二度目の出会いと二度目の始まり
里蔵 光
其日の晩、私は如何にも寝就けずに、ウィスキーをワン・フィンガーのストレートで三盃、喉に流し込んで、テレビなど見て居た。見て居たと云う表現が相応しく莫いなら、そう、眺めて居たとでも云って置こう。
外はしと
四盃目のウィスキーを未だ半分程殘しながら、私は不図外に出たくなり、両親の睡眠を邪魔しない様に忍び足で玄関迄行って、そっとドアを押し、そして音を立てない様に、元通り閉めて出た。丸で泥棒の様だ。
静かに地面を湿らし続ける雨の中を、傘差して、歩き出す。雨は何か、優しく私を包み込み、私の心の中迄、霑してくれる。同時に、私の瞳も、自然と濡れて居た。
駅迄は十分足らずで着くのだが、私の足は反対に向かって居る。私の住む街は郊外に在る爲、駅から離れるに連れて、道は暗く、細くなり、周りに密集して居た住宅も、次第に疎になって行く。其代わりに空き地や、小さな林、そして畑等が、増えて行く。
何時の間にか雨も上がり、濃灰色の空に、真闇の部分が見え始めて居た。周りが暗さを増すに連れて元気を得る星々は、段々と其輝きを強めて行く。
星々の奏でる魅力に気を捕られて、天を仰いだ儘田舎道を歩いて居た時だった、行き成り前方約一米の距離に人の気配を察し、慌てゝ視線を下したのだが、私の第六感は、如何も的に出來ない、其は実際には、二三十糎も間近に迫って居た。
「あ、すいません」
相手と私の声が、丁度揃った。多分は相手も、他を向いて歩いて居たのだろう。そして御互いに一歩づつ後退し、同じ方へ道を避けた爲、再び鉢合わせて仕舞った。そんな事は好く有る事なのだが、私は妙に可笑しくなって、くす
笑う私を其人は、不思議そうに覗き込んで、「あっ」と、小さく叫んだ。驚きの顔は途端に崩れ、聞き覚えの有る、懐かしい笑い声が、私の耳に飛び込んで來る。
「何よ、如何したの? こんな時間に、こんな処で!」
彼女こそ、私が中学生の時分に初めて想い、初めて告白をされ、そして初めて親しく付き合った女の子。三谷由子、ゆうちゃんである。
所が、殘念な事に二人の関係は、半年程で崩壊して居る。或る、事件の爲に……
「ゆうちゃんこそ、こんな夜中に何処に行くんだよ」
「ん、別に、何処ってアテも莫いけど…鳥渡夜風に当たりたくなって、出て來たの」
そう云って彼女は、白い歯を見せて笑った。
「何、気障な事云ってんだよ。まあ俺も、似た様なもんだけど」
私達は顔を見合わせ、声を立てゝ笑った。周りの土地は野菜畑ばかりで、民家はと云うと、可成離れた処にぽつ
◇
郊外の、辺り一面畑が、気持ちの好い程びっしりと敷き詰められた中、私達の中学校は在る。家から徒歩で三十分程度、自転車を使えば十分としないのだが、のんびり三十分掛けて歩いて行く方が楽しいので、私は毎日、歩いて通って居た。
或る日、校門に接する道で、反対側から登校して來る女の娘に、目が留まった。肩の近くで揃えた髪、細くて僅かに垂れた眼、小さくて真っ白な手、其総て、其娘の頭の先から爪先迄総てが、私の目を灼き、脳の中をビリ
胸許の学年章から、同学年と識った。名札から、三谷と識った。其娘の後を、三四歩分の間隔を空けて尾いて行って、二つ隣の級と識った。
其日一日は、其娘が頭に貼り付いて、授業所では莫かった。休み時間には、何気莫い素振りで其娘の居る教室の前を、馬稼みたいに何度も
家に帰ってからも其娘の鮮烈な姿は、私の脳の奥に灼き付いた儘、一向に消えようとしなかった。机に向かっては、其娘を想い、だめだ、
次の日も、其復明くる日も、朝の校門で其娘を見掛けては、一日中脳味噌は麻痺せられた。そして其は、殆ど毎日の様に続き、從って成績は、どん
◎
「一人暮しゝてる訳じゃ、莫いんでしょう?」
鞦韆と、砂場と、ベンチしか莫い様な公園で、鞦韆を小さく搖しながら、彼女に訊いた。
