非日常な日々
里蔵光
ユウキの吉日
一
その日はユウキの誕生日だった。
誕生日は神田から聞いていた。突然行って驚かせて遣ろうと云うことになり、先方の両親も巻き込んで、サプライズパーティーを仕掛けていたのだ。その為知佳と蓮は、一週間前には近所のショッピングモールで、プレゼントの吟味をしていた。
「マフラーとか、手袋とか、売ってないなぁ」
七月に入ったばかりである。そんなもの売っている訳がない。
「蓮てば、嫌がらせしか思い付かないの?」
「真坂、真坂、あたしが嫌がらせなんかする訳ないじゃん!」
「云ってる事、無茶苦茶」
「サプライズなんだから、驚く様な物じゃないと!」
「サプライズって、そう云うことじゃないと思うんだけど……」
知佳は呆れながらも、蓮の行く先に尾いて行く。文句は出て来るけど、対案が出て来ないのだ。九歳の男の子に、何を贈れば好いのだろう。
「もうさ、知佳の愛、とかで好いんじゃない?」
蓮が無責任なことを云い出す。
「何それぇ。愛なんか無いし。そんなの如何遣ってあげるのよ。貰う方だって困るじゃん」
「無いのかぁ……いや、最高のプレゼントになると思うんだけどなぁ。そうかぁ、無いんじゃ、しょうがないなぁ」
「何か、あたしが非道い奴みたいになってる」
知佳は頬を膨らませてみたが、蓮は唯、可笑しそうに笑うばかりだ。
知佳と蓮は、川崎の同じ小学校に通う、級友だ。付き合いは古くて、生まれた時から一緒に育っている。母親同士が親友だったのだ。今六年生なので、来年の春には中学生になる。
ユウキと云うのは、名古屋に住む
「可愛い便箋買ってさ、知佳がお手紙書いてあげれば好いんだよ」
「そんなの要らないでしょ」
「喜ぶと思うけどなぁ。手紙の最後にキスマークとか付けてさ」
「何それ、気持ち悪い」
蓮がケラケラと笑う。気持ち悪いってのは知佳の率直な感想だし、なんだか汚い感じがする。そんなもの嫌がらせにしかならないと思う。
色々な売り場を練り歩いた挙句、結局手巾と、携帯ストラップに落ち着いた。ユウキはスマホを持っていると云うので、ストラップは使えるだろう。手巾もストラップも、救急車や消防車のデザインが施されたキャラクター物だった。
そしてその日、二人は神田に連れられて、名古屋にあるユウキの家に上がり込んでいた。
「お誕生日おめでとう!」
澤田家の居間には、テーブルの上に大きな誕生日ケーキが置かれ、ユウキとその両親と、知佳と蓮と、矢張り
「ヒロは、こんな可愛えガールフレンド、二人も居ったんかいね。隅に置かれんがね」
ヒロ、と云うのは、ユウキの本名だ。弘和と云う。ユウキと云うのは
「えー、ありがとうございますぅ!」
可愛いと云われたことに対して、蓮は両頬に手を当てゝ、嬉しそうにしている。知佳は何だか恥ずかしくて、俯いていた。
「父ちゃんの血筋かいね」
ユウキの母が、父にじっとりとした視線を向けると、父は稍慌てた様に、「な、何云ってんだよ! 僕は何時でも、由紀一筋じゃないの!」と、冷や汗を拭いながら弁解がましく云う。母はそれを、愉し気に微笑みながら眺めていた。
「ヒロ君のパパとママ、楽しいね!」
蓮が面白がって、そんな事を云って煽っている。
ユウキは赤面しながら抗議する。
「別に、普通の親だし! 母ちゃんも父ちゃんも、恥ずかしいこと云わんでちょぉよ!」
「ヒロ君相変わらず、標準語と名古屋弁のちゃんぽん上手だねぇ」
「うるさい!」
誕生日なのに、丸で蓮はユウキを揶揄って遊んでいる。知佳は口が出せずにオロオロしている。
「はいはい、その位で。今日は弘和君の誕生日ですから」
神田が割って入って、一旦場は鎮まった。
仕事の上では、一応神田はリーダーであり、ユウキの父の、昔の同僚でもある。ユウキの両親は職場で知り合ったそうなので、神田は母の方とも面識があるのだろう。
「ユ……ヒロ君、誕生日おめでとう! これプレゼント!」
このタイミングを逃すまいと、知佳はユウキにプレゼントを手渡した。ユウキの表情がパッと明るくなる。
「知佳さんから?」
「蓮と二人分!」
心做し、ユウキの表情に残念そうな陰が差したが、笑顔はその儘に、プレゼントを受け取る。
「開けても好い?」
「どうぞ!」
がさがさと包みを開けて、手巾とストラップを取り出したユウキの表情は、少し微妙な感じだった。然し直ぐに気を取り直したかの様に笑顔を作ると、「ありがとう」と知佳に向けて云った。
「あたしも半分出したんだよ」
蓮が不服そうに云うと、慌てゝ蓮に顔を向けて「うん、ありがとう」と稍落としたトーンで応える。
「ほらぁ、矢っ張り知佳のチュウとかの方が嬉しいんだって」
蓮が口を尖らせながらそんなことを云うものだから、知佳は思い切り眉を顰め、ユウキは火が付いた様に真っ赤になった。
「蓮! 好い加減に――」
「ぼぼぼくは、ここれで十分! あり、ありがとう!」
知佳の抗議を遮って、ユウキがぺこりと頭を下げて、プレゼントを抱えると上階の自分の部屋へ引っ込んで仕舞った。
「ありゃあ、鳥渡刺激が強すぎたか」
「蓮?」
「あはは、ごめんって」
蓮は笑いながら、知佳の肩をポンポンと叩く。
「なんやあれ、照れてまって。――知佳ちゃん、ごめんねぇ」
母親は困った様に笑いながら、非礼を詫びる。
「いや、あたしは別に……蓮が揶揄ったりするから。なんか……すみません」
知佳は却って恐縮して仕舞った。
「僕、見て来るね」
父親が階段を上がって行った。
「何だかごめんなさい、誕生日なのに……」
知佳が申し訳なさそうに詫びるが、母親は済ました顔で、笑みさえ浮かべている。
「えゝがね。あれも色気付いてまって、判らんことばっか云うとるがね。迷惑でないかね」
「そんな、迷惑なんか掛けられてないですよ!」
知佳はぶんぶんと首を振りながら、懸命に否定する。
「ヒロ君のお気に入りは、この知佳ですから」
蓮が余計なことを云う。
「蓮てば!」
「本当の事じゃん」
「そんなことない! ヒロ君屹度、蓮のこと好きだよ!」
「それはそうかもね」蓮は少し胸を張って、「でも本命は知佳だよ」と云って知佳の肩に手を置く。
「もぉ、やめてよぉ」
知佳は心から嫌そうな顔をした。
「嫌がるなんて、ヒロかわいそぉ」
「もぉ、あたしを悪者にしないでぇ!」
「なんかごめんねぇ。ヒロもあれで、優しい子なんだがねぇ。けど女の子の扱いがまだ、よう判っとらんもんでねぇ」
母親は申し訳なさそうに云い添える。
「いや、違うんです! 別にヒロ君が悪い訳じゃなくて!」
知佳は真っ赤になりながら、必死に弁解する。
「然し由紀さん、大分名古屋弁きつくなっちゃいましたね」
見兼ねたのか、神田が唐突に、強引な話題転換をした。
「あー、これ? 地元のお年寄り等相手にしとるとネェ。東京弁忘れてまって。聞き難かったら、堪忍してちょ」
「大丈夫です! なんか、可愛いです!」
蓮が調子の好いことを云う。由紀はにっこりと微笑んで、蓮の頭をポポンと軽く叩いた。
「嬉しいこと云うてくりゃあすのね。えゝ娘だがね」
蓮は頬を稍紅潮させて、喜んでいる。
「もぉ。蓮たら調子好いんだから。今日一番愉しんでるの、蓮だよね」
「ふふっ、知佳も楽しんで!」
「主役はヒロ君!」
「知ってる! ちゃんと彼奴が、一番楽しんでると思うよ!」
「まぁた、適当な事ばっかり」
そうは云うものゝ、知佳は少しほっとした様に溜息を吐いた。
二
その頃子供部屋では、耳迄真っ赤になったユウキが蒲団を被って、邪な妄想を必死に追い払っている所だった。
知佳のチュウ、そんなもの、嬉しくない訳が、いや、そんなのは駄目だ、屹度心臓が破裂して死んで仕舞う、でも、若しも、プレゼントがチュウだったら、それは何よりも最高の――チュウって、矢っ張り頬っぺたかな、それともおでこかな、それとも――
追い払うどころかどんどん深みに嵌って行く。矢張り刺激が強過ぎたのかも知れない。くそう、蓮の奴め、そう云う蓮は如何なんだ、チュウはしてくれないのか――いや違う、そうじゃなくて!
如何にもならず、如何にも出来ず、枕を抱き締めた儘ベッドの上でゴロゴロと転がっていると、部屋のドアをノックする音がして、慌てゝ蒲団に潜り込む。
「ヒロぉ、大丈夫かあ」
父親がドアをそっと開けて入って来る。
「なんもないが!」
「それは、なんかある時の云い方だなぁ」
「くんな!」
父はベッドの足元に腰を下ろした。ユウキは相変わらず、布団に包まった儘である。
「お前に話したことあったっけ? 今日来ているシンさんな、あれ、父さんの昔の同僚なんだ。父さんが昔刑事遣ってたってのは聞いてるだろう? 公安のな、特殊な部署に居たんだ、凄いだろう!」
「シンさんて、神田さんのこと? 公安の刑事だったってのは、この前聞いたよ……」
ユウキは蒲団から半分だけ顔を出し、若干落ち着いたトーンで応える。
「なんだあ、聞いてたか。それでな、母さんはその時、監察医だったんだ」
「かんさつい?」
「うん、警察の仕事手伝う医者。解剖とかするの」
「はあ」
「でも父さんが見付けて、横取りしちゃった!」
ユウキの父は楽しそうに笑った。
「横取りって……」
「ははは、だって結婚を期に、母さん監察医辞めちゃったからなあ」
「そうなんだ。うちの病院って、元々おじいちゃんのでしょ?」
「そう。母さんは、跡継ぐのが夢だったんだ」
ユウキの家は、診療所を兼ねている。一階が診療所で、二階より上が住居だ。このユウキの部屋は、三階に在ることになる。
今祖父母は、別の家に住んでいる。この家にはユウキと父母の三人しか住んでおらず、此方も丸で祖父母から横取りした様になっている。――そう感想を述べたら、父は不本意だと云う顔をした。
「他人聞き悪いなあ。お祖父ちゃん達はさ、快く譲ってくれたんだよ。――てゆうか、なんか、もっと佳い家建てゝ、引退してそっちに住んでるんだから、寧ろ押し付けられたようなもんじゃんか」
「そんなこと云ったら、また母さんに怒られるよ」
ユウキが心配そうに云うと、父は笑った。
「ははは、まあ、この話は此処だけにしといてよ! さて、そろそろ下りようか? 女の子待たせるなんて最低だぞ!」
そう云って父は腰を上げる。ユウキもすっかり落ち着いていた。父の後に続きながら、ぽつりと呟く。
「父さん、能力使わなかったな」
「こんなことに一々使わないよ」
「そうか……能力使わなくても出来るんだ……」
二人には、治癒の異能力がある。怪我や病気を治したりする他に、心の乱れを落ち着かせることも出来る。ユウキは後者の事を云っているのだ。
ユウキの異能力は、両親からの遺伝だ。治癒に就いては父親から、加えて母からは、防御に関する様々な能力を受け継いでいるのだが、母には能力に就いての自覚はない。父の能力と、母の潜在能力とが掛け合わされた結果、ユウキの中で増幅し合った様で、実際治癒に関しても、現時点で既に父の能力を超えている。
勿論父は、その仕事に就いても了解している。元々は父が公安の特殊部署で担っていた役割だが、父も神田も公安を退いて久しく、神田の方は今では、と或る警備会社の一部署で、能力者部隊を率いるリーダーとして、任務を遂行している。
ユウキはその部隊の一員である。父は後見人の立場でのみ関わっており、今では全く能力に関係のない、サラリーマンに身を窶している。母に至ってはそんな部隊の存在も知らない。
母に潜在的にある防御の力に就いては、発現していないのであれば黙っていようと、神田と父とで示し合わせている。だからユウキも何も云わないし、自分の能力もバレない様にしている。それでもこの部隊に参加するに際して、母から受け継いだ能力を使うのであれば、名前だけでも母も一緒にと思い、母の名前を少し変えて「ユウキ」というハンドルネームにした。
階段を下りながら、このチームに初めて参加した日のことを思い出す。去年の秋口だったか。未だ一年経っていないのだなと、懐かしさに身を浸しながら居間へと戻ると、いきなりハグされた。
「ヒロ君ゴメンねぇ!」
蓮の声が頭蓋に響き渡り、柔らかく包み込む感触に、復しても顔が一気に紅潮する。
「なっ! なななにするんだぎゃ!」
振り解き、身体を離すと、蓮が顔を真っ赤にしてゲラゲラと大笑いしている。
「またもぉ! 蓮たら、ヒロ君のこと揶揄わないの!」
そうだ、あの初めて逢った日も、蓮には散々揶揄われたのだ。あの頃から何も変わっていない。知佳は優しくて、蓮は意地悪で、でもこんな風にスキンシップされると、相手が蓮でもドギマギして仕舞う。栗毛の髪を首の辺りで束ねている知佳は、美人と云う程ではないけれど優しい母性に溢れた感じで、墨を流した様に真っ黒な直毛を眉毛の辺りで切り揃えた蓮は、これは将来が恐ろしくなる程の美人で、切れ長で吊り気味の眼が、この年齢では却ってきつく映えて仕舞うが、その射竦める様な眼差しに溢れる魅力には抗えない。詰まりユウキは、蓮の事だって決して嫌いではないのだ。――こう云う、女性に好意を抱き勝ちなところ、父親の血なのかも知れないと思うと、げんなりする。父は独身時代、そこそこに名を馳せたプレイボーイだったらしいのだ。今こうして母に一途なのが、当時を知る神田などからすれば、信じられないことなのだと云う。
「プレゼント気に入ってくれた? 救急車と消防車、ヒロ君にぴったりかなと思って!」
蓮の云う意味が好く解らず、ユウキは小首を傾げたが、直ぐに思い当たり、「吁」と応えた。治癒と防御能力のことを指しているのだろう。
「うちが病院だからね」
これは母向けの説明だ。
「色々考えてくれたんだ。有難う」
父母の手前もあるし、ユウキは一応素直にお礼を云って置いた。パッと見た時には、なんて子供染みたデザインなんだろうと、若干の不満さえ抱いたのだけど、選定した理由等を聞いて仕舞うと、これもアリかなと云う気になって来る。ユウキの謝辞に対して、蓮は胸を張り、知佳は優しく微笑んでいた。矢っ張り蓮は意地悪な姉、知佳は優しいお母さん、と云う印象になって仕舞う。何れにしてもユウキは、自分が可成子供扱いされている気がする。まあ実際、子供なんだけども。
「屹度知佳さんが、一所懸命選んでくれたんだよね」
ユウキは蓮に当て付ける様に云った。蓮が口を尖らせる。
「二人で考えたんだよ!」
「蓮のセンスじゃないよなぁ」
「てめぇ、何呼び捨てしてんだ、ヒロ!」
蓮が拳を振り上げるので、ユウキは首を竦める。
「こらぁ、ヒロ君を虐めちゃだめだよ!」
知佳が蓮を諫める。蓮に本気で殴る心算なんか無いってことぐらい、ユウキはちゃんと諒解している。本統は優しいんだってことも知っている。それでも、蓮とはいつもこんな感じになって仕舞う。
父は所詮子供の戯れ合いと思っている様で、終始ニコニコしながら成り行きを見守っている。母は少し前に、お湯を沸かしに台所へ下がって仕舞っていた。
その時皆の頭の中に、唐突に神田の声が響いた。
〈お仕事です〉
これは所謂、テレパシーと云う奴である。
知佳には、他人の心を読んだり、他人に思念を送ったりと云った様な、精神感応の異能がある。この能力は、異能者限定で伝播する。神田、蓮、ユウキ、及びユウキの父は、皆何かしらの異能を持っている。そうした者達には知佳の影響が及び、知佳の周囲にいるだけで、テレパシーが使える様になる。今回神田はその効果を利用して、皆に念波を送って来たのだ。この声が聞こえていないのは、この場ではユウキの母だけである。
ユウキはきょろきょろと辺りを見回して、「あれ、そう云えば、神田さんは?」と云った。
「先刻電話が掛かって来て、外に出てるよ」
蓮が答える。恐らくそれは、会社からの電話だったのだろう。その結果として、お仕事です、と云う通達が為されたのだ。
〈皆さんもご存じの、佐々木探偵社より、お手伝いの要請が来ています。詳細はまた後程〉
〈タッちゃんだね!〉
〈まあ、そうですね〉
蓮の反応に神田が答える。タッちゃんと云うは、神田の息子の達也である。昨年の秋よりずっとX国に居て、五月半ばに帰国して来て、ユウキ達と一緒にある犯罪者を追い詰め、その後探偵になったと聞いている。色々複雑な経緯があるのだ。
〈また長期遠征ですかぁ?〉
ユウキの父がテレパシーで質問を投げた。息子の動静を把握しておく為だろう。
〈そんなに長期間にはならないと思いますが。出来る限り土日を充てる様にはします〉
〈ヒロを宜しくお願いしますね〉
〈おじさんは一緒に来ないの?〉
蓮が割って入る。
〈あはは、ヒーラー二人も要らないでしょ。僕よりヒロの方が能力強いし。君達も、僕みたいな小父さんより、若くてピチピチのヒロの方が好いよね?〉
〈父さん!〉
ユウキが堪らず父に抗議する。何となく皆の顔に笑みが浮かんだ。
「なにゃあ? 皆大人しーして微笑み合っとって。仲良しさんか? ――さ、紅茶淹れたで、ケーキ切るでよ」
ユウキの母が紅茶ポットとカップを載せた盆を持って、台所から出て来た。知佳が透かさず駆け寄って、盆の上のカップを各人の席に配る。
「あら、気の利く佳い子だがね。お嫁に来りゃあせん?」
これには蓮が堪らず吹き出し、ユウキが真っ赤になった。
「いやいや、滅相もないです! あたしなんか!」
知佳は稍後退りしながら、必死に辞退する。その様にユウキは、少なからずショックを受けている。
「年下は要らんかいね。まあ、ヒロじゃあ未だ未だ幼ぁて、話にもならんがね」
母はそう云うと、ケタケタと笑った。ユウキは恥ずかしそうに俯いている。
「母さん、余りお客さん困らせちゃ駄目だよ。親は余裕持ってゆったりと、息子の恋路を見守ってやらないと!」
父の助言にユウキが噛み付く。
「そんなんじゃにゃあて! 何度云やあ解るんだて!」
「何だよぉ、そんな心にもないこと。好きな癖に」
「ちぎゃぁし!」
「照れてまって」
「母ちゃんまで!」
そんなユウキの抗議も受け流し、母はケーキを切り分けて皆に配った。蓮は終始にやにやと笑い、知佳は少し困った感じで薄く微笑んでいる。
「こんなたぁけやけど、呆れんと気長に構っとってちょぉよ、お嬢さんら」
蓮は嬉しそうに、知佳は稍苦笑交じりに、「はい、こちらこそ!」と、声を揃えて応えた。
「母ちゃん、あんまりだぎゃ!」
ユウキが真っ赤な顔で吼えるので、結局みんな笑って仕舞った。
三
蓮が看破した通り、ユウキは決して不愉快だった訳ではないし、二人が家に来てくれたことに就いては、天にも上る様な心持ではあった。真坂誕生日にこの二人が来てくれるなんて思っても見なかったので、父を訪ね来た体で玄関先に訪れた神田の背後から、二人がひょっこり顔を出した時には、心底驚くと同時に、余りの嬉しさに破顔した。詰まり兎に角嬉しかったのだけど、その事を自分で認めるのが恥ずかしかった。自分は父とは違う、女誑しでもプレイボーイでもないと、否定すればする程、心の方はそれに反発する様に暴走し、盛り上がって仕舞う。それで
そんな中途半端な葛藤の様な物を抱えながらも、誕生日会の時間は愉しく過ぎて行った。ケーキを食べている途中で神田も帰って来て、程々に場を制御されつゝ、ユウキは程々に揶揄われ、程々に照れて赤面し、そして盛大に悦んでいた。
幸せな時間はあっと云う間に過ぎ去り、二人の少女は神田と共に帰って行った。ユウキは、二人が此処迄如何遣って来たのかが気になっていた。神田には念動力があり、三人で空を飛んで来ることも出来るが、他人目に付かない様に配慮する必要があるし、川崎から名古屋迄だと時間も掛かる。それなら蓮の転送だろうか。蓮には瞬間移動の能力がある。如何な物でも何処にでも、一瞬で移動させることが出来るのだけど、移動先の状況がちゃんと把握出来ていないと結構危ないと思う。玄関先で三人を見送りながら、何となく気にして後姿を目で追っていたのだけど、直ぐ其処の辻を曲がって見えなくなって仕舞った。そこから飛んだのだろうか。それとも、テレポーテーションしたのだろうか。或いは――
そんなことを考えながら自室に戻り、貰ったストラップを自分のスマホに取り付けていたら、神田の声が響いた。未だ近くにいた様だ。
〈先程の話なんですが、詳細を説明しますね〉
上空に居るのかも知れない、二人も一緒なのかな、などと思いを巡らせる。
〈先般より、私の息子の達也が、Y国のテロリスト達の繋がりを辿る様にして、調査していることはご存じと思いますが――〉
Y国とは、初めてこの仕事をした時からの因縁がある。最初の仕事は、来日していたX国大統領を、Y国のテロから守ると云うものだった。Y国は様々な方法で、暗殺を仕掛けて来たのだが、結果的にユウキ達のチームがそれを退けた。
その時の暗殺者の一人に、神田の息子である達也が居た。彼は洗脳され、自爆テロを敢行しようとしていた所を、ユウキ達のチームによって阻止され、罪人としてX国に身柄を拘束されたのだけど、洗脳被害者と云うことを勘案して貰い、Y国に就いての情報提供をしたこともあってか、如何やら罪を赦されて、今度はX国のエージェントとして、X国人を一人従えて、自分を洗脳していた人物の上位の指揮系統を調査する為に、帰国して来た――と、ユウキは理解している。
達也を洗脳していた人物は、山田誠治と云うのだけど、ユウキ達の目の前で自爆し、死んで仕舞った。人が死ぬのを見たのはそれが初めてだった。母の診療所は、人が死ぬ様な処ではないし、死にそうな人だってユウキが勝手に治して仕舞う。それに、本統に重篤な時はもっと大きな病院に行く。その時八歳だったユウキは、だから相当のショックを受け、心に傷を負った。その傷は、未だ完全には癒えていない。
〈誠治の上は未だ辿り切れてはいないのですが、別件の、X国の大臣と秘書官を洗脳した人物の的が付きそうだと云うことで、我々にその手伝いを依頼して来ました〉
神田は「別件」と云うが、これもX国大統領暗殺に関わる話だ。X国の国防大臣と、大統領の秘書官が、誰かに可成強引な遣り方で洗脳され、操り人形と化していた。それもユウキ達のチームが解決したのだけど、洗脳を解いて正気を取り戻させたのは、殆どユウキの手柄である。その時は、麻薬等を使って強引に仕掛けられたものと云うところ迄は判ったが、その先、誰が仕掛けたかを探ろうと二人の心の中を覗いていた知佳が、記憶の中の洗脳に当てられて気を失い掛けたのだ。結局危険だと云うことで、その時はそれ以上の追究を断念した。その、洗脳をした犯人が見付かりそうだと、神田は云っている様なのだ。
〈洗脳した人って、あの時沖縄で捕まえなかったっけ?〉
蓮が疑問を呈する。矢張り蓮も近くに居るのか。
〈あの時捕まえたのは、如何やら身代わりだった様です。確かに洗脳の担当者ではあったようですが、彼自身も多少なりと、洗脳されていたとのことです〉
〈マジで。用心深いのねぇ……〉
〈道理で、捕まり方が間抜けだった訳だよね〉
知佳が納得した様に続ける。追っても追っても敵が逃げて行く様な感覚に、ユウキは僅かに不安感を覚えた。
〈さて、達也は今も日本に居て、何と佐々木探偵事務所に、探偵見習として籍を置いています。探偵になれば、捜査活動の説明も付け易いでしょうからね。保護観察官のカールも一緒です〉
カールは、X国から達也と一緒に来日した男で、洗脳から回復した達也の自立支援員と云う名目で、内実は執行猶予となった達也の保護観察官だと云う説明だったか。そうすると矢っ張り、罪を赦された訳ではないのかも知れない。然し二人は友人の様に打ち解けていた。少なくともユウキの目には、その様に映っていた。先々月の仕事の際に、この二人も協力者として一緒に行動していたのだ。否達也は
〈従ってこれは、佐々木探偵社からの依頼、と云うことになります〉
〈タッちゃん、元気にしてるかなぁ。彩ちゃんも元気かなぁ〉
蓮の独り言の様な思念が伝わって来た。
蓮は「人誑し」等と揶揄されることもある様で、直ぐに他人の懐に入って仕舞う。初対面でも他人を渾名や愛称で呼んで仕舞う程に、距離を詰める才に長けている。「タッちゃん」と云うのも、当然達也のことだ。「彩ちゃん」と云うのは達也の幼馴染で、矢張り佐々木探偵社の、社員だ。本人は探偵見習と云っていたけど、正しくは事務員らしい。
〈あ、こら蓮! それあたしの苺!〉
〈いちご?〉
思わずユウキは反応して仕舞った。今のは知佳の思念だ。何処に居るのだ。
〈あ、知佳の莫迦ぁ、ユウにばれちゃうじゃん〉
〈ごめぇん、つい此方に流しちゃった〉
〈もう遅いよ。皆、そこの喫茶店でしょ? 苺パフェ美味しいよね〉
如何やら三人は上空に居るのではなく、直ぐ其処の辻を曲がった処に在る喫茶パーラーに居る様だ。
〈あたしはフルーツパフェなんだけど、知佳の苺が余りに美味しそうで〉
〈蓮の方にだって苺有ったじゃん!〉
〈もう無いのぉ〉
直接会話すれば好いのに、とユウキは思ったけれど、こんな会話を聞くのも愉しい、などとも思って仕舞う。そして復、自身の軽薄さに対して自己嫌悪して仕舞うのだ。
〈えゝ、兎に角、具体的な段取り等に就いては、また後程探偵社の方から直接説明をして貰おうと思っています。その為の会合の日取りを決めておきたいのですが、月末の日曜日など如何でしょうか〉
〈別に好いよ〉
〈あたしも、特に予定とか無いし〉
蓮と知佳が、直ぐに承諾の返事をする。ユウキも特に予定は無かった。
〈僕も構わないです。皆来るんですか?〉
〈基本的には、全員集合です〉
この場には居ないメンバーが、後二人いる。その人達も来ると云うことだ。二人の内一人は、大学生のお姉さんだ。ユウキの愉しみが復一つ増えた。思わず顔が若気掛けて、直ぐに復自己嫌悪に陥る。
その時階下で、派手な物音がした。続いて母親の、何ともよく解らない声が響いて来る。
「うひゃああああ、なんじゃあ、これぇ!」
ユウキが吃驚して、部屋から飛び出し、階下へ降りて行くと、もの凄い違和感を感じた。テーブルと床の間に、水の入ったコップが横倒しの状態で浮いている。水はコップから飛び出し掛けた形で固まっている。その向こうで、母が腰を抜かしている。
「あ」
神田には、念動力の他に、可成特殊な能力がある。能力と云うより特性かも知れない。自分で制御出来ない様なのだ。その特性と云うのは、神田の近くに居る異能力者の能力を、発達、増大させて仕舞うと云うもので――
「かあちゃん、まさか」
「あ、ヒロ! 来たらかん!」
来るなと云う。ユウキはその場に立ち竦んだ。
母の潜在能力は、防御力ではなかったか。ユウキが受け継いでいるのは、バリア、洗脳などの状態異常の解除、時間停止の解除等で、時間停止自体を引き起こすことは出来ない。然しこの状態は――
「由紀、これ、由紀が?」
横に父が立っていた。時計を見上げる。コチコチと時を刻んでいる。時間が停止している訳ではない様である。再びコップに目を遣る。これはどう云う状態なのだろう。何の能力なのだろう。
「神田さんの所為だ……」
思わず口を衝いてそんな言葉が出て仕舞った。
「うん。シンさんの所為だな。――由紀、落ち着いて。取り敢えずその儘待ってゝ」
父は台所からボウルを持って来て、コップの下に受ける様に差し入れた。
「動かして好いよ」
「えっ」
由紀は理解が追い付いていない様で、怯えた目で夫を見上げている。
「うん、あのね、色々説明しなくちゃならないんだけど、取り敢えずこのコップ、この儘じゃ困るでしょ。由紀だって疲れちゃうから。だからそっと、コップ下ろして」
ゴトンと音立てゝ、コップはボウルの中へ落ちた。飛び出していた水の一部はボウルで受け止め切れず、床に零れた。父はボウルをテーブルに置くと、雑巾を持って来て床を拭く。
「ななななに、あたし? あたしが、なんぞ……こんな……おそがいこと」
「怖くないよ、大丈夫」
由紀は夫にしがみ付くと、顔を胸にぎゅうと埋めた。
「ヒロ。大丈夫だから。後は父さんに任せておいて」
「うん……」
ユウキは後ろ髪を引かれる思いで居間を後にして、自室へと戻った。自分が居ても、やゝこしくなるだけだろうと思ったのだ。説明をすると云っていたし、長くなるのだろうから、後は父に任せておこうと思う。
遂に澤田家は、全員異能力者になって仕舞ったのか。
なんだか嬉しさと寂しさが同時に遣って来た。母には普通の人でいて欲しかった。こんな変な能力の心配なんか、させたくなかった。けど、理解者が増えてくれるだろうことは、素直に嬉しいと、ユウキは思う。
ユウキは気を紛らわせる為、先刻の現象に就いて考え始めた。丸で時間停止していたかの様な、見た目だった。然し停まっていたのは、コップと水だけだった。今迄体験して来た時間停止は、世の中の全てが停まるようなものばかりだった。世界中、事に依ったら宇宙全体が停まって、相手と自分だけが動いている、そんな様なものだった。詰まり逆なのだ。矢張り、時間停止とは別の能力なのだろうか。
〈由紀さんの能力が発現して仕舞った様で、申し訳ありません〉
神田からテレパシーが飛んで来た。父が報告したのだろうか。
〈こんな心算ではなかったんですが……真逆発現して仕舞うとは思いませんでした。元々迚も弱い力だったのですが……〉
〈シンさん、云い訳は好いですよ。そんなことより、これからのケアを考えないと……ヒロのことも話さなければならないですよね〉
父が返事を返している。自分のことが話題にされて、矢庭に緊張が走った。
〈そうですね。先ずは澤田家の中で、ちゃんと認識し合うところからですかね。然しヒロ君のことを話すなら、必然的にEX部隊のことも話さなければならないですよね〉
〈まあ、その時には協力願います〉
〈いつでも連絡ください〉
EX部隊と云うのが、ユウキ達が所属する部署の名前である。母親に内緒で何日も出掛けていたことも、話さなければならないのだろう。最初の仕事では夜間に出発してそこから丸三日、直近の仕事でも一泊の行程で出掛けている。その間は幻覚担当のメンバーが、ユウキが在宅している様な幻覚を母に見せていたのだけど、その事も話すのだろう。怒られないだろうかと、ユウキは気が気ではなかった。母親を騙す心算なんか無かったけれど、結果としてそうなって仕舞っている。裏切りと取られないだろうか、傷付けて仕舞わないだろうかと、そんな心配ばかりが募って来る。
テレパスは言葉ばかりを伝達するものではない。蓮や知佳の心配する様な想いも伝わって来る。基本的には選択的に何を送るか制御出来るのだけど、ユウキの不安も屹度、滲み出る様にして乗っかって仕舞っているのだろう、そんな自覚はある。そこに少しずつ、母の気配が混じって来る。能力者になった母も、このテレパスの場に参加出来る様になって仕舞ったのだ。
〈ヒロ……?〉
母だ。
〈母さん、大丈夫け?〉
ユウキはテレパスで応えてみた。
〈欸、ヒロだわ……心配掛けてまって、ごめんよぉ〉
〈僕は、大丈夫だで〉
既にテレパスに適応しているのは、流石と云おうか。
〈母ちゃんちょこっと、練習しとくもんだで、見守っとってちょおよ〉
前向きなのも流石である。本当に心配は要らなさそうだ。若しかしたら父の治癒力で、落ち着きを得られているのかも知れない。父に任せておけば安心と云うのは、確かなのだろう。ユウキは両親の絆と情愛の深さに就いては、十分に信頼しているし、この二人はもう大丈夫だろうと思った。
〈小母さん、応援してます!〉
蓮だ。相変わらずこういう所に、自然な声掛けをして来る。
〈綺麗な顔の娘だがね? ありがとねぇ、頑張るでよ! 好かったらお嫁にいりゃあせん?〉
〈母ちゃん!〉
〈あ、そう云うのは知佳の方で〉
〈れん!〉
〈あ、呼び捨てしたな、ユウ覚えてろ!〉
知佳が困って、蓮がケラケラ笑っている様も伝わって来る。何だか結局、こんな感じになって仕舞う。
〈ヒロは人気者やね、父ちゃんに似て。皆に優しいもんだで〉
母が余計な纏めをしたので、ユウキは部屋で一人、唯々赤面した。
都子の休講日
一
その日は講義が昼一迄で、その後は休講だったので暇を持て余していたら、佑香からメッセージが飛んで来た。
――神保町つきおーて! 本探し行くから!
佑香のメッセージは何時も、感嘆符が付き捲る。実際に話していても、姫路と尼崎のハーフだからなのか知らないけれど、中々勢いのある発話をする。都子は何方かと云うと神戸気質な尼っ子だと、自分では思っているので、時々付いて行けない気がするのだけど、それでも一番気心の知れた関係で、幼い頃からの腐れ縁でもある。今では二人共都内の大学生で、神楽坂辺りでルームシェアしている仲である。通っている大学は別々で、佑香は数学科だし、都子は仏文科だし、おまけに都子は一浪しているので、学年も佑香より一つ下の三回生である。何から何まで全く異質であるのに、それで困るようなこともない。
――学校は?
――ええねん自主休講するから!
サボると云うことだ。本の方が大事なのだろう。本来的には真面目に授業に出るタイプなので、それだけ重要な買い物なのだろうとは思う。仕方が無いから付き合って遣るかと、都子は腰を上げた。
大学の校舎の中のラウンジには、「サブウェイ」というサンドイッチ屋が入っている。都子は其処で何も注文しない儘、唯呆っと座っていたのだが、取り敢えず暇潰しの種が出来たので、ラウンジの出口へ向かいながらメッセージを返す。
――ええねんけど、ネットでこうたらあかんのか
――あんたは買いもんの楽しさを知らんか!
――いみわからん。で、古本屋か?
――新刊であると思うねんけどなぁ。洋書やねん
――ほぉ。読めるん?
――ばかにしとん?
――それは秘密や。で、なんじ、どこ
――隠し事無しやで!
――なんじ、どこ
――三省堂、五分後!
ラウンジを出た都子は目の前のトイレに入り、個室のドアを開け、其処を抜けると、別のトイレの個室から出て来た。
都子は異能者である。空間を自在に操る能力があり、今使ったのはドアを門とした転位だ。大学のトイレのドアを、何処か別の場所にあるトイレのドアに接続した。だから、個室に入った筈の都子が、別の個室から出て来たのである。使った後は直ぐに元通りにするので、誰かに迷惑が掛かると云ったことは無い筈である。入る所さえ見られていなければ、出て来ること自体は自然な行動であるし、見咎められる様なことも莫い。
そうして出て来た先は、小川町にある三省堂のトイレだった。
――地下いとく
地階へと向かいながら、都子はメッセージを送った。
――はいよっ!
