回り灯籠

里蔵光

五歳の記憶

物心付いた時には、もう其処(そこ)に居た。襤褸々々( ぼ ろ ぼろ)の長屋の、端の部屋。部屋の真ン中の(まる)卓袱台(ちゃぶ だい)に向かって、背を丸めて(つくろ)い物をして居る女。夜中に目が覚めた時には、何時でも()うして何かを繕って居る。よくまあ()んなにも、繕う物が在るものだと思う。

赤い唇に真っ白な顔。ツンと香る白粉(おしろい)の匂い。そして(かす)かな、酒の(にお)い。女の名は洋子。()の洋子が、(ゆっく)りと振り向く。

「あら、起きて来たの」

「おしっこ」

「はいはい

玄関の手前に在る(かわや)へ、洋子が手を()いて連れて行って()れる。独りで行けると思うのだけど、洋子が()れを許して呉れない。

下駄箱の上には、色々雑多な物が積まれて居る。其の中に、白くて薄い紙が張られた、木枠の四角い箱が在る。薄い紙から中が透けて見える。中には様々な形を()()いた円い筒が入って()り、穿った部分には色施露半(セ ロ ハン)が貼られて在る。其の筒の中には、蝋燭を立てられそうな台座が在るのだが、其処に灯を入れて照らされて居る所は見た事が無い。其れは最初から其処にずっと在り、其の後も其処にずっと在った。外側の白い紙は、僅かに破れて居た。其れが何なのか、気にはなったが、特に訊く事もせず、其の儘にして居た。

厠の扉を開けると、膝丈程度の段差が在り、其の段から白い便器が突き出して居る。其の真っ白な陶器に向かって、放尿する。流す際には段の上に登って、洗浄の(レバー)を押し込む様に倒すと、便器全体に音を立てゝ水が流れて行く。段を降りて、今度は踏み台に登って手を洗い、横に掛かって居る草臥(くたび)れた手拭(タオル)で手を拭く。草臥れて居るので手の水分は吸い切れず、しっとりと濡れた感じは襯衣(シャツ)の腹や脇腹部分で拭い(なが)ら、蒲団へと戻る。

「こらぁ、ちゃんと中で手を拭いて来なさい」

「んー」

口答えしても仕方が()い事を知って居るので、適当な生返事で返す。

「おやすみ」

煎餅布団を顔迄引き上げて、目を(つむ)ると、直ぐに(ねむ)りに落ちて行く。

ずっと此処で、()うして暮らして居る。外が明るく成る少し前に蒲団で寝て、暗く成る前に起こされて、気怠(け だる)くて(やかま)しくて煙たくて酒臭い処へ連れて行かれて、赤ら顔の大人達に揶揄(からか)われたり、奥の狭い部屋で一人で遊んだりして、静かに成ると(また)長屋へと連れ帰られて、風呂に入れられて、歯を磨かされて、洋子は繕い物を始めて、自分は蒲団で寝る。多分産まれた時からずっと、斯うして居る。だから此の暮らしに疑問なんか抱かないし、不満も莫い。毎日特に面白くもないが、苦しくもない。されるが儘、()すが儘。

レット、イット、ビー。ケ、セラ、セラ。大人達が云って居た言葉で、正確な意味など判らないけど、聞いて居る限りでは多分自分の想いと近い言葉。気の所為かも知れないけれど、何となくしっくり来る気がする。節回しが付いて居るので、時々其れに合わせて口遊(くちずさ)む。前後は知らない。だから其処(だけ)、ずっと繰り返して居る。大人達の前で()ると妙に受けが()いので、(たま)に披露する。上手い、上手いと(はや)される。お菓子やジュースを貰ったりする。場合に依っては、大人が勝手に続きを歌い始めたりもするが、然う云う時は自分はそっと身を引いて、奥の部屋へと退散する。然うしないと中々面倒臭い事になるのだ。

洋子が誰なのかは、()く解って居ない。母と云う物が在るなら、()んな感じかとも思うが、此の女が母なのか如何(どう)かは自信が無い。(たゞ)、ずっと一緒に暮らして居るので、然うなのかも知れない。(しか)し母と呼ぶと怒られるので、違うのかも知れない。父らしき男は居ない。男の陰が(そもそも)無い。

正月、敷きっ放しの蒲団に(くる)まって寒さに堪えて居たら、洋子に名を呼ばれた。

「こうちゃん」

此の名前と云う奴も、能く解って居なかった。自分は「こうちゃん」なのだと思って居た。愛称だとか、然うした概念も持って居なかった。其れ以外の呼ばれ方など、された事が無かった。

呼び掛けに対して、視線丈で応える。寒くて、返事をするのも億劫だった。

「鳥渡、其処から出てお()で」

洋子が手招きして居る。何だか面倒臭かったのだけど、歯向かう事など自分には出来ない。唯諾々と従う(のみ)である。

卓袱台の上に、何か書類の様な物が色々載って居る。難しい漢字だらけで能く解らない。洋子は其れ等を横に退()かして、座る様にと云った。

「四月から、小学校に行かなくちゃならないんだよ」

何を云って居るのか能く理解出来ない。何処(どこ)だって? 其んな事より、唯々寒くて、両肩を抱いて震えて居たら、褞袍(どてら)を掛けられた。

「でもさ、此んな処に居たら通えないだろう。小学校は朝からなんだ。(あたし)は夜の女だから」

洋子は言葉を切って、(じっ)と眼を見詰めて来た。何だか(さみ)しそうな瞳だった。

「奇特な人が居てさ。あんたを引き取っても好いって云うんだ。あんたも何度か()ってるよ、坂上って云う紳士でさ。あんたの歌を気に入って、よくお小遣(こ づか)い呉れただろ」

彼処(あそこ)に来る赤ら顔の大人の一人か。小遣を呉れる大人は何人か居たと思う。()れだろう。其の大人が如何したと云うのか。――自分は其の時、さっぱり事態が呑み込めて居なかった。

「兎に角さ、こうちゃん、あんたの為なんだ。あんたは此処では、ちゃんと育つ事が出来ないんだよ」

然う云って洋子は顔を伏せた。

「松が取れたら、此の人があんたを迎えに来るから。そうしたら、あんたは此の人と一緒に暮らすんだよ」

「洋子は?」

「妾は此処に居るよ。お店も在るんだし」

「なんで?」

「仕方ないんだよ」

「ふうん?」

()()り自分は、何も理解出来て居なかった。何処かにお出掛けするのか、程度の認識だったのだろう。

真坂自分が売られるなんて、思いも寄らなかった。

坂上は八日の夜に、何時もの大人達が集まる場所へ()って来た。其の日は全く赤い顔をして居らず、何だか(かど)の多いカチカチした服装に、艶の良いぺったりした髪で、多少若気(にやけ )乍ら入って来て、自分の目の前で膝に手を突き、心持ち腰を落とすと、「迎えに来たよ」と、妙な猫()で声で云って来た。何故(なぜ)だか悪寒がして、一歩、二歩、後退(あとじさ)った。

「少し待ってゝ頂戴」

飲み物を作って居た洋子は洋盃(コップ)の中身を掻き混ぜて居た手を止めて、平坦な発音で然う云うと、奥の部屋へ行って、直ぐに(また)戻って来た。手には波士敦(ボ ス トン)(バッグ)を提げて居る。

(これ)が此の子の持ち物、(すべ)てだよ」

然う云って洋子は鞄を、坂上に手渡した。坂上は相変わらずニヤニヤと笑い乍ら其れを馬手(めて)で受け取ると、弓手(ゆんで )で自分の手を強く掴んだ。何だかカサカサして居て、其の癖(てのひら)は湿っぽくて、不愉快だった。洋子に抗議の眼を向ける。

「ナニ情けない顔してんだい」

情けない顔なんかして居ない。怒って居たのだ。然し其れは如何やら、伝わらなかった。

「元気で暮らすんだよ」

其の言葉を合図に、坂上は自分の手を曳いて、扉を開けて外へ出た。外には自動車が停まって居た。必死に抵抗して居た心算(つもり)だったのだけど、あっさりと後部座席に放り込まれて、観念した。此の男は誰なのか、自分は何処へ連れて行かれるのか、洋子は何故一緒に来ないのか。扉の方を振り返ったが、既に閉ざされて居て、洋子の姿は最早見えない。機嫌が悪かった所為(せい)で、余りちゃんと見て居なかったのだけど、洋子は如何(どん)表情(かお)で自分を送り出したのだろうか。

此の日から自分の名前は、坂上康太になった。

洋子が幾ら貰ったのか、其れは未だに聞けて居ない。

小学生の記憶

黒いピカピカのランドセルを貰って、舞い上がって仕舞った。

大きな家で、暖かい広い部屋を貰って、綺麗な洋服と、其れ迄見た事も無い様な美味しい食事で、洋子の事なんかすっかり忘れた。此の家には父と母が居る。姉も居る。賑やか過ぎて、最初は身の置き場が無いと感じたけれど、直ぐに慣れて、馴染んで仕舞った。何より皆親切で、迚も優しい。此処に来た日の父親の印象は最悪だったけれど、其んな事も忘れた。相変わらず手を握られるのは苦手だけど、其れを差し引いても余り有る生活振りだった。

姉と云うのは七つも上で、制服姿が印象的な、綺麗な女性だった。名を清花(さやか)と云った。綺麗な名前だと思った。清花からは、こうちゃん、こうちゃんと、可愛がられて居た。此の頃には流石に、名前と呼び名の区別位は付く様になって居た。鈴を転がす様な美しい声音で以て呼ばれる度、気恥ずかしい様なむず痒い様な気分になった。

父と母に就いては、(つい)ぞ父、母と呼ばう事は莫かった。旦那様、奥様と呼んで居た。姉が然う呼んで居たので、然うするが当たり前と思って居り、疑問等を抱く事は莫かった。当人達からも特に訂正等莫かったので、其れは結局、最後迄然うだった。結局此処でも、自分は親を持たなかった事になる。

学校の印象は薄い。ランドセルは嬉しかったが、其れ丈だ。授業の記憶も殆ど莫いし、教師の顔など誰一人覚えて居ない。学友なんて者も居なかった。運動会、修学旅行、其んな物も参加したのか如何かすら怪しい。

唯、参観日は覚えている。土曜日に学校に行かされて、授業の様子を親に見せると云う奴だ。授業の内容なんかは矢張り全く覚えて居ないのだけど、此れ丈は明確(はっきり)覚えて居る。

清花が見に来て居たのだ。

清花が来て居る事に気付いてから、気持ちはすっかり其方(そちら)へ行って仕舞った。上の空でモジモジして居たら、教師に見咎められ、何か質問をされた。答えられずに口籠って居たら叱られた。教室中が笑いに包まれたが、清花は恥ずかしそうに顔を伏せていた。

自分は一年生で、清花は中学二年生だった。独りで来るとは思えないから、恐らく旦那様か奥様も一緒だったのだろうと思うが、其方はさっぱり記憶にない。唯清花の事ばかり気になっていて、恥を掻かせて仕舞った事が申し訳莫く、悔しさの余り涙が出て来た。両の眼からぽろぽろと涙を流して居ると教室中が騒然として来て、慌てた教師が猫撫で声で何か云って来るのだが、何を云われたかは全く覚えて居ない。唯々清花の事丈が気掛かりだった。

それから一()月で、担任が替わった。当時は何故替わったのかなど知らず、また、興味も無かった。学期の途中で担任が変わる事が、異常な事だなどと云う認識も無かった。後から思えば、旦那様が圧力を掛けたのかも知れないが、其れとて何の証拠も無く、今更暴いた所で如何にも成らない事である。

翌年からは、参観で授業中に指名される事は莫くなった。清花は毎年来て呉れたが、二度と恥ずかしい思いをさせる事は無かった。清花は何時でも、優しく美しく微笑んで、自分を見守って呉れて居た。照れ臭かったが、自分は一生懸命勉学に励む振りをして、清花を安心させた。

