春から秋へ、秋から春へ

里蔵光

晩春

名前に季節が含まれている場合、大抵は生まれた季節を表しているのだと思うけど、自分の場合は如何(どう)やらそうではない。年の瀬の慌ただしい頃に生まれたと聞いている。なのに名前には「秋」が()っている。(そもそも)双子の弟には「春」が入っている。この時点で、生まれた季節なんか関係ないと()うことが知れる。双子なんだから当然同じ日、同じ季節に生まれているのだ。何故(なぜ)秋なのか、何故春なのか、その理由は(わか)らない。そんな疑問を持つ頃には既に両親は居なくなっていた。だから()き様も無い、確かめ様も()いのだ。

冷たい風が頬を(かす)め、私は(えり)を立てた。そして小屋の中に居る弟を想う。もう桜の時期も終わり、そろそろ夏が近付いて来る頃なのだが、小川の上や木々の間を通って流れて来る山の夜風は、凛とした冷たさを(はら)んでいる。恐らく小屋の中は暖かいのだろう。弟の感じている温もりが伝わって来るのは、双子にありがちなシンクロニシティと云う奴か、それとも、自分達の能力の所為(せい)なのか。

私には、(もとい)私達には、物心付いた頃から可怪(おか)しな能力がある。それを能力だと自覚したのは、世界を少しずつ認識し始めた頃だった。それ迄は、物心付く前から普通に有ったものなので、それは当たり前の一部だった。手を使わなくても当然物が動かせるし、他人(ひと)に幻を見せたり、逆に眼の前の物を認識出来なくさせたりと云ったことが、普通に出来る。少しだけ、怪我や病気を治すことも出来る。当然皆同じ様に出来るモノと思っていたのだけど、如何やらそれは違っていた。だから(いじ)められたし、忌避された。この能力が原因だと気付く迄は、そうした待遇も当たり前のことだと思っていた。親も含め世の中の(すべ)ての人が、そうした腫物や化け物を扱う様にして来たから、世界はそんなものなのだと思っていた。弟だけが、同じ目線で接してくれた。――弟だって一緒に迫害されていたのだけど。

真理に気付いたのは、小学三年生の頃だった。

化け物でも腫物でも、戸籍が有る以上は人として当然の教育を受けさせられる。私も弟も、一応人並みに小学校に通っていた。その時も別段、その能力が特別なものであると云う認識は無かったのだけれど、だからと云って日常からホイホイ使っている様な訳でもなかった。歌えるからと云って、日常からずっと歌っている人がそうそう居ないのと同じだ。使う動機、目的、機会が莫ければ、それ程強くもなければ手軽でもないこの能力を、軽々に使う様なことは無かった。だから私達の能力のことは、学校の誰も知らない(まゝ)でいた。弟も私も人見知りで、クラスではずっと猫を被って大人しくしていたので、私達に深く関わって来る様な者もいなかったし、暫くは本当に静かに平和に過ごすことが出来ていた。家族達に辛く当たられている分、学校の平和は本当に骨身に染みた。自分達に関わって来ない者達に囲まれているのが、圧倒的に快適だった。私達は幼稚園に行っていなかったので、この小学校の環境は初めて体験する理想郷の様な物だったのだ。

平和と云う奴は、何時でも突然終わりを告げる。

何の覚悟も準備も、する隙を与えてはくれない。眼の前の景色なんか些細なことで簡単に一変する。先刻迄晴れていたのに気が付いたら土砂降りの中に立っている。夕陽は釣瓶(つるべ )落とし。足許(あしもと)の地面は簡単に崩れ落ちる。その春、両親は死に絶え、家は焼け、私達は明日を失った。

警察に保護された私達は、如何した訳か親類縁者も辿れず、隣町の施設へと預けられた。親戚と一切連絡が付かなかった、若しくは引き取りを拒否されたのは、恐らく私達の能力の所為だろう。親が死んだ理由は判らなかった。家が焼けたのも理解できなかった。唯弟と二人で体を寄せ合いながら、震えているよりなかった。私は何も見なかったのだけど、弟は何かを見た様で、その日以来ずっと怯えていた。

居心地の良かった学校には距離的に通えなくなり、春休みが明けて進級すると共に転校を余儀なくされた。転校先の学校で私達双子は、好奇の目を以て迎えられた。今迄目立たなく静かに生きて来たのに、一斉にスポットを浴びせられ、私達は彼等の目の前から姿を消した。私が級友達の認識を操作したのだ。然しそれは上手く行かなかった。いきなり私達が視野から消えたことに狼狽(うろた)えた級友達は、辺りを見回し、腕を振り回し、ざわざわと騒がしく周囲を移動し始めた。彼らの体が私達に当たりそうだったので、腕を跳ね返し、体を押し返したりして、(いよいよ)騒ぎは大きくなっていった。私の集中力が途切れると再び私達の姿は認識され、そして彼らの目付きは好奇から恐怖に変わって行った。何か変だ、妙な魔法とか使ってるんじゃないか、此奴(こいつ)ら妖怪じゃないのか、化け物だ、宇宙人だ、学校を侵略しに来たんだ、生徒を取って食うんだ、魔物だ、悪魔だ――そうして私達の平和は、雲散霧消した。

その時(ようや)く私は、この能力が当たり前のものではないのではと思い到った。鳥渡(ちょっと)認識を弄っただけで、鳥渡相手を念動力で押し()っただけで、こんなにも明白(あからさま)な恐怖と忌避の目を向けて来るのかと。今迄親や親類、近所の人達が私達を冷遇して来たのも、これが原因だったのかも知れないと気付いた。大人は理由を隠して身勝手な結論だけをぶつけて来るが、子供は何もかも包み隠さず丸ごと体当たりして来る。残酷なまでに解りやすい。

明らかに最悪の状況だったのだが、バラバラだったパズルのピースが嵌る様に色々なことが急に明確になったことで、私は微かな興奮と恍惚を感じていた。遠巻きに私達を取り囲んで騒ぎ立てる級友達の只中で、私は弟と視線を合わせ、お互いにくすりと笑った。弟も同じ様なことを考えていたのだろうと思う。

私達に就いての噂は、施設の中にも広まった。同じ学校に通っている児童が居るのだから、広まらない方が可怪しいだろう。周囲からの風当たりなんかには、私達は慣れたものだったが、職員の大人達は(やゝ)当惑している様だった。有体(ありてい)に云えば子供達の噂話なんか頭から信じていない様に見えた。その上で、私達姉弟が不当な迫害を受けていることに心を痛めていた様だ。今迄経験したことの無い反応だったので、私達の側も若干困惑しつゝ、同時に興味深くも感じていた。彼等は嘘を吐いていない子供達を疑い、肝心なことを打ち明けずにいる私達を庇っているのだ。その矛盾、不条理さが、面白くて堪らなかったので、私達は自分の能力のことを隠して生活していく気になっていた。――(いや)、ここは「私は」だったのかも知れない。

弟の春樹が如何考えていたのか、正確なところは判らない。私達は確かに双子で、感じ方や考え方が(とて)も似通っていて、幾度となく共時性(シンクロニシティ)なんかも体験してきた。自分の考えは相手の考えでもあると信じて疑わない様な所はあったと思う。だから私は心底驚いていたのだ。春樹が念動力で、上級生を不自然なまでに強く吹っ飛ばしたことに対して。

現場である食堂には、直ぐに人が集まって来た。体格の良い中学生の相手は、壁に体を強く打ち付けてぐったりしている。吹っ飛ばすところを何人かの子供は見ていたし、二、三人の大人も見ていたと思う。私はその瞬間こそ見逃したのだが、然しこの結果を見れば何があったかなんて直ぐに理解出来た。私にとっての問題は、何故春樹がこんなに堂々と能力を使って仕舞ったのかと云うことだった。()しかして、この能力の特殊性に気付いていたのは私だけだったのだろうか、春樹は転校する前迄と同様に、この能力が一般的なもので、誰もが持っていると勘違いした儘なのだろうか。私は春樹の顔を覗き込んでみたが、その心の内は計り知れなかった。この時初めて、弟を少し怖いと感じた。

子供達は、今迄散々噂をしていた癖に、いざ目の当たりにすると何も云えず、唯硬直しているばかりだった。対して大人達は、実際に目の当たりにしたにも拘らず、そんな能力はあり得ない、何かタネがあるのではないか、道具などを使ったのではないかと、何とか自分の常識の内側に押し込めようと必死になっている。飛ばされた子供はぐったりした儘動かず、後から来た大人がその様子を確認してから、慌てゝ救急車を呼んでいた。

観ていた者の瞳の底には、信じているか否かに(かゝ)わらず、例外莫く恐怖の色が沈んでいた。後から来た者達は、困惑の色を浮かべていた。その対比も興味深かったのだが、この時は兎に角、弟を何とかしなければと思い、春樹の手を掴んで自分達の部屋へと引っ張って行った。

自分達の部屋とは云うものの、六人が共同で使っている相部屋である。十歳になる迄は男女も一緒くただ。決して二人切りになどなれないのだが、この時は全員が食堂に集まっていた為、部屋では私達二人切りになれた。

「春。どうしたの」

「ごめん、姉ちゃん……」

「何されたのか知らないけど、どうして――この力はさ、私達だけの――」

「わかってる」

「折角大人達は信じていなかったのに」

「解ってるよ!」

春樹が大きな声を出したので、私は黙った。春樹もその後何も云わないので、二人でずっと黙って見詰め合っていた。

(いず)れ相部屋の子供が一人帰って来たのだが、私達が居るのを見ると部屋に這入(はい)らず、その儘廊下を通り過ぎて行った。少しして二人目が来て、矢張り部屋には這入らず、(きびす)を返して戻って行った。その後は誰も来なくなった。そうして何分も二人黙った儘向き合っていたが、(やが)て弟はそっと目を伏せて、自分のベッドに潜り込んで仕舞った。

吹っ飛ばされた子は、軽い脳震盪(のうしんとう)ぐらいで済んだ様だった。その程度で済む様に、私が少し治しておいたと云うのもある。それでも完全に治すことは難しいので、本当に少しだけ。

その子は、私達を虐める中心に居た子で、だから春樹との間に何があったのかも大体想像は付く。能力に就いての噂話に直ぐ食い付いて、ずっと揶揄(からか)って来ていたのだ。私達も転校初日の一件以来、一切人前で能力を使わない様にして来たので、何かの確信があった訳ではないと思うのだが、まあ、(てい)の好い玩具(おもちゃ)ぐらいにしか考えていなかったのだろう。揶揄って来る内容も適当で、的外れなものばかりだった。私達は読心も透視も出来ないし、指から光線なんか出ない。洗脳も暗示も掛けられないし、時間を戻すことも出来ない。動物に変身とかも出来ない。出来るのは念動と認識操作と治癒だけ。(いず)れも弱いもので、スーパーマンの様に空を飛ぶことは出来ない。そして春樹に認識操作や治癒は出来ない。――否もう一つ、どんな意味があるのか解らないけど、二人で出来ることがある。

遠い過去の記憶に思いを馳せていた私の心の内側を、春樹がノックして来た。合図だ。私は春樹と意識の波長を併せ、肉体を入れ替えた。これをすると着衣が入れ替わるのが若干(いや)なのだけど、今では何とか肌着だけは維持出来る様になっているので未だましだ。子供の頃は肌着迄替わっていたので――

「これが秋菜だ。春樹の双子の姉だ」

横から久万会長の声がした。如何やら今回連れて来た客に、私達の能力を紹介しているらしい。私は弟の着ていた衣服の儘、小屋の中で会長の横に控えている。今弟は、私の着衣で小屋の外に立っているだろう。こう云うことがあるので、私は普段から多少寛大(ゆったり)した服を着ている。背格好は同じ位でも体格に差がある為、余りぴったりの服を着ていると弟に破られて仕舞い兼ねない。また、その儘行動しても可笑しくない様、ユニセックスなものを着る様にしている。私の自宅クローゼットには、女性らしい衣服なんか(ほとん)ど無い。弟との入れ替わりがある限り、私の女性としての活動には自ずと制限が掛けられて仕舞う。女らしさなんてものは、()うの昔に諦めて、切り捨てゝ来たものだ。

「え? は?」

客は明白(あからさま)狼狽(うろた)えている。余りちゃんと説明せずに、いきなり見せているのかも知れない。稀代(き たい)の冷血な殺し屋と聞いていたけど、非常に人間味を感じる反応である。噂なんか当てにならないなとも思う一方で、この人に本当に人が殺せるのだろうかと、そこはかとない違和感も感じて仕舞う。

「判らなかったかな? じゃあもう一回、春樹」

もう一度入れ替われと云うことだろう。私は弟に合図を送りつゝ、再び意識の波長を併せて、入れ替わった途端、(また)直ぐに合図が来たのでもう一度入れ替わる。人使いの荒い会長さんだ。

「待って待って、待って下さい、何やってんですか!」

落ち着きなく腰を浮かせ掛けている客人の顔は、滑稽なまでに狼狽し、恐怖の陰さえ射している様に見えた。

「何ですかそれは!」

そう云いながら、腕を掴んで来たので、思わず「きゃあ!」と声を上げて仕舞った。透かさず春樹に合図を送り、入れ替わって貰った。それを最後に入れ替わりのラッシュは止んだ。掴まれるなんて聞いていなかったので、思わず弱々(なよなよ)しい悲鳴など上げて仕舞った。恥ずかしくて堪らない。小屋の外の暗がりで、私は人知れず赤面していた。

この入れ替わりの能力は、久万会長には気に入られて度々利用されているのだけど、私達にとって如何(どん)な意味があるのか未だに解らない。体よく使われる為の能力なのだとしたら、あんまりな話である。――会長に使われるのが嫌と云う訳ではない。会長には感謝しているのだ。

会長は既に八十も半ばを超えているが、そんな年齢を感じさせないぐらい矍鑠(かくしゃく)としている。勿論私の御蔭だ。大恩ある会長に、健康と云う贈り物を捧げ続けている。老衰等で痛んで来ている体の各部位を回復し、かつ生気を送り込むことで若干の若返りも果たしている。大きな病気等はなかなか難しいけれど、幸い今のところ、会長は極めて健康なので、それを維持するのは然程(さ ほど)難しいことではない。この儘長生きをして欲しいと思っている。会長には感謝しているのだ。

どのくらい待たされたか判らないが、軈てドアが開き、会長が一人で出て来た。春樹は小屋の中に残して来た様だ。私は会長の体を一(センチ)程浮かせた。

「じゃあ、下りるぞ」

会長の言葉を合図に、私達は下山を始める。下山は完全に、私の念動力で行う。僅かに浮かせた体を、獣道に沿って(すべ)る様に移動させる。普通に下りるより速いし、体力も使わないし、安全だし、音も立てず足跡も残さない。山奥の隠遁地との往復には、最適な移動方法である。

「外で待たせて仕舞って悪かったな。異常はなかったか?」

会長が気遣(き づか)わし気に訊いて来る。私が外に立っていたのには、見張りの意味があったのだ。あんな山奥の(みち)も無い様な(ところ)に、誰が来るとも思えないが、先にうちの組員と客人とが徒歩で這入っているので、警戒したのだろう。

「狸一(ぴき)さえ、通りませんでした」

「そうか。それなら好いんだ」

麓の町に着くと、私を立派な旅館に置いて、一泊だけだと云って会長は去って仕舞った。暫く下呂に居なければならないので、その拠点の調整に向かったのだ。何でも昔馴染みの(あて)があるのだとか。その間私は独りで、矢鱈(やたら)と広くて立派な部屋に一晩泊まることになった。此処は飛騨山中の下呂温泉だ。そんな観光地の、立派な旅館の立派な部屋である。宿泊料なんか考えたくもない。子供の頃には想像もしていなかった待遇だが、そんな恩恵にも最近漸く慣れて来た。決してこんな待遇を望んでいる訳ではないのだけど、会長の心遣いが有り難くて、今は唯、この幸せを噛み締める様にしている。こんな厚遇が何時迄も続く訳がないと判っている。だからこそ、この瞬間を大切にしたい。

内風呂が付いているのだけど、敢えて大浴場に行った。観光シーズンではないと思うのだけど、その割にはそこそこ人が居る。ざっと見渡した感じでは老人が多い気がする。他の客の邪魔にならない様、浴槽の隅にそっと浸かると、周囲に他の客が居ないのを確認して、四肢を思い切り伸ばす。婆さん達は他の隅の方で小さくなっているので、意外と気兼ねなく身体を伸ばすことが出来た。

先程「うちの組員」等と云ったが、私達自身は別に組員と云う訳ではない。謂うなれば私達だって「客」なのだ。会長の肝煎(きもい )りとでも云うのか――今小屋に春樹達と一緒に居る客人よりは、大分親密度と云うか、結び付きは強いのだが、兄弟杯とかを交わした訳ではないし、全ての組員に認められている訳でも無い。会長の側に控えているから、皆文句を云わないだけなのだと心得ている。「用心棒」と云った方が近いかも知れない。組に害を為す外敵を撃退したり出来る程強くもないけれど、能力を使って何とか会長一人護衛することぐらいは出来ると思う。だから、常に会長と行動を共にしているのには、自分達の組内での立場を守る為と、会長を物理的に護る為と、二つの動機があることになる。何方(どっち)も大切だし何方も同程度の重みなのだが、私個人としては、会長を護ることこそ、何より大切だと思っている。繰り返すが、会長には感謝しているのだ。

私は湯船の(へり)に後頭部を預けて、大きく伸びをした。それから(ゆっく)り立ち上がると、軽い立ち眩みを覚えた。少し長く浸かり過ぎたか。洗い場で体を洗って、上がり湯を被ってから、上がった。

浴衣に着替えて部屋に戻り、少しだけ酒を飲んだ。窓を開けると、冷たい風が火照(ほて)った体に心地良い。山の方へと視線を遣る。真っ暗で何も判らないけれど、あの辺りに、今弟が客の監視で居残っている。組員も居るので任せたら良さそうなものだけど、二人の相性が最悪らしく、危なっかしいので残らされているらしい。全く(はた)迷惑な話だ。

独りで呑んでいると、思考はどんどん(さかのぼ)る。

弟が吹っ飛ばした彼奴(あいつ)は、その後如何(どう)したっけ。病院からは比較的直ぐに帰されて、その後私達からは距離を取る様になって。非常に怯えた眼で此方(こっち)を見て来るので、それが気に入らなくて鳥渡睨む感じで見返したら、物凄く青い顔をして……目を逸らせて背中を向けて……

大体そこに到る迄に、二人の間で如何(どん)な遣り取りがあったのか。春樹は何時でも、適当に言葉を濁して詳しい説明はしてくれない。(いず)れ私も訊くことを諦めて仕舞った。だから今でもその経緯は判らない儘だ。

その後はもう全く駄目だった。私達が何をしても、何処に居ても、子供達は怖がって仕舞って、同室だった子達は部屋に帰って来たがらないし、登下校も、食事の時も、誰一人私達の近くに来ようとはしなかった。大人達も何だか持て余して仕舞って、同室だった子達も結局は他の部屋に押し込む形になり、私達は広い部屋に二人切りになった。そうなったらそうなったで、今度はやっかみが始まり、贅沢だ、分不相応だなどと無責任に(なじ)られ、当たりも段々強くなって来た。私達が遣り返さず、唯堪えているだけなのを見て取ると、喉元過ぎて熱さを忘れたものか、次第に手も上がる様になって来て、それで少し念動力で防御すると、復直ぐに化け物だなんだと離れていく。そんなことを一週間とか三日とかのペースで繰り返して来るから、堪ったものではない。

最終的には、私達は施設を追い出された。大人達が追い出したのではない。多分大人にそんなことは出来ない。追い出したのは子供達だ。何をどう示し合わせたものか、偶々私と春樹が週番か何かで、学校から帰るのが遅くなった日に、施設へ帰って来ると門扉が固く閉ざされていて、這入れなくなっていた。扉や壁の隙間等から子供達が覗いており、近付こうとすると物差しやら箒の柄やらで追い払われた。仕方莫く諦めて、私達二人はその場を後にしたのだ。その後施設で如何対応されたのかは知らない。荷物などは皆置きっ放しだったけど、特に執着も無かったので気にならなかったし、あんな環境に戻りたいと云う気持ちも湧かなかった。そして私達は、浮浪児となり果てたのだ。

何で彼奴は、私達なんかにちょっかいを出して来たのか。今にして思うと、中二と小三では、遊び相手にも揶揄い相手にもならないと思う。若しかして、同年代の友達が居なかったのだろうか。だから態々(わざわざ)ずっと目下の者に絡んで――やめておこう。所詮推測でしかない。

何でと云うなら、何であの時、転校初日に、私達は能力を使って仕舞ったのか。勿論それ迄、この能力が特殊なものだと云う自覚が無かったのも、理由の一つだ。然し前の学校では、全く使うこと莫く過ごして来たのだ。当時は未だ未だ子供で、能力も未熟で微弱だったから、あんな人数を相手にするのは相当な労力だった筈だ。事実、あの後二人共物凄く疲弊して、授業の記憶なんか殆ど無いし、施設に帰ってからも夕飯迄ずっと寝て過ごして仕舞った程なのだ。そんなにあの時の状況が嫌だったのか。最早心情までは明確(はっきり)と思い出せない。少なくとも最初の内は単なる転校生に対する好奇心だけで、そこに悪意は莫かった筈なのだ。私達は何をそんなに怯えていたと云うのか。

大体それ以前に、何で家は焼けたのか。何で親は死んだのか。それさえ無ければ、学校を替わることも莫かったのに。弟はあの日何かを、誰かを見たらしいし。私は見ていないのだけど。誰が居たと云うのか。それは親を殺した犯人なのか。春樹は現場を見たのだろうか。一体何があったと云うのか。

そして、何で私達にはこんな能力があるのか。親にもあったのか。いや、親にもあったならあんな態度は取らなかったのではないか。それなら如何して。何で私達だけ。

何で。何で。何で――

敷かれた蒲団に横たわり、私は何時の間にか(ねむ)って仕舞っていた。

初夏 一日目

黄金(ゴールデン)週間(ウィーク)も明けて、世間は日常を取り戻していく。連休呆けした様な顔も大分少なくなった。まあ、連休も平日も、僕達には関係が無い。そうした暦で活動している訳ではないから。唯連休中は、観光客が多くて鳥渡目障りだったかなと云う位のことであるが、それだって大した問題ではない。人が居ようが居まいが、僕の仕事に殆ど影響はない。

漸く、本人を見付けた気がする。場末の温泉宿に随分と長逗留している様だ。山小屋に封じ込めてある客人は、矢張り贋者の様なのである。会長に命じられて色々調べて回っていたのだけど、何でこんなことになっているのか、よく解らない。官憲の目を避けて逃げている筈の張本人が、贋者を山小屋に匿って、本人は下呂の町中で温泉三昧である。若しかしたらあの贋者に担がれているのかも知れないが……一旦会長に報告して、判断を仰ぐ()きか。

会長の傍には姉が控えている。双子の僕らは何時でも入れ替わることが出来る。僕は宿の(はす)向かいにあるコンビニに這入ると、ガラス越しに宿を見渡せる位置に(たゝず)み、こゝ迄の状況を簡単に小さな帳面(ノート)に書き記して、隠袋(ポケット)に入れた。姉への通信文だ。入れ替わった際に状況を伝える為に使っている。入れ替わりは出来ても、テレパシイの様なことは出来ないので、こうした工夫が必要となって来るのだ。

姉に合図を出して、体を入れ替える。肉体だけが入れ替わることを、姉は昔から随分と嫌がっていた。肌着が替わって仕舞うのが嫌だったのだ。そんなのは僕だって厭だった。女の子の下着なんか穿きたくない。幼い頃は二人共大して気にしていなかったと思うけど、十歳前後から二人共気になり始めたのだと記憶している。第二次性徴期も始まり掛けていたのだろう。姉には女性特有の問題もあったのだと思う。だから二人で、随分練習したんだ、パンツと襯衣(シャツ)だけは、入れ替わる時に何とか持って行けるように。そして訓練の甲斐あって、肌着諸共入れ替わることが出来る様になった。

「会長、それらしき人物を見付けました」

久万吾郎会長の背中に向かって、声を掛ける。先刻迄姉だった処から、突然男の声がすれば大抵は驚くと思うが、会長は慣れたもので、半端に振り向いて視線だけ投げて寄越すと、「おう、そうか。何処にいた」と応えた。

(やす)い温泉宿に逗留している様です。背格好や(かお)、チェックインした日等から判断する限り、間違いないと思うのですが、如何(いかゞ)致しましょうか」

「確証はないのか。――そうだな、先ず本人に確認してみろ」

「声を掛けて仕舞って宜しいですか」

「声を掛けなければ何も始まらんよ。人違いなら謝っておけ。当たりなら、小屋に居るのは贋者で決まりだ。こちらの状況を伝えた上で、何が起きているのか確認をしろ」

諒解(わか)りました」

(あゝ)、鳥渡待て、スマホ一本渡しておこうか。連絡手段有った方が好いだろう。本人だったら渡しておけ。――お前今何処にいる?」

場末の温泉宿の場所を告げた。今此処で物品を渡されても、双子の入れ替わりで肌着以外の物は持って行けない。だから直接僕が張っていた場所迄届けて貰う必要があるのだ。

「秋菜に行かせるよ」

「会長のお側に居なくて宜しいのですか」

「別に構わんだろう。差し迫った危険がある訳でもなし。直ぐ其処の様だしな」

確かに、会長が止宿しているこの神社の社務所からは、徒歩でも数分の距離である。

「諒解りました。それでは、お待ちしています」

そして姉に合図を送り、入れ替わった。標的は動いていない様だった。隠袋の中の帳面を確認する。動きなし、とだけ書いてあった。

数分程で、姉がコンビニに入店して来た。先刻入れ替わったので、僕が何処に立って居るかは把握している。真っ直ぐ僕の所迄来て、スマホの()った巾着を手渡された。

「気を付けてね」

「大丈夫」

簡単な会話を交わすと、姉は店内を回ってパンと飲み物を手に取ると、レジへ向かった。個人的な買い物か、それともお遣いか。大した興味も無いので、直ぐに視線を屋外へと戻す。買い物を済ませた姉が目の前を(よぎ)って行った。

宿を見上げる。道に面した幾つかの部屋は、(いず)れも窓をピッタリと閉ざしている。障子戸も閉ざされている為、中の様子は窺い知れない。人影の一つも差さない。幾ら何でも静か過ぎる気がする。警戒しつゝ視軸を落とした時、帳場に人の気配を感じた。角度が悪くて何をしているのかよく見えないが、程莫く宿から人が出て来た。奴だ。山田一郎。宇佐組客員の殺し屋で、現在久万が客として山小屋に匿っている筈の、その本人が、本人と(おぼ)しき男が、街中(まちなか)の温泉宿から悠然(ゆうぜん)と出て来た。小振りのリュックを背負っている。あれが彼の荷物の全てだ。宿を引き払う心算(つもり)か。

