああなっちゃったのは、まあ、あたしの責任でもあるんだけどねぇ」

「その辺は判らないけど……でも(いず)れにしても、お父さんが神田さんを攻撃なんかするから」

「うん、……まあねぇ」そこで洋子はまじまじと彩の顔を見詰めて、「ほんとによく知ってるねぇ。あんた八歳だったんだろぉ?」

「探偵見習なので!」彩は三度(み たび)その台詞を吐いた。

「好い加減にしなさい」

云った途端、背後から怒られた。彩は首を竦めて振り返り、「やだ、田村先輩……いつから?」

「最初から居たよ。全く、撥ねっ返りも好い所だな。今し方君が得意気に語っていたことは、つい先刻事務所で所長から教えてもらったこと、そのまんまじゃないか」

この見知らぬ客の出現には、洋子も少なからず驚いていた。最初から居たと云うが、全く気付いていなかった。泥棒でなくて良かったと思う。おそらく隅の薄暗いテーブル席にでも居たのだろう、未だ開店前なので照明は入れていない。照明を入れないと夕方には店内は可成暗くなる。そんな暗がりに、こんな濃いグレーのスーツの、髪を短く刈り込んだ五十絡みのおっさんが潜んでいたとしても、中々気付くものではない。然し彩の背後に姿勢良く立つ彼は、意外と上背のある、洋子好みの()い男だった。

「あんた中々やるね。あたしも気付かなかったわ。探偵術ってやつか知ら?」

「そんな特別なものではないですよ。普通に入って来て普通に座ってましたが。ママがこの(むすめ)に気を取られていたから気付かなかったのでしょう」

「まぁ、そうかもね。――なんか呑む?」

「まだ開店前でしょう、遠慮しておきますよ」

「あ、そう。少しぐらい早めに開けたって好いのよ。――ま、あたしはどっちでも好いんだけどね。で、あんたはこの子の指導教官ってところかしら?」

「そう云う訳でもないんですがね。事務員の契約で入った筈なのに、探偵になりたくてしょうがない様で。――こう云うのはうちとしても、好ましくないんですがねぇ」

「その割にはずいぶん泳がせていたね」

「まあ、手は足りないので、育ってくれる分には、ね」

「あんた狡いね」

田村は軽く、ははっと笑った。

「もぉ、先輩も洋子さんも! あたしの頭の上で大人の会話しないでくださいよ!」そう云いながら彩は、両手を頭の上でブンブンと振り回した。

洋子ママは眼を細めて彩を見詰めながら、「可愛くてしょうがないだろ、この()」と田村に向かって云った。

「そう云うのは好いんですよ」

「やだねぇ、朴念仁」

彩は赤く染まった頬をぷうと膨らませた。

「でね、菊池さん。この女性(ひと)に幾ら訊いても、これ以上の情報は得られないですよ」

「えー……」

「達也の情報はある程度掴んでます。来日の日程と、何処へ逗留するか迄は判っているので、一旦引き上げましょう」

「そうなんですか! なんだぁ、最初に云ってくれなくちゃ」

「訊かれてませんし。事務員にホイホイ喋る様な探偵も居ませんし」

「うぅ……」

「そう云う訳なんで、洋子さん、お騒がせしましたね。まあ、懐かしい邂逅にはなった様なので、多少は佳かったのかも知れませんが」

「そうね。あんたが余計だったけどね」

「おっと、これは失礼」

田村は浅く頭を下げた。そして懐から名刺を一枚出すと、

「一応営業しておきますね。何かお困りの際には、是非ご用命ください。社員の顔見知りなので割引しますよ」

「ちゃっかりしてるねぇ」

洋子は差し出された名刺を受け取った。佐々木デテクティブビューロー、下に小さく漢字で、佐々木探偵事務所とある。最初から漢字で書けば好いものを。「気取った会社名だねぇ」と呟いた。佐々木と云うのが所長だか社長だかなのだろうか。

「彩ちゃん」

辞去すべく席を立った彩に、洋子は声を掛けた。

「お母さんは元気かい? いじけてたりしないかい?」

「うん。元気です! まあ時々、遠い目をして目をウルウルさせてることもあるけど、最近そう云うのも大分減って来たし。ま、あたしが付いてるから!」

「探偵見習だしね?」

「やだ、それはお母さんには云ってないの。あたしは事務員!」

「そうかい。ま、元気なら好いんだよ。偶には遊びにおいでって云っておいてね」

「はい!」

彩は満面に笑みを浮かべて元気な返事をすると、田村と共に店を出た。

「さぁて、帰ったらお仕置きですね」

川口駅へ向かいながら、田村は彩の方も見ずに云った。

「ええ……ご、ごめんなさい」

「前も云いましたよね。聞き込みなんか勝手にしないでくださいって。今回は相手が顔見知りだったから良かったんですが、場合によっては非常に危険を伴うんですよ」

「解ってます! あたしも、お母さんの恩人だって聞いていたから行ったんです。そうでなければ行ってません!」

「そうですか? 間違っても、久万組事務所なんか行かないでくださいね」

「行きませんよ!」

「忠国警備も駄目ですよ」

「えっ――い、行かないですって」

田村は振り返って、彩の瞳を覗き込んだ。彩は目を逸らせた。

「行く気でしたね」

「まさか」

「駄目ですよ」

「――はい」

彩は観念した様に、肩を竦めて、息を()いた。田村は再び前を向いて歩き出す。

「別に危なくないのに……」

「警備会社自体は危なくないですが、扱っている案件によっては危険を伴います。特に今回の件は――」

「あぁもう! 解った! 諒解りました! 行きませんから!」

「ご理解いただけて、なによ――」

「先輩代わりに行ってくださいね!」

「はぁ!?

田村は思わず立ち止まり、その直後を歩いていた彩がその背中にぶつかった。

「いったぁ……」

田村は背中への衝突などは気にも留めず、勢い好く振り返って、「何で僕が!」と叫んだ。

「だって、必要でしょう?」

「あなたに指図される謂われはない!」

「でも行って下さいね」

「だから!」

彩は渾身の笑みで、「お願いします、田村先輩!」と云うと、頭を下げた。

「だから……もぉ、知るか!」

田村は彩に背を向けると、すたすたと歩きだす。彩は必死にその後を尾いて行った。

何処でもない場所 二

「さぁ、そんな訳で、大月宿舎リニューアル最後の仕上げな訳やけど!」

連休明けて最初の金曜日の夕方、真っ赤なリサとガスパールのTシャツに、THのロゴが書かれた薄っぺらいスタジャンを引っ掛けた都子は、白い世界に設えられたソファに集まったEX(エックス)部隊員一同を見渡す。蓮、知佳、ユウキ、神田、クラウン。

「果たして全員集める意味はあったのかと!」

「いや、それは……」

神田が何か云い掛けるが、都子は視線で制して、「そして彼女は、誰!」と、少し離れた場所にぽつんと置かれたソファに座っている、七人目の人物を指差す。

「あっ……ごめんなさい、あたしは……」

「菊池彩さん、菊池健介さんの妹さんです」

神田が紹介するが、一同は余りピンと来ていない。

「ほら、達也の……」

「あゝ、タッちゃんの親友の!」蓮がと思い到る。

「たっちゃん知ってるの!?

彩が驚いた表情で蓮を見る。

「いや、その前に――此処、如何云う場所なんですか? てゆうか、皆さん、忠国警備の方?」

彩は明白(あからさま)に小学生達を、不信感の籠った眼差しで見ている。

「此処は亜空間。うち等は皆、エスパー集団や。子供やからって甘く見とったら、危ういで」

「え、えすぱぁ? ――あっ、あっ、あの、お父さんの!」

神田がピクリと反応した。

「お父さんって、其処にいる神田さんと戦闘になって、それで――」知佳が言葉を濁した。

「あっ、お気遣いなく! その件に就いてはもうあたしの中では済んだ話なので! 小学生だよね? それとも中学生? 何か気を遣わせちゃって御免なさい」

「小六です。知佳って云います」

「彩です! よろしく」

知佳と彩は、二人でお辞儀をし合った。

「そうかぁ……お父さん、本当にエスパーだったんだ。いや、あたしね、その時未だ小さくて。よく解っていなかったんだ。お父さんの超能力とかは、後からお兄ちゃんやお母さんに聞いたことなの。だから実感なくて……」

「そうね。でもあなたとっても素直な心持ってる。あたしはあなたが好きだし、信頼出来ると思います」

彩は不思議な表情(かお)で知佳を見た。

「佐々木探偵事務所……ってところで、事務員さんをしているんですね。でも探偵になりたがってる」

「えっ、えっ、なんで」

「あ、ごめんなさい。心を読みました」

「ええっ! 怖い!」

知佳は悲しい顔をして、「あっ……その、ごめんなさい。あたし……」と、下を向いた。

嗚呼(あゝ)、違うの! 御免なさい、あたし慣れてないから! 知佳ちゃん、だっけ、あたしもあなたは好きになれるかも! 素直な良い子っぽい……ウソとか誤魔化しとか下手そう」

彩はぎこちなく笑った。それ迄凝と黙って見ていた蓮が、神田を振り返った。

「でさ、この人なんで連れて来たの? なんか物凄く戸惑ってるし、気の毒になって来るんだけど……」

「いや、私は……」

「連れて来たンはうちや」都子が名乗り出た。「但この人は、自分から此処へ来たいってゆうて来とんで」

「えっ、でもミヤちゃん、この人此処が何処(どこ)だか解ってないし」

「んなもんうちかて解らん」

「いや、そう云うことでなくて……」

「応対してたんは神田っちや。何やEX(エックス)のメンバーに逢いたい逢いたい五月蠅(うるさ)いから、連れ込んだ」

「ミヤちゃん、その表現は……」

「あの、あの、皆さん」彩は弁解する様な口調で口を挟む。「知佳さんが、読心術? で好いのかな、えっと、心が読めるってのは判りました。神田さんは屹度、お父さんと同じで、サイコキネシスなんですよね、それで、他の皆さんは――皆さんそれぞれに違う能力なんですか?」

「うん。あたしは転送」

蓮の言葉に彩は首を傾げる。

「てんそう?」

「そう。こんなの」と云って掌を差し出すと、其処にビー玉が現れた。

「わっ! 何?」

そしてビー玉が消えたかと思うと、彩は握り締めている右の拳の中に違和感を覚えた。開いてみるとビー玉がポトリと落ちた。

「きゃっ!」

落ちたビー玉は足許(あしもと)に達する前に消え、再び蓮の手の中に戻った。

「ええー、それは詰まり……えゝと、テレポーテーション?」

「そうそう」蓮は我が意を得たりと笑顔になる。

「ユウキはね、日本一の医者なんだ。白魔導士!」

「えゝと、RPGで云う、回復系ってこと?」

「そうそう、バリアとかも張れるよ! あと、クラちゃんは幻覚」

「えー、なんか怖い」

「怖ないで。優しい兄ちゃんやん」

クラウンが心外そうに反論するが、「顔がね」と蓮に云われて項垂(うなだ )れた。

「顔は云わんといてぇや」

「顎兄な、顔っちゅうか、そのメイクやん。どう考えても頭おかしいやんか」

都子が追い打ちを掛ける。

「せやからこれは、わしのフォーマル……」

「な? 狂っとるやろ?」

都子の言葉に彩はくすりと笑って仕舞った。

「あっ、すっ、すみません、私は好いと思いますよ! 素敵です!」

これには知佳が微妙な顔をした。彩は素早く知佳に目配せし、口元に人差し指を立てた。俯いていたクラウンだけが、それに気付いていない。

「なかなか順応性の高い人やで」

「そう云うあなたは?」

「ん? うちは天現寺都子。舞台演出や。ワープとかもでけるで。この白い世界は、何処でもない世界、所謂亜空間とか云う奴。原理とかは訊かんといて、よぉ解らんねん」

「なんか、すごい……」

彩はすっかり魅了されて仕舞った。兄から父親のことを聞いた時には、正直全く信じていなかった。母親からも同じことを聞いて、稍戸惑いながらも、半信半疑ぐらいにはなっていた。然し今こうして、知佳や蓮の能力を()の当たりにし、都子の作った世界に連れ込まれている現実に、(ようや)く信じることが出来たと共に、その魅力的な能力と能力者達に、すっかり心を奪われて仕舞っている。

「都子さんが云う通り、私は自分で志望して此処に来ました。この――亜空間とかは全く想定していなかったんですが、皆さんとお目に掛かりたいって希望したのは事実です。あたしには手掛かりが殆ど無かったんです。唯一つ判ったのは、お父さんの件とたっちゃん――達也さんの件とに深く関わっている神田さんが、此処に居るってことだけで……」

「彩さん、会社の人に止められてたんじゃ……」

知佳の指摘に彩はにっこりと微笑みで返した。

「そうね、でも――これは会社は関係ないの。あたしの個人的な問題なんだ」

「あゝ……彩さん、達也さんの事……」

「云わないでね!」彩は耳を赤く染めてそう叫んだ。

「いや、此処で云われたところで別に、如何と云うことは無いのかも知れないけど――でも矢っ張り、それは、気恥ずかしいと云うか――」

「青春やなぁ」都子が茶化すと、彩は更に顔を赤く染めた。

「家族には内緒にしているから」

「え――でも多分」

「判ってる」知佳の言葉は、(また)しても彩が途中で止めた。「でもそれはそれで好いの」

「うん……よく解んないや」

「知佳はそう云う微妙な感情に、(うと)いよね」蓮は幾分優越感を感じながら、知佳の肩に手を置いた。

「蓮だってそう云う話めんどくさがってる癖に」

級友(クラスメート)のはね。あいつら云ってることガキ過ぎるんだもん。それに、なまじ解るからめんどくさいんだよ」

「何でも好いよ、どうせあたしはお子様だよ」

「そう云うのが好いって奴もいるかもよ」

蓮がそっとユウキに視線を送ると、ユウキの顔が朱に染まる。然し知佳はそれに気付かない。

「あかん、正月からこっち、あちこち青春で当てられっぱなしや」

都子がうんざりした様に呟いて、天を仰いだ。

「ミヤちゃんはそう云うの無いの?」蓮が無邪気に質問すると、都子は不意を突かれて噴き出した。

「うちのことはえゝて。色気も女子力も無いからな」

「そうかなぁ……ユウキなんかメロメロにされてない?」

「そいつは血筋や」

「ちょっと! 二人とも何云ってるの!」堪らずユウキが抗議をする。

「ガキんちょに好かれたところでなぁ。二十一の女が八歳児に慕われるンは、そりゃ唯の幼児期性愛(エディプス・コンプレックス)の延長や。母親の代用品やろ」

「えでぃおん?」

「電気屋とちゃうわ!」都子はゲラゲラ笑った。

「都子さん、二十一? あたしこの前、こどもの日に二十二になったばかり!」

「ああ、そしたらタメやん。うちは早生まれやから、来年一月で二十二や」

「わぁ! 同級生! 親近感!」

「単語で片付けなや」

都子と彩は、ケタケタと笑い合った。

「なんか、あたし、安心しました。たっちゃんが帰国して、皆さんの処で一時預かるって聞いた時は、漠然と不安しかなかったんだけど、如何やら皆さん、楽しくて好い人たちばかりみたい!」

「君が心配する必要なんかないやん。えゝ大人の男やで」

「そうなんだけどね。――色々聞いてたから」

「いろいろ?」

「沖縄でのこと」

「そんなこと、何処から聞いて来るんですか」神田が眉間に皺を寄せながら質問する。

「それはね、企業秘密です! まあでも、雑な情報源だったみたい。あたし皆さんのこと、もっと怖い人達だって思ってたので」

「そう思っとったンに、会いに来るんや。えゝ根性しとるな」

「ほんとにね。あたしも自分で驚いてます。でも、怖いからって別に悪い人だと迄は思っていなかったし、逢ってみれば何とかなるかなって思いはありました。――こう云う無鉄砲なところ、若しかしたらお父さん似なのかな」

知佳は凝と彩を見ていたが、ふっと笑みを浮かべると、「そうかも知れません。彩さんの記憶の中のお父さんと、今の彩さん、気性とかよく似ているかも。目上の人のアドバイス聞かないところとかも」

彩は目を丸くして知佳を見ると、直ぐに微笑み返して、ぺろりと舌を出した。

「もっと人の話聞く様にします!」

そして何かに気付くと、「やだ、企業秘密とか、あなた達に通用しないじゃない! 全部お見通しだった!」

「見られたくないところは、見ないです」

「ほんと? 見えちゃったとしても、見ない振りしてね!」

知佳はニコニコしながら、頷いた。

「さて、ほいでは、彼方(あちら)さんの準備も出来た様やし、そろそろ蓮ちゃんの出番やで」

都子が手をパンパン叩きながら、本日の主題に引き戻した。

「彩ちゃん、そのソファ応接室のやから、一旦こっちに来てんか」

都子が彩を手招きして、ユウキの隣の空いた処に座らせると、一瞬にして周囲に景色が出現した。前回同様、大月宿舎のロビーだ。

大月 三

「ひえゝ、周りが白くなった時は唯眩しくてなんだか解ってなかったけど、これ都子さんの能力だったんだね……なんか凄いとしか……あたし、凄くレアな経験してる!」

「そんな大層なことかいや」

「大層ですよ! (しか)も最初に居たのと違うとこに来てる!」

「隣の建物やん。大して移動しとらん。――それは兎も角、蓮ちゃん、神田っちの指示に従って」

「はーい、神田っち、何すれば好いの?」

蓮は立ち上がり、神田を見る。

「はい。内装の準備が出来たので、設置をお願いします。先ずはベッドマットから」

神田も立ち上がって、蓮を手招きしながら正面玄関から外へと出て行った。蓮もそれに続く。

「何が始まるんですか?」

「タッちゃん受け入れ準備の仕上げやん。ベッドマットやら、カーテンやら、カーペットやら、一旦全部外してクリーニングなり交換なりしたんで、それを戻すだけや」

「あんな小さい子が?」

居室の方で、ドサドサと云う音が鳴っている。彩は何事かとキョロキョロとしている。

「甘く見んな、ゆうたやん」

都子の言葉に呼応するかの様に、ロビーの窓にカーテンが掛かった。

「ひえっ、何?」

足元にはカーペットが出現する。

「ひゃああ、何か出た出た」

都はゲラゲラ笑いながら、「彩ちゃん、なかなかえゝリアクションすんなあ」と云う。

「ええっ、そうか、蓮ちゃんは転送! こんな大きい物なのに、ぱぱっと転送しちゃうんだねえ……」

「大きさとか重さとか、あんま関係ないよ」

いつの間にか蓮がロビーに戻って来ていた。彩は驚いている表情の儘振り向く。

「転送の難しさは、転送する物の形に依るの。先刻見せたビー玉は、一番簡単なんだ。ベッドマットやカーペットも形が単純だからそれ程苦じゃない。この中ではカーテンが一番やゝこしいけど、まあ、あたし程になれば朝飯前よ!」

「蓮たら、何威張ってんの……転送出来るの蓮だけだし、その自慢あんまり伝わらないよ」

知佳のツッコミに、蓮はしょんぼりと(しお)れた。

「えー、意地悪ぅ」

「別にそう云う心算では……」

蓮は知佳の横に座ると、わしっと知佳に組み付いた。

「きゃあ! ちょっと、蓮!」

その儘知佳の頭をぎゅうと抱き締めて、「そんなことゆう子は、こうだぁ!」等と云っている。

「くそぅ、遣ったなぁ!」

知佳も反撃に転じて、蓮の胴に組み付く。二人できゃあきゃあと(はしゃ)いでいると、神田も外から帰って来て、「さて、皆でベッドメイキングしましょう。こればっかりは手作業で一つ一つ遣らないと、綺麗に仕上がりませんからね」と声を掛けた。

蓮と知佳はパッと(じゃ)れ合いを止めて、「はぁい」と返事をする。

「二人は仲良しなんだねぇ」

彩がほっこりしながら、溜息交じりに呟いた。

部屋が二十二在るのだから、当然ベッドも二十二在る。総ての部屋はシングルで、全く同じ造りなのだ。この作業は手作業なので、彩も自ら戦力として手を挙げた。七人で遣れば一人当たり略三部屋である。ユウキなどは大人の手伝いが必要としても、一人四部屋も遣れば片が付く。蓮も知佳も、一人でベッドメイクをする。矢張り体が小さいので、多少手間は掛かっていたが、知佳は性格が几帳面だし、蓮は日頃から家で家事分担しているだけあって、二人共見事にベッドメイクを(こな)して行った。

知佳と蓮がそれぞれ三部屋ずつ、ユウキはクラウンと一緒に四部屋、他の者もそれぞれ四部屋ずつ済ませて、総ての部屋が片付くのに三十分も掛からなかった。

「皆さんご苦労様です。御蔭で思いの外早く作業完了することが出来ました」

神田が一同を集めて締めの挨拶を始める。

「彩さんも有難うございます。なんだか巻き込んで仕舞った形になって仕舞いましたが、お蔭さまで助かりました」

「否、好いんですよ。たっちゃんの住む処だし、お手伝い出来て嬉しいです!」

「ほんで結局、何しに来たんやっけ?」

都子の問いに、彩は不敵に微笑む。

「あなた達に逢って、たっちゃんのお世話になる人達をちゃんとこの目で確認したかったのと……実はもう一つありまして」

「なんや」

彩は一旦眼を伏せてから、何かを決意するかの様に急度(きっと )顔を上げ、

「皆さん、達也さんの帰国目的はご存じと思います。だからこそ皆さんが動いているのだと思っているのですが、――私はその件に関して、ある程度の情報を持っています」

一同の顔付が変わった。誰かがごくりと生唾を飲み込む。

「但、私の持っている情報も完全ではありません。当然あなた達も、何かしらの情報をお持ちなのだとは思います。私はその答え合わせをしたいのです。私の知っていることは凡てあなた達も知っているかも知れない、でも、若しかしたらあなた達の知らないことを私が知っているかも知れない。或いは、あなた達と私とで矛盾し合う情報を持っているかも知れない。だから、お互いに補完し合い、訂正し合って、より正確で確実な情報を共有したいのです」

「あなたはその情報を得て、如何する心算ですか?」

神田が低いトーンで質問する。

「私は知ることが目的です。探偵――見習いなので!」

彩は精一杯明るく応えた。その様子を知佳が凝と見詰めている。その視線に気付くと、彩は微かに(ひる)んだ。知佳が一歩、彩に歩み寄ると、彩は一歩後退(あとじさ)る。知佳は悲しそうな眼をした。

「彩さん、それは駄目だよ」

「後には……退けないんだよ……」

知佳は(かぶり)を振った。潤んだ彩の瞳には、固い決意が窺える。

「本統に――他人(ひと)の意見聞かないよね」

「血筋だからね」

知佳は一度目を伏せると、神田を振り返り、そして都子を見上げた。

「解っとる」

都子は知佳に歩み寄り、頭をポンポンと叩くと、手を知佳の頭に残した儘彩に対峙した。

「何考えとるのか大体解るけどな、うちは君に、決して無茶させへんで」

「止めても無駄だから」

(わか)っとらんな。君の自由はうちの制御下にあるんやで」

「な……なにを?」

世界が白くなり、都子と彩の二人切りになる。

「場合に依っては、片が付く迄此処から出さんので。まあ、ある意味特等席や」

「ちょ! 監禁する気!?

都子はケタケタと笑った。

「普通に生活している分には、うちは手ぇ出さへん。但し抜け駆けはでけへん様にしとくからな」

「如何云うことよ!」

「そない怖い顔しなや。危ない所に近付こうとしたら、狐に化かされるだけやて」

周囲の景色が戻り、二人は再び大月宿舎のロビーに立っていた。彩は周囲を見渡し、肩で大きく息を吐いた。

「そう。諒解(わか)った。あなたからは逃げられそうにないね。――勝手なことはしないって約束するわ。但し、『特等席』は約束して」

「そらもぉ、かぶりつきや」

「ほんとね?」

「うちは、てけとーなことは云うか知らんけど、嘘は()かん」

彩は一瞬考えて、「えっと、よく解らないけど……うん。……まあいいわ。あなたに乗っておく」

不安気な知佳に、都子はにこりと微笑み掛け、そして神田の方を向いて、「話は付いたんで。VIP待遇っちゅうことで」と云った。

「そうですか。諒解りました。都子さん、ありがとうございます。――皆さんは今日はこゝ迄でよいです。興味ある方は残って貰ってもよいですが――まあ、小学生の皆さんは帰宅された方が良いですね。都子さん、帰宅サポートお願いします」

「了解。うちも今日は上がらせて貰うわ。顎兄は?」

「わしは一緒に話聞いとくわ」

「さよか。ほなら会議室でえゝかな」

「お願いします。適当に開いてる会議室で。――それでは彩さん、お互いの情報の答え合わせと行きますか」

都子は神田達三人を会議室へと押し出すと、残った子供達を振り返り、「ほな、帰んで」と云って、一人ずつ自宅へと送り出して行った。

立川 二

御影石に向かって長々と手を合わせていた。色々な思い出が(よぎ)って行く。自分は結局、彼にとっての何だったのだろう。彼に何をして遣れたのだろう。彼に何を遺されたのだろう。涙は頬を伝い、顎からポトリと滴り落ちる。背後では黒いスーツの男が神妙な顔付きで突っ立っている。此処へ参るのは全く自分の我儘な行動なのに、良く付き合ってくれるものだと思う。申し訳ないと思いつゝも、心はずっと御影石の彼方(かなた)にあり、自分でも手の下げ時が好く判らなくなっている。兎に角、自分の今出来ることを精一杯やり遂げよう。そしてそれが完遂出来たなら、復此処へ報告に来るのだ。ごめんな。屹度、また。俺は――

「待っていてくれな」

そう声に出すと、達也は合わせていた両手を下ろし、立ち上がった。

「大変お待たせしました。此処です()きことは取り敢えず済みました」

「諒解りました。では」

彼は外国人なのに、迚も流暢な日本語を話す。達也の自立支援員だと云う話だが、内実は保護観察官だ。ずっと達也に付きっ切りなのだから、日本語が出来る人員を()てるのは当然である。

「お願いします」

達也は頭を下げると、彼に従って歩き出す。墓地の狭い駐車場に停められた黒塗りのセダンの後部座席に、二人が並んで乗り込むと、車は軽く身震いし、静かに滑り出して行く。

甲州街道方面へ向かって走り去って行く車を、彩と香が見送っていた。

「良かったの? 声掛けなくて」

「うん。だって――」

彩は難しい顔をして、とっくに見えなくなった車の去った辺りをずっと見詰めている。

「彩ちゃんだらしないなぁ」

「大人には色々事情があるのよ」

「あたしだってもう、成人ですよぉ」

「お酒飲める様になってから云いなさい」

「ちぇ……呑めるもん」

香は聞こえない様に小さく呟いたのだが、彩は耳聡く聞き付けて、「香? 今なんて?」と厳しい目で睨み付けた。

「え、何にも云ってナイナイ! やだなぁ、空耳じゃん?」

「頼むから、母さん悲しませる様なことはしないでよ」

「諒解ってるって! でもそれは、彩ちゃんもだからね!」

「あっ、生意気!」

「妹悲しませるなよぉ!」

彩はふっと微かに笑った。

「莫迦ね。そんな心配不要よ」

そして再び、車の去った方向に視線を飛ばした。

「さぁて、お兄ちゃんに挨拶してこよっと!」

香はそう元気に宣言すると、彩を残して菊池家の墓へと向かった。暫くは後ろ髪を引かれる思いでずっと達也の去った方向を見ていた彩も、一度目を伏せて深呼吸すると、「かおりー!」と妹の名を呼びながら、その後を追い掛けた。耳(もと)の真珠が控えめに輝く。

その二人を凝と眺めていた姿があった。上下黒のスーツに身を包んだ、陰気な表情の女性の様だ。彩が行って仕舞うと(ゆっくり)と移動し、距離を保った儘、二人の姿を確認出来る位置迄移動する。

「さあて、こいつは何やろな」

亜空間からその様子を監視していた都子が、左手で口元を隠し、右腕を腰の辺りに巻き付けて、考え込んでいる。今日はリラックマがプリントされたクリーム色のTシャツに、羽織っているのはお馴染みの阪神タイガーススタジャンだ。靴下は珍しく真っ白なものを履いている。

「能力者の様ですね……ただ、よく判らないんですよね……初めて見るタイプです」神田も何やら考え込んでいる。

この日は大月宿舎のソファではなく、応接室のソファを借りて来て、亜空間に設えてある。大月はこれから達也が使うので、いきなりロビーのソファが消えているのでは都合が悪い。その為別のものを調達して来ているのである。ソファを四角く内側を向けて、稍広めに配置して、その中央に都子の空間術による、リアルなジオラマが展開されている。ジオラマと云ってもこれは現実の世界で、空間の接続パラメータを調整することで八十分の一位の縮尺にして、墓地全体を立体映像として目の前に投影している感じである。弱い一方向的な接続なので、全体に半透明に見えているし、向こうから此方が見えることはない。皆はそのホログラムの様なジオラマを囲む様に座って、今は身長二センチ程の菊池姉妹と、それを監視する謎の人物に注目している所である。

「くまさん……」

知佳が呟くと、全員が顔を挙げる。

「何やそれ」

「知佳ったら、何云い出すの?」

「知佳さん、それはもしかして……」

知佳は戸惑いながら一同を見渡し、「クマゴローって……」と情けない顔をする。

唖然とする一同の中で、神田だけが険しい顔付きになった。

「その人物から目を離さないでください。――クラウンさん、ロックオン出来ますか?」

「でけるで」

クラウンが両手の親指と人差し指で画角を作ると、その中に映像が浮かび上がる。そこには黒スーツの人物が捉えられていた。これがクラウンの能力の一つである、幻影スクリーンだ。映像はクラウンの手を離れ、都子ジオラマの脇に自立した。都子が監視しているものよりも鮮明に、かつ拡大されている。神田は難しい顔の儘、そこに大写しされた女性を凝視している。

「説明してや。なんか気付いとるんやろ」

都子が神田に要求すると、神田は視線を外さずに話し始めた。

「私が昔追っていて死なせて仕舞った犯罪者、坂上康太の話はしたと思いますが、彼が関係していた暴力団と云うのが、久万組です。その組を立ち上げて今でも会長の座に就いているのが、久万、吾郎と云う男です」

「くまさんて、ヤクザやったんかい」

「知佳さん、彼女と久万が、どう関係してきますか?」

「あっ、ええと――くまごろーさんに、何か大きな恩があるみたいで、もの凄く慕っています。久万さんの為なら何でもするって。――弟? 双子だ。双子の弟がいて、何時も一緒に行動しているみたいです」

「一人やんけ」

「一緒だと、この人は思っていますよ」

「ふうん?」

「うさ――うさ――」

「何やねん、今度は兎さんか」

「いや、あの――うさって人? 組? に、何か物凄い警戒心持ってゝ……」

「厭な感じですね」神田が眉間に皺を寄せた。

「うさ吉とでも云う気か?」

「菊池健介を害した犯人、それは当初から宇佐組の関係者だと当たりは付けられていたのですが――今達也が追い掛けようとしているのも、その宇佐組の中でも相当悪名の高い、ヒットマンです」

「なんじゃそれ、クマちゃんとウサちゃんが、仲良くなんか喧嘩しとんのんか知らんけど、何や相当おっかないことになっとるやんけ」

「達也さんが……」

知佳が真っ青な顔で神田に(すが)る。

「まあ、今のところは達也も動かないでしょう。先ずは大月に落ち着いて、それからです」

「そう云えば知佳、能力者の心は見えないんじゃなかったっけ?」

蓮が不思議そうにツッコむと、知佳も不安げな表情を残した儘、不思議そうな顔になった。

「あれ? 本当だね。でもよく見えたよ」

「知佳さんが読めなくなるのは、能力者が知佳さんのテレパス場に乗った場合です。テレパス場の中で能力者は、他者に送る思念を自ら選択出来る様になる訳で、その副作用の為に知佳さんは相手の心を自由に読むことが出来なくなるのです。然し今は空間的に隔絶されているので、知佳さんのテレパス場が彼女迄及んでいないんですよ。飽く迄現時点での話ですが、知佳さんのテレパシー能力は、相手に念を送る、所謂送信の到達距離は結構短くて数(キロ)程度、テレパス場の有効範囲は更に狭くて百(メートル)のオーダーですが、それに対して読むだけ、詰まり受信の有効範囲は結構広く、数十粁先であっても、或いは空間が地続きでなかったとしても、この様に対象を視覚的に確認出来れば読めて仕舞うんですね。なので一般人と同様に、知佳さんは彼女の心を読める訳です」

「まー、なんてご都合主義!」

蓮が呆れた様に云うので、知佳は少し笑顔になった。

「名前は把握しておきたいですね。この女性の名前、判りますか?」

神田の問いに、知佳は少し目を瞑り、直ぐに開くと、

「中川秋菜、さんです。弟さんは、春樹さん」

「ありがとうございます。秋と春の姉弟ですね」

そんな話をしている間に、彩と香の姉妹が墓参を済ませ、引き上げて来た。二人の後を、秋菜も追う様にして移動する。

「なんだか忍者の様ですね。あんなに真っ黒なのにちっとも目立たない。物音一つ立てず、二人の後を一定の距離を保って移動しています。若しかしたら、何かの能力を使っているのかな……」

神田は凝然(じっ)と幻影スクリーン上の秋菜を注視している。

「念動と幻覚かも知れない……」

一同に緊張が走った。

「神田さん、それって、強力な敵になり得るってことでは……」

ユウキが心配そうに神田を見上げる。

「ええ、まあ……一つ一つの能力は然程強力ではない様です。これは、私は余り近付かない方が好いですね」

「どうして?」

「私の近くに居ると、能力者の皆さん、どんどん力が強くなって仕舞うのですよ」

「へええ!」ユウキは驚いた様に目を見開く。「そうか、それでか……」

「もしかしてあたしの覚醒も?」蓮も何か思い当たる様にして神田を見る。

「あたしが能力制御出来る様になったのもそうなんだね……神田さん、そう云うことだったんだ」

知佳に問い掛けられて、神田は漸くした。

「あ、皆さんに説明していませんでしたっけ?」

「わしは聞いてたが……」

「うちも初耳や」

如何やらクラウン以外はこゝで初めて、神田のもう一つの能力を知った様だ。都子が左手を口元に宛がいながら、悠然と云う。

「神田っち、あんまり前線に出て戦わん方が良さそうやなぁ。敵が強化されたら堪らんわ」

「そうなんですよね、でも念動力は必要になるかも知れないので」

「こっからしとったら(よろ)しい」

「は?」

「こっからなら知佳ちゃんのテレパス場も及ばんのやろ。ほしたら神田っちの成長促進ぽいのも届かんのとちゃうん」

「ああ……そうかも知れませんが、確証は……」

「早めに確認しといてんか。そンで行けるなら、神田っちはずっと此処で指揮取りつゝ念動力使(つこ)たら宜しい」

「成程そうですね……それならその点は早めに確認しておく様にします」

神田が再び秋菜に集中し掛けたところで、彩と香はバス停に到着したバスに乗り込んだ。然し秋菜はそれには乗らず、バスを見送ると近くに路上駐車してあった車に乗り込み、自らの運転でバスとは別の方向へと走り去った。

「家迄は尾けないんだね」

蓮が不思議そうに云う。

「彼女たちはメインのターゲットではないんでしょうね。矢張り達也の方が目的なんでしょう。その割には達也を追わなかったですが……いや、そうでもないのか」

どうやら秋菜の車は、中央自動車道を目指していた。その儘西走して行けば、達也達より早く大月に着くだろう。

「面倒なお客さんが大月に来るようですねぇ。クラウンさん、暫くはロックオンした儘にして置いてくださいね」

「云われなくとも、この儘三日でも一週間でも」

「うわ、顎兄やらしい!」

都子に突っ込まれて、クラウンは慌てた。

「いやっ! ちゃうやん! 監視対象やから!」

「着替えとか、風呂とか」

「見ぃひん!」

クラウンは首迄真っ赤になっている。

神田は苦笑しながら、「大月迄で好いですよ。そんなに何日も監視し続けるのは、矢張り色々問題ありそうですからね」と云って、クラウンの肩をとんと叩いた。

「は、はいぃ……やめときます」

クラウンがシュンと落ち込むと、都子はゲラゲラと笑った。

「ううん、ミヤちゃん正しいけど、なんかクラちゃん可哀想」

蓮がぽそりと呟くと、知佳も軽く首肯(うなず)きながら、

「でもまぁ、危ない能力ではあるよね。クラウンさんの人格でちゃんと使い方制限して貰わないと」

「まぁねぇ」

子供達がクラウンの心配をしている間も、都子の亜空間は菊池姉妹を追い掛けていた。彩の行動も監視対象なのだ。バスの中の姉妹は後方の二人掛けシートに座って会話もせず、それぞれスマホを(いじ)りながら大人しくしている。香はオンラインゲームをしており、彩はネットニュースを見ている。そんな二人のスマホから、殆ど同時に音が鳴った。

「お母さんだ」

「いつ帰るのー、だって。香、返しといて」

「えー、あたし今忙しい」

彩は香のスマホをひょいと覗き込んで、「なんだ、ゲームじゃん。何処が忙しいのよ」

「今中断できないぃ」

「中断出来ない様なスマホゲーム、移動中にすんなし!」

「今更云われてもぉぉ」

「もぉ、好いよ! あたし返しとくから!」

「返せるなら最初からそうしといてよぉ!」

「生意気!」

悪態を吐きながらも、彩は母親に返信している。今バスの中、後三つで着くよ、と打って送信した。

またスマホがピロンと鳴る。

炒飯(チャーハン)笊蕎麦(ざるそ ば )、どっちが良い?」

「チャーハン」

「はいよ」

「何が?」

彩は手を止めて香を見た。

「お昼! 理解しないで答えたんかい!」

関東訛りの関西弁でツッコむ。

「あー……はははははは」

香は相変わらずスマホを操作しながら、楽しそうに笑った。

「チャーハンで! 返信宜しくぅ」

「くっそぉ、むかつく!」

そう云いながらも彩は特段怒った表情もせずに、母親に返信した。

程なく二人はバスを降り、自宅へと帰り着く。家では文恵が、昼食を用意して待っていた。未だ正午迄は時間があるが、朝早くから墓参りをして来たこともあり、少し早めの昼食である。二人の着席を待って、文恵が炒飯を配膳した。

「なんだ、冷凍チャーハンだ」

一口食べて、香が呟く。

「当たり前でしょう、炒飯か笊蕎麦か、なんて聞き方した時点で気付きなさいよ。文句があるなら食べなくても好いのよ」

そう云いながら中華スープの粉末を汁椀に明けて、ポットからお湯を注ぐ。

「文句無い無い! 冷凍チャーハン美味しい!」

「なんか腹立つ子ねぇ。冷凍褒められたって母さん()っとも嬉しくないわ」

「解凍の魔術師!」

「あんた馬鹿にしてるでしょう」

「もぉ、お母さんも香も、止めなさいよ。楽しく食べよ!」

「――で、達也君には逢えたの?」

文恵は表情を変えずに話題を切り替えた。

「ええと、それがね、擦れ違いで……」

「彩ちゃんたらずっと物陰に隠れて、たっちゃん見守ってるだけで声掛けないんだよぉ、なんかもう、見てゝヤキモキしちゃって!」

「香っ!」

「いーじゃん、もぉ、意気地ないんだからぁ」

「そっ、そう云うのじゃなくてっ!」

「だからお兄ちゃんにお願いして来た。彩ちゃんが素直になれます様にって」

「お兄ちゃんは神社の神様じゃないんだから!」

彩は耳迄真っ赤になって、香に掴み掛らんばかりに抗議している。文恵はそんな二人を眩しそうに見ている。

そしてそんな三人を、都子達が監視していた。

「彩ちゃんいつ出掛ける心算かな」

蓮が三人の遣り取りを羨ましそうに見ながら呟いた。蓮は一人っ子だし、母親を亡くしているから、こうした光景に憧れがあるのだろうなと、知佳は思う。

「まあ慌てた所で、どうせタッちゃんより早く大月に着くこともないやん。のんびり遣ってもぉたらえゝわ」

都子は退屈そうに欠伸(あくび)をした。

然し都子の亜空間は、立川の菊池親子と並行して、移動している達也、および秋菜の車も、(しっか)り追尾しているのだった。

大月 四

大月の宿舎に黒塗りのセダンが静かに到着した。

その三十分程前、亜空間ではちょっとした番狂わせがあった。

「おい、秋菜の車、大月通過しよったで」

最初に報告を上げたのはクラウンだった。みんな一斉に、都子が捕捉している秋菜の車に視線を移した。大月インターを過ぎて猶、中央道を疾走している。

「達也を追っていた訳ではないのか?」

神田は驚きながらも車を注視している。そしてクラウンから二つ目の報告が上がる。

「秋菜やない!」

「何だって!?

