夜の朝、冬の春

里蔵 光

「なんじら断食するとき、かの僞善者のごとく、悲しき面容(おももち)をすな。」(マタイ六章十六)

苦しいからと、苦しい表情(かお)をするな。苦しいときに、苦しいと、決して()うな。苦しいとき、死にたくなる程苦しい時も、唯うすく、笑みを浮かべて平然、必ず他人(ひと)に覚られる事、有ってはならぬ。

同情を求めるな。同情を()むべし。憎むべし。同情は、愛情ではない。人をして、墮落(だ  らく)せしむるもの、(つか)の間の、(いつわ)りの安堵(あんど )を与うるもの、同情者の(おもて)は優しく、(うち)に悪魔の潜むる事を()れ。同情は、排除す()し。たゞ、苦しめ。人の道。活きる(かて)。苦しみ()くして人は莫し。人在りて常に、苦しみ事在り。(うら)んじゃ不可(いけな)い。有難いと思わなくては、不可いよ。

十一月の始めでした、其の女性と出遇ったのは。紀代子と云う名の其の人は、病を持って居ました。可成(か なり)の重症で、生死すら、危うい程でしたが、其の高貴な精神の力に依り、何とか(かん)とか、生きては居ました。心の病です、病名は――「恋」。

其の(ひと)は、プロステチウトです。私はプロステチウトを、(けが)らわしく思って居た(ため)、そう云った店には、ついぞ足を運んだ事がなかったのですが、其の日は何故(なぜ)か、ふらふら這入(はい)って仕舞(しま)ったのです。云訳(いゝわけ)は必要有りません、唯意味もなく、女を抱きたかった(だけ)です。他に、如何(いか)な理由が有りましょう。実際、女なら誰でも()かったのです。私も、心に病を持って居ました。

店に這入ると、店員が女の写真を持って、近寄って來ました。其の中から、一人撰べと云うのです。私はざっと目を通しましたが、()の写真の女も、一様に眼が濁って居たので、非道(ひど)く幻滅したのを記憶して居ります。元より、そんなものなのでしょう。何の女も、私と同様、眼が汚なく、死んだ(うお)の眼とは、こう云うのを指すのだと思うと、思わず深い澑息(ためいき)が漏れて仕舞いました。私は()そうかとも思いましたが、其奴(そいつ)が無言で、写真を強く私の方に突き出すので、気を取り直し、再度よく見てみると、其の中に唯一人、瞳の綺麗な娘が居る事に気付き、無意識の(うち)に其の女性を指で差しました。すると其奴は、「少々、御待ち下さい」と云って、引っ込んで仕舞い、私は倚子(いす)に腰掛けて待って居ました。その(ひと)は、然程(さ ほど)美人と云う訳でもないのですが、瞳丈は、此の場には似つかわしくない程に澄んで居て、綺麗だったのです。

(やが)て私は、一万円札二枚と引き換えに部屋に通され、(じき)に其の女も現れました。写真で見るより、ずっと綺麗な気がします。私は思わず赤面し、咳払いを一つしました。彼女は扉を閉めると、私に向い、ニコリと笑い掛けるのですが、何処(どこ)かぎこちなく、不自然な感を受けました。人知れず()きたくなり、狼狽(ろうばい)しました。

私は顔を(そむ)け、(じっ)と立ち尽くして仕舞い、(しばら)く二人は無言の(まゝ)、何の会話も有りませんでしたが、軈て彼女が、くすと笑い、

「お客さん、如何(どう)したの? こんな(ひと)って、初めてだわ……顔を脊けた儘、凝として居るんですもの…私じゃ、御不満だったのか知ら?」

私は慌てゝ、両手を大仰(おゝぎょう)に振って否定すると、「(いや)――そうじゃない、違うんだ、――こう云う所は、初めてだし――それに、君があんまり――」

「何?」

私が言葉を詰まらせると、彼女は不安そうに、私の顔を(のぞ)き込んで來ます。「あたしは、……抱けない?」

した。して、思わず彼女の瞳を、凝と見詰め返して仕舞いました。私は此の瞬間(まで)、すっかり忘れて居たのです。私は女を、――此の娘を抱きに、此処(こゝ)へ來たのだと云う事を。そして(ほゞ)同時に、無理だと思いました。私に此の少女を抱く勇気は、到底有りません。そして自分のして居る事が、――此の店へ這入って來たと云う事が、急に恥かしく思われて來て、其の場にしゃがみ込んで仕舞ったのです。そして一言。