学校以外でも、清花は何時でも美しく、優しかった。勉強が解らないと訊きに行くと、厭な顔一つせずに教えて呉れた。隣に座って顔を近付けて説明して呉れる清花は、迚も佳い香りがした。自分は何時もドギマギして仕舞って清花の説明の半分も頭に入って来なかったのだが、清花は根気良く付き合って呉れた。其の御蔭で、如何やら落ち零れる事は無かったが、自分は成績なんか如何でも好かった。唯清花との時間を、より多く確保したかった。だから何時でも、清花の前では劣等生の(てい)だった。

「康ちゃん筋は好いんだから。ちゃんと復習()たら、もっと成績上がるよ」

びいどろを鳴らす様な澄んだ声で、清花に然う云われると、自分が天才になった様な気分に成る。然し復習なんて事は(つい)ぞ為なかったので、清花の云う様には成績は上がらなかった。だが、其れでも好かったのだ。其の方が好かったのだ。賢くなっては質問が出来ぬ。足りて居ないから、清花に教えて貰えるのだ。

其んな清花との甘い時間は、然し何時でも叶うものではなかった。旦那様が居ると、清花も自分も委縮して仕舞うので、お互いに視線を絡ませる事さえ出来なかった。其んな事を為ようものなら、一気に旦那様の機嫌が悪くなって、悪くもない様を叱られ、為ても居ない悪事を糾弾される。其れは自分耳ならず、清花にも及んだ。自分の事なら忍耐も出来るが、清花に累が及ぶの丈は、避けなければならなかった。だから何時でも、凝と自分の(へそ)の辺り丈を見る様にして、堪えて居た。然うして居る分には、旦那様も奥様も、迚も穏やかで優しかった。

小学五年生の夏。清花は高校三年生で、受験を控えた大事な時期だった。其んな大事な夏休み、清花は自分の部屋に真っ黒な陰を身に纏って(たゝず)んで居た。

朝起きたら、部屋の隅に清花が居た。其処丈照明が落ちたのかと思う程に、暗く打ち沈んだ表情を為て居た。

(ねえ)さま」

自分は清花を然う呼んで居た。声を掛けると、清花は緩りと顔を挙げ、自分の瞳を見て、直ぐに復眼を逸らせた。

布団の上で、夜着の儘で、自分は如何すれば好いか解らなかった。此んな清花は見た事が無かった。

清花の有様は非道い物だった。着衣は崩れ、髪は乱れ、腕や脚や内股には、血が付いて居た。

「何が……一体、何があったの」

質問をしても全く反応せず、唯凝と立って居る。右手には真っ黒な何かを持って居る。其処から雫が垂れる。床に赤い点が付いた。

自分は其の赤い点から視線を動かせなくなった。

受験を控えた大事な時期に。

清花は一体何を。

誰を。

――突然。

押し倒されて後頭部が枕に沈んだ。眼の前に清花の耳があった。息苦しかった。口が。口が塞がれて居た。清花の手が自分の身体を這って居た。自分の手は清花の身体へと誘導された。胸に。(しり)に。柔らかい処。堅い処。清花の息遣い。声。全く何が起きたのか解らなかった。

全く、何が起きたのか、解らなかった。

小学五年生だった自分は、其の日、高校三年生の清花に因って、一生残る焼き印を押された。其れは初めて識る恍惚だった。

事が済むと、清花は無言で部屋の隅に転がって居た赤黒い物を拾ってから、出て行った。

暫く茫然として居た。次第に階下が騒がしくなって来る。沢山の人の声が聞こえる。

誰かが階段を上がって来る気配がした為、清花から転写された身体中の血の跡も其の儘に、慌てゝ下穿きを穿き、箪笥から適当に取り出した服を着た。布団の上の赤や白の染みは見られたくないと思い、脱いだ夜着を上に載せ、夏用の薄い毛布で覆い隠した。ドアが開いたので其の毛布の上に突っ伏した。

「康太! 無事なの?」

奥様だった。怯え乍ら顔を挙げると、自分なんかより()(ぽど)怯えた顔の奥様が、部屋の中に視線を漂わせて居た。瞳が不規則に上下左右へ振動して居て、落ち着かない様だった。何処を見て居るのか。何処も見て居ないのか。眼を合わせる事も無く、有らぬ処(ばか)りうろうろと見乍ら、震える口(もと)で譫言の様に、「旦那様が! 清花が!」と、其れ許り繰り返し、(やが)て部屋を出て行った。

何が起きたのか、知りたいとは思わなかった。唯清花の事丈が気になった。抱えて居た毛布越しに、敷布(シーツ)の上の残滓の香りを嗅ごうとして、深く息を吸った。此れが清花の最後の名残だと思った。然う思った理由は、自分でも解らない。

復誰かが階段を上がって来る。同じ姿勢の儘固まって居たら、識らない小父さんが二人、部屋に入って来て、一瞬立ち止まり、一人は自分の方へ、もう一人は部屋の隅へと向かった。

「ぼうや、こゝへ誰か来なかったかい?」

小父さんが声を掛けて来た。自分は清花の気配を全身で抱き抱えた儘、凝と黙って居た。小父さんの視線が、執拗に自分の身体の上を這って居た。

「血痕だね。鑑識を呼ばないとな」

部屋の隅で(しゃが)んで居た小父さんが、床上に視線を落とした儘云った。意味は解らなかった。

廊下の方が騒がしかった。奥様が何か喚いている。扉をどんどんと叩く音。清花の部屋の方角から。小父さん二人は顔を見合わせてから、緩慢に部屋を出て行った。

ずっと清花の痕跡を独り占めして居た自分は、そっと顔を挙げると、清花の部屋の方を向いた。()の壁の向こう。用が有る時には壁を叩くと、優しく叩き返して来る。然うして清花が部屋に来て呉れる。今も叩けば、返って来るだろうか。屹度(きっと )返って来る筈だ。蒲団から起き上がり、壁際へ寄って、耳を近付けて、そっと叩く。返事は莫い。もう少し丈待ってみる。然し一向に返答が莫いので、もう一度叩く。其れでも返って来ない。少し強めに叩くも、矢張り返事は莫い。

得体の知れない不安が、背筋を下から上へと這い上がって来て、身震いした。両の肩を抱いて(うずくま)る。其んな訳莫い。其んな筈は無い。清花は。清花は。つい今し方、自分と。

発条(ばね)仕掛けの人形の様にぴょんと跳ね起き、部屋を飛び出した。

廊下の先では、今(まさ)に扉が破られ様として居た。大きな男達が体当たりして居る。めりめりと音がして、隙間が出来ると、何か鉄の棒の様な物を()じ込んで、大きく(ひね)った。

大きな破砕音と共に扉が開いて、清花の部屋が視界に飛び込んで来た。自分は其の時、清花の部屋を初めて見た。可愛らしい調度に彩られた、花園の様な部屋だった。くるくると野薔薇の蔓の様な装飾の付いた、真っ白な金属(フレーム)のお姫様寝台(ベッド)に、花柄の蒲団と、兎の縫い包みが乗って居る。机の上には整然と、教科書や帳面(ノート)が積まれて在る。窓には綾織(レース)窓帷(カーテン)が掛かって居て、天井には装飾的な電燈が付いて居る。壁紙は薄桃色で、有名な劇団の張紙(ポスター)が貼られて在る。四角いお洒落な籠が、寝台の足元に置かれて居る。屑籠か。木枠に白い板が張られて居て、何と莫く、昔長屋の玄関で見た灯籠を想起する。籠の板は然し灯籠の様には透けて居らず、隅に花の柄が描き込まれて在る。部屋全体には良い香りが漂い、床には点々と紅い――

紅い点が、入り口からずっと、――途中に転がって在るのは赤黒い、清花が持って居た鉄の、駿馬を(かたど)った大きな文鎮、紅い点々は其処で途絶え、然し其の軌跡が指し示して居る其の先の、衣装庫(クローゼット)の方へと視線を遣ると――

鴨居から伸びた紐の先に、清花が寂然(ひっそり)と、ぶら下がって居た。

中学生の記憶

昼間のスナックは何時でも薄暗い。

学校から帰ると、何時も其の薄暗い店舗で、勘定台(カウンター)に座ってラムネを飲む。日に一本と決められて居るので、大事にちびちびと飲んで居る。周囲には誰も居ない。洋子は奥の部屋で寝て居る。

昔住んで居た長屋は引き上げて、今では此の店舗に寝起きして居るのだ。

夢の様に過ぎて往った小学校の六年間。此の頃にはもう、()れは夢だったのではないかと半ば本気で思い始めて居た。清花が居なくなってからの一年半は、魂が抜けた様になって居た。奥様と二人切りで、迚も居心地の悪い一年半だった。奥様の機嫌の良い日には、憐みの視線を注がれて、奥様の機嫌の悪い日には、(きたな)い物を見る眼で蔑まれた。何方(どちら)にしても悪寒が走った。(いず)れの視線の底にも、気味の悪い好奇の色が窺われた。

卒業式の晩、奥様が寝室に入って来て、上に覆い被さって来たので、(ほゞ)反射的に蹴り上げると、奥様は肚を押さえて(うずくま)った。清花の肌の感触が、生々しく蘇って来た。其の感覚を(けが)されたくなかった。

「清花は抱いた癖に! 好色の癖に! ()んな売女(ばいた)が抱けて、何で妾を拒むんだ!」

何を云って居るのか能く解らないなりに、切迫した恐怖丈は犇々(ひしひし)と感じた。何故清花との秘事を知って居るのか、理解出来なかった。何を何処迄知って居るのか。奥様以外にも知られて居るのか。がたがたと震え乍らも、部屋から逃げた。

其の儘取る物も取り敢えず、家を飛び出し、近くの交番へと駆け込んだ。其処に居た暇そうなお巡りさんに、(つたな)い乍らも状況を説明した。話して居る内に、何だか自分が莫迦な事を云って居る様な気分に成って来たが、お巡りさんは存外に親身に聞いて呉れた。

「民事不介入なんだけど、まあ――あの家はなぁ――亭主、長女に続いて、女房迄其れか」

お巡りさんの言葉の意味は能く解らなかったが、少なくとも自分を守ろうとして呉れた様ではあった。連絡を受けた奥様が引き取りに来て、何やら意味不明な放言を喚き散らした御蔭で、自分の言葉の信憑性が増した。奥様は交番に留置され、自分はお巡りさんに連れられて一旦家に帰った。

「一応訊くけど、誰か、親戚の(あて)とか、莫いかい?」

玄関先で、お巡りさんに然う訊かれて、「洋子」と応えた。其れ迄すっかり忘れて居た筈なのに、何故か其の時は咄嗟に其の名が出た。

「誰かな? 何処の人?」

「コスモス。昔一緒に居た」

「ふうん? 君は此の家の、養子だったっけ。養子に出される前の、母親かな?」

「母ではないです。多分」

六年も前のあやふやな記憶を、たどたどしく説明した。お巡りさんは怪訝な顔をしつゝも、熱心に聞いて呉れた。然うしてお巡りさんに云われる儘、着替え等の荷物を纏めて、鞄に詰めて、其の家を出た。パトカーに乗せられて、連れて行かれた先は、此処、スナック「コスモス」だった。

呼び出されて店から出て来た洋子は、昔と余り変わって居なかった。何だか懐かしくて涙が出た。洋子は大層驚いて居たが、其の両目も涙で潤んで居た。洋子は自分を強く抱き締めて、「ごめんね、康ちゃん、ごめんね」と繰り返して居た。

結局其れ切り、坂上の家には戻らなかった。何度となく奥様がコスモスに押し掛けて来たが、其の度に洋子が飄々と追い返して居た。時には警察を呼んだりもして居た。来て呉れるのは決まって、僕をコスモスへ送り届けて呉れたお巡りさんなのだけど、此の人は徹頭徹尾、僕と洋子の味方をして呉れる。坂上の家の異常性を()く知って居るのだ。奥様は此のお巡りさんが苦手の様で、何時でも彼が到着する前に退散した。

「弁護士とか連れて来られたら、(かな)わないけどねぇ」

或る晩洋子が、其んな事をぽつりと呟いた。坂上の家が彼んな事になっても、養子関係が解消された訳ではないので、奥様が其の気になれば幾らでも戦い様は有るのだと云う。然うは云っても、二人も死人を出した家で、(のこ)った奥様も彼の調子だし、裁判をしても勝つ見込みは有るのではないだろうか。然う云うと洋子は、辛そうに笑って、「弁護士雇う余裕も無いし、裁判なんかする気力も莫いよ」と云った。