クラウンの幻影スクリーンに映し出された運転手の姿は、同じ服装の儘、いつの間にか男性になっていた。

「これ、春樹さんだ」

知佳が指摘する。

「如何云うこと? クラちゃん、秋菜さんをロックオンしてたんじゃないの?」

蓮が狼狽(うろた)えた様に云う。神田は幻影スクリーンの春樹を凝視した儘、何か只管(ひたすら)に考えている。

「顎兄良かったなあ、これで痴漢にならんで済むやん」

そんな軽口を叩きながらも、都子は右手を胴に回し、左手を口元に当てゝ、此方も何か真剣に考えている。

「これは入れ替わりの能力ですね」

神田がぼそりと呟くと同時に、都子が鋭く云い放つ。

「見られとぉ!」

瞬間、春樹の口の端に笑みらしきものが浮かんだが、直ぐに消えてまた無表情に戻った。都子は両肩を抱いて、心做し震えている。亜空間が追っている春樹の車は、その姿が極端に薄くなった。都子が接続を緩めたのだ。

「気付かれたん、多分顎兄やぞ」

「なぬ」

「そうですね。彼にはその、逆探知の様な能力がありそうです」

神田は相変わらず春樹を凝視した儘、何とか彼の能力を理解しようと努めている様だ。

「ひええ、どないしょ」

「切れ。手遅れか知らんけど」

クラウンは都子に云われる儘、幻影スクリーンを閉じた。都子の追尾している像も更に薄くなる。

「どこ迄把握されたかやな。この空間特定されて乗り込まれたら、大ピンチや」

「そんな――此処も安全ではなくなるってこと?」

蓮が知佳にしがみ付き、やゝ震え声で訊く。

「まだそこ迄の心配は要らんと思うけど……まあ暫くは警戒しておいた方がえゝわ。ユウキ、念の為此処一帯バリア張っとき」

「はい」

全員を取り囲むようにして、ユウキはバリアを張った。

「お腹空いたら云いよ」

「うん、取り敢えず大丈夫」

そして達也の車が大月に着く。

達也と自立支援員を下ろすと、車はUターンして走り去った。達也と支援員は大月の職員に案内されて、宿舎の部屋へと通される。達也は二階の一番奥の部屋に、支援員はその一つ手前の部屋に通された。二人はそれぞれの部屋の中へ入り、荷物を置いた(のち)、支援員のみが再び部屋から出て来て、二つの部屋の間に何かセンサーの様な物を設置した。達也が部屋から出て来て支援員の部屋の前を横切ろうとすると、センサーが感知する仕組みの様だ。同じ物を廊下の突き当たり、非常口の前にも設置し、それぞれの動作確認をしている。クラウンが悩まし気に眉を顰める。

「厳重やなぁ。丸で罪人や」

「まあ、X国は明言こそしていませんが、執行猶予みたいなものですからね。達也はあの男に依って監視されているのです」

「達也さんに、逃げたりする様な意思はないですよ」

「知佳さん、有難うございます。それを聞いて安心しました」

「但、犯人と思われる人物には、何としても接触しようと思っている様です。接触して――その後如何するかは考えていない様ですが――ああ、どうも、色々な感情が渦巻いていて、纏まっていない様です」

「そうですか……」

「最悪の場合は……」

「解りました」神田は急度顔を上げると、「知佳さん、達也からは眼を離さない様にしてください。クラウンさんは達也をロックオン願います。達也に就いてはトイレも風呂もロックオンした儘で好いですが、女性達には見せない様に」

「了解です」

暫くして、二人の部屋に食事が運ばれた。稍遅めの昼食である。それを見ていた都子の腹がぐぅと鳴った。蓮がくすりと笑う。

「ミヤちゃん、お腹空いたね」

「おう、腹ペコや」

時刻は()うに午後一時を過ぎている。全員朝早くから駆り出されているので、そろそろ昼を取っておかないと、体力が保たないかも知れない。

「都子さん、春樹の車を追尾した儘、お昼に入れますか?」

神田が都子に相談する。

「あゝ、まあ、そやなあ。食事持って来てくれゝば」

「あたしも此処で食べたい!」

蓮が燥ぎ気味に云う。先程の恐怖感はもう喉元を過ぎた様だ。

この日は土曜日で学校は無いのだが、子供達が参加するに当たっては、クラウンが各家族に集団幻覚を施し、外出していないと思い込ませている。先の沖縄案件の際も、この方法で三日間の留守をカムフラージュしていた。

「では、皆さんのお食事も此方で済ませられる様手配しますね。都子さん、テーブルとかあった方が良いですよね」

「そやな、ソファは食いにくい」

「大月の食堂の一角を借りられるか、交渉して来ますので、都子さんお願いします」

「はいよぉ」

都子の返事と共に、神田の姿が消えた。そして新たに、交渉に向かう神田を捉える。大月支部のがらんとした食堂に入ると、奥の厨房へ行き、責任者らしき人物と何やら会話を始める。二人で食堂へ出て来て、指を差しながら何事か確認し合い、八人掛け位のスペースをロープで区切った。食堂の職員が立ち去ると、ロープで区切られた内側のスペースが、くっきりと亜空間に現れる。神田は鳥渡驚いた顔をして、都子を振り返った。

「あ、都子さん、素早いですね!」

「腹減っとん」

「テーブルだけ持って来ちゃってるけど、ご飯如何するの?」

蓮が訊くと都子は稍面倒臭そうにして、「これは亜空間ではなくて、空間の繋ぎ変え。此処から手前は亜空間、先は大月の食堂や。大月からはシームレスにテーブル迄来れるし、来た道からなら普通に帰れる。厨房方向を除く三方向が、この亜空間とワープで繋がっとるねん」と説明した。

「うーん、なんかよく解んないけど、ご飯ちゃんと食べられるなら好いや」

「そうそう、それでよい」

「都子さん、お腹空くと説明雑になりません?」

神田が苦笑しながら突っ込む。

「うちはいつでも、こんな感じや。正直空間だのなんだのって話はよぉ解らん。ちゃんと説明欲しいなら佑香呼ぶか?」

「いや、結構です、そう何度もお声掛けしてはご迷惑でしょうし」

「奴は金貰えるなら遣るで。ヤる女や」

「いや――」神田は苦笑した。「予算にも限りがありますし」

「さよか。なら止めとくわ。うちの取り分減っても厭やし」

神田の苦笑が顔に張り付いて(ひゞ)が入り掛けた頃に、料理が運ばれて来た。カルボナーラに、オニオンのスープ、ミニサラダも付いている。それに合わせて皆も銘々席に着く。

「おお、パスタ!」

都子の前に置かれたパスタは、明らかに二人前程あった。

「なんや、うちだけ多ない?」

「前回の教訓ですかね」

神田の説明に、都子は不服そうに口を尖らせた。

「あん時は特別やん。やゝなあ、うちのことフードファイターかなんかと思っとんのんちゃうん」

「ま、多かったら残してください」

「云われんかってもそうするわ」

そう云いながらも、結局都子は二人分をペロリと平らげた。

「ミヤちゃん結局食べてるし!」

蓮に突っ込まれて、初めて都子はして、「あれ……いや、んまあ、そんな日もある!」等と云い訳めいたことを云っている。

「そんな日しかないやんけ」

クラウンが視線も向けずに、ボソリと突っ込む。何時かの意趣返しの心算だろうか。然し視線は絶対に合わせようとしない。

「はあん? 顎兄うちの何知っとるねん」

「いや、その……都子なあ、先輩に対する敬意っちゅうか」

「何や昭和なこと云い始めよったで」

「そう云うことではなくて……んでも七つも」

「ほらほら、顎兄あかんど。それは何かのハラや」

「ひええ、そんな心算はござんせん」

「甘い! ハラはな、そんな心算無かったぁゆうても、一切通らんねんど!」

「ひいい」

「ミヤちゃん、そのくらいで勘弁してあげて。大体『なんかのハラ』って、当人さえ判ってないじゃん」

見兼ねた蓮が都子を諌める。

「おお、美人のファンに叱られてもた」

都子はケラケラと笑うが、美人と云われた蓮は真っ赤になっていた。知佳も蓮が美人だと云う点に就いては同意するのだが。でもこれも「なんかのハラ」じゃなかったっけ。

「もお、ミヤちゃんに云われるとリアリティやばいし」

本人が喜んでいるようなので、別に構わないか。

「いや……寧ろ嘘っぽいのでは……」

知佳の独り言も蓮には届かない。

そんな戯れ合いをしていたら、春樹の車が中央道に沿って大きく曲がり、南下を始めた。クラウンがその動きに気付いて、食器を下げた後のテーブルを拭きながら、誰にともなく、「何処迄行くんやろうなぁ……」と云った。

「下呂」

ソファに戻って来た知佳が呟く。皆もぼちぼちとソファに再集結して来る。

「下呂?」

「温泉!?

知佳の隣に戻って来た蓮が、瞳を輝かせる。蓮の温泉好きは筋金入りだ。何時もなら蓮の軽口を窘める知佳だが、この時は何かが気になる様で、春樹の車を凝と見詰めていた。

「如何しましたか。下呂に何かありますか?」

神田が正面から、知佳を気遣わし気に見守る。

「多分、下呂だと思うんですけど……でもこれ何処だろう……」

「知佳ちゃん、共有でけるか?」

都子に云われて、知佳は顔を上げ、こくりと首肯く。皆の目の前に、春樹の記憶が展開する。然しそれは、直ぐに掻き消えて仕舞った。

「えっ」

狼狽える知佳に、都子が駆け寄る。

如何(どない)したん?」

「もう一回、行きます」

そして展開された記憶には、違和感があった。

「これ女の人の記憶……」

「秋菜か!」

クラウンが幻影スクリーンを開き、車の中を映し出すと、運転手は何時の間にか秋菜に戻っていた。

「何やこれ。この入れ替わりに如何な意味があるっちゅうねん!」

クラウンが吼える。

「鳥渡今、見失っちゃったんですけど、先刻の春樹さんの記憶には、達也さんの記憶と恐らく同一と思われる人物がいたんです」

皆が知佳を見る。

「それは、ビンゴと云う奴か?」

「ちゃんと確認する前に、秋菜さんに変わっちゃいました……」

「そうか。記憶読まれてるん、気付いてたりするんか!」

クラウンは幻影スクリーンを閉じる。

「知佳ちゃん、危ないな。読むの()めとこか」

都子に云われて、知佳は蒼褪めた。

「――はい。止めときます」

「この車に就いては、これ以上手出ししない方がよいですね。幸い都子さんの監視には気付いていない様ですし、暫くこの儘様子を見ましょうか」

神田の判断により、監視は都子に依る空間術に限定し、只管車の動向を見守ることになった。

車が長いトンネルを抜け、岐阜県側へ出て来た頃、大月で動きがあった。達也が部屋から出て来て、支援員の部屋をノックしたのだ。

「カール。出掛けたいのですが」

直ぐにドアが開いて、支援員――カールが出て来た。

「何処へ向かいます?」

「先ず、此処の警備会社の、部長に逢いたいです。予めアポイントは取ってある筈なんですが」

「何と云う部長ですか?」

「確か、佐々本だったと思います」

「オーケー。確認します」

カールはドアを開けた儘、内線電話の受話器を取った。

「宿泊棟でお世話になっているカールです。達也が佐々本部長に逢いたがっているのですが。――はい、そうです。――諒解りました。向かいます」

カールは受話器を置くと、「よし、達也。行きましょう」と云って、達也と共に宿舎を出て、支部の正面玄関へと向かった。エントランスを入ると正面に受付があり、そこから女性のスタッフが出て来て、「御案内致します」と云って二人を小会議室迄誘導した。

会議室の中には、既に佐々本が座って待っていた。二人が入室すると佐々本は立ち上がり、満面の笑みで両手を広げながら、「おお、よく来たな! 待っていたぞ!」と云いながら近付いて来た。

「達也。お前には本当に辛い思いをさせた。申し訳ない」

達也の目の前迄来ると、佐々本は突然深々と(こうべ)を垂れた。達也は勢いに圧倒されて稍たじろいだ。

佐々本は頭を上げると、二人に着座を促し、二人が座ったのを確認してから、自分も机を挟んで対面に座った。

「俺はお前の父さんの、公安時代からの上司だ。お前の父さんに特殊な力があると聞いて、所轄から引っこ抜いたのが俺だ。余計なことをしたと思っているかも知れないが、必要なことだったのだ。然しそのことで君に苦痛を与えたのだとしたら、これこの通り、本当に申し訳なかった」

そう云うと、佐々本は再び、着座した儘で机に擦り付けんばかりに頭を下げた。

「いや――佐々本さん、止めてください。僕は別に、あなたを非難しに来た訳ではありません。苦情を云いに来たのでもないです」

達也は狼狽えながらも、右手をブンブンと振って自分に敵意の無いことを示した。

「私は、あなたの部隊に協力を要請しに来たのです」

「ほう?」佐々本は意外そうな声を挙げた。

「私がこれからしようとしていることは、非常に危険なことであると、自覚しています。一人で突っ走れば、可成の確率で私は命を落とすでしょう。然し私は、警察には助けを求められないのです。恐らく警察は警察で、真相に迫りつゝあるのでしょう。私の行動は彼らにとっては邪魔でしかない筈です。相談すれば必ず、私は行動を禁じられるでしょう。然しそれは私の望む処ではないのです」

「うむ……日本国民としては、警察に委ねて待つ()きと思うがな」

「それが模範的態度であることは私も承知しています。――然し何故だか、X国は私に協力的でした。それは恐らく、誠治が絡んでいるからなのだと思います。誠治の上の方が未だに辿り切れずにいるのです。X国としてはその手掛かりが欲しい」

「ふむ……然しうちの部隊のことは何処で知ったのかな?」

「沖縄であなたの部隊に捕まりました」

「そうだった、そうだった。――どの程度把握しているのかな」

「父の念動力と、あと心が読める少女がいましたね。他はよく判っていません」

「それで如何してうちの部隊が使えるかな?」

「何なら父だけでも好いのですが……どの程度連携出来るかは、ご相談かなとは思っています。X国との関係性もあるでしょうから、日本国としても決して損な話ではないと思っています。此処で得られる情報を、日本国としてX国に有償で提供するというルートもあり得るのではないでしょうか」

「うちは民間の企業だからな。そう云う国同士の駆け引きなんかは専門外なんだよ」

「でも各省庁との結び付きは決して希薄ではないと思いますが」

「ふうん、中々勉強して来ている様だなぁ」

「恐れ入ります」

佐々本は暫し腕組みをしていたが、突然「シン!」と大きな声を挙げた。

成り行きを見守っていた神田が、都子に目配せをすると、神田は亜空間から消え、佐々本の斜め後方に出現した。達也とカールは、少なからず驚いた様で、眼を大きく見開いた。

「お前どう思う?」

二人の様子等気にも留めず、佐々本は神田に意見を求めた。

「個人的な感情としては、達也には大人しくしておいて貰いたいところです」

「ふん。公的な立場としては如何だ」

「是非ご一緒させて頂きたいと」

「そうだな――」佐々本はぎゅっと目を閉じ、十分な間を取ってから目を開けると、組んでいた腕を(ほど)き、稍前傾しながら、「それでは、うちの部隊をフルセットで付けよう。後はこの真一郎と、調整してくれ」と云って、立ち上がった。

佐々本はその儘机を回り込んで会議室のドアへと向かう。途中達也の横を通る際に、「無茶すんなよ」と多少柔らかい調子で云うと、ぽんと達也の肩に手を置いて、直ぐに背を向け退室して仕舞った。

後には神田親子と、カールが残された。父と息子は色々な感情を押し殺し、噛み殺し、複雑な表情を浮かべ合いながら対峙している。対してカールは、努めて無色であろうと気配を消している。

「二人、大丈夫かな……」

亜空間から様子を窺っている蓮が、心配そうに溢した。

「なかなか複雑な想いが渦巻いているよ。此処からだと本当によく見える。神田さんも達也さんも、気持ちを治めるのに物凄く神経使っている感じ」

「うち等フルセットで提供されてもうたなぁ。まあ、その方がし易いかぁ」

知佳の言葉を聞いてか聞かずか、都子はそう呟きながら、会議室の三人を机と椅子ごと亜空間へ連れて来た。

何処でもない場所 三

「は! 何だ?」

達也がびくりとして席を立つ。カールも気配を殺しながらも戸惑いを隠せず、眼だけ動かして状況を見極めようとしている。

「欸、都子さん……鳥渡早いですよ……」

神田が嘆息交じりにそう云うと、右手で顔半分を覆いながら、

「達也、改めて紹介する。EX(エックス)部隊のメンバーだ」

神田は一人ずつ、名前と能力を紹介していった。

「あゝ、蓮さん、君のことは好く覚えていますよ。レディなんですよね」

蓮は赤面した。沖縄で売り言葉に買い言葉、ガキ扱いされてレディだと云い返したのを、達也は覚えていたのだ。改めて冷静に反復されると、この上なく恥ずかしい。

「そんなこと……忘れてよ」

「忘れないさ。ちゃんとレディとして接しますよ。そして知佳さん、あなたには可成遣られましたね。好く覚えています」

「その節は失礼しました」

知佳は両手を体の前で揃えると、ぺこりと頭を下げた。

「好いんですよ。アレは効きました。可成僕は揺さぶられて仕舞った。――あなたの揺さぶりが無かったら、僕の社会復帰はもっと後になっていたかも知れません。感謝しています」

「そんな。あたしは別に……」

知佳は蓮とは別の理由で、赤面した。

「そんなことより達也さん、へ行く前に、に逢っておいた方が好いと思います」

赤面した儘知佳はそう云うと、都子を振り返った。

「都子さん、好いですよね?」

「うちに訊かんと、リーダーに訊けや」

「神田さん」

神田は虚を突かれた様に視線を泳がせ、「えっと、何の話でしょうか?」と訊いた。

達也は何だか神妙な顔をしている。

「知佳さん、お気持ちは有り難いのですが……巻き込んで仕舞うかも知れないと思うと……」

「もう遅いですよ。自分から飛び込んで来ましたから」

達也は吃驚した表情で父親を見る。神田は相変わらず解っていない顔をしている。

「ええと、それで何の話……」

「あゝ、もぉ! 神田っち鈍いな!」

都子はそう叫ぶと、立川の監視対象を目の前へ引っ張って来た。

「彩――」

「呼び捨てなんだ」

蓮が興醒めした様に呟く。

「いや、だって――物凄く小さい頃から、一緒に遊んでいたから――」

「ずっと気にしていたんですよね。彩さんをと云うよりは、菊池一家の遺された人達のことを」

「小母さんにも申し訳なくて――凡て僕の所為で――」

「達也、それは或る意味そうかも知れないけど、でも違うぞ」

神田は今はすっかり理解した顔で、尻の隠袋から切り裂かれた便箋の様な物を取り出し、会議机の上に置いた。達也はそれを一瞥するなり真っ赤になって、「如何して父さんがそれを!」と叫んだ。

「四つに裂いて塵箱(ごみばこ)に捨てるなんて、拾ってくれと云わんばかりじゃないか。現にX国で回収されて、こうして今俺の手元に渡っている」

達也は口をあんぐりと開けた儘、隣のカールを見た。カールは(おど)けた顔で肩を竦める。

「この手紙を出さなかったのは賢明だな。受け取った方は何事かと驚いて仕舞うぞ」

「止せよ、読まないで!」

「何遍も読んだよ。――達也、本当に済まなかった」

神田は息子に向かって、深く頭を下げた。

「凡ての発端は俺だった。坂上さえ死なせなければ、お前が誠治に付け込まれることも無かった。健介君が死ぬことも無かった」

「今更如何しようもないだろう……皆逝っちまったよ」

「だからこそ、遺された菊池一家を大切に護りたい。その想いは俺も同じだ。こんな手紙で揺さぶってはいけない。書いたのはお前の心の整理の為だったのかも知れないが、それを出さずに捨てゝくれたのは最善の判断だったよ」

達也は口元にキュッと力を込めた。

「でも困ったことに、長女の彩さんが今、探偵見習になってお前やその周囲のことを調べている」

「探偵って……」

「宇佐組のヒットマンにも辿り着いてる」

「マジか! 止めさせてくれ!」

「云っても聞かないので、協力関係を結んだ」

「父さん――一体何云ってんだ、危ないじゃないか!」

「このチーム一丸となって彩さんを護る。護る為に手を結んだ。放置していては却って危険だと判断したんだ」

「マジかよ……」達也は頭を抱えて机に伏した。

「そう云うことなので、達也さん、此処に彩さんを呼んでも好いですよね?」

知佳が訊くと、達也はたっぷり苦悩した挙句、小さく首肯いた。受け入れざるを得なかった。

彩は自室にいる。ノートパソコンで何か調べ物をしている様だ。その儘では空間が断絶されていて知佳の力が届かないので、都子に小さなワープの穴を穿って貰い、それを使って知佳がテレパシーを送る。

〈彩さん、今から此方に呼びたいのですが、構いませんか?〉

彩はきょろきょろと周囲を見回した。

「え、知佳ちゃん? あ、テレパシーか。えゝと……ちょっと待ってゝ!」

彩はパソコンを閉じるとリュックに放り込んで、鏡に向かって軽く身嗜みを整え、イヤリングをブラブラしていない物に付け直すと、部屋を出た。

「お母さん! ちょっと出かけて来るね!」

「あら、何処行くの? 夕飯は?」

「うーんと、鳥渡仕事の関係でね、何時になるか判んないし、後でメッセするよ!」

「そう。気を付けて」

「はぁい!」

彩が玄関を出て暫く進んだところで、小さな路地に入ると、小声で「知佳ちゃん、いいよ!」と云った。それを合図に都子が彩を亜空間に引っ張り込む。

「彩!」

達也が叫ぶと、彩は吃驚した様に其方を見て、見る見る顔が紅潮した。

「たっ! うそ! マジ!? たたたたたっちゃん!」

「彩ちゃん狼狽えすぎ!」都子がツボに嵌った様でケラケラ笑っている。

「都子さん! もぉ!」

真っ赤な顔の儘都子を睨むと、彩は頬をぷうと膨らませた。

「さて、全員揃ったところで、やっとターゲットを一つに絞れる訳や」

そう云って都子は、秋菜だか春樹だかの乗った車を指差した。達也はそれを不思議そうに見て、

「これは? ミニカーの様な――否でもこれは現実なのか。ドローン撮影の様な、立体映像を見ている様な……」

「まあそんなところや。これは久万組関係者のエスパーが乗っとる車や。何やら勘のえゝ奴らしいので、稍遠巻きに、うっすら繋いどる」

「久万組!」彩の顔付が引き締まる。

「久万組会長が能力者を傍に置いていると云うのは、なんとなく聞いてました。――どんな能力者なんですか?」

達也はそう云って、一同を見回す。この質問には神田が答えた。

「先刻都子さんが云った通り、勘の好い能力者なので踏み込んだ調査が出来ず、判然とは解らないんだが、双子の姉弟で、お互いに入れ替わることが出来るらしいと云うことと、微弱な念動力、幻覚力があると云うこと、そして、何らかの逆探知能力があると云うこと迄しか判っていない」

「結構解ってるじゃん」

「いや、未だ未だ不可解な力がある様なんだ。双子で能力に差異があるのか如何かもよく判らない。今踏み込んで仕舞うと本ボシを逃しかねないので、泳がせている状況だ。――如何やら下呂に向かっているらしい、と云うところ迄は判明している」

「下呂の何処?」

「それが好く解らないんです」知佳が説明を引き継ぐ。「何だか山の中と云うか、森の中で、怖そうな人が二人いる様なんですが……それが何処なのかさっぱり」

「ふうん……取り敢えず尾行するしかない訳だ。で、これは今、()の辺りなんです ?」

「二、三十分前には、高速は降りとるな。大分山道走っとる様やけど……」

都子が答える。

「そうすると、後三十分程度かなぁ」

「まあ気長に待とうや」都子は大きく伸びをして欠伸を一つすると、「腹減ったなぁ」と呟いた。皆は一斉に都子を振り返る。

森 二

下呂の森の中の小さな小屋に、二人の男が逗留する様になってから一週間ばかりが経過していた。小屋とは云っても、風呂トイレと小さな調理場位は付いている。部屋は十二畳の畳敷きが一つだけで、隅の方には三つ折りにされた布団が二組寄せられている。山の中だと云うのに、何処から引いているのか電気も水道も通っていて、風呂も電気で沸かしている。窓は無い為明かりは漏れず、湯を炊くのも電気なので煙等も出ない。湯気等も殆ど出さず、水に戻して川に流して仕舞う様になっている。兎に角身を隠す為に作られた様な小屋である。

調理場は有るものゝ殆ど使用されておらず、食料は毎日春樹と秋菜の姉弟が差し入れてくれる。そんなに頻繁に通っては足が付きそうなものだが、何故だか誰にも見付からずに通い続けていられるのは、彼らの異能力に依るところなのかも知れない。余らせた食料は冷蔵庫に補充して置き、食べる際には電子レンジで温める。迚も森の中で隠遁生活をしているとは思えない近代化振りである。調理場を使わせないのは、包丁等を置いては危険だからなのかも知れない。血の気の多い二人なので、得物等を置いていては如何(どう)なるか知れたものではない。

風呂焚きやら部屋の掃除やらは、水木が忠実(まめ)に熟している。

「俺は何時(いつ)迄此処に居なくちゃならねぇんだい」

箒掛けをしている水木の邪魔にならない様に部屋の隅で転がった儘、宇佐組からの客人は、既に何遍も繰り返しているであろう質問を天井に向かって呟いた。どうせ応えは返って来ないのだ。云うだけ無駄なのだが、そんな無駄なことでもしていないと気が滅入る。此処には食事と酒以外の愉しみは何もないのだ。

「あんたは一体、何から逃げてんだ」

珍しく水木が口を利いた。始めの内はお互いに警戒し、牽制し合ってピリピリしていたものだが、そんな緊張感が一週間も持続する筈もなく、何時の間にかお互いに空気の様に其処に在ることが当たり前となって、気兼ねも無くなり、だからと云って打ち解ける訳でもなく、視線も絡ませず会話もせず、独居と独居がお互いを風景か置物と思う様に生活して来たが、遂にその均衡が崩れた様な気がした。客人は半身を起こして水木を見据える。

「おめぇは何も聞いてないのか」

「あんたの番人をさせられているだけだ。事情なんか何も知らねぇよ。――話せねぇならそれで好いや」

「いや――」

初日に久万会長が来て色々話したが、その会長が立ち去って以来、初めての会話が成立していた。客はこの感覚にもう少し浸っていたいと思っていた。会話を打ち切りたくないと。

「俺はな、もう何人も殺して来た。最初のバラしでは下手打って投獄されたがな、まああれは、捕まる迄が任務みたいなものだったから……」

水木は相変わらず無言の儘、掃除を続けている。それでも客の言葉に耳を向けている様で、時々其方へ視線を投げている。

「それで何年か食らってよ、それでも模範囚だったんで早めに出て来たんだ。その後はもう初回の様なへまはやらかさねぇ。段々と腕も上がってよ、度胸と云うよりは慣れだな、気持ちも呼吸も乱さずにささっとヤれるまでになったんだ」

水木が塵取りの中身をゴミ袋へと明け、箒を用具入れに仕舞うと、今度は雑巾を絞って敷居や窓の桟等を拭き始める。

「大抵同業者だよ、獲物はな。堅気()ったなぁ、あれが最初で最後だ」

「あれってなぁ、どれだ」

水木は手を動かしながらも、合いの手を入れた。話に興が乗って来た様だ。

「会長さんも云ってただろう、菊池健介とか云う若モンだよ。なんでも神田達也とか云う小僧を動かす為に必要な殺しだったんだとか聞いたがな、そんな事情は知ったこっちゃねぇ、俺はな、血に飢えていたんだ。――暫く仕事してなかったからよ、あの時は。まあ誰でも好かったんだ。但まあ、無差別に通り魔する程の無分別でもねぇや、何かしら大義名分が必要だったのよ。命令でも依頼でもよ、何でも好いから、俺に殺しをさせてくれる奴を、あの頃は求めていたな」

「十分無分別だな」

水木の合いの手に、客は瞬間、相手を睨み付けた。然し直ぐに目を伏せると、鼻からフンと息を吐いた。

「まあな、そうかも知れねぇ。兎に角飢えてたんだよ、その時は。だからあんな奴の話にも乗っちまった。――おめぇも聞いてたろ、誠治とか云うイケ好かねぇガキによ、俺は人生狂わされちまった」

「人生とはまた、大きな話だな」

「でもそうなんだよ、此処に居る時点でおかしいだろ。山小屋から出られねぇ時点で、人生失敗(しくじ)ってんだよ。俺はな、堅気殺る心算なんか無かったんだ。その線引きを、彼奴はぶっ壊しちまいやがった」

水木は調理場で雑巾を洗い、絞った。そしてまた拭き掃除に戻る。

誠治なんかに関わったのが間違いよ。その御蔭で、矢鱈警察が張り切りやがって、なんか知らんがX国なんかも乗り出して来やがって――(つい)でに神田達也なんておまけも付いて来てよ。俺ぁ今、方々から狙われてんだ」

「いっそ自首でもすれば、情状酌量で無期ぐらいにはして貰えんじゃねぇの」

「それは如何だかな。大分殺して来たから……」

監獄(なか)が一番安全だったりしてな」

「そうかも知れねぇが、死刑かも知れねぇだろ」

「死刑なんかそうそう執行されねぇよ。去年は一件も執行されてないだろ」

「あれは大臣次第なところがあるからな。する時は纏めてするさ。アテになんかならねぇ」

「まあな、でも交通事故で死ぬより低確率だったりしねぇか?」

客が笑うと、水木も笑った。笑い合うなんてのはこれが初めてだった。

「まあ何にしても、そんな好い加減な連中に俺の命運握らせるなんてな御免だよ。ほとぼり冷めたら適当に高飛びするさ」

「外国語は出来んのか」

「中国、韓国辺りは、まあまあな。英語は片言レベルだが、出来ないこともない。(いず)れにしたって行っちまえば何とかなるもんよ」

「賢いんだな」

「へっ、恐れ入ったか!」

客が胸を張って多少反り返った所で、小屋の入り口が開けられた。

「おう、春樹君か? 今日はやけに早かったな」

そう云って客が立ち上がろうとした時、静かな森に銃声が響き渡った。

川口 二

開店前のカウンターに向かって、田村が座っている。スナック「コスモス」のママは、不機嫌な様子でカウンター奥の椅子でタバコを(くゆ)らせている。

「ほんとにあんたは無粋でしょうがないね。偶には開店後に来なさいよ」

「非礼は心からお詫びします。この件が片付いたら、所長も連れてゆっくり飲みに来ますよ」

「別に爺さんなんか連れて来たって仕方ないよ。若い男連れて来な」

田村は苦笑しながら、コップの水を一口飲んだ。

「それで、今日は何の用だい。可愛い探偵助手は如何したね」

「それは僕の方が訊きたいですよ。あなたが何か吹き込んだんじゃないんですか」

「あたしはあの日以来あの子にゃ逢ってないよ」

「そうですか……」

田村はカウンターに右肘を突き、右手で口元を支える様にして、洋子を凝と見据えた。

「なんだい。信じてないって顔だね。でも知らないもんは知らないよ。――あたしゃ何時だって、何も知らないんだ。周りが勝手に何でも知ってると勘違いしているだけさ」

田村は何も云わず、探る様に洋子の瞳を凝と見詰め続ける。

「やだね。そんなに見詰められちゃあ、惚れちまうじゃないか」

洋子はお道化た様にそう云うと、背後の棚からジンのボトルを取ると、何か作り始めた。目分量でグラスにジンを注ぎ、トニックウォーターで満たすと、ライムを櫛切りにしてぎゅっと絞る。

「呑みませんよ」

「これはあたしのだよ」

洋子はそう云うと、作ったばかりのジントニックを静かに飲んだ。

「それで? あんた達、何を調べてるんだい」

「何だと思います?」

「知るわきゃないね。どうせ守秘義務だってんだろ? 興味もないよ。たゞ、あの子さえ無事であればそれで好いよ」

「厭な予感しかしないんですよ」

「止しとくれよ。不安になるじゃないさ」

洋子はグラスを握り締めた儘、目を伏せる。

「お孫さん――ですよね」

洋子は澱んだ視線を田村に向けるが、直ぐに目を逸らす。

「そんなようなもんさ。血は繋がってないよ」

「そうですか?」

今度は凝と田村を見返す。

「何が云いたい」

「別に。まあ、何方(どちら)でも好いことですが」

「それなら変な詮索するんじゃないよ」

田村はほんの一、二秒、口角だけで笑うと、(おもむろ)に千円札を二枚カウンターに置いて、「そこに山崎在りますね。ロックでください」と云った。

「開店前だよ」

「固いこと云わずに」

ママは溜息交じりに軽く笑うと、山崎十二年を氷の入ったオールドファッションドグラスに注いだ。

「顔馴染みだから割引してやるよ」

ママは千円札を一枚だけ受け取り、一枚は田村に返した。

「おや。そんなことして赤字になりませんか?」

「あんたが気にすることじゃないよ」

「それは失礼。有り難く頂きます」

田村は返って来た千円を隠袋に入れると、ウイスキーに口を付けた。高い酒を注文して恩を売る筈が、割引されて却って恩を売られて仕舞った様だ。目論見は外れて仕舞ったが、田村は気にせず次の駆け引きに出る。

「山田一郎って、知ってますよね?」

「誰だい」

「あれっ――、もしかして、(リー)(ウェイ)と云った方が判りますか? それとも、(キム)東元(ドンウォン)の方が?」

「あんたは先刻から一体何を……」

洋子の眼が心做し泳いでいるのを、田村は決して見逃さない。

「まあ、先方は洋子さんの事なんか知らないとは思いますけどね。あなたは相手をよくご存じの筈だ。いやあ、中々どうして、大した捜査力ですよ」

「彩には一言も伝えちゃいないんだ。あたしじゃないんだよ」

「そうですか?」

「そうなのさ」

「――まあ、それはそうなのかも知れませんね。なにしろそれは、うちの所長が教えたんですから」

「何だって!?