佑香はこんな返事も威勢が良い。魚屋の大将か、と心の中でツッコみ、都子は少し笑った。
この三省堂は、本店改装中の仮店舗だ。その為心持ち、狭苦しく感じる。
都子が大学に入学した年、三省堂は未だ神保町に在った。お茶の水橋から南へ、明大通りの坂を真っ直ぐに下りて来て、靖国通りとぶつかる交差点の、南西辺りに大きなビルが建っていた。初めて入った時、フロアの広大さと蔵書の充実振りに、ワクワクしたことを今でも思い出す。欲しい本は何でも手に入る様な気がしたものだ。
然しそれも、ゴールデンウィーク迄の短い間だった。
今のこの小さな仮店舗に移転し、本店はすっかり取り壊され、今はすっかり更地になっている。そしてこれから、新たな店舗ビルの建築が始まろうとしているのだろう。
この仮店舗は、嘗ての本店に較べたら半分、いや恐らくそれ以下に狭くなっている気がする。階数も、二、三、減っている。新店舗が何時完成するのか知らないが、早く出来て欲しい。自分が在学している間に、完成するのだろうか。
そんなことを思いつゝ、四階から地階迄階段で下りる。トイレが四階より上にしかないと云うのも、不便だし、悲しくなって来る。地下に着いて、雑誌コーナーを右手に見ながら奥迄進むと、漫画の並ぶ区画がある。其処で暫く漫画を物色していたら、背後から肩を叩かれた。
「何で漫画やねん!」
佑香は開口一番、そう云った。明るい色の髪をハイポイントのポニーテールにして、可愛らしい猫の髪留めを付けている。女子力では、都子は佑香に到底敵わない。然しこれ迄一度たりとも、そんなことを気にしたことも莫く、真っ黒な短髪に銀と青のメッシュを入れたロックミュージシャンの様な髪を無頓着に眼の前に垂らし、ケロケロケロッピのT襯衣に真っ黒なジーンズを合わせて真っ赤な靴下にアシックスのスニーカーを履いた都子が、面倒臭そうに振り返る。都子のファッションセンスは、佑香曰く破壊的なのだそうだ。
「何でも糞も、時間潰しやん」
「そんな待たせとらんやん。てか、仏文なんやからフランス文学探せや」
「大きなお世話や。ちなみに此処、あんま洋書無いんちゃうか?」
「はぁ? 先云えや!」
「しらんし」
喧嘩の様な遣り取りだが、これが二人の常態である。
「まあ、全く無いことも莫いとは思うけど、洋書は丸善のが得意なんちゃうか? 知らんけど」
「マジか。何処」
「識らんのかいや。茶水の駅前やん」
「遠! 坂上るやん! 下って来た所やのに!」
「転位するか?」
「要らん! 歩く!」
「んまあ、取り敢えず此処探して、無かったら坂上ろか」
佑香は都子の能力を諒解しているが、余り気安く頼らない。遠慮しているのかも知れないが、歩くのが好きの様でもある。唯一、尼崎に里帰りする時だけは、遠慮なく相乗りさせて貰っているのであるが。
「ほんで何探しとん?」
「数学の洋書。マーチン・ガードナーの数学ゲーム、原著で揃えたいねん」
「なんやそれ?」
「卒論テーマ」
「はぁ」
「楽かなと思ったけど、唯々めんどい。教授は面白いから遣ってみ云うとったけど、若しかしたら嵌められたんか知らん。あのイロモノ爺……」
「しらんがな」
理工系の書籍が置いてある最上階の六階迄、エレベーターで上がる。理工系の書棚を端から眺めているが、和書ばかりである。
「邦訳はある程度あんねんけどな、全部ではないし、その意味でも原著欲しいから」
「知らんて。つか、数学の洋書やったら丸善も怪しいなぁ。そういう専門書に強い本屋探そか」
「さよかぁ……ちょい、ググってみるわ」
「端からそうせいや」
都子が面倒臭そうに云い放つが、佑香は意に介さず、スマホを弄りながら勝手に語り続ける。
「ちな、全部で十五冊あってな、その内幾つかは古本でも仕方ないか思っとんねんけど、でも基本、新刊で欲しいやん?」
「佑香のそう云う拘り、よぉ解らん。読めれば何でもえゝやん。てか学校の図書館に無いんか」
「合ったり無かったり。てか借りっぱなしにするのもなぁと思って。持っときたいやん?」
「知らんけど――書泉グランデなら数学洋書沢山あるらしいで。見に行くか?」
「どこ」
「靖国沿いや」
佑香より先に本屋の的を付けた都子は、場所情報を佑香と共有し、二人で三省堂を出た。
今年の夏は非常に暑い。店舗を出るなり殺人的な熱波が全身を襲う。温暖化とか以前に、ヒートアイランドで余計に暑いのではないかと思う。出来るだけ日陰を探しながら、二人は靖国通り沿いに歩き出す。目的の店は、この通りを四百米程西進した処にある。
「古本屋もその辺に幾つかあるみたいやし、そこでなければやっぱ丸善、但し丸の内」
「あー……」
そんなことを云いながら店に入るが、数分程度で直ぐに出て来た。
「ないなぁ。マーチン・ガードナー、マイナーかなぁ」
「知らんて」
「古すぎるんかなぁ」
「古本も見よか」
然し結局目的の本は見付けられず、路上で暫し立ち竦んだ。
「丸の内かぁ。神保町からじゃ行けないか。千代田線で新お茶から大手町かな……」
「転位するか?」
「して要らん! 序でや、茶水駅前の丸善も見る!」
「ええ? 無いと思うで」
「ほんで、丸ノ内線で東京出よ」
「聞けや、他人の話」
そんなことを云い合いながら歩いている時、都子は不図、歩道の隅で電話を掛けている女性に目が止まった。ハテ、何処かで見た様な気がする、などと思いながら凝視していたら、その相手が電話を切って此方を見たので目を逸らす。その儘通り越し、佑香との云い合いを続けながら、靖国通りを御茶ノ水駅側へと渡った。
「あ、双子か!」
明大通りを上がりながら、都子は突然思い出した様に叫んだ。
都子もユウキ達と同様、EX部隊の隊員である。前回の任務では全ての行程に於いて、都子の空間術が非常に重要な役割を果たした。その時の監視対象に男女の双子が居たのだが、その片割れが今擦れ違った人物だと、思い到ったのだ。その時はずっと亜空間から一方的に見ていただけなので、相手に面は割れていない。だから凝視して仕舞ったのも、単に不審な人物と思われただけだろう。
「なんて?」
「なんもない! 此方の話」
「何方やねん」
佑香は異能者ではないので、当然EX部隊とも関係なく、説明したところで通じる話ではないと思い、都子は話題を戻す。
「もぉ、ネットでえゝやん」
「めんどくなんなや!」
面倒と云われゝば面倒なのだが、暇でもあるので、苦痛ではない。それでも都子は大儀そうに佑香を横目で見遣る。
「飯奢れよ」
「転位しとらんねんから、要らんやろ!」
都子は転位を使い捲ると急減に腹が減る。佑香はそのことを云っているのだろうが、普通に歩き回って疲れているので、都子は何か甘い物が欲しいと思っていた。
「うち、帰ったろかな」
「もぉ、諒解ったから、付き合ぉて!」
「パフェでえゝよ」
「めしいぃぃぃ
佑香の雑なツッコミに、都子はケラケラと笑い出した。
二
御茶ノ水駅前の丸善には数学書も洋書も沢山あるのだが、数学の洋書は殆ど置いていない様だった。
「和書はあんねんけどなぁ。けどこの辺は持っとぉし」
「せやから、ゆうたやん。丸の内行こ」
都子がせっつく様にして佑香を店から追い出し、神田川を渡って地下鉄の駅へ向かう。道すがら都子が、思い出した様に云う。
「そう云や夜は仕事で呼ばれとんねん。やから全然、カフェとかでえゝで」
「夜のお仕事かいや」
「夜鷹とちゃうで」
「何時も云うとるけど、表現古いねん。それ何時から?」
「六時」
「そうかぁ……折角やから東京駅近辺で何か飯奢ったろ思っとったけど、しゃあないな」
「む!」都子は右腕を胴に回し、左手を口許へ持って行って、歩きながら暫く考えた後、「諒解った、一秒で済ませて来る」と云った。
「また齢取ろうとしとる」
「大した問題やない。未だ佑香追い越しとらんし」
「さいでっか」
都子は時間の流れも操ることが出来る。ユウキが云っていた、時間を停める能力と云うのを、都子は持っているのだ。完全に止めたり、緩り流したり、逆に早くしたりと云うことが出来るのだが、十七位の頃から余りにこの能力を濫用し過ぎて、通常よりも数日余計に生きたことになっている。
丸ノ内線で東京駅に着くと、丸善より先に手近なカフェに入った。
「東京怖いよなぁ。うっかり入ると、パフェだけで三千円とか取られんで」
「何やそれ、そんな店あるん? ――んでも都子儲けとんねんから、そんなん平気やろ」
「佑香の奢りやから気にしとんやん」
「腹立つわぁ」
EX部隊の仕事は、年間通しても数回程度なのだが、一回の報酬がべらぼうに高い。客筋が企業や、場合に依っては国家だったりするので、依頼料も高いのだ。異能者を使える様な組織は国内でも他に例が無いので、市場を独占している状態なのもあるだろう。また、恐らく政府から補助金も出ている。国とも密接な関係なのだ。危ない連中を一纏めにして管理していると云う意味もあるのだろう、この部隊が維持出来なくなって解散して仕舞ったりでもしたら、冗談抜きに国家の危機かも知れない。民間であること自体が不思議な程なのだが、その辺りは色々過去にやゝこしい事情があった様で、然し都子は面倒臭いので、深く突っ込んで訊いたことは無い。
今年に入ってからは二度程大きな仕事をしているが、それだけで既に親の扶養から外れて仕舞う程の報酬を得ている。正月頃にあった一度目の案件より、最近済ませた二度目の方が報酬は高かった。一度目は一企業の専務個人が依頼主だったが、二度目の方は余所の国家からの依頼だった。依頼料だけで云うなら、ゼロの数が少なくとも二つは違ってくるだろう。契約としては非常勤職員なのだが、もう一ト仕事すれば新車の軽自動車が買えるかも知れない。免許は持っていないけど。
それでも、最近お金が好く入るからと云っても、都子の貧乏性は筋金入りなので、そうそう
然し二人が入ったカフェには、パフェは置いていなかった。それでも都子は特に気にすることなく、クリームソーダを注文した。
「なんかゴメンな。パフェ無くて」
「ああ、えゝねん、それ系なら何でも」
「クリームソーダが
佑香はアイスコーヒーを一口飲んで、嘆息する。
「佑香は気にしぃやなぁ」
都子は唄う様にそう云うと、上に載っているチェリーの枝を持ち、その儘口に放り込んだ。口から枝を生やした儘暫くモグモグした後に、枝を抜くと、その先には種が付いていた。
「器用な食い方すなよ、恥ずかしい」
「ごみ纏まってえゝやん」
「貧乏人の発想!」
都子がケラケラ笑うので、佑香も連られて笑う。
「ちゃうで、ホンマの貧乏人は、こゝん処の果肉も全部しがみ尽くすねんて。枝と種繋がってる時点でリッチな食い方や」
「如何でもえゝけど、リッチだけは違うわ。ほんまのリッチはチェリー食わんで残すねん、飾りと思っとるからな」
そして結局笑う。如何にも話題そのものが貧乏臭い。
三十分程其処で時間を潰して、店を出たら五時過ぎだった。其処から真っ直ぐ丸善へ向かい、四階の数学洋書の充実っぷりに感心しながらも、結局目的の書籍は揃えられなかった。
「此処で無かったらもうしゃあない。ネットしかないわ」
「そやな。あたしも諦め付いたわ。帰ってから買う」
佑香はそう云いつゝ、目的外の書籍に幾つか目を奪われては、手に取ってパラパラと眺めたりしている。
「なんか買うんか?」
「否、えゝわ、キリ無いし」
佑香は手にしていた本を書棚に戻し、売り場を立ち去ろうとしたのだが、都子は逆方向へと歩いて行く。そして英文学の本を手に取ったりして、立ち読みを始めた。
「こらこら、都子、なにしとん」
「んー。おもろいもん無いかなぁと」
「フランスちゃうんか。それ英語やぞ」
「知っとぉわ。何でもえゝやん。授業でもないのに、フラ語の本なんか読みたないわ」
「なんやそれ。自分で仏文選んだんちゃうんか」
「それはそれ、これはこれ」
何冊か取っ替え引っ替えし、冒頭部分ばかり読み漁って、結局何も買わずに書棚に背を向けた。
「往のか」
「えゝんか」
六時迄は未だもう少し間があったが、移動している内に六時になるだろうと云うことで、東京駅の方へと向かいながら、飲食店を検索した。
「佑香さぁ」
「んん?」
「同席するか?」
「何に」
「うちの仕事」
佑香が顔を挙げて都子を見た。
「なんでやねん。一緒に老けさそうとすな」
「あ、やっぱ其処か。いやあ、興味あるかなぁ思て」
「小さな子供等おる奴やろ? なんかえゝわ、しんどそう」
「いや、今日はおっさんだけや。直ぐ済むゆうてたし」
「尚更要らんわ。あの顎と、糸目のおっさんやろ? えゝ男居るなら見に行きたいけど」
「えゝか如何かは判らんけどなぁ……糸目おっさんの息子は来るか判らん。売約済みやけどな」
「なんやそれ、要らん――売約って、まさかあんた」
「やめてや! うちも要らんわ」
「いや、そんなん他人に薦めんなや」
「それはえゝやん、好き好きやし」
「他人のモン、興味ないし」
そう云った後佑香は微妙な表情になり、ちらと都子を盗み見る様にしたが、都子は気にも留めず、一言「そか」と云った。それでも佑香は何となく気拙そうに、眼を泳がせた。
「いや、あんな……」
「昔のこと気にしなや。あれはとっくに終わった話や」
「そやな」
「
「うん」
佑香は高校生の頃に、都子の当時の交際相手と間違いを犯したことがある。相手から仕掛けて来たこととは謂え、未だに心の片隅に罪悪感が燻っている。都子は全く気にしていないと云ってくれているのだが、そんな対応が却って佑香を卑屈にさせる。稍トーンダウンした佑香を従えて、都子は地下街へと下り、他人目を避ける様にして柱の影へと回り込むと、その儘佑香を亜空間へと連れ込んだ。
「うわ、何で!」
「なんか放っとけんくなったから」
「いやいや、放っといてか!」
「えゝやん。直ぐ済む」
そう云って都子は何処からか持ち込んだソファに座った。
この真っ白な空間は、都子が作った亜空間である。今迄居た、通常の世界が存在している時空に対して、もう一つの次元軸に沿ってほんの少しだけシフトした処に存在している、都子の能力で拡張、若しくは生成した、別の時空である。此処に入った時点で、二人は元の世界からは消えている。
上下左右総て真っ白で、立って歩いているのに床面は莫く、ソファが存在しているのにそれが置かれる可き地面も莫い。唯「共通の床面」と云う概念だけが存在し、その面を基準に歩いたり、ソファが置かれたりしている。其処に二人の人物が忽然と姿を現す。都子達からは遠い位置に出現した二人の男性は、直ぐに距離を詰めて四人は略等間隔に落ち着いた。こうした距離に就いても、この空間では都子の意の儘となっている。
「お疲れ様です。お招き有難う御座います」
遣って来た内の一人は神田だった。佑香が糸目と評した相手である。
「佑香さんもご一緒でしたか。お久しぶりです」
佑香は微妙な顔で、小さく会釈した。
「まあまあ、三箇月振りくらいですか――」
前回の案件の際に、佑香は何故か都子に巻き込まれて、子供達に都子の空間術を説明すると云う、よく解らない任務を課せられた。その時はバイト代が出たので、それに就いて特に文句は無い。そして今回も済し崩し的に巻き込まれているが、然し今回はバイト代は莫さそうな気がする。
説明をしたとは云うものの、佑香とて、都子の能力を完全に理解している訳ではないし、数学的な説明を試みた所で、それらは凡て想像、空想の域を出ない。なんでこんなことが出来るのかと云う点に就いては、丸切り解らない。自分の今立っている足許に就いてさえ、何も説明出来ない。唯亜空間と云うものに就いての、幾何学的な解釈をするだけだ。如何に卒研の対象にしたかったか。都子の力は世間に認知されているものではないし、
もう一人の男は、矢鱈と顎の長い男だった。佑香はこの男も知っている。都子がこの警備会社に入る切欠を作った一人だ。この男も同じ部隊の隊員なのである。確か、他人の認識に干渉出来る能力があり、また、任意の地点を覗き見したり、それを録画したり出来る能力もある。プロの覗き屋だったと記憶している。
「あれ、クラウンさん今日は大人し目」
顎の男はクラウンと名告っている。本名は知らない。バンドマンだった頃の名前だとか云っていた。初めて遭遇した時は、髪をピンクに染めて逆立てゝ、左目の周りに星の模様をペイントしていた。前回見た時には、髪は橙色だった。それらが今日は無い。脱色した様な傷んだ様な薄茶色の髪は下ろされていて、顔に何の落書きもしていない。只の顎が長いだけの男である。
「あゝ、今日は元々オフやったから」
彼も関西人である。出遭ったのが大阪だし、まあ当然と云えば当然か。
「ちゃんと本番ではメイクするよ」
「誰の為に?」
都子が容赦なくツッコむ。基本、都子は失礼である。
「誰て……まあ、自分かなあ」
「ナルやな」
「なんて?」
「ナルシストや。美形でもないのにな」
「み……!」
「都子あんた、鳥渡失礼やわ」
「ち、ちょっと?」
佑香の気持ちの代弁だったので、ツッコミも控えめになって仕舞った。それが可笑しくて、つい笑って仕舞う。クラウンは憮然としている。佑香は気付かない振りをして、話題を変える。
「そう云や都子、結局もう一人は?」
「あー、この後や。先に神田っちの説明」
「佑香さんもお聞きになりますか」
神田は稍躊躇している様だ。
「あ、ですよね、守秘義務とかですよね? 都子、やっぱあたし外しといてや」
「あゝ? だいじょぶやろ」
「あんたが判断することちゃうやろ」
「いや、此方は好いんですけどね……前回、守秘義務の誓約書も頂いてますし……」
神田は苦笑しながら続ける。
「唯、聞きたくない様なことかも知れませんし、巻き込んで仕舞うのも心苦しいかと」
「うわあ、やっぱえゝて。都子、出して」
都子は佑香の瞳を凝と見詰めながら、「一人で放っときとぉないねん。居といてか。聞きとぉないなら音遮断しとくし」
「それはそれで辛いわ。てか時間止めるなら、あたし外居てゝも、一瞬やろ? てか別に、一人にしといて貰っとっても平気やし」
それでも都子は視線を外さず、「んー……いや、うちが気になるし、居とき」と云って、神田に向き直る。
「佑香には仕事の話しとるし。今更やから、別に聞かれてもえゝと思うで。この前の殺し屋の話もざっくりとはしとるしな」
「そうなんですか。――それはそれで如何かと思いますが……まあ、佑香さんが良いなら」
「良くないし!」
「えゝと云うとります」
「はあ
「X国のイケメン見れるかもよ」
「ななななんやそれ!」
それでも佑香は、少し興味をそそられて仕舞った。
三
真っ白な亜空間には、最初に在ったのと合わせて三つの応接ソファがコの字型に配置されていて、佑香と都子が並んで座っている正面には、白髪髭もじゃの老人と、若く精悍な青年、青年と老人の間には若い女性、青年のもう一方の隣には、茶色の髪に茶色い瞳のハンサムな外国人が、四人狭そうにして座っている。外国人は半分ソファから食み出している様だ。神田とクラウンは、側辺に並んで座っている。
青年は神田達也と名告り、探偵社の探偵見習であり、EX部隊の神田隊長の息子だと云った。そしてその隣に座っている女性を、
簡単な経緯に就いては、先に神田に依って説明が為されていた。昨年の事件で洗脳を掛けた犯人を、遂に見付けたとか云う話であった。続く説明は青年によって行われた。
「そんな訳で、敵は国内の、而も可成近い処に居ると云うこと迄判ったのです。東京南部から、神奈川北東部に掛けての――」
「広!」
都子が茶々を入れる。
「いやまあ、そうではあるんですが、それでも世界の何処に居るか判らないと云う段階からすれば、可成絞り込んだ方なんですよ」
「ほんでうちらが何するねん」
「捜索、特定の手助けをして頂ければと――」
「実はな」白髭の探偵が、口を挟んだ。「如何も無関係とは思えない貴重な情報を、つい先刻入手して来たばかりなんだ。――犬も歩けば棒に当たると云うが、この棒は向こうから当たりに来た」
「また訳解らんこと云い出しよったな」
「わはは、まあ聞け、たった今迄わしが何処に居たと思う」
「知らんし」
佐々木探偵は間を取って、一同を見渡した後、「実はな、久万組の事務所に居た」と云った。
「また厄介な処に――」
神田が眉を顰める。
「うちは私設の探偵社なので、客が反社でも何でも、依頼料さえ払って貰えれば、倫理に外れない限りは請けます」
達也と佐々木の間で縮こまっていた女性が、事務的な口調でそう告げた。
「なんや彩ちゃん、緊張しぃか」
都子が揶揄う様な口調で野次る。
「いやいや、そんな真坂。都子さんお久しぶりです」
「挨拶おっそ!」
佐々木が苦笑しながら、彩と呼ばれた女性を遮る様にして続ける。
「久万からの依頼は、人探しだったのだ」
「ほう?」
「あそこに双子が居ただろう、双子の超能力者が」
「おゝ! それ、今日見掛けたで!」
都子が反応する。そう云えばお茶の水で、双子が如何とか云っていた気がすると、佑香は思い出していた。
「神保町で擦れ違ったで。あんな処で何しとったんか知らんけど」
「そうか。それは多分、姉の方だな? お遣いの帰りで、暇潰しに寄り道したとか云っていたかな」
「お遣いの帰りが、何で暇やねん」
「そんなことは知らんわい。――まあ話を戻すがな、あの双子は幼い頃に、両親を亡くしている。誰かに殺されたと云う話なんだが、如何も話を聞けば聞く程に、きな臭くなって来てな。今日迄その姉の方は、両親と暮らしていた家を検分する為に、故郷に行っていたのだ」
「その、両親が殺されたと云うのは、何時頃の話なんですか」
神田が質問する。
「九年前の春だな」
「そんな前のことが、今更現地に行ったところで判りますか」
佐々木は神田の方を向き、「気付いておらんか」と云った。
「あ、何かの能力ですか? あの、秋菜さんと云いましたっけ、彼女は色々と雑多な能力を沢山持っている様で、その総ては把握し切れていないんですが、何か役に立つ能力がありましたか」
「うむ。彼等の説明に拠れば、万物の記憶が視えると云うことらしいな」
「万物の記憶? なんじゃそら」都子が呆れ半分の声を挙げる。「物が記憶しよるか?」
「うん、記憶と云うのは物の喩えだそうだ。その物に付随する過去の歴史が、俯瞰出来るとか何とか」
「ほぉ。それは興味深いですね」
神田が前のめりになる。
「神田っち、見たら判るか?」
「さあ。見てみませんと。今聞いた話から的を付けて見れば、多少は判るかも知れませんが」
神田には、他人の異能力を解析する能力がある。能力が強ければ、或る程度距離があってもその能力者の位置や、能力の内容を把握することが出来ると云う。唯この双子に関しては、前回も関わって来ていたのだが、力が弱いのと、能力が特殊だったこともあり、その時は神田を使てもよく判らなかった様なのである。
「髭長、双子は今何処に居る?」
「恐らく久万組事務所だな。其処に住んどるよ」
都子は探偵からその場所を詳しく聞き取ると、全員の中央に半透明のジオラマの様な物を出した。これは空間を中途半端に接続して、且つ縮小したものである。鉄筋コンクリートの小さなビルディングの一室で、男女が寛いでいるのが見える。これが双子なのだろう。佑香は目を細めて女性の方を凝と見た。
「神保町に居ったか?」
「居ったで。佑香お喋りに夢中で気付かんかっただけやん」
「さよか」
神田も女性を凝視していた。そして、「なるほど」と小さく呟いた。そして少し間を置いて、「中々興味深いですね」と云うと、顔を挙げた。
「彼女の能力は、過去を一直線に視渡す能力だと思います。人は空間方向に、遠く迄一気に観渡すことが出来ますよね?」手を広げて眼の上に翳し、遠くを眺める仕草をする。「それと同じような感覚で、彼女は時間軸方向に過去を視渡すことが出来る様です。どんな風に視えるのか興味は尽きませんが、時間の経過を一目で確認出来ると云うのは、中々便利の様で、不思議な感覚でしょうね」
「時間を視渡すかぁ……想像し難いな」
「映画のフィルムのコマを全て重ねて、金太郎飴の様にしたものが視えるのだと思います。金太郎飴では間の模様は外部から見えないですが、秋菜さんの能力ではその途中途中の模様も、透かす様にして視えていると思います。フィルムや金太郎の模様は二次元ですが、その次元を一つ増やしたものが、彼女の視ている光景でしょう。詰まり四次元を把握する認識能力があると思うんですが――最近思うんですが、我々能力者には多かれ少なかれ、四次元の認識力があるのではないかと思ってます。都子さんの空間術にも、そんな認識は不可欠と思うのですが」
「はぁ、よぉ判らんけど」
「マジか都子。超球とか判るか」
佑香が興味深げに都子を見る。
「大分何ゆうとぉか解らんな」
佑香は少しがっかりした仕草をしたが、都子に対する興味は継続している様だった。
「後で色々聞かせてや」
「マジか。気ぃ向いたらな」
神田は咳払いを一つ挟んで、話を続ける。
「そんな感じだと、遠い過去程霞んで仕舞って視難くなりそうな気もしますが……いや、特定の区間にズーム出来るのかな。クラウンさんや都子さんが、遠い地点の様子を見たり、こうして切り取って持って来られる様に、秋菜さんも遠い過去を切り取って確認出来そうです」
「ふうん。そんで、何を視たって?」
都子が探偵に先を促す。
「両親を殺したのは、弟の春樹だったそうだ」
全員が一瞬凍り付いた。
「所がその弟は、如何も正気を保っていなかった。その直前に、誰かに催眠の様な物を掛けられている現場も確認出来たと」
「それは――」
「神田さんは先程、過去の特定の期間を視ることが出来る様だと云ったがな、本人に依れば、古過ぎる記憶は掠れて仕舞って細部がよく判らないそうだ。それでも、日本人の様な外見の小柄な人物で、
「外人か」
「まだ判らん。が、その可能性は高いな。――そしてその人物は、洗脳を仕掛けたその日、新幹線で移動して新横浜で下りている」
「それが、タッちゃんの探している人物と同一だと?」
「確証はないがな、可能性は高いと踏んでいる」
「ふうん」
都子は右腕を胴に回し、左手の肘を右手の甲に当て、左手の指を口許に持って行って、暫し考え込んだ。佑香はこゝ迄の話の内容に、唯々気圧されている。
「
都子が探偵のことをそう呼んでいたのが、佑香は気になっていた様だ。
「おゝ、都子さんはな、最初俺のことを『髭所長』などと呼んでいたのだ。探偵所の所長だからな。でも面倒になったのかな、何時の間にか『髭長』になっておったわ」
そして佐々木は、わははと愉快そうに笑った。
「期待しているのは、知佳ちゃんの能力か」
都子がぼそりと呟く様に云った。
「そうだな。心が読めたら一発だ」
「その為にも先ずは、人物特定しやんとやね」
「カールの権限や人脈等も使わせて貰って、多方面から絞り込んで行っている所です。或る程度の目途が付いて来た所で、当たって行こうかと……」
達也が説明を引き継ぐ。
「カールは、何がでけるん?」
「彼は
「なに、X国の国益にも繋がることだからな。問題ない」
カールが流暢な日本語で合の手を入れる。
「
「さっすが、男前やなぁ」
都子が軽口を叩くと、カールは不敵に微笑む。佑香は何だか、呆気に取られていた。
「双子の依頼の方も並行して進めて行こうと思っとるんだが、俺の予測通りなら二つの調査は必ず何処かで交わる。その時こそ勝負になると、俺は見ている」
「二本立てかいや。ご苦労なこっちゃ」
「人手は足りないので、手は貸してくれ」
「高いで」
都子はケラケラと笑う。彩が何か云いた気に口を開き掛けるが、神田が慌てゝ割って入る。
「依頼料は通常通りです。ご心配なく」
彩は安堵の溜息を吐き、その横で佐々木が体を揺らしながら愉しそうに笑うと、「都子さんには個別に依頼しても好いと思っとるよ。この空間術は、中々魅力だからなぁ」と云った。
「報酬は別途交渉やね」
「お、お手柔らかに……」
彩がどぎまぎしながら応える。
「ちゃっかりしとんな」
佑香が小さく突っ込むと、都子は機敏に反応する。
「佑香に云われたないわ。前回の数学教室、幾ら貰ぉた?」
「えゝねん、昔のことは」
佑香は赤面しながら顔を背けた。
四
今月最後の日曜日に、改めてこの亜空間で全員集合。そう通達されて、会議は終わった。その時に探偵達から、具体的な行動の指示があるそうだ。
「みんな御免やけど、小一時間程余計に年取らさせてもうたわ」
解散前に都子がそう云った時、探偵側は全員
「ま、タッちゃんと一緒に年取れたんやし、かめへんのんちゃうん?」
そんな都子の無責任な放言に、彩は頬を真っ赤に染めて、「ななな何云ってるんですか!」と抗議した後、
「最初に説明しとらんの、やっぱ非道いわ」
東京の地下街を歩きながら、佑香は都子を責めた。
「うん。云うの忘れとってん。佑香がゆうてくれても、良かったんやで?」
「あたしはオマケやんか」
「そう卑下すんなや――やけど、途中ちょくちょく気付いても好いポイントあったやんなぁ? 双子明らかに止まっとったし」
「んなもん予備知識莫きゃ、そうそう気付かんわ」
「さよかぁ? 探偵として如何なんかなぁ」
「自己弁護もこゝ迄行くと、逆に清々しいな」
「せやろ?」
「褒めてへんど?」
都子はぷうと膨れて見せるが、彩とはキャラが違い過ぎる。佑香は無視して、「ほんで何食う? いっそ飲むか?」と、夕飯の店に就いての意見を求めた。
「何でもえゝけど、高い店は食った気せんので、赤提灯とかで」
「落差! 東京の地下に赤提灯なんかあるか?」
「小洒落た街やからのぅ」
そんな文句を云いながら、結局二人は、在り来たりな拉麺店に入った。
「唯の拉麺屋風情が、東京駅に在るっちゅうだけで、どんだけお洒落気取っとんねん」
店内で都子がそんなことを云うものだから、佑香はハラハラしっぱなしだった。
「店の人に聞こえるやんか。少し黙っとかんかい」
「はあ、せやけど唯の拉麺やで。ぱっと見洋食屋か思ったわ。拉麺屋が小綺麗にしたらあかんやろ」
「そ、それは偏見や。綺麗な拉麺屋が在ってもえゝやん」
「綺麗、汚い、やなくて」
「えゝから!」
段々苛付いて来る佑香を見ながら、都子は段々にや付いて来る。
「あんたあたしンこと、揶揄って遊んどらんか?」
「餃子と麦酒付けたって」
「聞いとらんやろ!」
周りの客が此方を見る。迷惑そうな視線や、怯えた様な視線。
「ほらぁ、ガサツな関西人居る思われとんで。気ぃ付けや」
「何の口が云うとんねん」
「へい、叉焼麺と、味噌拉麺!」
入店時に注文していた品が、威勢の良い掛け声と共にカウンター越しに出て来る。
「お姉ちゃんたち、面白いな! 漫才見ているみたいだ!」
店員の一言が余計だ。佑香は思わず、「なんか、すみません」と謝って仕舞う。
「お洒落な店構えでしょう? 東京駅であんまり雑な店構えしたら、逆に浮いちゃうかなと思ってね」
「吁、えゝのんちゃう? ポリシー以て遣っとんなら、貫き通したり」
都子が無責任なエールを送っている。佑香は天井を仰いで、嘆息した。
店員が面白がって、「ポリシーなんか無いよぉ!」などと笑いながら云う。
「何や、駄目な子やんか。てけとーやな」
都子も店員も笑っている。何だろうなぁと、佑香はもう一つ溜息を吐いてから、「いただきます」と云って拉麺を啜った。
「あ、餃子と麦酒、二つずつ!」
「はいよ!」
麦酒が出て来た所で、二人で乾杯した。
「お疲れさん」
「ほんま疲れたわ」
「そこは『お疲れ』返しでえゝやろ」
佑香が口を尖らせると、都子は笑う。
「結局何も買ぅてないしな。EX会議しただけや」
「それこそあたし無関係やのに」
「うちかてマーチン無関係や」
「もぅ……ありがとな! それとも、ごめんなって云うたらえゝのんか?」
「気にすな」
「ほんま腹立つ」
「まあえゝやん。それよりカールどないやった」
「はぁ。要らんわ」
「イケメンちゃうかった?」
「イケメンか知らんけど、あたしは要らん。なんか底知れないちゅうか、無駄に恐ろし気」
「ほぅかあ?」
「軍人とか、意味判らんし。年齢も不詳やし。タッちゃんも事務の娘となんかお似合いやったし、あたし出る幕莫い」
「まあ、それはそうか知らんな」
二人で愚にも付かない会話を交わしながら、食べて、呑んで、最終的には上機嫌になって帰途に就く。東京駅から大手町迄、地下道を彼方此方迷いながら、やっとのことで辿り着くと、改札を通る。
「あれ、都子、スイカか何か買うたん?」
「何やねん今更。んな毎日毎日転位しとったら身体に宜しないから、スイカ買うゆうたやん」
「せやっけ? 体に悪いんか」
「知らんけど、めさ腹減りよるやん」
「そやな。エンゲル係数高めや」
「高くならん様に、買うたんやんけ」
「さよか、佳い心懸けやな」
「そやろ?」
東西線で神楽坂迄行き、其処から徒歩で十分程。二人でルームシェアしている、2DKのアパートに辿り着く。
2DKとは云っても、一人一部屋と云う訳には行かない。二つの部屋は同じ広さではないので、それをすると不公平が生じて仕舞うのだ。だから二人は、一部屋を共同の寝室、一部屋を共同の勉強部屋としている。和室に布団を並べて敷いて寝起きし、洋室にはコルクボードの簡単なパーティションを置いて一応区切った上で、机を同じ向きに並べている。クローゼットや本棚等は、共同である。食事は狭いダイニングで、時には揃って、時には別々に済ませる。それなりのワンルームをそれぞれ借りるよりは、大分安く済んでいる。勿論、独りより二人の方が防犯的にも心強いと云うのもあり、佑香としては都子の能力がセキュリティ効果を上げてくれると云う期待もある。都子は余りその辺りに就いては、頓着していない様なのであるが。
「今日の風呂当番、都子やどぉ! 洗って沸かしときよぉ」
佑香は靴を脱ぎながらそう云うと、真っ直ぐ和室へ向かって、畳んだ蒲団に体を投げ出す。
「こらぁ、蒲団敷いてから寝ェやぁ」
「風呂入るってば」
「せめて着替えて、歯ぁ磨き」
「聞いとるか? 風呂!」
「そんな酔っぱらって入ったら、溺れるど」
「酔ぉてへん」
「どこがや」
「えゝから沸かしときよ」佑香は大儀そうに体を起こして、「沸かしとる間に珈琲飲んどくわ」
「ありがと」
「はぁ? なんそれ。都子の分淹れるゆうたっけ?」
「よろしくなぁ」
「むかつく」
都子は風呂を洗いに行き、佑香は珈琲の準備を始める。電気ポットに水を足して湯沸かしスイッチを押してから、一回分ずつ個包装にされた珈琲のフィルターを、二つのマグカップの上にそれぞれ広げて置く。湯が沸き、コーヒーの粉全体に軽く湯を掛けて暫く蒸らしてから、フィルターに小さな「の」の字を書きながら注いでいる所へ、風呂の湯沸かしを仕掛け終えた都子が戻って来た。
「えゝ匂いやな」
「この一服が至福やねん」
マグカップに十分珈琲が満たされると、佑香は未だお湯の残っているフィルターを流しの三角コーナーへ抛る。珈琲の最後の一滴は、浮いてる油分や雑味まで一緒に落ちて仕舞うので、避ける様にしているのだ。
「はいよ。お疲れさん」
「お疲れ」都子は佑香からカップを受け取り、立った儘一口啜る。「佑香の珈琲は旨いなぁ。流石喫茶店バイトリーダー」
「別にバイトリーダーちゃうし。褒めてもやっすい珈琲しか出ぇへんで」
「十分や」
「座って飲み」
都子は云われた通り食卓の椅子に座ると、両手でカップを抱えて一口、二口啜り、ほうっと溜息を吐く。
「都子の能力、何時か研究したるからな」
佑香も珈琲を啜りながら、唐突にそんなことを云う。
「なんや。解剖すんのか?」
「せえへんわ! あたしのこと何や思とんねん。数学者やど!」
「学生やんけ」
「やかぁし!」
喧嘩口調ではあるが、佑香は機嫌良さそうに笑っている。都子はそんな佑香を眺めて、なんとなく優しい眼になる。
「研究結果聞かされても、うち理解でけへんけどな」
「あかんやん!」
そして二人で笑った。
神田の在宅日
一
息子が家に帰って来るのは、略一年半振りの事だった。