「まぁ、大丈夫だろうよ。彼の奥さん、其処迄気が回る様にも見えないし、裁判起こそうにも元手だって莫いんだろう。家もそろそろ差し押さえられるって話も聞くし。彼の調子じゃあ世話焼く物好きも居ないだろうさ」

そして洋子は自分を軽く抱き締めて、「康ちゃんが此処に居て呉れゝば、戸籍なんか如何だって好いさ。妾は相変わらず、昼寝て夜働いてるけどね、康ちゃんは構わず昼の学校行って、夜寝て置いたら好いよ」と云い、背中をポンと叩いた。

戸籍。自分の戸籍と云う物を、此れ迄意識した事なんか無かった。坂上姓を名乗って居るし、自分は実際、今現在、坂上の戸籍に入って居るのだろう。詰まり彼んな奥様でも、形の上では母親なのだ。考えるだに嫌悪感が募る。だから此の事はもう、此れ以上考えない様に仕様と思った。

コスモスに住む様になっても、学校は変わらなかった。元々コスモスと坂本の家とは、大して離れて居ない。其れが為に奥様も頻繁に怒鳴り込んで来るのだが、学区も同じだし、お巡りさんにも「コスモス」で直ぐに通じる位には、凡てが狭い範囲内での出来事だったのだ。然し小学生時代の自分には、其処迄考えが及ばなかった。坂本の家とコスモスとは、学校を挟んで全く逆方向だったので、通学時に見る風景も其れ以前とは全く違って居たし、元々余り外遊びをしなかった自分には、コスモスがずっと近くに在った、洋子がずっと近くに住んで居た等とは、思いも寄らなかったのだ。

ラムネの最後の一滴を舌の上に垂らして、席を立つ。勘定台の中へ入り、空き瓶を正箱(カートン)に入れると、奥の部屋へと続く扉を開けた。此の先は居住空間で、廊下に沿って小さな居間と台所が在る。奥は風呂場だ。直ぐ脇の急な階段を上がると、和室が二つ在る。自分の部屋は六畳間で、煎餅布団が二つ折りになって居る。掛布団も敷布団も一緒くたに折り畳んで居る丈で、広げたら直ぐに寝られる様になって居る。其の畳まれた布団に仰向けに倒れて、天井を見上げ乍ら、目を閉じる。

気が付いたらすっかり(くら)くなって居た。西向きの窓の外には隣の建物が迫って居るので、元々此の部屋は薄暗いのだけど、陽が落ちて仕舞えば其んな事には関係莫く、凡ての部屋は真っ暗になる。暫く其の儘転がって居たのだけど、尿意を覚えたのでと起き上がり、電灯も点けずに部屋を出る。便所は階下にしか無い。ぎしぎしと音を立て乍ら階段を降り、くるりと回って階段下の便所のドアを開ける。此処の便所は洋式だ。長屋の頃の様な便所なんか、今時何処にも莫い。彼の頃が異常だったのだ。

用を足して便所を出た正面の襖の向こうには、居間が在る。其の襖の隙間から電燈の光が漏れて居る。洋子が居るのかと思って襖を開けたが、誰も居なかった。店の方から声が聞こえて来るので、もう店を開けて居るのだろう。洋子はよく、居間の電灯を点けっぱなしにして居る。貧乏なのだからもう少し電燈も小まめに消せば好いのにと思うのだけど、如何も大らかと云うのか大雑把と云うのか、だらしないと云うのか、居間の電灯に限っては何時も点け放してある。然う云う自分も、よく自室の電燈を突け放して仕舞うのだけど、其れに就いては洋子に叱られる。納得が行かないと思い乍ら、座布団に腰を落として、座卓に肘を突いた。

顔を挙げた先に茶箪笥が在る。其の上には、花瓶やら人形やら、種々(くさぐさ)の雑多な瓦落多(が らくた )が載せられて居り、其の中に、四角い木枠の、白く透き通った紙が張られた、灯籠の様な物が在る。中には施露半(セ ロ ハン)の張られた円筒が入って居て、くるくると回る様になって居る。筒には馬や蝶等、様々な模様が切り抜かれて居て、色施露半は、其れ等の模様に合わせて貼り付けられて居る。長屋に居た頃から在るので、見慣れて居るのだけど、此れが回って居る所は見た事が無い。

「康ちゃん、起きてたの。何か食べる?」

何時の間にか洋子が背後に来て居た。

「お店は?」

「もう空けてるよ。鳥渡あんたの様子見に来ただけ。ずっと寝て居たからさ。――何か食べるなら、お店にお()で。其方(そっち)で出すから」

然う云って洋子は、店へと戻って行った。暫く呆けて居たが、と腹が鳴ったので、仕方なしに立ち上がると、居間の電燈は付けた儘、店へ向かった。

店の扉を開けると、識った顔と目が合った。僕を坂上から逃がして呉れた、交番のお巡りさんだ。客として来て居るので制服は着て居らず、如何にも野暮ったい馬球(ポロ)襯衣(シャツ)姿である。

「やぁ、元気にしていたかい。暫く振りだね」

赤く染まった顔を機嫌好く綻ばせて、声を掛けて来るのに対して、無言で軽く会釈を返す。年齢を探るのは苦手なのだが、多分洋子と然う大きくは違わない。物腰からすると洋子よりは上かも知れないが、職業柄然う見える丈なのかも知れない。洋子の年齢も能く知らない。本人に訊いた事もあるが、大抵はぐらかされる。自分が物心付いた頃には此処で店を出して居た様だし、其処から数えれば、二十代の後半か、三十路を越えて居るか。何にしろ、此のお巡りさん、如何も洋子に惹かれて居る様なのだが、奥手なのか勇気が莫いのか、何時も関係莫い話許りして、矢鱈(やたら)と呑んで、歌って、ふらふらになって帰って行く。人は好いのだろうが、一歩踏み出す丈の意気地が莫いのだ。

洋子は判って居るのか居ないのか、何時でも此のお巡りさんに対して愛想良くして居るのだけど、彼の方が食い付いて来ると急に外方(そっぽ)を向いて他の客の機嫌を取り始めたりする。其れでも忘れた頃に復お巡りさんの相手に戻って来たりして、彼は彼で引き上げ時が判らなくなって仕舞う様なのである。――然しまあ、其れは飽く迄お巡りさんを主体として見た場合の話で、洋子の行動丈を追って見るならば、凡ての客に対して殆ど平等に接して居て、お巡りさん丈特別に構ったり、逆に邪険にしたりして居る訳では莫い様である。然うして見ると、殆どの客は洋子に構って欲しくて通って来て居る様で、何だか滑稽にも思えて来る。

洋子は綺麗なのだろうか。正直な所、能く判らないのだ。幼い頃から一緒に生活して来て、見慣れて居る所為か、化粧を落としてだらしない生活をして居る姿を見識って居る所為か。殊更に醜いとも思わないが、綺麗だと云う認識も無い。清花と較べて如何なのだろうか。清花が大人になったら洋子の様な感じだろうか。全く別の様な気もする。矢張り判らない。自分の基準は何時でも清花なのだけど、洋子は其の尺度の何処にも入って来ない。家族だからなのか。でも清花だって家族だった。清花とはお互いに養子同志で、血の繋がりが莫いからだろうか。然し其れを云ったら、自分と洋子の間に血の繋がりなど有るのだろうか。洋子は母親ではないと云って居るのだが、でも然うすると、洋子と自分の関係とは一体何なのだろう。拾い児、貰われっ子、遠い親戚、他人(ひと)は様々な憶測で色々勝手に噂して居る様だけれど、其の()れが本当なのかは判らない。何れも如何にもしっくり来ない。隠し子、とも云われる。何と莫く、然うだったら好いなと思ったりする。然し隠されて居ないのだから、違うのかも知れない。

「はぁい、お待たせ。緩り食べな」

勘定台の内側で茫然(ぼんやり)考え事をして居たら、夕飯が出て来た。唐揚げに千切りキャベツとトマトを添えた丈の御菜(おかず)に、ご飯と味噌汁だ。「いただきます」と云ってから、箸を取った。坂上の家に居た頃は、華美な料理が珍しく、洋子の料理より美味しいと思って居たのだけど、此処へ帰ってからは矢っ張り洋子の方が美味しいと感じた。理由は能く解らないが、単に坂本の味に飽きたのか、彼の事件以来味が目に見えて落ちたからか、其れとも、舌が多少大人になって、洋子の料理に追い付いたからなのか。まあ何でも好いのだけど、等と如何でも好い事を考え乍ら、黙々と食事をする。

最後の唐揚げを頬張った時、(にわ)かに外が騒がしくなった。怒声が聞こえる。聞いた事のある声だ。お巡りさんが無言で立ち上がり、入り口の扉へと向かった。然し辿り着くより先に乱暴に扉が開かれ、声の主が飛び込んで来た。

「目に物見せて遣る!」

然う叫ぶ奥様の手には、飲み口から火柱の立ったコーラ瓶が握られて居た。矢庭に店内が騒然となる。お巡りさんが其の腕を抑え乍ら奥様を組み伏せると、客の中でも屈強な体躯の者が数名、折り重なる様にして取り付いた。火炎瓶から油が滴って床に燃え広がり掛けたが、客の一人が機敏に消火器を向けて、あっと云う間に消火して仕舞った。奥様は右手を火傷した様だったが、他に怪我人等は出なかった様である。

「何してんだい、あんた……」

やっとの事で洋子が声を掛けた時には、奥様はお巡りさんに依って後ろ手に縛り上げられ、正座の姿勢で背中を抑え込まれて居た。程無く警官が駆け付け、奥様は連行されて行った。後には消火液塗れの焦げ跡丈が残った。洋子は怒るでもなく、泣くでもなく、唯少し、悲しい顔をして居た。

此の日以来奥様は来なくなった。逮捕された後如何なったのか能く識らないのだけど、風の噂に、何処か遠くへ転居したらしいと聞いた。坂上の家は売家となったが、誰も買い手が付かない儘放置されて廃屋となり、何時しか幽霊が出ると云う噂が立ち始めて、子供達が肝試しと称して侵入するので、甚だ迷惑して居ると、近所に住む客が零して居るのを聞いた事がある。如何やら坂上一家四人が、幽霊となって出るらしい。死んだのは旦那様と清花丈だし、幽霊四人の内の一人は自分である。何とも好い加減な話だと、興醒めした事を覚えて居る。

焦げ跡は暫く残り続けた。洋子が彼の手此の手で洗浄したり漂白したりして居た様だけど、焦げが消える筈もなく、結局其の部分丈床を張り替える事になった。痛い出費だと嘆いて居た。一応彼の奥様の嫌がらせは、効果があったと云う事か。然し自分も、洋子も、奥様を恨む様な気持にはなれなかった。床が焦げた丈で、店が焼けた訳ではないし、他の家財等も特に被害は無かった。迷惑であったのは事実だし、其れなりに恐怖も覚えたものだけど、怨むと云う感情は不思議と湧かなかった。彼んな形で家族を失った奥様に対して、別に憐憫や同情が芽生えた訳でもないのだけど、追い打ちを掛ける事も無いと思って居たのかも知れない。逮捕もされて、有罪となったか如何かは知らないが、転居を余儀無くされた訳だし、十分に罰は受けたのではないかと思う。

「全く、迷惑な話だよ」

洋子は事ある毎に其んな風にぼやくのだけど、余り念が籠って居ないと云うか、妙にさっぱりと聞こえて来るから、不思議である。

高校生の記憶

学校の勉強なんか余り真面に取り組んで居なかったのだけど、其んな自分でも不思議と高校には入れた。底辺と云う訳でも莫く、そこそこ中堅の高校だった。普通の学校で、普通に通った。不良の様な無頼の者もチラホラ見掛けたが、然うした連中に絡まれる事も無く、当然取り込まれる様な事も無く、至極平和に過ごして居た。