洋子の顔が般若の様に険しくなる。

「あんたら何やってんのさ! あ、危ないじゃないか!」

「所長の考えは僕にも解らないんですよ――但それで、菊池さんが暴走して仕舞ったのは間違いないのだと思います。そこであなたに訊きたい訳です、この山田と云う男が、今何処に潜伏しているのか、御存知ではないかと」

「知る訳ないだろ!」

「裏社会の繋がりとか、何か断片的にでも好いので、ヒントが欲しいんです。或いは辿れるかも知れないので」

洋子は腕組みをして考え込んだ。

「あんたら如何やって山田に辿り着いたんだい」

「営業秘密……と云いたいところですが、そう云う訳にもいきませんね。僕らはね、神田達也から辿ったんですよ」

「達也って、彩の想い人の達也かい」

「そんなことは知らないですが、神田真一郎の息子ですよ。菊池健介の一番の親友でもあった、達也です」

「ふうん……山田ってのはね、あれは危ない男だよ。あたしの昔の連れ合いがさ――ああ、やっぱり云いたくないね」

「洋子さん」

「思い出したくもないんだよ」

「息子さんと同年代ぐらいですかね」

「あたしに息子なんかいないよ」

「いれば、ですよ」

洋子はフンと鼻を鳴らして、ジントニックを呷った。

「連れ合いの甥っ子だよ。あんたの云う通り、年頃で云うならあたしの息子だって可怪しかないやね。何処で何してたんだか知らないけど、コウちゃんが死んだ後ぐらいから、その筋っぽい客達にちらほら名前を聞く様になってね」

「二〇一〇年頃迄、服役していた様ですね」

「そうかい。知らないよ。何してたんだか。あたしとは縁も所縁(ゆかり)もない男だよ。連れ合いだって赤の他人、その妹の息子なんか、他人も他人、耳毛の先程だって関わり合い莫い存在だよ」

「それでも調べたんですね」

「健介の仇だからね!」

田村は口を噤んで、洋子の目を凝と見た。

「見詰めるなって云ってるだろ。襲うよ」

「いや、それは失礼」

田村はウイスキーをちびりと呑んだ。

「洋子さんの連れ合いと云うのは、何処の国籍でしたか?」

「そんなこたぁ知らないねぇ。結婚でもしてれば知れたことなのかも知れないけどね」

「内縁関係でしたか」

「だから、他人だって云ってるだろう。――大体あんた達、誰の如何な依頼で動いてるんだい。出来れば放って置いて欲しいもんだけどね」

「依頼主のことは流石に云えないです」

「そうかい」洋子は小さく息を()くと、細いメンソールの煙草に火を点けた。「あれは多分、朝鮮人だよ」

洋子が語り始めたので、田村は気持ち姿勢を直して、真面目そうな顔付きをした。

「朝鮮でも韓国でも、中国でも何でも構わないさ。あたしはあの人に惚れたんだ。あの男の、母親の兄貴にさ。――あの頃は良かったよ」

洋子は空になったグラスを流しに置くと、別の酒を作り始めた。ホワイトラムをこれまた目分量で新しいグラスに注ぎ、ライムを半分に切って絞り入れると、砂糖を一摘み入れて掻き混ぜる。

「最初は客で来てたんだけどね、話は巧いし、面白いし、面倒見が良くて優しいし、まあ、あんたが持ってないもの大体全部持ってたね」

田村は苦笑したが、何も云わなかった。洋子はグラスにミントの葉を三枚散らすと、ストローを差して自分で飲んだ。

「これもあたしの。あんたに請求なんかしないから心配しなくていいよ」

「そんな心配してませんよ。何も合意していないんですから、請求されたって払うことなんか――」

「ふん、そう云う所だよ。あんたの詰まんない所さ。粋じゃないのよ。――あの人はそんなことは云わなかったね。何なら此方(こっち)が拒否しようがお構いなしに金置いてく様な男だったよ」

「はぁ成程。確かに無粋だった様ですね。これは失礼しました」

田村が財布を出し掛けると、洋子がそれを押し留める。

「だから無粋だってんだよ。別に金欲しくて云ってんじゃないんだよ。こゝで金出させてホイホイ貰ってたら、あたしだって格が落ちるじゃないか。あたしゃ絶対に受け取りませんからね!」

「成程これも無粋ですか。――中々勉強になります」

「スカしてんじゃないよ」

入口の方でカランカランと音が鳴った。二人がその方へ視線を向けると、白髪の髭の老人がドアを開けた儘立ち止まり、「まだ開けとらんのかな? もう開店時間は過ぎとると思うんだが」と云いながら、表の看板を示した。

「あらやだ。電気入れなきゃ」

洋子はカウンターから飛び出すと、客と入れ違いに外へ出て、看板の電気を入れて戻って来ると、室内の電灯を全て点けた。照明に灯が入ると、流石に室内は明るくなる。

(あゝ)もう、十五分位開けるの遅くなっちゃった。お客さん逃してたらあんたの所為だからね!」

そう云いながら洋子はカウンターへ戻ると、「そこの人も、そんな入口でモジモジしてないで、どっか適当に座りなよ!」と白髪紳士に声を掛ける。

「欸これは、済まんこってす。――いや如何もね、歳行くと中々思う様に体も動かんでなぁ。――田村! 田村君!」

老人はそう云いながら、田村を手招きした。

「あらやだぁ、お知り合い? ――あ、判った、佐々木所長さんでしょ」

「ははは、ご明察。流石客商売しておられるだけのことはありますなぁ」

佐々木は田村の手を借りて、カウンター席へと辿り着くと、それ迄の緩慢な動きとは裏腹にひょいと丸椅子に腰掛けた。

「お達者ねぇ、お幾つ?」

「さあて。傘寿はこの前遣った気がしますがな……如何も膝がね、若い頃に酷使し過ぎた所為か」

「もぉ、膝とか腰とか、そう云う辛気臭い話は置いといてよ。あたしも(じき)お仲間よ。――あっちのソファの方が楽じゃなぁい? カウンターの椅子って腰とかにも辛いんじゃない?」

「好いんですよ、お姉さんとお話したかったんでね。ご配慮ありがとう」

「やだ、おねぇさんなんて年齢(とし)じゃないってば!」

心持ち洋子は頬を染めた。照れているのだろう。田村は唖然として洋子を凝視し掛けたが、直ぐに気取(けど)られぬ様目を逸らし、山崎を舐めた。

「ふん。何云いたいか位判るわよ。()っといて頂戴」

所詮、年の功には敵わなかった。

「まあまあ、あいつは昔からあんな感じなんだがな。この性格ばっかりはついぞ直らんかった。ずっと刑事しておった方が良かったかも知れん。――それでもアレに悪気は無いんだ。気を悪くしたなら俺が謝る、これ、この通り」

そう云って佐々木は低頭した。

「やだやだ、やめてよお爺ちゃん、あたしはあの子揶揄(からか)って遊んでただけなんだから。そんなにされたら私の方が悪者になっちゃう」

「あっはっはっは、そうですか!」佐々木は笑いながら顔を挙げると、「いやあ、あんな無作法者でも手慰みになりましたかな。それは何よりですわい!」と云い、一段と高く笑った。横で田村はすっかり不機嫌な顔をしている。

「バカねぇ、あんた、そんな不貞腐(ふ て くさ)れなくて好いのよ。玩具にされたってことは、あたしに気に入られてるんだから。探偵としては及第点でしょ?」

そして洋子も控えめに笑う。田村は(はな)から、この二人と張り合う気など無かったので、苦く微笑みつゝ山崎をちびりと飲んだ。

「もぉ、この子気に入ったし、お爺ちゃんも想像と違って全然愛想好いんだから。あたし何でも話したくなって来ちゃった。今なら何でも答えるよ、さあ、何が知りたいの?」

「ほお。これはまたとないチャンス到来ですなぁ。田村が何聞き出そうとしていたのかは知らんですが、俺が訊きたいのは一つですわ」

「なぁに? 何でも云ってよ」

「坂上康太は、あなたの(はら)を痛めた子、だったのではないですかな?」

横で田村が(むせ)た。洋子は表情を変えずに凝と佐々木を見詰めながら、

「そう来たかぁ……うんでも、あたしも女だ、一度云ったことは覆せないよ。だから答えてあげる。いい? これ切りだよ、二人とも、耳の穴かっぽじって良く聞きな」こゝで洋子は、手許のモヒートをストローも使わずにゴクゴク飲んだ。

「――康太はね、あたしの息子だ!」

そう云うと、空になったグラスを、と音立てゝカウンターに置く。

「ああ、こりゃ、洋子さん、ママが開店直ぐからそんなに呑んじゃあいかん。丸で自棄酒じゃないか。酒に失礼だぞ」

「ごめぇん、でも、こうでもしないと平気でなんかいられないのよぉ……もう何十年も誰にも……あの人にだって云ってなかったんだからぁ……」

そうして洋子は、カウンターに突っ伏して仕舞った。

佐々木はグラスに残ったモヒートの香りを嗅いで、「一体どれだけラム入れとったんだ? 飛び切り濃いハードカクテルだったんじゃないか」と云った。

「田村君、作っている所を見ていなかったのか?」

「見てはいましたが、佐々木さんも知っているでしょう、僕は洋酒にはそれ程明るくないんですよ」

「そんな奴が山崎十二年なんか呑むなよ、勿体ないわい」

「これは別格です。国産ですし」

「それは屁理屈だ。――然し、今時珍しい、気風(きっぷ)の好い姐さんだよなぁ。御蔭で聞きたかったことを聞けたわい」

「僕も御陰様で、色々外堀固めながら核心を突く手間が省けちゃいました」

「あ? 俺なんか余計なことしたか?」

「いえいえ、滅相もない! 有り難がっているんですよ」

佐々木が目を細めてじっとりと田村を睨んでいると、田村は立ち上がり気味に、「では僕の用事は済んだので――」と云い掛けたが、佐々木がそれを押し止めた。

「ママをこんなにして見棄てゝいくのかい」

「非道いなぁ! こんなにしたのは佐々木さんでしょう?」

「この酒は俺が来る前、おまえの目の前で作ったのではなかったかな? 元よりこの人は、おまえに話す心算でいたんだろうよ。お前が中々切欠(きっかけ)を作ってあげなかったから、だらだら長引いちまったんじゃないか」

「僕の所為ですか……」

「そうだよ。解ったら今日は、閉店迄付き合ってやれ。心配すんな、俺も付き合う」

「はぁ……でも取り敢えず、トイレに行かせてください」

そう云って田村は便所へと向かった。佐々木は潰れた洋子の横顔を繁々と眺めながら、逢ったこともない坂上康太の顔を連想し、そして田村の呑み掛けの山崎をごくりと呑んだ。

戻って来た田村は、呑み残した山崎には目もくれず、店の一番奥のソファ席隅に、縮こまるようにして座った。

「おうい、田村君よ。もう一つ大事なこと忘れてやしないかい!」

佐々木がカウンター席から声を掛けると、田村は鬱陶しそうに少しだけ視線を挙げて、「どうせそっちも、佐々木さんが把握してるんでしょう」と云う。

「なんだよ覇気の無い奴だな。そんなことではまた事務員に逃げられるぞ」

「もう別の意味で逃げられてますよ。何しろ探偵気取りで危ないったら」

「その彩ちゃん、EX部隊と合流したとさ!」

田村は再び視線を動かして佐々木を見たが、直ぐに目を伏せて、「ほら、把握してた。それならそれで好いんですよ。寧ろ安全でしょう」と云って、黙りこくって仕舞った。

佐々木は仕方なく、一万円札をママの手に握らせると、一人カウンター内へ回って好き勝手に酒を作り始めた。

森 三

春樹姉弟の車が下呂に差し掛かり、全員でその動向に注目していると、車は「下呂温泉病院」と書かれた看板のある駐車場へと入って行った。

「誰や? 入院でもしよるんか? くまごろう?」

クラウンが怪訝な顔でそう云うと、知佳がそれに応えて、「みずきさん、だって」と云った。

「なんや、無関係か」

「無関係かどうかはこれからですね」

神田が釘を刺す様に云う。

「顎兄は短絡やから、あかん」

先刻から餡パンを齧っている都子が便乗する。

「クラちゃんあんまり、思ったまんま口にしない方が好いよ」

蓮迄もが駄目を押す。

七つや十七も年下の娘共にけちょんけちょんにされて、クラウンはがっくりと肩を落とすと、ソファの隅で三角座りをする程に迄いじけて仕舞った。

こゝ迄都子の空間術は、春樹にも秋菜にも気付かれていない様なので、飽く迄慎重を期しながらも、稍対象に近付き、人物の把握が出来る十分の一程のスケール迄拡大していった。院内を進んで行くのは如何やら秋菜の方だった。先程の知佳の読心を感付いた所為か、多少周囲を気にしながらも、「水木」と札の張られた病室前で立ち止まると軽くドアをノックした。

「はい」

中から太い声が返って来る。返事を受けて秋菜が中へ入ると、其処には見知らぬ男達が(つど)っていた。その中心でベッドに横になって片足を吊り上げられているのは、なんだか冴えない顔をした若い男だった。

「神田っち、この中に能力者は?」

ドーナツをぱくつきながらの都子が訊くと、神田は「秋菜さんだけですね」と返す。

それを受けて都子は知佳の方を向き、「先ずはこの病人から、素性探ってみ」と云った。

都子の要求に知佳は直ぐに応える。

「この人は換え玉です。山田――え? あ、でも違うのか。山田一郎って人の、そっくりさんだと自分で思っている人です。でもばれちゃったみたいですね――ばれちゃったって可怪しいか。此処の人皆最初から知ってたみたいだし。本人にばれちゃったって――如何云うことかな」

「それより知佳ちゃん、先刻何に引っ掛かっとってん」

「いやあ、誠司さんってのも、たしか山田――だった――よ、う、な……」

と、云い澱みながら恐る恐る達也を見上げる。

「そうですね。山田誠司の同胞、若しくは手先、若しくは指導者と云われていたのが、宇佐組ヒットマンの山田一郎です。――完全に偽名ですけどね」

達也は意外にも、全く無感動に云い添えた。

「手先若しくは指導者って、真逆やんけ」

「そうなんですよ――」と云い掛けた達也の発言を何故か彩が鼻息荒く遮って、「そうなんですよ!」と被せ気味に叫んだ。

「一郎と誠治の関係性が中々掴めなかったんですが、この二人が常に曖昧な関係性の儘彼方此方(あちこち)に出没していたので、その時々の関係者に依って全く証言がてんでんばらばらになっちゃってたんですね! でもね、へへぇん、この探偵見習の彩ちゃんに掛かればちょろいのです! 今日、先刻、判明しました! この二人、何を隠そう親子だったんでぇす!」

「中々おもろい子やな」

都子が半笑いで云うので、彩は急に顔を真っ赤に染めて、「や、や、や、しっつれいしました! たっちゃんの発言奪っちゃった、ごめんなさいぃ!」と云って、頭を抱えて何故か知佳の背後に隠れるように逃げて行った。達也は優しい目でずっと彩を見ている。

「いやいや、えゝねんで」相変わらず都子は口角を微妙に歪めながら、「彩ちゃん説明ありがとさん。ほんで此奴は何でこんな目に()うとんのかな」

知佳が続ける。

「転んだ様ですね。この人の名前は柊元(くぎもと)……」知佳はちょっと考える風にした。「此方の人は柚口(ゆずぐち)で、此方は久万吾郎さん、この人が、宇佐儀助――宇佐組の組長さんで――」

「冗談みたいな名前やな!」

未だ知佳の説明の途中なのに、都子がゲラゲラと笑い転げて仕舞った。

「儀助なんて、江戸時代か! ほんまに親は何考えて名前付けとんのやら……」ひいひい云いながら涙を親指の関節で拭っている。

「多分二人とも、偽名と迄は云わない迄も、生まれた時の名前の儘ではないと思いますよ。何を思ってそんな可愛らしい名前にしたのかは知りませんけどね」

如何も都子のノリに当てられている様で、神田も心持ち頬を綻ばせながら、云い添える。

「なんやぁ、後付けかいや。おもんな」

都子は急に興醒めした様に立ち直ると、知佳に続きを促した。

「あ、では、先刻の続きですけど……この中に水木さんって人はいない様です。ちなみにこの人が転んだのは――」

知佳はそこ迄云うと、急に両手で口元を覆って蒼褪めた。数歩後ろに蹌踉(よろ)けて、(しゃが)み込んでいた彩にぶつかると、その儘と後ろにひっくり返る。

「きゃああ! ごめんなさい! 知佳ちゃん大丈夫!?

彩は必死に抱き起すが、この世界に床や地面と云うものは概念として存在していないので、転んでも怪我をする心配はない。なんとなく「床面」と云う共通認識があって、全員その上で歩いたり走ったり転んだりしているが、その気になれば「床面」より下へ、何処迄も行けそうである。中空に浮いていると云う感覚も無いのだが、足許に物理的な抵抗は一切ない。なんだか不思議な環境である。従って知佳が怪我をするとかそうした心配は一切ないのだけど、然し彩の腕の中で、相変わらず知佳はカタカタと震えていた。駆け寄った蓮が知佳の手をぎゅっと握る。

「知佳。大丈夫。此処には誰も来ない。何も来ない。あなたが怯えることない。深呼吸して。吸って。――吐いて。――吸って。――吐いて」

ユウキも傍に駆け寄って、知佳の心の乱れを落ち着かせようと気を送る。皆の御蔭で少しずつ落ち着きを取り戻した知佳は、彩の腕の中で体勢を立て直すと、神田を凝と見上げながら、「誰かが鉄砲撃って、それで、この人は吃驚して転んで……ああ、そうか、誰にも当たらなかったみたいです。よかった……」と云うと、目を伏せた。

「一郎本人ですかね」達也が呟くと、神田がその後を受ける。

「可能性は高いですね。プロのヒットマンですから、依頼の無い殺人はしないでしょう。怪我だってさせる心算はなかったと思いますね。飽く迄威嚇で撃ったのでしょう。何なら空砲だったかも知れないです」

「――ですね」

敬語で語り合う親子を、都子は煎餅を齧りながら稍不満そうに眺めていたが、フンと息を吐くと少し高めのトーンで云う。

「その発砲現場が何処か知らんけども、今でも其処に水木さんとやらがおるとして、そうすると一郎とやらもおるんかな? 姿見ぃひん双子ン片割れも、其処でえゝのんか?」

「結論を急ぎますねぇ」

「いらちやねん」

「知ってますよ」

知佳の手を握った儘の蓮が、クラウンに向けてこっそり質問をする。

「イラチって、何?」

クラウンが三角座りの膝の脇からちらりと顔を覗かせて、

「都子のことやん、短気やら気短かやら云うやん、とっととケリ付けたがって始終イライラしてもうてる、みや――」

「顎兄の方から何やら聞こえよん」

都子が振り向きもせずにそんなことを云うので、クラウンはぴたりと押し黙って、また膝の向こう側に顔を引っ込めて仕舞った。

「なんだよ、クラちゃん鳥渡ビビり過ぎじゃん? ミヤちゃん優しいお姉さんなのに」

「君だけはうちのことよぉ解ってくれとぉ! 感謝しかないわぁ」

知佳はなんだか、苦笑が顔に張り付いて仕舞った。

亜空間で微妙な上下関係(ヒエラルキー)が生まれつゝある頃、病院内では男達が秋菜を残して病室から出て行こうとしていた。

「動きよったで。秋菜は此奴の見張りか。一応こっちの接続残しつゝ、此奴等追うど。――顎兄! 何時迄も黄昏とらんと、此奴等は覗き見放題やし、遣ったってや!」

「せやから、云い方!」

突っ込みつゝも、クラウンは幻影スクリーンを展開し、三人の極道(すじもの)達を追尾し始める。

達也と彩は、初めて見るクラウンの力に目を(みは)った。

「成程、これが覗き見ですか。何処でもこうして監視出来るんですか?」

達也の問いにクラウンは稍胸を張って、「そやで、わしに見れないものはないねん!」と云うと、知佳と蓮が心配そうに眉を顰め、案の定都子が彩に向かって、「これが公明正大に覗きをしているド変態君や」と耳打ちする。

「やだ! 最低!」思わず彩が声を挙げると、クラウンがびくりとし、都子がケラケラ笑い出す。

「みっ、都子おまえ! また!」

「クラウンさん! ダメですよ! 都子さんは悪くないです! 女の敵!」

「ええっ、ちゃっ、ちゃうねんで? わしそない変なことには使(つこ)とらんし」

「そないってどない! 変って何! 云ってみなさいよ! 探偵助手、舐めんなよぉお!!

彩の余りの反応に、都子は腹を抱えてゲタゲタ笑い転げている。知佳と蓮は思わず顔を見合わせた。

「彩。やめなさい。クラウンさんだってEXの人なんだから」

達也が彩を(いさ)めると、彩の頬がぱっと赤くなって、一気に勢いが萎んで仕舞った。

「EXの人がそんな社会性の無いことする訳ないだろう。僕はこの部隊を信用しているよ。この部隊を作った、父の人選をね」

「そうか……そうでした、クラウンさん、ごめんなさい……」

彩は真っ赤になった儘、すごすごと引き下がった。

「いや、不安にさせてもうたのは、ほんま申し訳ないです。でも信じて貰えた様で有難いです。でも不安を(あお)ったんは……」そう云って握り拳にぐっと力を込めると、急度顔を挙げる。

「都子ぉ!」

クラウンが拳を振り上げて都子を追い掛ける。都子はうひゃうひゃ云いながら走って逃げて行く。足はクラウンの方が早そうなのに一向に都子に追い付かず、少しずつ間が引き離されて行く様にも見える。

「あーあ、もぉ、クラちゃん冷静にならなきゃ。この世界(ミヤちゃんのフィールド)でミヤちゃんに追い付ける訳ないじゃん」

「都子さんちょっとずつワープしてるよね。あれって(ずる)だと思うんだけど」

「クラちゃんなんか、スリップしてるもんね。あれで追い付けるって考える方が如何かしてるわ」

蓮と知佳が冷静に二人を評しているのを、彩が横で興味深げに聞いている。

「ところで彩ちゃん」蓮が彩に話し掛ける。「このミヤちゃんの空間術でも、実は覗き見し放題だって気付いてた?」

「え? あ、そうだね。――まあでも、都子さん女性だし」

その会話を耳聡く聞き付けたクラウンがぴたりと止まって、肩でゼイゼイ息をしながら彩達の方を振り向き、「理不尽や! 理不尽の極みやぁあ!」と叫ぶので、結局その場の全員が笑い出して仕舞った。

「ああもぉ、わしこの件済んだら辞めたる」クラウンがそんな弱音を吐きながら、顔を覆って蹲み込むと、都子が背後に来てポンと肩を叩き、「あかんで。顎兄はEX(うち)にいて貰わんな」と優しく云い含める様に声を掛ける。

「都子……」

「下野なんぞされたら、それこそ悪用せんように監視せんならんもんなぁ」

「みっ!」

「それに、いじる相手居らんくなったら退屈じゃい」

「みやこぉっ!」

そしてまた追い掛けっこが始まる。

「なんか……何だ(かん)だ仲好いの? あの二人」

「さぁ……ミヤちゃんは本気で玩具(おもちゃ)扱いしているようでもあるけど……」

「話の本筋進まないよねぇ」

神田は終始、この騒動には無関心の様で、ユウキは唯々圧倒されているばかりであった。

そんなことをしている間に、如何やら三人の男が山の中の小屋に辿り着いた。それと同時にクラウンが力尽きて、ぱったりと倒れ伏した。幻影スクリーンは残っているので、その分の余力は残しているのだろう。

「あー、何か糞程腹減った」

都子がマドレーヌを貪りながらそんなことを云いつゝ、幻影スクリーンを覗きに来る。

「そりゃあ、あれだけワープしてたらねぇ」蓮が冷静に突っ込む。

「だ……だれのせいやと……」

クラウンが遠くから必死に突っ込もうとしているが、誰の耳にも届いていない。皆スクリーンの映像に釘付けになっているのだ。

三人の男が小屋のドアを開けると、糊の利いた開襟シャツに確り筋の入ったスラックスを穿いた、長髪を首の後ろで結った男と、腹巻に草臥れたジャケット姿の五分刈りの男とが、脱力した様に思い思いの場所に座っており、その奥に――

「あかん! 顎兄、切れ!」

スクリーンはそこで切られた。代わりに都子の空間術で、先程の場面が鳥瞰で浮き上がる。スケールは三分の一程に肉薄している。

奥にいたのは、矢張り春樹だった。春樹は入り口辺り――先程の幻影スクリーンの視点があった付近を凝と睨んだ儘固まっている。

「見られてもぉたかなぁ」都子が不安そうに呟く。

小屋の中に最初に踏み込んだのは、この物件の持ち主と(おぼ)しき久万会長である。そして直ぐに宇佐組長が続き、最後に柚口が入ってドアを閉めた。

「で、話はついたんか」

久万が低い声で云うと、春樹が人指し指を口元に当てた。暫く様子を窺う様に周囲を警戒している。その間誰一人として、身動き一つ、発声一つせずにいた。亜空間の一同もそれに連られる様にして、凝と固唾を飲んで成り行きを見守っている。クラウン一人、数(メートル)背後で倒れている。

たっぷり五分程だろうか、若しかしたらもう少し短かったかも知れないが、兎に角もう無理だと思って知佳がもじもじし始めた時、春樹がふうと息を吐いて座り直すと、久万に対して低く頭を下げた。

「会長、大変失礼しました。誰かに見られている気配があったもので」

「なんだと? 此処が知られたか……誰にだ?」

「確証は無いですが、確信ならあります。と云うか、他は無いでしょう。場所が割れたかどうかは、五分五分かと」

「早々に場所を移るしかないな。その為にも、この紛々(ごたごた)を何とかして貰わんとならん」

そして後ろを気にして、道を明ける様にして横に身を引いた。

「おう、イチ!」

その声に、五分刈りの男が畏まって膝を突いた。

「組長! お元気そうで!」

「下らん挨拶してる場合か! これは一体何ごとか! 俺ら()れだけお前の為に――」

「申し訳ありやせん。埒外のこととは云え、ちと遣り過ぎました」

「埒外ぃ? 何が埒外か。お前何を聞かされていなかったと云うのか!」

「影武者の話は、何も」

宇佐組長はフッと息を吐いて、その場に腰を下ろした。

「おう、うさちゃん、直に座るこたないや。――おい水木」

「へい、これへ」

水木が(うやうや)しく座布団を差し出すと、宇佐はそこに座り直す。

「おいくまちゃんよ、この場でその呼び名はあれだ、緊張感を削ぐぞ」

「おお、お互いにな」

そう云って会長と組長はがははと笑い合った。周りは冷や汗しか出て来ない。

「なんや、特に喧嘩はしとらんのやな」

亜空間で都子が、ほっとした様な、期待外れの様な声で云う。

「うさちゃんとくまちゃん、二人は仲良しさんや」

「まあ、それも情勢次第でしょうけどね」

神田が冷徹に云い放つ。

小屋では如何やら全員が、座布団を敷いて車座になった。

「それでイチ、お前今迄何処にいた」

「何処ってこたぁねぇです、ずっと(ふもと)の街で温泉に浸かりっ放しでしたよ。其処にいれば迎えが来るって聞いてましたんで」

「よく無事だったな」

「今にして思えば、影武者に目が向いてたんでしょうよ。本統、余計なことしました」

「そうよな、然し――」宇佐はそう云うと、斜め後ろに控える様に座っている柚口に向かって「お前、一体どういう説明してたんだ? あ?」

「すっ、すみません、せせ説明したのは私ではなくて、その、柊元(くぎ)本人で……わたしはぁ……」

「おう、適当なこと云ってんじゃねぇぞ。クギの奴は、てめぇが説明してたと云ってるぞ!」

「ええっ! そんな殺生な! いやホントに、ほんとにほんと、クギの奴が、何処迄本物張れるか勝負どころだぁとかって、まあ、盛り上がってたのは解ってましたが、そんな……恐れ多いことで、……ええもぅ……」

「よぉヒロシ、確認するか?」

久万会長が宇佐組長に向かって声を掛ける。ヒロシと呼ばれて一瞬宇佐組長はびくりとなったが、直ぐに久万会長を睨み付けて、「おいおい、云うに事欠いてその名前は――」

「緊張感削ぐってゆうからよ。儀助ってのも可笑しな感じだし、わしがお前を組長とも呼べんわな。何なら希望の呼び名を云えや」

「んにゃ、悪かった、それで好いよ、キヨシ――そんで? なんだって?」

「確認するかと訊いたんだ。今すぐ、春樹に柊元の所へ行って貰って――」

「そんな悠長なこと」

「直ぐだよ。――なあ? 春樹」

「確認して来ます」

春樹の輪郭が滲んだかと思うと、次の瞬間其処には秋菜がいた。宇佐組の三人はその瞬間、思わず身を仰け反らせた。

「これかぁ! ようやっと現場を見たど!」

亜空間では都子が小躍りしている。何時の間にか復帰していたクラウン含め、全員が興味深げに今は秋菜となったその者を凝視している。そして一斉に病室の方へと視線を移すと、確かにそこには春樹がいた。そしてお化けでも見たかの様に取り乱している柊元を、如何やら念動力で籠絡している。

「正直にお願いします。無益なことはしたくないので」

「云う! 云います! だから許して! 殺さないでぇ!」

どうも春樹を殺し屋か何かと思っているらしい。

「自分が! 自分が嘘ついて、一郎さん騙してました! ごめんなさい、本統にごめんなさい! イケると思ったんです! 完璧に化けたんですよぉお!!

その瞬間柊元の拘束は解け、傍らには秋菜が戻っていた。

再び皆の視線が小屋へと戻る前に、春樹が小屋で報告を始めていた。

「柊元さんが白状しました。最後迄化け通せると思って、一郎さんを騙していたそうです」

「あいつ!」

一郎の血が沸き上がるのを、宇佐組長が短く「イチ!」と云って留めた。丸で飼い犬の様な扱いである。然しそれで、一郎は鎮まって仕舞う。

「兎に角お前にゃあ後がねぇ。今こゝで事を荒立てゝ、官憲の手に落ちたなら、お前はもう一巻の終わりだぞ。うちの弁護士先生も、お前を捨てゝ組を護れと云ってるさ。お前もう、この国に居場所がねぇんだよ」

「んなこた解ってますよ。まあ別に惜しい命じゃねぇですけどね。――組に迷惑掛かるてぇなら、如何様にでもしてくださって結構です」

「そう思うなら、こう云う行動は謹んでくれ」

「体が動いちまうんですなぁ……」

一郎は右手を見詰めながら、開いて閉じてを繰り返している。

「それにしても、話には聞いてたが、実際目にすると中々引きますなぁ」

「あん? 春樹のことか」

一郎の無駄口に久万が応じる。

「おう、キヨシ、俺も思ったぞ。ありゃあ一体何ごとだ。一瞬春樹の代わりにそこに座ってたのは、あれはたしか病院にいた」

「秋菜だよ、春樹の双子の姉だな」

「これはその、なんだ。所謂、なんつうか」

「確りしろや、超能力だよ、前に話しただろう――前ったってもう、十年以上前か?」

「あの時の話じゃよ、テレコキネシスト、だっけか?」

「テレキネシスかな?」

「そのネシスだ、ネシスでよ、石とか岩とか、バシバシ飛ばし合うって話だったじゃねぇか」

「時代だよ、多様性だ」

「なんだそりゃあ」

「今の世の中何でもありってことだよ。そのネシスもな、春樹は使えるぞ。弱いけどな。まあその応用で、好きな時に熱燗でも霙酒でも、幾らでも飲める」

「なんだその贅沢な使い方は。サーバーじゃねぇんだから」

「そんなのは余興だよ。替え玉くんには大層に紹介してやったがな」

久万はそこでがははと笑った。

「まあ実際のところはな、テレキネシスで、足を地面に付けずに移動出来るんで、足音立てず、足跡も残さずに移動出来るんだ。これは中々使い出があってな。今回の隠遁にも、大いに役立ったのだよ」

「成程それは便利だなぁ」

「それと、今の双子の入れ替わりだろ、あと秋菜の方に限るけどな、良ーい夢見させてくれるのよ」

「なんだそれは。枕か」

「こんな爺になってあんな若い子抱かねぇわ。そこ迄わしもお盛んじゃねぇのよ。下手すりゃ精も根も吸い尽くされて、干乾びて死んじまうわ。――そうじゃなくてな、無害な麻薬があるとしたらあんな感じかなぁって、幻覚だか何だか知らねぇけどな、極楽浄土の夢見せてくれるのよ。御蔭でわしは満たされちまって、もう昔程の野心もなくなっちまったわ」

久万の目がとろんとして来る。

「大丈夫か? 頭ヤられてないか?」

「大丈夫だ、依存症的なものも全くない。無いようにしてくれてるんだと思うわ。でも本当に()い夢見させてくれるのよ。わしはもう死ぬ間際にアレ見せてくれるなら、あと何も要らねぇわ」

再び久万の目が(とろ)け掛ける。宇佐は半分呆れ顔でそれを見ている。

「ヒロシも見せて貰え。一郎も見ると好い。あれは佳いぞぉ」

「他には」

「んん?」

「他には何が出来る」

「さぁなぁ。わしはよく知らんのだ。どうも未だ隠し持ってるモンありそうな気はするんだが……そうよな、誰かに見られてる気がするとか云ってたな」

久万は突然春樹に問い掛ける。

「あれはお前のもう一つの能力か」

「はい――此処で説明して宜しければ」

「構わん、してくれ」

「千里眼とでも云うのでしょうか、遠くの物を見通す力を持つ者がいる様なのですが、そうした者の視線を私は(かす)かに感じ取ることが出来る様なのです」

「様なのです、ではよく解らんな」

「私も、その千里眼の術者に直接御目文字したことが無いので、それが真実その様な能力なのか如何かは、明言し兼ねるのですが……然し、上手く云えないのですが、ば、い、と云う……」

「うん、歯切れが悪いことはよく解った。それで?」

「その、()の様な方向から、何の様な距離感で見られていたか、もう少し解りやすく云えば、見えない隠しカメラの様な物が何処に設定されていたか、と云うことは解るのですが――残念ながら私に判るのはそこ迄です。誰が、何処から、何の様にしてと云うところ迄は、未だ辿れる程の力を付けておりません」

「なんだ、それは訓練次第で身に付くものなのか」

「効果的な訓練が出来れば、恐らくは……」

「ふうん……覚えておこう。で、他には何かあるのか?」

「同じ様なことなのですが、心を読まれると判ります」

「心も読まれたのか」

「面目次第もありません。その為、一時的に姉と入れ替わったりして、攪乱することで、如何やら相手も警戒して読みに来なくなった様ですが……」

「秋菜もそれは感じるのか?」

「それは……如何でしょう。訊いてみませんと」

「ふうん……それも相手が誰で何処から、とか迄は」

「判り兼ねます」

「うん……相解った!」

久万はそこで膝を打った。

「ヒロシ、一郎さん、如何も事態は思っていたより、余程深刻かも知れん。何ならこの場所も既に特定されていて、現在捕方(とりかた)連中の手が伸びつゝあると思って間違いなかろう!」

「キヨシ、マジか!」

(おう)よ、本気と書いてマジだ! だから今直ぐ、此処を畳むぞ!」

そして久万が立ち上がると、全員が立ち上がった。

山を下りながら、久万は独り呟く様に、「こうなると、影武者が使えなくなったのは痛いな」と云った。

「大丈夫、使える筈です」

春樹は自棄に自信たっぷりに云う。

亜空間も大慌てだった。然し事態は心配していた程悪くはなかった。

「神田っちが『逆探知』なんて云うから。要らん警戒してもうたわ」

「否でも、それは春樹君が云っていた様に未熟なだけなんですよ。訓練すれば必ず辿れる様になります」

「そんな太鼓判要らんわ!」

必死にスルメを齧りながらの都子の必死な突っ込みに、子供達がくすりと笑う。

「見てみぃ! クギっち全快しとる!」

病院に眼を遣ると、突然の回復に柊元本人が目を丸くして粟食っている所だった。

「これは秋菜さんの能力ですね」神田が補足する。

春樹が一緒だった所為か、一行は思いの外早く山を降り、病院に辿り着いていた。ぞろぞろと移動するのは目立つと云うことで、一旦そこで解散すると、一郎のみが柊元の病室へと向かう。

「よう、偽物」

病室のドアを開けるなり、一郎は柊元にそう声を掛け、同時に柊元は飛び上がらんばかりに驚いて、ベッドから転落しそうになった。

「おっと、折角全快したのにまた怪我されちゃ敵わねぇ」

一郎は素早く駆け寄って柊元を助け起こすと、ベッドに座らせた。柊元は己の身に如何なる災厄が降り掛かるものかと、怯え慄いている。

「小屋では済まなかったな。でもおめぇさんも悪いぜ。俺に成りすまそうなんて、本人迄騙してするこっちゃねぇわな」

「はっはいい! はい! すみ、すびびゃ」

「ちと黙っとけ。舌でも噛まれちゃ敵わん」

「ひぃぃい、ひぃぃいい」

黙れと云われていても、薄い悲鳴が絶え間なく漏れ続けている。

「あんな、黙って聞けよ、てめえの命運にも関わる話だ」

「ひぃぃいい」

「お前が吹聴する程、俺の真似が得意だってぇんなら、もう一仕事してくれや。なぁ」

「ひぃぃいい」

「今のお前の髪は、数年前の俺の真似だろ。今は見ての通りだ。先ずはそこから遣り直せ。出来るか? 出来るなら首を縦に振れ」

「ひいぃひぃぃい」

柊元は首を縦にぶんぶんと振り続けた。

「ああ、もう好い、もう好い。よく判った。そしたら後は、宜しく頼むぜ。準備出来たら一旦落ち合うぞ。組長経由で連絡しろ。わかったな」

「ひぃぃいいいい」

一郎が立ち去った後も、柊元は暫くガタガタと震えが止まらず、相変わらず口からはひいひいと悲鳴を漏らし続けていたが、十分程掛けて落ち着くと、病衣から着て来た服に着替え、病衣は廊下に放置されている回収ワゴンに放り込んで、音も立てずに病院を後にした。こゝ迄ずっと秋菜がサポートしていたことに、恐らく柊元は気付いていない。

病院には、柊元が入院していた記録はおろか、治療していた記録さえも残っておらず、あまつさえ、医者、看護師、スタッフ誰一人、そうした者達が出入りしたと云う記憶自体、一切持っていなかった。但薬剤やら包帯やらが余計に減っており、後々看護師や薬剤師達を悩ませることゝなる。

何処でもない場所 四

「こゝで鳥渡、助っ人を呼びたいと思っているのですが」

神田が一同を見渡して云う。

「状況も複雑に進展し、情報も断片的で、如何も間を繋ぐ線が幾つか見付からないんですよね。なので、そう云うことが得意な人を呼びたいんですが、その前に――」

「間を繋ぐ線って何?」

蓮が話の流れを無視して、略何も考えずに質問を発するので、神田は苦笑した。

「そうですね、例えば、この山田一郎は如何して小屋の場所が判ったのでしょう。今見聞きした話に依れば、彼は柊元と云う物真似の得意な組員に(たばか)られて、下呂温泉に軟禁されていた筈です。にも拘わらず柊元の不意を突いて小屋に現れた。必ず手引きをした者がいますよね」

「いるね!」蓮が元気に答える。

「また、一体如何して一郎は、久万組に預けられて、こんな処に隠遁することになっていたのか? 宇佐組の方にも、久万組の方にも、何某かの理由がありそうです。吾郎と儀助の仲が良いと云う以上に、何かもっと決定的な理由が無ければ、中々こゝ迄のことにはならないと思うんですよね」

「ふうん。なんだろ。貸しがあるとか、借りがあるとか、そう云うやつ?」

「そうかも知れませんし、もっと具体的で即物的な理由な気もします。何しろそこは未だ解らないのです。そしてもっと根本的な話なのですが、なぜ健介が狙われたのか。誠司にしろ一郎にしろ、どうして健介を手に掛ける必要があったのか」