神田真一郎は、如何にも落ち着かず、立ったり座ったりを繰り返している。
「少し落ち着いたら如何なの? 鬱陶しいんですけど」
妻の早苗に窘められた。その妻も、先刻から同じ食器を何度も洗っている。それを指摘して口論になるのも億劫なので、黙って椅子に座り直し、文庫本を開く。
「達也は何時に来るって云ったかな」
同じ質問を何度したことか。訊かずとも判っていることである。然し他に発する言葉が思い付かない。無理に喋らずとも好い様な物なのだが、何か云わずには居れない。
文庫本の頁は、朝から一つも進んでいない。
「お掃除したか知ら」
妻が食器洗いに飽きて、台所から出て来た。
「今朝、家中の掃除をしていたと思うけど」
「あらそう……リビング未だじゃない?」
「三回ぐらいしたと思うよ」
「そうだっけ……廊下が未だか知ら」
「雑巾掛けまでしていたじゃないか」
「そう?」
二人にとってたった一人の子供である達也は、昨年の春先に大学の卒業を目前にして失踪し、内定した企業にも一度も顔を出さない儘、秋には最悪の形で真一郎の前に現れた。X国大統領の暗殺者としてである。真一郎達はその凶行を阻止し、達也の身柄をX国に送致した。真一郎にとっては苦渋の決断であった。
早苗には詳しいことは話していない。唯、達也を見付けたけど体調が思わしくない為、海外の特殊な病院に入院させたと伝えただけで、早苗は何も問い返さず、その儘受け入れていた。頭から信じていた訳ではないのだろうが、追及したところで苦しい真実が待っているだけだと感付いていたのだろう。唯黙して、堪える様にして呑み込んでいたのだろう。
事情を熟知した上で、自らの手で息子を他国へ引き渡さざるを得なかった真一郎と、何も識らない儘只管に堪えて、期限も知らずに待ち続けていた早苗と、何方が辛く苦しい日々であったかなど、較べても意味はない。そのたった一人の息子が帰宅すると云うこの日、浮足立つ彼等を誰が咎められようか。
帰宅すると云っても、現在の仕事の関係で一時的に顔を出すだけである。未だX国の監視下に在る身の上なので、実家に戻ることなど赦されていない。然しそんなことは関係ない。二人にとっては、息子の久し振りの帰宅であることに違いは莫いのだ。
「何時だったか知ら……」
遂に早苗までが、真一郎と同じ様な問いを発し始めた。
「確か、一時の約束で……」
先程質問した張本人が、同じ質問に対して回答している。
「お昼は」
「済ませて来ると云っていただろう」
「吁……じゃあ、お茶と……何かお出し出来るようなお菓子有ったか知ら」
貴人でも出迎えるかの様に、そゝくさと迎賓の準備を始める。未だ朝の十時である。
「母さん……早苗、少し、落ち着け」
「やぁね、落ち着いてるわよ」
食器棚を開けたり閉めたりしている。そんな処に客用の菓子など有るまいに。
「未だ時間があるんだ。テレビでも見て――」
「あたし! お買い物行ってくるわ!」
早苗はそう叫ぶ様に云うと、エプロンを脱ぎ捨てゝ、買い物鞄を提げて家を飛び出して行った。
後には間の抜けた顔をした真一郎が独り、取り残された。一緒に付いて行くと云えば良かったと、数秒後に非道く後悔した。然し今更後を追うのもバツが悪いので、仕方莫くテレビを点ける。
警備会社なんて職種であるのに加えて、部隊員達の大半が生徒、学生であることもあって、業務活動は土日に当てられることも多く、従って世間一般で云う所の平日に休暇が設定されている。この日も仕事が休みの水曜日だった。平日朝のテレビ番組は淡々としたものである。ニュースの時間も終わり、なんだか退屈な情報番組位しか遣っていない。地方局では時代劇をしていた。録り溜めした録画を漁ってみるが、余り見たいと思うものも無かった。大抵妻が録画したドラマか、NHKのドキュメンタリーか、惰性で録っているバラエティ等の類である。気軽に流せておける物は無いかと、録画一覧のタイトルを眺めていたら、中年男性が食事をするだけの短いドラマが有ったので、それを再生した。全編通して略何も起きず、主人公のおっさんが時々微妙に困った目に遭って、街の定食屋等で美味しい物を食べて、嫌なことを忘れると云う感じのドラマだ。何も考えずに垂れ流しておける。
然し他にすることも無い為、二話続けて垂れ流している内にそんなドラマにさえも引き込まれて行く。主人公が焼き肉を頬張っている場面に、思わず喉が鳴る。ゴクリと生唾を飲み込んだところで、妻が帰って来た。
「何観てるんだか。暢気な人ね」
買い物鞄を台所に置き、昼の準備を始める。トントンと云う小気味佳い包丁の音、フライパンで何かを炒めるジュウと云う音、鍋のお湯が沸騰する音。そんな音に包まれている日常が、真一郎は好きだ。自分で料理をすることもあるが、大抵は妻の料理を頂いている。こんな在り来たりな日常が、幸せなんだと、噛み締めている。
たいして時間を掛けることなく、昼食が出て来た。未だ十一時半である。稍早目の昼食だが、真一郎は腹の虫が啼くのを自覚した。
「そんな録画観てるから、お腹空くのよ」
昼食を配膳する妻が、呆れた様に云う。白米と味噌汁と、青椒肉絲と、漬物。二人だけの昼食なんて簡単なものだ。
「こう云うのは、ご飯前に観ちゃ駄目。食後もお腹一杯で観る気にならないから、食べながら見るのが丁度好いのよ」
真一郎の向かい側に着席した早苗が、いただきますと云うと、真一郎もそれに続けて、いただきますと云う。テレビの中の主人公も、少し遅れて、いただきますと云った。
タイミングが可笑しかった様で、早苗はふふふと笑った。真一郎も連られて頬が綻ぶ。
「やぁね。あっちの方が美味しそう」
「何云ってんだ、こっちも美味しいよ」
早苗は美しく微笑むと、「何莫迦なこと云ってるの。手抜きご飯よ」と云って、ピーマンを口に運んだ。
如何やら今朝の動揺も治まって来た様で、二人で穏やかな昼食を済ませると、早苗は台所へ食器を下げに行き、真一郎は文庫本を開いて、今朝以来初めて頁を繰った。
然し真一郎の意識は、直ぐに文庫本から逸れて中空に浮いて仕舞う。達也から連絡があったのは、昨夜遅くであった。探している人物に関する手掛かりを採取する段取り中だと云うことで、それに際して協力を仰ぎたいと云う話だったか。取り敢えず何を云っているのかよく解らないが、協力出来るところは惜しみなく手を貸すと云うのは、佐々本部長とも佐々木探偵とも合意が取れていることであるので、問題は無い。電話やメール、若しくは都子の亜空間等で話せば済むことの様でもあるが、達也は稍歯切れの悪い感じで、直接真一郎と会話をしたいと云う様なことを云っていた。その際に、自宅への訪問を提案して来た。
思うに、全ては唯の口実で、達也も自宅に帰って来たがっているのではないかと思う。現在の立場上、大っぴらに帰省などと口に出来るものではないので、色々と理由を付けて、飽く迄業務の一環として立ち寄るだけなのだと云い訳しているに過ぎないのだろう。それが悪いと、真一郎は云う心算はない。否、悪いどころか大歓迎である。真一郎はそれでも、五月以来何度か達也と逢って、共に仕事をし、多くの時間を共有して来ている。早苗に於いては、全く達也の顔も見ていなければ、声も聞けていないのだ。真一郎ばかりが独占して好い訳がない。是非とも、母親と逢わせて、十分な会話の時間を持たせて遣りたい。達也の為にも、早苗の為にも。
保護観察をしているカールが如何思っているかは解らないが、これまで二人の関係性を観察して来た限りに於いては、決して達也のそうした活動に対して、非協力的でもない様な気がする。寧ろ「自立支援員」として、達也の心に確り寄り添えている様に見える。X国の思惑や指示が何の様なものであるのかは判らないが、カール本人は自らの名告り通りに、保護観察官としてより自立支援員として立ち回っているのではないかと、真一郎は思うのだ。
なんとなく、台所で洗い物をしている妻に眼を遣る。今朝より落ち着いたとは云っても、小さく鼻歌など唄いながら、何時もより浮足立っていることに変わりはない。皿を割ったりしなければよいが。
達也が帰らなかった日。あれは、達也の友人である菊池健介の葬儀の日。その頃真一郎は、単身赴任をしていて家には居なかった。EX部隊の設立準備が粗方仕上がり、全国を回りながらメンバ候補を探していた時期だったのだ。葬儀に顔を出す為、その日に限って一旦都内に戻ってはいたが、自宅には寄らず、深夜に掛けて佐々本と次の行程の打ち合わせをしている最中に、妻の早苗から電話があり、心配そうな声で、達也が帰らない、連絡が付かないと、そう云われた。
その時の真一郎は、警察を退いて久しかったのだが、公安時代からの上司である佐々本を通じた連絡経路は依然として生きており、警察が知っていることは略筒抜けの状態であった。健介の事件に就いては達也が第一発見者であり、警察に事情を聴かれたりしていたことも知っていた。一度は容疑者として挙がっていたことさえ知っていた。現場にいたのだからこれは致し方のないことではある。然しそうしたことは一切、早苗には伝えていない。
達也が家出をしたのだとしても、それは健介絡みの事なのだろうと察していた。それ故早苗には、自分が探す、心配はない、心当たりが無いことも莫いと、若干の嘘を交えて宥めておいた。
そして、心配を一手に肩代わりした。
それから暫くして、或る暴力団の内部で、組員が一人粛清されたらしいと云う情報が入った。そしてその現場に達也が居たらしいと、稍あやふやな付加情報まで付いて来た。証拠が揃わず、その件に就いては検挙まで至らなかったのだが、其処に達也が居たと云うのが真実なのだとしたら、達也は一体如何な危険な道に足を踏み入れているのか。如何したって、早苗に報告なんか出来るような話ではなかった。肩の荷物は一層重くなった。
それと前後してX国より、訪日する大統領の護衛の依頼が来た。これは正確には、国から国へと安全の保障を要求する、外交事案の一環だったのだが、佐々本が稍大袈裟に各省庁にEX部隊の宣伝を流していたこともあり、直ぐに外務省から白羽の矢を立てられて、その当時は未だクラウンしか隊員が居なかったのだけど、佐々本が調子好く引き受けて仕舞った手前、早急にメンバを揃えなければならなくなっていた。
真一郎は心に痞えを持った儘、大慌てで都内へと舞い戻り、未成熟ながらも将来有望と思われる少女達をメンバとしてスカウトする決心をせざるを得なくなった。地方を回ってもさっぱり成果が得られなかったのだ。川崎の小学校に、精神感応に覚醒したての少女と、転送の素養を持った未覚醒の少女が居ることは、少し前から判っていたのだけど、未成年者を巻き込むことに関しては当初全く乗り気ではなかった。然し背に腹は代えられず、真一郎の成長促進効果を利用して彼女らの能力の発現、増大を促しつゝ、それと前後して、更に幼いながらも公安時代の同僚が英才教育をしていると聞いていた澤田弘和と云う少年にも面会し、春先にクラウンの伝手から売り込みに来た天現寺都子と云う異能者をコーチに立てゝ、防御能力の訓練を始めた。
こうして要員は充実して行ったが、真一郎の心が晴れ渡ることは莫かった。そんな中途半端な気持ちで居た所為か、転送の少女である蓮が覚醒する迄には想定より時間を要して仕舞い、案件決行の略一週間前に漸く能力の発現を確認し、精神感応の少女に関しては存在は感知していたのに特定に時間を費やして仕舞って、その異能者が知佳であると特定出来たのは実に出発の前日滑り込みと云う、非常に余裕のないギリギリの行程となっていた。
殆ど突貫状態のチームでX国大統領の護衛に向かったのだが、それでもクラウンや蓮の人柄の御蔭で、チームの結束は次第に固まり、且つずっと真一郎と行動を共にしていた為に、少女達を始めとして隊員達の能力もぐんぐん向上して、任務も恙なく熟せる様になって来た辺りで、真一郎の許に佐々本から情報が入った。
達也が、刺客として現場に送られた様だと。
真一郎は大いに取り乱し、隊員達に気取られない様に自分一人で対処しようとしたのだけど、その目論見は大いに外れることとなった。先ず隊員達の注意を逸らせる為に散開させようとしたのだが、遠隔で対処することに慣れていた隊員達に疑念を抱かれて、仕方莫く一人で達也の捜索に向かったところを矢張り遠隔で隊員達に監視された結果、真一郎が達也を発見すると同時に、それが真一郎の息子であり、今将にX国大統領に害を為さんとしているところであると、たちどころに全員に認知されて仕舞った。最早何一つ隠し切れない状態となり、隊員全員が心配そうに見守る中、然し頭に血の上った真一郎は、達也を確保すると同時にその頬を殴りつけ、それをクラウンに咎められて、漸くその時、我に返ることが出来た。
達也が家出をしてから、半年以上の月日が流れていた。妻に対してはずっと誤魔化し続けていたが、誤魔化し切れてはいなかっただろうと思う。それでも妻が一切何も訊いて来なかったのは、真一郎を信じていたからと云うよりは、事実を知ることを恐れていたのだろう。――こんな事実は、矢張り早苗には聞かせられない。
真一郎は一気に意気消沈した。
捕らえた達也は、稍戸惑い、且つ怯えながらも、最後まで抵抗を続けていた。如何やら達也は、洗脳を受けていた様であった。そんな達也を真一郎は、X国へ引き渡さなければならなかった。
X国で達也は取り調べを受けながら、洗脳解除の施術を受け、療養しながら、参考人として情報の提供を行っていた。洗脳被害に遭っていたこと、及び素直に情報提供したことにより、司法取引が為されたのか、達也は特に罪に問われることなく、自称自立支援員のカールを伴って五月の連休明けに、日本に帰って来たのだ。病人と云う扱いなのか、執行猶予の扱いなのかは、微妙なところであったらしい。自立支援員は、その実、保護観察官なのだとも聞いていた。そして達也は、X国の使命を背負う形で帰国して来たのだった。
X国の思惑としては、達也を洗脳した人物――これは大統領護衛の過程で事故死しているのだが――その人物に指示を出していた人物の特定と捜索、即ち大統領暗殺テロの指揮命令系統を調査させたかった様なのだが、達也の本懐は別にあった。達也は、健介を殺した犯人を特定して、確保したかったのだ。若しかしたら始めの内は、報復したがっていたのかも知れない。そんな危険な心理状態をX国も察していた為、カールの随行だけでは足りないと判断し、EX部隊に対して正式に、達也護衛の依頼をして来た。達也の追っている犯人は、相当に危険な殺し屋だったのだ。
結果的に殆どEX部隊の活躍により、犯人の殺し屋は無事逮捕されたのだが、指揮系統の方は全く辿れなかった。X国としてはその犯人も一枚噛んでいるだろうと期待していた様なのだけど、蓋を開けてみれば全くの無関係だった。唯依頼されて健介を殺しただけの、本統に只の殺し屋だったのだ。健介が殺された理由も、大統領暗殺とは全く無関係だった。X国としては盛大な空振りだった訳だ。
それでも達也は、律儀に責任を感じている様で、引き続き日本に残ってX国からの指令を継続している。当てにしていた経路が辿れなくなったのに、一体何の様に何を調査しているのか判らないが、カールの人脈や権限などを頼りながら、何かしらの成果に辿り着こうとしている様ではある。今日持って来る話は、恐らくその関係なのだろう。人物捜索の手掛かりを採取する為の協力を仰ぎたい――何度反芻してもよく解らないが、その「人物」と云うのは、大統領暗殺テロの際に兵隊達を洗脳で操っていた黒幕、そしてそれは、先日の会談でも云っていた、双子の両親を殺害させた能力者、なのだろう。同一である確証は未だ無いと云っていたか。今回の手掛かり採取と云うのは、何方からのアプローチなのだろうか。協力とは一体、何を期待されているのか。何の能力者が必要なのか。知佳の読心か、クラウンの幻覚か、都子の空間術か。将又蓮の転送か、ユウキの防御及び治癒か、真逆の真一郎の念動か。
真一郎は再び早苗を見る。復秘密が増えたりしないだろうか。不安にさせることにならないだろうか。いっそ総てを打ち明けて、負担を共有すれば……
否、駄目だ。
真一郎は文庫本に視線を落とし、目を伏せる。矢張り自分が背負わなければ。これは、達也の苦悩に寄り添って遣れず、長いこと放置して来たが故に自ら招いて背負い込んで仕舞った、十字架なのだ。一人で背負わなければならないのだ。達也が如何な危険なことをしようとも……
そこで真一郎は、自嘲気味に笑った。危険なことをすると決まった訳ではない。勝手に悪い想像をして、勝手に落ち込んで、勝手に何かを決意しているに過ぎない。何とも滑稽な話である。
先ずは話を聞くのだ。安心も心配も、その後すればよい。想像で消耗して如何する。
カールが付いてるんだ。大丈夫だ。――そうなのか? ――いや、カールは飽く迄、X国の利益の為に動いているのではないか。達也に寄り添うのも、達也の暴走が国益に反する結果を生み兼ねないからなのではないか。だとすると――否、そうなら矢張り、達也を護ってくれるのかも知れない。
一人で色々考え、想像を逞しくして、真一郎は一喜一憂している。何時の間にか正面には早苗が座って、そんな真一郎の様子を無表情に眺めていた。
「如何なお話?」
早苗の言葉に、真一郎は現実に引き戻された。
「は――」
早苗は真一郎の手元を指差す。
「いや、その本ね。如何なお話なのかなって」
「吁、否――」
答えられなかった。自分は何を読んでいたのだろう。読み進んだ気になっていたが、
「これは――」
開いていたページに左手の親指を挟んだ儘、表紙を改める。里蔵光短編集。なんだっけこれ。なんでこんな本がうちに在るのだろう。聞いたこともない作家名である。
「読んでないでしょ」
早苗に見透かされて、僅かに狼狽えた。
「それあたしの本。なんで読んでるのかなって思って」
「欸、そうなのか――いや、読んでるよ、面白いよ」
「如何な、お話?」
「それは――」
早苗はケラケラと笑った。
「友達の知人のね、それはインディーズ本。ちゃんと流通してる本じゃないのよ。内容も微妙でしょう? なんか押し付けられちゃって、捨てる訳にもいかないし、だから置いといてるんだけど。なんでよりによってその本選んだのかなって――」笑って、「もう、可笑しくて」
そしてまた、ケラケラと笑う。真一郎は赤面した。
「そんなに笑ったら、書いた人に悪いよ」
「知らない人だもの。気にしても意味ないわよ」
真一郎は、なんだか白けた気持ちで、紙面に視線を落とした。狐と菫。そんな題だった。非常に短い作品だった。
読んだら、なんだか儚い気持ちになって仕舞った。
二
達也は一時きっかりに来た。玄関のベルが鳴り、早苗がいそいそと出迎える。モニタ越しに達也の顔を確認した時の早苗の表情を、真一郎は暫く忘れられないだろう。それは最上級の喜びであり、そこはかとない不安であり、若干の戸惑いであった。
「母さん。ただいま」
玄関を入って先ず、達也はそう云った。早苗は目頭を押さえて、微笑んでいた。
「うん、まあ、上がれ」
真一郎は稍ぎこちなく、達也を促すと、居間へと先導して歩いた。達也にとっては勝手知ったる我が家であるが、素直に父の背を追う様に尾いて行った。
茶の用意された食卓に真一郎と早苗が並んで座り、その対面に達也とカールが並んで座る。早苗の正面には達也、真一郎の正面にはカールが座った。達也は真一郎と会談に来た筈なのに、何とも不自然な席次となった。
「達也、身体はもう大丈夫なの? ちゃんと食べてる?」
着席するなり、早苗が息子に、母親としての声を掛ける。達也は優しく微笑んで、母親の眼を凝と見返した。
「心配掛けて御免。殆ど大丈夫と思うんだけど、未だヘルパーが付いて来るんだ」
そしてカールを目で示す。
「支援員のカールです。よろしくお願いします」
達也の切っ掛けを貰って、カールが挨拶しながら、頭を下げた。早苗も眞一郎も、軽く頭を下げ返す。
「しえんいん?」
頭を挙げると、早苗は遠慮勝ちにカールを見る。カールはその視線に、優しい微笑みで返した。
「達也君は、精神的な不調を患いまして、X国の大きな病院で手当てしていたのです。漸く外出出来るまでに恢復はしたので、帰国の許可も出たのですが、未だ完全に独りには出来ないと云うことで、私がサポートで付いています」
「そうなの……何があったのか深くは聞かないけど……元気な姿を見られて佳かった」
そう云って早苗は、そっと目を伏せた。
真一郎が早苗に如何説明しているか、早苗が何処まで把握しているかに就いては、事前に三人で認識を合わせてある。それに基づいた、若干嘘の説明である。真一郎も達也も、稍後ろめたい顔付きになるが、直ぐに振り切る様にして、達也は真一郎を見据えた。
「それで父さん、仕事の話なんだけど」
「噫」
「今回、中川春樹君にY国へ行って貰おうと思ってるんだ」
「はぁ?」
真一郎が間の抜けた声を発した横で、早苗が徐ろに席を立つ。
「この先はあたし聞かない方が良さそう。――どうせ聞いても解らないしね。――うん。お洗濯とかして来るね。三人でお話続けてゝ」
そして居間を去って行った。三人は早苗を視線で見送ってから、改めて会話を続ける。
「春樹ってあの双子だろう? 何だってそんな――Y国に? 何で?」
「先ず大前提として、EX部隊は前面に出て来て欲しくないと、否、ちゃんと云うなら『関わりたくない』と、依頼者からは云われているんだ。尤もそれを希望しているのは姉の秋菜の方なんだけど」
「なんだ、それじゃあうちの出番は無いだろう」
「直接関わらなければ好いと思うんだ。恐らくうちの探偵社に依頼をして来た時点で、EX部隊への期待は少なからずあると思ってる。それでも、鉢合わせはしたくないと、そう云うことみたいなんだ」
「そうか――嫌われたもんだな」
中川姉弟の保護者でもある久万組の会長は、二人を任侠の世界に置いておくことを善としていない様で、EX部隊への引き渡しを二人に提案したことがある。その時の様子は都子の作る亜空間から監視していたのだけど、二人の拒絶反応には凄まじい物があった。拒絶と云うよりは、久万会長の元を離れたくないと云う体だったのだけど、何れにしても、EX部隊に移籍することを拒み、それ以来EX部隊を毛嫌いしている様なのである。真一郎にしてみれば、とばっちりも好い所なのであるが。
「それでも春樹君の方はそれ程嫌っても居ない様だったし、Y国は危険な国でもあるから、亜空間からの援護をお願いしたいって云うのが――」
「何でそんな危険な国に、あの子を派遣するんだよ」
真一郎は達也の発言を遮って、噛み付き気味に訊いた。
「その辺は、所長の考えでもあるんだけど――彼ら自身のことだし、最終的な納得感を得る為にも自分達で行動させた方が好いとか、春樹君は洗脳された上で自らの手で両親を殺害したことになるんだけど、それに就いての気付きも自然な流れの中で自ら到達した方が好いのではないかと云う配慮とか――」
「よく解らないな」
「うんまあ、所長の考えは僕も、余り付いて行けていない部分も多いんだけど――」
「お前は、自分が洗脳されていたと自覚した時どうだったんだ」
「え――それは――」
突然質問が自分自身に向けられて、達也は狼狽した。カールが横眼でその様子を窺っている。
「吁、ごめん、今の質問は適切ではなかったかな――」
「いや、好いんだけど――でも僕の場合とはまた違うと思うんだ。――まあそれでも、僕の場合自覚とかそう云うのは余り意識していなかったけど、少しずつ毒が抜けて行く様な感じで――」
「達也の場合は、少なからず薬物が使用されていたこともあって、極めて科学的な療法で解毒のプロセスを踏みました。中川春樹は完全に能力者による洗脳であるので、若干事情は異なって来るでしょうね」
カールが横から補足する。
「僕自身、余り覚えていない部分も多くて――参考にならなくてゴメン」
達也は緩りと目を伏せた。今度は真一郎が周章する。
「否、好いんだ、済まなかった」
僅かに気拙い沈黙が流れる。
「兎に角春樹氏には、Y国へ行って貰うことになったので、援護の方は宜しくお願いします」
カールが重い空気を一掃する様に、極めて明るい調子で後を継いだ。そして二人の顔を交互に見ながら、簡単な所感を付け加える。
「彼にとってもこれが、転換点になるでしょう」
真一郎は
「諒解った。この話は請けよう。日取りを教えておいてくれ」
達也も父に応える様に、急度顔を挙げて、「秋口の予定だよ。詳しい日程はまた後日。先方との調整もあるし、都子さんの都合にも合わせたいから」と云った。
「噫、そうだな。本件に都子さんの空間術は必須だ」
「あと、紛争地区と云うこともあるから――」
「ユウキ君だな。諒解っている」
真一郎は深く頷いた。
「よかった。これで懸念の一つは払拭出来た。月末の会合では、その辺を踏まえた話をさせて貰うと思う」
「然し、何でY国なんだ?」
達也は一呼吸置き、茶を啜って喉を湿らせてから、続ける。
「当時の事情に通じている工作員が、今Y国に戻っているんだ。中川家が在ったのは静岡なんだけど、当にその時期、其奴は静岡で活動していたらしい。如何も中川の父親に宛てたメールも、送っている様なんだ」
「何だ、そこまで行ったら大当たりじゃないか。この上何を確認するんだ?」
「メールでは肝心な事までは書かれていなかったから。直接本人にコンタクトして、訊いて来て貰おうかと」
「随分無茶なことをさせるんだな」
「まあ、彼自身も能力者だし、大抵のことは対処出来るでしょ」
「そうかな――それに、そっちが洗脳の犯人ってことは莫いのか」
「ないね。犯人は確実に政府側だよ。遣り口からしてもゲリラの仕事じゃない。メールも、危険が迫っていることの警告と、彼等家族を案じる様な内容だった」
真一郎は腕組みをして、「なるほどな」と云うと眼を閉じた。
「その、中川姉弟経由で辿っている人物と、お前が
達也も腕組みをして、難しい顔を作る。
「うん――そこのところは未だ確証はないものゝ、でも僕の感触的には、可成好い線行ってると思うんだ」
「そうなのか?」
「カールに提供して貰った情報に由れば、秘書官と国防大臣が洗脳されたのは、何れも日本に視察しに来た時の様なんだ。地域、時期なんかも略絞り込めてる。本人たちの証言から、その時の様子なんかも大体解っていて、矢張り日本人ぽい女性の、碧い瞳に魅入られたと云う様なことを――」
「女性なんだ?」
真一郎は意外そうに問い返した。
「あ、そうみたいだね。中川姉弟からの情報では如何も男性っぽい表現だったんだけど、秘書官と大臣は女性と認識している様で。実際にどっちなのかは判らないけど」
「まあ、現段階では断定しない方が良さそうだな」
「そうだね――まあ兎に角、そんな体験が酷似しているのと、大臣たちが洗脳されたのが東京南部と神奈川北部の辺りなんで、中川姉からの新横浜で下車したと云う情報とも符合するし、――これも断定は出来ないけど、両方からのアプローチで一つに収束すれば、ラッキーかなと云う感じ」
「ふうん。中々地道な捜査だな」
「しょうがないよ。探偵ってそう云うものだろう」
真一郎は、唯でさえ細い眼を更に細めた。元々達也は、家電メーカーへの内定を取っていたのだが、それは結局失踪と共にふいにして仕舞った。然して今、探偵として立派に活動している達也が目の前にいる。佳かったのか悪かったのか……家電メーカーには迷惑を掛けて仕舞ったが、学生時代より余程活き活きと、確り独り立ちしている達也を目の前にすると、何とも云えぬ感慨が込み上げて来る。
「なんだよ、何か云いたげだな……」
達也が稍含羞む様にして目を逸らす。心情が伝わったのだろうか。カールが温かい瞳で二人の様子を見守っている。
「うん。話は解った。月末に具体的な話を詰めようか」
「よろしくお願いします」
達也が他人行儀に頭を下げる。
「さて、未だ時間あるのか? 母さんと、話して来たら如何だ」
真一郎の提案に、達也は不意を突かれて眼を見開き、次にカールの顔を窺った。カールは小さく頷いて見せた。
「じゃあ――鳥渡失礼して」
「行って来い」
洗濯機の回る音以外、家事の音が聞こえて来ないと云うことは、早苗は寝室にでも引っ込んでいるのだろう。達也にそう告げて、居間から追い出した。カールは座った儘で、右手を耳に当てゝいる。真一郎は軽く息を吐いて、湯呑を持って席を立った。
湯呑を軽く濯ぎ、お湯を注いで、少し置いてから急須に移す。適度に冷めた湯が、二煎目の茶葉を潜り、再び湯呑へと注がれる。色も香も稍衰えた茶を啜りながら、真一郎は不図カールに視線を遣る。
右耳にはイヤホンが装着されている様だ。
「それは、達也の音声を――」
なんとなく訊いて仕舞った。カールは少し困った様な顔をして、真一郎を見据えながら、「保護観察も、私の役割なので」と早口で云った。
少し解らなくなった。カールは支援員として、達也に寄り添っているものと思っていたが、矢張り監視の手も緩めていないのか。今日のことは、何らかの形でX国にも報告されるのだろうか。
凝と見ていたら、カールがニコリと笑い返して来た。全く善人の笑みである。
信じて好いのだろうか。
真一郎は、複雑な表情をした。
知佳の出勤日
一
七月最後の日曜日、朝から都子が迎えに来て、知佳を亜空間へと連れて来ていた。何時もの様に応接用の長ソファが四つ、桝形に並べられていて、其処にEX部隊の全員と、探偵達が座っている。
「知佳おはよう! 今日暑かったね、こゝは涼しいけど!」
最後に連れて来られてソファに座ろうとする知佳に、蓮が明るく声を掛ける。
「おはよう。部屋から直接連れて来られたから、暑いかどうか判らなかったよ」
「何それ。知佳の部屋、空調完備か」
蓮に云われる迄特に意識もしていなかったが、今月に入ってから家のエアコンは略付けっ放しになっている気がする。蓮の家は父子家庭で団地住まいだし、若しかしたらエアコンも節約しているのかも知れない。出来るだけ返答が嫌味にならない様に気を付けなければと思いながら、知佳は「そんな良いものじゃないと思うけど……でも昨夜はエアコン付けっぱで寝てたかも」と答えた。
蓮は凝と知佳の瞳を見て来る。何となく目を逸らして仕舞う。
「ほらもぉ、変な気遣いしないでよね」
「え……ゴメン」
蓮に背中をポンと叩かれた。
「ごめんも禁止」
そして屈託なく笑う蓮に、思わず笑い返す。蓮には敵わない。
「自家だって別に、エアコン付けられない程貧乏な訳じゃないし。お父さんの稼ぎが少ないのは本当だけどね」
そして復笑う。知佳はそれに対して、如何答えれば好いのかよく解らなかった。
「はいはい、貧乏自慢はその辺にしとき。お仕事やで」
都子が手を叩きながら、二人の雑談を止めた。それを受けて、神田が口を開く。
「扠皆さん、全員揃ったところで、始めたいと思います」
神田が一人一人に視線を投げる。知佳、蓮、都子、ユウキ、クラウン、これがEX部隊の隊員達。そして佐々木探偵所長、探偵見習で神田の息子の達也、事務所事務員で達也の婚約者の彩、達也の支援員のカール。探偵社にはもう一人探偵が居た筈なのだけど、その人は此処には来ていない。先々月この探偵社と協業した際にも、その探偵は留守番だった。今回も留守番だろうか。知佳はその探偵の名前を聞いた気がするのだけど、忘れて仕舞った。何かの折にちらりと顔を見ただけで、会話も挨拶もしたことが無いのだから、仕方がない。
兎に角、今この場には、神田も含めて総勢十人居ることになる。その面々を全て確認してから、神田は次の言葉を継いだ。
「今回の案件は、佐々木探偵社からの依頼です。前回も説明しましたが、軽くお浚いをしておきます。先ず探偵社は、昨年のX国大統領襲撃の際の、秘書官と国防大臣を洗脳した犯人を追っていました。それは
こゝ迄一気に話して、神田は息を吐いた。
「その中川姉弟の依頼を進める方に、一旦は注力することとなったそうです」
そして神田が一呼吸置くと、達也が後を引き継ぐ。
「今回皆さんにお願いしたいのは、中川春樹の護衛です」
EX隊員達は稍戸惑いながら、顔を見合せた。
「ゆうとることが唐突過ぎて、訳解らん」
都子の突っ込みに、達也は微笑みで返し、「それをこれから説明させて頂きます」と云った。
「先日、うちの所長が久万組から依頼を請けて来ました。その内容が、洗脳の能力者を探し出して欲しいと云うもので」
「えっ、それって!」
蓮が思わず口を挟む。知佳も恐らく蓮と同じ気持ちだった。
「そうなんです、洗脳の能力者なんかがそんなに何人もゴロゴロ居るとは思えないですし、特徴を聞けば聞く程、僕が元々追っていた人物と同じとしか思えないのです」
「じゃあ……」
今度は知佳が合の手を入れる。
「それもあって、久万組の――詰まりは中川姉弟の依頼を、先に解決した方が良いのかなと思ったんです。実は僕等の方は結構手詰まり状態で、中々進捗が無かったところだったので、願ったりな状況ではあったのです」
「何で中川姉弟?」
蓮が疑問を口にする。
「それは――」
達也は子供達の顔を順に見てから、神田の方を見た。神田が慎重に頷くと、達也は一度深呼吸をしてから、中川姉弟の両親のことに就いて、寛悠と話し始めた。子供たちは一様にショックの反応を示してはいたが、達也が心配していた程には衝撃を受けていない様だったので、一通り語り終えた達也は、安堵の溜息を吐いた。
「辛く、ショッキングなお話ですが、冷静に聞いて頂けて良かったです」
「こう云うの、慣れちゃいけないんだろうけど……でも、あたし達も色々見て来たから……」
蓮が神妙な顔になって答える。流石にいつもの軽薄さは感じられなかった。
「流石、EX部隊の隊員ですね。子供と思って侮ってはいけませんね。立派なレディだと思います」
「やだ、そんな話蒸し返さないでよ」
蓮は顔を赤く染めて、含羞む様に横を向く。彼女は嘗て達也に子供扱いされた際に、レディだと云い返したことがある。達也はそのことをずっと忘れていないのだけど、蓮にしてみれば勢いで云った軽口なので、それを云われると恥ずかしさばかりを感じて仕舞うのだろう。
そして知佳は気付く。先程の稍打ち沈んだ空気感が、今の遣り取りで払拭されている。蓮の心は読めないけれど、達也の心からは、安堵の気持ちが聞こえて来る。
意図してしたことなんだ。蓮にレディと云うことで、重くなり掛けた空気を軽くした。
大人達は皆、普段から普通にこんなことをしているのか知らと、知佳は感心した。他人の心が読める知佳だからこそ、こうした技術ももっともっと知って、確り吸収して行かなくちゃならないんだと、気を引き締める。
「――まあそんな訳で、キーマンがY国に居ると云うことなので、春樹さんに現地へ行って話を聞いて来て貰おうかと云う流れになりまして」
達也は説明を続けていた。
「これは彼に自発的な気付きを促す意味もあります。尤もそう上手く行くとは限らないですし、リスクも無い訳ではないんですが、それでもこれは、彼の背負った運命なんじゃないかと、僕は思います。他人の手で解決しても、恐らく彼の中では何も解決出来ないだろうと」
「精神科医みたいなことするのね、探偵って」
蓮が茶化す様に云う。
「まあ、分を超えているとも思いますが、でも、それでも僕は彼を見捨てられないですよ」
「えゝんちゃう」
これまた軽く、都子が援護する。
「自分のケツ自分で拭かすのは当たり前やん。で、そのY国での活動を、うちらが見張ってサポートしたったらえゝねんね?」
「はい。ただ、決して前面には出て行かない様にして頂きたいです」
「春樹はえゝのんちゃうん」
「まあそうですけど、だからって大っぴらには出ない方が良いと思いますよ」
「ふん――まあえゝよ。何時もの遣り方で繋いどくわ」
別の空間と緩く接続して、縮尺に差を持たせることでリアルなジオラマの様な物を目の前に展開する。EX部隊の活動ではすっかりお馴染みとなった、都子の十八番である。