目立たず、落ち零れず、静かに学園生活を送って居たのだが、如何した弾みか、一人丈自分に目を付けた者が居た。二年生の時の、同級生である。春先の、初学期の初日、隣の席に座った川元澄香が、瞳を好奇の色に染めて突然声を掛けて来たのだ。

「坂上って、幸町の、彼の坂上?」

高校生になっても、子供と云う者は容赦が莫い。大人なら遠慮して訊かない様な事でも、ずけずけと訊いて来る。

()の坂上だよ」

(とぼ)けた訳では莫いのだけど、自分の居た坂上家は、今ではもう無くなって居る家なので、若しかしたら違う物を指して居るのかも知れないと思い、一応訊き返してみたのだ。

「幸町の坂上ってったら、一つしか莫いじゃん! 父親が長女レイプして二人とも死んじゃった、彼の坂上かって訊いてるの!」

最悪だ。其んな事、当事者に訊くだろうか。幾ら子供だからと云って、高校二年生なんだからもう少しオブラートに包んだり、然う云う気遣いが出来ないものなのだろうか。不愉快でもあったし、胸の傷がずきんと痛んだので、彼女を下から睨み付ける様にし乍ら、黙って居た。其処に至って初めて、彼女は己の失態に気付いた様であった。

「あ、ごめん、そうだよね……お姉さんとお父さんの事……悪く云う心算じゃなかったんだけど……」

だったら如何な心算だったのだろうか。澄香は一気に意気消沈して、顔を伏せて背を向けた。其んな態度に申し訳莫さを感じて仕舞った理由が、未だに自分でも理解出来ない。徹頭徹尾悪いのは澄香の筈である。其れなのに自責の念が湧くなんて、卑屈にも程がある。

「俺養子だから。父とも姉とも血の繋がりは無いし。今はもう、彼処には――」

背中に向けて声を掛けると、途端に澄香は元気を取り戻して、キラキラした目で此方(こちら)に振り返った。

「お姉さんも養子だったんでしょ! 凄い綺麗な人だったでしょ! あんたお姉さんのこと好きだった? 彼の家、今空き家だよね、お母さん何処行ったの? あんた何処に住んでんの?」

発言の途中で遮られて、矢継ぎ早にポンポンと質問を浴びせられ、比喩でなく、「あそこには」と云い了えた状態の儘、開いた口が塞がらなかった。其の儘阿呆みたいに固まって居ると、復しても澄香はしゅんと鎮まり、目尻を指で拭っていた。眼がキラキラして居たのは、如何やら涙の為らしかった。何の涙だ? そして何故、自分は其の時罪悪感に襲われたのか? 胃の腑がきゅうと縮む様な想いがし、澄香の肩にそっと手を置くと、澄香の身体がびくんと戦慄(わなゝ)いた。咄嗟に手を引っ込めたが、同時に澄香が顔を挙げて、凝と瞳の中を見詰めて来るので、気拙くなって目を逸らす。

脈絡も莫く、清花の瞳を思い出した。澄香と清花では天地程も格が違う。性格は正反対だ。清花の気品の欠片も、此の女には無い。だのに何故、清花の瞳を連想して仕舞ったのか。此奴(こいつ)の瞳は、此の瞳丈は――

「あんた、お姉さんに惚れてた?」

「何云ってんだよ……家族だぞ」

「血縁は無いんでしょ」

眼を合わせられなかった。ずっと横を向いた儘、顔も真面に見られなかった。

「死ぬ前に話した? キスとかした?」

顔が紅潮するのが判る。何も応えられないし、答えたくない。

「姉さん、何て云ってた?」

何か違和感を覚えた。そっと視線を戻すと、此方を見詰める視線と搗ち合い、直ぐに反対側へと逸らす。其の刹那見た瞳の、其の表情の意味が、善く解らなかった。此奴は何を知って居るのか。

「彼んな糞オヤジに玩具(おもちゃ)にされて、姉さん……最後にあんたに、何か云わなかった? あんたのこと、気に掛けてたんじゃないの?」

「姉様は……」駄目だ。云っては不可(いけ)ない。下唇をぐっと噛んで、堪えた。「姉様は、何も……」

「ねえさま? そんな呼び方なんだ……そうね、姉さんらしい……」

矢張り表情の意味が解らない。憧れの様な、(ねた)みの様な、怒りの様な、悲しみの様な。――否、其んな事より、先刻から、姉さん、姉さんって。

「お前の姉さんかよ」

間。彼れ丈饒舌だった口が何も言葉を発しなく成り、何かを探す様に視線が彷徨(さまよ)う。然し其れも数秒の事。意を決した様に再び自分の瞳を凝と奥迄見据える様にして、「然うだよ、あたしの姉さん、其れが何か?」と、挑む様に云った。

其んな事は。

其んな事は判って居た。ずっと前から。澄香に声を掛けられた時から。其の瞳を見た時から。此の瞳は清花の瞳だ。だから。だから自分は。揺れて、狼狽(うろた)えて、後ろ暗くて、申し訳莫くて、恐ろしくて……

「なんて顔してんの。あたしの姉さんだよ。あんたの事は何時も手紙に書いてたよ。大好きな弟だって、書いてたよ。最後の方はあんたの事ばっかりだったよ。あたしも逢ってみたくなったけど、其の前に姉さんは……」

潤んだ瞳から大粒の涙が零れた。然うか、此の涙だったか。澄香は問わず語りに、話し続ける。

「あたしたちは別々の家に養子に貰われたの。貰われる前は施設で一緒だったのに。本統の親なんか知らない。其んなの居るのかも判らない。木の股から産まれたって云われても信じるよ。屹度神の子か、天使か、……若しかしたら、悪魔の児かもね」

然う云って、涙を溜めた儘ニタリと笑った。笑うと清花に少し似て居る気がした。でも清花の笑顔は、もっと清らかで神聖だ。此んな野卑ではない。矢張り全然違う。同じで堪るか。其んな想いとは裏腹に、自分は澄香の手を握って居た。何故か涙を流し乍ら。

新学期初日の放課後、自分は澄香の部屋に居た。家人は誰も居ない様だった。何故斯う成ったか善く解らない。多分澄香に誘われて、ふらふらと付いて来た。其の自分の心境が理解出来ない。是は清花ではないのだ。別物だ。別人だ。瞳丈。瞳丈なんだ。他は全く違うんだ。腕の中で泣いて居るのは、今日見知った許りの、無配慮で野卑で、身勝手で、愛おしい……

いとおしい?

口を重ね、体を重ね、肌を重ね、清花の感触を重ね、想いを重ね、記憶を重ね、其れは結局、代用物でしかないのだと判って居ても、本能で解って居るのは、此れは確かに、清花の、遺伝子の――

「姉さんとも、()う遣って?」

無機質な澄香の言葉で、急激に我に返った。冷水を浴びせられた様に、ぞっとした。声が違う。全く違う。慌てゝ下穿きと洋袴(ズボン)を穿き、襯衣を着て、部屋から、家から、飛び出した。裸の澄香の恨めしそうな視線を、其の奥から覗いて居る清花の(ねた)ましそうな視線を、背中にチクチクと受け乍ら。

門柱の上に(しつら)えられた電燈は、何処かで見た様な意匠(デザイン)だった。木枠で縁取られた直方体の各面には、白い磨り硝子(ガラス)が嵌められて在る。中には丸い白熱球が燈って居て、黄昏の景色にほんのりと主張して居る。自分は其の光跡がくるくる回る様な錯覚を覚え、蹌々踉々(そうそうろうろう)とし乍ら、玄関先に停めて置いた自転車に跨り、自宅へと(ひた)走る。

其の晩は清花の夢を見た。夢の中の清花は、優しく微笑んで居た。其の日の自分の過ちを、優しく許して呉れた。右手をそっと振って手招きしている清花は、相変わらずうっすらと微笑み乍ら、其の左手には、血に染まった馬の文鎮が、鮮血を滴らせて居る。其方に目を奪われて居る内に、自分は清花の腕に掻き抱かれて居た。幼い自分は、清花の胸に顔を埋め、呼吸が出来なくなって居る。苦しいが、心地好い。視線を上げると清花の顎が見える。透き通る様な肌に見惚れて居ると、清花の顔が此方に傾き、凝と瞳を見詰めて来る。其の眼は笑っては居なかった。其れは、澄香の瞳だった。

――姉さんとも、斯う遣って?

枕に顔を埋めた状態で、急激に覚醒した。寝汗が酷かった。何か物凄い恐怖と儚さと、喉の渇きを覚えて、階下に降りる。店の方からは賑やかな声やら音楽やらが聞こえて来る。其の店とは反対方向に廊下を進み、台所で洋盃に水を汲んで、一息に飲み干す。其の後も暫く、調理台に手を突いた儘、凝と汗の引く迄動かずに居た。

大きな(くしゃみ)をして、振り返ると、洋子が立って居た。

「どうしたの? 眠れない?」

「いや――変な夢見て目が覚めちゃって。でももう寝るよ。お休み」

一気にそう答えると、階段に向かう。途中、視界の隅に居間が入る。灯の消えた真っ暗な部屋で、茶箪笥の上の四角い白い箱が、ぼんやり光って居る様な気がした。中の模様がくるくると回転する。はっとして、其方を振り向くが、何も光ってなど居ない。

「其れは回り灯籠。昔、夜祭でね――」

洋子の声。辺りを見渡すが、洋子は居ない。幻聴か。――回り灯籠? 然うか。聞いた事がある。何時聞いたのだったか。然うだ、()れは、確か、長屋の最後の日、何と莫しに灯籠を見詰めて居たら、洋子が傍へ寄って来て、然う優しく、教えて呉れたんだ。自分が生まれた年、初めての夏祭りで、自分の玩具として買って呉れたと。這い這いをする様に成ってからは、火を入れて居ないとか。――産まれた年に?

事務員の記憶

大学には進まなかった。受験をして居ない。高校を無事に卒業した後は、小さな証券会社の事務員に収まった。専門的な事は何も判らないが、唯云われる儘、書類を整理し、郵便物を取り纏め、お茶を出し、掃除をして、定時には上がる。

家に帰ると、少し寝て、夜中に起きて、店の状況次第では手伝いに入る。其れでも昔程の賑わいではないので、余り遣る事は多くなかった。洋子が客(あしら)いをして居る横で、洗い物をしたり、簡単な(つま)みを作ったりする程度だ。昔馴染みの客が偶に声を掛けて来たりもするので、話し相手等もする。然し大した話術は莫いので、余り盛り上がらない。未成年だからと云う訳でも莫いが、酒も呑まない。勧められても断って居る。だから多分、客からしたら詰まらない給仕(ボーイ)でしかない。

翌朝も仕事なので、適当な所で切り上げて、風呂を浴びて寝る。そして翌日も、詰まらない事務仕事の為に朝から出掛けて行く。其んな毎日だ。人生の中で恐らく、一番退屈な時期だった。其んな生活を一年程続けて春が来て、店に女給が遣って来た。

洋子が求人を出して居たとは思えない。思うに、何処かから拾って来たのだと思う。とは謂え親が無い様な訳でも莫く、ちゃんと高校も出て居る様だった。女給は初めの内は、怯える様な眼で自分を見て居たが、一ト月もすると慣れた様で、笑顔さえ見せる様になった。二タ月すると少しずつ会話をする様になり、三月ですっかり打ち解けた。

名前を文恵と云った。笑うと少し、清花に似て居た。瞳は全く違って居た。迚も穏やかな瞳で笑う、温かい気持ちのする女だった。康さん、康さんと慕って来るのが可愛くて、気に掛けて居たら、次第に情が移って行く。

「康さんは何時も、寂しそうな眼をしているから。女は放って置けないの」

或る時文恵に、其んな事を云われた。接客術の応用なのだろうと思ったから、余り真面には受け取らず、適当に茶化した。

「放って置かない女なんか、お前丈だ」

「其んなこと莫いよ」

然う云う文恵の口調は、何だか嬉しそうだった。茶化した心算が、喜ばせて仕舞ったらしい。何が嬉しいのかは善く解らないが。

其の日から、文恵との距離が近くなった気がする。文恵の方から、距離を縮めて来た様なのだ。

「あたし丈は、康さんの事絶対、放って置かないから」

其んな事莫いんじゃなかったのか。然う思いつゝも、邪険にも出来ない。心がどんどん惹かれて行くのを自覚する。自分の心の中には相変わらず清花が居るのだけど、文恵は其れを軽く乗り越えて来る。清花を基準に評価仕様にも、清花の基準に当て嵌まらない。洋子も当て嵌まらないが、如何も其れとは様子が違う。何しろ自分は、文恵にすっかり夢中になって仕舞ったのだ。