「父さんそれは、俺の所為だ」

神田は達也を振り返る。達也の横では彩が、唇を噛んで堪えている。未だ傷は癒え切っていないか……然し最低限の説明はしておかねばならない。

〈ユウキ君、彩さんの動揺に注意しておいてください。出来るだけ平穏でいられるようにサポートを〉

神田からの突然のテレパス指示に、ユウキは鳥渡驚いた顔をしていたが、直ぐに〈諒解りました。任せてください〉と返って来た。

神田は小さく深呼吸をしてから、稍トーンを落として続けた。

「そうとも云い切れないかも知れない。健介を手に掛ける云い訳の為に、お前が(えら)ばれたのかも知れない」

「それじゃ逆じゃん!」蓮が叫ぶ。

「そう、逆かも知れない。何しろそれを云ったら、達也が択ばれる理由だってないんですよ。縦んば達也をターゲットとする理由があったとして、達也を手懐ける為に健介を? なんだか理由として弱い気がするんですよ。それこそ私や、私の妻――詰まり達也の母だって良かった訳だ。否寧ろそっちでしょう。父に反発しているなら母を狙う、これなら凄く納得いきます。健介は如何せん、遠過ぎる……これが逆であったなら、健介を屠る云い訳として達也を引っ張って来ると云うのであるなら、健介は交友関係も狭かった様ですし、可成納得感が高まります。――いずれにしても未だ推測の域を出ませんが。――そして、坂上と久万組の間に何があったのか」

「それは神田っちが前に説明してくれたじゃん。組長に怪我させたから、追われていたんでしょう?」

「それはもっと前の話ですよ。その後坂上は甲府で逮捕されてますし、そこから逃げ出した後は何年か大人しくしていて、ほとぼりも冷め掛けていたのです。それなのに、あの日突然、久万組はヒットマン迄放つ程の勢いで坂上を追い詰めています」

「じゃあ……凡てはその時何があったか、それに尽きるってこと?」

「推測の域を出ませんけどね」

「神田っち先刻から、推測推測ゆうとるけどな、そんな自信無いなら確認すればえゝ話やないの。それこそうちらの仕事やん。うちと知佳ちゃんだけでもそこそこ遣れるわ」

団子を嚥下した都子が多少苛付きながら口を挟む。

「あたしはぁ?」

都子が名前を挙げてくれなかったので、蓮が少し拗ねている。

「んあ? 蓮ちゃんいてゝもえゝけど……仕事あるかな……まあこの二人はペアで()っといてくれとった方がえゝか」

「その程度かぁ……」蓮はしょげて仕舞った。

「まあ……そうなのかも知れませんが、それを云うならの坂上事件では、僕も当事者なのです。然しその当時、そこの所は余りフォーカスされていなかったんですよね。何しろ抗争になり掛けていたのでそれを収めるのが第一で、それも坂上の死と共に劇的に終焉を迎えて仕舞ったので――」こゝで神田は再び、彩の方を少し気にしたが、彩は真剣な表情で神田の話に聞き入っている様で、特に動揺等は見られなかった。「まあ結局、なんで揉めていたのか、その原因の所は有耶無耶(うやむや)の儘放置されて仕舞ったのです」

「まあ警察の仕事は、対症療法やから、しゃあない」

何故かこゝで、ユウキがピンと来た様な顔をして、声を挙げた。

「そうか! 神田さんの昔の仕事って、刑事さんか!」

皆は一斉にユウキを見た。

「君は今頃、何をゆうとるのかな?」都子が覗き込むと、ユウキは赤面して顔を背けた。

「だっ、だって、コーアンノケージとか、コーアンとしか聞いてなかったから」

「公安の、刑事ゆうとるやん」

「いやだから、コーアン・ノケージっていうものだと思ってゝ……コーアンはその略語か何かかと……」

都子はゲラゲラ笑いだした。「ノケージってなんじゃい! それ何処の言葉やねん! ポルトガルか! それはノゲイラ!」

「ユウ君小さいんだから、笑っちゃ悪いよぉ」知佳がユウキを擁護する。

「せやな、悪い悪い、せやけどユウキ、オトンから何も聞いとらへんのンかいな」

「父さんは昔の話殆どしてくれない……」

「はぁん……なんや後ろ暗いことでもありよるな?」

「彼の父親もこゝ迄の話に出て来てますけどね。僕のバディでしたから。――まあ語りたがらないのは、色々やんちゃな過去がバレるのが怖いのでしょう」

「プレイボーイやったもんな?」

「とっ、父さんの話は好いよ……話の腰折っちゃって御免なさい……続けて……」

ユウキは微妙な表情でそう云うと、体を縮こまらせて仕舞った。

「ええと……」神田が場を仕切り直す様に、「そんな訳で、この状況を整理するプロをお呼びしたいのですが、その前に、その人への繋ぎとして――」

「そうか、俺は繋ぎなのか」

突然食卓の方から声がしたので、全員其方へ振り返った。其処には佐々本部長が一人座って、がははと笑っている。

「シン、おまえ上司の扱いがぞんざいだぞ!」

「いやいや、丁重にお迎えした心算ですが……」

佐々本は席を立つと、亜空間の中へと入って来た。

「今更だが、俺がこの部隊を擁する、特殊対策部の部長、佐々本繁だ! ――其方の二人のお嬢さんは、お初になりますな。以後宜しく!」

蓮と知佳は、稍たじろぎながらも頭をぺこりと下げた。

「おっちゃん、ほんな、江田島平八みたいな挨拶えゝので。どっか座ったって下さいや。圧が強ぅて落ち着かん」

流石は都子、佐々本に対してもペースを崩さず、この対応である。

「江田島平八ってなんだ?」

「何かそんなマンガや。気にしんくてえゝです」

佐々本が云われる儘ソファの空き席に腰を下ろすと、何か話し出そうとする神田を抑えて、都子が一言、「ほんで腹減ったんやけど」と云った。

時刻は夕方の六時を回っていた。

「ミヤちゃん、おやついっぱい食べてたじゃん」

蓮が指摘する。確かに都子は、頻繁に食堂へ行っては、何か摘める様なもの――パンとか、ドーナツとか、アラレやら煎餅やら団子やら、そうしたものを調達して来ては、ずっと食べていた様なイメージがある。

「足らん足らん。あんなもんでは。(なん)しろずっとワープしっぱなしやねん。腹減って腹減って敵わん」

「食堂のワープ切れば?」

「そんなんしたら、食いもんどないすんねん!」

「えゝ……でもその所為でおなか減ってるんじゃあ……」

「それだけやないねん、このジオラマかて、この亜空間維持するだけでも、そこそこ体力気力使(つこ)とんねんど!」

「そうなんだ……じゃあせめて、食堂のワープ、三面じゃなくて一面にしたら……」

「そらそうや! 君は賢い!」

「え……えへへ」

結局蓮は褒められて赤面し、機嫌も持ち直している。都子も何処迄本気で何処迄演出なのか。食堂との接続は一面のみとなり、程なくしてその食堂に食事が用意された。既に八人掛けテーブルでは足りなくなっている為、区切りのロープは拡張されて、六人掛けテーブル二卓に並べ替えられている。

「都子さんの求めもあったことですし、夕食を用意しましたので、皆さんどうぞ――あ、都子さんはこの席で」

皆は銘々歓声を挙げながら席に着く。

「ほんでなんでうちだけ指定席やねん」

「特別待遇ですから」

神田が笑いながら云う。

都子の席には、矢張り二人前程の分量が出されている。

「――まあ、えゝわい」

都子は最早突っ込むことを諦めた様だ。

食事中もジオラマは関係者達を追い掛けている。それぞれに好き勝手な方向へ移動するので、縮尺は小さくなり、人の姿も米粒程になっている。然し誰一人として、下呂から出て行きそうな気配はない。未だ下呂で何かしようとしているのか。

食堂では都子が物凄い勢いでとんかつ定食二人前を掻き込んでおり、ユウキがその様にすっかり当てられて仕舞って、箸が進まなくなっている。

「こらユウキ、ぼっとしとらんと、とっとと食って仕舞いよ。未だ先は長いど」

「都子さん……僕もう、お腹いっぱい、かも……」

「なんやあ、男の子がぁ、だらしない!」

「いや、でも都子さん、ユウくん可成おやつ食べてたし」

知佳の助け舟に、ユウキの顔がぱっと明るくなる。

「あぁん? 何でご飯前にお菓子食うてまうねん。お菓子よりご飯食わな。背ぇ伸びひんど」

「ミヤちゃんが沢山おやつ持ち込むから」

蓮もユウキに加勢する。

「何やと、あれはうちの補給物資やん。勝手に摘みなや」

「ミヤちゃん、ひど!」

「まあ、食うてもぉたもんはしゃあない。そのおかず食わんのやったら、うち、もぉたるで」

「あ、はい、どぞ」とユウキが云い終わらない内に、都子は皿を持って行って仕舞った。「あ、でもプチトマトだけ……」と云い掛けたが、時既に遅し、皿は綺麗になって返って来た。

しょんぼりするユウキに、知佳が「あたしの、あげるよ」と云って、自分の皿からユウキの茶碗に、トマトを一つ譲ってくれた。知佳の箸でトマトが運ばれて来たので、なんだかユウキはドギマギして仕舞った。そんな気持ちを隠す様にトマトを直ぐ頬張ると、「おいひぃ、ありあとぉ」と云う。なんだか蓮がニヤニヤと笑っていた。

そんな感じで和気藹々と食事をしていて、誰もジオラマを見ていないのだが、同時にクラウンの幻影スクリーンでも双子以外を追っているので、見失うことはない。幻影スクリーンの映像は、クラウンの知覚を出力した物なので、此方は誰も見ていなかったとしても、クラウンだけは常に全てを把握している。何かあれば必ずクラウンが気付くと云う訳だ。

「扠皆さん、食事も終わった様ですので、一旦亜空間に戻りますね――都子さん、食料沢山持ち込んでおいて好いので、全員入ったら一旦此処との接続も切ってください」

「しゃあないなぁ……足りんくなったら、蓮ちゃん頼むで」

「任せて!」

如何やら蓮に、食料の転送をさせる心算の様だ。蓮は蓮で、都子に特命を貰ってほくほくしている。なんだかなぁと、知佳は発声せずに口だけ動かして云った。

全員がソファに戻って来ると、改めて神田は佐々本を紹介した。

「先程もご本人から自己紹介がありましたが、この部隊のずっと上の方にお()します、佐々本部長です。彼は公安時代からの私の上司でもあります。公安時代は第零課一係の係長でした。一係以外の係は有りませんでしたし、課長は略名前だけの存在だったのと、警察庁警備局の――」

「そんな無駄知識は要らんから、要点を云えよ」

佐々本本人から野次が飛んで来た。

「諒解りました。佐々本部長にも所轄時代と云うものがあった様でして、まあ所謂キャリア組と呼ばれる方々も若い内は所轄を経験するものなのですが、或る時佐々本部長が出向したと或る所轄に佐々木と云うベテラン刑事がいて、この刑事と結構ぶつかったりしながらも打ち解け合って仲良くなった様なんですね。なんかの刑事ドラマの様ですが、そうなんだから仕様がないです。で、その佐々木敬太郎さんは程なく刑事を辞めて探偵業を開業する訳ですが――」

「うちの所長ですか!?

突然彩が裏返った声で叫んだ。

「はいそうです。その佐々――」

「あわわわ、あの人そんな偉い人だったんだ!」

「偉くは無いわ。所轄の一刑事で終わったよ。階級的には、巡査部長止まりかな?」

佐々本が突っ込みを入れて、彩の盛り上がりに水を差した。

「まあでも、俺と彼とは苗字が二文字目迄同じでな。佐々本と佐々木で、船橋の佐々(さっさ )コンビなんて呼ばれたもんだ。恐れ多い渾名(あだな )だよ」

「何が恐れ多いの?」蓮が不思議そうに訊く。

「警察で佐々と云えば、佐々(さっさ )淳行(あつゆき)大先輩だ。伝説だよ。あさま山荘事件なんかの時には警備局監察官で、警備実施と広報担当の幕僚長を担当されておられた、警察庁警備局の大巨人だ。退官されてからは本を書かれたり、論説員等でテレビなんかにも出ておられたから、見たことある奴もいるんじゃないか? 兎に角そんなお方の名前を(もじ)って渾名に付けられた方の身にもなってくれ。冷や汗しか出んわい」

「ほぉ、佐々本のおっちゃんにもそんな風になってまう相手がおるんやなぁ」

と呼ぶも烏滸(おこ)がましい。直接お会いしたことなどないし、俺など足元にも及ばん方だわい」

こゝで神田が両手を広げて話題の軌道修正をする。

「まあそんな訳で、佐々本部長の盟友、佐々木さんに此処へお出で頂いて、話を聞いてみたいと、こう思ってですね、佐々本部長に繋ぎを頼んでいたのですよ」

「えぇー、此処に所長呼ぶんですか……」

彩が微妙な顔をする。

「不可ませんか? 何か不都合があるでしょうか」

「うーん、不都合はないけど……何と云いますか……」

「彩ちゃん上司が苦手なタイプか」

都子の指摘を、彩は首を振って否定する。

「そうじゃないんだ、所長は気さくな人であたしも好きなんだけど、ただ……こう云うことしてるってのは……」

「秘密なん? あ、勝手に暴走しとるんか」

「えへ……うんまあ……」

「心配には及びませんよ」神田が明るく告げる。「彩さんの行動は一から十迄、上から下迄、徹頭徹尾丸っきり、筒抜けですから」

「ぎゃあ! なんで!」

「多分彼処(あそこ)の主任探偵さんが優秀なんですよ。主任も何も、一人しかいないですけどね。所長と、探偵と、彩さんの三人所帯ですよね」

「げろげろ、何でそんなに詳しいの……あたしの苦労は一体……」

「まあ、先刻云った通り部長の朋輩の探偵事務所ですし。この業界、色々なところに大小様々なパイプが通っているんですよ。そう云うのは教えて貰ってないんですか?」

「あたし……一応唯の事務員の契約なんで……」

「吁、そう云えばそうでした」

「……もぉ、判りました。どうせ後で怒られるなら一緒です。所長呼んで頂いても大丈夫です……」

彩は項垂れながら、佐々木所長の召喚に合意した。

「ありがとうございます。では佐々本部長、今佐々木さんが何処にいるかご存知ですか?」

「スナック『コスモス』だな」

「えっ、何で?」神田と彩が同時に声を挙げた。

「コスモスって、あの……坂上が最後に立ち寄っていた」

「そうなんですか? うちのお母さんの昔の職場なんですけど!」

「ああ、そうですよね……でもなんでそんなところに、佐々木さんが?」

「そんなことは俺も知らんよ。何かの調査だろ。兎に角そこにいるって云ってたぞ」

佐々本がそう云うので、神田は取り敢えず都子に場所を告げて、繋いで貰った。何もない所が突然四角く切り取られ、その向こう側にぼんやりとしたバーカウンターの様な物が見えた。電球色の様な照明の中で、年配の女性がカウンターに突っ伏して寝ており、その(はす)向かい位に白髪の小柄な老人が座っている。

「あれれ! 洋子さん寝てるの?」

彩が声を挙げると、老人が寛悠と振り返った。

「おう、事務員じゃないか。――なんだそれは? 一体どうなってる」

「所長! あっ、あの、これはその……」

佐々木は眼を細めて、狼狽える彩の肩越しに奥の方を見遣ると、相好を崩した。

「おお、佐々本さんもおいででしたか! これは何かな? おたくの隊員の特殊能力とか云う奴か。一体如何云う仕組みなのかな?」

「仕組みなんか俺に訊くな。そう云う蘊蓄(うんちく)は、この神田真一郎の方が得意だと思うから、そっちに聞いてくれ」

佐々本はそう云って神田を押し出すが、佐々木は小さく手を振ると、「(いや)、否、どうせ聞いても解らん。何でも好いですわい」と云った。

「さて――と云うことはお呼びが掛かったと云うことなんだろうが」

そう云って佐々木は、店の奥のソファ席に目を遣った。そこでは田村が、目を丸くして亜空間の入り口を凝視している。

「ああ、田村君、この店の事、任せて仕舞って好いかな? まあ代金は先払いしてあるから、適当に飲んでいて構わんと思うよ。ママが目を覚ましたら、適当に説明しておいてくれ」

田村は目が覚めた様に佐々木を見ると、ぴょんと立ち上がり、「ま、待って下さい、何事ですかこれは! 菊池さん、菊池さんも其処に居るのか? この四角い入口は――どこでもドアの様なことですか?」

こゝ迄の遣り取りをうんざりした顔で聞いていた都子が、面倒臭そうに口を出す。「空間繋いどるだけやん。何奴(どいつ)此奴(こいつ)も、何をほんなぐちゃぐちゃ狼狽えとるねん。うちらのいる此処は亜空間で、君らのいるそっちはスナックで。二つの空間をちょいと繋いでみただけやし、そない大したことではない。探偵ならそンくらい予習しとけや。――それよりアレや、なんか食うもんあったら有り難いねんけど」

佐々木は一瞬目を剥き、次いで大笑いを始めた。

「うわははは、なかなか好い性格しとるな、そこのお姉さんは! そうか、空間をね。大したことではない、か! いやいや参ったな。――食うもんね。――食うもん、食うもん」

そう云いながら佐々木はカウンターの中へ入って行き、彼方此方物色を始める。

「あー! 所長駄目ですよ! 洋子さんのお店荒らしちゃあ!」

思わず彩が声を挙げるので、佐々木は愉しそうに、「うちの事務員も負けてないな。うん、別に荒らしてはおらんぞ。――なぁ、洋子ママ、何か乾きものとか欲しいんだが」と、潰れている洋子に声を掛ける。

洋子はううんと唸って少し姿勢を変えると、「そこの棚の中に……ナッツとか、スルメとか……」と云いながら戸棚を指差すと、また直ぐに腕を下ろして眠って仕舞う。

「ああ、これかな? ええと、皿は……」

近くに在った適当な皿に、佐々木はナッツやらイカの燻製やらをざらざらと明けると、それを持って亜空間に入って来た。

「ほれ、食うもんだ。こんなんで良かったかな?」

「おお! 十分や! ありがとう、髭所長!」

都子は皿を受け取ると、ソファへ持って行ってぼりぼりと食べ始めた。佐々木は田村を振り返り、「それでは後はよろしく」と声を掛ける。

「佐々木さん、ちょっと待って下さいよ」

「ママの世話と、若しお客が来たら接客も頼むぞ。呉々(くれぐれ)も、追い返したりせんようにな!」

「そんな、無理ですよ!」

「これも仕事の内だ、確りな!」

そう云って佐々木は田村に背を向けた。亜空間の入り口が消えると、田村はがらんとしたスナックの真ん中に、ポツンと一人立ち尽くす格好となって仕舞った。

「まあ、気になるなら此処で見とき」

都子が指し示す先には、スナック「コスモス」の店全体が見渡せるジオラマがある。

「ほう? これは?」

佐々木が興味深げにジオラマに見入っている。都子や神田が説明をすると、佐々木は直ぐに状況を理解し、この場の環境にも直ぐに順応して仕舞った。

「なかなか便利な設備が整っとるのぉ。ええと、其方のお姉さんは――」

「天現寺都子です。以後宜しゅう」

「おお、これはご丁寧に。佐々木敬太郎です。この空間も、このジオラマも、天現寺さんの能力なのかな。中々素敵な能力ですな!」

「都子でえゝです。苗字は呼ばれ慣れん」

「そうですか、では都子さん、うちで働いてみる気はないかな?」

「はぁ?」

「あー、こらこら、佐々木さん、それは無いぞ! 都子はうちのエースなんだから!」

奥から佐々本が大声で苦情を云って来る。

「いやいや、兼業で構わんのですよ。其方の警備の仕事に差し支えん範囲で」

「はぁ、待遇次第やな。ゆうてうち、大学生やからな。試験期間とかはあかんで」

「ほぉ、そうでしたか! うん? そうするとうちの事務員と齢近いのかな? うちの菊池君は、確か短大卒で二年目だったよな」

「はい! 都子さんとはタメです!」

彩が元気に答える。

「おおそうでしたか! そうすると今年四年生ですか」

「一浪やねん。三年生や」

「それなら時間の余裕は有る方ですかな。是非是非、うちの非常勤探偵として」

「なんや、人気出て来たなぁ。多少吹っ掛けてもイケそうやな」

「おっと……そうですか……うん、スポットでの業務と云う形でも」

都子はけらけら笑った「急に腰退けんなや! そんなべらぼうな金額要求せんので、安心しといて。まあ、後で相談と云うことで!」

「都子さんすっかり売り手市場ですね。余り阿漕(あこぎ)な商売は為されません様に」

神田が苦笑しながら助言すると、都子は心外だと云う顔をして、「神田っち非道いこと云いないな! うちは悪徳業者とちゃうし! 安心安全、良心価格でご提供や!」

「なんか胡散くさぁい」

蓮迄がそんなことを云う。

「おお、蓮ちゃんに云われるとショックやわ。そんなんちゃうねんで、ほんまに。信じて」

「うん、わかった。信じる!」

「蓮たら単純」

横で知佳が呆れている。

「佐々木さん、そうした話はまた後程、個別にして頂くとして、本日お呼びしたのはですね」

神田がそう横槍を入れると、佐々木はニコニコと笑って、「ああ、これは失敬。諒解ってますよ。何しろ先ず、お話しお聞きしましょうか」と云いながら、下呂ジオラマを正面に見据える位置に腰を下ろした。

森 四

寂れた公衆浴場で、良く似た風貌の男が二人、並んで湯に浸かっている。顔も髪型も背格好も肉付きも、非常によく似ているのだが、唯一決定的な違いがある。一方には派手な刺青が肩から背中全体へと入れられているが、もう一人は全く墨の痕も無く、綺麗な肌をしている。

「お前は真面目に俺の真似をする気があるのか」

「すっ、すびばしぇん……」

「あのな、俺みたいな稼業は、一目でそれと知れたらいかんのよ。一般人、堅気の顔してターゲットに忍び寄れなくちゃ、仕損じる仕事だってある」

「は、はいぃぃ」

「だからよ、紋々(もんもん)なんか背負(しょ)ってる場合じゃないのよ。覚悟だか箔だか知らんがよ、俺の仕事はそう云うレベルで張り合うものじゃないからよ」

「はぃぃ、す、すびばしぇん」

「まぁ、入れちまったもんは仕方ねぇし、お前は物真似だからそんな理屈は解らんかも知らんがな、然しこれはなぁ……如何も遣り難いわなぁ……温泉だってよ、大抵の処はそれで断られるじゃねぇか。こぉんなおんぼろ浴場ぐらいしか入れて貰えねぇのも気に食わねぇ」

「すびばしぇえん……」

「お前は先刻からそればっかりだな。好い加減違う返答したら如何なんだ」

「ひぇぇ、すびば……あの、ええと……ごめ、ごめんなひゃい」

「そう云うことじゃねぇよ!」

「ひいぃぃ、すびばしぇえん!」

「まぁ、人前で肩や背中出すことも無いか……出すんじゃねぇぞ! そこさえ気を付けてりゃぁ……」

「出しましぇん、出しましぇえん! 頼まれたって出しゃしましぇん!」

「厚めの白い、肩迄ある襯衣(シャツ)着ておけよ! 絶対その彫りモン、他人(ひと)に見付かるんじゃねぇぞ」

「はぃぃい! ぜぜ絶対に!」

肌の綺麗な山田一郎は、(しか)めっ面の儘、「こんな奴に頼らなくちゃならねぇとはなぁ」と呟くと、肩迄湯の中へと沈み込んだ。

その頃山の中では、小屋の解体が進められていた。何人かの人足の様な者達が、屋根を剥がしたり、家具を運び出したり、配線を撤去したりしている。その監督をしているのは、中川春樹である。解体、撤去した部材は、更に山の奥へ向かって運ばれて行く様である。人の手を介さず、如何やら春樹が念動力で、一つずつ運んでいる。少しだけ山奥へと入った辺りに、稍拓けた場所が在る様で、其処へ向けて運ばれて行っている。

「更に山奥に隠れ家を遷しとるんかなあ」

ジオラマを睨みながら、都子が呟いている。右腕は胴に巻き付け、左の肘を右手に当てゝ、左手は口許を覆う様にしている。

「何処へ行こうとも、都子さんが確り見届けとるんやけどな。ご苦労様なことや」

そして視線を町中へと移す。丁度古びた公衆浴場から、二人の一郎が出てくるところだった。二人揃って出て来た訳ではなく、先ず一人が悠然と胸を張って出て来ると、その儘振り返りもせず町中へと紛れて行く。その後二人目が、稍周囲に視線を巡らせながら、一人目とは別の方角へと歩いてゆく。

「最初のが本物やろ」

クラウンが横から、得意気に云う。

「あたし判りますよ」

知佳が正解を云おうとするのを都子が止めた。

「ちょい待ち。当てるから。――そうやなぁ」

「せやから一人目やて」

「顎兄黙っといて」

クラウンは不満気にしながら、それでも口を噤んだ。

「あたしは後の人!」

蓮も横から参加してくる。

「ほう、その心は?」

「クラちゃんの逆!」

都子はケラケラと笑った。クラウンは増々ムスッとした顔をする。

「ユウキはどう思う?」

都子はユウキに顔を向ける。

「ええ、よく判んないけど、……一人目かなあ。なんか堂々としてた」

「うんうん、それはそうやねんな。彩ちゃんは?」

「あ、あたし!?」突然水を向けられた彩は、一瞬慌てた後に、「あたしは二人目。一人目は堂々とし過ぎ。なんか態とらしい」と、自信有り気に答えた。

「そう、それもほんまそうやねん」

「えへへ、探偵見習いなので!」

得意気に胸を張る彩を、佐々木は凝と見詰めている。彩はその視線に気付くと、首を竦めて小さくなった。

「事務員なんだがな。まあ、良い眼はしておるわ」

想定外の褒め言葉に、彩は一瞬キョトンとした後、頬を真っ赤に染めた。

「彩ちゃんは感情が直ぐ顔に出よるん。可愛いねんけど、探偵としては考えもんやな」

「えええ、褒められてから落とされた!」

二人の遣り取りに佐々木はニコニコしながら、「別に顔に出て悪いと云うこともないわい。探偵は他人(ひと)との交渉も大事だからな。こう云う娘がするりと懐に入って来ると、人は中々拒絶出来んのだよ」

「ほほぉ、成程。彩ちゃんも使い様やな」

「もおお、所長も都子さんも、褒めたり下げたりし過ぎです! 都子さんは他人のこと、ハサミみたいに云わないで!」

相変わらず真っ赤な顔で、彩は二人に抗議した。佐々木は依然としてニコニコと、そして都子はケラケラと笑っている。

「それで都子さんはどっちなんです!? 他人にばかり訊いてないで、自分の意見も云ってよぉ!」

「ああ、うちは七対三(なゝさん)で後者かなあ思っとったけど、皆の意見聞いて九対一(きゅういち)で後者んなったわ。基本あの手の人間、ビクビク警戒しながら生活しとるもんや思うし。風呂屋から出た時に周りに気ぃ配っとったんは、後者やもんな」

「都子さん正解です」

知佳が都子を支持した。

「まじかあ! わし見る目ないなぁ」

クラウンが落ち込んでいる。

「顎兄は夢だけ見さしといたらえゝねん」

「都子! 云い方!」

「あー、うっさい。夢見さしたら一流やねんから、そんでえゝやんけ。高望みしなや」

「ま、まあな、一流やけど……」

何だかクラウンは、巧いこと云い包められて仕舞った様である。如何にも役者の格が違う。

「大体顎兄、各個人ロックオンして監視しとるんちゃうんかいな。何で本物見失うねん」

「そない常に全員に気ぃ張って見てられへんて。シャッフルされたら何方(どっち)が何方か解らんくなるやん」

「頼んな!」

「でもミヤちゃん、最初からクラちゃんが見失ってる前提で、全然信用してなかったじゃん」

「そらな。日頃の行いやん」

復しても蓮と都子に打ちのめされて、クラウンは本日何度目かのいじけモードに突入したが、直ぐに顔を上げて、「なんや、集まって来よる」と呟いた。

クラウンの独り言を受けて、都子達もジオラマで確認する。久万会長と秋菜が住宅の合間を抜けて、小さな神社の社務所へと裏手から入って行った。別の方角から物真似の柊元と、宇佐組長も別々に其処へ向かって来る。少し遅れて、何処からか柚口も現れた。一郎は可成遠い処を歩いているが、確実にその神社へと向かっている様に思われた。

「山ン中は止めたんかな。まあ、鳥渡場所遷したぐらいじゃあ、直ぐバレよるもんなぁ」

「じゃあなんで、小屋の位置遷したりしてるんだろう?」

蓮が不思議そうに疑問を呈する。

「若しかしたら罠でも張っている心算なのかも知れませんね」

神田が思案しながら、私見を述べた。

柊元は正面の鳥居を潜って、宇佐会長は矢張り裏手から、その神社の社務所へと吸い込まれて行く。稍遅れて柚口も正面に到着した。都子はジオラマ空間の拡大をしつゝ、接続範囲の高さを低く取ることで屋根を監視対象から除外し、社務所内部を一目で見渡せる様にした。

「んー。何処行きよった」

平屋建ての社務所内には、殆ど人の姿が無かった。都子は玄関脇の物置の様な部屋で、不審な動作をしている宮司に目を付ける。何やら屈み込んだ姿勢から、大儀そうに腰に手を当てゝ伸びなどしている。

「爺さん何しよった」

都子はそう呟きながら、監視空間の範囲を下げて地下に移すと、其処には広い空間が出現した。二十畳程の大広間の様である。物置の直下に当たる処には、細い階段があった。

「隠し階段に隠し部屋か。んなもんで都子さんを誤魔化せると思いなや!」

「なんか凄い! 冒険映画みたい!」

「ワクワクして来るよね!」

彩と蓮が燥いでいる。

大広間の最奥、上座には、掛け軸を背にした久万会長が鎮座している。その脇には秋菜が控えている。会長の右手側正面には宇佐組長が横を向いて座り、大分離れた処に柊元と柚口が行儀良く正座している。左手側正面には稍距離を置いて水木が、宇佐組長の方を向いて座っている。そう云えば水木が此処へ入るところを見ていないが、大分前から此処で待機していたのかも知れない。

「気に食わんなぁ。久万ちゃんが殿様で、俺がその家臣みたいじゃねぇか」

「正面に来いよ。そんな(はす)に構えるから、なんか大名みたいになっちまうんだよ」

会長と組長はそんなことを云い合っているが、表情は穏やかなものである。水木は全く無表情で二人の様子を見ているし、秋菜も眉一つ動かさずに、凝と控えている。柚口は緊張した面持ちでカチンコチンに固まっている。柊元だけがなんだか落ち着かぬ様で、始終もじもじと体勢を変えたりしている。

そんな大広間の様子を眺めながら、神田が呟く様に悠然と声を挙げる。

「佐々木さん、先刻の話ですけどね」

「まあ神田さんよ、そう慌てるもんではない。必ず此奴らはその話題になる。よく注意して聞いておくことだ」

「諒解りました」

その直後、もじもじしていた柊元が耐え切れなくなった様で、身を乗り出して宇佐組長に訴え掛ける。

「一郎さん遅いっすね。――組長、一郎さん此処へ来るんですよね?」

「イチにはイチの事情があるんだ。黙って静かに待てねぇか」

「はっ、はいぃぃ、すすすびばしぇん……」

久万会長が目を細めて柊元を見遣る。

「あいつ本当に大丈夫かね。初日に逢った時にはもっとギンギンに尖っておったがな。本人に一回逢っただけですっかり腑抜けじゃねぇか」

「もともと胆のちぃせぇ野郎なんだよ。小さいなりに虚勢張ってやがったんだがな、一回空砲撃たれた位で腰砕けちまいやがって。虚勢の張り方も忘れちまった様だな」

宇佐組長が情けない顔で柊元を睨み付けながら、詫びる様に云った。

「撃たれる迄は中々気合の入った方と思いましたがね」

水木迄がそんな言葉を添える。

「ひぇえ、すびばしぇん、なななんとか頑張りますので、その、お許しを」

「ああ、今更お前さんには大して期待しとらんから、気にするな」

組長は冷徹に云い放った。柊元はこの世の終わりの様な顔をする。

「ほら、あんまり虐めたら此奴ゴミんなんぞ。もう少し優しくしてやれよ」

「あぁもぉ、めんどくせぇ」

「あと一ト踏ん張りだろう」

「踏ん張れるならな」

柊元は組長と会長の顔を交互に見ながら、青い顔をして心做し震えている。其処へ最後の登場人物が、悠然と敷居を跨いで入って来た。

「おぅ、イチ! 仕込みは終わったのか」

「へぃ、まあ何とか、と云った感じですが」

「ししし仕込み?」柊元が今度は一郎と組長を交互に見ている。

「おめぇは知らなくて好いんだよ」

宇佐組長が面倒臭そうに突き放す。

「仕込みってなんや。顎兄、此奴なんかしとったん?」

彼等の会話を聞きながら、都子がクラウンに確認をする。

「うーん、なんやよぉ判らへんねんなぁ……」

「ちゃんと監視しとったか?」

「うんまぁ……ぼちぼちと……」

「おぉ、顎兄、勘弁してや。録画見返して確認しときよ」

「おぉ……」

クラウンは云われる儘、一郎の幻影スクリーンを巻き戻して、行動の確認を始める。その間も地下大広間の会話は進展してゆく。

「それにしても、もう半年以上か。面白い奴だったけどな」

一郎が感慨深げにぼそりと呟く。

「如何したイチ。感傷に浸るなんざぁ、お前らしくもないな」

「そう云う訳ではないんですけどね。まあ、色々とばっちりなんかもありましてね」

「倅だったけか?」

「いやいや、そんなんじゃねぇです。まあ何の因果か、赤ん坊から育てゝは来ましたけどね。ありゃあ拾い児です」

「ほぉ、そうだったのか」

「ええ、そうだったんだ!」

宇佐組長と略同時に、亜空間で彩が叫んだ。

「なんやぁ、探偵見習の調査力は、未だ未だやな」

「そんなぁ。滅茶苦茶色々調べまくったのに……」

彩は明白にがっかりしている。その横で佐々木がわははと笑った。

「まあ事務員にしてはよくやったんじゃないか? 親子かも、なんてところ迄行っただけでも今回は十分だろうよ。然し如何遣ってそこ迄調べたのかな、俺はそっちの方が気になるわい」

「えー、ネットの掲示板とか、色々辿ったりして……」

「あぁ、それは不可(いか)ん。そんなんで調査なんて云っちゃあ駄目だ。ちゃんと生の声を拾わんとな。ネットの書き込みとか、役所の記録とか、余り当てにはならんのだよ。戸籍の無い者もこの国には未だ未だいる。戸籍が嘘なことも普通にある。基本的には、届けたまんま反映されているだけだからな、あれは」

「そんなぁ……じゃあどうすればこの正解に辿り着けたんですか」

「一郎に訊くしかないだろうな。今の今迄俺だって知らなかったことだ。宇佐組長も知らなかったことだ。一郎以外で知っているとしたら、一郎の縁者位だろうが、それだって絶対ではないからなぁ」

「そんなの無理です!」

「無理ではないぞ。今こうして判明しただろう」

「だってこれは、都子さんの御蔭で……」

「誰の御蔭とかは如何でも好いんだ。結果が凡てだ。今こうして一郎と誠治の関係性が判明したのだから、過去の勘違いをくよくよ思い悩んだって仕方なかろうよ。前を向きなさい」

「――はい」

彩は素直にそう返事をすると、叱られた後の子供の様に小さく身を縮めて、大人しくなって仕舞った。

「なんだ、結局探偵として教育してるんだな」

佐々本が遠くから茶々を入れる。佐々本は先刻から、ジオラマを囲むソファには座っておらず、食堂から持ち込んだ様な簡易な椅子に座って、稍遠巻きに見ている。もう少し椅子が高ければ、プールの監視員の様になりそうだ。

「いやぁ、そう云う訳ではないんだが……如何も見ていると口を出したくなりますな。伸び(しろ)があるので、教えていて張り合いがありますわい」

佐々木が愉しそうにそんなことを云うと、彩の顔は復しても紅く染まった。そんな彩を達也が目を細めて見ている。そしてそんな達也を都子が、うんざりした顔で見ている。

「皆さん若くて宜しいな」

都子がそんなことを呟くのを、蓮が耳聡く聞き咎め、「ミヤちゃんだって未だ未だ二十一でしょ!」とフォローすると、都子は蓮の頭をくしゃくしゃと撫でて、「君はえゝ子やなぁ」と云うので、今度は蓮が真っ赤になる番だった。

「ほら、みんな! ちゃんと見ておかないと!」

真っ赤になった蓮が、照れ隠しの様にジオラマを指して、大声で軌道修正する。地下大広間では、未だ一郎と誠治の話題が続いていた。殆ど宇佐組長と一郎が、二人で話している。

「まあ、色々あったってなぁ解ったけどよ、その、何処で如何して拾って来たんだ、赤ん坊なんか」

「仕事してっと色々あるんですよ。飽く迄仕事なんでね、依頼されてねぇバラしはしませんや」

「そうすると、ターゲットの?」

「浮気だか横領だか、要らねぇ秘密聞いちまったのかなんか知らんですが、銀座のホステスかなんかでしたわ。まあ依頼者は、赤子がいるたぁ思ってなかったんでしょうな。押し付けて遣りたかったですが、その時には依頼者も如何やら別口で()られてた様で……前金だったから良かったんですが、赤子は如何仕様もなくって」