「顎兄は止めときよ、春樹は気付きよるからな」
「わかっとるわい」
顎兄とは、クラウンのことだ。都子は恐らく、クラウンの名を呼んだことが無い。顎が異様に長いので、こんな渾名を付けて仕舞っている。そして止めておけと云うのは、クラウンにも遠隔監視の能力があるのだが、中川春樹にはその監視を察知する能力がある為、使うことで此方の存在を意識させて仕舞うことを警戒しているのだ。判るのは何の視点で視られているのか、と云うことだけらしく、誰が、何処から、と云う所迄は判らない様なのであるが、それでも能力が何時発展し、より詳細に辿れる様になるかは判った物ではないので、用心に越したことは莫いだろう。
前面に出ないのは、神田の成長促進の効果が春樹に及ばない様にする、と云う意図もあるのだ。神田が近付けば確実に彼の能力は強化されて、クラウンによる監視の逆探知も、より深く詳細に行える様になって仕舞うだろう。
そう云えば神田の所為で能力に目覚めて仕舞ったユウキのお母さんは、あれから如何なっただろう、などと、知佳は関係ないことを考えた。そっとユウキを横目で見ると、何だか不安そうな顔をしている。
「ユウくん大丈夫?」
知佳が声を掛けると、蓮もユウキを見た。
「Y国怖い?」
蓮の言葉にユウキは顔を赤くして反発した。
「そっ、そんなことないし! Y国ってさ、ずっと戦争している国でしょ。同じ国の中で、国民同士が」
「よく知ってるね」
「莫迦にすんなよ!」
ユウキは真っ赤な顔の儘で、蓮を睨み付ける。
「そんな国にさ、春樹さんが行くってことは、バリアとか、若しかしたら治療とか、僕に期待されてるのかなって思って、なんか、そう考えると――」
「自信ないの?」
「あるよ!」
そしてユウキは達也に力強い視線を向ける。
「任せてください、確り春樹さんを援護します!」
達也は優しく笑って、首肯いた。
「期待しています。宜しくお願いします」
ユウキは稍引き攣った笑みで、もう一度「任せて」と云った。
何だか蓮がユウキを乗せて仕舞った様だ。当の蓮は、ユウキから見えない様に知佳の陰に隠れて、クスクスと笑っている。これは確信犯だなと思った。蓮も大人張りに、相手の気持ちを推し量った上で、自由に操作して仕舞う。読心は知佳の能力なのに。
「それで、日程なんですが、少なくとも都子さんとユウキ君の稼働出来る日にさせて頂きたいんですが」
「夏休みやからなぁ、うちは何時でもえゝで」
都子があっさりと答える脇で、ユウキが困った顔をしている。
「なんやユウキ、サイパンでも行くんか?」
「さいぱん?」
知佳が思わず訊き返す。ユウキが微妙な笑い方をしながら、それに答える。
「いや、サイパンではないんだけど……お盆休みは多分どこかに連れてかれる。でも僕、何日から何日迄とか、よく判らなくて……」
「親呼ぶか?」
都子がそう云いながら、ユウキの自宅前に転位口を開けた。
「えっと……はい」
ユウキが立ち上がって、自宅のドアを開けて中に入る。そして大して待たされることなく、再びドアが開き、二人を伴ってユウキが帰って来た。
「両親、来ちゃいました」
「おおっと!」都子はやおら立ち上がり、「失礼しました。息子さんにはお世話になってます、天現寺都子、云います」と挨拶して、お辞儀をした。
「ミヤちゃん、ちゃんと出来る人だった」
蓮が小声で呟いたのを、知佳は聞き逃さなかった。斯く云う知佳も、都子のちゃんとした対応は初めて見たかも知れない。なんだかんだ云ってちゃんと大人なのだ。失礼とは思いつゝも、すっかり感心して仕舞った。
「大体何考えとるか解るけどな」
知佳達に向けて都子が小声で云うので、知佳も蓮も、赤面を禁じ得なかった。
二
「いやいや、こちらこそ、弘和がお世話になってます。ご迷惑お掛けしてませんでしたか」
ユウキの父が、畏まって都子に挨拶している。
「弘和の父の、純壱です」
隣でぽかんと口を開けていた母親が、慌てゝ頭を下げる。
「母の由紀です。先日、晴れて皆さんのお仲間に――ほいでもこれ――なんぞどえりゃあ処に呼ばれてまって――」
夫が慌てゝ手を振る。
「あっ、違うんですよ、EX部隊に入隊するとかではなくて。今日は佳い機会なので、ヒロの職場見学に――」
「働いとりゃあすんやなぁ」
母親は感慨深げに、己が息子を見詰めた。ユウキは少し照れ臭そうに、俯き勝ちに含羞んでいる。
「ほいで、どえりゃあ給料もろてまってよぉ。将来安泰だで、後はお嫁さん見付けるだけだがね」
「か、かあちゃん!」
ユウキが真っ赤になって、母に抗議する。蓮がにやついて知佳に視線を投げるが、知佳はそれには全く気付かず、他人事の様に微笑んでいる。
「ユウくんは好いな。もう家族に秘密にする必要なくなっちゃって」
知佳がそんな感想を漏らすと、蓮は期待を外された様に嘆息し、「まあ、そうだねぇ」と緩慢に同意した。
「それで、夏休みの予定ですよね?」
ユウキの父が、話題の軌道修正をしてくれた。父親はユウキの母を振り返る。
「病院のお休み、いつからいつ迄だっけ?」
「予約してくりゃあしたんとちゃうんかね。十日から十七迄、丸っと一週間だがねぇ」
「そうでした、そうでした」父親はぺろりと舌を出して後頭部を掻く。「その前後であれば、何時でも連れてっちゃって下さい!」
「何処行くんですかぁ?」
蓮が軽い調子で尋ねると、母親の由紀はにっこりと笑って、「氷州だがね。オーロラ見るでよ。一緒に行きゃあすか?」
蓮は吃驚した様に目を見開いて、座った儘尻込みする。
「いや、あたしより知佳を――」
「なんでっ!」
知佳も吃驚して、稍過剰な反応を示すと、皆が笑い出した。
「か、家族も一緒なら!」
知佳が真っ赤になりながら、凡そ断られそうな返答をすると、ユウキの母は鳥渡考え込んで、「流石に予約ねじこめんがねぇ。別々に行きゃあせん?」と云った。
「そそそんなお金無いです!」
「お稼ぎでにゃあの」
「いやっ、そのっ……」
結局知佳は真っ赤になって、口籠って仕舞った。
「家族に内緒なんです」
蓮が横から助け舟を出してくれた。扶ける位なら最初から振って来なければ好いのに。
「ほうかいね」
母親はあっさりと引いた。
「ヒロも長ぇこと母ちゃんにゃ内緒にしとったもんで、解らんでもないがねぇ」
ユウキの眼が若干泳いだ。
「うちも超能力に目覚めとらんかったら、ずっと知らんまんまだったもんでさぁ――」
「えっ!」
変な声が上がったと思ったら、クラウンが腰を浮かし気味にして固まっていた。
「ありゃ、顎兄聞いとらんかったんか」
都子が気の毒そうな視線を投げる。
「都子知っとったんか」
「先刻蓮ちゃんに聞いたところやけどな」
クラウンが神田の方を振り返ると、神田は気拙そうに目を逸らした。
「神田さん知ってましたね?」
「そりゃあ、神田っちの所為だからねぇ」
蓮が面倒臭そうに説明した。クラウンは一通りの経緯を蓮から聞いて、結局「うひゃあ」と一言だけ発して、ソファに座り直した。
「ほういや、母ちゃん結局、何の能力に目覚めたんさ」
ユウキが母を見上げながら、軽い感じで質問を発した。
「あー、よぉ解らんのだわ」
「わからんって……」
ユウキは神田を見た。神田は興味深げに、ユウキの母の額の辺りを見詰めている。
「都子さんの時間操作に似ていますね、唯、人称が違うと云うか」
「にんしょう?」
「都子さんは、自分を主体としてその固有時を制御出来るんですが――」
「神田っち、解る様に云ってよ!」
蓮が苦情を申し立てる。
「吁、えゝと……そうですね、固有時と云うのは、物それぞれの時間の進み方なんですが……例えば、光の速さに近い速度で運動すると、時間が遅くなるとか、聞いたことないですか?」
「なにそれ」
蓮は口を半開きにして、随分間抜けな顔をしていた。
「ですよね、小学生では難しいか……ええと、ウラシマ効果なんて云われている、歴とした物理現象なんですが、物凄い速度で運動したり、或いは物凄い強い重力が掛かったりすると、その物、その人の時間は、周りに較べて緩りになるんです。その究極が光で、光の速さになると時間が、つまり固有時が止まります。都子さんの能力は、そうした効果を速度や重力に拠らずに発現させるんですが、その対象は常に自分なんですね。而も面白いのは、固有時を遅くすることも、早くすることも出来るんです。皆さんが『時間停止』と云っているケースでは、あれは固有時を周りより非常に早くしているため、自分達の時計で一分、一時間と進んでも、周囲の時計が殆ど進まない、故に、時間が止まっている様に感じるのです。――都子さんも折に触れて、もの凄く緩りにしているだけで止めてはいないと云う様なことを仰いますが、実際止めることも出来る筈です。但、それって実は、固有時が無限に早くなっている状態で、故に都子さん自身にも物凄い負荷が掛かる筈なので、だからめったに止める様なことはしないのでしょうね。実際、一万倍とかでも全然実用レベルではあるので、止める必要は無いのでしょう――」
「うちの説明ばかりになっとるけど、ユウキ母の能力は如何なっとんねん」
都子の合いの手に、神田は誤魔化し笑いを挟んだ。
「そう、都子さんはそうした効果を自分を含めてのみ発揮出来るんですが、由紀さんは、それを他者主体に行うんです。眼の前の人物や物体、及びその周囲の空間も含めて、時間を遅くしたり早くしたり出来る様です。例えば落下するコップをその周囲の空間ごと止めて、丸でビデオのストップモーションの様に、落下中の姿の儘空中に固定して仕舞う様な――」
「そう云うことか!」
ユウキが合点が行った様に叫ぶ。
「ユウくん、今の説明解ったの?」
知佳は情けない声で、ユウキに訊いてみた。
「いや、よく解らないけど、でも、あの日お母さんが、コップを空中で止めてたのって、矢っ張り時間停止だったんだなって、納得した」
「そんなことがあったんだ……」
「でも、お母さんの能力って防御とかだったんじゃないの?」
ユウキは再び神田の方を見る。
「勿論、自覚しておられるかは判りませんが、防御も可能ですよ。未だユウキ――弘和君程ではないですが、バリアだって張れる筈です。
「そうだて、先刻からユウキ、ユウキ、ゆうとりゃあすけど、それヒロの事け?」
ユウキ母の由紀が、神田の説明に被せる様にして、全く無関係の疑問を投げて来た。
「あっ、それは――ハンドルネームと云うか」
ユウキが赤面しながら応える。
「なんね、名前変えたかったんきゃ」
「ちっ、違うて! 母ちゃん、能力の素質あるけどずうっと目覚めとらんかったもんで、せめて名前だけでも一緒にしよまいて思っただけだて……」
「えゝ子だがね……ヒロはホント、えゝ子に育ったがね……」
由紀がユウキの頭をくしゃくしゃと撫でると、ユウキは
「ヒロに名前戻す?」
蓮が優しく問い掛けると、ユウキは鳥渡戸惑いつゝも母を見上げた。
「えゝがね。うちはこの皆さんと一緒には、よう働かんもんでよ、母ちゃんの名前背負ってヒロが頑張っとりゃあしたら、嬉しいがね」
そうして復くしゃくしゃと頭を撫でられて、ユウキは少し含羞みながら、「ユウキの儘で」と答えた。
「佳い親子」
蓮が嘆息して、微笑む。知佳も何だか温かい気持ちになった。何となく都子に目を遣ると、珍しく優しい微笑みを湛えていた。然しそんな都子と目が合うと、すっと笑みが退いて行き、仕事の目付きに変わって仕舞った。そしてその儘、達也の方に顔を向ける。
「ほんで、目的は遂げたんか?」
都子が達也に確認すると、それまで佐々木所長と彩と三人で何やらごにょごにょ話していた達也が顔を挙げて、「はい、日程ある程度絞らせて頂きました。これで、皆さんのご都合が合えば――」と云って、八月末の日を幾つか提案した。
「うちは何時でもえゝよ」
「僕もその辺りなら何時でも大丈夫です」
都子とユウキが答えると、達也は他の面々を見渡した。
「他の皆さんも、ご都合宜しいですか?」
「わしは必要か判らんけど――まあ何時でも対応でけるで」
クラウンも軽く答える。
「あたしと知佳も、大丈夫だと思うよ」
蓮が勝手に知佳の分まで答えて仕舞った。まあ、大丈夫だけど、と口中で呟きながら、知佳は小さく頷く。
「勿論私もオーケーです。その中で最善の日をお知らせください」
最後は神田が取り仕切り、日程は確定された。
三
一通り当日の段取りが話し合われている間、子供達はなんとなく手持無沙汰になった。佐々木と達也、神田とクラウンが、額を寄せ合って話し合いを続けている横で、蓮が大きな欠伸をした。
「彩ちゃん、今日は静かだね」
欠伸が終わらない内に、頓狂な声でそう云うと、彩は稍びくりとして顔を挙げた。
「あ、あたしはほら、事務員さんだから。お金の事とか、飛行機や必要資材なんかの手配とか、そんなのが忙しくて」
「探偵見習じゃないのぉ?」
彩は、あははははと照れ臭そうに笑った。
「見習いは、たっちゃんに譲ったから。あたしはそのサポートだよ」
「お嫁さん見習だ」
蓮の言葉に彩は一気に紅潮する。
「れれれれれんちゃん! なななななにを云ってるのかなっ!」
「ウケる」
蓮がケラケラと笑うのを、彩は頬を膨らませて睨んでいる。何だか結局、この女性はいつも揶揄われる役回りなんだなぁと、知佳は若干呆れた気持ちで彩を眺める。
彩の心の声は大きめなので、注意していなくてもちょくちょく漏れ聞こえて来る。感受性が豊かなんだと思う。達也への想いも迚も大きくて、時々此方が赤面して仕舞いたくなる。でもそんなに何時も心を読んでいるなんて思われたくないので、知佳は常々平静を装って、気付かない振りをする癖が付いている。能力の制御が効かなかった頃に較べれば、この程度の心の声は鳴らしっ放しのラジオみたいなもので、気にしなければ内容も全く頭にも入って来ない。今みたいに暇を持て余した時に、何となく聞いて仕舞う程度である。
「知佳ちゃん、なんか読んだでしょう」
気付かない振りをしていた筈なのに、彩に何かを悟られて仕舞った様である。知佳は
「聞こえて来ちゃうんだもん……彩ちゃん、気持ち大きすぎだよ」
この状態で誤魔化しても通用しない気がしたので、知佳は素直に認めた。
「ええっ、そうなの? ――困っちゃうなぁ」
「素直なんだから好いことだと思うよ」
「ほんと? じゃあ、好いか!」
横で聞いていた蓮と都子がケラケラ笑う。
「ほんま単純やな、彩ちゃんは」
「てゆうかミヤちゃん、話し合い参加しなくて好いの? 当日のメインなんじゃないの?」
都子はきょとんとした顔をして、急に話を振って来た蓮を見下ろした。
「何ゆうとん。メインは春樹やで」
「いや、そう云うことじゃなくて……だって監視するんだったら、この亜空間で、Y国に繋いだりするんじゃないの?」
「そやで。ゆうて繋ぐだけやん。段取りも屁ったくれも莫いわ」
「そ、そういうもん?」
「他に何すんねん」
「いやぁ……知らないけど……ところで、あたしってその日、必要なのかなぁ?」
蓮が、話し合いをしている四人に目を遣りながら呟く。
「それ云ったらあたしも」
知佳も同様に、神田達の円陣を見遣る。
「まあえゝやん。おもろそうやし、居とき。給料出んで」
「なんか、給料泥棒になっちゃわないかなぁ」
「小学生がそんなもん気にしなや。待機することに意味あんねんて。必要な時にぱっと対応する為には、ちゃんと参加しとかな」
「はぁ……その必要が、あるのかなぁって」
「無くても待機や。待機すれば給料は出るんや。それが会社やん」
二人の遣り取りを見ながら、彩が静かに口を挟む。
「蓮ちゃんも知佳ちゃんも、心配しないで。ちゃんと皆の分を料金に上乗せして、久万組から取ってるから。だから別に、誰も損しない様になってるの」
「そうかぁ。さすが彩ちゃん」
「あたしの手柄じゃないけど」
そう云って彩は、含羞んだ。
「それにね、今回はどうやら、Y国側からも手数料幾らか取れそうなんだ」
「え、なんで?」
蓮が意外そうに眼を剥く。
「なんかよく判んないけど、Y国の関係者に打診した時に、EX部隊使えるんだったら安全サポート頼みたいって云われて」
「えっ、そんな所にまで、あたしたち有名なの?」
「云って来たの、日本人の通訳さんだけどね」
「え、あっ、何だそうか……」
蓮は少し、がっかりした様だった。
「でもY国にも知られてるかもね。沖縄の時、ピートさんて人がいたじゃない」
知佳の言葉に蓮が振り返る。ピートと云うのは、沖縄でX国大統領の護衛をした時に、暗殺者として知佳達の前に何度も立ち塞がった敵である。最終的にはY国を裏切る様な形で、婚約者と共に沖縄で姿を消した。
「ピート? でも彼奴、沖縄に亡命したんじゃない? 国に帰ってないと思うなぁ」
「そうかな」
「それに、多分ピートは、政府の側だから、今回会いに行く人からしたら敵じゃない?」
「なんかその辺好く判んないんだ」
「世界情勢も音痴なのかよ」
蓮に貶された気がして、知佳は頬を膨らませた。
「あたし別に音痴じゃないし」
「方向音痴」
「うるさいやい!」
彩が困った様におろおろしだしたので、知佳は鳥渡申し訳莫い気持ちになった。
「二人とも、喧嘩は駄目、ね?」
「大丈夫、何時もの戯れ合い」
蓮が笑いながら応える。そうなんだけど。でもあっさりそう云われちゃうと、なんだかなぁ。と云う気持ちで蓮を見ると、ぎゅうとハグされた。
「知佳は親友だから!」
「――もぉ、蓮狡い」
そう云って知佳もハグし返す。彩はほっとした様に微笑んでいる。まあ好いか、と思った。
「なんか、我儘で駄目な男と、それを許し続ける健気な幸薄女みたい」
「げ、ちょっと彩ちゃん、それ如何云う喩え
今度は彩が、ケタケタと笑った。よく解らないけど、余り佳い喩えをされたのではない気がする。
「ちぇ、あたしレディなのに」
「蓮またゆってる」
「だって」
知佳は蓮の頭を優しく撫で付けた。
「本当は優しい佳い子なの、知ってるよ」
「ちょっと、知佳!」
今度は蓮が真っ赤に染まる番だった。
「うん、前言撤回。懐の広いおっかさんと、その掌でコロコロ転がされている腕白坊主」
「如何してもあたし、男の子なの?」
蓮の抗議に彩はころころと笑った。
「大丈夫、蓮ちゃんは綺麗な女性になるから!」
「なにそれ」
そして
蓮は綺麗になる。それは知佳も大いに同意するところである。何なら今でもその片鱗はある。あるが、小六の幼い造作でそれは、寧ろキツさとなって映じて仕舞う。然し知佳は、蓮の母親を覚えている。迚も綺麗な女性だった。若い頃には大層モテたとも聞く。蓮はその母親にどんどん近付いて来ている。知佳の母は蓮の母とは親友だったのだが、その母も、蓮は母親の凛にどんどん似て来ていると評しているのだ。知佳は今から、蓮が誇らしくて仕方がない。不思議と妬み嫉みの感情は湧かない。唯々、我が事の様に嬉しい。
蓮の母は数年前に、他界している。故に蓮の父親は、蓮に己の妻の面影を重ねている。年々妻に近付いて来る娘を、複雑な想いで見詰めている。日々葛藤をしていることも知っている。未来の恋人を幻視して、身悶えたりしていることも知っている。蓮は日常的には、溺愛されていると云う感じではなく、何方かと云うとドライな家族関係の様ではあるが、父親はそのバランスの取り方で日々煩悶している様なのである。知佳はその心境を覗き見て、少し気の毒に思ったことを覚えている。父親として行き過ぎない様にと、必死にブレーキを掛けているのは、一面好感が持てるが、美人の娘を持ったが故の苦しみでもあり、同情も禁じ得ない。蓮の母が亡くなってからは、知佳の家族が率先して家族ぐるみで付き合いながら、二人を見守り、援助して来ている。今後もしっかり寄り添って、扶けて行かなければと、強く思っている。
「後は蓮が、もう少し大人になればな」
小さく呟いた知佳の言葉を、蓮は聞き漏らさなかった。
「なにそれ! あたしレディよ!」
「そう云うところ、ガキなんだよ」
「はああ
彩がくすくす笑う。知佳も笑うと、結局蓮も笑う。
「態とだからね。こう云うキャラ、演じてるだけだから!」
「はいはい」
そんな莫迦な会話をしている間に、如何やら打ち合わせは終わったようだ。次の集合日時を再度確認し、神田が簡単な締めの挨拶をして、この場は終わりとなった。ユウキの両親が神田に挨拶をしている。探偵達は都子の案内で、探偵事務所へと帰って行った。最後に蓮と知佳が、それぞれの自室への門を開けて貰い、帰宅する。
「ほな、またな」
都子のその挨拶を最後に、門は閉じられた。
「お母さぁん、お腹すいたぁ!」
知佳は自分の部屋から出て、そう大きな声で母親に呼び掛けながら、階段を下りていった。
クラウンの悩ましい日々
一
春樹がY国へと入る日、EX部隊は夜から大月支店の会議室に集まっていた。
「今日は亜空間じゃないんですねぇ」
最後に連れて来られた知佳が、物珍しそうに云う。
「長丁場になりそうなので、亜空間出しっ放しにするのは大変だと思いまして」
神田が都子を見ながら説明する。
「まあ、そうは云うても、これは出しっぱなんやけどね」
何時もの半透明ジオラマが、会議室の中央に出されている。ジオラマ中央では春樹が、稍小太りの日本人らしき男の運転するジープに乗って、移動している最中である。
「凄い不機嫌みたいですね、春樹さん」
「当事者意識、薄いねん」
黄緑の髪を逆立てたクラウンが、困った様に応じる。最早クラウンの髪の色を弄って来る者も居ない。皆慣れて、且つ飽きて仕舞っているのだろう。左目の周りの星のペイントも、寂しさを感じて仕舞う。
「まあ自覚しとらん様やから、しゃあない」
都子がクラウンの方も見ずにそう呟くと、顔を挙げて子供達を見渡した。
「それより君等、宿泊準備して来たか? 時差あるからな、昼間寝て夜お仕事やで。夜中ンなる前に一回時間停止して、仮眠取って貰うでな。その代わりお仕事終わる時にその分キュッと進めるんで、齢取る心配は要らんで」
「はぁい」
子供達が声を揃えて返事をしたところで、神田が軽く説明を始める。
「中川春樹君の行程としては日帰り――ゼロ泊二日の予定ですが、何しろ海外の、而も紛争地帯の事なので、何があるか判りません。宿泊には前回も使用した此処、大月の宿舎を使います。前回も使ってゝ勝手も判っているでしょうし、他に使う者が居ないので借り易かったんですね」
大月宿舎は、五月の案件時にも利用した施設である。その時も此処で全員一泊している。
「今中川春樹君は、隣国の空港から、現地通訳の案内によりジープで国境を越えようとしている所です。――未だ国境は超えていないですかね――都子さん、縮尺小さくして貰えますか」
ジオラマの縮尺が細かくなり、ラジコンカー位の大きさだったジープが胡麻粒程になる。荒野の周囲を山が取り囲み、辛うじて判別出来る位の路をジープが直走っているその先には、国境の検問らしき設備が見えている。
「此処が国境で、これを超えたらY国です。Y国はこの範囲の国で」神田は大きくジオラマ上の一区画を囲む様に、指を差していく。「ゲリラはこの辺りと聞いています」差し示した山肌の一角は稍拓けた様になっていて、木々と同じ様な色合いや、地面と同じ様な色合いのテントが、無数に建てられているのが見える。
「こうして仕舞うと、折角隠れていても丸見えやなぁ」
クラウンが残念そうに云った。
「Y国政府側に都子さんと同じ能力者が居たら、一発でアウトでしょうね。幸いそうした能力者は居ない様で、この様なカモフラージュも今のところは有効の様です」
「都子、Y国政府に寝返ったらあかんで」
「何をアホなことゆうとんのや、この顎介は」
都子の冷たい視線に、クラウンは肩を竦めた。
全体この都子と云う女は、クラウンを軽く見ている節がある。何なら莫迦にしていると思う。初対面の頃からずっとである。十七も年齢が離れているのに、全く敬意が感じられない。然し云い合いをしてみたところで、常に正論で論破されて仕舞うので、今ではすっかり諦めている。クラウンなんかより余程利発なのだ。専門学校出のクラウンに対して、都子は四年制の立派な大学に通っている。法学で落ちて、一浪して仏文に入ったとか云う話だが、以前こっそりとその学部の偏差値を調べてみたところ、途でもなく高難易度の学校、学部であることが判明して、要らぬ惨めな思いをした。法学部なんかに受かってなくて良かったと思う。そんなことになっていたら、もっと上から叩きのめされていたかも知れない。――いや、都子の態度は大学や学部なんかで変わるような性質のものではないのだろうけれど、クラウンの心情的には、よりダメージが大きくなっていただろう。卑屈になっても仕方がないとは判っているけれど、如何してもこの手の劣等感は拭い去ることが出来ない。
とは云え、都子は決して、一度たりとも、学力でマウントを取って来たことなど莫い。精々がところ、顎を弄って来る位である。否、それも本来如何なのかと云う所ではあるのだが、顎のことなのであれば生まれてこの方云われ慣れているし、自らネタにしないでもないので、別に構わない。寧ろ自分の強みとさえ思っている。然し学力は如何ともし難く、超えることの出来ない高い壁なのだが、そこに就いては都子は一切スルーしてくれている。
基本的には、配慮の出来る好い奴なのだ。だから都子を嫌うとか、憎むとか、そう云う感情は持っていない。いないのだが然し、常に見下されている様な感覚も感じていることだけは、確かなのである。自分自身の問題なのだろうとは思うのだが。
クラウンが自虐的な想いで欝々としている間に、春樹の乗ったジープが国境を通過して、Y国に入った。ジープは更に、キャンプの張ってある山を目指して走ってゆく。山中のキャンプ地迄は流石にジープは入って行けそうにないが、何処か途中で車を降りて歩くのだろうか。
「この通訳の人、日本人なんですね。佐藤照善さん。――あゝそうか、彩さんが云ってた人、この人なんだ」
知佳が胡麻の様なジープを見詰めながら、そう呟いた。ジオラマ越しでも、相手が米粒程でも、心の中が覗ける様なのだ。
「ゲリラと一緒に戦ったこともあるみたい。なんか凄い人」
「時々そんな奴おるねんな。わしにはよう解らん」
「春樹は覗きなや」都子が、春樹を覗くなと知佳に注意している。「此奴は気付きよるからな」
「判ってます」
「ごめんやけど、よろしくな」
前回の案件時に、知佳が春樹の心を覗こうとしたらそれに気付かれ、警戒されて仕舞った。それ以来、この双子の心は覗かない様にしているのだ。
それにしても、延々走っているジープを見ていると、なんだか眠たくなって来る。子供達も欠伸をしたり、目を擦ったりしている。現地は未だ昼前だが、日本ではとっくに夜中の時間帯である。皆夕食を済ませてからの参加なので、後は寝るだけだ。この儘現地時間に着き合っていては体が保たないので、一旦時間を停めて、時差を埋める可く睡眠を取ることになっている。バラバラに取っていては都子が大変なので、全員一斉に就寝し、八時間後に起きると云うことで、ジープ走行の場面の儘時間を停めてジオラマは閉じ、転位口を通って宿舎へと移動して、好きな個室をそれぞれに確保する。
「お風呂入っても好いですかぁ?」
眠たげな声で蓮が問う。
「勿論。宿舎丸々時間進む様にしとるんで、屋上タンクのある限りは水も使えるし、電気も裏手の蓄電池が保つ限りは使えるで」
「すごぉい」
感心しながら蓮と知佳は、連れだって風呂に向かった。都子がその後を追い駆けようとして、ぴたと立ち止まり、背後を振り返る。
「男性諸君はうちらの後でえゝか。何ならユウキ、一緒に入るか?」
ユウキの顔が見る見る真っ赤に染まる。
「いやいやいや、クラウンさんと入るから! 大丈夫だから!」
「何や、ガキンチョがいっちょ前に色気付きよって。ま、好きにし。早めに上がる様にするわ」
そう云い残して、都子も風呂に向かった。ユウキが鼻を押さえている。興奮して鼻血でも噴いたのだろうか。都子の云う通り、ユウキは稍色気付いているのかも知れない。知佳か蓮の何方かに恋でもしているのだろうか。そう云えば知佳に対して、鳥渡意識している様な態度を取っていたかも知れない。クラウンが心配そうにユウキの顔を覗き込むと、目を逸らされて仕舞った。
都子の宣言通り、少女達は十五分程で風呂から上がると、その儘各部屋へと消えて行った。その後で神田とクラウンとユウキが一緒に風呂を浴び、これまた烏の行水で直ぐに上がると、それぞれの部屋に行って消灯した。
宿舎の外の世界は時間停止しているので、朝は遣って来ないのだけど、きっかり八時間後に起きて来た神田と都子が各部屋を回って全員を起こし、再び会議室に集合すると、時間が動き出す。会議室から食堂へと接続された転位口から、朝食として様々なパンが運び込まれ、真夜中にジオラマを見ながら、皆それぞれに好みのパンを手に取る。
会議室には窓があるのだけど、その外の景色は真っ暗である。確り寝て、朝食のパンを食べていても、如何にも清々しさを感じることは出来ない。経験したことは無いけれど、夜勤シフトと云うのはこんな感じなのだろうかと思いながら、クラウンはクリームパンを齧る。
「政府軍の動きにも注意しておいてくださいね。このキャンプ地が発見されたら、交戦になるかも知れませんので」
惣菜パンを齧りながらの神田の言葉に、子供達は若干蒼褪めた。クラウンはジオラマを見渡し、政府軍の動向などをチェックする。大分離れた、山二つ程隔てた先で、ドンパチ遣っている様な所がある。ゲリラと政府軍が衝突でもしているのだろうかと、注視する。凝と見ていると知佳達も集まって来た。
「ゲリラの人が、政府軍に追い掛けられてますね。でもあんまり慌てゝないみたい。余裕で逃げ切れるって思って、少し手加減してますね」
「なんやそれ。どえらいゲリラやな」
「逃げてる人の名前、判りますか?」
神田に問われて、知佳はジャムパンを咥えた儘、バイクで逃げている男を凝と見詰める。
「カスン――あ、カシム、かな」
「当たりですね。春樹君が逢いに行った人物です」
皆は一斉に神田を見た。
「この様子では今日中の遭遇は無理そうですね。私達の待機も長引きそうです」
一同から溜息が漏れる。
朝食を済ませて食器等を下げ終わった知佳が、自分の席迄戻って来て再びカシムを見詰めて、その詳細を報告する。
「政府軍の組織情報とか、配備状況とか、そう云う資料を持って逃げてるみたい。――吁、なんかのパスワードみたいなの――認証キー? そんなのも持ってるみたい。これ持ってたら、軍用ネット見放題だって」
「そりゃ政府も必死で追い掛けるわ。つか、盗んだのバレとったら、認証キー変更されて終いとちゃうか」
都子が呆れた様に云う。クラウンはもう、会話に付いて行けない。認証キーも判らないし、変更されて終いとか、そんな仕組みもさっぱり解らない。
「そうですね。その点は失敗したって思ってるみたい。でも、直ぐには変えられないだろうとも思ってますね。だから時間との勝負だって」
「ほんならとっとと逃げ切ったらえゝやん。手加減して遊んでる場合か」
クラウンにも漸くコメント出来そうなレベルだったので、透かさず口を挟んでみた。
「うーん、そうなんでしょうけど、なんか罠に嵌めて追撃を断ちたいって……」
「吁、なるほどなぁ」
「心配しんくても相手はプロや。考え無しでの行動なんかしとらんやろ」
間の抜けた反応をしていたら、復都子にツッコまれて仕舞った。まあこの程度は日常である。日常だが、劣等感がチクチクと反応する。
その時情勢に変化があった。政府軍のジープやら戦闘車両やらが、何台も沼地に嵌っている。車から人が下りて来ては、沼に嵌って行く。なんだか大変なことになっている。カシムのバイクはそこから大分遠く迄行っているが、沼を回避した車両が未だ何台か彼を追い掛けている。山道に入り、曲がりくねった道を結構なスピードでくねくねと走破して、峠の視界が開けた辺りで一度バイクを停めて、追手の状況を確認する。峠道は略一本道なので、追手も何れ追い付くだろう。カシムは沼地の方に視線を投げて、少し笑った。沼地では救援ヘリが来て、一人ずつ引き上げている所だった。それを確認すると直ぐに、カシムはバイクの向きを直し、路莫き途を走り下りて行った。ジープでは追い掛けられそうにない。
「映画かなんか観てるみたいやな。ごつい追い駆けっこや」
安っぽい感想だなと、自分でも思うが、これ以上の気の利いたことは云えない。
峠迄来た追手は、カシムが下りたと思しき方を指差して、何事か相談している。ジープの脇から幾台ものバイクが同じ道を駆け下りて行くが、その内の何台かは途中で転倒したり、滑落したりしている。ジープは別の路から行くことにした様で、政府軍は何筋にも分かれて、カシムの立ち去った方面へと山を下りて行った。
暫くこの追い駆けっこを見ている内に、何時間か経過していた。現地では既に昼を過ぎている。
「半端な時間に寝て、朝食を取って仕舞ったので、鳥渡ずれこんで仕舞いましたが、この間にお昼にしましょうか。春樹君も到着まではもう暫く掛かりそうですし」
神田の提案で一同は食堂へと移動する。
テーブル席に着くと、大槻の職員が昼食のオムライスを配膳しに来た。都子の前に置かれた皿だけ、矢鱈と大きい。
「またかいな。今回ジオラマぐらいしか能力使とらんので、ゆう程腹ペコでもないねんで」
「まあ、多かったら残してください」
都子の苦情に、神田が申し訳なさそうに答える。
「まあ、えゝわい。残ったら蓮ちゃんにあげるわ」
「要らないよぉ」
そんな会話をしていたにも拘らず、結局都子は全部平らげた。
「食べてるし」
知佳の突っ込みに、都子は苦笑する。
「腹ぱんぱんや」
クラウンは何か云い掛けて、止めた。前回似た様な状況でツッコんだら、手酷く遣り返されたので、今回は大人しくしておこうと思ったのだ。然しなんとなく都子の視線を感じて、若しかしてツッコミした方が佳かったのかと、悩み始めて仕舞う。関西人なのだから、食べ切れないと云いながら平らげるのは、ボケなんじゃないのか。だとしたら、ツッコまないのは関西人として悪手だったのではないか。――でももう完全にタイミングを外しているので、今更如何仕様もない。クラウンはくよくよと悩みながらも、結局如何することも出来なかった。
都子はとっくに切り替えて、転位口から会議室へ戻っている。クラウンも皆と一緒に戻ると、ジオラマ上でカシムを探した。相変わらずバイクで野山を駆け回っている様だ。春樹達も未だ、ジープで走っている。
「春樹くんはお昼食べないのかなぁ」
蓮が心配そうに呟いている。ずっと年上なのに「くん」付けである。蓮には如何も、そう云う所がある。気安いと云うのか、遠慮が無いと云うのか。対人力、なのかも知れないが。クラウンだって然程対人スキルが低い訳ではないと思っているのだけど、然し蓮には敵わないと、何時も思っている。蓮に対抗出来るのは都子位である。この二人は同じ人種だと思う。何れにしても、クラウンは余り得意な方ではない。
「春樹さん先刻から、空港で買い込んだパン食べてるよ。飲み物も空港でペットボトル買ってたみたい。心配しなくて好いんじゃない?」
知佳が目を凝らしながら、そう告げた。空港で買ったか如何かは心を読んだのだろうけど、それらを飲食していることは、米粒程のジープを直接観察して答えた様である。こんな細かい物、よく見えると思う。最近の子供は視力が弱いと思っていたけれど、偏見だったかも知れない。そう云えば知佳も蓮も、スマホを持っていないし、普段の会話にゲームをしている様な話題も出て来ないので、余りデジタルに浸かった生活はしていないのかも知れない。今時の子にしては珍しいタイプなのではないだろうか。――これも、偏見なのかも知れないけれど。
