夜の朝、冬の春
里蔵 光
「なんじら断食するとき、かの僞善者のごとく、悲しき面容をすな。」(マタイ六章十六)
苦しいからと、苦しい表情をするな。苦しいときに、苦しいと、決して云うな。苦しいとき、死にたくなる程苦しい時も、唯うすく、笑みを浮かべて平然、必ず他人に覚られる事、有ってはならぬ。
同情を求めるな。同情を忌むべし。憎むべし。同情は、愛情ではない。人をして、墮落せしむるもの、束の間の、僞りの安堵を与うるもの、同情者の面は優しく、中に悪魔の潜むる事を識れ。同情は、排除す可し。たゞ、苦しめ。人の道。活きる糧。苦しみ莫くして人は莫し。人在りて常に、苦しみ事在り。怨んじゃ不可い。有難いと思わなくては、不可いよ。
十一月の始めでした、其の女性と出遇ったのは。紀代子と云う名の其の人は、病を持って居ました。可成の重症で、生死すら、危うい程でしたが、其の高貴な精神の力に依り、何とか彼とか、生きては居ました。心の病です、病名は――「恋」。
其の女は、プロステチウトです。私はプロステチウトを、穢らわしく思って居た爲、そう云った店には、ついぞ足を運んだ事がなかったのですが、其の日は何故か、ふら
店に這入ると、店員が女の写真を持って、近寄って來ました。其の中から、一人撰べと云うのです。私はざっと目を通しましたが、何の写真の女も、一様に眼が濁って居たので、非道く幻滅したのを記憶して居ります。元より、そんなものなのでしょう。何の女も、私と同様、眼が汚なく、死んだ魚の眼とは、こう云うのを指すのだと思うと、思わず深い澑息が漏れて仕舞いました。私は止そうかとも思いましたが、其奴が無言で、写真を強く私の方に突き出すので、気を取り直し、再度よく見てみると、其の中に唯一人、瞳の綺麗な娘が居る事に気付き、無意識の中に其の女性を指で差しました。すると其奴は、「少々、御待ち下さい」と云って、引っ込んで仕舞い、私は倚子に腰掛けて待って居ました。その女は、然程美人と云う訳でもないのですが、瞳丈は、此の場には似つかわしくない程に澄んで居て、綺麗だったのです。
軈て私は、一万円札二枚と引き換えに部屋に通され、直に其の女も現れました。写真で見るより、ずっと綺麗な気がします。私は思わず赤面し、咳払いを一つしました。彼女は扉を閉めると、私に向い、ニコリと笑い掛けるのですが、何処かぎこちなく、不自然な感を受けました。人知れず哭きたくなり、狼狽しました。
私は顔を脊け、凝と立ち尽くして仕舞い、暫く二人は無言の儘、何の会話も有りませんでしたが、軈て彼女が、くすと笑い、
「お客さん、如何したの? こんな男って、初めてだわ……顔を脊けた儘、凝として居るんですもの…私じゃ、御不満だったのか知ら?」
私は慌てゝ、両手を大仰に振って否定すると、「否――そうじゃない、違うんだ、――こう云う所は、初めてだし――それに、君があんまり――」
「何?」
私が言葉を詰まらせると、彼女は不安そうに、私の顔を覗き込んで來ます。「あたしは、……抱けない?」
「君は、――オンナかい?」
すると彼女は、笑い出しました。
「何云ってんのよ、当り前じゃない! 変な事云うのね、――私が男に見えて? 可笑しいわ、――変な男!」
其の笑い声で、幾等か空気が和み、私は顔を挙げて意を決し、「君は、オンナか、其れとも、女の娘か? ――僕は、オンナは嫌いなんだ――片仮名の、オンナだよ、――判るだろう?」
笑い声が礑と止み、暫く沈默が流れ、復空気が重たくなって仕舞いました。内心、
「私は、オンナよ。当然でしょ? だって、こんな店に、お客さんの望むような、清純な『女の娘』が居ると思うの? ――みんな、体を売ってお金を貰ってるの。私だって、そうよ。汚ない『オンナ』よ――」
冷汗三斗、彼女は、俯いて仕舞いました。私は非道く狼狽しました。あんな事を、云うものではないのです。私は、莫迦です。彼女が哭き出しそうなので、私は辯解を始めました。