何時しか、文恵と所帯を持ちたい等と考える様になった。然し事務員の自分の稼ぎでは、到底無理な話だった。自分一人だって、自活出来て居ない。未だに洋子の脛を齧り続けて居る。未だ入社して二年目なので、大して昇給の気配も莫い。証券会社で営業として身を立てゝ行く為には、証券外務員と云う資格が必須である。自分も外務員の資格を取れば、もっと稼げる様になるだろうか。其んな事を思い乍ら先輩社員達の業務を観察して居ると、何となく自分にも出来そうな気がして来る。本屋で資格の教本を立ち読みして見たりして、何となくもう証券マンになった様な気になったりする。

或る晩洋子の店の客が、酔いに任せて話して居た会話に、何か違和感を持った。何処ぞの証券会社から突然連絡が有り、社債が如何斯う云って居たのだけど全く理解出来なかった、何しろ何処其処の会社の社債を買ったらより高く買い取って呉れるとかで、其んな事して相手は何の得に成るのか、抑々其んな証券会社から目を付けられる覚えも謂れも無いし、社債を買うとかの意味も全く分からない、云々。

証券会社が取引履歴の無い客に、態々(わざわざ)其んな連絡を入れるだろうか。

「矢っ張り奇怪(おか)しいかい!」

思った儘を口にすると、其の客が食い付いて来た。

「だぁから云ってんじゃねぇか! 詐欺だ詐欺!」

一緒に呑んで居る他の客が、横から絡んで来る。

「そうなんかねぇ」

「ったりめぇだ、おめぇナンかにわざわざ、証券会社様から連絡が来る時点で、可怪(おか)っしいだろうが! このボンクラが!」

「何だとてめぇ!」

雲行きが怪しいのでそっと其の場を離れて、奥へと引っ込んだ。其の後如何なったのかは判らないが、彼の客の云う通り、詐欺なのかも知れない。先輩社員達の雑談の中でも、何か其の様な話は聞いた事がある気がする。仕組みだの手口だの、詳しい事は能く判らないが、其んな被害に遭った者が駆け込んで来たり、何だか的外れな苦情を云って来たりする事もあるらしい。

其の日以降、然うした話題には耳聡くなった。会社で、スナックで、其んな話題が出る度に、耳を(そばだ)てゝ仕舞う。然うして色々聞いて居る内に、段々と解って来た。そして然うした詐欺を防ぐには如何すれば良いかを、毎日の様に考える様になって行った。

其れにしても、今迄は全く気にもして居なかったし意識もして居なかった所為か、然うした被害を目に耳にする事も無かったのだけど、斯うして気に()始めて仕舞うと、如何(どう)にも其んな事件が多過ぎる気がする。其の殆どは不発なのだろうし、又、恥と思って泣き寝入りする事もあるのだろうから、見聞きして居るよりもずっと多く発生して居るのではとも思う。何だか此の世界は、詐欺師だらけなのではないかと、不安になる。此んな事で、文恵を護れるのだろうか。

そして今迄以上に、資格に対する姿勢も強くなった。なけなしの給料から捻出して買って来た資格の教本を肌身離さず持ち歩き、職場でも自室でも、時間さえ有れば何時でも開いて居た。

「おっ、やってるね!」

職場の先輩達が其んな風に声を掛けては、肩を叩いて行く。其れに勇気を貰って(ますます)身が入る。此の資格を取って、正しく人々を導いて、一人でも多く詐欺から救いたいと、其んな事迄考える。資格を取ったからと云って何が出来る訳でも莫いのに。資格さえ取れば手立ては有る筈と、半ば本気で考えて居た。

同時に、然うした詐欺の事例、判例等を渉猟し、研究もした。()の様な手口で、何の様な段取りで、何の様にして罠に嵌めて、何の様にして金銭を巻き上げて、そして何の様にして撤退するのか。捕まったのか、逃げ切ったのか。罪状は、刑罰は、再犯率は。然うして詐欺に就いてどんどん詳しくなって行った。

学校の成績はパッとしない自分だったが、清花に「筋が好い」と褒められる程度には、素質は有ったのだと思う。資格の勉強は然程進まなかったが、詐欺に就いては誰にも負けない程の知識を身に付けて居た。其れも全て、人々を護る為、(もとい)、文恵を護りたい一心からだった。

其んな中、子供が出来た。

未だ資格の受験もして居なかった。収入は相変わらず雀の涙で、迚も所帯を持てる様な状態では莫かったのに、文恵が身籠った。

「あたしは、堕ろしても……康さんの負担には成りたくないし……」

文恵に其んな事を云わせて仕舞う自分が許せなかった。

「産めよ! 俺の児だ! なんとかするから!」

(あて)なんか何も無かった。でも折角授かった我が子を、諦めたくなかった。殺させたくなかった。もう死人なんか見たくない。自分の周りで命の灯が消える事なんか許さない。

もっと重要な理由も有る。清花に奪われ、澄香で失敗(しくじ)り、漸く文恵と対等に関係を築けた。やっと大切な女性との繋がりを持てた。初めて人間に成れた気がした。其れを、壊したくなかった。

結局洋子に、可成助けて貰った。産科の世話から、健診費用の援助、文恵が店に立てない日の分の生活費補填迄。

「もう文恵ちゃんは、家族みたいなもんだから。遠慮なんか云いっこなしだよ」

勝手に其んな事を云って、丸で娘の様に接して居る。自分の存在なんかは、在っても無くても同じの様だ。自分の交際相手だからと云うよりは、店の大切な女給だから目を掛けて居ると云う感じである。洋子は単純に、文恵が好きなのだと思う。文恵も洋子の事を「お母さん」などと呼んで居る。スナックなのだから「ママ」だろうに。

然うして(はた)と思い到る。自分も文恵同様、矢張り何処かから拾われて来たのではないか。幼い頃の自分が「お母さん」と呼んだ時には、洋子は烈しく抵抗して居た。母親なんかじゃないんだから其んな風に呼ぶなと、臓躁的(ヒステリック)に拒絶された。然し文恵に「お母さん」と呼ばれると、小躍りする勢いで喜んで居る。年齢(とし)の所為なのか。今なら母親と呼べるのだろうか。然し今更自分には、其んな呼び方は出来ない。

茶箪笥の上の回り灯籠に目が行く。張られた紙が黄ばんで居て、何となく穢れた感じがする。回る所を一度も見た事が無い。中に蝋燭を入れて火を灯せば、暖められた空気が上昇して、上部の羽を回して、其れに()って中の筒がくるくる回るのだろう。仕組みは判るのだけど、試してみた事は莫い。触れた事すら莫い気がする。凝と見詰めて居ると、何故だか不安になって来る。角の辺りが黒ずんで居る。不吉な想いが過る。

今の収入では()の道遣って行けない。ずっと洋子に寄生する訳にも行かない。如何すれば好いのだろうか。

不可(いけ)ない考えが脳裏を(かす)め、頭を振る。其れは駄目だ。文恵や、産まれて来る子供に対して、顔向け出来ない様な事は。

灯籠が回り出す錯覚を覚える。明かりの無い儘、真っ黒な灯籠が、嘲る様に。

真っ黒な四面を、真っ黒な馬が走る。心の隅に湧いた悪感情は、少しずつ自分を蝕んで行く。

何が切っ掛けだったのか。何が背中を押したのか。もう覚えて居ない。

他に途は無かったんだ。選択の余地なんか莫かったんだ。彼の日、自分は、見ず識らずの他人(ひと)に。

黒い馬が、笑った気がした。

詐欺師の記憶

自分の知識は、防犯とは正反対の方向に活用された。対象は金を持って居る者。但し自分と面識の無い者。自分の知人とも繋がりの無い者。スナックの客なんかは駄目だ。隣町迄行って、繁華街を彷徨き、身形(みなり)の良い者を探す。何日か後を尾けたりして、氏素性を探り、自分との関係性が辿れない者である事を確認する。

狙いが定まったら電話を掛ける。貴方(あなた)丈とか、今丈の好機(チャンス)だとか、聞こえの良い文句を並べて、其の気にさせる。そして相手が乗って来たら、架空の証券会社を紹介し、金を振り込ませる。入金が確認出来たら連絡を断つ。

模倣をする者が出ると不可ないので細かい事は省くが、結果的に一週間程で、数十万程度の現金を手に入れる事が出来た。事務員の給料からすれば大金である。然し此の手の事例としては少額の方でもある。自尊心の高い被害者は、恥の方が勝って仕舞うものか、泣き寝入りして仕舞った様で、事件にもならなければ、司直の手が伸びて来る事も無かった。

結局自分は、味を占めて仕舞ったのだ。

暫くは職場にも通って居たが、次第に馬鹿々々しくなって来て、三年目の冬、家の者には内緒で退職して仕舞った。そして何件か犯行を重ねた頃、コスモスの客同士の会話から、此の辺りの地場を取り仕切って居る組が在ると小耳に挟み、此の儘では不可ないと思った。警察の目は逃れられても、ヤクザの手からは逃れられない気がしたのだ。だから一度、挨拶に行かなければと考えて、手土産を携えて、久万組事務所を訪れた。

我乍ら浅慮だったと今では思うのだけど、然し当時は真剣だった。手土産の草加煎餅も、真面目に選んだ結果だった。現金を包むなんて発想は無かったし、包める程の資金力も無かった。此れ迄の儲けは全て、競艇への投資で雲散霧消して居たのだ。

久万組の親分は、友好的でこそ無かったものゝ、敵対的でもなかった。煎餅を一瞥して、自分を見て、物凄く面倒臭そうな顔をした。

「詐欺師か山師か知らねぇが、遣りたきゃ勝手に遣ってろ。うちは一切関わらねぇ」

幾分拍子抜けして、事務所を追い出される様に出て来た。何はともあれ、此れで懸念の一つは解消した訳だ。自分は其の日以降、より精力的に仕事を進めて行った。無関係と云われたのだが、何と莫く、久万組の後ろ盾を貰った様な心持であった。賭け事も控えて、出来る限り貯金する様にした。

冬には子供が産まれた。自分と同じ眼をした、男の子だった。文恵と洋子と三人で相談して、健介と名付けた。字画だの音韻だの、洋子が色々(やかま)しかったが、三人共が納得する名前を付ける事が出来たと思う。健やかに育って呉れれば好い。自分の想いは其れが凡てだった。

籍を入れて居ないので、文恵の姓となり、菊池健介となった。坂上より菊池の方が運勢が好いと、洋子に云われたが、大きな御世話だと思った。然し其れ以前に、自分は此の「坂上」と云う姓が嫌いだ。文恵と一緒に成るなら、自分が姓を変えたいとさえ思って居る。だから、菊池健介で一向構わないし、其の方が有り難い。坂上姓なんか継がせたくない。清花を傷付け、甚振(いたぶ )り、其の命迄奪った連中の姓など、穢らわしい丈だ。

自分は坂上になる前、何と云う姓だったのだろう。洋子の姓、磯貝だったのだろうか。拾われた子であったとしても、洋子の子として、養子にでもされて居たなら、屹度然うだったのだろう。全く記憶には無いのだけど。

洋子は健介を深く愛して呉れた。文恵のアパートでは狭くて、迚も子供を育てられる環境ではなかったので、健介は自家(うち)に置いて、最初の半月程は文恵も一緒に泊まって居たのだけど、何時迄も居る訳にはいかないと云ってアパートへ帰って仕舞い、其れからは文恵が通って来て世話をすると云う、云うなれば「通いの母」となった。然し其れは文恵にとって、迚も辛い生活だった様だ。子供と離れて居る間も乳は張る。張った乳は搾乳して、自家に持って来るので、文恵が居ない時に自分や洋子が、哺乳瓶で与えて居た。