「殺伐とした話に赤児はそぐわねぇなぁ。何と云うか、イチ、おめぇにもそぐわねぇよ」

「それは俺も思ってましたよ」一郎は稍自嘲気味に笑った。「仕事の邪魔にもなるし、あの頃は一時的に休業状態にならざるを得ませんでしたね」

「孤児院かなんかに押し付けりゃあ良かったんだ」

「そうですよねぇ……なんか、興味湧いちゃったんですかね。何しろ、一人前の殺し屋に仕立てゝ遣ろうって、そればっかり思ってましたね」

「殺し屋にはならなかったな」

「そう。あいつは殺しには向かなかった。その代わり矢鱈よく喋るし、人懐っこいんで、間諜にしてみたってところです。否、勝手になったんですが」

「間諜とは、語感が古いな」宇佐組長はうははと笑った。「中々の国際スパイに育った様じゃねぇか」

「まあ鳥渡、上手く行き過ぎたと云うか、天狗になって危ない橋渡り掛けてたんで」

「ん? 若しかしてイチ」

「俺は何もしてねぇですよ。――いや、何も、ではないか。否それでも、殺ってはねぇです」

「爆死したってな?」

「小せぇプラスチック爆弾ですよ。まあ、怪我位はするかなたぁ思ってましたけどね。あんなもん懐に忍ばせる方が如何かしてます。危機感に乏しい奴ではありましたねぇ」

「矢っ張りおめぇか」

「よして下さいよ。唯普通に仕事(こな)してりゃあ何事も無かったんだ。センサーが鳥渡ばかし鋭敏で、許容時間が多少短めだっただけです」

ジオラマを見ていたユウキが両肩を抱いた。彼らは誠治が死んだ時の話をしているのだ。誠治は大統領に向けて仕掛ける筈だった爆弾を懐に忍ばせており、それが暴発することによって命を落とした。爆発の瞬間ユウキが逸早く誠治をバリアで囲んだ為、周囲に被害が及ばなかった代わりに、爆発エネルギーを全身で受け止めた誠治はその為に命を落とした。爆弾は、予定されていた位置から大きく外れたことを検知して、自爆したのだ。それは予めプログラムされていたものだったし、誠治もそのことは知っていた。それでも最期迄、死にたくない、と思いながら死んでいった。――ユウキは今でも、誠治は自分の所為で死んだのではないかと思っている。半年以上も前のことで、ヒーリング能力を自分に使ったりして、心が乱される様なことも殆ど無くなってはいるが、今でも思い出すと胸が苦しくなる。

「大丈夫や。ユウキの所為ではない」

隣にいたクラウンが、ユウキの肩に手を置いてそう囁いた。

「うん、ありがとう……大丈夫」

ユウキは小さくそう答えると、能力を使って自分の心を落ち着かせた。そして再び大広間の会話に耳を傾ける。

「あいつは、何でそんな仕事してたんだ?」

「んなこたぁ知らねぇですよ。あいつの顧客筋は俺にもよく判らんです。まあY国によく出入りしていたのは認識してましたがね」

達也が難しい顔をしてその遣り取りを聞いている。X国の思惑としては、その誠治の上の繋がりを辿りたいのだが、達也はその調査の協力をすると云う条件で、日本に来ている。然しこの筋からの調査は行き詰って仕舞った様だ。

「いや、そうでもないのか……」

達也は一人小さく呟いた。

「たっちゃん、如何したの?」

彩が不思議そうに訊くので、達也は少し躊躇して、然し結局話した。

「誠治に指示を出していた工作員は、EX部隊が捕まえていた内の一人ではあったんだけど、如何もその上が辿れなくて困っているんだ。最終的にはY国政務大臣に行き着く筈なんだけど、その間のミッシングリンクが見付からなくて、立証が出来ない。今の一郎の話し振りでは一郎も知らなさそうではあるんだけど……でも爆弾に細工をする程度の機会はあった様だし、一郎自身は何処で如何繋がるのかなぁと」

「そんなんは知佳ちゃんが読むわ」

都子が横から口を出し、知佳が目を丸くする。

「えっ、あたし? 何すれば好いの?」

「一郎の中読んで、Y国との繋がりを探って欲しいねんて」

(あゝ)――うん――はい、わかりました」

「何や乗り気や無さそうやな」

「えっ、そう云う訳では――」

都子は鳥渡視線を遠くに飛ばし、また直ぐ知佳に戻すと、「そうか、怖いかも知らんな」と云った。

「ええと――はい――」

知佳は小さく首肯く。

「欸、好いですよ、無理しないで。殺し屋の心なんか読むの辛いでしょう」

達也が優しい顔で知佳に微笑む。知佳は複雑な表情で何やら逡巡している。

「知佳。無理しない。でも読むなら、あたしが横に付いてる」

蓮が知佳の肩を抱き、手を握り締めた。

「如何するかは知佳が決めて」

「うん――まってね」

知佳は深呼吸をする。何時の間にかユウキも横に来て、心配そうに見上げている。

「ユウ君――ありがとう。サポートしてね」

「勿論。知佳さん無理しないでね」

万全の態勢を組んで、知佳はそっと目を閉じ、一郎の心に下りて行く。

一郎

父親が誰なのかなんて知らない。母親は屑の様な女だった。

一郎は親に庇護された記憶なんかない。ずっと一人で、自力で生きて来た。母親を最後に見たのは五歳かそこらだったと思う。大して思い入れも無いから、居なくなっても暫くはそのことに気付かなかった。元々週に一回程度しか見掛けなかったし、数箇月、数年経って、あれそう云えば、と思った程度だ。

学校にも行った記憶がない。食べ物は幾らでもその辺に転がっていたし、お金だって欲しいと思ったら手に入った。偶に捕まったり叱られたりしたこともあるけれど、子供なので直ぐに許して貰えた。その当時は何も思わなかったが、今にして思えば好い国に生まれたものだと思う。

そう云えば昔は違う名で呼ばれていた気がするけれど、もう覚えていない。自分に名前なんか必要ない。関係性のある他人なんかいないし、だから呼んで貰うこともない。識別する必要もない。生きているだけだ。そんな風に思っていた。

長じて来ると、頼みもしないのに他人が寄って来る様になった。普通に歩いているだけで、態々寄って来ては、うざいだの邪魔だだの生意気だの、色々難癖を付けられては殴られ、奪われ、追い立てられた。だから強くならなくては不可ないんだと気付いた。自分がされて来たのと同じ様なことを、自分より弱そうな者を見付けては実践し、喧嘩と云うものを覚えた。弱いと思って遣っ付けたら、其奴がより強い奴を連れて来て遣り返されたりもした。勝って負けて負けて、勝って勝って負けて、そんなことを繰り返す内に負けなくなって来た。それが十三歳か十五歳か、その位だったか。もう自分の齢なんか判らなくなっていた。手加減の仕方もよく判らない儘、必死になっていたら、相手が拙いことになっていたこともあった。それでも構わず殴り続けていたら、通報されて捕まった。その時の相手は番長だか総長だかと呼ばれていた様な奴で、手を抜いたら殺されると思ったからそれは必死に闘った。その結果、如何やら相手は命を落とした。その時は少年法かなんかに助けられたのだけれど、それでも暫くは少年院に入れられた。

少年院の中では色々学んだ。社会性と云うのもその時に身に付けた。矯正教育とかの話ではなく、其処での人間関係の中で、多くのことを体得したのだ。話し掛けて来る連中が鬱陶しくて睨み付けて遣ったら、嫌がらせを受けたりした。殴られたり蹴られたりしたので、機会を窺って襲い掛かり、躊躇なく叩きのめして、懲罰を受けたりもした。そんな環境下でもよく面倒を見てくれた年長の者がいた。其奴だけは何だか友好的に接して来た。その時初めて、名前が必要なんだと思った。捕まった時も、裁判だかの時も、名前は適当に山田一郎と名乗っていたのだが、自分の本名を知らないし、戸籍が有るのか如何かも判らない。山田一郎の儘色々処理は進み、結局なし崩し的にそれが自分の名前になって仕舞った。だからその男に対しても、一郎と名乗った。

男は坂田と名乗った。少年院(こゝ)を出たら宇佐組に入るんだと云っていた。宇佐組とは何だと聞いたら、ヤクザの組だと云う。お前も一緒に如何だと誘われたが、何だかよく解らなかったので、考えておくとだけ答えておいた。

次第に院内での処世も身に付いて来て、揉め事を起こす回数も少なくなり、仮退院することが出来た。監視は付くが基本的には自由だ。但、一郎には帰る場所が無かった。捕まる迄も浮浪児みたいなものだったし、空き家や廃工場なんかに住み着いていたので、家に帰って好いと云われても途方に暮れるしかなかった。戸惑っている一郎を何故か坂田が迎えに来て、誰か知らない大人と一緒に連れて行かれたのが、宇佐組だった。本来帰る場所の無い者に仮退院なんか出来ない。それでも一郎が出て来られたのは、如何やら坂田の口添えで宇佐組が帰る場所を用意していたかららしい。真坂組事務所に帰ると云って申請した訳ではあるまいが、でも連れて行かれたのは組事務所だった。

ニコニコした強面の親父が、何時迄でも居て好いぞと云った。その気があるなら杯を交わしても好いと云われた。後で知ったがこれが宇佐組長だった。組長直々に出迎えてくれたのだ。然し一郎に、宇佐組に所属する意思など無かった。引き取ってくれたのは有り難いが、早々に辞去して再び浮浪に身を(やつ)す心算だったのだが、引き留められた。

「お前、保護観察されてるの知らないのか。定期的に面談したり、なんか報告したりしなきゃ不可ねぇんだよ。暫くは堅気になった振りして、真面目な生活見せ付けて遣る必要があんだ」

坂田にそんなことを云われた。一郎は堅気とかヤクザとか気にしたことも無かったから、振りと云われても何のことか解らなかった。如何も組の者が保護者の役を演って、真面目な生活振りを演出してくれると云うらしいので、その辺りは任せることにした。自由にフラフラ出来ないのなら、院に居た時と大して変わらないかと思ったが、生活は大分楽になったし、飯も旨かった。結局一郎は、宇佐組の客人扱いで世話になることとなった。

何故自分が宇佐組に飼われているのか、一郎は余りよく理解していなかった。日々惰眠を貪り、只飯を食って、後は何もせず呆けている。時々坂田が来ては世間話の様な物をする。偶には昔の話もする。自分が何をして来たか、或いは何をされて来たか。坂田の話を聞く序でに、自分語りをさせられている様な感じである。日々暇で退屈なので、坂田と話すのは非常に楽しい。それ故、ついつい饒舌に語って仕舞う。一郎の気付かぬ儘に、一郎は己の半生を坂田相手に殆ど総て語り尽くして仕舞っていた。

暫くすると、格闘技の講師とか云うのが現れて、道場の様な処に連れて行かれて、しこたま叩きのめされた。悔しいので何度でも何度でも挑み掛かるのだが、一向に歯が立たない。それでも、何日も、何箇月も、飽きもせず挑み続けていたら、或る時攻撃が届いた。講師に蹴りを入れたら講師に褒められた。なんのこっちゃと思ったが、そこからまた攻撃が届かなくなった。何時の間にか悔しいとか、勝ってやるとか、そう云う気概は薄まっていたが、他に遣ることも無いのでそのことばかりに専念している内に、数年が経過していた。講師とも互角に渡り合えるようになった頃、講師が変わって、また勝てなくなった。好い加減うんざりして来たので坂田に愚痴を零したら、それなら海外に行くかと云われて、何処か知らない国へ連れて行かれた。

その頃にはもう、保護観察とか云うのも取れていたらしい。坂田の手配で異国に渡ると、外国人が迎えてくれて、キャンプの様な処へ案内された。そこでナイフと銃を持たされた。迷彩服が与えられ、ヘルメットも持たされた。訳も判らない儘連れて行かれた先は、戦場だった。見様見真似で銃を使い、その日は何とか生き延びた。翌日キャンプで、改めて銃とナイフの使い方を教えられた。(つたな)い日本語で、筋が好い、運もある、等と煽てられながら、一郎は何となく楽しさを感じていた。褒められたからではなく、銃やナイフが手に馴染んで来るのが心地良かった。

戦場で他人を殺した。殺しても咎められず、寧ろ褒められた。軍用の格闘技も習った。元々人を殺すのに躊躇など無かったので、一郎は直ぐに強い兵士になった。終わりの莫い戦場で数年過ごした後、一郎は復もや坂田の手引きで日本に帰されることになった。何時でも一郎の意思や願望等と云うモノは存在していない。只右へ左へ、引かれる儘連れ回され、行けと云われた処へ行き、遣れと云われたことを()て来た。そのことに特に疑問も持たず、唯、必要とされているんだなと思っていただけだった。

宇佐組に帰って暫くして、依頼を請けた。誰だか判らない組員から、誰だか判らない奴を殺して欲しいと云われた。何で自分が、と思ったが、断る理由も思い付かないので、結局遣った。そうしたら結構な金額を、報酬だと云って貰った。成程これが仕事と云う奴か、と思った。死体は可成念入りに処分したので、事件にさえならなかった。もう捕まるのは御免だった。今捕まれば少年院では済まない。とっくに成人しているのだから、普通に裁かれ、普通に刑罰が下るだろう。少年院の記録は前科にならないとは聞くが、そうは云っても全く無視されることもないのではないだろうか。だから執行猶予は多分ないし、あったところであんな窮屈な生活はもう嫌だ。そう思ったから死体は見付からない様にしたし、見付かった所で誰の仕業かなんて絶対判らない様にした。

数箇月して、また依頼された。最初の依頼者とは別の者だった。断る理由が無いので実行した。間を置かず三度目の依頼が来て、好い加減うんざりしたので、その仕事を片付けた後、事務所を出た。結構な金が堪ったので、別の土地に移ろうと思った。

その三度目の仕事で、手に掛けた女が今際の際に「赤子を頼む」と云い遺していた。そんなこと知るかと思ったが、直ぐ横でぎゃんぎゃん泣いているので、なんだか物凄く気になって仕舞って結局連れ帰った。依頼者に押し付けて遣りたかったのだけど、如何しても依頼者と連絡が取れないので、諦めるしかなかった。後から聞いた話では、なんかしょうも莫い喧嘩だか揉め事だかで命を落としていたらしかった。前金で貰っておいて良かった、とだけ思った。住居(やさ)を移そうと思ったのはその為でもあった。出来るだけ田舎が好い。誰も干渉して来ない様な処で、静かに暮らしたかった。栃木の山奥に、そこそこ立派な空き家を見付けた。持ち主を探して交渉し、売って貰った。手放したがっていた様で、可成破格の値段で買い取ることが出来た。

三度の仕事で蓄えた金で、数年間そこで暮らした。食料は近くの無人即売所で買い、赤子の世話には家政婦を雇って、必要最小限の生活をしていた。テレビも電話も持たなかった。冷蔵庫と洗濯機は、家政婦に云われて小さいのを買った。本当に堅気の生活だった。極力周囲と揉めたくなかったし、宇佐組なんかの関係者に見付かるのも面倒だったので、兎に角静かに、平穏に、寛悠と生活した。家に付いて来た土地が結構あったので、近所の農家に畑として貸し出して、僅かな収入を得たりもしたが、収穫物が欲しいとは思わなかったのでそれは一つも取らなかった。太っ腹のお大尽等と噂された様だが、一郎には何のことだか解らなかった。

赤子が育つのは面白かった。毎日見ていると、昨日出来なかったことが今日は出来る様になっていたり、表情も豊かになって行くので、ずっと見ていても飽きなかった。家政婦がよく世話をしてくれて、話し掛けたりもしてくれるので、言葉も直ぐに覚えた様だ。小さな子供なのに、いっちょ前に訛っているのが面白かった。一郎は口下手の方なので余り会話はしなかったが、子供はよく喋った。家政婦の影響かも知れない。

立って歩き回る様になると、俄然興味も増した。今から仕込めば相当な殺し屋になるのではないだろうか、等と考えた。身の熟しや攻撃、防御の仕方等教えてみたが、子供は遊んで貰っているとしか思っていない様で、ずっと燥いでいるばかりだった。一寸力を入れたら直ぐ死んで仕舞いそうなので、一郎は結局仕込むのを止めた。するにしてももう少し大きくなり、体が確りしてからにしようと考えた。

田舎暮らしを始めて五年程が過ぎた頃、学校は如何するのかと家政婦に訊かれた。そう云えばこの子供は戸籍が有るのだろうか。正確な齢を知らない。拾った時は多分零歳だったと思うのだが、自信はない。そう云えば赤児の頃、母子手帳が如何とか家政婦に云われた気がするが、その時は適当に誤魔化して仕舞った。死んだ女がそうした物も持っていたのかも知れない。今更確かめ様もない。

面倒臭くなったので、春を迎える前に引き払うことにした。家政婦には年明けを機に、子供の母親と一緒に北海道に住むことになったと適当な嘘を吐いて、暇を出した。行く当てなど特に無かったが、何とかなるかと考えていた。そんな時、村で何か騒動が起きていた。

如何も詐欺紛いの手口で、村の土地を次々買い上げている者が居るようで、気付いた時には七割方の土地が失われていた。如何も村人の話はバラバラで整合性が無く、当てにならないので、自分で少し調べてみたが、敵の素性はよく判らなかった。判らなかったので捕まえて締め上げてみた。背後に何か大きな団体がいるようなので、痛め付けた上で帰してみた。直ぐに人相の悪い男が数人押し掛けて来たので、家に上げて、取り敢えず一人殺した。相手が怯んだので残りを叩きのめして、縛り上げて死体と一緒に奥の間に幽閉した。三日程水だけを与えて、話を聞いてみた。倒した時の打ち所が悪かったのか、三日目に一人衰弱死した。すると、それで完全に腰が砕けて仕舞った一人が話し始めた。

相手は小物だった。何処ぞの新興宗教団体で、半グレの様な連中と連るんで勢力を拡大しているところらしかった。腰の砕けた奴を案内役として、本拠地に乗り込んだら、相手は相当驚いていた。人死にを出す覚悟など全くしていなかった様で、二人死んだと聞いた時点で、何故か平謝りされた。土地の権利書も総て取り返した。何故か金も持たされそうになった。荷物になるから要らんと云ったら、ゴロゴロとした大粒の宝石を幾つか渡された。これで手打ちにしてくれと云うことなのだろう。押し問答するのも嫌だったので貰っておいた。二つの死体は、幽閉していた残りの連中を解放する際に持ち帰って貰った。

村ではヒーロー扱いだった。ずっと居てくれとも云われたが、目立つのが厭なので固辞した。彼等は一郎が殺しをしたことなど、知る由も無いのだ。家だって汚していない。痕跡一つ残さずに始末したのだから当然である。見ていたのは子供だけである。この子供も何を考えているのか、怯えも騒ぎもせず、一郎のすることを凝と、何なら目をキラキラと輝かせながら見ていた。そろそろ仕込めるだろうか。

海外にでも行こうかと思ったが、残りの資金が心許なかった。宝石を金に換えたかったが、如何すれば好いか判らなかった。だから、もの凄く久し振りに坂田に連絡してみた。

「お前今迄、何処行ってやがった! 五年も六年も姿晦ましやがって!」

「吁、坂田さん、すまねぇ。一寸相談があってな」

「昨日今日別れたみたいなトーンで話すんじゃねぇ!」

電話口で坂田は笑っていた。

坂田に紹介された故買屋に、宝石を凡て引き取って貰った。数十億になった。それを資金に韓国に渡り、数年して中国に移り、その後結局日本に帰って来た。

偉いもので、行く先々で子供はその土地の言葉を直ぐに覚えた。何かの才能なのかも知れない。今迄特に名前を付けていなかったが、家政婦が勝手に、せいちゃん、せいちゃんと呼んでいたので、誠治と名乗りだした。韓国に居た時には(キム)成智(ソンジ)と名乗っていた。一郎にも(キム)東元(ドンウォン)と云う名前を付けてくれた。韓国で見たドラマに出て来る殺し屋から取って、違う漢字を当てたそうだ。成程、誠治は一郎が殺し屋だと云うことは理解している様だった。中国では(リー)成仁(チェンレン)と名乗り、一郎には(リー)(ウェイ)の名をくれた。これは山田一郎の様に、ありがちな名前なのだそうだ。誠治は韓国名を一番気に入っている様だった。

日本に帰って来たら、空港で坂田に迎えられた。如何も足跡(そくせき)を追って、先回りされていたらしい。その儘誠治を連れて、宇佐組の事務所へ行った。歓迎でもされるかと思ったら、人払いをした部屋に通されて、仕事を依頼された。何だ坂田もか、と思ったが、内容を聞いて驚いた。何時だかの新興宗教の教祖が一郎を血眼になって探している、見付けたら殺すと云っているらしい。何が何やら。逆恨みだろうと云ったら、本恨みじゃないのかと返された。どっちでも良かった。

「それで俺に如何しろと云うんですか」

宇佐組(うち)の周りもブンブンと飛び回りやがって、五月蠅(うるせ)ぇからよ、叩き落して欲しいんだ」

「そんなん殺って、後々面倒になりませんか」

「佳い弁護士付けるから、出頭しておけ。入っちまえば連中も手は出せねぇ。その間に後始末はうちでしておくよ」

「はぁ?」

「事故っぽく殺せ。どうせ昔のバラしは証拠も無いんだろう、立件出来ねぇから、教祖殺しだけで戦えるよ。過失致死辺りで、執行猶予でなく、ちょっとだけ食らっとけ。直ぐ迎え寄越す」

「高く付きますぜ」

「金に糸目は付けねぇよ、お前と宇佐組の仲だろうが」

結局一郎は請けた。敵地に乗り込んだら血相変えた信者共が襲い掛かって来たので、気絶する程度に叩いておいた。直ぐ教祖に辿り着くと、教祖はガタガタ震えながらも日本刀を抜いて襲い掛かって来た。前時代的な得物を使う奴だと呆れながら、素人太刀筋を避けて延髄に軽く一発入れると、あっと云う間に落ちたので、得物を奪って急所を外して刺した。その儘柄を下にして倒すと、刀が体を抉り、激しく出血した。助からないなと判断して、その場を辞し、その足で手近な警察署へ出頭した。

裁判では約束通り、弁護士が事故であると主張し、殺意を否定して過失致死に持ち込もうとしていた。証人として呼ばれた信者達の主張で、昔の二人の殺しがほじくり返されたが、証拠が無いので検察も余りその辺りは触れたがらなかった。誠治が証人として呼ばれたが、過去の件も現在の件も、全く知らない、父は優しい人だ、人殺しなんか出来る筈が無いと、涙を一杯に溜めて主張した。一郎は余りに自然に嘘を吐く誠治に、すっかり感心して仕舞った。こいつは殺し屋じゃない、詐欺師か何か他人を騙す仕事の方が向いている、その時にそう感じた。

弁護士の手加減の所為か、信者達を薙ぎ倒し過ぎた所為か、結局五年程食らった。その間誠治は、宇佐組で面倒見て貰っている筈だった。然し三年程で仮出所して来たら行方不明になっていた。誠治が残した持ち物の中に、古いパスポートが幾つかあった。一郎が知らない名前の物もあった。何時の間に偽造パスポートなんか作っていたものか。そして如何やら誠治は、外国に遊びに行ったのだなと理解した。

一郎は結局、再び宇佐組に厄介になっていた。例の宗教団体は、その頃には跡形もなく消えてなくなっていた。興味が無いからそれ以上の確認はしなかったが、信者の何人かは宇佐組に抱え込まれた様だった。

数箇月程して、誠治も宇佐組に帰って来た。彼方此方に人脈を作って来た様なことを云っていた。何時の間にか酒も呑む様になっていた。未だ十五か十六か、その位だと思うのだが。

坂田と三人で酒を酌み交わしてみた。誠治は殊の外よく喋った。酒を飲むと更に饒舌になる様だった。Y国に行ったら、一郎を知っている者が居たそうだ。如何してだろうと思ったが、坂田が云うには、昔一郎が傭兵として叩き込まれたのがY国だった様だ。あの頃は国の名前なんか全く気にしていなかった。政治的背景も知らず、何故、何と戦っているのかさえ知らなかった。唯その日を生き抜くのに精一杯だった。あのゲリラ部隊は、政府と内戦を続けているのだと、この時初めて聞いた。聞いたから如何と云うことも無かったが。誠治はそのゲリラ部隊とも、敵対する政府組織とも、分け隔てなく人脈を築いて来た様だ。丸でスパイの様だと思った。

「誠治は立派な国際スパイになったな」

坂田もそんなことを云った。国際スパイか。中々面白い響きの言葉だが、一体何をするのだろう。

知佳は顔を上げた。

「Y国との繋がりを持っていたのは、矢っ張り誠治さんだったみたいです。一郎さんは多分、直接の関与はしていないんじゃないかな……」

こゝ迄見て来たものを、掻い摘んで皆に伝えた。一郎の生い立ちの辺りは適当に端折り、誠治を拾った辺りと、誠治がY国との関係を作って帰国して来た辺りを厚めに語った。

「それじゃあまた、続き読んで来ます」

「無理しないで、がんばってね」

励ます蓮に知佳は微笑みを返し、蓮の手を確り握った儘、再び一郎の中へと戻る。

誠治が目をキラキラさせながら、「クマの宝」と云った。突然何を云っているのだろう、何かのお伽噺だろうか、と思った。然し坂田が妙に食い付いた。

「お前それを何処で聞いて来た。国外にもそんな話が流れているのか?」

「いやいや、伯父さん、これは国内で聞いた話ですよ。久万組にも友達が居ましてね」

誠治は坂田を、伯父さんと呼ぶ。別に坂田と兄弟杯を交わした覚えは無いのだが。一郎は今でも「客分」の儘だし、ヤクザになった心算も無い。その連れ子の誠治なんかは無関係も好い所だ。それでも坂田は気前よく受け容れてくれている。有り難いことなのかも知れない。

それにしてもクマの宝って何だ。クマ組と云ったか。運動会か。

「なんか変な詐欺師が久万組に出入りしていたの知ってますか? 其奴が死ぬ直前に久万組から持ち出した物があるんですけど……」

「時価数億だか、数十億だかって奴だろう?」

誠治と坂田で盛り上がっている。何時だかの宝石だって数十億だった。あの後外国彷徨き回って結構使った気がしていたが、出所した時に確認したところ、未だ結構残っている様だ。

「大粒の金剛石(ダイヤモンド)がゴロゴロですからね。それを持ち出して、その儘死んで、未だ見付かっていないとか」

「隠す時間なんか殆ど莫かった筈だぞ。立ち寄った所と云ったら、スナックぐらいか」

「伯父さん詳しいじゃないですか」

「こう云う話は直ぐ広まるんだ。付いてる尾鰭を払い落としても、中々熱いネタだぜ、これは」

「でもスナックには無かったみたいなんですよねぇ」

「誰か確認したのか」

「友達が空き巣したんだけど、見付けられなかったって。探し方が悪いのかもなぁ」

「脅して出させろや」

「余り目立ちたくないんですよ。そう云うのは伯父さんの方で遣ってくれないかなぁ。それに、スナックに有るなら久万がとっとと見付けて取り返してるんじゃないかな」

「そうだな……でもよ、そうすると何処行ったんだ」

「彼奴女いたみたいじゃないですか。而もガキ四匹程作って」

「知ってるよ、長屋のだろ。それこそ隠し場所なんかねぇだろうよ」

「息子によく玩具あげてたみたいなんですよね」

「それが如何した」

「そこに何らかの形で紛れ込ませてたりして? そうだなぁ、例えば縫い包みの中に縫い込んだり」

「そんな小細工する時間あったか?」

「さあ。まあそれは一つの例ですよ。誤魔化しようは幾らでもありそうだけどなぁ」

なんだか一郎は興味が持てなかった。元々金にそれ程執着は無い。生活出来れば好い。欲しい物なんか無い。でも誠治はそうでもないのか。一郎は物欲や金銭欲と云うモノが今一理解出来ない。

「その長屋も引き払われちゃって、誰も行き先知らないんだよなぁ。探せば直ぐ見付かりそうなものなんだけど。其処には無いって皆思ってるみたいで。なんだかなぁ」

「当事者の久万組が探して出て来ねぇんだ。無いんだろうよ」

「そうなのかなぁ」

結局酒の席の与太話だ。真面に取り合ったって仕様が無い。一郎は適当に聞き流しながら、一人チビチビと酒を飲んでいる。

その日は結局、与太話の儘終わった。どの道その場で確認なんか出来る様なことでもなかった。そんな話はすっかり忘れた儘、十年ほど経過した。

誠治もとっくに成人し、一郎とは行動を共にしなくなっていた。一郎は再び宇佐組を出て、国内を適当に彷徨(さまよ)っていたので、誠治が何をしているかなど知らなかったし、正直なところ興味もなかった。子供の内は成長してゆくのが面白かったが、大人になったらそんな興味もすっかり失せた。スパイとしては成長を続けているのかも知れないが、知らない渡世だし、興味はそそられなかった。

宝石を売った残金で細々と、田舎の山奥で生活していたので、世間の感染症騒ぎなんか全く無縁だった。相変わらず電話も持たず、テレビも見ず、新聞さえ取らなかったので、そんな騒ぎがあったことさえ、長いこと知らないでいた。そんな時にふらりと誠治が遣って来た。

別に行方を晦ましていた訳ではないし、前回文句を云われたので坂田には居場所を教えていたから、誠治が来たところで驚く様なことではないのだが、自分なんかを尋ねて来る理由があるものかと、そこのところが訝しかった。誠治は一郎の顔を見るとにっこりと微笑み、開口一番、「久万の宝」と云った。

「お前は未だそんなことを云っているのか」

「父さんは興味ないのかよ。数十億だぞ」

「昔宗教に貰ったのも数十億だよ。未だ半分以上残ってるぞ」

「父さんは使わないからなぁ。それじゃあ興味ないか。でも僕は興味あるんだ。――絶対健介が怪しいんだよ。あいつの家、なんだかんだで中流程度の生活してるしな。ジジババの年金だけであんな生活出来るかね」

「知らねぇ。興味もねぇ」

「長男の健介は馬鹿だから専門学校だったけどな、長女は短大行ってるよ。そんな学費何処から出るんだよ」

「知らねえって。そんな話俺に聞かせたって何の意味もねぇぞ」

「いやいや。僕だって唯そんな世間話しにこんな処まで来ないさ」

「はぁ。何が云いたい」

「まあ結論から云うと、軽く仕事して欲しいんだけど」

「俺の相場知ってゝ云ってるのか」

「何だよ、親子割引しろよ」

「何調子好いこと云ってやがる」

「まあ好いよ、伯父さんのバックアップも貰えそうだから」

坂田も絡んでいるのか。あんな与太話本気にして、何しようとしているのやら。

「ちょっと面白いシナリオ書いたからさ、付き合って欲しいんだよな」

「なんだそりゃあ」

「登場人物が濃いんだな、これが。坂上――ああ、前に話した、久万の宝持ち出した詐欺師なんだけどね、此奴を公務上で事故死させたのが神田って刑事で、その息子の達也ってのが坂上の長男健介の幼馴染なんだ。面白い関係性だと思わない?」

「別に」

「この辺色々(つゝ)いてみると、面白い化学反応しそうなんだよなぁ」

「宝よりそっちか」

「いやいや、勿論宝が一番。その前にちょいちょいと遊んでおきたくて。達也って友達になれそうなんだよね」

誠治の云う「友達」と云うのは、一郎には今一よく判らない。一郎が思っている友達とは、定義が違う様な気がする。尤も一郎自身、友達なんてものはいないし、の一般定義さえよく判っていない可能性も高いので、若しかしたら誠治の方が真面な感覚なのかも知れない。

「まあそんな感じなので、近い内にまた来るよ。その時に仕事の話もするね」

「今して行かねぇのか」

「まあまあ。もう少し先。具体的な演出はまだ未完成だからね」

「演出ってなんだ」

「その時話すよ」

そうして立ち去って、半年ぐらいでまた誠治は遣って来た。

「今度は依頼だよ。頼むよ」

「高いぞ」

「好いよ。伯父さんが持つから」

「全く酔狂な話だ……で、如何するんだ」

健介を殺ると云う話だった。日時は厳密に指定。場所はコンビニのバックヤード。裏口のカギを開けさせるから、そこから入って数秒で片付ける、声は出さない、出させない、死体は放置して好い、血が多く出た方が好い、という注文だった。色々めんどくせぇと思ったが、難しい要素は一つもなかったので、その条件で請けた。

云われた通りに仕事をした後、住処(やさ)を変えた。坂田にも、勿論誠治にも行き先は告げなかった。それでも誠治は探り当てゝ遣って来た。移って直ぐは痕跡が辿り易い。何度か移転を繰り返さなければならないなと思った。

「父さん、X国の大統領って好きか?」

何の脈絡も無く、誠治はそんなことを云った。Y国の人脈に依って、如何やらテロ計画に巻き込まれている様だった。否此奴は、自分から進んで首を突っ込んでいるのだ。誠治は愉しそうに語る。達也も巻き込んで、お祭りに参加して来るのだと、なんだかそんな感覚の様だった。一郎は何となく、誠治が面倒になって来た。

自分は出来るだけ、世事に関わらず、静かに暮らしたいのだ。金はもう十分ある。金を使うような性格ではないので、そうそう目減りもしない。一生掛かっても屹度使い切れない。だからもう仕事はしなくても好い。仕事は嫌いではないけれど、齢と共に矢張り腕は落ちて行く気がする。日々訓練は続けているが、それだってルーチン化しているので効果は少ない気がする。もう若い頃の体力、能力を維持するのが難しいと思っている。だから仕事は、しないならしないに越したことはない。然しこの誠治と云う奴は、未だ若いからなのか知らないが、面倒事を次々持ち込んで来やがる。久万の宝なんか如何でも好いし興味も無い。テロだって勝手に遣っていれば好いのに何故態々俺に知らせに来る。

「俺は何もしねぇぞ。勝手に遣ってろ」

そう云うと、誠治は意外そうな顔をする。

「父さんも一緒にと思って」

「何でそんな考えになるのか判らねぇが、俺は御免だ。祭りもチームプレイも好きじゃない」

「そうかぁ……」

ガッカリしながらも、誠治はあらましを語った。一郎は聞くともなしに聞いていた。手榴弾三十個調達するとか、プラスチック爆弾三百(グラム)買うとか云っていた。大統領一人に大袈裟だなと思った。大統領だろうが何だろうが、人一人殺るのにそんな戦争みたいな武装が必要なものか。ナイフ一本か、ライフル一発で十分だろう。誠治に殺しの技量なんか無い。若しかしたら度量も無いかも知れない。誰かに遣らせるのか。ゴミみたいな兵隊大勢雇って、物量で押し切る心算か。そんな遣り方で巧く行くものか。若しかして達也とか云う子供もその兵隊の一人か。矢張り誠治の「友達」は、鳥渡ずれている気がした。

なんか、此奴はもう好いかな。そう思った。

日程は聞いていた。当日沖縄に行って、聞いていたホテルを訪れた。暫く張っていて、誠治を見掛けたので、後を尾け、部屋を特定した。外出したタイミングで忍び込み、爆弾を探して細工した。

時限装置だのセンサーだの、そんなものは傭兵時代にがっつり仕込まれた。同じY国製なのでその時覚えたものと造りは変わっていなかった。あれから二十年以上経つのに変わっていないことに、逆に驚いた。貧しい国だったし、技術的にも隣国、諸外国とは断絶しているのだろう。センサーを少し過敏にして、爆発迄の時間を少し短くした。これで何が如何なるかは判らない。何の意味も無いかも知れない。右腕でも吹き飛べば、此奴も引退するかな、位の意図だった。

結局その細工で、誠治は爆死した。聞いた時はちょっと驚いたが、まあ、それはそれで好いかと思った。殺す心算は莫かったけれど、死んだなら儲けもの、位の気持ちだった。

その後三度程、転々と住居を変えた。誠治は居なくなったのでそこまで気にする必要も無かったのだけど、坂田に余り嬉しくない話を聞いたのだ。警察とX国が、別々に一郎を追っていると。警察は恐らく健介の件だろう。誠治から辿ったか。本当に彼奴は疫病神だ。X国は何だ。これも誠治絡みか。そんな国に追われる謂れなど莫い。それでも一郎は、逃げるしかなかった。海外に飛ぼうかとも思ったが、多分飛ぶ前に空港で掴まる。船はもっと拙い。逃げ場の莫い箱の中に何箇月も閉じ籠っている訳には行かない。結局国内を転々としつゝ、時々坂田に状況を確認していた。この坂田との連絡もリスクではあるのだが、何も知らない儘動き回るのも危ない。

春が過ぎた位の頃に、突然坂田から、久万に行けという指示を受けた。一体上の方で何の様な遣り取りがあったのか知らないが、宇佐組組長と久万組会長は、元々は同じ組で杯を交わした仲だと云う。それぞれに同じ様な時期に独立したのだが、今でも親交はあるのだそうだ。その久万が、如何云う訳か一郎を匿ってくれることになったのだと云う。坂田に云われる儘に下呂へ行ったら、其処で宇佐組のチンピラが待っていた。適当に温泉に浸かりながら待てと云われたので、その辺の温泉宿に止宿した。宿賃位は自分で出せるのだが、宇佐組が出してくれると云うので貰っておいた。

然し待てど暮らせど、次の指示が来なかった。其処の温泉宿にも飽きて来たので、別の温泉宿に移ることにした。新しい宿にチェックインした時、突然若い男に声を掛けられた。その男は久万の使いだと名乗った。立ち話が出来そうな雰囲気でもなかったので、部屋に通した。

「失礼ですが、山田一郎様でお間違いないでしょうか」

「そうだが。よく此処が判ったな」

「見付けた矢先に宿を移られましたので、失礼ながら、尾行させて頂きました」

「そうかい。それよりも、次に如何すれば好いのか教えてくれよ」

男は少し考える様にしながら、「これも失礼な質問になるのですが、山田様は、ご自身の身代わりが存在していることは、ご承知でしょうか」

「何のことだ? 身代わり? そんなもんは必要ねぇよ。捕まる時は捕まるし、死ぬときは死ぬんだ。身代わり立てゝ迄逃げ延びようなんてケチな考えは持っちゃいねぇ」

「御立派なお覚悟で。頭が下がります」

「てことは何か。俺の贋者でも横行してやがるのか?」

「まあそんなところで御座いましょう。山田様のお考えによるものなのか、そこのところを今日は確認に伺った次第でして」

「身代わり立てゝたらこんな処で温泉三昧してねぇよ。その贋者の居所なんかは判るのかい」

「手前どもが山田一郎様として匿っております」

「なんだそりゃあ。身代わり匿ってどうするんだよ」

一郎はゲタゲタと笑った。こんなに笑うのも久し振りだった。

「御当人様は、私達のこと迄騙している心算の様で御座います」

「騙せてねぇじゃねぇか」

「そうですね。聞いていた髪型とも違っていましたし、如何も言動に違和感があったので宇佐組に確認してみたところ、贋者を立てる計画自体は最初からあった様なのです。但、その贋者は野に放つ計画だった様で、真坂久万で匿われているとは思っていなかったそうです」

