Never die

里蔵 光

   序章

 ――死ぬ? 死ぬって、何だ。死ぬとは、総てから脱却する事。総ての辛苦より、逃れる事。死とは、即(すなわ)ち、逃避已外(いがい)の何物でも莫い。其れなら其れで、構わない。卑怯であろうと、構わない。知った事では、莫い。
 功多は、断崖の上に居た。其の足許には真暗な海が、そら恐ろしい迄にしんと横たえて居る。片手には、白い封筒を力莫く握り、顔は、異様な迄、蒼い。風は莫い。
 有美と逢わなくなって、隨分と久しい。もう、逢いたくは莫い、とさえ云われて、直(す)ぐに自殺を決意したが、何だ彼(かん)だと、今日迄こうして、生きて來た。
 大きな満月が、高く昇って居る。少し笠を被(かぶ)って居て、霞んで見える。其の真下に、果てし莫く大きく、暗い海。幽(かす)かに風が出て來た。前髪がぱらぱらと、風に踊り出す。
 一時、大きな風が來た。
 風に飛ばされる様にして、大きな影がふわりと空に浮いたと思うや、次の刹那、其れは低い波の中へと吸い込まれて逝き、消えた。
 風が復、莫くなった。月が完全に雲に包まれて、見えなくなると、辺りは全く暗くなり、岩の上に綺麗に並べられた沓と、其れに敷かれた真白き封筒とが、堪らぬ程に寂しい空間を、作り出して居る。
 暫く沈默の時が続いた。何分、何十分、何時間、……軈(やが)て、其の空虚な空間に、はっとする程明るい光が照らされる。光源は素早く近付いて來て、功多の消えた辺りを照らした儘(まゝ)、小さく身顫(みぶる)いして、止まった。
 白いセダンから、男が二人、慌てゝ飛び出して來る。そうして、静かに置き殘された沓と、凡(およ)そ此の情景には似つかわしくない、真白な封筒の傍に驅け寄った。
 「此れだよ、…困ったものだ」
 封筒よりも猶(なお)白い位の、顎鬚(あごひげ)を摩(さす)りながら(此の老紳士、顎鬚耳(のみ)ならず、頬髯(ほおひげ)迄生やして居る)、老紳士はもう一人の男に向かって呟いた。そして、崖の縁迄ゆっくりと歩み寄り、眼下の海を見下ろして、「駄目だな、何も見えん……田村君、電灯を」
 屈み込んで封筒を手に取り、繁々(しげしげ)と眺めて居た若い男は、そう云われて急いで車に戻り、大きな電灯を持って來て、髯の男に手渡す。
 「此処からでは、助からないでしょう」
 「そうだな……」髯の老人はそう呟いて、電灯で海面を一通り照らすと、「何も、自殺迄する事は、莫かろうに……彼に何が有ったかは知らぬが…」
 「遺書が在りますから、…何か書いて在るかも知れません」
 「手掛かりになる様な事でも、書いてあったのか?」
 「否(いや)、未だ読んでませんが……」
 「何も書いてやせんよ」
 「はあ……」
 老人は電灯を消すと、踵(きびす)を返して、車へと戻る。若い男は老紳士の後に尾いて來て、少しく怪訝そうに、「佐々木さんは、此れが手掛かりにならないと云うのですか?」と訊(き)く。紳士は車の屋根に肘を突くと、
 「彼(あ)の男の書く物に、手掛かりなんぞ隱されて居るものか。そんな希望的観測は、捨て去る事だな。論より証拠、開けて、読んでみりゃ判(わか)る事だ」
 田村は不機嫌な面持ちで、封を破り、中身を出して読んでみたが、忽(たちま)ち肩を落とすと、大きな溜息を一つ。
 「仰有(おっしゃ)る通りです……」
 「そうだろう」
 佐々木は気の毒そうに、軽く笑うと、車に乘り、ドアを閉める。
 「現場は、彼(あ)の儘で好いんですか?」
 「好いさ、後は、警察の遣る事だ、俺達はもう、奴等とは違うんだからな。莫迦々々しくって時間ばかり喰う、現場検証なんぞ、誰がするものか、第一下手に弄(いじく)ったら、復(また)彼の、武田とか云う若僧に、怒鳴られるわい。――そんな事よりも、俺は腹が減った。拉麺(らーめん)でも、食って行こうや」
 「隨分と又、呑気ですねえ」
 そう云いながら、運転席に乘り込むと、ドアを閉め、車はゆっくりと辷(すべ)り出した。

   一

 柿田有美の許に、一通の手紙が届いて居た。差出人に、滝口功多と有る。其れを手にした時、有美は心の底から不快感が沸き起こって來て、封も切らずに、其の儘塵芥箱(ごみばこ)へ放り込んだ。そうして、多少苛々(いらいら)して、新聞を拡げて眺め出す。
 一面から、ぱらぱらと捲(めく)って行って、半分程目を通したら、苛立ちも少しは薄らぎ、スポーツ面の、「ヤクルト快勝」の飾り文字で、すっかり機嫌が直った。最早(もはや)手紙の事などは忘れて、社会面を開き、四コマ漫画から始めて、一つ一つの記事を、凝然(じっ)と読み進める。と、隅っこの小さな記事が、目に留(と)まった。
 「新人画家、入水(じゅすい)」
 ――昨夜晩(おそ)く、千葉県銚子市犬吠埼にて、入水自殺の有った事が、銚子署の調べで明らかになった。自殺をしたのは、同県八千代市の画家、滝口功多さん(二十五)。銚子署の調べに拠(よ)ると、滝口さんは三日前から銚子市に來て居り、昨夜九時頃に、滞在して居た旅館から一人で出掛け、其の儘犬吠埼に向い、身投げをしたものと思われる。動機に就いては、現在の所判って居ない。尚、遺体は未だ上がって居ない。滝口さんは一昨年に地方展覧会で初の会員権を獲得し、現在は十一月二日から開催されて居る日展に、作品が展示中である。
 有美は、身顫いした。自分の所爲(せい)だろうか? そして手紙の事を思い出し、塵芥箱から茶色の、分厚い封筒を拾い上げて、開封する。逆さにして振ると、中から便箋の束が出て來た。其れを開いて、走り書きされた文を、丁寧に読んで行く。
 全部読むのに、三十分近く掛かった。そうして、最後の「敬白」と云う文字迄読んだ時、其の文字の上に、ぽたと滴が落ちた。ゆっくりと疊んで、封筒に仕舞うと、ふらふら立ち上がり、寝室へ行って何やら身支度を始める。そうして、目を真紅(まっか)に腫らし、蒼い顔で、リュックを脊負うと、音も莫く、ふわりと家を出た。
 駅迄の長い道程(みちのり)を、とぼとぼと歩いて行く。途中交差点で、赤信号に気付かずに渡り掛け、烈(はげ)しいクラクションの音で、はっとして、慌てゝ歩道に戻ったりした。
 津田沼から、千葉で乘り換え、銚子へ往く。リュックを膝の上に乘せ、封筒を胸の前で抱き締める様にして居る。最早功多への嫌悪感は、綺麗に消え去って居た。窓に額を当てゝ、静かに濡れた瞳を閉じると、すっと一筋、涙が零(こぼ)れ落ちた。

 其の頃犬吠埼では、懸命な捜索活動が行われて居た。其の様子を、車のバンパーに腰掛けて、凝然と見詰めて居るのは、昨夜の老紳士、佐々木である。其の佐々木の傍(かたわら)で、詰まらぬ顔して煙草を銜(くわ)えて居る、フロックコートの男は、海とは正反対の山の頂を、ぼんやりと見て居たが、不図(ふと)顔を佐々木に向けると、恐らくは先刻(さっき)から、幾度も繰り返しゝて居るであろう同じ質問を、懲りもせずに復口にした。
 「佐々木さん、あなたが、第一発見者なんですよ。本統にこんな手紙しか、殘されて居なかったのですか?」
 「武田君、あんた、俺を疑うのかね? 其りゃ、疑うのは刑事の仕事かも知れん。然しね、あんた方に隱し事したって、仕方莫いじゃないか。彼の男は、其れしか殘さなんだ。――そう云う奴だよ、滝口功多って男は」
 佐々木は武田の方も見ずに、煩(うるさ)そうに応える。
 「然し妙ですね、……此の文を、御読みになりましたか? 画家と云うより、寧(むし)ろ詩人ですよ」
 「――其れも、飛切り三流のね。何、私は未だ読まんが……彼(あ)の男の書く物は、如何(どう)も月並で不可(いかん)、変に気取ったりして、丸で内容が莫い。読む気になんか、迚(とて)もならんね」
 「そうですか、私に文才が莫い所爲か、妙に神秘めいて居る様にも見えますが、――真逆(まさか)、何かの暗文じゃ莫いでしょうね」
 「真逆。そんな手腕が、有るものか! 只の駄文だよ」
 「隨分又、扱下(こきお)ろしますね。私には何か、不思議な気がしてならんのですよ……此の定型詩って辺り、気になりますね。例えば、兼好法師と頓阿(とんあ)法師の和歌の様に、……おや? ……そうか、…」
 武田は凝然と、其の灰色の便箋を見詰めた儘、暫く默したが、突然に顔を挙げると、大きく見開いた眼(まなこ)で以て、老人の方に向き直り、「佐々木さん!」と、大仰に叫んだ。佐々木老人は吃驚(びっくり)して、思わず後退(あとじさ)り、
 「何だ! 耳許(みゝもと)で急に……聾(つんぼ)になったら、何とするか!」
 「あや、済いません――でも佐々木さん、些(ち)と見て下さいよ。此りゃ、矢っ張り暗文ですよ」
 「何だって?」
 「ほら、此処んとこ……」
 佐々木は、目の前に突き出された紙切を、詰まらなさそうに眺めて居たが、急に目を見張ると、
 「何と! 君、此奴(こいつ)を些と、写させて呉れないか。此れや、駄文所じゃ、莫くなって來たぞ! いやはや、驚いた、とんだ喰わせ者だ!!」
 佐々木は手帳を取り出すと、其の文面を丁寧に写し始める。其の横で若い刑事は、如何(いか)にも得意気に、外套の隱袋(かくし)に両の手を入れ、薄ら笑いを浮かべながら覗き込んで居る。然し老人は、礑(はた)と手を止めると、再び其の便箋を凝視した。
 「やあ、おい! 此りゃ、駄目だ、写しゞゃ仕様が莫い。君、鳥渡(ちょっと)此奴を貸して呉れないか、何、明日の朝には、屹度返すから!」
 云うが早いか、佐々木は便箋を折り疊むと、車に飛び乘り、急発進した。其れ迄にやにやと笑いながら、車のトランクに凭(もた)れて居た武田刑事は、驚いて飛び退き、「あゝ、鳥渡、其りゃ困りますよ、佐々木さん! 待って下さい、佐々木さん!」
 蒼冷めて車を追ったが、人の足では到底追い付ける物では莫く、車は既に、遙か遠方へと走り去って居た。