生活も段々厳しくなって行く。自分の稼ぎは不安定だし、文恵も余り店に立てる状態ではないので、日に日に生活が切迫して来る。そして結局文恵は家賃が払えなくなって、自家に転がり込むしか莫くなって仕舞った。然し其れは、自分としても洋子にしてみても、歓迎なのであった。自分としては所帯を持った様な錯覚を覚え、幸福感で一杯になって居た。此の頃は、自分の人生で最も満たされて居た時期かも知れない。

そして直ぐに二人目が出来た。健介が産まれた年の翌々年の五月、子供の日に産まれたのは、文恵に善く似た可愛らしい女の子だった。彩と名付けた。幼児(おさなご)乳呑(ちの)()を抱えて、其れでも文恵は、隙有らば店に立った。生活費の為だ。自分も(いよいよ)仕事に励んだ。他人には云えない仕事だけど、もう此の頃には大分手馴れて居り、一回の成果も大分高額になって居た。然し再び始めた競艇の御蔭で、貯蓄は中々思う様には貯まらなかった。一発当てれば数倍から数百倍には出来る、其んな夢(ばか)り追い駆けて、地に足の付かない生活をふわふわと過ごして居た。だから生活は相変わらず楽には成らず、にも拘らず四年後の二月、次女が産まれた。香と名付けた。目元がキツくて、自分にそっくりだった。女の子なのに自分に似て仕舞った事に就いては、只管(ひたすら)申し訳莫かったが、其の分愛着も強く感じた。否、三人共自分は、深く愛して居た。娘達に、清花や澄香の様な人生は送らせたくない。だから自分が、(しっか)りしなければと思った。

スナックの家では(やゝ)狭くなって来たので、洋子に相談すると、長屋を使えと云われた。自分が幼い頃に住んで居た家だ。然し其れも、十分な広さではない。其れでも、文恵と子供達丈であれば何とか成るかと思い、四人を其処に移して、自分は別の物件を探した。真面な仕事をして居ないので、自分も此の家には何となく居辛いし、文恵達との別居は却って好都合だったし、此れを機に一人暮らしを始める心算だった。

然し結局其れも、洋子の世話になって仕舞った。隣町に在る四畳半の襤褸アパートを紹介され、家賃は要らぬと云われた。此れも洋子の持ち物らしかった。襤褸とは云え、此んなに都心に近い辺りに彼方此方(あちこち)物件を持って居るのは、一体如何した事か。昔の男から巻き上げた様な事を云って居たが、「此処はあんたの家でもあるんだ。気兼ねなんか要らないよ」と云う台詞の裏に、何かむず痒い物を感じたのは何故なのか。自分と如何な因縁のある家なのか、否、其の昔の男と云うのが、若しや――と、考え掛けて、止めた。今の自分には関係の無い事だ。其んな事にうじうじ思い悩んで居る余裕だって莫いのだ。確りしなければと、改めて思った。

そして、確りしなければと頑張った末に、大口の仕事を遣り遂げて、興奮して立ち飲み屋で何時もより深酒をして居たら、背後を刑事に固められて居た。全く油断して居た。此れ迄一度も摘発されなかった為、警戒心も薄れて居たのかも知れない。初めての大金の獲得に、舞い上がって居たのかも知れない。何しろ金額が大き過ぎて、被害者が躊躇なく通報したのだ。矢張り自分は、小口でせこせこと稼いで居る方が性に合って居たのだ。其んな反省をしても始まらないのだが。逮捕され、投獄されて、文恵や洋子には何と云い訳すれば好いのか。

然し其んな心配を余所に、半日程であっさりと釈放された。金に一切手を付けて居ない内に逮捕された為、全額取り返されて仕舞って、其れ故に被害届も取り下げられて、不起訴となった様だ。まあ佳かったのだけど、何だか悔しかった。金は手に入らず、警察には目を付けられて、此の先非常に動き辛くなって仕舞った。

()月は何も出来なかった。仕事を辞めて居る事も、此の頃二人にばれた。何故如何してと詰められたが、本統の事を云う訳にも行かず、往生した。まあ兎に角、今は待って呉れ、何時か必ず、等と根拠も何も無い繰り言を垂れ続けるより莫かった。洋子は何故か、妾が不可ないんだ、妾が康ちゃんを坂上なんかに売ったりしたから、等と頻りに自責の言葉を繰り返して居た。自分が売られたと云うのは其処で初めて知った。最初は悪い冗談かと思ったが、何度も繰り返し云うので、次第に受け入れる様になって行った。文恵は唯、何も云わずに堪えて居た。然うして自分は、此の二人を護らなければと云う想いを新たにしたのだ。

四畳半の襤褸アパートで鬱々として居る時、其の変な力を自覚した。片肘突いて床に転がり乍ら、机の上の麦茶の洋盃(コップ)に手を伸ばすも届かず、もう少し近くに在ればと思ったら、洋盃が掌に吸い付く様に飛び込んで来た。身を起こして一口飲み、暫く茫と洋盃を眺めてから、突然「わあ!」と叫んで洋盃を放った。洋盃が床に転がり、麦茶は畳に染みて行った。何が起きたのかを懸命に考えたが、考えても考えても、答えは出ない。洋盃に眼を遣り、取り敢えず拾おうと思って手を伸ばすと、と浮き上がって緩りと近付いて来る。と唾を呑み、其の儘机迄視線を動かす。洋盃も其れに付いて来る。そして無事に机へ戻すと、と大きく息を吐いた。

――なんだこれは。

自分が()た事なのか。何が如何(どう)なって如何(どう)した。机に置かれた洋盃を(じっ)と視る。唯の硝子の洋盃だ。視線で絡め取る様な空想をすると、何だか手の内に得た様な感覚を覚える。其の儘持ち上げる想像をすると、洋盃が宙に浮く。此れは()しかして()れか。超能力と云う奴か。バビル2世か。アキラか。洋盃をくるくると回転させ乍ら、多分自分は、邪悪に笑って居た。

其れからは毎日、練習に励んだ。他にする事も莫かったし、段々制御が上達して行くのが愉しくて、終日其れ許り為ていた。そして正月の御屠蘇気分で、文恵の長屋へ行き、其の能力を披露して見せた。

「好いか、俺は、此の能力で、天下を取るんだ!」

夕方に尋ねたのだけど、子供達は既に寝て居た。文恵は乳呑み児の香を抱き抱えた儘、起き抜けの寝惚けた様な顔でぼんやりと自分を見て居た。

「驚かないのか」

魂消(たまげ)たよ。何する心算なのか知らないけど、余り無茶はしないでお呉れよ」

何処迄理解して貰えて居たのかは判らないが、何だか気遣われて仕舞った。天下を取るなんて口走って仕舞ったけれど、具体的な事は何一つ考えて居ない。如何する心算も何も、全く無策なので、無茶も何もあった物では莫い。――然し其れにしても、長い事一緒に暮らして居た所為か、何処と莫く洋子の口調が移って居る。其んなちゃきちゃきした女でも莫いのだから、其んな姐さん口調でなくても好いのに、と思った。

「来年には健介も小学校だよ。あんたにも少し、腰を据えて確りして貰わないと」

耳が痛い。でも然うか、健介も、もう其んな齢か。文恵の云う通り、確りしなければならない。逮捕なんかされて居る場合では無いのだ。何とか此の能力を利用して、巧く立ち回らなければならない。――然うだ。久万組だ。彼処に正式に組み入れて貰って、後ろ盾を確固たる物にすれば佳いのではないか。屹度此の力を見せれば、彼奴(あいつ)等だって自分を欲しがる筈だ。――然う思ったら、凝と為ては居られなかった。

翌日久万組を訪れた。誰一人自分の事を覚えて居ない様で、矢鱈(やたら)と凄まれたり睨まれたりしたのだけど、少し能力を見せて遣ると慌てた様に組長を連れて来た。組長は自分を憶えて居た様だった。

「詐欺師か。何の用だ」

「へへ。此方の親分さんに、盃を貰いに参りまして」

周りの組員が一斉に気色ばんで、何だ此の野郎とか、身の程知らずめとか云って来たが、組長は目を細めて、と鼻息を一つ吐き出した丈だった。だから組長にも能力を見せて遣った。無表情を装って居たけれど、眼が大きく見開かれたので、其れなりに驚いて居たのだと思う。其れでも、組長は何も云わず、黙って腕組みした儘、自分をじっとりと睨み付けて居た。

横に居た若い組員が立ち上がり、胡散臭いもん見せやがって、手品かなんか知らんが、一昨日来やがれ! と啖呵を切って机に足を掛けたので、思わず身じろいだ。其れを機に他の組員達も間合いを詰めて来る。組長が止めろ落ち着けと声を掛けて居るのだけど、余り効果は莫い。自分は身の危険を感じて、思わず机の上に在った物を全て中空へと放り上げた。此れには組員も組長も仰天した様で、体勢が崩れたので、其の隙に自分も立ち上がり、入り口の扉まで下がる。然し組員達は却って頭に血が上って仕舞い、次々に怒声を上げ乍ら飛び掛かって来るので、自分も必死に能力を使って其れ等を弾き返す。

事務所の中は大混乱となった。

其の辺に在る物を手当たり次第に投げ付け、襲い掛かって来る組員を弾き飛ばし、奴等の持ち出す拳銃やら日本刀やらを遠くへ投げ捨て、何だか大袈裟な熊の置物が組長の額を掠めた所で、自分は()()の体で外へ転げ出て、一目散に逃げた。

正直云って、此処迄出来るとは思って居なかった。練習していた時より余程強い力が出て居た気がする。火事場の何とやらか。其れは兎も角、地場を仕切る久万組で彼んな騒ぎを起こしては、迚も此の土地には居られないと思った。自宅へ帰る事も、長屋やスナックへ行く事も憚られ、数年前の記憶を頼りに、澄香の家迄行った。何故其んな所へ行ったのか自分でも理解が出来ないが、他に行く的なんか無かったのだ。

然し澄香は其処には居なかった。表札の名前は記憶と違う物になって居た。彼れからもう十年以上経って居るのだ、此んな事も有るだろう、仕方が無いと諦めて、駅で適当に電車に乗った。東京駅で中央線に乗り換えて、甲府へ行った。的なんか何も無かった。考えも何一つ莫かった。唯、山の方へ逃げたいと思った丈だ。

否、本当の所、的は莫いことも無かった。高校時代、何でも莫い時に何気無く澄香が云って居た言葉を、思い出して居たのだ。

――富士山を、北から見た事ある?

