伝心の研究と、少女の懊悩
里蔵光
一 研究所で
蓮の瞳が紅く光っている。
机の上にピンポン玉が出現し、続いて軽い音を立てゝ小さく揺れる。直ぐにピンポン玉が消えて、後にはビー玉が出現する。
東京都の外れに在る、忠国警備の研究開発センターである。長い直毛の黒髪を眉毛の下辺りで切り揃えた美少女蓮の瞳は、ずっと赤く光りっ放しで、ピンポン玉とビー玉が翻弄され続けている。その様を、右腕を胴に巻き付け、左手を口許に宛がった、黒髪短髪に青と銀のメッシュを入れた都子が、真っ赤な長袖Tシャツにプリントされたキティちゃんと一緒に凝と観察していて、その背後には栗毛をハイポイントのポニーテールに結った白衣の佑香が、糞真面目な顔をして佇んで居る。周囲には善く解らない計器類が、犇めき合いながらピカピカと光ったりしている。
「つかれたぁ」
ピンポン玉とビー玉を机の上に並べたところで、蓮が遂に音を上げた。栗毛を首元で束ねただけの知佳は、苦笑しながら溜息を吐く。
「未だ五分くらいでしょ。飽きっぽいんだから、蓮は」
「しょうがないじゃん、ずっと転送し続けるの、疲れるんだよ。ピンポンもビー玉も、普通に転送するだけならどうってこと無いし、ピンポンの中にビー玉入れるのだって朝飯前なんだけど、ビー玉入ったピンポンの、ピンポンだけ転送してビー玉はその儘とか、すっごく気を遣う」
ずっと考える様子だった都子が、両手を机に突き立てゝ、「ほな」と云った。
「ちょい休憩な。ありがとうな」
そして佑香に振り向き、二人で何か難しそうな会話を始める。多様体とか、トーラスとか、スフェアとか、そんな単語が聞こえるが、能く解らない。開いているとか閉じているとか、何の事やらさっぱりである。都子も頻繁に、解らないと文句を付けている。
令和八年の正月、三学期が始まって直ぐに、都子から蓮に連絡があった。佑香の私的研究の一環として、蓮の転送能力を参考にさせて貰いたいとか云う話だった。佑香は元々都子の異能力の研究をしていた筈なのだが、蓮の転送能力に関連性がありそうだと云う事で、比較か何かの為に協力を求められたらしい。
そして知佳は、蓮の付き添いとして、今此処に居る。
蓮と知佳は、幼稚園来の腐れ縁だ。小学校もずっと一緒で、中学一年生の今も同じ学校に通っている。中学に上がって初めて、別々の学級になった。二人とも小学生の頃に異能力に目覚め、知佳は伝心、蓮は転送の能力を身に付けた。そして略同時に、忠国警備のEX部隊に拾い上げられたのだ。
都子は忠国警備EX部隊の、仲間である。都内の大学で仏文科に通っている。今年四年生なので――
「そう謂えば都子さん、卒論とか大丈夫なんですか?」
ずっと佑香と話し込んでいる都子に、知佳は遠慮も莫く話し掛けた。
「あん?」振り向いた都子は、何だか惚けた顔で、「んなもん、もう提出済みやん」と云った。
「あ、そうなんだ」
「こんな時期迄書いとったら、相当やばいで」
都子は尼崎の出身で、それ故話す言葉も関西弁である。播州弁とか、神戸弁とか、大阪弁とか、色々細かく違う様で、都子の言葉はそれ等のちゃんぽんらしいのだけど、知佳には能く判らない。ひっくるめて「関西弁」である。黙って凝としていれば、美人の類なのだろうが、言動がそれを暈けさせて仕舞うタイプである。ファッションセンスも壊滅的で、台無しにしている。その代わり頭は切れる方で、凝と黙って考え事をしている時だけは、得体の知れない鋭い眼付きに、背筋が
佑香と云うのは都子の幼馴染で、矢張り尼崎出身であるが、今は数学科の大学院生である。都子が一浪しているので、学年が一つずれているのだそうだ。都子が異能者であるのに対して、佑香に異能は無い。唯、都子の一番の理解者ではある。親の関係で播州弁の色が濃く、荒々しい言葉遣いをするとのことだが、矢張り知佳には能く判らない。関西弁は須らく荒いと思っている。然しそんな荒さとは裏腹に、佑香は迚も可愛らしい顔付きをしている。服装も都子とは違って、常識的で女性らしい。可愛らしい猫の髪留めなんかをよく付けている。都子とは好対照であり、この二人が親友と云うのはなんだか不思議な様でもあり、同時に当然の様な気もする。
都子の異能は空間術と呼ばれていて、亜空間を作り出して其処と行き来したり、転位門を作って異なる二地点を繋げて仕舞ったり出来る。佑香はそんな都子の能力を、数学的に解明す可く研究をしているとのことなのだけど、それは飽く迄私的な研究であって、大学院で研究している訳ではないらしい。然しそんな研究に興味を持ったのが忠国警備で、その関係で此処の研究所の一室を借りていると云う訳なのである。
去年ぐらいからずっと、暇を見付けては此処で都子と二人、空間術の研究をしていた様なのだけど、如何にも行き詰っていたらしく、鳥渡目先を変えようと、蓮に声が掛かったのだそうだ。蓮の転送も空間の入れ替えをしているとかで、如何も共通する部分がある様なのである。都子にはそうした事象の行程が或る程度視えている様で、都子が視て佑香に伝え、佑香がそこに解釈を加えて行く、と云う様な事を、先刻からしているらしい。
「薄々感付いては、いとってんけどなぁ」
佑香が眉間に皺を寄せて、呟く様に云う。
「やっぱ数学の手法だけでは、此れ以上如何とも出来へんみたいやねん」
「なんそれ。どないすん」
都子が呆れた様に佑香を見る。
「この辺の測定機材とかも、今一使い切らんし、結局自然科学とかの分野使わンならン気ぃもするし。幾何学的知見だけでは現実世界の記述に限界あんねん。時空とかは宇宙論やろ。重力場の方程式なんかも、解かンならンのんやろか。――やっぱあたし、物理科入り直すかなぁ」
「はぁー、お大尽やな、佑香ん家、ようそんな金あんな」
「無いよ。やから働きながら、自分で行くしかないわ」
「マジか。苦学生やんけ」
「まあ取り敢えず、修士は修了しておかんな」
先刻は「荒い」なんて云ったけれど、二人の会話は何時もリズミカルで、心地好いと、知佳は思っている。話している内容は善く判らなかったりするけれど、それでも二人の掛け合いを聞いているのは、何となく好きだ。
「ゆうて数学も、博士まで取りたいねんけどなぁ……」
「後何十年学校通う気やねんて」
「何十年も掛かるかぁ、どあほ!」
都子がケラケラと笑い出す。
「矢っ張り物理学校か?」
「そんな大昔の呼称使いな。――否まあ、別に今の学校に拘らんねんけど……TITとか、憧れるけどなあ」
「何の爆弾や?」
「アホか! TNTちゃうわ! 東工大やん! ――あ、でも最近名前変えよってんなあ。何やっけ」
「知らんわ。なんやお下品な事云い出したか思たけど、勘違いでよかったわ」
「なんて?」
「なんも」
佑香はなんだか不可解そうに顔を歪めていたが、横で聞いていた知佳にも、何がお下品なのかは能く解らなかった。唯、都子は仏文科ではあるが、普通に英語力もある様で、何かその辺りで引っ掛かりがあったのかも知れない。
それ迄パイプ椅子に沈み込む様に座って、ぐったりとしていた蓮が、緩り顔を上げて、「物理って、何?」と稍タイミングを外した質問をした。
「理科や理科。力学とか、電気とか、後なんや、相対論とか、量子力学とか……」
佑香が説明してくれるものゝ、後半は能く解らない。都子が代わって説明する。
「中学やと、第一分野か? そン中の、化学でない部分やな」
「ばけ学って何? 狸?」
「化けるって字を書く方の『かがく』ってことや。理科の『科』でなくて。そやな、元素やら、反応やら、薬品やら、水溶液やら、そう云うのンは化け学。それ以外は物理」
「元素は素粒子物理学にも、噛んで来よるけどな」
「今はそう云うのえゝねん。掻き回すなや」
「そりゃ失礼」
矢張り後半何を云っているか能く解らないが、何となく、物理が何を指すかは判った様な気がする。然しそれが、都子や蓮の能力に如何関係して来るのか迄は、知佳には理解が及ばなかった。
佑香が飲み物を取って来ると云って部屋を出て、直ぐにお茶の入った紙コップを手に戻って来た際、その後ろからもう一人、続いて入室して来た者が居た。円い縁無し眼鏡を掛けた、三つ編みお下げの女性職員だ。胸に付けた名札には「石田」とある。
「お疲れ様です、如何な感じですか?」
佑香はちょっと吃驚した様に振り返って、紙コップを机に置いた。
「あ、お疲れ様です――吃驚した!」
「あ、すみません」
職員の石田さんは恐縮して、肩を竦めた。
「いや、すみません――後ろに居るの気付かんくて」
佑香も恐縮している。
「研究の方、順調ですか?」
「吁――いやぁ、鳥渡行き詰ってます。――そや、この辺の機材の使い方なんか、教えて貰てもよいですか?」
「好いですよ! 何れ使われます?」
「何やらよぉ解っとらんので、一通り訊いても宜しい?」
「はぁい」
石田が佑香と沢山の機材を前にして説明を始めると、知佳達三人は何となく手持無沙汰になって仕舞う。この女性職員は、都子達より稍年上の、忠国警備専属の研究員だ。警備会社にも色々な部署がある様で、此処研究開発部では、警備に必要な装備や資材なんかの開発や、防犯等と云った警備に関係する社会学研究を主にしている様なのだけど、異能力者ばかりを集めたEX部隊設立後には、異能力の研究なんかもひっそりと行われているらしい。とは謂えサンプルが少な過ぎて、余り体系的な研究は出来ていない様で、それ故佑香の様な市井の研究者なんかにも目を付けて、こうして設備提供して、あわよくばその研究成果のお零れなどを、と目論んでいたりする様なのである。――と云うのは全て、たった今都子に聞いたばかりの受け売りなのだけれど。
「そんな、あわよくばとか、そんなこと莫いですよぉ」
都子の好き勝手な説明が聞こえていた様で、石田が苦笑しながら振り向いて、懸命に否定する。
「ちゃんと、協力お願いする時には、厳密な手続き取ります。研究者として、他人の研究盗ったりする様な真似だけは、したくないので。佑香さんに手伝って貰う時には共同研究者として、佑香さんが主体の研究に協力させて頂く際には、当然此方が協力者として、論文などにも正しく記名させて頂きますし!」
「真面目さんや」
「当たり前ですよぉ」
石田が、ぷうと頬を膨らませる。佳い人の様なのだ。
「でも此処からは、相談なんですけど、平野さん」
石田は佑香を姓で呼んだ。
「修士課程が修了したらでも好いので、うちに来ませんか? 一緒に研究しましょうよ」
「えゝ? いや、あたしは――」
虚を突かれて狼狽える佑香の背を、都子がポンと叩いた。
「えゝやん、内々定や」
「はぁ? いや――せやから、博士も取りたいし、その後物理も――」
「学校行きながらでも好いですよ! あたしも博士後期の時にはそうでした! 一昨年の春に晴れて工学博士号取得して、正式に此処の職員として配属させて頂いたんです!」
石田の誘い文句に、佑香は可成揺れている。「えゝゝ?」などと云いつゝも、顔は緩んで来ている。
「最前、働きながら通うゆうとったやんけ。渡りに船なんちゃう?」
「えゝ、そやな……まあ……考えなくもないっちゅうか……」
「おめでとう!」
「流石に気ぃ早すぎ!」
それでも佑香は、満更でもなさそうであった。都子は以前、数学の院生なんか就職先が無い様な事を云っていたが、此処では如何やら歓迎される様である。歓迎どころか、通学の後押しまでしてくれる様で、佑香にとってはこれ以上莫い好条件だろう。
「でっ、でもほんな、軽い感じで、さらっと内定みたいなもん出してもぉて、宜しいのん?」
「大丈夫、あたし、こう見えて、自分の研究室に限ってだけど、人事権とか採用権とかあるので」
「えゝゝ
「平野さんとはもう、知らない仲じゃないですし。去年から此処使って貰ってますから、為人も、研究姿勢も、十分すぎる位能く識ってます!」
「ひえゝ、こわ!」
「怖くないですよぉ、あたしなんか、
そうしてにっこり笑う石田に対して、佑香は全く硬直して仕舞っている。室長と云う者が何の程度偉いのか、知佳には能く判らないが、佑香の反応からすれば相当に上の肩書なのではないだろうか。採用権限が有るなんてところからも、推して知る可しである。都子は二人に背を向けて、
「そ、そない偉い方とは露知らず、大変なご無礼を……」
「偉くないですってぇ。もぉ、そう云うの無しで!」
そして
二 研究所に
中央線高尾駅の北口に、一人の男が降り立った。除雪された駅前歩道をタクシー乗り場迄進むと、片言の日本語で行き先を告げる。
「チューコク研究ジョ、タノミマス。ぷりぃず」
「Okey, sir. You'd like to go to Chukoku-Keibi Security Institute, right?(諒解りました。忠国警備研究所ですね?)」
「しゅあ。おぉけい」
如何も英語の発音も怪しい感じで、国際対応済みの運転手は小首を傾げつゝ、車を発進させた。外国人だからと云って英語の話者とは限らない。然し英語以外の言語に対応出来る運転手もそう多くは無いので、勢いこの様な観光地では、英語での会話を余儀無くされる。それでも、片言でも英語を話してくれゝば好いのだけど、ヨーロッパ人などは頑なに英語を話さず、只管自国語を押し通す者も多い。単に喋れないだけなのかも知れないが、観光地の運転手としては甚だ遣り難い。「ありがとう」を表す独逸語の Danke、仏蘭西語の Merci、西班牙語の Gracias、伊太利語の Grazie 程度であれば、聞いても判るし、云えないことも無いが、会話となるとなかなか難しい。とは謂え、此処は高尾である。京王線の高尾山口では莫く、JRの高尾駅である。下車する外国人観光客がそれ程多い訳でも莫く、浅草だの京都だのに較べれば、全然ましな方なのだろう。駅員であれば、乗換案内等でより多く外国人の相手をするのだろうが、此処からタクシーに乗る外国人となると、ぐっと少なくなる筈である。
そこ迄考えて、運転手は
軈て車は白壁に囲まれた、大きな施設の門前で停まる。門は堅牢な柵に閉ざされており、門柱に申し訳程度のインタホンが、ちょこんと張り付いている。
「此処で好いですか?」
運転手は国際化を諦めて、日本語で後背に語り掛けた。
「ダイジョブです。アリガトオ」
乗客は運賃を支払うと、タクシーを降りた。走り去るタクシーを見送り、振り返って研究所の建物を仰ぎ見る。雪の残る広い敷地に隙間無く、大小二つの建物が建っている様である。小さい方には「特殊技能研究部」と、武骨なゴシック体で銘打たれている。来客は暫し目を閉じ、何かを探る様に首を小さく揺らした。
同時刻、研究室で寛いでいた知佳が、
「如何した知佳。壁が語り掛けて来た?」
「うん……」
曖昧な返事を返す知佳に、椅子の背凭れに体を預けていた蓮が身を起こし、知佳を凝と見据える。
「遂に物の声まで聞こえる様になったか?」
蓮の戸惑いを含んだ問い掛けに、知佳は
「鳥渡、意外な人が、すぐ其処に……」
「誰って?」
知佳は壁を、基その先にある研究所の門を指差した。
「入ってくるのかな……でも何か、凝として動かない……何だか探ってる感じ……これって……」
「だから、誰よ」
その時二人の頭の中に、聞き覚えのある声が響いた。
〈お久し振りです。今日は、依頼で来ました〉
「ピート!」
蓮が大きな音を立てながら、椅子から立ち上がった。
「誰」
都子が蓮を訝しそうに見遣りながら、知佳に訊いて来た。
「あゝ、都子さんにも聞こえましたか」
「フルレンジで叫んでたみたいやしな。で、誰やねん」
ピートは、二年以上も前の案件で知佳達の前に立ちはだかった、敵である。沖縄に於ける、X国大統領の護衛案件の際に、Y国の能力者として大統領の命を狙って来た、工作員の一人だ。一度は捕らえたが直ぐに逃亡し、再び刺客として姿を現したが、激しい攻防の末に遂には下し、再度X国に身柄を引き渡そうかと云う段で、国に残して来た臨月間近の婚約者の存在を知った知佳達の温情により、その婚約者を蓮の力で呼び寄せた上で、捕らえ損なったと云う体裁の下に、沖縄で逃した。ピートにとって知佳達は、嘗ての敵であると同時に、命の恩人でもある。
「あ! あの噂の、マルチプレイヤー
知佳の説明に過敏に反応したのは、石田だった。
「石田さん、ピートのこと知ってるの?」
蓮が不思議そうに問うと、石田はブンブンと頭を縦に振る。
「知ってますとも、識ってますとも! 報告書は具に読んでますから!」
都子と佑香は、相変わらず
「あれ、でもピートさんて、能力封じられたんじゃ?」
今度は知佳が、不思議そうな声を上げた。沖縄で逃がす際に、何か小さい機械を、蓮の転送能力でピートの体内に埋め込んでいた。神田の説明に依れば、それにはX国がピートの位置を把握する機能と、能力を封じる機能があったはず。
「電池切れ?」
「EXB20-T は、体内の微弱電流で動作するので、電池切れたりしません!」石田が胸を張りながら、知佳に応える。「そんなことより、彼を早く中へ!」
「まてまてまて、危なないか?」
都子が慌てゝ石田を押し留めた。
「いやあ……多分、大丈夫です」
知佳が思案しながら答える。
「でも、電池切れじゃないなら、なんで伝心使えるの?」
「伝心は、能力封印の対象外なので!」
石田が相変わらず興奮しながら答える。
「その人、念動、幻覚、時間停止、伝心の他に、何が出来るんですか? なんか化け物作り出すのは、幻覚とは別なのかな? あゝ、早く呼んで! データ取りたい!」
「対象外なんですか?」
石田の余りの剣幕に気圧されて仕舞い、知佳にはそう返すだけが精一杯だった。
「だって、開発時にデータ無かったもん! 念動は神田さん、幻覚はクラウンさんからデータ取れたから、対応出来たけどさ、それ以外はデータ無いもん!」
「え、あれって、石田さんが作ったの?」
「うちのチームがね!」
「えゝ、すごい……」
結局知佳は、絶句して仕舞った。
「そう云えば時間停止は、都子さんにも出来るんですよね! あゝ、データ取ればよかったあ! 空間術にばかり目が行ってゝ、すっかり見落としてたあ! 都子さん、今度時間ください!」
「はあ……えゝけど……やけど……」
「ピートさん迎えに行って来ます!」
そして石田は、部屋を飛び出してバタバタと廊下を走り去った。
「だいじょぶかいな。危ういなぁ」
都子は心配そうにその後ろ姿を見送っていたが、直ぐに気を取り直して、知佳と蓮の正面に椅子を移動して、座った。
「『多分大丈夫』な根拠は、何やねん」
「え……ピートさんの奥さんを、蓮がY国からテレポートで連れて来ちゃったんだけど、それ見たピートさん、すっかり毒気が抜けちゃったって云うか、なんかもう、奥さん大事って感じで、最終的にはお礼云いながら、沖縄の町中に消えて行ったんです。――そうだよ、ずっと沖縄に居ると思っていたのに、なんでこんな処にいるんだろう?」
「なんちゅうことしとるかな、君等は。その奥さんとやら、完全なる密入国やんか」
「そう――なんですね。――だってよ、蓮」
「今更云われても。神田さんだってその場に居たし。亡命? ――とか云う感じなんじゃないの?」
「てけとう過ぎやろ!」
「手厳しいですね」
都子の背後から突然声を掛けたのは、神田だった。
「うぉっ! 神田っち! いつの間に!」
都子は仰け反りながら振り向き、その儘椅子から滑り落ちた。知佳も蓮も、驚いて目を丸くしている。
「神田さん、なんで此処に?」
知佳の問いに、神田は軽く微笑んだ。神田はEX部隊の隊長であり、知佳や蓮をEX部隊に拾い上げた張本人でもある。神田には念動力の他に、他の能力者の解析能力とでも云う可きものがあり、遠くから能力者の位置を特定する事も出来る。
「なんだか見覚えのある能力パターンが、此方に近付いているのが感じられたので、慌てゝ飛んで来ました」
この場合の「飛んで来る」は比喩ではなく、真実念動力で空を飛んで来たのだろう。知佳達三人が唖然としていたら、石田が客を従えて、軽快な足取りで戻って来た。
「此方です、どうぞ、お入りください」
彼女の丁寧な案内に従って研究室の入り口へと到達したピートは、其処で一旦立ち止まり、室内に向けて深々と頭を下げた。二年前に比べて、大分窶れている様に見える。
〈皆さん、大変ご無沙汰しています。過日はご迷惑をお掛けしました。謝って済む様な事ではないかも知れませんが、それでも皆さんにお掛け頂いた温情は、身に染みており、感謝しない日は一日たりともありませんでした〉
その場の全員に対して、伝心で挨拶をしたピートは、迚も殊勝気である。日本語も英語も心許無いピートだが、神田に依れば伝心に言語は関係なく、意味内容を理解した脳が勝手に各自の脳内で言語化してくれる為、伝心で伝えられた情報は各自の母国語として、自然に聞こえるのだそうである。
〈ピートさん、奧さんは? お子さんは無事に産まれましたか?〉
知佳の質問に、ピートは嬉しそうに含羞んだ。
〈有難う御座います。御蔭様で、母子共に健康です。難民として定住権を付与して頂けましたので、生活する上でも何等の支障も御座いません〉
「はゝぁ、神田っちの差配か」
都子が感心した様に神田を見遣る。知佳とピートの会話が、都子にも共有されていたのは、この会話が知佳の伝心場上で行われていたからである。
「ピートさんの挨拶は聞こえました! 貴重な伝心初体験です! その後も伝心で会話されてるんですか? あ、若しや噂の、知佳ちゃんの伝心場!」
石田が興奮している。確かに最初のピートの挨拶は、伝心場を使わず、ピートの伝心能力でこの場の全員に送られたものだった為、石田にも佑香にも聞こえていた筈である。然し続く伝心場の会話に就いては、能力者間でしか共有されない為、石田や佑香には聞こえていない事になる。
知佳の生成する伝心場と云うのは、能力者同士を繋ぎ、その場に乗っている総ての能力者に相互伝心の能力を与える物である。これに因って伝心能力の無い蓮や都子や神田でも、お互いに伝心が使える様になる。伝心場に乗った能力者同士であれば、伝心の送り先を特定の相手に絞る事も出来るし、全員に一斉送信する事も出来る。知佳は伝心場を使わずとも全員に対して伝心を送る事が出来るが、他の者は伝心場による送信しか出来ない為、能力者同士の伝心では常に伝心場を使う様にしている。何故だか伝心場を使った方が、心做しか楽でもある。唯、非能力者は当然この場に乗れないし、非能力者に対しての送出も出来ないので、必然的に石田と佑香は伝心のコミュニティから締め出されることになって仕舞う。彼女達に伝心を送れるのは、伝心能力を持つ知佳とピートのみなのである。
「今! 今データ、取っても好いですか? 皆さん未だ伝心での会話続けられます? 広域受信機とか、オシロとか、えゝと、後何が出来るかな……音圧とか、サーモとか、レーザーとか……」
石田がバタバタと慌たゞしそうに、様々な測定機械を引っ張り出して来ては、室内の彼方此方で稼働させている。
「ちょっと立体的に取りたいんで、何台か置かせて貰いますね!」
終始圧倒されてばかりだった佑香が、興味深そうに石田の動きを眼で追っている。
「室長さん、後で色々教えたってください」
そっと石田に声を掛ける佑香に対して、石田は作業の手を止めて、破顔した。
「もぉ、平野さんたらそんな他人行儀な! 一緒に研究しましょうよ!」
そして再び機器の設営を続ける。佑香は嬉しそうな、照れ臭そうな表情になって、顔を伏せた。
一通りの設置を終えた石田が、少し離れたデスクでノートパソコンに視線を落とすと、一同に向かって掌を上にして差し出し、「では皆さん、続きをどうぞ!」と云う。
「どうぞったって――なぁ。遣り難いわ」
都子が苦笑して知佳に視線を投げると、それを受けた知佳は困った様に微笑む。そして知佳が蓮を見ると、蓮は小さく溜息を吐いて、気遣う様にピートを見る。ピートが戸惑いも露わに神田へ視線を遣ると、神田は肩を竦めた。そんな連携が面白くて、知佳が思わず
三 会議室で
研究室での計測三昧の会談を終えた後、神田とピートは別棟に在る会議室で向かい合っていた。神田の背後に長机を一つ挟んで、知佳と蓮と都子が並んでおり、そして神田の隣には都子が空間転位で呼び寄せた、部長の佐々本が座っている。その佐々本が、事務的な口調でピートに語り掛ける。
「はい、それでは、正式な手続きをしましょう」
佐々本の発言内容は、知佳の伝心場を通じて神田からピートへと伝えられる。Y国語の通訳が直ぐには手配出来なかったので、こうするより外は莫かったのである。
「依頼の種別は護衛、対象はご家族と云うことで伺っておりますが――」
神田が横で、通訳の伝心を飛ばしながら、受付用の用紙にペンを走らせている。
「申し訳ないが、詳細に就いてもう一度、この場でお聞かせください。この者が先程伺ってはいるのですが、大切な手続きですので間違いの無い様に」
「はい」
ピートの返答は、伝心で受けた神田が代弁する。会話は佐々本と神田の間で為されている様で、非常に奇妙な感じなのだが、伝心の会話は後方の三人にも共有されているので、知佳達は然程違和感を感じていない。
「沖縄で逃がして頂いてから――」
そう云い掛けて、神田は慌てゝ口を噤んだ。
〈ピートさん! 公式の場で、逃がしたとか、そう云う表現は、遠慮して頂けると!〉
〈あっ、そうなんですね。済みません〉
知佳達がクスクス笑っている。そんな周囲の空気を佐々本も察した様で、稍呆れた表情で神田に視線を遣る。
「シン。何を伝心場でコソコソ遣っとるか。俺は経緯も背景も、全て承知してるぞ」
「あ、否――そうです、よね。ハイ、すみません……」
神田は手許の用紙に視線を落とし、「でも此処には、そんな事は――」と云うと、それに被せる様に佐々本が、「書かんでもよい! 書ける訳無いだろうが。考えろ!」と怒鳴った。
「はい、済みません、かかりちょぉ」
「部長だ!」
神田と佐々本は、嘗て警察庁の公安にいた。その公安で、佐々本の発案で異能力者の部署を作って、少人数で細々と活動していたらしい。当時の佐々本の役職が、公安第零課一係、係長だ。その後或る事件を切欠に、部署は廃止となり、それと同時に二人は警察を辞職し、今のこの忠国警備と云う民間の警備会社に天下っている。それが確か、二〇一〇年だか二〇一一年だかの事だと聞いている。そんな十五、六年も前の、刑事時代の癖が未だに抜けない様で、神田は佐々本部長の事をよく「係長」と呼ぶ。その度に佐々本が訂正するのだけど、もうすっかり定番の掛け合いみたいになって仕舞っている。そんな何度も聞いている様な遣り取りなのに、後列の三人娘はケラケラと笑っている。ピートは稍唖然として、成り行きを見守っている。
〈吁、すみません、ピートさん。続きをお願いします〉
〈はい――〉
そして聞き取りが再開される。
「沖縄で別れてから、シルヴィアと二人、此方のスタッフの方に用意して戴いた住居と生活物資で――」
話しながら神田の顔が気拙く歪んだが、佐々本は何も云わず、神田も特に言葉を切ることなく続けた。若干話し辛そうではあったが。
「――暫くは不自由なく暮らしていたんですが、いずれシルヴィアも臨月を迎えて」
「シルヴィアさんと云うのは、奥様のお名前でしたな」
「そうです。産婦人科の世話までして頂いて、御蔭様で無事、娘が誕生しました。その節には大変お世話になりました」
ピートはこゝで、立ち上がって、深く礼をした。五人もピートにお辞儀を返す。ピートは椅子に座り直すと、話を続ける。
「それが一昨年の十一月でした。娘も今は一歳、大きな病気をすることも莫く、健やかに育っています」
〈よかったね。そう云えば、なんて名前なの?〉
蓮が嬉しそうに、伝心を挟んで来た。
〈有難う。娘にはサンディと名付けました〉
神田が咳払いをした。
〈蓮さん。今は聞き取り中なので、そうした話は後にしてください〉
〈あ、ごめんなさぁい〉
蓮は小さく、肩を竦めた。
「すみません、ちょっと脱線して仕舞いましたが、先を続けます」
神田の言葉に、佐々本は無言で、小さく頷いた。伝心の遣り取りが聞こえていないので、状況は把握出来ていない筈なのだけど、そっと振り向いて
「えっ、何でばれたんだろう」蓮が小さく呟く。
「年の功や」矢張り小さく、都子が答える。
「大人しくしといてよ、蓮」更に小さく、知佳が云い添える。
伝心で遣り取りすれば好いのにと、後から知佳は思った。
「娘の名前はサンディです」
神田が続きを始めた。
「その娘の誕生日翌日に、メールを受け取りました。差出人は、Y国の元上官です」
一度研究室で聞いている話なのだけれど、知佳達の顔には緊張が走った。
「娘の誕生日を把握されていた訳では無く、タイミングは単なる偶然だった様ですが、然し内容はのっぴきならない物でした。私達は、居所を掴まれて仕舞ったのです。――唯、上官は私が能力を封じられていることを知らない様で、直ぐに襲撃されると云う様なことは無さそうでした。メールは飽く迄、警告と云うか、脅迫と云うか、兎に角恐怖感を煽るばかりのもので、実害は無さそうでしたが、それでも、何時迄もその儘で済むとも思われないので、私達は居を移すことを余儀無くされました」
「引っ越されましたか。今はどちらへ?」
神田が息を継いだところで、佐々本が先を促した。ピートは少し周囲を気にする様にしてから、一つ息を吐いて、続ける。
「今は山梨県の方に居ます。石和温泉の辺りで、此処からなら一時間鳥渡と云った所でしょうか」
「温泉!」
蓮が反射的に叫んで、両手を口に当てた。知佳におでこを、都子に後頭部を、略同時に軽く叩かれて、「ぎゃあ」とか叫ぶものだから、その場に居た全員が失笑した。蓮の風呂好きは筋金入りだ。温泉に至っては、三度の飯より好きと公言して憚らず、自らを「温泉少女」と評する程である。反射的に反応して仕舞うのも已む無しか。
〈是非入りに来てください。佳い処です〉
温泉、と云う単語は通じた様で、ピートが伝心で、蓮に語り掛けて来た。蓮はおでこを擦りながら、何だか若気て仕舞っている。
「現在、お仕事などは、されているのですか?」
佐々本が仕切り直す様に質問する。
「近くの温泉宿で、清掃などの雑務をさせて貰っています。親子三人静かに生活して行くには、十分な賃金を頂いております」
「そうですか。今の住居は、未だ知られていない様ですか?」
「さて……転居して以降は特に、アクションは起こして来ていないですね。遷って未だ二箇月程ですが」
「先方の能力者は?」
「さあ、私が居た頃には、弱い念動が三人と、伝心二人に、幻覚、洗脳が夫々一人ずつ居ましたが、今では構成要員も変わっているかも知れません」
「なるほど。その辺りを軽く調べておく必要があるかな」
そう云って佐々本は、神田を横目で見た。
「EX部隊で、ですか?」
「出来るか?」
「まあ……はい。調べておきます」
神田は少し思案して、ピートに伝心で質問した。
〈先方の情報を少しください。上官の方のフルネームと、その部隊の拠点など。――もしかして、洗脳ってキャロルだったりしますか?〉
〈キャロルをご存じで? あれは怖い女です〉
〈色々ありまして、一昨年我々の方で身柄を確保し、X国に引き渡したのですが、昨年裁判が結審する前に獄中死されました〉
ピートは目を剥いた。キャロルと云うのは神田の説明通り、EX部隊で確保し、X国に送致した洗脳の能力者だ。色々とやゝこしい人間関係が絡んでいて、神田を含めた隊員達からも身近な知人の、生き別れた血縁者だったり、想像を絶する様な過酷な幼年時代を過ごして来ていたりと云う様な事実が判明してゆくに連れ、知佳達は彼女を憎めなくなるどころか、最終的には同情心まで抱いて仕舞ったのだけど、だからと云って如何する事も出来ず、元々の取り決め通りにX国に引き渡した所、X国の留置所内で、潜入していたY国の諜報員に依って毒を盛られた。それをEX部隊が即座に解毒して助けたのだけど、対外的には獄中死した事にされている。Y国の目を晦ます為である。ピートはY国から亡命して来たとは謂え、EX部隊内部の人間では無いし、何処で如何繋がっているか判らず、未だ完全に信用出来る状態でもないので、神田は獄中死したと伝えたのだろう。知佳も蓮も、余計な事を云わない様、また、伝心で飛ばして仕舞わない様、きゅっと口許を固く結んで、顔を伏せ気味にして堪えている。横では都子が、そんな二人の様を心配そうに眺めている。
神田はピートから、把握している限りのメンバの名前やその役割、部隊の拠点や非能力者の有無や規模等、必要な情報を一通り聞き出しながら手許の書類に一々書き込むと、会談の続きへ戻った。
「この件に就いては、此方で追加調査するとして、手続きの方を続けましょう、係長」
「部長だ――では
「はい。依頼は護衛で、私の妻と娘、及び私自身を、Y国の手から護り通して頂きたい。期間は現時点では未定です」
「期間が長引けば、それだけ費用の方も膨らんで仕舞いますが、お支払いの方は……」
「亡命前の、特級工作員をしていた頃の蓄えが有ります。全く手を付けていませんでしたし、Y国にも手が出せない所で管理しています。向こう五十年分位は支払える程に有りますので、ご心配なく」
「ほう」
佐々本は思わず嘆息した。ピートの代弁者である神田は、それに構わず発言を続ける。
「それとですね、これは依頼と云うより御願い、もしくは相談なのですが――私の能力を解放して頂くことは出来ないでしょう――か」
語尾には神田の戸惑いが乗っかって、遠慮勝ちな云い方になって仕舞った。神田と佐々本は、顔を見合せた。
ピートは本来、テロの容疑者としてX国に送致される可きところを、EX部隊が温情を掛けて沖縄で逃がしているのだが、その際にX国と折衝を行っており、能力を封じつゝ位置を把握する為のトレーサーを体内に埋め込むと云う事で、非公式にではあるがX国の承諾を得ている。従ってX国の了解が得られなければ、それを外す事は叶わないし、X国が了承するとも思えない。
「――云ってみただけです。難しいのは理解しています。これが最大限の譲歩であったことは、私も承知しています。――私も出来れば自分と家族は、自らの手で護りたいと思っていましたが、能力が、それも防衛に特に役立つ、念動と幻覚が使えないのであれば、最早あなた方に頼る以外、私に道は莫いということです」
「勿論、全力でお護りします」
佐々本の力強い言葉に、ピートは一度背筋を伸ばしてから、座った儘で綺麗にお辞儀をした。
「よろシク、おネガいシまス」
辿々しい日本語だが、ピートは自らの発声で、その意志を伝えた。
「最後に一つ」
目の前に翳されたピートの頭頂部に向かって、佐々本が声を掛けた。
「訊いても宜しいかな?」
ピートは頭を上げて、「はい」と短く応えた。少し緊張している様である。
「何故此処に来たのですか? 石和からなら、大月支部が近い。或いは依頼なら、本局に来ても良さそうなものです。此処は研究所だ。我々が詰めている様な施設ではない。何か、他の意図でもありましたか?」
ピートは相変わらず緊張した儘、困った様な表情をした。
「私は何より、トレーサーを取り除いて欲しかったのですが、その為には研究所が相応しいと思ったのです。――結果的にその願いは叶いませんでしたが、依頼は受けて頂けました」
そこで悩まし気に、溜息を一つ吐く。そして数秒の間を置いて、徐ろに続ける。
「実は、如何やらこのトレーサーの信号を、私の上官が捕捉しているかも知れないのです」
「何故そう思われますか?」
「沖縄で特定された後、ずっと追跡されていた様なのです。私には、トレーサーの方式は解らないですが――衛星でしょうか――トレーサーの出す信号をずっと追い掛けていたのではないかと思っています。だから大きく移動した今、その信号を見失っているはずなんですが、でもそれも恐らく、時間稼ぎでしかない。全国に散らばる工作員の誰かが同じ信号を捕捉すれば、それで終わりです。だから、トレーサーを外すのが無理なら、別の方式の物に交換して頂くなど、出来ないでしょうか」
佐々本はピートを凝と見据えている。ピートは遠慮勝ちに、佐々本と神田を交互に見ている。神田は佐々本に顔を向け、対応に就いての相談を始める。その様子を、都子は興味深そうに凝と観察している。
知佳は軽微な不安を感じながらも、ピートに同情していた。
四 中学で
小学四年生で読心能力に覚醒した時、知佳は自分の能力が制御出来ず、ずっと周囲の人々の心の声に晒され続けていた。四六時中ひっきりなしに他人の声が聞こえる状況と云うのは、今思えば迚も尋常ではない。よく発狂しなかったものだと、我ながら感心して仕舞う。幼かった分、頑丈でもあったのかも知れない。聞こえて来る人々の心を、ちゃんと理解出来ていなかったと云う理由もあるだろう。それは確かに、気分が悪くなったり、失神して仕舞った事さえあるけれど、それも頻繁な訳ではなかったし、平時はさやさやと流れ続ける人々の心の声を背景音として、普通に生活出来ていた。聞いたら切りが無いので出来るだけ聞かない様にしていたし、その意味ではスルースキルは培われていた。
能力の制御を覚えた今でも、矢張り無闇に他人の心を覗こうとは思わない。EX部隊の任務の中で許多の人々の心を読む毎に、もうこれで終わりにしたいと云う思いばかりが募って来た。これ迄様々な人達の、その場の気持ちや考えばかりでなく、記憶や、深層心理まで覗いて来た。本人が秘めておきたい思いも、本人さえも忘れている様な封印された記憶も、解き明かして来た。友人の心も、死に逝く者の心も、殺し屋の心も、洗脳された者の心も、洗脳した者の心も読んだ。もう沢山だ。好き好んで他人の心なんか読むものではない。
それでも、EX部隊ではそんな知佳の能力が必要とされ、実際その能力に拠って解決に導いた案件もあったし、危機を防いだ事も、他人を助けた事もある。
親友である蓮も、その力で救って来た一人だ。
だが知佳は、苦しかった。自分の心に掛かる負担は、累積して行くばかりで、誰もそれを取り除く事は出来ない。
これからもEX部隊の仕事では、他人の心を読み続けるのだろう。なればこそ、普段の生活に於いては、決して他人の心は読みたくない。幸いな事に知佳の能力は、EX部隊の関係者以外には知られていないので、部外者が知佳に読心を求めて来る事なんか無い。此処中学に於いても、知佳の能力を知っているのは隣の学級の蓮だけだ。その蓮だって、彼女の転送能力は皆に秘している。故に蓮から知佳の能力が知れ渡る事は、先ず有り得ない。知佳だって蓮の能力を喧伝する心算なんか莫い。お互いの能力はお互いにとっての秘密であり、二人の結び付きを強化する要因の一つでもある。知佳と蓮は、無二の親友なのだ。
そんな蓮が、昼休みに、知佳の学級に飛び込んで来た。
「知佳知佳! 聞いて!」
真っ直ぐ知佳の席迄飛ぶ様に駆け寄った蓮は、息を弾ませながら頬を上気させて、キラキラした瞳で知佳をまじと見据えた。
「何? 蓮、落ち着いてよ」
「落ち着いてるよぉ! てか、落ち着いてられるかぁ!」
「どっち」
「うーん、如何しようか。此処では話せないよなぁ……」
蓮は周りをきょろきょろと見渡す。知佳も一緒になって周りを見てみたが、疎らに居る級友達は特に知佳達を気にしている様でもない。蓮が騒々しいのは今に始まった事ではないので、三学期のこの時期になって、一々反応を示す様な者も居ない。
「別に此処でも好いんじゃない?」
「駄目だよぉ、知佳のプライバシーに関わる!」
「はぁ?」
数人の級友が、ちらりと此方を見た気がした。
「あと、弘子の沽券に関わる!」
「コケン?」
弘子と云うのは、蓮との共通の友人で、矢張り幼稚園からの付き合いである。知佳と蓮、弘子と、もう一人仁美と云う名の友人が、幼稚園来の仲良し四人組なのである。弘子と仁美には知佳達の様な異能力は無く、それ故こゝ数年は、蓮と較べて二人との関わり合いが稍希薄になっている気がする。中学になって弘子とは学級が分かれて仕舞ったし、
蓮の声を聞き付けて、知佳と同じ学級の仁美が近寄って来た。
「如何したの蓮、知佳と弘子が、何?」
ところで蓮には美人の素質が大いにあり、これから大人になるに従ってどんどん綺麗になってゆくのが楽しみな娘なのだけど、仁美は仁美で学年でも随一に可愛い娘で、知佳はこの二人と一緒に居ると如何にも気後れして仕舞う。こんな時こそ弘子が居れば、などと思って仕舞うのだけど、別に弘子も不細工な訳では無いし、結局自分が一番見劣りしている様な気分になる。そんな知佳の想いなどお構いなしに、蓮と仁美が何だか盛り上がっている。
「云えない、云えない! 此処じゃ云えない!」
「好いから蓮、落ち着いて、ちゃんと話して。小声なら好いでしょ?」
「うーん、小声なら……いや! 駄目! やっぱ無理!」
「何それぇ!」
何でも好いから解放してくれないかなと、知佳は思っている。こんな時、心を読んで仕舞えば直ぐなのだろうけど、
「それ、放課後でも好い?」
知佳は蓮に訊いてみた。
「うーん、まぁ……あたしの心が保てば……」
「なんだそりゃ。蓮の心が壊れちゃう様な事なの? そんな大変な事、昼休みなんかに聞かされても、あたしだって困るよ」
知佳はこの友人の事が少し心配になって来た。仁美も心配そうな表情になって、「蓮、大丈夫? あたしが代わりに聞こうか?」などと云っている。
「そうだな、仁美も聞いた方が良いんだけど……でも、うわぁー、如何しよう! 昼休み後五分しか無いし!」
昼休み終了五分前を告げる、予鈴が鳴り響いていた。知佳は壁の時計を見上げる。そして困惑気味に蓮に告げる。
「ごめん、蓮、やっぱ放課後で」
「諒解った! 放課後まで堪える! 放課後、部室で!」
そしてバタバタと、蓮は教室から飛び出して行った。後に残された知佳と仁美は、お互いの顔を見合わせて、溜息を吐き合った。
蓮の云う部室とは、理科室のことである。蓮は中学に上がって直ぐ、何を思ったか理科部に入っている。知佳は色々部活を見て回った挙句、結局何処にも入らなかった。だから基本的に放課後は暇なのだけど、よく蓮に引っ張られて、或いは自主的に、蓮の理科部に付いて行ったりしている。部員ではないので部外者なのだけど、蓮の他に殆ど人が居ない様な部活なので、気兼ねしたことはない。一応二学期迄は三年生の先輩が何人か居た気がするけど、流石に三学期の二月ともなると、受験真っ只中なので一人も出て来ない。二年生の部員は居ないし、一年生は蓮の他には幽霊部員が二、三人。顧問の先生はそれ以上に顔を出さない。何とも好い加減な部活である。
放課後、仁美と連れ立って理科室へ行くと、既に蓮と弘子が其処に居た。
「あ、来た来た! 知佳! 仁美!」
教卓の真正面の机で、蓮が二人を手招きする。蓮と並んで弘子が、なんだか複雑な表情で椅子に座っていて、その隣に――
「紹介します! リチャード! 知佳のファンだよ!」
「はあ
知佳はピタリと歩みを止めて、その儘立ち竦んだ。蓮の示す先には、銀色の髪をした白人少年が、微笑みを湛えて座っている。隣の学級にそんな生徒が居る事は知っていた。だけどこれ迄一切会話したことはないし、目を合わせたことも無い。名前も知らなかった。困惑して黙っていたら、弘子が不満げに言葉を継いだ。
「あたしが最初に見付けたのにさぁ、知佳に取られちゃうとかさぁ」
「え」
戸惑う知佳の横で、仁美は納得した様な顔になり、笑いを噛み殺しながら弘子へ向かって歩み寄った。
「弘子、残念だったね!」
「ちょー、むかつく! 知佳、幸せにならなきゃ承知しないからね!」
「は? え? な、何?」
状況が飲み込めずに狼狽える知佳の様子を、蓮はケラケラ笑いながら見ている。
弘子はあんな事を云っているが、多分怒っている訳ではない。小学生の頃から、何だか流行り物の様に恋愛の真似事をしては、玉砕を続けているので、一部の口さがない者達は「失恋マスター」などと渾名を付けている。本人も恐らく、形式ばかりで余り真剣に恋愛している訳では莫さそうなのである。振られてもあっけらかんとしているし、相手との関係がギクシャクしたりするようなこともない。寧ろ友人としての関係が確立されていたりする。このリチャードも、そんな弘子の道楽の被害者の一人なのだろう。そこまでは知佳にも察しが付いた。能力なんか使わなくても、弘子を知っていれば容易に辿れることである。唯、その後が解らない。
「鳥渡、蓮! 笑ってないで、説明して!」
「ごめん、三科さん。いきなりそんな事云われても、困るよね」
リチャードが流暢な日本語で、そう云った。流暢な日本語などと、殊更に強調することもないのだろうけど、知佳は一瞬面食らって仕舞った。日本語お上手ですね、なんて場違いな台詞を必死に呑み込んで、然し二の句が接げずに、噎せて仕舞った。するとリチャードが駆け寄って来る。思わず、来るな、来るなと、念じて仕舞う。
「三科さん、大丈夫?」
駆け寄ったリチャードが、知佳の顔を間近で覗き込む。三科は知佳の姓だ。赤面して顔を背けると、友人三人が、ひゅう、などと囃し立てる。ほんと、五月蝿い。
「僕、三科さんが好きです」
余りのストレートな物謂に、顔が紅潮する。
「知佳、照れるなよぉ!」
蓮が囃し立てる。知佳はだんだん肚が立って来た。
「五月蝿い蓮! 黙れ!」
「こわ」
「好きとかなんとか! あたし解らないし! そんな、勝手なこと云われても!」
三人の悪友は笑っているし、リチャードはおろおろと狼狽えている。
「これが、知佳のプライバシーと、弘子の沽券に関わる話? 弘子の沽券て何?」
仁美が半笑いで蓮に訊いている。
「え、だって弘子、即行で振られてたし! そんなこと、大勢が聞いてる中で云えないべ!」
「いつものことじゃん?」
「仁美ひどい!」弘子が異議を唱える。
「だって弘子、別に成就させようとしてないし。いつものネタじゃん?」
「そんな事莫いし! あたしが先にリチャード見付けたのに!」
「その、見付けた、ってのは何?」
仁美の疑問には、蓮が笑いながら答える。
「同じ学級なのにね! なんか、先に唾付けたとか、そんな意味なんじゃないかな」
「唾なんか付けないよ! 汚いなぁ!」
「そう云うことじゃなくてぇ」
蓮も仁美も笑っている。知佳も思わず、弘子の天然ボケに笑って仕舞う。こう云うところが、弘子の魅力なんだけどなと、知佳は思う。昔から、弘子は「おバカ」キャラなのだ。
否、そんなことより。
「あゝもお、結局何なのよ……あたし揶揄われに来たわけ?」
知佳は手近な椅子に腰を下ろした。
「揶揄ってないよ。僕は真面目だよ」
真剣に弁明するリチャードを、知佳は虚ろに見上げて、「てか、
「一年二組、三十一番、高橋リチャード。斉木さんと柏崎さんとは、同じ学級です」
斉木は弘子の、柏崎は蓮の姓だ。
「弘子と蓮が二組だってことぐらい、知ってます。あなたのことも見たことはあるよ。白人目立つもん。でも、話すの初めてだよね。いきなり告白とか、あり得ないよね!」
「斉木さんは僕を好きと云ってくれたんだけど――」
「やだぁ、何云い出すの!」
弘子が顔を赤くして抗議する。今更何を云っているのだと、知佳は思う。
「欸、ごめんなさい。――でも僕は、三科さんが好きだったから――」
相変らずの直截的な物謂に、今度は知佳が赤面する。一体この遠慮の無さは何なのか。西洋人だからか。イケメンとか云う奴か。
「あたしなんかより、弘子の方が可愛いし!」
「三科さんだって、迚も可愛いです」
最早知佳には、何を如何すれば好いのか判らない。何だか照れている弘子は置いておくとして、蓮も仁美も、この遣り取りに当てられて仕舞っている様で、梅干しの種でも噛み潰したみたいな表情で、成り行きを見守っている。助けは期待出来そうにもない。
「もぉ、勘弁してよ――あたしはそんな、あなたが思ってるような人間じゃないと思うよ。弘子の方がずっと可愛気あるよ、折角好いてくれてるんだから、邪険にしないでよ」
「それは三科さんだってそうだよ、僕を邪険にしないで――それに、僕が三科さんを選ぶのには、ちゃんと理由があるんだ――だって、僕には――」
〈伝心能力があるから〉
咄嗟に知佳は、身構えた。
五 図書室で
部室に於ける衝撃の告白から二十分後、図書室の長机に並んで座る知佳と蓮の遠方斜め向かいには、リチャードが独りで座って居る。一旦解散して弘子と仁美を帰してから、伝心で示し合わせて再度参集したのだ。三人とも、問題集と帳面を広げて自習している様だが、手は全く動いていない。
リチャードから伝心が送られて来たこと自体、相当の衝撃だった。それは知佳のみに対して送られて来たものだったのだけど、知佳は即座に蓮と共有し、伝心場で問い質そうとした。然し仁美や弘子が居る中でそれは避けた方が好いと蓮に窘められて、一旦その場は適当にけりを付けて、解散したのだ。同時に伝心場では、再集合の時と場所を伝え合い、仁美と弘子を帰してから、蓮と知佳とリチャードの三人は丸でバラバラに図書室へと集まって来た。
〈嬉しかったんだ。同じだったから〉