 其の夜晩く、有美は銚子駅に着いた。そうして、問題の岬へと、一目散に馳(は)せ參じる。強い北風の吹き荒れる中、所々錆(さ)び掛けた遺体捜索の機材丈(だけ)が、ぴうぴうと不気味な音を立てゝ居る。立入禁止の柵を越え、飛び降りたと思(おぼ)しき場所に立って、下を見下ろしてみると、真黒な海に、丸で生き物の様な浪(なみ)が、荒れ狂いつゝ、岩壁に其の身を打ち付けて居る。有美は脊筋の凍る思いで、其処からゆっくりと顔を戻し、回れ右して其の場を辞した。柵の前迄來ると、其の場にへたり込んで、ひくひくと怯(おび)える様な泣き方をして居たが、急に顔を伏すと、一時にわっと、大声立てゝ哭き崩れた。
 暫くそうして哭き続け、涙も尽きた頃、そっと立ち上がり、柵を越えようとしたが、急に肩を掴まれ、びくっと戦慄(わなゝ)き、振り返ると、びしょ濡れの外套を羽織って、烈しく身を顫わせた、小柄な男が立って居る。

   二

 次の朝早く、一台のセダンが銚子署に乘り付け、中から佐々木が下りて來た。慌てる様にして署内へ驅け込むと、「武田君! 武田君!」と、執拗に大声を張り上げながら、建物中を走り廻る。机に向いて、ぼんやりして居た若い刑事が、むくりと顔を挙げ、「はいはい、僕なら、此処ですよ」と、静かに応えると、佐々木は顎鬚から頬髭迄をばりばりと掻毟(かきむし)りながら、「おう、居たか!」と声を挙げ、武田の所迄、足を縺(もつ)れさせつゝ驅け寄って來た。
 「如何したんですか…こんなに朝早くから……そんなに取り乱して、みっとも莫いですよ、年なんだから、もっと落着いて居ないと身体に毒ですよ」
 「呑気なものだ、君は大体、落ち着き過ぎて居るぞ! 若い癖にみっとも莫い。――そんな事よりな、好いか、聞いて、驚くなよ! 何しろ途(とん)でも莫い事が判った」
 佐々木は稍(やゝ)熱っぽい調子で、武田の肩を搖りながら云う。
 「何ですか、本統に。佐々木さんは何時も、大袈裟だから困ります。何が有ったって、云うんです?」
 「此奴だよ、隨分と手の込んだ絡繰(からくり)だ」
 佐々木は、先日の遺書を懐中から取り出すと、刑事の眼の前へと突き付けた。
 「何だ、其れなら昨日、解いたじゃ莫いですか」
 そして遺書を手に取ると、ゆっくりと読み出した。
 「戻りたくとも的(あて)も莫い、麗しき哉(かな)藤の笠、死刑執行決定だ、理由(わけ)等問うな華(はな)は咲く、穢(けが)れを知らぬ乙女とて、哭いてる丈じゃ腹も立つ、今君何處(いずこ)遙か先、今宵こそ我が首を討(う)ち、生くる苦しみ忘れよう、埜(の)に咲く花よ此(この)花は、儚き命清廉さ、眼を閉じ暫し物思う、束の間の戀(こい)凡(すべ)て嘘、硝子越しには誰の墓、雪に焦(こが)れて謌(うた)咏う、畫(え)を描き疲れ汽車の窗(まど)、錦の羽織君が手に、死なば凡ては淡き夢、日本の夜明け空の下、逝(ゆ)く人々の澑息(ためいき)が、聽こえ來る樣(よ)な甓(かめ)の底、未だ視(み)ぬ曙光今日が日の、凡ては熄(や)める此度(こたび)こそ。――此の儘では、全く意味が解(わか)りませんが、夫々(それぞれ)の七五の頭文字を順に拾って読むと、『申シ訳ナイ、恋ノ破滅ガ故(ゆえ)ニ、死ニ逝キマス』となるんですよ」
 如何(いか)にも得意気に、多少踏反(ふんぞ)り返って云うと、
 「……そうしてケツの文字を後ろから順に拾って読むと、『其ノ娘(こ)ガ爲ニ、如何(どう)カ捜査ハ、打チ切ッテ下サイ』となる」と、多少苛々しながら、佐々木が付け加える。
 「え? あ、本統だ……此りゃ、気付きませんでした。――然し、打ち切れったって、……そんな事、……困ったなあ」
 「そんなこた、如何だって好い! 俺の云ってんのは、こんな子供騙(だま)しの、阿呆らしいトリックの事なんかでは莫い!」
 阿呆らしいと云う言葉に、此のトリックの第一発見者たる武田は、可成(かなり)むっとした。
 「何ですか、其の云種(いゝぐさ)は。佐々木さんだって、気付かなかった癖に……」
 「俺は、読んでなかったんだ。気付く道理が莫い。……だけど、本意は此れじゃ莫いのだ、眼晦(くら)ましなんだよ、此奴(こいつ)は飽くまで、眼晦ましなんだ! 真実は別に在るんだよ、何て莫迦なんだ! 好いか――」
 其れ迄、語気烈しく、机上の手紙をばんばん叩いたりしながら喋って居たが、急に声のトーンを落し、急度(きっと)刑事を見据えると、顔をより近付け、囁く様にして、
 「生きて居るんだよ、彼(あ)の男は!」

 其の頃有美は、或る旅篭(はたご)の一室で寝て居た。独りかと思いの外、倚子の上で、貧相な男がゆっくりと、煙草を燻(くゆ)らせて居る。誰でも莫い、滝口功多、其の人である!
 「ねえ」
 ベッドから、静かな声がした。
 「于(あゝ)、起きたのか」と云って、功多は煙草の灰を卓上の灰皿へ落した。有美はゆっくりと寝返りを打って、功多の方を向き、「非道いじゃない、心配したのよ、凄く。聞いてるの?」
 「噫(あゝ)」功多は煙草を消すと、倚子を立ってベッドの方へと歩み寄り、そして微笑みながら、右手を延べて、有美の頬をそっと撫(な)でる。
 「莫迦……」そう云って、有美は枕に顔を埋(うず)めた。
 「死ねなくてね……君を、……君の事を想い出したら……顔が、見たくて…声が聴きたくて……つい、陸(おか)迄泳いじまった」
 「莫迦よ――」有美は寝返りを打ち、功多に脊を向け、窓の外を見る。「大莫迦。死んだって、仕方莫いでしょ? 他人(ひと)の気も、知らないで……」
 「だって君は――」口篭(ごも)り、立ち上がって、部屋の中をうろうろと歩き廻る。「君は――嫌いだって…」
 「云ってないよ、そんな事!」ガバと跳ね起き、功多を眼で追いながら、「逢うのは止(よ)そうって、そう云ったけど、でも、嫌いだなんて、云ってない――」
 功多は足を止めると、苦笑して、ベッドの足許に腰掛けた。
 「あたし、手紙が着いた時、直ぐに捨てたんだけど、新聞に載ってたから、慌てゝ拾って、読んだの。哭いたのよ。其れで直ぐ、電車に乘って、――」
 「新聞? 何が載ったって?」
 「あなたの事よ、自殺したって……」
 「は! 何だってそんな、下らない記事――」
 「滝口さん有名だもん、当然よ」
 「何が有名なものか、莫迦にしてやがる!」
 有美はベッドより下りると、彼の正面に在る倚子に腰掛けた。
 「有名よ、知らないの? デビュー二年目で、日展に出れるんだもん、天才画家って、皆云ってる」
 「何だ、みんなって…」
 「大学時代の、友達とか、…家族とか――」
 「君の家族が?」
 「そうよ」
 功多は机上の新聞を取り上げ、裏からぱらぱらと頁(ページ)を繰(く)った。
 「何だ、何処にも、莫いじゃないか」
 「其れじゃないの。千葉日報」
 不意に功多は、大笑いを始め、「何だ、其れなら載っても、不思議は莫い!」と云う。「彼(あ)れには、知人が居てね――真逆、其れ丈でも載らんだろうが……」
 「――如何するのよ、此れから……」有美は話を逸(そら)し、ポットの所迄行くと、茶を淹(い)れた。
 「生きてゝも、する事莫いしな……」
 「何よ」茶碗を机に置くと、「御茶が、淹(はい)ったわよ」と静かに云い、倚子に坐って、心做(な)し顫えた手で以て、茶を啜る。「死んじゃ、駄目よ。幸せにして、呉れるんでしょう?」
 「え?」不図、有美を見挙げる。
 「大学時代、散々云ってたじゃないの……嘘だったの?」
 「否――然し……」
 「何よ」
 「君は、手紙を捨てたんだろう?」
 「直ぐに拾ったわ」
 「でも、一度は捨てゝるんだ」
 有美は、功多の横に腰掛け、手を握ると、「死んで欲しくないの。滝口さんが生きてゝ呉れるのなら、あたし何だってするから!」
 功多は握られた手を振り解(ほど)き、立ち上がった。
 「巫山戯(ふざけ)るなよ。何だよ、其の云種は! 莫迦にしやがって! 要するに、罪人(つみびと)になると思ってるんだ。俺が死ぬのは、自分の所爲だと思ってるんだ。自分の所爲で誰かゞ死ぬのが、厭な丈なんじゃ莫いのか! 思い上がるな、俺の死ぬのは、御前の所爲じゃない。縦(よし)んば御前が原因だとして、そんな事遺書に書いたりしない。――御前に迷惑は、掛けないよ。警察だって、失恋が原因だと推理は出來ても、御前が相手と迄は判らんさ。俺はそんな、へまはしない。安心して、見て居ろ」
 そして、くるりと踵を返すと、ドアへ向って歩き出す。有美は血相変えて、功多を追い掛け、「滝口さん!」と叫び、腕に縋(すが)ると、「駄目(だめ)! やだ! 死なゝいで!」と、目茶苦茶に哭き叫んだ。
 「僕は君を、幸せには出來ない」
 功多は冷たく、突き放す様に云い、腕を振り払うと、懐中から財布を取り出し、「此れで、宿代に足るだろう」と、幾枚かの紙幣を手渡す。
 「厭」
 有美は其れを、押し返したが、功多は有美の隱袋に、其れを無理矢理捩込むと、「君を、……死ぬ前に一目見る事が叶って、――声を聴く事が出來て、好かった」少し笑って、其の儘回れ右し、部屋を去った。