「君は、――オンナかい?」

すると彼女は、笑い出しました。

「何云ってんのよ、当り前じゃない! 変な事云うのね、――私が男に見えて? 可笑(おか)しいわ、――変な(ひと)!」

其の笑い声で、幾等か空気が(なご)み、私は顔を挙げて意を決し、「君は、オンナか、其れとも、女の()か? ――僕は、オンナは嫌いなんだ――片仮名の、オンナだよ、――(わか)るだろう?」

笑い声が(はた)()み、暫く沈默が流れ、(また)空気が重たくなって仕舞いました。内心、と思ったのですが、今更(いまさら)云訳は、利きません。

「私は、オンナよ。当然でしょ? だって、こんな店に、お客さんの望むような、清純な『女の娘』が居ると思うの? ――みんな、体を売ってお金を貰ってるの。私だって、そうよ。汚ない『オンナ』よ――」

冷汗(れいかん)()、彼女は、(うつむ)いて仕舞いました。私は非道く狼狽しました。あんな事を、云うものではないのです。私は、莫迦(ばか)です。彼女が哭き出しそうなので、私は辯解(べんかい)を始めました。

「君は、オンナだとは、思えない。だって、瞳が澄んで居る。――君は、外の奴とは違う。写真を見て、気付いたんだ、君丈瞳が、綺麗だった。――君は、此の仕事を、小遣(こ づか)(かせ)ぎの爲にして居るんじゃないだろう。何か、訳が有る(はず)だ。君は――此処には、似合わない人だ。君は――」

()めてよ!」

吃驚(びっくり)する程の大声で、彼女は制しました。涙がちらと、見えたのですが、(しか)し彼女は、ぐっと(こら)えて居た様です。私は自分が、嫌になって來ました。(もとい)世間が、嫌になりました。本気で自殺を考えました。そうして私は、逃げ出したのです。追われる者の(ごと)く、ばたばたと慌てふためき店を飛び出し、表通り迄気違いみたいに()けて行きました。

他人(ひと)の心には、到底這入り込めるものでは莫い。心に這入り込もうと、苦しみを理解して()りたいと、一生懸命痛い所を(つゝ)き、傷口をちくちく刺し、そうして完膚(かんぷ )莫き迄に痛め付けて、失敗したと識るや(きびす)を返し、知らん顔して捨てゝ行く、そんな僞善者の、如何(いか)に多い事か。放って居て()れ。同情を望む者は、真に苦しんで居る者では莫い。苦しい程、人を避け、心閉ざし、同情を嫌うものだ。何も云うな。何もするな。静かに見守って居て呉れ。そうして求められし時こそ、求められた事丈、して遣れば好いのだ。其れ已上(いじょう)の気配りは、相手を突き落とす事に等しい。其れなら何も、しない方がましである。

私には有美(ゆみ)と云う名の、心に想う女性が居ます。私にとって「女性」と呼べるのは、其の人を置いて、外に在りません。然し私は、此の様に墮落の徒でありますので、有美には相手にもされてやしないのです。其の(くせ)私は、彼女に愛を求め続け、自分は墮落の一途(いっと )辿(たど)り、最早(も はや)嫌われてさえ、居る様です。

其の晩は居酒屋で、酒に(ひた)り、(おぼ)れる程呑んで、立つ事さえ危うく、ふらふら千鳥足で、通りを歩いて居る内に、何かに(つまず)いて、派手(はで)に転びました。打ち所が悪かった所爲(せい)か、酒が過ぎたのか、其の儘気を失い、気が付くと曙光の中、小鳥の(さえず)りを聞いて居ました。