私と向い合う様に、鉄製の低い柵に腰掛けて、彼女は短く、「うん」と答える。未だ親の厄介になって居る、と云う意味だ。
「好くまあ、こんな夜中に外出を許されたね」
其時初めて、私は腕時計を見た。
一時二十七分
時計の針は、そう教えて呉れた。
「何だ、一時過ぎてるじゃないか。――大丈夫なの?」
「何云ってんのよ。ケンちゃんだって、同じでしょ、人の事云えるの?」
彼女は口を尖らせた。
「まあね…。でもまあ、二人共ぐっすり寝てたし、面倒だから起こさない様に、そっと出て來たんだ」
「私もそう、同じよ」
私は暫く默し、「でも…俺は男だから、何の問題も莫いけど――ねぇゆうちゃん、女の娘が出歩く時間じゃあ莫いぞ。何か有ったら、如何する積りだよ」
するとゆうちゃんは、俄かに私の瞳を凝と見詰め、こんな事を云って來た。
「大丈夫よ。何か有っても、ケンちゃんが付いてるもの」
思わず私は、目を逸らした。すると彼女は不意に立ち上がり、私の右手を両の手で曳っ張って、甘え声を出して來るのだ。
「ねぇ、駅前まで出てみない? 何処か、喫茶店でも入ろうよ」
余りに突然の事で、少しばかり戸惑った。
「こんな時間に、喫茶店なんか開いて莫いよ。駅前じゃ、呑屋位しか遣って莫いんじゃないかな」
すると彼女は、少し首を傾け気味にして、笑いながら、「好いじゃない、飲もう」
◇
櫻。その薄桃色で、一面埋め尽くされる季節が遣って來た。風が吹く度、校庭の櫻の木が搖れて、空気を紅く染める。其幻想的な景観は、私の心に滲みて、不思議な、楽しい気分にさせる。其一个月も前の三月初頭から、私は一心に祈って來た。
三谷さんと同じ級になります様に
姓しか識らないけど、否、姓しか識らないからこそ、もっと彼女の事を識り、近くなりたいからこそ、そう祈り続けた。そして到頭、其願いを叶えた。同じ級になれたのだ。所が実際席に着いてみると、同じ列の両端同志、と可成離れて居る。でもまあ、同じ部屋に居る限りは、何時か屹度……と、取り敢えず祈りが実現した事に感謝した。
然しこう云った位置関係は、思ったより落着けない。左を見れば遙か遠くに彼娘が居る。そう思うと、如何しても首が左へと動くのを、制し切れない。彼女は、午後になると逆光の中で、キラ
授業中、休み時間の分別莫く、何時も左の方へキョロ
「ねえ、先刻から、何見てんの?」
私は吃驚した。真逆、三谷に見惚れて居る等と、答えられる筈も有るまい。然し気の利かない私の顔は、真っ紅に染まり、俯いて仕舞った。彼女は訳が解らず、私の顔と、左遠方とを見比べて居たが、何れ三谷の存在に気付き、もう一度私の顔と見比べ、「あゝ」と、納得した様な声を挙げた。そして私を見てニヤ
「彼、一番奥に坐ってる娘を、見てたんだ。綺麗だもんね。彼娘ね、三谷由子って云うのよ。知ってた? 好きなんでしょ?」
私は耳迄真っ紅になって、何も言葉を発せなくなって仕舞った。耳朶がカアッと熱くなり、顔の血管は張り裂けんばかりである。左後ろの、田中と云う小学生時代からの友人が、不思議そうに其様子を見て居る。端から観れば、彼女が私に愛を告白し、私は照れて赤くなった――そう映るかも知れない。そんな誤解を、田中にされては敵わない。私は何だか、無性に心配になって來た。
後で田中に、こう訊かれた。
「御前の隣の奴さ、先刻何て云ってたんだ?」
「な、何でも莫いよ!」
突然の詰問に吃驚したと云う事もあったのだが、此回答をした御蔭で、私の杞憂は一層募った。
田中になら、話しても好いんじゃなかろうか。私は幾度かそう考えてみたが、結局云い出す事も出來ずに、一人で悩んで居た。私の心の中で、彼娘は日々、どん
隣の女の子には、バレてるじゃないか
そう思うと、非道く心配になって來て、眠れぬ夜に
或る日遂に、彼に相談する事を決意した。此儘だと、彼迷惑な女の子の口から、総てが漏れて仕舞いそうな気さえするのだ。