「君は、オンナだとは、思えない。だって、瞳が澄んで居る。――君は、外の奴とは違う。写真を見て、気付いたんだ、君丈瞳が、綺麗だった。――君は、此の仕事を、小遣い稼ぎの爲にして居るんじゃないだろう。何か、訳が有る筈だ。君は――此処には、似合わない人だ。君は――」
「止めてよ!」
吃驚する程の大声で、彼女は制しました。涙がちらと、見えたのですが、然し彼女は、ぐっと堪えて居た様です。私は自分が、嫌になって來ました。基世間が、嫌になりました。本気で自殺を考えました。そうして私は、逃げ出したのです。追われる者の如く、ばた
他人の心には、到底這入り込めるものでは莫い。心に這入り込もうと、苦しみを理解して遣りたいと、一生懸命痛い所を突き、傷口をちく
私には有美と云う名の、心に想う女性が居ます。私にとって「女性」と呼べるのは、其の人を置いて、外に在りません。然し私は、此の様に墮落の徒でありますので、有美には相手にもされてやしないのです。其の癖私は、彼女に愛を求め続け、自分は墮落の一途を辿り、最早嫌われてさえ、居る様です。
其の晩は居酒屋で、酒に浸り、溺れる程呑んで、立つ事さえ危うく、ふら
何か、ふか
「御願いします。……看護婦さん、今、何時ですか?」
水を取りに行き掛けた彼女は、不図立ち止まった様子で、暫くは何の返答も有りませんでしたが、直に、「六時半です」と、単調な調子で応えが返って來ました。
軈て水を持って來て呉れて、「有難う」と云いながら、怠い上体を起こし、コップを受け取って、
「君、……」
絶句して仕舞いました。其の人は、昨夜店で出逢った、瞳の綺麗な売春婦なのです。
「あの、……気分は、大丈夫ですか?」
何処か変な言葉遣いで、私の顔を覗き込み、一遍に私は、紅潮して仕舞いました。未だ夢か現か、判じ得ぬ私は、思わず彼女に向かいて、
「僕は、……昨夜君に、何かしたのかい」等と、口走って居ました。然し彼女は、軽く笑って、「何云ってんですか、滝口さん」と、私の実名を口にしたのです。此れには驚きました。私は彼女に、名を告げた覚え等莫いのですから。
「どうして……」
其れ丈云うのが精一杯でした。酒気は一気に吹き飛び、頭痛は已前にも増して、烈しく私の頭蓋を襲い、再度頭を抱え込んで、蹲りました。コップは私の手から辷り落ち、蒲団を濡らし、ことんと音立てゝ、其の儘床に転がります。彼女が慌てゝ、「大丈夫ですか?」と叫び、コップを拾い上げると、タオルを持って來て、私の顔を見挙げながら、頻りに蒲団を拭います。
「済まない……」
嗄れた声で非礼を詫び、然し手を差し延ばす程の余裕も莫く、彼女の仕事を凝と見守る丈です。私は昨夜の事を、懸命に思い出そうとしたのですが、通りの途中で転んだ已降の記憶が、全く有りません。通りの只中に仆れて居た私を、彼女が発見し、此処迄運んで呉れたのでしょうか。そう云えば昨夜、彼女の店の近く迄行った様な気もします。彼女が私を助けて呉れたのでしょうか。彼女に隨分、迷惑を掛けて仕舞ったのではないでしょうか。然し、初対面の私に、如何してこんなにも気を遣い、優しくして呉れるのか知ら、昨日あんなに酷い事を云ったのに……矢張り彼女は、オンナなんかでは有り得ません……高貴な迄の女の娘、基、「女の人」です。
考えるに從い、頭痛は非道くなる一方で、何れは吐き気を覚え、粗相をしては敵わぬと床に手を突き、立ち上がろうとしましたが、足に力が入らず、ふらふらと蹌踉けて、足が縺れて其の儘仆れ込み、其の反動で、胃の中の物が逆流して、喉の先迄出掛かりました。
「大丈夫ですか?」
「気分が、……」
彼女の問いにも満足に応えられないのですが、彼女は素早く察し、私の肩を担いで、後架迄運んで呉れました。
「御免なさい、昨日もっと、優しくしてあげれば良かった、あたし、駄目ですね」