何か、ふかふかとした処に横たわり、水流の音が聞こえます。如何(どう)やら何処(どこ)かへと移されて居る様で、夢(うつゝ)に、病院だと判じて居ました。意識の明確(はっきり)して來るのと同時に、頭が割る様に痛い事に気付き、諸手(もろて )で頭を抱え込み、うんうん(うな)って居ると、枕(もと)に誰か女性の立つ気配がして、然し其れを見挙げるのも大儀なので、其の姿勢の儘、「頭が、痛い」と訴えました。すると彼女は、「水、飲みますか」と()いて來ます。何処かで聞いた声だと、遠い意識で思いながら、然し深く考える事も出來ず、依然として顔も挙げずに、

「御願いします。……看護婦さん、今、何時ですか?」

水を取りに行き掛けた彼女は、不図(ふと)立ち止まった様子で、暫くは何の返答も有りませんでしたが、直に、「六時半です」と、単調な調子で(こた)えが返って來ました。

軈て水を持って來て呉れて、「有難う」と云いながら、(だる)い上体を起こし、コップを受け取って、しました。看護婦ではありません。いえ其れ所か、此処は病院ですらないのです。そして私の服は、女物の寝間着(ねまき)に替えられて居ました。

「君、……」

絶句して仕舞いました。其の人は、昨夜店で出逢った、瞳の綺麗な売春婦なのです。

「あの、……気分は、大丈夫ですか?」

何処か変な言葉(づか)いで、私の顔を覗き込み、一遍(いっぺん)に私は、紅潮して仕舞いました。(いま)だ夢か現か、判じ得ぬ私は、思わず彼女に向かいて、

「僕は、……昨夜(ゆうべ)君に、何かしたのかい」等と、口走って居ました。然し彼女は、軽く笑って、「何云ってんですか、滝口さん」と、私の実名を口にしたのです。此れには驚きました。私は彼女に、名を告げた覚え等莫いのですから。

「どうして……」

其れ丈云うのが精一杯でした。酒気は一気に吹き飛び、頭痛は已前にも増して、(はげ)しく私の頭蓋(ず がい)を襲い、再度(ふたゝび)頭を抱え込んで、(うずくま)りました。コップは私の手から(すべ)り落ち、蒲団(ふ とん)を濡らし、ことんと音立てゝ、其の儘床に転がります。彼女が慌てゝ、「大丈夫ですか?」と叫び、コップを拾い上げると、タオルを持って來て、私の顔を見挙げながら、(しき)りに蒲団を(ぬぐ)います。

「済まない……」

(しわが)れた声で非礼を()び、然し手を差し()ばす程の余裕も莫く、彼女の仕事を凝と見守る丈です。私は昨夜の事を、懸命に思い出そうとしたのですが、通りの途中で転んだ已降の記憶が、全く有りません。通りの只中(たゞなか)(たお)れて居た私を、彼女が発見し、此処迄運んで呉れたのでしょうか。そう云えば昨夜、彼女の店の近く迄行った様な気もします。彼女が私を助けて呉れたのでしょうか。彼女に隨分(ずいぶん)、迷惑を掛けて仕舞ったのではないでしょうか。然し、初対面の私に、如何(どう)してこんなにも気を遣い、優しくして呉れるのか知ら、昨日あんなに(ひど)い事を云ったのに……矢張(やは)り彼女は、オンナなんかでは有り得ません……高貴な迄の女の娘、基、「女の人」です。

考えるに從い、頭痛は非道くなる一方で、(いず)れは吐き気を覚え、粗相(そ ゝう)をしては(かな)わぬと床に手を突き、立ち上がろうとしましたが、足に力が入らず、ふらふらと蹌踉(よろ)けて、足が(もつ)れて其の儘仆れ込み、其の反動で、胃の中の物が逆流して、喉の先迄出掛かりました。