   三

 「其れで、一体如何云う事なんですか?」
 武田刑事が、訝(いぶか)しげに訊き返す。佐々木は苛立ちも露(あらわ)に、「何て莫迦なんだ! 奴は、生きて居る。外に云う事は莫い!」と喚(わめ)いた。
 「だから、何を根拠にそんな事を――」
 佐々木は、机を思いっ切り叩いた。
 「好いか、君! ――」
 と、其処へ若い男が、慌てゝ驅け付け、「佐々木さん! 何て事を、佐々木さん! 鳥渡(ちょっと)!」と、佐々木の袖をぐいと曳(ひ)いた。佐々木は蹌踉(よろ)け、姿勢を立て直すと、今度は矛先を彼に向けて、「何だ、一体!」と、殊更(ことさら)に大きな声で叫んだ。男――田村は半歩、後退(あとじさ)りしたが、「ちょっと」と繰返し、怒りを押し殺した様な表情で以て、佐々木を部屋の隅迄曳っ張って行き、そして、何やらひそひそと耳打ちをする。佐々木は最初、苛々しながら聞いて居たが、次第に鎮(しず)まり、寧ろ蒼冷めた顔で以て、「武田君、否――実は俺の、勘違いだった。遺書は返すよ。騷がせたね、失敬!」と云い殘し、田村と共に、警察を辞した。
 「ちょっ……佐々木さん! ――何だってんだ!」
 訳も解らず、武田は苦い顔して、二人を見送った。
 車の助手席で、佐々木は一向、落着かなかった。苛々して、鬚を掻毟り、目をぎょろぎょろさせ、時々むうと、唸ったりして居る。軈て、不意に運転席の方を向くと、
 「田村君、其の――写しは、持って居るか?」
 「此処には在りません。事務所に、置いて來ましたから」田村は冷静に、応対する。「第一佐々木さんは、せっかちですよ。ほんの一二文解読した丈で、警察に飛んで行くんだから――まあ、元々刑事遣ってたんですし、無理も莫いでしょうけど――其れにしても、今や一介の、探偵なんですから……」
 「分かった! 分かった! 悪かったよ、済まなかった!」老人はむっとして、遮(さえぎ)った。「どうも其の、説教癖は何とかならんものかね。助手に説教される探偵なんて、俺位の者だろうよ!」
 「説教が厭なら、軽はずみな行爲は謹んで下さい。尤(もっと)も、佐々木さんの気紛れで、扱って居る事件ですから、如何な結果になっても、僕の知った事じゃ莫いですがね! 所詮は唯働きだ」
 「金が欲しけりゃ、呉れて遣るさ」佐々木は気を悪くして、露骨に云い放った。
 「見損なわないで下さい! ――まあ、此処迄のタクシー代は、後でちゃんと請求しますが……」田村は其切(それぎ)り、何も云わぬ。佐々木も、默り込んだ。
 軈て車は、小さなビルディングの駐車場へと、入って行く。佐々木は真先に飛び出し、鉄製の階段を、高い音を立てながら驅け上がった。
 写しは机の上に、無造作に置かれて在った。そして幾枚かの紙片が、其の傍に散らばって居る。其れ等紙片には、写しから解読された物が、走り書きされて在る。佐々木は番号順に揃えると、じっくりと読み進めた。其れ迄興奮の爲に赤い顔をして居た老人は、次第に落着きを取り戻して行く。其処へ、田村が戻って來た。
 「此れ丈の物を作るんですから、大した男ですよ。其れに、佐々木さんが解読する事を、見越して居る。――ずっと思って居たんですがね、あなたと其の男、――滝口、功多ですか? ――一体、如何(どん)な関係が有るんですか?」入り口のドアに凭(もた)れ掛かって、感嘆とも嘲笑ともつかぬ様な表情で、問う。佐々木は無言で、唯ギロリと睨(にら)むと、紙片の束を机上にそっと戻し、田村の問いには一切答えずに、「出掛ける、指定の場所だ!」と丈云うと、外套を羽織って、足早に部屋を出た。
 髯の老人が鎌倉に着いたのは、午後六時半を過ぎた頃だった。適当な場所に車を停めると、真直に指定された居酒屋へと向う。果たして、彼は居た。カウンターの端の席で、一人焼酎を遣(や)って居る。佐々木は脊後へ立つと、無言で肩を叩いた。功多はビクリとして、コップの酒を半分程も、膝の上に零(こぼ)して仕舞い、慌てゝ立ち上がった。老人は苦笑して居る。
 「何だ、みっとも莫い。そんなにびくびくする事も、莫いだろう」
 「――佐々木さん、彼(あ)の手紙を?」
 「そうさ、だから此処に、來れたんじゃないか。尤も解読には、一晩已上掛かったがね、危うく、高速を使わなければ、間に合わぬ所だったよ」約束の時間に半時間已上も遅れて現れた此の老人は、そう云訳をすると、功多の隣りの席に腰を下ろし、水割りを注文する。
 「誰かに、依頼されて?」功多は先刻から手巾(ハンケチ)で、頻(しき)りにズボンを拭いて居たが、好い加減で諦め、元の席に坐り直した。
 「否、そうだな、敢(あ)えて依頼主を挙げるとすれば、……滝口功多かな?」稍(やゝ)からかう様な調子で、薄く笑いながら云う。
 「ま、待って下さい、其れじゃ、僕が依頼料を出すんですか? 今更そんな金、殘ってやしませんよ、死ぬ気だったんだから」思わず声が、一段高くなり、慌てゝ手で口を盍(おゝ)う。
 「はゝ、冗談さ。今回は、俺の趣味だ。誰からも金は取らんから、ま、安心しとけ」
 「そうですか、……いや、迷惑掛けますね――其れより、警察にはちゃんと、默って置いて呉れたんでしょうね? 其りゃ何時かは判る事だけど、出來る丈、時間を稼いで置きたいんです」
 「噫、……大丈夫だ」老人は少し云い淀(よど)み、出された水割りを一口啜った。そして、話題を逸(そら)す。「然し、恋の自殺を僞るたあな。愚だよ、愚! 莫迦々々しい」
 功多は不図顔を曇らせ、左の眉の上に、縦皺が一筋、すっと入った。暫くは唯、コップを強く握り締めながら、凝然と默って居る。
 「本統の原因は、一体何なのだ?」
 佐々木の問に、功多は不自然な微笑を浮かべ、「復讐ですよ、画壇に対する……」
 「復讐?」
 ――熟(つくづく)感情を隱すのが下手な男だな。
 佐々木は功多の額の皺を知って居た。其れが如何(いか)なる時に現れ、又如何なる意味を持つものであるのか、好く好く、熟知して居た。即ち功多は、女一人の爲に死のうとして居るのである。然し其れを表には出さず、何も気付かぬ振りをして、然(さ)も意外であるかの様に、功多の言葉を反復する丈に止(とゞ)めて置く。
 「方法は云えませんがね、……画壇に対する復讐を完遂する迄は、僕は死ねないのです」
 「……其れなら、一体何の爲に、僞装自殺なんて事をしたんだ」
 「死んだ事にしておけば、色々と遣り易い事もありますから」
 佐々木は其れ已上、突っ込んで訊く事をしなかった。全て僞りだと云う事が判って居たし、今は其れを追求すべき時では莫いと、察して居たからである。
 其の晩の功多は、非道く荒れた。話の内容は彼方此方(あちらこちら)へと身勝手に飛び、全く脈絡が莫く、矢鱈に大声を張り上げて、僕は、僕は、等と舌を縺(もつ)れさせながら、一所懸命に何かを主張しようとして居たが、そんな時佐々木は、決って冷たく微笑んで居た。