私の脊を摩りながら、べそを掻いて居ます。私は遠慮も莫くけろ
「滝口さんの昨日云ってた事、半分は中ってます。あたし、オンナだけど、小遣い稼ぎで仕事してるんじゃ莫いんです。実はあたしの稼ぎは、殆どあたしの許には殘りません。みんな、或る人にあげちゃうんです」
私は便坐に手を突いて、静かに聞いて居ました。彼女は啜り上げながらも、努めて明るい声で以て、大変な事を云い続けます。
「恋人が居るんです。あたし、其の人を愛して居るの。でも彼は、あたしからお金を受け取る已外、逢っては呉れないんです。――嫌われてるのね、少なくとも、愛されては居ないわ」
「……止めちまえ」思わず口を突いて、悪い言葉が出て仕舞いました。何も私は、彼女を傷付けようとして居るのでは莫いのに、そんな野蛮な事を云って仕舞って、大変後悔しました。顔を挙げるのが恐くてなりません。脊後で啜り泣きが聞こえるのです。
「駄目よ、……愛してるもの、あたし、……諦められない、……永遠に……」
私は自分が恥ずかしくなりました。私と似た様な、いえ、恐らくは私よりも苛酷な境遇に於ても、私よりずっと、しっかりと生きて居る人があるのです。職業が何であれ、一所懸命に働いて、そうして愛する者に尽くして居るのです。結果が悪くても、信じて、恐らく信じて、尽くして居るのです。私は醜い愚者でした。
苦しみに押し潰されようとして居る者を救うのは、矢張り苦しみに身を置いて居る者である。救うと云うは、大袈裟だろうか、少なくとも、諭す事は出來る。悲しき面容の僞善者に其の過ちを気付かせるのは、悲しみを隱した断食の徒である。此れは意識してそうするものではなく、唯会話を交わし、聖者の懸命なる微笑みの中にも、ちらと蔭の射す時、僅かであれ其の蔭が、僞善者をして大悟させるのである。亦聖者の方も、僞善者の些細な言葉に依って、何かを悟らされる事がある。御互いが常に、御互いを刺激し、双方が耐え忍ぶ事を再確認させられ、そうして確実に、明るい曙光目指して微かな一歩を踏むのだ。
其の日は出勤を諦めました。詰まらない、サラリイマン生活に嫌気が差した――と云えば、少しは聞こえも好いのですが、辞める勇気も莫く、会社に飼われ、僅かな月一の餌に、だらし莫くも尻尾を振って飛び付き、目標も何も莫く、其の日暮らしの生活をして居たのが、何故か此の日は変に勇気が付き、入社已來初めて、無断欠勤をしました。気分が悪いと云う正当な理由も在ったのですが、敢えて会社には連絡をせず、心の何処かに引っ掛かるものが在り、始終そわ
紀代子に影響されたのかも知れません。影響と云う云い方は、可笑しいかも分かりませんが、然し彼女に遇わなければ、其の生き方に踏み込まなければ、私は今でも、会社に繋がれた儘だったでしょう。彼女は男に貢ぐ爲に、体を売って居るのです。のらくら生きて居る場合では有りません。切羽詰まった気持ちになり、顔が心做し、引き締まった様です。
「愛してるんです……」
其れは、切なくも、力強い一言です。私は其の言葉を、あんまり軽んじて居ました。有美に其の台詞を、連呼して居ました。重みも何も、在りません、只猫の名前の様に、隨分軽く口にして居たものです。恥ずかしくて、なりません。
紀代子は既に、店に向かいました。私は早々に自宅へ戻り、蒲団に身を投げ、然し眼はうっすらと開き、白痴の様にポカンと口を開け、何かをずっと、考えて居た様です。――何を考えて居たのか、さっぱり思い出せません。何も考えて居なかったかも判りません。日の暮れる迄、そうして居ました。恐らく会社からであろうと思われる電話が鳴って、不図我に返っても、受話器を取る気にもなれず、其の儘鳴らし続け、再度意識が暗い闇の中へと曳き擦り込まれて行きます。実際、白痴でした。明日からの生活の心配など、思いも寄りませんでした。