僕はその男の後を尾けることにした。未だ確定はしていないが、(ほゞ)本人で間違いないだろう。何気ない所作の一つ一つが、非常に洗練されていて無駄が莫い。小屋に居る贋者とは雲泥の差である。

男は少し離れた処に在る別の温泉宿に這入って行った。如何やら宿を替える様だ。フロントでチェックインを済ませるのを待ってから、背後から声を掛けると、男は驚くことも莫く、静かに振り向いた。久万の遣いだと名乗った上で、相手の名を確認しようとしたら、立ち話も何だとチェックインしたばかりの部屋へ案内された。

矢張り男は、山田一郎だった。

一郎とは終始穏やかに会話を交わした。贋者が匿われていると云うと、愉快そうにゲラゲラと笑っていた。矢張り大物の懐は広い。細かいことで一々激高したりはしないのだろう。実際に接触する迄はそれなりに警戒していたのだけど、その必要も莫かった様だ。小屋の場所を訊かれたが、この日はもう晩かったので、明朝連絡すると云ってスマホを渡した。如何も浮世離れした生活を続けて来たらしく、使い方が判らず戸惑っていたので、一通り操作方法を教えると、直ぐに呑み込んだ。

部屋を辞去して宿を出ると、明朝迄することが無くなって仕舞ったので、一旦引き上げることにした。久万会長が世話になっている神社の社務所を訪ねると、宮司が出迎えてくれた。この宮司には前にも会っているのだが、その時よりも明らかに若返っている気がした。さては姉が何かしたか。年齢は久万会長よりも若いとのことだが、久万会長は齢の割に若作りで、姉が治癒能力で若返らせていると云うのもあるのだけど、以前この宮司に逢った時には会長よりも可成(かなり)老けて見えていた。それが今は、ちゃんと会長より若く見える。――成程こうして見ると、元々久万組のトップを張る構成員だったと云うのも解る気がする。隠し切れない殺気までが漏れ出している様に感じる。神職としてこれは如何なのだろう。姉には、手加減する様に云っておいた方がよいかも知れない。

「ただいま」

僕ら姉弟に与えられている部屋に、襖越しに声を掛ける。

「お帰り。這入りなよ」

「うん」

姉に云われる儘、襖を開けて中に這入った。中央の座卓に肘を突いて、だらしなく脚を崩して座布団に座った姉は、気怠そうに視線だけを投げて寄越した。

「おつかれ」

短くそう云われた。

「お疲れ」

他の返し方は知らないので、そう応えた。

「当たりだった?」

「うん。好い人だったよ」

「殺し屋が?」

「ああ――まあ、何と云うか、隙は無さそうだったけど。でも別に、怖い感じではなかった」

「ふうん、そうなんだ」

暫く沈黙が続いた。姉が卓上の湯呑を手に取って、軽く啜った。そこで初めて、自分の湯呑が置いてあることに気付いた。未だ湯気が立っているので、淹れて間もない様だ。僕の帰りを予期していたのだろうか。

「お茶貰うね」

「どうぞ」

姉と同じ様に軽く啜る。思っていたよりは冷めていた。

「じゃあさ、あの小屋に居るの何者? あたしは一体誰に腕掴まれたの」

「さぁ」

「むかつくなぁ……」

「気にすんなよ」

「気にするよ。乙女の柔肌(やわはだ)に、暫く指の痕付いて取れなかったんだから。どんだけ強く握って来るのって感じだよ」

「おとめぇ?」

「何か云いたげ」

「べつに」

「こんな仕事してたらね、確かに乙女とか云ってられないけどね」

「やめる?」

「やめない。一生仕える」

姉の久万会長に対する忠誠心は、並大抵のものではない。僕だって会長には感謝しているけど、姉程の強い想いは無いかも知れない。矢張り性差なのだろうか。浮浪児生活は女性にとっては相当な苦境だったのだろうなとは思う。僕は何処かで、どうせ男だから、何とでもなる、と云う様な頭が無意識にでもあったんだろう。だからそこまで悲観していなかったのだけど、当時の姉が時折見せる表情には、相当に鬼気迫るものを感じていた。そこから救ってくれた会長には、矢張り僕なんかよりも遙かに強い感謝を感じているのだろう。

「一生ったって、会長が亡くなった後は――」

「亡くならない。あんた何てこと云うの。会長は死なないから」

鳥渡常軌を逸している気がする。姉にだって解っている筈だ。幾ら姉が治癒能力で若返りをしたところで、矢張り限界はある。人はいつか必ず死ぬ。そしてそれは、事故でもない限りは確実に、僕らより先に会長に訪れるだろう。だから僕は、せめてそれ迄の間、誠心誠意会長に尽くしていこうと思っている。姉は――「それ迄の間」を無限に引き延ばす心算か。でもそれは無理だ。

(じっ)と見詰めたら、姉は目を逸らせた。姉だって解っているのだ。解っていて、判らない振りをしているだけだ。終わりの時なんか考えたくないのだろう。

僕らは未だ若い。世間的には高校に通っている位の齢頃だろう。通ってないけど。対して会長は、八十は超えている。八十? 九十? 米寿ってのは、あれは何歳だっけ。昨年かその前年か位に、そのお祝いをした気がする。直ぐに(また)次のお祝いだと云っていたか。如何なタイミングで祝っているのかよく解っていないけど、まあ兎に角、大分高齢の筈だ。確か宇佐の組長も同じ年齢(とし)だったと思う。幼稚園で一緒に如何とか云っていたから。宇佐の組長は、サングラス掛けたり、髪染めて固めてたり、否あれは(かつら)かも、兎に角まあ、苦労して若く造ってはいるけれど、それでもそれなりの加齢は見て取れる。気迫と気力だけで、立って歩いている様な所がある。久万に負けじと云う気持ちも後押ししているのかも知れない。何となれば、彼方(あちら)が先かなとも思う。ある日突然ぽっくり逝くタイプなんじゃないかと。

僕らは若く、経験が浅いことも否めないけれど、こんな組織に世話になっている内に、人の死だけは厭と云う程見て来た。両親が眼の前で死んでいるのだ。あれは小学生の頃だったか……

あれは結局、誰だったんだろう。

最初は一郎なんだと思っていた。山田一郎と云う殺し屋を宇佐から身請けして匿うって話を聞いた時、両親を殺した男を連想した。両親の話は会長にもしていたし、何かそこに絡んだ話なのかと、平たく云うと僕らの為に仕組んだ話なのかと思ったのだけど、如何やらその的は外れた。贋者にも本物にも逢ったが、何方(どちら)も親を殺した奴とは全然違う。じゃあ一体何の為に、と思わないでもなかったけれど、そもそも会長が僕らの為にそんな大層な行動を起こすだろうと云う思い込み自体が、自分勝手な思い上がりに過ぎないんだと気付いて、恥ずかしくなった。僕らは拾って貰えただけで僥倖なのだ。それ以上の恩恵を期待するなんて間違っているのだ。今を幸せと思わないで如何する。人間の欲には際限が莫い。以前より遙かに良い暮らしをしているのに、それでも足りぬ気になってもっと上を見て仕舞う。そして不幸な気になる。人の本性は、永久に幸せを手に出来ないようになっているのではないだろうか。だから如何な宗教も、今の儘で満ち足りていると思えと教えるのだ。上ばかり見て不幸な気になるな、今おまえは十分幸せなのだと。だから財産を全て喜捨しろと。――最後の所は余計か。インチキ宗教にありがちなヤツだけれど。

でも、それでも矢っ張り、僕は知りたいんだ。知るだけで好い。知る迄は満ち足りない。贅沢な暮らしなんか要らないから、両親を殺した犯人と、殺された理由を知りたい。そしてその後、家が全焼した理由を知りたい。知ることさえ出来たなら、如何な貧乏で苦しい生活に堕ちても構わない。――姉は如何思うか判らないけど。

そっと姉に視線を向ける。姉は余所を向いた儘ぼんやりとしている。呆けているのか、何か考えごとでもしているのか。

犯人を識って、果たして自分は如何するのだろう。仇でも討つのか。否迚も、そんな気にはならないと思う。仇を討つ程の価値を親に感じていない。だから単に、識りたいと云う好奇心なんだろうと思う。まあ、親が好きだったか否かに拘わらず、自分達の生活が一変したことだけは確かだ。その程度の恨みなら莫いでもないか。でもだからと云って、報復したいと云う発想にはならない。結果的に今、何不自由なく生活出来ているし。

親を好きではなかったけど、特に嫌いでもなかった。冷徹で、自分達から距離を置く様にしていたとは謂え、衣食住は普通に与えられていたと思うし、別に暴力等で虐待される様なことも莫かった。唯愛されていなかっただけだ。多分怖かったのだろう。怯えていたのだろうと思う。それも今では、仕方がないことだったのだろうとも思っている。普通の家庭に突然超能力を持つ双子が産まれて来たのだ。平生を保てと云う方が無理なのではないか。

そんな親も死んで仕舞った。罰が当たった、とも思わない。当時、親の待遇に不満は無かったんだ。それが当たり前と思っていたから。他の家の事なんか知らなかったから。だから殺された時、普通に悲しかったのだと思う。――悲しい、とはちょっと違うか。淋しかった、心細かった。この先自分は如何なるのだろうと、ぼんやり不安だった。泣いた――か如何だか記憶にない。姉と二人で打ち震えていた。春だったと思うけど、未だ未だ寒い頃だった。家を焼け出されて、警察に保護されて。留置場か何かに、一、二泊したと思う。否、流石に留置場と云うことはないか。檻も無かったと思うし。多分宿直室とか、仮眠室とか、何かそう云う類の部屋だったのではないかな。殺風景であったと云う点に、変わりは莫いけれど――

視線を感じて不図(ふと)顔を上げると、姉と眼が合った。

「そう云やあんた、会長に報告とかしたの?」

(あゝ)、未だ」

「何してんの、早く行って来なよ」

「あゝ、うん……」

すっかり忘れるところだった。大儀そうに腰を上げて、一つ息を()いた。

「なぁに、厭になって来た?」

「そんなんじゃないよ――鳥渡、考え事してゝ――」

「下手な考え休むに似たり」

「何それ」

「あんたのこと。好いから早く行って来な」

「諒解ったよ。うるさいな」

部屋を出る直前に鳥渡思い出したので、振り返って姉を見た。

「そうだ、姉ちゃん、宮司さんに何かしただろ。あれ遣り過ぎだぞ」

「遣り過ぎって何」

「目が殺気立ってるんだよ。もう少し枯れてないとさ。神に仕える身としては」

(あゝ)――そうかな。ちょっと控えるよ」

姉が神妙な顔になって視線を中空に漂わせたところで、部屋を出た。

会長の部屋に行く。社務所の中なので、会長の部屋と云っても何等特別な感じは莫い。僕らの部屋と大して変わらない。元々この会長は、余り大袈裟に飾り立てたりと云った様なことは好まない性なので、こうした街中、観光地に逗留していても、決して目立たない。服装も基本は洋装だし、迚もヤクザの親分には見えないと思う。

そもそも、多分姉の所為で、昔に較べて大分毒気が抜けている様なのだ。姉が何をしているのか詳しい所は判らないけれど、如何も幻覚能力の延長で、毎夜毎夜幸せな夢を見せているらしいのだ。それですっかり満たされちゃって、なんだか極道の凄味みたいなものが薄まって仕舞っている。姉も(つくづく)罪作りだと思う。何時か遠くない未来に、久万組が潰れたりしたら、それは屹度(きっと)姉の所為だろう。

潰れるより、若手に()られる方が心配かも知れない。――まあでも、それは僕らが二人掛かりで絶対に阻止する。会長の安全は僕らに掛かっているのだ。

この社務所は全ての部屋が和室なので、会長の部屋もドアではなく襖である。セキュリティ的にどうなのかとは思うのだけど、元々唯の社務所なのだし、仕方が無いのかも知れない。その襖の桟の部分を、ごつごつとノックする。作法として合っているのか如何かは解らない。

「会長。春樹です」

直ぐに中から、這入れ、と声がした。

「失礼します」

そう云って襖を開ける。

「おう、どうだった」

襖を開けたら直ぐに、座卓の向こう側で胡座を掻いている会長と眼が合った。襖を開ける前から此方(こちら)を視ていた様だ。

「当たりでした。本物の山田一郎です」

「断言出来るか」

「少なくとも、山小屋の方よりは余程本物らしいです」

「ふん、ありゃあ問題外だ」

会長は卓上の新聞包みを押し遣った。

「明日逢ったらこれ渡しとけ」

「これは?」

「ダーティハリーだよ。ホンモノだぞ」

新聞で完全に(くる)まれていて、中身が見えなくされているが、形状からして如何見ても拳銃である。

「はあ……え、それは如何云う……」

久万会長はと哄笑した。

「空砲だ。玩具だよ。否まあ、銃身は本物だがな。実弾なんか入れとらんよ。まあ、只で済む様な状況とも思えんしな、かと云って面倒事は御免だ。この辺で何とか収めて貰えねえかと、まあそんな提案をしてこい」

「はあ……否、それは多分、大丈夫です」

「何がだ?」

「否、あの人、そんなに小さな人では莫さそうです。如何も状況を面白がっていた様なので」

「ほう? 成程な。まあだとしたら、余興にでも使って貰え」

「諒解りました」

「ダーティハリーってのは本当だぞ!」

「それ、何ですか?」

久万会長は呆れた様な声を挙げた。

「はあ! 若い奴は知らんかあ! クリント・イーストウッドだよ! お得意のスマホで調べとけ!」

「諒解りました。失礼しました」

頭を低く下げると、会長は厭そうに眉を(ひそ)めた。

「シャレだよ、敵わんなあ。そんなにマジに受け止めるな」

「はあ……」

クリント・イーストウッドは、聞いたことがある。映画監督か、俳優だったか。だとしたら、ダーティハリーと云うのも映画のタイトルだろうか。姉なら知っているかな。映画に就いては多少詳しそうだから。

S&W(スミス・アンド・ウェッソン)と云うメーカーの、M二十九と云う銃だ。四十四口径(フォーティー・フォー)マグナムっちゅう弾を装填出来るんだ。こりゃあでっかい弾だぞ。ハリー・キャラハンって刑事がな、そんなごつい銃をぶっ放すんだが、阿呆な刑事ドラマみたいに乱射はしねぇ、一発でカタ付けるのよ。痺れるぜ」

調べる迄も無く会長が嬉々として話し始めた。屹度その映画が好きなのだろう。会長の長広舌は留まるところを知らず、その儘一時間程もキャラハン刑事の破天荒振りと、その相棒達の悲運っ振りとを、散々に聞かされる羽目になった。

若干疲労感を覚えつゝ部屋へ戻ると、既に布団が延べられており、姉は居なかった。会長の話がなんとなく気になって、月極(サブスク)の動画配信サイトで検索してみると、直ぐに見付かったので、隅に寄せられた座卓に肘付いて、倍速の設定で暫く観ていた。

キャラハン刑事が、人質を取った犯人に向かって迷わず銃を撃ったところで、背後で「バァン!」と声がした。

「わ、姉ちゃんか。何時から居たの」

動画を一時停止して、振り返った。

「先刻戻ったばかりだよ」

姉は湯上りの体で、浴衣姿になっている。

「この辺りのお風呂は皆温泉なのかな。なんだかあたし達、良い身分だよね」

「温泉引くのって、利用料かなんか取られるんじゃないのかな」

「そうなの? まあ如何でも好いけど。で、あんた何でダーティハリーなんか観てるのよ」

「やっぱ識ってるんだ?」

「識らない奴なんかいるの?」

姉は映画好きだ。会長に拾われて生活が良くなってからの趣味だから、未だ年季は浅い筈なんだけど、吃驚(びっくり)する程色々な映画を知っている。

「識らなかったんだよ。会長に云われてさ……如何なもんかと思って観てみたんだ。中々面白かったよ」

「まだ終わってない。ほら、バッジを川に投げ捨てるから」

「ネタバレ禁止」

放って置くと姉はストーリーの先の先迄語り尽くして仕舞う。動画を再び再生して続きを観始めた途端、姉が訊いて来る。

「で、何でダーティハリー?」

観ろと云う癖に邪魔ばかりする。仕方莫いので会長から預かった物を姉に手渡してみる。

「えっ、何これ!」

「ダーティハリーの銃だってさ」

「マジで! 開けて見て好い?」

姉の瞳がキラキラ輝きだした。これがマニアと云う奴か。

「やめとけよ。銃の扱いなんか知らないだろ。暴発でもしたら大変だよ。空砲だって火薬は這入ってるんだろ」

「えー、空砲なのかぁ」

明白(あからさま)にがっかりする。

「なんだよ、ねぇちゃん、危ねぇ奴だな」

「だって、折角のダーティハリーモデルなのに」

「どっちにしてもこれは姉ちゃんのものじゃない。一郎に渡すんだ」

「あゝ……えー、何か勿体ないな」

「何でだよ」

「ダーティハリーなんか知らなさそう」

「そうかな――一郎視たの?」

「ちらっとね。コンビニから。障子越しだけど。――あの人、テレビも映画も観たことないと思う」

姉には変な能力がある。他人(ひと)の記憶が視えるらしいのだ。気持ちや考えなんかは判らないみたいだけど、何しろ記憶が視えると云う。今一如何云う状況なのか解らない。それにしても、「見たことがある」なら未だ解るのだけど、「見たことない」ことが判るってのは如何にも()せない。記憶に無いと云うことが、記憶を視ることで如何して判るのだ。何だか姉の能力は底知れない気がする。

姉は実に色々なことが出来る。念動力は元より、幻覚、催眠、治療なんてことも出来る。多才なのだ。僕なんかは、念動力一辺倒で、他の能力は多分無い。まあその分、念動力の強さに関しては、姉には絶対負けないけれど。

「てか、視たんなら姉ちゃん、あれが本物だって知ってたんじゃ?」

「そこまでは視てない」

矢っ張り解らない。視えたり視えなかったりがあるようで、基準も解らないけど、要は不安定な能力だってことなのだろうか。

姉はよっこらせと立ち上がると、軽く伸びをした。

「さて、ダーティハリーも終わったし、あたしはもう寝るね。明日早いから」

「明日? なんかあるの?」

映画は何時の間にか終わっていた。結局、バッジを捨てるとか言うシーンは見逃して仕舞った。そんなに執着も莫いので、その儘アプリを閉じる。

「立川に行けってさ」

「立川?」

風呂にしては長いと思ったけど、如何やら入れ違いで会長の所に行っていた様だ。何か仕事を云い付けられて来たのだろう。

「達也が墓参りに来るんだってさ。様子見て来いって」

「吁」

達也と云うのは、一郎のことを探っている人物で、最近迄海外にいたが、明日には日本に戻って来て、一郎の手に掛かって死んだ友人の墓を参るのだそうだ。なんだか気の毒ではあるが、面倒臭そうな話だな、とも思う。

一郎を匿う上で、動向が気になるのだろう。

「然しあの宮司さんも、情報力凄いよね。どんな諜報員(スパイ)雇ってるんだか」

「若い頃は組の筆頭だったらしいし、色々云うこと聞く手下が居るんだろうね」

「若返りも程々にしとくよ。あんまり活力漲らせたら(まず)い気がする」

「だろ?」

僕も朝一番で、一郎を再訪しなくてはならない。緩慢に立ち上がると、浴衣とタオルを探して視線を漂わせる。

「さてと、僕も風呂這入って寝るよ」

「お先に。お休み」

姉はとっとと布団に潜り込んでいた。僕は自分の布団の枕元に、目的物を見付けると、それを持って部屋を出た。

初夏 二日目

翌朝起きた時には、もう姉の姿は無かった。布団も上げられている。

昨日久万会長から託された、三角の新聞包みを持って、一郎の宿を訪れた。姉の云う通り、一郎はダーティハリーなんか知らない様だったが、銃の知識はあった。構え方も様になっている。矢っ張り本物なんだなと、改めて確信した。

一郎が贋者に灸を据えると云うので、小屋迄案内したのだが、そこからが鳥渡大変だった。一郎の放った空砲に贋者が腰を抜かして、転んだ(ついで)に脚を骨折し、病院迄連れて行かざるを得なくなったのだ。とは云え、普通に診察受けて治療なんかして貰ったら、この辺りに潜伏していると、一郎を探している各方面に宣伝する様なものである。(さて)如何したものかと思案した挙句、結局姉の手を借りることにした。

立川の用件が如何なっているのか判らなかったが、取り敢えず入れ替わりの打診をしてみたら、直ぐに応答があって入れ替わって貰えた。代わった先は運転中だったので、鳥渡だけ慌てゝ仕舞ったが、直ぐに適応して運転を続ける。状況は隠袋の帳面に書いておいたので、後は上手いこと病院に潜り込ませてくれるだろう。姉は幻覚や催眠が使えるのだから。

と、気持ちが一段落着いたところで、何だかチクチクとした違和感を感じた。嫌な予感が()ぎる。これは視線だ。運転中の車内には、自分の他に誰も居ない。助手席は空だし、ミラーにも誰も映らない。誰かが隠れているとか、そう云う感覚でもない。視線は誰も居ない助手席から感じるのだ。

咄嗟に、ある警備会社の話が脳裏に浮かんだ。会長から前に聞かされたことがある。超能力者ばかりを集めた民間部隊の噂話を。そうだ、今回の件にも絡んで来ると云っていたっけ。だとしたらそこの能力者か。この世には千里眼の能力が存在していると、聞いたこともある。然し、姉が運転していた時から視ていたのだとすると、運転手が突然入れ替わったのには吃驚しただろうな。――想像して、少しニヤついて仕舞った。

何度も視線の元をチラチラと見たりしたので、先方も、僕が気付いたことに気付いたかも知れない。そう思った途端に視線を感じなくなった。如何やら引き上げたか。そんなにあっさり退くかな。何だか非常に気になる。

姉は気付かなかったのかな。若しかしてこれは僕の、もう一つの能力なのか。千里眼で見られていることに気付ける――何だかチンケな能力だなあと、気持ちが萎えて仕舞った。気付いたところで何も出来ない。相手が何処から視ているかも判らないし、判ったところで如何しようもない。我ながら役立たずだ。姉との入れ替わり能力と謂い、如何も愚にも付かない能力ばかりで厭になる。

そんな事を考えながら中央道をひた走っていると、今度は身体の中に何かが侵入して来る気配を感じた。今度は何だ。そう思っていると、脈絡なく山小屋の記憶が浮かぶ。水木と贋者を前に、会長が話をしている。これは昨夜の――そうか、記憶を、心の中を探られているのだ。抵抗しようにも如何すれば良いか判らない。

拙い。

小屋の場所がバレることより、そんなことより。

僕も姉も、未だ十七歳である。自動車の運転免許が取れる年齢(とし)ではない。

咄嗟に考えたのは矢張り自分のことだった。姉は幻覚があるから、仮令(たとえ)現行犯で捕まっても何とか出来るだろう。でも僕に幻覚は使えない。偽造免許証があったところで、警備会社に心を読まれて仕舞っては云い訳も出来ない。

焦った結果、姉に合図を送った。時間稼ぎでしかないことは解っている。直ぐには反応が無かったが、何度目かの合図に返答が返って来て、漸く姉と入れ替われた。

贋者は麓の病院に入院していた。脚に当て木をして、包帯巻いて固定されているが、如何も先刻見た時よりはマシになっている気がした。姉が治療したのだろう。姉も一気に全快させる程の力は莫いので、少しだけ治癒した上で入院させたのだ。会長に連絡を入れると、小屋に戻っておけと云われたので、贋者一人残して山に這入った。

小屋では一郎が、水木と云う久万の組員と親し気に会話していた。否、二人共淡々とした調子ではあるのだけど、贋者の時は一触即発の空気でぴり付いていたのを思うと、非常に温厚且つ友好的で、穏やかな時間が流れている様である。

「ちょっとした裏ルートから、病院に放り込んで来ました。足が付く心配はありません」

裏ルートと云うか、姉の幻惑だ。病院スタッフの誰一人、入院患者が増えたことなんか認識していないだろう。治療をした医者も、手当てをした看護師も、全く認識も記憶もしていない筈である。姉はこんな能力ばかり伸ばしている。

「ご苦労様です」

水木は僕等なんかより確実に格が上であるにも拘らず、いつも僕等に対してはこんな丁寧な接し方をしている。僕等が会長付きだからだろうか。本心で如何思っているのかは、知れたものではない。聞いた話では、この男も相当に危ない性質だと云う。一郎と対峙しても気圧されず、対等の空気感を醸し出している点からも、それは窺い知れる。出会い頭にダーティハリーの銃を突き付けられても、涼しい顔をしていた程だ。贋者に対しては稍優勢だったぐらいで、その点も贋者を疑う理由の一つになった訳だけど。

二人の間を抜けて、部屋の奥迄行って壁を背にして座った。部屋と入り口とが一望出来る位置だ。

「骨折は治りそうかい」

一郎が眼を閉じた儘、穏やかに訊いて来る。

「はい。医者に処置して貰いました」

説明が面倒なので姉の能力に就いては話さなかったが、別段隠している訳でもない。

「そうかい。とんだ手間取らせちまって、済まねぇな」

「いえ、滅相も無いことです」

会話はそこで途切れた。然し特に居心地が悪くなる訳でもない。暫く沈黙が続いた後に、水木がぼそりと呟く。

「会長は、何と?」

これは僕に向けられた質問だろう。

「宇佐組長と一緒に向かって来られる様ですが、一旦病院に寄るそうです」

「そうですかい。――宇佐組長が一緒では、目立ちゃしやせんかね」

「如何でしょう……一応姉の幻覚で……」

「噫、なるほど」

一郎がうっすらと目を開ける。

「お姉さんがいるのかい」

「はあ。双子なんですが」

「おねぇさんも、その、不思議な能力があるのかな?」

一郎には今朝、自分の念動力の紹介をちょっとだけしている。此処へ案内する際にも、念動力で足許を浮かせて登って来た。それを踏まえての質問なのだろう。

「ええ、僕と同じ念動力の他にも、姉にだけ、幻覚を見せたり、錯覚をさせたりと云う様な能力があるのです」

「なるほど、それで納得した」

昨夜から思っていることだが、一郎は察しが良い。頭の回転が鈍ければ、そもそも殺し屋なんて稼業は成り立たないのかも知れないが、それにしても相当に切れる感じがする。一を聞いて十を識る、と云う奴を、地で行っている感じだ。

一郎が納得したところで、再び会話は途絶えた。

暫くはこんな感じで、実の在る様な莫い様な雑談めいた会話がぽつぽつと交わされては、沈黙が訪れる、と云う繰り返しをしていた。その内に小屋の外が騒がしくなって来る。微かな(きし)みと共に入り口のドアが開かれ、その向こうには久万会長と、宇佐組長と、おどおどした様子のチンピラが一人と――その三人を追い抜く様にして室内へと向かって来る嫌な感じ。車の中で感じた奴だ。思わず凝視したら、ふつりと消えた。そして三人が順に室内へと這入って来て、扉が閉められた。