春樹のジープは単調なので、自然と皆の視線はカシムの方へと戻って行く。山の中を縦横無尽にバイクで疾駆していく様は、当にハリウッドスタントの様である。恰好佳いとさえ思って仕舞う。追撃する政府軍がジープからドンパチ撃っているにも拘らず、全くカシムに当たらない。射撃が下手なのか、カシムが巧みなのか、運が好いだけなのか。一発位まぐれで当たってもおかしくないのにと思っていたら、カシムの背中や頭部で時々火花が散っているのに気が付いた。防弾のチョッキやヘルメットを被っているのかも知れない。そりゃそうかと、興醒めして仕舞った。バイクもタイヤも、防弾仕様なのだろう。
「こうやって身を低くして、銃撃に対する表面積小さくしとるやろ。身を低くすることでバイクのカウルの陰にもなっとるし、この状態で背中に当たっても角度が付いとるから、真面に喰らわんでチョッキが弾いてまうねんな」
都子が子供達に解説しているのを聞いて、成程と思って仕舞った。そして復、クラウンは劣等感に苛まれるのであった。
二
「春樹がキャンプに着いたで」
不意に発せられた都子の声に、カシムの追い掛けっこを見ていた全員が、今度は一斉にキャンプの方を見る。ジープは何処かへ隠して来た様で、何時の間にか徒歩となっている二人はキャンプ内を移動し、テントの一つへと入って行った。ジオラマの縮尺が大きくなり、テント内部に入って、表情の判別が出来る位まで近付く。髭もじゃの中東人の様な初老の男と、挨拶を交わしている様だ。幾つか言葉を交わした後に、差し出されたコップを春樹が受け取り、口を付けて、次の瞬間盛大に噴き出している。
「あゝ、かわいそうに。あれはスピリッツか」
「スピリッツ?」
都子の言葉に知佳が首を傾げる後ろで、ユウキが眉を顰める。
「凄く強いお酒だよ。殆ど九十パーセントぐらいあるんじゃないかな」
「そら、火ぃ点くわ。流石は毒物専門家、濃度も判るか」
「うん。エタノールだよね。飲んだこと莫いけど」
「飲んだらあかんど」
クラウンは鼻白んだ。ユウキの云ってること迄解らなくなりそうだ。エタノール、なんて普段云わない。酒、もしくは精々、アルコール、である。隊長配下で年齢は一番上なのに、知能は一番下かも知れない。クラウンの劣等感は、
強い酒を口にした春樹は、直ぐに吐き出したにも拘らず、僅かに嚥下して仕舞ったのか、如何やら酔って仕舞った様で、その場に寝転んで、直ぐに大きな、閊える様な鼾を掻き始めた。横にいた通訳の佐藤が、春樹を横向きに転がすと、鼾が少し小さくなる。
「流石傭兵、適切な処置やな。あの儘ほっといたら窒息するか判らんわ」
「えっ! なんでやねん、唯の酔っ払いやろ」
都子の意外な評に、思わずクラウンが口を挟む。直ぐに、無知を曝して仕舞った気がして後悔したが、後の祭りである。然し都子は特に莫迦にする風でも莫く、春樹を見詰めた儘クラウンの疑問に答えた。
「酩酊して舌が喉へ落ちて来ると、あんな鼾掻くねん。上向きの儘にしてたら舌が気道塞いで危ないんや。それに吐く危険性もあるしな。吐瀉物が喉に詰まっても窒息するで。やから横向けとくのんは取り敢えず、最低限の対応や」
最早コメントの返し方も判らない。
「そうなんだ。都子さん流石、物知りですね」
「普通や」
知佳の誉め言葉にも都子は動じない。
「急性アル中とかにならんとえゝけどな」
横からユウキが一歩進み出て、都子に何か耳打ちした。都子は小さく頷くと、ジオラマの透明度が若干落ちて、実物感が増す。ユウキが春樹に近付いて、暫くすると春樹の鼾が聞こえなくなった。
「ごくろうさん」
都子がユウキを労うと、復ジオラマが薄くなる。
「何したんや」
「酒抜いてもぉたんや。役に立つ子やで」
「此処からでも出来るんか」
「せやな、この儘やと薄すぎる云うから、少し接続強めにしたったんや。ほんでも完全に繋いだら、出入国の都合やら、検疫問題やら、色々問題ありそうやから、飽く迄一方通行の薄膜接続にはした儘なんやけど、まあそれでも対応でけた様で、よかったわ」
「そ、そか」
七割位は理解出来たと思う。その残り三割にしても、気にしなければ好いだけなのだけど、如何しても気が沈む。都子もユウキも、自分で判断して適切に動いている。クラウンは、己の存在意義を見失い掛けている。
都子が凝とクラウンを睨んで来る。クラウンは気後れして仕舞って、視線を避ける様に体を捩った。
「何や知らんけど、気に病んだらあかん。それぞれや」
見透かされている様で、冷や汗が出る。然し都子の云う通りである。気にしては不可い。気にしたくなんか無い。――それでも、気になって仕舞うのだから仕方がない。情けない話である。
「カシムの方は如何なりましたかね」
神田の言葉に都子は縮尺を再び縮めて、鬼ごっこの現場を探す。そしてそれは、大した苦も無く目に留まった。如何やら政府軍のジープもバイクも悉く、崖下の様な処に滑落した様で、折り重なって黒煙を噴いている。それを崖上からカシムが眺めている。
「この分であれば今夜中か、遅くとも明朝にはキャンプに戻るでしょうかね」
カシムがバイクに跨り直し、その場を立ち去ると、直ぐに森の中へ紛れて判らなくなった。
それから暫くは、目立った動きは無かった。
春樹は気持ち良さそうに寝ているし、その横で通訳の佐藤も鼾を掻いて寝ている。佐藤の鼾は、先程の春樹の鼾とは違って、普通の大鼾だ。暢気なものである。
隊員達も何だか飽きて来て、子供達は部屋の隅でお喋りしたり、遊んだりしている。神田はノートPCを広げて、何か別の仕事でもしている様だし、都子は横文字の文庫本を読んでいる。クラウンは腕組みした儘倚子に凭れて、目を瞑った。
賑やかな音に、クラウンは目を開けた。少し居眠りしていたらしい。他の隊員達もジオラマに集まって来ていた。キャンプでは女性が沢山出て来ていて、如何やら夕飯の支度をしている。羊が何頭か捌かれて、細かく刻まれて鍋に放り込まれていく。このキャンプには女子供も居れば、家畜も抱えている様だ。所謂ゲリラの兵営とは、様子が違う。移動民族のコロニーの様である。
何時の間にか春樹も起きて来ていて、佐藤と一緒に卓に着いている。出された飲み物に警戒しながら口を付け、それからゴクゴクと半分程飲んだ。今度は酒では無かった様だ。
食事の時間は賑やかに、平和に過ぎて行った。兵士もその家族達も、春樹も佐藤も、皆愉しそうに談笑しながら、羊のスープに舌鼓を打ち、あっと云う間に鍋は空になった。
キャンプが平和な空気に包まれているその時、全く脈絡莫く都心の軍用滑走路から、二、三の爆撃機が飛び立った。それらは真っ直ぐにキャンプ地を目指している様に見えた。
「真坂!」
クラウンが思わず叫び、皆は一様に不安な表情で顔を見合わせた。
キャンプでは、女達と兵士が協力し合いながら、食事の後片付けをしている。空の大なべが川辺迄運ばれて、洗い物担当の手に渡された時、爆撃機は未だ辿り着いていないのに、突然森の方向から、機関銃の音が響いて来た。
悲鳴、怒号、唸り声。
キャンプは一転、地獄の様相を呈する。透かさずユウキがキャンプ地全体をバリアで囲む。
とんだことになった。
都子は鬼の様な形相になっているし、ユウキは蒼褪めて震えている。蓮と知佳は体を寄せ合って震えていて、神田は怖い顔で腕組みしている。
春樹は食事を終えて、テントに引き上げた所だった。キャンプと森との境界辺りで警戒に当たっていた兵士の何人かが、銃弾を受けて負傷している。幸いにも、命を落とした者は無かった様だが、それでも軽症では済まされない様な者が何人も出ていた。ユウキのバリアの御蔭で、それ以上の被害は食い止められているが、相変わらず敵はキャンプ地を囲んでいるし、上空には爆撃機も到着して、バリアに向かって爆弾を投下している。
「矢っ張り僕、行かなくちゃ」
ユウキが震えた声で云うが、都子は動かない。
「都子さん!」
「――これは戦争や。うちらは戦争に対しては、中立を守らなあかん。何方かに肩入れすれば何方かを敵に回すことになる。それは、その何方かと戦争状態になる云うこっちゃ。下手をすれば、日本が参戦したとも取られ兼ねんで」
「そんなこと云ってる場合じゃないよ! あの人死んじゃう!」
「うちらの任務は、春樹を守ることやろ。春樹さえ無事であれば――」
そうではない。そう思ったのでクラウンは、稍強引に口を挟んだ。
「都子、ちゃう、現地通訳からの依頼もある。キャンプ地を守護して欲しいと」
都子が顔を挙げてクラウンを見た。
「ほんまや。ほんなら話は別や。ユウキ、行け。――飽く迄治療するだけやぞ」
そしてユウキの姿が薄くなり、ジオラマと同じ縮尺に縮んだ。
「都子さん、ユウキ君は」
神田が確認をする。
「大丈夫や。薄皮一枚や」
「諒解りました」
薄皮一枚隔てた亜空間。今クラウン達が居る空間とも違う、別の空間に、ユウキは送られたのである。その空間から、Y国の兵士達に対して治療を施している。瀕死の重傷を負っていた者達が、次々に回復してゆく。
ユウキが治療をしている間に、春樹がテントから出て来た。状況が認識出来ずに狼狽えている所へ、通訳が駆け寄って行く。
「都子さん、向こうから見える様にして貰えますか」
小さなユウキが、春樹達の姿を遠くから認めると、都子を見上げる様にして云う。
「なんでや」
「見えない状態だと流石に不審過ぎると思いますし、春樹さんには少し、念動力で手伝って欲しいこともあるので」
「さよか」
都子が空間の接続パラメータを調整し、如何やらユウキの姿が先方にも見える様になった。兵士達が天使か神でも見る様な眼でユウキを見ている。通訳の誘導で春樹が負傷兵達に気付き、そして直ぐにユウキの存在を認める。
「身分は明かさん方がえゝで。誰が聞いとるか判らんし、如何な危険があるか判らん」
都子の助言に、ユウキは素直に首肯く。そして春樹を見据えて、声を掛けた。
「春樹さんですね?」
春樹は突然名前を呼ばれて、一瞬動きが止まった。驚愕と不信と、安堵が入り混じった様な眼差しでユウキを見ながら、何か云おうと口を開くが、ユウキが発言の隙を与えなかった。
「彼の腹部に弾丸が残っています。取り出せますか? 痛みは僕が、可能な限り抑えていますが、でも出来るだけ、丁寧にお願いします」
結局春樹は何も云えない儘、ユウキの言葉に従って弾丸を取り除いた。その後ユウキが治癒をすると、兵士は見る見る元気になる。念動なら神田でも好かったのではと思うのだけど、春樹にさせることに意義があるのかも知れない。
「有難う御座います」
「き、君は……」
「ごめんなさい、名告るなって云われているんで」
「警備会社の?」
「はい、佐々木探偵からの依頼で――」
都子が眉を顰めて、「余計なこと云いなや」と云った。ユウキにも聞こえた様で、少し肩を竦めている。
「差し支えなければ、年齢だけでも」
「小さく見られ勝ちなんですが、九歳になります。小学三年生です」
小さなユウキは非常に控えめに応えた心算なのだろうが、春樹は明らかに狼狽している。自分の半分程度の年齢の子供が、自分なんかよりよっぽど強力な能力で、遙かに世の為人の為に働いている。そんな現実を突き付けられゝば、クラウンだってショックを受ける。――現に今、春樹と一緒にショックを受けている最中なのだ。情けないと、内心で自分を叱責する。
「キャンプは引っ越すみたいですね。取り敢えず、バリア張ってあるので、落ち着いて準備して貰ってください」
ユウキが周囲を見渡しながら、春樹に現状を伝えている。初めて逢った時に比べて、随分大人になったものだと思う。早く大人になり過ぎているのではないかと、心配して仕舞う程に。
「戦争に肩入れするなって云われたんですけど、もう目の前で人が死ぬのを見たくない……」
俯いて唇を噛むユウキの心情が、クラウンにはよく解る。昨年の沖縄で、目の前で敵が独り、爆死している。それはクラウンも暫く夢に見て仕舞う程、凄惨な死に様だった。なにしろユウキはその時、失禁さえしている。傷になっていない訳がない。然しユウキはそれさえ乗り越えて、今此処に居るのだ。銃撃戦を目の当たりにしても、負傷兵を助けに行かなければと考えられる程に、成長しているのだ。クラウンは何故か、取り残された様な儚い気持ちになる。
「バリアも、
春樹は明らかに、ユウキとの間に階級を一つ設けて仕舞っている。九歳児を前に、遜った態度になっている。これが善い反応なのか如何かはよく解らない。然しユウキは気にも留めず、普通に応対する。此奴も都子の眷属だなと、クラウンは思った。向こう側の人種だ。
「簡単なものですけど、まあまあ役に立つんですよ」
ユウキと春樹が上空を見上げる。爆撃機が飛び交っているが、爆弾を落としてもバリアに阻まれて仕舞うことに気付いている様で、然し成果も無く帰還することも出来ないのか、爆弾を抱えた儘上空をうろうろと飛び回っている。バリアが消えるのを待っているのかも知れないが、ユウキのバリアはそんなに直ぐ力尽きたりしない。
Y国の政府軍では、能力者を抱えている。昨年の沖縄にも、そうした敵は出て来たし、達也が今方に追い掛けている洗脳の能力者だって、Y国軍部の構成員だ。だから恐らく、能力者の対応には慣れている。だからバリアが張られても、然程驚きはしないのだろう。但――
クラウンは思う。但、Y国の能力者は恐らく、忠国警備EX部隊の能力者程、粒が揃っていないか、若しくは強力ではないのだろう。だからユウキのバリアが途切れるのを待ったりするのだ。ユウキのバリアは、半日やそこらで切れるものではない。その気になれば何日もの長期に亙って、維持出来る筈である。
クラウンは自分の手柄でもないのに、我がことの様に胸を張った。
三
春樹とユウキが二人並んで上空を見上げている所へ、通訳の佐藤が来て、一緒に上空を見上げながら、「忠国さん、有難う御座います」と云った。会社名を呼ばれて、都子が苦い顔をしている。
「仕事なので」
ユウキの答えはドライに過ぎないか。
「仕事序でと云っては何ですが、敵の攪乱出来ますかね? この状態では引っ越しも儘ならないので」
「そうですね。鳥渡待ってゝ下さい」
そう云うと小さなユウキは、今度はクラウンを見上げて来た。
「クラウンさん、お願いできますか?」
「わし? 何や?」
「周りの敵達の認識から、このキャンプ地を消したり出来ませんか?」
「あゝ」
それなら訳は無い。クラウンは歩兵や爆撃機のパイロット達の認識を操作し、キャンプ地が見えなくなる様にして、同時に、今直ぐ帰還しなければと云う認識を割り込ませた。歩兵も爆撃機も、戸惑いを見せる間も無く、直ぐに撤退して行った。
「幻覚も出来るんですか?」
「幻覚は僕じゃないです」
春樹とユウキの会話に、クラウンは少しだけ自信を回復した。自分も役に立つことが出来た。今日此処に来た甲斐があったと云うものだ。而もそれは、多くの人命を救い、一切の犠牲も出さず、平和の役に立つ仕事だった。我ながら単純だとは思うが、気持ちが軽くなって、愉しくさえなって来る。
「では、皆元気になった様ですし、僕はこの辺で」
ユウキがそう云って、都子に目配せすると、縮尺が元に戻って此方の空間に帰って来た。
「ユウキ、よぉやったな。大活躍やったで」
クラウンが機嫌よく声を掛けると、ユウキは嬉しそうに含羞んだ。
「僕がしたのは対症療法みたいなもんだよ。怪我人が出たから治療しただけ。クラウンさんの場合、根本の原因を取り除いてくれた訳だから、そっちの方がずっと大活躍でしょ」
こんな小さな子供に花を持たされて、クラウンは嬉しさと同時に、微かな恥ずかしささえ感じていた。然し先刻迄の様な惨めさは感じていない。矢張り自分は、単純なんだなと思う。
その時、都子の腹がぐうと鳴った。
「うわ、地味に腹減った」
「地味にって、それ如何云う状態?」
蓮のツッコミに都子はニヤリと返す。
「遅くなりましたが、一段落付いたので夕飯にしましょう。都子さん、食堂に繋げて貰えますか?」
神田の指示で都子が食堂に繋げると、既に食卓には焼き魚の料理が配膳されていた。一番大きいのは都子のものだろう。皿には鯖の切り身が二切れ載っている。
「ミヤちゃんの席は、そこ!」
「諒解っとぉ。すっかりフードファイターの扱いやな」
文句を云いながらも、都子は素直に席に着いた。
「フードファイターでも遣ってけるやん?」
「堪忍してんか。普段はこんな食わへんねんて。能力ようさん使た時限定や」
普通の返しが来て、クラウンはほっとした。
食事中も転位口越しに、現地の様子に就いての観察を続けている。キャンプは引っ越しの準備で大童だ。テントの中の物が全て外に運び出されると、テントが畳まれる。支柱が束ねられ、一つに括られる。そして大きな荷車に積まれて、固定される。そんな光景を見ながら、政府軍の追撃が無いか警戒しながら、皆は無言で夕食を取り続けている。
最初に食べ終わった神田が、食器を配膳用のワゴンに戻してからジオラマの元へと戻る。次に食べ終わったのは一番量の多い都子だった。クラウンも慌てゝ掻き込むと、食器を下げて二人の後を追う。子供達も順次その後に続いて戻って来る。皆云われずとも、自ら食器をワゴンに下げている。偉いものだ。
全員が会議室に戻って来ると、食堂との接続は切られた。
その頃にはもうキャンプは跡形もなく畳まれ、手に手に武器や家財道具等を抱えた一団が、荷車を引きながら慎重に山を下りて行く。如何やら春樹も、念動力で大いに手を貸している。春樹の念動力では、余り物体を高く持ち上げることは出来ないが、大きな物や重たい物をほんの数糎程度浮かせることは出来る様で、そうして地面との摩擦を無くして動かし易くなった物を、少ない人手で運搬している。ホバークラフトの様なものである。
山の麓に干し草や藁なんかが積み上げられた一角があり、一行は其処迄来ると、草や藁を取り除いてゆく。その下からは、ジープやトラックが何台も出現した。昼過ぎに春樹達が乗って来たジープも、その中から出て来た。荷物をそれらの車両へ積載すると、今度は車での移動が始まる。
時刻は既に現地時間の夜中に差し掛かろうとしている。これから何処へ移動するのか判らないが、夜を徹しての移動になりそうである。子供達は寝かさなければならないし、クラウン自身も疲れているが、流石に現地が活動しているのであれば目を離す訳には行かないか。
「神田さん、徹夜になりそうですが、交代で見ることにしましょか」
クラウンの提案に、神田は少し考える様にしながら、子供達を見渡した。
「そうですね、小学生には休んで頂きましょうか。――都子さん、夜間交代で、対応できますか?」
「えゝけど、うちとしては別に、時間止めて休んでもえゝで。子供らは扨措き、うちらは別に数時間余計に年齢食ったところで、代わり映えせんやろ。独りで見張っとっても、対応し切れるか判らんしな。寝てる間ジオラマ出しておくのもしんどいし」
「欸、そうですねぇ。クラウンさんが差し支えなければ」
独りで見ている時に襲撃されたら――クラウンなら幻覚で、神田なら念動で、都子なら空間操ってなんとかなりそうではあるが、怪我人が出たら如何するのか。矢張りユウキには居て貰った方が好いのではないだろうか。そう思ったので、そう云ってみた。
「いやぁでも、ユウキ君最年少ですし、無理させる訳には行かないですし、矢張り子供の時間を余り進めるのは――」
神田が渋ると、都子が左手を口許に宛てた儘、ジオラマを見ながら答える。
「怪我人出たらうちが預かるわ。時間止めて別空間に置いといたらえゝやろ。ユウキ起きてから対応して貰うわ」
「吁」
なるほどなと思った。何とでもなりそうである。――然しその為にも、常に都子には居て貰う必要があるのか。
「ほしたら、最初の都子の提案通り、子供ら普通に寝かせて、わしら三人少しだけ年齢取りましょか」
「そうですね」
「決まりやな――おぉい、子供等!」
都子が子供達を集めて、今の段取りを伝える。都子が宿舎のロビーと稍大きめの転位口で繋げると、会議室とロビーを併せて丸で一つの部屋の様になる。子供達が各自の部屋へ一旦退いて、寝間着とタオルを持って再び出て来ると。ユウキと蓮がじゃんけんを始めた。
「勝った」
「じゃあユウ、先入って好いよ。早く出て来てね」
蓮に見送られて、ユウキは風呂へ行った。
「蓮態と負けたよね」
「そんな莫迦な。如何遣って」
「ユウくんいつもグー出すの、知ってるじゃん」
蓮は凝と知佳を見てから、小さく舌を出した。蓮にはこういう所がある。今日はユウキは活躍したから、疲れているだろうし、先に寝かせて遣ろうと云う配慮なのだろうけど、素直じゃないのだ。優しい子なのに、意地悪を装って仕舞う。子供だからなのか。そこ迄考えて、クラウンは不図思い到る。
「あれ、そう云えば彼奴、一人で風呂入れるんかな」
クラウンの心配を余所に、ユウキは特に問題なく風呂に入り、十分程で直ぐに上がって来た。さっぱりした顔で、パジャマに着替えている。
「じゃあお先に。おやすみなさい」
ユウキは眠そうにそう云うと、自室へと入って行った。それを見届けて、今度は知佳と蓮が風呂へ向かう。
いつまでも子供じゃないんだな、なんて親の様な感想を抱き掛けて、同時に、矢張り早く大人になり過ぎていないかと不安になる。何れにしても大きなお世話ではある。
知佳と蓮も風呂から上がって自室に帰り、寝た頃合いを見計らって、都子が時間を停めた。三人でロビーに移動すると、転位口が消える。
「ほしたらうちらも休もか。顎兄、じゃいけんするか?」
「えゝよ、先行きや」
「さよか、ほならお言葉に甘えて」
都子が自室へ着替えを取りに行き、直ぐに出て来てその儘風呂場へと向かった。
ロビーのソファに座ると、どっと疲れが出た。政府軍による襲撃は、それなりにクラウンにとってもストレスだった様だ。少し離れた処に座っている神田も、後背に思い切り凭れて、目を瞑っている。うっかりするとこの儘睡って仕舞いそうである。
「疲れましたね」
起きている為に、神田に声を掛ける。
「そうですね」
簡単な答えが返って来た。会話が続かない。瞼が重い。静かに目を閉じる。
静かだった。時間が止まっている為か、屋外から何の音も聞こえて来ない。カーテンの隙間から陽光が漏れて来るのが、異様に眩しく感じる。
「こら! こんな処で寝たらあかんど!」
都子の声で
神田が大儀そうに体を起こす。クラウンもそれに続いて立ち上がり、自室へ行って浴衣とタオルを手に取ると、風呂へと向かった。ざっと体を洗い、少しだけ湯船に浸かって、直ぐに上がる。部屋に着くとベッドに倒れ込んだ。
四時間程、寝たらしい。
神田の声で起こされた。相変わらず、陽はギラギラと照っている。仮眠を取った御蔭で頭もスッキリして、倦怠感も軽減している。転位口が食堂に向かって開かれたので、寄り道して即席麺を確保すると、お湯を張って会議室へ持ち込んだ。ジオラマが出されて、時間が再び動き出す。
引っ越しの車列は、麓の路を移動している。余り固まらず、数台ずつのグループに分かれて異なる道を行っている様だが、目指している場所は同じの様である。
「カシムとかゆう奴が帰って来たら、蛻の殻で吃驚するやろな」
余り考えずにそんなことを云うと、都子が明白に侮蔑の視線を向けて来る。
「アホか、暗号化した電話なりメッセなりで連絡しとるやろ。原始時代か」
そりゃそうだ、と思ったので、特に何も云い返さなかった。
未だ真っ暗な内に、如何やら車は次のキャンプ地の麓へと辿り着いた。此処でも枯草や干し草等で念入りに車を隠すと、荷物を手に山を登り始める。最初のグループが到着してから、次々とジープやトラックが集まり、直ぐに車が隠されては、続々と山を登る。幾つ目かのグループに春樹も居た様で、そこからは荷物の運搬も楽になり、登山の速度も上がる。設営地に着くと、簡単に草を刈ってからテントを建てる。それぞれ自分のテントを何処に建てるかは決まっている様で、殊の外迅速に作業は進められて行く。草はテントを建てる部分だけ刈っている様だが、御蔭で草叢の中にテントが埋まって居る様な塩梅になり、却って隠匿の度合いは高くなっている。流石にこの儘では活動し難そうなので、最終的には総て刈るのだろうが、今はテントの設営が最優先の様だ。
凡ての設営作業は夜明け前には終わり、仕事を終えた春樹が、リーダーの男と並んで日の出を眺めている。その背後から通訳の佐藤が声を掛けると、春樹を伴ってテントの中へと消えて行った。リーダーの男はその後も暫く日の出を眺めていたが、軈て太陽に背を向けると、同じテントの中へと入って行った。
リーダーが休んでいる間も、兵士達は交代で見張りや巡回を怠らない。テント周りの草刈りなどを進めながら、警戒を続けている。戦地と云うのは気が休まらないものだ。
陽も高くなり、兵士達が交代で朝食を取り始めたところで、都子が腰を上げた。
「そろそろ子供ら起こしますか。うち行って来るんで、監視の方は宜しく」
そう云うと転位口を開けて、宿舎へ向かった。都子が子供達を起こす声が、遠く聞こえて来る。修学旅行の引率の先生の様だな、とクラウンは思った。次第に賑やかになって来て、ドタバタと走る音や、ドアの開閉する音が響いて来る。蓮が、お風呂、と叫んでいる。蓮にとって風呂は、人生の中で最も重要な要素の様なのである。大抵知佳もそれに付き合わされている。二人が朝風呂を浴びている間に、ユウキは都子に連れられて食堂に寄り道し、昨日同様に朝食パンを幾つか携えて会議室へと遣って来た。
「おはようございます」
ユウキが未だ眠気の残る声で、それでも元気に挨拶すると、神田も「おはようございます」と返す。
「おはよう。よぉ睡れたか」
クラウンも挨拶を返した。ユウキは微笑みながら「うん」と応えた。
「もぉ、知佳遅いよ! ドベだからね、ドベ!」
「ドベって何」
「ビリ! の、どこか弁!」
蓮が一抱えのパンと共に騒々しく入室して来ると、その後ろから苦笑を浮かべた知佳が、パンの入ったビニール袋を提げて続く。こうして復、賑やかな業務の一日が始まる。
四
キャンプで皆が昼食を取っている時間になっても、春樹は起きて来なかった。徹夜の移動で相当に疲れているのだろう。時差ボケで睡眠リズムも狂っているのかも知れない。
この日のクラウン達は、現地時間の正午頃に昼食を済ませた。特に政府軍に動きも無く、非常に平和に時が過ぎて行く。神田が居眠りをしている。クラウンも少しウトウトした。
「カシム帰って来ぉへんなぁ」
都子の声にクラウンは目を覚まし、同時に何を待っているのか思い出すことが出来た。
「お、来よった」
キャンプを見ていた都子の声に、クラウンは少なからずショックを受ける。既にバイクは何処かへ乗り捨てたか隠したかして、徒歩で山を登っていた様だ。キャンプ地へと帰って来たカシムに、兵士達が歓声を挙げながら鈴生りになる。大人気だ。カシムは反政府ゲリラにとって、英雄なのである。
大勢に取り囲まれたカシムは、キャンプ中央の稍拓けた処迄進み、途中で拾った空の木箱を縦に置くと、その上に登って両手を挙げた。兵士達がわっと盛り上がる。歓声で目が覚めたのか、春樹が起き出して来た。目を擦りながらテントから出て来て、キョロキョロしている。
既に陽は大分傾いている。夕方の四時か五時位だろうか。クラウンは現地に合わせた時計に視線を落とす。五時の少し前だった。春樹からはカシムの演説会場は逆光になっていて、よく見えないかも知れない。それでも春樹は聴衆に紛れていたリーダーを見付けて、何か質問している。リーダーがカシムを指差して何か答えている所へ通訳の佐藤が寄って行って、如何やらカシムの演説内容を伝え始めた。それに依れば、カシムは政府軍からの逃亡劇を誇張たっぷりに、面白可笑しく語っている様である。春樹も暫く其処で聞いていたが、途中で興味を失った様で、聴衆の輪を抜けると辺りを彷徨き始めた。如何も食べ物を探している様だ。明け方に寝てから先刻起きて来る迄、何も食べていないのだろうから、相当に腹が減っているのだろう。
調理場の辺りを物色している春樹に向かって、パン籠を持った少女が小走りに近付いて行った。そして春樹に向かって籠を付き出すと、春樹は戸惑いながらも其処から一つ取り、小さくお辞儀をする。少女は直ぐに籠を抱えた儘戻って行き、母親らしき女性の元へと駆け寄って行った。女性は娘の頭を撫でながら、穏やかな笑顔で何か云っている。――如何やら春樹は、このキャンプの一員として歓迎されている様である。引っ越しでの働きが認められたのかも知れない。
ともすれば、昨日の襲撃は春樹が呼び込んだものと疑われたって可怪しくないと思う。にも拘らず、此処の人々は春樹を信頼し、歓迎している。リーダーと懇意にしているからかも知れない。リーダーから適切な説明が為されているのかも知れない。
「頼もしいお兄ちゃん、だって。パンあげて来たって、威張ってるよ」
知佳が少女の気持ちを伝えてくれた。心を読む際に言語は関係ないのだと、以前神田が云っていた。思いを読み取って理解する際に、知佳が勝手に日本語として理解しているだけなのだと云う。難しいことは好く判らないが、何しろ便利な話である。
パンを食べた春樹は、テントへ戻って行った。カシムの演説は未だ続いている。演説中は話し掛けられないと思って、終わるのを待っているのだろうか。
暫くすると、婦達が各テントからぽつぽつと出て来て、調理場へ向かって行く。如何やら夕飯の支度が始まったらしい。カシムの周りにいた男達も、匂いに連られてか一人、また一人と輪を抜けて行く。そして一割程も抜けた頃に演説も漸く終りを遂げた様で、大きな拍手喝采と共にカシムは木箱から飛び降りて、キャンプの外れにある小さなテントへと帰って行った。
婦人達が夕飯の支度をしている間、小さな子供は一ツ処に集まって、自由に遊んでいる。その周囲を、何人かの兵士達が守る様にして囲んでいる。矢張り常に、襲撃を警戒している様だ。そんな子供達の嬌声に連られてか、春樹がテントから出て来た。暫く子供達の遊び場を眺めていたが、不図思い出した様に顔を挙げると、辺りを見回した。カシムの演説していた辺りに眼を留めて凝と見詰めているが、最早其処には誰も居ない。少し辺りを歩き回って、佐藤を見付けると、其方へ寄って行って声を掛ける。その間にリーダーがテントへ帰って行くのが見えた。春樹と佐藤が何か会話し、佐藤がテントを指差すと、春樹も一緒に其方を見て、真っ直ぐテントに帰って行く。
数分程で、リーダーに連れられて春樹がテントから出て来ると、真っ直ぐカシムのテントへと向かった。
「
神田の言葉を切っ掛けに、都子はカシムのテント内にズームした。リーダーを間に挟んで、カシムと春樹が会話している。通訳は佐藤ではなく、リーダーがしている様だ。
会話の内容によれば、カシムは当時静岡にいて、中川姉弟の父親と面識があったらしい。政府側の刺客が差し向けられていると警告したのは、カシムだった様だ。父親が双子を気に掛けていたと聞いた時、春樹は少し動揺した。若しかしたら親との記憶も歪められているのかも知れない。
春樹の当時を振り返る供述には、僅かな齟齬があった。洗脳で記憶が歪んでいる所為だろう。父母の死に際を見たと云い、父母の死体は見ていないと云う。本人の中でその二つの叙述は矛盾していない様なのだが、カシムはそれをさりげなく指摘した。それに因って春樹が復揺れる。
そしてカシムは拙い日本語で、洗脳能力者の名前を云った。
「政府の犬の名前を教える。キャロル、日本での名前は、ヤスヒラリナだ」
「やすひら、りな……やすひら……」
知佳が何か考え込んでいる。神田も少し目を泳がせて、何かを思い出そうとしている。何だろう。クラウンには全く心当たりが無い。
「やすひらって、安い、平らで、安平です。カシムさんの記憶に、漢字の映像がありました。安い、平ら、里に、奈良の奈」
「安平……」神田は未だ考えている。
「鬼の安平」
突然都子が呟いたので、全員其方を見た。
「なんだっけ、誰だっけ、それ」
蓮もむず痒い顔になった。ユウキは不安な顔をしている。クラウンは未だ何も思い付かない。
「そうか、久万の――下呂の――」神田は辿り着いた様だ。
「宮司さんだ!」
知佳も辿り着いた。そして漸く、クラウンも思い出した。ヤスだ。下呂の神社で宮司をしている、元久万組の構成員、鬼の安平。前回の案件決着後、犯人蔵匿の容疑で取り調べを受ける際に、捜査員にそう呼ばれていたのをちらりと聞いた気がする。
「えっ、せやけどそれは、下の名前やろ。ヤスヒラゆうたら、苗字ちゃうの?」
「そうやけど、それってキャロルの帰化名もしくは偽名やろ? 基本自由に自分で付けられるやんか。その場合、名前を苗字と思って付けても可怪しくはないやん。どっちゃにも使える字面やし」
矢張り都子には敵わない。
「ヤスさんの記憶、前回のお仕事の時に、少しだけ読んだんですが――いや、その時は関係ないなと思ってスルーしちゃってましたけど――ヤスさんが組を抜けるか抜けないか位の頃に、なんか小さな外人の女の子を養女? ――なのかなぁ、なんかそんな感じにしていたみたいで……」
「マジか、そこまでガチに繋がるんか――いや、せやけど、やから何やねん、云う話ではあるわな」
「それは何年ぐらい前なんでしょうね」
クラウンは無関係な気がしたが、神田は気になる様だ。
「そうですねぇ……余り正確な所は判らないんですけど……たしか今、七十……四とかだったかなぁ」
「知らんよ」
「うん、でも多分その位なんですよ」そう云って知佳は都子を見上げる。「で、四十も過ぎて今更そんな、みたいな会話していた記憶があったから――」
「三十年以上前ですかね。その頃のキャロルの年齢にも依りますが、十歳ぐらいとすると、今四十過ぎ、中川の両親を殺害した頃が三十位とするなら、まあ妥当でしょうか」
応えたのは神田だった。
「仮定がみんなあやふや過ぎて、えらい笊な計算やけどな。まあプラマイ五歳としても、然程齟齬は無いか知らんな」
「ヤスさんから辿れるかも知れませんね」
「そやね。達也に教えといたり」
「そうしましょう」
神田が首肯き、なんとなく話が決着して、皆の視線がテントに戻った時には、春樹はカシムのテントの中で失神していた。
「おお、どないした!」
クラウンが慌てる横から、ユウキがそっと覗き込む。
「大丈夫、病気とかではないよ。疲れとか、混乱とか、色々重なって気絶したみたい。放って置いても特に問題ないと思う」
医者みたいな所見を云う。ユウキは将来、本統に医者になりそうな気がした。然し此奴が医者になるのは反則な気もする。医術ではなく能力で治療するのだから。――クラウンは、この所感が僻みから来ていることは自覚している。だから、厭になるのだ。
「洗脳前後の記憶を取り戻し掛けているのかも知れない……そう云う意味では今、不安定なのかな」
ユウキの言葉を聞いて、クラウンは春樹の認識経路を確認する。これはクラウンの受け持ち能力である。春樹の知覚が正しく脳に渡り、素直に解釈されているか、思い込みや幻覚、幻聴などで惑わされていないか、つまり洗脳の残滓が残っていないか、念入りに調査する。ユウキの指摘通り、認識の筋道に揺らぎがあり、如何も不安定である。
「今なら読んでも好いかな」
知佳が恐る恐る都子に確認している。
「せやな。気絶しとる今がチャンスや」
知佳は眼を閉じて、春樹の中に下りて行く。
皆の目の前に、春樹の記憶映像が展開される。これは知佳が見て来たものを、テレパスで共有しているのだ。玄関ベルの様な音が鳴り、パタパタと誰かが廊下を歩く音がする。春樹の視線は部屋のドアに向けられて、それから振り返って少女と目が合う。
――お客さんかな
――出てっちゃダメだよ、ハル
これは秋菜だろうか。何歳ぐらいなのだろう。部屋の隅で人形遊びをしている、普通の少女である。
春樹は玄関を気にしている。姉が人形に夢中なのを確認して、そっと部屋を出る。廊下の先には直ぐ玄関がある。其処で母親が宅配の荷物を受け取ろうとしている。何となく様子が奇怪しい。荷物を受け取る姿勢の儘凝としている。春樹の視点が少しずつ近付いて行くと、母の肩越しに配達員が此方を見た。目が碧い。春樹の動きが止まり、配達員の口許が動く。