「大丈夫ですか?」

「気分が、……」

彼女の問いにも満足に応えられないのですが、彼女は素早く察し、私の肩を(かつ)いで、後架(こうか)迄運んで呉れました。

「御免なさい、昨日もっと、優しくしてあげれば良かった、あたし、駄目(だめ)ですね」

私の脊を(さす)りながら、べそを()いて居ます。私は遠慮も莫くけろけろと遣って居て、彼女に応える余裕は莫かったのですが、彼女は気にも()めず、少し微笑(ほゝえ )んで、続けて云います。

「滝口さんの昨日云ってた事、半分は(あた)ってます。あたし、オンナだけど、小遣い稼ぎで仕事してるんじゃ莫いんです。実はあたしの稼ぎは、(ほとん)どあたしの許には殘りません。みんな、或る人にあげちゃうんです」

私は便坐に手を突いて、静かに聞いて居ました。彼女は(すゝ)り上げながらも、努めて明るい声で(もっ)て、大変な事を云い続けます。

「恋人が居るんです。あたし、其の人を愛して居るの。でも彼は、あたしからお金を受け取る已外、逢っては呉れないんです。――嫌われてるのね、少なくとも、愛されては居ないわ」

「……止めちまえ」思わず口を突いて、悪い言葉が出て仕舞いました。何も私は、彼女を傷付けようとして居るのでは莫いのに、そんな野蛮な事を云って仕舞って、大変後悔しました。顔を挙げるのが恐くてなりません。脊後で啜り泣きが聞こえるのです。

「駄目よ、……愛してるもの、あたし、……諦められない、……永遠に……」

私は自分が恥ずかしくなりました。私と似た様な、いえ、恐らくは私よりも苛酷な境遇に(おい)ても、私よりずっと、しっかりと生きて居る人があるのです。職業が何であれ、一所懸命に働いて、そうして愛する者に尽くして居るのです。結果が悪くても、信じて、恐らく信じて、尽くして居るのです。私は醜い愚者でした。

苦しみに押し(つぶ)されようとして居る者を救うのは、矢張り苦しみに身を置いて居る者である。救うと云うは、大袈裟(おゝげ さ )だろうか、少なくとも、(さと)す事は出來る。悲しき面容(おもゝち)の僞善者に其の(あやま)ちを気付かせるのは、悲しみを隱した断食の徒である。此れは意識してそうするものではなく、唯会話を交わし、聖者の懸命なる微笑みの(うち)にも、ちらと(かげ)の射す時、僅かであれ其の蔭が、僞善者をして大悟(だいご )させるのである。(また)聖者の方も、僞善者の些細(さ ゝい)な言葉に()って、何かを悟らされる事がある。御互いが常に、御互いを刺激し、双方が耐え忍ぶ事を再確認させられ、そうして確実に、明るい曙光目指して(かす)かな一歩を踏むのだ。

其の日は出勤を諦めました。詰まらない、サラリイマン生活に嫌気が差した――と云えば、少しは聞こえも好いのですが、()める勇気も莫く、会社に飼われ、僅かな月一の()に、だらし莫くも尻尾(しっぽ )を振って飛び付き、目標も何も莫く、其の日暮らしの生活をして居たのが、何故(なぜ)か此の日は変に勇気が付き、入社已來初めて、無断欠勤をしました。気分が悪いと云う正当な理由も在ったのですが、()えて会社には連絡をせず、心の何処かに引っ掛かるものが在り、始終そわそわして居たのも事実ですけど、然し落ち着いた気分も同居して居て、何だか不思議な、複雑極まる心地でした。――此の日已來私は、会社へ行って居ないのです。

紀代子に影響されたのかも知れません。影響と云う云い方は、可笑しいかも分かりませんが、然し彼女に遇わなければ、其の生き方に踏み込まなければ、私は今でも、会社に(つな)がれた儘だったでしょう。彼女は男に(みつ)ぐ爲に、体を売って居るのです。のらくら生きて居る場合では有りません。切羽(せっぱ )詰まった気持ちになり、顔が心()し、引き()まった様です。

「愛してるんです……」

其れは、切なくも、力強い一言です。私は其の言葉を、あんまり(かろ)んじて居ました。有美に其の台詞(せりふ)を、連呼して居ました。重みも何も、在りません、只猫の名前の様に、隨分軽く口にして居たものです。恥ずかしくて、なりません。