此処でも三人は、知佳の伝心場で会話していた。中学で伝心場なんか使うとは、この日この時迄全く思いも寄らなかった。一辺に四人が並ぶことの出来る長机の、一方の角に知佳と蓮が並んで座って居り、対角にリチャードが居る。無関係を装いながらも、お互いに視界に入る位置関係である。知佳の方が角に近い方に居て、リチャード側には蓮が居る。如何しても知佳は、リチャードと距離を取って置きたかったし、間に蓮を挟むことで、出来るだけ彼の視線から逃れようとしていた。
〈二人の心だけ、見えなかったんだ。だから、奇怪しいなとは思ったんだけど――〉
〈あなた何時も、そう遣って他人の心読んでるの?〉
知佳がリチャードの言葉を遮って、非難がましく訊く。自分も去年迄は他人の心を抵抗なく読み捲っていたのだけど、それに就いては棚上げして、現在の自分なりの倫理基準で発言している。その辺りの統一性の無さに就いての自覚はない。
〈いや――そう云う訳では無いんだけど、如何しても外国人ってことで皆遠慮して、余り近付いて来てくれないから、切っ掛けを作りたくて〉
〈でもそれは、不誠実だと思う。相手の信頼、裏切る行為だよ〉
〈うん――そうだよね。御免なさい。最近では余り読んでないし、これからも読まない様にするよ……〉
知佳は稍怒った顔をして、対角線上のリチャードを睨んでいた様で、蓮が心配そうに知佳に目配せして来た。そして知佳だけに向けて、〈余り責めちゃ可哀想だよ。知佳だって前は、片っ端から読んでたじゃん〉と送って来た。
〈いや、別に責めてる訳じゃないけど……〉
知佳は戸惑い勝ちに蓮だけに返して、手許の帳面に目を落とすと、一つ深めの息を吐いた。リチャードは過去の自分だと、今更の様に気付かされて、何だか気拙い思いがした。リチャードを責める資格なんか自分には無かった。そして知佳は、恥ずかしさと罪悪感から、話題を変えた。
〈リチャード君。でも、如何して私達が能力者だって思ったの?〉
〈三科さんが造り出しているこの、不思議な場――伝心場って云ってたっけ、これの存在に気付いたから〉
〈うそ。よく判ったね〉
〈僕も伝心能力者だからかな。でも僕にこの場は作れないみたい。それでも、これが能力者同士を繋ぐもので、この中では能力者の心が読めなくなるって、気付いたんだ。だって、三科さんが未だ来てない朝とか、先に帰った放課後とか、そう云う近くに居ない時とかには、柏崎さんの心は見えてたから〉
〈やだ、見ないでよ、スケベ〉
〈御免なさい〉
蓮が茶々を入れて来ると、リチャードは素直に謝った。
〈柏崎さんの能力はよく判らないけど、三科さんのが伝心能力だってのは直ぐ判ったよ。僕は嬉しかったんだ。こんな能力持った人が他にも居るって、初めて識って、それで、ずっと気にしている内に、どんどん好きになって行って……〉
〈あゝもぉ、それは好いから!〉
知佳は顔を赤く染めながら、再びリチャードを遮った。隣で蓮がにや付いている。後半は置いておくとして、リチャードが蓮の能力が何だか判らないと云っている辺り、蓮の心も余り深くは読んでいないのだろうなと思った。そう云う意味では、他の人の心も表面的に聞こえる物を聞くばかりで、深く探っている訳ではないのかも知れない。先刻は勢いで非難して仕舞ったけれど、若しそうなら多少は好感が持てるかも知れないと、知佳は思った。但、だからと云って、積極的な好意は受け入れられない。そんな物を受け止めるだけの余裕も経験も無い。知佳は強く念押しする様に、リチャードに宣告する。
〈あたし、あなたの気持ちを受け入れるなんて、一言も云ってないからね。そんな何度も何度も云って来るの、迷惑なの〉
〈そうなんだ……ごめんなさい〉
〈リック可哀想〉
〈蓮黙れ〉
蓮が隣で、くすりと笑う。
〈解ってるとは思うけど、この能力、あたしのも蓮のも、絶対誰にも云わないでよ。あたし達、平穏な中学生活送りたいの〉
〈うん、解ってるよ。それは僕も同じだから――でも、時々こうして、二人とお話させて貰っても好いかな。僕にとっては、初めて見付けた仲間なんだ。恋愛とかそう云うの関係なく、二人とはずっと友達でいたい〉
知佳は蓮と顔を見合わせた。この過剰なまでに積極的な学友は、意外と繊細な一面を持っている様だ。唯々自分の感情を押し付けて来る無神経な西洋人だと思っていたけれど、そうでも莫いのかも知れない。
〈そう――まあ気持ちは解らないでもないし、あたし達も仲間が増えるのは心強いから、友達としてなら。――もう、好きとかそう云うの云わないって、約束してくれるならね〉
〈約束する〉
〈じゃあ、友達だね〉知佳はリチャードに、遠くから
〈あたしからも、よろしく、リック〉
蓮もリチャードに微笑み掛けていた。リチャードのことをリックなんて呼んでいる辺り、相変わらず蓮の対人スキルは計り知れない。
〈知佳への想いに就いては、あたしが相談に乗ってあげるね〉
〈蓮!〉
〈あはゝ!〉
蓮はもう、二人の仲は定まった物であるかの様に知佳を揶揄って来るのだけど、知佳にそんな気は全く無いので、唯々只管に抵抗し続けて居る。そんな風に伝心場で揉める二人の少女を、リチャードは目を細めて、机の対角から眩しそうに眺めていた。一通り伝心での戯れ合いが落ち着くのを待ってから、リチャードは質問を投げ掛ける。
〈ところで、柏崎さんの能力って、何なの?〉
〈蓮って呼んで! 知佳のことも、知佳って呼んで好いよ、あたしが許す〉
〈何で蓮が許すんだぁ!〉
〈駄目?〉
〈い――好いけど、別に〉
〈じゃあ、蓮と知佳で〉
〈有難う、蓮ちゃん、知佳さん〉
〈「ちゃん」と「さん」の違いは何?〉
蓮の疑問に、リチャードは暫く考えてから、〈想いの差かな〉と応えた。
〈やば、あたしの方が距離近そう〉
お道化る蓮に、知佳は冷たい視線を投げる。距離が近いと嬉しいのだろうか。蓮の意図が解らない。
〈その内蓮に乗り換えるかもね? えゝとね、蓮の能力は――〉
〈自分で云うよ! あたしのは転送!〉
そう云うと、手許の消しゴムをリチャードの手の中へと転送した。リチャードは目を丸くして驚いている。
〈こらぁ、こんな処で能力使うなぁ!〉
知佳の叱責に、蓮はぺろりと舌を出した。
〈凄いな、初めて見た――
稍興奮気味のリチャードに対して、蓮は得意気に胸を張った。
〈それと知佳さん、何時もこの伝心場、物凄く広々と展開しているけど、如何して? 若しかして、大きさの制御出来ないの?〉
〈大きさの制御? そんなこと、考えたことも無かった〉
知佳はきょとんとした顔をした。元々自覚的に生成しているものではないし、自分の意思で如何にか出来る物だなんて、全く考えていなかった。出来るか如何かすら判らない。試した事が無いのだから。
〈形は自覚してるんだよね?〉
〈形? 全然――え、リチャード君は、形視えてるの?〉
〈うん、そこまで明確視える訳ではないけど……でも、いつも球形に大きく広げてるなって、思って視てた〉
〈ほえぇ……〉
〈かわいゝ〉
リチャードの独り言の様な一言に、知佳の顔は瞬間的に真っ赤に染まった。
〈やだ知佳、可愛い!〉
蓮が茶化して、少しクールダウンするも、交代で怒気が込み上げて来る。
〈もぉ! そう云うの! 止めてってば! 友達やめるよ!〉
〈あゝっ、ごめんなさい! つい、無意識に……〉
〈西洋人だなぁ〉
蓮が無責任な所感を漏らした。反射的に知佳は蓮を睨み付けて、そして少しだけ自己嫌悪に陥る。何だか今日、リチャードと逢ってから、ずっと怒っている気がする。胸の内側がざわざわする。相性が悪いんじゃないだろうか。蓮との友情にまで悪影響が出そうである。決して悪い人ではないと、それは心なんか読まなくても判る。だけど一々口説いて来る様な感じが、如何にも知佳には耐えられない。かてゝ加えて、蓮がそれを後押しするかの様に揶揄って来る。一体如何云う心算なのかと思う。知佳の気持ちなど丸でお構いなしに、唯蓮が楽しんでいるだけなのではないかと思えて仕舞う。蓮がそんな身勝手な事を知佳に対してして来るだろうか。知佳の蓮に対する信頼が揺らぐ。親友じゃなかったのかと。蓮の心が読めない事が、知佳の疑心暗鬼に拍車を掛ける。
〈知佳の伝心場って、百米ぐらいって云ってたっけ? それって直径ってことなのかな?〉
知佳の葛藤を知ってか識らずか、蓮が話題を続ける。
〈学校すっぽり入ってるし、まあ直径で百米は、多分超えてるよね。大きい時は何百米もある気がするけど〉
〈大きい時って――この伝心場、膨らんだり萎んだりしてるの?〉
〈うん――余り頻繁ではないけど、何だろう、知佳さんの気分が好い時とかなのかな、怒ってる時もかな、ぶわって広がる感じで……今も……〉
〈知佳、今日は一際、ぷりぷりしてるからなぁ〉
何だか蓮に見透かされた気がして、知佳は一気に気持ちが萎えて仕舞った。
〈あ、萎んだ〉
「うそ」
思わず口から出て仕舞い、知佳は慌てゝ口を抑える。
〈知佳、落ち着け〉
〈また膨らんだ〉
〈知佳のメンタルバロメーターか。便利なんだか、不都合なんだか。而もリックにしか視えてないとか〉
〈やだもぉ……〉
これでは余りに恥ずかし過ぎると、知佳は思った。気持ちの上がり下がりが、リチャードだけに筒抜けなのだ。これは、早急に制御出来る様にしなければならないのではないだろうか。――出来るのだろうか、自分に。羞恥やら、焦燥やら、期待やら、不安やら、様々な感情が次々襲い掛かって来るので、知佳は眩暈を覚えた。天井を見上げて、軽く眼を閉じる。リチャードは何の様にして、伝心場を視ているのだろう。校舎がすっぽり入る様が視えているのだから、両眼の視力で見ている訳ではないのだろう。壁の向こう側、天上の向こう側迄、認識出来ているのだから。知佳が造っている物なのに、知佳に視えないのは如何してなのだろう。視ようと思った事も無いのだけど。視ようと思えば視えるのだろうか。そして意識を外へ外へと飛ばしてみるのだけど、如何したら視えるのかの手掛かりが全く無い。眼を瞑っていても、或いは瞑っているからなのか、全く視える気がしない。眉間には深く深く、皺が刻まれて行く。意図せず口から、
〈大丈夫? 気分悪いの? 保健室とかで休む?〉
蓮が心配そうな視線を送って来る。知佳はそっと眼を開け、天井から視線を下ろして、その儘真っ直ぐに机に突っ伏すと、幾度か深呼吸をした。矢っ張り蓮は知佳を心配してくれる。屹度自分の思い過ごしだ、色々重なり、色々混乱して、疑い深くなっているだけだ。そう自分に云い聞かせ、蓮への信頼を自己修復する。親友なんだと、常々云ってくれている蓮を、信じることにする。信じなければならない。信じていたい。そして無理矢理、心を落ち着かせる。
〈うん、大丈夫〉
やっとそれだけ送ると、知佳は帳面と問題集を閉じて鞄に抛り込み、緩りと立ち上がった。
〈今日はこの辺で。あたし、ちょっと家とかで練習してみる〉
〈練習も好いけど、学年末、大丈夫か?〉
蓮が嫌な事を思い出させて来る。そうだ、もうすぐ学年末試験だ。中学生になってからこゝ迄、何とか平均的な成績で来たけれど、常に不安は付き纏っている。そう云う蓮は、何だかあっけらかんとしているのだけど。
〈蓮こそ大丈夫なのかよ!〉
〈一緒に勉強しようよ〉
リチャードが割って入る。知佳は一瞬動作を止めて、ちょっと思案気にリチャードに視線を遣るが、直ぐに目を伏せて、〈否、好いよ。また試験後にね〉と送った。
「待って知佳、あたしも帰る」
リチャードを残して、知佳と蓮は図書室を後にした。
六 石和温泉で
依頼を請けてから、ピートの護衛はずっと継続している。今のところ目立った動きは莫い様であるが、二十四時間、三百六十五日、休み無く張り付く訳にも行かないので、ピートの住居には奥さんにも許可を貰った上で、何台かの防犯カメラを設置し、通報システムなども導入している。
ピートから依頼のあったトレーサーの付け替えに就いては、直ぐに別方式の物が用意出来ない為、一旦ソフトウェア的な変更で暫定対応とし、現在研究所で開発している最新型が完成次第、入れ替えることになっている。
「そうだよねぇ、ミヤちゃんのジオラマでずっと見ておくわけにもいかないもんね」
「あったり前やん。堪忍してやぁ」
蓮と都子と一緒に、知佳は温泉に浸かっている。ピートに招待して貰ったのだ。ピートが勤めている温泉宿だと云う事なのだけど、ピート本人はこの日は出勤していないらしい。EX部隊宛てに招待券だけどっさり送り付けられて来て、何時でもお好きな時にどうぞ、と云う体で招かれているので、折角なので三人で都合を合わせて、都子の空間転位で訪れていると云う訳である。
蓮の云う「ミヤちゃん」とは勿論都子の事で、ジオラマと云うのは都子の空間術の一つである。別の空間を縮小して緩く接続し、眼の前に配置する事で、遠隔地を一方的に監視することが出来る能力である。空間転位の応用らしいのだけど、詳しい理屈は知佳にはよく解らない。何しろこの能力があれば監視カメラなんか要らないし、立体的に視認し続けられるのだけど、都子の体力も相当に消費する様で、能力展開中はずっと何かしら食べている印象がある。特に糖分が欲しくなるのだとか。都子に拠れば、糖は脳の栄養らしい。まあ兎に角そんな訳なので、都子のジオラマで何日も監視すると云うのは現実的ではないのだ。
「ほんでその、リチャードやっけ? 何人なん?」
「日本人じゃん?」
「帰化しとるんか」
「あー、如何だろう。してないのかなぁ? あまり詳しい事、あたしも聞いてないや。でも普通に日本語喋ってるし、英語の成績そこそこみたいだし、苗字も高橋だし、日本で生まれ育ってるんじゃないのかなぁ?」
「まあ、普通の中学に通っとるぐらいやもんな。そうなんかも知らんけど……知佳ちゃんは何も聞いとらんのか?」
ずっと蓮と都子で会話していたのだが、突然質問を振られて、知佳は少し慌てた。
「知らないですよぉ、別に、そんな仲良い訳じゃないし」
「はぁん? 彼氏やん?」
「ちぃっ! ちがいますぅっ!」
知佳は真っ赤になって否定した。隣で蓮がゲラゲラ笑っている。
「何をどう聞いたらそうなるんですかぁっ!」
「あはゝ、そない取り乱さんくてもえゝやん」
都子までケラケラ笑っている。この二人は変な所でそっくりだ。知佳は不景気な表情になって、湯船に顎迄浸かった。
「別に悪い子じゃないとは思うんだけど、でも何と云うか、主張が強過ぎるんだよ」
「えゝやん。グタグタして判然せん男より、その方が」
「何方も別に、必要ないです」
「知佳ちゃんにロマンスが訪れるんは、もうちょい先かな」
そして矢っ張り、都子はケラケラと笑った。何がそんなに面白いのか、知佳にはさっぱり解らない。
「都子さんだって彼氏居ないじゃないですか」
「うちの眼鏡に適う男、居らんからしゃあない。――蓮ちゃんも気ぃ付けよ、うちと同じで、男運悪そうやからな」
蓮は目をぱちくりさせて、都子を見上げた。
「ミヤちゃん男運悪いの?」
「昔の元彼、詐欺師んなって逮捕されとったわ」
そしてケラケラ笑う。それ、笑う所なのだろうか。
「昔は彼氏居たんだぁ」
「JKン頃な。手ぇ繋いだだけやけど」
矢っ張り笑っている。JKと云うのは、女子高生か。都子の過去に、若干の興味が湧いて来る。如何な高校生だったのだろう。中学や小学校では、如何な感じだったのだろう。
「なあんか興味ありそうな顔しとるけどな、その伝心場、制御でけるようなって、うちのこと場に入れん様にでけたら、記憶覗けんで」
「そんなことしませぇん」
知佳は若干眼を泳がせながら、視線を逸らせた。興味が無いと云ったら嘘になる。然し畏れ多くて、迚も視る気になれないと云うのも、今のところの正直な気持ちである。
「してもえゝで。知佳ちゃんに見られて困るようなもん、多分、莫いと思うし」
「多分って」
「楽しみに待っとるで」
都子がにかっと笑い掛けて来るので、何となく気拙い気がして、頬を染めながら口許迄湯に沈む。何れにしたって、制御は未だ出来る様になっていない。
「上せて来たかもぉ。……露天行こぉ」
蓮が紅潮した顔で、緩りと湯船から這い出しながら、二人を誘った。二人も蓮に続いて立ち上がる。
「ミヤちゃんには見えないの? 知佳の伝心場」
露天へと続くドアを潜りながら、蓮が都子に訊く。
「残念ながら、うちには判らんなぁ。空間属性ではあると思うねんけどなぁ。うちの知覚対象ではないみたいやねん。――そやな、研究所に訊いたら、なんかデータ持っとるかも知らんで」
「研究所かぁ」
「この前、滅茶糞計測しとったやん?」
「してた、してた! 知佳、この後研究所行こ!」
そう云いながら蓮は、露天の湯船に体を沈める。確かにあの研究所なら、何か判るのかも知れない。然し知佳の伝心場は、百米単位で広がっているのだと云う。あの時は確か、室内を計測していたのではなかったか。全体の形なんか、観測出来ていないのではないだろうか。
「そうかも判らんなぁ」
知佳が思った儘云うと、都子も考え込んで仕舞った。風呂に浸かった儘、右腕を腰に巻き付け、左手を口許に持って行って、凝と黙って何か思案している。数分間その儘、凝としていたが、何れ何かしら思い付いた様に顔を上げて、緩りと探る様に云う。
「んでもまぁ、康代ちゃんなら、再計測なり何なり、してくれへんかなぁ」
「やすよちゃん……ですか?」
「あの室長さんやん。石田康代ちゃん」
石田さんは確か、都子より年上だったのではないだろうか。部署違いとは云え室長さんだったし、役職とかも上だと思うのに、都子はちゃん付けで呼んでいるのか。
「都子さんって、あんまり会社とかに向いてなさそうですよね」
「なんよ、藪から棒に」
「神田さんのことも神田っちだし、余り上司を上司と思ってなくないですか?」
「先迄子供や思っとったけど、知佳ちゃんもそないなツッコミする様ンなったんやなぁ」
なんだか感慨深気に、優しい顔でそんな事を云われて仕舞った。如何も知佳は、何時でも都子には調子を外されて仕舞う。
「うち契約としては非常勤やしなぁ。微妙に組織階層の外側やねん。この立場で居る限り、昇進とかそんなんも関係あれへんし、上に媚び売ったかて何も返りないねん」
「何ですかその、打算塗れな考え方」
「あはゝ、中学生がそないなツッコミしんといて。も少し子供っぽく行こうや、蓮ちゃん程度に」
これには蓮が黙っていない。
「ミヤちゃん何云うの! あたしレディなんだから!」
「出た!」
そしてケラケラと笑う。小学生の頃からの、蓮の口癖なのだ。レディと云うには未だ未だ子供だと、知佳は常々思って居るのだけど。何だか結局、二人揃って都子に揶揄われて仕舞っている様だ。
「でもミヤちゃん、何かの責任者だかにされてたって」
「そやねん。やから別に、呼び方如何でも構わんのんちゃう? 気にするだけ損や」
そして復笑う。何だか知佳は、呆れた様な気分になって仕舞った。
「まあ、なんしろ、そんな観測データでも大体の形見せて貰えれば、知佳ちゃんが自覚する助けにはなるんちゃうか? しらんけど」
「大阪人、知らんけどって云うって聞いたことあるけど、本当に云うんだ」
蓮が変な所に感心している。
「尼崎やっちゅうのに!」
都子は大阪人と云われたくないらしい。
「尼崎も大阪だって、クラちゃん云ってた」
「全然ちゃうし!」
クラちゃんと云うのは、関西出身のEX部隊メンバーの一人で、クラウンと云う名の幻覚遣いだ。何だか事ある毎に都子と喧々囂々遣り合っていて、知佳辺りは毎回ハラハラしながら見守っているのだけど、如何もそれが通常の関西ノリであるらしい。そんなクラウンの能力と云うのは、他人の認識を操作して、見えない物を見せたり、見える物を隠したり、無い感覚を与えたり、有る筈の感覚を阻害したり、他にも色々と出来る様で、そう云えば幻覚とは別に、遠隔地を監視してテレビ画面の様に皆に見せることも出来る。都子に云わせればプロの覗き屋である。そう云う都子も、空間転位の応用のジオラマで、盛大に覗きが出来るのだけど。
「そう云や今回、クラちゃん参加してないの?」
「しとるよ。なんや、時々幻影スクリーンでピート達覗き見しとるらしいで」
幻影スクリーンと云うのが、クラウンの覗き能力だ。
「ミヤちゃんはしないの?」
「疲れるし、腹減るし、見たないねん。顎見とるし、えゝのんちゃう?」
都子はクラウンを、顎、と呼ぶ。顎が矢鱈と長いからだ。成程都子は、目上の者に対する呼称が凡て出鱈目だ。
呆れ半分、諦め半分で、視線を上げる。空にはずっと灰色の雲が垂れ籠めていたが、凝と見上げていると、其処からひらひらと、小さな白い粒が舞い降りて来た。羽根の様に風に煽られて、上がったり下がったり。然程強い風でもない上に、多少風が巻いている様で、螺旋を描く様に、円舞曲を踊る様に、右へ左へ、前へ後ろへ、上へ下へ、自由奔放に空間を目一杯使って、たっぷり時間を掛けて、知佳達の元へと下りて来たその一片は、蓮の肩に優しく触れると、直ぐに融けた。
「ひゃあ、ゆきぃ!」
蓮がテンション高く叫び、空を見上げる。都子も連られて、天を仰いだ。無数の白い粉が、天からふわふわと下りて来る。すっかり眼を奪われて、そして三人、肩迄湯に浸かる。
「きれぇ」
知佳は思わず嘆息する。雪が珍しい訳ではないけれど、温泉に浸かりながら見る粉雪は、何だか趣深い。
「尼は雪降らんからなぁ。偶に東京で見る雪とも違って、何や繊細な感じやなぁ」
都子も何だか、愉しげに空を見ている。出身は尼崎だけど、今は都内の大学近くに、佑香と二人でルームシェアしている。東京の区内で降る雪は、何だかベチャベチャしている印象がある。積もり方も汚い。知佳は川崎だけど、大した違いは無い。それで云うと、研究所のある八王子の雪は、区内や川崎に較べれば大分綺麗に見えた。
この雪は、あの雲から、どの位の時間を掛けて落ちて来るのだろう。ふわふわと、ひらひらと、時に風に吹かれて舞い上がりながら。遠い遠い道程を。雲迄は何粁だろうか。それとも数百米ぐらいだろうか。伝心場は雲迄届くのだろうか。雪はその境界を、物ともせずに、丸で無関係に、無頓着に越えて来る。越える時に抵抗なんかは感じないのだろうか。自分はあの雪に、干渉出来ないのだろうか。
知佳は伝心場の形を夢想する。知佳を中心としたドーム状のそれは、大きく一帯を取り囲み、雲にも届けと膨れ上がってゆく。上から注がれる粉の様な雪は、境界を素通りしてドームの中へと舞い込んで来る。そよ風さえも場に遮られることはなく、境界辺りで雪は自由自在に出たり入ったりを繰り返す。自由への憧れと、捕らえられない事へのもどかしさ。知佳は謂れの莫い焦燥感を憶える。雪に関わりたい。雪に触れたい。雪から逃れたい。雪に触れられたくない。ドームよ萎め、場よ縮め、雪が入って来られない様に。想像の中の伝心場は、少しずつその容積を縮小し、温泉宿の屋根程度から、更に低く、露天風呂の湯船ぐらいから、更に更に小さく。知佳一人分程度の大きさへ――
「あれ?」
蓮が小さく叫んだ。
「知佳が居なくなった気がした。――そんな訳無いか」
「ん。蓮ちゃん、伝心してみ」
「何? えっと――あれ? ――知佳?」
二人の視線が知佳に注がれる。知佳は空想の世界から抜け出して、その視線を受け止めた。暫くはその意味を酌み兼ねていたが、軈て蓮や都子の心が視えることに知佳は気付いて、緩りと眼を大きく見開いてゆく。口を開けると、上ずった声が漏れる。
「あ、都子さん、若しかして私――」
七 再び、研究所で
「思念波って奴があるとして、それは一体何の様な物理量なのか、素粒子の一種なのか、ゲージ粒子なのか、ハドロンではなさそうだけど、レプトンも違う気がするし、今のところ全く正体は掴めてないのね。この前の計測でも、この辺の計器では全く捕まらなかったんだよね。まあ、想定の範囲内ではあったんだけど――」
石田が詳しく説明してくれているのだけど、知佳には何を云っているのかさっぱり解らない。石和温泉から、都子の転位能力で一足飛びに研究所迄来た三人に加えて、矢張り都子の転位で呼び寄せた、一応理系に強い筈の神田と、数学者の卵の佑香にも同席して貰ってはいるが、果たしてどこ迄この話が理解出来ているものか。
「だから、態々もう一度、計測してくれって其方から来てくれたのは、物凄く嬉しいんです!」
石田は知佳に、盛大な笑みを向けてくれた。何だか気恥ずかしくて、知佳はもじもじして仕舞う。温泉では伝心場を縮小させて仕舞った様だけど、結局あの後も知佳は場の形を知覚出来る様になった訳ではなく、従って制御も未だに出来てはいない。あの時湯に浸かりながら、一体自分は何を如何して場を縮小させたのか、全く自覚出来ていないのだ。知佳は此処へ、ヒントを求めて遣った来たのである。
そっと上目遣いに石田を見上げてみるが、そんな知佳の様子に構わず、石田は説明を続ける。
「脳波ってあるじゃない。
何だか石田は、説明が止まらなくなって仕舞っている。神田や佑香は興味津々で聞き入っているのだけど、知佳は最早降参だった。若しや蓮なら付いて行けてるのかと思って其方を見てみたが、切れ長の眼を更に細めて、ポカンとだらしなく口を開けた儘、苦悶の表情になっている。
〈蓮。口〉
伝心で伝えると、蓮は口を閉じた。然しそれ以外の顔のパーツは、ピクリとも動かない。これは期待出来そうもないなと思いつゝも、一応訊いてみる。
〈理解出来てる?〉
〈ぜんっぜん!〉
蓮が即答すると同時に、石田の瞳がきらりと光った。
「ね? ほら!」
石田が傍らに置いた何かの計器を指差して、興奮している。
「見てました? 今、ぴょこぴょこって山が出たの! 誰か今、伝心しましたよね? それも、三回ぐらい! 蓮ちゃん? 知佳ちゃんかな?」
急に名を呼ばれて、知佳は裏声で「ハイッ?」と反応した。蓮も吃驚して眼を見開いている。
「特定周波数の電波で妨害されるってのが、ヒントにはなったんですよ、これ、伝心の為に今回開発した計器なんです! やったぁ、矢っ張りこれで合ってた! ちゃんとログ取れてるかなぁ?」
石田は興奮して、PCのマウスを動かしたり、キーボードを叩いたりしながら、猶も話し続ける。
〈うわぁ、なんか成功したみたい〉
知佳は蓮に伝心を飛ばしながらも、その計器から目を離さずにいた。オシロスコープの様な画面上で、緑の輝線が微かに撥ねた。
「ほらほら! また!」
「すごぉい」
知佳が思わず嘆息する。
「まぁ、なんか飛んでるなってのが判るだけなんで、何処から何処へとか、如何な内容とか、そう云うのはこれからなんですけどね」
「内容迄判っちゃいますか」
稍不安げな声で、知佳は訊いた。
「如何かなぁ、ま、一つの目標ではあるけど、余りそっちの期待はしてないし、重要でもないかな。あたしはこれを、外から制御したいだけなんだ」
「吁、ピートさんに使う奴?」
「そうそう。既に読心や伝心を妨害する装置はある訳で、その原理解明なんかも必要なんだけど、それとは別に、
「でも、ピートさんの伝心使えなくしたら、会話出来なくなっちゃう」
「運用はまた別の話。出来るか如何かが重要なの」
「ふうん?」
なんだか鳥渡怖いなと、知佳は思った。元々この能力が余り好きではないのだけど、それでも他人に封じ込められるってのは、何となく嫌だ。使うも使わないも、自分の意思で決めたい。そりゃあ如何な能力も、非能力者から見たら脅威でしかなく、そうしたものに備えるのも当然だと頭では解っているのだけど、如何にも心は納得出来ない。
「こわ」
蓮が小さく呟く。恐らく知佳と同様の心持ちだったのだろう。その小さな声を、石田は聞き逃さなかった。
「そうだよね! 怖いよね! それは本当にごめんなさい。この制御を向けられる方からしたら、そりゃあ翼を捥がれる様なものだから、怖くて当たり前だと思います。でもこれを使う側に回れば、こんなに頼もしい技術も莫いの。私の立場は、常に防御、防衛。あなた達も是非、制御する側でお願いします!」
「え、あゝ、はい」
蓮は勢いに押されて、しどろもどろに返答する。
「究極的には能力を模倣する所迄行きたいけど、まあでもそれは、出来たとしたって後何十年、何百年掛かるか。出来ないかも知れないし。未だ未だ全然基礎研究レベルではあるので、封印機材が造れてるのが奇跡みたいなものなんだけどね」
石田の眼は遠い何処かを見ている様で、最後に軽い溜息を吐いた。
「さて。夢の話は置いといて。――何だっけ。そうそう、知佳ちゃんの、伝心場だよね? さぁ、この技術の応用で捉えられるかなぁ?」
そう云って石田は、先程知佳の伝心を捉えた計器に手を置いた。
「例えば電場なら、その中で電荷を彼方此方配置してみて、そこに掛かる力の向きや大きさを測定することで、その広がりは計測出来るよね。磁場や重力場もまあ、理屈は大体同じ。――でも今回の伝心場は、影響受けて運動を得る物質が未知なので、難しいよね。じゃあ如何するかなんだけど……知佳ちゃん達皆で、伝心を飛ばし捲って貰って、それを
そうして石田は、ぴょこりと頭を下げた。
「計測は、その機械一台で?」
ずっと感心しながら聞いていた神田が、質問を投げた。
「あゝごめんなさい、これ一台じゃ無理です。強度は判るけど方向が判らない。スカラーじゃなくベクトルで捉えないと。なので同様の機器を何台も造って、立体的に配置します。その準備にはまだ少し掛かるので、また日を改めて、にはなります」
「成程、そうですよね。判りました。皆さんの都合の良い日時で、調整しましょう。人数は多い方が好いですか?」
「あー……そうですねぇ、余りわんさか居ても……まあ、今いる面子ぐらいで。いち、にぃ……四人か、四人ですよね? 平野さんはパンピーなんで。この四人ぐらいでお願いします。――あ、別に都合付かなかったら三人でも二人でも。でも、知佳ちゃんは必須で!」
「はい」知佳は素直な返事を返したが、少し首を傾げ、「ぱんぴーって、何ですか?」と訊いた。
「あたし、異能力無いし。そう云う意味で一般人ゆうたんちゃうの」
佑香が答えてくれた。
「そうですそうです! あたしもパンピー! え、これって死語ですかねぇ?」
「あんま使わんなぁ。地域差か?」
佑香は神田を見た。
「僕ら世代の言葉じゃないですかね? 若い人に通じなくはないと思いますが、余り使ってるところは聞かないですね。――あ、石田さんは若いか」
「お気遣いありがとうございます!」石田はからりと笑って、「親の影響かもですね、確かに私も、周りで聞かないです!」と云い、更に笑い続けた。
「んでも、あたしパンピーやけど、その測定する日、一緒に参加さしてもぉてもよいですか?」
佑香は神田と石田を交互に見ながら、訊いた。
「勿論です! 一緒に測定手伝ってください!」
石田は嬉しそうに、ぴょんと一回跳びながら、そう応えた。
「日程確定したら、連絡差し上げますね」
神田が云い添えると、佑香は都子を振り返り、「都子に訊くから良いですよ。同居しとるんで」と返す。
「あ、そうですね。諒解りました。――都子さん、お伝えくださいね」
「あい」
「雑な返事やな」
佑香が絡んだ。
「なんよ。ちゃんと伝えるやん」
「よろしくなぁ」
この二人はいつもこんな感じで、仲が好いのか悪いのか、傍から見ているとハラハラする事もあるのだけど、知佳は佑香が都子に全幅の信頼を置いている事を知っている。未だそれ程他人の心を読むことに抵抗を感じていなかった頃に、佑香の心の声は結構聴いていた。都子は能力者なので聴けないけれど、佑香から推測する限りは都子も佑香を信頼している。会話だけ聞いていると喧嘩している様に感じる事もあるけれど、それでもこの二人は仲良しなのだと、知佳は確信している。そしてそんな関係性に憧れを抱いていたりもする。自分と蓮の関係と比較したりして、安心したり不安になったりもする。今でも蓮は、親友と思ってくれているだろうか。
知佳はそっと蓮に視線を送った。蓮はそれに対して、
「何その、態とらしい笑顔」
「何だとぉ、知佳が熱い視線を送って来たから、応えたんじゃん!」
「あっ、熱い視線じゃないし!」
自分達も都子達と同じかも知れない、と思った途端、知佳は何だか可笑しくなって、笑い始めた。蓮は一瞬戸惑いを見せたが、結局一緒になって笑った。
「仲えゝんか悪いんか、判らん子達やな」
都子がぼそりと呟くと、今度は石田が笑い出す。
「都子さんと平野さんだって同じ様なもんですよ、仲好い友達いて羨ましいなぁ」
「やすよちゃん、友達居ないの?」
蓮がいきなり懐に飛び込んで行くので、何時もの事ながら知佳は面食らった。
「蓮、呼び方馴れ馴れしいし! 質問も失礼!」
然し石田は嬉しそうに笑う。
「好いですよぉ、蓮ちゃん! 心配してくれてありがとう! あたし友達居ないの。蓮ちゃん、友達になってくれる?」
「もちろん!」
蓮が復、交友の幅を広げた。そんな蓮が、知佳は頼もしくもあり、心配でもある。
「失敬な子で済みません」
こうして代わりに謝るから、知佳は蓮に、お母さんみたいだなどと評されるのだ。
「失敬なもんかぁ! 知佳ちゃんも、友達になって! 康代って呼んで!」
「あ、はい……康代さん……」
戸惑いながら、照れながら、知佳はそう返した。
「平野さんも、佑香ちゃんって呼んじゃおうかな!」
「え、あたし部外者やけど……まあ、呼び方は如何とでも」
佑香は展開に乗り切れていない様で、稍たじろぎながら応えた。
「何云ってんですかぁ、社員候補ですから! 博士前期終わったら、来てね!」
「ほんまに、えゝのんですか?」
「えゝの、えゝの! 寧ろ逃したくない! 異能力の研究なんて、うちでしか出来ないよ!」
「いやまぁ、それはそうでしょうけど……」佑香はちらりと都子を振り返る。「都子、春から正社やん? あたしが来年入ったら、此処では一年後輩になるやんなぁ。なんか悔しい」
「なんでやねん、部署ちゃうし、気にしな」
都子が卒業したら正社員になると云うのは、知佳達も聞いている事である。今迄は学生しながら非常勤職員として関わっていたそうで、それ故都合が合わない事も有ったが、正社員になればそうしたことも無く、全ての案件で都子が居てくれる様になるのだろう。知佳達にしてみれば、こんなに心強い事も無い。そして知佳達も将来は同じ様に、正社員になるのだろうか。確かにこんな異能力は他の職場でなんか活かせないだろうし、掛け持ちなんてのも無理がありそうなので、選択の余地は莫いのかも知れない。中学生にして将来の就職の心配が無いと云うのも、何となく味気莫い気がする。自分は本当は、如何なりたいのだろう。将来の夢を持つ前に神田にスカウトされて仕舞ったので、何に成りたいかなんて考えた事も無かった。
複雑な想いを抱きながら、知佳は天井を見上げた。
八 下校時の寄り道で
学年末試験が終わった。それなりに勉強して臨みはしたが、何の程度の成果が得られたものか、知佳には全く手応えも自信も無かった。年明けから余りに色々な事が有り過ぎて、勉強に身が入っていなかったのだ。
取り留めのない不安たっぷりな想いで悶々としながら、教室で帰り支度をしている知佳に、唐突にリチャードからの伝心が飛んで来た。
〈テストお疲れさま。如何だった?〉
久し振りに聞くリチャードの伝心声に、知佳は僅かな懐かしさと、大いなる面倒臭さを感じた。なんとなく、この儘一対一で会話を続けることに抵抗を感じたので、知佳は蓮を巻き込んで、伝心場経由で返した。
〈お疲れ。最悪だった〉
〈如何した知佳? リッキーが恋しくなったか?〉
〈違うし!〉
蓮には知佳の返事からが届いているので、知佳がリチャードに話し掛けた様に聞こえたのだろう。巻き込んだのは早計だったかも知れないと、少し後悔する。
〈僕から声掛けたんだ。知佳さんと二人で話したかったんだけど〉
〈あはゝ、リック、それは知佳を解ってない!〉
蓮が理解のある友達で佳かったと、知佳は胸を撫で下ろした。
〈知佳は奥手で鈍いんだから、余り性急なアプローチは却ってマイナスだよぉ〉
待て。蓮は一体、何を云っているのだ。
〈そうか。アドバイスありがとう!〉
〈蓮? 何云ってるの? リチャード君も、「アドバイスありがとう」じゃないでしょ! 余り変なこと云ってると、友達やめるから!〉
〈わぁ、ごめんなさい!〉
〈知佳、リックに厳しいぞぉ。ファンは大事にしないと〉
〈大きなお世話!〉
若干苛付き気味の知佳が、帰り支度の済んだ鞄を抱えて教室から出ると、廊下では蓮がリチャードを従えて待ち構えて居た。
「何それ。如何云うこと」
「まあまあ。鳥渡顔貸してよ」
「はぁ……」
能く呑み込めない儘、蓮に尾いて校門を出ると、蓮は二人の自宅とは反対の方向へと歩みを進めた。
「こらぁ、寄り道不可ないんだぞ」
「堅いこと云わない」
三人で向かった先は、近所のスーパーだった。三人は先ず食料品売り場へ向かい、各々菓子パン等を一つずつ選んで夫々に会計をすると、その儘イートインコーナーへと進み、二人掛け洋卓を二つくっ付けて其処に荷物を置いてから、備え付けの自動販売機へ飲み物を買いに行く。
「買い食いだぁ、不可ないんだぁ。不良なんだぁ」
そんな事を云いながらも、知佳はカップタイプの自販機で買った暖かいミルクティーを満たした紙コップを持って、洋卓席へと戻る。続いて蓮とリチャードも、夫々の飲み物を持って席へと戻って来た。
「では不良の知佳さん」蓮がお道化た調子で話し始める。「伝心場の制御は、出来る様になりましたか?」
「まだ。――てか、それ訊く為だけにこんな処に来たの?」
蓮は何か企んでいる様な顔で、
「明日、土曜日に研究所に行くじゃない? その前に、知佳の状況訊いておきたかったのと、後は、リック連れてこうかなって」
「はあ? なんで?」
「だって知佳の伝心場視えるの、この子だけなんだよ」
同い年で
「否まあ――それはそうなんだけど、でも――部外者だし、
「迷惑じゃないよ! 知佳さんの役に立ちたい!」
リチャードが前のめりに主張する。何処で何をするのか、解って云っている訳ではないのではないか。自分達は伝心能力を測定する事に就いて、勿論同意している訳だけど、同じく伝心能力を持っているリチャードを、何も説明せずに連れて行って行き成り測定するなんて云うのは、駄目なんじゃないだろうか。そしてそんな事情も知らずに、何だか莫迦みたいな感情だけで協力を申し出るなんて、安直で短慮な人なんだなと思った。それとも蓮は、事前説明でもしているのだろうか。知佳はリチャードを一瞥して、直ぐに眼を逸らす。
「それに、勝手に連れて行く訳にも――」
「神田っちとミヤちゃんには、伝えてあるから」
「はぁ? 何それ、手回し好過ぎ。先にあたしじゃないの?」
「そうだよねぇ、彼女差し置いて、ゴメン」
「彼女ちげぇし!」
如何も口調が荒れて仕舞う。屹度思春期だからだ。そう自分に云い聞かせながらも、知佳はそれ以上望まない言葉を発しない様に口を噤んで、心持ち二人から体の向きを逸らせた。
「まあ、試験中だったしさ。日程の連絡来た時に、何となく提案してみたら、サクサクッと決まっちゃって」
「なによぉそれ……好いのかなぁ」
「好いよ!」
「リチャード君は黙ってゝくれないかな」
知佳に冷たく遇われて、リチャードはしょんぼりと項垂れた。そんなリチャードを慰めようとしてか、蓮は彼の方を向いて、声を掛ける。
「リックもEX入る?」
「えっくす?」
丸で部活にでも勧誘するかの様な、気軽な調子でリチャードを誘うので、知佳は幽かな不快感を覚えた。そんなに気軽に入って来られて堪るか、などと云う排他的な想いが頭を擡げる。
「蓮、それはうちらで決められることじゃないから。土曜一緒に連れてくのがもう決定なんだったら仕方ないとして、云うならその時に、神田さん交えて話すことでしょ」
「そうか。そうだね。うん、リック、一回忘れて」
リチャードは微妙な表情をしていた。何だか知佳は、胸が騒付いて仕方なかった。リックが入ったら如何なるだろうかなどと空想する。知佳との交代要員になるのだろうか。然しリチャードには伝心場が作れないのだから、矢っ張り知佳は必要な儘なのではないか。そうすると、リチャードは何をするのか。唯誰かの心を読む為だけに? 他人の心を読む役割を、知佳から奪ってくれるなら、それはそれで楽かも知れないけれど、でもそうすると知佳の存在意義は如何なるのか。唯伝心場を展開する為だけに、知佳は居る事になるのか。若しもリチャードが伝心場の能力を獲得したら? 何れ知佳は不要になって――考えがどんどん後ろ向きになる。そして知佳は、自分の気持ちが判らなくなる。EX部隊にこの儘居続けたいのか、それとも読心の役目から逃れたいのか。でもEXを抜けて、その後如何するかなんて全く考えられない。将来の夢なんか無いのだから、何に成りたいとか、何をしたいとか、全く頭に無い。いっそリチャードと二人で協力し合いながら、読心の役を続けた方が好いのではないか。伝心場の形を視て貰えるのだから、知佳とリチャードと二人で一つ、と云う形の方がしっくり来るのではないか。そう考えるとなんだか愉しい気分にもなる。リチャードと何時も二人で。愉しく。――そこ迄考えて、知佳は急に狼狽える。何でリチャードと二人が愉しいのか。如何かしている。
「じゃあ代わりに、理科部入る?」
知佳が懊悩している横で、蓮が今度は本当に、部活の勧誘を始めた。
「えー、如何しようかな。知佳さんは部員じゃないんでしょ?」
「あたし基準にしなくて好いから」
知佳は眼を逸らせた儘突き放す。一々絡んで来ないで欲しい。二人で一緒に居るのが愉しいなんて、そんな事有り得ない。知佳は先程の空想を必死に振り払う。
「知佳も入ろうよぉ」
「理科嫌いだし」
「関係無いって」
理科部が、理科の好き嫌いと関係無い訳莫いだろうと、知佳は思う。蓮は唯、同士が欲しいだけなんだろう。入部しなくたって、しょっちゅう遊びに行ってるんだから、それで好いじゃないかと思う。
「理科部って何するの?」
リチャードは稍興味を示して、質問して来た。
「知佳とか弘子とか仁美とかと、おしゃべりして、ポテチ食べて、ジュース呑んで……」
「如何かと思う」
知佳が短く批判する。
「だって実際そんな感じじゃん。顧問来ないしなぁ。顧問いないのに実験とか出来ないべ」
「ほんと、理科部って何してるの? よく存続してるよね」
「先生、三年の学年主任だからな」
「権力だけで保ってるのかよ!」
何だか知佳は、可笑しくなって笑って仕舞った。
「いや、権力と云うか。三年今受験期だし、色々忙しくて顔出せないだけなんだと思うけど」
「いずれにしても、唯の駄弁り場になってるってことだね。そんな部活、別に入る必要ないと思うよ」
「うわぁ、知佳ったら何てこと云うのぉ!」
蓮が顔を顰める横で、リチャードが
「リッキー笑うなぁ!」
蓮がぷんすか怒っているのだけど、知佳もついつい笑って仕舞う。
「くそう、二人で仲良く理科部をバカにしたな」
「別に仲良くないし」
知佳は一転、憮然とした表情を作る。それを見たリチャードが悲しそうに眉尻を下げると、蓮は表情を和らげる。
「まあまあ。そんな風に依怙地にならないの。友達認定したんでしょ?」
「取り成そうとしなくて、好いから」
然しリチャードは気を取り直した様に、微かな笑みを浮かべると、幾度か二人の学友の顔を交互に見た後、あっさりと「入部するよ」と云った。
「マジで?」
蓮は如何やら、心底喜んでいる。知佳は正直、何方でも好かった。リチャードにも理科部にも、申し訳無いけれど然程興味が莫い。唯、蓮が喜んでるなら好かったと、それだけを思った。
「よかったね、蓮」
「うん! 部員ゲットだぜぇ! やっほぉい!」
と云うことは、これからは放課後理科室に遊びに行くと、必ずリチャードが居るのか。そこに気付くと、知佳は一瞬胸が躍る気配を感じた後に、それを打ち消す様に非常に面倒臭い予感に囚われた。でも元々幽霊部員の吹き溜まりみたいな部活だし、リチャードも直ぐ来なくなるかも知れないな、とも思った。何れにしても二人を喜ばせる要素は全く無い考えなので、取り敢えず黙って微笑んでおく。
そんな思いを見透かす様に、蓮が知佳の肩に手を回して来て、耳元で囁いた。
「リックは幽霊部員なんかにしないし、ならないから。だから、毎日でも彼に逢えるぞ!」
蓮には読心能力なんか無い癖に、本当に他人の気持ちをよく察する。
「い、要らないし! あたしが行かなかったら、蓮とリチャード君、二人切りだね!」
「妬くなよぉ!」
「やかねぇわ!」
何でか顔は真っ赤に染まる。何だかこの儘、蓮のペースに乗せられて仕舞いそうである。ちらりとリチャードを窺うが、澄ました顔で微笑んでいる。何なのだろうか、この余裕みたいなものは。本統に小憎たらしい。実はプレイボーイなんじゃないか知ら。如何にも信用ならない。西洋人だからか。
蓮は、照れ臭くなったりしないのだろうかと、そっと肩口に在る親友の顔を窺い見るが、只々愉しそうな表情でしかない。リチャードの事を「リック」とか「リッキー」なんて呼んでるし、実はリチャードを好きなのではと一瞬疑ってもみたが、如何もそれは思い過ごしの様だ。知佳は読心能力者なのに、蓮の様に他人の心を読み取ることが出来ない。そして静かに自己嫌悪に陥る。
蓮は
九 富士の訓練場で
土曜日の朝、知佳達三人は神社の裏に集合していた。家から近く、自転車も停めて置けるし、他人目も避けられ、リチャードに説明もし易いので、この場所を選んだ。各自の家まで迎えに来て貰っても好かったのだけど、知佳も蓮もリチャードの家を知らないし、神田辺りが勝手に調べて迎えに行くのも如何かと思うので、一旦こうして集合してから、迎えに来て貰う段取りとなっている。
知佳と蓮が連れ立って神社の裏に到着した時、其処には既にリチャードが立っていた。
「おはよう。リチャード君早いね」
「おはよう、知佳さん! 今日も可愛いね!」
知佳は
「もぉツッコむのも疲れたよ……」
「友達やめないんだね?」
蓮がニヤニヤしながら訊いて来る。
「あゝ、そうか。そう云うこと云ったら友達辞めるんだった」
「うわぁ! 御免なさい! もう云わないから!」
「何回『もう云わない』って云うんだろうね」
知佳は眼を細くして、冷たい視線をリチャードに送る。そんな三人の目の前の空間が突然四角く切り取られて、その向こうに富士山が見えた。
「はいはい、戯れ合いはそこまで。お迎え来たで」
富士山の見える枠の中から、都子が遣って来た。もこもことした薄水色のダウンジャケットの中に、真っ黄色なトレーナーを着ていて、全面に大きくキキララがプリントされている。下はサンタクロースかと云う程に真っ赤な裏起毛らしきパンツで、足許はアシックスのスニーカー。足首の隙間からは緑色の靴下がちらちらと見え隠れする。――何時も思うのだけど、都子は何処でこうしたサイケな服を買っているのだろう。そして如何してこうも、喧嘩しそうな色の組み合わせをしれっと着熟す事が出来るのだろう。よく佑香辺りに、服装が田舎いなどとケチを付けられているし、確かにずっと田舎いと思ってもいたのだけど、見慣れて仕舞った所為か、今では知佳は、若しかしたら恰好佳いのではないかとさえ感じている。――でも都子以外がこんな格好をしていたら、確実に田舎いと感じるだろうとは思う。
「呆けとらんと」
都子に促されて、知佳は
「これが空間転位って奴なんですね! 凄いです! 初体験です!」
「んな大層な事やない。大袈裟やねん」
都子は何時でも、こうして自分の能力を卑下する。決して自慢気にならない所は、都子の魅力でもあるし、信用出来るところでもある。こう云う立ち居振る舞いが恰好佳いから、服装の奇抜さが霞んでいるのかも知れない。
富士山から視線を下ろすと、其処には大きな建物が在った。忠国警備の所有する体育館の様な物で、警備員の身体訓練が主な用途らしい。EX部隊員の訓練にも使うそうだけど、知佳は今回初めて訪れた。恐らく蓮も初めてだと思う。中に入ると、控室の様な部屋に案内された。其処では石田康代が、机上にノートPCを広げた儘、佑香と膝を突き合わせる恰好で、何か愉しそうに会話をしながら待機していた。
「せやから矢っ張り、w軸方向の厚みが無いと色々不都合な事になるねんけど、これも結局は理論の組み立て方次第な所があって……」
「数学モデル次第ってことでしょ? それはでも、現代物理学ではあるあるなんだよね」
「そうなんですか?」
「光一つ取ったって、量子力学では粒の様な実体のある物として論じたりするけど、電磁気学では振動しながら直進する場だから。他の素粒子だって、霧箱の中では点の軌跡としての線で現れるし、写真にも線として写るけど、その正体はエネルギーの塊でしかないのかも知れないし、超弦かも知れない訳だし、重力も一応量子という姿が与えられているけど、空間の曲がり方でもある訳で……」
「一つの形に固執しない方がえゝってことですか」
「そうだね。その時の理論に都合の好い解釈を選択すれば好いと思うの。大丈夫、それぞれが矛盾し合う事は、基本的には莫いから。莫い様に組み立てゝ行くんだけどね――いや、実際には量子の領域では矛盾なんかし捲ってるんだけど、まあその矛盾だって一つの射影に過ぎない訳だし」
相変わらず、よく解らない会話をしている。横で神田が興味深気に聞いているが、口は差し挟まない。差し挟めないのかも知れない。昔理系だったとは云っても、研究者ではないのだから、ブランクも大きいのだろう。