――箱を受け取り、中を確認する
配達員は母親に小さな小包を渡す。母親はその儘春樹に箱を渡し、春樹は受け取るなりそれを開く。中には銀のナイフが入っている。凝と見詰め続けている。
クラウンは
「洗脳の現場や。皆余り、此奴の瞳は見んなや。恐らく平気やとは思うけど、念の為な。前に知佳が遣られ掛けたから――」
皆は一斉に知佳を見る。知佳は落ち着いた様子で、少し眼を開けた。
「大丈夫です。前の時は、匂いとか音とかあったし、あたしも慣れてなかったから……でも今回はそう云うの無いし、少しは躱し方も解ってるんで」
知佳はそう云うと、また眼を閉じる。映像が先へ進む。
――明日の夕方。母親が蹲んだら、背後から首を切る。その後、書斎に行って父親を刺す。何れの場合も念動で動きを封じておく。返り血を浴びたら風呂場で血を流して、服を替える。
配達員は母親と春樹を交互に見てから、最後の指令を出す。
――今のことは忘れる。宅配なんか来なかった。ナイフは箱に戻して、台所の目立たない処に仕舞っておく。
そして配達員は踵を返し、出て行った。
「今の皆、見て覚えたな。あれが安平里奈、キャロルやな。成程性別不肖の様やけど、まあ女やろな。瞳が碧い以外は略日本人や」
都子が総括した。神田が補足する。
「Y国には色々な人種の方がいますが、彼女は恐らくロシア系ですね。一部のロシア人と日本人は、生物学的には同じ人種と云われています。ロシアの一部、モンゴル、韓国、日本は、ほぼ同じ人種ですね」
「中国は?」
蓮が疑問を呈する。クラウンも同じことを思った。
「中国は実は少し違うんですよ。西洋人から見たら同じに見える様ですが、我々には区別が付くでしょう? それは微妙に人種が違うからなんです。ロシア人の中には、色白の日本人かと思う様な人が偶にいますね」
「ロシアにしては肌色が濃いな」
都子も疑問を口にする。
「日本が長い様ですから、日焼けしたかも知れませんね」
「そんなことかい!」
思わずクラウンが突っ込むと、子供達が少し笑った。
「知佳さん、此処迄で好いですよ。この先、殺人の現場は、先刻のキャロルの暗示内容から推測すると、刺激が強過ぎると思います。そこ迄見ずとも、知りたいことは知れましたし」
「諒解りました」
知佳は春樹の中から抜けて、共有を閉じた。
「気絶して仕舞いましたが、春樹君の役目も全う出来ましたね。後は帰国するだけです。もう少しだけ頑張りましょう」
気絶した春樹は、カシム達に抱えられて山から降ろされて行くところだった。如何やらこの儘日本へ返す心算の様だ。佐藤も同行している。麓に着いて、干し草の中からジープを一台引っ張り出すと、佐藤の運転でその地を離れた。
キャンプを離れたことで危険度はぐんと下がったし、ジープでの移動中は大したことは起きないだろうと、クラウン達は夕食を取ることにした。その間もジープは、夕食抜きで走り続けている。――と思ったら、佐藤はパンを齧りながら運転している。夕食抜きなのは気絶している春樹だけの様だ。申し訳ない気持ちになりながら、皆は夕食を済ませた。
国境迄は可成距離がある。その間ずっと寝た儘でいられるものなのかは判らないが、少なくとも隊員達は睡眠を取らなければならない。前日同様子供達を先に寝かせて、大人三人は時間停止して四時間の仮眠を取った。神田とクラウンは日中に少し居眠りをしていたが、都子は寝ていなかったのではないだろうか。仮眠を取ったとは云え、たった四時間程度の睡眠で、よく体が保つものだと思う。若いからか。然しジープの移動は単調だし、最早何かが起きるのを待つ的も無いので、流石の都子も船を漕ぎ始める。寝ていてもジオラマがその儘出ているのは、大したものである。
結局明け方迄ジープは走り続け、国境の手前位で漸く春樹が起きた。既に帰国の途に着いていることに驚きつゝも、直ぐに状況を受け容れて、佐藤と会話などしている。そして隣国の空港に着く頃には、子供達も起きて来た。
「さ、もうY国から出とるんで、うちらの仕事も終わりや。念の為飛行機乗る迄見とくけど、君等どうする?」
起きて来た子供達に都子が確認し、朝食がてら搭乗まで見送ることとなった。そしてほんの一時間程で春樹は飛行機に乗り込み、今回の仕事は解散となる。
そこから都子は一気に時間を進めた。
初日に時間停止して時差合わせした分を、取り戻したのだ。八時間一気に時間が進み、Y国では夕方だろうが、此処日本ではやっと朝である。転位口で子供達を帰す際には、クラウンがそれぞれの家族に掛けていた集団幻覚を緩やかに解いて、現実の子供達と齟齬無く繋げる。前回迄はユウキの家族にもしていたことだが、今回からは不要になっているので、その分少し気が楽である。
何時かはこんな事、一切不要になれば好いのにと、クラウンは思うのだった。
蓮の活躍日
一
今回は全く好いところ莫しだった。唯皆と一緒に居るだけで、全く能力を使っていない。
蓮は不満だった。詰まらない。もっと活躍したい。でも転送が必要な場面が無いのだ。蓮の能力は転送だが、これは都子の能力と時に競合する。離れた場所の物を持って来たり、逆に離れた場所に物を送ったり。物ではなく人を転送したりも出来るのだけど、都子はその離れた場所と空間的に繋いで仕舞う。そうすると、持って来るにしても持って行くにしても、蓮に頼るまでもなく誰でも対応可能になって仕舞う。蓮は自分の必要性に就いて、自信が持てなくなっていた。
都子のことは大好きなのだけど、都子が居ない方が自分は活躍出来るのではないかと思って仕舞う。そしてそんなことを考える自分に嫌悪を感じている。
「蓮さん、聞いてましたか?」
神田に云われて
「ごめん、聞いてなかった」
「ではもう一度最初から説明しますね。秋菜さんが河川敷に安平里奈を連れて来たら、このワイヤーをその近くへ転送してください。その後は私が安平里奈を後ろ手に縛り上げます」
転送! やった! 蓮は自分に役割が与えられたことを知って、嬉しかった。その気持ちが顔に出て、飛び切りの笑顔になる。
「諒解った! 任せて!」
今日は二箇月振り位に、皆で集まっている。春樹がY国から帰って来た後、下呂に行ったり、東京と神奈川を回ったりして、探偵が安平里奈を特定したのだ。そして今日、
「蓮ちゃん今日は、活躍期待してるよ!」
彩が声を掛けて来る。先刻迄鬱屈していたのが、バレていたのだろうか。何となく照れ臭くなって、変な笑い方をしながら、頭を掻いた。
「秋菜が奴を連れて来る迄暇だしな、こゝまでの経緯の説明でもしておこうか」
佐々木探偵所長が鷹揚に云うと、達也が後を引き継ぐ。
「先ずは皆さん、先達てはご協力有難う御座いました」
確り頭を下げるので、隊員達も深めのお辞儀で返す。
「ご指摘に従って、先ずは下呂迄行って来ました。例の神社の宮司さんに逢って、色々聞いて来ましたよ。宮司さんは酷く驚いていましたね」
「養女……だったんですか?」
知佳の問いに、達也はにっこり微笑んで、首を小さく横に振った。
「養子縁組などはしていなかった様です。唯、一時期保護していたのは確かの様ですね。彼が極道から足を洗った切っ掛けにもなっていた様です」
「そんな重大な関係だったの!」
蓮は思わず叫んでいた。達也は今度は悠然と首を縦に振る。
「そうなんです。すっかり話してくれましたよ。彼が四十二の頃、『氷の微笑』と云う映画を観た帰りだと云うから、一九九二年と特定出来たんですが、池袋の路地裏で、真っ白な肌に碧い瞳をした小さな少女を拾ったと云うんです」
ヤスはその頃、久万組の若頭だった。名実共に、久万会長――当時は組長――に次ぐナンバーツーであり、次期組長候補である。ところがヤス本人は、組を継ぐ心算なんか全く莫かった。彼方此方で暴れ放題暴れていたが、それを止す心算も莫く、責任を負うのも、組を背負うのも、真っ平御免だった。
その日は話題の映画を観た後、池袋に吹き溜まっている舎弟達を揶揄いに裏道を巡回していた。シャロン・ストーンのスカートの中が見えたか見えなかったかと、兄弟達と談笑しながら路を往くと、定食屋裏のエアコン室外機の陰に、碧い小さな二つの蜻蛉玉が見えた。その二つの碧い光を観た瞬間、其処から動けなくなったと云う。碧い光は室外機の裏から出て来て、真っ白な小人になった。殆ど裸の様な、ボロボロの布切れを纏って、ヤスの方に躙り寄って来る。兄弟達は怯えていた様だったが、ヤスは一発で魅入られて仕舞った。脇に両手を差し込んでそっと持ち上げると、それは白人の少女だった。何か云っている様だったが、識らない言葉だったので何を云っているか解らない。唯なんとなく、放って置けなくなって、その儘自宅へ連れ帰った。
誘拐とか監禁とか、そう云う意識は無かった。唯保護をしたと云う認識だった。少女の方も全く警戒せず、最初から其処に居たかの様に振る舞った。名前が無いと不便なので、里奈と名付けた。外人なのに日本の名前なのは、外国の名だと呼び慣れないからだ。何故里奈なのかと云うと、なんてことは無い、昔の女の名前をその儘付けただけだった。言葉は通じなかったが、丸で親子の様にして、暫く二人で暮らした。その内に少女は少しずつ、日本語を覚えて行った。
ヤスはすっかり大人しくなって仕舞った。組を継ぐ意思は相変わらず莫く、それどころか暴れ回る気概さえ失せて、堅気になりたいと思う様になっていた。すっかり人が変わって仕舞ったヤスは次第に組内での人望も失くして行き、若頭から降ろそうと云う動きも出て来て、心配した組長が話を聞きに来た際に、ヤスの方から組を抜けたいと申し出た。組長は驚いていたが、ヤスの話を聞き、大切に育てられている少女を目の当たりにして、全てを呑み込んだ。
久万組の中では様々な思惑が渦巻いていたが、足抜けは思いの外すんなりと進んだ。それだけヤスから人が離れていたと云うことだろう。何人か惜しむ様な声はあったが、それらも強く引き留める様な物ではなく、ヤスは組長に盃を返すと、面倒を避ける為に居を移した。少女を拾ってから、三年が経っていた。
里奈は拾われた時、五歳だったそうだ。日本語を覚えた里奈から年齢を聞いたのは、ヤスが足を洗って更に半年ほど経った頃だった。年齢を聞く迄は全く気にもしていなかったが、識って仕舞うと途端に気になる。三年も経っていれば小学校に通ってなければならない年齢だが、恐らく日本の国籍は疎か、外国籍さえ無いと思われたので、ヤスは何とか国籍を取得できないものかと苦労して色々調べてみたが、実子でもなく父母も判らない状態では、殆ど無理な相談だった。帰化も十八にならなければ出来ない。ヤスは戸籍を諦めた。然し教育を施さないのも佳くないと思い、自分で色々教材を掻き集めては、読み書き算盤程度は何とか出来る様に仕込んだ。その内に里奈は自ら色々な教材を求める様になり、自学で学び始めた。戸籍が無い為受験も出来ず、何れだけ勉強しても高校や大学に入ることは出来ないだろうが、押し付けも莫く目標も無い状態で、却って里奈は色々な事を、自由に貪欲に学習していった。
何れ十八になり、里奈は帰化して、日本の国籍を取得した。その際姓を、安平とした。これはヤスの下の名前だ。熊崎安平と云う名なのだが、熊崎では画数が多くて書き難かったのだと云う。今後も使う名前なのだから出来るだけ簡単なものを好んだのだろう。ヤスにしてみれば、お前とは親子ではない赤の他人だと云われた様で、然しそれでも下の名前を使ってくれた点では繋がりを求められている様で、如何にも複雑な心境だったと云う。
何であれ、国籍を得たのであれば受験も出来る。これから里奈は高卒認定でも取って、大学へ行く心算なのだろうと思っていたのだけど、帰化した一箇月後に、ふっつりと姿を消して仕舞った。
ヤスの里奈との関わりは、こゝ迄であった。あそこ迄育てゝやったのに恩知らずな、と思わないでもなかったが、無事にしているだろうかと云う心配の方が勝って仕舞う。然しその後、毎年正月に年賀状が届く様になり、結局ヤスは里奈を許して、毎年無事を確認しては安心すると云う、すっかり老け込んだ生活に落ち着いて仕舞った。
「何だか薄情な話」
蓮は如何にも釈然としない。里奈は恐らく、要所要所で能力を使っていたのだろう。ヤスに拾われる際にも、教育を受ける際にも、出奔する際にも、能力でヤスを体好く操り、遇っていたのだろう。
「そうなんですよね。ちなみに里奈はその後、単身Y国に帰って、政府軍のエスパー部隊に入隊していた様です。そこで能力を買われ、また、日本国籍を有している点も評価されて、日本での工作員として派遣されて来たのだと思います」
「いずれにしてもヤスさんじゃあ、今の里奈の居所は判らなかったってことだよね」
「そこで年賀状なんですよ。入隊したことも、日本に戻って来たことも、実は事細かに年賀状に書いてたんですね。工作員としてあるまじき行為と思いますが、真坂そこから辿る者が居るなんて思っていなかったんでしょうかね」
「意外。ちょっとは罪悪感感じてたのかな」
「さあ。ヤスさんは心根の優しい子だと評していましたが、里奈の能力を考えると話半分に聞いておく必要はありそうですね。それでも、若しかしたらヤスさんに対してだけは、何かしらの情愛は持っていたのかも知れません」
「じゃあ今の居所も年賀状で筒抜けだったんだ」
「と、上手く行けばよかったんですが――」
年賀状では神奈川の福祉施設で働いていると云う所までは判明したが、それ以上の詳細な情報は、矢張り判らなかったのだと云う。そこで秋菜の云っていた、九年前に新横浜で下りたと云う情報と、別口の調査で得た昨年の洗脳能力者の活動範囲、そして安平里奈と云う名前とを総合して、佐々木探偵社のベテラン探偵である田村が調査を進めた結果、登戸の老人介護施設に、安平里奈と云うスタッフが居ることを突き止めたのだった。
「偽名とか使ってないんだね」
蓮が不思議そうに合の手を入れる。
「そうなんですよね。本人に悪いことをしていると云う自覚が無いのかも知れませんね。施設での働き振りも極めて真面目の様です。時折Y国政府の要請に従って、暗殺の為の洗脳を仕掛けに行く点以外は、極々普通の働く中年女性です。――九二年に五歳だったので、単純計算で今年三十七歳です。思っていたよりは若いかな。中川家に洗脳を仕掛けに行った時は、二十八だったことになりますね」
二十八なら、今のクラウンと同じ位か。クラウンは二十九だっけ。何方でも好いや、と蓮は思った。
「
「その辺りは調査もしてませんし、全く判らないですね。捕まえてから本人に訊く可きでしょう」
達也はジオラマに視線を遣った。秋菜は何時の間にか地下鉄からタクシーに乗り換えている。そのタクシーも程無く介護施設の敷地へと入り、入り口に横付けして秋菜を下ろした。秋菜は真っ直ぐにエントランスを入ると、その儘受付も通らずにずんずん奥へと進んで行くのだけど、誰も咎める者は無い。
「幻覚使とるなぁ」
クラウンが云った。成程便利な力である。秋菜にはクラウンと同様の、幻覚能力がある。クラウンよりは弱いとのことだけど、こういう場面で自分を隠すぐらいなら十分なのだろう。
里奈は直ぐに見付かった。「安平」と云う名札を付けている。全く隠れる気はないらしい。カラーコンタクトでも入れているのか、瞳は黒かった。髪は黒く染めている様だ。肌が白くないのは、日焼けではなくて化粧の所為らしかった。余り肌を露出してはいないのだけど、清掃作業用の手袋と袖の隙間からちらちら見え隠れする手首は、吃驚する程白かったりする。
「間違いないです。この人です」
知佳が心の中を見て、確認してくれた。秋菜は秋奈で、里奈の過去を視て確信したのだろう。小さく頷くと、里奈をロックオンして後を尾けて行く。
秋菜は里奈の背後にぴったり付いて、事務所に入って行く。其処で里奈は、上司らしき人と立ち話を始めた。秋菜がそれを凝と見詰めていると、急に話題が変わり、上司は里奈にお遣いを云い付ける。これも幻覚の応用なのだろう。
実際には無い用事を課せられて、里奈は社用車を出す。その後部座席には、秋菜もちゃっかり乗り込んでいる。出発した車は真っ直ぐ多摩川へ向かい、河川敷へと下りて行く。秋菜が里奈を誘い出すことになっていた場所だ。
「卒なく熟すねんなぁ」
同じ能力では上位者の筈のクラウンが、矢鱈と感心している。まあ卒が無いと云う点では、秋菜の方がクラウンより上かも知れない、などと失敬な事を考えながら、蓮は合図を待っている。里奈の車は河川敷へ下り切ると、静かに停止した。其処から里奈が降りて来て、川を眺める様に呆っと立ち竦み、数秒後に「あれ?」と云った。
「蓮さん」
神田の合図で、蓮はワイヤーを里奈の腰元に転送する。神田が里奈の手を後ろ手に捩じりながら、ワイヤーで捕縛した。
「何
里奈の顔が凶悪に歪む。これが此奴の本性か。
秋菜は里奈の様子を確認すると、車へと向かい、運転席に座った。それと同時に、現場へ向かう別の人陰が、ジオラマ上で確認された。
「春樹やん」
都子が声を挙げる。予定には無いことだった。
「えっ、何で春君が此処に?」
蓮も吃驚して、成り行きを見守る。秋菜の車が土手を上り、車道へ出る直前に、如何やら春樹に気が付いた。「はる!」と叫び、慌てゝバックして来るが、蛇行して上手く下りられない。その間に春樹は、里奈の背後に迫っていた。手には如何やら、拳銃が握られている。大きな拳銃が。
「春樹! 何遣ってんの!」
秋菜が車を捨てゝ、必死に駆け寄る。
「それじゃあダーティハリーじゃなくて、セブン!」
蓮には、秋菜が何を云っているのかよく解らなかった。
「はぁん、あれはフォーティーフォーマグナムか」
都子が呟いた意味も、よく解らない。
「なにそれ。セブンって、七?」
「あれは、ダーティハリーって映画の刑事が使とる拳銃や。セブンも映画やな。刑事が殺人犯憎すぎて、手錠掛けて無防備な状態なのに撃ち殺してまう奴や」
「げ。何それ。春くん撃っちゃうのかな」
「撃たない」
知佳が短く宣言する。
「こら、読んだらあかん」
「あ、つい」
然し現場はそれどころではない様で、知佳に読まれたことを気にする素振りも無かった。
「でもそうか、撃つ気無いなら慌てんくてもよいわ。――そや、蓮ちゃん転送する時、その対象の詳細解るゆうとったな。転送する気になってこの拳銃見ること出来るか?」
「する心算でしないってこと? 試したこと無いけど、してみる」
蓮は拳銃に集中する。脳裏に拳銃の情報が浮かぶ。約千四百瓦。装弾無し。転送しそうになったところで、気を抜くと、脳裏の情報も消えて行った。
「弾入ってないみたい」
「おっけい、ありがとさん」
こんな使い方もあるんだと、蓮は初めて気が付いた。矢っ張り都子は凄い。
「姉ちゃん、此処に居たら、エスパー部隊来ちゃうよ」
春樹が里奈に銃口を向けた儘、秋菜の方も見ずに云う。矢っ張り知佳が読んだのが悟られた? でもこの云い方だと、自分はEX部隊と鉢合わせしても好いと思っている様にも聞こえる。
「あ」
「如何した知佳」
蓮は知佳を心配して傍に寄る。
「春樹さん、話したがってるみたい」
知佳が都子を見上げる。都子は右腕を胴に回し、口元に左手を当てゝ数秒考えてから、知佳に視線を落とす。
「よしゃ、イチかバチか、知佳ちゃん読んでみ」
知佳は春樹を凝と見詰めて、蓮達は知佳を凝と見詰める。
知佳は直ぐに顔を挙げて、蓮を見て、それから都子を見上げた。
「少し会話しちゃいました」
そして何だか、複雑な表情をした。
二
春樹と秋菜が、里奈と対峙している。春樹は相変わらず、空の拳銃を里奈に向けて構えているが、里奈は微塵も動じていない。撃たないと思っているのか、
知佳が春樹の心との会話内容を皆に告げる。
「春樹さん、すっかり思い出していました、幼い自分がして来たこと。その上で里奈さんに一言云いたいんだって、それで来たんだって云ってます。別に暴力振るうのが目的じゃなくて、文句を云いたいんだそうです。――ただ、春樹さんの心の奥底には、矢っ張り里奈さんに対する抑え難い憎悪があるんですよね。これが出て来なければ好いんですけど……X国に引き渡すって段取りは、佐々木さんから聞かされているので、大丈夫だと思うんですけど」
里奈と春樹の会話が聞こえる。
「云っておくが、私は誰も殺していないぞ。裁判に掛けてくれても好い。この国では有罪になんかならないから」
「この国では裁判に掛けないよ。身柄はX国に引き渡す契約なんだ」
知佳は、春樹が拳銃を下ろすのを見ながら、「……まあ本人は大丈夫の心算でいるんですけど……でもなぁ……」と続ける。
「危ういかね」
それ迄凝と黙っていた佐々木が、心配そうに訊いて来る。
「そうですね……鳥渡したことで、その感情が爆発して仕舞う危険はあると思います。春樹さん自分で思っている程、心強くないと思う……」
「適当なところで介入せねばならんな。EXの方達は、秋菜と鉢合わせしない約束なんで、行くとしたら弊社のモンだな」
そう云って佐々木は、達也を見る。達也は緊張した面持ちで首肯いた。
「一応、本人にも危険性は告げて、気を付ける様には云ってみたんですけど。ありがとう、でも大丈夫って」
知佳は相変わらず心配そうに云う。そんなことを云っている傍から、春樹が里奈を蹴り飛ばす瞬間が眼に入った。何か里奈が、春樹に対して挑発的なことを云った様なのだ。後手に縛られた儘の里奈は、顔から地面に突っ伏した。
「ハル、止めときな!」
秋菜が必死に春樹の暴走を止めている。春樹は「くそう!」と吼えて、拳を握った儘堪えている。
「今のはこの国でも裁けるぞ。暴行罪だ」
里奈がそんなことを云うものだから、復春樹の忍耐が切れた。今度は念動力を使って里奈を締め上げている。神田が慌てゝ力を添えて、間違いが起こらない様にする。それでも里奈の表情は苦痛に歪んでいた。
「春樹、駄目!」秋菜も必死に止めている。「ちゃんと裁いて貰うんでしょ!」
秋菜の言葉で、春樹は力を解くと、その場に蹲って仕舞った。地面を思い切り殴り付けている。拳に血が滲む。
「姉ちゃん、ごめんな。非道い記憶視て来たんだろ」姉を見上げた春樹は、涙でボロボロになっている。「本当に、ごめんなさい」
秋菜が春樹を抱き締めたところで、佐々木が蓮にアイコンタクトをした。それを受けた蓮は達也を見る。すると達也は立ち上がり、カールが歩み寄って達也の横に付ける。蓮は二人を現場へと転送した。
「すみません、そろそろ宜しいですか」
達也が秋菜の背後から声を掛ける。そんな台詞かよ、と、蓮は思った。もう少し気の利いたことを云ってあげて欲しかった。達也が二人に自己紹介し、カールが里奈を連行しようと腕を掴んで立たせた時、里奈の目が碧く光っているのが見えた。カラーコンタクトが外れて仕舞った様だ。
「カールさん、彼女の瞳を見ないで!」
秋菜が叫んだが、里奈はカールではなく、達也を見ていた。里奈が何か云おうとした瞬間、春樹が後ろから当て身を食らわせる。
「てめぇ!」
里奈はカールを巻き込んで、一緒にその場に転げる。
「あああ、たっちゃん!」
彩が狼狽えている。
達也の視線が彷徨っている。
神田が達也の動きを封じている。
そして彩が蓮を見て、「蓮ちゃん、お願い!」と叫ぶ。
考える余裕など無かった。蓮は彩を、達也の目の前に送る。彩は出現するなり、達也に張り手を食らわせた。
「たっちゃん! しっかりして!」
「解いた」
略同時にユウキが告げる。里奈の術を解いたのだろう。丸で彩のビンタで目が覚めた様なタイミングで、達也は正気を取り戻した。
「あや……」
「探偵が簡単に、敵の術に落ちるな!」
彩はそう云って達也に抱き付いた。
「わぁ、どさくさに紛れて、彩ちゃんたら!」
蓮が嬉しそうに叫ぶと、知佳は赤面しながらも微笑み、ユウキは真っ赤になって眼を逸らし、神田は何故だか照れ臭そうにしていた。カールが里奈にアイマスクを付けて、彼女を引き起こしながら立ち上がると、「達也、お帰り」と云って親指を立てた。里奈は何やらぶつぶつ云っているが、日本語ではない様でよく解らない。何かの文句でも云っているのだろうか。
知佳を見ると、何かに驚いた様な顔をしている。そして次の瞬間、もの凄く悩ましい顔になる。誰かの心で何かを聞いたのだろうか。
「ありがとうございました」
秋菜が達也達に向かって礼を云っている。蓮はそれを見て、意外に素直なんだなと思った。ずっと勝手に、気難しくて性格の捻くれた女性だと思っていた。何でそう思っていたのかは、よく判らないけれど。そうして知佳を見る。知佳は秋菜を見ながら、暫く何か考える様にしていたけれど、軽く微笑んだので、蓮はほっとした。
「秋菜さん、私達にお礼云ってました。あと、素直になれなくてごめんなさい、だって」
「なんだそりゃ」
知佳が秋奈の心を伝えてくれたけれど、なんだか普通の内容なので拍子抜けして仕舞った。
「あれ、秋ちゃんて、私達のこと嫌いだったんじゃないのかな」
「またもぉ、蓮てば直ぐ、馴れ馴れしい呼び名付けるんだから。――それは兎も角、秋菜さん口では色々云ってたみたいだけど、本心別に嫌ってなかったよ。なんか、会長から離れるのが嫌なだけみたい。反抗期なのかな」
「知佳は反抗期これから?」
「知らないよ、そんなの」
知佳はムスッとして、蓮はケラケラと笑った。
「あゝそうだ、後ね、春樹さんに教えて貰ったんだけど、あの人たち十七歳だから、車は無免許運転なんだって。もうしないって云ってた」
「えっ! それは……どうしたものかな……」
神田が腕組みして悩んで仕舞った。
「それから――」
「まだあるの?」
何時に莫い知佳の饒舌に、蓮は稍呆れ気味である。そんな蓮の瞳を、知佳は凝と見詰めて来る。
「達也さん達未だ戻さないで、聞いて。あのね、里奈さんが最後に呟いていたの、言葉自体は判らなかったけど、その時考えていたのが――」
知佳は一呼吸置いて、続ける。
「カールの莫迦、何でそっち側なんだ――って」
「は?」
全員の表情が凍り付いた。如何云うことだ。
「あたし、今日迄全然思いも寄らなかったんだけど、そう云えばカールさんの心見たことないなって思って、見ようとしたんだけど――」
「見えませんでしたか」
神田が厳しい表情で受ける。
「はい。なんか霞が掛かった様になってゝ――あ、あの時に似てます。去年の、彦根城の――」
去年沖縄に行く直前、彦根城でY国の工作員を一人確保している。その時、工作員が持っていた通信機が、知佳のテレパスを妨害していたのだったか。周波数が相性悪いのかも、と神田が云っていた気がする。蓮は急激に不安になった。カールは仲間だと思っていたけど、云われてみれば彼のことは殆ど何も識らない。実はY国の諜報員だったりするのだろうか。二重間諜と云うことなのか。
「クラちゃん、カールが持ってる物、調べて」
蓮が怖い顔でクラウンに依頼すると、クラウンは少し狼狽えつゝも、幻影スクリーンを出してカールの隠袋や外套の内側等を捜索する。これがクラウンの、遠隔監視能力だ。原理は判らないが、何処でもこの方法で覗き見が出来る、使い方次第では非常に危ない能力である。――そうして襯衣の襟の折り返しで、それは見付けられた。
「何やろな、この小さな機械」
「持って来てみるね」
蓮の手に、小さな黒い釦の様な物が出現する。途端に知佳が眉を顰める。
「それ、邪魔してる」
「如何したらいい?」
蓮は神田を見上げた。
「預かりましょう」
そう云って神田は蓮の手から受け取ると、「都子さん、これ隔離してください」と云って都子に渡す。そして都子の手から、それは消えた。別の空間に押し込められたのだろう。
「聞こえます、見えます、カールさんの心――あ――そうか――」
知佳の表情が読めない。蓮は不安で一杯である。敵なのか。味方なのか。カールが敵だとしたら、達也は如何なっちゃうのか。
「里奈さんを池袋に連れて来たの、カールさんだ」
「なんて?」
都子が狼狽えているのなんか、そうそう見られるものではない。でもそんなことを楽しむ余裕が、今の蓮には無い。
その時、多摩川河川敷に居る彩が、小さい声で「蓮ちゃーん」と呼ぶのが聞こえた。
「あゝ、もう、これ以上は引っ張れないですよね」
知佳が残念そうに呟く。中川姉弟は既にその場を去っている。車がその儘なので、徒歩で立ち去ったのだろう。達也と、彩と、そして里奈を抑え付けたカールが、河川敷で蓮の迎えを待っている。相変わらず里奈は何かぶつぶつ云っている様だが、カールは全く聞こえない振りをして、無視している。
「まあ待てや。一旦止めるで」
都子が時間を停めた。河川敷の四人は停止している。今いるこの亜空間だけ、時が進んでいる。
「知佳ちゃん、この状況でも読めたやろ。スッキリさせとこか」
「――はい」
知佳は眼を瞑り、本格的にカールの中へ下りて行った。
「髭長スマンな。年寄りやのに、更に歳取らせてまうわ」
「そんなことは気にするな。わしだって知りたいわい」
都子と佐々木は視線を合わせて、薄く笑い合った。
「ユウキ、髭長若返らして、寿命延ばしたり」
「えっ、そんなこと、しちゃっても――」
都子は不敵な笑みを浮かべて、
「えゝねん」
と短く云った。
三
カールはY国の片田舎で、八人兄弟の末っ子として生まれた。父は広大な農場を持っていて、それなりに財産も溜め込んでいた。所謂豪農の類だろう。小作人達を雇って、色々な野菜や穀物を手広く生産していた。何処の国でも見かける、極有り触れた幸せな一族だった。
幸せが壊れたのは、カール三歳の頃、内戦が最初に激化した年だった。それ迄ずっと燻り続けていた火種が、この年の秋、一気に火を噴いた。政府に不満を持つ者達は、その十年も前から政府と小競り合いを繰り返していたのだけど、この時は他国から最新の弾薬を入手した反政府ゲリラが、国会の開催中に議会を一気に襲撃したのだ。この襲撃に由って時の首相は落命し、代わりに指揮に立ったのが政府軍の将軍だった。当然徹底抗戦の構えとなり、国内の彼方此方でゲリラ狩りが行われた。これによってゲリラはその戦力を半減されるのだが、残兵達は地下に潜り、より結束を強め、来る第二次激戦期の為に兵力を蓄える。――が、それはまた、先の話。
国軍によるゲリラ狩りは、都市部に収まらなかった。ゲリラは国内に広く散開しており、その為追撃も国土の隅々に迄及んだ。カールの農園に逃げ込んで来たゲリラの一団もあり、父はそのゲリラを匿った。自宅の地下貯蔵庫に押し込めて、倉庫に保存されていた作物や農具は農場の片隅に積み上げられた。これが政府軍からすれば目印となったのだろうか、若しくは内通者でも居たか。ある時カールの農園はその自宅ごと、一面に降り注ぐ尋常でない程の大量の焼夷弾に依って、焼き払われた。地下に居たゲリラは為す術なく、皆焼け死んだ。親も兄も姉も焼けた。カールはその時、乳母と一緒に近くの丘へハイキングに行っていた為、惨禍を免れた。
自宅から揚がる筆舌に尽くし難き巨大な炎の柱には、丘に居てもチリチリと焼かれる思いだった。迚も自宅へ帰ることなど出来ず、乳母に手を引かれて川の上流へと逃げた。逃げても逃げても、炎の明かりは背中を焦がした。それは家人達を燃やした炎、小作人達を燃やした炎、ゲリラ達を燃やした炎だ。カールはその時、父も母も、兄達姉達凡て、生きてはおるまいと観念していた。迚も逃れられる炎ではないと感じていた。山の上から郷を眺めながら、顔を赤々と炎に晒しながら、カールは涙が止まらなかった。乳母もカールを抱き締めた儘、ずっと震えて、ずっと哭いていた。
政府軍が憎かった、然しそれ以上に、ゲリラが恨めしかった。奴等が来なければこんなことにはならなかった。今でも温かい部屋で、家族皆で笑いながら、母の美味しい手料理を食べていた筈だった。焼かれるなら誰も居ない処で焼かれゝば好い、他人の家迄来て、一族を盛大に巻き込んで殺られる必要が、何処にある。引き込んだ父も父だ。何も云わない母も母だ。カールは最初から厭だったから、ゲリラが家に居ることが我慢ならなかったから、だから乳母を引っ張って丘迄逃げていたのだ。家に帰りたくないと駄々を捏ねている内に、家は焼け落ちた。皮肉でしかない。神など居ない。
山で一晩過ごし、その後カールは乳母と手を取り合って、山を越えた。然しその当時、何処へ行っても似た様な有様だった。ゲリラ以上に民間人が殺されていた。区別が付かないのか、区別を付ける心算が無いのか。国が国民を次々惨殺している。異常な事態が起きていると、三歳のカールでも判断出来た。
そしてこの道行は、直ぐに行き詰まる。カールと乳母の二人だけだったなら、未だなんとかなっていたかも知れない。然しこの放浪にはもう一人の連れがあった。乳母は赤子を抱えていたのだ。
生まれて未だ半年にも満たない、乳母の実子である。そしてカールは知っている。それは父の子でもある。腹違いの妹なのだ。妹は父と乳母に似て、透き通る様な白い肌に、蒼玉の様に蒼い瞳をしていた。カールは母に似て、茶色い髪に茶色い目、肌も稍浅黒い。この異母妹は丸で作り物の様だと思った。髪は未だ薄くて好く判らないが、恐らくブロンドだろう。
妹には未だ名が無かったが、クリスマスが近い頃に生まれたので、カールがキャロルと名付けた。乳母は喜んでくれた。然し赤ん坊は如何したって足手纏いになる。それでも二人は、キャロルを捨てる気にはならなかった。
キャロルが一歳になる頃、遂に乳母が進めなくなった。食べ物をカールに優先的に与え、自分が我慢をし続けた結果、乳が止まり、脚が萎えて、行倒れた。ゲリラ狩りで人の絶えた厩舎の藁の中に住み着いて、キャロルのミルクはカールがくすねて来る牛乳に変わり、食べ物は料理屋裏手の塵箱から調達する様になっていた。乳母の状態は一向に良くならず、日に日に衰えて行った。乳母は頻りに、ごめんね、ごめんねと謝るのだが、カールには謝られる謂れなど無い。そんなことは好いから、早く快くなって、もっと暖かい所へ遷ろうと声を掛けるのだけど、済まないね、ご免ね、としか返って来ない。そうして謝り続けて、キャロルが一歳半の時に、遂に乳母は動かなくなった。
カールは四歳だった。四歳と一歳半で、何が出来るものか。それでもカールは、乳母の亡骸を森の中の大きな樫の根元に埋めて、精一杯弔うと、やっとよちよち歩ける位になったキャロルを背負って、街へ出た。
キャロルは、言葉が出るのが早かった。元来お喋りだった乳母の血かも知れない。毎日乳母とカールが沢山話し掛けていた成果もあるだろう。こゝ半年程の乳母は殆ど謝ってばかりだったけど、それ迄は本当に色々なことを語ってくれた。絵本なんか無くても、その何十倍も何百倍もお話を聞かせてくれた。カールだってその中で語彙を増やして来た気がする。キャロルが時々発する言葉は、乳母を思い出させるものも多かった。
「ごみぇんねぇ。みぅく。ごみぇんねぇ」
キャロルが行き交う人の中の一人を見詰めて、そんなことを云ったのが最初だった。見詰められた人は歩みを止めて、不思議な表情になった。キャロルの瞳が少し、緑掛かっていた気がした。
「みぅく」
その人はくるりと背を向けると、真っ直ぐカフェに向かった。路向こうのカフェに向かって、余り真っ直ぐ行くものだから、危うく車に轢かれそうになったが、本人全く気にすることも無く、ミルクのパックを一つ買って戻って来た。そしてキャロルに手渡すと、不図我に返った様になって、首を傾げながら去って行った。
カールは妹を見た。瞳は矢張り、蒼玉の様な蒼だった。その瞳でカールを見上げて、「かぁ。みぅく」と云ってミルクのパックを差し出す。ストローは未だ難しいので、カールはパックの縁を千切ってから渡すと、キャロルは盛大に口許から零しながらも、ミルクを美味しそうに飲んだ。
「あーあ、服臭くなるぞ」
「あーあ。あーあ」
カールの口調を真似して、キャッキャと笑っている。
その後も