   四

 其の晩佐々木は車の中で寝て、事務所に戻ったのは昼過ぎであった。そうして戻って間もなく、其の事件を識(し)る事となる。
 「佐々木さん、大変です、武田刑事から連絡が有って、……」
 其の事件を佐々木に伝えたのは、其の場へと勢い好く飛び込んで來た、田村である。佐々木はソファーに横になって、そろそろと睡(ねむ)りに落ちて行こうかと云う所であった。
 「何だい一体、俺は疲れてんだから。少し休ませて呉れよ」
 「そうは行きません。復自殺です。今度は女が」
 「復って、……功多は生きてんだぜ」
 「其の、滝口と全く同じ場所で有ったんですよ!」
 佐々木は一遍に、眠気が吹っ飛んだ。
 「えゝ? 何だって? 彼処(あそこ)は立入り禁止だろう、如何して……」
 「夜間は誰も、居ませんからね」
 「何て不用心な……」
 老人は事務所内をうろうろしながら、「其の女ってのは、全体、何処の誰なんだ」
 「津田沼在住の、二十四歳の会社員です」
 「――死んだのか?」
 「生きてます。……警察では、滝口との関連を調べて居ますが……」
 急に佐々木は、はっとして、田村の襟首を掴むと、「そ、……其の女、柿田、有美か?」
 驚いたのは田村の方だ。名前は未だ、一言も口にして居なかった。「知って居るんですか? 矢張り、滝口の……」
 「莫迦者! 関係なんか、有るものか! 俺は知らん! 警察にも、そう云って置け! 功多とは何の、関係も莫いとな!」
 凄い剣幕であった。田村は思わず後退り、「そんな調子で警察に行ったら、関係有るって云ってる様な物ですよ。気を付けて下さいよ、庇(かば)うならもっと、巧(うま)くしないと……」
 「なに?」佐々木は田村をギロリと睨み付け、倚子に坐ると、「警察など、誰が行くか! 俺は、一眠りする」と云い、脊凭れに身を凭せ、其の儘目を瞑(つむ)った。

 有美は銚子市立病院で、ぐっすりと寝入って居た。部屋には他に、誰も居ない。真蒼な顔で、左の腕に点滴を受けて居る。軈て紫色の唇が、幽(かす)かに顫えながら、小さく開くと、消え入る様な声を、色白の細い喉から絞り出す。「たきぐちさん」と、云って居る様だ。何度も何度もそう呟き、そうして躯を捻転(ねんてん)させる。閉じた瞼(まぶた)から、きらきらと輝く物が滲(にじ)み出て來る。其れが遂に溢れ出し、すっと零(こぼ)れて敷布の上に落ちた。そして復、ぶつぶつと呟き始める。
 其処に武田が入って來た。物音に有美は目を醒まし、其の方を仰ぎ見る。
 「御気分は、如何(いかゞ)ですか」
 武田は静かに問い、傍の倚子に腰掛ける。
 「柿田さん、何故、こんな事を……」
 有美は無言で、目を逸せた。
 「何故彼(あ)の場所で?」
 依然有美は、口を閉ざし、窓の外を凝然と見詰めて居る。武田は溜息を一つ突き、「滝口功多……ですか」と、他所(よそ)を向いて云う。有美はピクリと、身を顫わせたが、其れでも何も云わず、そっと眼を閉じる。武田は愚鈍である、其の刹那、有美の見せた幽かな反応には、些(ちっ)とも気付かずに、遂には諦めて、「復、來ます」と丈云って、病室を出て行った。有美は武田の足音が遠去(ざ)かるのを待ち、声を放って号泣した。
 其の日の晩、今度は佐々木老人が遣って來た。有美が寝入って居るのを見ると、静かに倚子に坐り、懐から文庫本を取り出して、読み始める。其の時有美が、少し躯を顫えさせ、掛け布団を抱き締めると、「たきぐちさん」と、例の呟きを始めた。佐々木は本を閉じ、枕元に置くと、有美の方を向いて、そっと囁く。
 「有美さん、佐々木です、滝口功多とは、古い知り合いで、昨夜(ゆうべ)、彼と逢って來ました。功多は、生きて居ます。あなたの事、彼から聞いて居ます。断って置きますが、警察ではありません」
 其の声で有美は目を醒まし、一瞬驚きの表情を見せたが、警察でないと云う言葉に安心したのか、佐々木の方も見ずに、小さな紫色の唇を、そっと開く。
 「彼(あ)の人、今でも生きて居るんですね? ……彼の岬で死んで居なかったのは、知って居ます。……私も一昨日、逢ってますから、……」
 佐々木は少しく驚いた。
 「起きてましたか、……否、御逢いして居たとは、……彼奴(あいつ)そんな事、一言も云わなかったがな……」
 有美は佐々木の方を向くと、「彼の人、今何処に居るんですか? あたし、……あたしが彼の人を、自殺に追い遣ったんです。あたしが不可(いけな)いんです! 欸(あゝ)、滝口さん……」
 有美が哭き出すので、佐々木は困り果て、暫く部屋の中をうろうろと歩き回った後、「あなたの所爲では莫い。彼奴は失恋したからと云って死ぬ様な男では莫い。必ず外に、理由があるのだ。……失恋如きで自殺をする様なら、もう十年已上も前に死んでるさ」と云うと、声を立てゝ、笑った。
 「復彼奴と逢う。明日ね、何処でとは云えんが、……若(も)し伝えたい事が有ったら、遠慮莫くどうぞ」
 有美は啜り上げながら、佐々木を凝然と見上げて、そうっと唇を動かし始める。
 佐々木は一つ一つ、首肯(うなず)きながら聴いて居たが、総て聴き終えると、すっと立ち上がり、有美を見下ろして、「まあ、俺に任せて置け。大丈夫ですよ。――其れから、此処で俺が話した事、決して警察には云わないで置いて呉れ給(たま)え。功多の爲さ。分かったね? 其れじゃ、おやすみなさい」と云い、部屋を後にする。
 階段の処(ところ)で、武田が待ち構えて居た。佐々木が病室から出て來るのを見付けるが早いか、彼の許へと走り寄り、「佐々木さん、一体何を話して居たんですか? 隨分長かったですが、滝口とは何か、関係が有りましたか? 一体――」
 佐々木は煩(うるさ)そうに、右手を挙げて阻止すると、「何も有りゃ、せんよ。功多とは何も、関係莫い。ずっと默り込んでるんで、非道く苦労したよ、君の云って居た通りだ。――結論は、功多とは無関係、其れ丈!」そして、刑事の横を擦(す)り抜け、足早に去って行った。

   五

 其の翌日、甲府の小さな居酒屋にて、佐々木と功多とが酒を酌(く)み交わして居る。
 「如何だね、少しは落着いたか」
 功多はつまらなさそうに、猪口(ちょこ)の底を凝然と見詰めて居る。
 「何が落着くんです? 僕は、死ぬんですよ。唯其の前に、佐々木さんに話して置きたい事が有った丈です。落着くとは、一体、何の事ですか」
 佐々木は困った様に、冷や酒を喉に流し込むと、功多の肩を叩きながら、低い声で、「柿田有美、自殺未遂……」と呟いた。功多は吃驚して顔を挙げ、今にも佐々木に飛び掛からんばかりの勢いで、「何ですって!? 今、何て云いました、有美が、如何したんですか! 本統の事ですか? 僕を、担(かつ)ごうってんじゃ莫いでしょうね!」
 然し佐々木は、功多の慌て様には目も呉れず、寧ろ冷たい位の態度で以て酒をちびちびと啜りながら、
 「君の大切な人はな、君がしたのと、全く同じ場所で、海に身を投げたんだ。……幸い、命は助かったが、……如何云うものかね、彼の娘は君が、好きなんじゃ莫いのかい?」
 功多は今や、佐々木の胸倉を掴まえ、真蒼(まっさお)な顔をして、「何でそんな事を……其れで、今、何処に?」
 「市立病院さ……」佐々木は口角に、ふっと意地悪そうな笑みを浮かべて、「刑事がずっと、張り込んで居るがね、何なら、見舞いに行くかい?」
 「何て事を……」全く意気消沈して、どさん、と倚子に腰を落とすと、暫くはポカンと大口開いて、唯空(くう)の一所を凝然と、見詰めるとなしに見て居た。
 「昨日彼女に、逢って來たよ。君に、幾つか伝言を言付(ことづ)かって來た。聞きたいか?」
 然し功多は、呆(ぼう)っとした儘、一言(いちごん)も莫い。佐々木は構わずに、手帳を取り出すと、頁を繰って伝言を捜し始める。
 「其れじゃ、好いかね? 読むぞ」
 そして声に出して、一句々々判然(はっきり)と、読み上げて行った。
――死なゝいで、下さい。死なゝいで、下さい。あたしはあなたが、好きなんです。大好きなんです。死なゝいで、下さい。あなたが死んで仕舞うと、あたしの人生は、其処でお終いです。死なゝいで、下さい。御願いですから、死なないで、下さい。あたしを幸せに、して下さい。滝口さん已外に、あたしを幸せに出來る男(ひと)は、居ません。勝手な話ですが、あなたが死んで仕舞うと、あたしを幸せにして呉れる人が、居なくなって仕舞うんです。あたしはあなたの爲なら、何だって、します。だから、一生傍(そば)に、居て下さい。死なゝいで、下さい。あたしの爲に、死なゝいで、下さい。あなたの爲に、生きるから、御願いですから、生きて居て下さい。其れと、こんな莫迦な事をして仕舞って、御免なさい。滝口さんは死んで仕舞ったと思って居たものですから、……本統に御免なさい。赦(ゆる)して下さい。今、市立病院に居ます。來れるものなら、御見舞いに來て呉れると、嬉しいです。復、あなたに逢いたい。如何か、死なゝいで、下さい。
 功多は、哭いて居た。佐々木は功多の肩に腕を回すと、うっすらと笑みを浮かべながら、優しく宥(なだ)めるように、「こんな事も、云って居た。――あたしは、今でも未だ、処女です。あなたが、何時だったか、『綺麗な身体で俺の許に來い』と云って居たので、あなたの爲に、大事にして來ました。本統です」そして功多の脊を、勢い好く叩くと、「幸せ者め! 何を、死ぬ事があるか、御前は果報者だよ! 哭くんじゃ莫い、みっとも莫い奴め、こんなにも御前を想って呉れる娘が居るとはな、吃驚したよ、俺はずっと、御前を誤解して居た様だ」
 然し功多は、依然机に突伏した儘、ひくひくと怯(おび)える様に哭いて居る。
 「僕は、僕は一体、如何したら好いんだ……一体……欸、如何しろと云うのだ、……佐々木さん、本統に其れは皆、事実なんですか? 嘘や僞りじゃ、ないんですか?」
 予期せぬ功多の反応に、佐々木は驚きの色を隱せなかった。
 「何を云うんだ、今のは皆、柿田有美が実際に云った事を、其の儘、何の編輯(へんしゅう)もせずに、君の許へと持って來た物じゃないか! 一体如何して、そんな事を云うんだ、俺を、信じて居ないと云うのか?」
 「否、正確には、有美を信じて居ないのです、昔から、僕が死ぬと云えば、何かしらそんな事を云って、死なぬと決すると、コロリと態度を変えて、云った事総てに対し、知らぬ振りをするのです。今の伝言だって、僕を引留る爲……」
 佐々木は真赤になって、功多の胸倉を掴み、「何だと此奴、一昨日、柿田有美を愛して居ると云ったのは、彼(あ)れは嘘か! 巫山戯るな、愛して居るなら、御前の後を追おうと、自殺迄してみせた彼女を、如何して信用出來ない!昔が如何だか知らんが、仮令(たとえ)裏切られた事が有るにせよ、信じ続けるのが愛じゃないのか? えゝ? 俺が何か、間違った事を云って居るか、おい、功多! 如何なんだ此の野郎!」
 「然しね、佐々木さん、僕程非道く、裏切られ続けた例は、莫いんじゃないですか? 僕は実際、彼女に非道く、傷付けられて居るんです。最早何も、信じられないんですよ」
 「俺だって……」佐々木は酒を、一息に呑込み、「俺だってな、今日迄の人生で、何(ど)れ程裏切られ続け、何れ程傷付いて來たか、……其れこそ御前には、解るまい。然し其れでもな、一度だって、信じる事を止(や)めた事など莫い。其れ丈に苦労も絶えぬが、然しな、他人(ひと)を信じられなくなったら、其れは、人として失格だぞ」
 「だから、死ぬんです」
 佐々木は此処で、はっとして、息を呑んだ。
 「おい、此の前の鎌倉と云い、今日の甲府と云い、御前、……誰かの……」
 其切り言葉を切ると、功多を掴まえて居た手を放し、倚子に坐り直して、猪口に酒を注ぎ、凝然と默って呑み始めた。功多は襟元を直すと、矢張り酒を注ぎ、「気付きましたか、彼ですよ」
 「……」佐々木は默って、酒を呑込む。
 「太宰、……」
 「忘れるものか昭和二十三年六月十九日、……俺は、太宰のファンだったのだから……」
 「次に逢うのは、船橋ですかね」