然し私の知らぬ所で、事は変な方向に流れて居た。
「噫、知ってるよ」
私がやっとの事で、胸中の物を彼に打ち明けると、彼は何と莫し、そう答えた。
「――! 知ってる
彼が勝手に、私から感じ取ったのだろうか…其とも……
「藤本に聞いたんだ」
「藤本?」
「何だ、知らないのか。御前の隣の席の奴、彼奴に訊いたんだよ」
私は突然、地獄の淵に立ち、今にも脊中を突き飛ばされて其無限の闇の中へと真っ逆様に墜ちて行くのではないかと云う、将にそんな状況に置かれた。彼女が田中に話したと云う事は、真逆、
「他の奴も、知ってるのか? 御前と、其女已外の奴も! 彼奴、他の奴に云ってないだろうな、御前誰にも、話してないよな!」
其丈が不安で、堪らなかった。何処ぞの莫迦が、本人に云って仕舞わないとも、限らないのだ。
「大丈夫だよ。彼奴、口堅いから」
何気莫くそう答えた彼の言葉には、矛盾が有った。そして私は、其を指摘する代わりに、じろりと睨み付けて遣った。すると彼の方でも、其処に気が付いて、重ねてこう云う。
「否……あのな、大変だったんだ、聞き出すの。彼奴中々口割らねえしよ、而も、やっと喋ったと思ったら、今度は誓約書なんか書かせやんの。参ったよ、ホントに」
「誓約書?」
「そう。『私は此話を、一切誰にも、漏らしません。万が一、此に反した場合、如何なる処置をも、厭いません』………」そして私の方に向き直り、敬礼するみたいに右の手をぴしと延ばして顳顬に翳し、極端に真面目な顔付きになって、「誓って、誰にも云いません! 片山殿!」
思わず私は吹き出した。彼も連られて笑う。何故だか此二人を、何と莫く信頼出來る様な気がして來た。
「御前さ、如何してそう迄して、聞き出したんだよ。ひょっとして、端から気付いてたんじゃないの?」
「否々、気付きゃしない。だって御前、そんな素振り些とも見せなかったもん。聞いて驚いたさ。だからね、要するに、単なる好奇心だよ。何話してたのかと思ったら、無性に聞きたくなってね、而も隱されると、
「へえ」
「でね、聞かない事には、夜も眠れないだろ? そうなったら、教えて呉れる迄、夜な夜な電話掛けるぞって脅しても、『掛ければ』とか云いやがるしよ、終いには、健太の無二の親友だから良いだろってんで、土下坐迄して漸く聞き出した。全く、途でも莫い女だよ、彼は」
其「親友」と云う響きに、私は恍惚とした。そうだ、親友じゃないか、他人に、ばらしたりする筈が莫い。親友が裏切る訳が莫いのだ。私の心の中で今迄蟠って居た何かゞ、すんなりと解れて行くのを感じた。
然し彼の次の言葉には、迚も驚いた。彼の瞳を見詰めた儘、二の句が次げなかった程だ。親友と云え、私は其処迄期待しては居なかったし、想像すらしなかった。親友とは此処迄云って呉れるものかと、目頭の熱くなる想いであった。
其時、彼はこう云ったのだ。
「任せとけって、屹度、上手く行かせて遣るよ」
◎
駅前迄出ては來たが、本統に飲み屋しか開いて居ない。私は
「彼処、何か、雰囲気好さそうな店じゃない? 入ろうよ」
「本統に入るの? ゆうちゃん…」
私は当惑して居た。曾て成り行きとは云え別れた女と、二人切りで呑屋に入ると云う行爲が、私には何か、抵抗が有ったのだ。
「何を躊躇う事が有るの。好いじゃないの、ほら」
ゆうちゃんは、私の袖口を掴んで、曳いた。結局私は、其店に入って仕舞った。中は閑散として居て、一人の客も莫い。
「営業、始めたばかりでしてね、未だお客さんが、定着しないんですよ」
店の主人はそんな云い訳をして居たが、こんな片田舎の小さな店に、真夜中に客が大勢居る方が不自然だろう。
私達は隅っこの、小さなテーブルに落着いた。
「何飲む?」
「んーとね…カルピス・サワー、ケンちゃんは?」
「俺? ……そうだな…日本酒が好いな」