一年後には、国内で二番目位に大きな都市で、立派なホテルのスイートに住み着き、立派な服を着せられ、日々一流の料理を出されて、キャロルには一流のシッターが付いていた。何でこんな生活が出来ているのか、さっぱり理解出来なかったが、ホテルのオーナーが率先してこの生活を与えてくれた。その頃には殆どホテルの部屋から出ることなく、テレビやビデオばかり見ながら、自堕落な生活をダラダラと続けていた。故郷のことも、家族のことも、乳母のこともすっかり忘れて、キャロルと面白おかしく暮らしていた。
然しこのホテルのオーナーと云うのがそこそこお節介で、ずっと引き籠もっているカールを何かと外へ連れ出そうとする。カールにしてみれば億劫で仕方ないのだが、衣食住を面倒見て貰っている引け目から、二回に一回は提案を容れて、サッカー観戦だの、ミュージカル鑑賞だの、美術展なんかにも連れ回され、そして決まって高級なレストランディナーで締めだ。キャロルが三歳になってからは、そうしたオーナーツアーにキャロルもお供する様になる。二人とも否応無しに、目も舌も肥えると云うものである。
キャロルが四歳の夏、ホテル住まいも二年になり、カール達の為に増設された専用の居室で相変わらず温々と生活していた頃、オーナーに連れて行かれたオペラ座に其奴は居た。
「カール? カールなのか?」
観劇を追えてホールへ出て来た時、知っている声が背後から聞こえて来て、思わず振り返ると、其処には顔に大きな火傷の痕の残る、みすぼらしい姿の清掃員が居た。カールは混乱した。その声は聞こえて来る筈のない声だったのだ。
「おまえ……おお、おまえ……生きて……生きていたのか」
床に膝を突き、にじり寄って来るその男を、カールは拒否出来ず、硬直した儘受け容れようとしていた。そこに、オーナーが割って入る。
「なんだお前は。カールに何の用だ」
「カール、矢っ張りカールなんだな!」
男は泣いていた。カールも何時の間にか涙を流していた。
「父さんだよ、判らないか? カール! お前の父さんだよ!」
「触れるな!」
オーナーは父を蹴飛ばした。そしてカールを振り返り、その顔を見て少したじろいだ。
「カール? まさか本当に、君の父親なのか?」
ほんの一瞬の間にカールは考えた。死んだと思っていた父だ、確かにこの男は、自分の、否、
「知らない」
涙を拭くのも忘れて、表情で拒絶を示すと、カールは父に対して背を向けた。父親はその場に項垂れた。
「すまない」
小さな声でそう云うと、父は立ち上がった。そこへカールが背を向けた儘云う。
「この子はキャロル。マリアの娘だよ」
マリアと云うのは、乳母の名前だ。カールは父が狼狽えるのを背中で感じていた。何でそんなことを云ったのか、自分でも解らなかった。
「お兄ちゃん、この人誰?」
キャロルは不審げにカールを見上げて、訊いて来る。
「誰でもない。――君の母さんを、死に追い遣った男」
「マリアは死んだのか……やはりあの攻撃で……」
キャロルではなく、父の方が反応した。
「違う。放浪中に、体が弱って、死んだ」
「そうか――」
父は絶句して、後は嗚咽のみになった。
「オーナー。行こう」
「好い……のか?」
「関係ない、識らない人だから」
カールがキャロルの手を曳いてすたすたと歩き出すのを、オーナーは慌てゝ追った。
父とはそれ切り遇っていない。キャロルにはあれが父親だとは云えなかった。オーナーがずっと気にしていた様だったので、簡単に生い立ちを話して聞かせると、大層驚いた様だったが、それ以降父親の話題は出さなくなった。その代わり矢鱈とカール達を彼方此方連れて行く頻度が増えた様だ。
全体このオーナーと云う男は、如何云う心算なのだろうと、改めて考えた。その頃には、キャロルに変な能力があると云うことには、何となく気付いていた。未だにオーナーに対して、碧い瞳を向けることがある。そうするとオーナーはメドゥーサに魅入られたかの様に硬直し、視線が外せなくなる。そしてキャロルの云った通りの行動をするのだけど、その後も術が抜け切らない様で、長い事ぼんやりした儘キャロルの奴隷と化す。そんな状態が最初は半日程続いていたのだけど、最近は三日は続く。そしてカールが最も解せないのは、そんな後遺症みたいな状態を抜けた後でも、変わらずキャロルやカールに対して従順な態度を取り続けると云うところだ。キャロルの術を受け過ぎて慢性化しているのだろうか、それともそこまで含めて、キャロルの思惑通りなのだろうか。時々掛け直す様に碧い瞳を向けるのは、そうしないと効果が無くなって仕舞うからなのだろうか。キャロルに訊けば好いのかも知れないが、如何訊いたら好いのかが解らない。
その頃には海外旅行等にも、よく連れて行かれた。独逸、仏蘭西、伊太利、埃及、印度、中国。そしてある時、オーナーは云った。
「極東の小さな島国が面白いと聞いたんだ。今度は其処へ連れて行って遣ろう」
そして日本を訪れたのは、カール七歳、キャロル五歳の春だった。
満開の桜に圧倒されて、質の高い料理に感動した。日本に行く前は、中国の延長みたいな処だと思っていたのだけど、全然異質な国だった。キャロルは料理が気に入った様で、頻りに「美味しい! 美味しい!」と連発していた。
一箇月ほど滞在して、帰国する筈だった。然しキャロルが帰りたくないと云い出した。
「あたし此処に住みたい」
「無茶云うな。言葉も通じないのに」
「だって、ご飯美味しい!」
「そんな理由で?」
「大事なことだよ! 高い料理が美味しいのは当たり前だけど、安い料理まで美味しいんだよ!」
まだ五歳の癖に、生意気なことを云う、と思った。然し説得力がある点は否めない。唯、そうだとしたって、カール達はオーナーに連れて来られている身である。残りたいなんて駄々は通るものではない。そう思っていたのだが――
オーナーに向かって、キャロルの瞳が碧く光った。
「私達をこの国に残して、あなたは独りで帰る。そして私達のことは忘れる」
「キャロル!」
遅かった。遣って仕舞った。オーナーは二人に対してくるりと背を向けると、その儘立ち去って仕舞った。
さあ、えらいことになった。こんな言葉も通じない、文化も暮らし方も判らない様な異国で、五歳と七歳が如何遣って生きて行けば好いのか。また盗人乞食に戻って、ゼロから遣り直しだ。ゼロどころかマイナスだ。
取り敢えずその日の塒を探す為、カール達は移動した。何だか駅前に蝋燭の様な塔が建っている場所から、適当に歩き回ってみたが、寺院らしきものが彼方此方に在って、潜り込めばなんとかなりそうではあった。次に心配すべきは食事だ。キャロルの碧い瞳は期待出来ないだろう、何しろ言葉が通じないので、此方の希望を相手に伝えられない。実際、何度か試していた様だが、意図が通じないため結局相手は何も行動を起こさず、キャロルの方が根負けして諦めて仕舞う。
「カール兄ちゃん、お腹空いたよ」
「そんなこと云われても……」
カールは料理屋を見付けては裏手に回ってゴミ箱を探したりしてみたが、あまり芳しい成果は得られなかった。何だか住み着き難い街だなと思ったのだけど、かと云って移動の手段も無ければ、何方へ向かえば好いのかもよく判らない。横でキャロルのお腹がぐうと鳴った。気ばかり焦って仕舞う。
「食べ物、食べ物、食べ物」
キャロルがぶつぶつ呟き出した。見ると瞳が碧く染まっている。視線の先を辿ると、一人の裕福そうな夫人が固まっていた。東洋人、詰まりこの国の人種ではない様だ。観光客だろうか。若しかしたら言葉が通じているのかも知れない。
夫人はにこりと微笑むと、Y国語で「付いておいで」と云って、カール達二人を高そうな料理屋へと誘ってくれた。
このチャンスを逃してはならないと思ったのは、カールもキャロルも同じの様だった。食後も宿の手配をさせ、更には此処よりもっと過ごし易い土地への移動を求めた。立派なホテルで過ごした翌日、夫人は二人と鉄道に乗り、如何やら東へと向かった。三時間か四時間か、矢鱈と乗り心地の佳い鉄道に揺られて、着いた処は非常に人の多い、ごみごみとした街だった。此処でも夫人にくっついて数日を過ごしたが、料理の味は稍雑になっている気がした。前に居た土地の方が繊細な味だった気がする。但し此方は、至る所に放浪者を見掛けるので、寝床や食料には若しかしたら困らない土地なのかも知れなかった。この夫人を見限った後でも、なんとかなりそうな気配は感じた。
夫人は独りでこんな国に来ているだけあって、この国の言葉にも精通していた。キャロルは幾つかの単語を、この夫人に教わった。食事、宿、服、お金。会話には程遠かったが、必要最低限の意思疎通は出来そうであった。
一週間ほど滞在した頃、夫人は元の街――キョウトに戻ると云った。連れを置いた儘にしているそうだ。一人旅ではなかったのだ。悪いことをして仕舞ったかも知れない。カールはキャロルを説得し、夫人をキョウトへと返した。そして復二人、街を彷徨うこととなった。然しキョウトと違って、このシンジュクと云う街は、料理屋の裏手に行けば確実に残飯に有り付ける。而も非常に佳い状態の残飯が、大量に見付かった。この儘生活して行けるのではないかと思う程だった。キャロルも暫くはそれで満足していたが、直ぐに欲が出て来る。色々な店の裏手を食べ歩きながら、時折表通りに出て、獲物を物色する。夫人に教わった日本語も試してみたかったのだろう。身形の良さそうな紳士を見付けて声を掛けようとした時、カールは突然後頭部に衝撃を覚えて、昏倒した。
気が付いた時、猿轡を噛まされ、後手に縛られて、堅い床の上に転がされていた。視線を動かして、キャロルの存在を確認する。同様に縛られて、キャロルの場合は目隠しまでされていた。キャロルの性質を知られているのだろうか。眼の前に足が近付いて来る。それは直ぐ近くで止まると、その上から大きな顔が下りて来た。髭面のその男は、Y国語でカールに話し掛けた。
「面白い妹だな。こゝ一週間、ずっと見ていたぞ」
自棄に酒臭かったので、カールは懸命に顔を背けた。
「お前Y国人だろう。俺達はな、反政府義勇軍の生き残りだ。遙々こんな国迄逃げて来て、反撃の機会を窺っているんだ。あの娘は俺達の役にも立ってくれそうじゃないか?」
義勇軍なんて格好付けているけど、要はゲリラじゃないか。カールの家族を奪った――
その時、キャロルが烈しく呻いた。ドタンバタンと音がして、「外せ! 外せ!」とくぐもった声で叫んでいる。
「あっ! こら、瞳を見るな!」
キャロルの猿轡は首に落ち、目隠しが鼻先迄ずれていた。髭面が慌てゝ立ち上がり、キャロルと対峙している男に縋り付いたが、「そいつを殺せ!」と云うキャロルの命令に従った男に依って、髭面の腹にナイフが深く突き立てられた。髭面はその場に蹲る。
「解け! 外せ! 兄ちゃんのもだ!」
二人は解放されると、連中の隠れ家と思しき建物を飛び出して、走り出した。洗脳し切れなかった連中が追い掛けて来るので、懸命に走った。何処を如何走ったものかよく判らない儘、如何にか逃げ延びたと思ったら、大きな男にぶつかった。
「ごめんなさい!」
「Y国語? ――Y国人か、君は」
男はX国の役人だった。眼の前はX国の大使館で、カールは池袋迄来ていた。振り返って見てもカールは独りだった。キャロルとは如何やら逸れて仕舞った。連中に捕まったりしていないだろうか。否、キャロルなら大丈夫かも知れない。でも、万が一――
「妹が! 一緒に逃げていたのに!」
こゝ迄の経緯を掻い摘んで話した。キャロルの能力に関しては話さなかったので、非常に曖昧な話し振りになったが、それでもX国の役人は深く心を痛め、共感してくれた。そして、妹は探して遣るが、過度の期待はしないでくれと云われた。
「取り敢えず、中に入りなさい。これからの生活に就いては、何も心配いらないから」
役人はそう云うと、カールを大使館の中へと案内した。そしてカールは不安でいっぱいの儘、X国に保護されることとなった。
何時かキャロルが見付かる様にと、唯それだけを、一心に祈りながら。
四
蓮は絶句した儘何も云えなかった。
報告を終えた知佳は、疲労からぐったりしており、ユウキが横で心配そうに念を送っている。
「生き別れの妹だったんですね……然しその様子だと、Y国政府軍の手先となってからの里奈とカールは、特に接点は無かったのではないでしょうか」
神田の総括に対して、ユウキの御蔭で少し復調した知佳が、顔を挙げる。
「それが、全く没交渉と云う訳でもなかった様なんです――」
「まだ何かあるの……知佳、無理しちゃ駄目だよ」
蓮が心配そうに声を掛けるが、知佳はにこりと微笑みで返す。
「大丈夫だよ、ユウくんに活力貰ったから。これがあたしの役割だし」
「役割とか、そんなの――」そこで蓮は云い淀む。自分の役割、必要性を気にしていたのは、蓮だって同じである。知佳も悩んでいたのか。
「まあ時間停めとるんで、慌てずのんびりしぃや。何なら一回、おやつ休憩するか?」
「ミヤちゃん、自分がお腹減っただけなんじゃ……」
「あ、蓮ちゃん何ゆうねん! そんなん当たり前やん!」
そしてケラケラ笑った。何となく空気が軽くなった。
「頭使たら、糖分やで。蓮ちゃん、食堂から何か持って来」
蓮は大月支店の食堂に在るおやつコーナーから、チョコレート、パウンドケーキ、クッキーなどを転送して来る。同時に都子が、給茶機を空間接続で持ち込んだ。皆でお茶を飲み、おやつを食べて、ほっと一息吐く。
「余りのんびりしとると、齢取り放題だぞ」
ユウキの能力で若干若返っている佐々木が、クレームを入れて来る。
「髭長さん、大分若返ってるよ」
蓮の指摘に、佐々木はきょとんとした顔をした。都子がケラケラ笑いながら、「クマゴローとかと同じや、鏡見てみぃ」と云う。クマゴローと云うのは、久万吾郎、久万組会長のことだ。其方も秋菜の能力で、若干若返っている。
「おお、そう云えば膝の調子が!」
佐々木が嬉しそうに足踏みしている。
「腰も楽だぞ! こりゃあ凄い!」
しゃきっと背筋を伸ばしている。そんな佐々木を見て、何だか蓮まで嬉しくなって来ている。
その横で知佳が、眉間に皺を寄せた儘眼を閉じている。復カールの中に下りているのか。然し直ぐに目を開けて、今度は里奈を見据えると、再び眼を閉じた。里奈の中も覗くのか。大丈夫なのだろうか。蓮は急激に心配になる。
どれだけ待っただろうか。蓮が持って来たおやつは、殆ど都子が平らげて仕舞った。お茶も好いだけ飲んだし、トイレも済ませた。そして漸く、知佳が里奈の中から戻って来ると、稍疲れた顔で一同を見渡した。
「大丈夫、カールさんは敵ではないと思います」
「知佳、大丈夫? 疲れてるなら説明後回しでも――」
「ううん、ありがとう蓮、でも面倒だし、今説明しちゃうね」
里奈の記憶から見た過去も、カールの記憶と余り違いは無かったそうだ。池袋でカールと逸れた後、何日か彷徨い、折角覚えた日本語も発音が悪かった様で余り通じず、そこそこ惨めな生活を続けた後に、ヤスに拾われたのだと云う。ヤスに向かっては、「やど、ごはん」と繰り返していた心算の様だったが、ヤスには「識らない言葉」にしか聞こえていなかった。然しそれでも、幾つかは意識下に届いた様で、何とか拾って貰うことが出来た様だ。
その後ヤスの元を出奔する迄に就いても、略達也が聞いて来た通りの展開だった。Y国のゲリラに対する悪感情だけが強く刷り込まれていた為、それに敵対するY国政府軍に属し、異能者の部隊に配属されて日本に戻って来た。その間ずっとヤスに年賀状を送り続けていたのも、達也の推測通り、ヤスに対する恩義と情愛によるものだそうだ。
日本で活動をする様になって暫くして、スマホを持つようになり、SNSをしている内にカールのアカウントを見付ける。そこから、カールとの連絡を付ける様になったが、お互いに現在の活動内容は隠し合っていた所為で、真坂敵対関係になっているとは思っていなかった様である。
先に気付いたのはカールだった。それは勿論、春樹が持ち帰って来た情報を耳にした時である。それ以前から、碧い瞳で洗脳すると聞いた時から、何となく嫌な予感はしていたのだけど、結び付けて考えてはいなかった。何で嫌な予感がするのか、自分でも解らなかった。然しキャロルと云う名前を聞いた時に、突然雷で撃たれた様に、全てを理解したのだと云う。キャロルと過ごした遠い記憶が、一気に蘇って来た。洗脳の能力者であること、そしてキャロル本人から聞いていた日本名とも符合して、最早疑う余地もなかった。カールは烈しく動揺したが、外部から悟られない様必死に感情を押し殺した。何処で誰が傍受しているか判らないので、キャロルへの連絡はそれ以来控えている。
キャロル――里奈の方は、今日カールが目の前に現れる迄、全く気付いていなかった。それでも偉いもので、驚きはしたが、そんな様子を噯気にも出さず、見事に悪役を演じ、カールの顔を立てた。
そんな芸当が出来る程に、二人の関係は強固なのだろう。
然し里奈は、矢張り釈然としない想いも抱いており、心の中で頻りに、何で其方側なんだと、繰り返し叫んでいる。それは恐らく、ぶつぶつと零れる呟きにも反映されているのだろう。カールはその呟きに対して、済まない、申し訳莫いと心の奥で謝りつゝ、如何して政府軍なんかにと、此方も強く思い悩んでいる。
「とことん幸せになれない二人だね……」
蓮が涙ぐみながら、悔しそうに溢した。そうは云っても里奈の罪は深い。それは蓮も了解している。然しそれだって、政府軍に忠実であろうとした結果なのだろうし、里奈が自らの考えでしたことではないのだろう。
「春くん秋ちゃんには悪いけど、如何にかならないのかな……」
「難しいでしょうね」
神田が神妙な表情で応える。蓮は知佳とユウキへ、順に視線を送る。二人とも蓮と同じ様な気持ちである様で、悲しそうな、悔しそうな表情をしている。クラウンはなんだか複雑な顔をしているけど、多分余り深いことは考えていない。都子は無表情に、ジオラマに視線を落としていた。
「ほな」都子が河川敷を見ながら、静かに云う。「動かして宜しいか?」
知佳は都子を見上げて、暫く云い澱んだ後、「はい」と応えた。
「っと、その前に、いちお戻しとこか」
都子の手元に、妨害電波のボタンが戻って来た。それを蓮に手渡すと、蓮は小さく頷いて、カールの襟裏の、元在った位置に転送する。
それを契機に、世界の時間が動き出した。
「じゃ、蓮ちゃん、皆戻したり」
「あ、うん」
蓮は河川敷の全員を亜空間に戻し、皆は立ち上がって彼等を出迎えた。出迎えの対象には、当然安平里奈も居る。里奈は後手に縛られ、アイマスクを付けた儘、カールに抑え付けられている。
「神田っちに任すわ」
都子が短く云うと、神田は都子を見た後、少し間を置いて、カールを見た。
「有難う御座います。X国への引き渡しは、お願いして宜しいですね?」
カールは事務的な笑みを浮かべて、「勿論です、お任せください」と応える。
神田は云わない心算の様だ。佐々木と軽く視線を合わせて、そしてソファに腰を下ろした。
「あれっ、所長、なんか若返ってます?」
彩が佐々木を見て、目を丸くしている。知佳はドギマギした顔をしていたが、蓮と都子は笑いを噛み殺すのに必死だった。
「ユウキがね……鳥渡遣り過ぎちゃったみたい」
それだけ云うと、結局蓮は笑いだして仕舞った。連られて都子も笑う。
「え、だって!」
ユウキが口を尖らせる。その様に、結局知佳も笑い出した。
「俺は物凄く満足しとるぞ!」
佐々木がそんなことを云うので、彩まで一緒になって笑い出す。
「膝も腰も、非常に楽なんだ!」
「もう、介助も要らないですね?」
「噫、今迄世話になったな、ありがとう」
佐々木はシャンと立って、胸を張った。彩が眩しそうに見詰める。
その脇から、神田がカールに声を掛ける。
「カールさん、一ト先ず、容疑者の移送をお願いします。都子さんに、転位口を開けて貰います。ご承知の通り、出入国に就いては容疑者移送に限ると云う条件付きで、国家間での合意が得られているので、それ以外の行動は為されません様に」
「諒解りました」
カールが達也を見て、何か云おうとする前に、神田が大き目の声で、「カールさん!」と呼んだ。
「申し訳ありませんが、達也を此処に残して行くことは出来ませんか? 移送に不要な人員の出入国は控えた方が好いと思いますし、少し彼と話したいこともあるので」
カールは明白に戸惑いを見せた。神田と達也を交互に見て、里奈に視線を落とす。
「否、然し――私は達也の」
「自立支援員が、常に対象に張り付いている必要もないでしょう」
カールは反論しようと口を開けたが、結局何も云えず、口を閉じた。本来は保護観察官であるので、対象から目を離すわけには行かないのだろうが、そこを濁して自立支援員だと名乗っているのを、逆手に取られた形である。今更違うとも云えないのだろう。
「上に確認します。電話させてください」
都子が小さな転位口を開けると、電話の電波が入って来る。カールは電話を掛けて、X国語で会話を始めた。言葉は解らないけれど、会話の成り行きを全員が見守っている。
数分程の遣り取りの結果、カールは電話を切り、神田に応えた。
「問題ありません。但し、転位口は繋いだ儘にしておいてください」
「勿論ですよ。転位は何処に繋げばよいですか?」
カールはX国に在る収容施設の、門扉の前を指定した。都子が門を繋げると、カールは一度達也を見てから、里奈を連れて門の向こう側へと消えた。カールが建物内に入り、姿が見えなくなってから、都子が達也を見ながら云った。
「今、時間停めたんで。戻って来る迄たっぷり時間あるし、会話内容も向こうには届かん」
「有難う御座います」
神田も達也を見ながら、返事をする。
「扠達也、お前に知らせておかなければならないことがある」
そしてカールと里奈の生い立ちを、掻い摘んで語った。達也は吃驚した様に眼を剥き、彩は口元に両手を当てゝ蒼褪めながら、最後迄黙って聞いていた。
神田が凡て語り終えた後、達也は辛そうに口を開く。
「父さん、この情報は、X国には――」
「既に部長には、メッセージで要点だけ報告してある」
いつの間に、と蓮は思った。然しそれなら、先行してX国に情報が渡っているのかも知れない。カールは処分を受けたりしないだろうかと、心配になる。
「カールは戻って来るかな」
達也も同じ様な懸念を感じた様だ。
「さあ、それはX国次第だな」
神田は眉間に皺を寄せて、達也を見詰める。
彩は蒼褪めた顔の儘、「カールさんを信じて好いのかな……」と囁く様に云う。それに明確に答えられる者は居ない。
「僕は、信じて、待つよ」
達也が吃えながら答える。神田は都子に視線を移して、静かに指示を出した。
「もうよいですよ。時間の流れを戻して下さい。カールの帰りを待ちましょう」
時間が再び動き出し、全員の視線が門へと注がれた。
里奈の罪が許されて、カールと一緒に暮らせる様になる日は、来るのだろうか。
蓮は複雑な想いで、凝と門を見詰め続けた。
達也自立への日々
一
達也が日本に帰国してから、もう直ぐ一年が経過する。
半年前のあの日、カールは意外にも十数分で帰って来た。但し、非常に不安な顔付きで。
「あなた方も人が悪い」
戻って来て開口一番、カールはそう云った。云ってから全員を順に見渡し、知佳の所で視線を止めると、「フィルタしていた心算だったんですがね……無駄でしたか」と云った。知佳は怯えた様に一歩後退った。それを見て達也は、二人の視線に割り込んだのだ。
「カール。君の相手は僕だけだ」
カールは申し訳なさそうに視線を落として、「怖がらせる心算は無かった。ごめんなさい」と、達也と知佳に詫びた。
その後カールは、自らの口で語ってくれた。大体父から聞いた通りの内容だったが、X国に保護された後、X国の学校に通い、国防軍に仕官して、出世を重ねて中尉に至るところまで語ってくれた。
「信じて貰えないかも知れないけど、キャロルとは決して協力関係などではなかったし、僕は諜報活動などもしていない。単なる兄と妹で、それ以上の関係性も、情報の授受等も、一切無かったんだ」
ずっと項垂れているカールに対して、知佳が達也の背後に隠れる様にしながら、「大丈夫、私はそれが真実だと判っています。妨害の装置を外して来て頂いた様ですし、今ならもう、私に嘘は無効なので」と援護したので、カールは少し安心した様な表情になった。
然し、里奈の罪は免れ様もなかった。反省の態度も示さず、情状酌量の余地もなく、それでもX国に死刑制度が無い為、命を取られる様なことだけは無かった。その代わり、禁固八百年とか、そんな感じの求刑になり、今方に裁判の真っ最中であるのだけど、一生監獄の中で暮らすことは略確実だった。カールの心痛は計り知れない。
父が達也を送致した時とは、余りに程度が違い過ぎる。父も苦しかったのだろうが、それを云ったらカールの苦しみなど表現のしようもない。カール自身に対する処分等は一切無かったと聞いてはいるが、それ以上の苦痛が彼を襲っている筈である。この先彼は、果たして無事に遣って行けるのであろうか。
そんな苦悩を抱えて悶々としていたら、先週末に珍しくカールから、話があると云われた。
「司法取引が成立しそうなんだ」
里奈が、情報を持っているのだと云う。X国はずっと、Y国の指揮命令系統の流れを追っている。里奈の上が辿れるのであれば、より本丸に近い部分が明らかになると云う期待がある。だからその情報は、喉から手が出る程欲しい。
それに由って里奈が何れ程減刑されるのかは、内容次第である。半減程度では里奈にとって殆ど意味が莫い。一割になっても足りない。百分の一位から漸く現実味を帯びる。願わくは、執行猶予でも付けば……
然しそれ程の情報を里奈が持っているのだろうか。若しそれ程でないとしたら、里奈は取引に乗って来ないだろう。その場合情報を諦めるのは、果たして得策なのだろうか。漸く手に出来そうな手掛かりを、みすみす捨て去ることが出来るのか。
X国内でも、意見が割れている。それも偏に、里奈の罪状と、態度に因るところが大きい。そこで彼の国は、カールに目を付けた。せめて里奈が反省と恭順の態度を示せば、国内の意見ももう少し纏まるのではないかと云う期待がある。カールなら里奈を説得出来るのではないかと云うのだ。
カールとしても、これは里奈を救う最後のチャンスかも知れない。だから是非協力したいのだけど、二人切りでの接見は禁止されている。カールとて信頼されている訳ではないのだ。尤もこの状況下で、無条件に信頼出来る者など居ないのかも知れないが。
だから、比較的里奈に対して敵対感情を持っていそうな達也に、立ち会って貰えればと、カールは考えた様だ。
果たして自分は、里奈に敵対感情を持っているだろうか。達也は自問する。達也自身が里奈に何かをされたわけではない。若しかしたら、達也を洗脳していた誠治が、里奈の支配下にあった可能性はあるが、現時点でそれは証明不可能である。――里奈の心が読めればとも思うが、EX部隊を、取り分け知佳の様な年端も行かない無垢な少女を、こゝに巻き込みたくはない。
「僕は寧ろ、第三者的な立場に近いのではないかな」
「それならそれで良いんだ。利害が一致しなければ十分だ」
結局達也は、引き受けることにした。
瞳を見ると危ないと云う相手と、何の様に接見をするのかと思っていたが、拘置所の普通の面会室で、黄色いサングラスを掛けて行われるとのことだった。秋菜もそんな様なサングラスを掛けていた様だけど、本統に予防効果があるものだろうか。
「秋菜のが如何だったかは判らないけど、今回のサングラスはX国軍部の方で研究開発されたものだから、大丈夫だと思う」
カールがその様に云うので、取り敢えずは信用することにした。里奈にも同様の、決して自分では外せない様な、ロック機構の付いたサングラスが掛けられると云う。
尤も、接見の場で達也を乗っ取った処で、何の権限も無いし火器等も所持していないので、如何することも出来ないだろう。寧ろ里奈が自分の立場を悪くして仕舞うだけで、何の得も無いと思う。だから里奈が賢明であるならば、能力は使わないだろう。
真坂兄を洗脳することもあるまい。
「そうだ、カール。一つ提案があるんだけど」
ほんの思い付きだ。カールが乗って来なければそれ迄だと、達也は思った。然しその気になって貰えるなら、若しかしたら思い掛けない効果を齎す可能性は、否めない。
「――上に掛け合ってみるよ」
達也の提案を、カールが如何受け止めたかは判らないが、少なくとも拒否はされていない様である。勿論カールの一存で決められることではないだろうから、即答は出来ないのだろうが、それでもカール自身に拒む意思は莫かったのではないだろうか。
果たして接見前日の昼過ぎ、カールはアパート隣室の達也を迎えに来て、云った。
「上層部での承認に、思いの外手間が掛かって仕舞って、実は未だ手続き、準備が追い付いていないんだ。だから達也の提案に就いては、
「次回があるのか?」
達也は接見は一回だけだと思っていた。一度の接見でさえ、あらゆるケースを想定して間違いの起きない様にと、徹底した配慮の上、万全の体勢を敷いて貰っている筈である。そんな予算も人手も膨大に掛かりそうなことを、そう何度も実現出来るのだろうか。
「次回を作るのさ。今回の展開次第だろう」
「どうやって……」
「まあそこは、任せておいてくれ。兎に角達也は、立ち会って居てくれるだけで好いんだ」
カールはそう云うと、アパート前に横付けされた、黒塗りのプリウスを指した。絵に描いた様な大衆車だ。
「こっちのスタッフは、車のセンスが今一だな。――ま、乗れよ」
二人で後部座席に乗り込むと、車は静かに辷り出した。公用車と云うと、もっと高級な車が使われそうなものだけど、X国のお国柄なのか、予算的な理由なのか、将又大統領の方針なのか、X国に居た頃から、比較的安価な大衆車が使われる傾向がある様だと感じていた。
「スカイラインが好きなんだけどな」
それも大衆車だ。矢っ張り国民性なのかも知れないと、達也は思う。もっと大事な所に予算を振っているのだろうか。日本も見習っても好いと思う。
此処から羽田空港迄行って、国際線でX国に到着するのは、現地時間で今日の夜だ。その儘用意された宿に一泊して、翌朝接見を行う。会話は略カールが行い、達也は二人の様子に不審な点が無いか等を見張ることになっている。会話はY国語でされる見込みであるが、達也はヘッドホン越しに、AIに依って同時通訳された内容を聞くことになる。AIが何の程度、精確に翻訳してくれるものなのかは判らないが、同時に録音もされるので、基本的には無難な内容しか話されないだろうと思う。結局達也は、其処に居るだけの案山子みたいなものだ。カールと里奈が二人切りにさえならなければ、それで好いのだと云う。
飛行機の座席は、ビジネスクラスだった。昨年帰国した際にも、ビジネスクラスを取って貰えた。贅沢なことだと思う。車は大衆車でも、座席には予算を掛けるのか。達也が賓客扱いだからなのかも知れない。真坂客の為に車を買い替える訳には行かないだろうが、航空機の座席は一回こっきりだから、融通も利かせ易いのだろうか。
隣席にはカールが居るのだけど、パーティションが上がっているので顔を合わせることも無い。達也は好いけど、カールは責務的にそれで好いのだろうか。若しかして、どこかに隠しカメラでも設置されているのだろうかと、無駄に疑心暗鬼になって仕舞う。
中央の二席並びの列なので、外の景色を見ることは出来ない。今何の辺りを飛んでいるのかは、正面のテレビ画面で確認することが出来るが、外が見れないと云うのは矢張り味気ないものである、色々な番組を選択して鑑賞出来るけれど、これではカプセルホテルに居るのと大して変わり映えしない。食事が出るだけ、カプセルホテルより上等ではあるが。
「お食事をお持ちしました」
その食事が、客室乗務員の押すワゴンに依って運ばれて来た。メニューは予約時に指定してあるので、エコノミーの様に「ビーフ、オア、チキン?」と云った様な遣り取りは発生しない。
「お酒貰えますか?」
「畏まりました。日本酒で宜しいですか?」
「吁、はい」
「後程お持ちしますので、お食事をお楽しみください」
乗務員は食事をテーブルに置いて下がると、他の席への配膳を続ける。
達也が指定したのは和食膳だった。米飯は茶碗ではなく、竹皮に包まれて出て来た。然し汁物はお椀に入っていた。主菜、副菜が、それぞれの皿に纏められて、小鉢に御新香、そして一杯のお茶も付いている。デザートには抹茶プリン。達也はスマートフォンを出すと、料理の写真を撮り、彩のチャットアカウントを出して送信した。
――ビジネスクラスの食事。美味しそう。
直ぐに返事が返って来る。
――贅沢! 気を付けて帰って来てね!
未だ着いてもいないよと、口の中で呟いて、達也は優しく笑った。
二口程食べたところで、先刻の乗務員が酒瓶を持って遣って来た。
「此方の銘柄になりますが、宜しいですか?」
「あ、はい、お願いします」
目の前にグラスが置かれ、澄んだ液体が注がれる。
「それでは、ごゆっくりとお寛ぎください」
乗務員が去ると、達也は酒を一口飲んだ。適当に返事をしたので、何と云う銘柄だったかよく見ていなかったが、若干甘口の、香りの佳い酒だった。
食事を終え、酒を飲み干すと、達也は少し睡った。今夜は長くなる。日本時間では未だ夕方にもなっていない位だが、地球の自転に逆らって、太陽を追い掛ける様に稍北回りで西へ西へと飛んで行く。そして離陸から十八時間程後に、夜のX国に到着する。それだけの時間を掛けて、夜になるのだ。到着してから夜を明かして、それから接見なので、到着後のホテルでは寝られる様にしたい。そこに合わせられるように、今の内に寝ておきたいと思い、酒を頼んだのだ。最初に数時間寝ておいて、起きてからは到着迄寝ない心算である。
三時間程寝た頃、達也の腕時計がブルブルと震える。目覚ましを仕掛けておいたのだ。半開きの眼で暫くぼんやりとした後、トイレに立って、洗面で顔を洗った。席へ戻る際に客室乗務員と擦れ違ったので、珈琲を所望したら直ぐに持って来てくれた。
さあ、長いのは此処からだ。達也はヘッドホンを被ると、手許のリモコンを操作して番組表を開いた。先ずは目覚ましに、気楽に観られる短めのコメディ番組を探してみる。そして子供の頃から大好きだった大泉洋のバラエティ番組を見付けたので、それを掛ける。再放送で何度も見ている内容なのだけど、今回も矢っ張り面白かった。笑い声を出さない様に必死に堪えるのが中々辛かったが、御蔭ですっかり目は覚めた。
その後、スターウォーズの初期三部作を一気に見たりして、大分時間を潰すことは出来たが、未だ未だ到着迄は時間がたっぷりある。映画を観るのにも疲れたので、ヘッドフォンを外して、シートを少し倒す。寝る訳には行かないので目は閉じない。
そして、カールと里奈のことを考えた。
二人は兄妹だと云うことなのだけど、一体何の様な生い立ちで、如何して生き別れになどなったのだろう。達也は概要ぐらいしか聞かされていないので、詳しい経緯なんかは全く判らない。政府と反政府の諍いの巻き添えを食って、家族を失ったと云う所は聞いたのだけど、なぜカールと妹だけが生き延びたのか、その後何が如何して日本に渡って来たのか、全く聞けていない。新宿で潜伏していたゲリラ残党に追われ、池袋で里奈と逸れたとは聞いたが、今一状況がよく判らない。
今見た映画がオーバーラップする。ルークとレイア姫も兄妹だ。否、全然状況が違うか。ルークの父親は生きていた。カールの父親は……そう云えば、矢張り大火傷を負って生きていたと聞いた。何だか映画と重なって来る。でも。
レイア姫は犯罪者じゃないぞ。
大体、そうすると自分はどのキャラになるのか。R2-D2か、C-3POあたりか。ヨーダは如何する。佐々木所長か?