「で、話はついたんか」

会長の言葉に応える代わりに、僕は自分の口の前で人指し指を立てて、視線を室内に這わせた。壁、天井、床。入り口の扉にも、もう先程の視線は感じない。それでも暫くはその姿勢の儘、凝と様子を窺ってみた。僕の様子が相当に警戒感を煽った様で、その場に居た全員が動きを止めて、声も発さず、息まで止めているかの様に硬直している。

然しそれ切り二度と、視線を感じることは無かった。なんとなく釈然としない儘、僕は姿勢を崩し、深呼吸して座り直してから、会長に対して頭を下げた。

「会長、大変失礼しました――」

病院には贋者と、立川から帰って来るなり駆け付けた姉の二人を残して来て、残りが小屋迄上がって来たのだと云う。此処では色々と事実確認が行われた。矢張り一郎は贋者に就いては一切聞いていなかった様で、それに就いては贋者――柊元(くぎもと)と云うそうだ――の独断による暴走だったらしい。僕が姉と入れ替わって、入院中の柊元から直接聞きだしたりして、彼個人の勝手な行動だったことが確定した時、一郎は珍しく「彼奴(あいつ)!」などと叫んで激昂する様子を見せたが、今迄の一郎の言動や立ち居振る舞いからは、若干の違和感を感じた。宇佐組長の「イチ」の一言で簡単に鎮まって仕舞ったところから見ても、これは一種の演出(パフォーマンス)だったのかも知れないと思っている。付き添いのチンピラ一人だけが、その演出に怯えていた。このチンピラから柊元に、効果的に伝聞されることを見越しているのかも知れない。

一通り会議が終わって、僕が感じた視線の話をすると、小屋を引き払うと云うことになって仕舞った。これを建てるのにも結構な労力を使ったのだけど、警備会社に見付かって仕舞った可能性は濃厚なので仕方ない。此処が駄目になった場合の段取りも予め決めてあったので、それに従う。

僕は全員の足元を浮かせた状態で麓迄下ろし、病院の裏手に着いた処で、解散と相成った。一郎は独り病室へ行き、姉の能力で恢復しているであろう柊元にこの後の段取りを伝える。姉もこのぐらいの時間があれば、骨折程度なら全快させることが出来るのだ。

僕はと云えば、一人山中へ戻って、小屋の解体を始める。誰が何処で造ったのか知らないけれど、この建物は大きなプラモデルの様な造りで、簡単に手頃な大きさのパーツにバラすことが出来、四(トン)トラックでも容易に運搬出来る。元々は誰か組員の、道楽目的の私物だったもので、大分以前から会長に目を付けられていて、何度か組員の逃亡用途に流用されているとも聞く。今回も、見付かって仕舞ったとは謂え、それ迄の間はそこそこ役に立ってくれた様だ。

造り付けでない家具や、食器や座布団等の家財を外へ出し、電気や水道等のライフラインを外して、コードやホースを束ねている所へ、久万の雇った人足がわらわらと上がって来た。そこからは中々手早く解体が進んだ。残りの家具家財道具を搬出して、屋根や窓、壁等を順番に外していき、形や大きさで揃えて積み上げられて行くのを、僕が念動力で揃えて、拓けた場所迄移動させる。其処は車道も近く、トラックが這入って来られる様な場所なので、その場で荷台に積み込んで、持ち去る予定だ。トラックが到着する迄は、取り敢えず森側の隅へ積み上げておく。

結局解体作業が終わった頃には、すっかり陽も落ちて仕舞っていた。荷物を積み切ったトラックを見送ると、僕は独り、山を下りる。この後は社務所に戻って、次の指示を待つ。社務所には先程の御一行様も集合している筈だ。

社務所へ戻ると姉は既に床を延べていた。会長の姿が見えないので、姉に訊くと、他の面子と共に地下に居るとのことだった。この社務所には矢鱈と広い地下室があって、其処に一郎を匿っている。相変わらず御目付で水木を置いて、昼に一緒に小屋に上がって来た宇佐の三下――柚口とか云ったか――も序でに一緒に放り込んである。姉も最初は一緒にいたが、直ぐに上がって来たのだそうだ。贋者の柊元は、攪乱(かくらん)の為に野に放たれているとのこと。元々それが、贋者を立てた目的だった様だ。

地下に行くのは億劫だなと逡巡していたら、姉が思い出した様に訊いて来た。

「そう云えば昼、なんか矢鱈焦って入れ替わりたがってたみたいだけど、あれ、なに?」

運転中に心を読まれた時のことだろう。僕は結局地下に行くのはやめて、敷かれた自分の布団の上に腰を下ろした。

「あれね。姉ちゃんは、何も感じなかった?」

「何が?」

「多分……心読まれた」

「は?」

姉は怪訝な顔で見詰めて来た。感じなかったのか、それとも読まれなかったのか。然し直ぐに姉の表情が変わり、何か合点がいった様に目を剥いた。

「あれ、そう云うことかあ!」

「え、マジか姉ちゃん。読まれっぱなしだったのかよ」

「あんなの判らないよ。殆ど一瞬だったし」

「一瞬?」

「なんか、こう、胸の辺りがざわざわっとはしたのよね。あれ、そう云うことかあ――あゝ、はいはいはい、そうね、読まれてた」

「大丈夫かよ」

「読まれたと云うか、眺めて行った感じ。ホント、一瞬。――いやまあ、数秒? 十秒もなかったと思う」

入れ替わりに対して警戒したのだろうか。此方が気付いたことに気付かれたか。何れにしろ深読みせずに手を引いて貰えたらしいのは幸いだった。――そうは云っても小屋の場所は最早意味を為していないのだが。――いや、そうではなく。年齢がバレていなければ大丈夫。無免許運転なんて詰まらない罪で捕まるのは、御免だ。

それは兎も角、姉も読まれたことが判るのであれば、視られているのも感じていたのだろうか。

「あのさ、それ以前に、ずっと監視されてたっぽいんだけど、そっちは認識してたの?」

「はあ? 今度は何」

「いや、なんか、千里眼? みたいなので、車の中監視されてたから」

「うわ、何それ。知らない」

これは僕だけの様だ。裏を返せば、姉は監視され放題だ。これは結構拙いかも知れない。――敵はどこまで僕らの特性を把握出来ているのだろう。

「ええ……千里眼て何よ……それって、覗かれ放題てこと? 嫁入り前の乙女として、それは」

「嫁入らないだろ」

「うざ」

冗談めかして仕舞ったが、それはそれで問題かも知れない。姉も僕も、人並みの人生なんか最早、望む()くもないのか。

この日は会長も長いこと上がって来ないし、特にすることもないので、宮司と三人で夕食を取った後は、早々に風呂も済ませて就寝した。姉も僕も、朝早かったし一日重労働だったので、直ぐに寝入って仕舞った。

初夏 三日目

翌朝、朝食を済ませてぼんやりしていたら、いきなり襖が音立てゝ開いたので吃驚して顔を挙げると、其処には宇佐組長が立っていた。

「おい、会長さんがお呼びだぞ」

面白くなさそうにそう云って室内を見渡す。

「姉さんはどうした」

「はあ。トイレかと」

その組長の背後に、姉が立っていた。

「なにか?」

組長は驚きもせず振り返ると、

「おう、あんたらの大将が、呼んで来いとさ。ガキの遣いだよ」

何を不機嫌そうにしているのかと思ったら、如何やら会長に遣い走りをさせられたことが気に入らなかった様だ。それにしても、組長が襖を開けた時に姉が居なくて良かった。若しその場に居て、着替えでもしていようものなら、一騒動起きていたかも知れない。姉はこの組長を余り好いていないのだ。

「今行きます」

立ち上がって、組長の後に付いて行った。姉もその儘付いて来た。

襖が開け放してあったので、声を掛けるより前に会長の姿が目に這入った。会長は、敷きっ放しの蒲団に横になって、大きな木彫りの熊を睨み付けていた。

「他人に遣い走りさせといて、呑気に寝てんじゃねえよ」

組長はそんな様なことを云いながら、熊を挟んだ位置から会長を見下ろす。会長はそんな組長に一瞥をくれると、僕等に視線を向け、体を起こしながら、「欸、二人共来たか。何方(どっち)でも好いんだけどな、これ見てくれ――」と云いながら、熊の置物を指差す。

土産物屋等でよく見かける様な、鮭を咥えて四ツ足で立ち、首を捻って此方を見ている、そんな意匠(デザイン)の熊の置物なのだが、矢鱈と大きい。頭から尻尾迄、五、六十(センチ)はあろうか。こんな物を何処から持ち込んだのかと思ったが、会長の説明では、今朝唐突にこの部屋に出現したのだと云う。何を如何見ても唯の熊の置物でしかないのだけど、姉が熊を凝視しながら、ぼそりと呟く。

「これは、会長の持ち物ですね……然しこの十数年、何人かの手が……付いています」

記憶が視えたのだろう。姉が視る記憶は、人や生物の記憶に限らない。物の記憶も視えるらしい。――物の記憶と云うのは方便だ。物は記憶なんかしないだろう。だから姉が視ているのは、その物に(まつ)わる歴史だろうか。過去の時間の積み重ねを、何らかの方法で視ているのだろうと思う。結局人の記憶と云っているのも、真実その人の記憶を視ていると云うよりは、その人に纏わる過去を視ているのだろうと思う。過去の時間をフラットに視渡せていると云うことなのだろうか。僕には視えないので、想像の域を出ない。

「中身が減っています」

中身って何だろう。そこで僕はピンと来た。これは会長がずっと探し続けていた、所謂(いわゆる)「宝」なのではないだろうか。熊の腹の中に何かが仕込まれているのか。

「そうか、()の程度減った」

会長は姉の言葉を信頼している様で、詳細を訊いて来る。

「一粒」

ひとつぶ? 粒状のものか。宝で粒状――あ、宝石とかそう云うことか。

「一粒だけか? 本統(ほんとう)に?」

会長は意外そうな声を挙げた。何となく宇佐組長の様子を窺ってみると、なんだか異様に眼を剥いて、熊に釘付けになっている。これ、余り宜しくない状態なのではないだろうか。何だか今にも舌()めずりでもしそうな勢いだ。目がギラ付いている。

「……一粒だけ。平均的な大きさの物を、盗られています」

姉は組長の様子には気付いていないのだろうか。余りそれ以上は喋らない方が。

「ふぅん? 行儀が好いんだな……」

会長は猶も、ぶつぶつと独り言を呟いている。組長は痺れを切らした様に、会長の横に勢いよく座ると、「お前ら一体、何の話をしている? 俺にも解る様に云えよ」と絡んで来た。しらばっくれているが、確実に(あて)は付けているのだろう。僕にだって判るのだ、海千山千のこの人に判らない訳は莫い。

会長は組長をじっとりと()め付けた儘、暫く黙していたが、探る様に緩りと、「見ての通りの、熊だ。盗まれて、人手に渡っていたのだが、今朝、帰って来た」と応えた。

「中身って何だ」

組長は更に食い下がる。

「中身は木だろう。木彫りの熊だ」

会長はぬらりくらりと(かわ)す。狐と狸の化かし合いの様な会話が何往復かした後、二人共黙り込んで睨み合いの状態になって仕舞った。

全体、この二人は、仲が好いのか悪いのかよく判らない。宇佐会長は明らかに、この宝の詰まった熊を何とかして掠め取ろうと狙っている様なのであるが、会長はそれに気付いていながら、丸で無防備である様に見える。組長が居る前で中身の話なんかする可きではないし、僕等を呼ぶのに組長を遣わせている時点で、如何にも警戒感に乏しい様に思う。姉が夢見せ過ぎて、腑抜けて仕舞ったのではないかと、心配になって仕舞う。

然し会長は、大切な熊が返って来た割には、ずっと距離を取り続けている。組長がその気になれば、攫ってその儘持ち去れそうである。然し会長のそんな態度を不審と思ってか、組長も熊とは一定の距離を取った儘、近付こうとしない。もう少し確定的な情報が欲しいのかも知れない。先走ってこの熊を略奪したところで、万が一ハズレだった場合には、二度と機会は得られなくなるだろう。組同士の関係性も壊れて、最悪抗争になるかも知れない。ハズレでそれでは、余りに割が合わないだろう。だから今は、お互いに肚の探り合いの様なことをしているのだと思う。

組のトップ同士が睨めっこをしている横で、姉は姉で、熊の置物をずっと凝視し続けている。先の会話内容からしても、姉はこの熊に内在している物に就いては、確信を得ている筈である。この上何を、そんなに懸命に視ているのだろう。

「矢っ張りよく判んないなあ……」

小さな声で姉が呟いた。それでもこの部屋で、聞き逃した者は居ない様だった。組長は姉を一瞥し、苦虫を噛み潰した様な顔を一瞬見せたかと思うと、直ぐ(おど)けた表情を作って、会長に向けて愚痴る様に云う。

「何だよ、結局お前等にもよく解ってないのかよ。一体如何なってやがるんだか。――付き合い切れねえや!」

如何も何か思い違いをしている様なのだけど、この際それは此方(こっち)にとって好都合なので、黙っておいた方がよいだろう。姉が判らないと云ったのは、熊の正体や中身に就いてではない。恐らく熊の記憶に、不可解な点でも有ったのだろう。然し組長は勘違いした儘腰を上げると、「ちょいと一郎の様子見て来るわ」と云い残して部屋を出て行った。何だか空気感に堪え兼ねたかの様に、そそくさと云う形容がぴったり来る程の退室っ()りであった。

その直後に宮司が顔を見せたので、鳥渡驚いて仕舞った。然し会長は動じることなく、「蓋しとけ」と指示を与えると、宮司は無言で頭を下げてから、静かに後退して行った。

「さて、何が解らないって?」

僕が襖を閉めている背後で、会長が姉を(たゞ)している。

「いや――巧く説明出来ないんですが……うゝん、でも真坂……」

如何にも姉の歯切れが悪いので、会長は僕に視線を向けて来た。

「春樹、開けてみるか?」

「はあ……何処が開くのですか?」

開閉しそうな部分は見当たらない。

「腹が開くんだが……そうだなあ、罠かも知れんなあ」

会長は何かを警戒している様だ。会長の云う通り、突然此処に現れたのだとしたら、例の警備会社が絡んで来るのは必至だろう。でも、それって詰まり……

「秋菜、お前なら開け方判るな? 念動力で開けて見ろ」

「え? あゝ、はい」

いきなり会長に振られて、姉は一瞬戸惑ったが、直ぐに諒解して熊の腹の板を一(ミリ)(すべ)らせた。

「こんな所が……」

「待て、この儘では中身が落ちて来る。先ず仰向けに返せ」

会長の云う通りに、今度は僕が、念動で熊を引っ繰り返した。熊は逆様にすると、両の耳と尻との(いびつ)な三角形で安定するように作られている。続きの作業は僕が引き継いだ。

「少し距離を取れ。何が起きるか判ったものではないからな」

会長に云われて、僕等三人は部屋の角で、会長を挟んで寄り添う様に並んで座り、熊を対角の隅に押し遣った。その後は会長の指示通りに、念動力で腹の板を少しずつ動かしていき、最終的には可成大き目の板が一枚、ポロリと外れた。中には見たことも莫い様な大粒の金剛石(ダイヤモンド)が、ぎっしりと詰まっている。

会長は深目の溜息を一つ吐くと、「爆発はしなかったな……瓦斯(ガス)なんかも出てないか」と呟く様に云った。

もう暫く様子を見ようと会長が云うので、引っ繰り返った熊と我々と、部屋の両隅に寄った儘、凝と睨み合う様にしている。僕も姉も、大量の金剛石にすっかり視線を奪われて仕舞っている。そんな僕等を会長は笑った。

金剛石(ダイヤ)を初めて見る訳でもあるまいに。そんな子供みたいな反応をするなよ」

「金剛石自体より、これを私達にお見せ頂いているこの状況が」僕は額を畳に擦り付けた。「私達を信用頂いている証と思えばこそ、驚きと感謝に堪えません」

姉も頭を下げている。

「止せ止せ。信用しているから傍に置いているんだろうが。――信用してなかったら開けさせるものか」

「有難う御座います」

頭を下げた儘応える。そんな僕等を会長は困った様に見詰めながら、姉に向かって再度問う。

「それで――如何遣って此処に戻って来たかは、判ったのか?」

姉は頭を挙げて、少し首を傾げながら、

「それが……何処かの地下収納庫にある所迄は追えたのですが、其処から如何も途切れ途切れで……」

「何が、途切れてるって?」

「軌跡と云いますか、足跡と云いますか……兎に角熊は急に少女の手の中に移っていて」姉は反対側に首を倒し、「それから老人が一度腹を開けて、その儘閉めて、男性と老人の手を介してどこかのスナックに運ばれ、其処からまた老人が何処かへ運び去って」そして復首を傾げ返して、「次はまた突然此処に現れています。これ等は凡て、今朝の内に起きたことです」

「二度程飛んでいる訳か。そう云う超能力があるのかな?」

「さあ……わたくしには何とも」

言葉の通りだとすると、それは瞬間移動、詰まりテレポーテーションか。例の警備会社ならそんな能力者が居ても可怪しくはないのかも知れない。――そして再び、先程感じたのと同じ懸念に至る。

ここで僕は漸く頭を挙げて、会長の顔を覗き込む様にしながら、その懸念を伝えた。

「それが超能力に()るものなのだとしたら……我々が此処にいることは、すっかりバレて仕舞っている、と云うことですよね……」

「監視されたら判るのではないのか?」

会長が僕を見返して訊いて来る。責める様な口調ではなかったが、何となし責任を感じて、冷や汗が背を伝った。

「昨日は確かに、視線を感じたのですが――」如何したって云い訳にしかならない。「然しあれ以来そうした気配は全く感じていません。別の方法に切り替えただけ、と云うことなのかも知れません」

「まあそうなんだろうな。此処がバレていないなんて、わしだって思っちゃおらんよ」

矢張り会長は、責めては来ない。想定内の事態なのかも知れない。敵の出方を窺っている様な風でもある。

「地下は無事でしょうか」

「そんなことはわしの知ったことではない」詰まらなさそうにそう言い放つと、続けてこう云った。「然しこうして熊が無事に戻って来たからには、もう彼奴等にも用は莫いんだよな」

一瞬、とした表情になって仕舞った。もう用は莫いとは、如何したことか。一郎を匿うことゝ、熊と、どの様な関連があるのだろう。

会長は大儀そうに立ち上がると、部屋の隅まで行って熊を逆様の儘抱えて、部屋の中央に据えた。僕らも移動し、熊を挟む様にして会長と向き合う位置に座り直しながら、一応訊いてみる。

「この熊と、一郎と、一体何の様な……」

然し会長は、僕の肩越しに部屋の入り口を見ていた。襖がと云う軽い音と共に開き、誰かが入室してくる。

「誰だ」

会長が闖入者に対して声を挙げた。宮司ではない誰か。地下の連中は「蓋」をした筈なので、出て来ることはない。一体誰が来たと云うのか。姉も同様の不信感を持った様で、二人で思い切り顔中に警戒を滲ませながら、振り返る。

「怪しいもんではない。あんたが依頼した探偵事務所の、所長だよ」

其処には白髪に立派な顎鬚(あごひげ)頬髯(ほおひげ)を蓄えた、小柄な老人が立っていた。会長は覚えが有った様で、直ぐに緊張を解いて力を抜いたのだが、僕等は何だか判らず、警戒を解けずにいる。

探偵と名告(なの)ったこの老人は、会長に対しても気後(き おく)れすることなく、(ほゞ)対等に振る舞っている。宇佐組長の他に、会長と同じ目線に立てる者が居るなんて思わなかった。圧倒されながらも話を聞いていると、如何やら僕等の懸念は殆ど当たっている様だ。この探偵は例の警備会社とも通じていて、熊を此処へ届けたのもその会社の超能力者らしい。(いず)れこの場所も、何らかの超能力で監視されている、と云うことなのだろう。

話題が、紛失した一粒に及ぶ。最初にこの熊を盗み出した者が、一粒だけ売って仕舞った様で、最早取り戻すことも叶わないと云うことだった。その時、探偵の右隣の空間に、何か違和感を感じた。その儘凝視していると、薄ぼんやりとした、立体映像の様な感じの女性が現れた。会長も姉も、勿論僕も、相当に驚いて半歩後ろに下がり、口を半開きにして固まっていると、その女性は、いきなり土下座をした。

「申し訳ありません! その金剛石を売ったお金は、うちの母が生活費と教育費の援助として受け取りました!」

その後も長々と謝罪の言葉を続けていたが、要するに、熊からくすねた金剛石に依り、それとは知らずに恩恵を受けたが、識った以上は必ず返すと、その様なことを云っていた。彼女の告白が終わった後、暫くは沈黙が続いた。半透明の女性は土下座の儘、ずっと額を畳に擦り付けている。

軈て会長が、軽く咳払いをして居住まいを正した後に、「なんだこの状況は」と探偵に抗議する様に云った。何だか探偵も一緒になって驚いている様な表情をしていたけれど、直ぐに取り澄ました顔を作って、「これは、と或る能力者の、空間術と云う奴だ」と云った。

空間術。成程と思った。この能力を応用すれば、遠隔地から僕らのこともお手軽に監視出来るのだろう。この方法だと僕にも察知出来ない様だ。

続く会話で、会長があっさりと、金剛石の一粒を諦めたのは意外だった。この女性へのプレゼントだと云うのだ。幾ら相当なのか判らないけれど、非常識なことだと思った。返すと云っているのだから返して貰えば良いのに。然し僕も、この女性に悪感情を抱けないという点には同感なのだ。僕が会長の立場だったとしたら、矢っ張り金剛石は諦めただろうか。探偵の弁に拠れば、この女性は超能力者ではない、唯の一般人だと云う。だから尚更、人柄が素直に映じるのかも知れない。何の含みも無く、唯告白と謝罪の為だけに、警備会社の力を借りてではあるけど此処へこうして顔を出しに来たのだ。素直な上に、胆も据わっている。嫌味なところが全く感じられない。

そっと姉を盗み見てみたが、姉は殆ど無関心の様だった。矢張り女同士だと素直に受け止められないのかな――いや、そうではなく、単に今の姉には、会長以外の他人に大した興味は持てないのかも知れない。別に好いんだけど、なんとなく、双子の弟としては稍心配にもなる。

会長が金剛石をあっさりと譲る気になって仕舞うのも、姉の責任なんじゃないのか。姉が会長の野心や物欲なんかを、可成希釈していることは事実なんだろう。

会長は自分のことを「心優しいヤクザ」などと云っている。誰かが死んだ話だか殺された話だかを、心底辛そうに語っている。――心は最初から優しかった。僕等を拾ってくれた時から。だけどそれ以上に、今の会長は穏やかになり過ぎている。本統に久万組は、この先大丈夫なのだろうか……

「一郎の身柄を貰うぞ」

探偵が云った。現実に引き戻された。如何云う話の流れがあったのか、さっぱり聞いていなかった。探偵が一郎を引き取る?