   六

 「俺はもう、降りるよ」
 銚子の海を望んだ私立探偵の事務所で、佐々木は机に脚を投出し、誰に云うとも莫し、そんな事を呟いた。田村が其れを聴き付け、驚いた顔を挙げて、読んで居た新聞を疊みながら、佐々木を睨み付ける様にして、声を荒らげる。
 「何ですか? もう一度、云ってみて下さい。何て云ったんです? 僕の訊き違えですかね、此の仕事を、中途で放り出す様な事を、云ったのかと思いました」
 「云ったさ、降りるよ、俺は。功多なんぞに、構って居られるか。俺だって忙しいのに」
 「忙しい? 外に仕事なんて、何も莫いですよ。――遂に泣き言が出たか、全く嘆かわしい。昔の、刑事時代の意気なんか、全く失くして仕舞いましたね」
 佐々木は目を瞑って、深呼吸を一つした。田村が傍迄來ると、懈(だる)そうに口を開く。
 「続けたければ、君一人で遣って呉れ。俺はもう、御免だ。こんな事を続けて居たっても、何にもなりやしない。疲れたよ」
 「佐々木さんらしくも莫い、……其れじゃあ今迄遣って來た事は、一体何だったんですか? 僕は中途で投出す爲に、色々遣って來た訳じゃ有りません。莫迦々々しい」
 「そう、責めないで呉れ」
 佐々木は徐(おもむろ)に立ち上がると、コートを羽織った。
 「何処へ?」
 「散歩だ、構わんで呉れ」
 そう云って、佐々木は事務所を後にした。

 市立病院の二階の病室で、有美が本を読んで居ると、ドアをノックする音がした。
 「はい、どうぞ」
 現れたのは、佐々木である。有美は微笑して、「佐々木さん……でしたっけ? 如何(どう)したんですか」と明るく彼を迎え入れた。佐々木は無言で、倚子に坐ると、下ばかり向いて有美に話し掛ける。
 「功多は、――彼(あ)れは昔から、自殺願望が有ったのか」
 有美の顔が、不図曇る。
 「えゝ、隨分前――四年前から。あたしに告白をして、そうしてあたしが振って、半年目位から、そんな事を云い始めました。最初は吃驚しました。あたし、一生懸命宥(なだ)めて、――自分が原因だって、判って居たので、責任も可成(かなり)感じて、一生懸命に宥めて、慰めて、何時か好きになるかも知れない、なんて元気付けて、其れで其の時は、何とか思い留まって呉れたんですが、其れから数个(か)月後に復、死にたいって云い出して、其の後も結構頻繁に……あたしは何時も、同(おんな)じ事しか云えなくて、何度云っても、矢(や)っ張(ぱ)り同じ事の繰返しで、……終(しま)いには、疲れちゃったんですね、もう何も云いたく莫くなって、もう二度と、逢わない様にしましょうって云ったのが、半年前の春でした。其れから暫く、何も云って來なかったんですけど、こんな事件が有って、……新聞で識ったんですが、――千葉日報って云ったら、彼(あ)の人笑ってましたけど――其れと同時に長い御手紙が着いてゝ、……」
 突然有美は口を噤(つぐ)み、仕舞ったと云う様な顔をして、佐々木の方をそっと見たが、佐々木は先刻から、凝然と下ばかり見て居て、微動だにして居ないのを知ると、知らぬ振りを装って、何気莫く言葉を続ける。
 「新聞で識って、慌てゝ此処に來たんです。其れで、遺体捜索か何かして居る所で、夜でしたから人が居ないのを好い事に、柵を越えて現場迄行ってみたんです。其れで、飛び降りたらしい所から、凝然と下を見下ろしてみると、凄く暗くて、高くて、こんな所から彼(あ)の人が飛び降りたかと思うと、鳥肌が立って來て、もう、怖くて怖くて、其の儘逃げ帰る心算(つもり)で柵迄走って戻ったら、涙が出て來て、……其処で暫く、声を立てゝ哭いてたんですが、……そしたら急に、誰かに肩を掴まれたんです。吃驚して振り向くと……」
 「滝口功多、か」佐々木は依然、俯いた儘で、合いの手を入れた。
 「そうなんです、海水でびしょびしょになった、彼(あ)の人だったんです。でも最初は、あたしには判りませんでした。だって、顔を隱す様にして居たんですもの。声を聴いて、初めて判ったんです。彼の人、真先(まっさき)にあたしに、何て云ったと思います? 元気だったかって、そう云ったんです、人の気も知らないでって、あたし顔を殴って遣ろうかと思いましたけど、其れより先に、涙が出て來て、気が付いたら彼の人の胸で、哭いてました。苦しくなる程、哭いたんです。そしたら彼の人、此処は寒いからって、旅館を取ってあるから、其処に行こうって云って、あたしも尾(つ)いて行ったんですけど、彼の人、変な名前で部屋を取って有って、おかしいなと思いながらも、何も云わずに尾いて行ったら、其の部屋の中で、色々と話して呉れました。――あたしが來たのは、予想外だったらしいんですけど、滝口さん隨分喜んで、あたしはてっきり、自殺を止(や)めたのか、失敗して諦めたのかと思って、安心して笑いながら、色々と聴いてあげて居たんです。其の晩はあたしをベッドに入れて、彼の人はソファーの上で、寝たんです。あたし、悪いなと思ったんですけど、彼の人さっさと寝て仕舞うから、仕様が莫くベッドで寝ました。ひょっとしたら、夜中に襲って來るかも知れないとか、考えながら」
 有美は此処迄話すと、愉快そうに笑った。
 「あたし、そりゃ怖かったけど、内心其れを、望んで居たのかも知れません。でも結局、何事も莫く夜が明けて、ほっとした様な、寂しい様な……でも彼の人、其の朝、死ぬって云って部屋を出て行ったから、あたしてっきり、もう死んじゃったものと思って、彼の晩何か有ったら、あたしこんな事しなかったんですが、どうせ死んじゃったんなら、子供が居る訳でも莫し、生きる意義が失くなったみたいで、あたしも後を追う心算で、同じ場所から飛び降りたんです。――莫迦ですよね、捜索を始める、直前に飛び込んだらしくて、あっと云う間に拾われて、此の様(ざま)ですよ」
 「生きて居て呉れて、好かったですよ。あなたが死んだなんて、功多が聞いたら、其の場で手首を切落し兼ねません」
 有美は其れを聴いて、再度笑い出した。
 「彼の人、そんな事、出來ませんよ。前から云ってました、刃物の自殺は怖くって、迚も出來ないって……小心者なんですよ、昔は首を括(くゝ)って、紐(ひも)が切れるなんて事をして居た様ですけど、最近縊死(いし)さえ、怖くなった様で、――其れで、入水(じゅすい)にしたんだと思います」
 佐々木は少しく驚いて、顔を挙げたが、直ぐに復俯(うつむ)いて、
 「彼れの入水は、其れ丈では莫い。或る人物の、真似なのだよ」
 「知ってます、縊死だって、そうでしょう? 彼の人太宰治が好きで、あたしにも『お伽草紙』って云う短編集を、貸して呉れた事が有ります。其れは結構、明るい雰囲気の本でした。でも其れを切っ掛けに、太宰の本を読み出して、何と莫く、彼の人の心裡(しんり)が解ったような、そんな気がして來ました。太宰って彼の人、躁鬱(そううつ)病気味だったみたいですね」
 「そうですか――」佐々木は不図、顔を挙げ、「有美さん、先刻、長い手紙が如何(どう)とか、云ってましたよね。其の手紙今でも、持って居ますか?」
 はっとして、思わず佐々木を見挙げた。
 「――いえ、……捨てました、海に……何故(なぜ)?」
 「そうか、……否(いや)、如何(どん)な内容だったのですか?」
 有美は顔を脊けると、凝然と壁を見詰めた儘、暫く何も云わなかった。然し默って居るのも変なので、口を小さく開くと、「忘れました、……長い、御手紙だったから……」