彼奴は親の記憶も何も無いと云って居たが、北側から観た富士の姿丈は、明瞭に記憶して居たのだと云う。(いず)れ甲府に行きたいとも云って居た。だから、甲府に行けば澄香が居るかも知れないと、唯漠然と、其んな想い丈を頼りに甲府を目指して居た。

甲府に着いた時は天気も悪く、富士の姿は見えなかったが、取り敢えず安い宿を探した。手持ちは殆ど無かったので、其処で少し仕事をした。投資話なんかに食い付く様な者は滅多に居なかったけれど、其れでも小金程度は稼げたので、然うして食い繋ぎ乍ら、澄香を探した。甲府に居る確証も無く、手掛かりも無く、唯々無為に時間丈が過ぎて行った。何故自分は、澄香なんかを探して居たのだろう。彼んな怖い女、二度と逢いたくなかった筈なのに。

そして行動の意義を見失い掛けて居た頃、復をした。前回捕まってから、(ほゞ)一年が経って居た。前回と違うのは、能力が使える点だ。だから自分は、其の能力を使って留置場から逃げた。牢の鍵を開けて、警官達を薙ぎ倒し乍ら外へ出ると、人相の悪い男達が待ち構えて居た。久万組の連中だと思うが、其れも薙ぎ倒して、遁走した。

目的地も定めず電車に乗り、仕事用に持って居た使い捨ての携帯電話で文恵に掛けて、泣き付いた。逮捕されて居たなんて云えないし、逃げて来たとも云えなかったが、文恵は優しく宥めて呉れた。そして、立川へ行けと云う指示を貰った。

立川駅で指定の時間迄待って居たら、文恵が下りの電車から下りて来て、然うして連れて行かれた先は、文恵の実家だった。

人の良さそうな両親は、文恵同様に何も訊かず、唯受け容れて呉れた。部屋が宛がわれて、三食確りと出て来た。申し訳莫いからと金を入れようとしたのだけど、拒否された。甲府に競艇が無かったので、金は大分貯まって居たのだが、娘の大切な人だからと云って、何も受け取ろうとしなかった。若しかしたら、やんわりと関係を拒絶されて居たのかも知れない。

菊池の両親の真意は解らないが、兎に角自分は、其処で数年、何もせず、能力も使わず、詐欺の仕事もせず、外出もせず、部屋からさえ出ずに、唯、生きた。

部屋には綺麗な状態の回り灯籠が、手入れされた状態で丁寧に飾られて居た。

勇者の記憶

部屋に引き籠った生活をして居ると、色々と過去の事に考えを巡らせて仕舞う。其んな中、如何しても引っ掛かって居る事があった。久万組で揉めた時に投げた、熊の置物だ。

矢鱈に大きく、重かったのだけど、能力で持ち上げた時に何か違和感を感じた。中で何かが動く様な感触を得たのだ。何か固い物が。彼れは何だったのだろうと、ずっと気になって居る。大きさの割に、ずっしりと重かった様にも思う。もう一度、彼の熊を確認してみたい。中に入って居る物が、金や宝石だったら如何だろう。彼の大きさなら、相等な量が隠されて居る気がする。若し其れが手に入れば、自分は無敵に成れるのでは莫いだろうか。

立川に来てから、二年程が過ぎて居た。ずっと能力を使って居なかったので、稍鈍って居る気がした。だから少し、自主訓練を始めた。久万から熊を略奪する為に、もっともっと強く成らなければ不可ない。

自分は此の能力で、資金を得て、世界を正すのだ。坂上の旦那や奥様の様な悪を討ち滅ぼし、清花の様な悲しい女や、澄香の様な刹那的な女を、二度と生み出さない様、戦うのだ。能力を授かった自分の、其れが使命なのだと思う。自分は神に、選ばれたのだ。

此の頃には既にほとぼりが冷めて居たのか、久万の組員に付け狙われる様な事も無かった。だから比較的自由に外出して、長屋を訪ねたりもして居た。健介が外で友達と遊んで居る所に顔を出して、お菓子やら玩具やらを呉れて遣ったり、能力を見せて遣ったりした。友達の方は何だか胡散臭そうに見て居たが、健介は目をキラキラ輝かせて、すげえすげえと興奮して呉れるので、自分も一緒に興奮したりして居た。

「俺は此の能力で、世界と戦うんだぞ! 父ちゃんの生き様、善く見て置けよ!」

其んな事を云って頭をくしゃくしゃ撫でゝ遣ると、キャッキャと喜ぶので、其れが心地良くて、何度でも通って遣りたいと思った。

然し然うは云っても、幾らほとぼりが冷めたとは謂え、余り頻繁に出歩いたり、長屋に行ったりすることは憚られたし、此れから襲撃仕様と云う相手が近在を彷徨いて居たりする訳で、通うのは精々月一度か、其れ以下として居た。健介に丈逢って、長屋には寄らない事も有った。そして並行して、着実に準備は進めて居た。

目減りして居た生活費等を補う為に、小さな仕事を幾つか(こな)し、余った分は有事に備えて貯金した。並行して組事務所をこっそりと観察し、出入りの様子等から情勢を読み取ろうとした。組員が何人程常駐して居て、何時に開いて何時に閉めるか、曜日に依る違い等は有るのか、組長は外出するのか、事務所を空にする事は有るのか、等々。数ヶ月は其んな事許りして居た。

何度か組員と目が合ったりもしたけれど、自分の事を忘れて居るのか、特に咎められたりもせず、多少睨まれたりする程度で、退散しても追って来たりする様な事は無かった。自分の身形(みなり)も、体格も、彼の時から大分変って居た所為かも知れない。文恵の両親に佳い食事を毎日与えて貰って居るので、多少ふくよかに成った気もするし、特に服装なんかは、此れ(また)与えられた小ざっぱりした白襯衣(ワイシャツ)長袴(スラックス)で、髪も七三分けなんかにして居て、堅気にしか見えない。御蔭で仕事も以前より為易くなって居る気がする。矢張り服装が善いと、信用され易く成るのだろう。元々会社勤めして居た頃の格好も此んな感じではあったのだが、久万組で暴れた時にはスウェットにジャンパーを引っ掛けた様な、可成(ラフ)な出で立ちであった。髪もザンバラで、如何にもチンピラ然とした風貌であった。其の頃からしたら、確かに別人の様だろうと思う。

決行する直前は、興奮が抑えられなかった。成功する未来しか見えて居なかった。己を落ち着かせる為に、立ち飲み屋で一杯引っ掛けてから、久万の事務所へと向かった。

其の日は何だか知らないけれど、組員の殆どが出払って居る事は予め判って居た。祭りなのか、何かの会合なのか、善く解らないけれど、組長以下ぞろぞろと出掛けて行って、箸にも棒にも掛からない様な三一(さんぴん)許りが数人、申し訳程度に留守番をして居る様な感じなのである。其れも不本意に置いて行かれた様な塩梅で、如何にもやさぐれて居て、居眠りして居たり、ゲーム等に興じて居たりと、余り真面目に番をする気は莫い様である。

熊の置き場所は調べが付いて居る。前回は応接に堂々と置いてあったのだけど、彼の後組長の部屋の床の間に移されて居るのだ。部屋には大きな窓が在り、クレセント錠が掛けられて居る。此の程度の鍵は、能力を使えば簡単に開けられる。留守番共も真坂組長の部屋に迄は入って来ないので、仕事は非常に為易い。下見も幾度と莫くして居るので、部屋の構成や家具の配置等も確り頭に入って居る。

そうっと建物裏手へと回り込み、壁を背にして(しゃが)み込んで、一息吐く。組長の部屋の窓は此のずっと上だ。鉄筋コンクリートの三階建てビル、此のビル一棟丸々、久万の持ち物である。此処の三階の一番奥、即ち此の真上が、組長の部屋となって居る。高さ等問題では莫い。自分には能力がある。何とも簡単で単純な仕事だ。詐欺師より泥棒の方が、此の能力は活用し易いのだと思う。転職しても好いかも知れない。

気持ちが落ち着くのを待ち、呼吸を整えて、音を立てずにすうっと真上へと、自分を持ち上げる。下見の時に何度もして居るので、慣れた物である。周りに背の高いビルが多く、窓も少なく、在っても磨り硝子や型硝子で、見られる心配は殆ど無い。此んなビルの谷間を覗く様な酔狂な者も、そうそう居ないだろう。

窓の横迄上がり、クレセント錠を慎重に開けて、そっと型硝子の嵌まった窓を開ける。室内を窺うが、勿論誰も居ない。窓枠に腰を掛けて、室内を見渡し、熊の存在を確認する。此処からが佳境だ。重たい熊を、緩りと持ち上げて、手前へと引き寄せる。手の届く処迄来たら、そっと腕を差し伸べて、胸に抱く様に確り保持すると、窓枠から離れ、窓を閉じ、元通りに錠を掛ける。そして、そうっと下りて行く。

思いの外、熊は重かった。今迄念動力でしか持ち上げた事が無く、実際に此の手に持ったのは此の時が初めてだったので、重さも手触りも全くの初体験であった。其の所為か、下りて居る途中で熊が不安定になり、うっかり落として仕舞った。下が痩せた花壇だったので、破損こそしなかったものゝ、其れなりの音が立ち、熊は土塊(つちくれ)だらけとなった。

「何だ! 何の音だ!」

遣る気の莫かった筈の若い組員達が、行き成り裏手の窓を開けた。其処は遊戯部屋だった様で、留守番組員は殆ど其の部屋に集まって居た。熊を抱えた自分と、組員の目が合い、暫くお互いに固まった後、「お前! エスパー詐欺師!」と叫ばれて、慌てゝ逃げた。建物の脇を擦り抜けて表迄出て来るのと、連中が玄関から出て来るのは、略同時だった。其処からは念動力を添えて、全速力で走った。

相当速く走れた様で、誰も追い付いて来る者は無かった。其の勢いの儘街を幾つも走り抜け、荒川を越えて、真っ直ぐコスモスへ駆け込み、洋子が寝て居るのを確認すると二階の押入れに熊を押し込み、店に寄ってジンをショットで三盃、喉に流し込んで、復直ぐ飛び出して、今度は長屋へと行った。

「何だい、真昼間から」

文恵は寝て居たが、自分が入って行くと目を覚まして、むくりと起き上がり、此方を見もせずに不機嫌な声で云われた。昼は疾うに過ぎて居たが、スナックの開店迄は未だ時間がある、其んな中途半端な時間だった。

「済まねぇな、起こしちまって。――なんだ、奏介も起きてたか」

春に生まれた赤ん坊で、未だ這い這いもしないが、何だか上機嫌で、手足をバタバタさせて居る。顔の前に指先を持って行くと、掴もうとして来る。掴んだ所で持ち上げると、其の儘上半身が付いて浮き上がって来る。小さい(なり)で大した握力だと思うが、赤ん坊なんて其んな物なのだそうだ。

「仕事は見付かったのかい」

文恵に其んな事を云われて、稍気が削がれたが、今日の自分は無敵である。

「今更堅気の仕事にゃあ付けねぇのよ。数年前にサツとヤクザ殴って逃げたから、そろそろほとぼり冷めてる頃とは謂え、余り目立った事は出来ねぇしな」

「はぁ? 何だって!?

文恵はすっかり目を覚まして、腰を浮かせて飛び掛からん許りに自分を睨み付けて来た。然し自分は気にも留めず、「心配要らねぇよ、上手い事遣ってるから」と云って、傍に座って居る次女の香を見ると、チラシか何かの裏に落書きをして遊んで居る。何の絵か能く解らないが、「上手い、上手い」と適当に褒めて遣ると、嬉しそうに含羞んだ。目元が自分にそっくりだが、笑うと可愛いじゃないかと思う。

自分に遊ばれた後放置されて居た奏介は、暫く、うー、とか、あー、とか云って機嫌良さそうにして居たが、(やが)てべそべそとし始めて、遂には大きな声で泣き始めた。

「おむつかな。奏ちゃん、チェックするね」

其れ迄座卓で宿題をして居た長女の彩が、然う云い乍ら奏介の足を持ち上げて、お尻の臭いを嗅いで居る。彩は何歳になったか。此の前誕生日を過ぎた筈で、然うすると八歳の勘定になるか。弟の面倒を善く見る、佳い子に育ったものだと思う。

「彩は偉いな。奏介のおむつも替えられるのか」

「彩の仕事だから!」

然う云って胸を張る娘の頭を、わしわしと撫でゝ遣ると、此方も非常に嬉しそうに笑う。此んな自分の子供達なのに、本当に良い子に育って居ると思う。奏介も、香も、彩も。そして外で遊んで居る健介も。皆自慢の子供達だ。決して辛い暮らしはさせたくない。此んな長屋に、何時迄も押し込んで置く心算は莫い。自分は熊を得たのだ。彼の中には確実に、何かしら一財産入って居る。捕まって堪る物か。――然うか、(いず)れ此処も危なくなる。コスモスも久万組には割れて居るだろう。彼処に隠して置くのも危ないか。かと云って以前使って居た襤褸アパートはもっと駄目だ。狭過ぎて隠す場所も莫い。

自分は思案し乍ら長屋を後にした。途中、友人と遊んで居る健介に声を掛けて、頭をがしがし撫でゝ遣ってから、コスモスへ戻ると、洋子が起きて店の準備を始めて居た。

二階に上がり、押入れから熊を出すと手近に在った風呂敷で(くる)み、裏手に面した窓を開けて、誰も見て居ない事を慎重に確認した後、熊の入った風呂敷を抱えた儘屋根に飛び上がった。住居と店舗の間の屋根には、僅かに隙間が在る。排水の為の溝かも知れないが、少しの間、其処に隠して置く事にした。素早く室内に戻り、開店前の店舗へと顔を出すと、「アーリーおくれ」と洋子に云って、バーボンを出して貰った。