紀代子は既に、店に向かいました。私は早々に自宅へ戻り、蒲団に身を投げ、然し眼はうっすらと開き、白痴の様にポカンと口を開け、何かをずっと、考えて居た様です。――何を考えて居たのか、さっぱり思い出せません。何も考えて居なかったかも判りません。日の暮れる迄、そうして居ました。恐らく会社からであろうと思われる電話が鳴って、不図(ふと)我に返っても、受話器を取る気にもなれず、其の儘鳴らし続け、再度意識が暗い闇の中へと()()り込まれて行きます。実際、白痴でした。明日からの生活の心配など、思いも寄りませんでした。

夕刻私は、何の思慮も莫く、只ふらふらと、紀代子の居る店を訪れました。紀代子(基、其の店では、佳奈と云う変な名で通して居る様です)を指名したのですが、只今御奉仕中とあって、暫く待たされる事を余儀なくされました。倚子に坐り、ぼんやりとして居る内に、何だか莫迦らしくなって來て、そう思うと本統(ほんとう)に莫迦々々しく、彼女を待たずに帰ろうとして席を立った時、突然呼ばれ、何かに曳かれる様に、其の儘ふらりと部屋へ通りました。

暫くして彼女が遣って來て、私の顔を見るなり、心からの笑みを(たゝ)えて、「いらっしゃい」と、か細い声で以て歓迎して呉れました。

「辞めちまえ」

第一声が、其れです。私には、気の利いた言葉など、発せそうに有りません。然し彼女は、優しく微笑み、「滝口さん、如何(どう)したの?」と、俯いてばかり居る私の顔を覗き込んで來たのです。私は、して、今朝已來の疑問を、此の時やっと、(たず)ねる事が出來ました。

「何で、僕の名前を、知って居るんだ」

彼女は一瞬眼を()らし、戸惑(と まど)い加減で、

「御免なさい、……昨日、服を替えてあげた時に、つい免許証を見て仕舞ったの。……悪気は、莫かったのよ、気にしてらしたら、本統に、御免なさい」

私は赤面しました。そう云えば、今朝は何時の間にか、服装が変わって居たのです。紀代子が、替えたのです。女の人にそんな事をされるのは、全く初めての事でした。思わず私は、「裸を、見たのかい?」なんて、下卑(げび)た事を訊いて仕舞いました。然し紀代子は可愛らしく笑い、何でも莫い事だとでも云った風に、

「見たわ。好いじゃないの、元々昨夜(ゆうべ)は、其の(つも)りで此処へ來たんでしょう?」

此れには、一本取られた、の(てい)です。何も云い返せません、只赤面して、間が悪く、俯く(のみ)です。

(さて)、今日は、如何する? 昨夜は怒って帰っちゃったけど、今日は、楽しもうよ」

嫌で嫌で、堪りません。所詮は此の娘も、プロステチウトの一人なのだと、変に冷めた思いがしました。私は決して、彼女を抱きに來たのではないのです。云訳がましいようですが、紀代子に逢いたくて、唯其れ丈で、此処へ來たのです。然しそんな事を云っては、彼女に対する侮辱の様な気がして、

「別に昨夜は、怒った訳では莫い」

などゝ、如何でも好い様な云訳をしながら、獣の様に彼女の細い身体を抱き寄せました。腕の中で凝として居る彼女の髪から、好い香りがふわりと漂って來ます。私はもう少しで、理性を失う所でした。此の時其の儘、紀代子と寝て仕舞って居たら、屹度(きっと)大切な、恐らく私の生涯の(うち)で最も大切な友人を、只の娼婦に変えて仕舞う事で、失って居たかも知れません。そして私は其の儘、運命の中に光も何も見出(み いだ)す事も出來ずに、自墮落のどん底たる人生を送る事となって居たでしょう。――然し私は、助けられました。紀代子の言葉に依り、助かりました。よもや紀代子に、其の自覚は莫いでしょうが、結局彼女は、私の目を()ませて呉れるのです。