先刻家でウィスキーを飲んで來たばかりなので、余り中途半端な安酒――特にビール等は、飲む気がしなかった。
暫くは他愛の莫い事を喋って居たが、不図彼女は、こんな事を云って來た。
「ねぇ…思い出さない? 昔の事」
「……噫、そうだね」
白状するなら、私は実際、思い出したくなかった。其で先刻から、彼女とは成る可く眼を合わせない様にして、他の事を考えようと努めて居るのだ。此時も唯適当に、軽く返事をして置いた丈なのだが、彼女は別段気に止める風も莫く、自分の台詞を続ける。
「楽しかったわぁ。覚えてる? 私がケンちゃんに、告白した日の事」
私は默した儘手許に置かれた酒を、
「あゝ、不味い、
店の者に聞こえぬ様に、小さく呟く。彼女は彼女で、丸で一人で、話を続けて行く。
「でも、彼二人の協力が莫かったら、私、告白してなかったかも知れないのよ。……皆、彼二人の御蔭ね」
そう、彼二人の御蔭で、悲しい結末の恋に一段と踏み込んで仕舞ったのである。否何も、彼二人の所爲ではない。ゆうちゃんの告白が莫くとも、私は必ず告白して居た。彼二人の所爲ではないのだ。こう云う考え方は、善くないのである。
◇
木々の色も、緑から赤や黄、橙等へと移り、山々は燃える様な色に染まる。学校の櫻の木もはら
何時頃からだろうか、授業中等に左遠方からの視線を感じ、はっとして彼娘の方を見ると、眼が合って仕舞い、互いに赤くなって慌てゝ俯く。又、凝と彼娘を見詰めて居ると、ひょいと彼女が顔を挙げて、此亦視線が搗ち合い、矢張り紅葉の如くに顔を真っ紅に染めて目を逸らす、と云う様な事が、日常の如く起こるようになって居た。藤本が云うには、三谷さんも私に気が有るのではないか、と云う事なのだが、私には到底、そんな話は信じられない。然し心の何処かで、期待して居るのも、事実である。若しかしたら、と云う思いが込み上げて來る度、真逆、真逆と云って、打ち消す。日を追うに連れ其も頻繁になり、期待と不信の自錬磨の中で、次第に私は窶れて行った。――数週間が過ぎ、私の精神は限界ぎり
「おい、色男。此」
そう云って彼が差し出したのは、小さく畳んだ、ノートの切れ端だった。
「何、これ」
「俺が知るかよ。藤本から預ったんだよ、何でも、三谷さんからだそうで」
其藤本は、隣でニヤ
――放課後、銀杏の木の下に來て下さい。 三谷由子より
綺麗な、然し少し癖の有る字で、そう書かれて在る。私は顔を真っ紅にして、俯いた。果たして何の用事で呼び出すのか。其勝手な想像から、顔はだらし莫く緩み、手を机の下に入れてもじ
私は不図、彼娘の方を見た。何だか不安そうな瞳で此方を見て居たが、私と眼を合わせると、稍頬を紅く染めて、軽く視線を逸らせた。猶暫く、凝と見詰めてみたが、彼女はずっと俯いた切り、顔を挙げなかった。
放課後、指定の場所へ走って行った。其処は校舎の裏で、周りを体育館やら、櫻の木やらで囲まれて居る爲、外からは完全な死角となって居る。足許には黄色い銀杏の葉が、隙間莫く敷き詰められて居る。銀杏の木は雄なので、実を付けない。彼女の姿が未だ莫いので、暫くは銀杏に凭れて凝と待って居たが、彼女の現れる迄の数分間が丸で永遠の如く感ぜられ、落着いても居られなくなって來たので、木の周りをぐる
二人共火の点いた様真っ紅になって、彼女は其処で足を止めると、校舎の陰の方へ目を遣ったり、俯いたりして、暫く躊躇して居た。私と三谷との距離は三四米で、もう少し此方へ來れば話し懸けられるのだが、と思って居るのであるが、彼女は中々其已上近付こうとせず、私も足が竦んで動きが取れぬ。何か云おうと思って口を開けても、言葉は出て呉れなく、唯ぱく
彼女は身動き一つせず、凝と俯いて居たが、軈て後ろを振り向き、校舎の陰へ向かって何か小さく云ったりして、終いには、再び其校舎の陰へと身を隱して仕舞った。
帰っちゃったのか知ら?