夕刻私は、何の思慮も莫く、只ふら
暫くして彼女が遣って來て、私の顔を見るなり、心からの笑みを湛えて、「いらっしゃい」と、か細い声で以て歓迎して呉れました。
「辞めちまえ」
第一声が、其れです。私には、気の利いた言葉など、発せそうに有りません。然し彼女は、優しく微笑み、「滝口さん、如何したの?」と、俯いてばかり居る私の顔を覗き込んで來たのです。私は、
「何で、僕の名前を、知って居るんだ」
彼女は一瞬眼を逸らし、戸惑い加減で、
「御免なさい、……昨日、服を替えてあげた時に、つい免許証を見て仕舞ったの。……悪気は、莫かったのよ、気にしてらしたら、本統に、御免なさい」
私は赤面しました。そう云えば、今朝は何時の間にか、服装が変わって居たのです。紀代子が、替えたのです。女の人にそんな事をされるのは、全く初めての事でした。思わず私は、「裸を、見たのかい?」なんて、下卑た事を訊いて仕舞いました。然し紀代子は可愛らしく笑い、何でも莫い事だとでも云った風に、
「見たわ。好いじゃないの、元々昨夜は、其の積りで此処へ來たんでしょう?」
此れには、一本取られた、の体です。何も云い返せません、只赤面して、間が悪く、俯く耳です。
「扠、今日は、如何する? 昨夜は怒って帰っちゃったけど、今日は、楽しもうよ」
嫌で
「別に昨夜は、怒った訳では莫い」
などゝ、如何でも好い様な云訳をしながら、獣の様に彼女の細い身体を抱き寄せました。腕の中で凝として居る彼女の髪から、好い香りがふわりと漂って來ます。私はもう少しで、理性を失う所でした。此の時其の儘、紀代子と寝て仕舞って居たら、屹度大切な、恐らく私の生涯の中で最も大切な友人を、只の娼婦に変えて仕舞う事で、失って居たかも知れません。そして私は其の儘、運命の中に光も何も見出す事も出來ずに、自墮落のどん底たる人生を送る事となって居たでしょう。――然し私は、助けられました。紀代子の言葉に依り、助かりました。よもや紀代子に、其の自覚は莫いでしょうが、結局彼女は、私の目を醒ませて呉れるのです。
私が腕に力を入れようとすると、紀代子は私の腕の中から見挙げるようにし、凝と私の瞳を覗き込んで、「じゃあ、……何で帰っちゃったの? 何で、あんなに酔っ払ったの?」と、寂しさを幾等か含んだ、眼と、声を以て、訊ねます。其の言葉に私は突然我に返り、そうすると彼女を抱き続けるのが辛くなって來て、殆ど突き飛ばす様にして紀代子を放し、
「抱けないよ、矢っ張り……」
と、白状して仕舞いました。暫く双方共に、何も喋らず、非道く息苦しい空間が出來上がりました。私の澑息と、彼女の啜り上げる声とが、より一層空気を悪くします。
「こんな、酷い事云われたの、……初めてよ、……滝口さん、あたしをからかってるんだ、……抱けないのに、……何で指名したの? ……何しに來たの?」
一番痛い質問でした。実際私にも、何で來たのか見当もつきません。唯逢う爲に、大枚叩いて來るものでしょうか。私には、想う人が居るのです。紀代子とて恋人が有るのです。不幸の巻添えにする爲に、訪ね來たのでしょうか。非道い罪悪感に、私は押潰されそうになりました。恋では、決して恋では、ありません。好きな女性が、外に居るのですから。
「愛って、一体なんだ。其れを訊きたくて、……君なら、識って居ると思って、……」
私は矢張り、姑息でした。そんな理由は、咄嗟に思浮かんだものに、過ぎないのです。
僕は思うのだが、愛と云うものは、「抱きたい」だの、「倖せにして遣りたい」だの、そう云ったものとは違う様な気がするのだ。其れでは、何が愛か。愛とは、他人(時には身内でも)の幸福を無条件に希む心、自己を犠牲にしても、如何にしても、相手の幸福耳を唯願う想い。――何か偉そうな事を云って居るが、今暫く、辛抱願いたい。