   七

 「変だよな、……実際、可笑(おか)しいよ、忘れる訳が、有るものか」
 佐々木は事務所の倚子に腰掛けて、ぶつぶつと云って居る。一人である。田村は何処(いずこ)かへと、出掛けて居る様だ。
 「功多に確かめるか、……話して呉れるかね、……彼の男も、好い加減謎めいて居る。余り期待は出來んかも知れんが、調べる価値は有る、或いは、……重大な事が書いて有るのかも、……捨てたってのは、彼れは、嘘だな、……絶対そうだ、何処(どこ)かに、必ず在る……」
 佐々木は腰を上げると、部屋の中をうろうろと歩き廻る。
 「屹度在る……必ず、……一体如何な手紙なのだ、……えゝい、畜生!」
 思わず手許に在った書類の束を、床に向いて投げ付けた。最早彼は、探偵に戻って居る。今朝の独言(ひとりごと)の事など、すっかり忘れて、新たに出現した問題の事で、頭の中は一盃である。彼の探偵としての血が、手紙と云う一つの手掛りに由って、再度熱く、沸立ったのだ。此れが、佐々木。此れこそが、探偵佐々木なのだ。逃げも隱れもせぬ、男佐々木敬太郎、其の人なのである!

 「君が、滝口功多か」
 功多は口許を不愉快に歪めた。
 「佐々木さんの教育はなって居ないな。……君は幾つだ? 見た所僕よりも若そうだが」
 「二十四だ」
 田村の態度は、飽く迄横柄である。丸で見下して居る。功多は吸って居た煙草を地面に叩き付け、靴の踵(かゝと)で何遍も踏み潰した。「俺は二十五だ! たった一つでも、君より年上なのだ! 解るか馬鹿野郎、一体如何云う礼儀作法を学んで來たのだ。君の故郷では常にそうするのか? 何処の生まれだ」
 田村は薄ら笑いを浮かべ、矢張り功多を見下す様にして、「此れは此れは、大変失礼しました。年上だとは、迚も見えなかったもので……」
 「佐々木さんは如何(どう)した? 何故來ないのだ。何故君の様な若輩者が代わりに來るのだ。何か事故でも、あったのか?」
 「そんな所ですかね……彼の人はすっかり、冷め切って仕舞いましたよ」
 「何だ其れは……」
 功多は訳も解らず、カウンターの倚子に腰を落着けると、不満気に田村の眼を凝然と覗き込む。船橋の小さな、居酒屋である。
 「あんたが、自殺願望を捨て去りそうにないのでね、彼の人は隨分、意気消沈して居るよ。僕の手には、負えない、とか云ってね」
 功多は唯無言で、焼酎をぐびと呑む。此の日は、功多と佐々木の、三度目の約束の日であった。功多は時間ぴったりに此処へ來たのだが、三十分遅れで這入って來たのは、佐々木ではなく、此の高慢な若者、田村だったのである。
 「其れで、自分は姿を見せずに、代わりに何の役にも立たない君を差し向けたのか。……莫迦にされたものだ、……もう好い、帰って呉れ」
 そう云って功多は席を立ちかけたが、田村が肩を強く掴んで、其れを阻止した。
 「別に僕が來たのは、佐々木さんの命令では莫いし、僕が此処に來て居る事すら彼の人は知らない。……まあ、もう少し待って居れば、來ると思いますよ」
 「彼は、手を退(ひ)いたんじゃ、莫かったのか?」
 怪訝(けゞん)そうに問うと、田村はにやっと笑って、「彼の人の事、もっと知って居るものだと思ってましたがね、あなたは意外に何も知らない。屹度來ます、そう云う人です」
 「そう云うものかい」
 「そう云うものです」
 功多はもう少し待ってみようと云う気にはなったが、然し田村とは、決して打ち解けようとしなかったし、田村にもそんな気は全く莫い様だった。二人はカウンター席に、倚子一つ挾んで坐って居り、御互いに視線を向ける事も莫く、会話を交わす事も莫く、凝然とカウンターの奧に目を置いた切り、酒を呑む丈である。先刻迄言葉を交わして居た様な気配は、微塵も感じさせて居ない。傍(はた)から見れば、全く言葉も交わした事の莫い、御互い無関係の、赤の他人の様である。
 二人の様子は然し、全く対照的だった。かたや田村は、唯酒を愉(たの)しむ爲丈(だけ)に來た客の様に落着き払って、上等の日本酒を味わう様に啜り、頬の辺りをほんのりと紅く染めて、満悦の様子である。其処へ持って行くと功多は、始終何かに怯(おび)える様にびくびくして、三十秒置きに店の入り口へと視線を走らせ、コップになみなみと注いだ焼酎をがばがば呑んで、然し一向、酔う気配も莫い。寧(むし)ろ次第々々に、蒼ざめてさえ行く様であり、紫色の唇をわなわなと顫(ふる)わせて居る。
 其れから更に三十分程経(た)った頃、店の扉が乱暴に開いて、彼(か)の佐々木が這入って來た。そして直ぐに功多を認めると、「おゝ、居た居た、待って居て呉れたか! 隨分遅れて仕舞ったな、済まない」と云って、田村には些(ちっ)とも気付かずに、二人に挾まれた倚子に腰を下ろした。
 「取り敢えず、中瓶を頼む」
 そうカウンターの奧に向かって叫ぶと、クルリと功多に向き直り、「所で早速だが、少し、訊ねたい事があるんだ」
 功多はピクリともせず、不機嫌な顔をグラスの中に浮かべて居る。佐々木は苦笑して、功多の肩に手を置き、「まあそう、怒らないで呉れ、鳥渡調べ事があってね、其奴(そいつ)に夢中になって居た御蔭(おかげ)でこんなに遅くなって仕舞ったんだ。謝るよ。ごめん」
 「云い訳がましいですね、先刻僕が、説明しておきましたよ、佐々木さんが此の件から手を引きたがって居るとね……」
 田村である。其の声に佐々木はギョッとして、其の方を振り向いた。田村は涼しげな顔で、冷や酒をチビチビと遣って居る。余りに仰天して、佐々木は暫くの間、全く言葉を奪われて仕舞い、唯呆然として居たが、軈(やが)て、「何だ何だ、何で御前が此処に居るんだ? ……誰が手を引くものか! 大体、御前の性格じゃ功多とは馬が合わんから、――絶対に合いそうもないから、勝手に逢ったりしちゃ不可(いけない)よ。……其れで、何か失礼な事はしなかったろうな? 彼に臍(へそ)を曲げられでもしたら、実際、かなわんのだよ」と、眉間に皺を寄せた。田村は稍嘲(あざ)笑う様に、然し佐々木の方へ顔も向けず、「そんな事、本人の前で云う様な事じゃ、ないでしょう。失礼だったか如何だか、其方(そちら)の御仁(ごじん)に訊(き)いてみたら如何です?」
 そう云うと田村は、殘りの酒を一気に喉に流し込んで、早々と店を出て行った。佐々木は気を取り直して、依然渋面を作った儘、苦々しく焼酎を遣って居る功多の方に向き直ると、再度交渉を試た。
 「彼奴(あいつ)は警察に居た頃からの相棒でな、田村と云うんだが、俺の助手になってから未だ間も莫いから、刑事時代の悪癖が抜け切らんで、少し横柄な所が殘って居る様だ。若(も)しも何か気に障(さわ)る様な事があったのなら、本統に済まなかった。な? 少しは機嫌を直して呉れよ」
 「何か訊きたい事があるって、云ってましたね……」
 功多は依然グラスの中を見詰めた儘、そうぼそぼそと云う。
 「そうだ。答えて呉れるか?」
 「質問にも、縁(よ)りますよ」
 「そうか……」
 暫く佐々木は躊躇(ちゅうちょ)して居たが、腹を決めると、思い切って云った。
 「あのな、柿田有美に、長い手紙を出したらしいけど……」
 手紙と聞いて、功多はビクッとした。そして佐々木を遮ると、「何も答えられません」と、静かに、然し強く拒否した。其れでも佐々木に、落胆した様子は見受けられなかった。唯一言、「そうか」と云って麦酒(ビール)を一口呑むと、今度は別の質問に切り替える。
 「それじゃあ、待ち合わせの場所に就いて訊きたい。何(いず)れも太宰治に関する土地ではあるが、順番は丸っ切り出鱈目に思える。――何か、根拠はあるのか?」
 功多は幾分、何だ、そんな事か、とでも云った風な笑みを浮かべた。
 「別に……思い付いた順番ですよ。但(たゞ)、最後の場所は青森県金木(かなぎ)町と、極(き)めてありますがね」
 「最後と云うのは、何時だ」
 「さあね、全く目処(めど)は立って居ませんが、何(いず)れにしても、今月中ではあると思いますよ」
 佐々木は默り込んで仕舞った。そうして暫く、何事かを考えて居たのだが、不図何かに思い当たると、急ににこにこし出して、功多の肩を叩きながら、「知らせておこう。柿田有美が、今週中にも退院する」
 「本統ですか!」
 功多は急に、水を得た魚(うお)の様に元気になり、「其れじゃあ、出て來たら逢わせて下さい。場所と時間は、此方(こっち)で指定します、構いませんよね? で、何時です? 何時退院するんですか!?」と、佐々木に掴み掛からんばかりの勢いである。当を得た、とばかり、佐々木は微笑を禁じ得なかった。単純な魚が、最(いと)も簡単に、餌に喰い付いて來たのだ。
 「多分週末だろう。だから、來週辺りが好いんじゃないか? 何時にするんだ? 聢(しっか)り伝えて置くよ」