「佑香は何の話をしとんねん」
都子は全く理解出来ないのに、遠慮なく会話に分け入って行く。分け入ると云うよりは、邪魔をしている様でもあるが。佑香は都子の方も見ずに、腕組みしながら応える。
「あんたの空間シフトの話やん。あんたアレやろ、少しだけこっちに残して亜空間に移動するとか、別の空間を切り取って来てうっすら繋いで眼の前に持って来るとか、そう云う事するやん。あれやっぱ、w軸方向の厚みが必要や思うねん」
「しらんし。子供ら連れて来たから、始めよ」
矢っ張り都子は、会話を中断する為に声を掛けた様だ。
「否でも、触れられへんし、やっぱり何か知らの写像なんかなぁ」
「始めよ、ってば」
佑香はこゝで初めて、都子を見上げた。
「あゝ――うん。そやな。――あ、じゃあ石田室長、準備を」
「康代って呼んでよぉ! 佑香ちゃん! 準備は万端だよ!」
康代はPCに向き直ると、マウスをくりくりっと動かした。その様子を見て、都子は知佳達の方を向いた。
「ほんで始める前に――うちと神田っちは一旦抜けさして貰うで」
「えっ、ミヤちゃん一緒にしないの?」
蓮が残念そうな声を挙げる。
「ゴメンやけど、野暮用出来てもぉてな。代わりに顎連れて来るから、待っといて。リチャードおるし、それで四人なるやろ?」
そう云うと都子は新たな転位門を開き、その中へ入ると、入れ替わりでクラウンが遣って来た。それを確認した神田も立ち上がって、皆を見渡しながら挨拶をする。
「ではそう云う事なので、申し訳ないですが皆さん、後は頼みます。クラウンさん、急で申し訳ないですが宜しくお願いします」
そして神田が向こう側へ移動するのを待ってから、転位門は消えた。
「何だよ、クラちゃんかぁ」
「ナンダは無いやろ」
クラウンも関西人なので、関西弁だ。長い顎に、紫の髪を逆立てゝ、左目の周囲には星模様のペインティングをしている。昔バンドマンだった頃のメイクを、未だに続けているのだそうだ。若しかしたら、バンドに未練たらたらなのかも知れない。夢を捨て切れていないのかも知れない。
「クラウンさんお久しぶりです! 今日は紫だぁ!」
康代が楽しそうに挨拶している。康代に髪色を指摘されて、クラウンは何だか嬉しそうである。クラウンの髪の色は、頻繁に変わる。知佳は今迄に、ピンクと、橙と、黄緑のクラウンを見た事がある。今日の紫で四色目だ。他の色もあるのだろうか。
「話は神田さんから聞いてるし。状況も経緯もしっかり把握してるんで、問題ないやろ。ほんだら石田さん、始めよか」
「では先ず簡単に説明を!」
クラウンは近くの椅子に腰を下ろし、康代は椅子から立ち上がって、一同を見渡した。
「今日はお集まり頂き、ありがとう御座います! これから皆さんには、此処で伝心の会話をして貰います」
「此処で? 彼方の体育館みたいな、広い処じゃなくて好いの?」
蓮が意外そうに口を挟む。
「ホールじゃ寒いでしょ! 大体広さで云うなら、此処の建物じゃ多分、全然足りないんだよね。神田さんに拠れば、知佳ちゃんの伝心場の広がりは、数百米にも及ぶらしいし。なので、この建物中に配置しまくっているのは勿論のこと、屋外の彼方此方にも略五十米間隔で、センサー配置してます。――此処は富士山の麓で、まあ比較的傾斜も緩やかだけど、それでも水平に計測したかったので、都子さんと神田さんの協力の下、富士山の中にもセンサー埋め込んでます」
「マジで!」
蓮が心底驚いた声を上げた。
「マジ、マジ。あんまり変な所に埋めて噴火してもヤバいので、静大の地質学教授なんかに参考意見貰いながら、うちの地質に煩い所員の立ち合いの下、丁寧に埋設してます。まあ、この辺幾ら掘っても大して関係なかったみたいなんだけどね」
「それで、そこのパソコンで見れるの?」
「うーん、そうしたかったんだけどね。この辺流石にマグマは無かったけど、結構磁鉄鉱とかは埋まってるし、電波とかだと上手く通信出来なくて。かと云ってケーブル引き回すのはもっと無理だし。なので一旦、各計測器自体にデータ記録させて、後でまた都子さん協力の元で回収する予定です。なので、結果をリアルタイムで確認出来ないのは御免なさい。まあそれでも、この建物の中とか、ごく近場の何ポイントかは、リモートでもデータ拾えるので、狭い範囲であればライブで確認出来るよ。それで何れ程の事が判るのかは、今のところ不明だけどね」
「えゝと――その、じてっこう? とかがあると通信出来ないってのは」
「うん。電波障害の元だしね。地上のセンサーなら余り気にすることも無いんだけど、地中だとね。センサーが磁鉄鉱や鉄鉱石に囲まれてたりすると、大分辛いと云うか、無理なの」
「それ、知佳の伝心場には影響しないのかな」
「如何かな。多分大丈夫だと思うけど。影響するならするで、そのデータも見てみたいね。まあその場合は、また場所変えて再計測かもだけど」
蓮は知佳に、心配そうな視線を送る。知佳は微笑みでその視線に応じてから、康代に向かって発言する。
「再計測でも大丈夫です。取り敢えず、やってみたいです」
康代はにっこりと微笑みを返した。
「ありがとう、勇者よ! じゃあ、計測はずっとしているので、何時でも始めちゃってください! 伝心飛ぶ度に、この子がピコピコ反応するので宜しく!」
そしてポンポンと叩いたのは、前回研究所で見た初代の計測器だ。これの原理を応用した計測器が、この建物を中心とした数百米の範囲に、多数埋め込まれているのだ。
〈だってさ。何話そうか〉
伝心場で全員に向けて、知佳が伝心を飛ばすと、初代計測器のモニターにピコンと山が出来て、直ぐに消える。
〈そうだな、リック折角だから、自己紹介してよ〉
蓮が伝心を送り、モニターにピコンと山が出来る。康代は何だか愉しそうに、それを観察している。
〈うん、えゝと、知佳さんと蓮ちゃんと、同じ中学の、高橋リチャードです。蓮ちゃんとは同じ学級で、隣の学級の知佳さんのことが大好きなんですが――〉
〈なんやそれ!〉
リチャードの伝心の途中で、クラウンが茶々を入れる。知佳は顔を赤く染めて俯いた。瞳が怒りを孕んでいる。
〈あゝ、でも、如何やら振られて仕舞いました。でも、有難い事に、友達にはなって貰えました〉
〈なんなんそれ!〉
〈もぉ、クラウンさん五月蠅い〉
〈はぁ
〈リチャード君も、余計なこと云わないで。友達辞めるよ〉
〈ごめんなさぁい!〉
〈なんじゃそらぁ〉
〈クラちゃん先刻から、同じ反応ばっかり。もう少し気の利いたツッコミ出来ないのかよ、関西人の癖に!〉
蓮がケラケラと笑う。笑い声だけは、実際に発声している。クラウンは顔を顰めるが、何も云い返しはしない。
「何やら愉しげやなぁ」
遣り取りを傍観している佑香が、嘆息した。横で康代が
「えっ?」
「あ、気にしないで続けて」
知佳の戸惑いも余所に、康代はその機械を各人の周りでぐるぐると動かしながら、その表示部らしき部分を凝と見詰めている。好いだけそうして振り回した後、席に戻って今度はPCをカチャカチャと操作し始める。その間も、伝心は更に活発に続いている。
〈何だろうね、あれ。あれも計測器なのかな〉
蓮はそう伝心すると、少し考える様にしてから、「康代ちゃん! あたしこれから、知佳とだけ伝心する!」と宣言した。康代の眼がキラリと光る。
「そう云うのも出来るのね! 是非!」
そして先程の機械が知佳と蓮の間を行ったり来たり、出たり入ったりする。
〈さあ、サシで話すよ!〉
〈一体何ごと?〉
〈好いから〉
そして知佳と蓮は、暫く二人だけで伝心会話を続けた。クラウンとリチャードは何も飛ばさず、凝と成り行きを見ている。計器を見ている康代の顔に、見る見る喜色が広がって行った。
十 富士山麓に
「そんでリック、知佳の伝心場、今どんな感じなの?」
紙コップのお茶を飲みながら、壁沿いに置かれた古いソファにだらしなく座った蓮が訊いている。康代が手持ちの計測器で得たデータを整理するとのことで、計測は一時中断して、束の間の休憩時間となっている。だらけた蓮とは対称的に、パイプ椅子に姿勢佳く腰掛けているリチャードは、くるりと周囲に視線を飛ばしながら、「そうだなぁ」と唸る。
「知佳さん今、凄く興奮してるのかな。ぱっと見では端が視えないくらい、大きく膨れ上がってるよ」
「マジでぇ? 計測し切れないかもじゃん。知佳、少し落ち着け」
「そんなこと云われても」
知佳は確かに、興奮していたかも知れない。自分の能力を実際に目で見る事が出来るかも知れないと云う期待が大きくて、制御されるかも知れない事への不安なんかは、何処かに吹き飛んでいる。蓮の発案で試した、知佳と蓮の二人切りでの伝心でも、康代は大いに興奮しながら、無極性が如何とか、逆二乗則が成り立つとか何とか、善く解らない事を叫んで居た。説明は無かったけれど、如何も新たな事実が判明した事だけは確かな様で、知佳の心をワクワクさせるには十分過ぎる反応だった。康代に当てられたと云うか、康代の興奮をお裾分けされた様な、そんな気分である。この気分を落ち着かせろと云われても、中々無理な相談だ。それでも幾度か深呼吸をしてみたりもしたが、胸の高鳴りは中々収まらない。稍紅潮した顔の儘、知佳は蓮を見返し、リチャードやクラウンや、康代や佑香を順に見回し、室内に気忙しく視線を飛ばす。
その時微かに、初代計測器のモニタで輝線が撥ねた。
「あれ? 今誰か伝心した?」
蓮がぐるりと周りを見渡す。然し皆ぽかんとした顔をしていて、伝心を飛ばした者は居ない様だった。
「ノイズでも拾ったかな?」
康代が計測器を覗き込み、正面に付いている幾つかのつまみを捻ったりしている。感度の調節をしている様だ。然しこの時は誰も伝心を飛ばしていなかったし、ノイズもそれ切りだったので、調整の仕様も無く、康代は直ぐに手を放した。
「この場合のノイズって、なんですの?」
佑香が興味ありげに聞くが、康代は肩を竦めた。
「さぁ、何だろうね。第三者が遠くで伝心でもしたかな?」
「まさかぁ!」
蓮が呆れた様に声を上げる。
「そんなに彼方此方に伝心能力者が居る訳無いし! 居たとしたら神田っちが見付けてるんじゃないの?」
それを聞いた知佳は一瞬
皆が一斉にリチャードを見る。神田は異能力の解析能力を使って、異能力者の存在、その位置を探知出来る。先日ピートが研究所に遣って来た時にも、その能力でピートの移動を察知して駆け付けている。そんな神田がリチャードの存在に気付いていない、なんて事が有るだろうか。然しリチャードには、その異能力者探知能力に就いて全く説明していないので、何を気にされているか解っていないのだろう、何だか不思議そうな顔をして知佳の顔を凝と見ている。そんなリチャードの横顔を眺めながら、蓮がぴょんとソファから立ち上がって、皆の集まる机へと戻って来た。
「まあ好いや。康代ちゃんの作業終わってるみたいだし、そろそろ休憩終わりだよね。続き遣ろうか。――ところでリック、今の知佳の伝心場の大きさ、ちゃんと判ったりする?」
蓮の質問にリチャードは天を見上げて、暫く固まって仕舞った。皆は凝と黙って、リチャードの返答を待っている。
「そうだなぁ……」緩りとリチャードは答える。「何だろう、湖? ぐらいまで……」
「山中湖かな? だとしたら六、七粁はあるかな……でもそんなに遠く迄、計器置いてないぞぉ!」
康代が嘆く様な歓ぶ様な声で叫んだ。
「知佳ぁ、落ち着けってぇ」
蓮が知佳の肩に手を置いて、一所懸命宥めようとしている。知佳は左肩に置かれた蓮の手に己の右手を重ねて、改めて深呼吸を幾度かした。次第に心が澄み渡ってくる気がする。先刻よりは少し落ち着いた様な気がして、リチャードを見ると、蓮も一緒になって視線を向ける。リチャードはそれを受け止めると、再び天を仰ぎ、軽く眼を瞑るが、直ぐに眼を開けて知佳を見る。
「変わらないね」
「神田っちの所為で、強くなっちゃったのかなぁ?」
神田は近くに居る能力者の異能力を、神田や本人の望むか否かに拘わらず、強化して仕舞う性質がある。EX部隊の隊員達は大抵神田と行動を共にしている為、常にその能力が強化され続けているのだ。
「蓮、如何しよう……あたし、こんなに伝心場広げちゃ不可ない気がする……」
知佳は急激に不安になる。するとリチャードが反応する。
「少し萎んだ……あ、どんどん小さくなって来る……」
それを聞いて、康代はパソコンのキーボードをカチャカチャと打ち始めた。萎み始めた時間でも記録しているのだろうか。
「皆さん、伝心続けておいてください」
「はい……」
知佳は力莫く応えるが、他の三人は一斉に伝心を投げ始めた。
〈知佳、大丈夫。落ち着いて。もう一回深呼吸しようか〉
〈知佳さん、無理しないでね〉
〈知佳、踏ん張れや〉
皆が知佳を心配して、応援してくれる。そんな声を受けて、知佳は少し気持ちが楽になった。でもそうすると、復伝心場が膨らんで仕舞うのではないだろうか。そうならない様に、蓮の助言に従って、兎に角深呼吸を続けてみる。少しずつ、少しずつ、心が落ち着いて来る。先刻迄火照っていた身体も、心做しか冷えて来て、心地好さを通り越し、若干肌寒ささえ感じて来る。知佳は自分の両肩を抱いて、伝心場と一緒に体を小さく縮こまらせた。
〈大分萎んだよ。今、この建物ぐらいになってる〉
リチャードの報告に、知佳は安堵の溜息を吐いた。
〈よかった……〉
〈よし、知佳、まだ少し硬さ残ってるみたいだし、落ち着く為に数でも数えてみようか。一つ、二つ、三つ〉
〈――四つ、五つ、六つ〉
〈羊が七匹、羊が八匹〉
〈寝ちゃうし!〉
蓮がケラケラと笑う。知佳も
〈また膨らんで来た――うん、今、直径で二、三百米ぐらいかな。その辺で落ち着いてる〉
〈有難う、リチャード君。――早く制御出来る様にならないと。如何したら好いのかな……〉
〈形を視ようとしてみたら如何かな。綺麗な球の形で、知佳さんを中心に広がっているんだけど、その形さえ掴めれば、何とかコントロール出来る様にならないかな〉
皆が引き続き、わいわいと雑談の様な伝心を投げ合っている中で、知佳は静かに目を閉じて、意識を集中してみるが、如何にも視える気がしない。如何遣って視るのかが、
「あ」康代が小さく叫んだ。「――今の大きさは?」
そう云ってリチャードを見る。
「この部屋ぐらいのサイズです」
「ビンゴ!」
皆は一斉に康代を見る。
「部屋の外に置いてるセンサーが、無反応になったの! わたし到頭、伝心場を捕まえたんだ!」
そう云いながら椅子から立ち上がり、小躍りを始める。横からパソコンの画面を覗き込んでいた佑香が、目を丸くして、画面と康代を交互に見ている。
〈知佳、コントロール出来たんだ!〉
蓮が伝心で、嬉しそうに語り掛けて来る。知佳は緩りと目を開けて、蓮を見て、康代を見て、皆を順に見た。
「あたしも、捕まえた、のかな?」
今一実感が無い。如何したら確信を得られるだろうか。知佳はもう少しだけ、足掻いてみようと思った。
「じゃあ今度は、広げてみる」
空想の境界を押し遣る。建物全体へ、敷地の外へ、ゴルフ場を越えて、湖へ。
「広がってる。湖越えた。――えっ、知佳さん、何処迄?」
リチャードが狼狽え気味に実況する。果たして何処まで拡げられるのだろう。空想なので手応えは莫いし、実感としても何かの感覚がある訳ではない。それでも大きく大きく、想像の球体を拡張して行く。もう十粁は超えただろうか。未だ未だ行けそうだ。十五粁、二十粁、――三十粁。空想の伝心場がぐんぐん広がって行き、遂には大月支部迄届く。そして直ぐに、石和温泉が。
〈見付けたか〉
突然知佳は、聞いた事の莫い思念の声を拾った。
〈情報通りだ――直ぐに応援を――〉
〈石和温泉だな。了解した〉
「知佳も聞こえたよね?」
蓮が深刻な顔をしている。
「遂に来たか」
クラウンが幻影スクリーンを展開し、ピートの隠れ家を監視し始める。
「えっ、やだ……あたしの所為?」
知佳は不安で青褪めた顔を、両手で覆う様にして机に伏せる。
「違うでしょ。知佳は奴等を見付けただけだよ」
蓮がそう、知佳を擁護した次の瞬間、リチャードの姿が僅かに薄くなると同時に、突然室内に都子と神田と、ユウキが出現した。ユウキは小学四年生。EX部隊の最年少天才治癒者だ。三人が机を挟んで知佳達の正面へ来ると、皆の驚嘆の感情が凪いで行く。これはユウキの能力だろう。この有能な治癒者は、感情の乱れさえも取り除いて仕舞うのだ。そして都子が、うっすらと透き通ったリチャードの方に
「ゴメンやねんけど、リチャード、ちょいと確保さして貰うたで」
都子の能力で、亜空間に閉じ込められたと云う事だろう。リチャードの顔には恐怖の色が浮かんでいる。
「えっ、ちょっ……都子さん?」
漸く事態を認識した知佳が、慌てゝ都子に駆け寄る。都子は何時に莫く、険しい顔をしていた。神田が横から説明する。
「此処数日、如何にもY国工作部隊の動きが不審でしてね、注視していたんですが、先程の伝心混線が決定打でした。何処から情報が漏れたのかなと思いましてね、確認の為に出て来ました。彼に関しても、色々確認したい事が有りまして。――今日はずっと都子さんの亜空間から、彼方此方監視してたんです。皆さんの様子も、ずっと見てました。小さな空間転位の穴を空けて、其処から漏れて来る伝心場にも乗っかって、傍受してました。黙っていて済みません」
そして知佳を見て、「大分能力発達してますね。場の完全な制御まで、後一歩の様です」と云って、優しく微笑んだ。
「違うんだ――僕は――」
体半分亜空間に捕らえられたリチャードが、上擦った声で何か云おうとしている。半分彼方、半分此方の状態なのだろう。お互いの音声は届いている様だけど、触れることは出来ない筈だ。そしてリチャードは、恐らくその場から何処へも行く事が出来ない。そんなリチャードに、神田が冷徹な口調で語り掛ける。
「君の存在は知ってましたよ。年末ぐらいからですかね? 彼女達の中学に遣って来たのは」
リチャードは下唇を噛んで、必死に何かを堪えている。
「え、小学生の頃から居たって――え、あれ?」
蓮が戸惑っている。知佳も小学校から居たと思っている。直接の絡みこそ無かったが、ずっと隣の学級に居た筈だ。――否、何か奇怪しい。居たと記憶している筈なのに、実感が無い。運動会、修学旅行、それらの記憶の悉くにリチャードの姿が在るのに、その悉くが、何か作り物めいている。記憶の中のリチャードは、マネキンか写真の様だ。丸で存在感がない。何だろう、この感覚は。如何云う事なのか。真坂?
「幻覚、認識操作は、此奴の能力やない。他の能力者の手引きやろうな」
クラウンは何を云っているのか。厭だ。信じたくない。聞きたくない。
「リチャード君?」
知佳は物凄く不安な顔で、リチャードを見た。今回、神田がリチャードの参加を許可した時から、若しかして彼を疑っていたのだろうか。リチャードが今回の件に、どう絡んで来ると云うのか。リチャードは真っ青になって、縋る様な瞳で知佳を見詰めて来る。
「違う、信じて、僕は――知佳さんへの気持ちだけは、本当に――」
こんな時に何を云っているのか。知佳が知りたいのは、そんな事じゃなくて。
「今なら、別空間にいるリチャードの心を見れますかね?」
神田の言葉に、知佳は肚の底から嫌悪を感じた。
十一 亜空間から
済し崩し的に、測定は中断となった。訓練所には康代と佑香を残し、異能者達は亜空間へと移動していた。此処は都子が作り出した、別次元の時空間である。知佳は善く理解出来ていないのだけど、通常の空間とは四つ目の空間軸に沿って少しだけずらした処に存在しているそうで、時間の流れさえも異なっていたりする。康代達が居る時空での一分が、此方の時空では一時間だったり一秒だったりする。今は、此方の方が早く時間が流れている様で、通常の時空間で一つの事をする間に、此方では十も二十もの事が出来る。此処には空も地面も無く、唯真っ白な背景だけがある。何処迄でも行けそうだけど何処にも行けない。この空間は完全に、都子の制御下にある。何処かの支部から持ち込んだ長ソファが三つ、並行に置かれていて、その一番後ろの列に知佳達は座っている。
そしてリチャードは、此処とはまた別の異次元に居る。最後列のソファの更に後方に、半透明のリチャードが捕らわれているのだけど、其方の時間は通常時空よりも更に緩りにされている様だ。最早会話が出来る状態ではない。
知佳の心は最悪なまでに掻き乱されていた。リチャードの心なんか読みたくない。読みたくないけど、仕事なので読まなければならない。葛藤で心が千切れそうだ。リチャードは友達だ。最近出来たばかりとは謂え、友達であることに変わりはない。――否、如何やら彼はY国の息の掛かった諜報員だった様なのだ。――そんな真坂。中学一年生だよ? 否それさえ、どこ迄本当なのか。でも。嘘とも思えない。否々、諜報員に嘘なんか朝飯前か。だからと云って。友達だったとしても、諜報員だったとしても、矢っ張り知佳は、リチャードの心を読みたくない。
「知佳」
蓮が心配そうに隣に座って、肩に手を置いてくれた。ユウキも反対側に来る。そして知佳の心は落ち着いて来る。ユウキの治癒能力で、心の乱れを鎮められているのだ。
「ユウくん……ごめんね」
ユウキは唯黙って、知佳を見上げている。この十歳の少年は、蓮が云うには知佳の事が好きなんだそうだ。知佳はそんな事、一欠片も信じてはいないのだけど、それでもユウキのこんな目を見ていると、何だか迚も居た堪れなくなる。知佳なんかがそんなにモテる訳無いのに。
「とりま、リチャードより現地や。何やらよぉさん集まって来よんで」
最前列のソファに座っている都子が眼前のジオラマを見ながら、それを取り囲む様に立った儘の神田やクラウンと会議している。このジオラマと云うのは、矢張り都子の能力の一つで、他の空間を切り取って縮小した物を緩く接続して、目の前に重ね合わせた物だ。一方的に見たり聞いたり出来るだけで、向こうから此方の様子は判らないし、お互いに触れる事も出来ない。立体映像を目の前に投影している様な具合である。そのジオラマで展開されているのは、ピートの住居を含む、石和温泉地区一帯だ。
「奴等には偽の認識食わせてるから、まあ先ず見付けられへんやろな」
クラウンが得意気に云う。クラウンは相手の認識を操作出来る。眼の前に見ている筈の物を視えなくしたり、無い筈の物を見せたり出来るので、道に迷わせて仕舞ったり、仮令目的地に辿り着いたとしても其処が目的地だと気付かせない様に出来る。
更には、都子が行く先々に転位の罠を張っている様で、
「ゆうてこんな子供騙し何時迄も遣ってられへんし、敵にも能力者おんねんから、そのうち気付かれて突破されんで」
都子がクラウンの気持ちに水を差すと、クラウンはしょんぼりと項垂れる。
「何か犯罪行為があれば、警察に介入して貰うんですが……」
神田が困った様に呟く。三人はジオラマを見ながら、あゝでも莫い、こうでも無いと、頭を悩ませている。
「リック、本当に敵なのかな……」
蓮はリチャードを気にしている。蓮の人誑しを、知佳は信頼している。その蓮が、リチャードを信頼するのであるなら、矢張り彼は、敵にはなり切れていないのではないだろうか。――そこには多分に、知佳の希望が含まれている。ほんの一か月程度だけど、それなりに愉しかった。余計な事ばかり云う奴だけど、嫌いにはなれなかった。こんな形で終わりにしたくない。
「都子さん」
知佳は緩り立ち上がりながら、都子を呼んだ。都子が難しい表情を作った儘、知佳に振り返る。
「どした」
「あたし、リチャード君と、ちゃんと話がしたいです」
神田とクラウンも、知佳に視線を向けた。都子は暫く、右腕を胴に回し、左手を口許に宛がって、凝と考えていたが、軈て知佳に視線を戻すと、「そやな。話し」と云って、リチャードの時間を此方に同期させた。空間的には隔たった儘で、それ故知佳の伝心場は届かず、読もうと思えば心の中が読める状態ではあるのだけど、知佳は決して読もうとは思わない。リチャードからも知佳の心は読めるのだろうか。伝心場の中に居るから、外からでも視えないのかも知れない。知佳は伝心場の外には出られないので確かめ様もないが、読むなら読めば好いと、肚を括っていた。
「リチャードくん」
知佳はリチャードに歩み寄りながら、静かに声を掛けた。リチャードが困惑気味に、且つ悲しそうな瞳で、知佳を真っ直ぐ見詰めて来る。
「Y国人だったんだね」
リチャードは緩りと首肯いた。
「昔から居たと思ってたけど、本統は年末に来たんだってね」
「それは――」
何か云い掛けて、言葉が途切れた。苦しそうに眉間に皺を寄せている。
「日本語上手だよね。殆ど日本人だよ」
「日本人だよ。日本で生まれて、日本で育ってるから。他の国籍を持った事はないよ」
「そか」
「――信じてくれるんだ」
「嘘は吐かないでしょ。あたしたちの間では意味無いから」
「そうだね――でも知佳さん、僕の心読まないよね」
「必要なくない?」
リチャードは、少し微笑んだ。そして、右目から一筋、雫が流れて頬を伝う。
「僕は、本統に、知佳さんを愛してるんだ」
「それ云ったら友達辞めるって、云ったよね」
「まだ――友達でいてくれるの」
リチャードは目を伏せる。知佳は大きく息を吸って、緩りと吐き出した。そしてリチャードをしっかと見据える。
「何をしたの?」
そこからは沈黙が続いた。知佳は根気強く待った。
知佳の右腕に、蓮が絡み付いて来た。そして身体をぴたりと寄せて来る。知佳は右腕を軽く曲げて、蓮を引き寄せる。蓮は何も云わない。あのお喋りな蓮が、知佳とリチャードの間の空気を壊さない様、凝と黙って、唯其処に居てくれている。左後方にはユウキが居るのが判る。知佳は左手をそっとユウキの方に差し出した。その手をユウキは、戸惑い勝ちに握る。ユウキの手から、活力が流れ込んで来る様である。ユウキはこうして他人に活力を与えて、自分は疲弊しないのだろうかと少し心配になるが、ユウキが治癒で疲弊する所を知佳は見たことが無い。彼が居る限り、EX部隊に怪我や病気などと云うものは一切存在し得ない。そう思える程に、知佳はこの三つも年下の少年を信頼している。
二人の大切な仲間に護られて、知佳はもう一人の大切な友人を、その一挙一動を決して見逃すまい、聞き逃すまいとして、凝と見詰め続けて居る。敵なのか、味方なのか、それはもう何方でも好かった。只、リチャードが何をして来たのか、これから如何したいのか、それを本人の口からちゃんと聞きたい。唯その一心で、知佳は待ち続けた。
「僕は――」話すのは辛い、然し黙っているのも辛い、そんな葛藤をする様にして、リチャードは口を開いた。「二人が忠国警備の隊員だって、識ってた」
「うん」
知佳は短く相槌を打つ。
「僕は――読んで来いって云われてたんだ、二人の心を。でも、伝心場があるから、読めなくて」
「そうだね」
「だから、丁度同い年だったから、同じ中学に入れて貰って、近くでずっと機会を――う、窺ってゝ」
辛そうに下唇を噛む。知佳の腕を握る蓮の力が、僅かに増す。
「それでも、読めなかったよ……知佳さんずっと、伝心場を大きく張りっぱなしだったし、蓮ちゃんもいつも一緒だし。……その内に僕、知佳さんのことを……」
「じゃあ、結局、何もしてないの?」知佳はリチャードの言葉を遮る様に、合いの手を入れる。
「――二人には、出来なかった。蓮ちゃんの心読めそうな日もあったけど、でももうその頃僕は、知佳さんのことが――今日此処に来て、眼鏡のお姉さんから、ピートって人に関する情報を読んで、初めて僕は、役割を果たせたんだ」
康代の事か。ノイズと思われたあの計測器の反応は、リチャードが外部の誰かに送った通信だったのか。そしてその後、知佳の伝心場に呑まれた工作員達が、業務連絡で飛ばし合っていた伝心を意図せず場に流して仕舞ったと云うことなのだろう。
「お父さんはY国の軍人で、それで……何で、何の為に、こんな事するのか、解らなかったけど、でも、お父さんの役に立ちたくて……」
「リチャードくん」
知佳は優しく語りかける。
「ピートさんは、最初は私たちの敵だったけど、今は好い友達だと、私は思ってるのね。それが、亡命した所為か、祖国に追われているらしいの。で、うちの警備会社に、護衛の依頼が来たんだ。だから私達、彼を全力で護らなくちゃならないの」
「情報伝えた時、お父さんは、粛清、とかって」
「それって殺すってこと
リチャードは怯えた様に知佳を見る。
「僕、僕が――お父さんを、止める」
「は?」
「絶対説得して、辞めてもらう。だから、僕を其処に連れてって」
「あんた何云ってるの
「だって僕の所為で……」
「さしてみよか?」
何時の間にか背後に来ていた都子が、神田に向かって云った。知佳は吃驚して、蓮を引き摺る様にして振り返る。
「都子さん! 何云って――」
「試してみましょうか。彼の父親は、部隊長ですし」
「はあゝ
左手から、静謐の気配が沁みて来て、知佳は瞬く間に落ち着きを取り戻した。静かな眼差しで、知佳はユウキに視線を落とす。
「ユウくん、ありがと。そうだね、落ち着かなくちゃ」
そして都子と神田に視線を戻す。
「都子さん、神田さん。相手は他人を殺そうとしている人達です。いくら親子だからって、危ないんじゃないですか」
「も少しうちらを信用して欲しいねんけどなぁ。昨日今日の付き合いやないねんから」
「だとしても、相手が如何出るかなんか判らないし、こ、殺されたりでもしたら!」
「やから、うちらが、おるやん、か」
都子は稍腰を落とし気味にして、短く言葉を区切りながら、噛んで含める様に云った。
「死人を出さへんのが大前提。怪我人かて出したないわ。君の大事な恋人、全力で護りますやん」
「こっ!」知佳は真っ赤に染まった。「恋人ではないですけど!」
亜空間のリチャードまで、赤面していた。いつも自分で云う癖に。他人から云われる事に対しては、耐性が莫いのか。ユウキは何だか悲しそうな悔しそうな顔をしているし、蓮は笑いを堪えている様な妙な表情をしている。先刻迄の緊張感は何処に行った。
「ほいたら、リック、パパの眼の前に送ったったら宜しいか?」
空気感などお構いなしに、都子は話を進める。
「パパ、どれ?」
「一人だけ口髭の、丸い帽子にフロックコートの彼ですね」
神田がジオラマを見ながら、指し示した。
「欸、チャップリンか」
「帽子と髭だけやんけ!」
都子のボケにクラウンがツッコむ。何時ものEX部隊の、軽薄な空気感である。軽薄なのに、何だか知佳は安心感を覚えて仕舞う。
リチャードが、彼の居る空間ごとジオラマの脇迄連れて来られる。知佳達もそれに続く様にしてジオラマの前へと移動した。ジオラマの中では、小さな人達が非常に緩りと活動している。ピートの住居を中心とした、約一粁程の圏内に、様々な服装の怪し気な外国人が点在して居る。彼らはピートの住居を目指して居る様でいて、角を反対方向へ曲がったり、目視出来る様な処迄来て居る筈なのに、丸で明後日の方角をきょろきょろと見渡したりしている。クラウンの幻覚の所為だろう。偶に極めて近く迄接近する者が居ても、次の一歩を踏み出した時に丸で遠く離れた場所に飛んで仕舞う。都子の空間転位の所為だろう。
「何だかこの儘でも好い気がする」
横から覗き込んでいる蓮が、暢気な調子で云う。
「堪忍してや。腹減るやん」
「そうか。ミヤちゃん能力使い過ぎるとお腹ペコペコになるもんね」
「もぉ先からうちの腹で、弦楽四重奏ぐらい鳴り響いとるわ」
そう云って都子はケラケラと笑いながら、何時の間にか手にしていた大粒の飴玉を二つ、一遍に口に放り込んだ。
十二 甲府盆地の一角で
Y国の駐日特派員であり、特殊作戦部隊長でもあるジョセフ・クリークは、眼の前の状況が信じられない様で、目を瞬いたり、擦ったりを繰り返して居る。往けども征けども辿り着けない目的地、時折起こる眩暈の様な感覚と、風景の突然の摩り替わり。それ等が日本の異能者の仕業である事迄は想像が付くのだけど、その原理や対処法に就いては全く考慮が及んでいない。そんな混乱の中、彼の目の前に突然現れた、今この場に居る筈のない、居る可きではない、それは安全性の面からも、機密性の面からも、在ってはならない、来てはならない、自分の大切な――
息子のリチャードが。
知佳は、リチャードの父の心を読む事に就いては、然程の抵抗を感じていない。それは多分、関係が希薄だから。希薄も何も、皆無なのだが。それに加えて、これはリチャードの安全を守る為に必要な行為でもある。知佳はリチャードの安全確保に就いては、人一倍の責任を感じている。自分が護らなければ不可ないと云う義務感に駆られている。都子はEX部隊全員で護ると云ったのだろうけど、それは即ち自分の役割である可きだと云う、強い強迫観念に囚われている。何故そこまでの責任を感じているのか、知佳には自覚が無いのだけれど。
「お父さんは、リチャード君のことは大切に思って居るみたいです。直ぐに危険な状況にはならないと思う」
知佳の報告に、一同は一先ず安堵の息を吐く。
「まあ、可愛さ余って、みたいなことも無いとはいえんし、一応警戒は続けておくけど、取り敢えずは知佳ちゃん、ありがとな」
都子が知佳に微笑み掛けるので、知佳は少し気持ちが楽になった。肩の力を抜いて、リチャードと父親の邂逅を見守ることが出来る。
〈父さん。こんなこと聞いてないよ〉
リチャードは両手をジャンパーの隠袋に突っ込んだ儘、父親に歩み寄りつゝ、伝心で話し掛けた。これは同じ伝心能力者である知佳にしか拾えない声だ。父親も伝心能力者なのだろう。会話内容を秘する為に、伝心を使っているのだろうか。その伝心の内容を、知佳は双方の知覚を通じて傍受している。そしてその内容は、伝心場を通じてこの場の全員に共有している。
〈な、なんだ。作戦内容は家族にも秘密だ。そんなことは――〉
〈そんな事は判ってるよ、でも、僕だって、作戦に組み込まれたんじゃないの?〉
〈お前を巻き込む心算なんか無かったんだが。命令だったのだ。大尉殿から直々に、日本の異能力部隊員がお前と同じ年齢だと、聞かされてな〉
内緒話だと油断させることで、機密事項を喋らせようとしているのだろうか。
〈じゃあ、転校は父さんの指示で? その時幻覚使って、昔から居たかの様に細工したことも? 僕は単なる、道具だった?〉
〈――そんな細かい指示は、上からは出ない。軍隊は学校じゃないのだからな。俺は、迅速に十分な結果を出す必要があったのだ。お前の使い方は指示されていないが、上官の言葉の意味を、正しく理解する責務が俺にはある〉
リチャードは非道く悔しそうな顔をしていた。父親を睨み付ける様にして、「くそっ」と小さく吼える。――二人は若しかしたら、伝心以外の共通言語を持たないのかも知れない。家族なのにそんな事あるだろうか。知佳は二人の間に横たわる、冷たく深い淵の様な断絶を感じている。
〈対象者を殺すの〉
〈殺すのは俺の仕事ではない。引き渡すだけだ〉
〈でも、粛正するって――〉
〈それは当然そうなるだろう。だが俺の役務ではない〉
〈父さん――父さんは、如何して母さんを愛したの〉
突然の無関係な質問に、ジョセフは戸惑いを見せた。
〈母さんはさ、僕が十歳の頃に、僕を捨てゝ逃げて行ったよね。如何して後を追わなかったの?〉
〈今――関係ないだろう〉
〈僕の能力に気付いて、気味悪がって、出て行ったんでしょう。そうなること判っていたよね〉
〈何を――〉
〈父さんの能力に就いて、全く伝えていなかったんでしょう。愛していたのに。如何して?〉
〈それは――〉
〈全部知ってるから。父さんの中は隅々迄見てるから。父さんだって僕の中を全部知っているでしょう。そうしたら、僕が今、何に悩んでゝ、何を思って、何をしようとしているか、判るよね〉
〈リチャード!〉
ジョセフが懐から短刀を取り出し、息子に対峙した。その背後には何時の間にか、彼の部下らしきY国人が三人、リチャードを見据えた儘身構えている。Y国語で何かの会話が為される。三人の部下たちはじりじりと間合いを詰めようとするが、ジョセフは片手を水平に付き出して、それを制止する様にしている。
「リック、何しようとしてるの」
蓮が呟く様に云う。知佳は、リチャードの考えを読むよりなかった。
「彼、お父さんを刺す気だ。あんな小さいカッターで……」
「少し、緩りにしてください」
神田が都子に指示を出すと、それ迄以上に現地の動作が緩慢になる。今迄も緩りではあったが、それでも会話を追える程度には早められていた。然しこうまで遅くされて仕舞うと会話を追う事も難しくなって来る。会話が伝心なので音が間延びする様な変化の仕方ではないが、単語や文節単位で細切れに届くので、非常に聞き取りにくい。
〈僕には――好きな――人が――出来た――よ――父さんが――昔――そう――した様に――〉
リチャードが緩りと、ジャンパーの隠袋から手を抜く。
〈僕も――日本の――女の――子の――為に――〉
その右手には、文房具のカッターナイフ。
〈リチャード! ――よく――考えろ! ――お前は――Y国の――〉
〈僕は――日本人だ!〉
そうして緩りと構えて、父親に対峙する。その眼には悲痛な決意が漲っている。
「顎兄、奴等の武器全部把握したか」
「おう。拳銃もあるから、気ぃ付けや」
隠袋の中からジャケットの裏迄、幻影スクリーンによって隈なく捜索して、クラウンは総ての得物を見付け出していた。
「ほしたら蓮ちゃん、顎兄の指示通りに」
クラウンから伝えられた通りに、蓮が彼等の総ての武器を、転送能力に拠ってこの亜空間へと持って来た。それ等は即座に都子に拠って、別の亜空間へと押し遣られる。
「銃砲刀剣類所持等取締法――所謂銃刀法の違反程度ですが、まあ、後は警察に任せましょうか」
神田はそう云うと、都子に目配せし、その場から姿を消した。この空間から通常の空間へと、都子に拠って押し出されたのだ。時間の流れが違うので、転位門は使い難かったのだろう。直ぐに小さなジオラマが出現して、電話機に向かう神田が現れる。恐らく何処かの支部の事務所へでも行って、警察に電話を掛けているのだろう。
現地では、突然所持している武器が消えたことに、全員が驚いていた。然し直ぐに、リチャードは口角に笑みを浮かべ、「蓮ちゃんか」と極めて小声で緩りと呟いた。同時にジョセフは右腕を突き出しながら、リチャードへ向けて駆け出そうとしている。
「捕まえて締め上げようとしてます! なんで? 大事な息子って思ってたのに!」
「そんなもんや。取り敢えず、こゝ迄やね」
都子はそう云って、ジョセフの行く先に転位門を開けた。後ろの三人は微動だにして居なかったのだが、これも都子の能力で、あっと云う間に亜空間に押し込められた。ジョセフが転位すると、直ぐに転位門は消えて、後には悲しそうな顔をしたリチャードが独り、ポツンと取り残された。
暫くして神田から合図が有り、亜空間に帰って来た。
「彼の部隊は後何人か居る筈ですが、隊長を確保したので、最早機能はしていないでしょう。とは云え、ピートの上官と云う人物は未だ野放しですから、これで終わりでもないでしょうけど」
「居場所は既に割れとるし、うちらが動いとることも完全にばれよったな」
「そんな事はずっと前からばれてたんじゃないの? それこそ、リックが中学に来た時から」
蓮の言葉に都子は笑った。
「そらないわ。ピートが依頼に来たのん、今年の一月やん? リック来たの去年の年末やろ。単純にピートの居場所知らんか思て、送り込まれただけやろ。ピートが来なけりゃ、空振りで終わっとった話や」
「リチャード君、この後如何なるの……お父さん捕まって、お母さんも居ないそうだし……」
知佳が心配そうに呟く。
「工作員達に就いては、起訴されるかどうかは微妙ですが、国外退去は已む無しでしょうね。然しリチャードは日本国籍なので、扱いが難しいかも知れません。――少なくとも今迄通りとはいかないでしょう」
神田の言葉に、知佳は苦悶の表情を浮かべる。
「中学は?」
蓮の短い質問に、神田は「無理でしょうね」と短く応える。
「集団幻覚も解くから、端から居らんかったことになるやろな」
クラウンの追加説明に、知佳は蒼褪め、蓮は怒り出した。
「なにそれ! 弘子が可哀想!」
「誰て?」
蓮の言葉に知佳も
そして、知佳と蓮の記憶は如何なるのか。リチャードの事を忘れて仕舞うのだろうか。――否、そんな事はない。記憶にはちゃんと残る筈だと、知佳は確信している。じゃあ弘子は。知佳達は経緯を知っているが、弘子の記憶は如何云う形で残るのか。
「いやだ」
知佳は小さく呟いた。蓮も都子も、複雑な表情で知佳を見る。知佳の感情が一気に溢れ出す。
「厭だよ! リチャード君いなかったことになるなんて、そんなの無理でしょ! 何箇月一緒に中学通ったと思ってるの! 学年末だって受けたし、その結果だって残ってるのに! 級友達だって一緒に過ごして来たのに! 少しかも知れないけど、思い出だって作っただろうに! ――あ、あたしだって!」
「知佳」
「違う! 違うよ! あたしのことは好いの、あたしは別に! 何でも無いし! でも、厭だ、友達なんだから! 友達なんだよ! 友達いぃ……」
そうして両手で顔を覆うと、声を立てゝ泣き出して仕舞った。
「支離滅裂だよ。落ち着いて」
蓮が横に来て背中を擦る。ユウキも遠慮勝ちに横に来る。
「ユウくん……だめ……」
治癒能力を使おうとした矢先に知佳に禁止されて、ユウキは身を退いた。知佳は今は、感情の儘に哭いていたかった。
「知佳さん……」
ユウキは心配そうに声を掛ける。今回雰囲気に呑まれっ放しな所為か、知佳はユウキの声を殆ど聞いていなかった。物凄く久し振りに、懐かしい声を聴いた気がした。知佳は泣きながら無言でユウキの腕を取ると、グイと引き寄せて、その儘ぎゅうと抱き寄せる。ユウキの顔が知佳の肩口で、茹蛸の様に真っ赤に染まる。
「ちっ、ちかさん?」
明らかに狼狽えたトーンで、ユウキは再度知佳の名を呼んだ。知佳は両腕でユウキの身体を、
「ユウ! 腕!」
横で蓮が、身振りを交えながら囁く様に何か叫んでいる。ユウキはそれに対してふるふると首を横に振っている。何の遣り取りがされているのか、知佳は全く気にしていない。と云うより、気にするだけの心の余裕が無い。
「知佳も罪な女だよ……」
「その儘絞め殺されても、ユウキにしてみれば本望なんちゃう?」
蓮と都子の可怪しな遣り取りに、知佳は漸く我を取り戻して、涙を袖口で拭いながら、ユウキを解放した。
「ゴメン……ユウくん、苦しかったよね?」
「ぜんぜんぜんぜんぜん!」
ユウキは相変わらず真っ赤に染まった儘、首と両手をブンブン振り捲って、全身で否定した。その様子に蓮と都子がケラケラ笑っている。――笑っている場合じゃないと、知佳は思うのだが。
「リック戻すよ。もう、同じ空間で宜しいやんね?」
都子がそう云って神田に了承を得ると、リチャードが知佳達と同じ時空間に戻って来た。己の両肩を抱き締める様にして、俯いているリチャードの顔は、知佳からはよく見えない。
「これから如何しますか?」
神田がリチャードの正面に回って、明日の天気でも確認するかの様に訊いている。中学一年生に、そんな重たい事を気軽に訊いたって、答えられる訳無いだろうと、知佳は神田の無神経さに少し肚が立った。リチャードが
「保護して頂けますか?」
そう即答するリチャードの表情が、晴れやかであることが、知佳には意外だった。
十三 三度、研究所で
リチャードは忠国警備で保護される運びとなった。並行して母親の捜索が行われているが、其方は余り期待出来そうにない。見付かった所で引き取って貰えるか如何か。リチャードを恐れて逃げ出しているだけに、非常に心許ない。
中学には結局、その儘通って居る。父親の居なくなった家では、神田とクラウンが交代で付き添っている。本来なら専門の保護施設等を手配すべきなのだろうが、異能力者である為、一般の施設に入れる事に就いては慎重に検討しなければならないそうだ。事情を了解した上で里親になってくれる者がいれば一番なのだが。
「クラちゃん辺りが引き取ったら好いのに」
蓮は相変わらず、無責任な放言をしている。クラウンは確か都内に住んで居るのではなかったか。引き取ったりしたら中学が変わって仕舞うではないか。知佳は蓮に文句を付け様としたが、思い留まる。リチャードが転校するのが嫌な理由は何なのか。記憶が書き換えられたり、居なかった事にされる訳ではない。単なる転校であれば、弘子の為だとしたって反対する理由はない筈だ。知佳は、自分の気持ちを量り兼ねている。
研究所には、今日も何時もの面子が揃って居る。知佳と蓮、都子と佑香、そして康代の五人だ。先日のデータが上手く取れたとかで、康代は至って上機嫌である。
「見て見て、綺麗な球形!」
康代はウキウキしながら画面を皆に向ける。専用のアプリケーションだろうか、富士山の麓の地形が立体的に描画されていて、其処に巨大な球状のドームが置かれている。球の中央に在るのは、訓練所の建物の様だ。康代が時刻を示すスライドバーを動かすと、球の大きさが変化する。画面の隅に表示されている幾つかの数値も、それに合わせて増減する。
「知佳ちゃんを中心として、膨らんだり縮んだりするの! それはもぉ、測った様に綺麗な等距離のスフェア! 完全なる球!」
「すふぇあって、何やねん。佑香もよく云うとるけど。若しかして sphere のことか?」
都子が口を尖らせながら、文句を付ける。
「殻、かな? まあ、佑香ちゃんの方が専門だね。多分元々、幾何学の用語だから!」
「せやね。殻。と云うか、球面のことや。まあ、あたしの専攻は位相幾何なんで、等距離とかは重要ではないねんけど、物理学的には重要かな?」
康代の説明に、佑香が補足する。知佳にしてみれば、話がどんどん複雑で難解になってゆく。
「位相幾何だと、立方体の表面も球面だもんね!」
「よぉ理解したはるわ。流石室長!」
「うちら置いてきなや。英語の sphere なら、球状の範囲とか、そんなんやろ?」
再び都子が抗議をする。
「あぁ、ごめんなさぁい! えゝとね、だから、綺麗な形! って、云いたかったの! 球状の範囲でも好い! 兎に角、まんまる! いやまあ、上空とか、地中深くとか、センサー配置してないから、或る程度推定ではあるんだけど、少なくとも水平方向は綺麗な正円だし、この建物内含めて、高低差付けて配置されたセンサーからの情報を元に計算する限り、曲率が一定の綺麗な球であることは間違いないと思うの。――これはねぇ、形を崩す要因が無いってことなんだよね。場を歪めさせるような外力が一切ないの。こんな相互作用の乏しい物、よく捉えたと思うわ、わたし! 天才?」
「自分で云いなや、価値下がんで」
「ありゃあ!」
康代はお道化る様に、上体を横に倒しながら、笑った。
「でもでも、聞いて! 場を捉えただけでも凄いんだけど! その中の思念波の流れも、如何やら詳細に捉えてるの!」
康代は興奮して話し続けて居るのだけど、知佳は大分前から放り出されている。伝心場が球形だと云うのは判ったが、それ以外はさっぱりである。大体、それが球形だと云うのは、最近知佳にも解り始めている。その綺麗な球形を、ぷるぷると震えさせたり、一部を凹ませたり、如何やらそんな事も出来ている様な気がする。――でもこれは、知佳の気の所為かも知れないし、リチャードや、それこそ康代に裏付けをして貰いたいのだけど、今の康代は興奮していて、如何にも話し掛け辛い。画面上では、ドーム内に針の様な直線が明滅している。知佳はその様子をぼんやり眺めながら、康代の説明を聴くとはなしに聞いている。
「何で今日、リチャード君呼んでないんだっけ」
なんとなくそんな事を呟く。蓮と都子の視線が知佳へ向く。
「淋しいか?」
都子の言葉に知佳は赤面する。
「ち! がいます! たゞ、伝心場、見て欲しくて……」
「学校で逢わへんの?」
「あたし学級違うし……最近リチャード君、放課後直ぐ帰っちゃうみたいだし」
「まあ、保護監視対象やからねぇ」
蓮が知佳の肩に手を置く。
「昼休みとかに連れてこうか?」
「えゝ……教室来たら、変な誤解生じないかな……」
「誤解? 何が?」
「それは……」知佳は
「もう、別に好いじゃん。公認の仲ってことで」
「だからもぉ! そう云うの! 厭なの!」
「青春やなぁ」
都子が呑気に笑いながら云うと、康代の説明を聴いていた筈の佑香が聞き咎めて、眉を顰めながら都子の肩の辺りをペンと叩いた。
「都子、子供虐めたらあかん」
「虐めとらんて。他人聞き悪いなぁ」
都子は佑香に向かって眉を顰め返して見せてから、知佳に向き直り、「昼休みでも何でも、伝心で話したったらえゝやん」と云った。
「ほんとだ、知佳、伝心しなよ」
蓮は妙案を得たとばかり、都子の提案に乗っかって来る。
「いやぁ、でも、行き成り伝心なんかしたら吃驚するじゃん……相手の様子も判らないし……」
「そんなの気にしなくて好いべ。行き成りでも伝心したらリック悦ぶって」
「そんなこと莫いでしょ」
「あるある! てか、知佳気にし過ぎ!