此れが愛と云うのなら、先に挙げて否定した二つは、一体何なのか。前者は「肉慾」、後者は「所有慾」と云えるだろう。然し実際に人が「愛して居る」と口にする時、程度の差こそ有れ、此の三者が巧みに絡まり合った感情である。だからこそ、魅力が有るのだとも云える。其処で、前述の「愛」を「愛の根源」とでも云い直すなら、「恋」は「愛の根源」よりも、「肉慾」、「所有慾」の比重の方が高く、下手をすると、「根源」の比率が殆ど零の場合も有り得る。其れに対し「愛」は、「根源」の比重が大半を占めて居る。そう、僕は解釈して居るのである。――尤も、幾等理屈を捏ねた所で、結局は何の糧にもならないものでは有るが……
結局私は、復もや店から逃げ出して仕舞いました。部屋を飛び出す瞬間紀代子が不図見せた、堪らなく寂しそうな表情が、今でも脳裡に、確りと息付いて居ます。
店を出てから私は、暫く途方に暮れました。仕事も莫く、貯金も殘り少ないので、遊び歩く事も叶わず、さりとて仕事を探す気力も今は莫く、只当所莫く、ふら
「如何な男だ」
其れを思うと、段々確かめてみたくなり、
然し其の晩は、彼女は帰って來ませんでした。店の閉店時間をとっくに廻って居る筈なのに、部屋は暗く、ひっそりとし、一向に紀代子は帰りません。私は変な、胸騷ぎがしてならなかったのですが、其れでも其の儘、朝迄ドアの前に蹲ったなり、只管凝と、彼女を待ち続けて居ました。
何れ私は、睡って仕舞った様です。暗い意識の低迷の中、突然正面に人の気配を感じ、目を擦りつゝ怯えながら顔を挙げると、稍眼を赤く腫らし、寂しそうに私を見下ろして居る紀代子が、立って居たのです。
「駄目じゃない……」
静かに諭す彼女の声に、私は気まずくなり、立ち上がってズボンの埃を払いながら、幽かに小雨の音を聞きました。コオトを通して、冷たい風を肌に感じ、両の腕を抱えて、ぶるっと身顫いしました。手足が非道く、かじかんで居ます。指先は丸で、私の物でないかと思う程、感覚がありません。頭迄がぼんやりして、ふら
「滝口さん、朝ですよ」
と云いました。然し其れは、初対面の時よりも尚一層、不自然な笑顔に感じられます。胸が締付けられる様です。――男と逢って來たのだ。此れは、私の確信です。彼女に訊いた訳ではありませんし、訊けるものでもありません。
思わず顔を脊け、「うん」と呻いて、態と思い切り仰向き、空を見詰めました。紀代子は朝だと云いましたが、未だ
暫くは只、默して居ましたが、余り默って居るのも辛いので、紀代子に負けぬ位不自然の笑みを、能わん限り顔中に湛えながら、「おはよう」と精一杯の爽かさで挨拶を返しました。彼女は優しく笑い返して、私を見詰めると、不意に額に手を延べ、
「滝口さん、少し、熱があるわよ。……莫迦ね、こんな所で寝て居るからよ」
と心配そうに云い、部屋へ這入る様促します。
「微笑もて正義を爲せ!」
昔の作家の言葉を口の中で繰り返しながら、紀代子の後へ尾いて、暖かな部屋の中へと通されます。ふか
「愛ってのは、一体、何なんだろうね」
紀代子がぴくんと反応するのが識れました。そして初めて、「しまった」と思いました。店で同じ質問をした時もそうでしたが、其の時は、私は逃げ出して居ます。其の時紀代子が、何処か寂し気な顔をして見せたのが、真逆此の質問の所爲だったとは、今の今迄気が付きませんでした。――彼女は少し、泣いた様です。私に脊を向け、勝手へ逃げ込み、長いこと出て來なかったのです。私は彼女に自分の事を、何も語っては居ませんでした。其れ丈に、紀代子が私の事を、徒に心を傷つける卑しき性の男、と断じて仕舞う様な気がして、落着く事が出來ず、煙草に火を燈しました。然し稍はにかみながら、勝手から現れた彼女を見て、其の心配は全く失くなりました。紀代子は其れ程、莫迦ではありません。
「滝口さんも、苦労したのよね……」