そこ迄考えて、達也は噴き出して仕舞った。この同定遊びはこの辺にした方が良さそうだ。碌な結論にならない。
気分転換にアニメ映画を観た。X国にいた間に公開されていたもので、元々原作漫画が好きで読んでいたのだ。そう云えばこの作品にも、他人の心を読む少女が出て来る。知佳より大分幼い設定だが、心を読むと云うのが如何云う感じなのか、多少なりとも理解出来そうな気がして来る。
そして主人公の父はスパイで、母は殺し屋である。これもカールと里奈を彷彿とさせる。否、カールはスパイではないのだ。里奈も、直接他人を殺したことはない。「殺せ」と命令したことがあるだけだ。――無理にフィクション世界と同定する必要なんかない。カールはカール、里奈は里奈だ。
なんだか結局、何を観ても純粋に楽しめていない。起き抜けに観たバラエティぐらいか、何も考えずに楽しめたのは。自分の番組の選択が悪いのだろう。深層心理で類似性を求めて仕舞うのかも知れない。
達也は、今朝の続きを見ることにした。欧州完全走破とか云って、乗り込んだ英吉利でそこそこ酷い目に合うところ迄は観た。続きでは地名を誤読し、仏蘭西で道に迷っていた。初めての国で路に迷うなんて、達也としては考えるだに恐ろしい事態だが、この番組では終始笑って仕舞う。他人の不幸が楽しいとかではなく、笑う様に出演者全員が仕掛けて来るのだ。大したものだと感心しながら、結局達也は声を押し殺しながら笑うのだった。
出演者達が苦心惨憺しながら漸く仏蘭西を脱した頃、二度目の食事が運ばれて来た。食事が出たと云うことは、後二時間程で到着だ。二度目は洋食にしていたので、達也はワインを貰うことにした。着陸後は空港に隣接したホテルに行って寝るだけだし、問題は莫いだろう。明日に備えて十分にリラックスしておきたい。
今回も機内食を写真に撮って、彩に送った。ステーキにサラダ、パンと、デザートの一口サイズのショコラケーキ。
――もう直ぐX国に着くよ。
日本は今、朝を迎えた頃だろうか。彩は未だ起きていないかも知れない。と思っていたら、結構直ぐに返事が返って来た。
――まだ着いてなかったの。おつかれさま
――あと二時間ぐらいかな。早起きだね
――心配で寝られないよぉ
思わず達也に笑みが零れるが、直ぐに心配顔になる。
――大丈夫だから。ちゃんと寝ておかないと体壊すぞ
――たっちゃん帰って来る頃にはボロボロだよぉ
――ちゃんと寝ない子のところには帰らないぞ
――サンタ?
ぷっと噴き出した。サンタクロースのスタンプを探して、送信する。
「達也、元気そうだな」
パーティション越しに、カールが声を掛けて来た。
「到着もしてないのに、へばってられるかよ」
パーティションに向かって返事をする。
チャットには、大笑いのスタンプが返って来た。
さあ、一年振りのX国だ。前回は咎人として連行されたが、今回は立会人として、堂々と入国出来る。入国審査で何と応えれば好いんだっけか。ビジネス、で好いのか。X国語で云った方が好いのだろうか。後でカールに確認しておこう。
食事を終えてワインを飲み干すと、達也は軽く目を閉じた。
二
黄色掛かった大きな分厚いアクリル板に隔てられた向こうには、大袈裟な黄色いゴーグルを付けた安平里奈が座っている。アクリル板は右の壁から左の壁迄、そして天上から床迄、完全に室内を二つに分割している。丸で水族館の大水槽の前に居る様だ。黄色はアクリル板自体の色ではなく、薄いセロファンの様な物を此方側に貼り付けてある様で、壁際の部分が若干波打っている。音声はアクリル板に貼り付いた小さなコンデンサマイクが拾い、向こうの音声は正面の卓上に置かれたスピーカから出て来る。カールが里奈の真正面に座って会話しているのを、達也はカールの斜め後方のパイプ椅子に座って、ヘッドホンで聞いている。
極めて近代的な、ハイテクな設備なのだが、無機質な感も否めない。正面に生身の人間が居るのに、間のアクリル板が黄色い所為か、AIが生成した映像の様な気もしてくる。
「元気だったか」
「見ての通りだよ」
達也のヘッドホンからは、合成された男声と女声で「元気でしたか」「御覧の通りです」と流れて来る。多少の不自然感はあるものゝ、恐らくは略正確な同時通訳を行えている気がする。半年前に河川敷で見た里奈の性質からは、稍丁寧過ぎる様にも思ったが、その辺りはAIの限界なのだと思い、勝手に補正して聞き取ることにする。
然し合成音声の所為で、一層に作り物めいて感じて仕舞う。生身の里奈の声音は、確かにあの日、河川敷で聞いた里奈の声その儘だし、話す内容にも齟齬はない。
達也は頭をブンブン振って、浮ついた不安感を振り飛ばすと、会話に意識を集中した。
「何でY国政府軍なんかに……」
「カールこそ、なんでX国なんかに」
里奈は比較的落ち着いたトーンで会話している。多摩川河川敷で見せた様な、凶悪な表情はすっかり消えている。なんだか迚も寂しそうな顔で、カールを真っ直ぐ見詰めている。
池袋で逸れた後のことを、カールは語った。X国大使館に保護され、その儘X国に渡り、適切な教育を受けたこと。Y国のゲリラも政府軍も受け入れられなかったので、X国に帰化し、そこの軍隊に入隊したこと。
「
里奈は目を丸くして聞いていた。一族の仇を正しく認識していなかったのだろうか。大体里奈は、正確にはカールの異母妹だそうだ。父は同じだが母が違う。里奈の母はカールの乳母であり、カールの家族は、里奈の母にとっては雇い主一家だ。そんな主従関係は物心付く随分前に崩れ去っているとは謂え、里奈はカールと同じ熱量で焼かれた一族を思い、且つ焼いた敵を憎むものだろうか。
達也は里奈の反応に注意を傾けていた。ずっと俯いた儘の里奈が、何を考えているのか推し量るのは、非常に困難だった。
「父さんは今でも生きている筈だ。キャロルは覚えているかな。昔ホテルオーナーに連れて行かれたオペラ座で、声を掛けて来た清掃員が居ただろう」
「識ってるよ。――あの当時は何だかよく解らなかったけど、後々思い返せば、それ以外に解釈の仕様が無い。兄さんは、拒絶したよね」
「赦せなかったんだ。子供だったから……」
「責めてるわけじゃない」
里奈は俯いていた顔を挙げて、カールの瞳を凝と見詰めると、「あの男は、死んだよ」と短く云った。
「え、真坂、キャロル?」
「欸……別にあたしは何もしてない。日本にいる間のことだったから。上官から通達があったんだ。――肺炎だったかな。余り佳い環境で過ごしていなかった様だね」
「政府軍は親子関係を把握していたのか」
「と云うか、あたしが申告してたんだ。Y国で教練を受けていた頃、自力で居所を突き止めてね、動向を監視して貰う様に頼んでおいたんだ。危険人物だからって」
「なんで――」
カールは絶句した。里奈は少し口角を上げて、笑った様だった。
「兄さん、拒絶したじゃないか。だから、あたしも許さなかっただけ」
暫く沈黙が流れた。カールは次の言葉を選んでいる様だった。
「カール。今日はこんな雑談しに来たんじゃないでしょ」
里奈の方から本題へと誘導して来た。
「欸……うん」カールはちらりと達也の方に視線を投げてから、再び里奈に視線を戻し、「そんなに急いで結論を出すことは無いんだけど」と云った。
「オーナーの時も、夫人の時も、何時も見捨てられるのを恐れていたよね。環境が変わるのを怖がっていた。今も何かが変わることに怯えているのかな。相変わらず、臆病なんだね」
「誰が!」
里奈は愉しそうに笑っていた。邪悪な笑みではなく、妹が兄に戯れ付く様な、あどけない笑顔に見えた。
「じゃあカール、臆病な兄に免じて、今日のところは態度保留にしてあげる。どうせ協力要請に来たんでしょ。あたしもね、今でも一応Y国のエージェントだから。義理も責務もある。但し、兄さんの出方次第では、あたしの態度も軟化しないとも限らない」
「キャロル……」
「あたしがもし、協力したら、もうY国には戻れないし、日本にも居られない。多分、世界の何処にも行き場はなくなる」
「そんな」
「そうなんだよ。Y国舐めたら駄目。徹底的に潰しに来るよ――そんな顔しないでよ」
カールの背後にいる達也からは、カールが如何な表情をしているのか確認は出来なかったが、打ち震える肩を見れば察しは付く。
「カール。また、一緒に暮らせる日は来るのかな」
「X国に亡命すれば……世界の……何処より安全だ」
「そうかな? ま、考えておくよ」
そう云うと里奈は立ち上がり、右手を挙げてカールに挨拶すると、背を向けて退室して仕舞った。
「カール、大丈夫か?」
達也の問い掛けに対して、暫く返事は無かった。カールの背中が小刻みに波打っている。何度か深く寛悠と呼吸をした後、カールは顔を上げて、然し振り返らずに、「次回を作ったよ」と消え入る様な声で云った。
今回の訪Xは、これで終わりだ。二人は部屋を出て、拘置所の出口へと向かう。未だ朝の十時にもなっていない。この後昼の便で帰国する。達也には全く達成感も、満足感も無い。結論が先延ばしになったから、と云う問題以前に、案山子としての意義さえ、自覚出来ていない。自分は何の為に彼処に居たのだろう。自分が居たことで何かが変わったのだろうか。勿論、立ち会うこと自体に意味があるし、それ以上のことは
こんなやるせないことってあるか。
而も次回があるのだ。復同じ様に案山子をするだけだ。
出立の準備を済ませたホテルのロビーで、ソファに沈み込んで、鬱々愚図愚図と独りで不景気になっていたら、カールが隣に座った。
「達也、今回は本当に有難う。非常に助かったよ」
達也は虚を突かれて、目を瞬きながら、口を半開きにしてカールを見た。
「はは、なんて顔してるんだ」
「あんなんで役に立ったか?」
「立った、立った。お前が居なけりゃ俺は、冷静では居られなかっただろうよ」
「そうか?」
カールは何時でも冷静だと、達也は思っている。達也が居ようが居まいが、関係あるものかと。
「久しぶりに妹と、会話らしい会話をしたよ。ずっとスマホのメッセージで、テキストの遣り取りだったし、それだって半年前に彼等から名前を聞いた時に、止めて仕舞った。逮捕当日は見ていた通りだ。その後今日迄、一切接触出来なかったんだ」
「そうだな……」
「なのにキャロルは、あんな態度だったろう。僕は――」
「非常に好意的だったと思うが」
「そうさ。逮捕した僕に対して、恨み言の一つも云わずに、丸で街中で出逢ったかの様な気さくな態度で……だから僕は、堪えるのに必死だったんだ。キャロルを、抱き締めて遣りたいと云う衝動を。慈しみの言葉を掛けたいと云う、衝動を」
なるほどそうか、カールが心配していたのは其方だったのかと、達也は納得した。聞いた通りであるなら、カールと里奈とは、実に三十二年と半年振りに登戸で再会し、三十三年振りに拘置所で正面に言葉を交わし合ったことになる。未だ二十四年しか生きていない達也には、想像も適わないことだ。
掛ける言葉が出て来ない達也に、カールはニコリと笑い掛けた。
「また次の面会日を決めないとな」
その笑顔は、どこか楽しそうだった。
「達也の提案も、次こそは実現させるよ」
「あゝ……そうか、また、片道十八時間掛けて来なくちゃ不可いんだな」
カールは肩を竦めた。
「ま、フライトを楽しんでくれよ。国から旅費が出てるんだから、愉しまなけりゃ損さ」
「そうだな」
漸く達也は、笑顔を見せた。
ホテルのチェックアウトはカールが済ませていた。二人は空港直通の渡り廊下を通って、出発ロビーへと向かう。カールと共にチェックインを済ませ、荷物を預けると、保安ゲートを通って搭乗口へと向かう。
飛行機に乗り込み、ビジネスクラスのシートに身を沈めながら、達也は考えていた。次の接見では、父に協力を頼めないかと。何だか不安なのだ。何がと、判然とは云えないのだけど、なんだか嫌な予感がするとでも云うのか。接見が上手く運ばないかもと危惧している訳ではないし、里奈が態度を豹変させるとも思えない。里奈を信頼はしていないけど、必要以上に疑念を抱いている訳でもない。
達也の提案が悪い方に転がると思っている訳でもない。
然しなんだか、あの接見の場の空気に影響されたのか、不吉な印象を払拭出来ないでいるのだ。何が起こるかなんて判らないが、万全を期すに越したことは無いと、そんな気持ちが時と共にどんどん強くなって来る。出来ればEX部隊に、総員で見守っていて欲しい。来る時には巻き込みたくないなんて考えていたが、すっかり考えが切り替わって仕舞った。EX部隊にとっての危険性なんて、微々たるものだろう。里奈は思いの外落ち着いた態度だったし、子供達にとっても悪い影響は殆ど無いのではないかと思う。――扠、父に相談するか、それとも佐々木所長に打診する可きか。この場合、誰が依頼料を払うことになるのだろう。X国からの依頼と云う形に出来ないだろうか。
離陸が完了し、シートベルト着用のランプが消える。達也はカールとの間のパーティションを上げる前に、声を掛けてみた。
「カール、次回は忠国警備にも見守って貰っては如何だろうか」
「如何した。何か不安でも?」
当然の疑問だ。然し達也には明確には答えられない。もごもごと口籠る達也を暫く見詰めていたカールは、軽く微笑んで、宥める様な調子で云った。
「達也、君の心配は判らないでもない。僕としても彼等がサポートしてくれゝば安心だ。予算に就いては心配しなくても好い、Y国に関する調査費、及び達也の保護経費に就いては、殆ど無条件に認められているんだ」
「そうなのか」
達也はカールに向かって手を合わせ、確りと拝みながら、「申し訳ないけど、宜しくお願いします」と云った。
カールは両手の親指と人差し指で輪を作り、右手を胸の高さに上げ、左手を腰辺り迄下げて、阿弥陀如来の印を結びながら、神々しく微笑んでいる。X国人のするボケではないなぁと思いながらも、達也も思わず笑みが零れた。
会話が済むと「また後で」と云って、カールはパーティションを引っ張り上げ、二人の座席を区切った。こゝからは復、長いフライトの始まりだ。
帰国便のビジネスクラスは窓側に二列、少しずらす様に座席が設置されていて、達也は窓側の席を貰っていた。特に窓側が良いと希望した訳ではないのだけど、カールの心意気なのだと思う。窓から欧州の国土でも見られるかと思ったけれど、直ぐに雲の上に出て仕舞って、海も陸も見えなかった。真っ白な地平をずっと眺めながら、達也は少し睡った。
帰りの便には、二度の機内食の他に、軽食も出た。行きと帰りで航空会社が違うのだ。ビデオのラインナップも違っていて、行きの便で観ていた番組の続きは、観られなかった。行きより大分気持ちが楽になっているのと、多少の気疲れからか、眠る時間が多めになる。起きている間は、ビデオを見たり、音楽を聴いたり、本を読んだりして過ごした。そして羽田に着いたのは、日本時間で翌日の夕方だった。
到着ロビーで、迎えに来ていた彩に飛び付かれたのだが、彩は直ぐに顔を歪めて、一言「臭い」と云った。汗臭かったのだろう。日本が暑すぎるのだ。飛行機を下りた途端に汗が噴き出して、荷物を拾う迄の間に襯衣の給水性能を軽く超えて来た。未だ五月だと云うのに、もうT襯衣一枚の人すら見掛ける。あの人はこれから本格的な夏になった時に、一体何を着るのだろうと達也は思うのだけど、然し気持ちはよく解る。襟付き襯衣など着ていられない。
「臭いなら放してくれよ、暑い」
「やだ」
臭い筈なのに、胸に顔を埋めて来る。そんなに心配だったのか。有り難いと思うと同時に、達也は少し、面倒臭いと思って仕舞った。――彩は面倒臭い娘だ、そんなことは先から判っていることだ。情が厚くて、思い込みが強くて、面倒臭いのだ。そう云えば知佳も、彩は心の声が大き過ぎると云っていた。詰まりはそう云うことなのだなと、納得する。
「俺が臭い以上に、彩は面倒臭いぞ」
「うるしゃい!」
まあ、そんなところも併せて、達也は彩の全てを受け止めているのだけど。達也は彩の背中をポンポンと叩いて、「ありがとう、でも、そろそろ好いかな」と云った。
彩は達也から離れると、照れ臭そうに頬を染めて俯く。如何も行動と態度が一貫しないのは、直情型で考えるより先に動いて仕舞うからなのか。
「お腹空いてない?」
「あゝ、二時間程前に機内食食べたから、そんなには」
「そう、じゃあ、お茶でもしない?」
ほんの三日程逢っていないだけなのに、彩は達也を放してくれない。確かに探偵になってからは、毎日職場で顔を合わせていたし、休日も常に一緒に居る。放って置いたら淋しくて死んで仕舞うのではないかと思う程、彩は達也の手をぎゅうと握って放さない。
「観念して一緒になれよ」
背後からカールが、達也にだけ聞こえるくらいの声で囁いた。達也は唯無言で、真っ赤に染まった。
三
二度目の接見の日の朝、達也とカールは都子の亜空間に居た。何故か彩も付いて来ている。
「所長の名代として、達也探偵の監督、援護をしに来ました」
そんなことを云っているが、達也は今回も案山子なので、監督されることも援護される必要も莫い。単に彩が我が儘を云ってこうなっただけだ。
今回もう一人、特別に招待した人物がある。その為、今この亜空間にはEX部隊のメンバは誰一人いない。彼らはもう一つの別空間から、此方を監視している形になっている。招待ゲストが一般人であり、且つそこそこ特殊な立場の人物である為、EX部隊が姿を曝すのは控えているのだ。
接見の時間に合わせて、転位口が里奈の収監されている拘置所の玄関前へと開く。出入国に就いては、里奈を移送した時と同様に、日本とX国の間で何やら特例の取り決めがあった様で、行動範囲を拘置所に限定すると云う条件で、直接の出入りが許されているそうだ。流石は政府、行政とべったりの忠国警備である。また、EX部隊には、飛行機のビジネスクラスに支払う予定だった費用が、その儘スライドして支払われている。それが何の程度空間士である都子の手元に届くのかは判らないが、空路の際のフライト時間を考えれば、もう二、三割上乗せしても良さそうな気がする。払っているのは達也ではないので、勝手な云い様ではあるのだが。しかし少なくとも、ホテル代ぐらいは回せそうなものである。
「勿論、ホテル代もその儘スライドしてるよ」
何気なくカールに訊いてみたら、その様に返って来た。流石はX国、太っ腹である。――いや、若しかしたら普通に飛行機とホテルの費用として申請して、それをその儘横流ししているだけなのかも知れない。領収書等、何の様になっているのだろうか、などと達也は余計な気を回して仕舞う。
彩とは此処でお別れだ。拘置所の中迄彩が尾いて来る訳には行かないので、達也達が門を抜けた後は、彩はEX部隊の空間へと引っ張り上げられることになっている。
「じゃあたっちゃん、気を付けてね」
「うん。心配する程の事でもないよ。まあ見守っていてくれよ」
「任せて!」
門が閉じ、三人は拘置所の中へと進む。カールが三人分の入館手続きと、接見の受付けを済ませ、黄色いサングラスを受け取ると、前回と同じ部屋へと通される。
黄色いアクリル板の向こうに、黄色いゴーグルを付けた里奈が座っている。
カールと達也に続いて、三人目が入室した時、里奈は発条仕掛けの様に跳び上がった。
「お父さん!」
そう呼ばれた招待客は、設置された机を避ける様にアクリル板迄よたよたと進み、両手を突いて、「里奈! 里奈なのか! おまえ……よく、元気で……」と云うと、嗚咽を漏らしながらその場にへたり込んだ。
招待したのは、ヤス、即ち熊崎安平。里奈が成人する迄面倒を見た、育ての親だ。
里奈はアクリル板迄静かに歩み寄り、ヤスを苦しげな表情で見下ろしながら、「カール」と低く名を呼んだ。
「こんな形の再会になって申し訳ないけど、この先状況が如何転んでも、二度とチャンスは訪れない気がして。――お前も気にしていただろう? だから」
「私の心を開かせる為でしょ」
カールは言葉を呑み込んだ。
「こんなことまでしなくても、あたしは――いや。好いんだ。ありがとう、兄さん」
そして蹲みこみ、ヤスと目線の高さを合わせる。
「父さん、ゴメンね。こんなことになっちゃってゝ」
「好いんだ。好いんだよ。お前が元気ならそれで……」
「ずっと育てゝくれてたのに、家出みたいに居なくなっちゃって。そのことに就いても全然謝ってなかったよね。ごめんなさい」
「好いんだ、好いんだよ……」
「日本に居たのにね。聞いてるかも知れないけど、あたしY国の工作員だったから」
「立派になって……」
「お父さんは巻き込みたくなくて――あのさ、あたしね――」
里奈は少しだけ云い淀み、深い呼吸を一つして、切り出す。
「あたし、洗脳の超能力があるの。最初にお父さんに逢った時、あたしその力を使ったんだよ」
「解ってる、解ってるよ……」
「何年かはずっと使い続けていたけど、でも、途中で使うの止めたんだ。止めてもお父さん、変わらずあたしのこと――」
涙声になり、口を噤む。肩が震えている。里奈も人の子なんだなと、達也は思う。
「里奈。父さんは、お前が立派になって、元気でいてくれたら、それだけで十分だ。子供は親から巣立つものだよ。巣立ったことに罪悪感なんか感じなくても好い。何時迄も親元に居る方が不健全だろう?」
そしてヤスは、にこりと笑った。
「何か大きな仕事をしたんだろう? でなければこんな――」ヤスはぐるりと辺りを見渡す。「大層な処に入れられないって。自分のしたことに誇りを持ちなさい」
「お父さん、でもそれは――」
「好いから」
「他人いっぱい死んだんだよ。あたしが、殺させた」
「父さんだって若い頃は――」
そうだ。ヤスは
「然しな、如何な荒事をして来たとしても、犠牲となった魂に対する悔恨の念が有るなら、里奈の魂は必ず浄化される。毎日祈りなさい。神様、宗教、そんなものは何でも好い。自分の信じる神に対して手を合わせて、過去を悔い、今を感謝し、将来を誓いなさい」
なんだか辛気臭くなって来た。今のヤスは宮司なのだ。里奈は可笑しそうに笑った。
「お父さん、神父さんみたいなこと云うのね。あたしには神様なんか、居ないよ。お父さんと――」カールに視線を投げて、「兄さんがいるだけ」
「それで好いんだよ」
「お父さんに祈るの?」里奈はヤスに向かって合掌する。ヤスは微笑みで返す。
「罪を赦そう」
「お父さん……」里奈が落涙した。
「里奈に幸あらんことを」
ヤスは立ち上がり、里奈を見詰めた儘後退って、カールに場所を譲った。
カールは暫く立ち竦んだ儘、最初の位置から動かなかった。
「カール」
落ち着いた声音で、里奈がカールを呼ぶ。カールが顔を挙げて里奈を見る。里奈は流れる涙を拭きもせずに、その場に立ち上がって、にっこりと微笑んで見せた。
「条件を云って」
「あゝ……」
カールは机に向かって着席した。里奈は立った儘、その正面へと移動した。
「キャロルの上官、及びその上の組織体系を、教えてくれ。情報の粒度、濃度次第で、減刑に応じる。――場合に依っては無罪放免もあり得る。それ相応の、情報が得られるなら」
里奈は眼を剥いた。無罪放免があるとは、達也にとっても想定外だった。
「カール。全部話してあげる。ただ、無罪放免は出来ないかも知れない」
「それは情報次第で――」
里奈は首を横に振った。
「そう云うことじゃないんだ。――あたし、こゝは世界一安全な所だと思っていたけど――」里奈はその場で膝を突いた。「如何も、そうでもなかったみたいなの」
里奈の顔色が異様に黒いことに、漸く達也は気付いた。黄色いフィルターを通しているので非常に解り難いのだが、青や紫は黄色を通すと黒く見える。詰まり里奈は今、真っ蒼か、若しかしたら紫色になっているのだろう。
「ユ……ユウキさん!」
達也は叫んでいた。直ぐにアクリル板の向こう側に、半透明のユウキが現れて、里奈の傍らに蹲みこむ。里奈の顔に、少しずつ血色が戻る。
「止しなよ、あたしなんか助けても――」
「ちょっと黙ってゝ」
ユウキが不機嫌そうに里奈の発言を止める。三十も齢下の少年に、今里奈は、従順に従っている。
「一体何が――」
狼狽えるカールの背後に、今度は半透明の知佳が現れた。
「毒を盛られた様です。今朝の朝御飯に、誰かが仕込んだみたい。里奈さん、毒と識ってゝ、食べた。遅い毒だったし、ずっと気を張っていた様だけど、気が緩んで一気に来ちゃったみたい」
「なんで!」
「EX部隊って奴? すごいね……何でも出来るんだ……Y国の超能力部隊なんか、全然足元にも及ばないよ。日本て、凄いんだね」
血色の良くなった里奈は、稍饒舌になっているが、ユウキの治療は未だ続いている様である。
EX部隊の能力が強いのは、達也の父の所為だと聞いたことがある。一緒に居るだけで、望むと望まないとに関わらず、どんどん能力が発達して仕舞うらしい。そうした属性を持つ者は、他国には居ないのだろうか。もしこの事が他国に知られた場合、父が各国に狙われたりする様な事態にならないだろうか。達也はそこはかとない不安を覚えると共に、この件に就いてはカールにさえ黙っておいた方が好いだろうと思った。
知佳が達也に振り向いて、神妙な顔で首肯く。達也の懸念が伝わったのか。であれば直ぐにも、父本人にも報告されるだろう。
カールは心配そうに、里奈の治療を見守っている。
「肝臓のダメージが激しい。不可能ではないけど、一気に回復させると却って反動が来るかも。少なくとも毒は全部消したので、後は自然治癒力に任せるべきだと思うな」
ユウキが医者の様に所見を述べている。
「君、佳い医者だよ」
里奈に褒められて、ユウキは照れる様な素振りを見せた。
「カール。改めて、全部話す。その上で、此処も危険だから、処遇を考えて欲しい」
「間諜は直ぐに見付け出す」
「無駄だよぉ」里奈は笑った。「もう出国してるだろうね。二度と戻って来ないと思うよ」
「未だ何人か潜伏しているかも知れない」
「あぁ、如何だろう。こんな処に常駐させても余り意味ないからな。――まあ、御蔭様でY国の考えは好く解った。あたしは恐らく、死んだことになってるだろうね。だから、顔も名前も変えて、逃げるよ」
「うちに来いよ」
「それこそ直ぐ見付かるよ」
里奈はケラケラと笑った。
「X国からも、キャロルは死んだって発表しといて。で、顔を変えさせて。そしてX国に違う名前で帰化させて。それがあたしからの条件と云うことで。――じゃあ、無罪放免レベルの情報提供と行きますか」
「好い名前なんだけどな」
「知ってるよ。何年この名前で遣って来たと思ってるの。でも今、そんなこと云ってる場合じゃないでしょう」
里奈はカールに優しく微笑み掛ける。
「好い名前付けてくれてありがとう。またいつか、平和な時代が来たら、元の名前に戻すよ。それ迄は、一旦神様に返すってことで」
「神様なんか居ないんじゃなかったのか」
「お父さんとお兄ちゃんが、あたしの神様」
そして照れ臭そうに笑った。
こんな里奈の屈託の無い表情を、達也はこの時初めて見た。
四
「お疲れ様」
出迎えた彩が、達也に抱き付く。如何してもこれをしないと気が済まない様だ。カールとヤスが、そんな二人を微笑ましく見ている。カールは達也達のイチャ付きを十分堪能した後で、ヤスに向き直って一礼した。
「それではヤスさん、今回はご協力有難う御座いました。これで――」
カールの挨拶を、ヤスは右手を翳して止めた。
「ご協力なんかしてません。私は、娘と逢っただけ、唯それだけなんです。佳い邂逅を、有難う御座いました」
そして深々と頭を下げた。
「それでも、私としては大変助かりました。キャロルの魂を救って頂けた、何よりそれに由って、私自身も救われた思いです」
「里奈の、お兄さんなんですね。長いこと里奈を育てさせて頂き、申し訳なく、否、有難う御座いました」
深々と頭を下げる。
「これは今回の謝礼で――」
そうして差し出された封筒を、ヤスは再び手を翳して止める。
「止して下さい。お礼を云いたいのは此方で」
カールが困惑しているので、達也が助け舟を出す。
「ヤスさん、貰ってあげて下さい。これは里奈さんの気持でもあるのです」
「里奈の?」
「ずっとあなたに何もしてあげられなかったと、悔やんでいるそうです。還暦のお祝いもしていない。これはせめてもの、今迄不義理をしていた分の謝罪と、送りそこなっていたお祝いの積み立てだそうです」
「私はもう、来年には喜寿ですよ」
そう云うと、笑いながらヤスは封筒を受け取った。達也が語ったことは全て、たった今知佳からテレパスで教えて貰ったことなので、そこに嘘はない。
「里奈の心遣い、有難く頂戴いたします。あの子にお伝えください。幸せになりなさいと」
「またいつか、どこかで逢えますよ」
達也の気休めに対して、ヤスはにこりと微笑んだ。
転位口が開く。その向こうは、下呂の神社である。
「何度見ても、この転位と云う奴は、敵わんですな。私の様な老い耄れには、何が何やら……」
「そんなのは僕も同じです。気にしてはいけません」
カールの言葉にヤスは快活に笑うと、一礼の後、門の向こうへと消えて行った。門が閉じられると、途端に周囲に人が湧いて、賑やかになる。
「あー、温泉! 行きたいなぁ」
「また蓮てば、そればっかり!」
少女達の他愛も無い会話に、急激に日常へと引き戻される気がする。
「キャロルに就いては、獄中死の広報を出します。その後、体調の回復迄は瑞西で療養させて、機を見てX国へと帰化させます。その後に付いては未定なんですが――」
カールは主に神田に向かって、今後の展開を説明している。EX部隊は単に援護していただけなので、その様な報告は無用なのだが。
「此方のチームに、洗脳の能力者は必要ありませんか?」
皆の動きが止まり、一斉にカールを振り返る。神田が難しい顔をして応える。
「いや――それは如何でしょう。洗脳の要否は置いておくとして、このチームは近い将来、中川姉弟の受け入れを検討しています。その際彼女が居たのでは――」
「噫」
カールは即座に理解した。中川姉弟にとって、里奈は親の仇だ。一緒のチームで仲良く遣っていけるとは思えないし、要らぬトラブルの元にもなり兼ねない。
「あの能力を封印することも考えなくはないのですが、出来ればちゃんと、何処かで有効に活用して貰いたいんですよね。――諒解りました。X国内で、検討する様にします」
「里奈さん、悪心は殆ど無いんです。凡て指令の儘にしたことですし、実行の際には常に心を殺していました。望んでした任務なんか、一つも無かったと思います」
知佳の分析に、カールは苦しそうな顔をした。
「彼奴は、多少やんちゃなところはあるけれど、基本的には純真なんですよ。言葉が多少ぶっきらぼうなのは、僕や、ヤスさんの影響でしょうね。もっと穏当な教育が受けられていれば、もう少しお淑やかで優しい女性になっていたかも知れないのに……」
「女がお淑やかだなんて、決めちゃダメ! 里奈さんだってちゃんと優しいでしょ!」
何故か蓮が激高している。カールは嬉しそうに微笑んで、蓮を見た。
「有難う。あなたの云う通りです。――えゝと、レディの」
「それはもう止めて!」
蓮が真っ赤になって耳を塞ぐので、一同に笑いが起こる。
知佳と蓮、初めて逢った時には小学五年生だった。今ではもう、中学生だ。
「知佳、中間どうだった?」
照れ隠しからか、蓮は全く関係無い話題を知佳に振った。
「え、あんまり自信無いけど……蓮は? 数学解けた?」
「ら、楽勝よ!」
「本統?」
蓮はポリポリと後頭部を掻いている。中学に入って初めての定期テストだ。自分の時には如何だったかと、達也は遠い記憶を辿る。
「佑香さんに訊きたいなぁ……」
「ん? 呼ぼか?」
「いやいやいや! 今は、好いです! また今度!」
あんまり都子が気軽に提案するので、蓮の方が慌てゝ仕舞った。佑香と云うのは確か、都子の友人で、数学科だったか。余り接点が無いのだが、何時だか亜空間で遇った気もする。あの時は、何故居たのだったか――
「大体佑香さんだって、忙しいのでは」
「あー、なんか知らんが、院に進んでもたからなぁ。数学の院生なんか、就職諦めるようなもんや」
「大学院? すごぉい!」
「何も凄ない、誰でもその気になりゃ行けるで」
「そんな訳無いでしょ!」
熱り立つ蓮に対して、都子はケラケラと笑っている。
少女達の雑談を余所に、ユウキがカールにそっと近寄って来て、声を掛ける。
「里奈さん、お大事にしてくださいね」
「吁、御蔭様で、助かりました。有難う御座います。彼処には交代で常に医者が詰めているんですが、直ぐに見て貰える様に手配しておいたので、今頃は診察を受けていると思います」
「よかった」
ユウキは心底ほっとした顔をした。
「あなたの御蔭で一命を取り留めました。有難う御座いました」
カールは深々と頭を下げる。
「いやいや。僕は毒を消しただけで。後の体力回復は里奈さんご自身の、自然治癒力次第ですよ」
「毒を消しただけでも、大感謝ですよ」
カールの言葉に、ユウキは照れ捲っている。謙遜の仕方も、照れる様子も、矢張り幼い子供だなと思って、達也は安心する。初めて逢った時には小二だった筈なので、今は多分四年生だ。時々
「たっちゃん、優しい顔してる」
彩が横に来て、そんなことを云うので、達也は戸惑い勝ちに彩を見下ろす。
「何だよ、俺は何時でも優しいよ」
「知ってる」
ボケた心算だったのに、肯定されて仕舞うとボケにならない。何だか恥ずかしくなって、達也は顔を逸らした。然し彩はお構いなしに、腕を絡めて来る。
「たっちゃん、子供好きだよね」
「んん? 普通だよ」
好きなのかも知れない、達也はそう思った。ユウキ、蓮、知佳。皆健やかに育って欲しい。家族の愛情に包まれて、幸せで居て貰いたい。こゝ一年余り、辛い子供の話を沢山見聞きして来た。親に捨てられたり、親に死なれたり、親と逸れたり……そんな幼年期を過ごした者ばかりが、目の前を過って行く。そう云う達也は親を拒絶して来た。唯の反抗期では済まされない、少年期から青年期に掛けての大きな欠落を抱えて、これからも生きて行かなければならない。此処に居る子供達には、そんな思いをして欲しくない。皆健やかに育って欲しいと、願っている。
「みんな可愛いよね。ユウキ君は、一家皆で超能力者になっちゃって、これから大変だろうけど、家族の絆は深くなって行くんだろうね」
「うん」
「蓮ちゃんはお母さん居ないそうだけど、あんなに元気で」
「そうなんだ」
知らなかった。片親だったのか。事情は知らないけれど、そんな様子は微塵も感じさせない、明るく活発な娘だと、達也は思う。
「知佳ちゃんと仲良しだし、知佳ちゃんのお家とは家族ぐるみの付き合いなんだって。だから、寂しさも紛らわせることが出来ているのかな」
「好い友達関係だね」
達也にも仲の良い友人は居た。それが健介、彩の兄だった。殺されて仕舞ったのだが。殺したのはプロの殺し屋で、それを雇ったのは自分に近付いて来た不審な男で、その男に何故か心酔して仕舞った達也は自分を見失い、自分の命を投げ出して迄テロに加勢しようとして、このEX部隊に捕まり、X国に送致され、そこで裁判と治療、療養を経て、今こうして探偵なんてことをしながら、Y国のテロ首謀者達の繋がりを解く任務に着いて……それももう直ぐ、解決して仕舞う。親友の死で始まったこの苦悩に満ちた二年半は、漸くその長い隧道を抜けようとしている。その間に、父と和解し、自分を捕縛したEX部隊とは懇意になり、親友の妹だった彩は恋人になった。
「カール。里奈と誠治とは、結局関係無かったんだな」
達也はなんとなく、そんなことを呟いた。誠治と云うのが、健介をプロに殺させ、達也を洗脳した不審者だ。里奈との繋がりが疑われたが、それぞれ別の系統だった様だ。里奈の指揮命令系統に、誠治の陰は無い。カールは緩りと達也を振り返ると、少し悲しい顔をした。
「役に立てなくて済まない。そっちも引き続き、調査を進めて行く心算だよ」
「あ、いや別に、責めている訳じゃないんだ。唯の呟きだよ」
「そうか……」
達也は不図思い到る。
「あっ、若しかして、誠治の上が辿れていない以上、僕の任務は継続しているのかな?」
カールは複雑な表情で、首肯いた。達也は思わず苦笑する。未だ解放された訳ではなかったかと。
「でもな、達也。君には一つ、佳い知らせがある」
カールは一呼吸置いて、笑顔を作った。そして一際大きな声で、皆に聞こえる様に云う。
「今回の達也の協力が大いに評価された結果、今日で君の保護観察期間は、終了だ。そして僕の、自立支援の任務も満了する。達也、君は晴れて、自由の身だよ!」
目を丸くした達也に、EX部隊のメンバーから温かい拍手が贈られた。達也は、腕に絡まった儘の彩をぐっと抱き寄せた。そうだ、これでやっと、一緒になれる。彩は真っ赤に頬を染めて、達也を見上げている。
そして達也は、満面の笑顔になった。
(終わり)
二〇二五年(令和七年)、五月、二十三日、金曜日、大安。