「えぇ……」
知佳はそれでも、行き成りリチャードに伝心をするのは、礼を欠く気がしてならない。確かにあの日、リチャードの方から突然伝心を飛ばして来たし、その事で知佳が嫌な気持ちになった訳ではないけれど。それでも、知佳が大丈夫だからと云って、リチャードも大丈夫なんて保証はない。特に今は気弱になっているだろうと思うし、気を遣って不可ない事なんか莫いと思う。そう懸命に主張をしていると、蓮は深い溜息を吐いて、知佳の頭をぽんぽんと叩いた。
「わかったよ、もぉ、先ずあたしから送るから! そんで、三人で伝心しよ!」
「吁……うん、まぁ……」
「煮え切らねぇ!」
「蓮ちゃん口悪いな」
都子に咎められて、蓮は首を竦めた。
「やだ、レディとして恥ずかしいわ」
「それはそれで、態とらしいな」
そして都子はケラケラと笑う。蓮も小さく笑いながら、知佳に向き直る。
「兎に角、それで好いよね? 知佳!」
「うん……わかったよ……」
蓮は如何して、こんな知佳に此処までしてくれるのだろう。最初は単にリチャードとの仲を揶揄っているのかとも思ったけれど、如何もそれだけではない様な気もする。矢っ張り知佳の事を、大切な親友と思ってのことなのだろうか。小学生の頃、知佳の能力が覚醒して、蓮の能力が未だ芽生えていなかった時代に、知佳は蓮の声を毎日の様に聞いていた。あの頃は他人の心の声から耳を塞ぐ術を知らなかったので、凡百他人の声を四六時中聞き続けている様な状態だった。その時に聞いた限りでは、蓮は心底、知佳の事を親友として慕っており、大切な掛け替えのない友と思ってくれている。――それから三年は経った。色々な事があった。その間に二人の絆はより一層深まった。そう、知佳は思っている。思っていた。果たしてその認識は、正しいのだろうか。信じたい。信じたいが自信は無い。知佳だって蓮を大切な親友と思っている。その思いの熱量に、落差は無いだろうか。そろそろ蓮も
知佳は蓮を見る。蓮は、蓮の想いは、真っ直ぐ知佳に向いていた。蓮の心は、今でも知佳の側に――
「康代さん! 今、今のあたしの、伝心場、測定出来ますか?」
それ迄ずっと、佑香に向かって怒涛の説明を続けていた康代は、虚を突かれた様に一瞬
〈蓮、都子さん〉
〈どないしたん〉
「知佳が……伝心場が……」
蓮が戸惑った様に知佳を見る。その顔には心配と、同時に期待が込められている。
〈うちは特に、何も感じひんけどな。知佳ちゃん、今の伝心場、如何な形しとると思う?〉
都子が右腕を胴に巻き付け、左手を口許に宛がいながら、知佳を見詰める。
〈都子さんには届いてますよね。でもこれ、蓮には――〉
伝心場に送った後、知佳は自信無さそうに口を開く。
「蓮の周りだけ、穴が」
それを聞いた康代が蓮の近くへ飛んで来て、その周りで測定器を振り回す。伝心場では、都子がずっと能く判らない歌を謳っている。識ってる様な、知らない様な。調子っ外れなだけか。伝心にも音痴とかあるのか。
「おゝゝ! 球じゃない!」
康代が興奮気味に叫ぶと、佑香が興味深そうにPCの画面を凝視しながら呟く。
「中空の球か。中々興味深いな。蓮ちゃんの転送にもあった奴や」
「あたし?」
虚を突かれて、蓮が素っ頓狂な声を上げた。
「うん、ほら、ビー玉入ったピンポン玉の、側だけ転送した時の奴やん。あれと相似形やねん」
「あゝ、あれな。そうか知らんな」
都子も声を挙げた。都子は蓮の転送に関わる空間操作の様子を、視覚的に観察しているのだ。
「それって、なんか意味あるんですか?」
知佳の質問に、佑香は稍含羞む様にして、頭を振った。
「わからん。片や蓮ちゃんの転送、片や知佳ちゃんの伝心場やん? 空間の切り取り方と、場の展開の仕方と、関連があるか云うたら多分無いねんけど、でも如何しても類似形に目が行ってもて。なんかあって欲しい云う、願望なんか知らんけど。――それにしても、綺麗な球状ってのもそうなんやけど、こうも判然境界が存在するっちゅうのンは、物理的には不思議なんちゃうかな。重力とか電磁気とかやと、広がりは無限やん? まあ、計測の方法的な問題なんかも知らんけど。或る程度場が弱くなったら、思念波が伝達出来ンくなる様な閾値があるか判らんし。でも今みたいに穴空けられるっちゅうのは、ホンマ判らんな。もうその辺りんなると、門外漢のあたしじゃ解らん。室長に研究深めて貰わんと」
「あ、知佳が帰って来た」
佑香の説明が一区切り付いたところで、唐突に蓮が呟いた。康代が透かさず、蓮の周りで計測器を振り回す。知佳は軽い疲労感を感じていた。
「なんか、疲れた」
「場が戻って来ましたね。唯の中身の詰まった球に戻ったかな?」
康代が計器を見ながら、残念そうに報告する。
疲れたから、と云うのもあるけれど、知佳は結局、蓮の心を覗いて仕舞った。其処に知佳が懸念した様な要素は、一切存在していなかった。蓮はリチャードに何ら特別な思いを抱いていないし、知佳の事は相変わらず大切な友人と思ってくれている。その事に安堵し、そして急激に自己嫌悪に襲われた。為ては不可ない事、為可きではない事、自分が一番嫌悪していた事を、大切な親友に対して為て仕舞った。そして伝心場を歪めておく意義も失くし、一気に脱力したのだ。自分から訊いた癖に、佑香の説明はぼんやりとしか聞いていなかった。そんな知佳を、蓮は穏やかに見詰めていた。
「知佳、あたしの心、如何だった?」
蓮に訊かれて、知佳は赤面した。蓮は矢っ張り見透かして来る。決してそんな心算なんか莫かったのだけど、結果的には蓮の心を覗く為に、伝心場を歪めていたことになる。知佳は蓮との友情に疑念を抱いたのだ。そんな事あってはならないのに。蓮から視線を逸らしつゝも、そっと頬から顎の辺りに掛けて盗み見る。蓮は優しく微笑んでいる様である。知佳は
「ちゃんと、知佳の応援してたでしょ?」
知佳は
「今リックの次に辛いのは、知佳だもんね。色々不安だよね。あたしは知佳の味方だから。昔も今も、これからもずっと」
「蓮……ごめん……ごめんね……あたし……」
蓮は緩りと首を横に振る。そして腕の力を増す。
十四 教室で
学年末試験は二月半ば位に終わって仕舞うのだけど、三学期は三月末迄続く。残りの一箇月半、授業の内容なんか殆ど頭に入って来ない。試験迄に終わらなかったカリキュラムを慌てゝ詰め込んで来るような教科もあるが、試験と云う目標が莫い中、中学一年生の集中力なんかそうそう維持出来るものでもない。緊張感の切れた空気の中、非常に緩りと時間が過ぎて行く気がする。
そんな緩んだ雰囲気で迎えた昼休み、予てよりの宣言通り、蓮から伝心が来た。
〈知佳ぁ、準備はよいかぁい?〉
ぼんやりと窓の外を眺めていた知佳は、机に肘を突いて手の甲に顎を乗せた姿勢の儘、それに応える。
〈好いけど、如何すれば好い? リチャード君は?〉
〈いるよ!〉
〈知佳さん、久し振り〉
蓮とリチャードから、殆ど同時に返答が来た。
〈あ、リチャード君。元気だった?〉
〈うん。心配してくれたみたいで。ありがとう〉
〈別に。友達としてだから〉
〈知佳未だそんなこと云ってるの。素直になれぇ〉
蓮の返しが余計だ。何だかリチャードが照れている。そんな感情まで、伝心では伝わって来る。自分の感情も漏れて居るのだろうか。――漏れて困るような感情なんか、無いけれど。
〈じゃあさ、知佳、伝心場の形変えてみてよ〉
蓮から云われて、知佳は伝心場の形を意識する。今こそ、あの日以来ずっと一人で練習して来た成果を発揮する時だ。球状に大きく広がっている場を捉えると、
〈うわっ!〉
リチャードの嘆息が伝わって来た。
〈四角い! 何だこりゃあ!〉
〈やった……〉
知佳は稍嬉しくなって、更に変形を進める。校舎の形に合わせて、角を凹ませて行く。その場は校舎から一定の距離を保った儘、校舎と同じ形へと整えられてゆく。
〈すげぇ……凄いよ、知佳さん! 完璧じゃん!〉
〈えへゝ、ほんと?〉
嬉しさが伝心場へと滲み出る。蓮も一緒に喜んでくれているのが判る。知佳はその儘、伝心場を縮小し、自分の教室と、隣の教室だけを囲む様にする。そしてそこから、リチャードの気配の辺りだけ穴を開けてみる。
〈わぁ、追い出されたんだけど!〉
リチャードから直接、伝心が飛んで来た。リチャードを伝心場から除外した為、伝心場経由の伝心が使えなくなったのだ。今ならリチャードの心が読める。読まないけれど。そして知佳は、伝心場の穴を埋めて、再びリチャードを場の中に取り込む。
〈今一瞬、リック外した?〉
蓮からの問いに、知佳は嬉々として応える。
〈外した、外した! あたし、自由自在だわ!〉
〈知佳凄いね! やったじゃん!〉
〈やったよぉ!〉
何だか涙が出て来た。復一つ、ステージが上がった。
〈知佳?〉
不安な想いが、伝心場に漏れて仕舞ったかも知れない。蓮が心配そうに声を掛けて来る。何度か小さく深呼吸して、心を落ち着かせる。
〈ゴメン、ちょっと、リバウンドと云うか、揺り返しと云うか。なんか順調過ぎて不安になっちゃった〉
〈知佳さん、無理しないでマイペースでね。僕が付いてるから〉
〈リック男前か!〉
何だか知佳は、くふふと笑って仕舞う。笑ってから、周囲の目を気にした。伝心場にも笑いは漏れていた様で、蓮もリチャードも、優しい笑みを送って来る。
〈友達として、だからね。でもありがとう〉
〈野暮知佳〉
〈蓮うるさい!〉
こんな掛け合いも、定常になって仕舞っている。口調とは裏腹に、知佳は何となく愉しささえ感じている。リチャードとの交流は、何時迄出来るか判らないけれど、出来る内は精一杯、目一杯、最大限に関わっていたい。そして出来る事なら、この先もずっと……と、祈らずにはいられない。今は神田とクラウンの御蔭で、中学生活を継続出来ているけれど、何時迄も二人が面倒を見ていられる訳ではない。何時かは、施設なり、里親なりの許へ行かされて、中学からも転校と云う形で居なくなる。全校生徒及び教師達に掛けられた集団幻覚は解かれて仕舞うけれども、在校の事実だけは残り、転校して来て転校して行く、と云う形に収められる様、配慮してくれるとのことである。知佳にとっても、弘子にとっても、それがせめてもの救いなのだが、でも矢っ張り、転校せずにこの儘卒業迄居て欲しい。川崎市内に里親を見付けるとか、何とか出来ないものだろうかと、愚にも付かない考えを巡らせている。知佳の細やかで、贅沢な願いである。
〈何だろうな、知佳から、青春の切なくて甘酸っぱい思いがじわじわ流れて来るよ〉
〈はぁ
知佳は他人知れず赤面し、机に顔を伏せる。気持ちが伝心場に漏れて仕舞っていたのだ。この、感情が染み出て仕舞うと云うのは、如何にか出来ない物だろうか。気を付けていれば防げる事ではあるのだけど、油断すると直ぐに気持ちが漏れて仕舞う。相手の気持ちが直接感じられるのは好いのだけど、自分の気持ちを何でも彼でも明け透けにして仕舞うのは、如何にも許容出来ない。隠して置きたい気持ち、秘して置きたい想いなど、思春期の少女には色々あるのだ。――漏れて困る感情なんか無い? 誰がそんな事を云った。そんな訳ないじゃないか。漏れたくない物ばっかりだ。
〈知佳も大人の階段、上がってるんだなぁ〉
蓮が自棄に沁々と云って来る。蓮なんか全然子供の癖に。
〈はぁ? 何大人振った云い方してるんだか。蓮なんか六年の時、大月のお風呂で……〉
〈うわぁ! 知佳! それは云いっこなし!〉
蓮の赤面が伝わって来て、知佳は留飲を下げた。一昨年の夏、泊まり掛けの活動時に大月の宿舎で、朝風呂を浴びようとした蓮が脱衣場に男性陣が居るのもお構いなしに、あっと云う間に全裸になって浴室へ飛び込んで行った。その場に居たユウキが、鼻血を出して倒れかけたのを、知佳は思い出して居た。大月の風呂は一つしかない為、男女が交代で使用していたのだけど、朝から風呂に入る想定など無かったので、脱衣場の洗面で男達は歯を磨いたりしていたのだった。知佳が窘めても何処吹く風で、他人事の様に笑っていた蓮だったが、都子を始めとした大人の女性陣に叱られて、流石に堪えた様で、それ以来羞恥や配慮を憶えた様である。そんな蓮が知佳に対して大人面するなんて、百年早い。
〈何、何? 何があったの?〉
リチャードが興味津々で訊いて来るのだけど、流石にそれには答えられない。蓮の為にもこれは、秘密で通して置かなければならない。
〈女子同士の秘密。男子には云えないよ!〉
〈なんだよそれぇ〉
不服そうなリチャードに、蓮が興奮気味に抗議する。
〈リック! 詮索禁止! 知佳も余計なこと云わないで!〉
〈やっぱり、恥ずかしいんだ?〉
〈知佳!〉
蓮が真っ赤になって怒っているのが判る。鳥渡云い過ぎたかなと、反省する。リチャードの前で伝心場から蓮を外す様な事は、絶対にしてはならないなと思った。それにしても、たった一年半前の事なのに、そんなに恥ずかしくなる程後悔しているのだ。蓮こそ、大人の階段を駆け上がっている気がする。
〈云い過ぎたね、ごめん。もう云わないよ〉
〈くそぉ……これから先ずっと、これで強請られる……〉
〈そんなことしないよ!〉
心外だったので真剣に抗議をすると、蓮のケタケタ笑いが響いて来た。最終的に知佳は蓮に、揶揄われて仕舞ったのか。何だか悔しい。でも、肚は立たないし、不快でもない。何時もの戯れ合いだ。
〈笑うなぁ!〉
結局知佳も笑う。リチャードも、なんだか判っていない癖に一緒に笑っている。こんな空気感が何時迄も続けと、復青春みたいな想いに浸って仕舞う。それもこれも、リチャードが何時迄この中学に居られるか、非常に不安定な状況に置かれているからに他ならない。今日が最後かも知れないと、毎日思っている。そして儚い想いに囚われて、心が苦しくなる。それが復伝心場に漏れた様で、リチャードが反応した。
〈そんなに淋しがらないでよ、知佳さん。僕はずっと、元気だし、ずっと知佳さんの事、愛してるよ〉
机に突っ伏した姿勢の儘、
〈リチャード! あんたねぇ!〉
思わず呼び捨てゝ仕舞う程、知佳は動揺していた。
〈もぉ、あたしも居るんだよ。眼の前でいちゃ付かないでよね〉
〈いちゃついてねぇし! 伝心だから眼の前でもねぇし!〉
〈知佳、口悪。そんな子に育てた覚えはありませんよ〉
〈蓮に育てられてねぇし!〉
この時点では知佳も、怒っていると云うよりは、お道化ている感じになっている。何時もの事ながら、蓮には敵わない。この友人が間にいるだけで、場の空気も知佳の心も、何だか和んで仕舞うから不思議だ。傍で聞いているだけのリチャードまでが、ケラケラ笑っている。隣の教室では如何な様子なのだろう。蓮もリチャードも無関係を装いながら、伝心場だけで会話しているのだろうか。それとも、対面で会話している体で伝心しているのだろうか。何だか気になるけれど、何で気になるのか判らず、気になっている事を自覚して、自分の心持ちに戸惑う。気にする事自体が意味不明である。
〈やっぱりあたし達、知佳の教室行った方が好いんじゃないかなぁ。知佳がちょくちょく妬いて来るんだけど〉
〈妬いてない!〉
〈僕は知佳さんのことしか見てないよ!〉
〈違うってば!〉
これでは赤面が止まらない。知佳はずっと机に伏した儘、変な汗迄出て来る始末である。何で自分が妬かなくちゃならないんだ、リチャードは唯の友達だ。赤面する意味も解らない。でも兎に角、今、顔を上げられない。
その瞬間、世界が消し飛んだ。
辺り一面真っ白で、机と椅子と知佳だけになっているが、知佳は机に伏している為気付いていない。教室の喧騒が消えている訳だが、その事に気付ける程冷静でもない。
「やだ、何これ! ミヤちゃん?」
背後で蓮の声がする。ミヤちゃん? 何事かと、漸く知佳は顔を上げて、そして唖然とした。此処は都子の亜空間ではないか。振り向くと、蓮とリチャードと、都子が居る。蓮とリチャードの机は、机三つ分程、斜めに離れていた。その事に他人知れず、知佳は安堵する。
「時間止めたで」
知佳が何か訊く前に、都子が一言云い放った。
「えっ、なんで。何かあったんですか?」
知佳は椅子から立ち上がる。蓮とリチャードも、夫々の椅子から立ち上がり、三人は都子の元へと歩み寄る。蓮は駆ける様に、知佳は落ち着いた歩みで、リチャードは知佳よりも寛悠と。知佳の赤面は、何時の間にか引いていた。
「リック、一応訊いとくけどな、あの日以降誰かと連絡取り合ったり、何か報告したりしとらんか?」
都子から数米の地点で、リチャードは重たそうな歩みを止めた。顔が蒼褪めている。心做しか震えてもいる様だ。都子を怖がっているのかも知れない。それとも、何か疾しい事でも――知佳はそこで、きゅっと口許をきつく結んだ。リチャードを信じると決めたんだ。そんな疑念は、抱いては不可ない。
「僕は――何も知らない――」
「嘘やないな?」
そして都子は知佳に視線を向けて、何か云い掛けるが、結局何も云わず、蓮を見た。
「蓮ちゃん何か、変わった事なんか無かったか?」
「え。如何だろう……あたしは特には……一体何が有ったの? 時間止めたってことは、何か切羽詰まってるの?」
「んまあ、詰まっとるゆうたら詰まっとるンかなぁ。んでもどっちかゆうたら、話する時間確保したかっただけやねんけどな。君等昼休み、後何分やった?」
「十分ぐらい」
そう云えば今何時だったんだろうと、知佳は改めて考える。考えて判る様な事でもないのだけど。知佳は腕時計などもしていないし、此処からでは教室の時計も確認出来ない。でも後十分位と云うのであれば、一時十分位か。
「ほらな。時間無いやんけ」
「昼休みなんて元々二十分しかないし。それで結局、何があったの?」
都子は三人を順に見て、最後にリチャードをもう一度見て、少し目を細めた。
「せやな。リック絡んでないとしたら、それはそれで問題山積なんやけど……ンまあ一旦性善説で。実はな――」
十五 アパートが
部屋の真ん中では、ユウキが踏ん張っていた。川崎市内にあるリチャードの自宅アパートである。傍らではクラウンが何枚もの幻影スクリーンを展開しており、背後では神田が、それらを頼りに敵を遇っている。窓硝子は最初の攻撃で割られているが、今ではユウキのバリアの内側に在るので、それ以上の被害は受けていない。
バリアは、ユウキの能力の一つだ。この少年は治癒と防御の能力を使い熟す。
「あーあ、派手な事ンなっとんなぁ」
知佳達を連れてその場に現れた都子が、周囲を気にしながら部屋の中を移動して行く。昼休みの説明の後、知佳達三人は一旦学校に戻され、放課後を待ってから再び都子に捕まって、今此処に連れて来られたところである。
「亜空間に行かないの?」
蓮が自分の両肩を抱き締める様にして、都子に抗議する様な調子で問う。
「んー、まあ、もうちょい……」
都子は部屋の中をきょろきょろと見渡している。何をしているのか。探しものだろうか。然しバリアにしろ、探し物にしろ、亜空間からでも出来る筈である。何を企んでいるのだろうか。
アパートを取り囲んで攻撃をして来ている敵は、Y国の異能者部隊だろう。先日石和温泉で退治したのとは別部隊の筈だ。あの時の連中は、リチャードの父も含めて当局に引き渡して、国外退去になったのだから。
此処へ連れて来られる際に行われた都子の説明に拠れば、敵の攻撃は、一般には認識され難い形で行われている。派手な銃撃等は日本国内では目立ち過ぎるし、直ぐに警察が駆け付けて大変な騒ぎになって仕舞う。だから彼等の攻撃は、幻覚と念動だ。戦端こそ投石で開かれた様だが、後は専ら家屋を破壊しようとする念動と、幻覚による意識の混乱だ。神田とクラウンが必死に応戦しているが、知佳は何の攻撃も感じない。如何やらこのバリアの中には、敵のそうした能力は及んでいない様である。クラウンと神田は、安全圏に居ながらにして、外の敵と戦っているだけなのだ。ユウキの底知れない能力に、知佳は改めて戦慄した。
「ユウくん凄いねぇ」
思わず心の底からそんな言葉が出た。ユウキが照れ臭そうに含羞むが、バリアの状態は全く変化しない。メンタルも最強か。
「アパートには他の住人も居るし、壊される訳にはいかないから」
ユウキがそんな事を、さらりと云う。そうだとして、その攻撃に対抗する事など、普通は出来ない。並大抵の事ではないと思う。この少年は、異能者を両親に持つサラブレッドなのだと、再認識させられる。
リチャードは、部屋の隅で震えている。彼も都子に連れられて、一緒に此処へ帰って来たのだが。
「なんで――」知佳は誰に問うでもなく、疑問を口にする。「何でリチャード君の留守中に?」
そう。襲撃はリチャードの居ない部屋に対して行われた。彼等の目的はリチャード本人ではないのか? 相変わらず真っ蒼になって震えているリチャードは、何に対して怯えているのだろうか。襲撃自体に対してなのか、そうではない別の何かなのか。その疑問を解決する為に、知佳はリチャードの心を覗こうとして、覗けない事に気付き――
次の瞬間我に返って、自己嫌悪に陥った。
すっかり仕事モードになっていた。
それに、今の知佳なら伝心場を制御し、幾らでもリチャードの心が覗ける。無意識の内に伝心場まで操作しなくて良かったと、安堵すると共に、何れそれさえも無意識にして仕舞う様になるのではないかと云う恐れが、知佳を襲う。自分のしようとした事を改めて反芻し、知佳は吐き気を憶えた。矢張り、自分はこの仕事を、一生続けて行く自信なんか無い。他人の心ばかり読み続ける人生なんか――
知佳は
心が苦しい。
知佳の心を救ってくれる者なんか誰も居ない。
屹度伝心場が在るから、他の伝心能力者は誰も知佳の心なんか読むことは出来ない。
知佳は果てしない孤独感に苛まれる。こんな能力が無ければ、心を読んで貰えないなんて当たり前で、悩む様な事ではない。人々は皆、心を読んで貰う的なんか無しに生きている。寧ろ読まれる方が怖い筈だ。でも心が読める知佳に、最早その感覚は理解出来なくなっている。
自分の心を如何決着付ける可きか、全く解らない。誰かに読んで貰って、言語化して貰って、纏め上げて整理して、在る可き処へと落とし込んで貰いたい。知佳がこれ迄して来た役割を、誰かにして貰いたい。
伝心場だ。これさえ無ければ、若しかしたらリチャードは読んでくれるだろうか。でもリチャードに、そんな重荷を背負わせて好いのだろうか。それに、心を読まれると云う事は――
矢っ張り駄目だと、知佳は首を振る。
口周りを紙で拭き、水を流し、少し便器の掃除をして、復流し、そして便所を出ると、外には心配顔の蓮が待っていた。
「知佳、如何した? 顔真っ蒼だよ。大丈夫?」
「うん――」
「吐いた?」
「――ん」
蓮がそっと頭に手を置いてくれた。
「読心、若しかして、辛いの?」
知佳は無言で、蓮を見る。矢っ張り蓮には敵わない。蓮が優しい心配顔で、知佳を凝と見返す。眼に涙を溜めた儘、知佳は蓮にしがみ付いた。
「好いよ、読まなくて。知佳は頑張ったよ。鳥渡休んでも、誰も怒らないよ」
「れん――」
声を立てずに、知佳は泣いた。
リチャードの気遣わし気な視線を感じる。部屋の隅で震えながら、自分の身に迫る危険を感じながら、彼は知佳を心配してくれるのか。知佳は彼を嫌いな訳ではない。彼の想いは有り難いと思う。でも同時に、身に余るとも思う。知佳は、そんな風に想って貰える様な人間ではない。恋とか愛とか、
急に辺りが静かになった。知佳は顔をそっと上げて、周囲に目を遣る。
「やった、でけたで!」
都子が何だか喜んでいる。部屋の中は真っ暗だ。
「中空の球!」
「何それ?」
蓮が反応する。都子は蓮と知佳に視線を遣ると、にかっと笑った。
「此処と、外と、同じ時空やけど、地続きではないねん! 当に中空の球! うちにも造れたわ!」
「ミヤちゃん、もう少し、解り易く」
その時、部屋の真ん中で神田が万歳をした。
「駄目です、お手上げ! 私の能力が届かなくなりました」
「あーあ、敵さん達、逃げて行きよるわ」
クラウンが幻影スクリーンを見ながら、苦々しく云う。
「おゝ、それは申しわけない。ほな穴繋ぐわ」
都子がそう云うと、敵の動きが止まる。神田の能力が再び届き始めた様だ。
「せぇっかく、中空の球、でけたのになぁ」
何だか都子は不貞腐れている。結局何が如何したのか。
「取り敢えず都子さん、彼等の確保を優先してください。全員今、私が動きを封じている状態です。全部で十二人居ますので、取り零しの無い様に」
「へぇい、へい」
敵の姿が、幻影スクリーンから消える。例によって、亜空間に押し込めたのだろう。最初からそうすれば好かったのにと、知佳は思う。都子は何かを試したかったのだろうか。
「ところで中空の球って何ですか? 私の力が届かなくなったと云う事は、空間が断裂されたと云う事ですよね」
「そやで。別の時空ですっぽり包んだったやん。風船の中と外みたいなもんや。まあ結局、麦稈ぶっ刺してもうてんけどな」
「なるほど、それで中空の球ですか。このアパートごと?」
「そうや」
「それでは、住人達の出入りも出来なくなりそうですね」
「そらそや。空間的には離れ小島やからな。バリアとしては最強やで。他の時空通らな、どっからも出入りでけへんねん」
「クラウンさんの幻影スクリーンは、
「さよか」
屋外の喧騒が戻って来た。都子が元に戻したのだろう。何だか都子はむくれている。それが少し面白くて、知佳の心は若干緩んだ。もう涙は止まっている。胸苦しさも莫い。
「ユウくんのバリアと、どう違うんですか?」
そんな質問を発せられる程度には、知佳の心は回復している。蓮と都子の御蔭だ。次いで神田が回答する声には、心做しか優しい響きが籠って居た。
「そうですね、ユウキ君のバリアは時間操作に依って実現しています。バリアの表面では、時間の流れが略止まって仕舞う位に遅くなっているのです。例えば弾丸なんかが向かって来ても、其処で先端部分だけブレーキが掛かって仕舞い、自身の運動の為に押し潰されて仕舞います。そして急激に運動を失った弾丸全体は、自身の重量の為に落下します。それが、ユウキ君のバリアの原理です」
「能力は? 潰れて落ちたりしないでしょ?」
蓮が疑問を投げる。
「能力の実体が未だ正確には解っていないので、想像ですが、恐らくバリア表面に貼り付いているのではないですかね。そして能力を無力化する様な、何らかの操作が為されているのかと」
「でも……それって、中から外に出る時にも、同じ様に止まっちゃうんじゃないの?」
「そう、能力の効果も時間関数である限り、同じ原理でバリアに阻まれる訳ですが、如何やらユウキ君のバリアは指向性を持たせられる様ですね。出て行く物に対しては効果が及ばない様です」
そう云って神田は、ユウキに視線を投げる。それを受けたユウキは、目をぱちくりさせながら、神田の問い掛けに答えた。
「指向性? よく解らないけど、神田さんの念動力に対しては、抜けられる様にって」
「個別に固有時設定していると云う事ですか? 念動力に対して? そんな風に能力を捉えられるなんて、石田さんが聞いたら狂喜乱舞しそうな話ですね」
「石田さん?」
「研究所の室長さんです」
「あゝ、あの眼鏡のお姉さん」
何だかよく解らないけど、結局ユウキが凄い、と云う事だろうか。
会話が一段落付いたところで、リチャードが部屋の隅で、ぺこりと頭を下げた。
「みなさん、ありがとう御座います」
「本当に心当たりはありませんか? Y国から狙われることに就いて」
神田の質問に、リチャードは表情を歪めた。
「国内の工作員達の動きをマークしていた御蔭で、不穏な動きには早期から気付くことが出来ていましたし、異能力者部隊が動いた御蔭で私には彼等一人一人の動きが手に取る様に判りました。若しもあなたが連中と通じていないなら、私のこの能力に就いては、今後も彼等に悟られずに済むと思います」
リチャードは顔を伏せて、何かを堪える様にしている。矢張り何かあるのか。知佳はリチャードの前へ、一歩進み出た。
「リチャード君。私、矢っ張りあなたの心は読みたくない。だから、ちゃんと正直に答えて。――何か、隠してるよね?」
リチャードはびくりと戦慄いて、そっと顔を上げ、知佳を見る。今にも泣き出しそうな顔で、知佳の瞳を凝と見詰めて来る。
「知佳さん――ごめんなさい、僕は――」
知佳は卒倒しそうになりながらも、ぐっと踏ん張って、次の言葉を待つ。
「僕は、同期されてるんだ――Y国には、特定の相手と同期してその心を常時監視出来る奴がいる。伝心場がそれを防げるか如何か判らないけど、少なくとも家に居る間は、僕の心は筒抜けだったと思う。――僕は――裏切者だから」
「そんな……」
「知佳ちゃん、リックと一緒に住むしかないわ」
都子が途でもない提案をする。
「む、無理です!」
真っ赤になって、知佳は全力で拒否した。
十六 亜空間にて
神田をアパートに残して、皆は都子の亜空間へと移動した。勿論リチャードも連れている。
「神田っち、大丈夫かな」
ジオラマに展開されたリチャード宅の室内を見下ろしながら、蓮が心配そうに呟く。
「バリアは未だ解いとらんからな」
「否、そうじゃなくて、ちゃんと見付かるかなって」
「それは知らんわ」
神田は独り部屋に残って、リチャードの云う「同期の出来る能力者」を探している。同期とは謂え、それが伝心の亜種なのであるなら、或る程度の近場に相手が潜伏しているだろうと云う事で、神田の能力者探知能力に拠り、検索を掛けているのだ。そうは云っても、前提が間違っていれば見付からない可能性も高い。また、相手の能力が強ければ、知佳より余程遠く迄能力を飛ばすことも出来るかも知れない。何ならY国に居ながらにしてリチャードとの同期を継続している可能性だって否めない。それでも、先ずは出来る事から、である。相手さえ見付かれば、対処の仕様もあると云う物だ。
「相手の能力が如何なものか判らないんだから、知佳の伝心場で防げるか如何かだって判らないんだよね」
蓮の声には不安な気持ちが乗りっ放しである。
「まあそうやね。慌てゝ同棲したところで、意味無いか判らん」
「しませんから!」
知佳が真っ赤になって、都子に噛み付く。何だか都子は愉しそうに笑っている。リチャードはその遣り取りを聞いてか聞かずか、ずっと俯いている。赤面を隠す為か。
その口角が、不自然に上がった気がした。
知佳は違和感を覚えて、リチャードの顔を凝と見詰める。だが如何も気の所為だった様で、リチャードは相変わらず悲しそうに口角を下げている。或いは、照れ隠しで瞬間的に笑みが浮かんだか。
知佳がリチャードをまじまじと見詰めている為か、クラウンも一緒になってリチャードを見た。そのクラウンの眼が大きく見開かれ、その儘都子に向けられる。都子は振り返りもせず、然し僅かに
「え。都子さん、如何したんですか?」
「読みたくないか知らんけど」
「へっ?」
「読んでみて欲しい、ねんけどなぁ」
そう云って都子は知佳を見て、顔の向きを変えずに視線をリチャードへと流す。知佳は急激に不安になった。
「此処にいても、同期されてるとか、そう云う事ですか?」
「同期……なぁ……」
知佳はどんどん不安になる。クラウンが何か視たのか? 彼は他人の認識過程を視ることが出来ると聞いた事がある。如何云う事なのかちゃんと理解出来ていないけど、何か不審なものでも視えたのだろうか。洗脳や催眠の有無が判ったりするらしいし、何かその片鱗でもリチャードの中に見付けたのか。
「やっぱ、視たないわなぁ」
知佳は揺れていた。正直、視たくない。然し同時に、確認したい。苦しんでいるなら共有して欲しい。扶けが必要なら皆で支えてあげたい。薄くなったリチャードは、相変わらず俯いた儘である。少し体が強張っている様にも見える。
「視て好いよ」
唐突に聞こえたのは、太い声だった。何時ものリチャードの声ではないけれど、確かにリチャードの方から聞こえた。知佳は思わず後退る。
「視ちゃ駄目だ!」
今度はリチャードの声だ。少し震えている。何だ。如何云う事だ。全員の視線が、否応莫しにリチャードに集まる。
「視ろよ。逃げんなよ。答えはずっと此処に在ったんだよ。眼を逸らすな!」
「黙れ! 知佳さん、聞かなくて好い! 視ちゃダメ! 視て仕舞ったら――」
二つの声で一人芝居の様に語るリチャードが、眼に涙を一杯に溜めて、顔を挙げた。その顔には恐怖が貼り付いている。
「視れば終わるさ」
一転、不敵に微笑んだ。知佳は全身の鳥肌が立つのを感じた。何だこれは。悪魔憑き? 蒼褪めた顔で、知佳は都子を見上げる。都子は迚も困った顔をしていた。
「リック? あんた、リックなの?」
蓮が知佳を護る様にして前へ出ながら、リチャードに問い掛ける。
「さあ? 当てゝごらん。ほら、心の中を視て――」
「多重人格、っちゅう奴か?」
クラウンが、自信無さげにぼそりと呟いた。リチャードの視線がクラウンに向けられる。
「さあ如何かな。正解は此処に在るぞ」
自分の頭を人指し指でトントンと突く。
「今迄気付かんかったけど、よくよく視てると、認識経路が二つ以上あるねん。丸で複数の人格が共存してるみたいな。――こんなん今迄見たこと無いから、何が何やら、ちんぷんかんぷんやねん。んでも、漫画とかドラマで偶に見るヤツちゃうかな思って……」
「そう、顎兄が伝心でゆうて来たから、取り敢えず隔離したったんや。今なら知佳ちゃん、伝心場関係なく視れるやろ?」
「視せて、如何する気
蓮がリチャードに、挑発的に問い掛ける。知佳は思わず蓮の腕を握る。ユウキも心配そうに、蓮の後ろに付く。
「如何なると思う?」
「何なの此奴……質問に質問で返して来るんだけど」
そう苛立たし気に云うと、蓮は都子を見上げた。
「取り敢えず神田っち呼ぼうよ」
「あゝ、そやな」
都子は蓮の言葉で思い出した様にそう云うと、転位門を開けて、神田に声を掛けた。
「神田っち、此方で鳥渡した問題発生や、それ後回しでえゝんで、一旦此方来てんか!」
神田は吃驚して此方に振り向くと、小走りで転位門を潜って来た。
「何ごとですか?」
そして直ぐに、隔離されたリチャードに気付き、一同を見渡す。都子が簡単に経緯を説明する。その間リチャードは、再び顔を伏せて凝としていた。
「なるほど。解離性同一性障害か、そうでなければ、何か類似の状況を作り出す能力ですかね。――リチャード君は無事なのですか?」
神田の問い掛けに、リチャードは俯いた儘、「僕は大丈夫です……皆さん、僕に構わないで……」と、小さな声で応えた。
神田は眉間に皺を寄せた儘、「貴方ではない方と話したいですね」と云った。それに対して太い声が返って来る。
「俺と何を話す」
「否、だから、貴方ではなく」
数秒の沈黙があった。
「先刻の、大丈夫と応えたのも貴方でしょう? そうじゃなくて、リチャード君本人を出して下さいよ」
「なんだと」
「物真似したって無駄ですよ。能力の波形が違うんですから。今貴方から感じる能力は、私の知っているリチャード君のものではないです。リチャード君をお願いします」
「能力の、波形? そんな物が視えるのか……色々便利な能力者が揃ってるんだなぁ。Y国にも欲しいぞ」
「あげません。リチャード君をお願いします」
「無理だね」
「お聞きの通りです、知佳さん。彼はリチャード君ではない。気兼ねなく、心をお読みください」
神田はそう云うと、知佳の肩に手を置いた。
「心配には及びません」
知佳は何が何だか解らなくなっていた。このリチャードの顔をしているのは誰なのか、リチャードは如何して仕舞ったのか、この事をずっと隠していたのか、自分は騙されていたのか、今迄のリチャードは本当にリチャードだったのか、何で打ち明けてくれなかったのか。心配して、悲しんで、苦しんで、そんな気持ちを此奴はずっと、リチャードの中から嘲笑っていたのか。リチャードは如何考えているのか。知佳は――知佳は今、怒っているのかも知れない。
怒って、いるのかも、知れない。
「読みます」
知佳はそう云うと、一度リチャードをギンと睨み付け、その憤怒の形相の儘、緩りと眼を閉じた。
心の中に入る。先ず最初に見えて来るのは、今の考え、思い、感情。其処には知らない人物が居た。知佳達を嘲笑し、リチャードを隷属させ、Y国さえも利用して、己の欲望を満たさんとするばかりの、純粋な悪意。迚も気分が悪くなる。そうした物を遣り過ごしつゝ、更に奥へと進む。
見えて来るのは記憶。思ったよりも浅い。発生はほんの二年程前だ。その儘受け取るなら、この記憶の持ち主は二歳と云う事になる。然しそんな筈はない。これは、人格が生れたのが二年前と云う事なのか、あるいは神田の示唆した様に、何らかの能力に由る物なのだとすれば、その能力で侵入されたのが二年前と云う事か。最初の記憶は、喜びの感情だ。
――よし、成功した。作戦開始。
矢張り何らかの能力者に依る浸食か。リチャードは道具として選ばれたのだ。
その後の記憶は、リチャードの記憶を俯瞰した様なものが続く。これではリチャードの記憶を覗いているのと変わりがない。知佳は記憶を辿るのを止めて、更に奥へと踏み込んで行く。
其処に在るのは深層心理、無意識の領域だ。此処にリチャードが閉じ込められていたりしないだろうか。知佳は細心の注意を払って、その中を進んで行く。然しそれは、矢張り侵食者の深層心理でしかない様であった。唯々、暗くて冷たい深層心理の中を、緩りと探ってゆく。殺意、破壊衝動、支配欲、独占欲。そうしたもので満たされている中に、何か対抗の為の取っ掛かりが無いか、この侵食者を追い出す為のヒント等が無いか。
知佳は薄く眼を開けて、改めてリチャードを見る。俯いた無表情のその顔は、リチャードの様でいてリチャードではない、同一人の筈なのに全く似ても似付かない、そんな印象を受ける。少し心細くなって、蓮の手を握る。蓮は無言で握り返して来る。同時に、ユウキのサポートも感じる。改めて勇気を得て、知佳は再び目を瞑る。
この無意識領域を幾ら探しても、リチャードとの接点は見付からないかも知れない。そう思った知佳は一旦其処から抜け出して、改めて侵入経路を探った。心の表層を撫でるように、その形を確認しながら、大きく回り込んで行くと、急に感触が変わる所がある。其処を注意深く視て見ると、二つの心が複雑に絡まっていることが判る。一方が他方に、執拗なまでに纏わり付いて、丸で羽交い絞めにしている。これでは絡まれている方の心が壊れて仕舞いそうである。然し如何すればこれが解けるのか、全く見当も付かず、唯その周囲をうろうろと調べていると、また少し感触の違う部分が在った。何故だか物凄く安心感を覚え、気が付いたらその中へと入っていた。
――見付かって仕舞ったか。
侵入した知佳に対して、その心は反応を返した。先程迄見ていた侵入者の物ではなく、また、リチャードの物でもない。そして知佳は不図思い出す、クラウンの言葉を。
認識経路が二つ以上あるねん。
クラウンはそう云った。二つ、ではなく、二つ以上、と。これが、三つ目の人格か。だとしたら発生元は? 知佳は記憶を辿ろうとするが、何故か阻まれた。
――そんなことしなくても教えてあげるよ。私はこの子の、上位人格だよ。
――上位人格?