私は伸び上がって、彼女の消えた辺りを窺って見たが、彼女の後姿が
暫くは凝と、身動きもせずに待って居たが、軈て彼女は、脊を押される様にして出て來た。泣きそうな顔をしながら、然し一歩々々静かに、足許を見た儘、私の前迄ゆっくりと歩み出る。私の直ぐ目の前で立ち止まると、肩を大きく動かしながら、無言で俯いた儘、凝として居る。彼女の髪の好い香りが、私の鼻まで届いて、思わず恍惚して居たら、急に彼女が顔を挙げ、私の瞳を、深く見詰めた。其瞳の美しさにドキリとして、前よりも頬を紅潮さすと、突然、「片山くん…」とか細く、可愛らしい声を発した。然し其後は言葉が続かず、私よりも猶紅く染まり、俯いて仕舞った。私は
十分程、待ったろうか、其とも一時間は、其儘だったろうか、――否、或いは一分と、待たなかったかも知れぬ、兎に角私は、五感を全く失くして仕舞った様な気がして、周りの建物も、樹木も、自分の今立って居る大地すら、私の世界から完全に姿を消して仕舞い、唯自分と、其正面には、世界で最もいとおしい三谷とが、立って居る耳である。そんな中で私は、耳の奥に幽かに、然し明確と、三谷の声を聴いた。
「――好き」
私は全く逆上せ上がり、一瞬間は、何が起こったのかすら解さなかった。然し次の刹那には我に返り、透かさず返事をしようと、口を大きく開いた。
俺もだよ。俺も、君が大好きだ、三谷さん!
然し如何やら、発音されなかった様だ。彼女は依然、下を向いて凝として居る。私は口をぱく
深呼吸を、幾度と莫く、した。次第に落着いて來る。三谷は不安そうな顔で、凝と俯いて居る。
「三谷さん…」
やっと、其丈云った。其後が中々出ない。――何故だろう、何時か彼女を、抱き締めて居た。彼女は何の抵抗もせず、私の胸で、凝と、大人しくして居る。心臓の鼓動が伝わって來る。私は両腕に、力を込めた。彼女の両腕が、私の脊に回る。
そして、時が止まった――
◎
私が三本目の徳利を空けた時、彼女は一盃目の、サワーを飲み終えた。そうして、少しく紅潮した顔で私の眼を見て、「彼時亜紀ちゃんが、励まして呉れなかったら、私、逃げ出してたわ」と静かに云う。
「ふうん」
依然として、好い加減な返事ばかりして居る。亜紀ちゃんとは、藤本の事である。何でも、告白の時ずっと校舎の陰で、見護って呉れて居たそうだ。
「告白する迄にも、亜紀ちゃんと、田中くんには、隨分と御世話になったの」
私は四本目の酒と、焼き鳥一皿とを注文した。先刻からゆうちゃんが一人で喋って居て、私は殆ど默って居る。其と云うのも、家で呑んで居た時からずっと、頭から離れない事が在るのだ。特に其を追い払う気にもなれず、取留も莫く思いを巡らせながら、ゆうちゃんの話は右から左へと聞き流して居る。こんなに好く喋るゆうちゃんは、中学時代には一度も見た事が莫い筈だが、さして変に思う事も莫く、半分、自棄酒でも呷るみたいに、呑んでばかり居た。
ゆうちゃんは喋り、私は呑む。二人共相手の事等丸で念頭には莫く、只己れの気の向く儘に、夜を過ごして居る。御互い其で、満足して居る様である。
然しゆうちゃんの此台詞を聞いた時には、隨分驚いた。
「あたし、昨日迄、付き合ってた人が居たんだけど、……振られちゃったの」
思わず私は顔を挙げて、ゆうちゃんの瞳を見た。多少潤んで居るのは、酔いの所爲丈であったろうか……
◇
三谷と付き合い始めてからと云うもの、私は好く彼女を誘っては、自転車の後ろに乘せて駅迄行ったり、街に出る気分で莫い時には、自転車を駅とは逆に走らせ、空気の綺麗な場所迄行って、草原の上に二人並んで寝転んで、流れる雲を何時迄も、目で追って居たりする事も有った。何時も二人、笑って居た。笑って居ない時が莫い位、毎日々々楽しくて、仕様が莫かった。学校でさえ、人目も憚らず、何時も一緒に話したり、笑い合ったりして居た。周囲の者の言葉を借りれば、「いちゃ
流石の田中も、呆れ返った目付きで人を見る。
「御前、少し変ったな」