「あんなものが欲しいか」

「欲しいな」

「うちは無関係だぞ」

「知っとるよ」

「なら好きにしろ」

何の会話なんだろう、これは。探偵が一郎を匿うと云うのも……否違うな、これは、司直に引き渡すとか、そう云う話なのではないのか。

「今時殺し屋なんか飼ってたって、リスクでしかないのよ。現に今こうして、持て余しているだろうに」

「そんな者を何故匿う?」

「何故ってなぁ……何でだろうなぁ?」

会長が僕を見た。一郎を匿う理由? 僕が知りたいぐらいだ。何で僕に訊くのか……なにか試されている様な気がして、少し考えてから、こう答えた。

「宇佐に恩を売りたかったのではないかと、手前は感じておりました」

「うん、まあ、それはあるかな。でもそれだけではない、と云うかそんなことは実は如何でも好い。彼奴に恩売ったって碌なことは無い」

てことは結局、は無いんじゃないか。でも会長の云うことも尤もだと思う。あの組長に恩を売ったところで、たいして旨味は無さそうな気がする。――結局のところ、会長が云うには、この眼の前にある熊の置物が行方不明だったことが、一番の理由だったらしい。宇佐組が隠し持っている可能性があった様なのだ。探りを入れたくて、懐に這入り込む過程で、一郎の身請けを申し出たのだそうだ。結局宇佐には無かったのだけど。(むし)ろ宇佐側も、宝目当てで一郎身請けの話に応じた様だ。何とも間抜けな行き違いだ。

この金剛石は、会長の祖父の代に事業で為した財産なのだと云う。ヤクザ稼業をする以前のものなのだろう。堅気の非常に真っ当な財産だ。会長は親の代までは堅気だったのだ。会長個人が、道を誤ったのだろう。それでも会長迄上り詰めたのだから、大したものだとは思う。探偵も云っているが、人格が魅力的なのだ。姉が心酔するのも判る。僕だって会長には忠義を尽くしたい。

あんな環境に居た僕等を、厭な顔一つせずに、掬い上げてくれた。それは勿論、超能力が目当てだったのかも知れない、それは認めざるを得ないとは思うけど、だとしても、あんな汚い子供を拾って、親同然にこゝ迄育てゝくれた。学校だって行こうと思えば行けたのだ。僕等が会長の側から離れるのを嫌がったから、今こうして、高校も行かずに会長の元で働いているけれど、何度も強く進学を進められたのも事実だ。先程のホログラムの女性も云っていたけれど、学校に通うのにはお金が掛かる。高校などは受験からしてお金が掛かる筈だ。にも拘わらず会長は行け、行け、と何度も強く云ってくれた。そう云う人なのだ。結局行かなかったのは僕等の我儘でしかない。――単に超能力目当てで、そこまでしつこく云うか? 云わないと思う。だからこそ僕等は、会長には忠義を尽くしたいと思うのだ。

などと半分、上の空で思い巡らせていたら、矢庭に会長が探偵に向かって、想定外のことを云い放った。

「あんたエスパー部隊と繋がりがあるんだろう。この姉弟を拾ってやっちゃくれねぇかな」

思わず片膝を立てた。姉も略同時に腰を上げる。

「突然何を仰るのですか! 僕らは常に会長の側に居ります! ――如何か見捨てないでください!」

「私も会長のお側を離れたくありません!」

「見捨てるとか云うなよ。お前達は本当によく働いてくれている、わしは感謝しているぞ」

「そんな、当然のことです!」

「でもな。この儘ではお前ら、わしが死んだ後路頭に迷うだろう。組の連中がお前らを正当に扱ってくれるとは思えん。――だから、この機会に堅気になれ。そこの部隊なら、お前らの様な能力者を正当に評価して、正しく導いてくれるだろうよ。そんなところ他にはないぞ」

「厭です! 会長! 死んだ後のことなんか考えないで!」

姉は涙を流しながら、会長の腕にしがみ付く。

「止せよ。お前わしを幾つだと思ってやがる。お前らの行く末は、死ぬ迄に片付けておきたいことの筆頭事案だ。心配させながら死なせないでくれ」

「そんなお言葉、聞きたくないです!」

一昨日姉に対して似た様なことを云ったのは僕自身なのに、直接本人の口から聞くと辛い。僕まで涙が出て来た。

「やれやれ――探偵さんよ、如何したものかな」

「そんなこと俺に訊くない。そっちで解決してくれ。――まあ一言助言するなら、慌てなさんな。この姉弟だっていきなりそんなこと云われて素直に聞けるかよ。もっとじっくり時間掛けて、話して遣りな」

「そうか――わしは気短だからな」

会長は苦笑して、腕に絡み付いた姉の手をそっと叩いた。

「諒解ったよ。一旦今の話は棚上げだ。でもな、何時かは棚から降ろすぞ。お前らもそれ迄には、自分の将来(しっか)り考えておけ」

僕等は並んで、畳に額を擦り付ける程に低頭した。姉も僕も、涙が止まらない。余りにずっとそうしていたので、何時探偵が立ち去ったのかも知らない。気が付いたら部屋には三人だけになっており、会長の暖かい掌が、僕らの背の上に乗っていた。

「棚上げしたからには、今日はもうこの話はしねぇぞ。二人共落ち着いたら、部屋に戻っとけ」

僕は袖口で涙を拭いながら、顔を挙げた。

「もう――大丈夫です。有難う御座います。――姉貴――姉ちゃん、戻るぞ」

姉の肩を揺すると、姉は(しゃく)り上げながらも、涙でぐちゃぐちゃになった顔を挙げた。僕の顔もこんな風に非道い有様なのだろうか。

「二人共、顔洗って来い」

会長が苦笑しながら云うので、二人で赤面した。

盛夏 一日目

下呂での一件から二箇月と少しばかり過ぎた頃、私は独り、静岡浅間(せんげん)神社の長い石段を登っていた。念動力も使わず、自分の足で、一段ずつ数えながら上がっている。

此処へ来る迄に、じりじりと照り付ける太陽に灼かれ、背中は汗でびっしょりになっている。木蔭に這入ると背中がひやりとする。初めは良いが、ずっと居ると今度は全身の汗が冷えて寒気がして来るので、陽を求めて陰から逃れる。すると復途端に暑くなる。先刻からこの繰り返しで、好い加減身体も弱って来る。日焼けが嫌なので、鍔の広い帽子を被り、腕にはアームカバーと、ズボンも薄手のコットンパンツを穿いている。それらが汗で貼り付いて来るのが唯々不快だ。この状態で春樹から入れ替わりを打診されても、絶対に請けられない。出掛けに、入れ替わり無しと断っておいて好かった。

この階段には両側の樹木が大きく張り出して来ていて、殆ど陰になっているので、多少は暑さもましなのだが、階段を上る運動で体温は上がるし汗も掻く。暑さを避ける超能力でもあれば好いのに、などと詮莫きことを思う。エスパー部隊ならそんな能力者もいるのか知ら。――うっかりそんな考えが頭を(よぎ)って、戦慄する。

厭だ。そんなところには行きたくない。何で会長はあんなことを云ったのか。

そう云えばあの下呂での出来事の直後、一郎は逮捕されたのだそうだ。すっかり引き揚げた後の出来事なので、その現場に立ち会った訳ではない。だから仔細は判らないのだけど、逮捕の絡みで宮司さんが鳥渡絞られたのだそうだ。社務所に大きな地下室なんか造っているのだから、そりゃあ見咎められもするだろう。今更ながら、何であんな物が在るのかと不思議に思う。元々久万組の実力者だった様だし、矢張り善くない企み事なんかに使っていたのだろうか。

気が散って仕舞って、段数が判らなくなった。この階段は勾配もきつく、非常にしんどい。百段階段と呼ばれているのだが、真実百段なのか如何か確かめたくて数えていたのに、数え損なって仕舞った。だからと云って登り直す気にもならない。仕方が無いから下りる時に数えることにしよう。

登り切ると、平坦な道が続く。右手に折れて進み、更に幾つかの階段を上ってゆくと、朱塗りの社が見えて来る。(ふもと)の山と書いて、「はやま」と読む。麓山神社だ。其処を回り込んで登山道の様な途を通って行くと、この賤機山(しずはたやま)の展望台らしき処に辿り着く。其処から静岡市内が一望出来、その奥の山並みを更に向こう側から見下ろす様に、富士山が(そび)えている。何だか子供の頃に見たよりも、黒っぽく見える。冠雪が少なくなっているのだ。これも温暖化の影響か。――そう思ったら、急に暑さが増した気がして来た。肩掛鞄(ショルダーバッグ)から手巾(ハンカチ)を取り出して、額の汗を拭く。

この辺り迄は子供の頃から、弟と二人でよく来ていた。子供の足では中々大変だと思われそうだが、そこは念動力を適当に使いながら登っていたので、大して苦ではなかった。今日は何となし、念動力を使わずに登って来たので、寧ろ昔よりきついぐらいだ。周囲を見渡してみると、当時よりも木が育っている様で、なんとなく見晴らしは悪くなっている気がするが、子供の頃より視線が高くなっている訳だし、思い出が美化されているだけかも知れない。然し富士山は確実に黒くなっている。

ところで私は、富士山を観る為に此処へ来た訳ではない。私はこの故郷へ、過去の整理をしに来たのだ。両親が殺され、家を焼け出されたあの日。一体何があったのか。それを識る為に。

あの下呂の一件の後、春樹と二人で久し振りに色々話した。先のこと、会長の棚上げした話もそうだけど、それに就いては余り進展しなかった。矢張り二人共、会長の元を離れるなんてことは想定できないんだ。会長も何時かは亡くなる。そんなことは解っている。だけど今、そのことに就いて論じたくない。論じる可きではないと思っている。

だから寧ろ、過去の話を沢山した。あの春樹がすっ飛ばした上級生は、あの後極端に大人しくなったのだと、春樹は云っていた。そうなんだ、と云ったら、覚えていないのかと云われた。

「姉ちゃんがしたんだろ?」

「した? 何を?」

春樹が云うには、あの上級生は打ち所が悪かったのか、丸で別人の様に大人しくなって、日々呆けているか、薄ら笑いを浮かべながらぶつぶつ独り言を云っているばかりの、腑抜けになって仕舞ったとのことだった。私が治癒能力の加減で可怪しくしたのではないかと春樹は云うのだが、全く身に覚えがない。確かに治癒はした。それはでも、ちゃんと治癒だった。あの儘だと多分、彼は死んだか、若しくは脳死ぐらいにはなっていたのではないか。そう云うと春樹は黙って仕舞った。

「だから春、あんたの力が強過ぎたんだよ」

「そんなこと……今更云われても……」

当時春樹は、一切責められなかった。小学三年生の力で、中学生をあんなに強く壁に打ち付けるなんて、如何考えたって出来る訳は莫いと、大人達は判断したのだ。何かに躓いたとか、勢い余って自分からぶつかったのではないかとか、そんな感じのこじつけをして、結局は事故と云う扱いにされたのだと思う。

「でもあんた、よくそんなこと覚えてるね。あたしすっかり忘れてたわ」

「あれは忘れられないよ……あんなことする心算じゃなかったんだ……」

ずっと気に病んで来た様だ。意外に神経の細い所がある。

「あの時も聞いたけどさ、何があったのよ」

「うん――いや、まぁ……」

どうも歯切れが悪い。

「なぁに、あたしの悪口でも云われた?」冗談めかして云ってみた。

「いや、姉ちゃんでなくて……」

「ん?」

「親の事……」

大分意外だった。親なんて、居ないものとして今迄生きて来た心算だった。

「あんた、親好きだったんだ?」

「そう云う訳じゃないんだけど……でも……」

なんだかよく理解できない。私は親を如何云われようとも、何も感じないと思う。そんなことで反応出来る程、親と確りした関係性を築いて来なかった。死んだ時も、そうか、と思っただけだった。生活が激変したことで戸惑ったり、苦しんだり、悩んだりはしたけれど、そこに親への情などは這入り込む余地もなかった。

「そうだよなぁ……何で俺、あんなに怒ったんだろう……」

「あんた大丈夫?」

「あのさ……俺等の両親、何で死んだんだ」

「そんなのあたしが知りたいよ」

「何で家焼けたんだろう」

「知らないって」

如何にも春樹の様子が奇怪しい。こんなにくよくよする様な奴じゃない。一体春樹の中に何が(わだかま)っているのだろうか。

「親はさ、好きじゃなかったけど、別に嫌いでもなかった……」

「あたしもだよ。同じ」

「だよね……特に何も、非道いことされた訳じゃないし……いやまあ、今冷静に考えれば、軽く育児放棄(ネグレクト)なんだろうけど」

「あたし達、怖がられてたから」

「そう!」

我が意を得たとばかり、春樹は顔を挙げて一瞬瞳を輝かせたが、直ぐに復俯いて、

「そうなんだけど……でも何と云うか……」

「なにそれ。あんたやっぱり奇怪しいよ」

「あのさ、ごめんな、ゆるせないなって」

TUBE(チューブ)?」

何かそんな様な曲があった気がする。一寸(ちょっと)違うか。

「何それ、ちげぇよ。いや、俺自身今一よく判ってないんだけどさ、何かの時に親父に、そう云われて……でも前後を全く覚えてなくて」

「でもそれが何よ」

「いやぁ……こうして言葉にしちゃうとほんと、何でも無い様な気もするけど……」

虎舞竜(とらぶりゅう)?」

「何だよそれ」

「何でもないよ。古いバンド。流せ」

如何も春樹の話は要領を得ない。そんな言葉を掛けられたからって、何かの愛情の証明にでもなると云うのか。怖がられていなかった反証にでもなると云うのか。――でもそうか。あの日、春樹は泣いていたんだ。あれは寒いからでも心細いからでもなくて、若しや親を亡くしたことに対する涙だったのか。それなら、春樹の為にも矢張り、判然(はっきり)させておく可きか。

「あんたの話、なんか気持ち悪いし、あたしも犯人とか気になって来ちゃったから、視に行くよ」

「え?」

「静岡の(うち)。土地の記憶視て来る」

「そんなの……まだ在るの?」

「焼けた家がある訳ないでしょう。でも土地は動かないんだから。何かしら視えるかも知れないじゃん」

「そうか……でもそんなの、会長行かせてくれるかな」

「訊いてみるよ」

会長には、親を殺した犯人を捜したいとだけ云った。会長は一瞬、驚いた様に眼を剥いたけど、直ぐに納得した様に頷いてくれた。この前の下呂で見せた、私の能力を諒解した上でのことだ。

何だか立派なホテルを手配されそうになったので、目立ちたくないと云って安宿に変えて貰った。当面の軍資金も出してくれたので、それは有り難く貰っておいた。

そうして今、此処に来ている。春樹は会長の元に残して来た。二人揃って会長の側を離れる訳には行かないので。

様々な想いを胸中に去来させながら、私は市内に眼を向ける。昔住んでいたのはあの辺りだ。狭くても一軒家だった。あの日に焼失して仕舞って、今は駐車場になっている。元々借家だったのだろうか。土地を相続した覚えは無いし、召し上げられたと云う話も聞かない。親の稼ぎなど知らないので、持ち家だったか借家だったかなんて、気にしたこともなかった。

十年近く前の記憶を、この辺りの土地の記憶を、風景に重ねて透かして視る。この能力が当時から有れば。否、有るには有ったのだけど、使い方がよく判っていなかったし、迚も弱い能力だったので、余り活用出来る状態でもなかったんだ。今でも余り使い(こな)せているとは云えない。――現に、余りに昔過ぎて、そして余りに期間が長過ぎて、雑然としていて何だかよく判らない。あの日。あの時に絞り込みたいのだが、正確な日を覚えていない。夏だったか、冬だったか。否、春先だった様な……暑かったのは火の所為か。春樹と二人で震えていたのは寒かったからか。年なら判る。あれは、小学生の……

やだ嘘でしょ、何年生だったか忘れる?

確か……そうだ、施設に引き取られて直ぐに新学期で……それは一学期だった筈で……で、で、学年は……施設を追い出されたのが三年で、そんなに長くは居なかったから、這入ったのも矢っ張り三年……新学期前なら、二年の冬か。年は明けていたんだっけ。で、春休みは……焼け出されてからずっと学校に行っていないので春休みに這入っていたのか如何かも判らない。だから……

小学二年の冬、年は明けていたから、平成二十七年の一月から三月として……その期間に絞り込んでみても、流石に此処からだと遠過ぎて、よく判らない。否、待てよ、る。その日、その前――思いの外往来する人も多く、迚も特定出来そうにない。遠いからなのか旧い記憶だからなのか、薄ぼんやりとしていて甚だ視難い。家に出入りしている者があるのか如何か、判然しない。矢張り行って視るしかないか。

戻る際に、賤機山古墳を回り込む道へ進んだ。この道も昔よく通った。百段階段より緩やかな階段なので、下りるのも楽である。――ここで、百段階段を数える心算だったことを思い出した。結局段数を確認することなく、麓まで下り切った。あの階段は子供の頃にも数えた気がするのだけど、 幾つ在ったかは忘れて仕舞った。百より多かった様な覚えはある。まあ好いか、また今度、と浅間山を後にした。

そう、だ。「さん」は敬称でもあり、山でもある。賤機山と云うのは南北に長くて、山頂はずっと北の方なのだが、南端のこの辺りは神社がある都合だと思うけど、浅間山とも呼ばれている。浅間は、「あさま」とも読むらしい。何方が正しい読み方なのかは知らないが、地元の人たちは皆「せんげんさん」若しくは「せんげじんじゃ」と呼んでいたと思う。子供の頃の記憶なので余り当てには出来ないけれど。

歩きながら取り留めの莫い思い出に浸っている。然し覚えている様で、十年も経つと色々変わっていたりして、時々不安になる。此方(こっち)で好いんだっけ、と。

見慣れぬ街並みに、見覚えのある建物や看板等を見付けると、ほっとする。そうした僅かな記憶を手掛かりに、生家へと向かう。

矢張り生家は、駐車場になっている。隣の建物も記憶とは違う。若しかしたら類焼したのかも知れない。そんなことを思いながら、駐車場に侵入する。スペースは五台分で、その内の一台分しか使われていないので、動き回り易かった。父が倒れていた書斎はこの辺りか。その場所の記憶を重ねる。

倒れた父。

倒れる前の父。

その父の胸にはナイフが。

これは――待って、何で――そんな筈は――

私はその場に立ち竦んだ。自分が視ているこの土地の記憶を、受け止め切れていない。違う。そんな筈はない。だって――

春樹は――

父の身体が硬直している。刺される前から。固定されているかの様に。これは、紛れもなく。

違う。駄目。春樹――なんで――

血に塗れたナイフを構えて。

未だ八歳の。

人の生き死にもちゃんと認識出来ていなかった様な。

そんな春樹が、確りとナイフを逆刃に構えて。

違和感を感じた。八歳の幼子が取るような体勢ではない。これでは丸で、玄人(プロ)の殺し屋の様な。

母は。

母はこの時何処に居た?

私は当時の記憶を重ねた儘、駐車場を見渡した。

母は居間で倒れている。

首にパックリと大きな裂け目が。

倒れる前の記憶を辿る。

此処にも春樹が――

「嘘だ!」

思わず出た叫び声は、嗚咽に押されてくぐもった声となった。それでも道行く人が、何事かと此方(こちら)を振り返る。私は認識を操作して、自分の存在を薄める。

春樹はそんなこと一言も――だってあの時、一緒に打ち震えていたじゃないか。一緒に運命を呪い、薄情な親達にさえ未練の情を示して、涙だって流していた。あれは何だったの。

ナイフを振り上げた春樹の顔を見る。眼を見る。瞳を。――矢張りこれは。

私はもう一度、周囲を見回した。春樹は云っていた。誰かが居たと。誰かを見たと。それが勘違いや幻覚で無いとすれば、必ず――

そうだ、火は? 春樹が火を着けたとは思えない。思いたくない。辿る。火事の記憶から(さかのぼ)って行く。火は後退して行き、一点に収束する。台所。油の鍋。揚げ物でもしていたか――いや、そんな気配はない。油の張った鍋がぐつぐつ煮えているだけで、食材なんか一つも出ていない。如何云う状況なのか。

遡る。この鍋を火に掛けたのは母だ。此処にも違和感。母の顔ってこんなだったか。古い記憶だから稍掠れて見えているけれど、その所為ではない。視点が定まっていない。これは――

遡るが、それ以上の手掛かりは見付からない。順方向に辿り直す。春樹は屈んだ母の背後から襲っている。襲う前に丁寧に念動力で動きを封じて。母は――何か云っている様だが、この能力では音声までは判らない。口が動き、視線は背後へ向かうが、春樹には届かない。顔は極めて無表情である。緩りと手が伸びて、春樹に届く前に、首が切り裂かれる。手が動かせると云うのは、直前に念動力を緩めたのか、それとも矢張り、当時の春樹の力が弱かったのか。母は大量の血飛沫と共に、前方へと真っ直ぐに仆れた。絨毯が紅く染まってゆく。もう声も出せないだろう。

思わず目を背けた。過去の記憶とは云え、生々しさに堪え兼ねたのだ。生母の死に際を直視出来る者も、そうそう居ないだろう。仮令(たとえ)関係が希薄だったとしても。

春樹は事を済ませると、真っ直ぐ書斎に向かう。そして同じナイフで父を。矢張り念動力で自由を奪った状態で。――父も何か云っている。突かれる。同時に父は春樹を羽交い絞めにした。矢張り念動力が解かれている。父の手が震えて、脱力すると、春樹はナイフを抜く。血が噴き出す。相当な返り血を浴び、その場で服を脱いでいる。

風呂場に行って、血を洗い流している。子供部屋に戻り、新しい服を着る。この時私は、同じ部屋に居たけれど、春樹の行動を気に掛けてはいなかった。お風呂に這入ったんだ、程度の認識だったか。

その後結構直ぐに、台所の鍋が火を吹く。返り血を浴びた服も含めて、全ての証拠は業火に焼かれた。

私はその場に蹲み込み、過去の映像を一旦遠去けた。整理が必要だ。混乱していて受け止め切れない。春樹は一体、如何して――八歳だよ? あんなことするかな――幼いからこそ残虐なのか。否、でも――血を浴びた後の行動だって、澱み莫さ過ぎる――

春樹の顔を思い返す。矢張り何か違和感がある。何だろう。

繰り返して同じ記憶を辿る気にはなれなかった。自分の容量(キャパシティ)を軽く超えている。双子だから何でも解っていると錯覚していた時代に、全く理解の外側に弟が居た。肩を抱いて思わず身震いする。嘘だと云って欲しい。嘘であって欲しい。――然しこの記憶は、嘘を吐かない。

私は駐車場を出て、外側をぐるりと回ってみた。家に出入りする者が無かったか、若しくは、家族の誰かが出掛けたりする様なことは莫かったか。

遡って、遡って、やっと辿り着いたのは、何てことはない唯の宅配便だ。これは前日の夕方か。それ以降家の出入りは無い。家族も何処へも出掛けていない。母は買い物にさえ出ていない。父が出掛けないのは休日だからか。土曜か日曜だったのか。

更に遡ってみても、その更に前日、父親が仕事から帰って来る迄、全く出入りが無いし、訪問者も無い。

宅配便?

何が届いたのだろう。そこの記憶を注視する。受け取っているのは片手で持てる程度の小振りの箱だ。受け取った母は、なんだかぼんやりとしている。――受け取る時間が長くないか? 荷物を受け渡す姿勢の儘、二人その儘、数分凝と固まっている様に見える。配達員が母を凝視している。配達員の唇が小さく動く。母の瞳孔が拡散してゆく。

母の背後に春樹が居た。配達員はそれに気付くと、母の肩越しに春樹に視線を送る。此処でも数分。配達員の唇が小さく動く。何かを云っているのだろうけど、声は聞こえない。春樹の瞳孔が拡散してゆく。

「これって……」

小包は、配達員の手から母に渡り、その儘横流しするかの様に春樹へと渡された。

春樹が包みを解く。

中には――

銀色に光るナイフ。

春樹は魅入られたかの様にその刃を見ている。春樹の顔が映っている。

春樹が顔を挙げて配達員を見る。この配達員は何故立ち去らないのか。

春樹は無表情の儘顔を伏せ、ナイフを持って自室へと去った。

配達員は母を見る。母も配達員を見ている。

軈て何か納得した様にして母も顔を伏せ、配達員を残した儘玄関に背を向けた。そこで漸く、配達員は玄関扉を閉めて、この家から立ち去った。

立ち去り際私は、配達員の顔を確認した。古くて掠れた記憶だから視難いのだけど、眼を細めてじっくりと見定める。極めて無表情なこの若い配達員は、碧い瞳をしていた。

盛夏 二日目

「知らないよ、眼の色なんか」

春樹は鬱陶しそうに答えた。覚えていないのかも知れない。矢張り春樹の云っていた「誰か」は、この配達員ではなく、作られた幻想である可能性の方が高い。

「当日のことで何か覚えてない?」

「うーん……」

腕組みをして考え込む。何かを隠している様には見えないが、心の内までは計り知れない。

結局春樹は、後から私を追い駆けて来た。会長も一緒で、そこそこ立派なホテルに逗留しているそうだ。今は私の宿泊しているビジネスホテルを、春樹が一人で訪ねて来ている。会長は水木と云う組員を従えて、何処かへ行ったそうだ。それで朝から此処へ、私を訪ねて来ているのだ。

春樹が来たのは、矢張り当時の状況に興味があるからなのだろう。何があったのか、識りたいのだと云う。

――本統に覚えていないのだろうか。

覚えていて、私が何かを嗅ぎ付けるのを警戒している、とは考えられないか。

私は(かぶり)を振った。そんな訳ない。私が見た八歳の春樹は、明らかに春樹の意思で行動していなかった。心神喪失と云うか、あれは、誰かに操られていた様な感じだった。洗脳? いや寧ろ、憑依? あれは春樹ではない。あの表情、あの目付き、あの行動、身の熟し。私の知っている春樹ではなかった。

母もだ。自分の記憶の中の母とは、どうしても重ならない。違和感が無かったのは父だけだ。

然しそうだとして、一体誰が、何の為に? 親達は一体全体、何に関わっていて、何に狙われたと云うのか。――親の仕事さえ認識していないのに、解る訳がない。

あの配達員だ。あの瞳を視る迄は、外国人だなんて思いもしなかった。見事なまでに日本人に化けている。あれは一体何者なのか。記憶を辿って、彼の者の来し方行く末を追うことは出来るかも知れないが、車で移動していたので、相当骨が折れそうだ。この記憶を読む能力、位置を固定すれば時間方向に就いては極めてよく見渡せるのだけど、余りに大きく素早く移動されると、追い掛け辛いのだ。時間を固定して空間を見渡すか、空間を固定して時間を見渡すのは容易なのだけど、両方は可成難しい。針穴を通して探し物をする様に不如意で、直ぐに見失って仕舞う。

もう一度賤機山に登ってみるか? 一時(いちどき)に広い範囲を見渡せる場所に立てるなら、その儘時間方向に追い掛けることは出来るかも知れない。でもあんな細かくて追い掛けられるか知ら。何処にでもありがちな軽の白いバンで、宅配業者の社名などが這入っている訳でもなく、特徴的な車両でもないので、直ぐに見失いそうである。途中で乗り換えでもされたら(ますます)困難を極める。

春樹があの配達員に何をされたのか、本人が僅かでも覚えていれば、手掛かりになるかも知れないのだけど……春樹の心が読めたらなぁ。

唐突に復、例の警備会社を連想した。彼処には心が読める奴がいる。春樹も私も、中央道の移動中に読まれ掛けたじゃないか。あんな高速移動している私達を確り捉えて。――冗談でなく、彼等の協力を仰ぐと云う道もあるのではないか?

自身の発想に身顫(みぶる)いした。厭だ。絶対にそれだけは。私も春樹も、逮捕されて、投獄されて、あの寒くて臭くて汚い牢屋に……そんなのは厭だ。奴等は会長の敵なのではないのか。協力など――莫迦(ばか)も休み休み云え。

結局行き詰まりなのだ。ここから先、如何すれば好いのか判らない。

「血が……」

春樹が自分の掌を見詰めながら呟いた。瞬間、私は戦慄した。春樹に思い出させてはいけない気がした。あの行為は絶対に弟の意思ではない。そんなもの思い出して仕舞ったら、春樹の心は如何なって仕舞うのか。

「いゝよ、もう。無理しないで。掌に血が付いてるぐらいじゃ何にもならないし」

「いや――俺、親の死体なんか見てないし、だから当然触ってもいないし……なのに何で血の記憶が」

「好いって!」

春樹が吃驚して此方を見上げた。仕舞った、過剰に反応し過ぎた、不自然だったよね……と、後悔の念が胸中を巡る。

()の道あの配達員を追い駆けられない以上は、もう手詰まりだよ。春が何か思い出した所で、多分進展はないよ」

「何でさ。何か判るかも知れないだろ」

(よし)んば春が見掛けたと云う人物の顔を思い出した所で、あたしが視た配達員と同じか如何かなんて確かめ様がないし。なんかもう、あたし疲れたよ……」

「百段階段なんか上るから」

「そう云う意味じゃないんだけど」

春樹がぎこちなく笑うので、仕方莫し、私も笑う。駄目だ。辛い。何だこの空気感。

本当に、手立ては無いのだろうか。あの配達員の正体を、何とかして辿りたい。矢っ張り駄目元で、賤機山に登ってみようか。

「探偵――」

「あん?」

春樹の呟きに、不意を突かれた。何だって? 何を口走っている?