知佳は知らず識らず、会話を始めていた。
――リチャードはね、外から侵入して来た行儀の悪い人格に籠絡されて、大分衰弱していたんだね。そんな彼が自分を護る為に、私を生み出したんだ。私の存在は、リチャード当人は勿論、侵入者さえ気付いていないよ。
――そうなの……あなたは、リチャード君の味方ってことで好いの? 何時から居るの? お名前は?
――そうポンポン訊かないでおくれよ。
彼は愉快そうに笑った。
――いつからかなぁ。うん、もう半年位になるかな。勿論味方だよ。リチャードは一番下位の人格だから、侵入された事にも気付いていないんだな。それでも、ギュウギュウと締め付けられゝば心は痛むし、苦しくもなる。本人にその苦しみの正体は解らない。解らないけど、無意識に救いを求める。無意識下では、自分の上位人格である侵入者に感付いていたんだろうね、だからそれへの対抗手段として、更に上位の人格を作って対抗することにしたんだ。それ等は全て、無意識領域で行われた。だからリチャードに自覚は無い。――若しかしたらだけど、この一連の苦しさを、恋心と錯覚した可能性はあるかな。だからリチャードは、君に好意を持った。持ったと錯覚したんだね。――あゝ、でも心配しないで。今はちゃんと、心から君を愛しているよ。――それと名前はね、未だ無いんだ。名前付けて貰っても、好いかな?
――え……そうだな……
知佳は突然の愛の宣告に赤面しながらも、暫く考えて、ジュリアスとか如何かな、と応えた。
――好いね。皇帝の名前だ。
それ迄俯いていたリチャードがすっと顔を挙げ、鋭い瞳で知佳を見詰めた。
「ありがとう、名前をくれて」
それは先刻迄ともまた違った声音だった。三つ目の人格が、表へ出て来たのだ。知佳はパチリと眼を開けて、更に大きく見開く。其処に居たのは、矢張りリチャードだが、リチャードではなく、今迄の侵入者でもなく、全てを見通した様な眼で、鷹揚な笑みを顔中に湛え、方に皇帝の様な威厳を背負った、自信に満ち溢れた少年の姿であった。
十七 研究所の休憩室で
長くなりそうだったので、一旦都子の亜空間は片付けて、ユウキとクラウンをアパートに留守番として残し、残り全員で研究所内にある医療センターに移動して、リチャードをカウンセリングルームへと預けた。此処には精神科の医者もいる。知佳と蓮は、一旦帰宅して着替えなど済ませてから、鳥渡遊びに行って来ると断って出て来ている。蓮は片親で、父親は夜迄帰らないので、晩くなる時の為に玄関にメモを残して来たそうだ。
「ほんで、なんて名前やっけ」
同じく研究所の休憩室で、だらしなく椅子に座った都子が金平糖を頬張りながら、怠そうに訊いて来る。
「何ですか?」
都子の正面に座っている知佳は、質問の意味が解らず訊き返す。
「第二人格やん。何処ぞの能力者が埋め込んだ奴、あれの名前、何?」
「あゝ……」
記憶を読んだ時にちらりと見た。不快感しか無かったので余り留意していなかったけれど、ちゃんと覚えている。心の中で見聞きしたものは、基本的に忘れることはない。
「ダンタリオン」
都子はそれを聞いて仰け反った。物凄く嫌そうな顔をしている。
「なんやその、悪魔みたいな名前……」
「うん、そうかも。なんかそう云うの凄く好きみたい。とにかく趣味最悪でした。別の意味で、二度と見たくないです、あれは」
「じゃあ、ダン君で」
横からの蓮の発言に、知佳も都子も噴き出した。
「蓮ちゃん、破壊力有り過ぎやん! 急に学級のお調子モンみたいな感じンなったわ!」
そしてゲラゲラと笑う。知佳もころころと笑った。一頻り笑い、笑い過ぎて出て来た涙を手の甲で拭いながら、知佳は壁に眼を遣る。その向こうにリチャードが居る。否――
「でも今は、取り敢えずジュリアスだから。この人と上手く話出来れば、若しかしたら、リチャード君取り戻せるかも」
「それにしても知佳ちゃんも、エラい名前付けてもぉたなぁ。なんでそれなん?」
「特に意味は……なんか、ぱっと浮かんだんですよね。脈絡なく」
「乗せられたんちゃう」
「え」
知佳は腕組みして考え込む。その可能性は――あるかも知れない。リチャードは伝心能力者だ。そのリチャードが生み出した人格も、当然伝心が使えると考えて好いと思う。相手の心に入った場合、伝心場の影響は如何なるのだろう。向こうからも此方が視える様になるとしたら、知佳の深層意識を突いて、特定の語を想起させることも出来たかも知れない。伝心能力者同士の心の読み合いは、慎重にならなければ不可ない気がする。――知佳はぶるっと身震いした。
「取り戻せるかなぁ……」
都子の呟きが不吉に感じる。何故知佳はあの人格を信頼して仕舞ったんだろう。特に根拠は無い気がするが、敢えて云うなら、雰囲気だろうか。それとも、矢張り呑まれていたのか。そう振り返りつゝも、知佳はジュリアスを疑い切れない。話していて迚も安心出来たし、魅力さえ感じて仕舞う。何が本当で何が嘘で、何が信じられて何を疑う可きか。知佳には判断が付けられない。
「まぁ、取り敢えず、アレが出ている内はダン君も出て来られへんみたいやし、交渉にしろ説得にしろ、するなら今やんな。――ほんで今、何待ちなん?」
そう云って都子は、部屋の隅でノートPCに向かって腕組みしている神田に眼を遣った。神田がそれに気付いて顔を挙げる。
「あゝ、もう少しお待ちください。今カウンセラーが、ジュリアスに問診している所です」
「あれ普通の多重人格とちゃうで。知佳ちゃんの話の通りとするなら」
「まあそれでも、一旦はセオリー通りに。臨床心理士や精神科医師の意見も参考にしながら、最終的には私達が対処することになると思います」
「さよか。まあえゝわ」
都子は背凭れに体を預けて、天井を見上げる。知佳はうっすらと不安を感じた儘、隣に座る蓮を見る。蓮はずっと知佳を見ていた様で、眼が合うと、にこりと微笑んで来た。知佳は戸惑いつゝも、弱く微笑み返す。蓮は自分を心配してくれている。それは先日、図らずも確認して仕舞った事実である。そんな蓮の優しさに、自分は何の程度報いる事が出来ているのだろうか。リチャードの一件からこっち、知佳はずっと蓮に甘えている気がする。年明け位からもう直ぐ二箇月、その間ずっと、知佳の心は往ったり来たりしていて、その度に蓮に凭れ掛かっている。一時は蓮に疑念を抱いたりさえした。自分はなんと薄情な友なのだろうと、自己嫌悪にも好いだけ陥って来た。結局知佳は蓮から視線を逸らして、俯いて仕舞う。色々な感情が乱雑に胸中を去来して、収拾が付かない。
待っている時間は果てしなく長く感じた。神田はずっとPCに向かって何かしてるし、都子は椅子に沈んだ儘目を瞑って動かないし、先刻迄起きていた筈の蓮も横でうつらうつらと船を漕いでるし。知佳だって寝て仕舞いたいけど、ずっと胸が苦しくて、寝る事など出来なかった。リチャードの心配と、ジュリアスへの戸惑いと、ダンタリオンへの嫌悪と。三つの感情がぐるぐると知佳の中で巡っていて、如何にも落ち着かない。眼を瞑ると
「お待たせしました」
何れだけの時が経過しただろうか。徐ろに部屋のドアが開いて、白衣の男性がバインダーを持って入って来た。それを入り口近くに座っていた神田に渡すと、会釈をして直ぐに出て行く。神田は座った儘「ありがとう御座います」と云って会釈を返し、男性を見送ってから、バインダーに挟まれた書類に目を落とした。知佳は不安な思いに駆られながら、その様子を凝と見ている。
緩りとドアが閉まり、静かな部屋に少し大き目の音が響くと、都子がピクリと体を震わせ、蓮が眠そうな眼を薄く開いて顔を挙げた。
「如何なったの?」
寝惚けた声で蓮が訊く。神田は暫く黙って資料を読んでいたが、最後迄読み終わると資料を机に置き、顔を挙げて此方を見た。
「今は未だ、ジュリアスの支配下ですが、彼は明け渡す心算は無さそうですね。自分が主人格になろうとしている様です」
「まぁ、そうやろなぁ」
背凭れにそっくり返った儘、都子が変な声で相槌を打つ。
「如何云う事ですか!」
知佳は思わず立ち上がった。
「一旦はえゝねん、ダン君抑えてくれとぉから。んでもいずれは、人格の統合とかすることになるんちゃうか?」
「統合?」
「多重人格なんちゅうもんは、消すか、混ぜるか、共存するか。まあ普通は混ぜる方向やろうなぁ」
知佳は物凄く儚い想いに囚われる。人格が混ざると云う事は、元々のリチャードは如何なって仕舞うのだろうか。全く違う誰かになって仕舞うのだろうか。もうあのリチャードには、逢えないのだろうか。
「吁、まあ、その辺りの方針に就いては、医者達の間でも意見が分かれている様ではありますが――」
神田は困った様に資料に視線を落としながら、慎重に云い添える。
「取り敢えずこれから、本人と対話して来ようと思います。知佳さんも同行願います。他の方は、ご自由に」
「蓮も来て」
知佳は蓮の手をぐっと握った。蓮はこくりと首肯き、キリリと顔を引き締める。
「ユウくんは――無理ですか?」
「そうですね、彼方の方も一旦落ち着いてるかと思いますし、呼び寄せましょうか。――都子さん、繋いで貰えますか?」
「あい」
転位門が開き、リチャードの部屋と繋がる。部屋ではクラウンの幻影スクリーンが多数展開されており、ユウキと二人でそれ等を分担して監視していた。クラウンが一瞬顔を挙げて此方を見るが、復直ぐスクリーンに視線を落として、「此方は落ち着いてんけどな、敵拠点の方が……」と云い淀む。
「如何しましたか」
神田が心配そうに先を促す。
「何やらバタバタと出たり入ったり……それより神田さん、見付けたで」
そう云ってクラウンは、スクリーンの一つを指差した。
「これやろ、連中が取り戻そうとしてたん」
其処には茶色い書類保存袋が一つ、映っている。大学帳面が数冊入っている位の厚みがある。
「蓮、頼むわ。彼方の壁ん中のな――」
クラウンがその場所を説明すると、蓮の瞳が紅く染まる。そして次の瞬間、蓮の手にはその保存袋が握られていた。
「何これ」
「X国が欲しがってた奴か判らんで」
蓮が袋を机に置くと、神田が席を立ってそれを取りに来た。封してある紐をくるくると解き、口を開けると、中からは角を紐で綴じられた、何部かの紙束が出て来た。その表紙を一つ一つ確認する神田は、その中の一つを見ると、目を剥いて驚いた顔をした。
「これは――」
「ですやん?」
「――ですね。当に、彼らが求めているものかも知れません」
そしてパラパラと中身を流し見る様にして、机に置くと、「精査はまた後程。実はこれから
それを聞いたユウキの頬がぱっと朱に染まり、喜色満面となる。
「勿論、行きます! 知佳さん、僕が付いてるから大丈夫!」
蓮が嬉しそうに笑って、「ユウ、こゝが正念場だぞ! ジュリアスなんかに負けるなよ!」などと云っている。何時の間にか都子も起き上がっていて、ニヤニヤと笑いながら見ている。
真逆本統に、ユウキは知佳の事を――なんて思い掛けて、知佳はそっと目を伏せる。そんな事云われても困る。リチャードの事でも一杯々々なのに。否、未だそうと決めるのは早い。思い上がっては不可ない。自分がそんなにモテる訳ないのだ。身の程を知れ、である。唯の仲間意識に決まっている。自分が自意識過剰になっているだけだ。
やゝこしい想いを振り切ると、知佳は微笑みを湛えて顔を挙げ、「ユウくん、お願いね」と両手を合わせてユウキを拝んだ。
「任せて!」
照れ臭そうに、でも嬉しそうに、弾んだ声でユウキは応えた。
リチャードの部屋を襲撃して来た者達は最早全員確保したし、目的物も回収して仕舞った為、バリアはもう不要だろうと云う事で、クラウンとユウキの二人はすっかり引き上げて、転位門も閉じられた。
矢張り襲撃は、リチャード本人が対象ではなかったのだ。本来は留守中にこっそり忍び込んで、先程の書類束を回収する心算だったのかも知れないが、予想外の抵抗に遭い、能力者総出で掛かって来ざるを得なかったのだろう、と云う事だった。それ程迄に重要な書類なのだろう。壁の中に隠していたとは謂え、何だか不用心な話だと、知佳は思った。リチャードの父親は
「えっ、若しかして、Y国の異能力者って、今回で全員捕まえちゃったんですか?」
廊下を進みながら説明する神田の背後から、知佳は質問を投げ掛けた。
「そうですねぇ、少なくとも近在には、もう一人も残って居ない様です。唯この儘手を引くとも思えませんし、他の地域や本国から、増援を送って来るとは思いますよ」
「そうですか……」
少しがっかりする知佳の肩に、蓮が手を置いた。
「まあ、しょうがないよね。ピートも長期戦覚悟してるみたいだったし。リックのアパートもこれからは保護対象になるのかな」
「えっ、でも、書類もうあそこには無いんだよ」
知佳は不満げに蓮を振り返る。
「そんなこと知らないじゃん、彼奴等」
「えー、じゃあ、じゃあさ、教えてあげないと。もう無いよって」
「誰に?」
「誰だろう……ダンタリオンとか?」
神田は稍歩速を緩めながら、二人を振り返った。
「そうですね、あの調子で来られたら、一般の住人にも危害が及び兼ねませんし――ちなみに知佳さん、今の儘でもダンタリオンと会話出来たりしますか?」
「えゝっ、如何でしょう……中で起きてれば、伝心で話は出来るかも知れないけど、リチャード君の意識無かったし、若しかしたらダンタリオンも気絶状態かも知れないです」
「成程。まあ、上位人格に支配されていると、下位の人格は記憶飛んだりするのが普通ですからね。矢っ張り皇帝陛下には退いて頂かないとならないですねぇ」
「皇帝陛下って何?」
蓮の質問に、神田は悪戯っぽく笑った。
「如何も彼は、昔のローマ皇帝ジュリアス・シーザーよろしく、リチャードの支配者を気取っている様なのですよ。接する時には、最大の敬意を払わなければならないですね」
「うげぇ、何それ。めんどくさ!」
蓮の反応に、神田は声を立てゝ笑った。
十八 カウンセリングルームで
ジュリアスは拘束衣の中から、不敵な笑みを知佳に向けて来る。この拘束衣を着せるに当たっては、ジュリアスは迚も協力的だったと云う。
「アイツが暴れたりしても、私だって困るからね。まあ、私がずっと出ていれば好いんでしょうけど、出て来たのはこれが初めてなんで、何時迄保つかなと思いまして。現に今、結構疲れて仕舞っているんですよ。寝ている間は隙も出来るでしょうしねぇ」
ジュリアスはそう説明すると、愉しそうに笑った。その笑い方には、確かに疲労の色が出ている気がする。
「一旦退がって貰っても、好いんですよ」
神田が、余り皇帝に対するものとは思えない、軽い口調で提案する。ジュリアスはそんな神田をちらりと横目で見ただけで、特にその言葉には答えず、直ぐに視線を知佳へと戻すと、眼を細めて凝と知佳を見詰めてから、
「成程ね、それが伝心場って奴ですか。此処からだと、君の中には入れそうもないですね」
「ジュリアスさん。中であなたと逢った時には、あたしの伝心場見えなかった?」
「うん? そうですね、有りませんでしたよ。君の心はよく視えました」
矢張り、リチャードの中で知佳は、ジュリアスに心を覗かれていたのだろう。知佳の方から相手に侵入すると、伝心場に関係なく、双方向のバイパスの様な物が出来て仕舞うのだろうか。詰まりジュリアスと云う名は、彼自身が望んで、知佳にそう呼ばせたのだろうと思う。
「君の気持ちは、リチャードにも教えてあげないと不可ないですねぇ」
「駄目!」
知佳は思わず椅子を蹴って立ち上がった。右隣に座っていた蓮が、心配そうな顔をして知佳の腕をそっと掴む。ジュリアスは何だか、愉しそうに笑っていた。
「でもリチャードは私の存在を知らないからな。如何遣って伝えたら好いんでしょうね。矢っ張り手紙ですかね?」
「是非手紙を書いて、貴方の存在を知らしめてあげて下さい」
神田の横槍に、ジュリアスは厭そうに顔を歪めた。
「うるさいな。小父さんの云いたいことは判りますよ。そう遣って私を消そうとしているんでしょう」
知佳は不思議そうな顔付きになり、すとんと椅子に腰を落とした。
「如何云うこと?」
「此処の医者とかは、私とリチャードを統合させようとしているんでしょうね。その為には先ず、リチャードが私の存在を認識するところから始めないとなりません。存在を知らなければ統合なんか出来ないので」
「統合――すると如何なるの? リチャード君は?」
「さあ?」
ジュリアスは惚けた。本当に知らないのかも知れないが、何かを隠している様でもある。それは、リチャードにとっての不都合なのか、ジュリアスにとっての不都合なのか。知佳はジュリアスの中に下りる可きだろうか。然しそれをすると、復ジュリアスは知佳の中を覗くだろう。知佳は次に指す可き一手が判らず、左隣に居る神田をそっと見上げた。
「欸、何だか気が変わった。リチャードには教えてあげません。君はリチャードのことばっかり気に掛けてゝ、私のことなんか如何でも好いって思ってるんでしょう。そう云うのムカツクから、意地悪して教えて遣りません」
「妬くなよぉ、ジュリー」
蓮が茶化す様に口を挟んだ。神田の時よりは稍穏やかに、それでも大分厭そうにして、ジュリアスは蓮を見据えた。
「妬くでしょう。私だって知佳が大好きなんですから」
「うわぁ、なんかヤな感じだ」
蓮が知佳に視線を送る。知佳は怯えた様な眼で蓮を見返すと、右腕に乗っている蓮の手の上に、己の左手を重ねた。それを受けて蓮は、ジュリアスを急度睨み返す。
「あんたに知佳は遣れないよ。知佳を攻略したかったら、先ずあたしの信頼を得なさい」
攻略って何よ、と知佳は思った。
「必要ないですね。君のことなんか問題にもならない」
蓮の云い方にも如何かと思ったが、ジュリアスのこの返答には、流石にカチンと来た。何れだけ偉ぶってるのか知らないが、高々中学一年生が、それも半年前に生まれたばかりの人格が、一体何の権限で蓮にそんな言葉を投げ付けるのか。知佳は肚から込み上げて来る怒りに任せて、ジュリアスに向けて冷徹に云い放った。
「蓮のことそんな風に云う人、嫌いだよ」
知佳の言葉に、蓮は少し吃驚した様な顔をしていたが、ジュリアスは明白に狼狽えた。知佳は不思議な手応えを感じていた。
「そんな。嘘ですよ。私は――だって私は、リチャードなんですよ! リチャードと同じ顔で同じ体です、なのに何で――知佳、知佳、君は――」
「偉そうな人、嫌い」
肌で感じた感覚に従い、知佳は言葉に依る攻撃を続ける。ジュリアスに対してこゝまで敵意と嫌悪感を剥き出しにするとは、自分でも意外だった。加えてこの攻撃の仕方は、大分嫌味な遣り方だと、我ながら思う。相手の好意を前提にした、狡い遣り方だと思う。でも手応えが心地良くて、知佳はその儘続けて仕舞う。
「偉そうになんかしてません! 私はずっと君のことを、君だけを見て来たんです、この体の中から! 解っておくれよ、私を見てよ! ねぇ!」
「何云ってるの。あたし貴方には今日初めて会ったのに。そんな勝手なこと云わないで」
「だから私は、リチャードなんだと云っているでしょう! リチャードの想いは私の想いだ! 私達は同一なんだよ!」
矢張りジュリアスは、生まれ立てゞ精神が未成熟なのだ。こんなに簡単に揺さぶることが出来るなんて、脆過ぎると思う。リチャードを護る為に作られた人格の癖に、こんなにも打たれ弱いのか。護る方向性が違うと云う事か。
「リチャード君は、そんな云い方しない」
「嘘だああぁぁぁ!」
大変な崩壊振りである。先程迄の高貴な威厳は、跡形もなく消え去っている。がたがたと震えて、焦点の合わない瞳を小刻みに振動させて、緩りと口を開けると、あゝゝ、おゝゝゝと、呻き始めた。
「ああぁぁぁああゝゝゝ! あゝゝ! 吁、ああああ、知佳あゝゝゝ! おおゝゝゝゝ、俺の、俺、おれのぉぉおゝゝゝ
声は次第に太く、低くなって行き、顔を伏せて、肩を打ち震わせている。何かを堪える様に、全身を硬直させて、次第に言葉は意味を失い、唯の咆哮へと変わって行く。知佳は思わず椅子を下げ、ジュリアスと距離を取る。蓮が両手で知佳に掴まり、背中にはユウキの両手を感じている。
「知佳、やるじゃん。初対面の男手玉に取るとか。腕上げたね」
蓮がそっと耳打ちして来るので、知佳は思わず首を回して、蓮を見た。
「別に、そう云うのじゃ――」
確かに手応えは感じていた。感じて居たけど、こゝ迄覿面に効くなんて思わなかった。――否、そうか? 途中から知佳は、相手の反応を愉しんでいたのではないか? 知佳は自分が、悪女になった様な感覚に陥る。でも不思議と自己嫌悪は感じない。若しかして自分は根っからの悪女なのだろうか。それでも好いか、なんて気持ちが過る。知佳は自分が、能く解らなくなって来た。
ぴたりと声が止んだ。震えも止まり、俯いた体勢の儘、ジュリアスは凝と動かなくなった。
「退きましたね。――何方が出て来るかな」
神田が呟くと同時に、今度は高笑いが聞こえた。ジュリアス――だった筈の少年は、満面に邪悪な笑みを浮かべて、顔を挙げる。瞳には妖しい輝きを湛えている。
「うはゝ、そうか、そう云う事か! 取り返したぞ! 第三の人格だと、そんな物は直ぐに克服してやる!」
如何やらダンタリオンだ。ジュリアスは、疲労の上に精神の混乱が重なり、主体性を維持出来なくなったのだろう。その隙を突いて、第二人格が上がって来た様だ。
「あなた何者なの――」
知佳の質問に、ダンタリオンは得意気に返す。
「リチャードだよ! 君の大好きな、リチャードだ! ほら、ハグしておくれよ!」
「違うでしょ、ダンタリオンさん。あなた如何遣って、リチャード君の中に入ったの? 何が目的なの?」
ダンタリオンは一度無表情になり、眼を閉じて深く息を吸い、緩り吐いてから、ギロリと知佳を睨んだ。
「名前を読んだな。フン、まあ好い。読めと云ったのは俺だ。如何遣って入ったのかなんて聞いて如何する。真似出来るのか?」
「真似なんかしません!」
「目的なんか訊いて、話すと思ったか? 大体お前、心の中を読んだんだろう、其処に無かったか? ――吁、無かったかもなぁ、此方には。――それにしても、この服は何だ? 拘束衣か? 何時の間にこんなものを。第三の人格は抵抗しなかったのか?」
「あなたが暴れると困るからと云って、協力して頂きましたよ」
神田が挑戦的な口調で答えた。
「巫山戯た話だ。だがな、こんなことしても無駄だぞ。此方にも駒は沢山あるのだ」
「目に付く方々は総て捕獲して仕舞いましたけどね」
ダンタリオンの眼が、大きく見開かれた。想定外だったのだろうか。
「総てだと? 二十人からは居た筈だ……そうか、石和で四人捕られたっけ」
「四人ではないですよ。石和では十人程が行動していましたね。最終的にジョセフ隊長と合流出来たのが三人でしたが、他の方達も一通り捕獲して、纏めて国外追放した筈です。貴方に報告は行っていませんか?」
「そうだったかな――報告など知らないが。俺は別に、作戦責任者でも何でもないからな」
「そうなんですか」
神田は少しがっかりした様だったが、それを気取られぬように、続けて質問した。
「あなたの上官は何処に居ますか? 日本? Y国? 他の何処かかな?」
「何だそりゃ。そんな質問に答える義理は無いぞ。なんか勘違いしている様だが、俺は未だお前達の捕虜になった訳ではないのだからな。今でも十分戦闘状態にある。俺の能力を見せようか?」
「欸――いや、止めておきます。少なくとも伝心能力は無さそうですが、他の能力に就いては未知数ですからね。此処で何事か始められても困りますし」
嘘だ。知佳は思った。神田は相手の能力を把握している筈である。それが神田の能力なのだから。そしてその能力に就いては、リチャードに知られている。それならその時点で、ダンタリオンにも知られているのではないのか。
「未知数? お前相手の能力判るんだろう?」
「あ、やっぱりバレてました? 困ったなぁ」
神田は頭をポリポリと掻いている。どこ迄本気で云っているのだろうか。
「取り敢えず此処にいる間は、悪戯しないで下さいね。貴方の幻覚能力に就いては、封じさせて頂いてますので」
「ピートに使った奴だな……むかつくなぁ。まあ俺一人縛り上げたところで、此方に大したダメージは無い。此奴の身体が痛むだけだ」
知佳は胸がキリリと痛むのを感じた。リチャードを助けてあげたい。如何したら此奴を追い出せるだろうか。早く追い払わないと、リチャードが壊れて仕舞う。彼の中で見た、締め上げられたリチャードの心が脳裏に浮かぶ。遣るならジュリアスの助けが必要だ。今此処で中に入って解こうとしても、ダンタリオンに抵抗されれば却って事態を悪化させるかもしれない。知らず識らず蓮の手をぎゅっと握る。蓮は知佳の腕を握る力を強めることで、それに応える。
「そうだ、ダン君。あんたが探していた書類とか、あたし達が見付けちゃったから。もう彼処には無いよ」
蓮までもが挑む様に云う。丸で皆でダンタリオンを怒らせ様とでもしているかの様だ。
「そうか――」
ダンタリオンは一言そう云うと、ずっと中空を見詰めた状態の儘、黙り込んで仕舞った。時々口許が動くが、発音はしていない。
〈本体が別の所にあるのでしょうか。彼方での行動が、ダンタリオンに漏れて来ている様ですね〉
神田が伝心を、ダンタリオンを除くその場の全員に送って来た。知佳もそれに合わせて同意を伝える。
〈大事な記憶はこっちに無い、と云う様なこと、云ってましたね。ダンタリオンの記憶、二年前からの分しかありませんでした〉
〈問題は何処から操作しているか、と云う事ですね。鳥渡私は探索に集中します。近くに居れば好いのですが――〉
それ切り神田は黙った。知佳はダンタリオンから目を離さず、その様子を凝と観察した。その眼は虚ろで、半分閉じ掛けていて、瞳が不規則に動き回っている。
〈知佳ちゃん、無理そうならえゝねんけど――〉
都子から伝心が来た。都子はこの部屋に居らず、先程の休憩室で待機しているのだけど、伝心場の会話は届いていたのだろう。都子が全て云い終わる前に、知佳は応えた。
〈視ます〉
〈知佳、無理しないで〉
隣で蓮が心配そうに知佳を見て来る。腕に回して来ている手に、力が入るのが判る。
〈大丈夫。ユウくん、支えて〉
〈うん。――気を付けて〉
背後のユウキから、活力が伝わって来る。知佳は伝心場を変形させ、ダンタリオンを排除した。彼の心が露わになる。その中へ、その不愉快な精神の中へ、知佳は躊躇せずに飛び込んで行った。
十九 その心の中で
記憶は矢張り、二年分しかない。その最初の記憶は何度確認しても、リチャードの中に潜入した直後の、歓喜の記憶だ。その後直ぐ、この記憶の主は主体性を放棄し、リチャードの意識を窃視する事に専念している。
最新の記憶を視る。先程の会話の記憶だ。蓮の発言に短く応えた後、記憶はすうっと薄くなって、殆ど消えて仕舞う様に視えるが、注意深く観察すると、か細く継続している。視覚の記憶には、カウンセリングルームの壁がずっと映っているが、其処にうっすらと何かが動いているのが見える。明るい室内で映画を投影しているかの様に。これは若しかしたら、何処かに居る本体が見ている記憶か。
何人かの人物が居る様に見えるが、動きが少なくて善く判らない。記憶を遡って視ると、ダンタリオンが表に出ていない様な時でも時々同様の、意識が飛び掛かっている様な場面があり、其処でも薄く別の記憶が重なっている様に見える。これを何とか追跡出来ないものかと意識を集中してみるが、如何もそれ以上は鮮明にならない。
知佳は一旦視点を引き、外側から心の形を観察してみる。相変わらず、ダンタリオンの心はリチャードの心に複雑に絡まり付いて、締め付けている。知佳は自分の胸にズキズキとした痛みを感じながらも、ぐるりと周囲を巡り、手掛かりを探して行く。外から操作しているのであるなら、必ず何か接続の経路の様な物が有る筈と、現在の心の流れを求めて、慎重にその表面をなぞって行く。
〈其処じゃない。此方です〉
突然聞こえたのは、ジュリアスの心の声だ。取り乱して消えた時の焦りは既に無く、迚も落ち着いた調子で語り掛けて来た。
〈ジュリアスさん? どこ?〉
辺りを見渡すと、微かな煌めきが視界を過る。
〈先刻はみっともない所をお見せしましたね。申し訳ない。相当魂が疲弊していた様です〉
其処にはジュリアスの心が在り、キラキラと光る小さな突起が付き出している。よく視るとそれは小さなジュリアスだった。
〈わぁ、何? 可愛い!〉
ジュリアスは照れたように鼻を擦ると、ぴょんと飛び上がった。その足許からは、心へと続く一本の筋が伸びている。心の一部が変形して長く伸び、その先端がジュリアスの形を取っている、と云う事だろうか。
〈こっち、こっち〉
こんな表現も、伝心能力故と云う所か。知佳はジュリアスの心が向かう先に尾いて行く。
二人の心の表面をなぞる様にしながら、絡まり合った枝に沿って深い所へとぐいぐい入り込む。上下左右に絡まり合った心が迫って居て、途は急激に狭くなる。知佳は己の意識をずっと細く尖らせながら、狭く細い隙間をジュリアスに続いて進んで行く。小さな瘤の様な処を過ぎ、ダンタリオンの心の流れが四方八方から合流して居る所の先で、ジュリアスは静かに停止した。彼の指し示す先を、知佳はそっと覗き込む。ダンタリオンとリチャードの心が絡まり合っている、正にその真ん中で、外側から見付かり難い様に奥へ奥へと深く入り込んだその果てで、合流した心の流れが途切れている部分が在った。途切れて居る所から心が流れ出し、また、流れ込んでいる。これは、途切れている様に見えるが――
〈そうか〉
知佳はこの光景を、都子に共有した。
〈都子さん、これ、何処かに繋がってるみたいなんですけど、判りますか?〉
知佳はこれを転位門の一種だと思った。心の視覚化をした世界で、所謂都子の扱う時空とは異質な物かも知れないが、それでも知佳の感覚では著しい類似性を感じている。都子なら何か解るかも知れない。
〈なんやこれ〉
都子の第一声に、知佳は少し落胆した。的が外れたか。
〈ふうん? 国内やね〉
一転、期待に瞳が輝く。
〈判りますか!〉
〈せやね。信州辺りかな――もうちょいちゃんと見れば、特定出来んで〉
〈お願いします!〉
知佳はその部分を拡大してみた。
〈おゝ、見易いやん、ありがとぉ〉
都子に感謝されて、知佳は照れ笑いをした。信頼している人に褒められるのは、矢張り嬉しいものだ。
〈ふうん、あれは何やっけ、諏訪? 何や大けな神社在るやん?〉
〈いや――わかんないです〉
〈知佳は地理音痴! 諏訪大社ですよね!〉
蓮が横から口を出して来た。地理音痴と云われて、事実だけど、知佳は
〈これ何の会話? 若しかして、ダン君の居場所判ったの?〉
そうだった。像は都子にしか共有していなかったのだ。然しこれを蓮に共有しても意味は無いだろう。
〈ダンタリオンの心が、転位門みたいな物で何処かと繋がってるみたいなの。だから都子さんに視て貰ってた〉
〈へぇ。でも諏訪大社って、そんなY国の工作員が潜んだり出来る様な所なのかな?〉
〈そんなこと知らないよぉ〉
〈あ、そうだよね、知佳じゃ判る訳無かった、ゴメン〉
〈蓮?〉
知らないのは確かだけど、そんな云い方って莫い。知佳の棘付いた感情が、伝心場に乗る。
〈あはゝ、ごめんて。そう剥れないでよ〉
蓮がケラケラと笑う。解っている。知佳だって本気で怒っている訳ではない。知佳は
〈諏訪大社ですかぁ……ちょっと遠いですねぇ〉
神田が溜息交じりに云う。
〈都子さん、鳥渡其方へ行くので、ジオラマ出して貰えますか?〉
〈あい〉
都子の返事を受けると、神田は席を立ち、そっと部屋を出て行った。ダンタリオンは未だに遠くを見た儘、意識を飛ばしている。随分と放置し過ぎではないだろうか。向こうで何か揉めているのか。
若干の警戒をしながらも、知佳は再びダンタリオンの心へと入り、薄く漏れて来ている彼岸の光景を何とか読み解こうと、意識を集中する。然し必死に目を凝らしてみても、意識を研ぎ澄ませてみても、中々像は鮮明にならず、苦心惨憺していたら、神田から伝心が来た。
〈此方で敵を特定しました。もうダンタリオンは必要ありません。何とか彼の中から追い出せませんか?〉
追い出せと云われても、知佳には如何すれば好いのか判らない。透かさず都子のツッコミが飛んで来る。
〈神田っち、無茶振りが過ぎるわ。顎兄何とかでけんか?〉
〈無茶振りの振替えやめい! わしにも方法判らんわ!〉
〈使えな〉
使い物にならないと、都子が冷徹に云い放つと、クラウンはしょげて仕舞った。思わず苦笑が漏れる。それを誤魔化す様に、知佳は返答を送る。
〈考えます……〉
一応そうは答えたものゝ、的がある訳ではなかった。でも確かに、この儘放置していてはリチャードの心が壊れて仕舞いそうである。知佳だって何とか助けてあげたい。そうだ、ジュリアスの手を借りれば――そう云えばそんな事を、先刻も考えて居た気がする。然しこの気高く高慢な人格は、本統に頼りに出来るのだろうか。ジュリアスにも方法が判らなかったら
悩んでいても仕方がない。取り敢えずお願いしてみようと、知佳はジュリアスの姿を探した。先程道案内してくれた小さなジュリアスは、既に何処にも見当たらなかった。役割を終えたので、自分の心の中に帰って仕舞ったのだろうか。知佳はジュリアスの心を探して、表面をぐるりと回り込んで行った。
前回見付けたのと同じ場所に、それは在った。前回感じた安心感や信頼感は、稍薄れている気がするが、それはジュリアスが疲弊していると云う事なのだろう。知佳は遠慮勝ちに、その心の中へと静かに入って行く。
〈ようこそ。来てくれて嬉しいです〉
知佳が何の様に挨拶す可きかと迷う間もなく、ジュリアスに好意的に迎えられた。姿は莫いが、声と気持ちは伝わって来る。矢張り疲弊してはいるが、気持ちは大分落ち着いている様だ。
〈ジュリアスさん、今度は御願いがあって来ました〉
ジュリアスの気配が優しく首肯く。
〈ダンタリオンのことですね。私は
そこでジュリアスは、自嘲的に笑った。
〈廃するは、云い過ぎました。それは私の願望と決意に過ぎません。元々の使命は、抗する事のみです。ダンタリオンの重圧からリチャードの心を護り、負担を私が肩代わりする、それこそが、第三の人格の役割です〉
〈そのリチャード君の心が、潰れそうなんです!〉
〈判っています。だからこそ、私は「廃する」と云う目標を自ら掲げているのです。――唯、今の私では力不足です。長いこと表に出て、激しい感情を発露した為に、可成疲れて仕舞いました。少し、休みを下さい。――リチャードなら大丈夫、今直ぐに潰れる様なことはないでしょう。幸いダンタリオンも、何だか意識が散漫で束縛の力も緩んでいる様です〉
〈でも――だとしたら今こそがチャンスなんじゃ――〉
〈そうかも知れません。でも同時に、私がピンチなんです〉
そしてジュリアスは、申し訳なさそうに笑った。然し知佳は、佳い案を思い付く。
〈そうだ。待ってゝ。若しかしたらなんとかなるかも〉
そう云うと知佳は、ジュリアスの中から抜け出した。そして背後に居るユウキに向かって、伝心を飛ばす。
〈ユウくん。ジュリアスの疲れを、癒してあげること出来ない?〉
ユウキは一瞬戸惑った様だった。暫く間があり、そうして伝心が返って来る。
〈何れがジュリアスか判らないよ〉
知佳は少し考えて、リチャードの中の心達をユウキに共有した。
〈此処にあるのがジュリアスの心。大分疲れて弱っているの。何とかならないかな〉
〈うん。これなら出来るかも。遣ってみるね〉
そしてユウキがジュリアスの心に、活力を流し込む。ジュリアスの心が、見る見る元気を取り戻していくのが判る。
〈ユウくんありがとう!〉
ユウキは嬉しそうに含羞んだ。疲労から回復したジュリアスが、二人へ伝心を飛ばして来る。
〈知佳さん、ユウキ君、有難う。さあ、リチャードを助けに行こう! 知佳さん、君の手伝いが必要だから、一緒に来て〉
そう云うとジュリアスの心が、大きく膨れ上がった。そして無数の突起が隆起し、四方八方からダンタリオンの心へと迫る。知佳はその様に圧倒されつゝも、リチャードを気遣う様にジュリアスへ注意を促す。
〈リチャード君を傷付けないようにね!〉
〈当然!〉
ジュリアスの心から伸びた無数の細い腕が、ダンタリオンの心へ一つ、復一つと突き立ってゆく。
〈視たまんまだから。知佳さんも同じ様にして〉
ジュリアスからの指示に、一瞬戸惑いを見せた知佳だが、直ぐに順応した。成程こうすれば好いのか。知佳からも無数の光の条が出て、ダンタリオンに突き刺さる。突き刺した腕を麦稈の様にして、ジュリアスがダンタリオンの中身を吸い上げると、ダンタリオンが僅かに萎む。知佳は此処でも一瞬の躊躇を見せたが、それでも意を決して吸い上げてみると、物凄く胸の内が不快になった。
〈あ、ごめん、知佳さんは吸わなくて好い。寧ろ吐き出して〉
〈えっ?〉
云われた通り、逆の工程を踏む。今吸い上げた物を吐き戻し、更に自分の中からダンタリオンへと心の中身を送り込む。ダンタリオンの心が、心做しか柔らかくなって行く気がする。何時の間にかジュリアスから一本の別の腕が伸びて、知佳の腰にそっと宛がわれていた。其処から心地好い気配が流れ込んで来る。幾らでもダンタリオンの中へ自分を流し込めそうな気になる。ダンタリオンの毒気が次第に抜けて、リチャードと同じ様な雰囲気になって行く。リチャードに絡まっていた物が、少しずつ縮退して行き、解れて行く。大分緩んだ所でジュリアスの無数の腕がダンタリオンの心を曳くと、それは少しずつリチャードから剥離して行き、絡まり合っていた腕はするすると抜けて――次の瞬間、それは突然消失した。
〈しまった!〉
ジュリアスの叫びと同時に、何か大きなものがジュリアスに取り付いた。それは今消えた筈の、萎んで稀釈された筈の、然し新しく生まれ変わったダンタリオンだった。以前の物を遙かに上回る、邪悪な気配に満ち満ちている。咄嗟にジュリアスはリチャードを包み込み、更にその外側を、新たなダンタリオンが取り囲む。
〈リチャード! ジュリアス!〉
知佳の叫びは届いただろうか。二人の心はダンタリオンにすっぽりと包み込まれて仕舞い、返事は遂に返って来なかった。代わりに、ダンタリオンの高らかな笑い声が響く。
〈馬鹿な奴だ。油断するからだ。そう簡単に引き剥がせると思ったか! 俺が、第四の人格だ!〉
〈そんな!〉
絶望の叫びを最後に、知佳は弾かれる様にして外へと締め出されると、その儘倚子から崩れ落ちた。その場に居た蓮とユウキが吃驚して、知佳を抱き留める。知佳は気絶してぐったりとしていた。
意識の帰って来たダンタリオンの高笑いと、蓮の悲痛な叫びとが、部屋中に谺する。
二十 救護室で
「此処でも中空の球か」
都子がぽつりと呟く。知佳はベッドの上で、憔悴し切っていた。見て来た事、して来た事に就いては、一通り話したと思う。もう何もしたくなかった。何も話したくなかった。リチャードは如何なって仕舞うのだろう。
「中空の球って?」
ベッド脇の蓮が、都子に訊いている。知佳は蓮達に背を向けて、窓際を向いて目を閉じて、唯二人の会話をぼんやりと聞いている。
「饅頭の皮みたいなもんや。中が空っぽか、若しくは何か別なモンがあって、その周りをぐるり取り囲んで、隙間も莫いねん。中からは何も出て来られへんし、外からは何も入られへん。そんな状態や。茹で卵の白身や」
「それって、ダンのこと?」
「それと、恐らくジュルもな。せやなかったら、今頃リックが危ういわ」
知佳はピクリと反応するが、眼を瞑った儘凝と堪えている。考えれば考える程、悪い事しか浮かんで来ない。
「二重の茹で卵かぁ……」
蓮の力莫い呟きも、知佳には痛みでしかない。
「知佳、大丈夫かな。ずっと知佳が――知佳の伝心場が、無くなっちゃってる気がして……」
「せやな。うちも伝心でけへん」
そうなのか、と知佳は初めて気付き、そして自覚する。確かに伝心場が無くなっている。疲労の所為だろうか。ショックを受けたからだろうか。然し知佳は、それ以上考える事を止めて仕舞う。考える力が、今の知佳には無い。
「知佳ちゃんがこんな状態やから、顎に頼るしかないねんけど、彼奴も役に立つんか立たへんのんか判らん奴っちゃからなぁ……」
「クラちゃん、ミヤちゃんの先輩だよね?」
「そうか知らんけど、使われへんモンはしゃあないやん」
「ひど」
蓮が無理に笑う。無理してるんだな、と判る様な笑い方なのだ。知佳だってその位の事は判る。心を読まなくても――心が――蓮の心が、視えなかった。これも疲労の所為なのか。蓮。蓮。聞こえる? 蓮? ――如何やら伝心も飛ばせない。
「蓮……如何しよう……」
知佳は消え入る様なか細い声で、眼を瞑った儘、呟いた。蓮が気付いて、覆い被さる様にして耳を近付けて来る。でも知佳は、それ以上は言葉が出なかった。
「知佳。もう少し寝てなよ。大丈夫、屹度なんとかなるから。今神田っちとクラちゃんが、諏訪大社の探索中だから。直ぐダンの本体捕まえて、やっつけてくれるよ」
「――ん」
一音出すのが精一杯だ。胸が苦しくて、呼吸がし難い。何だか涙がぽろぽろと出て来る。直ぐに手巾が、知佳の顔にそうっと宛がわれた。蓮が無言で涙を拭ってくれる。でも拭っても拭っても、後から後から涙が溢れて出て来るのだ。何れ手巾が
「れん」
知佳は下になっている右腕を曲げて、蓮の頭に手を置いた。蓮の腕が
蓮は何で泣いているのだろう。知佳が倒れたからだろうか。リチャードが潰されて仕舞ったからだろうか。知佳が泣いているから、貰い泣きしただけだろうか。
知佳は何で泣いているのだろう。リチャードを護れなかったからだろうか。リチャードが潰れて仕舞ったかも知れないからだろうか。リチャードにもう逢えないと、思って居るからだろうか。リチャードが――
なんでこんなにリチャードの事ばかり、考えて仕舞うのだろう。逢いたい。リチャードに。もう一回。叶う事なら。もう一回だけで好い。逢って、ちゃんと、云わなければ。――何を云うんだろう。自分は何を――リチャードの顔が、声が、懐かしい。今日学校で逢って、会話したのに、もう何箇月も何年も昔の事の様で。あの声で、あの表情で、もう一度口説いてくれゝば――その時こそ自分は――私は――
「知佳さん、能力が可成減退してますね」
神田の声で、
「んっ――知佳――」
蓮の腕だった。知佳に覆い被さる様にして、蓮も寝ていた様だ。知佳はその儘、蓮の腕に手を滑らせ、掌を探し当てると、両手でそっと包み込む。一体あれから、何れ程の時間が経ったのだろう。
「能力消えてもぉたん?」
都子の声だ。ずっと傍に居てくれたのか。
「消え切ってはいないですが……大分弱くなってますね。今の状態では簡単な読心も使えないのではないでしょうか」
「そか……回復するん?」
「私には何とも」
知佳の事だ。知佳の能力の事を話しているのだ。能力が無くなるのだろうか。小四の秋に覚醒してからずっと、三年半程の間、振り回され続けて来た。この能力が消えてなくなれば好いと、何度も思った。普通に生きたいと何度も願った。その能力が、遂に――
「やだ」
意図せず口を突いて出た言葉に、自分でも驚いた。
「起きとったん――せやな、その気があるなら何とかなるんちゃう」