私が腕に力を入れようとすると、紀代子は私の腕の中から見挙げるようにし、凝と私の瞳を覗き込んで、「じゃあ、……何で帰っちゃったの? 何で、あんなに酔っ払ったの?」と、寂しさを幾等か含んだ、眼と、声を以て、訊ねます。其の言葉に私は突然我に返り、そうすると彼女を抱き続けるのが辛くなって來て、殆ど突き飛ばす様にして紀代子を放し、

「抱けないよ、矢っ張り……」

と、白状して仕舞いました。暫く双方共に、何も喋らず、非道く息苦しい空間が出來上がりました。私の澑息と、彼女の啜り上げる声とが、より一層空気を悪くします。

「こんな、酷い事云われたの、……初めてよ、……滝口さん、あたしをからかってるんだ、……抱けないのに、……何で指名したの? ……何しに來たの?」

一番痛い質問でした。実際私にも、何で來たのか見当もつきません。唯逢う爲に、大枚(たいまい)(はた)いて來るものでしょうか。私には、想う人が居るのです。紀代子とて恋人が有るのです。不幸の巻添えにする爲に、(たず)ね來たのでしょうか。非道い罪悪感に、私は押潰されそうになりました。恋では、決して恋では、ありません。好きな女性が、外に居るのですから。

「愛って、一体なんだ。其れを訊きたくて、……君なら、識って居ると思って、……」

私は矢張り、姑息(こ そく)でした。そんな理由は、咄嗟に思浮かんだものに、過ぎないのです。

僕は思うのだが、愛と云うものは、「抱きたい」だの、「倖せにして遣りたい」だの、そう云ったものとは違う様な気がするのだ。其れでは、何が愛か。愛とは、他人(ひと)(時には身内でも)の幸福を無条件に(のぞ)む心、自己を犠牲にしても、如何(いか)にしても、相手の幸福耳を唯願う想い。――何か偉そうな事を云って居るが、今暫く、辛抱願いたい。

此れが愛と云うのなら、先に挙げて否定した二つは、一体何なのか。前者は「肉慾」、後者は「所有慾」と云えるだろう。然し実際に人が「愛して居る」と口にする時、程度の差こそ有れ、此の三者が巧みに絡まり合った感情である。だからこそ、魅力が有るのだとも云える。其処で、前述の「愛」を「愛の根源」とでも云い直すなら、「恋」は「愛の根源」よりも、「肉慾」、「所有慾」の比重の方が高く、下手をすると、「根源」の比率が殆ど零の場合も有り得る。其れに対し「愛」は、「根源」の比重が大半を占めて居る。そう、僕は解釈して居るのである。――(もっと)も、幾等理屈を()ねた所で、結局は何の糧にもならないものでは有るが……

結局私は、(また)もや店から逃げ出して仕舞いました。部屋を飛び出す瞬間紀代子が不図見せた、堪らなく寂しそうな表情(かお)が、今でも脳裡に、(しっか)りと息付いて居ます。

店を出てから私は、暫く途方に暮れました。仕事も莫く、貯金も殘り少ないので、遊び歩く事も叶わず、さりとて仕事を探す気力も今は莫く、只当所(あてど )莫く、ふらふらと歩き廻る内に、何故だか不図、思ったのです。

如何(どん)な男だ」

其れを思うと、段々確かめてみたくなり、(いよいよ)姑息な事には、給料日に彼女を尾行して、相手の男を突き止め、そうして一撃、殴り付けて遣りたいとさえ思う様になって來て、彼女から給料日を聞き出す()く、夜中迄暇を潰してから、彼女のアパアトを訪れる事に()めました。

然し其の晩は、彼女は帰って來ませんでした。店の閉店時間をとっくに廻って居る筈なのに、部屋は暗く、ひっそりとし、一向に紀代子は帰りません。私は変な、胸騷ぎがしてならなかったのですが、其れでも其の儘、朝迄ドアの前に(うずくま)ったなり、只管(ひたすら)凝と、彼女を待ち続けて居ました。