「あのさ、この前の探偵。彼処に依頼してみたら如何かな」

私は多分、キョトンとした顔をした。

「は? 何それ。何を依頼するの?」

「その配達員の……調査?」

「あのさ、春」私は、それ迄斜に構えていた体の向きを、春樹に向けた。「配達員の話は、あたしの能力の中だけにしか無いの。あたしの頭の中にしかないんだよ。写真も映像も残ってない、何の証拠も情報も無いの。そんな状況で探偵なんかに、何を如何伝えるのよ」

「特徴ぐらい云えるだろ。似顔絵とか」

「絵なんか無理だし、特徴ったって、目が碧いってことぐらいしか説明出来ないよ。顔の細部は余り判然とは視えなかったから、普通に日本人かと思った様な顔って程度で。そんな曖昧で貧弱な情報で、幾ら探偵だって、調査なんか出来ないでしょ」

解っている。あの探偵は警備会社のエスパー部隊と繋がっているのだ。春樹はそれを云いたいのだろうけど、明言を避けている。確かに、読心術で私の心の中を確認して貰えれば、配達員の映像も共有出来るのかも知れない。詳しく奴等に何が出来るのかとか知らないけれど、なんとなく万能感がある。この前の下呂での件でも、如何(どう)にも太刀打ち出来ないと感じた。私達なんか足許にも及ばないぐらい、彼等は有能で優秀なんだと思う。でも――

でもそれは厭だ。厭なんだ。

私は多分、もの凄く不愉快な表情をしていた。春樹はそれを汲んでくれたのか、それ以上は何も云わなかった。罪滅ぼしに提案してみる。

「もう一度上から視てみるよ。若しかしたら追えるかも知れない」

「また浅間山登るの?」

「百段階段、数えて来るよ」

「なんだそれ」

春樹は笑った。弟には笑っていて欲しい。

双子の姉と弟なんて、ほんの数分だか数十分だかの違いでしかない訳で、生まれる順番が違ってれば兄と妹だったかも知れない訳だし、殊更に年長者の態度なんか取ることないとは思っているけれど、十七年も姉を遣っていると、矢張り姉としての立ち居振る舞いの様な物が体に染み付いて仕舞う。同じ年なのに、姉貴面して仕舞う。春樹からしたらそんなのは迷惑だろうなとは思うのだけど、でも如何しても庇護したいと思って仕舞うのは、如何(いかん)ともし難い。――思い上がりなんだろうとは思うのだけど、止められない。

「まあそう云う訳だから、出掛けるね。あんたは如何するの?」

「一旦ホテルに戻っておくよ。会長も昼には戻って来るって、云ってたから」

「そう」

「後で顔出しなよ」

「まあ、気が向いたらね」

そう云って身支度しながら、春樹を部屋から追い出して、直ぐに自分も部屋を出た。春樹はもう居なかった。

私は再び浅間神社へ向かった。徒歩で二十分ちょっと。その間も私は、何か他に手立ては無いかと考えを巡らせている。上から視ても細かくて、恐らく車なんか追い掛けられないと思う。そんな特徴の莫い車を追尾出来る程、この街は寂れてはいない。それでも、遣るだけ遣ってみるしかない。

拝殿の裏手に在る八千戈(や ち ほこ)神社の脇から、百段階段が伸びている。今度こそ数えようと、足を踏み出す。一段、二段、三段。家の在った土地の上空から見れば、もう少し見易いのだろうな。八、九、十。私の念動力がもう少し強ければ、空も飛べるかも知れないのだけど。十八、十九、二十。春樹にも空を飛ぶことは出来ない。春樹より弱い私の力では、二十八、二十九、三十、空は飛べない。――三十で一旦立ち止まって、振り返って見るが、木が張り出していて街なんか見えない。勾配が急なので、下を見ると少し怖い。転げ落ちた場合に念動力で何とか出来るだろうか。

頭をふるふると振って、正面に視線を戻す。三十一。兎に角上迄行こう。三十五、三十六。

若しも、三十九、四十、あの車の実物を見付けることが出来れば、その車に付随する歴史として、確認できるかも知れない。五十。

立ち止まって、ふっと自嘲気味に笑った。そんな物が見付かるなら、その過程で色々解決してそうだ。五十一。

そうだ、ナンバープレート。そこから辿れないかな。五十五。後でもう一度、車を確認しに行こうか。五十九、六十。

ふうと肩で息を吐く。六十一。ナンバー確認したところで、それを如何すれば、六十八、六十九、七十。会長に頼んでみるか。七十三、七十四、七十五。でもそれなら、もう登る必要も、八十、無いのでは? いや……八十二、此処まで来たんだ、八十五、折角だから上まで行こうか。八十九、九十。

後十段か? 一、二、三、四、五、六、七、八、九、百! ――まだある、いち、にい、さん、しい、ご!

上り切って、腰を伸ばした。結局、百五段あった。数え間違えてなければ。

更に進んで、麓山神社の脇を通って、山を登る。少し拓けた処迄出て、一息吐いた。今日も富士山は黒い。この儘進めば浅間山の山頂に着くのだけど、其処迄行く気はない。この時点でも可成街が見渡せるし、これ以上登ったら家並が小さくなって視難くなって仕舞う。それでは意味が無い。

眼下を見下ろし、昨日と同じ様に土地の記憶を重ねる。火事の前日、自家(うち)の辺りに白いバンが停まっている。流石に此処からナンバーは判らない。何処から来たか、更に過去を視てみるも、建物の陰に這入(はい)って仕舞うとその先がさっぱり判らなくなる。これは先に進めても同じだ。何処から出て来るか判らないし、似た様な車は何台かある。でもその()れも、違う様に見える。何処かの建物に這入ってたりしたら、もう判らない。乗り換えなんかされたら更に判らない。

私は直ぐに諦めて、視線を外した。こんな広範囲の過去をずっと視ていると、眼が痛くなってくる。両眼の間を二本の指で抓む様にして揉みながら、近くの東屋にある石造りの腰掛に寄った。

陰になっているので、背中を掠める風が冷たく感じる。座った儘(つらつら)と考える。ナンバープレートを調べたところで、十年近くも前の番号なんか、現存しているだろうか。バンとか普通、何年位乗り続けるものなのだろう。矢張り現存していないと調べ様がないだろうか……でも数少ない手掛かりの一つかも知れないのだし、確認するだけはしておこう。

少し休んだだけで、私は立ち上がり、山を下る。昨日と同じく、古墳の西側を回る緩やかな階段で下りる。そしてその儘、自宅跡地の駐車場へと向かう。

駐車場は昨日と同じで、閑散としていた。昨日とは違う車が、二台程停まっている。こんな処に何の用事で停めているのだろうなと思いながら、玄関だった辺りに面した路上を視る。火事の前日夕方頃。バンがある。ナンバーは……ああ、これはレンタカーだ。それでも一応、帳面にナンバーを控える。

何となく顔を挙げたら、父の書斎が視えた。父は机に向って何かしている。ノートパソコンで作業しているのか。仕事だろうか。駐車場内に這入り、見易い位置に回り込んで画面を覗き込むと、メールを確認している所だった。識らない国の言葉だ。父は誰と何の連絡を取り合っているのだろう。父の顔は何処と莫く、緊張感が漂っている様に見える。掠れた古い記憶なので、余り当てにはならないが……

別のメールが開かれる。今度は日本語だ。会社の上司だろうか。会社――父は何の会社に勤めていたのだ? メールの署名(シグネチャ)を見る。――外務省? 成程、父は国家公務員だったのか? 不図(ふと)メール末尾の文章が目に留まる。

――本件にはこれ以上、首を突っ込まないようにして下さい。あなたの身が危険です。もう、手遅れかも知れませんが。

何だこれは。脅迫? いや、警告か?

父が返信を始めた。手は退かない、自分の使命だ、と云う様なことを書き連ねている。

――万が一の時には、子供達を頼みます。

何それ。私達との関わりなんか殆ど無かった癖に。格好付けている心算か。

父はそのメールを送信して、パソコンを閉じた。

万が一はこの翌日起こる。メール宛先の上司か何かは、この返信を読まなかったのだろうか。それとも、読んだ上で無視したのか。私達は誰からの助けも援助も無く、警察に保護され、結局は児童養護施設に引き取られたのだ。

私はこのメールの遣り取りを、肩掛鞄から取り出した帳面に書き写した。これも何かの手掛かりになるだろうか。でもメールでは一切核心に触れていない。あの件、この件、例の件。そんな様な書き方しかされていない。父の行動を追い駆けられれば好いのだけど、この家の外側迄は、バンと同じで追尾は難しい。手掛かりはこの部屋ぐらいか。でもこの部屋の記憶では、核心に迫るのは無理だろうな……

父の作業を、もう少し遡って視てみたが、目星(め ぼし)い手掛かりは得られなかった。

そうだ、あれも書き留めておこう。何語か判らないメール。アルファベットに似ているけれど、ちょっと違う文字もいくつか混じっている。母音の頭にアクセント記号の様な物も付いていたりする。解らないなりに、一字一句丁寧に書き写した。見る人が見れば判るかも知れない。スマホの翻訳機能とかでも解るかも。機械に読ませるなら走り書きでは駄目だろうから、殊更丁寧に書き写した。

掠れた記憶に長時間集中した為、可成疲れた。目頭を押さえながら、隣家の塀に凭れ掛かる。此処での用事は粗方(あらかた)終わったな。もう此処に来ることも莫いだろう。そう思うと若干の名残惜しさが胸を掠める。惨劇のあった場所なのに。自分達が冷遇されていた場所なのに。何が懐かしいと云うのか。

もう一度過去の父の顔を視てみるが、何も感じない。でも、視線を外すのが惜しい。何だろうこの感情は。パソコンを閉じた後暫く凝としていた父は、徐にスマホを手に取って、電話を掛け始める。この記憶では音声までは判らない。ニコリともせず、ずっと仏頂面で、何方(どちら)かと云うと緊張した様な面持ちで、短い会話を済ませた後、スマホを机に放る様に置くと、背凭れに凭れてぎゅっと目を閉じた。

はるき、あきな。

口がそう動いた様に見えた。気の所為だろう。父に名を呼ばれた記憶なんか無い。大体、何で春樹が先なんだ。姉は私だ。秋菜、と先に云えよ。――そして思わず苦笑した。何に(こだわ)っているんだ私は。どっちが先でも好いじゃないか。姉貴風を吹かせて。みっともない。季節順なら春が先だ。男女でも大抵男が先だ。春樹の名前が最初でも、何も不自然なことはない。――本当に名前だったか如何かも判らない。何度も繰り返すが、この記憶に音声は無いのだ。

自嘲気味に笑って、過去の父に別れを告げた。

駐車場を出て、南へと向かう。昼を大分回っているが、食事を取っていない。駅前迄出れば、何かしら店もあるだろう。序でに会長のいるホテルにも寄ってみようか。昼には帰っていると云っていたと思う。

確か駅の北側に、駅ビルがあった筈。ファストフードの類でも在れば、そんなのでよい。公園になっている駿府城跡を回り込む様にして、駅迄徒歩で三十分程。自転車でもあれば楽なのだろうが、タクシーを呼ぶ程でもない。それでも駅に着く頃には、可成の空腹を感じていた。目指していた駅ビルには、ファストフードのサブウェイが這入っている。真っ直ぐ其処に這入って、適当に注文してサンドイッチを受け取り、席に着いた。昼時をとっくに過ぎている為か、店内は空いていた。

鞄から帳面とスマホを取り出して、先刻帳面に書き写した異国のメールを眺める。翻訳出来るかな。スマホのカメラを翻訳モードにして、翳してみる。暫くクルクルと考えている様だったが、軈て日本語が現れた。思わずサンドイッチを持つ手が止まる。その時、春樹から着電した。受話のボタンを押す。

「はい」

「姉ちゃん、今何処?」

「あー……駅前のサブウェイ」

「駅迄来てるの? ホテル南側だよ」

「あ、そうなの? いや、昼食べに出て来ただけなんだけど」

「なんだよ、そんなのホテルに来れば会長が食わせてくれたのに」

「何それ。そう云うの(あて)にするの良くない」

「なぁにを今更。まあ好いや。会長が話したいってさ。入れ替わりでも好いけど、出来たら二人揃ってた方が好いんだって。って、入れ替わりは今日NGなんだっけ? ――何しろ取り敢えず、食べ終わったら連絡して」

(あゝ)、諒解った。直ぐそっち行くよ。場所送って」

「諒解った」

電話が切れて、位置情報のメッセージが届く。南側の駅前、直ぐの所だ。

このメールは会長にも見せてみよう。何か意見をくれるかも知れない。――はて、会長が私達に、何の話があるんだろう。二人揃ってた方が好いって、何だろう。

サンドイッチを食べ切って、席を立つ。帳面とスマホを肩掛鞄に入れて、店を後にした。駅を横切って南口へと出て振り仰ぐと、一際高い建物が眼に留まる。あれが会長が泊まっているホテルか。歩道橋で其方側へと渡り、一階のエントランスを這入る。フロントには寄らずにエレベータで十八階へと上がる。春樹に聞いていた部屋をノックすると、直ぐに扉が開いて、春樹が迎え入れてくれた。

「秋菜です。お邪魔します」

スイートルームの奥に居るであろう会長に向けて、挨拶をする。

「おお、此方(こっち)に来い。ソファに座れ」

左奥から会長の声がした。春樹に尾いて行くと、テーブルを右手に、矢鱈と大きい窓にソファを向けて座っている、会長の後頭部が見えた。

「何か視て来たか?」

窓外を見た儘、会長が訊いて来る。私は長ソファの手前端に腰を下ろし、鞄から帳面を出してテーブルに置いた。

「色々視て来ました。――結局山の上からではよく判らなかったので、昨日に続いてもう一度自宅跡地に行って来ました」

「そうか、それでこんな時間に昼を食っておったのだな」

「はい。跡地で過去を視て来ました――」

私は昨日と今日で視て来たことを語った。碧い瞳の配達員。彼の乗って来たバンとそのナンバー。父のメールと電話。春樹がしたことは黙っておいた。

「何だか肝心の所が曖昧だなぁ。何か云えないものでも視て来たか?」

「否――別にそう云う――まあその――」

会長が横眼でぎろりと睨む様に、此方(こちら)を見る。背筋に冷たいものが走った。

「まあ好い。それよりその、異国のメールとやらを見たいな」

「此方になります」

帳面を会長に手渡す。会長は卓上の眼鏡を取ると、書き写した異国のメール文を凝と見詰めた。読めるのだろうか。

「なるほどなぁ。これはお前、Y国語だ」

「お解りになるのですか」

「読めはせんがな、Y国語だと云うことだけは判る」

「そうですか――私はどこの国のものかも判らなかったのですが、スマホは翻訳してくれました」

「ほう? 何が書いてあった」

「それが――」

私はスマホを翻訳モードにして、会長に渡してみた。会長は机を向いたソファに移動して、帳面を卓上に置き、その上からスマホを翳した。

「ふうん。これは面白いな」

スマホの機能のことを云っているのかと思ったが、如何やらメールの内容に就いて云っている様だ。

「この所為でお前達の両親は殺されたのか」

「そうだと思います」

「だとしたら、犯人を挙げるのは相当に難しいだろうな」

「――それも、同感です」

春樹がリビングの入口辺りに突っ立った儘、伸び上がったりして此方(こっち)を物凄く気にしている様なので、思わず微笑みながら、「春樹も一緒に見て」と声を掛けてあげた。春樹は若干照れ臭そうにしながら、私の横に来て、会長と一緒にスマホを覗き込んだ。その表情が戸惑いに変わる。

「これって――」

「何か知ってる?」

「いや――そう云うことではないんだけど、でもこれ――」

「意外だよね?」

「うーん……」

「何それ!」

春樹の態度に、私の方が戸惑った。何か識っているのか。私が苛立っているとでも思ったのか、春樹が慌てゝ釈明する。

「違うんだ、何か知ってるとかじゃなくて、でも何と云うか、既視感(デジャブ)とでも云うか――識ってる訳莫いのに記憶にある感じと云うか」

「春――あんた、何か思い出した?」

私は気が気ではなかった。あんなこと、思い出さないで欲しい。

「何かって? いや、此処に書いてる人物の特徴……百六十(センチメートル)程の小柄で、黒く染めた髪、碧い……碧い瞳?」

そこで春樹は考え込んで仕舞った。矢っ張り春樹の見たと記憶している人物は、あの配達員なのか。でも、それ以上は――

会長は興味深そうに私達を見ていたが、二人が黙ったタイミングで口を挟んで来た。

「お前ら二人に話があるんだ。この件とも関わりがあるかも知れない、否、今や、確実に関係がある話なんだが。――そうだな、(まさ)に十年程前、丁度お前達の親が奇禍に遭った前後のことなんだが、その頃Y国の情勢は最悪な状態でな」

会長は昔語りを始めた。十年前、Y国では反政府勢力が異様な盛り上がりを見せていて、政府との武力衝突も烈しく、近隣の国を巻き込む程の激しい内戦状態になっていた。元々国内の情勢は不安定で、もう五十年近くも政府と反政府は内戦と膠着とを繰り返して来ているのだが、それでもある種のバランスを取りながら、ギリギリのところで国家を保って来ていた。それがこの時は、国が分断するか崩壊するかと云う所迄悪化して、政府高官が反政府ゲリラに依って何人も襲撃され、暗殺されていた。首相は命からがら隣国へ亡命しており、そこから国軍を指揮していると云う様な状態であった。

そんな遠い国の出来事が、日本にも飛び火して来ていた。Y国政府および反政府の諜報員や工作員等が何人も、様々な伝手(つて)を辿って日本へ亡命して来ていたと云うのだ。Y国の間諜(スパイ)が日本なんかに何の用があるのかと思われるかも知れないが、Y国の内輪揉めはその舞台を世界中に拡大しており、政府も反政府も、物資の調達や情報戦の為の拠点を各国各地に求めて、時には暗殺事件等も国外で起こすことは珍しくなかった。敵も味方も世界各地で火花を散らし合っている様な状態だったのだ。

当然日本にも、様々な目的に()って彼等は渡り、各地に潜伏していた。そして本来関係の無い筈の日本人が巻き込まれたり、自ら進んで関わりを持ったりして、犯罪行為に手を染めたり、或いは生命を脅かされたりと云う様なことも、報道こそ余りされてはいなかったが、人知れず起こってはいたのだ。

この静岡でもそれは例外ではなかった。そうした事は都心部に限った話ではなかったのだ。都心は紛れ易いが、同時に敵の目も多い。地方に散らばって仕舞えば、地元民からは多少目立ったとしても、敵と遭遇する確率はぐんと少なくなる。その様に考えた政府の諜報部員が静岡に潜伏し、同様に考えていた反政府の工作員もまた、此処静岡に時を前後して潜んでいたのだ。そして不幸にも、その二人の板挟みとなった静岡県職員が居た。

職員はそれぞれの人物とは、別々の時期に出会っている。最初は間諜や工作員とは知らなかったのだろう。政府の諜報員とは絵画のカルチャースクールで、反政府工作員とは行き付けのバーで。それらの出会いが偶然だったのか、意図されたものだったのかは判らないが、結果的に職員は聞きたくもない双方の事情を聞かされ、したくもない協力をさせられる羽目に陥った。

然し結局のところ彼は、何方の協力要請も受諾してはいない。そしてこの状況を自分事として完結させず、国内に自分と同じ様にして巻き込まれている日本国民が複数存在している筈だと考え、この二人から情報を引き出そうとしている。国内に潜伏している政府反政府の関係者を、把握しようとしていた様なのだ。そして同時に、外務省に対して通報している。外務省は危険な行動を慎むよう説得したのだが、県職員はそれには従わず、スパイ返しの様な行為を続けていた様なのだ。然し一介の県職員が玄人(プロ)の諜報部員や工作員を出し抜ける筈もないだろう。――そしてその後如何なったのかは、誰も識らない。

「わしが聞いたのはこゝ迄なんだがな、秋菜の持って来たメールが繋がっちまった」

会長は気の毒そうな口調でそう云った。

「その県職員は、お前達の父親だったのだな。このメールでは、稍翻訳精度が悪くて読み難い部分はあるが、彼の行為を裏切りと非難して、報復宣言をしている様だ。この時点で親父さんは、死を覚悟していたのかも知れねぇなあ」

「どっちなんでしょう」

何方(どっち)? 欸、政府か反政府かってことか。さあなあ……どちらとも取れる様な内容だな。それより気になることが書いてあるな。Y国では能力者を軍備しているとか。――親父さん、お前等のことを話していたのかも知れねぇな」

「如何して――」

「育て方が判らず、相談でもしていたんじゃねぇか? 如何してそんな話になったのか知らねぇけどよ」

「父さん……」

春樹が小さく呟いた。私は複雑な気持ちで春樹を見た。そして春樹の過去を視る。此処でも過去の父と逢える。今迄思い付きもしなかった。刺された父は、春樹に向かって何か云う。口の動きは――ごめんな、ゆるせないよな――春樹が云っていたのはこれか。

春樹と眼が合った。思わず眼を背ける。ずっと隠しておく訳にもいかないかも知れない、けど、今云う可きではない気がする。せめて、全部解決した後で。せめて、あの碧い瞳の配達員の正体が判明した後で。せめて、真犯人が見付かった後で。そしてそっと、春樹を見る。もう此方(こちら)は見ておらず、スマホに表示された翻訳を凝と見詰めている。私は視線を挙げて、会長を見た。会長は静かに、私を見詰めていた。

盛夏 三日目

この日は朝早く、会長のホテルを訪ねた。春樹抜きで話がしたいと、昨日お願いしておいたのだ。

三階へ上がり、エレベータを降りて直ぐの小さな宴会場へと這入ると、既に会長が水木を従えて待っていた。

「おはようございます。今日はお時間頂いて、有難う御座います」

入り口でそう挨拶し、ぺこりとお辞儀をすると、会長はにっこりと微笑んだ。

「そう堅くなるな。――水木、わしは秋菜と二人で話をするから、部屋に戻って置け」

水木は会長に向かって無言で一礼すると、スタスタと近付いて来て、私の目の前で軽く礼をし、横を抜けて部屋を出て行った。

「まあ座れ」

会長に促されて、正面の椅子に座る。

「何があった」

会長はある程度察している様な感じで、促して来た。私は何処から話したものかと思い、稍逡巡した後に、いきなり核心から這入った。

「親を殺したのは、春樹でした」

会長は想定の域を超えていたのか、眼を大きく見開いて暫く絶句していた。口を何度かパクパクと開閉させ、咳払いを二つ程してから、「詳しく」と短く云った。

私は視た儘のことを、前日の配達員の所から、時系列に沿って説明した。会長の顔が少しずつ納得の色を帯びていく。

「そうか。能力者だな」

私もそう思う。

「メールの、Y国では能力者を軍備していると云う(くだり)の、伏線回収か……碧い瞳って奴もここで符合する訳だ」

「矢張りメールの主が、首魁でしょうか」

「いや、それは判らんなぁ。何方(どちら)からも狙われていたのだろうからな。あのメール文面も曖昧で、碧い瞳の能力者に関する部分も、処刑宣告なのか警告なのか、よく判らなかっただろう」

「では矢っ張り、行き詰まりですね……」

会長は暫し、腕組みして考え込んでいた。私も何とか突破口が無いものかと、先日来ずっと、ぐるぐると考えを巡らせている。

「探偵かなぁ……」

した。会長までそれを云い出すのか。

「会長、それは――」

私は如何な表情をしていたのだろう。会長が私の顔を見てから、少し目を伏せて含み笑いをすると、「あゝ、そうだな、悪かった」と云った。

「えっ」

「エスパー部隊に繋がるのが嫌なのだろう? まあ、先方もお堅い会社の様だから、わしらの様な反社会組織の依頼なんか請けないだろうけどな」

そしてと快活に笑った。そうか、求めたところで拒絶されるのがオチか。何だかほっとした様な、残念な様な心持になった。

「――では矢張り、辿ることは出来ないですか。――あの、警備会社に繋がらないのであるなら、少なくとも探偵に頼むと云うのは有効なのではないかと思うのですが。この前の探偵でなくとも、他の者でも――」

「そうよな」

そして復会長は考え込んで仕舞う。

「お前達の能力のことは、無暗に拡散したくないのだがなぁ」

独り言の様に呟く会長の心遣いに、思わず頭を下げた。

「会長。私は春樹の為にも、何としても正解に辿り着きたいと思うのですが、でも、正解に辿り着いて、その後如何すれば好いのか全く何も思い付きません。真犯人を目の前にしたところで、報復なんか出来ないし、したくもないです。恨み言の一つさえも、ぶつけようとは思いません。一体私は――何の為に犯人を追い掛けているのか――」

「春樹の為だろう? 自分で最初に云ったぞ」

「そ、それはそうなのですが、でも……何が春樹の為になるのかも……」

「識りたいだけだろう。お前達の心に区切りを付けたいのではないのか? そして、何時迄隠し通せるか判らない真実を、ちゃんと説明出来る状態にしてから春樹に開示したいのだろう?」

(あゝ)――」

そうだ、その通りだ。でも。

「でも若し、春樹が――」

「報復したいと思ったら、か? 春樹はそう考えるかな?」

「――正直、解らないです」

「そうか。まあ、気に病むな。恐らく大丈夫だ」

「そうですか……」

「わしを信用出来ないか?」

会長は優しく笑った。

「滅相もないです!」

机に額を擦り付ける。これは本心だ。会長の判断は何時だって概ね正しい。年長者の言葉は常に重い。会長が云うなら屹度大丈夫なのだろう。そう思う。けど。だけど心は。私は春樹が常に心配なんだ。姉貴面――なのかも知れない。それでも好い。お節介でも構わない。心配性でも杞憂でも何でも好い。わたしは。

肩をポンと叩かれた。何時の間にか会長は背後に回っていた。

「取り敢えず話は解ったよ。わしの方でも手を尽くしてみよう。何かしら判るかも知れない。――そうだな、ヤスも使ってみるか」

ヤス。鬼の安平(やすべい)。下呂に居た宮司の、現役時代の呼び名だ。今では堅気と云いつゝ、会長の為にいろいろ調査の仕事を請けている。これが中々如何して有能な諜報員なのだ。

「吁、でも彼奴はこの前の一件で、動き封じられてるかな……」

一郎を匿っていた件だろう。起訴こそされなかったものゝ、あの大袈裟な地下室や、そこに一郎を隠していたことなど、警察の取り調べでたっぷり絞られた様なのだ。

「まあ、佐々木探偵事務所も使い様かも知れん。エスパー部隊とは切り離して考えても好いと思うぞ。彼奴自体、そこそこ有能な探偵だと聞いている」

佐々木探偵事務所と云うのは、下呂に来た探偵のことだ。

「そうですか……」

「不安か?」

「否――会長の意の儘に」

「ふん、そうか、ならそうさせて貰おう。――心配するな、お前らにとって悪い様にはせんよ」

唯黙って低頭した。会長を信頼している。だから屹度、大丈夫だろう。自分の力で出来ることはし尽くしたのだと思う。後は、甘えるしかない――

後一時間ばかり部屋を確保してあるから、気の済む迄此処に居て好いと云い残して、会長は部屋を出て行った。そう云われても、こんな何も無い部屋に何時迄も居る心算は莫い。私は荷物を纏めると、部屋を出た。

立派なホテルを後にして、駿府公園の近くにあるビジネスホテルへと戻る。駿府城公園と、正確には云うのだが、子供の頃から「駿府公園」と呼んで来ているので、今でもそう呼んで仕舞う。後で調べてみたら、如何も私達が小さかった頃には「駿府公園」と云う名称で正しかったのだが、小学校に入学する一年前に改称したらしいのだ。それでも人々の呼び方がその時点からすっぱり変わる訳もなく、記憶の限りでは周囲で「駿府城公園」などと呼んでいる者は一人も居なかったと思う。だから私は今でも、駿府公園と呼ぶ。