   八

 翌週の火曜日、此れは船橋の天沼弁天池公園。功多と有美は、肩を並べて散策して居る。
 「佐々木さんから、伝言聞いた?」
 「あゝ……」
 功多は少し云い淀み、其れからゆっくりと、口を開いた。
 「君は昔から、嘘ばっかり突いて居る」
 有美は礑(はた)と立ち止まり、怪訝そうな顔をして「なあに? 嘘って」
 「君が僕に、惚れて居る訳莫いだろう」そうして功多は、無理に笑って見せる。有美は其の場へ立ち尽くした儘、俯いて仕舞った。涙の出そうなのを、必死に堪えて居るのだ。
 「うそ…なんかじゃ…………ないもん……」
 やっとの事で其れ丈云うと、急に蹲(うずくま)って、肩を打ち顫わせた。流石(さすが)に功多は慌てゝ、有美の隣にしゃがみ込むと、顫える肩に手を置いて、「止せよ、こんな所で、泣くんじゃないよ。……だって御前、昔沢山嘘突いたじゃないか。恋人が居るのに、居ないって云ったりしてたじゃないか。其れに、俺の手紙を、塵芥箱に捨てたんだろ? 好きだったら、そんな事する筈、莫いじゃないか。其れを急に、好きだとか云われたって、信じられないよ、そんなに簡単に幸福が転がり込むなんて、信じられないんだよ」
 有美は中々、泣き止まない。取り敢えず功多は、近くのベンチ迄有美を連れて行き、其処に坐らせた。依然として有美は、泣きじゃくって居る。
 「だって……好きなんだもん…………新聞と御手紙読んで……それで……気付いたんだもん。……滝口さんが死んだら……あたし、死んじゃうもん。……本統だもん……嘘じゃないもん」
 功多は頬を思い切り抓(つね)ってみたかった。有美に限らず、女性にこんな風に云われるのは、生まれて初めての事だったのだ。然し此の幸福を、未(いま)だに総(すべ)て信じる事が出來ずに居たのも、事実である。功多はすっかり、默り込んで仕舞った。こんな時、如何すれば好いか、何と応えれば好いのか、全く判らないのだ。其れで唯、默って、手悪戯(ていたずら)等して居るより外に、法が莫いのである。
 暫くはそうして、徒(いたずら)に時が過ぎて行った。次第に有美も落ち着いて來て、時々鼻を啜っては居るが、最早涙は、流して居ない。軈て有美は、ちらちらと功多を盗み見る様にし始め、気付かれない様に深呼吸を幾度かし、そして意を決した様に、功多の方を振り向くと、唯前方を複雑な表情で凝然と見据(みす)えて居る功多の頬に、そっと、キスをした。一瞬間、功多には何が起こったのか、理解する事さえ出來なかった。有美は忽(たちま)ち紅潮して、顔を脊け、か細く可愛らしい声で、「嘘じゃ、ないもん」と丈云う。
 突然功多は、有美の肩を強く抱き寄せると、其の可愛(かわい)らしい唇に己(おの)れの唇を重ねた。
 「信じるよ。――死ぬものか! Never die だ! 御前の爲に生きるんだ。必ず、御前を幸せにする。御前よりも、長生きして見せる!」現金なものだ。然し有美の顔は、最早(もはや)余す所莫く真っ紅に染まり、宛(さなが)ら茹(ゆ)で蛸(だこ)の様である。
 「滝口さん……あの…………」
 功多の台詞の半分も、耳に入っては居ない。頭が呆(ぼう)っとして、心は別世界へと、飛んで仕舞って居る。
 「僕はね、恥ずかしながら、実際御前を愛して居るから、だから死のうとしたんだ。――手紙にも書いたと思うけど、死んで、彼(あ)の世には行かずに、御前の傍で、御前を護って遣る心算だった。生きて御前を護り、幸せにする事が出來ないなら、死んで其の願いを叶えようとした。――でもこうして、生きて其の願いが叶うのなら、死んで居る場合じゃないんだ。御前の爲に、生きて行かなくちゃならないんだ!」
 功多は其の手に力を込め、より強く、有美を抱き締める。有美は頭を功多の肩に落とし、其の儘大人しく、凝然として居る。
 「佐々木さんには、復讐の爲に一度僞装自殺をして置いて、そうして復讐の完遂してから死ぬ心算だと、云ったんだけど……」
 「復讐?」
 有美は稍(やゝ)頭を擡(もた)げ、功多の瞳を覗き込む様にした。
 「そうだ。復讐。僕がデビューする迄に可成の年数を費やした事は、御前も知って居るだろう。其の障害となったのは、僕の頭の固さと、実力の莫さだと云うのは、僕自身が一番好く知って居る。だけど其れを当時の画壇の所爲(せい)にして仕舞えば、佐々木さんに云訳が出來るんだ。――画壇に、特に其のトップの者達に、復讐をしてから死ぬと云ったんだよ」
 「本統は違うの?」
 功多は少し、照れた様に微笑んでみせた。「初めの内はね、実際、其の心算だった。だから、彼の時死なゝかったんだよ。――でも、御前が追い掛けて來て、少し気が変わっちゃった。目茶苦茶遣って、死んで遣ろうと思って居たのが、君に逢った所爲で、突然立ち竦(すく)んじゃったんだ。元々画壇に、大した恨みがあった訳じゃ莫いし……抑(そもそも)僕が死のうと思ったのも、画壇なんかと些とも関係ない。本統は、――本統は凡(すべ)て、御前の所爲だったんだ」
 有美は身を固くした。「あたしの所爲なの? 矢っ張り、そうだったの?」と、先刻迄紅かった筈の顔は、何時かすっかり蒼ざめて、幾分顫えながら功多を見挙げて居る。其の様子を見て、功多は有美の頭をくしゃと撫でた。
 「悪く取らないで呉れ。――正直な所、僕にも好く解らないんだが――ひょっとしたら、死ぬ気なんて、些とも莫かったのかも知れない。……甘えて居たんだ。手紙を出した時、屹度御前が驅けつけて呉れるんじゃないかって、心の何処かで期待して居たみたいなんだ。……一度死んだ振りをして、そうして突然、生きて御前の目の前に現れゝば、屹度御前は、僕の想いを受け入れて呉れると、……根拠も何も莫いけど、今思い返してみると、如何やらそう思い込んで居た様だ」
 突然、有美の平手が功多の頬に飛んで來た。パチンと云う高い音がして、打たれた箇所が、忽ち真っ紅に染まる。有美の肩に回して居た手を引っ込め、少し身じろぎすると、有美は将(まさ)に、功多に噛み付かんばかりの勢いで怒鳴りつける。
 「何其れ! 非道いよ、人が如何(どんな)に心配したか、滝口さん、解ってないでしょ! 凄く、……凄く心配したんだから! 胸が張り裂けそうだったんだからあ!! 莫迦、人の気も知らないで!」
 大粒の涙が有美の両目からぼろぼろと零(こぼ)れ落ちて、頬を伝う。
 「ごめん……」
 「あんたなんか、死んじゃえば好いのよ! 死にたけりゃ、勝手に死になさいよ! 死ねば好いでしょ、あたし、其の代わり、滝口さんの事、絶対に赦(ゆる)さないから。人の事散々傷つけて、其れで死ねるもんなら、勝手に死んじゃえ!!」
 そうして走り去ろうとする有美の腕を、功多は乱暴に掴んで、ぐいと引き戻した。
 「待てよ! 俺だって、判然(はっきり)意識して行動して來た訳じゃ莫いんだ。そうなったら好いなって云う、希望みたいなものは有ったけど、だけど方(まさ)に其の通りになるなんて、こんな事思いもよらなかったよ。……死んでたと思う。御前が追い驅けて來て、そうして後追い自殺なんて莫迦な事をして、更には今こうして、好きだなんて云って呉れなかったら、間違い莫く俺は死んで居る。御前は僕の魂を救って呉れたんだ。――本統に、御免なさい。御前を傷つける心算なんて、莫かったんだ。……此れ迄御前を傷つけて來た分も、此れからの人生で、御前を幸せにする。必ず、天地神明に誓って、御前を幸せにして見せる。だから、……だから有美、俺を赦して呉れ。そして、俺と……」
 顔中をぐしゃぐしゃにした儘、有美は功多の胸に体を沈めて居た。彼の脊に回した腕にぎゅうと力を込め、肩を大きく顫わせながら、唯々、哭いて居る。功多は有美の頭を優しく撫で付けながら、此れも、両の目に涙を光らせて居る。
 「御免ね、有美……本統に、御免ね」
 「ごめん……なさい…………あたし、……あたしの…方が……あなたの事……沢山傷つけて、…………非道いのはあたし……本統に、御免なさい。…………本統に、本統に、御免なさい」