知佳は蓮の手を掴んだ儘、半身を起こそうとした。蓮がそれを察して起き上がり、背中を支えてくれる。都子はその様子を優しく見守りながら、続ける。
「うちも一回消え掛けとんねん。中学ぐらいかな。知佳ちゃんと同じやね。うちの場合は普通に使う機会無くなって、放っといたら何となく使えんようなっとってな。んでも、高校二年やったかな。ちょい色々あって、使わんな思たら、普通に使えてん。やから、知佳ちゃんも屹度、一時的なもんや。何やっけあれ、ほれ、イップス? みたいなもんやん。あんま深刻にならんとき」
蓮は驚いた顔をして聞いていた。知佳には余り実感が湧かない。必要になる時なんか来るのだろうか。無くなっても構わないとは思うけど、でも失くしたくないとも思う。――先刻の自分の言葉は、本心なのだろうか。積極的に残したいと云う想いが、自分の中にあるのだろうか。
「無くなったら――もう、このチームからは除籍、ですよね」
小さな小さな声で、知佳は呟く様に問う。
「知佳さんは社員ではないですし、アルバイトとも鳥渡違うんですよね。必要な時に都度々々契約している感じです。――粗方此方で手続きして仕舞ってますが」
「ブラックやからな。気ぃ付けや」
都子の野次に、知佳はくすりと笑った。
「でもそうしたら、もう呼ばれることも無いですね」
「知佳。大丈夫。屹度戻るから!」
蓮が手をぎゅうと握りながら、必死に云い聞かせて来るので、知佳は申し訳ない気持ちになる。でも、蓮の為には失くしたくないかも知れない。もう自分の気持ちが判らない。こんな時、誰かが読んでくれゝば――
「知佳さん、自分の心を偽っては駄目ですよ」
部屋の隅から声を掛けて来たのは、リチャード――否これは、ジュリアスか。
ダンタリオンは如何なったのだろう。退治したのだろうか。逮捕したのだろうか。知佳は眼を大きく開けた儘、ジュリアスから神田へと視線を動かす。その途中にクラウンとユウキも居た。
「ダンタリオンは――」
「確保はしましたが、日本の法律では裁けないかも知れないですね。如何したものかと、一応X国に打診して居る所です」
神田が悩まし気に報告するが、知佳の心は踊っている。
「えっ、てことはもう」
「私の中には居ませんよ。クラウンさんとユウキ君が、排除してくれました」
ジュリアスはそう云うと、クラウンとユウキに向かって微笑んだ。クラウンは惚けた様に目を逸らし、ユウキは照れ臭そうに俯く。
「伝心能力で対処するより、幻覚の認識操作と治癒能力との併せ技の方が、相性佳かったみたいですね。完全に外部操作だけで出来るから、変に掻き回されなくて済む様です」
「そう――よかった」
知佳は涙が滲むのを感じた。
「今日は知佳、泣いてばっか」
先刻迄一緒に泣いていた蓮が、そんな事を云って揶揄って来る。知佳が肘で軽く蓮を小突いて、「蓮だって」と一言ツッコむと、蓮は照れ臭そうに、ぺろりと舌を出した。知佳は軽く微笑んで、蓮の膝に手を置くと、ジュリアスに顔を向ける。
「それで、リチャード君は――」
知佳の問いに対して、ジュリアスは少し、悲しそうな顔になった。知佳は胸が締め付けられる思いがした。
「それより知佳さん。先程も云いましたが、貴方は伝心能力を失くしたいなんて、本気で思っている訳ではないでしょう」
知佳は視線を逸らせて、俯いた。リチャードの事は、それより、なんて言葉で棚上げされる様な物ではない。ジュリアスは単に、話を逸らせたかっただけなのではないのか。それでも知佳は、ジュリアスの問い掛けに答える。
「解らない――判らないの、あたしこの能力の所為で、色々辛い想いだってして来たし――」
「素敵な想い出も沢山あった筈。素晴らしい仲間とも、その能力の御蔭で巡り合えたのでしょう」
「それは――」
「何より貴女は、失くしたいなんて思っていないんです」
知佳は顔を挙げた。これは何時も知佳が遣って来た事だ。相手の心を盗み視ながら、相手に届く言葉を選びながら。
「手の内はバレてるようですね」
ジュリアスは愉しそうに笑った。こんな時に。愉しそうに。――ジュリアスにはもう既に、心を視られている。今更隠すことなんか無いし、隠すことは出来ない。――でも、それでも、そこに触れられるのだけは――
ジュリアスは緩りと頷いた。知佳の気持ちは届いたのだ。
「大丈夫。貴方はちゃんと立ち上がれます。――リチャードは、居なくなった訳ではありません。唯ちょっと、ダメージが大きくて、直ぐには出て来られないと思います。暫くは私が、リチャードの振りをして、日常を送って行くしか莫いでしょうね」
何でジュリアスは、愉しそうに話すのか。知佳は云い識れぬ不安に苛まれる。無意識に蓮を見上げると、何だか蓮は、怖い顔をしてジュリアスを見ていた。知佳は蓮の手をきゅっと握る。それを受けて蓮が会話に割り込んで来る。
「ジュリー。リックが恢復する迄、だからね」
蓮がきつい声でそう告げると、ジュリアスは唯、微笑みで返した。
「今一信用ならないんだよな、こいつ……」
蓮が忌々しそうに毒突く。知佳も今では同じ様な気持ちである。ちゃんとリチャードを返してくれるのだろうか。リチャードが恢復したら、引っ込んでくれるのだろうか。
「クラウンさん――リチャード君の様子って、視えますか?」
クラウンは申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「わしに見えるのは認識の経路とかだけやからなぁ。二つの認識経路が重なり合う様に存在しているのは解んねん。けど、それが元気か如何か迄は……ユウキ、なんか判るか?」
クラウンに振られたユウキは、リチャードを凝と見詰めて、困った様な顔になった。
「特に衰弱してたり傷付いてたりと云う様な物は認識出来ないんだけど……でも心の中迄は僕も十分には把握出来ないから……問題が有るとしても問題点が判らないんだ。ごめんなさい……」
「ユウキ君は、リチャードに嫉妬しているかも知れないですね。正直な報告か如何か怪しいなぁ」
ジュリアスが楽しそうに笑いながらそんな事を云うので、ユウキは真っ赤に染まって激高した。
「そんなこと無いし! 嘘なんか吐いてないよ! 僕はちゃんと、正直に視たまんま云ってるんだから!」
「ユウ。落ち着け。それとジュリー、余計なこと云って煽るな!」
蓮が怒っている。嫉妬って何。皆知佳のことを揶揄ってるんじゃないのか。ユウキがそんな事の為に嘘なんか吐くとは思えないし、嘘か如何かはジュリアスには判る筈だ。彼には視えるのだから。
ユウキがジュリアスをきつく睨んでいる。この子に出来るのは治癒ぐらいで、攻撃なんかは出来る筈ないのだけど、知佳は何となく心配になる。
「ユウくん、落ち着いてね」
ユウキは聞いているのか、いないのか。ジュリアスを睨み付けた儘倚子から立ち上がった。ジュリアスが僅かに怯んだ。
「え、待って。君――私は病気とかじゃないし、治療対称ではないんだよ」
「リチャードさんのことは、僕は嫌いではなかった。だけど、貴方のことは、如何も好きになれないんだよね」
ジュリアスは驚いた表情の儘膝を突き、その儘前方へと崩れ落ちた。
二十一 部室で
知佳の能力が戻らない儘、一週間が過ぎた。三学期も今週一杯で終わって仕舞う。
あの日以来、リチャードは学校を休んでいる。流行感冒に罹ったと云うことになっている。実際には研究所の隔離室で、カメラで監視されながら覚醒を待っている。ユウキに依ってジュリアスが強制的に押し戻されてから、何方の人格も表出しない儘、意識不明の状態が続いているのだ。神田やクラウン、そして都子が、時々様子を見に行ったりしている様だが、今日迄の所状況に変化は莫いそうである。
「それで知佳は、リチャードと上手く遣ってるの?」
ポテトチップをパリパリと摘みながら、弘子が訊いて来る。すっかり、二人は付き合っていることにされている様だ。
「あのね。只の友達だから。弘子じゃないんだから」
「何それぇ。如何云う意味?」
弘子はぷうと膨れてから、ペットボトルのお茶を飲む。
「知佳は照れてるんだよぉ。何しろ奥手なんだから。察してあげてよね」
蓮が余計な事を云う。フォローなんだか、煽っているのだか。
「そうかぁ。知佳オコサマかぁ。あたしが色々教えてあげようか?」
「要らないです!」
ぷんすか怒る知佳を、皆が笑う。何だか物凄く久し振りの、平和な一ト時の様に感じる。こんな空気感をずっと維持していたい。但し、話題は頂けない。
「若しも上手く行けば、この四人の中で知佳が最初の彼氏持ちになるんだよ! 確りしなよね!」
仁美が無責任な事を云いながら、正面から腕を伸ばして肩を叩く。そんなモノの第一号なんかになりたくない。学年一可愛い仁美とか、美人の蓮とか、お馬鹿で可愛い弘子とか、そんなエリート達を差し置いて、畏れ多い事である。
「あたしやだよ! 仁美も弘子も蓮も、もっと頑張ってよ!」
「頑張ってるんだけどなぁ」
弘子が呑気に呟くのだけど、本気には聞こえない。
「あたしは好いよ。なんか面倒臭いし、そう云うの合わないって云うか――」
仁美が謙遜気味に云うのに、蓮が意地悪そうに突っ込む。
「仁美は学校のアイドルだからね、誰かの物になれないんだよ」
「否、そう云うのじゃないんだけどね」
「またまたもぉ、自覚してるくせに!」
「ええ? そんなこと無いんだけどなぁ」
そんな受け答えをする仁美の口角が嬉しそうに上がり、何だか満更でもなさそうである。知佳は知っている、仁美に自覚がある事を。それは小学生時代、未だ心の声に対して耳を塞ぐ術を識らなかった頃に、散々聞いて来た事である。学年で一番可愛いのは自分だと云う事、そしてそれを演出する為には如何すれば好いかを、経験的に熟知しているのだ。恋人なんか、絶対に作らないだろうと思う。
「仁美可愛いんだから、選り取り見取りじゃん。好きなの選びなよ」
この言葉は、弘子の本心である。弘子は仁美が一番可愛い事を認めており、蓮が美人だと云う事も認めており、自分がお馬鹿キャラを装って居ると思っていて、知佳は地味な子だと見下している。自分が莫迦なのはキャラだと思っているところ以外は、そこそこ善く周りを見ていると思う。別に見下されても知佳は肚が立つ訳ではない。そこに明確な悪意は莫いのだ。寧ろ仁美の方が腹黒いのだと、知佳は知っている。四人の中で一番小聡明くて強かなのは、仁美なのである。
「たいしたの居ないし」
「あ、仁美毒舌!」
「オフレコだよ?」
そして四人で、ケラケラ笑い合う。この四人だけの時には、仁美も余計な取り繕いはしない。小五の頃、仁美は学級の誰が好いとか格好良いとか、散々話題にしていた様な気もするが、それも単なる大人アピールに過ぎず、本心では大して興味を持っていなかった事を、知佳は知っている。最近ではそんな話題も必要なくなって来たのか、すっかりしなくなった様である。
「まあ、知佳のリチャードは、鳥渡格が違ったかなぁ。あの人は佳いと思うよ。ヤられたぁって思ったよね。転校して来た時はノーマークだったからなぁ。まあ、そんな訳だから、知佳、頑張れ!」
「仁美まで! 違うんだって、云ってるじゃん! 別にリチャード君、あたしのじゃないから!」
「知佳ので好いと思うよ。滅茶苦茶惚れられてたじゃん」
「そっ――そんなことは――」
すっかり顔が赤く染まっている。仁美だって別に興味無かった筈だ。佳いとも思ってないし、ヤられたとも思っていないのではないか。結局集団幻覚は解かれて、転校して来たと云う形になってはいるけれど、転校して来た時の記憶もちゃんとは無い筈だ。だって、最初から居た振りをして潜り込んで来たんだから。――心は読めなくなったけど、知佳は何だか、表情や口調から、以前よりも相手の気持ちが推し量れるようになっている気がする。蓮程ではないけれど、能力と引き換えにそんな技術も、この先身に付けられそうである。
「そんな事は大いにあったよね。リックったら事ある毎に、知佳に告白するんだもん。あたし横にいて、居た堪れなかったんだから」
「ちょっと、蓮まで! 余計なこと云わなくて好いから!」
「果報者ぉ!」
「かほぉものって、何?」
弘子のこう云うところが、知佳は好きだ。皆笑って仕舞って、話題が一気に軽くなる。仁美が丁寧に意味を教えてあげている。弘子は素直に聞いている。こうして教えても、半分も覚えてくれないのだけど。
頻繁に口説いて来ていたリチャードが懐かしい。何度云っても、叱っても、禁じても、直ぐに忘れるのか何度でも、呼吸をする様に知佳を口説いて来た。日本生まれの日本育ちだと云っていたけれど、親が西洋人だからなのか、DNAに刻み込まれた性質なのか、迚もじゃないけど日本人の言動ではなかった。だから知佳は、振り回されたし、終いには受け入れ掛けていた。今こうして思い返してみると、何だか長い熱に浮かされていたかの様である。知佳に恋なんか未だ早い。リチャードを受け容れる事なんか、矢っ張り出来ないと思う。
そのリチャードは、未だ目覚めないのだろうか。この儘ずっと目覚めなかったら如何仕様と、急に知佳は不安になる。恋心は莫くとも、知佳はリチャードが嫌いではない。自分に好意を寄せてくれる者を、拒む理由なんか無い。佳い友人であると思っている。
ジュリアスは如何なっただろう。ユウキが抑え込んで仕舞って、それ切り出て来なかった。あれから一度も出て来ていないのだろうか。若しかして、消えていたりするのだろうか。――ジュリアスに対する気持ちは複雑だ。彼も知佳に好意を示して来たけれど、リチャードと違ってそれは、迚も攻撃的な物だった。受け止め切れないとか以前に、知佳はあんな気持ちは受けたくない。恐怖さえ感じていた。リチャードの為に必要な存在だったのは解っているし、それに就いての感謝の情は確かにあるけれど、リチャードの無事はもう確保されたのだから、この儘消えてくれゝば好いのにと、心の何処かで願っている。ジュリアスの役目は、終わった筈なのだ。
蓮が背中に手を置いて来た。何となく俯いて考え事をしていた所為で、心配を掛けて仕舞ったのだろうか。手を置いた蓮は、知らぬ振りして皆との会話を続けている。そんな気配りが、知佳には有難い。
「リチャード休んでるから、心配なんでしょ?」
然し凝と瞳を見詰めて来る弘子に、突然そう云われた。弘子にまで悟られて仕舞う様では、駄目だろうと思う。
「別に、そう云うのじゃないけど、まあ……友達としては……」
「知佳未だそんなこと云ってる! 素直じゃないの、不可ないんだぞ!」
弘子に拳骨で、
「幸せになるって約束したべ!」
「してないよ!」
弘子は真剣そのものなのだけど、他の二人はケラケラ笑っている。幸せになるって、何だ。そう云えば最初に引き合わされた日にも、そんな事を云っていたっけ。結婚するんじゃないんだから、その表現は可怪しいだろうに。
何だか変な流れになり掛けているので、知佳は思い切り関係ない事を云ってみた。
「最近、弘子まで川﨑弁」
「え? なにが?」
自覚していないのか。語尾の「べ」は、川崎弁だ。川崎以外でも使っているかも知れないけど、余りちゃんと知らない。蓮も最近よく使う。仁美は絶対に使わない。
「知佳、その云い方は引っ掛かるなぁ」
蓮に抗議された。
「だって蓮も使うから」
「使ってないべ」
「使ってるじゃん」
蓮がゲラゲラと笑い出した。態と云ったのだろう。弘子と仁美も笑っている。知佳も連られて笑う。こう云う馬鹿々々しい駄弁りが、今の知佳には癒しになっている。
他愛の莫い会話で緩々と盛り上がっていたら、理科室の入り口辺りで、一瞬騒付いた気配がした。四人は大して気にしていなかったが、ドアが開けられる際には一斉に其方へ振り返った。お菓子を広げて駄弁っている所は、余り先生などに見られたくない。
然し、そっと申し訳なさそうに開いたドアから入って来たのは、リチャードだった。
「リチャード!」
最初に声を上げたのは、弘子だ。仁美は少し驚いた様に目を見張り、蓮は大きく口を開けて立ち上がり、知佳は金縛りに遭った様に硬直した。続いて言葉を発したのは、蓮だった。
「リック如何したの? もう放課後だよ!」
リチャードか? 彼はリチャードなのだろうか、それとも……
「もう、治ったから――朝は鳥渡、別の用事があって来られなかったんだけど、折角理科部に入った訳だし、一度ぐらい来ておきたくて。部活出来るの、今日迄なんでしょ?」
リチャードは照れ臭そうに、そう云った。今学期の部活は、今日が最終日である。
「え、理科部入ったの?」
仁美が意外そうに訊く。気持ちは解る。知佳だって未だに意味が解らない。知佳は理科部じゃないのに。
「えへ、勧誘成功しちゃった」
蓮が悪戯っ子の様に笑いながら、ウインクした。
知佳は凝と、リチャードを凝視している。リチャードがその視線に気付き、鷹揚に微笑んだ。
違う。
彼はジュリアスだ。知佳は確信した。リチャードは未だ、覚醒していないのか。ジュリアスが抑え込んでいるのか。知佳は思い切り残念な顔をしていた。それに気付いたのは蓮だけだった。腰の辺りをパンパンと叩かれて、知佳は
「リ、リチャード君、久し振り……」
平生を装おうとする程、ぎこちない態度になって仕舞う。蓮は苦々しさを含んだ笑みを浮かべ、ジュリアスはにっこりと微笑んだ。
「なんかリチャード、雰囲気変わった」
弘子が云う。嘗て惚れていただけに、中々鋭い。否、弘子は元々、野性的な勘は鋭いのだ。知佳は何故だか、ハラハラして仕舞う。
「一週間ずっと家に引き籠ってたから。何だか体が鈍っちゃって、少しかったるいんだよね」
「ふうん?」
弘子は納得いっていない感じである。余り長居するとボロが出そうだ。如何すれば好いんだろう。然し知佳の心配など余所に、弘子は自己解決して仕舞う。
「まあ、病気すると人が変わるってよくあることだし、何か前より元気そうだし、良いんじゃない?」
よく有る事なのか? 否、そんな訳無いだろう、と、知佳は心の中でツッコむ。たかが流行感冒で一々人格が変わっていたら、世の中大混乱である。でも弘子が納得したなら、それはそれで好かったのかも知れない。
「あの……えゝと、リチャード君……元気だった?」
「インフルだったよ!」
「あっ! そ、そうだよね、ゴメン……」
無理矢理喋ろうとするから、可怪しなことになるのだ。知佳は余り喋らない方が好いかも知れない。隣で蓮が、ハラハラしながら見ている。
「知佳落ち着いて。一週間振りに彼氏に逢って、舞い上がるのは解るけどさ、鳥渡取り乱し過ぎだよ」
仁美に云われて真っ赤に染まる。
「彼氏じゃないってば!」
結局皆に笑われて仕舞った。ジュリアスまで笑っている。そこは一緒に狼狽えてくれよ、と思う。全然リチャードっぽくない。リチャードの振りをする心算なんか、莫いんじゃないだろうか。若しかして此の儘、乗っ取る心算ではないのか。そんな事を考えて、知佳は急に恐ろしくなった。そしてそれが顔に出て仕舞う。
「知佳、弄られた位でそんなに落ち込むなって」
蓮が察してくれたのか、知佳をフォローする。それでも知佳の心は落ち着かない。心配と恐怖と寂しさと。明るい感情が一つも出て来ない。
「リチャード明日から学校来るんだよね?」
弘子の問いに、ジュリアスはにっこり微笑んでから応える。
「うんまあ、来るんだけど、僕今学期いっぱいで、また転校するんだ。最後に皆に逢えて、佳かったよ」
知佳は椅子を蹴って立ち上がった。多分一番驚いていたのは、知佳だ。知佳の背後で、椅子が転がる音がする。三人の気の毒そうな視線が、知佳に刺さった。
二十二 週末に研究所で
異能力の莫くなった知佳が、EX部隊に関わる必然性なんかもう無い筈なのに、今日も知佳は、高尾の研究所に居る。蓮と都子に、半強制的に連れて来られたのだ。知佳だってリチャードの事は気になるけれど、此処に居たって知佳は何の役にも立たない。唯心配するだけの女子中学生なんか、邪魔でこそあれ必要とされることなんか莫い。そんな退け目で胸が一杯で、知佳はずっと俯いている。
この研究室には、医者も同席している。部屋の中央では神田とリチャードが対峙していて、壁際に他の隊員達と、医者と知佳と、康代も居る。康代は此処で何の様な役割を担っているのだろう。ずっとPCの画面を見詰めて、時々マウスやキーボードを操作している。
「リチャードの様子は如何でしょうか」
神田が訊いている。相手はリチャードの皮を被った、ジュリアスだ。リチャードを取り返そうとしているのだと云う。何の様な作戦なのか、詳しくは解らない。聞いたところで知佳には何も出来ないのだけど。
「よく寝ていますよ。大分ダメージも恢復しているみたいですね」
ジュリアスが他人事の様に返している。
「そろそろ交代しませんか?」
「いや、未だ難しいですね。主人格は、今の彼には荷が重いでしょう」
神田が都子に目配せすると、室内に薄ぼんやりと誰かが現れた。別空間に居る者を、緩く接続して連れて来たのだろう。
「この方と面識は?」
「私はこの世に生まれて未だ間もないんですよ。そうそう知り合いなんかいませんよ」
「知り合いでなくても、リチャードの記憶を通じて一方的に識っていたりはしませんか?」
「さぁ、判らないですねぇ」
ジュリアスは不敵に笑いながら、惚ける様に答えた。
「彼はダニエル・スース。またの名を、ダンタリオンと――」
ジュリアスの目が、心做しか大きく見開かれた。見覚えが無いのは、本統だった様だ。
「ご安心ください。彼の能力は封じ込めることに成功しています。――彼の、人格侵入術とでも云いますか、他人の中に遠隔操作可能な人格を生成することが出来る能力なんですが、如何やらそれが出来る相手は伝心能力者に限られている様なんです。なので、伝心能力の妨害装置を彼の体内に埋め込むことで、その能力を封印することに成功しています。彼自身は伝心能力者では無いんですけどね。面白い特性だと思いませんか」
「そうですね」
余り面白がってはいない様だ。封印した事が信じられない様で、ジュリアスは身構えるような体勢を崩さずに、ダンタリオンの本体を凝と睨み付けている。
「この人生きてるんですか?」
「吁、余り動きが無い様に見えるのは、時間の流れが違うからですよ」
「あゝ、なるほど」
ジュリアスは僅かに警戒を解いた様で、上がっていた肩が脱力して、すっと下がった。ジュリアスは、リチャードが異空間に閉じ込められた時の事を覚えているのだろうか。確かあの時も、時間の流れを変えられていた。
「彼の封印を解くことも、我々には可能なんですが――」
「脅迫ですか?」
「いやぁ、そう云う心算は無いんですけどね。貴方が居座るなら、荒療治も必要かも知れないとは思っています」
「こう云うのって、人格の統合を目指すのではないのですか?」
「詳しいですね。でもそれは、人格の入れ替わりが起きている様な状態でないと難しいんですよ。貴方の様にずっと一つの人格のみが表出しているのでは、統合はまず無理ですね」
壁際の医者が、無言でうんうんと、何度か首肯いていた。
「統合をお望みなら、先ずはリチャードを出して下さい」
ジュリアスは何も答えず、唯凝と神田を睨み続けて居る。知佳は不安と心配で胸が押し潰されそうである。リチャードは無事だろうか、ちゃんと帰って来られるだろうかと、そればかり考えて仕舞う。
「リチャードは狡いですね。知佳さんの想いを独り占めして。私だって同じ位、知佳さんのことを想っているのに」
そう云ってジュリアスが知佳を見る。知佳はその視線を避ける様に顔を逸らす。
「勝手なこと云わないでよ……ジュリアスさん、怖いんだよ……」
ジュリアスは僅かにショックを受けた様な反応を示した。視線が泳ぎ、手許へ落ちる。
「こんなに想ってゝも、報われないんですね……」
「身勝手に一方的に押し付けよる想いなんちゅうもんは、幼稚な恋愛ごっこでしかないわ。んなもん相手が受け入れる訳無いやん」
都子が吐き捨てる様に云う。何だか機嫌が悪そうである。
「経験値が圧倒的に足りないんですね……私は矢張り、人格が幼い……」
「中学生やから当たり前や。せやけどな、リックの方が数百倍マシやったで。あの子は少なからず、相手の気持ちを汲める子や」
そしてユウキを差して、「小学生のユウキにさえ劣るわ、この謙虚さ、控えめさを、ちょいとでも見習いや」と云うので、ユウキが一気に朱に染まる。
「みみ都子さん! 何で僕!」
「ユウキは紳士的や、と云うとるんやで」
「いやいやいやいやいや! 僕関係ないんで!」
都子はケラケラと笑って、「知佳ちゃん人気者やからなぁ。ユウキもリックも頑張りや。ジュルは予選落ち」と云い放った。
「みんな奇怪しいよ……」
知佳は両手で顔を覆って、下を向いて仕舞う。蓮の「ミヤちゃん」という怒気を含んだ声と、都子の「わぁ、堪忍やで」と云うお道化た声が聞こえる。然しジュリアスに対しては効果覿面だった様で、部屋の中央からカタカタと細かく震える音がする。
「如何でしょう、一旦、リチャードにバトンタッチしてみませんか? 貴方にも学びの機会は必要でしょう」
「学び? 学びなんか――私は、リチャードからの派生ですよ、彼の知識は凡て受け継いで……」
「知識だけが、人格を作る訳ではないですからね。聡明な貴方なら、気付いているかと思いますが」
神田は挑発する様に云う。平時のジュリアスには、多分通用しなかっただろう。然し今の稍不安定な状態には、面白い様に響いている。知佳の事が絡むと、ジュリアスは簡単に不安定になって仕舞う。知佳としては、何だか複雑な想いである。
「私は……一時的に彼に座を譲りますが、復直ぐに戻って来ますよ。私の方が上位であることをお忘れなく。リチャードが望んで、上位の私を作り出したのですからね」
「貴方はリチャードを護る為の存在なのではないのですか?」
「勿論そうです。そして最も効果的な守護方法は、彼を表に出さない事です。――だから本意ではないんですが、まあこの状況では、私には不利な事が多過ぎます。これは戦略的撤退です」
そう云うとジュリアスは緩りと眼を閉じ、首が
「リチャード君! リチャード君! 起きて! 返事をして!」
リチャードの身体は想定していたよりも重く、支え切れずに床にぺたんと座り、腿の上にリチャードの頭を抱えて、知佳は必死に彼の名を呼び続けた。皆はその様子を、固唾を呑んで見守っている。リチャードは丸で深い眠りに落ちているかの様に、緩りとした呼吸をするばかりで、ピクリとも動かない。
「リチャード君、御願い……」
知佳はリチャードの頭の上に覆い被さる様にして、ぎゅうと抱き寄せた。
「認識には問題ないねん。全く損傷も不整合も起きてない。いつ目が覚めても可怪しないと思うねんけどなぁ」
クラウンが心配そうに、壁際から所見を述べる。そしてユウキに視線を投げる。
「健康そのものだよ。怪我も病気もしていない。全く正常な状態。唯寝ているだけ、みたいな感じだよね」
ユウキもクラウンの視線に答える様にして、診断を伝える。そして、リチャードと机を挟んで向かい合った椅子に座った儘の、神田を見る。神田は暫く黙していたが、緩りと首を曲げて、康代を見た。
「室長さん。例の奴、試してみて貰えますか?」
「おっけい! 待ってました!」
康代はこの場にそぐわない程の明るい声で応えると、手許のPCを操作し始めた。何だか知佳は、体の内側が温かくなって来る様な気がする。その様子を神田が、凝と見詰めている。康代の顔にはじわじわと笑みが広がってゆく。
「来た――来た、来た、来た来た来た来た来たあぁっ!」
康代が興奮して、PCのキーをタァンと音高く叩きながら、立ち上がった。
「さあ知佳ちゃん! 貴女のターンだよ!」
「え?」
知佳は虚を突かれて、顔を挙げ、康代を見る。何だか物凄く満面の笑顔で、知佳を見ている。ほら、ほらと、体全体で知佳に何かを促している。
「伝心場……知佳、伝心場復活してる!」
蓮の声で、知佳も自覚した。能力が戻っている。一体何が如何なっているのか。何だか何時に莫く、力が漲っている気がする。体が温かいどころか、何だか熱い気がする。リチャードを見下ろす。其処だけ伝心場に穴を空けると、リチャードの心が視えて来る。そうだ、この儘中に入って、リチャードに直接語り掛ければ――
神田を見る。神田は信頼の籠った眼で真っ直ぐに知佳を見返し、悠然と、力強く首肯く。
蓮を見る。蓮は瞳をキラキラ輝かせながら、知佳、行け、と、声に出さずに口を動かす。
ユウキを見る。両手を確りと握りしめ、期待に満ちた純粋な瞳で、知佳を見詰めて来る。
クラウンを見る。長い顎を少しだけ引き気味にして、小さく微笑みながら、静かに頷く。
都子を見る。優しい瞳で知佳の視線に応えると、「はよしぃや」と声に出して云われた。
再びリチャードを見る。暢気な寝顔だなと思う。そして知佳は緩りと眼を閉じて、彼の中へと下りて行く。
リチャードの心は、綺麗な状態で其処に在った。上からジュリアスの心が覆い被さっている。ダンタリオンの様に締め付ける物ではなく、包み込む様にしているが、完全には覆い尽くしていない。リチャードの心がジュリアスから逃れようとするかの様に、ジュリアスと反対の方向へ向かってじわじわと広がっており、ジュリアスがそれを緩慢に追い掛けている。知佳はリチャードの心の中へと入り込み、そこで直接語り掛ける。
〈リチャード君。起きてる? あたしの声、聞こえる?〉
〈知佳さん!〉
リチャードの返事は直ぐに返って来た。久し振りに聞くリチャードの声に、知佳は少し涙ぐんだ。実際には一週間程しか経っていないのだが、何年振りかの様な錯覚を覚える。嬉しさで胸が一杯になる。そんな知佳を、リチャードの心はそっと包み込んでくれるかの様だ。
〈僕は、一体如何なって仕舞ったのかな。知佳さん、僕は何の位寝ていたの?〉
〈一週間と鳥渡ぐらいだよ。アパートが襲われた日に、リチャード君、別の人格に乗っ取られて――〉
知佳はこれ迄の経緯を、出来るだけ詳細に説明した。多重人格の解決には、先ずは他の人格の存在を自覚するところから始める必要があると、神田や医者から予め聞いていたのだ。だからリチャードは、既に消えたダンタリオンと、今でも存在するジュリアスに就いて、確り知っておく必要がある。そう考えたから、細大漏らさず、知佳は丁寧に時間を掛けて、説明を試みた。医学的な事、能力的な事、技術的な事等、そう云った事は知佳にも能く判らない。唯、見て来た事、感じた事、起こった事に就いては、説明出来る自信がある。寛悠と確実に、知佳は説明を続ける。リチャードは凝と、知佳の言葉に耳を傾けていた。
〈知佳さん、辛い思いさせちゃったみたいで、ご免なさい――今此処でこうして話が出来ているってことは、能力は戻ったんだね〉
〈よくわかんないけど、戻ったみたい。康代さんが何かしたのかな? 解らないんだけど〉
〈そうなんだ。科学の力で、僕等の能力も解明されつゝあるのかな〉
それは不安と期待とが、綯い交ぜになった感情だった。怖いと云う想いは完全には消えないけれど、それでも知佳の能力の回復に科学の力が役立ったのだとしたら、知佳は感謝しなければならない。矢っ張り知佳は、この能力は手放したくないのだと、今改めて自覚している。
〈あ、ごめん――見る気は無かったんだけど――〉
リチャードの戸惑いが伝わって来る。知佳はくすりと笑った。
〈好いよ。もう、あたしも素直にならないとね。視て。伝わるかな〉
〈――うん〉
温かい気持ちが交換され、何だか幸せな感覚が広がる。もっと早くこうしておけば好かった。
〈僕は転校なんかしたくないよ〉
〈折角理科部入ったんだもんね。転校なんかしたら、蓮が悲しむよ〉
悲しむのは蓮じゃない。そんな想いも、リチャードには伝わって仕舞う。でも知佳に後悔はない。言葉では未だに素直になれないけれど、それももう、関係なくなった。
〈じゃあ、リチャード君。そろそろ起きてよ〉
リチャードは知佳の膝枕の上で、そっと眼を開いた。
二十三 診察室で
医者に依る幾つかの問診も終わり、リチャードは幾分すっきりした顔で、皆の方に向き直った。医者は色々と書き込んだカルテをクリアファイルに挟むと、「では今日はこれで」と云って退室して行った。
「お疲れさま。気分は如何?」
「蓮ちゃんにも心配掛けちゃったみたいで、ゴメンね。僕はなんか、清々しい気分だよ。いっぱい寝たからかな」
蓮の問い掛けにリチャードはそう応えると、無邪気に笑った。知佳は蓮の後方で、蓮の肩越しになんだかもじもじしている。リチャードの心の中での遣り取りが、今更の様に恥ずかしくなって来たのだ。リチャードはそんな知佳を見て、困った様に笑っている。
「もぉ、知佳ってば。告白したんでしょお? 今更の様に照れてんじゃないの!」
蓮が苛々した口調で文句を付けて来る。蓮にはある程度の事は話したけれど、告白したなんて云ってない。
「こっ! ――くはくとか、そういうんじゃ、なくて!」
「何が違うのぉ?」
「好いよ、蓮ちゃん。僕は構わないから」
リチャードが苦笑しながら、止めに入る。何だか以前より余裕がある様で、若干ジュリアスを連想して仕舞って、知佳は複雑な想いに囚われる。
「あんたも大人になったネェ」
蓮が溜息交じりに纏めると、リチャードは
「扠、それでは今後のことですが」
神田が事務的な口調で割り込んで来る。蓮は何だか不満気な顔で黙ったけれど、知佳は少し
「リチャード君の里親になってくれる方が現れましたので、紹介しますね」そう云うと神田はドアの方に向かって、「お入りください!」と客人を招き入れた。
開いたドアから入って来たのは、ピートだった。
「ピートさん! ――えっ、そう云うこと?」
知佳が声を上げる。蓮も驚いた顔をしていた。
「知佳さんから先に紹介されて仕舞いましたが、Y国から日本に亡命して来て、現在Y国から身を隠している、ピートさんです。ピートさん、此方がお話していた、リチャード君です」
神田が双方に相手を紹介して、対面させる。ヨロしく、と辿々しく挨拶をするピートは、穏やかな笑みを浮かべているが、リチャードは稍戸惑い気味である。
「ピートさんって、Y国に狙われている人ですよね……僕なんかが近くに居ても、好いんですか? ――その、僕から居場所がY国にばれて仕舞ったりとかは……」
「密告しますか?」
神田が冗談ぽく聞く。
「まさか! しませんよ、しませんけど、でもそんな事、信用出来ますか? 逃げて、身を隠しているなら尚更――それに、僕はY国の能力者に同期されて――」
「貴方の動向を追跡して居たダンタリオンは、既に貴方からは切り離されて、我々が確保していますよ」
「あ、そうか――いやでも、そうだとしても、復僕は狙われるだろうし――それに、父さんが連絡を付けて来たら――」
神田は少しだけ暗い顔付きになって、「リチャード君」と呼び掛けた。
「大変申し訳ないのですが、ジョセフさんはもう日本には来られませんし、来ても入国出来ずに強制送還されます。国外からでは貴方方の伝心は届かないでしょう。だから、レガシーな手段でもない限り、貴方はお父さんと連絡を取り合えません。そして恐らく、レガシーな連絡手段を貴方は持っていないのでしょう?」
生まれてからずっと、父との遣り取りは伝心でして来たのだろう。余程遠くに離れない限りは伝心で用が足りる筈だし、遠くで任務に就いている父親とは連絡を取る事が禁じられていたのだろうから、携帯電話などは持った事が無いのだと思う。知佳も含め、最近の中学生は普通にスマホを持っている様だけど、リチャードは矢張り、そうした物とは無縁だったのではないだろうか。
「父とはもう……逢えないのでしょうか」
リチャードは苦しそうに下を向いた。神田は困った様に眉を顰める。
「辛い思いをさせて仕舞って申し訳ありません。然しリチャード君、貴方がY国に行くのも、鳥渡やゝこしいのですよ。貴方は日本国籍を持つ日本人で、かつ未成年ですのでパスポートの発行には保護者の同意が必要ですし、ジョセフの息子であることからビザの発給にも障害があるかも知れません。今Y国では、貴方のお父さんは鳥渡微妙な立場にある様なのです。Y国に行くのは安全上の観点からも、お勧めすることは出来ません」
リチャードの顔が心配で歪む。傍で聞いている知佳も、心が苦しくなる。彼の父親は無事なのだろうか。
「わかりました」リチャードは絞り出す様な声で、やっとそれだけ云った。
「色々思う所はあるでしょうが、今現在のベター解としては、ピートさんの里子として、養子縁組して頂くしかありません。ピートさんにも伝心能力はありますし、現時点でその能力は封じられていませんから、お互い善き理解者に成れるのではないかとも思います」
「でも僕は――出来れば中学はこの儘――」
「そうですねぇ」
神田は腕組みをして仕舞った。そう云えばジュリアスは、何を根拠に転校するなんて云ったんだろう。独断だったのか、それとも神田辺りと何か話し合いでもあったのか。否、単純に神田の考えを読んだだけか。
「ピートさんは、先日の襲撃を受けて、次の拠点候補を選別中の状態なんですが――」
そこ迄云うとピートを見て、知佳の伝心場を使って伝心を飛ばした。
〈ピートさん、次の潜伏地は決められましたか? 其処から川崎の中学校って、通えますかねぇ?〉
〈次ですか? 北海道辺りを考えていたんですが――〉
知佳達に絶望感が走る。
〈川崎にしましょうか?〉
「えっ
思わず叫んで、口を手で覆った。横で蓮も同じ体制を取っている。同時に叫んでいたか。リチャードを見ると、眼を真ん丸に剥いて、口を大きく開け、固まって居る。
〈好いんですか? こんな都心近くで、大丈夫でしょうか〉
神田が不安気に問うも、ピートは落ち着いた笑みを浮かべて応える。
〈何処に居たって同じことですよ。問題は何時迄居られるかですが、都心の方が紛れ易いかも知れないですね。今迄人気の少ない辺鄙な所ばかり回っていましたが、一度こう云う雑踏の中で、どこ迄保たせられるか試してみるのも好いかも知れません〉
〈じゃあ……〉
リチャードが期待に満ちた瞳で、ピートに体を向ける。
〈少年老い易く、学成り難し、でしたか。子供で居られる期間なんて短いものです。その時代に残す後悔なんて、少ない方が好いに決まっていますよ〉
「ピート、佳い奴」
蓮がぽつりと呟く。それを聞いたピートが、蓮に向かって親指を立てた。
「キャラじゃないんだけど」
蓮が余計な一言を付け加えるが、ピートはニコニコと微笑んだ儘だ。この日本語の俗語は、如何やら理解出来なかったらしい。知佳は呆れて溜息を一つ吐いた。
「蓮、余計なことは云わないの」
蓮だけに聞こえる様に云うと、蓮はぺろりと舌を出した。
〈それに仕事も、田舎より都会の方が多いし、賃金も高いですよね。まあその代わり、物価も高いのでしょうが〉
〈お仕事の的は有るのですか? 若しも未だなら、弊社EX部隊のパートナーとして登録頂いても好いかと思っています。変則勤務ではありますが、一回の報酬はそれなりです〉
「おお、マジか、神田っち」
都子が驚いた声を上げる。ピートは興味があるらしく、膝を進めて来る。
〈何の様なお仕事ですか?〉
〈まあ、案件の主力ではないですが――後衛のサポートや、調達、事務経理のお手伝い等になります。如何でしょうか。一度登録頂ければ、居住地域が変わっても継続してお仕事をして頂くことが可能ですので、移転の度に仕事を探すと云う手間は省けるかと思います。副業も可能です〉
トントン拍子に話は進んで行く。結局リチャードは、四月以降も中学に残れそうである。それが何時迄続けられるかは判らないけれど、取り敢えずはよかった、と云う事だ。
「そう云えばリック、ジュリーは今如何してるの?」
ピートが
「ジュリー? ――吁、ジュリアスね。ずっと五月蠅いよ」
「うるさい?」
「なんか、代われ替われって云って来るんだけど、僕代わり方解らないし、替わりたくないから、無視してる」
リチャードは笑っているが、知佳は何だか心配である。ジュリアスなら力尽くで奪って来そうだ。
「あ、でもリチャード君、ジュリアスさんの声が聞こえる様になったんだね」
「聞こえる様になったのか、話し掛けて来る様になったのかは判らないけど。――多重人格なんてお話の中だけだと思ってたけど、真坂自分がその当事者になるなんてね。不安も無くはないけど、何だか今は面白さが勝っちゃってるよ。これ内側に入ると、自分でも伝心で接触出来るんだよね。知佳さんは内観したことある? 嵌ると癖になるよ」
「内観?」
知佳が首を傾げていると、横から都子が説明してくれた。
「内観っちゅうンは、心理療法やな。簡単に云うたら、自分を深く深く見詰めて、自分の殻ン中に閉じ籠ってまう程に内省するねん。うっかり始めると、行ったまんま帰って来ンくなったりするから、ちゃんと医者の指導の下でやらなあかんモンと思っとるけど、伝心能力者にとっては別なんかな」
「心理療法かぁ……」
知佳は僅かに興味を覚えた。自分の可能性に一番近いのは、心理関係なのではないだろうか。それが何の様な学問分野で、何の様な仕事に結び付いて行くのか、それで何が出来るのか、全く想像出来ないけれど。でも少なくとも、リチャードの云っているモノは自分の心を視るのに使えそうである。ずっと誰かに読んで貰いたいと思っていたけれど、自分で読めるとは考えもしなかった。ジュリアスに読まれるよりは自分で読んだ方が好い。
「リチャード君、後で遣り方教えて」
「好いよ!」
リチャードは照れ臭そうにしながらも、喜んでいた。
「それで、ジュリアスさんとは上手く遣って行けそうなのかな。なんか、ジュリアスさんがリチャード君を乗っ取ろうとしていたみたいなんだけど、乗っ取られたりしたら厭だよ。絶対に負けないでね」
「うーん。そうだね。頑張ってみるよ。如何すれば好いのかよく判ってないけど……でも多分、向こうも如何すれば好いのか解っていないみたいだし。解ってたらとっくに乗っ取ってるよね」
そしてリチャードは、くすくすと笑った。相変わらず知佳の心配は消えないけれど、こんなリチャードの笑顔を見ていると少しは安心する。
「乗っ取られたら復僕が、押し戻してあげるよ」
ユウキがボソッと呟くのを、知佳達は聞き逃さなかった。リチャードは素直に、ありがとう、と云っているし、ユウキのそんな心意気に知佳も、無上の喜びを感じている。嫉妬も何も莫く、ユウキはリチャードの味方で居てくれるんだ。ジュリアスのハッタリなんか、屁のツッパリである。未だ小学四年生なのに、随分と頼もしく感じる。知佳は満面の笑みをユウキに向ける。
「ユウくん、有難う、力になってくれて。大好きだよ!」
他意は無かったのだが、この言葉でユウキは今迄に莫い程真っ赤に染まって、あわあわしている。
「ちょっと知佳、純真を弄ぶ様な真似、しなさんなよ」
蓮が苦言を呈して来るのだけど、瞳が笑っている。こんなユウキを見て愉しんでいるのだ。
「弄んでなんかいないよ、失礼だな。心から感謝しているだけじゃん。大体蓮、何時もユウ君揶揄って遊んでるのは、其方でしょ。云われる筋合いないからね」
「あたしと知佳とじゃあ、攻撃力が段違いなんだよ」
「なんだそりゃ」
「ぼっ、僕のことで喧嘩しないで」
ユウキが吃りながらも、間に割り込んで来る。別に喧嘩をしていた心算はないのだけど。
「ほらもぉ! ユウ! 調子乗んな! あんたの為に喧嘩してる訳じゃないし!