駿府公園は大きな公園で、いろんなイベントの会場になったりもする。平成になってから復元された(やぐら)なんかもあるが、中に這入ったことはない。不遇な幼年時代だったので、親に連れて来られた様な記憶はないのだが、学校の遠足かなんかの行事で何度か行かされたことはあると思う。何れにしてもあまり覚えていない。

折角なので公園の中を散歩してみた。郷愁(ノスタルジー)などは感じず、新鮮な印象ばかりだ。我ながら地元民だったとは思えない。矢張り殆ど来ていないのだ。浅間神社の方が、遊んだ記憶は多い。

適当に回って東側へ抜けると、静大付属の小中学校を大きく迂回してビジネスホテルへ戻り、荷物を纏めてチェックアウトする。もうこの街で遣ることは莫い。その儘駅迄戻り、新幹線の切符を買った。

新幹線を待つ間、なんとなく手持無沙汰だったこともあり、ホームの記憶など眺めていたら、例の前日、宅配が来た凡そ一時間程後の時刻に、配達員とよく似た人物を見付けて仕舞った。

ホーム中程のベンチに、俯く様に座っているので、顔がよく判らない。今そこには別の団体が席を占めているので、近付いて繁々観察する訳にも行かない。でも恐らくそうだろうと思う。あの配達員だ。瞳の色だけでも確認できないかと懸命に盗み見ているのだが、よく判らない。

軈て自分の乗る新幹線が入線して来た。諦めて乗り込んで、更に驚いた。その人物もこの車両に乗っている。――否正確には、過去に乗っていた。この車両の記憶、歴史として、その日その時刻にその人物が存在していた。

これは途でもない偶然だ。十年前と同じ車両だと云うことなのだろう。その同じ車両に乗り合わせたのだ。何と云う巡り合わせか。

電車移動だったのだなと、如何でも好い所に感心して仕舞う。安いからなのか、時間に厳密だからなのか、安全性を取った結果なのか。足が付き難いのは車だと思うが、Nシステムなどもあるし却って其方の方が不都合だったのかも知れない。

指定席で、私と同じ車両に這入っていく。席こそ遠く離れていたが、過去を視る分にはそれは大した問題ではない。改めて顔を確り確認すると、やはりあの配達員本人だった。東京迄乗るのだろうか。

東京迄乗るにしては、席を立つ迄の時間が短すぎる。品川でもない。新横浜ぐらいか? 下りるドアは確認できたので、此処から各駅、下車の様子に気を付けてみよう。駅側の記憶と一致すれば、下りた駅が確定出来るかもしれない。

新富士、三島、熱海、小田原――そして、新横浜。矢張りこの駅だ。

入線前からホームを気にして視ていた。停車直前、ホームの過去に、それを視た。彼奴が下りて行っている。車両が停止してドアが開く。ほんの僅かなずれがあるためブレて視えるが、お蔭で車両とホームとで、同一の歴史を共有している確認にもなる。こんな僅かなずれしかない方が凄い。日本の鉄道は大したものである。

切符は品川迄買っていたのだが、彼の記憶を追う様にして下りて仕舞った。背後でドアが閉まる。背中で新幹線を見送りつゝ、配達員の記憶を追って改札を出た。流石に徒歩であれば、頑張れば追い掛けられる。然しタクシーに乗られて仕舞ったので、其処迄だ。

私はタクシー乗り場で暫し茫然とした。こんな何も無さそうな駅で下りて仕舞って、如何やって都内へ戻れば好いのか。初めて来たので何も判らない。乗換案内を探す。東急に乗れば、渋谷か目黒迄行けそうだ。

移動しながら、会長にメッセージを送る。宅配の配達員を新横浜の過去で視たと。タクシーに乗るところ迄しか追えなかったが、新横浜で下りると云うのはそこそこ手掛かりにならないだろうかと。東京や品川よりは、余程行動範囲が絞り込めそうな気がする。

静岡を出たのは昼前だったが、今は既に一時近くになっている。そう思ったら急に空腹感を覚えた。目黒で降りて、適当な拉麺(ラーメン)屋に這入る。この街は拉麺屋が群雄割拠しているので有名だが、余りそう云う方面には明るくないので、手近な店に適当に這入った。普通に注文して普通に食べた。まあ美味しいのかも知れないが、正直よく判らない。判らないなりに、スープを飲み干して、お腹は大分満たされた。食後暫くは、水を飲みつゝ少し休んでいた。

多少なりとお腹が落ち着いたところで、店を出る。

――扠、如何しようか。

組本部へ帰っても好いのだけど、会長が居ないので余り行きたくない。自分達は会長の威を借りているので、単身で本部に居ると何となく居心地が悪い。住居を兼ねているので最終的には帰らざるを得ないのだが、少しでも時間を遅らせたい。仕方がないから地下鉄に乗り、神保町迄出て古本屋に這入る。暇潰しは本屋に限る。偶に余計な買い物をして仕舞うが、それも愉しみの一つではある。

狭い店内をぐるりと回りながら、背表紙を眺めてゆく。古書から最近のライトノベル迄、丁寧に分類されて整然と並んでいる。埃っぽい香りも含めて、非常に落ち着く空間である。何となく気になった本を手に取る。ぱらぱらと(めく)って見て、棚に戻す。別の本を手に取る。数頁読んでみて、戻す。――そんなことをしている内に、時が過ぎてゆく。

スマホの着信音が鳴ったので、店から出て路上で受けた。

「姉ちゃん、今、何処」

春樹だ。

「神保町の古本屋」

「なんだ、暇なのかよ。あのさ、帰って来れる?」

「嗚呼、会長はもう帰ってるの?」

「いや、会長は未だ戻ってないけど、(じき)帰って来るって。会長が戻る前に姉ちゃん戻っておいた方が好いかなと思って」

「そう。それなら帰るよ」

電話を切って顔を挙げた時、店の前を通り過ぎた女性が、なんだか此方を凝と見て行った気がした。少し気になったので後姿を目で追った。栗毛をハイポイントのポニーテールに結った女性と、青と銀のメッシュを入れた黒髪短髪の女性。見ていたのは短髪の方だった。何だろう。知り合いではないと思うけど。二人の会話は関西弁の様だった。関西方面に知り合いなんか居ない。彼女達は靖国通りをお茶の水の方に渡って行って、直ぐに視界から居なくなったので、それ以上気にしないことにした。

地下鉄の駅へと降りて、組事務所を目指す。地下鉄で数駅、乗り換えて数駅。地上に上がって暫く歩くと、古びた鉄筋コンクリートのビル。それ全体が組の所有物件だが、一階にはバーが這入っている。外階段で二階へ上がり、鉄の扉を開ける。

「お嬢、お帰りなさい」

組の三下が無愛想に出迎える。私は此処では「お嬢」だ。何だか巫山戯た呼び名だと思うけど、文句を云って変えさせたところで、希望の呼び名なども特に莫いので、放置している。私に文句を云う権利なんかあるのだろうか。居候の身なのだから、余り出過ぎた真似はしない方がよい。

室内を見渡すが春樹の姿はない。部屋に居るのか。三階へ上がると廊下を中心として、幾つかの部屋に仕切られている。一番奥は会長の部屋で、その手前に私達の居室がある。此処で生活しているのだ。

ドアを開けると普通に玄関がある。靴を脱いで部屋に這入ると、春樹が座卓に向かってスマホで遊んでいた。

「ただいま」

「おかえり」

簡単な挨拶を交わすと、私は個室のドアを開け、ベッドに腰を下ろす。此処が私の居場所だ。荷を解いて、横になる。二泊分の衣類を洗濯しなくちゃなぁと思いながら、目を閉じた――

「姉ちゃん、起きろ」

春樹の声と共に、ドアが叩かれた。何時の間にか寝ていた様だ。起き上がり、ドア越しに応える。

「ん。会長は?」

「今帰って来た。部屋に来いってさ」

目を擦りながら、立ち上がる。

「ちょっと待って」

個室を出て洗面に行き、鏡を見ると、寝惚け顔で髪ぼさぼさの娘が映っていた。顔を洗って、髪を()き、簡単にヘアゴムで束ね直す。春樹はその間、玄関のドアノブに手を掛けた状態でずっと待っていた。

「お待たせ」

「行くぞ」

二人で部屋を出て、会長の部屋をノックする。

「這入れ」

会長の応答でドアを開けると、応接の椅子に座っている客の後頭部が見えた。入室した音で振り向いたのは、識った顔だった。

「おゝ、下呂已来(い らい)だな。その後変わりはないか?」

それは、探偵の佐々木敬太郎だった。

初秋 一日目

本統に最悪な日だ。

僕等の親を殺した犯人に関して、先月姉が可成頑張って色々調べてくれたのだけど、結局後一歩のところで辿り着けなかった。だから例の探偵に続きを頼んだのだけど、こんな展開は期待してなかったし想定もしてなかった。

僕達は高校に行っていないし、小中学校だって不登校勝ちで余り真面(まとも)に勉強したことが無い。だから当然英語なんか殆ど判らないし、()してやY国語なんか――

なのに何で――なんで一人で、Y国なんかに来なくちゃならないんだ。こんな危ない国に。

正しくは独りじゃない。一応日本人の現地通訳は付けて貰っている。居るけどこの人は別に、久万組の構成員とかではないし。いざと云う時に頼りになるどころか、屹度足手(まと)いになる。幾ら僕が念動力使えるからって、的にされ過ぎても困る。自分の身は守るけど、この通訳さんまで護り切れるか如何か判らないぞ。

(しか)もこれ、如何やら日帰りなんだ。日帰りと云うか、ゼロ泊二日と云う奴か。幾ら若くったっても、体力には限界があるんだから、もう少し気遣って欲しい。そりゃあ、この国で宿泊なんかしたくないけど、だからってこんな強行軍――だから、こんな国に来ていること自体が、如何かしているんだって。

大体なんであの探偵の手伝いを、僕がすることになっているんだ。――否自分達が発端の件だってのは解っている、解っているけど、手に負えないから高い探偵料払って、依頼したんじゃないか。会長のお金だけど。

えいくそ! むしゃくしゃする。如何にもこの国に来てから、兎に角気分が悪い。(はら)が立って、腹が立って、仕方がない。この国の風土がそう感じさせるのか。今なら判然云える、此処は僕が嫌いな国、ナンバー・ワンだ!

この国には日本から直行の飛行機は飛んでいない。そんな物が飛ぶ様な国交状態ではないんだろう。だから一旦隣国に這入って、そこから陸路で国境を超えた。帰る時も当然、逆手順だ。何だってこんな出入りのし難い国なんかに、来なくちゃならないのか。

指示されているのは、誰かを探せと云うことだ。反政府ゲリラ部隊の、何て云ったっけかな。

「此処がゲリラのキャンプ地です」

そんな、あっさりと。

数十分前に森に這入ってから、通訳に先導される儘に歩いて来たら、何時の間にかテントがいっぱい張ってある広場に出ていた。こう云うのって場所を秘密にしていたりしないのだろうか。こんな一介の通訳と世間知らずの青二才が、易々と辿り着いて好いのか。

僕の戸惑いなどお構いなしに、通訳は張られたテントの一つへと這入って行った。一言、二言、会話をして、僕を手招きする。仕方莫しに招かれる儘入り口を(くゞ)ると、中には武装した兵士が数人、そしてその中央に、矢鱈貫禄のある白髪髭面の男が胡坐(あぐら)を掻いて座っていた。

「ふん。ヤポニは特別だ」

「ヤポニ」以外は、綺麗な日本語だ。云っている意味は解らない。でも多分、敵意は無さそうだ。

「ヤポニ、は、日本人、と云う意味です」

通訳が役に立った。

「始めまして。中川春樹です」

取り敢えず日本語で挨拶してみた。通訳が伝えるが、それを聞きもせず、胡坐の白髭男はやおら立ち上がり、僕に向かってごつい右手を差し出した。握手だろうか。その手を握り返すと、ブンブンと縦に振られた。

「昔、ヤポニの世話をしたことがある。だから或る程度は勝手も判るぞ。殺しの手際は世界最高水準だ」

だ、誰を世話したんだ。なんだか(とん)でもない所に来て仕舞った。

「僕は、そんな、他人(ひと)を殺したことなんか、な、無いです!」

白髭男は目を細めて、ふははと笑った。冗談だとでも思ったのか。

「まあ好い。その辺に座れ」

そう云って地べたを指すので、茣蓙(ござ)の出来るだけ綺麗な処を選んで腰を下ろした。

「ガーを探しているな」

「が、……がぁ?」

「おっと、これは俺達が勝手に付けた呼び名だ。(ウルフ)と云う意味だが。正しい名前は、カシム」

それだ!

「その人は、何処に?」

「まあ、焦るな。俺はムハンメド。何処にでもいる名前だな」

そう云って、アルミのマグカップを差し出した。受け取って何も考えずに口を付けて、思わず噴き出した。物凄く強い酒だ。未だ未成年なのに……

ムハンメドは愉快そうに大笑いしている。気分が悪い。

「これは……無理だ、呑めません」

「まあこれは、挨拶の様なものだ。口を付けただけで十分さ」

そう云って僕の手からマグカップを取り上げて、一気に飲み干す。本統に、途でもない所に来て仕舞った。最悪の日だ。

「さあ、サカズキは交わしたぞ!」

なんだって?

「俺達は兄弟だ!」

冗談じゃない。

酒は飲み込んでいないのだけど、なんだか気化したアルコールを思い切り吸い込んで仕舞った様で、鳥渡頭が眩々(くらくら)する。後手(うしろで)を突いて、天幕を見上げる。口の中もカラカラだ。

ガーだかカシムだか云う人物に逢って、確認しなければならないことが、あるのに。何だか、それどころでは、なくなって仕舞った。

「今夜は此処へ泊って行くと良い」

「いや……そんな訳には。……帰らなければ」

途切れ途切れに、異議を唱えるが、如何も届いている、気がしない。

「そうは云っても、今日はガー、戻って来ないぞ」

「そんな……それなら、こっちから……」

「死にに行きたいのか?」

ごくりと、唾を飲み込む。そんな訳、ないじゃないか。何を云って、いるんだ。

不図(ふと)、横を見ると、通訳は他の、兵士と一緒に、酒を、酌み交わして、談笑している。何だ、彼奴は。

駄目だ。気分が悪い。観念して、地べたに、横になる。欸、何と云う、ことだ。本統に、最悪、だ。

――暫く気を失っていたらしい。

気が付くとすっかり夜になっていた。もう九月だと云うのに、暑くて寝汗をびっしり掻いていた。

何時間経ったのだろう。話を聞いたら直ぐに帰らなければいけないのに。取り敢えず、会長に連絡を入れなければ……

起き上がると、辺りを見回して通訳を探した。通訳は直ぐに見付かった。僕の隣で大(いびき)を掻いている。全く役に立たない奴だ。

更に見回すと、ムハンメドが居た。小さな低い机に肘を突いて、何かの本を読んでいる。

「あの――すみません」

恐る恐る声を掛けると、ムハンメドは機敏に振り向いて、笑った。

「よく寝たか。此処迄来るのに相当疲れていたのだろう」

「いや――そうじゃなくて――」

疲れていたのは確かだけど、寝て仕舞ったのは酒の所為だ。姉は未成年の癖に、酒を好んでよく飲んでいるみたいだけど、僕はからきしだ。而もあんな強い酒。死ぬかと思った。

「あの、トイレは何処?」

ムハンメドは愉快そうに笑って、「そんなものは莫い。外に川があるから、適当にして来い」と云った。

本統に最悪だ。

トイレに行きたかったのは、用を足したかったのもあるけれど、何方かと云うと日本と連絡を取りたかったのだ。取り敢えずテントを出て、スマホを取り出してみたが、当然の様に圏外だったので、電源を切った。まあそうだろうなとは思っていた。汗を掻いてる状態で申し訳莫いけど、姉に替わって貰うしか莫い。――でもトイレが無いのじゃあ、如何しようかと、辺りをきょろきょろと見回した。目立たない様に入れ替わりたい。

取り敢えず川に向かって、斜面に(しつら)えられた手製の階段を降りて行くと、草を編んだ様なカーテンで簡単に囲われた場所が眼に這入った。あれがトイレなのだろうな、ちゃんと在るじゃないかと思いながら、川沿いに上流へと歩いてみる。キャンプの明かりは直ぐに届かなくなり、真っ黒な川面と、岸に群生する葦とが、その境界を曖昧にしていて、それ以上進むのが恐ろしくなった。川の流れは見えないが、水音だけは絶え間莫く続いている。

ずっと聞いていると、儚い想いが募る。自分が今何処に立っているのか、全く解らなくなる。景色も地面も、全て真っ黒な川に溶けて行く。自分まで闇に溶けて行きそうな感覚に陥り、慌てゝ後退(あとじさ)る。

その儘少し引き返して、(しゃが)んでみると、身体が完全に葦に隠れる様になるので、隠袋の帳面に「ゲリラのキャンプ地。危ないのでここから動かないで。汗かいててゴメン」と書き記して、姉に合図を送った。

この入れ替わりに距離は関係ない。遠い異国の地に居ても、姉の気配は常に直ぐ傍に感じられる。合図に対する姉からの反応は直ぐに返って来て、僕等は入れ替わった。

目の前には会長の背中が見える。少しほっとした。

「春樹です」

会長が寛悠(ゆっくり)と振り返る。

「如何だ。何か判ったか?」

「いえ――」

こゝ迄の経緯と、如何やら直ぐには帰れそうにない、と云うことを報告した。

「そうか。危ない処に送り込んで仕舞って済まないな。此方のことは心配するな。余り慌てゝ帰って来なくても好いが、危なくなったら念動力使って直ぐ逃げろよ。――通訳を頼れ」

そうして会長が背中を向けたので、僕は礼をして、姉に合図を送った。送った瞬間直ぐに入れ替わる。余程厭だったのだろうな。

帳面を見たら、「てめえ」と云う一言と、青筋のマークが描かれていた。本当に御免。

然し通訳を頼れって、アレの何処を如何頼れば好いのか。苦笑しながら川沿いを戻り、草のカーテンを(めく)ってトイレに這入った。川に張り出した板の上に穴が開いているだけの、簡素なものだ。水洗なのだなと、変な関心をして仕舞った。紙は見当たらないが、その代わりに紐の付いたバケツと柄杓が置いてある。若しかして川の水を掬って洗うのか。洗浄機能付きじゃないか、などと思って、流石に笑って仕舞った。

川の水だけは絶対に飲むまいと思いながら、テントに帰る。通訳は相変わらず寝ている。僕は寝直す気にもなれず、かと云って今日は目的の人物にも逢えないので、仕方莫く寝ていた場所で膝を抱いて座っていた。そして唐突に、空腹を覚えた。仕舞ったな、入れ替わった時に何か食べておけばよかった。此処に食べ物なんか……不図思い出して自分のリュックを引き寄せる。中に隣国で買ったパンが一つ這入っていた。取り敢えずそれを食べたが、空腹感は満たされない。

「腹が減ったか。もう少し待ってろよ、兄弟」

何時の間にか横に来ていたムハンメドが、そう云って去って行った。料理が出るのだろうか。何を食わされるのやら。横で寝ている通訳が、「お構いなく」などと云っている。起きているのか、寝言なのか。直ぐに復、鼾を掻き始めた。

それから数分程して、テントの外が賑やかになって来た。何か好い匂いまでして来る。恐る恐る外を窺うと、広場の真ん中に炊き出しの様な大鍋が運ばれて来るところだった。あれが此処の晩餐か。何処に隠れていたのか、婦人がわらわらと出て来ていて、大きなテーブルにスープ皿を配り、そこへ鍋の中の物を注いでいる。見た目はビーフシチューの様だが、果たして。平皿には何かの穀物が盛られている。

「兄弟、待たせたな。俺達の夕飯だ」

ムハンメドが呼びに来たので、ふらりとテントを出た。何でも好い、空腹が満たせるなら。ムハンメドに連れられる儘、席に着くと、隣には通訳が座っていた。何時起きたのだろう、全然気付かなかった。未だ少し寝惚けた様な顔をしている。

コップに液体が満たされている。少し警戒しながら鼻を近付けた。酒ではなさそうだ。色が真っ白なので、ミルクだろうか。牛乳か、ヤギの乳か、なんかそんな様な物だろうか。一口含んでみると、ヨーグルトの様な味がした。前にインドカレー屋で飲んだ、ラッシーに近いかも知れない。

配膳が済んで全員が席に着くと、ムハンメドが盃を手に立ち上がり、何か大声で叫んでいる。Y国語か。内容はさっぱり解らないが、時々兵士たちがと声を挙げたり、笑いが起きたりしている。最後にムハンメドは「アーメン!」と云った。兵士達も「アーメン」と続ける。僕も小声で揃えておいた。それにしても、基督(キリスト)教なのか。何だか意外な気がした。

食前の挨拶だか演説だかが済むと、皆一斉に食べ始める。僕もそれに合わせてスープを一口啜ってみた。美味しかった。牛ではなさそうだが、この際何でも構わない。穀物は如何やら米の様だ。日本の米より細長くて、パラパラしている。それでも空きっ腹には迚も美味だった。

米とシチューのみだけど、十分腹は膨れた。食後は皆行儀よく食器を一か所に集めて、それぞれのテントへと帰って行く。僕もテントへと帰ると、最早定位置となった場所へと腰を下ろす。

その時、外で大きな声が上がった。続いて銃声。突然のことに一瞬固まって仕舞ったが、直ぐに我に帰ると、通訳とムハンメドを目で探した。二人共居ない。未だ外か。慌てゝテントを飛び出すと、上空で火花が爆ぜていた。

「なんだ、何が起きた!」

ムハンメドは陣の中央で方々に向けて怒鳴り続けている。通訳は――見当たらない。まごまごしていたら肩を掴まれた。

「危ないので下がって」

通訳だった。

「あんた、何処に居たの! 危ないって、これは一体!」

「敵襲だよ。でも如何やら、大丈夫の様だな」

通訳は空を見上げた。僕も一緒になって見る。許多(あまた)の戦闘機が上空を行き交っている。何かが投下されては、途中で爆発している。炎と煙は、ドーム状にこのキャンプ地を避けている。

「依頼しておいて良かったよ。バリアだな」

「バリア?」

銃声が続く森側の境界でも、見えない壁がバチバチと火花を散らしている。

「でも最初の一撃で何人か怪我をしている様だ」

通訳が指す方を見ると、地べたに敷いたシーツに転がった兵士達の周りが、紅く染まっている。そしてその内の一人の傍に、小さな男の子が屈み込んでいる。兵士の息子だろうか。少年の手が兵士の出血部分に当てられている。

「大丈夫ですか?」

気になって駆け寄ると、少年が此方を向いた。日本人の様だ。然し何と云うか、存在感が薄い。

「春樹さんですね?」

日本語だ。目と目が合う。何か云おうとするが、それより先に少年が口を開く。

「念動力使えますよね? 彼の腹部に弾丸が残っています。取り出せますか?」

「――あ」

「痛みは僕が、可能な限り抑えています。でも出来るだけ、丁寧に取り出してあげて下さい」

そう云うことか。

色んな言葉がどっと押し寄せて来て、喉の奥に(つか)えた。そして結局何も云えず、唯黙って頷くと、少年の指差している辺りを見る。出来るだろうか。念動力で傷口を少し押し広げると、鉛の一部が見える。兵士は歯を食いしばっている。潰れた弾丸をそっと動かし、少しずつ外へと移動させる。兵士が時折、低く呻くので、非常に心苦しいのだが、この兵士の為だ。少しずつ、丁寧に、時間を掛けて、やっとのことで弾を取り出した。

「有難う御座います」

少年はそう云うと、傷口に手を翳す。見る見る傷口が塞がって行く。兵士の血色も良くなって行く様である。

「き、君は――」

「ごめんなさい、安全の為に名告るなと云われているのですが――」

「君は、警備会社の?」

「はい。佐々木探偵からの依頼で、サポートしてます。お気になさらず」

小学校低学年だろうか。迚も小さな男の子だ。

「差し支えなければ――年齢だけでも」

少年は稍含羞(はにか)みながら、「小さく見られ勝ちなんですが、九歳になります。小学三年生です」と答えた。

非道いショックだった。

それは、僕が養護施設で問題を起こしたのと同じ(とし)だ。年齢こそ一つ違うが、学年は同じだ。僕は十二月生まれだから。あの頃の僕は、自分の能力の制御も儘ならず、他人(ひと)を一人殺して仕舞うところだった。姉の御蔭で一命は取り留めたが、廃人の様にして仕舞った。その同じ歳で、この少年は如何だ――自分の世間の狭さ、愚かさを思い知らされた。自分の念動力は最強だと思い上がっていた。この少年の治癒能力は、姉など足許にも及ばないだろう。これが、実力差と云う奴か。この警備会社のエスパー部隊は、決して敵に回しては不可ないのではないか。

「キャンプは引っ越すみたいですね。取り敢えず、バリア張ってあるので、落ち着いて準備して貰ってください。飛行機もそうですが、森の中にも敵が沢山潜伏している様です。最初の銃撃はそこからあって、僕の対応が間に合わなかった為に怪我人を出して仕舞いました。――戦争に肩入れするなって云われたんですけど、もう目の前で人が死ぬのを見たくない……」

少年は俯いて唇を噛む。彼も色々背負っているのだろうか。何となく親近感を覚える。――否、それは烏滸(おこ)がましい思い上がりだと、頭を振る。

「バリアも――あなたが?」

君、なんて気安く呼べなくなって仕舞った。気持ちが完全に負けている。

「簡単なものですけど、まあまあ役に立つんですよ」

そう云って上空を見上げる。未だ戦闘機が飛んでいるが、爆撃は止んでいる様だ。バリアに気付いたのか、それとも弾切れか。

何時の間にか通訳が、横で一緒に天を見上げていた。

忠国(ちゅうこく)さん、有難う御座います。御蔭で命拾いしました」

「仕事なので……」

「仕事(つい)でと云っては何ですが、敵の攪乱出来ますかね? この状態では引っ越しも儘ならない」

「はぁ――そうですね。鳥渡待ってゝ下さい」

少年はそう云うと、誰も居ない空間に向かって何か囁く様に話し出した。如何も奇怪しいと思ったら、この少年の身体は透き通っている。何時だかの下呂の女性と同じ様に、別の空間とやらに居るのだろうか。――そっと肩に触れようとしたが、手は空を切った。