(いず)れ私は、(ねむ)って仕舞った様です。暗い意識の低迷の中、突然正面に人の気配を感じ、目を(こす)りつゝ(おび)えながら顔を挙げると、(やゝ)眼を赤く()らし、寂しそうに私を見下ろして居る紀代子が、立って居たのです。

「駄目じゃない……」

静かに諭す彼女の声に、私は気まずくなり、立ち上がってズボンの(ほこり)を払いながら、(かす)かに小雨の音を聞きました。コオトを通して、冷たい風を肌に感じ、両の腕を抱えて、ぶるっと身顫(み ぶる)いしました。手足が非道く、かじかんで居ます。指先は丸で、私の物でないかと思う程、感覚がありません。頭迄がぼんやりして、ふらふらして居ます。少し熱も、有る様です。――何だか紀代子は、変に沈んだ表情(かお)をして居ましたが、私と眼が合うと、突然口許に何時もの微笑を浮かべて、

「滝口さん、朝ですよ」

と云いました。然し其れは、初対面の時よりも尚一層、不自然な笑顔に感じられます。胸が締付けられる様です。――男と逢って來たのだ。此れは、私の確信です。彼女に訊いた訳ではありませんし、訊けるものでもありません。

思わず顔を脊け、「うん」と(うめ)いて、(わざ)と思い切り仰向(あおむ )き、空を見詰めました。紀代子は朝だと云いましたが、未だ未だ空は暗く、濃灰色の雲が一面覆い尽くして居ます。視線を下ろして通りに眼を遣ると、街燈に照らされた雨粒の中に、少し雪の交じって、(かす)かにきらめくのが判ります。

暫くは只、默して居ましたが、余り默って居るのも辛いので、紀代子に負けぬ位不自然の笑みを、(あた)わん限り顔中に湛えながら、「おはよう」と精一杯の爽かさで挨拶を返しました。彼女は優しく笑い返して、私を見詰めると、不意に額に手を延べ、

「滝口さん、少し、熱があるわよ。……莫迦ね、こんな所で寝て居るからよ」

と心配そうに云い、部屋へ這入る様(うなが)します。

「微笑もて正義を()せ!」

昔の作家の言葉を口の中で繰り返しながら、紀代子の後へ()いて、暖かな部屋の中へと通されます。ふかふかのソファに身を(もた)せ、然し私は、全く不用心な発言をして仕舞いました。

「愛ってのは、一体、何なんだろうね」

紀代子がぴくんと反応するのが()れました。そして初めて、「しまった」と思いました。店で同じ質問をした時もそうでしたが、其の時は、私は逃げ出して居ます。其の時紀代子が、何処か寂し気な顔をして見せたのが、真逆(ま さか)此の質問の所爲だったとは、今の今迄気が付きませんでした。――彼女は少し、泣いた様です。私に脊を向け、勝手へ逃げ込み、長いこと出て來なかったのです。私は彼女に自分の事を、何も語っては居ませんでした。其れ丈に、紀代子が私の事を、(いたずら)に心を傷つける(いや)しき(さが)の男、と断じて仕舞う様な気がして、落着く事が出來ず、煙草に火を(とも)しました。然し稍はにかみながら、勝手から現れた彼女を見て、其の心配は全く失くなりました。紀代子は其れ程、莫迦ではありません。

「滝口さんも、苦労したのよね……」

そう呟く彼女の表情は、決して沈鬱(ちんうつ)なものではありません。私に同情して居るものでもありません。何かを求めようとするものでも、ありません。唯、薄く、微笑んで居ます。――正義の微笑でも、無理な笑顔は、私の様な者にとっては、(かえ)って辛く、(こた)えるものです。然しだからと云って、暗く沈鬱な表情は、一番の毒です。今の私達には、笑って居るより外莫い様です。

聖諦(せいてい)

此れも、昔の作家の言葉です。聖なる諦め。諦めて、笑って居よう、そう私に決心させたのは、紀代子です(「聖諦」は元々、もっと違った意味のものだったかも知れませんが、其れは此の際、大した問題ではありません)。何しろ昔の作家は、好い言葉を沢山作りました。此れ等が誰の言葉だったかは、殘念ながら判らないのですが、確かリルケか、ゲエテか――いえ、如何(どう)でも好い事です。誰の言葉だって、同じです。大切なのはそんな事ではありません。