「成程な。いざとなったら怖気付いて、本物になり替わろうとでもしたか。猿の様な知恵だな。そりゃあお灸を据えねぇとな。――案内してくれるかい?」

「畏まりました。本日はもう(おそ)いので、明朝またお伺いさせて頂きます。その際にご案内させて頂くと云うことでも宜しいでしょうか。――手前は中川春樹と申します。御用の際には此方でお呼びください」

そう云って春樹は、一郎にスマートフォンを渡した。一郎はそれを受け取って稍戸惑った。

「こういう最近の機械は殆ど触ったことがねぇんだ。田舎暮らしが長くてな。使い方教えてくれや」

「これは不躾で失礼しました。先ずロックを解除するには――」

一通りの操作方法を春樹に教わった。

「此方からの連絡も、この電話機に対してさせて頂きます。電話が鳴りましたら――」

電話の取り方も教わると、一郎はスマホを胸のポケットに入れて、春樹を見送った。この日は取り敢えず、温泉に浸かってから寝た。何処で入っても湯は同じだな、と思った。

翌日早くに春樹が迎えに来た。一旦部屋に上げると、そこで新聞紙に(くる)んだ三角形の物を渡された。

「まてよ、殺れってか?」

「いえ、装弾されているのは空砲です。灸を据えると仰せでしたので、若しやお使いになられるかと。勿論使わなくとも構いません」

「ふん、それは用意の好い事で。ま、一応貰っとくか」

一郎は新聞紙の包みを解いて、内容物を改めた。包まれていたのは、大きなリボルバーだった。

S&W(スミス・アンド・ウェッソン)のM29じゃねぇか。如何したんだこんなもん」

「ダーティハリーモデルですよ。趣味が好いかなと思いまして」

「ダー……なんだって? そんなもん知らんな。――こんなごついもん持て余すわ。俺は銃の熟達者(プロ)じゃねぇのよ。そりゃあ乞われりゃ狙撃もするけどさ、得意なんはナイフだな」

「まあ、今回は所詮、玩具としてご使用いただければよいかと」

「うんまぁ――そうか。まあそれじゃあ、遊ばさせて貰おうかな」

そう云って一郎は、銃を構えてみた。左腕を右腕とクロスさせるようにして支えとし、春樹を照準に入れる。銃口を向けられても、春樹は済ました顔をしている。

「なんでぇ、少しは狼狽えたりしやがれ」

「空砲なので」

「空砲でもなんか飛んで来るぞ、この距離なら」

「まあ、対処出来ますので」

「ほぉ? そりゃあ如何云うことだ」

春樹は机の上に出されていた煎餅の袋を、一郎に差し出した。

「私に向かって投げ付けてみてください」

「なんだ?」

一郎はパスをする様に、下手から軽く春樹に向かって(ほう)った。春樹は凝とした儘受け取ろうともせず、ぶつかるかと思った瞬間、袋は一郎に向かって弾き返された。

「うん? 何が如何した」

「もう少し強めに投げて貰って構いません」

今度は上手で投げてみた。それでも受け取ろうと思えば受け取れる位の勢いで投げた。然し今度も春樹は身動(みじろ)ぎもせず、袋は矢張り弾き返された。

「何だ。何が如何なってる」

「もっと強くても問題ありません」

一郎は云われる儘、結構な勢いで投げ付けてみた。然しこれも、音を立て弾き返された。中の煎餅が割れたかも知れない。

「これが手前の能力、サイコキネシスです」

「はあぁ……そうか、何か聞いたことあるぞ。十年ばかり前の、あの詐欺師も、そんな力を持っていたとか」

「坂上ですね。その通りです。誠治から聞きましたか?」

「おう、誠治を知ってるか。――まあ、そりゃあ知ってるか。そう、誠治に聞いたと思うよ。他の奴とあの話はしてないからな」

「これは私の能力の一部ではあるのですが、恐らく坂上よりは遙かに弱い力です。それでも、空砲から飛んで来る滓程度なら防げます」

「そうかい。成程ねぇ……こえぇ世の中だな」

「自分で云うのもなんですが、然程恐れる程の力ではありません」

「そんなこたぁねぇぞ。大抵の奴はそんな弱い力さえないんだからな。自分に無い力を持ってるモンは、脅威だよ」

「それは――不安な思いをさせて仕舞い、申し訳ありませんでした」

春樹は低頭した。

「ああ、そんなに(へりくだ)るこたぁねぇよ。今のところ、お前は味方だろ。敵に居たら厭だけど、味方なら心強いぜ」

「ありがとうございます」

春樹は再び頭を下げてから、立ち上がった。

「ではそろそろ、参りましょうか」

「おう」

一郎は銃の安全装置を掛けてからズボンのウエストに挟むと、春樹に続いて部屋を出た。

連れて行かれたのは、山に分け入って暫く進んだ処だった。何だか足元が不思議な感じだった。地に着いていないと云うか、ふわふわ浮かんでいる様な心地で、足音も立たない。登っている筈なのに余り疲れも感じず、すいすいと滑っている様な感覚さえあった。何れ山小屋が見えて来ると、春樹は「此処です」と云って一郎の背後に下がった。一郎がそっとドアを開けると、場違いに明るい声が迎えた。

「おう、春樹君か?」

そう云って立ち上がろうとした男の頭上に向けて、空砲を放った。

「うひゃああぁぁぁああああ!」

其奴は滑稽な程取り乱して、屁っ放り腰で部屋の奥へ逃げ込もうとして、座布団で思い切り滑って派手に転倒した。鈍い音がして、続いて呻き声が聞こえる。これは遣ったな、と思った。

「い、いてぇぇ……いてぇよぉ!」

長髪を後頭部で束ねた男が、雑巾を持った儘呆気に取られて転んだ男を見ている。其奴の視線が悠然と此方へ向くので、一郎は再び銃を構えた。

「一郎さん、あれは手前どもの組員で、水木と云います。贋者に騙されていた一人です」

「あゝ、そうかい」

春樹の説明で水木も事情を察したらしく、雑巾を畳んで脇へ除けると、片膝を突いて頭を垂れた。

「失礼。本物の一郎さんだな。矢張り醸し出す空気が違いますな」

一郎は銃を下げて、痛い痛いと喚きながら転がっている男に目を遣った。贋者にしては余り似ていない。そうか、あのオールバックは数年前の一郎だ。参考にした情報が古いのだろう。人前に殆ど出ない様にしていたので仕方ないか。然しこの狼狽え様は頂けない。

「何だいあれは。あれが俺の贋者?」

「ちと軽薄に過ぎるな」

「勘弁してくれよ。こっちが恥ずかしくなるわ。転んで脚折りやがったみたいだな。取り敢えず病院迄運んでやるか」

「水木の名前を使うと好い。手配はその春樹が万事請け負うだろう」

「そうか」

春樹は二人に対して頭を下げると、「一郎様はこちらでお待ちください。贋者と違って水木と威嚇し合う様なこともないかと思いますので」と云って、念動力で贋者を引っ張って山を下りて行った。

「なんだありゃ。担架要らずだな」

一郎が感心しながら部屋に上がると、水木は掃除の続きに取り掛かった。

「それより可怪しなこと云ってたな。贋者はあんたと威嚇し合ってたって?」

「矢鱈敵対意識を剥き出しにしてたな。何と云うか、そう云う処が物凄く小者っぽくて、ずっと違和感感じてたんだ。本物に来て貰えて良かったですよ」

「なんてこった」

一郎は掃除が済むのを待ってから、座布団を出して来て座った。水木がお茶を入れて持って来る。

「あゝ、そんなこたぁしなくて好いんだ。おめぇは下働きではないんだろう」

「世話係ではありますぜ」

「そうなのかい。余計な気遣いは無用でお願いしますよ」

そう云いながら一郎は茶を啜った。

「上手に淹れるじゃねぇか」

「それはどうも」

その後直ぐに春樹が帰って来た。この山を下った先にある病院に、贋者を入れて来たのだと云う。暫くは三人で凝と黙って過ごしていた。

うとうとし掛けた頃、なんだか外が騒がしくなった。何事かと思って目を開けると、ドアが開いて、禿頭頬髯の老人が入って来た。知っている。久万の会長だ。続いて宇佐組長が入り、最後にチンピラみたいなのが入って来てドアを閉めた。

「で、話はついたんか」

久万会長がそう云った途端、春樹が人差し指を口に当てた。目だけで周囲の様子を窺っている。異様な雰囲気に、誰もが身動きも発声も出来ずにいた。五分程そうして固まっていたが、春樹がふうと息を吐いた所で全員の緊張が解けた。

その後交わされた会話から、自分を騙していたのが贋者本人と判った。腹は立ったが組長に諫められて矛を収めた。この組長は自分の様な者を拾ってくれた恩人だ。基本的には逆らわない。

その後の流れで、この小屋は撤収することになった。一郎は一旦病院迄行って、贋者を演じていた小者に散髪を指示すると、病院を後にした。何だか骨折はすっかり治っていたようだ。超能力とは大したもんだ。

その後一郎は下呂のあちこちに立ち寄って、顔を晒して歩いた。下呂中に目撃証言をばら撒いておこうと思ったのだ。途中贋者から組長経由で連絡が入ったので、一旦落ち合い、再度解散して攪乱作業の続きをした。

好いだけ歩き回った後、事前に打ち合わせておいた神社へ向かった。

森 五

知佳の説明が終わると、神田が腕を組みながら、先ずは知佳を労った。

「有難う御座いました。知佳さんは少し休憩しておいてください。恐ろしいものを沢山見させて仕舞いましたね。ユウキ君、ケアをお願いします」

「有難う御座います。でも結構平気ですよ、沖縄で強くなりましたから」

知佳はにこりと微笑むが、その顔に滲み出る疲労感は、隠し切れなかった。

その左側にユウキを挟んで座っていた彩は、稍暗い表情になっていた。

「何よ、クマの宝って……信じらんない」

達也が心配そうに彩を見る。

「そんな……バカバカしい物の為に、お兄ちゃんは……」

ポロリと落涙した。ユウキが彩の左手を取る。彩はその手をきゅっと握り返した。

「その坂田ってのは未だ生きてるんだよね。誠治ってのは死んだけど、久万の宝だったら坂田も同罪だよね! それと矢っ張り、一郎! 此奴だけは!」

ユウキが心配そうに彩を見上げる。彩の感情が次第に落ち着き、穏やかな表情に戻って背(もた)れに倒れ込んだ。

「なによぉ……もう少し怒らせてよぉ……ユウキ君てば気が利かない……」

「えっ! ごっ、ごめんなさい」

ユウキは手を引っ込めようとしたが、彩は離さなかった。

「ごめん。ウソ。ありがとうね」

涙を流した儘、彩はユウキに優しく微笑み掛けた。ユウキの顔が赤くなり、蓮がそれを睨み付けている。

「彩さん、こんなこと聞くのは申し訳ないんですけど……その、久万の宝について、何か心当たりは?」

神田がおずおずと彩に質問をする。

「ええ……わかんないです。何も、心当たりなんかないし、そんなもんあったら自家(うち)はもっと生活が楽になってたんじゃないかな……」

「そうですよね。済みません」

「神田さんよ。何だか俺が来る迄も無かった様な気がするがな」表情を失くした佐々木が、静かに語りだす。「幾つかのミッシングリンクは繋がった訳だ。先ず、坂上が久万に追われていた理由は分かった。それが久万の宝だな。誠治が健介を殺した理由も久万の宝だ。但こっちは単なる思い込みである可能性が大きい。そして健介に近付くために達也が利用された。序でに達也自身も誠治の駒として流用された。そして、誠治が事故死する間接的な原因を作ったのは一郎だ」

「聞いていて思い出したんですが、健介が死んだ直後位に、宇佐の組員が一人粛清されているんですよ。達也の説明に拠ればそれは健介殺しの犯人として始末されている。然しそんなことはあり得ないですね、犯人は一郎なんだから。そしてこっちの殺しに一郎は関わっていない。そうだな? 達也」

達也は眉間に皺を寄せた。

「そう……あの時撃った人物は、実はよく見えてなかったんだけど、少なくともこの、一郎ではなかったと思う。背格好が違う気がする」

「それが坂田なんじゃないかな」

「それは判らないけど……」

「其奴はな、俺の見たところ、達也の信頼を獲得する為だけに殺された。まあ何かしらのへまをしてけじめ取らされたのかも知れないが、殺す現場を達也に見せるのが最優先で、若しかしたら何の罪もない役立たずの組員を一人使い捨てただけかも知れん。そんな者殺すのに一郎は使わんだろう。高いからな」

「なにそれ! そんなこと許されるわけない!」

佐々木の説に蓮が(いき)り立つ。

「何があろうと、殺人は赦されることではないのだよ」

「勿論そうだよ! でもそんな、ゴミ捨てるみたいに人の……命を……あ、ユウキ、この野郎!」

一瞬勢いを落とした蓮が、直ぐにユウキに怒気を向ける。

「うわ! だって蓮さん、興奮していたから!」

「興奮位させろぉ!」

「わはははは、若い娘は瞬間湯沸かし器の様だな」

佐々木が笑うと、蓮は顔を真っ赤にして黙って仕舞った。一瞬座が静まり返った所で、佐々木がと咳払いをする。

「それで、今残っている謎は」佐々木が続ける。「誠治に指示を出していた上位の流れと、久万の宝の行方だ。久万の宝は恐らく、未だ久万組に戻っていないのだろう。だからこそ、久万と宇佐はこんなにも近付いているんだ。お互いに腹の探り合いをしている様に、俺には見えるな」

「矢っ張りそうですよね」

「久万は宇佐が知っているのではないかと、宇佐は久万が既に取り返しているのではないかと疑っているな。で、宇佐は隙を見てくすねて遣ろうと思っている様だ」

「せやからそう云うのんは、知佳ちゃんに――」

思わず都子が口を挟むが、直ぐに黙って仕舞った。知佳は疲れが出たのか、蓮に凭れてすやすやと眠っている。

「しょうないなぁ。働かせ過ぎやな」

「ミヤちゃんがそれを云うか」

蓮の突っ込みに、都子はぺろりと舌を出す。

「てへぺろ」

「何それ」

「まあえゝやん。知佳ちゃんは休んどったらえゝし。取り敢えず此奴らの様子、確り見とき」

地下の大広間では、相変わらず誠治の話に花が咲いている。知佳が心を読んだ影響なのか、一郎は何時に莫く饒舌に、昔語りをしている様だ。

「何だかこうして聞いていると、一郎は誠治が死んだことで、ちょっと寂しくなってるみたい」

蓮が独り言の様に呟くと、向かいに座っている佐々木が緩と頷く。

「そうだな。君は佳い耳をしている。本人は意識していない様だがな。如何も心にぽっかり穴が開いている様だ。時々遠い目をして黙って仕舞うしな。ほんの瞬間的にだが」

「髭所長さんって、よく見てるね」

髭所長は、都子が付けた渾名だ。蓮と都子は、如何やら呼び名を共有する傾向にあるようだ。

「うちの所長は、有能なんだぞぉ!」

彩が得意気に胸を張ると、佐々木は稍眉を顰めて、「こら。恥ずかしいから止めなさい。身内を自慢するなんて、謙虚さに欠けるぞ」と叱った。

「えへへ、ごめんなさぁい」

てへぺろこそ云わなかったが、彩は後頭部に手を置いて、ぺろりと舌を出した。少なくとも反省はしていない。全く最近の若い娘は、と云わんばかりに、佐々木は嘆息した。

「まあそれは兎も角。うちも大分疲れたな。神田っち、今何時や?」

都子がソファに沈み込み、最後の饅頭を頬張りながら訊いた。

「ミヤちゃん結局、ずっと食べてるね。お腹大丈夫?」

蓮が心配そうに尋ねる。

「お腹ペコペコや。ほんま、食ったもん何処に行きよんねん、てぐらい腹膨らまん」

「どっかにワープさせてたりして」

「そんな馬鹿な! んな勿体無いことしてへんどぉ。ちゃんと消化せぇ」

弱い声でおなかを(さす)りながらそんなことを云うものだから、蓮はけらけらと笑った。

「そんで神田っち、今何時やねん」

「もう十一時になるところです。本当に皆さん、今日は良く働いてくれました」

神田の声にも疲労感が漂っている。知佳は寝ているし、ユウキも大分眠そうにしている。蓮のテンションが高いのも、眠いからなのかも知れない。

「もう晩いですし、彼らもこれ以上の動きはないでしょう。一旦今日はこゝ迄として、続きはまた明日としましょうか」

神田が一同を見渡しながら、締めに入る。

「皆さん、一旦自宅に帰られますか? それとも、大月に泊まって行かれますか?」

「えー。温泉入りたかったなぁ」

蓮が不満気に訴えるが、「残念ながら宿を取っていませんし。敵地に泊まるのは矢張り危険ですので」と神田に却下されて仕舞った。

「知佳寝ちゃってるし、大月で好いよ。どうせまたクラちゃんが、集団幻覚してくれてるんでしょ?」

「しとるで。幾らでも学校さぼれるで」

「そんなことは頼んでないけど。明日日曜だし、今日は大月で良いかな。――知佳? 大月泊まるけど好い?」

蓮が知佳に優しく聞いている。知佳はうっすらと目を開けて、小さく首肯いた。

「諒解りました。ユウキ君は如何します?」

「僕も大月で」

「寂しんぼだからねぇ」

蓮がニヤニヤしながら弄ると、ユウキは顔を真っ赤にして、「そんなんじゃないし! 明日の始動考えたら大月の方が都合好いから!」と答えた。

「何その答え。知恵付けやがって、この!」

そんな遣り取りを横目に、彩はスマホを眺めながら、「あたしこんな時間に帰っても怒られるだけだし。仕事で急な出張って云ってあるから、大月に泊めて貰っても好いですか?」と訊いた。

「勿論、構いませんよ。部屋はたっぷりありますから。達也の向かいの部屋にでもしますか?」

「えっ!」

彩は一気に朱に染まり、都子がケラケラ笑い出す。

「えゝやんけ、向かいにして貰い」

「えっ! そそそんな! めめ迷惑じゃ?」

彩は恐る恐る達也を見るが、達也はきょとんとした顔で、「別に構いませんよ」と答えた。「音漏れする様な造りでもないですし」

「神田っち、達也って鈍い感じか?」

都子が神田にこっそり訊くが、神田は黙って苦笑するばかりである。

「俺は一旦、スナックに帰してくれんか。田村もだが、洋子ママも心配なんでな」

佐々木の申し出に、神田は首肯いた。

「諒解りました。都子さん、佐々木さんをスナック『コスモス』に帰してあげてください」

「はいよ」

佐々木の目の前の空間が、コスモスへと繋げられた。

「明日また呼んでくれるなら、新宿の事務所の方に居ると思うので、そっちに繋いで貰えるかな」

「諒解りました。其方に電話してから繋ぐようにしますね」

「頼んだぞ」

そして佐々木は、スナックへと移動した。相変わらず客はおらず、田村が呆然とカウンターに座っている背後から、佐々木が「ただいま」と声を掛けた所で、都子は接続を切った。

「ほいでは蓮ちゃんと知佳ちゃん以外は、全員立っといてか。ソファ応接室に返すんで」

蓮に従って皆が立ち上がると、蓮と知佳が座っているソファ以外が忽然と消えた。

「佐々本のおっちゃんも、その椅子食堂に返すで」

「おお、そうだった。頼むよ」

そう云いながら佐々本が立ち上がると、食堂の椅子も消えた。都子は蓮と知佳が座っているソファを指して、神田に確認を取る。

「こいつだけは宿舎のロビーに持ってくけど、えゝやんな?」

「構いませんよ。お願いします」

次の瞬間、皆は幾つかのジオラマごと、大月宿舎のロビーに立って居た。

大月 五

「此処でもジオラマ維持出来るんだね」

彩が感心した様に云う。

「そらそや。亜空間と、ワープと、このジオラマとは、別々の操作やからな。何なら此処の食堂貸し切れるなら、別に亜空間要らんねん」

「食堂って! 都子さんたらホントによく食べるね」

「ワープはおなか減るねん。ジオラマもそこそこな――なあ神田っち、これずっと置いとかなあかんか?」

「そうですねぇ。一旦みんな就寝する際には、切っておいてもよいですかね」

大広間では、何時の間にか酒宴になっていた。久万会長と宇佐組長の姿は既に無く、柊元も何処かへ行った様だ。一郎と水木、それに小物の柚口が、微妙な空気の中で酒を酌み交わしている。秋菜の姿も無いので、恐らく久万と一緒に退室したのだろう。都子は視点を一階に上げてみた。其処では各個室に、会長と組長が布団を敷いて寝ていた。別の部屋には中川姉弟も居た。柊元だけいない。フェイクとして街に放たれたのかも知れない。地下への入り口と思われる辺りには、何か大きな荷物が置かれている。

「まあ、此奴等も一郎を上に出す気は無さそうやしな。何なら顎兄に、一晩中覗き見して貰っといてもえゝか知らんけど……」

「かっ、勘弁してや、寝られへんやんけ」

クラウンが慌てゝ抗議する。

「秋菜ん時は三日でも一週間でもぉ、ゆうとったけどな……男は見たないか」

「そっ……そぉゆう訳では……あん時は力余ってたから、そんな軽口も叩けたけど、今はもうへとへとやん。夜通しとか辛いわ」

「ん――まあ、別にえゝか」

そして都子は、ジオラマを消した。

「風呂入って寝るわ。顎兄、覗きなや」

「するかぁ!」

都子はけらけら笑いながら、手近な部屋に入ると、直ぐにタオルと浴衣を持って出て来て、浴場へと向かった。

「あたしもお風呂行く! 知佳! 風呂入って歯磨いてから寝なさい!」

蓮が知佳をゆさゆさと起こすと、知佳は眼を擦りながら起きて、大きく伸びをし、「はぁい、おかあさん」と云った。

「お母さんじゃなぁい!」

蓮の叫びに彩が微笑む。

「あたしも一緒して良いかな?」

「もちろん! あ、彩ちゃんの部屋は二階の一番奥ね! 左手がタッちゃんだから、右手が彩ちゃんだよ」

「あっ、うん……ありがと」

彩は頬を赤く染めて、いそいそと部屋へ向かった。蓮と知佳は一階の、都子が取った部屋の並びを順に確保すると、風呂道具一式を持って浴場へ向かった。暫くして彩も風呂道具を持って出て来る。

「さて、女性陣が風呂を先取りして仕舞ったので、私等はそれ迄静かに待ちますか」

神田はソファの背凭れに体を沈めると、眼を閉じた。

「俺は一旦、支部の方に戻らせてもらうぞ」

佐々本はそう云うと、宿舎を出て行った。

「佐々本さん、寝ないのかなぁ」

ユウキが目をとろんとさせながら云う。

「あれは、支部の方の宿直室使う気やな。あっちにもシャワー室はあるからな」

「そうなんだ……なんか狡いや」

「ゆうて風呂桶無いからな。悠然浸かるとかはでけへんで。――ユウキ寝そうやな。先に歯ぁ磨いとき」

「うん」

ユウキはクラウンに手を引かれて空いている部屋に入り、歯磨きを持たされると、今度は給湯室へ連れて行かれた。

「男性陣多分、全員一遍には風呂に入れないよね。僕一旦、部屋に戻っておくよ」

達也は神田にそう声を掛けると、カールを(いざな)ってそれぞれの部屋へと戻った。

「中々佳い連中だな」

部屋に入る直前、カールが達也にそう声を掛けた。

「父さんのチームだからね」

達也はそう、幾分得意気に微笑みながら云うと、自分の部屋へと入った。

翌朝六時頃、歯ブラシを持った神田がロビーに出て来ると、既に都子が居てジオラマを展開していた。昨夜の酒宴が何時迄続いていたものか判らないが、下呂の地下大広間では三人の男が適当に延べた布団で未だ寝ている様だった。今朝は一階の様子も繋いであるが、此方も宮司が忙しそうに動いている以外は静かなものだった。

「都子さん、早いですねぇ」

神田が声を掛けると都子は大儀そうに顔を上げた。

「お腹空いて眼ぇ醒めよってん。何か無いかな」

「この時間ではちょっと難しいですね」

「ほうか……蓮ちゃんも未だ寝とぉしな……ジオラマこの儘にしとくんで、もう一眠りさして貰うわ」

「寝てゝも維持出来ますか」

「接続乱れたらゴメンやで。元々腹減り過ぎん様、弱めに繋いどるけど。まあ、暫くは其奴らも寝とぉやん。八時ぐらいには起きて来るんで、それ迄見といてか」

都子はそう云い遺すと、欠伸をしながら自分の部屋へ引っ込んで仕舞った。神田はジオラマを暫く眺めていたが、特に動きは無いと思い、その儘歯ブラシを持って浴場へ行った。

次に起きて来たのはクラウンだった。歯ブラシと整髪料を手にロビーに出て来ると、ジオラマを見付けて眼を瞠る。

「なんや、もう繋いどるんか……」

きょろきょろと都子の姿を探してみたが、見付からないので諦めて、その儘浴場へ向かった。脱衣場の洗面台では、神田が歯を磨いていた。

「あ、神田さん、おはようございます」

神田は歯ブラシを(くわ)えた儘、眼だけで応えた。クラウンも歯ブラシを銜えると、整髪料を手に出し、頭に塗りたくり始める。それ迄ぺたんと垂れていた髪が、見る見る尖り出す。

「毎朝大変ですねぇ」

歯磨き粉交じりの唾液をぺっと吐いて、神田が横から感心した様に云う。

「何時迄これ続けようか、実は止め時に悩んでるんですわ。都子の云う様に髪のダメージも最近気になってるんは事実やし……」

「そうなんですか。それは難しい問題ですね」

「そうですやろ。イメージガラッと変わって仕舞うのも、怖いですねん」

皆そこまでクラウンの髪型を気にはしていないと、喉の先まで出掛かったのをうんと呑み込み、神田は嗽を始めた。そこにユウキが眼を擦りながら遣って来た。

「ああ、此処に居たんだ。都子さんもう起きてるの?」

「一回起きて来て、また寝ると云って部屋に帰られましたよ」

ユウキの問いに神田が答えると、クラウンが納得したような顔をした。

「そんでジオラマだけあったんやね」

「ユウキくんも早いですね」

神田が訊くとユウキは欠伸を一つ挟んで、「何だか煩くて起きた」と云った。

「うるさくて?」

神田が問い返すと、廊下の方からドタドタと音が近づいて来て、脱衣場に蓮が飛び込んで来た。そして人が居るのも構わず、ポイポイと着衣を脱ぐ。

「ちょっと蓮――きゃああ!」

蓮を追い掛けて来た知佳が、悲鳴を挙げる。蓮は気にも止めずに素っ裸になって浴場へと消えた。

「ひゃああ、皆いるのに! 蓮のバカ!」

嵐の様な出来事にフリーズしていた男性陣が、我を取り戻す。

「あ、す、すみません、直ぐ出て行きます」

神田がそう云って出て行こうとした時、ユウキの鼻から紅いものが垂れて来た。

「わあ、ユウくん!」

若干着崩れした浴衣姿の知佳が駆け寄ると、ユウキは更に鼻血を垂らしながら顔中真っ赤に染めて、「だ、だいじょぶだから……自分で治すから……」と云って後退った。

男性陣が全員退室してから、知佳は脱衣し、浴場へと入る。

「こらあ! 蓮!」

「あ、知佳ぁ、遅いぞー」

蓮は湯船に浸かって、呑気に応える。

「あんた馬鹿なの!? 羞恥心って物が無いの? デリカシー無さ過ぎでしょ!」

「気にしない、気にしない。知佳と違って胸だってぺったんこだし、子供の裸なんか誰も興味ないよ」

「そんなことない! そんなことないぞ! ユウくん鼻血出してたぞ!」

それを聞いて蓮は、ゲタゲタと笑った。

「あンのエロガキ、後でお仕置きだな!」

そうして猶も笑っている。普段級友達の恋愛話なんかの相手をしている割に、こう云う感性は意外に幼い儘なのは何なのだろう。それとも解っていて態と遣っているのか。所謂「小悪魔」と云う奴か。そうなのだとしたら――子供心にさえ、末恐ろしい女だなと知佳は思って仕舞った。

朝風呂から上がると、都子以外は全員ロビーに出て来ていた。なんとなく神田とクラウンとユウキの三人は、蓮や知佳から視線を逸らせている様な気がする。知佳は唯々申し訳なかった。隣で蓮が涼しい顔をしているのが、小憎たらしい。

「神田さん、先刻は済みませんでした。蓮の莫迦が――」

知佳はそっと神田に謝った。神田は鳥渡目を泳がせながら、「私達は大丈夫ですよ、よく見てなかったですし……ねぇ、クラウンさん」

話を振られたクラウンはどぎまぎした様子で、「せ、せやで。鏡の自分の姿ばっかり見てたから、大丈夫や」と答える。

「クラウンさんもホント御免なさい。ユウくんも――」

ユウキは顔を真っ赤にして、「ダイジョウブ、ミテナイ」と答えた。

「見てたとしたって皆さん悪くないので……もう完全に蓮が悪いです。本当にごめんなさい」

その蓮は、知佳の謝罪の様子など全く気にも掛けずに、ジオラマに見入っている。

「くそぉ、蓮のあほぉ!」

知佳が後ろから組み付くと、蓮はきゃははと笑いながら遣り返す。

「何だ知佳、遊んで欲しいのかぁ?」

「違うし! 他人の気も知らないでぇ!」

「んもぉ、解った解った、知佳には苦労掛けるねぇ」

「絶対解ってない云い方!」

「そんなことないよぉ」

「だったら三人に謝って来ぉい!」

「なんで?」

「ほら解ってない!」

二人の遣り取りを心配そうに見ていた彩が、声を掛けて来た。

「如何したの、二人共。喧嘩は良くないぞぉ」

「だって蓮が――」

事情を説明すると、彩は吃驚したような顔をした後、困った様に苦笑した。

「蓮ちゃん、やんちゃだなぁ」

「気にし過ぎだよぉ。ユウキだって、あたしの綺麗な裸体見れたんだから儲けもんじゃん! ――ねぇ? ユウくん!」

蓮が少し離れた処に居るユウキに声を掛けると、ユウキは一気に顔を赤く染めて、「見てないし!」と云って何処かへ行って仕舞った。今日は朝から何度赤面しているのだろうと、心配になって仕舞う。

「ほらぁ、蓮、教育上よくない!」

「えー、失礼だなぁ」

「蓮ちゃん、女子はもう少し控えめにしておかないと……ほら、今は児童ポルノなんてものもあるみたいだし……」

「なにそれぇ。そんな不健全じゃないもん」

彩の忠告に蓮は口を尖らせたが、少しトーンダウンした。

「女子だからとか、そう云うの良くないんだぞぉ」

「そうだけど、蓮ちゃんを心配して云ってるんだよ」

「うん……ごめんなさい」

そんな遣り取りをしている背後に、何時の間にか都子が立っていた。

「おはようさん。何や朝から、蓮ちゃんは説教されとるんか」

そしてケラケラ笑いながら、浴場へ立ち去って仕舞った。蓮は何だかしょんぼりしていた。

顔を洗いに行っただけなので、都子は直ぐに戻って来た。

「誰や、朝から風呂沸かしとったん」

そして蓮を見て、「そうか、蓮ちゃんか」と云った。

「起きたら沸いてましたよ」

知佳がそう云うと、「此処の風呂は一応、二十四時間風呂です。偶に職員がメンテナンスで止めることもありますが」と神田が答える。

「何て贅沢な施設や」

「まあ、警備関係は元々活動時間が不規則ですからね。何時でも入れる状態でないと不便なんですよ」

「さよかぁ……ほんで蓮ちゃん元気無いのなんでや」

知佳があらましを説明すると、都子はにこりともせず、「蓮ちゃんは佑香タイプやな。気ぃ付けやぁ」と云った。

「佑香さん?」

「んぁ、なんもない。気にしんくてえゝよ」

「なんだそりゃ」

「まあとにかく、今日のお仕事始めよかぁ……と、その前に朝御飯!」

「賛成!」

元気に手を挙げたのは、蓮だった。

「何や、元気やん。ほな食堂へ!」

蓮はてへへとか云いながら、都子が開けたワープ(ゲート)を通り、皆と一緒に食堂へと移動した。

朝食は例に違わず都子の分だけ倍量となっていた。それを食べながら都子が云う。

「うち思ってんけど……昨日一日おやつ食い(まく)って判ったことがあんねん」

「なになに?」

蓮は今朝の騒動なんかすっかり莫かったことかの様に、瞳をキラキラさせて都子の話に聞き入る。

「団子とか煎餅とか、炭水化物もえゝねんけど、矢っ張り糖分が一番効く感じやな。脳の栄養は糖分ってゆうやん? こんなん脳の活動やろぉから、やっぱ糖分摂らなかんのやろなぁって。やから今日は、飴ちゃんようさん食っとくわ」

「飴にちゃん付け?」

「ん? 吁、これ関西弁やっけ。飴ちゃんは飴ちゃんや。西では皆そう云う」

「へええ、クラちゃんも?」

急に振られてクラウンは鳥渡慌てながら、「んっ、ゆうで。飴ちゃんやな」と、眼を泳がせながら応えた。未だ今朝のことを引き摺っている様だ。

「面白いね! ガムとかグミとかは?」

「それはガムとグミや」

「飴だけ? 変なの」

「そやなぁ……ほら、こっちでも『お稲荷さん』とかゆうやん? あれと同じと思い」

「あゝ、お稲荷さん、云うねぇ……」

「お(かい)さんとかな」

「なにそれ!」

「あれ? お粥さん。云わん?」

「おかいさんって何? 食べ物?」

「えっと……水多めにしてご飯炊いて、べしゃべしゃにした奴」

「お(かゆ)かな」

「それそれ。そか、おかゆ、なんやな」

「おもしろぉい!」

面白いけど、蓮は今朝のことがあって如何してこんなに無邪気に燥いでいるのだろうと、やゝ引き摺り気味の知佳は嘆息するのだった。

食後はまた宿舎ロビーに戻って来た。今日は此処でするのかと思ったら、景色が消し飛んだ。

何処でもない場所 五

「あ、矢っ張り亜空間に来るんですね」

知佳が云うと、都子が面倒臭そうに応じる。

「ロビーではちょい狭いねんな。此処なら気兼ね無く、広ぉく使えるから」

「そうかぁ。ジオラマ一杯出すもんね」

「ほんでうちはお腹減り捲ると」

都子がケラケラ笑うので、知佳も連られてくふふと笑った。

「そうそう、知佳ちゃんはその笑顔で居ったらえゝ」

都子に云われて知佳はした。都子は自分の心を(ほぐ)してくれたんだ。その位自分は不景気な顔をしていたんだろうか。知佳は気恥ずかしさと嬉しさとで、頬をほんのりと染めた。その様子を見届けると都子は軽く微笑み掛け、然し直ぐに話頭を転じる。

「そろそろ連中も起き出しとるし、髭爺さん呼んどくか?」

髭所長が、一晩で髭爺さんになっている。

「佐々木さんですね。暫しお待ちを。電話を先に入れる約束でしたので」

神田が答えると、都子はポンと手を打った。

「ほんまや。神田っち、電話して()

そう云って都子は、ロビーへの口を開けた。

「はい。ではお待ちください」

神田はロビーへと出て行くと、スマホで電話を掛け始める。

「そういや山小屋は如何なっとんのかな」

都子は昨日移転作業をしていた山小屋の辺りをジオラマに出す。然し昨日移していた筈の拓けた場所に、山小屋は建っていなかった。

「おんやぁ? 何処行きくさった」

縮尺を縮め、広い範囲を俯瞰して探す。木々が邪魔で探しにくいが、確かに山の上の方へと移動していた筈と、子供達も総出で、より山の奥の方を虱潰しに探していく。知佳も蓮もユウキも、ジオラマの中に分け入って迄探しているが、如何にも見付からない。

「わあ、そんなことして、巨大怪獣出現! みたいなことにならないの?」

彩が目を丸くしながら叫んでいる。それに対して都子は相変わらず眠たそうに、「んぁ? これは見えとるだけで、こっちから向こうに干渉はでけへん状態やから、気にせんでよし」と答える。

「然し見付からんなぁ。もしや完全撤収したか? あの拓けた場所から、トラックかヘリで運び出したかな?」

「ヘリぃ!?