「吁、僕は別の空間にいるので、お互い触れることは出来ません。まあ、バリアや治癒には支障ないのでご心配なく」

少年は春樹を見て、ニコリと微笑んだ。

「敵はもう直ぐ撤退すると思います。このキャンプを見失ったので」

「幻覚も出来るんですか?」

驚いて、少年に訊いてみた。

「幻覚は僕じゃないです」

笑顔の儘そう答える。

「僕に出来るのは、バリアと治癒だけですよ――まあ、毒消しとかも出来ますが、それだけです」

含羞む様にそう云うと、僕を凝と見詰めて来た。体の中を爽やかな風が吹き抜けて行った気がした。

「今、何を」

「感染症に罹患し掛かっていたので、取り除いておきました。飲食物等には気を付けて、手洗い(うがい)は小まめにしてください」

「あ――はい」

医者に叱られた様な気分になった。「罹患」なんて難しい言葉を使っている所為だろうか。八つも下の子供なのに。

「では、皆元気になった様ですし、僕はこの辺で。バリアは張った儘にしておくのでご心配なく」

そう云うと少年の姿は掻き消えた。怪我をしていた兵士はすっかり治った様で、不思議な表情を浮かべて、茫然と座っている。他の兵士達も、皆恢復していて、立ち上がって飛び跳ねたりして、(はしゃ)いでいる。

「怪我人を全員治してくれたんだな、兄弟」

ムハンメドが来て、そう声を掛けられた。

「否、僕ではなくて――」

「日本の援軍が来てくれたんですよ。バリアも張ってくれて」

通訳が横から説明してくれた。

「で、引っ越しの準備は出来てますか?」

「おう、準備万端だ、友よ。指揮まで取ってくれて、感謝するぞ」

「敵が完全に退いてから、動きましょう」

何時の間にか飛行機は一機も居なくなっていた。森の中の様子は判らないが、銃声は完全に途絶えている。

「兄弟、済まないな。今夜は寝られないかも知れない。陽が出る迄に次の候補地へ(うつ)らなければならないのでな」

「大丈夫です。僕も手伝いますよ」

ムハンメドは僕の頭をわしわしと撫でた。

「有り難い。恩に着るぞ! 流石はヤポニだ!」

なんだか嬉しくなって、思わず微笑んだ。

初秋 二日目

結局移動は、明け方近く迄掛かった。

キャンプが駄目になった場合に遷る候補地は幾つかあるらしい。その内の三番目に近い場所に移動することとなった。流石に一番近い処へ移動しても直ぐにバレて仕舞うだろう、二番目も念の為避けて、三番目となった様だ。敵に候補地の情報が漏れていたら(いず)れにしても意味は無いと思うが、候補地自体も頻繁に入れ替えをしているらしく、中々の情報戦になっている様だ。

車で移動出来るところはジープで移動し、車が這入れない処は手に手に荷物を持って徒歩移動、男達総出でテントやその他の設備を設営して、僕も念動力で微力ながら手を貸しつゝ、全て終わった頃に日の出を迎えた。

「空気が綺麗な所為か、朝陽が美しいですね」

誰に云うでもなく、自然とそんな言葉が口を突いて出た。並んで日の出を見ていたムハンメドが首肯(うなず)く。

「国は汚れ切っているが、太陽は何時でも清浄だ!」

背後から通訳が大きな声で呼ぶ。

「私はこれから少し寝させて戴きますがね! 春樹さん、あなたは起きているのですか?」

僕は緩りと振り向いて、「僕も少し寝たいです!」と返した。

寛悠(ゆっくり)寝て来い、兄弟。暫くは何も無いだろう」

ムハンメドが朝陽を見た儘そう云うので、「失礼します」と云いながら軽く礼をして、テントへと退がった。

色々な事があり過ぎて、興奮して中々寝付けないだろうと思っていたのだけど、横になると急激に疲労感が襲って来て、結局直ぐに寝て仕舞ったらしい。時差ボケもあったのかも知れない。

目が覚めたのは、夕方頃だった。

起きた時にテントの中には、誰も居なかった。目を擦りながら外に出てみると、なんだか人集(ひとだか)りがある。何だろうと思って近付いてみるが、人垣でよく判らない。中央に誰かが居る様なのだが。

時折と云う歓声が挙がったり、笑いが起きたりしている。中央で誰かが演説を()っている様だ。ムハンメドだろうか、と思ったら、そのムハンメドも人垣の方に居た。後ろから声を掛けてみる。

「何が行われてるんですか?」

ムハンメドがにこにこ顔で振り向いた。

「おゝ、兄弟! あれがガーだ!」

そう云って中央に居る人物を指差す。周囲に集っている兵士たちは皆背が高く体格も良いので、伸び上がってもよく見えないのだが、僅かに髭もじゃの横顔がちらりと見えた。

「あれが……」

「政府軍から重要な書類か何かを、掠め取って来た様ですね」

何時の間にか通訳が横に居た。此奴(こいつ)は如何も動きが読めない。何者なのかと(いぶか)っている。唯のではない様な気がするのだが。キャンプの移転の旗振りなんかしていたし。最初から、反政府ゲリラに異様に溶け込んでいるのだ。本統に何者なのか。

そんな僕の疑念など知る由もなく、通訳はガーの演説内容を伝えてくれる。

「追手が掛かったけど、彼方此方(あちこち)引き摺り回して撒いて遣ったと云ってます。ははは、相手のジープが沼に嵌ったって。慌てゝ出て来た運転手も沼に足を取られて、救援を呼んだりして大騒ぎだったとか。それはもう、面白可笑しく語ってますね。ははは、そりゃあ好いや!」

面白可笑しく、の部分は訳してくれないのか。何がそんなに面白いのかさっぱり解らない。

「蛭が! いやいや、そんな! わっはははは! そりゃあ気の毒に、ねえ? わはは!」

全く解らなくなって来たので、静かに人集りを離れた。あの状態では()の道話は出来ないだろう。演説が終わるのを待つより莫い。

昼の間ずっと寝て過ごして仕舞ったので、腹が減っている。何か無いかと迂路々々(うろうろ)していたら、背後から「ヤパニ」と声を掛けられた。振り向くと、五歳程だろうか、小さな女の子が、パンの()った籠を突き出すようにして、立っていた。

「くれるの?」

通じないとは思いつゝ、訊いて仕舞う。女の子は無表情の儘、籠をぐいと押し出す。

「ありがとう。――サンキュウ」

英語が伝わるとも思わないけど、一応そう云いながら、パンを一つ取った。女の子は「ブハーティーテ」と小声で云って、少し笑った様だったが、直ぐに踵を返すとパタパタと去って仕舞った。

パンは(ほの)かに甘くて、美味しかった。然し口の中が渇いて仕舞ったので、テントに戻り、リュックからペットボトルの紅茶を取り出して、一口飲んだ。昨日隣国で購入したものだけど、こんな環境なので大事に飲んでいる。

それにしてもあんな幼い子も居るのだ。このキャンプと云うのは、所謂兵営ではなく、如何も一つの村の様になっている。女共は兵士達の連れ合いだろう。そして子供は――内戦状態が何十年も続いていると云うことだし、此処で生まれた子供達なのだろう。恐らく外の世界は知らないのだ。此処で生まれて、此処で育って、此処で死んでゆくのか。

不憫、とは思わなかった。外を知らないなら幸せなのだ。自分にも覚えがある。両親が他人行儀でも、他の家庭の有り様を知らなければそれが当たり前で、それ故にその状況を不遇とは思わず、適応してそこそこ安寧に生きて行けるのだ。自分達の場合は暴力や虐待が無かったので、その点は幸いだったかも知れない。然し暴力や虐待があっても、外を知らなければ矢張り受け入れて仕舞うのではないだろうか。若しくは、それが堪えがたい程の状況であるなら、自ら死を選ぶか、または苦境の元凶を取り除く様な行動を――

暗い思考に落ちそうになった時、何処からか子供達の声が聞こえて来た。キャッキャと燥いでいる様だ。そっと外を窺うと、同じ年頃の子供達が戯れ合う様に遊んでいる。欸、幸せなのだな、と思った。昨夜の様な死と隣り合わせの状況が直ぐ其処に在るにも拘らず、此処の子供達は屹度充実した幸せを享受出来ている。大人達がちゃんと与えている。子供達が遊んでいる周囲を囲む様にして、兵士が外向きに配置されている。普段の見張り、見回りよりも、余程手厚くなっている気がする。

好い国だなと、初めて思った。

そう云えば、演説は終わったのか。テントを出て、ムハンメドを探す。然し最初に見付かったのは通訳だった。

「何処行ってたんだ、面白かったのに! 最後に敵を崖下へ突き落して、一網打尽にする所なんか、痛快で!」

「殺し合いの話なんか余り聞きたくないですよ、それより、ムハンメドさん知りませんか? 若しくは、ガーさんと直接話が出来れば……」

通訳は肩を(すく)めて、お道化た顔をしてから、「ムハンメドは先刻テントに戻った様だよ。ガーと話すには先ず、ムハンメドを通さないとな。ガーに警戒されちまうよ」と云った。

なんだ、入れ違いだったのか。

テントに戻ると、何時もの場所にムハンメドが居た。矢張り何かの本を読んでいる。表紙を見ても、Y国語なので何の本だか判らないが、十字架がデザインされているので、聖書かも知れない。

「ムハンメド。――此処は好い国ですね」

ムハンメドが眼を挙げながら、本を閉じ、にこりと笑う。

「国は最悪だが、このキャンプは好い処だろう」

「吁――そうですね。此処は好いです。子供達が大切にされている」

「当たり前じゃないか」

「え?」

「子供と云うのは大人の元だ。所謂苗だ。農業はしたことがあるか? 豆を収穫した後、苗を植えるだろう。収穫するだけして、苗を植えなかったり、植えた苗に水を遣らなかったり、踏み荒らしたりしたら、次は収穫出来ない。飢えて死ぬだけだ。収穫する為には苗を大切に護って育てゝ遣らなければならない。大人が子供を(ないがし)ろにするのは自殺行為だ。国が亡ぶ」

真坂(ま さか)、へ、兵士にする為に、子供を大切にするのですか?」

ムハンメドは少し寂しそうな顔をした。

「今は結果的にそうなっているな……でもな、いつかは終わると信じている」

テントの外、遠くで遊んでいる子供達の方に、ムハンメドはそっと目を遣る。

「あの子等には、そんなことに(わずら)わされず、普通に、平和に生きて行って貰いたいものだよ」

そして僕の方へ視線を戻すと、凝と目を見詰めて云った。

「人は、――人民は国の肝だ。国家と云うパイ生地の中に詰められた餡だ。これが減ったり無くなったりして仕舞えば、パイは皮ばかりになって仕舞う。其処のところを政府の連中は全く解っちゃいない。――国は民で()つのよ」

「なるほど――」

政治だの国家だの、余り考えたことは無かったが、ムハンメドの云うことは好く解る。

「此処も元々は、兵士しか居なかったのだ。然しこの国の(おんな)達は強い。一人で留守番なんか出来ない、夫が戦うなら自分達も戦う、後方支援しながら夫を支えると云って聞かなくてな、気付いたら一箇村出来上がっていたよ」

そう云ってムハンメドは、誇らし気に笑った。そして思い出した様に、立ち上がりながら、「そう云えば、ガーに用事があるんだったな。尾いて来い」と云って歩き出す。

ムハンメドに尾いて行き、キャンプの外れにある小さなテントに這入る。英雄らしからぬ、粗末なテントだ。

「ガー!」

ムハンメドの呼び掛けに、ガーは顔を挙げる。そこからはY国語の遣り取りなので内容は判らなかったが、ガーが僕を見て薄く笑った。僕は慌てゝお辞儀をする。

「きゅ、九年前に、日本の、静岡で――」

僕の言葉をムハンメドが略同時に通訳している。ガーの顔付が変わった。何か云う。ムハンメドが通訳する。

「お前は若しかして、ナカガワの息子か何かか?」

「あっ! そうです! 中川春樹と云います!」

途端にガーは悲しそうな顔になった。

「日本語は忘れて仕舞った。通訳越しで失礼するよ。――彼には申し訳ないことをした。彼を巻き込む可きではなかった」

「あの、それでは矢張り、あの時父に近付いたのは――」

「政府の犬が付いていたからな、引き剥がしたかったんだ」

「え」

「キミヤスには申し訳ないことをした」

確定だ。中川公弥(きみやす)、それが父の名だ。

「娘も居ただろう。名前に秋が這入っているな」

「姉は、秋菜です」

ガーは小さく(うなず)く。

「春と秋は穏やかな季節。穏やかな優しい子に育って欲しいと、春と秋をそれぞれの名前に入れたと云っていた。冬生まれなのに可怪しいかと訊かれたが、日本の四季は美しい、美しい物を名前に含めて何が可怪しいことがあると云ったら、喜んでいたな」

「そんなことが……知らなかったです」

ひょんな所で、名前に込められた思いを知ることになった。名付けた当時は、僕等に期待していたのだろうな。

「春は、新しい命が芽吹く季節。夏に向かってこれから生命が伸びて行く予感の季節だ。大きく成長し、前進してゆく様、男の子の名前に含めようと思っていたそうだ。秋は、大いなる実りの収穫の季節。自然の恵みによって豊かになる季節だ。関わる者達に惜しみなく与えられる優しさと、豊かな包容力を持つ様、女の子の名前には必ず含める心算だったそうだ。そして同時に両方授かった。お前達の春と秋は、そうして親から与えられた」

「そう……なんですね」

どんな顔をして、そんな話を聞けば好いのか。

「双子でそれぞれ春と秋。季節は互いに循環する。二人もお互いをサポートし合い、高め合いながら成長して行く様に、とも云っていたな。――そんな大切な思いを込めていたお前達のことを、キミヤスは迚も気に病んでいた」

「え……」

「彼は殺される予感があったのだろうな。自分が死んだ後のことを大層心配していたよ。奥さんと、子供達のことを」

「母さんも……殺されました」

ガーは一層に悲しい顔をした。

「聞いている。お前は、よく生きていたな――」

「両親は僕の目の前で、殺されました。――殺ったのは、政府側の間諜でしょうか」

「そうだ。政府軍には、不思議な能力を持つ連中が居てな――」

「不思議な能力――それは、例えばこんな」

そう云って僕は、机の上のコップを宙に浮かせた。ガーは無表情にそれを見ている。

「そう、恐らく、もっと強い能力だ。そして厄介な能力だ」

「厄介な?」

他人(ひと)を操る」

そうか。若しかして、母が。

ガーが凝と僕の目を見る。刺す様な視線で。

「お前はどこ迄知っている」

「どこまで――」

僕は、姉や会長から聞いた話を、掻い摘んで伝えた。

「結局僕は、親の死体も見ていないのですが、然し何故か血の記憶が……」

「何歳になった」

「え」

「お前は何歳だ」

「十七です」

「そうか――」

ガーはムハンメドを見た。ムハンメドはそっと目を伏せ、小さく首を横に振る。

何のサインだろう。

ガーは突然日本語で、こう云った。

「ヒントだけ遣ろう。お前、目の前で両親が殺されたと云ったな」

「はい」

「そして死体を見ていないとも云ったな」

「はい――え?」

「好いか、政府の犬の名前を教える。キャロル、日本での名前は、ヤスヒラリナだ。俺がキミヤスに伝えたんだ、忘れやしないさ」

「キャロル……やすひら……」

「あとは邦に帰ってから調べろ。知った以上、この国に居ては危険だ」

それ切りガーは、黙って仕舞った。僕は烈しく動揺していた。

両親は目の前で殺された。確かにその記憶がある。父も、母も、その最期の表情が、脳裏にありありと思い出される。然しそんな筈はない。僕は、姉とずっと二人で、子供部屋で……

――はるき、だめ。

――そうか。ごめんな。赦せないよな、今更……

唐突に脳裏に浮かぶ母と父の言葉。何だこれは。何の記憶だ。

僕は多分、その場で頭を抱えて蹲り、気を失った。

初秋 三日目

母の肩越しに、碧い瞳が此方を見る。眼の中に吸い込まれていく。真っ暗な闇、真っ白な世界、そしてまた闇、妖しい輝き。刃を上にして構える。僕には未だ、料理なんか出来ないよ。大きな青首。上手く切れるかな。真っ赤な汁が吹き出す。母が何か云う。母の背中。振り向こうとして。何か小さな箱を渡してくる。中身は何だろう。ごめんな。父の顔が苦痛に歪む。父さん、父さん。母さんが。自分の顔が映っている。碧い瞳。どんどん吸い込まれて行く。ブ・ハーティーテ。少女が微笑む。その肩越しに、碧い瞳。父の胸から、勢いよく、紅い、

「血が!」

自分の声に吃驚して目が覚めた。

何かの夢を見ていた様なのだが思い出せない。何か迚も不吉な、厭な夢だった。

ガタガタと揺れている。如何やらジープに乗っている様だ。顔を挙げると、ハンドルを握る通訳が居た。

「起きたか。帰るところだ」

「えっ」

慌てゝ起き上がる。朝日が眩しい。ガーのテントで倒れてから、一晩経っているのか。ジープは国境に差し掛かるところだった。

「別れの挨拶もしていないのに……」

「早く帰せと急かされてな。春樹君、一体何を聞かされた?」

「僕は――」

「ああ、此処で云わなくても好いよ」

「はあ」

そして沈黙。この通訳は本統に、何者なのか。

「あの、あなたは――」

「うん? 俺は通訳だ」

「いや、そうではなくて――そうなんだろうけど、それとは別の――」

通訳はと哄笑した。

「間諜とでも思ったか? なあに、連中とは付き合いが長くてな。所謂昔馴染みだよ。日本に潜伏していた工作員と意気投合してなぁ、何度かY国にも渡って、傭兵紛いのこともしたさ」

矢張り普通の人ではなかったか。

「あの頃は色々あってなぁ、行ったり来たりしている内にコロナ騒ぎなんかが始まって、帰国も儘ならなくなってな。此方は余り感染も広まっていなかったし、仕方莫いから暫く厄介になっていたんだ」

「広まってない国があったんですね……」

「殆ど他国との交渉が無かった上に、早々に国境閉鎖しちまったからなぁ。這入ることも出ることも出来ない状態が、何年も続いたよ――まあそれでも、都心部の方では政府関係者を中心に何人か遣られた様だけどな。山の中のゲリラ迄は中々な」

「なるほど……」

「御蔭でY国語はペラペラさ!」

そして愉快そうに笑う。強い人なんだなと思った。

国境を越えて暫く行くと、賑やかな街に出た。隣国の外れの街だが、空港がある。安心したのか、急に腹が減ってきた。

ジープが空港に這入り、車寄せで僕を下ろすと、「じゃあ、俺は此処迄なんで! 気を付けて帰れよ! ブハーティーテ!」と云い残し、通訳は去って行った。何とも慌たゞしい人だ。

「あれは、さよならって意味だったのかな。……それにしても、名前を聞いておけばよかったな」

そんなことを呟きながら、カウンターで苦労しながら日本迄のチケットを購入する。僕も相手も、苦手な英語で必至に意思疎通をして、何とか目的のチケットが入手出来た。出発迄は時間がある為、空港内のレストランに這入り、パスタを注文した。スパゲティの様な麺が食べたかったのだけど、出て来たのは太短い筒を斜めに切った形をした、ペンネだった。日本語訳のメニューに写真が無いので判らなかったのだが、違うと云う訳にも行かないので、仕方莫くそれを食べる。

日本に帰ったら、蕎麦か拉麺が食べたい。

形状は不本意だったけど、腹は満たされた。未だ時間が有ったので、空港内を彷徨(うろつ)いてみたが、田舎の空港なので端から端迄あっと云う間だった。旅の土産でもと思ったのだけど、レストランの他にはパン屋ぐらいしか無い。諦めて待合に行って、スマホの充電をしながら、イヤホンを付けて保存してある音楽を再生し、目を閉じる。

搭乗開始まで後一時間程ある。乗ってからも二十時間程は、空の上だ。来る時には、二十時間ずっと、最悪だ、最低だと毒突きながら来た。機内サービスの映画を観ている間も、機内食を食べている時も、ずっと不満と不安で胸をいっぱいにしながら。寝ている時でさえその想いに囚われて、迚も不安な夢を観た気がする。情勢の不安定なY国に這入り、カシムとか云う男に逢って、十年前の静岡で起きたことの詳細を聞き出して来いと、探偵にそう云われて、単身飛行機に乗り込んで、如何な相手かも全く判らず、念動があるから大抵の事例には対応出来る心算だけど、それでも何も聞かされていないのはそこはかとなく不安で、テレビなんかでよく観る中東の軍人の様な者をイメージして、自動小銃を構えて、乱射なんかされたら流石に対応出来るか如何か、ナイフ程度なら未だ、逆刃に構えて、首筋を、紅い、

「血が!」

吃驚して起きたのは、機内だった。寝ていたのか。視線が集中している気がする。客室乗務員が来て、「如何(いかゞ)なされましたか」と訊かれた。

「すみません、悪い夢を観ました……」

「ワインなどお召しになられますか? それとも、ハーブティーでもお持ちしましょうか」

「あ、否――そうですね、では、ハーブティーでお願いします」

「畏まりました」

乗務員は慇懃(いんぎん)に去って行った。冷や汗が出る。

搭乗してから、三時間程度か。現地時間では未だ昼前ぐらいだ。日本時間では夜になったぐらいか。時差ボケと、初日の徹夜、二日目の気絶などで、何だか睡眠リズムはガタガタだ。眠りが足りているのか足りないのか、よく判らないけど、倦怠感はずっと抜けない。何だかずっと変な夢を観ている気がする。搭乗手続きも、離陸も、如何も上の空、夢現(ゆめうつゝ)で、余り覚えていない。よく間違えもせずに乗り込めたものだ。乗って直ぐに寝て仕舞ったのか。

乗務員が持って来てくれたハーブティーを飲んで、少し気持ちが静まった。カモミールティーか。迚も落ち着く香りだ。

眠気はもう、すっかり莫くなっている。凪いだ気持ちで映画の番組表をチェックすると、ダーティハリーがあったので、再生してみた。字幕だけど、ビジネスクラスの画面は前にスマホで観た時よりは観易いし、気持ち的にも落ち着いて、集中して観ることが出来た。バッジを投げ捨てるところもちゃんと観た。会長が云っていた、乱射しないで一発で仕留めるなんてのも、理解することが出来た。続編も有ったので、五本続けて観たら、流石に疲れて、少し眠った。

日本に着いたのは、翌日の昼だった。夜出発してから、実に四日振りの日本だ。

出迎えには探偵が来ていた。

「ご苦労さん。無事に帰って来れた様で何よりだ!」

迎えの車の中で、探偵はそんなことを云った。無事じゃない想定もしていたのか。何だか腹立たしさが蘇って来た。

「こんな危ない用事を、僕の様な未成年者に任せるなんて!」

「未成年? ほう、俺は成人だと聞いていたがな」

とした。仕舞った、そう云えばそうだった。この探偵には車の運転をしていることが知られているのだ。だから偽造免許証に合わせて、十八と云うことにしてあるのだった。

「せ、成人かも知れないけど! 最近の法律では! でも、未だ、十代ですから!」

「ははは、まあ無事で何よりだよ。護衛はしていたんだが、余り危ない目にも遭わなかった様だな」

「護衛! そうだ、あのエスパー部隊を雇いましたね! 約束が違うし、危ない目には遭ってます! 政府軍の攻撃を受けたんだから!」

「何か約束したかな? 扨措(さてお )き、君はバリアは不要だったと云いたいのかな? 君の力で防げたか?」

「いや、それは――でも、それとこれとは――」

「別ではないよ。俺は雇い主に、君の命を護る様、手を尽くせと云われていたのだ。彼らに依頼したのはその為の手段だ」

「然しエスパー部隊とは関わらないと」

「そんな約束はしとらんぞ? ――姉さんの方とは何か口約束した気もするが、君に関しては何も云われておらん」

そうだ。エスパー部隊とは関わりたくないと希望していたのは、姉だ。僕は実を云うと、それ程抵抗があった訳ではないので、そこに重ねて要望する様なことはしなかった。

「じゃあそれは、もう好いですよ……」

なんだか尻窄(しりすぼ)みになって仕舞った。元々こんな文句を云おうとした訳じゃなかったのだ。唯単に、Y国に派遣されたのが不満だっただけだ。然しそれも、今となっては出発前程厭ではなくなっている。まあ、過ぎて仕舞ったことだし。

「で、何か仕入れて来れたか?」

「ああ、敵の名前を聞きましたよ。えゝと……」

帳面を捲る。

「キャロル。日本名は、やすひら、りな」

「ほう、日本名が有るのか。そう云えば、ぱっと見日本人の様だったと、君の姉さんも云っていたな」

「例の配達員ですか? 欸、そう云えば、他人を操る能力を持っている、とか云ってました。詰まり母さんが……」

少し不自然な沈黙があった。何だか不安になる。

「――噫、そうかも知れん」

探偵が少し遅れて、抑揚なく応える。それも不安感を増幅させる。

「日本名が有るなら、未だ日本にいるかも知れないなぁ。敵にとっては使い勝手が良いだろうからな」

「では静岡に――」

「静岡にはもう居ないだろう。と云うか、別に静岡に常駐していた訳ではない様だ」

「そうなんですか? でも、会長の話では――」

「君の父親と接触していたのは別人だよ。その、安平とか云うのは、その日その仕事の為だけに呼ばれた暗殺者だ」

「欸」

「まあ大体の的は付けているから、後は照合するだけさ」

「そうなんですか。流石ですね」

「俺を誰だと思っている」

探偵は不敵に笑った。

「ところで、腹は減っていないか?」

「吁――云われた途端、減って来ました」

「なんだそりゃあ」探偵は一頻り笑って、「何が食べたい」と訊いて来た。

「拉麺!」

「おゝ、任せておけ!」

車は程なく、拉麺屋へと這入って行った。

四日振りに食べる日本の食事は、最高に美味だった。唯のチェーンの拉麺屋だけど、数年振りに出会った幻の料理かの様に、貪る様に食べた。

晩秋

本統に今年は、何時迄経っても暑い。もう直ぐ十一月だと云うのに、相変わらず半袖の襯衣(シャツ)を着ている。衣替えをした制服の学生達なんかは、一様に暑そうで、上着を脱いで腕捲りなどしている。

八月末ぐらいに、春樹がY国から持って帰って来た情報に従って、探偵が色々調べた結果、特定をすることが出来た。あの瞳の碧い配達員だ。てっきり男だと思っていたのだけど、如何やら女だったらしい。何しろ十年近く前の記憶なので、霞んでよく判らなかったのだ。

安平里奈。

思い出して、つい、と笑って仕舞った。電車の中なのに。自分の存在を薄めて、注目を避ける。

やすひらりな、はるきあきな、父が呟いたのは、私達の名前なんかではなかった。敵の名前を復唱しただけだ。それなのに私は――嗚呼、思い出すだに恥ずかしい。思い込みの濡れ衣で、私は春樹に嫉妬したんだ。本統に莫迦。莫迦過ぎて可笑しくなる。