私は紀代子には、自分の経緯(いきさつ)を話したくないと思いました。辛い思いを、此れ已上させたくはないのです。他人の分迄心配さすのは、酷です。――基私は、紀代子に話すのが恥かしいのです。私の場合は単なる甘えから、苦しみに(はま)って仕舞ったのです。自業自得なのです。何も、……努力も……忍耐も……誠意すら……示そうとしなかった、(ばち)が当った丈なのですから……

「愛って、何でしょうね」

紀代子は私の隣に腰を下ろして、私とは全く違った調子で繰返しました。何だか私は、救われた様な思いで、出來る丈気楽な口調で以て、

「愛は、人の幸せを無条件に希む心が大半を占めて居て、殘りは、性慾と所有慾だって、或る知人が云って居たが、……僕は違うと思う」

と、稍気障(きざ)っぽい事を云ってみました。此の(なご)やかな空気は、決してぶち壊したくありません。

紀代子は不思議な笑みを湛えつゝ、此れも気楽な調子で、訊ねます。

「其れじゃあ滝口さんは、何だと思う?」

(わか)らない。……昔から、色々な哲学者が、其の定義を言葉でつけようと、苦労したらしいけど、誰も成功はして居ない。要するに不可能なんだ。言葉では、云い切れないんだ。……()(かく)そんなに、簡単な感情じゃ莫い。其の知人だって、(ちっ)とも偉い奴じゃ莫いし、そんな奴に正確な定義付けなんて、出來る訳がない……基、誰にも出來ないさ」

「そうね……」

紀代子はテエブルの上に置かれたグラスを見詰めた儘、唯其れ丈、云いました。

「第一其れが、愛の定義だとしたら、僕だって君を愛して居るかも知れないじゃないか」

何気莫く云った言葉なのですが、其処には妙な響きが在りました。私は吃驚して、胸に手を当て、暫く默考した後、「あゝ、ひょっとして……」と呟きました。紀代子は其れを聞き付け、軽く笑うと、私を見挙げながら、

「有難う、滝口さん……」

と優しく云います。思わず赤面して仕舞いました。

「殘念ながら、外に愛して居る人が居るんだがね」

紀代子に聴こえるか如何(どう)か位の細い声で、云訳をしましたが、彼女は軽く、笑った丈でした。そして事もあろうか、「あたしも滝口さんを、愛して居るわ」と云ってのけ、初めて自身の誤りに気付いたのです。愛にも色々、有るのだと。此れは確かに、愛です。然し私の、有美に対する様なものとも、又は母の、子に対する様なものとも、違います。然し、自然に、愛だと認められる様です。も、愛なのです。友愛、とでも云いますか、言葉程(あて)にならぬ物も在りませんが、此れが取敢(とりあ )えず、一番近い表現の様です。――云訳では、ありません。

「僕らは、愛し合って居るんだね」

冗談の口調で、笑いながら云うと、彼女もくすくす笑いました。何だか、此の部屋は、今の私にとって、唯一、(くつろ)げる場所の様です。何故だか心が暖まります。好い友達を、持ちました。吹雪の(うち)に、暖かな暖炉の燈った、山小屋を見付けたのです。涙が、少し出ました。

何時か私は、紀代子を抱寄せて居ました。然し些とも、怪しい気分にはなりません。紀代子も私の胸で、静かに眼を閉じて居ます。修治と初代じゃないけれど、丸で仲の好い、兄妹の様です。――(あゝ)、詰まらぬ名を出した。彼等とは違う。

「幸せに、なってね」

寒き冬の一角にさえ、(あたゝ)かなる春を見出し、暗き闇なる(うち)にも、(さゝ)やかなる光差すを感じし夜。……そうして間も莫く、紀代子は、店を辞めました。

――これは、ここまで。

(おわり)

一九九四年(平成六年)、十一月、二十八日、月曜日、大安。