そう云いながら蓮がユウキを羽交い絞めにするものだから、ユウキは
「こらあ。ユウくんまた鼻血出ちゃうよ」
「あっ! こら、服汚すなよ!」
真っ赤に染まったユウキは「そんなこと云ったって」などと云いながら、鼻を押さえている。興奮して鼻血を出すのは何時もの事で、大抵蓮が悪いのだ。蓮は矢っ張り小悪魔なんだと、知佳は思うのだった。
二十四 終業式の後に
結局リチャードの転校は、手続き等が間に合わなかった様で、取り消す事は出来なかった。それでも、ピートは川崎に来る気満々だし、当然リチャードも連れて来るので、数ヶ月空けた上で再度戻って来ると云う段取りとなった。要は一学期の間だけ、リチャードは居なくなると云う事だ。
「鳥渡の間寂しいけど、まあ良かったよね、知佳」
蓮が慰める様に云ってくれるのだけど、知佳はどこ迄感情を出したものかと、その加減を決め兼ねている。全く無関心を装うのも白々しいし、諸手を挙げて喜ぶのは照れ臭い。――否、一学期の間居なくなって仕舞うのだから、悲しむ可きか。
「何、変な顔してんの」
蓮に指摘されて、知佳はえへゝと、ぎこちなく笑った。
「素直に喜べば好いの。まあ、夏迄は寂しいけど……でもさ、その気になれば何時でも逢いに行けるし。温泉だって一緒に行けるし。何なら混浴でも――」
蓮の言葉に、知佳は
「蓮! ちょっとあんた! なんてこと!」
「あはゝ! 冗談、冗談!」
蓮は鞄を振り回しながら、足早に駆けて行く。知佳は顔を真っ赤にしてそれを追い掛ける。
終業式も終わり、途中の地蔵の辻迄、一緒に下校しているところである。小学生の頃から、蓮とはこうして一緒に帰っている。仁美や弘子はもっと手前で別れて仕舞うので、低学年の頃なら兎も角、四年生ぐらいからは余り一緒に帰らなくなっている。地蔵の辻迄来るのは知佳と蓮だけで、其処から夫々の家迄は結構直ぐなのだ。
ピートは今のところは未だ、石和温泉に残っている。場所を遷るにしても色々と準備や手続きが必要なのだろう。リチャードは養子縁組の準備中だが、一旦は今迄のアパートにその儘生活している。ピートにしろリチャードにしろ、敵に居場所がバレているので危険だと思うのだけど、引き続きクラウン達が監視しているし、都子も即時対応出来る様な体制が組まれているとのことで、まあ云う程心配は無いのかも知れない。それに神田が云うには、未だ敵陣の立て直しは出来ておらず、異能力者の影も形も莫いとのことなので、暫くは何事も起きなさそうではある。
それと今の懸念は、ダンタリオンだ。本名はダニエルだそうだが、そこに関して知佳は余り興味が無い。現在は公安の特殊な課で拘留しているとのことだけど、それも何れは拘留期限が切れて、釈放しなければならない。それ迄にX国と協議し、方針を決めて、処遇を決める必要があるのだと云う。
一応今の容疑は、身分詐称して諏訪大社の事務員を遣っていたと云う詐欺容疑と、リチャードの乗っ取りに強要罪か傷害罪が適用されるか如何か、と云う程度だが、何れも大した罪にはならない上に、後者に至っては立件も難しい様で、結局はX国頼みと云う感じになっている。日本で異能力による犯罪は、それを直接取り締まる法律も、立件する為の手法も知見も経験も共通認識も、存在しないのだ。X国で何の様に解決しているのか、研究する超党派の有志会なども有る様だけど、今のところ目立った成果は出ていない。矢張り一般の認知度が低い所為だろうか。能力を隠すのも考え物であるかも知れない。異能力者の絶対数が少ないので、仕方が無いとも思うけど。
「まあねぇ。その為にも、康代ちゃん達の研究がもっと活発になれば、少しずつでも変わって行くのかも知れないよね。佑香さんにも頑張って欲しいし、何時かはあたしだって」
蓮が右の拳を握って肩の高さに挙げながら、遠い目をしてそんな事を云う。蓮ならその境地に到達出来るだろうか。
「学年末の順位、如何だったっけ」
蓮はぴたりと足を止めて、拳を握った儘横眼で知佳を見た。そしてその微妙な表情の儘、ぺろりと舌を出す。
「ひ、み、つ!」
「それって、絶対駄目だったヤツ」
「うるさい! 四月からあたしは、生まれ変わるんだ!」
知佳はくふふと笑って、「うんまあ、頑張ってね。あたしは心理学に向けて頑張るわ」と云った。
「しんりがくぅ?」
蓮が目を丸くして訊き返して来る。
「精神科医とかそんな奴?」
「医者は無理かな。一応調べたんだけど、精神科医も普通に医師免許取らなきゃなれないから。だから、カウンセラーとか……いやぁでも、研究職とかでも好いかも」
「知佳も学者になるの!」
「まだ判んないよ。心理学の『し』の字も知らないんだし」
「みんな学者になったら凄いよね! ユウは医者だし!」
「それだって未だ未だ先だし、判んないじゃん。つうか蓮、学者目指してるの?」
「佑香さんの弟子になるんだ!」
夢は夫々である。蓮の成績は微妙な様なのだけど、それでも成れたら好いなと、知佳は思う。
そうか。蓮にはちゃんと夢があるんだ。知佳も漸く、夢が見付けられそうだ。こう云う夢なら、将来忠国警備に就職するとしても、継続して追い掛けられるんじゃないだろうか。知佳は、悩みが一つ解決して行く予感がしている。
地蔵の辻に到って、二人は其処で別れた。知佳は独り、自宅への帰途を歩む。先週位迄は未だ肌寒い日もあったけど、今週に入って大分暖かくなった気がする。もう四月も目前である。こゝ数日は弱い雨がパラパラ降ったりしているけれど、そこ迄冷え込むことも無い。今は雨も上がっているし、風は暖かい。
門扉を押し開け、玄関に到る。何となくドタバタしている雰囲気を感じ、訝りながらも扉を開けた。
「ただいま――って、ちょっと、完太?」
弟の完太が、廊下を走り回っている。唯走り回っているのではない、如何やら追い掛けっこをしている。その鬼ごっこの相手は――
ワン! ワン! ワン!
「タマぁ! 待って、タマ!」
知佳は衝撃を受けながらも、靴を脱ぐと鞄を其処に置き、洗面所へと向かった。コロナ騒ぎ以来、帰宅時の手洗い嗽が習慣になっている。
奥から母が出て来て、「あら、お帰りなさい」と声を掛けて来た。嗽の水をぺっと吐き、手巾で口許を拭ってそれを洗濯籠に放り込むと、振り返って母親に抗議の眼を向ける。
「あれ、知佳、何か怒ってる?」
「怒ってる? じゃないよ! あの犬、何?」
相変わらず廊下では、どたどたと走り回る音がする。
「預かりものなんだけどねぇ……なんか完太が勝手に名前付けちゃって」
「なんだ、そうか」
知佳は一気に肩の力が抜けた。犬なのにタマ、何が悪いのか説明は出来ないけれど、でも駄目だろうと思う。ペットを飼うならタマだ、と云うのは実は、姉弟間での共通認識ではある。だからと云って犬にタマは――知佳はずっと、猫を想定していたのだ。
鞄を持って二階に上がり、自分の部屋に入ると扉を閉めて、着替えを始めた。その間も階下ではバタバタと騒がしい。
「ちょっと! 静かにしてよ!」
二階から階下に向かって、知佳は大声で叫んだ。
「ねぇちゃんも煩い!」
「黙れ!」
母親が廊下に出て来て、あっさりと仔犬を抱き上げると、「あんた達、喧嘩しないの! 知佳、言葉遣い悪いぞ! 完太も走っちゃダメ!」と、双方に説教をした。知佳は脱いだ衣服を持って階段を下りながら、口を尖らせて母親に挑み掛かる。
「行き成り犬なんか、本統に自家で飼えるの? 見たところお座敷犬ぽいけど、家中毛だらけになるんじゃない? お父さんは知ってるの?」
「帰ったら話すわよ。取り敢えず今夜だけ。お母さんのお友達から、如何してもって頼まれちゃってねぇ」
そう云って母は、腕の中の仔犬に向かって愛想を振り撒き、しょうがないじゃないねぇ、などと語り掛けている。仔犬は――嬉しい、愉しい、遊んで、遊んでと、思っている。知佳は犬の心を読んで仕舞った。そうだ、動物も植物も、知佳はその心が読めるのだ。若しかしたら獣医とか、ブリーダーとか、園芸家とか、なんかそう云う選択肢もあるのかも知れない、などと思う。
「ほらぁ、結構みんな、マンションとか団地とかばっかりじゃない? 自家ぐらいなのよねぇ、戸建に住んでるの。だからまあ、しょうがないって云うか」
詰まりは母の、見栄っ張りなのだ。戸建に住んでるのが偉いのか何なのか知らないけれど、この母は確実に、そこに優越感を感じていて、その辺りの心理を巧みに刺激されて引き受けて仕舞ったのだろう。見栄っ張りで乗せられ易いのだと思う。知佳は呆れ半分で、溜息を吐いた。
「もう、好いけどさぁ……もう少し静かにしてゝ欲しいのと、後、流石に『タマ』は、如何かと思う。――ってかさ、誰かの飼い犬なんだったら、ちゃんと名前あるんじゃないの?」
「えゝとね、マロンだか、マカロンだか……」
「何それ! 全然違うものだし!」
「どっちもスイーツ!」
「雑!」
結局知佳は、笑って仕舞った。もう少し不機嫌を装っていたかったのだけど、この家族相手では続かない。
「マロンもマカロンも駄目だよ! 『ん』で終わっちゃう!」
完太が愚にも付かない反論をして来る。
「あんた何云ってんの。うちのペットじゃないんだから、関係ないし」
「タマが駄目なら、タクマとか」
「どこの男の子の名前?」
「タイマとか」
「危ないからダメ!」
「タンマとか」
「もう名前ですらない!」
母親と三人、ゲラゲラ笑う。完太も来年には四年生だ。莫迦な事ばかり云っているけれど、どこ迄本気で、どこから狙って云っているものやら。でも知佳は、家族の心は読まない。それをして仕舞うと、家族が維持出来なくなりそうで怖いから。母親の嫌な考え方とか、ケチな優越感とか劣等感とか、嘗て散々見て仕舞って激しく後悔したこともあり、二度と覗き見するまいと、その時以来誓いを立てたのだ。その延長で、友人の心も読まない様になった。知佳の倫理観は、そうして培われて来た。
結局犬の名前は曖昧な儘、知佳は自室へと引き上げた。春休みの宿題が出ているけれど、何となく気が乗らず、それを横に除けて机上を空けると、知佳は昨年暮れの誕生日に買って貰ったスマートフォンを手にして、検索ワードを打ち込んだ。
――心理学――大学――就職
就職先が無い、少ない、給料が安い、等の記事が目に付く。矢っ張り難しいのかな、などと思うと同時に、自分には忠国警備があるから大丈夫、なんて思ったりもする。半面、心理学が生かせる職場は沢山ある、と云う様な記事もチラホラあり、結局何が本統なのか判らなくなる。
〈知佳ぁ〉
その時突然、蓮からの伝心を受けた。知佳は吃驚して顔を挙げる。
〈えっ、蓮? 何処に居るの?〉
〈うちだよん〉
〈はあ? そんな遠く――〉
知佳は自分の伝心場に意識を向けた。物凄く広がっている。成程、確かに蓮の団地迄届いている様だ。それどころか、川崎市全域に迄広がっている様である。そんなに自分は興奮していただろうか。
〈知佳最近、基本の大きさが凄く大きくなってる気がするよ。そのうち名古屋迄届くかもよ〉
〈真坂! 流石に無理だよ〉
〈えー。ユウ可哀想〉
〈あたしを悪者にするの止めて!〉
蓮がケラケラ笑う。何時もこれだ。好い加減飽きてくれゝば好いのに。
〈でも、ユウは兎も角として、リックの気配も無いんだけど。もう石和温泉行っちゃったんだっけ?〉
〈ほんとだね。終業式終わって直ぐ行っちゃったのかな。なんか慌たゞしいね〉
〈そんなに淋しがらないで。あたしがいるでしょ〉
〈なにそれ〉
淋しがっていただろうか。知佳は自分を顧みる。そうだ、リチャードに教えて貰った内観と云う奴も、この春休み中に挑戦してみよう。何が視えるだろうか。楽しみの様な、怖い様な。
〈それにしても便利になったね。電話とか要らないじゃん、あたし等に限ってだけど〉
〈何それぇ。他人の能力、便利グッズみたいに云わないでよね〉
そして二人で笑う。でも蓮の云う通りだ。こゝ迄大きくなったのは、神田の成長促進効果の影響だろう。あの人が近くに居るだけで、皆どんどん能力が発達し、強化されて仕舞う。その結果今は、何だかずっと蓮と一緒に居る様な感じになって仕舞った。一人で居ても独りじゃない感じ。兄弟のいない蓮にとっては、尚更心強い状況なのではないだろうか。もっと頑張れば、せめて都内に要るメンバぐらい迄は届くかな。でもそうすると
〈まぁた、リックの事考えてるな? あと少しの辛抱だから、頑張れ〉
復感情が漏れて仕舞ったか。でももう、蓮には隠す必要なんか無いかも知れない。知佳は、リチャードが好きなんだ。屹度そうなんだと思う。隠しても、否定しても、こればかりはもう、如何にもならない気がする。
〈頑張るよ。リチャード君を護れる女になる〉
なんだそれと、蓮は笑った。でもなんだか知佳は、心が軽くなった気がした。その後は、二人で他愛も無いお喋りに花を咲かせた。
二十五 知佳を励ます会で
「何それ、善く解んないんだけど」
春休みに仁美の家に集まって、四人でホームパーティーの様な事をしている。誰かの誕生日とか云う訳ではないのだけれど、元々四人は幼稚園来の腐れ縁で、母親同士も仲が好いので、お互いの家にはそれなりに遊びに行ったりしていた。唯、中学生になった今では、中々珍しい状況かも知れない。
仁美の父親は会社の社長さんで、家も比較的広くて大きいのだけど、仁美の部屋に四人も入ると、流石に手狭な感じがする。仁美の母親は、居間を使っても好いと云ってくれていたのだけど、親の前では思春期乙女達は自由にお喋りしにくいので、仁美の私室に詰め込む形となって仕舞っている。部屋の真ん中には低い折り畳み式の洋卓が出されて、その上にはペットボトル四本と、平皿に盛られた洋菓子とが載っている。
「解らないって、何が?」
仁美の抗議に、先日起きた出来事を話して聞かせていた知佳は、不思議そうに問い返した。
「なんでペットの名前が、タマって決まってるのよ」
「吁、それは――」
説明していなかったっけか、と知佳は思いつゝ、説明を始める。蓮が横でニヤニヤ笑っているのは、恐らく蓮には話した事がある筈で、事情を了解しているからだろう。
「うちのお母さん、麻由って名前なんだ」
「そうだっけ」と仁美。
「知ってるー!」と弘子。
蓮は黙ってニヤニヤしている。
「お父さんはね、優一」
「うん――ん?」仁美は何か考え始めた。
「それは初耳ぃ!」弘子は素直に聞いている。
「あたしが知佳でぇ」
「知ってるよ!」今度は声が揃った。
「弟が完太ね」
「詰まりそれって――」
「しりとりだ!」
みんな一斉に弘子を見る。三人共吃驚した様な顔をしているのは、流石に失礼だったかも知れない。
「まゆ、ゆういち、ちか、かんた、たま! あはゝ、本統だ、タマじゃなきゃ一周出来ない!」
「弘子あんたぁ……なんか変なもの食べた?」
「みんなと同じクッキーしか食べてないよぉ」
仁美の弄りの真意も判らず、弘子は当たり前の返答をする。
「仁美、それは弘子を莫迦にし過ぎだよ」そう云う蓮も、ケラケラ笑っている時点で同罪だ。
「でも凄いね、弘子直ぐ気付いたね」
一応知佳は、弘子を持ち上げておく。然し弘子は、三人を見渡して眉を極端に顰めた。
「あれ、なんか皆、あたしのこと莫迦だと思ってる? やだなぁ、いつもお馬鹿なキャラしてるけど、本統のあたしは賢い子なんだよ、十三年付き合ってゝ判らないか?」
「否、十三年は付き合ってない」思わず知佳も突っ込んで仕舞う。この四人の付き合いは幼稚園からなのだ。十年にだって少し足りない位である。但、蓮とだけは産まれた時からだけど。
「細かいよ知佳! 云いたいこと判るべ!」
「十三は十分細かい!」
今度は蓮が突っ込む。皆容赦無いなぁと思いながらも、結局知佳も一緒になって笑っている。弘子一人、頬を膨らませているが、不愉快そうには見えない。知佳は友達の心は読まないけれど、他人の心理に敏感な蓮も一緒に笑っているし、弘子もこんな遣り取りを楽しんでいるのだとは思う。こうしたノリ自体は、昔からずっと変わっていない。ボケたりツッコんだりはあるけれど、この四人でイジメとか、絶対に有り得ないと思っている。寧ろ遠い昔、弘子や知佳が他の子に虐められていた時に、助けてくれた様な仲間なのだ。
「でもまあ、弘子の好い所は沢山知ってるからね、大丈夫」
知佳はフォローの心算で云ったのだけど、弘子は
「知佳大好き!」
如何やら熱い抱擁だった様で、知佳は戸惑いながらも弘子の胴に腕を回して、懸命に受け止める。仁美と蓮は何だか苦笑している。太っていると云う程ではないけれど、稍重量のある弘子に圧し掛かられて、知佳が思わず
「こらこら弘子、知佳が潰れちゃうよ」
仁美が笑いながら弘子の肩に手を掛けると、弘子はあっさり知佳を解放して、代わりに仁美にしがみ付き、「潰してやるぅ」などゝ云ってその儘押し倒す。今度は仁美が
「今日は知佳を励ます日なの、忘れてた!」
「弘子非道い! あたしも忘れてた!」
蓮がそう云って笑うと、仁美が弘子の下から、「二人とも非道いな! あたしも忘れてた!」と叫ぶ。
「なんだそれ。好いよ別に、励まして貰うことなんか莫いし」と云って知佳がいじけて見せると、今度は蓮が抱き付いて来て、「強がっちゃって知佳ったらあ! 気の毒な子おぉぉ!」と云っておいおいと嘘っ八の泣き声を挙げる。
「気の毒って、何が!」
「大好きな彼氏と離れ離れになっちゃってぇ!」
「未だ彼氏とかじゃないしぃ!」
「まだ?」
蓮と仁美の声が揃う。二人ともニヤニヤ笑っている。失言だったと、知佳は一気に紅潮する。今更隠しても誤魔化しても、仕方が無いとは思っているけれど、でもそう遣って真っ直ぐ直截云われると、矢っ張り恥ずかしいし照れ臭い。
「知佳はあたしからリチャード奪って行ったんだから、ちゃんと幸せになるんだよ! そうしないと許さないからね!」
「ええ……うん……いやいや、幸せにとか、可成気が早いし!」
弘子のペースに乗せられそうになって、慌てゝ跳び退く様に、知佳は突っ張った左手の掌を立てゝ、ワイパーの様にふるふると振って懸命に拒絶する。
「奪うも何も、最初っから弘子のじゃないでしょ、電光石火で振られてるんだから」
蓮のツッコミに、今度は仁美がキャラキャラと笑う。
「電光石火って! 凄い表現! でも弘子を的確に云い表してる!」
「
「やめてよぉ!」
奇しくも、知佳と弘子の声が揃った。でもそこに込められた気持ちは、恐らく正反対だ。弘子が知佳の腿を、きゅうと抓って来る。
「いたゝ! ちょっと弘子! やめて!」
「あたしのリチャードぉぉ!」
「やめなよ、そんなに引き摺ってる訳無いでしょ、あんたが」
仁美に云われて弘子は、けろりとした顔を挙げる。
「うん」
「あたし抓られ損!」
「ごめぇん」
「ゆるさぬ!」
昔のお侍の様に低い声でそう云うと、
「ゆるしてぇ、ゆるしてぇ、リチャードはあげるからぁ。あたしは今、ミチル先輩狙いだし!」
「誰! てか、リチャード君を物みたいに云うの、良くない!」
弘子はとっくに切り替えて、別のターゲットに狙いを定めている様だ。中々頑健な娘である。何だか知佳は莫迦々々しくなって、弘子を解放した。結局今、リチャードに真剣に心を砕いているのは知佳だけなんだ。それは幽かな独占欲を充足させると共に、共感者の居ない孤独感をも同時に齎してくれた。そんな複雑な感情を若干持て余し気味にしている所へ、伝心が届く。
〈知佳さん、今善いかな?〉
それは余りにも唐突過ぎた。リチャードからの伝心を受け取り、知佳は小さく「ひゃっ」と声を上げて仕舞った。
「如何したの?」
弘子が不思議そうに訊いて来るけど、説明は出来ない。しどろもどろに「な、な、何? 何が?」などと云いつゝ、伝心で〈吃驚した! 何?〉と返す。序でに蓮にも〈リチャード君から、伝心が!〉と送る。蓮も吃驚した表情で、知佳を見る。仁美は何だか奇怪しな空気を感じている様だけど、その正体は絶対に判らないだろう。
〈何だ、リック? ピートの処に行ったんじゃなかったの?〉
蓮が伝心場で、知佳にも聞こえる様に伝心を飛ばす。結局こゝからは、三人での会話になる。
〈そう、ピートさんの処に行ったんだけど、未だ荷物全部持って行ってなかったのと、二人にちゃんと挨拶してなかったから、ちょっとだけ戻って来たんだ。今、二人一緒に居るの? 何処?〉
〈仁美ン家だよ。四人で集まってるの。女子会だから、リックは駄目だよ〉
〈そうか、じゃあまた後で〉
そう云うとリチャードは、伝心場から居なくなった様だった。引っ越しには都子の空間転位を使っているのかも知れない。結局知佳は、最後迄何も言葉を差し挟めなかった。そして仁美と弘子の二人は、訝しげに知佳と蓮を凝と見ている。
「なぁんか、二人でコソコソ隠し事している感じ。ヤな感じ」
仁美が不服そうに云うので、知佳は慌てゝ取り繕おうとするが、何を如何云えば好いのか判らない。両手を広げて口を開き掛けた儘、何も言葉が出て来ずに、蓮へと視線を移動させる。助けて、と云う意思表示だけど、伝心で伝えた訳ではない。伝心で伝えられることさえ失念している。然し蓮は知佳の視線を受けて、やれやれと云う顔付きで一つ息を吐くと、仁美に顔を向ける。
「別にコソコソはしてないよ。知佳の気持ちはあたしにはビシビシ伝わって来るから。不安とか、焦りとか、そう云うの知佳から感じて、心配していただけ。それだけリックの事で頭いっぱいなんだよ、知佳は」
「ふうん、流石親友」矢っ張り仁美は面白くなさそうである。
「れれ蓮! 何云ってんの! あたしは別に! その、リチャード君のことは、そう云う感じじゃなくて! 何と云うか、リチャード君は、関係ないと云うか――関係なくはないけど、でもそう云うのじゃなくて」
「云う事決めてから喋りな、知佳。何云いたいのか、さっぱりだよ」
結局知佳は、押し黙って真っ赤に染まり、そんな様子を見ていた仁美は
「それにしても、知佳は何時迄君付け? そんな呼び方してるの、多分知佳だけだよ。あたしが知る限りは皆リチャードって呼び捨てしてるよね。蓮だけなんでか愛称で呼んでるから、寧ろみんな蓮とリチャードの仲疑ってるぐらいだよ」
仁美にそんな事を云われて、蓮は鳥渡意外な顔をした後、明白に嫌そうな表情を作った。
「うそぉ、皆愛称で呼べば好いのに。――ほんと、何であたしだけなんだろう? リチャードって呼ぶより、リックの方が短くて呼び易いじゃん。変なの」
「蓮、人誑しだから」
知佳が短くそう云うと、蓮が「何だとぉ!」と云いながら、首に腕を巻き付けて来た。何だか今日は取っ組み合いになることが多い気がする。女子なのに活発過ぎやしないか。それでも知佳も、蓮に組み付き返して、「負けないぞぉ」などと遣っている。それも含めて、何時もの事なのだ。
「もしかして知佳、リチャードからメッセでも来たの?」
それ迄凝と二人の掛け合いを見ていた弘子が、唐突にそんな事を云うもので、知佳は「ほえっ?」と叫びながら腕にきゅっと力が入って仕舞った。腕の中で「んぎゃあ!」と悲鳴が上がり、慌てゝ手を放す。
「知佳酷い! 殺す気か!」蓮が首を押さえながら抗議し、そして同時に〈あんた誤魔化すの下手すぎ!〉と、伝心が飛んで来る。メッセと云うのは、SNSを使った個人宛てメッセージの事だ。余りスマホを使い熟せていない知佳でも、その程度の事は知っている。そしてそれは知佳にとって、伝心と然程変わらない伝達手段である。知佳にしてみれば、伝心を見透かされたのと大して違いはない。
〈そんなこと云ったって! なんか色々行き成り過ぎて! 蓮みたいに冷静に対応出来ないよ!〉
〈好いから少し黙ってゝ〉
「知佳がこんなんじゃ、しょうがないよ、皆あんまり追及しちゃダメ。大らかな気持ちで、生温かく見守って行かなくちゃ!」
蓮の提案に、仁美と弘子も苦笑交じりに同意する。何だか結局槍玉に挙がってる事には変わりない気がするけれど、温かくでも生温かくでも、兎に角黙って見守ってくれるならその方が知佳としても有難い。
〈一ト段落付いたところで、ちょいと宜しいか?〉
そして矢っ張り唐突に、都子からの連絡伝心が飛んで来るのだった。
二十六 時間の止まった亜空間で
都子に依って時間は止められ、蓮と知佳は亜空間へと引き摺り込まれた。仁美の部屋には、苦笑した儘の仁美と弘子が取り残されている。
「都子さん、ずっと見てたんですか?」
知佳が非難がましく云うと、都子は涼しい顔で、「知佳ちゃんと蓮ちゃんがプロレス始める辺りからな」と応えた。
「プロレスじゃないですぅ」
知佳は赤くなって否定する。リチャードが去った後ぐらいだろうか。だとしたらつい先刻の事である。リチャードにも見られていたのだろうか。
「お友達に不審がられとったな。場合に依っちゃあ能力のことゆうてもえゝ思うけど、まあ、慎重にな」
都子の言葉に知佳は目を剥いた。
「云っても好いのかな……」
「よう考えや。前にもゆうた気ぃがするけど、秘密を抱えさせる相手は少ないに越したことはないからな。相手にも責任押し付けることになる訳やし、漏洩のリスクも高まるから。絶対あかんとは云わんけども、何しろよう考えるこっちゃ」
参考になる様なならない様な助言に、知佳は悩ましく眉根を寄せた。
「仁美は好いけど、弘子は不安だな。でも、弘子だけ仲間外れにもしたくない。だから、云わなくて好いと思う」
蓮が冷静に答える。結局そう云う結論に落ち着くんだなと、知佳は納得した。蓮は重ねて、持論を展開する。
「秘密抱えているのって、なんか後ろめたい気もするけどさ、知らせて仕舞えばあの子達にも、悩んだり苦しんだりさせちゃうかも知れないし、だから、友達だからこそ、教えなくて好いと思う」
「うん。そうだよね。諒解った」
「扠」結論が一致したところで、都子は手を打ち鳴らしながら稍大きめの声を出して、仕切り直す。「二人を呼んだンはな、お仕事の話やねん。まあうちが呼ぶ時点でお仕事なんやけど」
そう云って二人を順に見る。
「ダンタリオンことダニエル・スースが、事実上の釈放や」
「えっ
知佳と蓮の声が揃った。
「X国に打診しとってんけどなぁ。あんま興味示さんかった、云うか、X国に対する加害行為の証拠が無い、ちゅうことなんかな、兎に角彼の国でもなんとも出来ん云う事で、日本の司法でも限界あるし、リチャードパパと同様、国外追放が精々やねん」
「そんな! またリチャード君が狙われちゃう!」
「せやなぁ。それも何処まで当社でフォロー出来るか、若しくはする必要あるか、云う問題でもあんねん。基本忠国は民間の営利企業なんで、依頼の無い活動はせぇへんし、すんなら全部自腹、会社の持ち出しになんねん。慈善団体ではないからなぁ、これは難しい」
「そんなぁ……」
知佳は泣きそうになる。結局知佳は、リチャードを護ってあげられないのか。
「まあ、ピートの養子でいてくれる内は、ピート護衛の案件の中で、一緒に護衛出来るけどな。それも飽く迄ピートのオマケやから、万全とは行かれへんわなぁ。ダンがY国帰ったら能力制御の機械も取り外してまうやろし、もっかい同じ手で来られたらリチャードの精神も保たないかわからん、――っちゅうか、若しかしたら知佳ちゃんがターゲットになる危険性もな……」
都子の言葉に知佳の表情が固まる。蓮はそっと、知佳に身を寄せる。
「――っちゅう訳で、まあ社員は護らなあかん――社員ちゃうけどな――身内は護らんなってことでや、知佳ちゃんには暫くうちが張り付くんで、その辺ヨロシクやで」
「それは……好いんですけど……」
「最悪知佳ちゃんがヤられた時には、リチャードのサポートが必要かも判らんので、リチャードにも貼り付く必要あんねんけど、年頃男子やし、そこはうちより顎兄にして貰うけどな」
「えっ、じゃあ……」
「二人とも条件、リスクは同じなんで、対応も同等になるわな。詰まりリチャードも保護せざるを得ない」そこ迄話すと、都子はにっこりと笑った。「結局のところ、君の婚約者も全力で護るしかないねん。会社の自腹でな。まあそんな訳なんで、有り難く護られとき」
「ふぃっ! フィアンセってなんですかぁ
真っ赤になった知佳が全力で声を挙げると、都子はゲラゲラと笑い出した。蓮まで何だかニヤ付いている。未だ恋人とも呼べる状態では莫いし、知佳の気持ちだってそこまで盛り上がっている訳ではないし、抑々ほんとに中一だし。照れ臭いとか恥ずかしいとか、そんな感情を遙かに追い抜いて仕舞って、如何表現したら好いかも判らない。
「微力ながら、あたしも二人の未来を護るからね!」
「何なのその表現!」
蓮まで便乗して面白がっている。折角リチャードの想いを受け入れても好いかと云う気持ちになっていたのに、また気持ちが挫けて仕舞いそうだ。何より心臓の鼓動が、許容限界を超えている気がする。顔の毛細血管は、はち切れそうだ。
「ゴメンて。然し初やなぁ。可愛すぎて揶揄ってまうねんね。ホンマ堪忍な」
都子が笑いながら、知佳の頭をポンポンと撫でるのだけど、知佳の火照りは収まらない。凝と下を向いた儘立ち尽くしている。
「ミヤちゃんも意地悪だよ。リック護ってあげられるんだったら、最初からそう云ったら好いのに」
「そんなん、有り難味薄れるやん。云い方、云う順番、大事やで」
「何それ。計算てこと? ミヤちゃん狡い」
「みんなしとぉことやて」
都子は困った様に笑いながら、蓮を宥めている。蓮は知佳の為に抗議してくれているのだろうか。でも都子の云う事も判る。知佳は結局、リチャードが護られていると知って嬉しかったのだ。それも多分、都子の云い方、云う順番の御蔭で、嬉しさ倍増だったのだと思う。
「蓮、好いよ、ありがと。都子さんも有難うございます。あたし、嬉しかったです。多分最初から云われるより、ずっとずっと嬉しく感じられたんだと思います。――都子さんの愛を感じます」
「ほうや。愛しかあれへん」
「うさんくさぁ」
蓮のツッコミに、都子は笑いながら「なんでやねん」と返している。何だか知佳も、くすっと笑って仕舞い、途端に心も軽くなる。顔の火照りも引いている様だ。この二人には、知佳は助けられてばかりな気がする。佳い友達と、佳い先輩だと思う。仁美と弘子も含めて、知佳は周囲の仲間に恵まれているのだと思う。悩んでいる時も、落ち込んでいる時も、時に親身に、時に軽妙に、知佳に寄り添い、支えてくれる。有り難い事だと思う。稍もすると暗く後ろ向きになって仕舞い勝ちな知佳が、日々明るく暮らしていられるのも、こうした稀有な友人達の御蔭なのだ。揶揄われるのだって、結局知佳の為になっている気がする。感謝の想いで一杯である。
「愛しかおまへんのやぁー、とか、全く信憑性ないよね」
「まてや! 誰がほんなコッテコテの大阪弁でゆうとるかい! あれへん、云うとるやろがい!」
「同じでしょお?」
「ちゃうわっ! おまへんなんか、今日日ジジババしか使わんわ! 後は精々、一部の芸人とかか? 若い子で使とんのン聞いたこと莫いわ」
何だか関西弁の事で揉めている。蓮は関西人じゃないんだから、無理して真似しなくて好いのに。と云うか、真似し損なって不評を買っているのではないのか。
「都子さん尼崎だから、大阪弁じゃないんだよ、蓮」
「ほうや。知佳ちゃんが正しい!」
蓮は「えー」と云いながら、頬を膨らませている。
「大分話逸れてもうたやないけ。んなこと、どうでもえゝねん。君等とうちが無駄に齢取るばかりや。――あんな、知佳ちゃんの伝心場、若しかしたらホンマに役に立つか判らんて」
「え?」
何事かと都子を見上げ、そして蓮を見る。蓮は、老けるのやだぁとかぶつぶつ云っているが、それに構わず都子は話を続ける。
「一回侵入されてもぉたら関係なくなってまうみたいやけどな、ダンの能力、伝心能力者に対してしか利かん云うとったやんか。侵入する時には、やっぱ伝心場の影響が出てまうみたいなんやて、神田っちの分析に由れば、やけどな」
「じゃあ、あたしは取り敢えず大丈夫?」
「この前みたいに、能力消えてもうたりせんかったらな」
都子はにかっと笑うのだけど、知佳は若干不安になる。自分の能力がこの先復消えて仕舞う可能性は何の程度なのだろう。消えない自信なんか無い。
「まあだいじょぶやろ。問題はリックやて。知佳ちゃん流石に、お家から石和温泉迄は広げられへんやんなぁ? まあ一時的に広げられたとしても、夏ぐらい迄ずっと維持とかは無理やんか。つか、もうすぐ石和温泉から北海道行ってまうしな」
「え! 北海道行っちゃうんですか!」
知佳は、自分の声が思いの外悲壮感を帯びているのに、自分で驚いていた。蓮が背後からぎゅうと抱き締めて来る。首元に回された蓮の腕を、そっと両手で掴む。
「何処行こうとも、うちには大して変わらんねんけど、まあそやな、伝心場は無理やろなぁ」
「そんなの、ミヤちゃんがずっと転位門で繋げとけば好いんだよ」
蓮が知佳を抱き締めた儘、無茶で無責任な事を云っている。そんなの無理に決まっている。
「無茶云いなや。お腹減るやん」
都子が云うと余り無茶に聞こえないけど、でも多分そんな軽い話じゃないんだろうなとは思う。
「相手の戦力立て直しが中々進んどらんとは謂え、石和温泉は割れとるからなぁ。流石に何時迄も彼処には居れんやろ。夏迄一旦北海道行って、その後川崎に来る予定やねんて。北海道では特定されへん程度にテケトーに痕跡残して、相手の目を攪乱するとかも云うとったかな。どこ迄効くか判らんけどな」
「そうなん――ですね。諒解りました。大丈夫です」
未だ心は動揺している。リチャードが、ずっと遠くに行って仕舞うのだ。蓮の腕を掴む手に、知らず識らず力が籠る。蓮の腕もそれに応えて、知佳を強く抱き締める。
「北海道の何処?」
蓮が訊いているが、そんなの聞かされたところで知佳には判らない。北海道の土地勘なんか無い。
「阿寒湖ゆうとったな。温泉もあるで。マリモも居んで」
「やった! 温泉行く!」
「蓮ちゃんはそればっかりやなぁ。まあ、ピートに頼んどくわ。うちらが温泉呼ばれとけば、それもえゝ感じの痕跡ンなるか解らんしな」
そして都子は愉快そうに笑った。蓮の反応を期待して、温泉と云った癖に。蓮は知佳に抱き付いた儘、背後でぴょんぴょん跳ねている。バランスを崩して蹌踉け掛けるので、出来れば止めて欲しい。
「そんな訳なんで、暫くはリックを伝心場で護るんは、ちょっと難しいねんね。まあ
「あ、そうか、ピートさんも伝心能力者だ」
「元々そっちが護衛の主ぅやからな、忘れとったらあかんど」
知佳は思わず赤面したが、都子はケラケラと軽く笑った。
「取り敢えず二人には、携帯用の伝心妨害装置を常備して貰とるんで、そんでダンに対する防御は出来とる筈やけどな。スイッチさえ切らなんだらな」
一旦は安心と云う所か。その妨害装置の電池さえ切れなければ、ダンタリオン――ダニエルは二人に手出し出来ない筈である。
「電池どのくらい保つんですか?」
「さあて。三箇月くらい云うとったかな。ギリギリ足らんぐらいやね。まあ二台あるし、交代で電池交換すりゃ何とかなるやろ」
結局のところ、差し迫った危機ではない様で、知佳はほっとした。リチャードが遠くへ行って仕舞うのは心細いけど、都子と蓮の能力があれば、そんな距離も関係なくなって仕舞う。
「なんかあれば復、こないして呼ぶしな、取り敢えずは日常に戻っといてかまへんで」
「阿寒湖遊びに行きたい! 行ったことない!」
蓮がウキウキ声で要望すると、都子はにっこり笑って、「そやな」と云った。
「うちも北海道は未踏の地ぃや。ピート達の引っ越し済んだら、春休み中に三人で、遊び行こか」
「わぁい!」
蓮は心底歓んで、くるくる回ったりしている。何時の間にか知佳の背後からは離れていた。そんな純粋に喜んで居る蓮を見て、知佳も何だか嬉しくなって来る。
「どんな温泉だろうね?」
「阿寒湖温泉はね! お肌ツルツルになる炭酸水素塩泉とか、ポッカポカによく温まる硫黄泉とか、ごく普通の入りやすい単純温泉とかね! 色々あるんだよ! 宿に依って引いてる源泉が違ったりするから、先ずは入りたい温泉の種類を決めてから宿を探して――」
「うわぁ……そうなんだ。流石は温泉少女、詳しいね」
瞳をキラキラさせながら物凄い勢いで語る蓮に対して、知佳は稍引き気味に合の手を入れる。蓮の温泉愛は尋常ではない。
「マリモとお話出来るかな……」
温泉の効用やら魅力やらに就いて、滔々と熱く語り続ける蓮を、目を細め、薄い微笑みを湛えて見詰めながら、知佳は遠い北海道の湖に想いを馳せていた。
二十七 定期検診後の研究室で
リチャードの人格が帰って来てから一週間後の日曜日、経過観察の為の検診を終えて、一同は何時もの研究室に集っていた。終業式からほんの四日しか経っていないのだけど、知佳は何だか物凄く懐かしい想いに満たされている。周りに誰も居なければ、リチャードに抱き付いて再会を喜びたいところだけど、流石にその衝動は理性で強く押し留めている。――尤も、仮令二人切りだったとしても、矢張り知佳にそんな行動は取れないと思うけれど。
「まあそんな感じで、色々解って来た事、未だ未だ解らないこと、様々ある訳ですが――」
先刻から康代が何かを説明している。その脇には佑香も控えている。この場に来て居るのは、リチャードとピートは勿論、知佳と蓮と都子と、神田とクラウンとユウキ、そして康代と佑香。久し振りのオールキャストである。伝心能力の研究、空間術の研究、及びダンタリオンの能力に就いてなど、話は多岐に亙っている様なのだけど、知佳は早い段階で理解を放棄して仕舞っている為、康代の言葉は環境音楽か何かの様に、頭の中を素通りして耳から耳へと抜けて行く。解る人が理解してくれゝば好い、それは自分の役割ではないと、割り切って仕舞っているのだ。
「鳥渡意外なのは、ピートさんとリチャードさんの能力、最初に逢った時から殆ど変化ないんですよね」
リチャードの名前が出たので、知佳は
「リチャードさんに就いては、ゼロでは無いんですが、大分緩やかですよね。他の皆さん――と云っても、知佳ちゃんの伝心と、クラウンさんの幻覚能力位しか計測出来てないんですけど、其方の方はこうしている今でもぐんぐん強化されて行っているんですよ。所謂、神田さんの能力成長促進効果で」
神田が、
「石田さん……そうですね、石田さんにはお伝えしてなかったかも知れません。この効果に就いては、社外秘の扱いだったのですが……」
「あっ! そうだったんですね、すみません! 佑香ちゃん、ピートさん、リチャードさん、忘れて!」
神田は苦笑しながら、「いや、云って仕舞ったものは仕方ないです。佑香さんとは守秘義務契約がありますし、ピートさんは早口で難解な日本語解っていないかも知れませんので、問題はリチャード君だけですかね」と云って、再びリチャードに視線を遣る。
「尤も彼が口外するか如何かよりも、再度ダニエルに侵入された際の事が心配ですね」
康代は暫し腕組みして、何か考え込む様に黙っていたが、軈て緩りと、「社外秘としている理由って」と神田に向けて訊く。
「それって、要は敵方まで強化して仕舞う、その効果が知られることで神田さんの身柄が狙われるかも知れない、とかそう云う事ですよね。であれば、大丈夫かも」
「如何云う事ですか?」
皆が注目する中、康代は胸を張って説明を始める。
「今も鳥渡云い掛けていた様に、その成長促進効果が、リチャード君には殆ど見られないんですよ。ピートさんに至っては完全にゼロです。サンプルが二例なので全く仮説の域は出ない、と云うか殆ど妄想レベルの話ではあるんですが、若しかしたら神田さんのその効果、日本人にしか利かないかも知れません」
「何そのご都合主義!」
蓮が叫びながら立ち上がるが、顔は笑っている。
「リチャードさんは混血だから、一寸だけ効果あるのかなって。でも多分、日本人のお母さんは非能力者でしょ、だから半分も効果無いんだと思う。本当に一寸だけなの。だからこの情報を漏洩する時は、ちゃんと日本人にしか効果ないってところまでセットで漏洩してね」
「いや――漏洩なんかしませんよ」
リチャードは康代の勢いに圧倒されながらも、漸くそれだけ云った。
「本当はもっとちゃんとサンプル沢山揃えて、比較評価したいんですけどねぇ。それでうっかり敵さん強化しちゃっても拙いし、
こうなって来るともう知佳にはお手上げである。再び康代の言葉が、風の音の様に意味を喪失して行く。一所懸命聞いているのは、蓮と、佑香と、神田と。ユウキも必死に耳を傾けているけれど、理解出来ているのか知ら。ピートは言葉が
〈知佳さん、途中から聞いてないでしょ〉
リチャードから伝心が飛んで来て、知佳は頬を紅潮させる。
〈バレた! だって難しくって! ――あれ、そう云えば伝心の妨害装置、今は持ってないんだね?〉
〈吁、伝心場があれば大丈夫って聞いてたから、今は電源切ってるよ〉
〈そうなんだ。でもそれって、「大丈夫かも」って感じで聞いてるよ。本当に大丈夫か如何か判らないって〉
〈そうなの? 入れといた方が好いかなぁ……〉
危険は避けて欲しいけど、こうして話が出来なくなるのは厭だったので、知佳は〈今日は好いんじゃないかな。ギリギリまで拘留してるって聞いてるし〉と返した。返しながら気付いた事だが、そう云えばダニエルは未だ、警察の手にある筈なのである。そして少なくともY国に帰る迄は、体内に埋め込まれた妨害装置が有効なのだ。都子は釈放だと云っていたが、拘留期限は延ばしに延ばして二十日間あるそうで、今日は未だ一週間目なので、四月の上旬位迄は大丈夫な筈なのである。せめて何かしらの罪が立証出来て、起訴出来たりでもすれば、国外退去もずっと先延ばしになるので、リチャードや知佳にとっては安全な期間が長くなる。但、起訴したところで実刑とはならず、国外退去の流れは変わらないだろうとのことで、それは結局問題の先送りに過ぎないのかも知れないが、その間に色々対策が練れるのであれば、それもありかも知れないとは思う。
〈そうか、じゃあ当面は、敵の読心に対する用心だね。だったら伝心場で十分だ〉
リチャードは知佳に向けて、にっこりと笑い掛けた。知佳も笑い返すと共に、顔が熱くなるのを感じる。
〈知佳さんがずっと近くに居てくれたら、ずっと安全なのになぁ〉
〈ばか……出来る訳無いじゃん〉
〈違うから!〉
〈何が?〉
蓮に何か云われる前に、思わず過剰反応して仕舞って、却って蓮を喜ばせて仕舞った様だ。蓮は何だか嬉しそうに微笑んでいる。
〈康代ちゃんの話聞けよぉ、訳解んないけど面白いぞ!〉
蓮が知佳とリチャードに向けて、伝心を飛ばして来る。
〈解んないのに何が面白いのよ!〉
〈蓮ちゃんは流石だなぁ。理解出来なくても面白いって感じられるんだね。本物の天才ってこんな感じなのかな〉