田中と云わず、友達は皆、異口同音に私達を評する。確かに変わったかも知れない。部活でも、――私はテニス部に所属して居たのだが――皆の眼は、次第に冷たく変って行く。初めのうちこそ、驚きと、好奇の目とを以て観て居たが、時と共に其は蔑視へと移行して行った。理由も告げずに部活を休んだり、出て居たとして、全くと云って好い程練習には参加せずに、金網越しに三谷と喋って居る。ごく偶に顧問の居る時丈は、練習をしたが、あからさまに手を抜き、打ち合いも、全く遣る気を感じさせなかった。
軈て、当然の事ながらレギュラーを外され、そうなると最早、完璧な迄の幽霊部員となった。然し当時の私は、そんな事はさして、気にも留めない。頭の中には三谷しか居ない。他の物は一切、目にも映らぬ。殆ど病気であった。だからこそ、半年後の其出來事は、非道く胸に応えたのだ――
半年後、再び春が訪れ、私達は三年に進級した。進級して直ぐに二者面談が行われたのだが、其時新しい担任の先生は、
「一年の二学期中間から、成績が落ち始めてるな。二年から落ち方が非道くなって、二学期末からは真逆様じゃないか。何を考えてるのか知らんが、こんな事じゃ、何処の高校にも行けないぞ。大体一年の最初では、可成好い成績殘してるんだから、今からでも頑張れば、何とかなる。気を、引き締めて行けよ」
と、成績のグラフを叩きながら、私を睨む様にして云った。見れば、本統に落ち続けて居る。其時私は、行き成り鞭で脊を打たれた様な気がした。今迄の自分を振り返ってみると、三谷と遊んでばかりで、自分で自分の首を締めて居た様なものである。自分にとって丈では莫い、三谷の足迄も引っ張って居るのでは莫かろうか。否、そうに違い莫いのだ。
田中にも、云われた。鳥渡の間丈でも、三谷の事は忘れろ、御前の爲にならない、と。藤本にも、同様に云われた。然し三谷の事を忘れるなんて、迚も考えられぬ事だ。こんなに好きなのに、此気持ちを、一時たりと忘れる事等、到底不可能である。でも三谷の爲にも、少し控えねばならぬ。辛い、苦しい、如何すれば善いのか、私は頭を抱え込んだ。
「ゆうちゃん、少し、調子に乘り過ぎた。距離を、置こう」
或る日曜日、街の喫茶店である。
「なに? 急に如何したの? ――其って、別れるって、事?」不安気な表情で、彼女は私の顔を覗き込む。
「否、そうじゃ莫い。もう俺達、受験生だしさ、あんまり遊んでも居られないから……」
「其で……距離を置くと勉強出來るの?」三谷は凝と此方を見詰めた儘、訪ねて來る。何でこんな質問をするのか、私には理解出來なかった。
「そりゃ、今よりは……」
其迄ずっと私の瞳を見詰めて居た彼女は、そっと眼を伏せ、「邪魔なんだね、あたし……」と低く呟いた。私は吃驚した。
「何を、何を云うんだ! 邪魔だなんて、そんな事莫い」
「じゃあ、何で距離を置くの?」
「僕が君の、勉強の邪魔になっても不可ないしね」私は眼を逸らしつゝ、答える。所が彼女は、「何で? 如何して、目を逸らすの?」と、今にも哭き出しそうな声で叫んだ。
「ケンちゃん、邪魔になんか、ならないよ。そんな事云わないで! 今の儘で、好いの。あたし、ケンちゃん大好きだもん、離れたら勉強なんか、出來なくなっちゃう。今の儘が好いの。勉強、するから。御願い」
私は擽ったかった。然し此処で妥協したら、私は愈墮落して仕舞う様な気がして、「駄目だよ、第一僕は、君と離れた方が勉強に身が入る」
突然三谷が、席を立った。私は吃驚して、「何処に行くんだ、如何したんだよ」と彼女の腕を曳いて、席に戻して、二度驚いた。泣いて居る。知らず知らず、傷付けて居たのか。「何で、泣く。如何したんだ」
三谷は眼を手巾で押えながら、掠れ声で、「自分の事、ばっかりね。あたしの気持ちなんか、些とも考えて呉れない。其ともあたしが、嫌いになったの? 其ならそう云って。変に遠回しな云い方しないでよ。嫌いなら嫌いって云って呉れた方が、あたし、納得出來るもん」と云い、私を凝と見据えた。
「莫迦だな、嫌いな訳莫いだろ」そうして、三谷の頭をくしゃと撫でる。
「じゃあ、今迄通りで居て」