 此の日二人は、佐々木に電話をし、今回の件の後始末と云う厄介(やっかい)な依頼を殘した儘、行き先も告げず、旅に出て仕舞った。

   終章

 佐々木は事務所の倚子に深く腰掛けて、天井をぼんやり見詰めながら、珈琲を啜って居る。
 「結局、何が何だかさっぱり解りませんでしたね」
 「あゝ」
 佐々木は徐(おもむろ)に懐を探りだした。暫く彼方此方(あちこち)の隱袋に手を突っ込んで居たが、軈て諦めて、武田の顔を見挙げる。
 「済まないが、煙草、莫いかね」
 武田は隠袋からハイ・ライトを取り出し、佐々木に一本差し出した。
 「佐々木さんは、何処迄知って居るんですか? そろそろ話して戴けても、宜(よろ)しいでしょう。もう、一ト月も経(た)ったんですから」佐々木の顔色を窺(うかゞ)いながら、燐寸(まっち)を擦(す)る。
 「あゝ……」少しく云い淀み、「そうだな、最早、君達に隱して置く理由も思い当たらん。――で、何(ど)の辺りから話したものかね」
 「そうですね……」武田は暫く默し、注文を考えて居たが、稍あって、「抑滝口と佐々木さんとは、如何いった関係なんですか?」
 佐々木は瞬間、にやっと笑ったが、直ぐに又口元をへの字に戻し、目を閉じて、煙草を深く吸うと、ゆっくりと口を開いた。「昔、俺が刑事を遣って居た頃、津田沼の狹い呑屋で、カウンターに隣合わせてな、年の離れて居る割に、意外に話が弾んで、……其れで、金錢面で困って居る様な事を云ってたから、少し助けて遣ったんだ。其れが縁で、ちょくちょく盃を交わすようになった。そんな所だな」
 「へえ……身投げする直前に佐々木さんに知らせたり、佐々木さん宛(あて)の暗文を作ったりする位だから、もっと深い付き合いなんだと思って居ましたけど、そうでもないんですね」
 「少なくとも、君と俺よりは、深い付き合いだよ」
 武田は咳払いを一つして、話頭を転ずる。
 「最初に自殺を仄(ほの)めかした時に、如何して止めなかったんですか」
 「本気だとは思わなんだ。然し彼奴は、端(はな)から僞装自殺の心算で遣ったんだから、本気でないのは確かなんだな。――でも二度目は莫い。そう思ったから、其れからは必死で食い止めようとしたよ」
 「其れで、柿田有美に逢わせたりしたんですか」
 「いや、彼(あ)れは自分から、逢いたいと希望したんだ。有美の方も逢いたがって居たしな」
 「柿田有美に就いては、何時頃から知って居たんですか」
 「今度の事件で初めて知ったよ。事件後初めて彼奴に逢った時に、会話の片隅にぽろっと出て來たんだ。功多の奴非道く酔ってゝ、話の脈絡が殆ど莫かったんだが、其の辺り丈は妙にしんみりとしてゝな、其れで、記憶する価値のある名前だと判断して覚えておいたら、案の定、自殺だ」
 「成る程……」武田が徐に手帳を取り出し、ぱらぱらとページを捲(めく)って居ると、佐々木は苦笑して煙草を一口呑み、
 「おいおい、何だか事情聴取みたいな雰囲気になって來たな」
 「いや、そんな心算は莫いんですけどね」武田は依然、手帳を眺めながら、「そう云えば彼(あ)の遺書、一体如何な絡繰(からくり)が有ったんですか」
 「彼れか? 君も愈(いよいよ)愚鈍だな。鑑識には、出したのか?」
 「いや、其処迄は……」
 呆(あき)れた顔をして、武田の顔を繁々と見詰め、「だから出世出來ないんだ。よく今回の事件を任せて貰えたな」と、皮肉たっぷりに云って遣った。然し武田は全く無頓着に、「如何な暗号だったんですか?」と、真顔で訊ねる。佐々木は腰を上げて、机の上に無造作に置かれてある紙束の中から、一枚を撰んで手に取ると、武田の方へと放り投げた。
 「其れが解読して、纏(まと)めた奴だ。彼(あ)の遺書の一部に、変な数字の羅列が有ったゞろう」
 「そうでしたか? 気付きませんでしたが」
 「莫迦、気付かん様に、書いてあるんだ。態(わざ)と灰色の紙を撰んだ上に、5H位の薄い鉛筆で、更に力を抜いて薄く、而(しか)も目立たぬ様に薄くな」
 武田は鞄(かばん)の中の紙袋から、其の遺書を取り出し、凝視した。
 「どの辺に有りますか」
 「ド真ん中だよ、文章と重なる様にしてな。御蔭で非道く読み辛い。其の解読に一晩掛かったんだ」
 「あゝ、……云われてみれば、何だかうっすらと、そんなものが書いてありますね……然し此れ、一体如何遣って読むんですか」
 「句点番号と云うのを知ってるか」
 「は?」
 「知らないか。まあ、君は知らなくても不思議じゃないがな。普通にワープロを使って居る者なら、大抵(たいてい)知って居るものだ」
 「僕も、ワープロぐらいなら使えますが」憮然(ぶぜん)として、呟く様に云う。
 「使えるだけだろう。……句点番号と云うのは、文字の一つ一つに付いて居る、四桁の通し番号みたいなものだ」
 「成る程。其れじゃあ、此の延々と続く数字は、四桁で区切って、一ト文字ずつ置き換えて行くんですね」
 「そう。そして其れを書き換えたものが、其のノートだ。ワープロが莫いもんでな、全部手書きだよ。……金に余裕が有れば、そう云った物も購入出來るのだが……」
 「読んでも構いませんか?」
 「構わん」
 其処には、こう書かれて居る。
 ――前畧(りゃく)。佐々木敬太郎殿。死んで仕舞ったと御思いでしょうが、僕は実は、生きて居ます。今何処に居るか、其れは、云えませんが、一つ、逢った上で、話して置きたい事が、有るのです。今日より二日後、午後六時、鎌倉の居酒屋『×××』にて待って居ます。匆々(そうそう)。滝口功多。再拜。追伸。警察には呉々(くれぐれ)も、御内密に。
 「警察には、御内密に、か。全く、頭に來る奴だな」
 ノートを睨み付けた儘、如何(いか)にも忌々(いまいま)しそうな顔をして居る。佐々木は其の様子を横目でぼんやり眺めつゝ、「後の事は君も、大方知って居るだろう」と、煙草を灰皿の底に擦(こす)り付けながら、大儀そうに云う。武田はノートを丁寧に折り疊むと、顔を上げて、「いや、未だ訊きたい事が有ります。――滝口は如何して、僞装自殺なんて事をしたんですか。其れに、結局自殺を止(や)めた。何故です?」
 「さあな。僞装自殺は、行動し易くする爲だとか云って居たが、真実は俺にも判らんよ。自殺を止めたのも、柿田有美と逢った直後だが、一体如何(どん)な経緯(いきさつ)が有ったのか……あ!」突然佐々木は、大声を挙げて倚子を立った。驚いたのは武田である。
 「何ですか? 如何したんですか」
 佐々木の頭には、有美の云って居た「長い手紙」と云う言葉が蘇って居た。何時かは見付けて遣ろうと思いながら、其の後間も莫く事件は唐突な結末を迎えて仕舞い、其切り記憶から消え去って居た其れが、突然思い出されたのである。――抑佐々木が挫(くじ)け掛けた時に、彼を励ましたのが其の一句であった。
 ――海に捨てたと云った……或いは、本統かも知れん。身投げした時に一緒に持って居て、懐から零(こぼ)れ落ちたのだろう。……其の可能性は、高いな。
 佐々木はそう結論付けると、静かに倚子に戻った。功多の内面を知る上で、非常に興味の有る手紙ではあったが、最早事件は終結しており、手紙を捜す口実も莫くなったのだ。殘念だが、海に消えたとして諦めるより、仕方が莫かった。
 武田は訳も解らず、凝然と佐々木の顔を覗き込んで居た。佐々木は其れに気付いて、照れ笑いをすると、
 「いや、何でも莫い。気にするな」
 と云って、珈琲を啜った。

 此の物語は、此処で終わる。手紙に関しては、何れ内容を公開する心算で居たのだが、其れが滝口功多の核心を突く物となる爲、如何しても書く事が出來なかった。期待されて居た読者には、唯々、申し訳ない。功多の核心を突くなどと云う事は、非常に難しく、恐ろしく、心許(もと)莫い行爲なのである。どうか御容赦戴きたい。

 此の手紙を其の儘書こうとすれば、一編の短編私小説になって仕舞うだろう。そして其れには、此の世の総ての苦しみと、悲しみと、失意と、黴(かび)臭い人間性と、怠惰と、甘えと、そうして僅かの、形莫き希望とが詰め込まれた作品となる筈である。そう、ならなければ不可(いけな)い。――此れは、今の私の技量と度胸とでは、到底敵(かな)わぬ大仕事である。察して戴きたい。或いは何年、基(もとい)何十年か先、何かしらの力が私の筆を促(うなが)し、そうして相当の技量と余裕とが、己れの中に備わったと自覚出來た時、其れを一つの短編として書き上げる事があるかも知れないが、然し其の時、何らかの発表手段を私が持って居なければ、其れは誰の目にも触れぬ儘、葬られて仕舞うであろう。又、幸いにと云おうか、何らかの発表の場を与えられて居たとして、矢張り、公表する事を恥じ、畏れ、憚(はゞか)るかも知れない。從って、貴方は何の、期待もしては不可い。此の事は直ぐに忘れて仕舞い、些(いさゝ)かも拘泥(こうでい)しないで居て呉れる事を、切に願って居る。
 此の作品は、主題から完全に逃避して仕舞った、未完成の、駄作である。

(終わり)

平成七年九月二十八日木曜日、大安。


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