「ヘリは無いかな」

そして都子はケラケラと笑った。そこへ神田が戻って来て、「では都子さん、新宿の事務所にお願いします」と云う。

「うち場所知らんど」

「あっ、ええとですね、新宿駅周辺出せます?」

都子は新宿のジオラマを展開した。そこから神田が道を辿って探偵事務所に辿り着き、「此処です、此処に繋いでください」と云った。

「はいよ」

ジオラマが消えて、事務所玄関内へのワープ門が開く。

「オムカエデゴンス!」

都子が事務所内に向かって元気よく声を掛けると、奥から「はぁい」と返事が返って来た。程無く佐々木が現れる。

「やあ、皆さん、お早う」

「何や、髭爺さん此処に住んどるんか」

「髭爺さんは酷いな。うんまあ、事務所兼住居なんだ、此処は。田村は通いだけどな」

そう云いながら佐々木は亜空間へと入って来た。

「『髭爺さん』はあかんか」

「あかんこともないがな。昨日の、髭所長の方がマシだな。爺さんと改めて云われると(こた)えるわい」

「十分爺さんやけどな。まぁえゝわ。髭所長で勘弁したる」

「すまんな。我儘(わがまゝ)爺さんで」

「ほんまやで」

都子と佐々木は、わははと笑い合った。

「さて今日こそは、久万の宝を見付けるぞ!」

佐々木がそう意気込むので、知佳は吃驚した。

「佐々木所長さん! 宝探してたんですか?」

「勿論。それがの発端、全ての元凶だからな。見付け出さんことには何一つ収まらん。――知佳ちゃんだったかな、此処に居る連中の誰かが、宝の在処(ありか )を知っているなんてことは無いかな?」

「探してみます!」

知佳はそう云うと、社務所内の人物を一人一人走査(スキャン)し始めた

「さてと。俺達は地道な探偵と行くか。都子さん、鳥渡頼まれて欲しいんだが……」

飴玉をガリガリ噛み砕きながら、「何や? 髭所長」と云いながら都子が寄って行く。

「飴ちゃん舐めるって云わないで食べるって云ってたけど……本当に食べてる……」

知佳が呆れた様に呟くと、蓮も隣で頷く。

「ミヤちゃん、歯、丈夫だよね」

「え、そこ?」

「好いから知佳は集中」

「あっ、くそぅ……」

知佳は走査に集中し直す。今のところそれらしい記憶は見当たらない。遠くの方で都子と佐々木が何かしているのも気になる。達也と彩も手招きされて其方へ行った。神田達残りのメンバーは、社務所内の人々の動きを観察している。

なんだか全然集中出来ない。目的の記憶なんか見付かる訳が無いと思っているからか。そう思いながら久万会長の中に下りて行くと、久万の宝の姿が初めて見えた。

「久万さんの宝は、クマさんなんだ……」

知佳の呟きを佐々木が耳聡く聞き付ける。結構距離があったのに、地獄耳である。

「久万の宝を見たか? 教えてくれ!」

「あ、ええと、隠し場所とかじゃなくてですね」

「解っとる。久万吾郎の記憶を読んだのだろう? なら宝の実体を見た筈だ。一体クマさんとは、如何云うことかな?」

「ええと、よくあるじゃないですか、熊がお魚銜えて、四本足で立ってる、木彫りの……」

「おお、坂上が吾郎に投げ付けた奴だな!」

「あ、そうなのかな……結構大きいんですよ。床の間にドンって置いてある感じで」

「成程、三十(センチ)ぐらいかな?」

「んーと……」知佳は両手で大きさを作りながら、「多分もっとあるかな……ほんと、大きいです。こんなのおでこに当たったら死んじゃうってぐらい大きいです」

「その手の感じだと、六十糎はありそうだなぁ。それで?」

「その熊さん、お腹が開くみたいで……中に……うわぁ、凄い宝石沢山……これ金剛石(ダイヤ)なのかな……キラッキラです」

「来た来た! そんなごついもん持ち出したのか、坂上は!」

「そう――ですねぇ。その熊、丸ごと持ってかれたみたいです。――わあ凄い。念動力で持ち去ったんですね。凄い危ない。熊で何人も殴られてます」

「よし解ったぁ! 熊を探すぞ! ――扠、取り敢えず怪しいのはだ……」

「これやん?」

都子が指をさした先に、木彫りの熊が居た。

「こっ――此処は?」

熊は何処かの床に無造作に転がっている。周りには酒瓶や漬物の入ってそうな壺等があり、鍋やフライパンが(うずたか)く積まれていて、熊の姿を見え難くしている。上にも空のタッパー等が乱雑に乗っかっており、その上には如何やら蓋がされている。これは床下収納庫なのだろう。蓋の上にも米や乾燥椎茸、小麦粉、片栗粉の袋等が並んで、蓋を完全に見えなくしている。その手前には磯貝洋子が足を組んで、煙草を燻らせている。詰まりこれはカウンターの内側で、此処は川口のスナック「コスモス」に他ならない。

「洋子さんが!?

彩が目を丸くして叫んだ。

「えっ、だって、コスモスも久万組だか宇佐組だかが隅々まで探したって、なんか誰か云ってなかった?」

「こっそり探すには限界あるやろうし、当時から此処に在ったとは限らんど」

「そ、そうか、なら――え? でもそうすると、お父さんが?」

「他に誰がおんねん」

「うそぉん!」

彩は両手で口を覆った。

「何だか都子さんの方が探偵らしいなぁ。矢っ張りうちに来んか? 何なら事務員と交換で――」

彩が悲鳴を上げる。

「しょしょしょしょちょお! そんなそんな! 捨てないでくださぁい!」

佐々木と都子は略同時にゲラゲラと笑った。

「済まん済まん、冗談だよ。そんなに取り乱さなくても好いだろう」

「ほんま面白(おもろ)いキャラやな、彩ちゃんは」

彩はぷうっと頬を膨らませる。

「扠如何するかなぁ……ママは、此処に熊が居ること知ってるのかな?」

「見ます」

知佳は洋子ママの心に下りて行く。洋子は確実に熊の存在を認識している。邪魔な熊が。何時の間にこんなものが。店の雰囲気にも合わないし。康ちゃんの趣味ではないと思うんだけど。――どうも坂上の死後、部屋を片付けている時に見付けた様で、処分に困って彼方此方移している内に、床下に落ち着いた様だ。

「洋子さんは知ってます。此処に入れたのは洋子さんだから。でも、この熊が何なのかは知らなさそう。邪魔だけど捨てるに捨てられないって感じですね」

「捨てられてたら偉いこっちゃだな。然し如何遣って引き取ろうか――」

佐々木の言葉が終わらない内に、背後で蓮が「あ」と云った。佐々木が振り返ると、蓮の足元には熊が居た。

「おおっと! これは!」

「持って来ちゃった。拙かったかな……戻そうにも、色々崩れて来ちゃってもう戻す隙間ないよ……」

足許でガラガラと云う音がしたので、洋子ママが床下を気にしている。

「お前勇み足が過ぎるわ。フォローしとくけど、ちゃんと手順踏めや」

クラウンがそう云って、洋子に何かした。洋子は足許を気にしなくなった。

「ご、ごめん、クラちゃん……」

「床上のモンが崩れた音や、思わしといたわ」

「あの……今朝のことも、ごめんね」

蓮が俯きがちに小さな声でそう云うと、クラウンは鳥渡どぎまぎしながら、「あ、アホか。そんなこと今更もぉえゝ」と云った。

「さあて。持って来ちまったもんはしょうがないな。取り敢えず中を確認しとこうか」

佐々木はそう云って、熊の置物をひっくり返した。パッと見ただけではお腹が開く様には迚も見えない。切れ目も継ぎ目も見当たらない。それでも佐々木が色々(いじく)っている内に、腹の一部がすっと横滑りした。

「見つけたぞ。佳い造りだな。ずらしてもなお、継ぎ目が判らんわい」

そこから復、彼方此方押したり引いたりしていると、少しずつ色々な部品がずれて来て、最終的に腹の板が大きく一枚、ポロリと取れた。中を見た一同は目を剥き、生唾を飲む。

「これは……すごいな。数十億だと? そんなんで済むかな」佐々木が嘆息する。

「これだけのもの、十年以上も行方不明だったの? 久万さんも心配で堪らなかったでしょうね……」彩は久万会長を気遣う様なことを云う。

「お正月にも結構なアクセサリー見たけど、そんなの比べ物にならないよね、これは」蓮が知佳に同意を求める。

「怖いよ、こんなもの手元に置いておきたくない……」知佳は稍怯えて仕舞っている。

「然し、美しい寄せ木細工やなぁ。髭長、これ、戻せるんか?」都子は一人、熊の方に興味を示していた。

「ひげちょう! あゝ、まあ、手順はちゃんと此処に入っとる」

佐々木は己の頭蓋を人差し指でトントンと(つゝ)いた。

「あれ? ――いや、気の所為かな……」

知佳が中身を見ながら首を傾げていた。

「如何した知佳」

蓮がその様子に興味を示す。

「なんとなく――いや矢っ張り気の所為かも」

「減ってるかな?」

佐々木の指摘に、知佳はパッと顔を上げた。

「いや、でも、勘違い――かも――待って下さい、もう一度確認します」

知佳は久万会長の記憶を確認する。熊の腹には略隙間なく、蓋の所迄みっしりと金剛石が詰まっている。そして実物の熊に目を移す。なんとなく、隙間がある様な。

「まあ、そうかも知らんな。坂上がこれを持ち出してから、死ぬ迄に、三日四日あった筈だ。それだけあれば、腹開けて中身くすねる位はするだろう」

「でもそれ、盗んだ金剛石は一体何処に」

知佳の疑問に対して、彩が数歩後退った。

「いやいや、え、嘘でしょ、そんなわけ……」

「彩ちゃん心当たりが?」

「ななない――ことも無くは――莫いとも何とも――」

「どないやねん!」

都子が反射的にツッコむ。

「ええ、でも自家、迚も庶民的で、そんな――お兄ちゃんは高専だったし、あたしは短大で――香は四年制だけど――奏介は学資保険が――」

「高校は公立やった?」

「え。お兄ちゃんとあたしは……でも香は私学……やだ、嘘だよ、そんなことないし!」

「詰まり如何云うこと?」

蓮が訊くと、彩は首をブンブン振って、「ないない! そんなことない!」と云う。

「四人も育てるのは如何に実家の援助があっても、まあ大変だと思うわい。学校出すのもまあ金が掛かるしなぁ」

「嘘って云ってぇ!」

「嘘ではないけど――でも、彩ちゃんも、彩ちゃんのお母さんも、悪くないよ」

知佳が静かに宣告する。

「如何云うことぉ?」

「洋子さんが――でも洋子さんも、それが盗品だとは思っていなかったみたい」

知佳は凝と洋子を見据えている。

「お給料、ボーナス、お小遣い、お年玉……色々な名目で、何度にも亘って、お母さんにお金の援助して来たんだね。一回一回はそんなに高額ではなかったから、お母さんも拒否することは無かったみたい。何時も有り難く貰ってる」

「そんなぁ……おかあさん……」

「康ちゃんが遺してくれた財産だから、文恵ちゃんに貰う資格があるって――毎回洋子さんはそう云ってる」

「コウちゃん? フミエちゃん?」蓮が訊くと、「お父さんは康太、文恵はお母さんの名前」と彩が答えた。

「でもでも――それでも矢っ張り、それは人のお金で」

「綺麗な金では無いやろなぁ」

クラウンが慰める様に云う。彩は顔を(しか)めて俯向いて仕舞った。

「アホか顎兄、慰めにならんどころか追い討ち掛けとるわ」

「あわわ、そんな心算やないねん! ご、ごめんなさいい!」

慌てるクラウンに、彩はくすりと笑って仕舞った。

「もお、クラウンさん、面白すぎて反則」

「へっ? いや、わしは……いやまあ、それならそれで……」

都子も蓮も、ケラケラ笑っている。

「でも矢っ張り、あたし、受け容れられない……それは必ず返さなくちゃならないと思う」

「幾らやねん」

都子に問われて彩は目を伏せる。

「判んないけど……」

「そんなん如何すんねん」

「あ、洋子さんに訊けば判るかも!」

「なるほどなぁ。結局この人に、話聞かんならん訳や」

そして都子は、ジオラマ上の洋子に眼を遣る。

「それなら俺が訊いて来よう」

熊の腹を閉めていた佐々木が、作業を終えて立ち上がる。

「都子さん、コスモスまで送ってくれんか」

「えゝねんけど……だいじょぶか?」

「あたしも行きます!」

彩も立ち上がる。

「探偵チームかぁ……うちのどれか、連れてかんくて()いか?」

「そうだな、借りられるなら、知佳ちゃん借りたいな」

「あっ、あたし?」

知佳は裏返った声を出した。

「あなたが居れば、ウソとホントを確実に見分けられるからな。まあ居なくても、大抵見分けられる自信はあるが、居てくれれば心強いわい」

「洋子さん嘘なんか()かないですよ」

彩の抗議に、佐々木はほっほっほと好々爺の様に笑った。

「うちの事務員は未だ未だ若いな。心根が素直だ。そんな気持ちを忘れないで欲しいもんだが」一転生真面目な顔を作ると「嘘を吐かん人間などいない。それは何も、相手を貶める為とは限らん。誰かを護る為の嘘かも知らん。眼の前の相手を護る為にだって嘘は吐く。洋子さんの様な人は、それこそ色々な人を護る為に沢山嘘を吐いて来たことだろうよ。でもそれを責めては不可ん。それは何時でも優しい嘘だったんだろう」

「そんな……でも」

「嘘、吐きそうやけどなぁ」

「都子さん非道い!」

佐々木は困った様に笑った。

「客商売なんかしてゝ、嘘吐かん奴なんかおらんて。嘘吐きに見えへんとしたら、それは洋子さんが彩ちゃんより何枚も何十枚も上手やっちゅうだけのことや。彩ちゃんもその嘘に守られて来たやん? 今この時があるのは彼女の嘘の御蔭かも判らんで」

「そんなぁ。何でそんなこと云うのよぉ」

「現実見とぉからや」

「菊池彩さん。こればっかりは都子さんの云うことが正しい。信じるのは尊いが、探偵目指すなら、それで目を曇らせては不可ん。――まあ、如何でも納得行かないなら、今はそれでもえゝわい。但しこれから見聞きすること、よぉく覚悟して、目ん玉かっぽじって見ておくことだな。これからあなたは、一つ大人になるかも知れない」

「えゝ……もぉ、なにそれ……」

「彩」

それ迄黙って成り行きを見ていた達也が、彩の肩に手を置いた。

「ちゃんと現実見ておいで。彩なら乗り越えられるよ。健介と三人でよく遊んでいた頃の、勝ち気で負けず嫌いな彩をよく覚えてる。素直で優しい彩をよく覚えてる。彩なら出来る」

彩は顔を真っ赤にして、こくこくと何度も頷いた。

「たた探偵見習の彩ちゃんだから! 何にも怖いことなんか無いし! 現実が何さ!」

「ほいでは、行っといで。知佳ちゃんもな」

都子はスナックの入口扉に合わせてワープ門を開けた。そこに扉が見えている。佐々木は杖を突きながら、スナックの扉へと近付いて行く。

「では、知佳ちゃんよろしくな。彩ちゃん行こうか」

三人は扉を開けて、スナック「コスモス」へと入って行った。彩は右手と右足が同時に出ていた。

川口 三

扉がカランカランと音を立てると、カウンターの洋子が顔を上げた。

「何だい、こんな朝っぱらから。――おや、探偵見習と――新顔もいるね。子供が来る様な処じゃないよ」

「営業時間外だから構わんだろう」

「好いよ。カウンターの椅子高いから、ソファ席にお行き」

そう云いながら洋子は、カウンターから出て来て、先導する様にソファ席へと移動した。洋子の隣に佐々木が座り、その隣に彩が座った。

「お嬢ちゃんはこっちにおいで」

洋子が知佳を手招きするので、知佳は反対側へ回り込んで洋子の隣に座った。

「こんな小さな子も探偵のお仲間かい。少年少女探偵団?」

「あ、あたしは――」

「この子は探偵ではなくて、警備会社の子だよ」

佐々木の説明に、洋子は怪訝な顔をした。

「なんだい、警備会社って。こんな小さな子が警備するのかい?」

「特殊な部署があるのだよ。まあその話は置いておくとしてだ――」

佐々木はと咳払いをした。

「坂上康太の遺品中に、熊の置物があったな」

「なんだいそりゃ。覚えてないよ」

「そうですか。では、遺品の中に大粒の金剛石が無かったかな?」

洋子は眼を大きく見開いたが、直ぐに下を向いた。

「さあねぇ。どうだったか……」

「洋子さん、直ぐ売ったんですね。八百万円……」

「なっ!」洋子は物凄い形相で知佳に振り向いた。

「あんた何でそんなこと! 誰なんだい、あんた!」

佐々木が洋子の肩を押さえ付けながら、「落ち着きなさい。その子に嘘は吐けないぞ」と、静かだが強い口調で忠告する。

「洋子さん。嘘なんか吐かないよね」

彩が悲しげな眼で洋子を見据えると、洋子は脱力した。

「なんだい、彩ちゃん。あたしのこと買い被るんじゃないよ。あたしは世紀の大嘘吐きさ」

「そんなの厭だよ」

「厭だと云われてもねぇ……そう、そこのお嬢ちゃんの云う通りさ。八百万だったよ。大きな金剛石だったし、カットも綺麗だった。あれは中々のものだったね。手放したくなんか無かったんだけど」

「文恵さんの為だな」

洋子は自嘲気味に笑った。

「どうだかね。あたしもお金が欲しかった」

「違う。洋子さん、一円も自分のものにしてない。全部文恵さんに上げちゃってるよ」

知佳が反論すると、洋子は力莫い視線を知佳に投げた。

「何でも知ってるんだね。警備会社さんがねぇ……八百万なんかあっと云う間さ。子供四人もいるんだよ。あたしの援助なんか、役に立ったのか如何だか。あの子は元々確りしていたから、貯金だって結構溜めていたよ」

「それでも要所要所で齎されるあなたの支援は、菊池家にとっては非常な(たす)けになった筈だ。それが無かったら、健介の葬儀だって出せたか如何だか」

「健介……あの子は本当に不憫だったよ」

彩が堪える様にして、唇を噛んでいる。

「康ちゃんにもよく懐いていたと聞くし。康ちゃんもずっと気に掛けていたよ。それなのに康ちゃんは死んじまって……健介迄……あらやだ。湿っぽくなっちまったね。朝からこんな話するもんじゃないね!」

そう云って洋子は席を立った。

「朝からお酒でもないよね。紅茶で良ければ淹れるけど」

「あゝ、構わんでください」

「あたしはレモンティーで!」

佐々木が遠慮し掛けた横で、彩が注文をするので、佐々木は小さく、こらっと叱った。

「そっちのお嬢ちゃんは、オレンジジュースで好いかい?」

「知佳です。あたしはお水とかで好いです」

「子供が遠慮するもんじゃないよ、ねぇ、佐々木所長?」

佐々木は苦笑しながら、「オレンジジュースで好いだろう。お代は払うよ」と云った。

「お金なんか取らないよ。酒なら貰うけどね」

そう云いながら、洋子は紅茶三杯と輪切りレモンを盛った皿にミルクポット、そしてオレンジジュースを持って戻って来た。

オレンジジュースが目の前に置かれると、知佳は「有難う御座います」と云ってグラスを手に取った。

「彩ちゃんはレモンだね。所長さんはレモンでもミルクでも、お好きにどうぞ。砂糖が欲しけりゃテーブルにあるよ」

「申し訳ない、こんな気を遣わせちまって」

「好いんだよ。あたしが呑みたかった序でさ」

知佳が微かに微笑んだが、何も云わずにジュースを飲んだ。

〈洋子さんは優しい嘘しか吐かないですよ〉

知佳が彩にテレパシーを飛ばした。彩は一瞬びくりとして、知佳を凝と見詰めた後に、頬を緩めた。そして口の形だけで、ありがとう、と云った。

「でな、洋子さん。その金剛石の出処(でどころ)は知っとるか?」

「出処って何よ? 盗品だとでも云いたいの?」

「勘が良いな」

「えっ、鳥渡待ってよ。本統に? でもあんなごつい物、盗難に遭ってたら大騒ぎにな――なってた、かな」

洋子は幾分蒼褪めていた。

「やだ如何しよう。今更取り返すことなんか出来ない。お金もないし、誰の手に渡ったか……」

「詰まり出処に心当たりがあるのだな?」

「もうそこ迄云われたら、久万組しかないじゃない」

「そこで熊の置物だ」

「何の駄洒落よ」

「ダジャレで済めば良かったんだがな。こぉんな大きな、木彫りの熊なんだが」

洋子は両手で口元を覆った。

「ある! ううん、あった。在ったけどあれ……何処遣ったっけ」

「実は見付けたんだ、此処でな」

「如何云うことよ。昨夜(ゆうべ)家探しでもしてたの?」

「扠どこから話したモノかな……」佐々木は一呼吸置くと、「坂上の能力のことは知っているな?」

「えゝ? あの、超能力でしょう? 何でもぷかぷか浮かせていた。あんなモノがあるから、あの子は命を落としたのよ……」

「そうだな。その超能力だ。そうした能力を持った者を集めた部隊が、或る警備会社内に存在している」

「警備会社――って、じゃあ、この()も?」

「その子に嘘は通じないと云ったな。何故ならその子は心が読めるんだ」

「いやだぁ! なによそれ!」

「遠くから好きな場所を覗き見出来る者もいる。遠くに在る物を一瞬で手元に引き寄せることが出来る者も」

「待って。一寸待ってよ。爺さん何が云いたいのさ」

「此処で熊の置物を見付けたと云っただろう。カウンターの下の、床下収納に入っていたぞ。今朝見付けたんだ」

「今朝って――あああ、確かに其処に入れたかも! でも如何して?」

「見れるんだ、床下も」

「やだ、こわぁい」

「そしてこれは申し訳なかったんだが、持って来ちゃったんだ」

「如何云うことよ。所長より前に誰も来てないわよ」

佐々木は立ち上がると、杖を突きなが入り口へ向かい、ドアを開けた。未だそこは亜空間に繋がっていた。

「蓮ちゃん、熊を貰えるかな? ――ああ、重たいな。神田さん、持って来て貰えないかな」

神田が熊の置物を佐々木に手渡すと、佐々木はドアを閉めた。彩が慌てゝ駆け寄り、佐々木を支える。

「何よ。外にお仲間がいるの?」

「うんまあ、そんなところかな。それよりこれだ。熊の置物だ」

佐々木は木彫りの熊をテーブルの上に置いて、彩の手を借りながらソファに座った。

「何? なんであんたが――そうよ、これだよ、ずっとうちに在ったの!」

「持って来れる者がいるのですよ。その子に掛かれば、気付かれない様に相手の金庫の中にだって置けるかも知れん。でもまあ、どの様に返すかは検討だな」

「待ってよ、それって、金庫の中身も自由に持って来れるってこと? それ最強の泥棒じゃない!」

「幸いその子は、警備会社所属の正義感の強い子だ」

「その子その子って、それも子供なんだ。なんだか怖い世の中になったもんね」

「そんな能力使える人間は極一部だよ。それは保証出来る」

「そうなの? なら良いけど……」

「それで話を戻すがな、何でこんな物が在るのか、何時から此処に在るのか、洋子さんは把握しておったか?」

「知らないわよ。康ちゃんの遺品でしょう? 捨てるに捨てられなくて……でも邪魔なのよねぇ。うちの店には合わないわ」

「そうだな。捨てなくて良かったよ。これはな、時価数十億の熊だ」

洋子はゲラゲラと笑い出した。

「何云ってんのよ! こんな不細工な置物が、そんな高価な訳ないじゃない!」

「そうだな。熊自体に値打ちなんか無いかも知れん。問題はその中身だ」

佐々木は(おもむろ)に熊をひっくり返すと、先程と同じ様に寄木をスライドして行き、腹の蓋を開けた。洋子の眼がこれ以上ない位に大きく見開かれる。

「ちょっ――」ゲホゲホと噎せた。「やだ――息が――何よこれ――うっ」そしてまた噎せる。知佳が心配そうに背中を擦っている。

「気を確り持てよ。これは久万組の隠し財産だ。坂上が持ち出して、此処に隠した。洋子さんが売った金剛石は此処から取り出した一つだろう」

「何よそれ! まんま泥棒じゃないの!」

「そうだな」

「而もヤクザから泥棒したの!? そんなの殺されるじゃない!」

「坂上は死んだ」

「待って、やだ――ちょっと、訳解んない」

洋子は泣き顔になっていた。

「そうか、だから彼奴等、あの頃矢鱈とうちに来て……あたし一歩間違えたら殺されてたの?」

「無事で良かったですよ。洋子さんが認識していなかったから、襤褸も出なかったし、それ以上詮索されることも莫かったんだろう。坂上が死んでからは当局の目も厳しくなったからな、強硬手段にも出られなかったのだろう」

「康ちゃん、何してるのよ! もぉお!」

「まずはこれを、久万に戻そう。そうすれば幾つかの問題は収束する」

「どうするのよ。盗んでましたーとでも云うの? そんなの無事に済む訳ないじゃない」

「ま、その辺は警備会社に任せるわい。兎に角この熊を返すことに就いては、洋子さんの同意を得ておかんとな」

「何云ってんだい。盗品なんだろ? 同意なんか要らないからとっとと返しておくれよ。如何するのか解らないけど……康ちゃんがくすねた分も、如何する心算なのか知らないけれど……」

「洋子さん、如何しよう!」

彩が半泣きで洋子に縋るが、洋子も戸惑うばかりである。

「それもうちと警備会社で考えるわい。何しろあんた、洋子さんはこんなもん持ってたら不可ん。預けて貰えるかな?」

「もう、早く持ってっておくれ! あんなもん見せられちゃったら、近くに在るだけで息が詰まるし、震えが止まらないよ!」

「ではそうさせて貰うよ。ご協力有難う」

佐々木はそう云うと、熊の腹を元通り閉めて、机に正立させた。彩がそれを持とうとしたが、重くて直ぐに諦めた。

「重た! 所長膝悪いのに、こんなの良く持てますね!」

「うちの事務員は非力だなあ。神田さんでも連れて来る可きだったな」

佐々木はそう云うと、熊を片手でひょいと持ち上げた。そしてそれを脇に抱えると、杖を手にして歩き出す。慌てゝ彩がサポートに付く。

「その非力の事務員に支えられてるじゃないの。感謝しなさいよ、お爺ちゃん」

洋子に云われて、佐々木は苦笑した。

「余計なお世話だ。まあ、この子には何時でも感謝しているよ。本当に良く働いてくれる。昇給してやらないとな」

「やったあ!」

彩は素直に喜んだ。

森 六

久万吾郎は凝と考え込んでいた。

目の前には木彫りの熊がある。

改めなくとも判る。この熊はあの熊だ。

坂上が暴れた時にぶん投げて、自分の額を(かす)めたあの熊だ。

腹の中に財産を隠し持った、あの熊だ。

坂上に持ち去られた、あの熊だ。

中身が無事なのか、まだ確認はしていない。なんとなく、触れるのが憚られる。何で今、自分の目の前に有るのか。ずっと。ずっと何年も。十年以上も行方不明だった熊が。今唐突に眼の前に顕現した。神性さえ感じて仕舞う。――否々、何をか謂わんや。唯の木彫りの熊に神性も仏性もあるものか。何となれば非常に世俗に塗れた煩悩の熊だ。その胎の中に在るものは何だ。卑俗で蠱惑的で頽廃的な――永遠の輝き――ちゃんと入っているのか?

吾郎が悩んでいたら、襖ががらりと開いた。

「久万ちゃん起きてるか?」

宇佐儀助だ。全く巫山戯(ふざけ)た名前である。吾郎にしろ儀助にしろ、何も好き好んでこんな名前を背負っている訳ではない。これは謂わば罰ゲームの様な物なのだ。終わりの無い罰ゲームだ。

「なんだヒロシ。朝から元気だな」

「ちぇ。その名前は今更気恥ずかしいだけだ。――おいまて、なんだそれは」

儀助が熊に気付いた様だ。そう云や此奴もこれを狙っていたっけか。

「何だと云われても、これは熊だ」

「んなこた解ってる。こんなもん昨日迄無かったぞ」

そうだ。無かったんだ。昨日どころか今朝起きた時にも無かった。でも今はある。如何云うことなのか。――考えられることと云ったら、矢っ張り一つしかない。

「ヒロシよ。鳥渡春樹を呼んで来て貰えねぇかな」

「ああ? 俺をパシリに使うのか」

「一緒に行くか?」

「ちぇ。好いよ、呼んでやらぁ。その代わり話聞かせろよ」

「しょうがねぇなぁ、この俗物め」

「俗物代表が何を云う」

憎まれ口を叩き合うと、儀助は春樹を呼びに行った。

吾郎は一人になると、敷きっ放しの布団の上でごろりと横になった。春樹に確認して貰う迄はこの熊に触りたくない。何かの罠かも知れない。そんなに簡単に宝が返って来て堪るか。その手には乗らねぇぞ、エスパー部隊め。――エスパー部隊なんて噂でしか聞いたこと無いが、本当にそんなものがあるのだろうか。然し坂上や春樹や秋菜の様な者が現実に在るのだ、政府主導でそんな部隊が創設されていたって可怪しくはないだろう。否、民間なのだと云う。然し政府指導の下、民間で実務に当たるのなんか珍しいことではない。そうした部隊が先行して民間に存在していて、政府の援助、統制が当てられると云った形もあるのかも知れない。まあ、そんなことは何方(どちら)でも好い。(いず)れにしたってこんな芸当が出来るのは、連中位しか考えられん。

「おう、他人を(つか)いに()っといて、寝てんじゃねぇよ」

儀助が帰って来た。襖が開けっ放しだったので、吾郎が気付く前に寝転んでいるところを見つかって仕舞った。後ろには春樹と秋菜が二人揃って控えている。

「ああ。二人とも来たか。何方(どっち)でも好いんだけどな、これ見てくれ」

吾郎は熊の置物を指し示す。

「今朝、外で飯食って戻って来たら此処に在ったんだ。朝起きた時は絶対にこんな物は無かった。出入りしてるのなんかわし等と宮司だけだ。誰かが持ち込んだとは思えねぇ。――お前達が見て、何か判ることはないか?」

「これは会長の持ち物ですね。然しこの十数年、何人かの手が付いていますね……」

秋菜が熊を見詰めながら静かに告げた。

「そんなことが判るか」

「中身が減っています」

「そうか。どの程度減った」

「一粒」

吾郎は意外な顔をした。

「一粒だけか? 本統に?」

秋菜は凝と熊を見詰め直し、「ええ。一粒だけ。平均的な大きさの物を盗られています」と答えた。

「ふうん。行儀が好いんだな。ビビったのか。それとも、少しずつ処分する気だったか……でも十年以上もなぁ。……十四年だぞ」

「お前ら一体何の話をしている? 俺にも解る様に云えよ」

儀助が不服そうに熊の傍らにどっかと座ると、吾郎をぎろりと睨み付けた。此奴は狙っている癖に実体を知らないのか。これがそれだと気付いていないのか? いや、ブラフかも知れない。しらばっくれて隙を伺おうって肚か。吾郎も儀助を睨み返す。

「見ての通りの熊だ。盗まれて人手に渡っていたのだが、今朝帰って来た」

「中身って何だ」

「中身は木だろう木彫りの熊だ」

「誤魔化すなぃ。詰まっている木を一粒とは数えんだろう」

「ふん。詰まらんことを気にしやがって。重量出すために中に石詰めてんだよ。減ったら軽くなるだろうが」

「軽くなったら何だ。このサイズの木彫りなら、(ほう)っといたってそこそこ重たかろう」

「一々(うるせ)ぇな。それ以上に重くしたかったんだよ。重たい方が安定するし、重厚感も出るだろう」

「重量感の間違いだろ。下らねぇな」

「だから最初にそう云っただろうが」

儀助も吾郎も、お互いの視線を外さない。ずっと肚の内を探り合っている。

そんな二人の葛藤を、EX部隊のメンバーが固唾を呑んで見守っている。

「矢っ張りいきなり過ぎたんじゃないかなぁ。なんか凄く警戒されちゃってるよ」

蓮が不安気に云うと、神田は落ち着いた様子で、「好いんですよ。少し波風立てゝ貰った方が」と云った。

「それにしても、減ってるの直ぐばれましたね。開けてもいないのに」

知佳が残念そうに云うと、彩の表情が強張る。

「今見ていて判ったんですが、秋菜さんは、物に刻まれた履歴と云うか、記憶と云うか、そうした物が辿れる様ですね。面白い能力だなぁ」

「感心しとる場合か。この娘には誤魔化し利かんちゅうことやろ」

都子が忌々しそうに呟く。

「攪乱は出来(でけ)るけどな」

「遅いわ。逆探知も怖いし、顎兄今回は鳥渡大人しくしときよ」

都子に提案を一蹴されて、今日もクラウンはしょぼくれるしかなさそうである。

「そう云や神田っち、この異世界からであれば、此奴らの能力強化させないで済みそうなん?」

「そうですね。今のところ能力の強さに変化は有りませんから、此処から見ている限りは問題無さそうです。ワープの口を繋がない様、そこだけ気を付けて貰えれば」

「こんなおっかない連中と、ワープで繋がりたないわ」

わはははと、佐々木が笑っている。

「こんなおっかない連中と、これから遣り合おうとしておるのだ。まあ、心配せんでも君等を前線には送らんよ。そう云うのは年寄りの役目だ」

「所長、危ないことしちゃ駄目ですよ」

「彩ちゃんが云いなや。自分最初何しようとしとった」

「あっ、都子さん、それは云いっこなし! こんな便利な環境提供してくれるなら、最初からこっちに乗ってたもん!」

「ちょーしえゝなぁ」

会話を聞いていた達也が顔を顰めた。

「彩、お前何しようとしてたんだ。お前に迄何かあったら、お母さんも弟妹(きょうだい)も、流石に耐えられないよ」

「解ってるよ! 解ってる! そんな、危ないことなんかしようとしてないから。たっちゃんが心配するような……って、たっちゃんこそ何しようとしてたのよ! あたし厭だからね!」

「俺は……好いんだよ。そんなことより健介の為に……」

「死んだお兄ちゃんより、生きてるあたしのこと考えてよ!」

達也は吃驚して彩を見た。彩は云ってから自分の言葉の意味に気付き、口を押さえて真っ赤になって仕舞った。達也も稍赤くなっている。流石に彩の気持ちが通じたか。

「あーあ。青春か」

都子が茶々を入れて、この話題は有耶無耶になった。

「おっかない連中とも安全に遣り合えるで。取り敢えず誰と話したい?」

都子が佐々木に確認をすると、佐々木は怪訝な顔をした。

「ジオラマとワープ以外にも技があるのか?」

「そんな、『技』とかって限定すること無いねん。空間の繋げ方にも程度やら色々あってな。少しだけずらして繋げたると、声も姿もお互いに確認出来(でけ)るけど、お互い触れることが出来んとか、フィルタ噛ましたって声も姿も一方通行にするとか、まあ色々出来んねん。このジオラマなんかは後者やな。姿双方向にすンなら縮尺は合わせるけど、それもホンマは如何とでも出来ンねん。彩ちゃんゆうとった怪獣出現、なんちゅうのも遣ろうと思えば……」

「吁、うん、解った様な解らないような。まあ兎に角、安全に会談出来るってことだな? この双子が居てもか?」

「そこやねんなぁ。うちは此奴等の能力未だによく判らんねん。せやから若しかしたら危ないか判らん。此奴等おらん時にした方がえゝな。神田っちの強化力も、何の辺りから影響し出すか判らんしな」

「成程。ではそこは慎重に行こう」

それ切り皆は黙り、再びジオラマに集中した。丁度儀助が立ち上がり、部屋を出て行くところだった。睨み合っていても話が進まないと思ったのだろう。その儘物置部屋へ行くと、部屋の中央に置かれた長持を移動させて、床下への扉を露出させた。その扉を開けると細い階段が現れる。儀助はその階段を下りてゆくと、扉を静かに閉めた。閉めた途端、何処からか現れた宮司が長持を蓋の上に戻す。これでは儀助は出て来られまい。

久万の部屋では、春樹に熊の腹を開けさせていた。手は使わず、念動力で緩と開けている。相当に用心している様だ。三人は熊から可成距離を取っている。最後の蓋を外した時、吾郎は息を吐いた。

「爆発はしなかったな。ガスなんかも出てないか? そうか。取り越し苦労だったかな……いや、もう少しこの儘様子を見よう」

三人は相変わらず遠巻きにして、仰向けに転がされた熊の腹を見ている。

「うん。云われてみると少し減っている気がするが、よく判らんな。一粒だからな」

春樹も秋菜も、そのぎゅうぎゅうに詰め込まれた石を、眼を皿の様にして凝視している。

「ははは、お前ら、金剛石を初めて見る訳でもあるまいに。そんなに子供みたいな反応するなよ」

「金剛石自体より、これを私達にお見せ頂いているこの状況が……私達を信用頂いている証と思えばこそ、驚きと感謝に堪えません」

春樹はそう云うと、額が畳に付く程に低頭した。その横で秋菜も頭を下げる。

「止せ、止せ。信用しているから傍に置いているんだろうが。お前らがその気になれば、何時でもわしのタマぐらい取れるだろう。それをしない時点で信用に足るわい。信用してなかったら開けさせるものか」

「有難う御座います」

「それで、話は戻るがな。如何遣って此処に戻って来たかは判ったのか?」

「それが……スナックの地下収納庫にあるところ迄は追えたのですが、そこから如何も途切れ途切れで……」

「何が途切れてるって?」

「軌跡と云いますか、足跡と云いますか……兎に角熊は急に少女の手の中に移っていて、それから老人が一度腹を開けて、その儘閉めて、男性と老人の手を介してスナックに戻り、また老人が何処かへ運び去って……次はまた突然此処に現れています。これ等は凡て、今朝の内に起きたことです」

「二度程飛んでいる訳か。そう云う超能力があるかな?」

「さあ……わたくしには何とも」

話を聞いていた春樹が、周りを気にし出した。

「それが超能力に()るものなのだとしたら、我々が此処にいることはすっかりバレて仕舞っていると云うことですよね」

「監視されたら判るのではないのか?」

「昨日は確かに、視線を感じたのですが……然しあれ以来そうした気配は全く感じていません。別の方法に切り替えただけと云うことなのかも知れません」

「まあそうなんだろうな。此処がバレていないなんて、わしだって思っちゃおらんよ。然し現時点で手出しして来ていないのだ、向こうさんも何かの機会を窺っているのだろうな」

「地下は無事でしょうか」

「そんなことはわしの知ったことではない。まあ、水木から何も連絡が無いのだから、特に何も起きてはいないのだろう。然しこうして熊が無事に戻って来たからには、もう彼奴等にも用は無いんだよな……」

こゝ迄聞いた上で、都子が達也に向けて云った。

「先に地下の連中と話すか? タッちゃん、一郎と逢いたかったんやろ?」

達也が顔を上げて都子を見た。彩が心配そうに達也を見る。

「結局一郎は、Y国との関係性は希薄でした。今回の大統領暗殺計画に就いては略知らなかったと云って好い。なので、X国としては当てが外れて仕舞った訳です」

「そないなこと()うとんのとちゃう。タッちゃん自身が、一郎と話がしたかったんではないのかと訊いとんねん」

「それは……僕自身、よく判らないんですよね……実際に遭えば心が決まるかとも思ったんですが、こうして見付けて監視していても、殆ど何の感情も湧かない。怒りも憎しみも、全く感じません」

「赦すっちゅうことか」

「赦すも何も……いいえ、矢っ張り許せないのか。そう云うことではないんですが、何と云うか、昔話を聞かされている様な……映画のスクリーンの中の悪役を見ている様な……決して許せないんですが、個人的な怒り等の感情ではなくて、何と云うか……」