〈ひゃあゝ! リックなにそれ! あたし惚れても好い
〈蓮ダメ!〉
知佳の慌て様に、蓮がゲラゲラと笑う。見ると横で声を殺して、腹を抱えてククッと声まで漏れている。そんなに全力で揶揄って来ないで欲しい。知佳は真っ赤になって蓮を睨んだ。
「あー、ごめんね、中学生には難し過ぎたかな!」
流石に康代の眼にも留まった様で、話を中断して済まなそうに詫びて来る姿に、知佳は首を竦めて恐縮した。
「ごっ、ごめんなさい!」
「いいよぉ、伝心でお話してたのかな? 難しいお話で退屈させちゃったよね!」
康代のニコニコ顔が、却って知佳の胸に刺さる。
「そっ、そんな事は――」
知佳が言葉を詰まらせた時、突然空気が変わった。
康代と佑香以外の全員が、一斉に立ち上がる。何だこの感じは。能力者にしか感知出来ない何か。都子とユウキが何かしている。神田がぐるりと一周見渡し、始点に戻ると同時に、部屋の中央に何かが茫と立ち現れた。
〈なるほど、中々に手強い組織ですね〉
茫とした何かは、茫とした儘、伝心場に伝心を乗せて来た。
〈そこにいるピートは、私達の獲物です。また、リチャードは私達の身内です。いずれ、取り返しに参りますよ〉
「Y国から来とんな」
都子が短く云う。若しや空間術だろうか。何時だったか空間術の使い手はY国に居ないと神田が云っていたのだけど、その後発現したのだろうか、それとも神田に感知出来ていなかっただけか。
康代は恐怖と好奇の入り混じった様な表情で、部屋の中央の何かを凝と見詰めている。佑香は椅子の背凭れを確り握り締めて、真っ蒼な顔を背ける様にしている。彼女達にはこの得体の知れない者だけが見えていて、声は聞こえていない筈である。
「わ、空間転位ですか、これ? 若しも彼方にも空間術師が居るとしたら、都子さんの亜空間も、もう安全ではなくなって仕舞うんですか?」
知佳が震える声で訊くと、都子は難しい顔をして、右腕を胴に巻き付け、左手を口許に持って行って、何かを凝と考え始めた。
「都子さんの能力と似ている様で、鳥渡違う様ですね。本体が遠くに居るので能く解らないですが……」
神田が悩ましげに眉根を寄せる。
「何れにしても」そこ迄云って、神田は伝心に切り替える。
〈二人は決して其方に渡しませんよ。どうせ取り返した所で、あなた方は二人とも粛清して仕舞う心算なのでしょう? 人道的立場から、迚も認められるものではありません〉
茫とした影は、普通に笑い声を立てた。
「彼は、ダニエルと共に諏訪大社に潜伏していた者達の内の、一人ですね。我々がダニエルを確保した時には、既に姿を晦ましていたのですが、Y国に戻っていたのですね。若しかしたら元々この能力で、密入国していたのかも知れません」
「なんでこんな、ぼんやりした感じなの?」
蓮の問にはユウキが答える。
「僕が抑えてる」
「ユウそんな事まで出来るんだ……凄いね。どんな理屈?」
「知らないよ!」
「うちも加勢しとんで」
考える体勢の儘、都子が言葉を添えた。二人で抑え込んでも、こんな感じで出て来た上に、伝心まで出来るのだ。若しかしたら物凄い強敵なのではないだろうか。知佳は己の両肩を抱えると、ぶるっと身震いした。
〈リチャード。君の父親が首を長くして待っているよ〉
敵はリチャードを懐柔する心算か。知佳は心配になってリチャードを見る。リチャードは凝と、影を睨み付ける様にしている。知佳も一緒に影を見る。影は此方に出現し切れていない為、如何やら伝心場の影響を受けておらず、心の中が見える様だ。
〈リチャード君〉
リチャードは視線を影から離さずに、唯小さく頷いた。相手は伝心能力者である。伝心能力者の心を覗けば、此方の心も筒抜けになる。
〈父さんは其処に居ないね。若しかして――〉
〈ほう、私を読みに来たのか? それ以上は踏み込まない方が――うん? リチャード、これは――〉
〈僕の心は見せないよ〉
如何云う事だろう。リチャードは相手の読心を防御出来るのだろうか。
〈お前たち……父さんを……〉
リチャードは下唇を噛んだ。
〈リチャード君?〉
〈そうか――よくわかったよ。お前はクリーク家の敵だな〉
〈私の心を読んでいるのはリチャード、君ではないな。これは如何云う事だ? 私の知る限り、そちらの伝心能力者は、リチャードと、ピートと、あとは日本人少女――私を読んでいる此奴は誰だ――ジュリアスとは一体――〉
そうか。ジュリアスが味方してくれているのだ。知佳はリチャードを見る。これは確かにリチャードだ。表に出て来なくても、ジュリアスは伝心能力で外部に干渉出来るのか。それはある意味で脅威かも知れない、だけど今この場では、迚も頼もしく感じる。
〈色々教えてくれてありがとう〉
リチャードはそう云うと、敵の中からジュリアスを撤退させた様だった。敵は明らかに動揺している。
〈リチャード、何をしたのか知らないが、この行為は我々に対する明らかな敵対行動だ〉
〈今更何云ってんだ。最初から敵視していた癖に〉
〈とにかくピートとリチャードに対しては、何れ然るべき対応を取らせて頂く。心しておき給え〉
そう云うと、影は忽然と消失した。
「終わった?」
佑香が薄眼を開けて、小声で都子に確認している。
「取り逃がしてもうたなぁ」
都子は呑気そうに云うけれど、瞳は笑っていない。
「色々な事が判りました。ジュリアスの御蔭です」
リチャードが控えめに笑いながら、部屋の中央へと進み出る。
二十八 二人の協同作業で
「先ず、如何してこの場所が分かったのか、と云う点に就いては、ダニエルからの最終報告に基づいていた様です」
皆を前にして、リチャードが物怖じもせずに発表している。何だか知佳は、ジュリアスの面影を感じている。
「ダンタリオンが最後に居た場所は、此処ではなくてカウンセリングルームだったんですが、そこを基準に遠隔で探していた様ですね。クラウンさんの幻影スクリーンですか、あれと同じことが出来る能力者が居る様です」
「Y国から見られてたんか」
クラウンは苦々しい表情をしている。そう云うクラウンも、Y国迄覗きが出来る筈である。ピートの奥さんを連れて来る為にY国から探し出したのは、他ならぬクラウンなのだから。
「余り鮮明ではなかった様なんですが、それでもこれだけの人数が集まっていれば、略確実だろうと考えた様ですね。実際当たっていた訳ですが」
「遮蔽の研究しなくちゃだぁ! クラウンさん、ご協力願います!」
そう叫ぶ康代の口調は、なんだか愉しそうである。クラウンはなんだか嫌そうな顔をしながら、「えゝ? まあえゝけど……」などと返している。
「それで、転位の様な事をして来た能力者ですが、あれは蓮ちゃんの転送に近い物だったようです。瞬間移動の方ですね。でもユウキ君と都子さんに邪魔されて、上手く出て来られなかった。――あれは如何云う状態だったんですか?」
「知らん」
都子がそっけなく返す横から、神田が「そうですねぇ」と説明を試みる。
「転送能力でも、空間の操作が行われていると云うのは、今方に佑香さんが研究されている最中なのだと思いますが、僕が見ていた限りでは、此方の空間への対応付けが上手く出来ていなかった様ですね。都子さんが空間属性を微妙にずらして、かつ、ユウキ君がその空間の境界にバリアを張っていた様です」
「何や解らんけどそんな感じや」
「ミヤちゃん適当に云ってるだけでしょ」
「あっ、蓮ちゃん種明かししたらあかん!」
都子と蓮はケラケラと笑い合っている。あんな恐ろしい事があった後でも、この二人は何だか軽薄な空気を醸造して仕舞う。知佳なんか直ぐ悪い方向へと考えが行って欝々として仕舞うので、この二人の作り出す雰囲気には救われっ放しである。
「扠、彼等の体制ですが、ダニエルは矢っ張り下っ端の工作員だった様です。僕如何やら、二年前に一回遇っている様なんですね。父が自家に連れて来た事があるんです。父が何の程度諒解していたかは判らないですが、如何やらその時に、僕は侵入されていた様です。最近迄ずっと気付かなかったんですが、何となく、監視されているなと感じることは何度かありました。だから、伝心で同期されているのかな、何て感じに考えていたんです。ずっと中に居るなんて、思いもしませんでした」
知佳はリチャードを抱き締めたい衝動に駆られて、自分の肩を抱いた。ダンタリオンに絡め捕られていたリチャードの心を思い出し、嫌悪の感覚が蘇る。蓮がそっと肩に手を置いて来て、少しだけ気持ちが落ち着く。先刻の軽薄さとの落差が激し過ぎるよと、蓮の手に自分の手を重ねながら知佳は思う。
リチャードはそんな知佳に優しい笑みを向けてから、独演を続ける。
「諏訪大社に潜伏していた訳ですが、其処には五人程の工作員が居た様です。ダニエルはどんな手を使ったのか、ちゃんと事務員の募集に応募して採用されているんですが、後の四人は幻覚を使って無理矢理潜り込んでいた様です。四人は皆ダニエルより階級が上の者達ばかりで、ダニエルからの報告を元に作戦会議をして、其処での決定に従ってダニエルへ指示をしていた様です。時々意識が飛んだ様になって、何人かの姿がうっすらと視えるって知佳さんが云っていたのは、その会議や指示の様子を視ていたんだと思います」
「そうなんだ。――あのね、先週あたしが視た時には、何だか揉めている様な感じだった」
「はい。揉めていた様です。潮時だから一切合切引き揚げる可きだって云う人と、今こそ一気に攻撃を仕掛ける可きだって云う人と、今迄通り静観しておく可きだって云う人と、ダニエルだけ残して一度帰国しようって云う人と。皆バラバラの主張していて全く何も決まらなくて、ダニエルはずっと結論が出るのを待って居るしか出来なかった様ですね。で、そんな所へ神田さん達が踏み込んで、四人は慌てゝ瞬間移動で逃げちゃったと云う訳です」
「そうなんですよね。結局ダニエルしか確保できませんでした」
神田が残念そうに呟く。
「ダニエルが残っていたのは、矢っ張りY国からだとダンタリオンの操作が出来ないからなんでしょうね」
「出来ると思うけどなぁ?」
都子の突っ込みにリチャードは吃驚した顔で振り向く。
「人格の遠隔接続に使てたん、うちの転位門と同じモンやったで。同じもんなら距離関係あらへんねん。その辺の自覚無いんかなぁ、若しかして」
「そうかも知れませんね……いや、ダニエルに自覚があるかどうかは不明ですが、少なくとも先刻の人は、距離の制約があると思っていました。彼の瞬間移動にも距離制限がある様なので」
「それもホンマは無い筈やねんけどな。蓮ちゃんの転送かて距離関係あらへんねんもん」
「えっ、そうなの? でもあたし、遠過ぎるとイメージ湧かないよ」
「そうなん? 空間操作に距離関係無いねんけどなぁ。なんしろ宇宙の彼方とかでも、すっと行けてまうねんから」
「なんですと!」
叫んだのは康代だった。何だかわなわなと震えている。都子はしまったと云う様な顔をした。
「んまあ、それはまた後でな、康代ちゃん」
「待ってます!」
康代の眼がキラキラして、顔は真っ赤っ赤に上気している。その儘上せて倒れて仕舞いそうな勢いだ。
「お腹減るけどな」
そう云って都子は笑った。若しかしたら都子の能力が、特別に強いだけなのではないだろうか。それに遠いとより一層お腹が減ると云うのであるなら、矢張り距離は関係あるのではないか。――そう云えば、以前都子は火星の風景を出したことがある。あれは若しや本物の火星だったか。その時は特に空腹を訴えたりして居なかった様でもあるし、矢っ張り遠いからお腹が減ると云う事ではないのかも知れない。結局知佳には、よく解らない。
「吁、何や話の腰折ってもうて、堪忍な。続けてんか」
そう云って都子は黙った。リチャードはこくりと頷いて、話を続ける。
「四人は階級的には多分、同じなんだと思います。若しくは、先刻の人だけ階級が上で、後の三人が同じなのかも。でも作戦会議とか、余り上下を感じられなかったんですよね。先刻の人――名前はノワール・セーヴェルって云うんですが――その人が、何となく場を仕切っている様な感じではありました」
「同じ階級集めて、リーダーだけ決めているのかも知れないですね」
神田の説に、リチャードは同意を示した。
「そう、なんかそんな感じでした。対等なんだけど一歩退いてる、みたいな」
「残り三人の名前、判りますか?」
神田の問いに、リチャードは記憶を辿るようにして答えた。否、ジュリアスに確認している間だったのかも知れない。傍目には区別付かないなあと、知佳は感じた。
「成程、全員聞き覚えのある名前ですね。X国に提供した資料に名前があったと思います」
神田はそう云いながら、手元のPCをカタカタと操作した。
「そうですね、四人とも少尉となってます。階級的には同じ様ですね」
資料の写しを持っている様だ。Y国のことも可成把握出来て来ている様である。
「最終局面で完全に意見が割れて仕舞った事もあってか、このチームが再び集結されることはなさそうです。ダンタリオンの作戦は完全に梯子を外された形ですね。Y国は失敗には、とことん厳しいんですよね……」
リチャードの言葉が最後の方はトーンダウンして仕舞って、聞き取り辛かった。リチャードは何に苦悩しているのだろうと、知佳は考える。父親の事だろうか。ノワールから父に就いて、何の様な情報を得たのか。
「リチャード君、お父さんは……」
つい訊かずには居られなかった。リチャードは顔を挙げて知佳を見る。その瞳には悲しみが湛えられている。
「今は独房に入れられている。近い内に処刑……」
「何処」
蓮が短く質問を投げる。リチャードは首を横に振る。
「駄目だよ、助け出したりなんかしたら、皆にも矛先が……それに、父が今何を考えているのか判らない。助け出しても、失敗を取り返そうとするかも知れない」
「厄介な話やなぁ。神田っち、如何する?」
都子が神田に判断を仰ぐ。神田は難しい顔をして腕を組んでいる。
「それにやな、リックパパの問題もあるけど、リック自体も危ういねんで。リックも
知佳は
「リチャード君。ジョセフ氏の処刑予定日なんかは判っていますか?」
「今月末かと」
神田の質問にリチャードは短く答える。今月は後二日だ。一同に緊張が走る。
「ギリギリで偽情報を食わせるか――クラウンさん、出来ますかね」
「あっちにも幻覚遣い居ますやんか。中々ハードル高いと思いまっせ」
「だからギリギリで遣るんですよ。余り時間を掛け過ぎるとバレますから」
「何する気ぃですか」
然し神田は考え込んで仕舞って答えなかった。皆の視線が神田に集中する。
「処刑方法は、銃殺でしょうか。――流石に判らないですよね。鳥渡此方でも手を尽くして調べてみます。――都子さん、クラウンさん。お二人の力は必須です。あと――」
神田が振り向く。その視線は知佳ではなく、蓮に向いていた。
「ちょっと荷が重たいですかね……」
「やるよ!」
蓮は勢いよく立ち上がった。眼に力が籠っている。こういう時の蓮は頼もしい。
「蓮、危ないことはしないでね」
「ミヤちゃんいるから大丈夫!」
なんだそりゃ、と思ったけど、突っ込みはしなかった。都子は苦笑していたが。
「リチャードの父親を助けるんですか。余りお奨めはしませんね。でもまあ、大分神経やられているみたいだし、彼には必要な措置かも知れないですね」
突然の意図しない声に、知佳はぎょっとしてリチャードを見た。それは、リチャードではなかった。
「ジュリアスさん? 如何して……」
「知佳さんお久しぶりです。大分参ってますよ、リチャード。また暫く僕が――」
ジュリアスの顔が僅かに歪んだ。見るとユウキがジュリアスを睨み付けている。ジュリアスが何か云い掛けて、かくんと頭が落ち、また緩りと首を擡げる。
「あっ……ユウキ君、有難う。――ジュリアス、出て来るのは駄目だ。約束しただろう。協力には感謝しているから」
リチャードが――多分戻って来たリチャードが、自分のお腹の辺りに向かって話しかけている。
「なんか大変だね、リック」
蓮が心配そうに声を掛けている。それは知佳の役割である可きだったと、他人知れず悔やむ。
「うん、気を付けないとね……気持ちが弱ると出て来ちゃうから」
力莫く笑うリチャードの顔には、濃い疲労の影が差している。
「ユウキ君、怖いって」
弱く笑いながら、リチャードがユウキに告げると、ユウキがやゝ慌てた様に「えっ、ご、ごめんなさい」などと謝り出す。
「僕じゃなくて、ジュリアスがね。君のこと怖がってるよ」
弱々しくも愉しそうに笑っている。
「はゝん、やっとユウの実力を理解したか!」
何故か蓮が胸を張っている。何時もは揶揄い対象なのに、今回は推しモードなのか。でも知佳も、ユウキの頼もしさは犇々と感じている。チームで一番能力が高いのは、ユウキだとさえ思っている。矢張り血筋が好いのだ。当のユウキは、何だかドギマギしながら、蓮とリチャードを交互に見ている。蓮に褒められ慣れていないのだ。そんな所作が少し可愛くて、知佳は優しく微笑む。戸惑うユウキを神田も優しく見詰めている。
「ユウキ君、ジョセフ救出の当日は勿論、君のご助力も願いますよ」
「あ、はい」
彼方此方から求められて、頼られて、何だかユウキは満たされた顔付きになる。この子は自分の能力で悩んだりしたことはないのだろうな。普通に人の役に立つ能力だし、時には命だって救えるし、その気になれば百人だって千人だって、彼の能力で護ることが出来るだろう。凄いなと云う憧れはあるけれど、羨ましいとは思わない。彼が如何感じているか、何の程度の自覚があるのかは判らないけれど、知佳には迚もじゃないけど、大き過ぎて背負い切れない。――その点も含めて、ユウキは矢張り選良なのだなと思う。
このチームの一員であることが、今の知佳には誇りであり、支えでもあった。
二十九 刑場を睨んで
日時の特定に就いては、X国からの情報提供もあったのだと云う。三月最後の日である今日、この時刻に、ジョセフが刑場へと引っ立てられて行く、その様子を、固唾を呑んで凝と監視している。
何時もながらの都子の亜空間だ。何時もながらに時間の流れをずらしているので、都子のジオラマで展開されている刑場の様子は、じれったい程のスローモーションである。今年に入ってこんな風に時間を遅らせる事が多い気がするけれど、都子は何時か必ず辻褄を合わせると云っている。何処かのタイミングで、数時間程スキップさせられて仕舞うと云う事だ。余分に年を取るのは厭だけど、時間を飛ばされるのも何だか勿体ないと感じて仕舞う。
先日の話では知佳に声は掛かっていなかったと思うのだけど、何故か知佳も此処へ連れて来られている。結局EX部隊は全員居るのだ。そしてリチャードまで、この場に同席している。これはリチャードが強く望んだ結果である。
足許には安っぽいマネキン人形が転がって居る。全体に雑な造りなのに、顔だけ異様なまでにジョセフに似せられている。これは神田が念動力で造形したものなのだそうだ。神田の念動力と云う奴も、何だか万能感がある。神田は自分で自分の能力を成長促進させたりしているのだろうか。その効果は自己回帰と云うか、自分に向けられたりするものなのだろうか。――自己回帰と云えば、知佳は自分の心の中を未だ見ていない。遣り方は聞いたけど、いざとなると腰が引けて仕舞って、中々踏ん切りが付かないのだ。また明日、また今度と、延ばし延ばしにして仕舞っている。
神田は蓮と都子とクラウンを集めて、何か打ち合わせをしている。知佳も近くに居るので話の内容は聞こえて来るのだけど、どうも着弾の直前位に転送でマネキンと入れ替える心算の様だ。そしてマネキンだとバレない様に、クラウンの認識操作で誤魔化すらしい。
「でも、いつかはバレるよねぇ……」
知佳は会話に参加していないリチャードとユウキに向かって、心配そうに呟いて同意を求めてみる。
「クラウンさんなら数日は集団幻覚保たせられるよ」
ユウキが信頼し切った様な口調でフォローする。そう云えば平日の活動時に、家族や学校にばれない様に集団幻覚を掛けてくれていた。何ならマネキンなんか無くても行けそうな気がして来た。
「そうか。そうだよね……サボりのプロだった」
「サボりのプロなんだ」
リチャードが無為に復唱する。クラウンがちらりと此方を見た様な気がしたので、知佳は首を竦めると、リチャードに向けて、口の前で人指し指を立てゝ見せた。
〈ごめん、迂闊だったね〉
〈あたしも鳥渡軽率だった、ごめんね。平日に仕事してる時、クラウンさんが集団幻覚で誤魔化してくれていた事があったから……〉
〈なるほど〉
知佳とリチャードは、伝心でそう確認し合うと、くすりと笑いあった。それを見てユウキが詰まらなさそうな表情を作る。横で内緒話をされゝば面白くないだろう。知佳は少し、申し訳莫い気持ちになる。
「ユウくんは今日、役割無いんだ?」
知佳は話題を振ってみた。ユウキの表情が少し晴れる。
「うん。まあ、怪我人とかが出た場合の保険だろうね。ジョセフさんとか、若しかしたら長い拘留で弱ってるかも知れないし」
「あゝ、そうだよね。大事な役割だ」
「知佳さんの方が大事だよ。伝心場は如何な案件でも、欠かせないでしょう?」
「え、そうかな」
「そうだよ」
ユウキを励ます心算が、逆に励まされて仕舞った。ユウキは過去を思い出す様に斜め上に視線を向けながら、静かに続ける。
「能力が消えた時は、如何なる事かと思ったけど……ちゃんと治ってよかった」
「治ると云うのかな……能力ある方が異常なのかも」
「異常じゃないよ、人類の新しい進化の形なんだよ、屹度」
「ユウくんまで難しいこと云う……」
知佳の言葉にユウキは慌て掛けたが、知佳がクスクス笑っているので、直ぐに落ち着いた。
「ユウくん賢いよね」
「そっ、そんなことは、ないけど……」
一転ユウキは赤面する。でも同時に、嬉しそうでもある。素直に態度に出て仕舞う辺り、幼さを感じて好感が持てる。知佳にはユウキよりも年下の弟がいるけれど、ユウキの方がよっぽど素直で優しい。交換して貰いたい程である。
「知佳さんはユウキ君のことが好きなんですね」
リチャードが復、思った事をその儘口にして、ユウキの顔の赤みが増す。今度は気恥ずかしそうに下を向いて仕舞った。
「ユウくんを困らせちゃだめだよ」
「えっ、いや別に、そんなつもりは……」
今度はリチャードが慌てゝいる。何だか微笑ましくて、知佳はくふふと笑う。
そんな穏やかな交流を三人でしている内に、如何やらその瞬間が訪れようとしていた。
「では蓮さん、準備は宜しいですか」
「おっけい! 何時でも行けます!」
神田が右手を挙げた儘、凝と息を潜めている。刑場では何人もの兵士達が、筒の長い銃を構えている。その照準の先には、目隠しをされて後ろ手に縛られたジョセフが、塀を背にして立っている。此方の空間ではマネキンに同じ姿勢をさせて、クラウンが背後から腋の下を支える様にして立たせている。
兵士達の指に力が込められ、時間の進み方は更に緩りとなる。少しずつ指が曲げられてゆき、引き金が動き出す。一つ、復一つと、撃鉄が弾けて行き、小さな火花が煌めいて、その後から白い煙が漏れ出て来る。そしてそれぞれの筒の先から、鉛の弾がくるくると回転しながら顔を出す。
更に時間の進みが遅くなる。
総ての銃の撃鉄が打ち付けられた時、最初に発射された弾は既にジョセフとの中間地点を越えていた。
そして神田の腕が振り下ろされる。
「今です!」
刑場の時間は完全に止まり、ジョセフはマネキンに摩り替えられ、クラウンの腕にはジョセフの身体が凭れ掛かった。
「重たっ!」
思わずクラウンが蹌踉ける。
「クラウンさん、直ぐにお願いします!」
「もう、しとります!」
そう叫ぶと、クラウンはジョセフをがっしと抱え、ソファ迄連れて行って座らせた。ジョセフは目隠しをした儘、状況が呑み込めずに狼狽えている。
刑場では再び時が流れ始め、最初の弾丸がマネキンに到達した。
複数の銃弾が次々とマネキンに突き刺さる。マネキンは着弾に合わせて体を彼方へ此方へと振り回しながら、軽く宙に浮き、そしてその儘地面へと倒れ込んで行く。
本来ならジョセフがそうなる運命だったのだ。だが、蓮がそれを変えて仕舞った。
何時の間にか目隠しを取られたジョセフは、後手の拘束もその儘に、刑場の出来事を、固唾を呑んで、瞬きも忘れて、凝と見入っている。其処では自分の身代わりが、ボロボロになって地面に突っ込んで行く。神田に依って拘束が解かれても猶、ジョセフは視線が外せない。額には汗の粒が大量に浮いており、口許は小刻みに震えている。
「父さん」
背後からリチャードが声を掛けた。ジョセフはビクリと戦慄いたが、振り返ることなく、依然として視線は刑場のジオラマに釘付けされた儘である。背中全体で息子を気に掛けつゝも、衝撃的な体験で体が硬直して仕舞っているかの様である。
〈父さん。この人達が、父さんが敵に回していた人達だよ〉
伝心場に乗せたその言葉に、漸くジョセフは顔を挙げ、然し息子を振り返るのではなく、眼球だけで周囲を見渡すと、頭を抱えてその場に蹲って仕舞った。体は冗談かと思う程に、がたがたと震えている。
「リチャード――リチャード――」
息子の名前を幾度と莫く呟き、そして何事かY国語で続ける。リチャードを含め、Y国語はこの場の誰も理解できない。矢張りリチャードとジョセフの父子は、共通の言語を持たないのだ。母親が蒸発したのはリチャードが十歳の頃だったと云う。それ迄は恐らく母親を中心として、会話していたのだろう。母親が居なくなり、通訳も居なくなったのだ。幸いと云う可きか、この父子は伝心が使える為、会話が必要な際には言語の壁を越えられる伝心に頼ることで、お互いの母国語を学ぶ動機を奪っていたのだろう。
〈父さん、此方で云ってくれないと解らないよ〉
リチャードは伝心場で、全員に届く様に伝心を送る。ジョセフも連られてか、伝心場で返すことにより、二人の会話は全員にも共有される。
〈リチャード、お前は如何して、此処に居るのだ。何故父を裏切った〉
〈最初から父さんの遣ることに賛同なんかしてないよ。裏切るも何も、僕は父さんの同志ではない〉
〈お前はY国人なのだぞ。祖国の為に――〉
〈僕は日本人だよ。母さんの戸籍に入ってる、歴とした日本人だ。言葉だって日本語だし、生まれて一度も日本を出たことも無い。Y国なんか行ったことも無い。僕の祖国は日本なんだよ。苗字だって高橋だ〉
〈――そうだ。お前は、ミツエのものだ。だが同時に、俺の息子なんだ。それなのに――〉
〈その父さんの大事なY国がさ、父さんに何をしてくれた? 今目の前で見ていたのは一体何? 父さんは命懸けで尽くしてきた国に、たった一度の失敗を理由に、ゴミの様に捨てられたんだよ! Y国ってそういう国じゃん! いつまで義理立てしてるんだよ!〉
〈口を慎め! お前にとっては確かに外国かも知れないが、俺にとっては掛け替えのない祖国なんだ!〉
二人の親子喧嘩はどんどんヒートアップして行く。それはお互いの存在意義にも関わる云い争いだ。口を差し挟める者など、この場には一人も居ない。知佳はハラハラしながら、それでも唯成り行きを見守る事しか出来ない。
〈祖国でも好いよ、でもその祖国は、ちゃんと正しく導かれているのかな。今の指導者は、Y国の為になっているのかな〉
〈お前真坂、ゲリラと――〉
〈そんなの知らないよ。ゲリラはゲリラで、無駄に内戦巻き起こしているだけにしか見えないよ。彼らが勝ったって正しく統治される気はしない。それに、ゲリラって一枚岩じゃないんでしょう? 幾つかの考え方が違う集団が居るって聞いた事もあるよ〉
〈詳しいじゃないか。だがゲリラは駄目だ。どんな理由があっても。今の政府はな、ちゃんと民主主義なんだ〉
〈どこが! 父さん、目を覚ましてよ! 只の軍事国家だよ! 何処に民意が反映されてるのさ!〉
中学生の意見とは思えない。日頃から、そうしたことを考えざるを得ないような環境に身を置いて居るのだろう。純粋な日本人だとリチャードは云うけれど、矢張り父親の祖国であるY国に対しては、何か特殊な感情を持っているのかも知れない。
〈それにね、父さん。いずれにしてももう手遅れだよ〉
〈どう云う事だ〉
〈父さん、Y国では死んだことになってるよ。見ただろう、銃殺されて、見物に集まっていた民衆が雄叫び挙げて。一体いつの時代だよって思うよ。こんな二十一世紀に、丸で中世の欧羅巴みたいじゃないか。その十字軍だか何とか帝国だかの様な国に、父さんは殺されたんだぞ。あのマネキンを、誰一人マネキンだなんて思っていないんだってさ。皆本物の父さんだと思ってるんだよ。回収されて、埋葬されて、そしてその先もずっとね〉
ジョセフの顔が蒼褪めて行く。
〈げ……幻術使いが、居るのか〉
〈僕を中学に入れたのと同じ様な技だろう?〉
〈そう――か、そうだな――そ、それじゃあ、俺は如何すれば――〉
ジョセフは改めて、周囲をきょろきょろと見回した。
〈此処は何処だ?〉
漸くそこに疑問を持った様だった。此処は何処でもない、都子の亜空間である。実空間よりも早く齢を取って仕舞う、そんな厄介な空間だ。
〈人道的立場より、貴方の救出を致しました。此処は通常より時間の流れの遅い、亜空間です〉
神田が父子の会話に割って入った。
〈Y国では貴方は死んだことになりましたが、貴方の希望次第で、どの国へでも亡命して頂くことが可能です。――尤もこゝ最近は、世界的に移民に就いては厳しい立場を取る国が増えている様ですが、貴方一人の事であれば、可能な限り口添えはさせて戴きたいと思っています〉
神田に依る事務的な説明を、ジョセフは黙って聞いていたが、聞き終わると同時にぼそりと呟く。
〈俺は――俺は、日本は入国禁止だ〉
〈そうですね〉
〈亜空間か――佳い能力だな。Y国では見たことが無い。――そうか、石和温泉でも此処から監視されていたのか〉
ジョセフはその顔に困惑の色を浮かべた儘、腕組みをして凝と考え込んだ。リチャードは心配そうにその横顔を見詰めている。そして知佳は、リチャードを気遣う様にその背中を見詰めている。
〈俺は死んだのだな〉
ジョセフは足許を見詰めた儘、暫く凝と考えていた様だが、軈て徐ろに口を開く。
〈X国人には、なれたりするのだろうか?〉
そして恐る恐る、視線を挙げて神田の顔色を窺った。
三十 これから始まる生活の中で
ジョセフ・クリークはマイケル・ブラウンと名を変えて、X国籍を得た。ジョセフ自体はX国に対して敵対行動を取ったことはないが、Y国の軍人であった過去は当然X国にも報告済みであり、その為常に情報局から監視されることが条件として付加された。それでも彼はX国の国籍を得ることを望んだ。Y国に存在が暴露されないこと、Y国の脅威から保護して貰えることが、当然の権利として与えられると云う点も、彼が条件を受け容れる動機の一部となっていた。
「X国って、実は結構Y国人が居るんじゃないのかな。その内『元Y国人』で一杯になっちゃったりして」
蓮が冗談ぽく云うと、達也は悩ましげな顔で苦笑した。
新宿の外れにある、雑居ビルの三階。佐々木探偵事務所の応接間で、知佳達は紅茶の歓待を受けている。神田に連れられて、知佳と蓮とリチャードはジョセフの顛末の説明を受けている所なのだ。低いテーブルを挟んで、達也の正面の長ソファに、何故だか知佳を中心として、右に蓮、左にリチャードが座っている。神田は側辺の一人掛けのソファに居る。
「一杯になることはないですけどね、昨年のキャロルに続いて二人目ですから。でも、恒例化しちゃったら嫌ですよね」
達也はこゝの探偵二年生で、神田の息子でもある。X国とのパイプを持っていて、今回の亡命に際しても煩雑な手続きを大半代行して貰っている。本来忠国警備が政府経由で持っているチャンネルを使うのが筋ではあるのだけど、使えるルートがあるなら使う可きだと、まあ平たく云えば押し付けられた様な形で、行政の代行として動いて貰っていた様なのだ。
「お偉い人達は、手を汚したくないんですよね。なんかあった時に民間がしたことにして仕舞えば、云い逃れ出来ますから」
そう云って達也は苦笑する。
「何だかご迷惑お掛けしちゃったみたいで、ごめんなさい」
何故か知佳は謝って仕舞う。知佳は全く悪くないのだけど。
「知佳さんは何も悪くないです。僕の父の事なので。――お手数お掛けして、済みませんでした。でも、本統にありがとう御座いました」
リチャードが改めて、深々と頭を下げた。
「X国なら、リックもお父さんに逢いに行けるよね」
蓮の陽気な言葉とは裏腹に、リチャードは悲しそうに俯いて仕舞った。
「蓮さん、そうもいかないんですよ」
達也の言葉に、蓮は不満げに頬を膨らませる。
「なんでよぉ」
「息子であるリチャードが逢いになんか行ったりしたら、Y国に気取られて仕舞う恐れがありますから。ジョセフは当分の間、親族とは接触する可きではないでしょうね」
「そんなぁ」思わず知佳も、落胆の声を挙げる。「整形とかしても駄目?」
「簡単に云いますね。キャロルは自ら志望して顔を変えましたが、中々大変なんですよ。身体的負担も大きいですしね」
達也の言葉に、知佳は赤くなって俯いた。
「そうか……そうですよね、ごめんなさい……」
「たっちゃん、女子中学生虐めちゃダメだよ」
突然背後から怒られて、達也は吃驚して振り返った。茶菓子を載せた盆を持って入室して来たのは、事務員の彩である。達也とは幼馴染だそうで、昨年秋にはその達也と結婚している。如何やら達也は、早速尻に敷かれている様だ。
「彩ちゃんだ! 久し振り!」
蓮が燥いでいる。この探偵事務所とEX部隊との関わりは、二年程前に遡る。その時以来、彩とは非常に懇意にさせて貰っている。特に蓮は持ち前の人懐こさで、丸で友達の様に接して居る。
「蓮ちゃん久し振りぃ! 知佳ちゃんも元気してたぁ? 結婚式にも来てくれて、ありがとうね!」
彩は盆をテーブルに置くと、蓮と知佳に向かって小さく手を振った。二人の結婚式には、隊員達総出でお祝いに行った。中学生なので個別にご祝儀は出せなかったけど、隊員連名と云う形で部長に出して貰ったので、問題はない。猶、神田はEX部隊としてではなく、当然親族として列席していた。
「彩、今は仕事の話だから。――
達也が小さい声で窘めると、彩はぺろりと舌を出した。
「探偵って細かい云い訳して来るの、やあねぇ」
そう云って知佳と蓮に加勢を求めて来る。知佳は返答に困って仕舞い、唯苦笑した。
「大丈夫、虐められてないよ! 知佳は自分の事じゃなくてもどんどん謝っちゃうような子だから、しょうが無いんだよ! みんなのお母さんだから!」
蓮がフォローだか何だか能く解らない様な事を云っている。彩は不思議そうな顔で小首を傾げる。
「そうなの?」
「いや――蓮の云ってることはよく解んないけど――でも虐められては無いので、大丈夫です」
「あゝ、そか、リックに対してはお母さんじゃなくて、奥さんだ」
「蓮!」
知佳は顔を真っ赤にして蓮に抗議する。リチャードも横で一緒に赤くなる。
「ええゝ! 知佳ちゃんの彼氏さん!」
「ちが!」
違う、と云おうとして、知佳は言葉に詰まって仕舞った。否、実際違うのだ。付き合うとかそんな話にはなっていない。だけど心情的に、違うと云い切れないのも事実で、だけどリチャードが如何考えているか判らないし、否定して好いのか肯定して好いのか。そんな事を考えていると
「ほら、ちょっと前の彩ちゃんみたい」
「蓮ちゃん、何云ってるのかなぁ?」
二年前、それ迄X国に居た達也が帰って来て、彩とは十年以上振りに再会して、その時は彩の一方的な片思いだったのだと思うけど、蓮や都子に揶揄われたりして、滑稽な程に狼狽えたり、照れたりしていた。その当時の彩と、そんなに似ているだろうか。自分はあそこまで取り乱してはいない筈と、知佳は思っているのだけど。
「うわ、結婚した途端、謎の余裕。彩ちゃんも大人になったんだねぇ」
「蓮ちゃん生意気!」
「で、子供はいつ?」
途端に彩の顔が真っ赤に染まる。
「れれれれ蓮ちゃん! ちちちゅ中学生が何を! よよ余計なお世話です! おおお義父さんの前で!」
往年の取り乱しっ振りを見て、蓮がケラケラと笑い出す。彩の狼狽は健在である。横で達也も真っ赤になっている。神田は何だか、終始ニコニコと見守っている。
「あたしこんなじゃない」
知佳がぽつりと呟くと、彩は急に黙りこくって仕舞った。知佳は気拙くて顔が挙げられない。達也も黙って下を向いている様だし、神田は何だかニコニコしている。
「そそそれは兎も角、皆さん、お茶菓子食べてくださいね! お義父さん、ままま孫はもう少し、お待ち頂ければ!」
「おかまいなく」
神田はニコニコしながらそんな返答をしている。その台詞で合っているのか如何か、知佳には判らないけど、何となくずれている様な気もする。横で蓮が、お腹を抱えながら声を殺して笑っているのを見ると、矢っ張り可笑しな返答なのだろう。それでも彩はぺこりとお辞儀をすると、空のお盆を抱えて部屋から出て行って仕舞った。
「愉しい人だね」
リチャードが他人事の様に感想を述べている。知佳は何だか気が削がれて仕舞った。結局のところ、知佳は独りで勝手に狼狽えていただけなのか。
「まあ、そんな訳で」達也が話の軌道を戻す。「ジョセフ、今ではマイケルですが、彼とは当分の間――少なくとも向こう五年位は、逢う事は避ける様にしてください」
「わかりました」
沈み気味の声ではあるが、リチャードは淡々と素直に応える。
「五年もあったら成人しちゃうよ」
蓮が悔しそうに抗議する。したところで、誰にも如何仕様も莫いのだけど。
「蓮ちゃん、有難う。でも、覚悟していたことだし、一生逢えない訳ではないし……だから、僕は大丈夫だよ」
リチャードはそう気丈に云うと、視線を蓮から知佳に移動させ、静かに微笑んだ。瞳の奥に悲しさを湛えて。
リチャードは、彩の件を他人事と思って淡泊な反応をしていたのではないのだ。自分の事で精一杯で、気が回らなかっただけなのだ。知佳は己の無思慮を恥じた。自分が誰より寄り添っていなければならない筈なのに、不満ばかり募らせている。ガキなのだ。矢張り自分は幼くて、恋愛なんかするだけの素養が未だ備わっていないのだ。他人を好きになる事なんか、本来的に許されないのだと思う。――そんな事を思っていたら、
「知佳さん?」
リチャードは驚いた様に声を挙げると、知佳の左手をそっと握って来た。途端に知佳の鼓動が早くなる。頬が熱くなるのを感じ、何故か涙が溢れて来た。それを見たリチャードの手に力が籠り、
「リチャード君――ごめんね、あたし――矢っ張り駄目な奴だ――」
「何云ってるんだよ。そんなこと莫いよ。僕は知佳さんに、随分救われてるよ。知佳さんが温かく見守ってくれているから、僕は挫けないで頑張れるんだ。僕は――知佳さんの愛を、ちゃんと感じているよ」
何でそんな言葉がすらすらと出て来るんだろう。愛なんて、知佳には未だに能く解らない。そんな知佳にさえ解らないものが、何だってリチャードに通じたりするのか。涙がぼろぼろと零れて来て、言葉が全然出て来ない。リチャードは両手で知佳の左手を包み込む様に握っている。その温かさが知佳には心地好いと同時に、罪悪感を刺激する。左手だけでそっと握り返してみても、心がチクチクと痛むばかりである。
「知佳」
蓮が名前だけ呼んで、背後からそっと抱き締めて来る。そうか、だから知佳は真ん中に座ったのかと、愚にも付かないことを考える。着座の順は成り行きでしかない。我が家の様にずかずかと入ってゆく蓮と、遠慮勝ちにそっと入って来るリチャードの、間に挟まれただけのことだ。でもその御蔭で、知佳は両側から愛情と友情をたっぷり浴びせられている。当に身に余るとはこのことだ。自分にそんな価値なんか――
「知佳は好いの。その儘で、好いの。駄目なんかじゃないし、仮令駄目だったとしても、それで好いの。そんな知佳が、あたし達は大好きなの」
蓮の言葉に、遂に嗚咽が漏れる。右手を蓮の腕に添えて、依然としてぼろぼろと泣き続ける知佳を、達也も神田も、唯黙って見守り続けて居る。
「ごめん――ごめんね――」
何がごめんなんだか、知佳にも解らなくなって来たけど、他の言葉なんか出て来ない。
リチャードの身体がぐっと近付いて来て、知佳を包み込んだ。知佳はドギマギして仕舞って、思わず涙も引っ込んだ。
「リチャ……リチャード……くん?」
頬に何か、柔らかく湿った物が当たり、軽く吸い付く。
「ひゃあああぁぁぁぁ」
如何やらキスをされたらしい。迂闊だった。恋人になったら当然そういった事も――
気が付いたら知佳は、リチャードを押し退けていた。リチャードは特に抵抗もせず、何だか申し訳なさそうな顔をしている。
「ごめ……ごめんなさい……あっ、……あのね、……あたしは……」
頬に未だ感触が残っている。首に巻き付いた儘の蓮の腕に、少し力が籠る。
「こらリック、あんた知佳に何をした」
知佳の顔の横で、蓮が怒っている。
「ごめん。気持ちが……抑え切れなくて」
「いやあの! あたしは別に!」
「知佳の心の準備も出来ていないのに、不意打ちしたな、リック」
矢っ張り蓮は怒って居る。知佳は別に怒っている訳ではなくて、厭だったと云う訳でも、多分なくて、でも何と云うか、突然過ぎて、そう、心の準備が。
リチャードは淋しそうに「ごめんなさい」と、一言謝って、下を向いて仕舞った。知佳は蓮の腕を解き、顔を向けて、「蓮、怒らないで」と懇願する。蓮は唯、心配そうに知佳を見詰めていた。知佳はリチャードの両手を握る。
「あたし未だ子供だから。だからリチャード君の気持ちに中々追い付けていないんだと思う。でも、唯それだけだから。本統に。あたしはリチャード君のこと嫌がってる訳じゃないから。それだけは、解って欲しい……」
知佳の必死の云い訳に、リチャードは顔を挙げて優しく微笑む。知佳の両手を握り返して来て、その儘凝としている。先刻よりも握り方が優しい気がする。
「僕は、遠く離れて仕舞うけど、でも――何時迄も知佳さんのことを、愛しているよ。何時だって、何処でだって――僕程、君を愛した男は――」
何だか何処かで聞いた様なフレーズだなと思いながら、知佳はぎゅうとリチャードの手を握り続ける。
「明日にはこっちを発つんだ。知佳さん、如何か、元気でいてね」
「うん。リチャード君もね。黄金週間には遊びに行くよ」
リチャードは嬉しそうに笑いながら、「待ってる」と答えた。その笑顔が、何だか知佳には迚も眩しかった。
翌日、リチャードはピートと共に、北海道へと去って行った。
(終わり)
二〇二六年(令和八年)、四月、七日、火曜日、先負。