然し落ち着こうとすると、却って気になって来る。彼んな処絶対に見付かるまいとは思うのだけど、隠す処を本統に誰にも見られなかったかと不安になる。何だか久万の連中が見てそうで、扉や窓が無性に気に成る。(いず)れ追手が此処にも来るだろう。然う思うと一気に不安に成る。洋子を危険な目には遭わせたくない。

洋盃を空けると、「復来る」と丈云って、直ぐに店を出た。向かいの電柱の陰に、誰かが隠れようとして居た。其んな細い所に隠れられる物では莫く、丸見えなのだが、当人は隠れて居る心算らしい。自分は敢えて其奴(そいつ)を無視して、電柱の前を横切る様にして、立ち去った。直ぐに其奴が尾けて来るのが判ったので、其処からは出鱈目に歩いて遣った。少し距離を取った処で、能力で飛び上がり、他人(ひと)の家の生け垣の向こうに潜むと、自分を見失った尾行者が慌てた様に走り去って行った。

暫く其処に蹲み込んで息を(ひそ)め、佳い丈経ってから他人目(ひとめ)の無いのを確認して、再び能力で飛び上がって路へ戻ると、一旦立川へと帰った。

翌日もこっそりとコスモスへ行った。何だかコスモスの前も、長屋の周りも、久万の組員が彷徨いて居るので近付き難かったのだけど、裏路地から誰も知らない経路を通って、こっそりとコスモスの裏手から入り、直ぐに屋根に上って、熊を持ち出した。其の儘一気に上空迄飛び上がると、雲の上迄出る。此んな処迄飛べるのかと我乍ら驚きつゝ、堪らず震えた。

上空は肌寒い。空気も薄い。軽く高山病の様な感じにでもなったのか、眩暈と頭痛を憶え、少し高度を下げた。

下り乍ら下界を見下ろし、野田と春日部の間位の江戸川河川敷に向かって降下して、名も識らない草の生い茂って居る辺りへ身を潜めると、少し凝として体調が戻るのを待ってから、風呂敷を解く。熊を手に取り、振ってみると、(かす)かにごつごつとした感触がある。金属の其れでは莫いので、金貨、小判の類では莫いのだろう。其れは石と石がぶつかる様な感触だった。期待は否応無しに高まる。問題は、如何遣って取り出すかだ。

熊を引っ繰り返したり陽に(かざ)して見たりして居たら、肚の辺りに何だかうっすらと細い筋が見えた気がした。手許に引き戻して、其の辺りを眼を皿の様にして凝視して見るが、幻でも見たものか、先程の筋は一切見当たらない。再度陽に透かして見るも、能く判らない。記憶を頼りに、筋の見えたと思しき当たりを(まさぐ)って居る内に、熊の腹の板が一枚、すっと五(ミリ)程、横滑りした。

身震いした。――見付けて仕舞った!

彼方此方(あちこち)腹を(こす)る様にして、他の動く板を探して行った。何度か可動部分を見付けて(すべ)らせて行く内に、最終的に腹の板が一枚大きく外れて、中から大粒の金剛石(ダイヤモンド)がゴロゴロと転がり出て来た。

興奮を通り越して、寒気がして来た。

がたがたと震えが止まらなかった。此んな物を持って居ては、命が幾ら有っても足りない気がして来た。此の金剛石達に、生気を吸い取られる思いだった。

多分真っ蒼になった顔で、土の上に転がった金剛石を一つ一つ、袖口で土を拭い乍ら熊の腹に戻し、丁寧に板を嵌めて、逆の手順で板を滑らせて行き、元の状態に戻した。戻して仕舞うと継ぎ目なんか判らない。何処にも板が辷る気配なんか見当たらない。非常に精巧な寄せ木細工だと思った。振ると、カラカラと幽かな音がする。(せん)より音が大きく聞こえるのは、一粒丈戻さずに、洋袴(ズボン)隠袋(ポケット)に入れて仕舞ったから――

熊を風呂敷で包み直し、繁みの中に置いて、ぱっと見では其れと気付かれない様、少し土を掛けた。そして鉄道を乗り継ぎ、立川へと戻った。

其れからは家に引き籠って暮らした。熊が心配ではあったが、同時に熊が恐ろしかった。隠袋に滑り込ませた一粒の金剛石も、如何にも恐ろしくて、彼れ以来一度も洋袴から出さずに、其の洋袴も部屋の衣紋掛(ハンガー)に吊るした儘にしてある。

其れでも三日も経つと流石に凝として居られなくなって、再び河川敷に行って熊を回収し、今度は空を飛んでコスモスへと戻った。空から降りる処を他人に見られない様にと、大分手前で地上に下りて徒歩で向かった為、当然の様に久万の組員に見付かって追い掛けられ、()這うの体で開店準備中のコスモスへ飛び込むと、続いて飛び込んで来た久万の組員と其の場で乱闘になって仕舞った。慌てゝ風呂敷包みを勘定台(カウンター)の奥に捻じ込んで、夢中で連中の相手をした。洋盃や酒の瓶が割れる音がした。

「止めて! 外で遣りな!」

洋子が叫んで居る。続く「痛!」と云う声と共に、自分は僅かに正気に戻った。互角に争って居る場合では莫いと悟り、奴等を能力で押さえ付けると、其の儘外へと連れ出した。自由を奪った儘、荒川迄連れて行って、川の中へと放り込む。

「坂上! お前何遣ってるんだ!」

背後から行き成り怒鳴り付けられて、吃驚して振り返った。何処かで見た事のある男だと思ったけど、誰だか解らなかった。然し直ぐに「警察だ!」と云って手帳を見せて来たので、慌てゝ逃げた。

何故か何時でも、此処に帰って来て仕舞う。迷惑は掛けまいと思って居たのに、如何して(すが)って仕舞うのか。吃驚した顔の洋子に「警察に追われてるんだ、匿って呉れ!」と云うと、勘定台から熊の風呂敷を拾い上げてから、奥へ行った。

居間の茶箪笥の上、回り灯籠等の瓦落多が(ひし)めいて居る所へ、風呂敷の中から取り出した熊を並べようと、無理矢理押し込んで居たら、店舗の裏の方から何か大きな音が聞こえて来た。何事かと取って返し、勘定台手前でへたり込んで居る洋子を(また)ぎ越して、勝手口を開けようとしたが、何故か開かない。横の窓から裏路地を伺うと、何時の間にか麦酒瓶の正箱(カートン)やら塵馬穴(ごみば けつ)やら、路地に転がって居た廃材やらがぎっしりと積み上げられて、阻塞(バリケード)が作られて居る。勝手口の扉の取っ手を握った儘、能力で阻塞を崩すと、素早く扉を開けて路地へと逃げ込んだ。背後から「待て!」と聞こえて来るが、待って堪るか。運足に能力を上乗せして、猛烈な勢いで走って居ると、今度は別の声で「坂上てめぇ!」と聞こえて来た。久万組か。銃声も聞こえた気がしたが、此んな街中で撃つだろうか。兎に角走り続けて、何処だか判らない処迄来た。

何かの建物が解体されて居る。此の日は日曜だったか、祝日だったか、兎に角工事はして居ない様で、誰も居ないのを幸いに、崩れ掛けた骨組み許りの建物の、三階部分に陣取った。

先に来たのは久万組だった。銃声がしたので吃驚したのだけど、自分には当たらなかった様で、背後の鉄骨がガンと大きな音を立てゝ居た。銃声のした方を見ると、撃った奴と眼が合った。同じ階の数十(メートル)程離れた処、比較的大き目に残って居る床の上で、腹這いになって、狙撃銃(ライフル)を構えて居る。此れでもかと云う位眼を見開いて、微かに震えてさえ居る。

殺し屋なんじゃないのか、撃つのは初めてなのかと訝しんで居ると、別の方で微かな物音がした。直ぐに先刻の刑事の姿を見付けたので、其方に向かって人一人分程はある大きめの石塊を投げ付けたら、当たる直前でと止まった。動かそうとして居るのに動かない。無理矢理動かそうとしても、唯其の場でくるくると回って仕舞う。――信じられない事ではあるが、真坂此の刑事も――然う思った瞬間、刑事が「坂上!」と叫び、同時に先程の方向からもう一発銃声が聞こえた。

矢張り弾は外れた。若しかしたら自分が軌道を逸らせたのかも知れない。振り返ると久万の狙撃者が、化け物でも見る様な眼で自分を見て居た。

「何で――当たらない!」

其んな事を呟く男に向かって、刑事に投げ付けようとして居た石塊を改めて投げ直した。今度は素直に飛んで行き、男の「ぎゃあ!」と云う叫びと共に石は砕け、其の砕けた石の下で、男は血を流して伸びて居た。死んだのだろうか。自分は遂に此の力で、他人(ひと)を――然うだ、自分は世界を相手に戦って居るのだ、聖戦に犠牲は付き物だ。

刑事が自分を避ける様に大きく回って男に駆け寄り、息を確認して居る。軈て刑事は其の男を、如何やら念動力で地上へ下ろした。矢張り此奴も、同じ力を持って居る。神は自分丈に与えたのでは莫かったのか。此の事には如何な意味が有るのか。

刑事が階下の仲間と何か会話を交わして居る。軈て刑事が自分の前に戻って来て、対峙した。何か会話を交わした気もするが能く憶えて居ない。

此の男を倒さなければ世界は救えない、其んな気がしたから、細かい石を幾つも持ち上げて、鎧の様に自分を覆わせた。そして、一時(いちどき)に刑事に向かって投げ付ける。刑事は片手で払う様にして、其れ等を弾き飛ばした。其んな英雄(ヒーロー)みたいな所作をするのが気に食わなくて、続けて石礫(いしつぶて)を浴びせ掛ける。巫山戯(ふざけ)るな、英雄は自分だ、世界を救うのは自分だ、脇役は下がって居ろ! 其んな事を思い乍ら、若しかしたら口にし乍ら、刑事と戦った。

「これ以上罪を重ねるな! お前の能力(ちから)はそんな事の為にあるんじゃない!」

説得して居る心算か。余計なお世話だ。

「黙れ! 俺の能力だ!」

「洋子さんの事も考えろ!」

其んな刑事の言葉に、動揺したのだと思う。

何か叫び乍ら闇雲に石を投げ付けて居たが、其れ等は凡て跳ね返されて、自分目掛けて飛んで来た。片手で、自分だって片手で払える、多分銃弾だって避けたんだ、然うして、飛来する無数の石礫を払い除けた心算だったのだけど、其の幾つかが、自分を貫いた。

回り灯籠が回って居る。此んな風に回るのかと、妙に感心した。回る所は初めて見た。否、前にも見た様な気がするが、其れは夢の中だったかも知れず、然し其れを云うなら、今だって。

此れは、夢の中なのでは莫いかと思う。其れ程迄に幻想的で、美しい。色取り取りの馬や何や()やの陰が、四角い和紙の面をくるくると駆け回る。

懐かしく、温かく、泣きたくなる様な、優しい記憶。

然うか此れは、自分の知らない、赤ン坊の頃の記憶なのか。

洋子が。母が。買って呉れた。何時も自分の為に回して呉れた。

然うだ。知って居た。自分は。(これ)の別名を。

詰まり、然う云う事なんだろう。

自分は、自分の投げた石礫を、自分の身体に受けて、そして、此のほんの一瞬の間に、視たのだ。

走馬灯を。自分の人生を。

然うか。負けたんだ。

世界に。

自分は。

だから。

もう。

清花の所へ、自分は行くのだ。やっと。

やっと終わるんだ。

心残りは――

文恵、洋子、健介、彩、香、奏介。

澄香――否。

其れは沢山有るけれど、兎に角沢山在るけれど、中でも一番大切な。自分にそっくりで、其れで居て心の真っ直ぐな――

「坂上!」

刑事が駆け寄って来る。なんて顔してやがる。お前が英雄になったんだろう。

救護が如何とか云って居る。無理だ。見たら解るだろう。諦めろ。

もう、此奴で好い。託さなければ。自分の代わりに。

俺の、大切な。

「健介を、頼む――」

(終わり)

二〇二五年(令和七年)、九月、二十五日、木曜日、大安。