「勝手な奴だな。どうせ受験の終わる迄だよ。高校受かったら復、今迄通りに戻るさ」
「厭だ、あたし、ケンちゃんと一日だって離れるの厭だ!」
私は何を、意地になって居たのだろう。其御蔭で、総てが終わって仕舞った。
「好い加減、聞き分けろ。俺は、離れて居たいんだ!」其切りだった。三谷は席を立ち、私の止める間も莫く驅け出して、行って仕舞った。私は独り、取り殘された。頭が逆上せて
次第に、事の重大さが飲み込めて來た。烈しい後悔が私を襲う。不意に私は席を立ち、喫茶店を飛び出して、彼女の後を追った。遅過ぎた。最早彼女の姿は、何処にも見えない。道の只中で、私は立ち竦んだ。暫くは、一歩も、動けなかった。
軈て突然に驅け出し、駅へと向かう。哭きたかった――然し、哭けなかった。涙は、一滴たりとも、出て來ない。非道い胸苦しさを覚え、胸をばり
何時か辺りは、すっかり暗くなって居た。時計を見ると九時を回って居る。私はムクリと立ち上がり、自転車を起こして、跨がった。其時左の眼から、一筋、
翌日は三谷と顔を合わせられなかった。藤本が心配そうに、如何したの、と尋ねて呉れたが、私には何とも、応えられなかった。早まった事をした。何故あんなにも、意固地になって仕舞ったのか。何も、距離を置かずに今迄通りの儘でも、成績の事ならば一緒に勉強すると云う法が在ったろうに。確かに自分勝手に出過ぎて居た。三谷が如何に、自分を思って居て呉れたのか、昨日は殆ど気付かなかったが、今思い返してみると、苦しい位に好く判る。私は実際、思い上がって居たのだ。自分勝手だ。彼女の気持ち等、考えて居たろうか。
昼休み、不図、涙が零れた。藤本は其涙を、決して見逃しはしなかった。気を利かせた、積りなのだろう、手巾をそっと差し出して呉れた。「如何したのよ、三ちゃんと、何かあったの?」私を慰める、積りだったのだろう、脊中に手を当て優しい声でそう云うと、声を殺して涙を流し続ける私の顔を、そっと覗き込む様にした。其、何の行爲が不可なかったのか、或いは総てが不可なかったのか、三谷が突然私の側へ來て、「そう、そう云う事だったの」と、半べそを掻きながら云う。私にはさっぱり、何の事やら判らなかった。彼女はしゃくり上げながら、続けて、「あたしに、飽きたんなら、……亜紀ちゃんの方が好くなったんだったら、そう云って呉れゝば好かったのに!」
今度は、判った。厭と云う程、好く判った。誤解なのだ。「違う! 違う、そんなんじゃ、莫い!」必死の弁解も、彼女には白々しく響いたのか、「何よ! ケンタの、莫迦!」と叫び、藤本の方を向いて「亜紀ちゃんの莫迦!」と付け加えると、くるりと脊を向けて驅け出した。
暫し、沈默の時が流れる。
「御免なさい、片山くん……」力莫い声で、心底済まなそうに、藤本が謝った。私は半ば放心状態で、ぼんやりと空を見詰めて居た。そんな時に、事情を知らぬ田中が脊後に遣って來て、私の肩を掴むと、「おい、三谷が今、哭きながら廊下走ってったぞ。何か有ったのか?」
私は唯、默って居た。涙を流す事も忘れて、空白な頭で、一所懸命に、何かを考えようとして居る。藤本が私に変わって、二言、三言、説明をすると、田中は急に心配で顔を一盃にして、怒る様な口調で以て、「好いのかよ、誤解なんだろ? 此儘で、好いのかよ!」と努鳴った。
私には最早、何が何だか、判らなくなって居た。丸で呆け老人の如く、ポカンと口を開けた儘、間抜け面をして居る。――如何すれば、好いのか。何から始めれば、好いのか。何と云って弁解すれば、好いのか。考えても、何も浮かばぬ。田中は呆然とする私に愛想を尽かして、彼女の後を追う可く、教室を飛び出して行った。
――二人の関係は、其後決して、恢復する事は莫かった。
田中は彼から、三谷を階段の踊り場で捕まえて、必死の説得を試みたが、彼女は、もう遅い、二度と、戻れない、と云って、哭いたと云う。其日一日、田中は始終気の毒そうに私を見て居たが、然し其事には一切触れなかった。実際私も、最早取り返しが付かぬ、と云う意識が有った爲、其儘誤解を解く事もせずに、終わって仕舞った。