安平里奈。

その名前を、もう何日かでも早く聞けていたなら、運命は変わっていただろうか。父がその名を聞いた時、既に敵は玄関先で行動を起こしていた。

メールは、カシムからの物だった。詰まり脅迫ではなく、危険を知らせる警告のメールだったのだ。スマホの翻訳ではその辺のニュアンスが正しく訳せなかった様だ。後でちゃんとした人に翻訳して貰ったら、もっと友好的で、かつ父の安全を気遣う様な内容だった。

メールと電話で父に警告し、敵の情報を提供してくれたカシムは、父の死に心を痛めた儘祖国へ帰ったが、父に死を(もたら)した安平里奈は、日本に残った。彼女は日本で、同様の暗殺を多数請け負っていた様なのだ。それは恐らく、今でも――

私は今、その安平里奈の根城へと向かっている。探偵が何の様にして其処に辿り着いたのかは知らないけど、新横浜で下りたと云う情報は、その特定に少なからず役立ってくれた様だ。

犯人を特定して如何するのかと、戸惑ったりもしていたが、今でも暗殺を続けているのであるなら、話は別だ。私は反社会の組織に身を置く者ではあるけれど、かと云って殺人鬼を野放しに出来る程落魄(おちぶ )れてもいない心算だ。会長だって殺しは好かないと云う。これは会長の意思でもある。反社が社会貢献するのだ。見てろ。

相手の手の内は判っている。あの碧い瞳だ。あれを見たら駄目なんだ。ずっと違和感を感じていたのだ、髪も黒く、肌も白過ぎず黒過ぎずで、後ろ姿なら完全に日本人。顔の造りものっぺりとした日本人顔。若しかしたら混血なのかも知れないが、兎に角そこまで日本人になり切っておきながら、何故瞳は碧い儘なのか。それは矢張り、能力の都合なのだろう。カラーコンタクト等で光彩を隠して仕舞うと、能力が使えなくなるのではないだろうか。――それは詰まり、あの碧い瞳さえ見なければ、奴の術には掛からないと云うことだろう。

そんな訳で私は今、似合わない色眼鏡(サングラス)なんかを掛けている。本統にこれで防げるのか如何かは、正直なところ判らない、が、何もしないよりは屹度マシだろう。

地下鉄から地上の私鉄に乗り入れ、急に明るくなる。色眼鏡を掛けているのに眩しい様な気がして、心持ち目を細めて窓越しに外の風景を観ている。中途半端な都会の風景が飛んで行く。黄色いフィルター越しだと、実際より(ひな)びた景色に見えてくる。

新横浜駅の周りには、介護施設が幾つか在る。あの日安平里奈が向かった先は、その中の一つだったらしい。施設の職員をしていたそうだ。よく突き止めたものだと思うが、其処にも長くは居なかった様で、その後も彼方此方の介護施設を転々としている。今では登戸(のぼりと)の老人ホームに居ると云う。

千代田線から小田急線への直通電車で、三十分程揺られている。地上に出てからも二度程地下に這入っては、復出て来ている。二度目に出て来て暫く行ったところで、次は登戸と、車内アナウンスが云った。広い川を渡る。多摩川だろうか。渡り切って直ぐの所に駅はあった。

電車を降りて駅を出る。駅前のタクシー乗り場で待機していたタクシーに乗り込み、行き先を告げる。

さあ、だ。

心拍が上がるのを感じる。安平里奈に遇って、如何す可きかは決まっている。私は彼女に幻覚を与え、ある場所まで連れ出すのだ。そこから先は探偵達に任せている。私が直接、彼女と渡り合う様なことはない。

タクシーが老人ホームの敷地内に這入る。入口前の車寄せで停めて貰い、タクシーに代金を支払って降りると、普通の訪問者のような顔をしてエントランスを這入る。

そして此処からは、小細工する。

職員達から自分の存在を消す。認識上の透明人間となった私は、堂々と施設内を探索する。一人一人顔を確認し、安平里奈を探す。

目的の人物はあっさりと見付かった。安平と書いた名札を付けて、館内を巡回していた。擦れ違う老人達には笑顔で挨拶し、体調を気遣う様な一言を添えたりさえしている。如何やら真面目に働いている様だ。

瞳は黒かった。念の為過去の記憶を確認する。能力の性質上、明確に手を下していないので判断し辛いが、如何やら洗脳を仕掛けていると思われる場面は幾つか視付かった。母と、幼い春樹も、ちゃんと居た。この女で間違いは無い。あの頃より髪も長くなっていて、ちゃんと女性に見える。

直接幻覚を与えるより、上司から指示を与えた方が自然かなと思ったので、暫く後を尾いて歩き、事務所へ這入った所で上長らしき人物と会話を始めたので、買い出しの用事を与える様、上長の認識を操作した。

「そうそう、それで話は変わるんだけど、里奈ちゃん。ゴメンねなんだけどさ、紙コップの追加発注するの忘れちゃって。百均ので好いから、取り敢えず間に合せで五十個ぐらい、お願い出来るかなぁ」

「好いですよ。行って来ます」

里奈は快く雑事を引き受け、キーボックスから車のキーを取り出すと、仕事着の儘通用口から出た。運転席に乗り込むと同時に私も後部座席に乗る。出発してから地理の認識を(いじく)り、車を河川敷へと誘導する。土手を越えて道が無くなる所迄這入り込むと、エンジンを切って車を降りる。

誰も居ない、何も莫い処に、里奈は暫く(たゝず)み、不図我に返った様に、「あれ?」と呟いた。

瞬間、腕が後ろへ回され、何処から湧いたのかワイヤーの様な物で縛り上げられる。あれは中々痛そうだ。

「何!?

狼狽(うろた)えている里奈の顔は、物凄く凶悪に歪んでいた。

私の役目は此処迄だ。この後の展開にも興味が莫いと云えば嘘になるが、然しこの後訪れる部隊と、私は鉢合わせたくない。探偵ともそこのところは確り約束してあるので、何の道私が去る迄この後の展開はない。私は運転席に移ると、エンジンを掛けて車を発進させた。

安平里奈が、非道く恨めしそうな顔で車を見送っていた。

土手を上がり切って車道に戻ろうとした時、ドアミラーに春樹が映った気がした。驚いて車道の直前で車を停め、窓を開けて先程の現場を振り返ると、春樹が単身、里奈の背後に迫ろうとしている。その手に握られているのは、ダーティハリーモデルの――

「春!」

思わず叫び、車をバックさせる。然し如何も、バックではスムーズに下りて行けないので、途中で車を乗り捨てゝ春樹の許迄走り寄った。

「はるき! 何やってんの! それじゃあダーティハリーじゃなくて、セブン!」

振り向いた春樹の顔は、何かの決意に硬直していた。

「姉ちゃん……此処に居たらエスパー部隊来ちゃうよ」

「そんなことよりあんた! なんで此処に! その銃は!?

里奈が振り向こうとするので、念動力で抑えた。

「春、此奴の瞳を見るな!」

「あゝ、解ってるよ。僕だって同じ手には掛からない」

「え」

如何云うこと。思い出しちゃったの?

「あのさ、姉ちゃん、彼奴等結構好い奴らだよ」

「何?」

「唯、年齢バレしたから、もう運転しない方が好いかもね」

「はあ!? あんた何云って……」

「お前等誰だ? 能力者だな?」

突然、里奈が割って這入った。

「あんたは鳥渡、黙ってゝ!」

思わずそんな返しをして仕舞った。

他人(ひと)捕縛しといて、背後で兄弟喧嘩とか、迷惑なんだが?」

「う、う、うるさい!」

「エスパー部隊とか云ってたな。聞いたことあるぞ。何とか云う、警備会社だろう? それは扨措き、お前等は誰だ」

「あたしたちは――」

「僕等はお前が始末した夫婦の、忘れ形見だよ」

春樹が銃を構えながら、冷静に応える。里奈は肩を震わせて笑った。

「覚えてないなあ。そんなもの、一々覚えてられないな――で、その忘れ形見が何の用だ? 仇討ちにでも来たか?」

春樹はそれに答えず、銃口を向けた儘、唯、里奈を背後から見下ろしている。

「云っておくが、私は誰も殺していないぞ。裁判に掛けてくれても好い。この国では有罪になんかならないから」

「この国では裁判に掛けないよ」

春樹は冷淡に告げると、銃を下ろし、引き金から指を抜いた。

「身柄はX国に引き渡す契約なんだ」

里奈の体が強張った。

「去年の大統領襲撃にも噛んでたんだろう? 僕はその話は他人から聞いただけで、詳しく知らないんだけど、X国が裁く理由は十分にありそうだよね」

「何を……」

里奈は歯(ぎし)りした。これは、私達の圧勝と云うことで好いのだろうか。

「父さんと母さんはね、僕等を持て余してはいたけれど、でも愛していない訳じゃなかったんだ」

突然何を云い出すのか。

「僕等の育て方を、カシムに相談してたんだ。Y国では能力者を軍備する程に理解が進んでいるから、参考に出来るケースがあるかも知れないって、色々当たってくれてたらしい。でも――」春樹は一呼吸置いて、ぐっと何かを飲み込んだ。「でもその知見が生かされることは、なかった。間に合わなかったんだ」

里奈が此方を振り返ろうとするので、押さえ付ける力を増した。春樹も一緒に押さえてくれている様だ。

「お前が、僕を乗っ取って――」

「春樹」

春樹は私に顔を向ける。その両目からは涙が溢れていた。今なら解る。春樹に刺された父は、春樹を羽交い絞めにしたのではない。抱き締めたのだ。今際の際に、最後の力を振り絞って、息子を慈しんだのだ。

「お蔭で変な夢、沢山見たよ。どうせ乗っ取るならもっとちゃんと遣れよ! 記憶の隅に残ってるとか、ダサ過ぎだろ!」

「そんなこと知るか。傀儡(く ぐつ)の事情なんか気にしたこともない」

春樹が里奈の背中を蹴飛ばした。剥き出しの乾いた土に、顔から倒れ込む。

「春、やめときな」

「くそう!」

春樹はそれ以上の追撃はせず、唯拳を握って堪えた。里奈は口に這入った土を吐き出してから、嗤った。

「今のはこの国でも裁けるぞ。暴行罪だ」

次の瞬間、里奈の顔が苦痛に歪む。

「春樹、だめ! ちゃんと裁いて貰うんでしょう!」

春樹は里奈を締め上げていた能力を解放すると、(うずくま)り、地面を拳で思い切り殴った。

「父さんも母さんも、僕が……」

「違うよ、あんたじゃない。あんたじゃなかった! 誰か違う奴の眼を――そう、この、安平里奈の眼をしていた!」

春樹が涙でぼろぼろになった顔で、私を見上げる。

「姉ちゃん、ごめんな。酷い記憶視て来たんだろ。――本当に、ごめんなさい」

私は春樹の頭を抱き締めた。春樹も私の胴にしがみ付く。

「すみません、そろそろ宜しいですか」

突然誰かに声を掛けられた。エスパー部隊かと身構えたが、振り向いて確認すると、そこには知った顔があった。

「初めまして、探偵見習いの、神田達也と云います。後ろの男はカール、X国人です」

「吁」

探偵になっていたのか。下呂の一件の時に、私が監視しに行った相手だ。身内がエスパー部隊の隊長か何かだった筈。カールと云うのも、その時から一緒に居る。

「この女は、X国で引き取ります」

カールは流暢な日本語でそう云うと、安平里奈の腕を掴んで立たせた。その時、里奈の右の瞳だけ黒くないことに気付いた。何時コンタクトを外した? 蹴飛ばした時に外れたのか?

「カールさん、彼女の瞳を見ないで!」

里奈の瞳が鈍く光った様な気がした。達也の動きが止まる。里奈の口が開いて何か云おうとする。

「てめえ!」

春樹が後ろから体当たりして、里奈はカール諸共(もろとも)その場に転がった。達也を見る。なんだか焦点の合わない眼で、然し誰かに押さえ付けられているかの様に身動き出来ずにいる。その達也の前に、突然女性が現れた。これまた何処かで見たことのある人だ。

「たっちゃん! 確りして!」

派手な音がして、達也の顔が横を向く。頬が紅い。それと同時に眼に光が戻る。

「あ、彩……」

「探偵が簡単に、敵の術に落ちるなー!」

女性はそう叫びながら、達也に抱き付いた。思い出した、立川で達也のことを影から見守っていた、そして会長の金剛石の恩恵を受けたと云って、半透明で土下座していた人だ。今は判然と見えている。一郎に殺された人の妹であり、達也の幼馴染でもある。立川ではストーカーの様にこそこそしていたが、今では恋人に昇格したのだろうか。

「達也、おかえり」

カールは泥だらけになりながらも、里奈を確りと捕まえた儘起き上がり、達也に向けて親指を立てゝみせた。里奈には何時の間にか、アイマスクが掛けられている。

「くそ!」

里奈はそう毒突いた後、Y国語で何かぶつぶつ云っていた。今度こそ完全に此方の勝利かな。

然し何だろうな、これは。すっかり場を持って行かれた気分だ。春樹もすっかり持ち直しているし。――でも嫌味なところがない。清々しくさえある。探偵と名告っているし、この人達はエスパー部隊ではないんだろう。

なんとなく背後にその存在は感じる――達也の動きを封じたり、この女性をこの場に突然出現させたり、若しかしたら里奈の押さえ込みにも力を貸してくれていたかも知れない、最初に捕縄を掛けたのもそうか、その見ず知らずのエスパー部隊に対して、少なからず畏敬の念を抱いた。私との約束を守って、この場に姿を現さないでいてくれているのも、好感が持てる。

私は今、それ程この部隊を、嫌悪していないと思う。

「ありがとうございました」

取り敢えず達也とカールに向かって、頭を下げた。気持ちとしては、エスパー部隊に向かって。彼等なら屹度、こんな歪んだ気持ちも察してくれるんだろうなと、心の中に恐る恐る侵入して来た気配に対して、淡く期待しながら。

新春

「新年、明けまして、おめでとうございます」

春樹と秋菜が、揃って新年の挨拶に来た。

「おお、おめでとう。お年玉を遣ろうな」

二人それぞれに、三万程這入ったポチ袋を与える。二人共素直に喜んでくれた。

この二人が来てから、何度目の正月だろうか。大きく育ったものだと思う。わしには子供が無いので、この二人の成長が兎に角嬉しい。子を育てると云うのは中々面白い経験だ。

子供と云うより、孫の様な年齢なのだが。

一昨年米寿を祝って貰った。あれは数えで遣るものだから、昨年の誕生日で漸く、わしも満年齢で八十八になった。そして今年は卒寿を遣るのだと云う。

もうそんな祝い事は煩わしいから要らぬと、毎回云うのだけれど、ケジメだの仕来りだの、若い奴らが煩く云うので、結局流される様にして付き合って仕舞う。まあ最終的には、酒飲んで飯食って終わるだけなのだが。

昨年は色々と面倒なことが多かった。一郎は投獄され、宇佐はいじけて、それでも熊が帰って来たので差し引きゼロか。そして春樹と秋菜の敵討ち迄付き合って仕舞った。探偵料も中々莫迦にならない。小粒の金剛石を一つ処分して仕舞った。

まあ好いのだ。この子達の為だから。俺の目の黒い内に、懸念が一つ片付いたのだから良かった。

最初は非道いものだった。比喩でなく泥水啜っていたのだ、この二人は。話に聞く一郎の幼年期も凄まじいものだった様だが、恐らくこの二人も負けてはいない。性格的に不向きだったのだろうとは思うが、その様に育てゝいれば或いは、殺し屋として立派に身を立てゝいたかも知れぬ。その素質だけは多分ある。――そうしなくて良かったと、心底思う。一郎の様な人生ではあんまりだ。

都内の闇の様な所で、池袋や新宿、四谷、飯田橋などの影から陰へと、日々移りながら棲んでいた。見付けた時は、大きな猿かと思った。或いは物の怪の類かと戦慄したものだ。そう思ったのはこの二人の能力の所為でもある。陰に湧く者には陰の噂が付き纏うもので、妖しげな術を使う小鬼が居ると、随分前から囁かれていたのだ。

わしはその正体を突き止めたくて、若い(もん)など使って色々と探っていた。単純な好奇心もあるが、縄張(シマ)の中で変な噂を流されては迷惑だ、と云うのもあった。誰かの悪戯(いたずら)であるなら、捕まえて締め上げて、黙らせて遣ろうとも思っていた。

唯なんとなく、期待の様なものはあった。手を使わずに物を動かすだの、狐化かしの様に道に迷わせるだの。(かつ)て浅からぬ縁の有った、坂上と云う男を彷彿とさせたのだ。

坂上と云うのは念動力を持ったチンピラで、詐欺をよく働いては、頻繁に捕まっていた。組の関係者ではないのだけど、何かと悪縁のある男だった。組から熊を盗み出したのも坂上だ。

そんな過去もあり、今回の噂も同様の能力者なのだろうと当たりを付けて、探させていたのだ。だから鬼ではなくて人を探していた。そうしたら猿の様な物の怪が引っ掛かったと云う訳だ。

或いは坂上の血縁者かとも思った。そうであるなら、熊の行方の手掛かりにもなるかも知れないと、そんな期待も籠っていたのだけど、全く関係なかった。散々苦労して二人を捕まえてみると、ほんの十歳程度の小さな痩せこけた双子だった。坂上の子としての計算だけは合う様だが、出身は静岡の方だと云うし、結果的には全く無関係なのだと判った。

両親を亡くし、火事で焼け出され、その後入れられた養護施設からも追い出されて、静岡から略徒歩で、念動力も適度に応用しながら、東京迄出て来たと云うのだ。江戸時代でもあるまいし、東海道を歩いて来たのかと訊いたのだけど、何処を如何通って来たのか本人達にも解らない様だった。山を越えたと云う様なことを云っていたので、山梨から峠越えでもして来たのかも知れない。

なにしろ臭くて汚いので、先ずは若い衆に命じて、河原で確り洗わせた。服も買い与えて、髪も切らせた。すると、さっぱりとした可愛らしい双子になった。その時点でわしの心は奪われて仕舞ったのだけど、若しかしたら秋菜に取り込まれたのかも知れない。彼奴は幻術使いだから。

まあそれでも構わない。御蔭でわしの余生は、大いに彩られることとなったのだ。

わしはその日、事務所に連れて帰った幼い彼奴等を二人並べて、身元を引受けて遣る、その能力も活用出来る様に計らってやる、そして何時かは自分達の力で生きて行ける様に導いて遣ると、そう云ったのだ。何処まで理解していたのかは知らないが、嬉しそうに含羞んでいたっけ。

若い奴に調べさせて、静岡に戸籍と住民票があることが判り、取り敢えず転籍させた。学校にも通わせて、普通に育てた。二人共わしのことをカイチョウ、カイチョウと慕ってくれて、秋菜が見せくれた夢の様な幻覚に喜んで見せたら、それから毎晩の様に佳い夢を見せてくれる様になった。御蔭でわしはすっかり腑抜けて仕舞った訳だが。

顔が穏やかになった、などと云われている内は良かったのだけど、組員達のわしを見る目がだんだん憐憫の色を呈する様になって来て、流石に拙い気がして来たので、夢は週に一回で好いと秋菜に云い渡した。何だか秋菜は、寂しそうな顔をした。その頃は既に中学生だったか。

高校にも行かせたかったのだけど、二人共わしの傍を離れたくないと、拒絶した。そうは云っても、何処の子供達も、親からはだんだん離れて行って、高校にも通うのだろうに。懐き方が稍病的かとも思ったけれど、無碍(むげ)にも出来ず、結局希望通りにさせて仕舞った。これは今でも後悔している。今からでも高卒認定でも取らせて、大学に入れて遣りたいとさえ思っている。

すっかり普通の親、若しくは祖父の心持ちだ。

然しわしも、もう直ぐ九十だ。秋菜がケアしてくれているとは謂え、矢張り衰えは確実に来ている。何時迄も二人の庇護者でもいられないだろう。だから二人を、信頼と実績のある部隊へと預けたかったのだけど、これも二人には拒否されて仕舞った。親の心子識らず、と云うのだろうか。好い加減親離れしてくれないと、この子達の成長の為にもならない。

「それでお前達、先のことは覚悟出来たのか?」

一瞬きょとんとした二人の顔が、見る見る豹変してゆく。

「会長、止めて!」

秋菜は耳を塞ぐ様にする。春樹は顔が強張る。

「会長」

静かなトーンで春樹が口を開いた。

「その件に就いては、致し方ないと云うか、否寧ろ、こんな身に対して有難い話だとは思っています」

「ん?」

思っていたのとは鳥渡違う反応だった。

「だけど未だ、僕ら二人共、心の準備が完了しておりません。それを受け容れるには未だ、時間が掛かりそうです」

「春、あんた何云ってんの」

「姉ちゃんだって判ってるだろ、もうこの路線は規定で、変え様も莫いし、変える意味も無いって」

「云わないでよ……」

双子の葛藤と云うのも、中々興味深いものだ。

「今此処で云う必要があるんだよ。何時迄も逃げてちゃ、会長だって気が休まらないじゃないか」

秋菜は複雑な表情で、口を(つぐ)んで仕舞った。

「そんな訳なので、会長、僕等にはもう少し時間をください。僕等はその、受け入れ先となってくれる部隊に就いての知識も余り有りませんし、受け入れてくれるか如何かだって、未だ決まっていないのではないかと思います」

「そうだなぁ」

(とぼ)けておいたが、実は水面下で話は進んでいる。あの探偵に仲介して貰って、忠国警備の部長と云う男にも面会している。政府や行政ともパイプの有る様な堅気の会社だから、久万組の依頼と云う形では無理だが、探偵が拾った無宿人と云う体であれば、手続き可能とのことだ。あの佐々本と云う男、元は警察庁警備局の部長だか室長だか、兎に角偉い肩書を持っていたらしい。何の様な有象無象と渡り合って来たのかは知らないが、中々話の通じる男だった。あの部隊は信頼出来ると、わしは感じている。

「まあ、先方の事情は置いておくとしてもだ、わしはな、お前等を孫の様にも子供の様にも思っている。親が子供の自立を望むのは当然だろう? 世の中には、何時迄も子供を自分の元に留め置きたがる駄目な親もいる様だが、そんなのはわしの本意ではない。わしはお前達には、確り自分の力で生きて行って貰いたいんだ。――あの日もそう云っただろう?」

忘れもしない、二人を拾った日。それは屹度、この二人にしても同じだろう。顔付きを見れば判る。

「お前達も色々考えるところはあるのだと思うけど、これだけは覚えておいてくれ。わしはお前達には、出来れば堅気になって貰いたい。此方の渡世は、お前等には厳し過ぎる。お前等は鳥渡他人には無い能力があるだけの、唯の普通の人間じゃないか、なぁ? 切った張ったの世界になんか、居るべきじゃあねぇんだよ」

「でも……僕等は会長の為に……」

「お前等が二十歳(はたち)になる迄、生きているかも判らねぇぞ」

「そんなことない、あたしが死なせません!」

「無茶云うなよ、秋菜」

わしは苦笑した。

「自分の身体のことは自分が一番よく解っている。お前には感謝しているぞ、秋菜。お前の御蔭で、最後まで苦しまずに終われそうだ」

「会長……」

秋菜が泣きべそ顔になる。ちょいと薬が効き過ぎたかな。

「まあまあ、今日明日に如何斯(どうこ)うなるって訳じゃない。なんなら二十歳迄も、見届けられるかも知れない。だが、備えは常にしておく可きだろう? 心の備えも含めてだ」

秋菜は下を向く。口許にきゅっと力を込めて、溢れる感情を堪えている様だ。

「そうだ、お前達、話は変わるけどな――矢っ張り学校行かないか?」

二人は鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をした。

「僕達もう、十七ですよ。今更高校なんて……」

「高卒認定ってのがあるだろう」

「無理ですよ!」

無理ではないと思うのだ。中学卒業迄見て来たが、此奴等は決して莫迦ではない。色々あって学校に行けていなかった時期も長かったし、中学では稍不登校気味でもあったが、決して落第点などは取らず、寧ろ好成績で修了して来た二人だ。遣れば出来ると思うのだが。

「――まあ、考えておけ。家庭教師だって付けることは出来るぞ」

春樹は困った様な顔をして秋菜を見る。秋菜は、稍興味がありそうな顔をしていた。

後は二人で決めることだ。選択肢だけは与えておく。わしはこの二人の人生の、邪魔になりたくはないんだ。

二人を下がらせて、一つ大きな息を吐いた。

云う通りに高認を取って、大学受験をしてくれゝば幸いだ。二人の親に対しても、顔向け出来ると云うものだ。別に彼奴等の親に対して何か責任がある訳ではないし、勝手にこんな世界に引っ張り込んでおいて何を今更、と云う気もしないではないが、何だか申し訳なさもあり、少しでも罪滅ぼしになれば、などと思っている。成人(はたち)迄こんな処に居ては駄目だ。云い訳が利かなくなる。未成年の内に、何とかエスパー部隊に渡して仕舞いたい、と云うのが本心だ。彼奴等の人生の為だ。

書棚の引き出しから、名刺の束を取り出し、その一番上に載っている三枚を机に並べてみる。

佐々木デテクティブビューロー、佐々木探偵事務所、所長、佐々木敬太郎。

忠国警備株式会社、特殊対策部、部長、佐々本繁。

忠国警備株式会社、特殊対策部、第一警備課、課長、EX部隊、隊長、神田真一郎。

「ふん」

大抵のことは調べれば判る。この三人は全員、元警察官だ。探偵の佐々木は所轄、警備会社の二人は公安だが、佐々木と佐々本は現役時代に面識があると云う。詰まり皆繋がっているのだ。

警察官なんて、自分達から見れば天敵だ。然し「元」が付くと、途端に取り込み易くなったりするから不思議だ。元警察官が反社と連んで犯罪に手を染めることだって、ざらにある。だがこの三人はそんなことにはならないだろう。柔軟ではあるが信念は堅い。何となれば、此方の方が取り込まれ兼ねない。此奴等とは適度に距離を置いておいた方が()い。

然しそれだけに、あの二人の受け入れ先としては最適なのだ。警備会社が駄目なら、探偵でも好い。でも矢張り警備会社が最適だろう。是が非でも、拾って貰わなければならない。

春樹が操られたことに端を発し、二人の人生は大きく道を外れた。その道筋を秋菜がなぞり直し、春樹がそれを補強し、そして秋菜が決着させた。二人の大きな迂回路は、二人自身の相補的な活躍に依り、漸く本筋へと戻って来ようとしている。其処にわしが居ては、二人の邪魔になって仕舞う。やっと自分達の人生を、取り戻せそうなのだ。その先は堅気の世界を歩いて往く可きだろう。だからその環境を与えて遣りたい。

それが、わしなりの、彼奴等への最大限の、愛情表現なんだ。

そんなことを思って、思わず照れ臭くなって、一人で笑った。

(終わり)

二〇二五年(令和七年)、二月、一日、土曜日、仏滅。