「成程なぁ。一回洗脳されて、それ解かれて、その過程で色々客観化されてもぉたかな。自分の身に起きたことでさえ、実感を失くしてもうとンのんちゃうか」

「そうですね……」

彩は悲しそうに達也を見ている。

「健介は大事な親友だった。その気持ち迄失くしてはいない。でも健介の死と、今目の前にいるこの犯人とが、具体的に結び付いて来ないんです。彩の様には怒れない……」

「たっちゃん。あたしはそれで好いと思う。お兄ちゃんだって何時迄も拘って足踏みして欲しいなんて、思ってない筈」

「そうそう。タッちゃんは彩ちゃんと一緒に、明るい未来に向かって進めば宜しい」

都子の言葉に、彩も達也も赤面した。

「あ、彩は妹の様な存在で……」

「ん? うちなんか可怪しなことゆうたかな? 前向いて生きろってゆうただけやで」

「都子さん、意地悪!」

都子はケラケラ笑った。

「まあ、ほしたら一郎との会談は不要か。此奴は最後に警察の手に委ねたら宜しいな?」

「その辺りの手続きは私の方で進めています」

神田が補足する。

「彩さん。達也は未だ未だ不安定なところもあるかも知れないけど、どうか確り支えて遣って下さい。お願いします」

神田が真面目くさってそんなことを云うものだから、彩は紅潮する。

「わわわ、お父さん公認に!」

「公認って何が」都子が意地悪そうに訊く。

「何でもないから!」

「この期に及んで、往生際の悪い……」

達也が彩の肩に手を置くと、彩は一瞬びくりと戦慄いた(のち)、そっと達也を見上げる。肩に置かれた達也の手に彩の手が添えられたところで、都子は急激に興味を失って、ジオラマに視線を戻す。

「ほんで髭所長、いつ行く?」

「うん。そうだな。この三人中々ばらけそうもないし、俺一人で乗り込んで仕舞おうか」

「大丈夫なん? ユウキにバリア張らせとこか?」

「バリアか」佐々木はわっはっはと笑って、「そんなものまで有るのだな。無いよりは有った方が安心だが、まあ、目立つ様なら要らん兆発にもなり兼ねんから」

「見えないバリア張れますよ」

ユウキが云うと、佐々木はにっこりと笑みを返した。

「それならお願いしておこうかな。この部屋の外の廊下辺りに、出られる様にして貰えればありがたい」

「ワープで繋ぐ訳にはいかんので、そこは蓮ちゃんにして貰おうか」

「待ってました! 送るよ!」

云うが早いか、次の瞬間、佐々木は社務所の廊下に立っていた。流石に佐々木は鳥渡驚いた顔をしていたが、直ぐに気を取り直すと、そっと襖を開ける。

「誰だ」

襖の動きに逸早く気付いた吾郎が、声を挙げる。襖に背中を向けていた中川姉弟は、警戒心を露わにして振り向く。

「うん。怪しいもんではない。あんたが依頼した探偵事務所の、所長だよ」

吾郎は直ぐに納得して、緊張を解いた。二人の超能力者は相変わらず身構えている。

「よく此処が判ったな。宮司に入れて貰ったのか?」

「そこは探偵だからな。蛇の道は蛇。宮司には悟られておらんよ」

「まるで泥棒の様な探偵だな」

吾郎はわははと笑った。佐々木は薄く笑って、吾郎を見据えた。

「依頼の一つは如何やら片付いた様だな」

「ほう。これはあんたの仕業か?」

「そうだ、とも、違うとも云えるが。まあ無関係ではないな」

「歯切れの悪い答えだな。探偵なら明確に答えろや」

「尤もだ。俺がお願いして此処へ送って貰ったのだ。残念ながら中身が一つ、売られて仕舞っているのだけどな」

「矢っ張りか。そうか、秋菜が云っていた老人と云うのは、お前だな? 少女とか、他にも男性とか云うのが出て来ている様だが、それはあれか、エスパー部隊か」

「ほう。お前さん、何をどこ迄知っているのかな」

「矢っ張りか。あらかた無事に返って来たから、まあ好いけどよ。その一粒の行方は判らんか」

「坂上がくすねて、死後に事情を知らない遺族が売って金に換えた。その金も既に散逸している。取り戻すことは略不可能だな」

「そうかい。気に食わねぇが、お前さんに云っても仕方ねぇか」

その時、吾郎の目の前に彩の姿が現れた。稍透き通っていて、迚も曖昧な感じがする。吾郎も中川姉弟も相当に驚いて、半身退いた格好になっている所へ、半透明の彩は突然土下座をした。

「申し訳ありません! その金剛石を売ったお金は、うちの母が生活費と教育費の援助として受け取りました。あたしもそのお金で育てられ、学校も出して貰いました。兄も、妹も弟も、その御蔭で生きて来られました。然しそのお金がその様な出自のものとは知らず、大変失礼しました! 必ず、働いて、同じ宝石が買えるかは判らないですが、お金としてお返ししたいと思っています!」

勢いに圧倒されて吾郎は暫く言葉が出なかったが、ごほんと咳払いして姿勢を直すと、「なんだこの状況は」と先ず云った。佐々木も予定外のことに驚いていたのだが、直ぐに状況を受け入れて、澄ました顔を作った。

「これは、とある能力者の、空間術と云う奴だな。彼女はこの世界とは別の世界にいるので、手出しは出来んぞ。ただ、姿と音声は届く様にしてくれているのだな」

「すげぇな。――ははぁ、この力を使ってわしらを見張ってやがったな? てことは総て筒抜けか、畜生めが」

「さぁて」

「しらばっくれんなよ」

「そんなことより、こんな若い娘が額付(ぬかず )いて迄、洗い浚い告白して謝罪しておるのだ。何か返す言葉は無いのか」

「金剛石一粒なんか如何でも好いよ。それはわしからこの娘の家族へのプレゼントと思え」

「ほぉ、気前が好いな」

彩は緊張の中に多分に嬉しさを含んだ表情で顔を上げた。

「有難う御座います!」

「何だろうなこの娘は。気持ちが良くてこっち迄嬉しくなってくるわ。なんと云うか、これもあんたらの術か何かなのか」

「この娘は、俺等と同じ普通の市民だ。能力なんか無いぞ。唯の気持ちの好い町娘だ」

「そうなのか」

彩が再び頭を下げて、立ち上がった時に、耳許から何かが落ちた。それは亜空間での出来事ではあったのだけど、吾郎はそれを拾おうとして、空を掴んだ。

「待て。そこのお嬢さん、鳥渡待て」

立ち去り掛けた彩が振り返る。

「落とし物を――ん?」吾郎は突然大笑いを始めた。

「お嬢さんよ、此処の地名を知っているか? 下呂市、森、と云うのだ。詰まりわしは、森のくまさんだ!」

猶もゲラゲラと笑っている。彩は不思議そうに吾郎を見て、吾郎が手を伸ばし掛けている辺りを見て「あ」と云った。

「これは態となのか? こんなイヤリング付けやがって!」

白い貝殻の。

「あっ、そそそう云う訳では! これ、小さくてぶらぶらしてないから、邪魔にならなくて、控えめにしたいときによく付けてるんです!」

小さな。

「いいよいいよ。何だかすっかりやられちまったな。あんたの勝ちだ!」

「すみません。有難う御座います!」

「おう、何なら唄ってやるぞ!」

「取調室で自白(うた)うと好いぞ。その金剛石の出所なんかをな」

吾郎は茶々を入れた佐々木を、じろりと睨んだ。

「何の話だ。この金剛石は、決して如何(いかゞ)わしい出自の物ではないぞ」

「冗談だよ。気にするな」

「爺さん好い度胸よな」

「無駄に年食ってるだけだわい」

二人の遣り取りの合間に、彩はペコリと頭を下げて、姿を消した。

「扠二つ目の依頼だが」

彩を見送ってから、佐々木が切り出した。

「地下の御仁は、この宝は狙っておらんぞ。あんたの朋輩は興味津々だがな」

「そうかい」

「それと、坂上との関係も希薄で、本人は坂上のことなど全く知らん様だな」

「親族と思ったがな」

「遠い親戚だ。意味など無い」

「そうかい」

「ちなみにさっきの娘は坂上の長女だ」

「そうだろうな。金剛石の世話になったと云っていたからな。――すると何か、一郎とあの娘も親戚か」

「意味など無いがな」

吾郎は暫く黙した後、「そうだな」と云った。

「あいつは、親戚の息子を殺しちまったんだなあ」

「本人知る由もないがな」

「知らない方が好いか」

「残念ながら俺は、一郎に遣う気などは持ち合わせてはおらん。知らせて苦しむなら寧ろ知らせて遣りたいが、彼奴は気にも留めないかも知れん」

「そうだな。――そうか、あの娘の兄貴だったか。わしは関わっておらんとは謂え、何だか申し訳ないな」

吾郎は柄になく、しんみりとした表情をした。

「ほぉ、久万組の会長ともあろう者が、隨分感傷的なことを云うのだな」

「わしは、殺しは好まん。心優しいヤクザの親分さんよ」

「今更何を云うとるか」

「そうだな」

「坂上の長男が殺られたのも、この熊の所為だからな」

「そうなのか」

「菊池家にあるだろうと、誠治が考えたのだな。それで揺さぶり掛ける心算で殺したのだろう」

「殺すこたあねえんだ……然しそれを云うなら、こいつを持ち出した坂上が悪かねえか」

「勿論窃盗は悪い。然しそんなものは殺人の正当化には繋がらん」

「まあそりゃそうだ」

「だから俺は、一郎の身柄を貰うぞ」

吾郎は面倒臭そうに佐々木を見た。

「あんなものが欲しいか」

「欲しいな」

久万組(うち)は無関係だぞ」

「知っとるよ」

「なら好きにしろ」

「好いのか? 宇佐と対立することにならんか?」

「うん、あれは如何なんだろうな。それ程大事にしている訳でもないと思うんだがな」

「ほう? そうなのか?」

「今時殺し屋なんか飼ってたって、リスクでしかないのよ。現に今こうして、持て余しているだろうに」

「そんな者を何故匿う?」

「何故ってなぁ……何でだろうなぁ?」

吾郎は春樹に話を振った。それ迄凝と聞くだけだった春樹は、少し逡巡した後に、「宇佐に恩を売りたかったのではないかと、手前は感じておりました」と答えた。

「うん、まあ、それはあるかな。でもそれだけではない、と云うかそんなことは実は如何でも好い。彼奴に恩売ったって碌なことは無い」

「そうかい。じゃあ何だ」

「まあ、こいつかな」

吾郎は熊の置物をポンと叩いた。

「まだ彼奴がガメている可能性は捨て切れていなかったからな。だから探り入れる為に(おび)き寄せたのよ――まあ結局彼奴は持っていなかったし、彼奴は彼奴でわしが隠しているだけだと思ってか、こいつ目当てにホイホイ乗って来やがったんだけどな」

「何もかも、この熊なんだな……業の深い熊だな」

「熊は悪かねぇわ。周りに群がる野郎共が糞ばかりなんだよ」

「お前さんも含めてか」

「莫迦云え。これは久万の家に代々伝わる財産だ。護るのは当然だ」

「こんな金剛石がか?」

「代々は云い過ぎかな。わしの爺さんが堅気の事業で貯めた財産だ」

「成程なぁ。それが確かなら、汚れた財産ではないな。然しそうすると、矢張り一粒無くなったのは問題だな」

「その話はもう終わっただろう。蒸し返すな」

「そうか……済まないな」

「この熊があの娘の兄を殺したようなもんだ。せめてもの罪滅ぼしと思うさ」

「ヤクザらしくない言葉だな」

「そうだろう? 心優しいんだよ」

そう云って吾郎は、わははと笑った。

「この姉弟がお前さんに忠義を尽くすのも、解る気がするな。おまえさん、ヤクザにしておくには惜しい男だ」

「ほっとけ。わしにはこの渡世しかねぇのよ」

「そうか。残念だよ」

「残念序でと云っちゃなんだがな、あんたエスパー部隊と繋がりがあるんだろう。この姉弟を拾ってやっちゃくれねぇかな」

突然の言葉に中川姉弟は腰を浮かせ気味にして、「会長!」と叫んだ。

「突然何を仰るのですか! 僕らは常に会長の側に居ります! 頂いたご恩は僕らの命を擲っても返し切れない程です、如何か見捨てないでください!」

「私も会長のお側を離れたくありません! 弟と共に何時迄も働かせてください!」

佐々木は目を丸くして成り行きを見守っている。

「見捨てるとか云うなよ。お前達は本当によく働いてくれているよ。わしは感謝しているぞ」

「そんな。当然のことです!」

「でもな。この儘ではお前ら、わしが死んだ後路頭に迷うだろう。組の連中がお前らを正当に扱ってくれるとは思えん。水木だって腹の中は何を考えているか判ったものではない。だから、この機会に堅気になれ。そこの部隊なら、お前らの様な能力者を正当に評価して、正しく導いてくれるだろうよ。そんなところ他にはないぞ」

「いやです! 会長! 死んだ後のことなんか考えないで!」

秋菜が涙を流しながら、吾郎の腕に縋り付く。

「止せよ。お前わしを幾つだと思ってやがる。そろそろ終活も始めようかと云う頃合いだぞ。お前らの行く末は、死ぬ迄に片付けておきたいことの筆頭事案だ。心配させながら死なせないでくれ」

「そんなお言葉、聞きたくないです!」

春樹まで泣いている。

「やれやれ――探偵さんよ、如何したものかな」

「そんなこと俺に訊くない。そっちで解決してくれ。――まあ一言助言するなら、慌てなさんな。この姉弟だっていきなりそんなこと云われて素直に聞けるかよ。もっとじっくり時間掛けて、話して遣りな」

「そうか――わしは気短だからな」

吾郎は苦笑して、秋菜の手をそっと叩いた。

「諒解ったよ。一旦今の話は棚上げだ。でもな、何時かは棚から降ろすぞ。お前らもそれ迄には自分の将来確り考えておけ」

二人は泣いた儘、畳に額を擦り付けた。

「おゝ、吃驚した。どんな展開やねん」

亜空間では都子が胸を撫で下ろしている。

「でもいつかは、うちで迎えることになるのかも知れませんね……此方もその時の準備を、今からしておいた方が良いかも知れません」

神田は眉間に皺を寄せた儘、そう寛悠と呟いた。

大月 六

隊員達は大月の食堂で、静かに昼食をとっていた。

大方の問題は片付いた。一郎は「市民の通報」に因って出動した機動隊に社務所を取り囲まれて、自ら出頭して来た。宇佐組長は終始不機嫌だったと云う。

「殺人犯一人に機動隊とは、大袈裟だな」

出て来た一郎が身柄を確保する為に駆け寄った刑事に対して、笑いながらそう云ったそうだ。嘲笑とか苦笑とか云う感じではなく、心底愉快そうに屈託なく笑っていたと謂う。

犯人蔵匿の疑いで宇佐組長も取り調べを受けたが、一緒に閉じ込められていた状況もあってか、直ぐに釈放された。久万会長に至ってはその時既に姿を晦ましていたこともあり、一切お咎め無しだった様である。その代わり宮司が、稍長めに尋問を受けた。気の毒な話である。

柚口と、近くを彷徨いていたところを確保された柊元は、終始怯えていて、取り調べでも要領を得なかった。然し別段犯罪行為の形跡も無かったので、直ぐに放逐された。

水木は居なかったそうである。何処か抜け穴でもあったか、或いは(いま)だに地下に潜んでいるのか……そう云えば秋菜には幻覚能力があった。適当に誤魔化して逃がしたのかも知れない。結局痛い目を見たのは、宮司を除けば宇佐組の面子ばかりである。組長はそれも気に入らなかった。目的も遂げられず、唯官憲共に目を付けられて、これから暫くは目立った活動もし辛くなるだろう。

「結局タッちゃんの宿題だけ、解決してないね」

食べ終わった蓮がお茶を飲みながら、溜息交じりに呟いた。

「この線からY国は辿れないと云うことが判っただけでも、十分ですよ。気に掛けて頂いて有難う御座います」

「やだぁ、なんかタッちゃんあたしに対してだけ、凄く堅苦しい」

「蓮をレディとして扱ってるんじゃない?」

知佳の指摘に蓮は複雑な顔をした。

「そんなの好いから、友達として接して欲しいな」

知佳がくふふと笑うと、達也もにっこりと微笑んで蓮の瞳を凝と見据えた。

「蓮さんがお望みなら、是非友人としてお付き合いください」

「だからそれが堅いんだってばぁ……あと、そんなに見詰められると照れちゃう……」

蓮の頬がほんのりと染まると、今度は彩が慌て出す。

「こらぁ、ガキんちょの癖に色気付くなぁ!」

「失礼な! あたしはレディよ!」

蓮の反射的な反駁に、知佳が苦笑しながら、「蓮。それ」と短く突っ込む。

「うぁ、ちがくて! 別にあたし彩ちゃんの恋人取る気ないし!」

「ここここここ! 蓮ちゃん何云って……!」

彩が真っ赤に茹で上がると、達也も若干狼狽して目を泳がす。

「もぉ、えゝから二人くっついときよ。全員えゝ加減にせぇ思っとるわ。何なら今から立川に挨拶行くか?」

都子の容赦ない言葉に二人は狼狽えて、達也は黙り込んで仕舞い、彩はぎゃあとか、ひょえぇとか、よく判らない雄叫びを上げている。

「神田っち付いてったりや」

「えっ。欸、二人が良ければ何時でも」

「ほら。少なくともこっちの親はクリアや」

彩はぎゃあぎゃあ云いながら食堂内を駆け回った挙句、都子の背後に回ってぽかぽかと叩きだした。

「いて、いて、いて、止めんかい!」

「彩」

達也の一言で彩は大人しくなり、そうっと席に戻って、静かに着席した。

(いず)れにしてもこんな話は、此処でするものではないので。勘弁してください。彩も鳥渡、堪えておいて貰えたら……」

「はい……ごめんなさい」

達也に往なされて、彩はすっかりしょげ返って仕舞った。

「話は戻りますが、僕の帰国の第一の目的はちゃんと果たせました。後ほど健介の墓前に報告に行く心算です」

「そうなんだ。一郎が捕まったからね」

蓮は優しく首肯く。

「そう云うことですね。一郎は罪悪感こそありませんでしたが、自分の行為を正当化する心算も無い様ですし、司法で裁かれることにも異存は無さそうです。その点では僕も大分救われました」

「あの人はね、後悔はしていました。ヤるんじゃなかったって」

知佳の言葉に達也は薄く微笑んだ。

「それも救いになります。有難う」

「もっと普通に誠治を育てゝ、普通の教育受けさせて遣れば、普通の人生歩めたかも知れないなって、寂しがってもいました」

「そうですか……切ないですね」

「はい。でも最初からそんなこと不可能だった、とも思っている様です。これは自分の背負った(カルマ)だと。呪われた血筋の結果だと」

「血筋か……それは如何かな」

「一郎さんは、そう思っていたので」

「そうですか」

達也はちらりと彩を見た。彩は不思議そうに達也を見返す。次に達也が佐々木に目を遣ると、佐々木はそっと目を伏せた。達也は何かを納得して、頷いた。

知佳は驚いた顔をしたが、何も云わなかった。一郎の血筋は彩にも流れている。そのことを明らかにしても何の意味もない。

「そうだ。久万吾郎さん達の名前、由来知ってますか?」

唐突に知佳が話題を変える。

「吾郎さんと儀助さん、未だそれぞれの組を持つ前、大きな暴力団の組員だったんですけど、そこで鳥渡意地悪な兄貴分の人がいて、二人はその苗字の所為でよく弄られていたんです。或る時その兄貴分が二人に泥棒をさせようと夜中に大きな会社へ忍び込ませたんだけど、儀助さんの方がへまして警報が派手に鳴り響いちゃったんです。で、結局何も盗れず、吾郎さんと儀助さんはすばしっこくてとっとと逃げちゃったんだけど、兄貴分が(つまず)いたかして脚を痛めて、逃げ遅れて捕まっちゃったんです。結局何も盗らなかったので、起訴もされずに釈放されたんですけど、兄貴分がカンカンに怒っちゃって、お前ら今日から、吾郎と儀助だって、無理矢理名前変えさせて、二人も悪いと思ったのか、兄貴分が怖かったのか判らないけど、逆らうこともなく、今日迄ずっとその名前で通して来たと」

「何だか間抜けな話やなぁ」

都子が呆れた様な声を出す。

「その前は、宇佐ヒロシ、久万キヨシって名前だったみたいですね」

「吁、そんな名前で呼び合っとったなぁ……ヒロシ、アンド、キー坊か」

神田が噴き出して、「あっ、す、済みません」と云って机を布巾で拭いている。

「この二人は根っからの腐れ縁だなぁ。前世で夫婦だったんじゃないか?」

佐々木は非常に愉快そうに、そう云った後、「三年目に浮気しそうだけどな」と付け加えて、わははははと大笑いした。

「パワーバランスは微妙に久万に傾いちゃいましたね。この先何も無ければ好いですが」

神田が机を拭きながら、心配そうな声を出す。

「うん。久万は暫く中川姉弟を手放すべきではないな。あの二人が今のところ抑止力になっておる」

「そうですね。二人には気の毒ですが」

「いやあ、二人にはその方が良いみたいだぞ」

「――そうでしたね」

佐々木が「さてと」と云って腰を上げて、「申し訳ないが都子さん、わしら探偵組を送り届けてくれんかな」と云った。

「えゝよ。彩ちゃんが立川で、髭が新宿やろ?」

「おゝ、遂に髭が単独で人格持って仕舞ったか」

「タッちゃんどないする? 墓参りするなら立川か?」

「あ、そうですね。お願い出来るなら有り難いです」

「よっしゃ先ず立川組」

そう云うと都子は、立川の墓地へと空間を繋いだ。

「彩ちゃんも兄ちゃんに報告あるやろ。二人で行っとき」

「うん。色々有難う! 色々お節介だったけど!」

「えゝやん。幸せにな」

「まだ早ぁい!」

彩は真っ赤になりながら、達也と共に立川へと消えた。カールが音も無くそれに続いて、接続は切られた。

「では次、新宿な」

探偵事務所の受付が接続されると、眼を真ん丸にした田村が立っていた。

「所長、終わりましたか!」

「ああ、終わったよ。蚊帳の外で済まんかったな」

「のんびり留守番していたから大丈夫です。――忠国警備の皆さん、お疲れさまでした。ご協力ありがとうございます」

そう云いながら田村は佐々木を迎えに来て、腕を支えると一緒に探偵事務所へと戻って行った。

「神田さん、中々楽しかったぞ、また機会があったら一緒に遣ろうや!」

佐々木のその言葉を最後に、接続は切られた。

「扠、ほいではうちらも解散かな? 神田っちなんか総括あるか?」

都子に振られて神田は一同を見渡した。

「皆さん今回はお疲れさまでした。達也はもう暫く大月で預かりますが、並行して住居の手配も進んでいます。遅くとも来月末ぐらい迄で、此処は出て行く予定です。その時にはまた、お片付けやお掃除等のお手伝いをお願いするかも知れませんが、よろしくお願いします」

神田がぺこりと頭を下げると、一同も気持ち頭を下げる。

「まあ取り敢えずは、昨晩皆さんが使用した寝具を洗濯に出しますので、自分の分を此処へ集めてください」

そう云って神田は、ロビー隅に置いてある大きなランドリーカートを指差した。

「ではそれが一通り済んでから、解散しましょうか」

一同が、はぁいと返事をして各部屋へ散った。

「彩ちゃんの分如何する?」

蓮が訊くと、都子が答える。

「後でうちがしとくわ。何なら蓮ちゃん手伝って。まあ何にしても先ず自分の分な」

「はーい」

「ユウキのはわしが手伝うから、部屋で待っとき」

クラウンが声を掛けると、ユウキは「諒解った、ありがとう」と応えた。

暫くすると廊下にシーツや毛布等の塊が大量発生し、それが次々と消えてはランドリーバッグの中へと飛び込んで行く。後には蓮が不敵に笑って立っていた。

立川 三

健介の墓前で手を合わせていた二人が顔を上げ、暫く余韻に浸る様にしている。二人共真っ直ぐに墓石を見詰めている。前回此処を訪れた時の緊張感は欠片も莫く、非常に清々しい表情で、すっと前を見据えている。

「彩。今回は有難う。そして、今迄本当に御免なさい」

達也は前を見据えた儘、そう云った。思いの外素直に発声出来たと、自分でも意外に思った。

「何云ってんの。あたしはたっちゃんのこと信じてずっと待ってただけ。それに今回のことは、たっちゃんの為もあったけど、でも寧ろお兄ちゃんの為だから」

「そうだな……信じてくれてありがとう。辛くなかったか?」

彩は眼に涙を滲ませながら、首を左右に振った。

「無事に戻って来てくれて、ありがとう」

「うん」

達也は立ち上がった。彩も立ち上がろうとして、蹌踉けた。

「わ。ずっと蹲んでたから、足が……」

達也は彩の手を取り、引き上げると、その儘ぎゅうと抱き締めた。

「ひゃあ! たたたたっちゃん? おおおにいちゃんの前で!」

「健介にも報告したよ」

「えええっ、なにをっ!?

「本当にありがとう」

達也は泣いている様だった。彩は暫くされる儘にしていたが、(やが)て緩と優しく達也の背中を抱き返すと、「おかえり」と囁いた。

達也はその後、彩を家まで送り、軽く家人に挨拶をしてから直ぐに辞去した。夕飯を食べて行けと云われたが、固辞して菊池家を後にした。

なお、この間ずっとカールは達也の近くで気配を消して佇んでいる。立川駅へと歩みを進める達也に、カールは珍しく声を掛けた。

「良かったのか。私なら構うことはない、音さえ拾えるなら外で待つことも出来たが」

と云って耳に掛けっ放しのイヤホンを指す。

「吁、まあカールが居ると云うことも確かにあったけど、でもそれ以前に、矢張り未だ時期ではないと思うんだ。監察官付きの男なんか、普通は願い下げだろう。監察官が付いていると云うことは、そう云うことだからな。それに僕の心も未だ未だ不安定だ。こんな状態では真面な挨拶なんか出来やしない」

「達也。私は支援員だ」

「あゝ、そうだった」

達也は弱く笑うと、駅の改札を潜り、中央線の下りホームへと向かった。

自宅に取り残された彩は部屋に戻って、イヤリングを外した。

「こんな安物があたしを助けてくれたなんて。何が役に立つかなんて判らないものね……」

リュックからノートパソコンを取り出すと、エディタを開いて日記(日誌かも知れない)を付け始める。半分程書いた所で、ドアをノックする音がした。

「はぁい」

「彩ちゃん、ご飯!」

入って来たのは香だった。

「なぁに書いてるのー?」

パソコンを覗き込んで来るので、見られる前にぱたんと閉じた。

「覗き込まない! 今行くからぁ。あと五分」

「ふうん。たっちゃんにラブレター? この、外泊娘ぇ!」

「仕事だって云ったじゃん!」

「だってたっちゃんに送られて来たじゃん。絶対何かあったやつでしょ」

「ちちちちがうし!」

「はははっ、彩ちゃん面白ぉい!」

香はキャラキャラと笑いながら部屋を出ると、奏介の部屋をノックした。

「そうちゃあん! ごはーん」

「はぁい」

部屋の中から声がする。妹弟皆、自分の部屋を持っている。兄も部屋を持っていた。矢っ張り、自家は裕福な部類だったのかなぁ。それも皆、久万の宝の御蔭で……でも兄が死んだのもその所為で……

彩はブルンブルンと(かぶり)を振った。今更そんなこと考えたってしょうがないんだ。久万の親分が許してくれた以上は、それは正当な援助金になったのだ。汚い財産でもなかったし。何処にも何も後ろめたいところは無い。莫くなった。それで好いんだ。

きりの好い所迄日誌だか日記だかを書くと、彩はパソコンを終了させて、部屋を出て階下に降りて行った。食卓には祖父母も含めて、家族五人全員が既に着席していた。六人目の彩が香の隣に座り、いただきますと云うと、五人もいただきますと、声を揃えて云った。

「今日のおかずは、香が作ったんだよ!」

香が得意気に胸を張る。食卓には、アジの開き、肉じゃが、茶碗蒸し、ほうれん草のおひたし等が並んでいる。

「これ全部?」

「もちろん! お母さんはご飯炊いてお味噌汁作っただけ」

「楽させて貰ったわぁ。香ありがとうね」

「へへへぇ、どういたしまして! ささ、みんな、食べて食べて」

中々上手に出来ている。香も大したものである。

「流石はお茶女の食栄学科!」

彩は素直に香を褒めた。

「大学関係ないって。料理学校じゃないんだから。でも有難う!」

「栄養バランス考えてるよね」

「普通だよぉ」

香が照れている。我が妹ながら可愛いもんだと思うと同時に、この家族は自分が守るんだと云う気概を改めて胸に刻む。

「香ちゃん、上手に炊けてるねぇ」

祖母も肉じゃがを美味しそうに食べながら、顔を綻ばせている。

「茶碗蒸しも良く出来てる。お母さんに習ったのか」

祖父も嬉しそうに銀杏を口に運ぶ。

「あたしは殆ど教えてないのよ。独学なのか、盗み見ていたのか判らないけど」

祖父も祖母も、うんうんと首肯きながら箸が止まらない。

一人黙々と食べて逸早く「ごちそうさま」と云った奏介が、席を立って行こうとするので、「こらぁ、食器下げなさい」と彩が注意した。奏介は素直に食器を流しへ持って行くと、戻る際に香に向けて「かおねぇ、旨かったよ」と云い残して、自室へと上がって行った。

「くそう、奏ちゃんそっけないぞ!」

「あの位の年頃男子は、あんなもんでしょ。褒めて貰えたんだから十分じゃない」

「へへ。まあ、うん」

彩に窘められて、香は納得した様に照れ笑いをした。

「彩ちゃんもがんばれ!」

「何が?」

「花嫁修業」

「ははははははなよめって、こら香! 何云い出すの!」

香はキャラキャラと笑って、「だってぇ……ねぇ?」と、母に同意を求めた。

「そんなものは慌てゝしなくたって、彩は好いお嫁さんになるわよ、屹度。まあ確かに、料理は得意じゃなさそうだけど?」

「ちょっとお母さん迄、何を!」

「たっちゃんに見捨てられないようになぁ」

そう云うと香は空になった食器を持って立ち上がり、台所へ下げてから、「ごちそうさまぁ!」と云って階段を駆け上がって行った。

「もぉ、何よぉ!」

彩は真っ赤になって、アジの縁側の堅い部分を食い千切った。

森 七

「矢っ張り最後には温泉が無いと! 締まらないよね!」

蓮はそう云って、温泉宿の脱衣場から浴場へと元気に飛び出して行った。

EX部隊の一同は結局、解散する前に蓮の我儘に押し切られる形で、下呂温泉に浸かって行くことになったのだ。蓮は今朝の騒動なんかすっかり忘れたかの様に、燥ぎまくっている。

「巫山戯てっと転ぶぞ!」

知佳の忠告も軽く聞き流して、「平気ですぅ!」と謳う様に応えると、湯船の前で蹲んで掛け湯をする。

「彩ちゃんも誘えばよかったなあ」

寛悠と味わう様に湯に体を沈めてから、蕩ける様な声で蓮が云う。

「あゝ、本当だねぇ。蓮がもっと早く云ってれば」

掛け湯をしながら知佳は同意したのだが、蓮は後半が気に入らなかった。

「あたしの所為かぁ? くそう、知佳め」

「えっ、何で?」

そこへ都子が遅れて入って来た。普段の服装が微妙なので隠れて仕舞っているが、知佳が赤面する程の見事なプロポーションである。

「何や、君等いきなり揉めとんのかいな。仔犬の戯れ合いみたいやな」

そうしてケラケラと笑う。なんだろう。黙って凝としていればモテるのに、等と余計なことを考えて仕舞う。でも何故だか、知佳はこんな都子が大好きだ。

都子は湯に浸かりながら、「うぉお、沁みるわぁ」と唸った。蓮が大人になったらこんな感じだろうか。

「矢っ張り温泉だよねぇ。極楽、極楽」

「何時ものことだけど、蓮お婆ちゃんみたい」

「何を云ってるかね、この若い娘は」

「お婆ちゃん何歳?」

「そうさのぉ、百二十箇月と、十二箇月と、さん、よん、ごぉ……三箇月じゃな」

「足せよ!」

「無理ぃ」

「君等の会話は何時も、糞くだらなくて可愛いなぁ」

都子に変な褒め方をされて、知佳は鳥渡調子が狂って仕舞った。蓮も心做し頬を染めて、口許迄湯に沈んでいる。

「さぁ、明日は月曜日や。君等は朝から学校やろ。確り温泉浸かった後は真っ直ぐ帰宅して、早ぉ寝るんやで」

「うわぁん、ミヤちゃんそんなこと云わないでぇ。気分が台無しだよぉ」

「こら。現実から逃げたらあかんど」

「今だけ逃避させてぇ」

「しょうない子やな。学校嫌いか?」

「好きだけどぉ」

「ならえゝやん」

「そう云うことじゃなくてぇ」

二人の遣り取りに、知佳はくふふと笑った。

「都子さんも、明日は学校でしょ?」

「んー? 月曜は昼からやねん」

「なにそれ、狡ぅい」

「月曜朝怠いからな、授業入れん様に組んどんねん。君等も大学生なったら、一限は極力避けて組むとえゝよ」

「そんな自由自在なの? 大学って」

「そこまで自由自在でもないけどな。必修あるから。でもまあ、選択の幅はあるかな。――ほんでも一年ときよりは自由度無くなっては来とるけどな」

「あたし佑香さんみたいに数学者になりたい」

蓮が身の程を弁えない発言をしている。

「さよか。理系行くならもっと授業選択の選択肢狭まるかもな」

「えー! じゃあやめる!」

都子はゲラゲラと笑った。

「ほんな程度の覚悟なら何処も行かんでえゝわ! 大学全入時代なんてゆうけどな、別に行かなあかん訳でもないし、金掛かるし」

「あっ、自家お金なかった」

蓮が情けない声を挙げる。

「如何でも行きたいなら奨学金もあるし……んでも蓮ちゃん程の活躍なら、EXの収入だけでも学費賄えるんちゃうか」

「うそ! すご! いつ貰えるかな!」

「バイトが認められる齢になったら、かな。親バレして好いなら、今直ぐでも支給でけるけどな」

「うーん……そう云えば何で親に隠してるんだっけ」

蓮の今更の様な疑問に、知佳も首を捻る。

「知らないし――でもあたしは、変な目で見られたくなかったからってのと……上手く説明出来ないと思ったのと……後普通に余裕なかった」

「そうか。あたし別に隠す必要ないんじゃないかって思えて来た」

二人の疑問に都子がアドバイスをする。

「えゝねんけどな。うちもお(かん)と、数人の友人には見せとるし。んでもお(とん)とお(ねん)には秘密やねん。皆にバレたら頼られ捲って、好い様に使い倒されるからって。うちの婆ちゃんが同じ様な能力持ってゝ、苦労したんやと。せやから基本は隠しときよと、これはお母からの教え」

「そうかぁ……でもなんで、お父さんとお姉さんにも秘密なの?」

「秘密共有させるンは相手にもストレスやからな。そこから漏れる危険性も増える訳やし。なんで、必要最小限に絞るンは大事」

「そうか……でもお友達も知ってるんだよね。佑香さんとか」

「佑香はしょうないねん。初めて能力使った時に巻き込んでもぉた。他の友人も大体そんな感じ」

「そうなんだ」

蓮は暫し考え込んで仕舞った。家族と云えるのは父親唯一人だ。話す可きの様な気もするし、話さない方が好い様にも思える。そんな蓮の様子を見ながら、知佳も迷っていた。母にだけは云った方が好いのか、今の儘が好いのかと。

「ま、今直ぐ決めんくてもえゝやん。今お金()ぉたところで、使われへんやん。大学生なる迄によぉさん悩んどき」

「そうか。ミヤちゃん有難う」

蓮はザバリと立ち上がり、「露天行こうよ! 露天あるよね?」と云ってきょろきょろと見渡した。露天への出口は直ぐに見付かった。

露天風呂からの眺めは中々だった。西向きに開放されていて、夕焼けに真っ赤に染まった山の端が、燃える様にキラキラと輝いている。

「絶妙のタイミングやなぁ。蓮ちゃん持ってるなぁ」

「すごーい! ね、知佳! 凄い!」

「すごいねぇ……」

三人は湯に浸かった儘、暫し風景に見惚れていた。太陽が少しずつ沈んで往くに連れて、山の輪郭を彩る光も変化してゆき、次第に薄く、弱くなって、遂には消えた。空には未だ赤い部分があるが、紫色も大きく広がり、手元はすっかり暗くなって、何時の間にか電灯が点いていた。

「ほな、遅くならんうちに上がろか」

都子に云われて、三人は室内へと戻る。洗い場で洗体し、内湯に軽く浸かった後、上がり湯を浴びて浴場から出た。

ロビーでは既に男性メンバー達が寛いでいた。

「顎兄、覗かんかったやろな」

他人聞(ひとぎ)き悪い! するかぁ!」

都子はノルマの様にクラウンを弄ると、ケラケラと笑ってソファに体を沈めた。

「あー。泊まって行きたいけどなぁ。明日もあるし」

「都子さんのタイミングで、此処出ましょうか」

そう云う神田はマッサージチェアで揉まれている最中である。

「何や神田っち、取込み中やんけ。それ終わったらでえゝよ」

都子は緩と目を閉じ掛けたが、急に見開くと、「腹減った!」と叫んだ。

新宿

翌月曜の朝、達也はカールを連れて新宿へ来ていた。事前に聞いていた道順を辿り、古びた雑居ビルに辿り着くと、フロア案内を確認してからエレベータに乗る。三階で下りると一旦周囲を見回し、目的の表札を見付けるとそこへ行って、ドアを開けた。

受付にはベルが置いてあり、それをチンと鳴らすと奥から「はあい」と声が返って来る。数分待たされて、現れた髭の老人に、達也はぺこりと頭を下げてから、稍緊張気味の声音で云った。

「それでは本日から、よろしくお願いします」

「うん。余り仕事は無いがな。偶に大きいのが来るので覚悟しておけよ。じゃあ、みんなに自己紹介してくれ」

事務所に通された達也は視線が集中する中、気を付けの姿勢の儘、緊張気味にぺこりとお辞儀をした。

「今日から此処で、探偵見習いとして働かせて頂きます、神田達也です。皆さん既によくご存じかと思いますが、よろしくお願いします!」

そして再び頭を下げる。

事務机で口と目とをいっぱいに開いて固まっていた彩は、ガタリと立ち上がったが、その瞬間に田村が緩慢な拍手を送ったので、言葉を発するタイミングを逃し、驚いた顔の儘同じ様に拍手をした。

佐々木探偵事務所で、達也は彩の方を見て、悪戯っぽく笑って見せた。

(終わり)

二〇二四年(令和六年)、六月、十四日、金曜日、先勝。