こうして二人は、二度と会話を交わす事も莫く、寧ろ其反動で、私は勉強に思い切りのめり込み、高校受験では思った已上の結果を出す事になる。態と男子校を撰び、其処が付属校であった爲、其儘上の大学に、推薦で見事入学を果たす。彼女の方は、共学のそこ
そして私はたった昨日、何度目かの別れと涙を、経験して來たばかりなのだ。
「屹度…神様が私達二人を、再会させて呉れたのね……」
ゆうちゃんが、ぽつりと云った。私は五本目の徳利から酒を注ぎながら、呂律の回らない舌で以て、「そ…うかあ……そお云われゝま、あん…か、偶れんらあいおおあ、気もするれ……」と応える。何時か私達は、『会話』を交わして居た。昨日失恋した事も、総て話して仕舞ったし、其に由って何か、胸もすっとした。
「そうよね、…あゝ、もう、十年も前なのかあ……ケンちゃんも隨分と、大人になっちゃって」そう云って、くす
「そろ
私は未だ猪口に殘って居る酒を、ゆうちゃんの言葉の爲に、飲もうか、否か、と暫く葛藤して居た。其様子を、美しく微笑みながら凝と眺めて居たゆうちゃんが、何を思ったか急に脊筋を伸ばして、両手を膝の上に組み、稍俯き気味になって、深呼吸を一つした後に、「御免なさい」と呟く様に云った。
「あにが?」
突然に謝られて、私は戸惑った。
「だって、……未だ、謝って莫かったでしょ? 全部あたしの、誤解だったのよね、九年前の、彼日の事。……未だ怒ってる?」上目遣いで、恐る恐る私の顔を覗き込む。私は微笑みながら、「真逆、るいむん前の事らあいか。怒ってあんか、居るもんか」と答えると、コップの水を、
「あたし達、遣り直せるかな…」彼女はグラスを両の手で抱え、コップの底に視線を落とした儘、飽く迄控えめに訊ねて來る。私は口許に微笑を湛えつゝ、「もいおんあ」と応えた。
「え?」ゆうちゃんは上目遣いに、私を見上げながら訊き返す。余りに舌が回らず通じなかったので、今度は短く区切って、聢りと発音をして云った。
「も、い、お、ん、あ、お」――聢りと発音した積りだったのだ。仕方が莫いから、指で文字を書きながら、もう一度試みる。「もいおんあ(勿論だ)っへ云っはんらお。こっひの方あら、おえあいしはいお」
「本統?」
彼女の顔が、ぱっと明るくなった。そうして次の瞬間には、けた
☆
深夜の三時頃、都心を離れた郊外の町、其真中を線路が東西に横切り、其に沿って、住宅が寄り添う様に建って居る。そして此町唯一の駅の辺り迄來ると、急に商店街に出会う。駅前迄往かば、更に賑やかに、パチンコ店やら、喫茶店やら、呑屋やらが、ずら
其駅ビルの直ぐ麓、二軒ばかり隣に、小さな赤い暖簾が、掛かって居る。周りのビルや喫茶店が、既に店のシャッタアを降ろして、暗く、ひっそりとして居る中、其処丈がほんのりと、明るい燈を燈して居る。中は閑散として居て、客の姿は二人丈しか認められない。
軈て其二人も店を出て、店はすっかり暇になって仕舞った。
其二人、顔が真っ赤で、半分眼を閉じ掛けて居る男と、其を一所懸命に肩で支えながら歩く女。男の方は、明らかに飲み過ぎと分かる。足許は危なっかしく、ふら
二人の影が繁華街を抜ける頃、一寸前迄は晴れて居た筈の空から、ぽつん、ぽつんと、水滴が落ち始めた。二人は立ち止まって、一本しか莫い傘を、天に向けて開く。静かな雨の中を、静かに傘を差して、歩いて行く二人。心做しか先刻程ふら付かず、落着いた歩みをして居る。
賑やかな住宅街を抜け、畑が点在する辺り迄ずっと歩き続け、或る一軒の家の前で立ち止まると、傘の下で、二人向き合い、一言、二言、会話を交わした後、暫し默し、二つのシルエットは接近して、軽く、重なり合った。
三分間、一つの大きな影は凝とした儘動かなかったが、軈て静かに離れると、彼女は傘の下を出て、一旦ちらと振り向き、直ぐに復向き直ると、玄関の扉を曳いて家の中へと入って行く。そうして、男は独り、今し方歩いて來た道を逆に辿って歩き出す。ふら
(おわり)
平成六年、十二月、九日、大安。