そう呟く彼女の表情は、決して沈鬱なものではありません。私に同情して居るものでもありません。何かを求めようとするものでも、ありません。唯、薄く、微笑んで居ます。――正義の微笑でも、無理な笑顔は、私の様な者にとっては、却って辛く、応えるものです。然しだからと云って、暗く沈鬱な表情は、一番の毒です。今の私達には、笑って居るより外莫い様です。
聖諦。
此れも、昔の作家の言葉です。聖なる諦め。諦めて、笑って居よう、そう私に決心させたのは、紀代子です(「聖諦」は元々、もっと違った意味のものだったかも知れませんが、其れは此の際、大した問題ではありません)。何しろ昔の作家は、好い言葉を沢山作りました。此れ等が誰の言葉だったかは、殘念ながら判らないのですが、確かリルケか、ゲエテか――いえ、如何でも好い事です。誰の言葉だって、同じです。大切なのはそんな事ではありません。
私は紀代子には、自分の経緯を話したくないと思いました。辛い思いを、此れ已上させたくはないのです。他人の分迄心配さすのは、酷です。――基私は、紀代子に話すのが恥かしいのです。私の場合は単なる甘えから、苦しみに嵌って仕舞ったのです。自業自得なのです。何も、……努力も……忍耐も……誠意すら……示そうとしなかった、罰が当った丈なのですから……
「愛って、何でしょうね」
紀代子は私の隣に腰を下ろして、私とは全く違った調子で繰返しました。何だか私は、救われた様な思いで、出來る丈気楽な口調で以て、
「愛は、人の幸せを無条件に希む心が大半を占めて居て、殘りは、性慾と所有慾だって、或る知人が云って居たが、……僕は違うと思う」
と、稍気障っぽい事を云ってみました。此の和やかな空気は、決してぶち壊したくありません。
紀代子は不思議な笑みを湛えつゝ、此れも気楽な調子で、訊ねます。
「其れじゃあ滝口さんは、何だと思う?」
「解らない。……昔から、色々な哲学者が、其の定義を言葉でつけようと、苦労したらしいけど、誰も成功はして居ない。要するに不可能なんだ。言葉では、云い切れないんだ。……兎に角そんなに、簡単な感情じゃ莫い。其の知人だって、些とも偉い奴じゃ莫いし、そんな奴に正確な定義付けなんて、出來る訳がない……基、誰にも出來ないさ」
「そうね……」
紀代子はテエブルの上に置かれたグラスを見詰めた儘、唯其れ丈、云いました。
「第一其れが、愛の定義だとしたら、僕だって君を愛して居るかも知れないじゃないか」
何気莫く云った言葉なのですが、其処には妙な響きが在りました。私は吃驚して、胸に手を当て、暫く默考した後、「あゝ、ひょっとして……」と呟きました。紀代子は其れを聞き付け、軽く笑うと、私を見挙げながら、
「有難う、滝口さん……」
と優しく云います。思わず赤面して仕舞いました。
「殘念ながら、外に愛して居る人が居るんだがね」
紀代子に聴こえるか如何か位の細い声で、云訳をしましたが、彼女は軽く、笑った丈でした。そして事もあろうか、「あたしも滝口さんを、愛して居るわ」と云ってのけ、初めて自身の誤りに気付いたのです。愛にも色々、有るのだと。此れは確かに、愛です。然し私の、有美に対する様なものとも、又は母の、子に対する様なものとも、違います。然し、自然に、愛だと認められる様です。
「僕らは、愛し合って居るんだね」
冗談の口調で、笑いながら云うと、彼女もくす
何時か私は、紀代子を抱寄せて居ました。然し些とも、怪しい気分にはなりません。紀代子も私の胸で、静かに眼を閉じて居ます。修治と初代じゃないけれど、丸で仲の好い、兄妹の様です。――欸、詰まらぬ名を出した。彼等とは違う。
「幸せに、なってね」
寒き冬の一角にさえ、温かなる春を見出し、暗き闇なる中にも、細やかなる光差すを感じし夜。……そうして間も莫く、紀代子は、店を辞めました。
――これは、ここまで。
(おわり)
一九九四年(平成六年)、十一月、二十八日、月曜日、大安。